三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

「年報・死刑廃止2006 光市裁判」(2)弁護側の主張

2007年01月10日 | 死刑

光市母子殺人事件の一審での弁護人も、二審での弁護人も、どちらも検察の主張にほとんど反論していない。
なのに、最高裁では新しい弁護人が検察の主張に異義をとなえたのはなぜか。

安田好弘弁護士はこう話している。

一審、二審の弁護人は犯罪事実についてはほとんど関心がなかった。つまり彼に対して事実を聞いていないんです。(略)
驚くことに、第一審も控訴審も、何の躊躇もなく、検察官の主張通りの事実を認めたんです。もちろん弁護人も争いもしませんでした。

被告の話を聞いていないんだから、検察に反論できるわけがない。

しかし、被告は一審で「実はこうだったんだ」と話している

彼が法廷で事実について聞かれたのは、一審の十分間くらいのことです。その中で、彼は、奥さんに対しても子どもさんに対しても殺すつもりはなかったんだ、わけのわからないうちに相手の人が亡くなっちゃったんだというような言い方をして、殺意を否認しているんです。しかし、被告人がそのように供述しているにもかかわらず、検察官も弁護人も裁判官も、全員が、彼の供述に反応しなかったんです。その鈍感さは一体何なのでしょうね。(略)
検察官の杜撰な捜査とねつ造がはっきりしているにもかかわらず、弁護人も裁判所も見落としてきた、というのが現実です。弁護人も裁判所もまったくあてにならない、というのが今の司法の現実です。

弁護士が被告の話を聞かない。
裁判所はいい加減な審理をする。
冤罪がなくならないわけだ。

驚くことに、被告は自分の判決文や供述調書さえ見たことがない。

自分に対する判決書を得るだけでも、A4一枚につき六十円のお金がかかるんです。それは他の記録でも同じです。弁護人もそれを無料で手に入れることはできなくて、一枚四十円の謄写費用をかけてようやく手に入れる。

光市事件の訴訟記録は約1万ページあるから、全部コピーすると、60万円かかる。

お金のない人は裁判は闘えないのです。

アメリカでは死刑になるのは貧乏人で、金持ちは優秀な弁護士をつけるから死刑になることはないそうだ。

自分が裁判で何をしゃべったか、あるいはあの証人はいったい何をしゃべったか、あるいは自分が捜査段階でいったいどういう調書を取られたか、あるいは参考人が何と供述しているかということさえ確認することができないのが今の刑事司法の状況です。被告人は徹底して不利な状態に置かれており、裁判そのものからも疎外されているのです。


高橋秀実『TOKYO外国人裁判』に、東南アジアなどから来た人の裁判はすごくいい加減で、日本語があまりしゃべれない被告の場合、よくわからないまま有罪の判決がおりてしまうとある。(1992年の出版だから、現在は少しは改善されているかもしれない)
日本人だって、金がなく、裁判について知らなかったら、あっという間に有罪にされてしまうかもしれない。

安田好弘弁護士は被告に徹底して尋ね、そうして事件の様相が検察の主張とはまったく違うことに驚く。
最高裁での弁論は、死刑逃れのために適当なことを言っていると、多くの人は思うだろうが、実際にそうなのかもしれないと思わせる説得力がある。

たとえば、加害者は被害者に馬乗りになって力一杯首を絞めたとなっているが、検死調書によると、首を絞めた跡がない。
また、赤ちゃんを頭上から思いきり床にたたきつけたとなっているが、赤ちゃんに大きな損傷はないと検死調書にある。
検察の主張と検死の鑑定書とが食い違っている。

また、検察は無期懲役では軽すぎる、量刑不当だと主張しているが、光市の事件よりももっと悪質な事件なのに無期懲役になっている判例が16例ほどあげられている。

拘置所から被告が「友人」に出したという手紙にしても、マスコミ報道は間違い。

ともかく死刑にしなければならないというので検察がやったのが、彼の例の手紙です。ひどい内容の手紙であることは確かです。しかし、それは隣の房にいた子どもが、小説家になりたいという希望を持っていて、彼からすれば、死刑を求刑されるような事件をやった被告人は関心の的であったわけです。文通の相手は被告人を偽悪的にもてはやします。そして、そのもてはやし、挑発といってもいいのですが、それに乗せられて書いたのが例の手紙であったわけです。

なぜか相手の手紙の内容は報道されないし、裁判でも取り上げられていない。

マスコミ報道=検察・警察の主張よりも弁護側の主張のほうがうなずける。
ところが、判決文を見ると、「その指摘は、その動かし難い証拠との整合性を無視したもの」であり、「指摘のような事実誤認等の違法は認められない」となっている。
検察調書と検死調書の食い違いについて何の言及もないのはどうしてなのか。
最高裁の判事はたくさんある記録をどれだけ吟味し、弁護側の主張を検討したのか、疑問に思う。

(追記)
いわゆる「友人」への手紙について詳しく書いています。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/48a428c971638f2ff97dd6fc85c0b407

コメント (13)
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