三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

松尾剛次『破戒と男色の仏教史』

2009年05月19日 | 仏教

親鸞が比叡山を下りたのは性欲の問題を抱えていたからだとされるが、ある先生は性欲よりも権力欲ではないかと言われていた。
中級貴族出身の親鸞が出世を望んでも先は見えている。
ところが、松尾剛次『破戒と男色の仏教史』によると別の理由があったそうだ。
「親鸞は、当時、最澄作とされた『末法燈明記』を引用しながら、末法の今、戒律を守っている僧は、市場にいる虎のような存在で、危険で信頼できないと、切り捨てている点でした。親鸞のそうした、痛烈きわまりない、切々たる心情の背景には、何があったのでしょうか。こうした歯に衣着せぬ批評の背景に、親鸞の実体験があったはずです」
という問題提起を松尾剛次氏はする。

「こうした末法意識や無戒の認識は、やはり、自己が修行生活を送った延暦寺での破戒状況に基ずくと考えられます。兵法をこととする僧兵の存在、多くの真弟子(僧侶の子どもで自分の弟子となった僧)の存在に見られる女犯の流行、そして、男色の一般化、がその背景にあったのでしょう」
「当時の延暦寺の官僧たちの間では、女犯や童子たちとの男色が一般的でした。九歳で入寺した親鸞も、男色の環境を免れなかったと思われます」
ええっと驚く説だが、『破戒と男色の仏教史』を読むと納得である。
「僧侶の男色は、11世紀頃には一般的となっていたと思われます」
「中世寺院における、僧の男色相手といえば、童子とか稚児と呼ばれた、垂れ髪の男児が有名です」

男色は僧侶だけではなく、貴族や武士でも当たり前のことだったそうだ。

東大寺別当になった学僧の宗性(1202~1278)の起請文を松尾氏は紹介している。
35歳の時の誓文。
「二、現在までで、九五人である。男を犯すこと百人以上は、淫欲を行なうべきでないこと。
三、亀王丸以外に、愛童をつくらないこと。
五、上童・中童のなかに、念者をつくらないこと。」
35歳で95人と経験しているというのもすごいが、不淫戒を犯していることに恥じているわけではないし、まして男色をやめようという気もさらさらないようである。
「当時、男色はなんら恥じることではなかったことが窺えます」

親鸞のひ孫である覚如はその意味でずいぶんかわいがられている。
「幼少の頃から学才の誉れが高く、容姿端麗であったようです。13歳で延暦寺の学僧宗澄の許に入室しましたが、14歳の時に、三井寺の浄珍が、僧兵を遣わして武力で宗澄から覚如を奪ったといいます。その理由は、「容儀事がらも優美なる体」(容姿端麗)であったからといいます。しかしまもなく、興福寺の一乗院の信昭が、浄珍の許から覚如を奪おうとしたようです。しかし叶わなかったため、父親の覚恵に頼んで、ついに覚如を興福寺に移住させたというのです」

宗性のほかの起請文を見ると、不淫戒ばかりでなく、不飲酒戒なども破っている。
33歳の時の誓文には
「飲酒の薫習は、久しく、全く断ずることたやすいことではない。病患を治さんがために良薬として用いんとす。すなわち、六時の間、三合を許すのである」
41歳の時の別の誓文には
「敬白す 一生涯ないし尽未来際断酒すること
 右、酒は、これ放逸の源であり、多くの罪の基である。しかるに、生年十二歳の夏より、四十一歳の冬に至るまで、愛して多飲し、酔うては狂乱した」

これじゃアル中である。

宗性の別の起請文によると、仏教を勉強するのは悟りを得るためよりもまずは名誉欲、出世欲からである。
「五、たとえ、名利のために聖教を学ぶといえども、必ず無上菩提に廻向すべきであること」
「名利のために聖教を学ぶ」こと自体を否定していない。
「官僧たちは、天皇の命令によって開かれる勅会に招待され、僧正・法印を頂点とする僧位・僧官の昇進を「名利」としていました。そのために、仏教を研究していたのです」

宗性は破戒僧と言うべきかもしれないのだが、しかし学僧として一流の人物であり、また東大寺の別当をつとめている。

「法然、親鸞、日蓮、道元、叡尊、忍性といった鎌倉新仏教の担い手たちも、破戒が一般化していた延暦寺や醍醐寺などの官寺で、童子として過ごした経験があるのであり、寺の実態に疑問を持ち、いわば内部批判からの新しい運動が生まれたともいえます」
「僧侶の男色の一般化を目の当たりにして、自己の封印した過去をも見つめて、「無戒」と「持戒」の相反する運動が起こったといえるかもしれません」

なるほど。

でもプラトン『饗宴』によると、古代ギリシャでは男女の愛よりも男男の愛のほうを上位に置いている。
宗性が古代ギリシャに生まれていたら公然と愛童を囲うことができただろうし、親鸞が比叡山から下りることもなかったかもしれない。
以下、『饗宴』からの引用。
「男の種族の片割れは男を恋求め、少年の時代には男の種族の子孫として、大人の男にあこがれ、かれに付き従い、纏わりつくのである、そしてかれらは、もっとも優れた存在である太陽の子孫として、男らしく優れた存在なのである」
「またかれらが成人したとき美しき少年を愛し、結婚や子供を作ることには自然と無頓着となり、かれらが結婚し子供をつくるのは習わしからそうするだけのことである。むしろ結婚することなしに若い、美しい少年と一生を過ごすことをよしとするのである」
もっともソクラテスには妻が二人いたそうで、なかなか侮れないおじさんなのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする