三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

福島と沖縄 3

2012年08月15日 | 戦争

福島の犠牲ということ。
高橋哲哉氏は「戦後の日本が高度成長によって経済大国になるために、原発という犠牲のシステムを必要とし、福島はいわばその一つの象徴になったわけです」と語る。
原発は経済大国になるためだけでなく、実は軍事目的と密接な関係があるのだ。

高橋哲哉「福島の場合には、あからさまな軍事目的というのは隠されています。(略)日本は経済大国になろうとした。そしてなった。その経済大国日本を支えるためのエネルギーとして、一応平和利用という形で原子力発電を国策として進めてきた。実は裏側に軍事利用がくっついていたわけですが。そういう表と裏の二重の意味で、原発は国の根幹なのですね」

日本国憲法は核兵器の保有を禁じているのか。
高橋哲哉氏によると、「日本国政府の見解では、核兵器の保有は憲法上禁じられていない」そうだ。
「これは、60年代70年代あたりから内閣法制局の見解として、たびたび国会出だされてきています。それは、安全保障上、日本の防衛上必要最低限度の防衛力の範囲内であれば、核兵器の保有も憲法の禁じるところではない、という見解なんですよね。最近では、安倍内閣の時、それから麻生内閣の時に、議員の質問主意書に対する政府の回答という形で、そういうことが確認されています」
むむむ、知らなかった。

1969年「わが国の外交政策大綱」に、
「核兵器については、NPT(核不拡散条約)に参加すると否とにかかわらず、当面核兵器は保有しない政策をとるが、核兵器製造の経済的技術的ポテンシャルは常に保持する」とあるそうだ。
つまり、「核兵器製造の経済的技術的ポテンシャル」を保持するために原発は必要なわけである。
原発があるかぎり、日本はいつでも核兵器を製造できる能力を持っていることになる。

石破茂自民党政調会長「脱原発で原発を止めると、潜在的核抑止力を失うことになる、それでもいいんですか」
原発再稼働は電気が足りないからではなく、こっちのほうが目的じゃなかろうか。

では、犠牲になるのは誰か。
かつて久間章生防衛大臣は「長崎に原爆が落とされたのはしょうがない」と発言して辞任した。
「国のために命を差し出せなどとは言わない。しかし、90人の国民を救うために、10人の犠牲はやむを得ないという判断はあり得る」と言っていたそうだ。

久間章生氏や家族が、率先して犠牲になりましょう、福島の浜通りか、沖縄の普天間基地の隣に引っ越します、ということであれば、美談となります。
誰が犠牲になるのか、それを決めるのは誰か。
高橋哲哉「久間さんは、自分は犠牲になるほうだとは思っていないわけです。そして、「やむを得ないね」と言う一般の市民の人がもしいるとすれば、自分は犠牲にならない、9割のほうに入ると思っているから、たぶんそう言うんですね」
私を含めて、自分が犠牲になるとは考えていない人が99%だと思う。

高橋哲哉「わたしは、犠牲のシステムを続けて原発を維持したいと言う人は、誰が犠牲になるのか責任を持って言う義務があると思います。誰を犠牲にするのか。自分が犠牲になるのか。米軍基地も同じです。米軍基地は必要だと言う人は、それでは誰が犠牲になるのか、沖縄を犠牲にするということを、あなたはなぜ、どういう資格で、どういう権利で言えるんですかと、こういうことに答えられない限り、犠牲のシステムをもうこれ以上続けさせてはいけないと、わたしは思っているわけです」
自分が快適で、便利で、安全な生活をするために、どこかの誰かが犠牲になったとしてもやむを得ない。
原発を認める人はそう思っているのではないか。
正直なところ、私もそういう感情があることを否定しません。

コメント (62)
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