三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

石射猪太郎『外交官の一生』

2012年09月17日 | 

石射猪太郎は陸軍嫌いだったらしい。
「(海軍は)陸軍に比べるといちじるしく保守的であり、非謀略的であるので、私はこれと親しむことができた。ただ兵員の不注意から、中国人や諸外国人に及ぼした損傷の責任を男らしく認めようとせず、反対に他から加えられた損害はしつこくこれを追究してやまないという、海軍は陸軍なみの病を持っていた。(略)
私が上海で見た海軍は、犯罪性を持たない正直者、陸軍はここでも智能犯性を持った悪漢であった」
とはいっても個人的に親しい軍人もいて、柴山兼四郎中将には好意的である。

『外交官の一生』には石射猪太郎のいろんな人物評が書かれており、柴山兼四郎のようにほめている人のほうが多いのだが、悪口のほうが面白いので、いくつかご紹介。

松井石根。
「松井石根将軍も、一、二度やって来た。大アジア主義なるものを中国人に押し売りするので、至るところ気まずい話題を醸し、その来遊は中日国交上有害ですらあった」

先輩である広田弘毅。
「この人が心から平和主義者であり、国際協調主義者であることに少しも疑いを持たなかったが、軍部と右翼に抵抗力の弱い人だというのが、私の見る広田さんであった」

そして近衛文麿。
「私は近衛人気に好意を持てなかった。かねがね近衛公の側近者方面から洩らされた消息を総合すると、「本領のないインテリ」以上に公を評価し得なかったからだ」

へえっと思ったのが、大谷光瑞。
「何を聞いても知らないことのない博学と、その独創的な対外強硬論とに随喜する者もあったが、異常性格のゆえに識者からは鼻つまみにされ敬遠された。そのなめらかな京都弁と、腰の低さにつられて、こちらから狎れ狎れしい態度に出ようものなら、たちまち不興を蒙って、どこかで仕返しを受ける。(略)陰ではみんな光瑞坊主と呼びながら、面と向かっては猊下猊下と奉った」
杉森久英『大谷光瑞』にはこんなことは書かれてなかったと思う。

吉林総領事時代に満州事変が起きている。
「将士の生理的需要に応ずるために、多数の朝鮮婦人が輸入されたが、商売は繁昌しなかった。東北農家の窮乏を反映して、兵達の多くが給与を郷里送金するからであった」
慰安所の設置は上海事変以降らしい。
となると、吉林の娼家の話なのだろうか。

国際連盟がリットン勧告案の票決をしたとき、反対は日本だけ、棄権はタイの一票だけだった。
タイが日本に好意を持っていたためだと思ってたら、そうではないそうだ。
シャム公使時代のタイの友人の話によると、「国際連盟でのリットン勧告案の票決にしても、イエスと投ずれば日本がこわいし、ノーと投ずれば、国内二百五十万の華僑が納まらない。やむなく無難な棄権へと逃避したのだが、それを日本への行為の表示ととられたのは、自分らの全く意外とするところであった」ということである。

『外交官の一生』を読んで、大変だろうなと思ったのが、海外勤務のほとんどが単身赴任だということ。

アメリカに赴任した時は長男と長女を両親に預けて、妻を連れているが、出産のために妻は日本に帰っている。
子供と共に生活した時間はほとんどないのではないかと思う。
亭主元気で留守がいい。
もっとも給料が驚くほど安かったそうだが。

コメント (26)
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