三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

戦争とギャンブル

2012年08月19日 | 戦争

小さな船は小回りが利くが、大きな船は障害物を避けたり、停止するのに時間がかかる。
身近な小さい世界でも流されてしまいがちなのに、組織が大きくなると細かな動きが取りにくくなる。
みんなが「危ない」と思いながらもどうすることもできず、タイタニック号のようにぶつかって沈没してしまうこともしばしば。

そのいい例が戦争で、一度動きだすととまらない。
とまらないどころか、どんどんと拡大していって、負けていても、とことん行かないと終わらせることができない。
自国に有利なうちは利得権益を増やそうと思い、押されてくると、せっかく手に入れた利得権益を手放したくないので、一発逆転をねらう。
泥沼状態になると、引っ込みがつかなくなり、状況を打開するために強硬策を取る。
そうしてますます動きが取れなくなり、悲惨な結果を招いてしまう。

臼井勝美『新版 日中戦争』によると、日中戦争の第一期は1933年6月から1937年7月まで。

「中国政策については34ヵ月(68パーセント)にわたって外務次官を勤めた重光が主導権をとっているので、広田・重光の時期といったほうがよい」

重光葵は外務次官(1933年5月復職)として中国に対しては、現地軍と同じ強硬策を主張している。

「東亜の指導者としての自覚をもつにいたった日本はその使命である東亜の平和と秩序を維持するために中国以外の欧米諸国と責任を分かつ必要もなく協議する必要もない」
欧米の中国援助に反対する「天羽声明」は、重光葵が出した有吉明公使宛の訓令なんだそうだ。

林銑十郎内閣の佐藤尚武外相は中国との関係修復を図る。
しかし、林内閣は4カ月で総辞職し、近衛内閣が成立した。
「きわめて困難ではあるが絶望とは言えない日中関係正常化への展望を捨て去ったのは林内閣を継いだ近衛首相であり、再登場した広田外相であった」

1938年5月、宇垣一成が外相になる。
宇垣一成は「中国統一の象徴としての国民政府、蒋介石を高く評価していた」そうだ。
宇垣外相は和平工作を行うが、近衛首相は協力せず、強硬論の陸軍に同調したので、外相を辞職した。
それからはずぶずぶと泥沼にはまり、さらには対英米戦に突入する。

1943年5月、アッツ島の守備隊が玉砕する。
田中伸尚『昭和天皇』に、昭和天皇の蓮沼侍従武官長へのこんな発言が載っている。
「こんな戦をしては「ガダルカナル」同様敵の志気を昂げ、中立、第三国は動揺して支那は調子に乗り、大東亜圏内の諸国に及ぼす影響は甚大である。何とかして何所かの正面で米軍を叩きつけることは出来ぬか」(『戦史叢書 大本営陸軍部〈6〉』)
昭和天皇の言葉は蓮沼から真田穰一郎作戦課長、そして杉山元参謀総長に伝えられた。

8月5日、杉山元は各方面の状況を「率直に」天皇に告げた。
御上 いずれの方面も良くない。米軍をピシャリと叩くことは出来ないのか。
杉山 両方面とも時間の問題ではないかと考えます(つまりダメだという意味―引用者)。第一線としてはあらゆる手段を尽くしていますが誠に恐縮に堪えません。
御上 それはそうとして、そうじりじり押されては敵だけではない、第三国に与える影響も大きい。一体何処でしっかりやるのか。今までの様にじりじり押されることを繰り返していることは出来ないのではないか。(『杉山メモ』)

昭和天皇は、このままではじり貧なので和平工作は難しい、少しでも形勢を挽回して好条件で戦争を終えたいと思ったのか、それとも戦争に勝つまではやめる気はなかったのかはわからない。
どちらにしても米軍をピシャリと叩くのは無理な注文でした。

1944年11月に重光葵外相は「対ソ施策のため中国のソ連(共産)化を積極的に容認しようとする姿勢」をとる。

考えを変えたわけである。
重光葵の変貌について臼井勝美氏はこう書いている。
「外務次官時代の積極的な内政干渉、対支新政策・大東亜宣言の主唱者(宣言は大東亜各国の自主独立、伝統の尊重を強調していた)、そして今共産化の容認、と重光の変貌には目を見張るものがある。そこに外交官としての情勢判断に基づく柔軟な適応性を見るべきであろう。一貫しているのは中国本来の自主性を粗略視している点である」
重光葵をほめているのか、けなしているのか。
そのころにはソ連は日本の和平工作なんて相手にしないのだが。

デービッド・ハルバースタム『ベスト&ブライテスト』を読むと、ベトナム戦争が泥沼化していくのも同じパターンである。

最初は軍事顧問を派遣する程度だったのが、師団を送り込み、何千人が何万人、何十万人と増えていく。
ベトコンの動きを抑えるために北爆をし、北爆に効果がないことがわかっても、中止したら弱気になったと思われるのではと、無駄と知りつつ北爆を続ける。
交渉を持ち掛けるのも、負けを認めることになるからできない。
そこで、相手を叩いて、そうして交渉を切り出そうとする。
ところが、情勢は悪くなる一方なので、和平工作は難しい。
それでまた軍隊を増員することになる。

ギャンブルの心理といっしょだと思う。
もうけているときにやめればいいのだが、それができる人はまずいない。
もうちょっとと欲を出し、損をしだすと、このままではやめれない。
そうしてどんどんエスカレートして、借金してまで突っ込んでしまう。

アメリカはベトナムへの介入が深まるにつれて軍事費が増大し、1967年度は98億ドルの赤字だったのが、1968年度は270億ドルの赤字に増えている。
自軍が優勢だという情報は信じるが、慎重な意見、不利な情勢分析には耳を傾けない。

1968年1月のテト攻勢。
「軍の代表が、テト攻勢中、敵の蒙った損失は死者四万五千人であると、説明した」
アーサー・ゴールドバーグが「テト攻勢開始時の二月一日段階で、敵の兵力はどの程度か」と質問したら、「16万から17万5千と推定されます」と答えた。
軍は敵の死者対負傷者比率は1対3.5という数字を使っているので、ベトコン側の負傷者数は4万5千人の3.5倍という計算になる。
「ということは、敵はもはや戦闘能力ある兵力を持っていないということになるね」とアーサー・ゴールドバーグは言った。
どの国でも大本営発表をしているわけだし、それを信じている人もいるのである。

アメリカはアフガニスタンやイラクなどでも同じことを繰り返している。

人は歴史から学ぶことが少ないらしい。

コメント (14)
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