裁判員はどういうことをするのだろうか。
最高裁のQ&Aでは、
「裁判員は,法廷で聞いた証人の証言などの証拠に基づいて,他の裁判員や裁判官とともに行う評議を通じ,被告人が有罪か無罪か,有罪だとしたらどのような刑にするべきかを判断します」
無罪か有罪かを判断するのは難しいと思うし、量刑を決めるとなるとなおさらである。
最高裁は
「例えば目撃者の証言などに基づいて,被告人が被害者をナイフで刺したかどうかを判断することは,みなさんが,日常生活におけるいろいろな情報に基づいて,ある事実があったかなかったかを判断していることと基本的に同じです」
と簡単そうに言うけれども、多くの人は日常生活で、ナイフで刺したとかいったことと関わりを持つことはほとんどない。
たとえば、学校でいたずらがあり、A君がやったと思われる、しかしA君はやっていないと言う。
あるいは、子供同士のケンカで、どっちが悪いのか、嘘をついているか。
こういうことでも判断が難しいのに、裁判員が関わる裁判はその比ではない。
裁判では
・被告が全面否認をした場合
・犯行は認めたが、事実認定が検察とは違う場合
・情状をどう考慮するか
・心神喪失、心神耗弱などで被告の責任能力が問われる場合
などなどを判断するわけで、日常生活のもめ事の処理とは違う。
犯行自体は被告が行ったことは間違いないとしても、事実認定、たとえば殺人と傷害致死、強盗殺人と殺人・窃盗の判断が素人にできるだろうか。
10月28日に執行された高塩正裕死刑囚の場合、一審では「犯行は場当たり的で殺害の計画性も認められない」として無期懲役、二審では「計画的で殺意は明らかである」として死刑、被告が上告を取り下げて死刑が確定している。
裁判官でも事実認定が異なっているのである。
殺意があったかどうか、計画性はどうなのかの判断は、素人ではとても無理だと思う。
まして量刑はどれくらいが適当なのか、判例を知らない素人にはわからない。
量刑には情状を考慮する必要がある。
福岡県弁護士会のHPによると、
「情状とは被告人の有罪および罪名が決まったうえで、刑を決めるために考慮すべき具体的な事情です」
「情状という言葉は、被告人にとって有利な事情、不利な事情の両方を含んでいます。
犯罪の経緯に関する事情である犯情と、それ以外の事情に分かれます。
犯情とは、被害者との関係、動機、犯行の手段・態様、被害者の人数・状況、被害の程度、犯行の回数・地域、犯行の軽重、共犯関係(人数、役割)、犯行直後の状況(逃走経路、犯行隠ぺい)などがあります。
それ以外の事情とは、被告人の生い立ち、性格、人間関係、職業関係、家族関係、被害者の状況、被害の回復状況、弁償、被害感情、被告人の後悔や反省の状況、被告人の身柄引受けや監督など、広い範囲にわたります」
事件の背景、被告の普段の生活その他をこれだけたくさん考慮しないといけないし、被告に責任能力がどの程度あるのかも判断しないといけない。
責任能力があるかないか、精神鑑定によって検察側の証人があると言い、弁護側はないと言うことはしょっちゅうで、裁判官だってわかっているのかと思う。
夫バラバラ殺人事件の三橋歌織被告は、検察は「完全責任能力があった」としている。
しかし、精神鑑定をした検察、弁護側それぞれの医師が、殺害時の被告の責任能力について、いずれも「心神喪失の状態にあった」と鑑定している。
東京地裁では、刑事責任能力があったと認定し、懲役15年(求刑・懲役20年)の判決。
裁判官は検察側の鑑定も信用しなかったわけである。
読売新聞社社会部裁判員制度取材班『これ一冊で裁判員制度がわかる』に、国民と裁判官が示した量刑の違いを図表にしたものが載っている。
居酒屋で隣席の客と口論し、逆上して相手を刺殺した事件。
裁判官の9割以上が懲役5年から10年。
裁判員は懲役5年から懲役10年が6割だが、執行猶予から死刑までさまざま。
で、結局のところ、裁判官から「普通はこういう判断をする。その場合、判例だとこれくらいの刑罰ですよ」と教えられて裁判員は従うだけになるらしい。
高山俊吉『裁判員制度はいらない』によると、2004年12月の模擬裁判では、裁判員のうち5人は殺意がなかった、1人は未必の故意があったという意見。
ところが、裁判官が殺意があると言ったら、殺意がなかったと言ってた5人が確定的故意説に変わったそうだ。
どちらにしても、控訴されたら高裁では裁判官だけで審理されるのだから、何のために裁判員が参加したのかということになる。
だから、伊藤和子氏は無罪判決に対する控訴を禁止すべきだと言う。
「裁判員制度で出された結論が控訴審で簡単に覆しうることとなれば、市民参加の裁判の意義は無に帰する」(『誤判を生まない裁判員制度への課題』)
裁判員制度:控訴審は1審尊重…最高裁司法研が研究報告
裁判員が加わって出した1審の結論を控訴審はどう評価すべきか--。最高裁司法研修所は11日、来年5月に始まる裁判員制度の下での控訴審の在り方について研究報告の骨子をまとめた。「国民の視点、感覚、経験が反映された結果をできる限り尊重する必要がある」と指摘し、1審の判断を重視すべきだと提言している。(毎日新聞11月11日)
西野喜一氏はこう言う。
「裁判員制度は、裁判官に対して、おまえたちだけの判断では信用できない、裁判員を背負った訴訟という余計な苦労をせよ、素人でもついてこられるように審理は適当に圧縮したものでよい、すみずみまで配慮の行き届いた判決にしようと頑張らなくてもよい、というメッセージを送る内容になっています」
「高裁は、一審がまったく当てにならなくなる結果、実質的に一審の役割を引き受けざるをえなくなることはじゅうぶん考えられることです」(『裁判員制度の正体』)
そんな難しい裁判ではなくても、素人である裁判員が話についていけないことがあるだろう。
たとえば、1日に5~6時間の審理がなされるそうで、何分ごとに休憩するのか知らないが、年を取ると話に長時間集中することが難しくなる。
そうなると、大事なところで話を聞き逃すかもしれない。
そんな時どうすればいいのか。
読売新聞社社会部裁判員制度取材班『これ一冊で裁判員制度がわかる』のQ&Aにこういう問答がある。
「いろんな人が証言する裁判に、ついていけなくなったらどうすればいいか?」
裁判員が混乱してしまう時には裁判官に尋ねればいい、というのが答えである。
「法律の知識が少なく、裁判のルールにも慣れていない裁判員にアドバイスするのも、裁判官の重要な役目」
でも、裁判官の助言や指導をあおいでいたら、その裁判官の考えに従ってしまうだろうし、裁判官に誘導されることだってあるかもしれない。
裁判官と裁判員が対等に議論できるとは思えないから、評議は裁判官の言いなりで終わってしまうような気がする。
結局は裁判官の判断に従うことになるのだったら、最初から裁判官だけのほうがいいのではないかと思う。