三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

自分のいとしさを知る者は 他の者を害してはならぬ

2009年05月10日 | 仏教

私は頭の回転が鈍いので、人と話をしていても、後から「ああ言えばよかった」と思うことがしょっちゅうである。
ある人が「宅間守でも死刑には反対か」と聞いてきた時も、「死刑になりたいからというので殺す人間には死刑は意味がない」というようなことを言ったのだが、それだけではなくて、自分を大切に思えない人は他人をも大切に思えないということをつけ加えればよかったと思った。

コーサラ国のパセナーディ王が王妃のマツリカに、「あなたには自分自身よりももっと大事なもの、いとしいものがあるか」と王が尋ねると、マツリカは「私には自分よりももっといとしいと思うようなものは考えられません」と答えた。
これじゃ自分勝手すぎやしないかと心配になった二人は釈尊に相談した。
すると釈尊はこのように答えた。
「人の思いはどこへも赴くことができる
 されとどこへ赴こうとも
 自分よりさらにいとしいものを見出すことはできない
 それと同じく他の人々にも 自分自身はこのうえもなくいとしい
 されば自分のいとしさを知る者は 他の者を害してはならぬ」


この話はどんな人間も自分が一番大切だと思っているという前提があってのことなのだが、自分が大切ではない、生きようと死のうとどっちでもいいと思っている人が少なからずいる。
そういう人に「自分を大切に思うなら他人も大切にしなさい」と言っても理解してもらえないと思う。
たとえば、一審で死刑判決を受けた被告が控訴せず、一審で死刑が確定することばしばしばある。
名古屋の闇サイト殺人事件でもそうで、一審で死刑判決を受けた二人の被告は控訴しなかった。
おそらく彼らは自分なんかどうなってもいいと思っていて、生きようという気がないのではないか。
自分がいなくなっても誰も悲しまない、自分なんかいてもいなくてもかまわない人間なんだ、と思っているかもしれない。
死刑を求刑する検事は、お前みたいなクズはさっさと死ぬのが世の中のためなんだ、と言い、そして死刑判決を出す裁判官は、お前なんか生きてる価値がないからおとなしく死んでくれ、というメッセージを被告に送っているわけである。
被告自身もそう思っているわけで、それに追い打ちをかけるように否定されることを言われたのでは、被告が罪の意識とか反省するとか、あるいは生き直そうという気にはなかなかなれないだろうと思う。

自分はダメなんだ、いないほうがいいと思っているのは犯罪者だけではない。
死にたいと本気で考えたことがある成人は19%いて、その中でこの1年間に自殺を考えた人が20%。
つまり成人が約1億として、4%、約400万人がこの1年間に自殺したいと思っている。
そして実際に自殺を試みた人が10万人以上いて、3万何千人かが死んでいる。
自殺まで考えなくても、自分なんてどうなってもいいと思っている人はもっと多いはずだ。

香山リカ氏は「心が傷つき、回復するということ」という講義録で、「最近さらにわかりにくい心の傷みたいなものも非常に感じることがあるのです」と言っている。
「特に心の傷になるような事件や事故や虐待とか何か出来事、リストラされたとか失恋したとかがあるわけではないのだけれども、漠然と傷ついているといいますか。この人たちは、いわゆる自己肯定感、自分を肯定する力が非常に弱い。自分の価値を低く見積もっている。でも、それの原因になるようなはっきりした何かがあったわけではどうもない。でも、はた目から見ると、結果としては心が傷ついている。そして自分は無価値だとか、だれからも必要とされていないとか、私なんか意味がないとか、いなくなったって同じだとか、どこにも居場所がないという、自己肯定感が目減りしているような人たち、特に若い人を中心としてこういう人たちが目につく」
「この人たちと話をしていると、じゃあいつからそういう傷つきが始まったのかと思って話していると、本人も思い出せないぐらい昔からそうなわけです」
「ずっとそうだったけれども、そのままでは生きていけないから、自分はだめだけれども、だめだというのを隠さなければいけない。だから、例えば学校では一生懸命勉強するわけです。そして、親からはいい子だとか、勉強できると思われることでようやく自分の生きる権利みたいなのを確保するわけです。いつもいつもよく見せているわけです。非常に無理をしている」

自分を否定している人が大勢いるわけだ。
自殺と犯罪は自己否定ということでは裏表の関係にあるのかもしれない。

酒鬼薔薇事件などの少年事件の弁護人を務めている野口善国弁護士はこういう話をしている。
「非行少年は非常に気弱です。いわゆるつっぱった少年に会った記憶はありません。非行少年というのはみんな自分がダメだと思ってます。自分はどうでもいいダメな人間だと思っているんですね。自己評価が低い。自分が無価値な存在だから、他人も無価値だと考えている。人の命の大事さというのがわかんないから、自分の命も大事じゃないんです。だから他人の命もどうでもいい。
自己評価の低い人は自分を大切に思うことができない。自分を大切に思わない人は、他人を大切に思うことはできない。そして、自分をダメだと思っている子は、努力する意欲が少ない。そういう意味で自信というか、自己評価を高めていただきたい。
自分が大事にされているという感情、他人に認められているという感情を持ててはじめて、本当の意味の人に対する思いやりであるとか、罪の意識とかを持つことができるんです。
人間というのは自分の命が大事だと本当に思えば、それによって人の命も大事だと思う。そのことによって、はじめて本当に反省が生まれてくると思うんですね」

じゃあ、自尊感情がない人に対して、自分が大切に思えるようになるためにどうはたらきかければいいのか。
香山リカ氏の話の続き。
「成績がよくなれば自信がつくとか、あるいはかわいい彼女ができて自信がつくなんていう人もいるかもしれませんね。現実的な解決です」
普通はそういうアドバイスをするわけだが、それではうまくいかないそうだ。
「何とかその人たちに少しは自分に対する肯定感みたいなものを得てもらおうとしていくわけなのですけれども、これはなかなか難しい。そこで限界を感じるのか、スピリチュアル的なほうによく行ってしまいます。占い師のところに行ったら、私は前世からの宿題を背負って今苦労していると言われて納得したとか。そういう話にすごく納得して、それで自分の価値があるんだとか、自分というのは今、だから困難を背負っているんだとかいうふうに、スピリチュアル的なところに行ったりして」
カルトにはまるのもこういう人たちなのかもしれない。
どうして占い師の言うことを信じてしまうのか、スピリチュアルにはまる人が自分を肯定するようになるのだろうか、そこらを知りたいものです。

コメント (2)
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