高山俊吉『裁判員制度はいらない』に、司法制度改革推進本部の意見公募に寄せられた意見(2003年7月)が紹介されている。
「刑事裁判を雑にやっていいのか」
「裁判官が常識外れだからといって市民が良識を備えていることにはならない」
「間違った判断をして判決後に真実がわかったら一生悔やむ」
「少しぐらい休んでも生活に困らない人の考え」
「国民常識の現状は推定無罪ではない」
「あなたは法律知識のない人に裁かれたいか」
「被害者、犯罪者、その家族、国民みんなの人生を簡単に考え過ぎている」
「拒否できないというのは国家の強制力に国民を慣れさせたいからだろう」
「マスコミの意見に左右され、死刑だと繰り返し報道されれば死刑だと思い、こんなに悪いことをしていると繰り返し放送されれば有罪だと思うものだ」etc
なるほど、もっとも。
きわめて常識ある意見ばかりである。
裁判員制度の問題点を的確に指摘しているこうした意見に対して、最高裁、法務省、日弁連はどう答えるのだろうか。
2005年8月に行われた模擬裁判での裁判員たちの感想は、
「もうやりたくない」
「専門知識がないので、これで良いのかと後悔が残りそう」
「何を基準に(量刑を)決めればいいかわからない」
その時の裁判員は、裁判所職員2人、日弁連職員2人、その他2人。
身内でもこういう感想なわけである。
渡辺えり子氏はこう言っている。
「みんな裁判員になるのをいやがっているのは、裁判を軽視しているからじゃなく、裁判は重要なことだと思うからこそ自分たちがやるべきじゃないと考える。命がかかっていることを素人感覚でやっちゃいけないと思っているのです」(高山俊吉『裁判員制度はいらない』)
これまたそのとおり。
餅は餅屋にまかせるべきだと思う。
大相撲で不祥事が続くから、日本相撲協会の役員に外部の人が入いることは当然だと思う。
医療ミスを検証するために病院が委員会(外部の人も含む)を設置するとしたら、反対する人はあまりいないと思う。
だけど、医療ミスが多いから医療制度を改革すべきだというので、診察には国民から選ばれた一般人が立ち会い、選ばれた診断員と医者の多数決で決めるようにしようなんてことを主張する人はいないだろう。
司法を変えるためには、裁判員制度ではない、違ったやり方があるはずだ。
裁判員制度で裁判を行いながら、問題点があれば変えていこう、というのは順序が逆で、まずは代用監獄制度の廃止、取調べの全面可視化、証拠の事前・全面開示、公判までの準備期間の保障、国選弁護人の質と報酬を高める、推定無罪の周知などを行い、そのうえで裁判に国民が参加するかどうかを国民に問うべきではないかと思う。
細かなところまで考えずに、とにかくやってしまおう、まずいところがあればその時に考えればいい、というので裁判員制度が始まる。