真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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報道の歪み

2022年05月30日 | 国際・政治

 最近、ロシアの沿海地方の議会で、野党・共産党のレオニード・ワシュケービッチ議員が、議案審議中に発言を求め、ロシア軍のウクライナ侵攻について、”軍事的手段での成功はあり得ない。作戦を続ければ、軍人の死者や負傷者が増えるのは避けられない”と訴えたという報道がありました(プーチン大統領の政権与党は統一ロシア)。また、”軍事作戦をやめなければ、孤児がさらに増える。国に大きく貢献できたはずの若者たちが軍事作戦(への参加)によって体が不自由になった”と指摘し、「軍の即時撤退」を要求したといいます。そういう考え方は、きっと広く存在すると思います。だから、時々表に出てくるのだと思います。先だっては、ロシア国営放送生放送中に、キャスターの後ろで「NO WAR(戦争反対)」「プロパガンダを信じないで」と書かれた紙を掲げた女性(マリーナ・オフシャニコワ氏)がいました。まったくの孤立無援の状態では、考えられない行動だと思います。

 私が問題だと思うのは、そうした行動に対するメディアの受け止め方であり、その扱いです。
 同じような要求が、ウクライナ側にも必ずあると思います。武力で決着させようとすることに対する抵抗がないということは考えられないと思います。子どもたちも、両国の平和を願う絵を描いています。だから、それらの要求や願いを停戦に結びつけていくのが、メディアに課せられた責任ではないかと思います。
 でも、不思議なことに、ウクライナにおける反戦の動きはまったく報じられず、ワシュケービッチ議員の発言も許可なし発言だとくり返し警告され、マイクが切られたことや、議場からの退場および発言権が剥奪されたという事実、また、オフシャニコワ氏が長時間ロシア当局に身柄を拘束され尋問されたことや罰金を課せられたという事実が強調され、やはりロシアは武力で屈服させる以外に方法がないというような(アメリカの意向に沿う)印象の報道になっているように思います。レオニード・ワシュケービッチ議員の勇気ある発言や、オフシャニコワ氏の「戦争反対」を実現しようとする方向ではなく、それらを政治的に利用し、発言の趣旨に反する方向の報道になっていることが、重大な問題だと思います。

 私が見聞きするウクライナ戦争の報道も、破壊された建物の惨状や戦況、使用されている武器の解説や考えられる両国の作戦などに関するものばかりで、停戦が行き詰まっている理由やそれを打開する方法などに関するものはほとんどありません。人が殺し合っている時に、なぜなんだ、と私は思います。 
 かつて日本のメディアは、軍部の強力な言論統制の下、独自の取材に基づく報道を放棄し、軍の意向に沿う報道に徹しました。そして、嘘を含む大本営発表もそのまま報じて、国民を騙すことに協力しました。でも、現在は思想統制も言論統制も検閲もなく、表現の自由や報道の自由が保障されていると思います。その自由やメディアの責任を自ら放棄するかのように、ロシアを武力的に屈服させようとするバイデン政権やバイデン政権に追随する日本政府の方針に協力するような報道はいかがなものかと思います。

 そして、そうしたワシュケービッチ議員やマリーナ・オフシャニコワ氏の決死の行動の扱いが、ノーム・チョムスキーが、「メディア・コントロール 正義なき民主主義と国際社会」チョムスキー:鈴木主税訳(集英社新書)の「認識の偏り」で書いている、エルサルバドル人権擁護委員会の生残りメンバー、エルベルト・アナヤのエスペランサ(「希望」の意)監獄における努力の扱いと同じではないかと思います。
 アナヤは、エスペランサ監獄で、400名を超える囚人から宣誓供述書を取りつづけ、残虐な拷問の実態について詳細に明らかにしたにもかかわらず、それはほとんど報道されず、釈放されたのちに暗殺されてしまったというのです。
 1986年5月に獄中から解放され回想録を出版したキューバの政治犯、アルマンド・バヤタレスとエルサルバドル人権擁護委員会の生残りメンバー、 エルベルト・アナヤの扱いの違いが、そのまま現在、ウクライナ戦争に対するアメリカやアメリカに追随する日本社会の反応としてあらわれているように思います。アメリカに敵対する国で拷問されたという人物と、アメリカが支援する国で拷問をされたという人物をあからさまに差別し、平然としているのです。それは、言いかえれば、アメリカの政治や報道が、法や道義・道徳を尊重せず、その時その時の自らの利益や権力保持のために都合よくなされ、日本もそれに習っているということです。それをチョムスキーは、「正義なき民主主義」と表現したのだと思います。

 今、大事なことは、戦争を止めることであり、停戦のための話合いだと思います。でも、あれこれ言って話合いをうやむやにし、武器の供与しています。殺されたウクライナの人たちや破壊されたウクライナの惨状ばかりに人の目を向けさせて。
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                      認識の偏り

 恐ろしい敵をでっちあげることが長きにわたってつづいてきた。その例をいくつか紹介しておこう。
 1986年5月に、獄中から解放されたキューバの政治犯、アルマンド・バヤタレスの回想録が出版された。メディアはさっそくそれに飛びつき、盛んに書きたてた。メディアはバヤタレスによる暴露を「カストロが政敵を処罰し、抹殺するために巨大な拷問・投獄システムを用いていることの決定的な証拠」と評した。
 この本は「非人間的な牢獄」や血も涙もない拷問についての「心を騒がせる忘れがたい記述」であり、また新たに登場した今世紀最大の大量殺人者の一人のもとで行われた国家権力の記録である。
 この殺人者は、少なくともバヤタレスの本によれば、「拷問を社会体制の手段として制度化する新しい独裁政治を構築している」のであり、〔バヤタレスが〕暮らしていたキューバはまさに地獄だった」。
 これが『ワシントン・ポスト』と『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された批評である。カストロは「独裁者の暴漢」と称された。極悪非道かれの行為はこの本で完全に暴露されたことでもあり「よほど軽率で冷酷でもないかぎり、この暴君を擁護する欧米の知識人はまず皆無だろう。(『 ワシントン・ポスト』)とされた。
 だが、これhある個人の身に起こったことの記述である。
 これがすべて真実だとしよう。バヤタレスは拷問されたと言っているのだから、彼の身に起ったことについて疑義を呈するのは止めよう。ホワイトハウスの人権デー記念式典で、バヤタレスはロナルド・レーガンから名指しされ、血に飢えたキューバの暴君の恐ろしい残虐行為に耐えぬいた勇気を称えられた。
 その後、バヤタレスは国連人権委員会のアメリカ代表に任じられ、そこでエルサルバドル政府とニカラグア政府を擁護する意向を述べた。いくら仕事とはいえ、バヤタレスの被害もささやかに見えるほどの残虐行為を非難されている両政府を、どうして擁護できるのだろうと思うが、それが現実なのでる。
 これは1968年5月のことだった。なるほど、合意のでっちあげとはこんなところから始まるのかもしれない。同じ5月に、エルサルバドル人権擁護委員会の生残りメンバー──指導者たちは殺されていた──が逮捕され、拷問された。
 そのなかには、委員長のエルベルト・アナヤも含まれていた。彼らはエスペランサ(「希望」の意)監獄に送られたが、獄中でも人権擁護運動をつづけた。法律家のグループだったので、囚人から
宣誓供述書を取りつづけた。監獄には全部で432名の囚人がいた。彼らが署名した430人分の宣誓供述書には、囚人たちが受けた電気ショックをはじめとする残虐な拷問について詳細に記されている。
 制服を着たアメリカ合衆国の陸軍少佐に拷問された囚人もこのいた。この少佐については、かなりくわしい記載がある。これは非常に明白かつ包括的な宣誓証言であり、拷問部屋で起こっていることに関して、他に類を見ないほど綿密に記録されている。この160ページからなる囚人の宣誓証言の報告書は、受けた拷問について獄中で証言する本人たちを撮影したビデオテープとともに、ひそかに監獄からもちだされた。そして、カリフォルニア州マリン郡異教徒専門調査会によって配布された。
 ところが、アメリカの全国紙はこれを報道するのを拒んだ。テレビ局はビデオ放映を拒否した。マリン郡の地元紙「サンフランシスコ・エグザミナー」に短い記事が掲載されたが、私の知るかぎりそれだけである。誰もこの一件に触れようとしなかった。同じころ、他方ではかなりの数の「軽率で冷酷な欧米の知識人」が、ホセ・ナポレオン・デュアルテやロナルド・レーガンを公然と称賛していた。アナヤにはいかなる賛辞も呈されなかった。彼は人権デーの式典に招かれもしなかったし、何の公職にも任命されなかった。それどころか、捕虜交換で釈放されたのち、彼は暗殺されてしまったのだ。犯人は明らかに後ろ盾にした治安部隊だった。
 この事件に関する情報はほとんど表面にあらわれていない。この残虐行為が暴露されていたら──事実を公表せず、一切を伏せておくかわりに──アナヤの生命が救われていたかどうか、メディアは決して追及しなかった。
 この一件からも、うまく機能している合意でっちあげシステムがどれほど効果的かがわかる。エルサルバドルのエルベルト・アナヤが暴露したことに比べれば、バヤタレスの回想録など、大きい山の隣のエンドウ豆ほどの重みもない。しかし、人にはそれぞれの役割があり、それが私たちを次の戦争へと導いていく。次回の作戦が実行されるまで、私たちは何度もこれを聞かされるだろう。
 前回の作戦についても少し述べておこう。手始めに、前述したマサチューセッツ大学での調査の話をしたい。この調査からは、いくつかの興味深い結論がでている。質問の一つに、違法な占領や深刻な人権侵害を正すためにアメリカh武力介入すべきだと思うか、というものがああった。約二対一の割合で、アメリカ国民はそうすべきだと考えていた。違法な土地占拠や「深刻な」人権侵害があった場合には、われわれは武力を用いるべきである、と。
 アメリカがこの助言に従うなら、私たちはエルサルバドル、グアテマラ、インドネシア、ダマスカス、テルアビブ、ケープタウン、トルコ、ワシントンなど、あらあゆる国の都市を爆撃しなければならなくなる。それらはみな違法な占拠や侵犯や、深刻な人権侵害という条件を満たしているのである。こうした事例の多さを知っていれば、サダム・フセインの侵略や残虐行為も、多くの事例のうちの一つでしかないことがよくわかるであろう。フセインがやっていることは、とびきり極端な行為ではないのだ。
 どうして誰もこうした結論に到達しないのだろう?
 それは、誰も事実を知らないからだ。うまく機能している宣伝システムのもとでは、いま私があげたような多数の事例について誰も知りえないのである。きちんと調べみれば、これらの事例がまぎれもない事実だとわかるはずなのだが。
 湾岸戦争時に危うく気づかれそうになった一つの事例を取り上げてみよう。
 爆撃作戦のさなかの二月、レバノン政府はイスラエルに、レバノンからの即時無条件撤退を求める国連安保理決議425号にしたがうように要求した。この決議が採択されたのは、1978年3月である。以後、イスラエルにレバノンからの即時無条件撤退を要求する決議は二つあった。もちろん、イスラエルはどれも守らなかった。占領をつづけることをアメリカが裏で支持していたからだ。一方、南レバノンは恐怖におちいっていた。大きな拷問部屋までありそこで、身の毛のよだつようなことがつづいていた。ここを基点として、レバノンの他の地域にも攻撃が加えられた。
 1978年以来、レバノンは侵攻され、ベイルートは爆撃され、約二万人が殺された。犠牲者の80パーセントは民間人である。病院も破壊された。テロ、略奪、強盗が横行した。にもかかわらず、アメリカはそれを是認した。これはほんの一例である
 メディアにはまったく取り上げられなかったし、イスラエルとアメリカが425号をはじめとする国連安保理決議を守るかどうかが議論されることもなかった。まあた、国民の三分の二が支持する原則にしたがえば、アメリカはテルアビブを爆撃するべきなのに、それを要求する者はいなかった。
 誰がどう言おうと、これは違法な占領であり、深刻な人権侵害である。そして、これは一つの事例にすぎない。もっとひどい事例もある。インドネシアは東チモールを侵略して、約二十万人を殺害した。この一件とくらべれば、どんな事例も瑣末に見える。アメリカはこれにたいしても積極的な支持を与え、いまなお外交と軍事の両面で強力に支援し続けている。こういう例はいくらでもあげられるのだ。

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湾岸戦争の真相

2022年05月27日 | 国際・政治

  ノーム・チョムスキーの「メディア・コントロール 正義なき民主主義と国際社会」鈴木主税訳(集英社新書)の、下記のような文章を読むと、ウクライナ戦争に関わる欧米日の現状は、湾岸戦争当時の状況と同じような気がします。湾岸戦争当時、イラク人民主主義者の声が封じられたのと同じように、今、ウクライナ戦争に反対し、停戦を求める人々の声が、ほとんど封じられているように思うのです。

 そして、ウクライナ戦争に関わる重要な情報が、きわめて巧みにコントロールされ、事が進んでいるように思います。
 前稿で取り上げましたが、十年近く前に、チョムスキーは、NATOの存在について重大な指摘をしていました。ベルリンの壁が崩れ、ロシアの脅威がなくなっても、NATOを解体せず、逆に拡大したのは、”米国の政策立案者たちはヨーロッパが当時の言い方で第三勢力になることを恐れていた。”と指摘していたのです。NATOは、ヨーロッパ諸国を末永くアメリカの影響下に置くことが目的であったということだと思います。
 でも、ロシアからドイツへ天然ガスを輸送するパイプライン、「ノルドストリーム2」が有効に機能するようになると、ヨーロッパ諸国に対するロシアの影響力が拡大し、たとえNATOが存続しても、アメリカの利益が損なわれ、恐れていたヨーロッパ諸国のアメリカ離れが現実のものになるであろうことは明らかだと思います。
 だから、アメリカ産の液化天然ガス(LNG)をヨーロッパ諸国に売り込み、ヨーロッパ諸国との関係を維持するために、アメリカはオバマ前米政権時代から、ノルドストリーム2に反対していたのです。そして、トランプ大統領が、ノルドストリーム2プロジェクトに携わる企業に制限を加える制裁法を立案し、さらに、バイデン政権が21年5月にパイプラインの建設に関わる船舶にも制裁を科すことを決定したのです。バイデン大統領は、ロシアがウクライナに侵攻する前の声明で、”ロシアがウクライナに侵攻した場合、ノルドストリーム2を停止するよう緊密に調整してきた”と明かしています。

 ドイツのメルケル前首相は、原発の停止を決定し、エネルギーをロシアに依存するノルドストリーム2計画を進めましたが、その結果、トランプ大統領との関係が悪化し、「犬猿の仲」といわれたりしました。そして、その決定の影響は、今なお変わらず続いているのだと思います。
 ドイツのシュタインマイヤードイツ連邦共和国大統領は、ポーランドやバルト3国の大統領とともに、ウクライナの首都キーウを訪問する方針でしたが、”自身についてはウクライナから「望まれていない」ことが分かった”と述べ、参加しなかったといいます。ゼレンスキー大統領が、シュタインマイヤー大統領の参加を拒否したのは、彼がメルケル政権下で外相を務め、ノルドストリーム2の建設を推進し、ロシアに融和的だったからだと思います。ゼレンスキー大統領にとっても、バイデン大統領同様、ロシアは話し合いの相手ではないということだと思います。
 
 だから、チョムスキーの指摘を踏まえれば、戦争をする必要があるのは、ロシアではなく、アメリカとウクライナの方です。アメリカやウクライナに停戦協議を進める気がないのは当然なのです。停戦協議を進めて、戦争が終わってしまうことになれば、ロシアのヨーロッパ諸国に対する影響力拡大を阻止出来ず、ロシアの弱体化も実現できないので、アメリカは巧みに、停戦協議が進まない状況をつくりだしているのだと思います。イギリスのジョンソン首相も、そうしたアメリカの戦略に協力しているのでしょう、Boris Johnson ordered to stop Russia-Ukraine talks…、というような情報を見ました。

 メディアが、日々、ロシア軍に攻撃されたというウクライナの惨状や、ウクライナ軍の戦果の報道に徹し、侵攻前のウクライナを含むNATO諸国の軍事演習を問題にしないのも、アメリカのウクライナに対する武器の配備を問題にしないのも、また、侵攻にあたってのプーチン大統領の演説を取り上げないのも、ロシアを「悪 」とし、屈服させ、弱体化するためだろうと考えます。あらゆる組織からのロシアの排除やロシア側の情報の遮断も、多くの人たちの情報のやり取りによって、停戦の声が大きくなることを恐れているからではないかと想像します。

 そのため、一般の市民は、ロシア軍のウクライナ侵攻理由がよくわからず、あたかもプーチン大統領が、「偉大なソ連」という幻想にとらわれていて、配下にあると思っていたウクライナが、ロシアに背を向け、アメリカやEUとの関係を深めているのが気に食わないので、ウクライナ侵攻を命じたのだ、というような考え方がまことしやかに語られる状況になってしまっているのではないかと思います。そして、問題の解決は、ウクライナに軍を侵攻させた欲深いロシアを屈服させるほかにはないというような状況をつくり出し、停戦を求める声を封じているのではないかと思います。そうしたことが、湾岸戦争当時と同じではないかと思うのです。

 ロシアによるウクライナ侵攻を受けて、ウクライナ政府は直ぐに成人男性の出国を禁じました。そのため国境や列車の駅で、退避する人々の涙の別れがくり返し報じられました。自分は祖国に残って祖国のために戦う、と語る男性のインタビューは、何度か見ましたが、女装して出国しようとした人や、違法な手段を使って国境を越えた男性もいたというのに、そうした男性に対するインタビューを、私は見たことがありません。国のために戦うのか、家族と一緒に生き抜くのかの選択を迫られ、後者を選んだ人もいたということ、また、中には国からの徴兵に応じない人たちもいたということが、なぜ、きとんと報道され、議論されないのか。

 武器を取って戦うことに反対する人は、ロシアにもウクライナにも必ず存在すると思いますが、メディアは、ロシアにおける戦争反対の動きを報じても、ウクライナにおける戦争反対の動きを報じません。そして、停戦協議にこだわり、停戦に至る道筋を追い求める声が、ほとんど聞こえない状況にあることが、チョムスキーが指摘する湾岸戦争当時の状況と同じではないかと思うのです。
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                             湾岸戦争   

 うまく機能している宣伝システムがどれほどの効果をあげているか、わかってもらえただろうか。国民は、アメリカがイラクやクウェートに武力を行使するのは、不法な占領や人権侵害には武力をもって対抗すべきだという原則にしたがっているからだと思いこまされている。
 この原則がアメリカの行動に適用されたなら、どんなことになるかを国民はわかっていない。徹底的な宣伝がみごとに成功した結果である。
 もう一つの事例を見てみよう。
 八月(1990年)以降の湾岸戦争の記事をたんねんに調べてみれば、いくつかの重要な意見が欠落していることに気づくだろう。たとえば、イラク人のなかにもフセインに敵対する民族主義の信奉者がいる。非常に勇気のある、決して小さくない反対勢力である。
 もちろん、彼らの活動拠点は国外の亡命先だ。イラク国内にいたら殺されてしまうからだ。彼らは主にヨーロッパにいて、銀行家、技師、建築家として働いている。彼らには明確な意見があり、それを伝える手段もあり、実際に発言もしている。
 去る二月、サダム・フセインがまだジョージ・ブッシュの大切な友人であり、イラクが貿易相手国であったころの話だ。反対派筋の情報によると、彼らはわざわざワシントンまでやってきて、イラクに議会制民主主義を確立したいので何らかのかたちで支援してほしいと訴えたという。だが、彼らの訴えはにべもなく拒否された。アメリカはそんなことにまったく興味がなかったのだ。そして、これにたいする反応は公の記録にはまったくあらわれていない。
 八月以降、彼らの存在を無視すうrのはいささか難しくなった。アメリカは八月に、長らく可愛がってきたサダム・フセインをにわかに敵視するようになったのである。そこに、この件について言いたいことがあるにちがいない反対派のイラク人による民主主義勢力が存在した。
 サダム・フセインが腸を抜かれ、身体を八つ裂きにされるのを、彼らはぜひ見たいはずである。フセインは彼らの兄弟を殺し、姉妹を拷問にかけ、彼ら自身を母国から追いだしのである。ロナルド・レーガンとジョージ・ブッシュがフセインの頭を撫でていたあいだ、彼らはずっとフセインの暴政と戦ってきた。
 彼らの声は届いただろうか? 全国のメディアを眺めかえし、八月から三月(1991年)までのあいだにイラク人民主主義者の反対勢力についての報道がどれくらいあったかを確認してほしい。これが、皆無なのである。
 彼らに意見がなかったわけではない。彼らは声明を発表し、提案をし、呼びかけをし、要求をだしていた。それらを見れば、アメリカの平和運動となんら変わらないことがわかるだろう。彼らはサダム・フセインに反対しているが、イラクとの戦争にも反対だ。誰だって自分の国を破壊されたくない。
 彼らが望むのは平和的な解決であり、それがかならずしも無理なお願いではなかったことも間違いなくわかっていた。しかし、それは誤まった考え方なので、彼らは無視された。
 イラクの民族主義者の反対勢力について、私たちは何も聞かされていない。彼らについて知りたければ、ドイツやイギリスの新聞を見るしかない。さほど多く書かれているわけではないが、アメリカの新聞よりも厳しく統制されていないので、少しはものが言えるのである。
 これは組織的宣伝の恐るべき成功である。第一に、イラクの民主主義者の声は完全に排除されている。そして第二に、誰もそれに気づいていない。これも興味深いことである。国民がどれほど思考統制を受けているかがわかるだろう。
 イラクの民主的な反対勢力の声が聞こえてこないことに気づかず、したがってアメリカ人は聞こえてこない理由を問うこともなく、明白な答えを知りえないように仕向けられている。なぜ聞こえてこないのか。それは、イラクの民主主義者にはしっかりした考えがあるからだ。彼らは国際平和運動に賛同している。だから、彼らは許容されない。
 ところで、湾岸戦争はなぜ起こったのだろう。戦争の理由はいちおうあげられていた。侵略者が報いられることは許容できないし、侵略があれば暴力に訴えてもすみやかに侵略者を追い返さなければならない──これが湾岸戦争の理由だった。これ以外に基本的な理由は何もあげられていないのである。
 だが、こんなことが戦争を始める理由になるのだろうか? アメリカは、そんな原則──侵略者が報いられることは許容できないし、侵略があれば暴力に訴えてもすみやかに追い返さなければならない──を掲げているのか?

 私がぐだぐだしく言うまでもないだろうが、少しでもものの道理をわきまえていればこんな主張には十代の子供でも二分で反駁できる。にもかかわらず、これらの主張はまったく反駁されなかった。
 全国のメディアを見てみるといい。リベラル派の時事解説者や評論家、議会で宣誓証言した人びとでもいい。そのなかに、アメリカがそのような原則を掲げているという前提に疑問を投げた人がいただろうか? アメリカは自国のパナマ侵攻に反対して、侵略者を追い返すためにワシントンを爆撃するべきだと主張しただろうyuさぶらなかったのだ。か。
 1969年に南アフリカのナミビア占領が違法だと裁定されたとき、アメリカは食糧や医薬品について制裁措置を撮っただろうか? ケープタウンを爆撃しただろうか?
 いやアメリカは20年間「静かな外交」を続けた。
 その20年間も、決して波乱がなくはなかった。レーガンとブッシュの時代だけでも、南アフリカによって約150万人が周辺諸国で殺された。
 南アフリカとナミビアで起こったことは忘れよう。どういsてか、それは私たちの感じやすい心をゆさぶらなかったのだ。アメリカは「静かな外交」をつづけ、結局は侵略者が報酬を手にするのを許した。侵略者にはナミビアの主要港と、安全上の懸念を払拭するする数々の便宜が与えられた。私たちが掲げていた原則はどこへ行ったのだろう?
 繰り返すが、それが戦争に赴く理由にならないのは、子供でも論証できる。私たちはそんな原則を掲げてはいないからだ。ところが、誰もそうしなかった──重要なのはそこなのだ。そして当然の結論を、誰も指摘しようとはしなかった。戦争をする理由は一つもない。皆無である。
 分別のある子供が二分で反駁できる理由以外に、戦争をする理由は一つもなかった。これもまた、全体主義文化の一つの特徴である。考えると恐ろしいことだ。私たちはすっかり全体主義に染め上げられ、正当な理由もなしに、レバノンの要求や懸念に誰も気づかず、流されるようにして戦争におもむけるのだ。なんと衝撃的な事実だろう。
 爆撃が開始される直前の一月半ば、『ワシントン・ポスト』とABCネットワークによる大がかりな世論調査が興味深い事実を明らかにした。国連の安保理がアラブとイスラエルの紛争問題を取り上げることを交換条件として、イラクががクウェートからの撤退に同意するとすれば、あなたはこれを支持しますかという質問にたいし、三人に二人が支持すると答えたのである。イラクの民主的な反対勢力を含めて、全世界も同意見だった。
 アメリカの国民の三分の二はこれを支持しているという報告もあった。この考えを支持した人びとは、おそらくそう考えているのは世界で自分一人だと思ったのではあるまいか。だが、これがいい考えだという意見はいっさい報道されなかったのである。
 ワシントンが二つの事態の「結びつき」になることに、つまり外交上の手段に頼ることに反対するよう求めているのはわかっていた。だから誰もがおとなしく命令にしたがい、誰もが外交処理に反対したのだ。各新聞の解説欄を探してみるといい。『ロスアンゼルス・タイムズ』でアレクサンダー・コバーンがこれを名案だと書いているのが見つかるだろう。
 この質問に答えた人びとは、そう考えているのは自分一人だと思っただろう。それでも、それが自分の考えなのだ、と。
 彼らが自分一人でないと知っていたら、イラクの民主的な反対勢力ねど、ほかにもお味考えの人がいると知っていたら、これが決して仮定としての話ではなく、イラクがまさにそれを
申し入れていたことを知っていたら、どうなっただろう。
 その申し入れは、ちょうど八日前に合衆国高官によって公表されていた。一月二日、国連安保理がアラブ・イスラエル間の紛争と大量破壊兵器問題を検討するのと引き換えに、イラクがクウェートからの全面撤退を提案してきたことを合衆国高官が公表していたのだ。
 しかしアメリカは、クウェートが侵攻される前から、この件について交渉の席につくのを拒否してきた。この提案が実際に申し入れられていたこと、広く支持されていたことが知られていたら、どうか。
 実際、これは平和を望む理性ある人なら誰でもするはずの提案である。他の場合ならそうするだろう。やむを得ず侵略者を追い返すことを望む場合には、こう提案するだろう。それをする人びとが知っていたら、どうか。違う意見もいりうるだろうが、私の思うに三分の二が九十八パーセントまで上がったのではあるまいか。
 ここに組織的宣伝の大成功があった。おそらく調査に答えた人のうち、誰一人としていま述べたようなことを知らなかったのだろう。誰もが自分一人だと思っていた。だから表立っての反対がないまま、戦争の方針が進められたのである。

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平和的、自主的外交

2022年05月25日 | 国際・政治

    知らないのか、知らないふりか、それとも意図的に隠蔽しようということか。

 朝日新聞の「考/論」欄に、バイデン大統領の日韓訪問に関して、梨花女子大の朴元坤(パクウォンゴン)教授の下記の指摘が出ていました。見逃すことのできない重要な指摘であると思います。

韓国と日本を訪れる米バイデン大統領の目的は、中国への牽制にほかならない。米国にも投資している韓国のサムスン電子の半導体工場への視察は象徴的だ。新たに発足する米国主導の「インド太平洋経済枠組(IPEF)」において第一の問題は(部品などの)供給網の再編だ。韓国の半導体が組み込まれれば、中国も困ることになる。一方、韓国の尹錫悦政権は米国と行動を共にしていく考えだが、米中の対立が他国に「選択」を強いている現状がある。IPEFも参加すれば中国の反発を受けるが、参加しなければ米国との関係が悪くなる。韓国には参加する以外の選択肢はない。…”

 このようなかたちで、バイデン大統領が「選択」を強いたのは、何も韓国だけではないし、今回だけではないと思います。ロシアのウクライナ侵攻前後のバイデン大統領のヨーロッパ訪問も、ヨーロッパ諸国に、「選択」を強いるものであったのだろうと思います。そして、それはドイツ統一以来のヨーロッパ諸国NATO加盟問題にも共通したアメリカの方針で、チョムスキーいうところの”米国権力の衰え”を切り抜け、乗り越えるために、相手国をアメリアの指導下に置くねらいがあるのだと思います。極論すれば、アメリカは、自国の利益や権力を維持するために、各国に自主的な外交を許さないということです。アメリカは、自国の利益や権力を維持するために、世界を分断し、敵対するロシアや中国を孤立化させ、逆らえないほどに弱体化させなければ、現状を維持することが難しくなってきているということだろうと想像します。

 先日、毎日新聞が、中国新疆ウイグル自治区の「再教育施設」に関する内部資料が流出したことを報じました。バイデン政権は、中国の少数民族人権問題や台湾統一の動きをとらえて、対立を鮮明にし、中国を孤立化させようとしていることのあらわれのように思います。

 そういう時期であるからこそ、下記のノーム・チョムスキーとアンドレ・ヴルチェクの対話は重要な意味を持つと思います。

 アメリカに他国の人権問題を非難する資格があるのか、ということを考えさせらる内容です。アメリカは過去に何度となく、他国の内政に干渉し、軍によるクーデターを支援したり、独裁政権を支援したりしてきたのです。その結果、数え切れない人々が亡くなっているのです。

 例えば、インドネシアにおける9月30日事件では、インドネシア共産党書記長のアイディットをはじめ、共産主義者約50万が集団虐殺されたといいます。だから、「20世紀最大の虐殺の一つ」と言われるようですが、正確な数はわからず、なかには、300万人との説もあるといいます。スハルトが関与した残虐な大虐殺は、事件直後の1965年10月から1966年3月ごろまでスマトラ、ジャワ、バリで続いたということです。このとき、いわゆる「共産主義者狩り」に動員されたのは、青年団やイスラーム団体に加えてならず者のような集団もあったといいます。ウィキペディアには、下記のようにあります。
スハルト元大統領が、スカルノ政権から政権奪取するきっかけとなった1965年の9月30日事件のあと、インドネシア全土を巻き込んだ共産主義者一掃キャンペーンに、アメリカ政府と中央情報局(CIA)が関与し、当時の反共団体に巨額の活動資金を供与したり、CIAが作成した共産党幹部のリストをインドネシアの諜報機関に渡していたことを記録した外交文書が、米国の民間シンクタンク・国家安全保障公文書館によって公表された。” 

 あまり知られていないように思いますが、アンドレ・ヴルチェクによると、同様の残虐事件がチリの軍事クーデターでも起きていたのだといいます。世界で初めて自由選挙によって合法的に選出されたチリのアジェンデ社会主義政権が、軍のクーデターで倒されたのです。その際、チリ軍部はインドネシア同様、「左翼狩り」を行い、労働組合員や人民連合の関係者、一般市民の活動家などを逮捕・拘束・殺害したのです。そしてその軍を裏で操ったのは、アメリカだというのです。

 また、ウクライナ戦争が始まる十年近く前に、チョムスキーが、NATOの存在について重大な指摘をしていたことが下記の文章でわかります。ベルリンの壁が崩れ、ロシアの脅威がなくなっても、NATOを解体せず、逆に拡大したのは、”米国の政策立案者たちはヨーロッパが当時の言い方で第三勢力になることを恐れていた。”というのです。NATOは、ヨーロッパ諸国をアメリカの影響下に置くことが目的であったということだと思います。
 そしてそれは、アメリカ主導のQuad(クアッド)や「インド太平洋経済枠組(IPEF)」などの組織にも通じることだと思います。各国が、それぞれの外交方針に基づいて経済関係を深めたり、ソロモンのように中国と安全保障協定を締結することを許せば、アメリアの利益や権力は維持できなくなるということだと思います。 

 下記は、「チョムスキーが語る戦争のからくり ヒロシマからドローン兵器の時代まで」(ノーム・チョムスキー、アンドレ・ヴルチェク:本橋哲也訳)から、抜萃しました。
   
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                     第九章 米国権力の衰え

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A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 ある意味、インドネシアにおけるクーデターの余波は、あとになって南アフリカとかエリツィン支配下のロシアといった遠い場所でも感じられたと思いますね。この実験は成功して、西側諸国はモスクワやプレトリア、さらにはルワンダのキガリでも繰り返してきた。

N・C(ノーム・チョムスキー)
 チリでも。それもあからさまに。右翼はジャカルタ式の解決を公言していたからね。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 チリのアジェンデ政権にいた人たちの多くと話をしてきましたが、その大半はすでに相当な年寄りですけれど、クーデターの前にこう言われたと聞きました──「同志よ、気をつけることだ、ジャカルタがやってくるぞ!」。彼らは言っていました。「ジャカルタ」というのが正確に何を意味するのか知らなかった。もちろんインドネシアの首都だというのはしっていたけれど、それが大殺戮の予告だということは理解できなかった」と。
 数年前『テルレナ──国家の崩壊』という、インドネシアのクーデターとその影響を扱ったドキュメンタリー映画を作りましたが、それをウルグァイのモンテビデオと、そのあとチリのサンティアゴで上映したら、1973年のクーデターの生残りがステージに上がってきて私を抱きしめ、涙を流しながら言いました。「知らなかった……ここチリでもインドネシアと同じだった……まったく同じ」と。

N・C(ノーム・チョムスキー)
 当時のアメリカ合衆国、イギリス、オーストラリアの反応が興味深い。インドネシアでの虐殺の様子はきわめて正確に伝えられていて、たとえば『ニューヨーク・タイムズ』は「驚くべき大量殺人」と書いている。そのリベラルな特派員だったジェイムズ・レストンは、記事でこの出来事を「アジアの燭光」と言って賛美していた。これが西側諸国の主要新聞の論調だった。特派員や編集者たちはアメリカ合衆国政府が自らの役割を隠すことで、彼らの言うところの「穏健」なインドネシアの将軍たちが自分たちでおこなったことの功績を認められと褒めている。「俺たちが助けてやったんだぞ」と言って信用を落とさせたくなかったんですね。オーストラリアやイギリスでも同じような反応で、どこでも賛美の嵐だった。
 意味合いが異なりますが比較として頭に浮かぶのは、キューバがアフリカの解放に果たした決定的な役割です。キューバ人も語りたがらない。アフリカの指導者たちに功績と信用を付与したいから。最近になってこうしたことが明らかになったのはジョンズ・ポプキンス大学の外交史家ピエロ・グレイジェセスの仕事のおかげです。ほかにもこうした比較ができるといいですね。
 ケネディとジョンソンの国家安全保障補佐官だったメクジョージ・バンディが何年も経ってから、1965年にヴェトナム戦争を終わらせておけば良かったと回顧しています。インドネシアのクーデターでアメリカ合衆国はほぼ東南アジアにおける戦争に勝利していたのだから。65年にはヴェトナムはすでに破壊されていてどんなモデルにもなりようがなかったし、アメリカは自らの主な関心事だったインドネシアを支配下に置くことに成功していた。そして独裁政権が「腐敗」の進行を防ぐために周辺地域全体に設立されて、こうした各国家の状況がそれぞれほかのモデルとなって冷戦の主要テーマとなるという腐った構図が出来上がっていた。ヘンリー・キッシンジャーのイメージによれば、民族主義政府は病原菌のようなもので汚染を広げる。アジェンデについてもそう言っていましたね。アジェンデ政権は病原菌で南欧にまで病気を広める、国民が国会を通じて社会改革ができると知ったらこれはとても危険だ、と。ブレジネフ〔1906~82。ソ連の政治家。1964年フルシチョフに代わって共産党第一書記となり、77年からからは国家元首をも兼任した〕もどうやらこれに同意していたようで、彼は「ユーロコミュニズム」という社会民主主義の形態が広がると、「共産主義」という名の下にあるソヴィエト専制政治が脅かされると恐れていた。
 病気を広める菌があったら、それを根絶して菌をうつされるかもしれない人に予防接種をする必要があるわけで、それが当時のラテンアメリカや東南アジアでおこなわれた。ラテンアメリカで抑圧の波が本格的に始まったのは1960年代で、ブラジルの独裁政権は80年代まで続きました。そのドミノ効果が続いて中央アメリカにおけるレーガンの虐殺戦争にまで至る。東南アジアではフィリピンのフェルディナンド・マルコス、タイの独裁政権、インドネシアのスハルト、ミャンマーの民主主義はほぼ破壊されてその影響が今日まで続いています。汚染を止めることができて病原菌を根絶すれば、すべてOKというわけ。
 それにもかかわらず米国の権力は衰退し続け、1970年には世界の富の約二十五パーセントを占めるにとどまる。巨大とはいえ45年の50パーセントではない。そして世界は三極構造と見なされるようになった。主要な経済中心地はヨーロッパ(ドイツが中心)、北アメリカ(アメリカ合衆国が主)、そして東アジア(日本の周辺)で、三つめの東アジアが世界でもっとも活発な経済地域とされていた。そこからさらに米国の衰退が続く。ここ十年ほどの南アメリカ喪失は痛手で、そこは間違いなく安全と思われていたから。安全で議論の必要もなかったくらい。いまや米国は、南アメリカではコロンビアを除けばほとんど何の影響力もありません。ペルーの周りで少しあるくらい。米国は復活しようと試みているが、かつての面影はまったくない。この本でもカルタヘナ会議(米州首脳会議)についての話がでましたが、それがこの半球での米国の権威喪失を物語っている。あらゆる課題で米国の孤立は明らかで、次の半球会議には招かれさえしないだろう。
 アラブの春も憂慮事項です。もしアラブの春が実際に地域の民主主義を機能させる方向に向うとしたら、アメリカ合衆国とその同盟諸国はきわめて深刻な問題に直面する。アラブ世界の世論が米国とその同盟諸国に反対していることは明らかで、だからこそこの地域の民主主義を制限しようと大きな力が注がれてきた。
 アメリカ合衆国の権力はいまだに圧倒的で、挑戦されることは滅多にないけれども衰えつつある。以前のようなことはもうできない。ラテンアメリカの政府を顛覆させたりはできない。中東などの他地域に介入する軍事力もない。

 A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 でもしましたよ。オバマ政権は最近ラテンアメリカで左翼政権を二つ顛覆させました。ホンジュラスとパラグァイで。以前と比べれば、アメリカ合衆国が第二次世界大戦後に支配していた世界経済の一部しかいまはコントロールしていないという点には同意しますが、現在の帝国は米国とEU、それにおそらく日本も結託している。この三つが連合すれば第二次世界大戦後からそれほど状況は代わっていないのでは? 

N・C(ノーム・チョムスキー)
 あなたのいうこともわかるけれど、ヨーロッパと日本の独自性を過小評価しているのではないかな。さらに言うと、1950年初期、米国の政策立案者たちはヨーロッパが当時の言い方で第三勢力になることを恐れていた。米ソという二つの超大国から独立する道を選ぶかもしれないと思われていたから、それを防ぐ一つの方策として北大西洋条約機構(NATO)が作られた。
 NATOはヨーロッパをロシアの侵攻から守る軍事勢力として設立されたわけですが、それを完全に正当化することはなかなか困難なわけで、その観点からは1989年にベルリンの壁が崩れたことはきわめて劇的な出来事だったと言える。もうロシアの脅威がないとすると、NATOの意義は? 教義に従えばNATOは解体してもよさそうなものなのに逆に拡大しましたね。
 ジョージ・ブッシュの父親のうほうとジェイムズ・ベイカーがミハイル・ゴルバチョフと協定を結んで、統一ドイツが西側の軍事同盟に参加してもいいことになったけれど、それはロシアの観点からするときわめて大胆な取り決めです。でもその代わりにNATOは「東に一インチたりとも」移動してはならないとされた。それですぐに東に拡大したものだから、ゴルバチョフは大いに腹を立てた。しかしこれは口頭の約束だから、それを信用するほどお人好しなあなたが悪い、と言われてしまう。紙には何も残されていないのです。というわけでNATOの東への拡張は続き、いまやアメリカ合衆国が主導する世界介入軍となっている。それは公式に国際エネルギー体制をコントロールし、海岸線やパイプラインの支配権もある。
 1989年のアメリカ合衆国の軍事予算を見るとよくわかります。ブッシュ政権も「国家安全保障戦略」なる新たな防衛政策を設定して、米国が巨大な軍事体制を維持しなくてはならないのは、もう存在しないソ連のためではなく第三世界勢力が「精巧な技術」を持ち始めたからだ、と。さらにそこにはアメリカ合衆国が「防衛産業基盤」を維持しなくてはならないとも書かれていた。これは婉曲語法であって意味しているのはハイテク産業のことであり、通常はペンタゴンを通じて政府の主導と資金で育成されるものとされていた。
 でもいちばん興味深い部分は中東について述べているところです。アメリカは中東に直接介入できる軍隊を維持すべきで、そこで直面すべき問題は「クレムリンの戸口に横たわっている」わけではない。言い換えれば、50年間言い続けてきたロシアの脅威というのは嘘で、アメリカが本当に恐れているのはこの地の「過激なナショナリズム」、独立を求めるナショナリズムだとうこと。いまや霧が晴れて雲も消えたのだけれど何も変わらない。誰も記事を書かないし、学者も研究しないから。自分がそういうことを書く一人になればよかったと思うことさえありますよ。ソ連という敵が崩壊したあの決定的な時期に、冷戦を理解したければ見るべきことがあったのです。終わったときに何が起きたかを見るべきだった。
 そこでヨーロッパはアメリカ合衆国のリードに従って、独立した姿勢を取ることはまずなかった。とくにそれはイギリスについて言えます。1940年代からの英国外務省記録を読むと、自分たちの栄光の日々は終わったことを認識して、アメリカに「つき従う伴侶」とならなくてはならず、ときに屈辱も覚悟しなくてはならないと言っている。際立った例が62年のキューバ・ミサイル危機です。ケネディの政策立案者たちはきわめて危険な選択をおこない、核戦争になるのではないかと知りながら政策を推し進めたし、そうなるとイギリスが消滅することも知っていた。ロシアのミサイルはアメリカ合衆国までは安全、でもイギリスは滅亡する、と。
 彼らはイギリスに自分たちが何をしたかを伝えなかった。イギリス首相のハロルド・マクミランはワシントンで何がおこなわれているかを必死に探ろうとしたけれども、わかったのはイギリスの諜報機関が見つけ出したことだけ。その当時アメリカ政府の高官が内輪の論議で、イギリスには何も教えない方がいい、イギリスは信用できないからと言っている、かの有名な「特別な関係」の実情がここにある。──「イギリスはわが副官、よく言えばパートナー」というわけだ。これがイギリスの現状で、大陸ヨーロッパとなるともっとひどい。後についてくるけどもやや邪魔くさい、完全には頼れないから。実際、大陸ヨーロッパの国々は一つとして完全には信用できない。独立した道を歩む能力があるし、ときにそうしてきたからです。

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ウウライナ戦争、アメリカによる「メディア・コントロール」を考える

2022年05月21日 | 国際・政治

    知らないのか、知らないふりか、それとも意図的に隠蔽しようということか。
  
 朝日新聞、「日曜に想う」欄に、ヨーロッパ総局長・国末慶人氏の文章があり、はじめて、今までにない情報に接しました。首都キーウ(キエフ)の北約80キロの田舎町、イワンキウからのものでした。侵攻翌日にミサイル攻撃を受け、住宅街に大穴が開いており、半壊した住宅で主婦タチアナ・オサチャさんが語ったといいます。”占領中のロシアの兵は怖かったけど、何もしなかった。子どもたちにクッキーをくれた”と。また、もう一つの半壊住宅のイワン・ダリニチェンコさんも、”戦闘はあったが、暴力はなかったね”と。
 やはり、ロシア兵もさまざまなのだと思います。でも、今まで見聞きしたメディアの報道は、「ロシア兵は残虐」というようなものばかりでした。そういう情報ばかりが伝えられてきたと思います。戦争の当事者であるアメリカやウクライナからもたらされる情報を鵜呑みにし、ロシアからもたらされる情報を受けつけないような姿勢が、西側諸国で広がっているように思います。
 でも私は、ノーム・チョムスキーが、下記の文章で書いている、”国民に提示される世界像は、現実とは似ても似つかぬものなのだ。その問題の真実は、嘘に嘘を重ねた堂々たるつくり話の下に葬られている。民主主義の脅威を防ぐという点からすれば大成功だ。”の可能性を、日々感じます。

 先日、”負傷兵退避「戦闘任務を終了」”などと題する記事が大きく出ていました。記事は”ロシア軍の激しい攻撃が続いていたウクライナ南東部マリウポリ市の製鉄所「アゾフスターリ」から、負傷兵らの退避が始まった。ウクライナ軍は17日、マリウポリでの「戦闘任務を終了した」と発表。…”などとあったのですが、何かおかしな表現だと思いました。
 「退避」といえば、自らの意志でその場を去ることのように思うのですが、負傷兵はロシア軍の用意した車で、ロシア軍の施設に収容されたということです。
 また、「戦闘任務を終了した」という表現も変だと思います。「徹底抗戦」を宣言して戦っていたのに、なぜ、「戦闘任務が終了」するのでしょうか。ロシア軍によって武装解除され、ロシア側が用意したバスに乗ってロシア側の領域に連れていかれたのは、局地的であるとはいえ、ウクライナ軍の敗北を意味するのではないでしょうか。
 だから、私は、「撤退」を「転進」、「全滅」を「玉砕」などと表現した日本軍を思い出しました。日本軍の最高司令部「大本営」も、太平洋戦争中に、嘘と誇張で塗り固めた公式発表を繰り返し、「大本営発表」は「嘘の代名詞」と呼ばれることになったのです。そのくり返しのような気がします。

 だから、ウクライナ戦争にかかわる現在のメディアの報道は、客観情勢を正しく伝えておらず、国際世論を誤まった道に導いているように思います。ロシア側の主張はいつも断片的であり、非難の材料としてつかわれているように思うのです。人と人が殺し合っているのに、ロシアを悪と決めつけるような報道ばかりで、停戦に向う道筋を探るような報道は、ほとんどありません。
 ロシア軍がウクライナ侵攻にする前の、プーチン大統領の演説やロシアの戦勝記念日におけるプーチン大統領の演説には、停戦に向う道筋を探るための主張があるように思うのですが、無視されているように思います。平和憲法をもつ日本でさえ、そういう状態であるのは、やはりこの戦争で、ロシアの影響力拡大を阻止し、ロシアを弱体化させたいアメリカの方針によるのではないでしょうか。

 そういう意味で、 ノーム・チョムスキーの「メディア・コントロール」と題した下記の文章は、きわめて重要だと思います。皮肉を込めて、アメリカの本音を語るようなかたちで書いていますが、特に「ヴェトナム・シンドローム」に関する記述には、衝撃を受けました。

 場合によっては、歴史を完全に捏造することも必要になる。
 それが(武力行使に対する)病的な拒否反応を克服する一つの方法でもある。誰かを攻撃し、殺戮するとき、これは本当のところ自己防衛なのだ。相手は強力な侵略者であり、人間ならぬ怪物なのだと思わせるのだ。・・・”

 ウクライナ戦争にも、ヴェトナム戦争同様、確かにそういう側面があると思います。

 下記は、「メディア・コントロール 正義なき民主主義と国際社会」ノーム・チョムスキー:鈴木主税訳(集英社新書)の「メディア・コントロール」から、その一部を抜萃しました。
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               メディア・コントロール

 世論工作

 国民を鼓舞して海外への進出を支持させることも必要だ。
 普通、国民は平和主義にかたむくものだ。第一次世界大戦のときもそうだった。一般の人びとは、わざわざ外国に進出して殺人や拷問をすることにしかるべき理由など見出せない。
 だから「こちらが」あおってやらなければならない。そして、国民をあおるには、国民を怯えさせることが必要だ。かのバーネイズには、この点でも重要な功績があった。1954年、バーネイズがユナイテッド・フルーツ・カンパニーのために広報作戦を展開すると、それに乗じてアメリカはグアテマラに進出し、資本主義を奉じる民主的な政府を顛覆させ、凶悪な暗殺者集団が牛耳る社会を出現させた。
 その体制は今日までつづいており、ずっとアメリカから支援されている。もちろん、アメリカの目的はグアテマラが空虚なかたちで民主的な偏向をしないようにすることだ。国民が反対する国内政策を実施するには、ごり押しをつづけるしかない。だが、国民にしてみれば、自分にとって有害な国内政策を支持するいわれはない。
 この場合も、大々的な宣伝が必要になる。そういう例は、この十年のあいだにいくつもあった。たとえば、レーガン政権の数々の計画は、圧倒的に不人気だった。1984年の「レーガン圧勝」時にも、有権者のおよそ五分の三はレーガンの政策が法制化されないことを願っていた。軍備の増強にしろ社会的な支出の削減にしろ、レーガンの計画はことごとく国民の強い反対にあった。
 
 しかし、国民が社会の周辺に追いやられ、自分のほんとうの関心から目をそらされて組織をつくることも自分の意見を表明することも許されず、他人も同じ考えをもっていることを知るすべさえなかったら、軍事支出よりも社会的支出のほうが大事だと考え、世論調査にはそのように答える人びとも、そんなばかげた考えをもっているのは自分だけだろうと思いこんでしまう。現実に、圧倒的多数がそう思いこんだのだ。
 そういう意見はどこからも聞こえてこない。誰もそういうふうに考えていないのだろう。したがって、そういうことを考え、そう言うことを世論調査で答えようとする自分はきっと変人にちがいない。意見を同じくする人と知り合って団結する機会はどこにもないので、自分が変わり者のような、ひねくれ者のような気がしてしまう。
 それなら黙っていたほうがいいではないか。世のなかの動きに関心を向けてもしかたがない。それよりはスーパーボウルでも観戦していたほうがましだ。
 このように、彼らの理想はある程度まで達成されている。しかし、まだ完全というわけではなく、どうしても破壊できなかった機関がまだいくつか残っている。たとえば、教会はいまも健在だ。アメリカの異議申し立て活動の大半は教会から起こっている。
 理由は単純で、教会がそこにあったからだ。ヨーロッパのどこかの国へ行って政治的な話をしようとすれば、おそらく組合の集会所がその場所だろう。それはアメリカでは考えられない。そもそも組合がないに等しく、あったとしても組合は政治的な組織ではないからだ。しかし、教会なら存在するから、おのずと教会で話をすることが多くなる。中央アメリカの連帯運動はほとんどが教会を起点にしているが、これも主として教会がそこにあったからなのだ。
 だが、とまどえる群れは決して完全には飼いならされない。つまり、これは止むことのない戦いである。1930年代には、反乱が起こっては鎮圧された。60年代にも、また新たな異議申し立ての運動の波が起こった。これには名前がついていて、特別階級が「民主主義の危機」と呼んだのである。
 民主主義は1960年代には危機に瀕したと見なされた。要するに、危機とは人口の大部分が組織をつくって活動をするようになり、政治の分野に参入しようとしたことだ。前に述べた民主主義社会の二つの概念を思い出してほしい。辞書の定義にしたがえば、これは本来の民主主義の「前進」である。
 しかし優勢なほうの概念にしたがえば、これこそ「問題」であり、なんとか打開しなければならない危機である。国民を再び無気力に、従順に、受動的にしなければならない。それが国民の本来の姿なのだ。どうにかして、この危機を打開しなければならない。そのためにいろいろな努力がはらわれたが、あまりうまくいかなかった。
 民主主義の危機は今日までつづいているが、幸いにも国の政策を変えるまでにはいたっていない。しかし多くの人の予想に反して、少なくとも意見を変えることはできている。
 1960年代以降、この慢性病を追い払い、打ち負かすために数々の努力が傾けられた。この病気のある側面には、専門的な名称までつけられている。「ヴェトナム・シンドローム」(ヴェトナム戦争後遺症)」がそれだ。
 1970年代ごろから使われはじめたこの名称は、おりにふれて定義されてきた。
 レーガンを支持していた知識人、ノーマン・ポドレッツは、これを「軍事力の行使に対する病的な拒否反応」と定義した。国民の大部分には、まさにそのような暴力にたいする病的な拒否反応があった。なぜあちこちへ行って人を拷問し、殺害し、絨毯爆撃などをする必要があるのか、国民にはさっぱり理解できなかった。
 国民がこうした病的な拒否反応に圧倒されるのは非常に危険なことだ。これはヒトラー支配下のナチスの宣伝相ゲッペルスも理解していたことで、そうなってしまうと海外進出が困難になるからだ。湾岸戦争の興奮のなかで『ワシントン・ポスト』が得々と書いたように、「軍事行動の価値」を重視するという考えを国民の頭に吹きこまなければならない。これは重要なことだ。国内のエリートの目的をはたすために世界中で武力を行使する暴力社会を理想とするなら、大衆に軍事行動の価値を正しく理解させ、暴力の行使に病的な拒否反応を引き起こさせないようにしなければならない。
 ヴェトナム・シンドロームなどは克服しなければならないのだ。

   偽りの現実を提示する

 場合によっては、歴史を完全に捏造することも必要になる。
 それが病的な拒否反応を克服する一つの方法でもある。誰かを攻撃し、殺戮するとき、これは本当のところ自己防衛なのだ。相手は強力な侵略者であり、人間ならぬ怪物なのだと思わせるのだ。
 ヴェトナム戦争が始まって以降、当時の歴史を再構築するために払われた努力はたいへんなものだった。あまりにも多くの人が、本当の事情に気づきはじめていたのだ。多数の軍人だけでなく、事実に気づいて平和運動などに参加した若者もたくさんいた。これはいかにもまずい。そうした危険な考えを改めさせ、正気を取り戻させなければならなかった。
 すなわち、われわれのすることはみな高貴で正しいことだと認識させるのだ。われわれが南ヴェトナムを爆撃しているなら、それは南ヴェトナムを防衛しているからにほかならない。いったい誰から? もちろん南ヴェトナム人からだ。ほかの誰がそこにいただろう。ケネディ政権はいみじくも、これを南ヴェトナム「内部の侵略者」にたいする防衛と称したものだ。
 この言い方は民主党の元大統領候補でケネディ政権の国連大使を務めたアンドレイ・スティーブンソンなども使っている。これを公式の見解とし、国民にしっかりと理解させなければならなかった。その結果は申し分なかった。メディアと教育制度を完全に掌握していさえすれば、あとは学者がおとなしくしているかぎり、どんな説でも世間に流布させることができるのだ。
 それを示唆する一つの例が、マサチューセッツ大学でおこなわれた調査にあらわれている。これは湾岸危機にたいする姿勢についての調査だったが、実質的には人びとがテレビを見るときの認識と姿勢についての調査に等しかった。質問の一つに、ヴェトナム戦争におけるヴェトナム人犠牲者は何人くらいと思うか、というのがあった。
 今日のアメリカの学生の平均的な答えは、約十万人。公式の数字は約二百万人である。実際の数字は、300万人から400万人といったところだろう。この調査を実施した人びとは、もっともな疑問を呈している。ホロコーストで何人のユダヤ人が死んだかと今日のドイツ人に聞いたとき、彼らが30万人と答えたならば、われわれはドイツの政治風土をどう思うだろう? その答えから、ドイツの政治風土を推して知るべきではなかろうか? 質問者はあえて答えを求めなかったが、この疑問は追究する価値がある。その答えから、わが国の政治風土も推して知るべきではなかろうか? その答えは、とても多くのことを語っている。
 軍事力の行使にたいする病的な拒否反応をはじめ、民主主義からのもろもろの逸脱は阻止しなければならない。ヴェトナム戦争の場合は、それはうまくいった。
 そして、どんな問題の場合でも同じである。中東問題でも、国際テロでも、中米問題でも何でもいい──国民に提示される世界像は、現実とは似ても似つかぬものなのだ。その問題の真実は、嘘に嘘を重ねた堂々たるつくり話の下に葬られている。民主主義の脅威を防ぐという点からすれば大成功だ。しかも、それが自由な環境のもとで達成されているところがたいへん興味深い。アメリカはもちろん全体主義国家ではない。全体主義国家であれば、力づくでその目的を達成することもできるだろう。
 しかし、ここではそれが自由な環境のもとで達成されているのである。私たち自身のこの社会を理解したければ、こうしたところに目を向けなければならない。これらは重要なポイントだ。自分がどんな社会に住んでいるかをしっかり認識したければ、こうしたことを見過ごしてはならないのである。

 
 


 

 

 

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ウクライナ戦争、アメリカが話し合いをしない理由は?

2022年05月18日 | 国際・政治

    知らないのか、知らないふりか、それとも意図的に隠蔽しようということか。

 ウクライナ国防省のブダノフ情報局長が、ウクライナ戦争について、”ターニングポイントは8月後半になります。年内にはロシア軍との戦闘の大部分が終結する。その結果、ロシアの政治情勢がすべて変わります”などと述べたことが伝えられています。また、”プーチン大統領は精神的、肉体的に非常に悪い状態にあると分かります。彼は重い病気です。同様に様々な病気を患っていて、そのひとつが、がんです”などと語ったと言われています。
 さらに、ウクライナ国防省の諜報部門トップ、ブダノフ准将が、プーチン大統領に対する”クーデター計画”が進行しているとの見方を示し、それが、ウクライナに侵攻したロシア軍の劣勢が引き金になっていると分析するとともに、”計画は止められない”状況にあるとも述べたといいます。

 根拠不明のこうした報道から、私はウクライナ政権には、停戦交渉を進める気がないのだろうと思います。そしてそれは、ロシアを屈服させ、その影響力拡大を阻止するとともに、あわよくばプーチン政権を転覆しようとするアメリカの意向を受けたものだろうと想像します。
 バイデン政権は ゼレンスキー政権を支援して、ロシアを潰しにかかっているのではないかと考えます。 
 なぜなら、第二次世界大戦後のアメリカの外交政策をふり返れば、アメリカは、反米的な国家の存在を認めず、経済制裁を課したり、反政府勢力を支援して政権転覆に手を貸したりしてきたからです。
 だから、上記の”プーチン大統領に対する「クーデター計画」が進行している”との見方は、実は、「見方」ではなく、親米的な人たちにクーデターを計画させ、それを支援しているということではないかと疑わざるを得ないのです。

 また、最近フィンランドとスウェーデンの両国が、NATO加盟の意向を表明したことが報道されました。そして、NATOのイェンス・ストルテンベルグ事務総長が、”全ての国に自らの道を選ぶ権利があり、決断を尊重する”と述べ、両国の加盟の方針を歓迎したと言われています。でも、これも両国が自ら望んだことではなく、西側諸国の頂点に立つアメリカのロシア敵視、ロシア排除の方針によって、選択を迫られる情勢がつくり出されたからだろうと想像します。

 現在、欧米日などの西側諸国には、ウクライナ戦争が、ロシアからの突然の攻撃開始で始まったかのようなプロパガンダが支配的です。でも、バイデン大統領が副大統領時代に6回もウクライナに行っている事実や息子のハンターバイデンが、ウクライナの天然ガス会社であるブリスマ・ホールディングスの取締役を務め、月額5万ドル(約536万円)という高額の報酬を受けていたという事実、またトランプ氏が、ゼレンスキー大統領との電話会談の中で、バイデン親子のウクライナにおける活動について捜査するよう促していた事実などを、NATOの東方拡大や軍事演習、ウクライナへの武器の配備などと考え合わせると、ウクライナ戦争は、長い時間をかけて周到に準備されてきたのではないかと疑わざるを得ません。
 そして、いよいよ決戦だとばかりに、2月半ばからロシア系住民がいるドンバス地方をウクライナ軍の精鋭部隊といわれる「アゾフ大隊」に激しく攻撃させたのではないかと思います。
 バイデン米大統領が、ロシアのウクライナ侵攻前に、記者団に対し、”ロシアによるウクライナ侵攻の可能性が非常に高い。数日以内にも起こり得る”などとの見方を示すことができたのは、そうした流れがあったからではないかと思います。
 見逃せないのは、その時、”現時点でロシアのプーチン大統領と電話で話す予定はない”と述べたことです。戦争を仕掛けたのはアメリカだということを示していると思います。
 
 だから、アメリカやウクライナからもたらされる情報を、何の検証もなく報道する日本のメディアは、大本営発表を国民に信じ込ませた過ちを思い出してほしいと思います。
 ほんとうに8月後半が、”ターニングポイント”でしょうか。”ロシアの政治情勢がすべて変わ”り、戦争が終結するのでしょうか。私には信じられません。
 私は、とにかく停戦協議を進めるべきだと思います。武力で決着させてはならないと思います。

 「チョムスキーが語る戦争のからくり ヒロシマからドローン兵器の時代まで」(ノーム・チョムスキー、アンドレ・ヴルチェク:本橋哲也訳)の、「第四章 ソビエトブ・ロック」を読むと、私はロシアに対する理解が歪んでいたことを認めざるを得ません。そして今、ロシアを悪と決めつける受けとめ方が、より深刻なものになりつつあるように感じます。下記は、「第四章 ソビエトブ・ロック」の一部抜粋です。
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        知らないのか、知らないふりか、それとも意図的に隠蔽しようということか。  

                第四章 ソビエトブ・ロック

N・C(ノーム・チョムスキー)
 東ヨーロッパの現状についてはどう考えるか、聞かせてもらえるかな。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 悲観的ですね。歴史のある時点ではチェコスロヴァキアやハンガリー、東ドイツといった国々の人たちが人類のために本当に良いことをさせられてきたけれども、望んでそうしたわけではなくて、私の意見では、そのあいだもつねに人々は自分たちを抑圧する支配者の側に加わることを夢見てきたのだと思います。過去二十年間、彼らはそうした夢を生きてきた。全部ではないけれど少なくともエリートたちはそうでした。いまでも東ヨーロッパについて信じられていることがありますね。いかに状態がひどかったか、といったように。東ヨーロッパや中央ヨーロッパの反体制派は、神聖で侵すことができないヒンドゥーの聖なる牛のようなものです。ヴァーツラフ・ハヴェルとかミラン・クンデラ〔チェコの小説家。1929年生ま。代表作に『冗談』『存在の耐えられない軽さ』『不滅』などがある〕のような知識人や作家についての議論は許されない。批判もできないし、触れてもいけない存在。彼らは一方的に西欧に奉仕していたのです。
 私がこの問題に立ち返りたいのは、これが何年も前に私たちが初めて会って意見を交換し始めたときに最初に議論したことだからです。私たちはそのとき西側諸国の植民地政権のほうが、ソヴィエト連邦の衛星国よりずっと残酷だったと主張していましたね。

N・C(ノーム・チョムスキー)
 東ヨーロッパで私が行ったことがあるのはハンガリーだけで、それも短期間だったけれど、そこで多くの反体制派の人たちと会いました。彼らはみな心底ネオリベラルで自分が西洋で見たすべてに心酔しており、そこから来た思想はすべてロシアのものでないから良いに違いないと考えていた。これはほんの二年ほど前のことです。たしかにいい人たちばかりで、多くのことについて意見も合いましたが、西洋思想に対する無批判の愛情にはショックを受けましたね。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 ブエノス・アイレスの「エスクエラ・メカニカ」とチリのサンティアゴにある巨大な記憶と人権博物館「ムセオ・デ・ラ・メモリア・イ・ロス・デレチョス・フマノス」に行ってきたばかりなのですが、とても素晴らしかった。これらの博物館にはチリやほかのラテンアメリカ諸国にもたらされた恐怖の実態を見せてくれます。フェルナンド・ポテロは現代コロンビアのもっとも重要な彫刻家ですが、彼の衝撃的な作品をいくつか見ました。彼は絵画でもバグダッドのアブグレイブ収容所におけるアメリカ合衆国州兵によるムスリムの人々への拷問を描いていて、なんともすごい!強烈な印象を受けました。偉大なコロンビアの彫刻家と偉大なチリの美術館とが連帯して、アラブの人々に手を差し伸べている。東ヨーロッパではこういうことは想像できません。
 私は子どものときチェコスロヴァキアで惨めな数年を過ごしました。それが惨めだったのはチェコスロヴァキアが共産主義国だったからではなく、私の母が中国人とロシア人の血を引いていてアジア人に見えたことで、私もひどい人種差別を受けたからです。
 皮肉なことですが、1968年の「プラハの春」を鎮圧したソ連軍の侵攻は必ずしも起きるべきことではなかったし、それは「人間の顔をした社会主義」〔チェコスロヴァキアの政治家で、共産党第一書紀として「プラハの春」を主導したアレクサンデル・ドブチェク19211~92による民主化・自由化政策〕の屋台骨を壊したのだけれども、ソ連が大虐殺を犯したわけではない。戦車に轢かれて殺されたのは少数に過ぎない。多くは事故死で、なかには酔っぱらって死んだ人もいた。

N・C(ノーム・チョムスキー)
 もしそれがラテンアメリカで起きていたら誰も気がつきさえしなかっただろうね。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 グレナダ侵攻〔1983年の米軍による侵略と支配〕で殺された人の数のほうが多いですから。プラハ侵攻の目的は限定されていて、レイプも拷問もなく、数ヶ月国境が開かれていたので逃げたい人はその選択ができた。私の父は原子力科学者で、カナダから亡命の誘いを受けましたが国に留まりました。1968年まで父はチェコスロヴァキア共産党員でしたが、役人の鼻先に党員証を投げつけ脱党したのです。それでも何もされなかった。だからそれまでどおり仕事を続けた。たぶん外国には行けなかったし昇進もできなかったのでしょうけれど。でも考えてみてください。もしこれがアメリカ合衆国支援の軍事政権下のエルサルバドルやギリシャ、あるいは1965年以後のインドネシアや73年以降のチリだったとしたら? 家族全員が消されていたことでしょうね、たぶんワシントンからの直接命令によって。
 クンデラ、ハヴェル、コホウト〔ハヴェル・コホウト。1928年プラハ生まれ。小説家、劇作家、代表作に戯曲『貧しき殺人者』など〕といった人たちはそのことを知っていながら、出来事の半分だけを宣伝して知識人のスターになることを選んだ。クンデラが書いたもので、アメリカ合衆国やヨーロッパが世界のほかの国々にもたらした暴力や恐怖についてコメントしたものがありますか? 感傷的なプロパガンダ小説を次から次へと書くことで、彼は真摯な文学者として批評家から持ち上げられたのです。

N・C(ノーム・チョムスキー)
 そういったことは学者たちには知られた事実ですね。ラテンアメリカと比較すれば、スターリン以降の東ヨーロッパにおける圧政は緩やかだったと繰り返し指摘されてきた。実際驚くことに、ソヴィエト連邦が東ヨーロッパを支援したので結局ロシアより豊かになった。ソ連帝国は帝国の中心が植民地より貧しかった歴史上唯一の例だろうね。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 たしかに貧しかった。子どものころから知っています。私がチェコスロヴァキアにいたとき祖母はレニングラード、つまりサンクトペテルブルクに住んでいました。わたしもレニングラード生まれなのですが、両親がチェコスロヴァキアに連れてきたのです。母親はほぼ毎年夏になると私をロシアの祖母のところに三か月ほどやりました。私はロシアが大好きで、毎年ロシアに行ける日を心待ちにしていたものです。でも子どもながらに、チェコスロヴァキアとソヴィエト連邦の違いを経験もした。レニングラードはソ連でもっとも豊かな都市の一つでしたが、それでもロシア支配下のチェコスロヴァキアのほうがソヴィエト連邦よりもずっと豊かなのははっきりしていた。ソ連はこうした差を是正しようとはしなかった。アメリカのようにすべてを吸い上げようとはしなかったんですね。しようと思えばできたと思うけれど、しなかった。もちろんそうしなかったことでソ連が褒めらたことはない。西側諸国からも東ヨーロッパの知識人からもね。

 
N・C(ノーム・チョムスキー)
 ソ連帝国の一部であることで嫌なこともあったかもしれませんが、事実は明白で、そのことを研究者も明らかにしてきたのだけれども、そこから何らかの結論を引き出そうとする人はいない。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 私が思うに、東ヨーロッパが世界のためにおこなった多くの善行はまったく忘れられているのではないか。すでに述べたように東ヨーロッパの人たちは世界中で解放闘争を支援したし、アメリカ侵略戦争中のヴェトナムも支援していた。アフリカでも中東でも無数の人たちを応援してきた。ロシアには地球上でもっとも貧しい国のために、その国の本を印刷する大きな出版社もありました。
 私のインド人の友人たちは、メロディア国営レコード会社が作った補助金付きのクラシック音楽のCDを聞いて育ったといっていましたよ。東側の国々が世界のためにしてきたことは枚挙に暇がない。父方の叔父は、中東でもアフリカ、東南アジアでも砂糖工場から鉄鋼精錬所まで建てたんですから。強制労働ではなく一生懸命働いて金銭を得ていた。それでも国境を越えた支援活動ではないですか。彼らがおこなったことは偉大だけれども、結局のところそういった営みも「悪の帝国」の一部だという事実だけが人々の記憶に残っている。西側諸国のプロパガンダがあらゆる善行を無にしてしまったのです。
 東ヨーロッパの反体制派の多くはエリート出身です。たとえばヴァーツラフ・ハヴェルの家は、1948年に共産党が選挙で勝つまでチェコスロヴァキアでもっとも裕福な家庭だった。不動産から、いつまでも東ヨーロッパ最大の映画製作場であるバランドフ撮影所までを所有していたのです。ヨゼフ・ショクボレッキーという、いまはトロントで教えている反体制派の作家がこのことについて率直に述べています。その『臆病者たち』という小説のなかで、彼は赤軍によるチェコスロヴァキアの解放について書いていて、ロシア人は馬に乗っていたので臭いがひどく、自分たちとしては当然のことながらアメリカ人やイギリス人に解放された方が良かった。自分は中産階級の上のほうの出身でジャズが大好きだから、と。

N・C(ノーム・チョムスキー)
 2012年のサッカー・ヨーロッパ選手権のとき、ポーランドとウクライナで黒人選手に対して人種差別騒動が起きたけど、どう思った?

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 驚きませんでしたね。東ヨーロッパにはつねに人種主義が巣食っていると思うから。同時に反体制派や西側諸国が望んでいたシステムをいったん手に入れてしまうと、多くの醜いことが表面化してきたとも考えます。これはソ連で起きたこととも少し似ている。共産主義者がしたのは、それまでまったく孤立して遅れていた国をとつぜん国際主義的なものにしようとしたこと。これがうまくいった面もある。とくに知識人階級には好都合だった。でも人々のほとんどは閉鎖的で、ときに人種主義のなかに留まっていたままだったんですね。
 それにソヴィエト連邦はアフリカからも東南アジアや中東からも多くの人を受け入れて、大学や高等教育機関を作ったわけで、それは素晴らしいことだと思う。でもソ連の普通の人はそんなことには関心がない。普通のロシア人は何がおこっているのか理解しておらず、結局のところとても閉鎖的だった。ちょうど現在のインドがそうですね。もしインドが共産主義国家になってアフリカや中東のようなところから来た人たちのために学校を開いたなら、普通のインド人はそんなことを認めないでしょう。以前は議会主義を信奉して自称マルクス主義者だったケニアの友人がいてインドで勉強していたのですが、彼は肌の色が黒かった。彼の話では大学のなかでは居心地が良くても、いったんニューデリーの町に出ると子どもたちが寄ってきて「おじさん、あんたの尻尾はどこ? 木の上に住んでるの?」とよく聞いてきたそうです。ことほど左様に教育も十分でなければ、多文化に対する許容度も低い。ソヴィエト連邦は帝国主義と人種主義と差別に対する闘いの前線にいたのですが、人々の多くはその準備ができておらず、それに抗って人種主義者のままだった。こういうことはソ連だけではなく東ヨーロッパ全般に言えたことでしたから、いったん平等を標榜していたシステムが崩れてしまうと、すべての醜い側面がふたたび表に出てきてしまった。

N・C(ノーム・チョムスキー)
 東欧における極右政党の台頭についてはどう考える?

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 私が思うに、東ヨーロッパの極右はデンマークやオランダ、ギリシャといった国々と同じような状況になるのでは? ヨーロッパを全般として見れば歴史的にはファシズム国家だったと思いますね。何世紀も地球全体を搾取し続けてきたことが何よりの証拠でしょう。それに加えて、すでにヨーロッパ大陸は経済的にも破産していて、衰退しつつあるのではないでしょうか。
 過去においてヨーロッパはすでに見てきたように、比類のない残虐さで人を大量に殺してきたわけ
ですし、世界中を植民地にしていたときには大虐殺をおこない、いまでもアメリカ合衆国という、いつでも引き金を引く用意のある親分とともに世界を支配しようとしている。ですから極右の台頭も当然だと思う。ファシスト政党はヨーロッパには生来のものだし、表面に出てきてもらったほうが、闘いやすい。第二次世界大戦後にヨーロッパが世界の何千万という人を犠牲にして作り上げた、自己中心的な社会福祉システムの化けの皮がはがれてきたのです。

N・C(ノーム・チョムスキー)
 東ヨーロッパに社会主義が生き残る展望はあるでしょうか?

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 ロシア、ウクライナ、それにある程度はブルガリアでも共産主義や社会主義に対するノスタルジアがかなりあると思います。これはたんに政治や経済体制のことではなくて、かつてのソヴィエト連邦にいた多くの人がいま空虚感に襲われ、人生が意味を失ってしまったと感じているのではないでしょうか? ソヴィエト連邦が目指したものは高貴な理想でしたし、そこには世界の貧しい地域の解放とか、反植民地主義、反帝国主義、社会正義といったきわめて重要なものが含まれていた。
 興味深いことに、いまや老いも若きも昔のソ連時代の音楽を繰り返し聞いているし、ロシアの現代文学は国が崩壊して表に出てきた空虚を反映しています。しかしながらロシア共産党は硬化して原点を見失っている。ロシアが社会主義やロシア式の共産主義への道を見いだすにはまだまだ時間がかかると思います。社会はとても混乱していて中国のような自信にあふれておらず敗北と分断と不安に満ちている。それでも私は、ロシアの魂には深いところで社会主義があると考えています。今後十年か二十年後にはロシアが自らを社会主義国家として再定義しても私は驚きません。

 しかし東ヨーロッパや中央ヨーロッパの国々のほとんどはけっして社会主義には戻らないでしょう。いまやこれらの国々は確固とした体制の一部で西側の構造に組み込まれているから。そして西側諸国の人たち同様、彼らがシステムを変えることは二度と許されないでしょう。一方通行のようなものです。世界革命が起きないかぎりは。
 
 私がピルゼンに住んでいたころ、ハヴェルやクンデラやコホウト、あるいは根っからの反体制派の人たちを除けば、チェコスロヴァキアの人々が夢見ていたのは1968年か、またはその直前の時期に手にしていたものでした。つまり彼らは「人間の顔をした社会主義」を夢見ていた。これは少なくともチェコスロヴァキアではとても優れた概念だったとも言えるでしょう。チェコではそれが機能していたから。でもですよ、誰もが認めようとはしないけれど、ソ連侵攻前の1968年のチェコスロヴァキアよりも今日の中国のほうがずっと解放されています。パスポートを手に入れるのも簡単だし国境を越えるのも易しい。1968年のプラハよりも、いまの北京の本屋でのほうがさまざまな政治的主張にお目にかかれる。
 それでも今日チェコの人たちと話してみると、多くは不満ばかりですね。でもいつだって不満ばかり言っていたのだから、あまり深刻に受け取る必要はないと思います。チェコ人の大半の考えでは、チェコスロヴァキアの共産主義システムも共産主義後のシステムも良くないのだけれども、でもそれを変えるために何かをするわけではない。「人間の顔をした社会主義」というドプチェクの考えを再導入しようと言われているわけでもない。それでもチェコ共産党はこの国で三番目に力のある政党なのですよ。
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ウクライナ戦争は、暴力団の抗争と変わらない

2022年05月12日 | 国際・政治

         知らないのか、知らないふりか、それとも意図的に隠蔽しようということか。

 最近、新聞を読むと悲しくなります。先日の朝日新聞「社説」には
演説でプーチン氏は、侵攻の正当化に終始した。ウクライナによる核開発といった根拠のない脅威論を並べ、「先制攻撃するしかなかった」と述べた。 
 念頭にある主敵は、米国であることも言明した。米国に抗して「独自の価値観」を守るという主張には、欧米流の民主主義を拒み、自らの強権統治を貫く決意があるのだろう。
 「世界大戦の惨禍を繰り返させない」。プーチン氏のそんな誓いは空虚に響く。この記念日に向けて、核戦力による脅しを強めたことは国際安全保障への挑戦というべきだ。
 などとありました。NATO東方拡大も、度重なる軍事訓練も、ウクライナへの武器の配備も、バイデン親子のウクライナ政権や企業との関わりも、すべて無視して、ロシアだけを悪と決めつける、こうした考え方では、停戦はとても無理だと思います。
 私から見れば、ウクライナ戦争は 暴力を利用して存在を維持する暴力団の抗争のようなもので、被害者は巻き添えになっているウクライナの人々ではないかと思います。ロシアのウクライナ侵攻に至る経緯を踏まえると、ウクライナ戦争は、専制主義と民主主義の戦いでも、独裁主義と自由主義の戦いでもないと思うのです。だから、ウクライナに侵攻したとは言え、アメリカにつぐ暴力団組織のロシアを非難するだけではいけないと思います。話し合いをすることなく挑発を続けてきた最大暴力団組織のアメリカの問題行動も明らかにし、国際世論の力で、停戦への道筋をつけることができなければ、人類の未来は暗いと思います。メディアは、なぜ停戦交渉が行き詰まっているのかを明らかにし、国際世論を喚起して、停戦への道筋をつける努力が必要だと思います。法ではなく、武力(暴力)によって問題を解決しようとする暴力団的なニ大国の利己主義に基づく戦争は、何としても止めなければならないと思います。

 だから言いたいのですが、第二次世界大戦後も、国連憲章に反する戦争をくり返してきたのはアメリカではないかと思います。私が思い出すのは、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争などですが、ノーム・チョムスキーとアンドレ・ヴルチェクの下記の対話を読むと、アメリカは、その他にも多くの国で、武力的に政権を転覆したり、反政府勢力支援のために軍事侵攻してきたことがわかります。

 先日フィリピンで、かつての独裁者、故マルコス元大統領の長男、フェルディナンド・マルコス氏が、大統領選で圧勝しつつあると報じられました。これからどんな政治がなされるのかはわかりませんが、父親の反共思想を受け継ぎ、西側諸国の支援を受けて支持を広げてきたのではないか、と想像してしまいます。
 なぜなら、独裁者・故マルコス大統領は、歴代のアメリカ大統領とはいずれも親密だったと言われているからです。ベトナム戦争では、アメリカとともに、独裁者・ゴ・ディン・ジェムの政権を支援するため、南ベトナムにフィリピン軍を派兵して参戦しました。国内でも、民主的な運動を武力で弾圧したことが知られています。


 だから、フィリピンという国の歴史や出来事は、ノーム・チョムスキーとアンドレ・ヴルチェクの対話にでてくるラテンアメリカその他の国々と同じような気がします。
 アメリカは、その政権が独裁政権であろうと何であろうと、中国やソ連(ロシア)と距離を置き、アメリカの方針に従う限り、その政権を支え、後押ししてきたのです。でも、アメリカの方針に逆らったり、国民の支持を失って存続が危うくなると、簡単に見放し、切り捨ててきたのだと思います。だから、もともとアメリカには、専制主義と民主主義の戦いとか、独裁主義と自由主義の戦いなどを語る資格がないとも言えるように思います。


 アメリカが支援した独裁者には、ヴェトナムのゴ・ディン・ジェム、ルーマニアのチャウシェスク、パナマのマヌエル・ノリエガ、インドネシアのスハルトなどがあり、マルコスも同じ道を歩んだのだと思います。そして、ゼレンスキーも、同じ道を進みつつあるように思います。そうした事実の詳細は、明らかにされることはないのでしょうが……。


 下記は、「チョムスキーが語る戦争のからくり ヒロシマからドローン兵器の時代まで」(ノーム・チョムスキー、アンドレ・ヴルチェク:本橋哲也訳)から、「第六章 ラテンアメリカ」の一部を抜萃しました。ウクライナ戦争の本質に関わる、重要な対話であると思います。
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                   第六章 ラテンアメリカ

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 ラテンアメリカに目を向けたいと思います。そこでは進歩的な政府が次々と勝利を収めていて、これにはとても興奮させられます。西側諸国寄りのファシスト政権が次々に倒れましたね。先鞭をつけたのはベネズエラですが、エクアドルやボリビアといった、南アメリカでもっとも貧しく先住民人口の多い国々でも同じようなことが起きている。大陸全体が立ち上がりつつあるかのよう。程度の差はありますが、ウルグアイ、アルゼンチン、ブラジルでも多国籍企業や銀行よりも自国民のことを考えるようになってきた。これは二十年前とはまったく反対の現象です。それとラテンアメリカ全体で連帯意識が盛り上がっている。
 もちろんこうした進歩には見過ごせない退潮がつきまといます。ホンジュラスとパラグアイでは、左翼政権が西側諸国に支援されたクーデターによって倒されました。もちろんモンロー・ドクトリン〔1823年、アメリカ大統領ジェイムズ・モンローが発表した欧米両大陸の相互不干渉を主張する主義で、その後のアメリカ合衆国の外交政策の原則となり、とくにラテンアメリカ諸国に対する干渉を正当化する根拠とされた〕の恐るべき遺産いまだに大陸全体に影を落としています。
 
 少し前にエルサルバドルを訪れました。いまエルサルバドルは進歩的政府が治めていますが、アメリカ合衆国が過去の責任を一切取ろうとせず、まったく賠償を支払わないので自由の利かない状況にある。
 内戦中にアメリカ合衆国が支援した殺し屋集団が左翼ゲリラと闘っていたことの遺物として、いまだにひどい暴力が蔓延しています。今日でもエルサルバドルにおける暴虐は筆舌に尽くしがたいほどひどい。私も狙撃されました。映像を撮っているときに車を撃たれて。そのあと、戦争中に30人が虐殺され、一族が皆殺しにされた村のただ一人の生存者をインタビューしに行ったのですが、話をしているとそろそろ日が暮れるので帰ったほうがいいと言う。マラスというギャングがこの地域にやってくるから、と。私が生きてそこを出られたのは運がよかった。この虐殺を生き延びた男性が最後に言っていたのは、これはアメリカ合衆国が内戦中に始めた暴力に侵された文化の継続だということでした。

 つまり多くのラテンアメリカの国々では進歩的な勢力が伸張し、場合によっては進歩的な政府が誕生しているけれども、これらの国々は何十年にもわたる恐るべき暴力の遺産に対処しなくてはならない。ほとんど誰も報告しませんが、同じ状況をパナマのコロン市でも見ました。私はコロンを問題のある都会ぐらいに思っていました。二、三の記事を除いてはほとんど何も情報が得られなかったからで、その一つはここが西半球でももっとも危険な町だと書いていた。実際に行ってみると、なるほどそこは町の残骸でした。
 破壊の跡がそこいらじゅうにあって、十歳の娼婦たちが道端にたむろし、アメリカ合衆国の軍艦が旅客船の港に停泊している。実際には、軍艦はそこにいるべきではありません。なぜかというとパナマとアメリカ合衆国との協定で、軍隊はずっと以前にパナマを去らなくてはならないことになっていたからです。フィリピンと同じで、いなくなるはずなのにいまだに「テロに対する戦争」という隠れ蓑で居座っている。フィリピンもパナマも同じです。
 コロン市は有名なパナマ運がからほんの数マイルのところにあって、パナマで二番目に大きな都市ですが、この国は記録の上ではかなり開発のレヴェルが高いのだけれども〔国連の人間界発指数は五十八です〕、この目で見ることができるのはすべて破壊と都会の残骸ばかり。町の骨格だけが残っているのです。

N・C(ノーム・チョムスキー)
 アメリカ合衆国によるパナマ侵攻については事実の検証がじつに困難ですね。私の見るところではイラクのクウェート侵攻よりひどい。より多くの人が殺されているし、ヒューマン・ライツ・ウォッチによると、クウェートでイラク軍が殺したのは数百人だけれども、パナマでは二千人くらいにのぼるのではないかとCDDEHUCA〔1978年に設立された中央アメリカの人権防衛のための委員会で、コスタリカの首都サンホセに本部がある〕という人権グループが推定している。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 三千五百が妥当な数字ということになりつつありますよ。なんとも興味深いのは、彼らが証拠全体を見事に消去したやり方です。コロンは地球上でももっとも破壊された町ですが、それには多くの理由がある。ギャングだらけだし、貧困の蔓延も政治の不在もある。しかし爆撃やアメリカ合衆国の侵略のあらゆる証拠が隠滅されてしまった。侵攻のときアパートも爆撃されました。市のなかでいちばん高いビルでしたが。写真に撮ったので間違えようがありません。軍施設でないことがわかっていたのに爆撃した。
 パナマ侵攻は明らかにとても残虐なものでしたが、それを証明するのはきわめて難しい。パナマでも、エルサルバドル、ニカラグア、ホンジュラス、みなそうです。隠蔽がつねにおこなわれるので、それぞれの国にどんな影響があったかを調べるのに何年もかけなくてはならない。ジャーナリズムや学者でそれをできる人はおおくありません。
パナマの場合、国民の恨みはパナマ運河の建設時にさかのぼりますね。私が滞在していたコロン市の近くの場所はレインボーシティと呼ばれていたのですが、そこでは人種的隔離が当たり前だったといわれます。パナマ人の友人から聞いた話によると、本人はそういう経験をしたことはないけれども、祖父母や親たちはアメリカ合衆国の建設業者がコロン市にやってきたとき酷い目にあったそうです。アメリカ人が持ち込んだ人種の分断と差別はパナマ人にはとてもショックだった。つまり、平等と自由を、解放と人権の理想を掲げていた国が、中央アメリカにやってきて運河を作りながら、その土地の人々を差別し、人種によって異なる店やスーパーを建てたのですから。

N・C(ノーム・チョムスキー)
 同じようなことが世界中で起きていますね。NGOの貢献に疑いを抱きたくなるのもそうしたことと関係がある。もちろんすべてのNGOがそうではありませんが、問題の多いものが多すぎる。ハイチでも東チモールほか、いろんなところでも。彼ら彼女らの暮しぶりは地元の人たちとまったく違います。しゃれたレストランで食事して、いい車を乗りまわす。人々が飢えているのに。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 この「我々と彼ら」という態度こそ、ヨーロッパやアメリカ合衆国の侵略者たちが他国に介入したり併合したりするときに、地元民をどれほどひどく扱うかの基本にあるものだと思います。
N・C(ノーム・チョムスキー)
 あまりに多くのことが人々の目から隠されている。パナマのマヌエル・ノリエガに対して挙げられた罪状のほとんどは彼がCIAの飼い犬だったころのものだ。ノリエガはニカラグアのコントラに対する米国の支援に協力しなかったので見捨てられ、アメリカ合衆国の敵となったのです。罪状は1980年代初期のもので、そのころアメリカ合衆国は84年のノリエガの選挙での勝利を称賛していた。この自由選挙でノリエガが予想に反して勝利したのだけれども、それは殺人や虚偽、それにワシントンからの資金が流れてノリエガが勝利するように仕組まれたのです。国務長官ジョージ・シュルツが飛行機で乗込んで、ノリエガを「民主主義のプロセスを創始した」と褒め上げた──「民主主義を促進する」というレーガン政権お得意の概念からすれば、別に珍しいコメントではないけれど。こうしたことも主流のメディアではほとんど問題視されなかった。サダム・フセイン のときとほぼ同じですね。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 いまのアメリカ合衆国ではこの二つの介入、パナマとエルサルバドルの社会にこれだけ壊滅的な傷を残した侵略についてどれだけのことが知られているのでしょう。

N・C(ノーム・チョムスキー)
 ほぼ皆無でしょうね。…

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「アラブの春」のチョムスキーの考察とウクライナ戦争

2022年05月09日 | 国際・政治

       知らないのか、知らないふりか、それとも意図的に隠蔽しようということか。 

 
 先だって、ウクライナのゼレンスキー大統領が、演説で、”ロシアの侵略はウクライナだけにとどまらず、欧州全域が標的だと指摘、西側諸国にロシア産エネルギーの完全輸入禁止とウクライナへの武器供与拡大を求めた”と述べたという報道記事を取り上げました。その内容が、ロシアを屈服させ、弱体化させようとするバイデン政権の方針をそのものだと思ったからでした。
 また、ウクライナのポドリャク大統領府顧問が”東部でロシアが敗北するまでロシアとの首脳会談は行われない”と述べたという記事も、取り上げました。ミンスク合意をもとに、話し合いで解決しようとしてはいないと思ったからでした。
 それは、ウクライナを支えるアメリカが、自らの利益のためには戦争することを厭わない国であることを示しているのだと思います。そして、それを正当化する考え方の背景に、やはり反共思想があるのではないか、と私は想像します。バイデン大統領が、”彼らには自身のお金に指一本触れさせやしない。ビジネスもこの国では一切やらせない”などと、声を張り上げてアピールしたと言われていることに、そうした考え方を感じるのです。
 
 だから私は、ベトナム戦争を思い出しました。なぜなら、ベトナム戦争当時のアメリカは、軍事介入を正当化するために「ドミノ理論」を主張していたからです。その内容の一部は、先だって取り上げました。
 当時の国防長官、ロバート・マクナマラは、ベトナムとの非公開討議(1997年6月、ハノイ対話)で、”我々自由主義社会が、統一的な意志のもとに組織された共産主義勢力によって、世界中で脅威にさらされていると感じていたのです。つまり簡単に言えば、我々の当時の情勢判断を支配していたものは、いわゆる「ドミノ倒し」の恐怖だったのです。ケネディ、ジョンソン両政権を通じて我々は、南ベトナムを北ベトナムに譲り渡すのは、東南アジア全体を共産主義者に与えることになると考えていました。そして東南アジア全体を失うことは、アメリカ合衆国やその他の自由主義社会の安全保障体制を大きく揺るがすと判断していたのです。”ということを語っているのです。<「我々はなぜ戦争をしたのか 米国・ベトナム 敵との対話」東大作(岩波書店)
 現在もなお、アメリカにはこうした反共思想があり、ロシアのヨーロッパ諸国に対する影響力の拡大が、アメリカの利益を損なうのみならず、自由主義社会に取り返しのつかないダメージを与えると考えてのではないかと思います。さまざまな中国に対する政策にも、そうした考え方があるように思います。
 前稿で取り上げた、チョムスキーは、ベトナム戦争の「マクナマラ回想録」について、”タカ派の人々は、マクナマラを裏切り者と批判した。 ハト派の知識人たちは、喝采した。なぜならマクナマラが最終的に、ハト派の正統性を認めた、といっているからです。しかし、ハト派が自らの正しさを認めてもらえた、と感じたその本に、マクナマラはいったい何を書いていたのか。彼はアメリカの人民に対して謝罪しました。だが、ヴェトナム人民にたいしては? 何もなしです。彼はアメリカ国民に謝罪した。それはあれが多大な犠牲を払う戦争になることを、然るべき段階で発表せず、そのために国民に苦痛をもたらしたからです。……しかしおもしろいことに、ハト派の知識人たちはこれで自分たちの正統性が証明されたと感じた。ハト派の知識人たちというのがどういう者たちだったかこれでよくわかるでしょう。彼らは決して戦争そのものに反対していたわけではなかった。戦争の進め方に、コストの面で異論を唱えていただけなのです。まさに衝撃的ですよ。民衆は(知識人と考えが)違っていたのです。”と日本の作家、辺見庸氏のロング・インタビューで語っています。
 確かに、賠償はもちろん、戦争犯罪に対する謝罪もしてはいないのです。マクナマラはベトナム側との対話のなかで、”……誤まった判断だったかも知れません。しかし私は、ここにいる皆さんに、なぜ我々が誤った判断をするに到ったのか、その原因を理解してもらうことから、この対話を始めたいと思っているわけです。……”などと、一方的な軍事介入の責任を、ベトナム側に押し付けるようなことを言っているのです。ベトナム戦争敗北後も、アメリカは、根本的には変わっていないということだと思います。

 関連して、チョムスキーの「アラブの春」についての考え方は、アメリカの対外政策の本質を知るために欠かせないと思います。チョムスキーは、アラブの春が起きる直前の2010年末に西側の調査機関がおこなったアラブ世界、とくにエジプトでの大規模な世論調査をもとに、
”……たとえばいちばん重要な国であるエジプトでは、八割かそれ以上の人々がアメリカ合衆国とイスラエルを最大の脅威と見なしている。イランが脅威と答えたのは一割だけ。事実、アメリカ合衆国の政策に対する敵意はとても強いので、この地域の過半数の人たちが、イランが核兵器を持ってアメリカとその属国イスラエルの力を削いでくれたほうがいいと考えている。アラブ世界全体でもだいたい似たような結果です。民主主義が機能すれば、こうした一般大衆の意見が国の政策に影響を及ぼすようになる。だから、ロンドンやパリ、ワシントンが、できればこうしたことが起こらないようにしようとするのは当然です。彼らはアラブの春の民主主義的な要素をなんとしても掘り崩さなくてはならないし、事実それが現在おこなわれていることだ。
というような、一般的な認識とはかけ離れたことを言っています。
 そして、現実にアメリカや西側諸国が深く関わった国々は、決してその後も「」を迎えてはいないと思います。
 だから、ウクライナにおける戦争に関しても、私は、かなり捏造に近いものや自作自演的な報道が、アメリカやウクライナによって世界中に広められているのではないかと疑わざるを得ないのです。「大本営発表」のように…。 

 
 下記は、「チョムスキーが語る戦争のからくり ヒロシマからドローン兵器の時代まで」(ノーム・チョムスキー、アンドレ・ヴルチェク:本橋哲也訳)から抜萃しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                第七章 中東とアラブの春
 ・・・
A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 アラブの春はじつに複雑で論争の多い問題ですが、エジプトやチュニジアでの動きをどうご覧になりますか?

N・C(ノーム・チョムスキー)
 まず第一に言えるのは、これらの出来事が歴史的に大変意味のあることだということでしょう。問題も多くありましたが、すでに成し遂げられたことはそれだけでも大きな意味のあることだった。当然イスラーム主義者たちがほぼ議会制度を掌握しましたが、それは彼らが何十年も組織を固めてきたからです。彼らを支援しているのはサウジアラビアからの資金ですが、サウジにはほかのどこにもないような反動的なイスラーム主義者が顕在化している。アメリカ合衆国、イギリス、フランスはイスラーム主義のムスリム同胞団を容認するつもりだろう。それは彼らが基本的には新自由主義者だから。
 チュニジアではそれよりも穏健なイスラーム主義の党であるアンナハダが政権を掌握しましたが、エジプトでは事態はまだ流動的です。しかし注意すべきことは、エジプトとチュニジアといういちばん事態が進展している二国には以前から強力な労働運動が存在していて、労働者の権利のために長年闘ってきたことでしょう。エジプトのタハリール広場でのデモを主導したのは「四月六日運動」と呼ばれた若い専門職の人たちの運動だった。なぜ四月六日かというと、2008年の4月6日にマハッラの工業団地で大きな労働争議があって、ほかの場所にも広がったのですが、それを独裁政権が潰した。専門職につく若い人たちが集まってこの名の下にその闘争を引き継ぎ、それが2011年1月の蜂起、エジプトのアラブの春となったわけです。
 エジプトのアラブの春が達成したことの一つには、労働運動を組織することに対する制約を減らした、というか撤廃したことがある。初めて独立した労働組合を組織することができたわけで、これは以前にはまったく不可能だったし、より独立した社会への動きと言えると思う。労働者が工場を占拠することは前にもあって、それはそれで建設的でしたが、議会政治のなかで勢力を獲得していくのはこれからでしょう。
 エジプトとチュニジアでの達成としては、ほかにも表現の自由への制約が大幅に緩められたことがある。いまでは新聞もメディアもかなり自由でオープンになったし、議論も自由におこなわれるようになった。こうしたすべては重要な展開です。軍隊はまだあって、チュニジアよりもエジプトのほうが強力ですが、これまでの運動は進められていくと思いますね。まだまだ初期の段階ですが。
 アメリカ合衆国と西側諸国にとっては、この地域で民主主義が機能してしまうことは許しがたい。なぜかを知るのは難しいことではなくて、アラブの春が起きる前におこなわれた世論調査を見ればいい。アラブの春が起きる直前の2010年末に西側の調査機関がおこなったアラブ世界、とくにエジプトでの大規模な世論調査があって、そのあとの調査でもだいたい似たような結果が出ています。たとえばいちばん重要な国であるエジプトでは、八割かそれ以上の人々がアメリカ合衆国とイスラエルを最大の脅威と見なしている。イランが脅威と答えたのは一割だけ。事実、アメリカ合衆国の政策に対する敵意はとても強いので、この地域の過半数の人たちが、イランが核兵器を持ってアメリカとその属国イスラエルの力を削いでくれたほうがいいと考えている。アラブ世界全体でもだいたい似たような結果です。
 民主主義が機能すれば、こうした一般大衆の意見が国の政策に影響を及ぼすようになる。だから、ロンドンやパリ、ワシントンが、できればこうしたことが起こらないようにしようとするのは当然です。彼らはアラブの春の民主主義的な要素をなんとしても掘り崩さなくてはならないし、事実それが現在おこなわれていることだ。これは過去の行状から一貫していて、しかもこの地域にかぎらない。西側諸国が大事にする国々は石油のある独裁政権であり、そこではほとんど何も変わっていない。人々の蜂起は素早く鎮圧されてしまったから。バーレーンとサウジアラビアでは軍隊が動員されて、王族が抗議運動を暴力的に弾圧し、病院に押し入ったり拷問をおこなったりした。西側諸国からはおざなりな批判があっただけ。とくにサウジアラビア東部のシーア派は残酷に押さえつけられている。ここには多くの原油があるから放っておけない。
 エジプトとチュニジアではアメリカ合衆国とその同盟国が伝統的な作戦に従って、これまで何度もおこなわれてきたように軍隊が叛乱して西洋お気に入りの独裁者が見捨てられた。ソモサ、マルコス、デュヴァリエ、スハルト、モブツといった支配者たちですね。彼らを最後まで支援しながらそれができなくなるとどこかに追放して、古い秩序を維持しようとする。もちろん民主主義をいかに愛しているかとか言いながら。いつものことだ。それを見ないようにするには相当な才能がいる。
 実際、東ヨーロッパでも興味深いことがあったね。共産主義の独裁者としては最悪だったけれど西側諸国には可愛がられていたルーマニアのチャウシェスクは、レーガンにもサッチャーにも気に入られていた。最後の瞬間まで支援されていたのが、それが不可能となると(事実、政府は顛覆されて殺された)いつもの計画がふたたび導入された。まったく同じことがエジプトでもチュニジアでもおこなわれたのですが、そうした実態は見えなくされてしまっている。これも内国植民地化の一例ですね。何度起きても見えなくされている。目に見えるのは西側諸国がいかに民主主義を愛しているかということだけ。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 私がアラブの春について欠如していると感じるのは、アラブ諸国の連帯です。反乱がかなり分断されているように見える。民衆の進歩的な蜂起も断片的ではありませんか。

N・C(ノーム・チョムスキー)
 アラブの春はまだ初期の段階だと思う。ラテンアメリカがヨーロッパによる征服以来、初めて本物の統合と独立に向ったのはここ十年のことでしょう。国内の膨大な社会問題に対してもやっと対処を始めたばかり。これは歴史的に見てきわめて重要な動きであって、もしアラブの春が同じ方向に進むなら、世界の秩序は劇的に変わるだろう。だから西側諸国はなんとしても止めたがっている。
 私の予想ではアラブ諸国の政府はほどなく信用を失い、民衆蜂起の原因であるネオリベラリズムとその影響という根本の問題に対処できなくなるのではないか。そうした政策を容認することしかできないから。そうなると害悪が続くだけで、限定付きとはいえ現実に成功を収めてきたここ数年の経験が生きて、新たな蜂起が起きるのではないかな?

A・V(アンドレ・ヴルチェク) 
 西側諸国が国連にシリアに対する制裁措置を通そうとしてロシアと中国が反対しましたね。これはロシアと中国という二大国が西側の命令に従わず、西側諸国の帝国主義に反対するために協力するという明らかな兆候でしょう。とても重要な展開だと思いますが、主流メディアでは相当な反感をもって受け取られていますね。

N・C(ノーム・チョムスキー)
 ロシアと中国だけではなく、BRICS諸国──ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ──は、すべてシリアへの武力攻撃に反対したのですが、ロシアと中国だけを非難しておけばより好都合です。公式敵国としてプロパガンダのイメージにふさわしいから。私の想像では、もし内部資料があるならはっきりしますが、アメリカ国務省とオバマ政権はロシアと中国が国連決議を拒否してくれてありがたかったと思いますよ。おかげで何もしなくてよくなったし、「なんてこった。介入して助けたかったのだけど、何もできないじゃないか」と言えるわけですから。
 つまりアメリカが介入したければ、安全保障理事会の決議があろうがなかろうが関係ない。事実、何度もそれは無視されてきたわけだし、たんに便利な口実を与えるだけ。シリア情勢に直接巻き込まれたくないのは明らかだとしても、誰を支援したらいいのか、いったいどういう結果になるのかがアメリカにもわかっていない。アサドの過去をどう考えるにしろ、彼がアメリカ合衆国とイスラエルの利害に沿って行動してきたのは明らかで、地域の安定を保持してきた。実業界にとっては、アサド以降の政権が自分たちの利益に沿ってくれるかどうかがきわめて疑わしい。だから放っておいてロシアと中国を非難しておき、BRICS諸国の役割については沈黙を守って、実際に何か事を起こそうとすれば何の遠慮もしないとは言わないでおこうということなのです。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 ボリビアのようにラテンアメリカ諸国でも国連決議に反対した国がありますね。しかしラテンアメリカの革命政権は世界中で人気があるから敵に回さないほうがいいし、おっしゃられたことに賛成です。つまり西側諸国は中国とロシアという二国に責任を押し付けておいたほうがずっと簡単で、それに努めていればいいというわけでしょう。

N・C(ノーム・チョムスキー)
 ほとんどの問題について同様のことが言えますね。たとえばリビアもそう。リビアの空爆についてはイギリス、フランス、アメリカが合衆国という伝統的帝国主義国のほかに、それを支援する国はほとんどなかった。アフリカ連合は交渉と外交を呼びかけたし、BRICS諸国もそうだった。非政府機関である「国際危機グループ」も同様の態度をとったし、ラテンアメリカも非同盟諸国も、トルコやドイツさえも同様だった。空爆に対する支持はほとんどなかったんですね。例によって「国際社会」
とか言われたわけですが、その内実は無きに等しい。ほとんど支持がなかったのには理由があります。2011年3月に採択された国連決議が「飛行禁止区域」を求めていて、それによって一般市民の保護と停戦、交渉を可能にしようとした。でも帝国主義勢力にとってそんなものはお呼びじゃない。戦争に介入して自分たちの望む政府を押し付けたいから。でも世界の大勢がそれに反対するのは、そんなことになれば戦争が拡大して多くの人に災禍がもたらされることを恐れるからです。結局そうなってしまったけれどもね。だからいまは誰もこのことについて語ろうとはしない。リビアはきわめて深刻な状況にある。リビア空爆の最後にはスルト近郊に対してでしたが、ここはリビアでも最大の部族民居住地です。彼らがいったいどうなったか? 結果は恐るべきもので、グロズヌイ(ロシア南西部、北カフカス、チェチェン共和国の首都)を思わせる被害だという報告もある。
 実際のところ、イランも同じです。アメリカ合衆国とヨーロッパは、世界平和に対する最大の脅威はイランだと言う。非同盟諸国はイランにはウラニウムを精製する権利があると長年にわたって主張してきたし、BRICS諸国も西側には従っていない。インドもそうでイランとの貿易を拡大しているし、トルコも同様です。
 いちばん興味深いのはアラブ世界の対応ですね。米国内の報道によれば、アラブはアメリカのイラン政策を支持しているという。独裁政権に関する報道には注意が必要です。独裁者が政策を支持していても国民はそうではないことが多いから。世論調査によれば一貫してアラブ諸国の民衆はイランが好きではないけれども、とくに脅威とはみなしていない。脅威はアメリカ合衆国とイスラエルだと。それで前にも言ったように、アラブの春の直前にはエジプト国民の大半がイランを好きではないし、できれば核兵器も持ってほしくないが、持ったほうがましかもしれないとまで言っている。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 核兵器開発──それがイランが生き延びるための唯一の方策かもしれない。

N・C(ノーム・チョムスキー)
 エジプトにとってタハリール広場での蜂起以前は、核兵器がアメリカ合衆国とイスラエルという主要敵国に対する唯一の防禦だった。ここでもイラン攻撃への支持がないことになる。すでに西側諸国とイランは戦争状態です。サイバー攻撃も戦争だし、経済制裁は封鎖と同じだからこれも戦争行為になる。それをおこなっているのはアメリカとヨーロッパで、世界全体ではない。問題なのはこのことに対処するのに明らかな方策があるのに誰も真面目に取り上げようとしないこと。それはこの地域を非核地帯とする段階を踏むことであり、世界には非核化に対する圧倒的な支持があって、エジプトが長年それを主導している。アメリカ合衆国は良い考えだと表明はしているけれど、いまはイスラエル情勢から駄目だと言う。しかしこの地域における核兵器の問題について真面目に取り組もうとするなら、これこそ進むべき道でしょう。
 一方でアメリカ合衆国の諜報機関は、イランには核兵器計画はないと主張し続けており、あったとしても何らかの効果をもたらすには数年かかると言っている。だから脅威があると考えるにしてもそれは緊急のことではない。実際、いちばん興味深い問いは「どんな脅威なのか?」というものだ。イランが世界平和に対する最悪の脅威だというけれど、正確にはどんな脅威なのか?これには確たる答えが「あるのですが、それは報道されない。米国諜報部とペンタゴンが毎年議会に提出している世界の安全保障に関する分析があって、これはただ一般に報道されないだけで誰でも読める。読めば軍事的脅威はないと書いてある。イランの軍事支出は中東地域でもきわめて少ないほうで、分析によればイランの戦略は防禦が主である、と。核兵器については、「たしかに核兵器開発プログラムはあるにはあるが、抑止戦略の一環にすぎない」と言っている。つまり、イランはアメリカとイスラエルからの攻撃を抑えるためにやっている。、というわけ。ということは本当の脅威は抑止戦略があるということ。また、それにはイラクやアフガニスタンのような近隣諸国を不安定化させる狙いもあると言っている。自国の影響をこれらの国に拡大しようということですね。アメリカがイラクやアフガニスタンに侵攻して破壊すれば、それは「安定化」、アメリカの敵が商業・政治関係を強化すれば、それは「不安定化」。これがイランの脅威というわけです。

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自らの都合で、他国の内政に干渉したり政権を転覆してきたのは?

2022年05月06日 | 国際・政治

          知らないのか、知らないふりか、それとも意図的に隠蔽しようということか

 私は、ずっと朝日新聞を読んできました。教えられることや考えさせられることが多くありました。でも、ウクライナ戦争の報道に関する限り、朝日新聞も明らかにおかしいと思います。もちろんそれは朝日新聞だけではないのですが、ロシアのウクライナ侵攻を非難するだけで、武力衝突を避けて、問題を解決しようとする姿勢がほとんどないように思います。また、毎日毎日、戦争当事国のウクライナやアメリカ側の情報をそのまま事実として報道し、ロシア側の情報は極めて断片的に、疑いの眼差しをもって報じています。それが結果として、ロシアは悪、ウクライナ軍の支援は当然というアメリカの武力的対応支持の流れに乗っているように思います。アメリカは、自らの利益のために、ヨーロッパに対するロシアの影響力拡大を阻止し、ロシアを孤立化させ、屈服させようとしていると考えられるのに。


 先日、”「虐殺したのは」元大使が自説”と題する記事が掲載されました。その元大使は外務省退官後、防衛大学校の教授を務めた馬淵睦夫氏ということですが、すっかり陰謀論者扱いです。それが、事実の検証に基づくものであれば、納得できるのですが、双方の主張と、その主張に基づく第三者機関の事実の検証結果は書かれていません。ウクライナやアメリカのいうことは常に客観的で正しく、ロシアは嘘をつくという前提で書かれているように思います。大本営発表が嘘の代名詞と言われるような歴史を経験した日本が、再び同じ過ちを犯してはならないと思います。
 すでに取り上げたように、バイデン大統領は、プーチン大統領について”権力の座に残しておいてはいけない”と非難し、侵攻したら”ノルドストリーム2は破壊する”と言っているのです。ロイド・オースチン米国防長官も、”我々は、ロシアがウクライナ侵攻でやったようなことをできないようにするまで、弱体化させたい”と語っているのです。そのアメリカの意図を踏まえれば、アメリカ側に「ブチャの虐殺」を騒ぎたてて、ロシアを孤立させようとする戦略があることが予想されると思います。逆にロシア側が、虐殺が明らかになるような死体を、放置して撤退することは考えずらいと思います。だから、事実の検証なしに断定することは危険であり、馬淵睦夫氏を、陰謀論者と簡単に決めつけることはできない、と私は思います。
 また、社説には、
”……ウクライナに侵攻したロシアでは、政府に批判的な報道を封じるためにメディアを締めつけが進む。「偽情報」を流した者は最長で禁固15年を科す法律も制定された。香港では香港国家安全維持法の下、中国政府に厳しい論調で知られた新聞が廃刊に追いこまれた。軍政下のミャンマーなども、同じようにものを言えない状況にある。
 留意すべきは、たとえばロシアの場合、戦争により国家が非常事態に移行して統制が始まったのではなく、以前から自由な言論空間は徐々に狭められていき、その帰結として侵略があったという事実だ。……”
 などとありました。ロシアのウクライナ侵攻が、あたかも、自由な言論空間が狭めらた結果であるかのようなこの一文は、とても見過ごすことができません。アメリカを中心とするNATO諸国の東方拡大政策やロシア周辺での軍事演習、また、ウクライナに対する武器の配備などなかったかのような主張だからです。また、アメリカを中心とするNATO諸国などから、政権転覆の意図をもって、さまざまな工作を仕掛けられたら、国内の統制を強化せざるを得ない側面もロシア側にはあると思います。それを無視していると思います。
 プーチン大統領は、ウクライナ侵攻前に国民に、下記のように語りかけています。
きょうは、ドンバス(=ウクライナ東部のドネツク州とルガンスク州)で起きている悲劇的な事態、そしてロシアの重要な安全保障問題に、改めて立ち返る必要があると思う。
まずことし2月21日の演説で話したことから始めたい。それは、私たちの特別な懸念や不安を呼び起こすもの、毎年着実に、西側諸国の無責任な政治家たちが我が国に対し、露骨に、無遠慮に作り出している、あの根源的な脅威のことだ。つまり、NATOの東方拡大、その軍備がロシア国境へ接近していることについてである。…”
 こうしたプーチン大統領やロシア側の主張の詳細が、なぜ議論にならないのでしょうか。ゼレンスキー大統領が語りかける言葉は、ほとんど字幕付きで、毎日のように報じられるのに、プーチン大統領の映像はくり返し同じものが使われ、語りかける言葉には字幕がなく、音声さえも消されているのがほとんどであるのはなぜでしょうか。
 また、プーチン大統領は、
例を挙げるのに遠くさかのぼる必要はない。
まず、国連安保理の承認なしに、ベオグラードに対する流血の軍事作戦を行い、ヨーロッパの中心で戦闘機やミサイルを使った。数週間にわたり、民間の都市や生活インフラを、絶え間なく爆撃した。
 この事実を思い起こさなければならない。というのも、西側には、あの出来事を思い出したがらない者たちがいるからだ。私たちがこのことに言及すると、彼らは国際法の規範について指摘するのではなく、そのような必要性があると思われる状況だったのだと指摘したがる。
 その後、イラク、リビア、シリアの番が回ってきた。リビアに対して軍事力を不法に使い、リビア問題に関する国連安保理のあらゆる決定を曲解した結果、国家は完全に崩壊し、国際テロリズムの巨大な温床が生まれ、国は人道的大惨事にみまわれ、いまだに止まらない長年にわたる内戦の沼にはまっていった。リビアだけでなく、この地域全体の数十万人、数百万人もの人々が陥った悲劇は、北アフリカや中東からヨーロッパへ難民の大規模流出を引き起こした。
 シリアにもまた、同じような運命が用意されていた。シリア政府の同意と国連安保理の承認が無いまま、この国で西側の連合が行った軍事活動は、侵略、介入にほかならない。
 ただ、中でも特別なのは、もちろん、これもまた何の法的根拠もなく行われたイラク侵攻だ。その口実とされたのは、イラクに大量破壊兵器が存在するという信頼性の高い情報をアメリカが持っているとされていることだった。それを公の場で証明するために、アメリカの国務長官が、全世界を前にして、白い粉が入った試験管を振って見せ、これこそがイラクで開発されている化学兵器だと断言した。
 とも言っていますが、ベオグラード、イラク、リビア、シリアなどで、アメリカがやったことをふり返りつつ、ウクライナ戦争を考える必要はないでしょうか。私はベトナム戦争を忘れることができませんが…。
 プーチン大統領は、さらに、”我が国にとって状況は年を追うごとにどんどん悪化し、危険になってきている。……起きていることをただ傍観し続けることは、私たちにはもはやできない。”とも言っているのです。そこに話し合いの余地があるのではないでしょうか。

 だから、今回も「チョムスキーが語る戦争のからくり ヒロシマからドローン兵器の時代まで」(ノーム・チョムスキー、アンドレ・ヴルチェク:本橋哲也訳)から、アメリカが自らの都合で、他国の政権転覆などに関わった事例について、ノーム・チョムスキーとアンドレ・ヴルチェク 語りあっている部分の一部を抜萃しました。「下山事件」や「三鷹事件」、「松川事件」などの真相は、私にはわかりませんが、日本に関する指摘も、大筋間違ってはいないと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                    第九章 米国権力の衰え
A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 帝国としてのアメリカ合衆国とヨーロッパは世界中で力を強化しつつある、というのが私の見立てです。抵抗の拠点はまだいくつかある──ラテンアメリカ、中国、イラン。でも世界のほかの地域では闘争の余地は狭められている。少なくとも私が自分の足で得た経験からはそう言える。あなたがこれについてわたしよりずっと楽観的であることは知っていますが・・・。
 
NC(ノーム・チョムスキー)
 アメリカ合衆国の権力の頂点は1940年代で、そこからは衰え続けている。1945年にアメリカは世界の富の半分を所有し、圧倒的な安全保障権力によって半球を支配し、太平洋と大西洋、およびその向こうをコントロールしていた。当時ほかの産業国は徹底的に破壊されており、アメリカは日本を占領して西ヨーロッパも基本的に傘下に収めていた。アメリカ合衆国とイギリスがヨーロッパ大陸にやってきて最初にしたことは、反ファシズム運動を破壊し労働運動の力を削ぎ、ファシストの協力者たちとかつての体制とほぼ同じものを再興することだった。
 始まりは1943年で、そのときアメリカとイギリスはイタリアに侵攻し、ほかの地域へと進んでいった。とくにエネルギー資源の豊富な、中東の周辺の一部と見なされていたギリシャにはきわめて残酷なやり方で。ドイツが大きな関心事だったのは、それがヨーロッパの産業界の中核であることを両国が知っていたからです。だから戦後のドイツをどうするかは大きな課題だった。イギリスとアメリカは東ドイツからやってくる共産主義という汚染にとくに気を使っていた。こうした政策に関わっていた一人にジョージ・ケナンがいましたが、彼はこう言っている──我々は西ドイツを東側から「壁で隔てる」必要がある。労働運動が過激になるのを防がなくてはならないから、と。そんなわけでドイツは以前と同じような形でほぼ再建され、労働運動はきわめて制限されたのです。
 フランスでは労働組合を潰すためにスト破りが雇われた。これは組織的な労働運動を分断するにはよく用いられる手段にすぎませんが、メルセイユの港湾労働者たちはフランスがインドシナを再占領しようとしていた最中に、インドシナのフランス軍に送る物資や武器の輸送を邪魔しようとしていたのです。まあストライキ破りをして労働運動を潰すには誰かにそれをやらせなくてはならないわけで、それが得意なのはもちろんマフィア。でもナチスがきわめて統制のとれた社会を作っていたので、マフィアはほぼ壊滅状態だった。ナチスは競合を望まなかったからね。そこでアメリカとしてはシチリアのマフィアと南仏のコルシカ・マフィアを再興した。もちろんマフィアもただでは労働組合を潰さないから代価が必要だった。それがヘロイン産業のマフィア支配だった。これがかの有名なフレンチ・コネクションで、南仏から始まって世界中に広まったのです。
 だからどこでも騒乱や顛覆があると麻薬の売買がそれにつきまとうことには理由がある。よって、もしCIAが政府を顛覆して労働組合を潰すとかいうときには、まず必要なのは人、それから裏金、足のつかない資金ですね。それらが揃えば世界中どこでもうまくいく。歴史家のアルフレッド・マッコイが『ヘロインの政治学』という、これについての基本文献を書いています。
 日本にも同じことがおこなわれました。1945年から1948年まで実質上の支配者だったダグラス・マッカーサーは、戦後初期は日本の民主的な発展を許して、労働組合の結成や民主的体制の設立がなされている。ワシントンのリベラル派がこれを知って驚愕し、47年に介入する。これがいわゆる「逆コース」で、すべてが破壊され大企業の権力が復活した。ほぼファシズム体制と同じものが復興したわけです。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 CIAのエージェントで日本の巨大メディア・読売グループのボスだった、正力松太郎のような人間を使ったのでしたね。

NC(ノーム・チョムスキー)
 さらにアメリカは日本の戦争犯罪人たちも復活させた。こういうことが世界中で起こったのです。とにかくこれが米国の頂点でそこから衰退が始まっている。1949年の中華人民共和国建国が大きな痛手だったのは、アメリカが再興しようとしていた世界秩序の一つとして中国はとても大事だと考えられていたから。中国を失った責任はいったい誰にあるのかという論議がアメリカではずっと続いてきましたが、それはいまでもある。まあ面白い見方だね、中国が自分たちのものだったのに我々は失った、誰かが失わせたのだというのは。ともかくこれが最初の衰退の兆候で、そこからすぐに東南アジアを失ってしまうのではないかという心配が起きてきて、それがアメリカ合衆国の東南アジアへの介入につながっていく。
 戦後すぐの時期にはどんな政策を取るべきかの争いがありました。アメリカ合衆国は東南アジアにおけるかつての帝国主義体制に反対していた。それがアメリカの経済その他の介入を阻んでいたからね。でも同時にまた、アメリカは東南アジアで力を伸ばしつつあった民族主義運動にも反対していた。ですから場所によって異なる政策が取られていたのです。たとえばインドネシアでは1948年のマディウン虐殺のあと、アメリカはスカルノ〔1945─68。インドネシア最初の大統領〕を支援することを決めたのだけれども、インドシナでは40年代の終わりにはアメリカの姿勢は揺れ動くようになって、フランスの再征服を支持するようになっていく。でもアメリカがいちばん気にかけていたのはインドシナではなく、文書によればインドネシアなんですね。インドネシアは自然資源が豊富だし、国の規模も大きい。それに比してインドシナは大したことない。でも彼らが恐れたのは当時の文書によればヴェトナムからタイ、そしてインドネシア、日本にさえも「腐敗が広がる」ことでした。アメリカは日本が独立した東南アジアを「受け入れる」ことで、その商業と産業の中心になることを恐れていた。そうなれば実質的にはアメリカ合衆国は第二次世界大戦の太平洋戦争で獲得したものを失うことになる。アメリカは東亜に新秩序を打ち立てるという日本の試みを阻むために戦ったのだから。大雑把にはそんなわけで、1950年の時点でアメリカ合衆国は第二次世界大戦で得たものを失うわけにいかなかったから、インドシナにおいてフランスを大幅に援助したのです。
 それで1958年アイゼンハワーが戦後最大の介入をおこなう。インドネシア本島から自然資源が集中する島々を切り離して米国の管理下に置く、というものです。それにアメリカはインドネシアに民主主義が定着することも恐れていた。当時のアメリカの文書を読むと、スカルノ政府がインドネシア共産党(PKI)の政治参加を認めることをアメリカが心配していたことがわかる。PKIは基本的に貧しい人々のための政党であると理解されていますが、アメリカとすればこうしたことが続くと民主的プロセスが浸透して、PKIが政権の座に就くかもしれないと恐れた。でも米国の介入は失敗します。そして65年の出来事が起きる。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 アメリカ合衆国支援によるクーデターで共産主義者や知識人、中国人の少数派が虐殺された。300万ともいわれる人が死んだ。

NC(ノーム・チョムスキー) 
 それほど大きい数字は聞いたことがないけれど、いずれにしろひどかった。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 いまの大統領スシロ・バンバン・ユドヨノはサルウォ・エディ・ウィボウォの娘と結婚していますが、このウィボウォは悪名高い特殊部隊「レッド・ベレー」の隊長で、自分とその仲間が1965年以降、300万人は殺したと自慢するのが常でした。300万という数字を言っているうちの一人ですね。
 私の意見では、これは西側諸国にとってとても重要な出来事だった。西側政府と企業にとって、世界の多くの場所でその後何年も繰り返されることの実験場となったからです。ある意味でそれはクーデターというだけでなく経済の実験だった。きわめて市場寄りの経済体制を作り上げる機会だったわけで、カリフォルニア大学バークレー校が全面的に支援して、その顧客であるインドネシア大学の協力者によっておこなわれたものです。クーデターの前からバークレーはインドネシア大学にインドネシアの経済学者のチームを別個に作って活動していた。少しあとになって、シカゴ大学の経済学者たちがチリ大学と同様の罪深い同盟を結ぼうとしたのですが、チリ大学のほうで断ったので、サンティアゴのカトリック大学に打診して受け入れられた。ですからチリでは1973年のクーデター前から、ちょうどインドネシアで65年のクーデター以前からそうだったように、すでに市場原理主義的な経済体制が取って代わっていたわけですね。

NC(ノーム・チョムスキー)
 南アメリカと東南アジアで並行して事態が進んでいたというのは、まったくそのとおりだね。よく見過ごされることですが、これは国の政策立案を分析するときに欠かせない視点です。ワシントンの官僚が地球全体を視野に入れていたことは疑いなくて、この重要な点がよく無視されてしまうから、アメリカ合衆国が世界情勢を動かしているわけではないといった想定がなされてしまうのだと思う。ワシントンは他者に反応してナイーブで下手な仕方で「善をなそう」とすることにやっきになる傾向がある。
 スハルトのクーデターの一年前にはブラジルでクーデターがあって、当時ブラジルは南米でもっとも重要な国だった。ブラジルのクーデターを仕組んだのはケネディ政権でしたが、実際におこなわれたのはケネディが暗殺されてから数ヶ月後だった。これがアメリカ合衆国の権力の衰退を示す興味深い例ではないかと思いますね。米国が転覆しようとしたのはジョアン・ベルシオール・メルケス・ゴラール政権でしたが、その政策は2003年から11年までブラジル大統領だったルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァのそれとあまり変わらない。ルーラはいま西側諸国のお気に入りだけどね。でも当時は西側にとても不評だったから政府は顛覆され、邪悪極まる軍事独裁体制が作られた。これが最初の例で、あとはドミノ式に次から次へと政府が倒された。それだけブラジルは大事だった。そうしてシカゴで訓練された経済学者たちがやってきたわけです。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 ある意味、インドネシアにおけるクーデターの余波は、あとになって南アフリカとかエリツィン支配下のロシアといった遠い場所でも感じられたと思いますね。この実験に成功して、西側諸国はモスクワやプレトリア、さらにはルワンダのキリガでも繰り返してきた。

NC(ノーム・チョムスキー)
 チリで。それもあからさまに。右翼はジャカルタ式の解決を公言していたからね。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 チリのアジェンダ政権にいた人たちの多くと話をしてきましたが、その大半はすでに相当な年寄りですけれど、クーデターの前にこう言われたと聞きました──「同志よ、気をつけることだ、ジャカルタがやってくるぞ!」。彼らは言っていました、「ジャカルタ」というのが正確に何を意味するのか知らなかった。もちろんインドネシアの首都だというのは知っていたけれど、それが大虐殺の予告だということは理解できなかった」と。
 数年前『テルレナ─国家の崩壊』という「、インドネシアのクーデターとその影響を扱ったドキュメンタリー映画を作りましたが、それもウルグアイのモンテビデオと、そのあとチリのサンティアゴで上映したら、1973年のクーデターの生残りがステージに上がってきて私を抱きしめ、涙を流しながら言いました。「知らなかった……ここチリでもインドネシアと同じだった……まったく同じ」と。

NC(ノーム・チョムスキー)
 当時のアメリカ合衆国、イギリス、オーストラリアの反応が興味深い。大虐殺の様子はきわめて正確に伝えられていて、たとえば『ニューヨーク・タイムズ』は「驚くべき大量殺人」と書いている。そのリベラルな特派員だったジェイムズ・レストンは、記事でこの出来事を「アジアの燭光」と言って賛美していた。これが西側諸国の主要新聞の論調だった。特派員や編集者たちはアメリカ合衆国が自らの役割を隠すことで、彼らの言うところの「穏健な」インドネシアの将軍たちが自分でおこなったことの功績を認められたと褒めている。「俺たちが助けてやったんだぞ」と言って信用をおとさせたくなかったんですね。オーストラリアやイギリスでも同じような反応で、どこでも賛美の嵐だった。
 ・・・

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チョムスキーが語るウクライナ戦争の真相と西側諸国の偏向報道

2022年05月03日 | 国際・政治

 朝日新聞社説「余滴」に古谷浩一氏が、下記のような文章を書いています。私は残念でなりません。なぜ、ウクライナ軍を支援して、ロシアを屈服させようとするアメリカを後押しするようなことを書くのか、と残念に思うのです。本来メディアには、なぜ停戦協議が進まないのかを追究し、話し合いによって決着させることができるように、世論を喚起する責任があるのではないでしょうか。 

 
時代遅れだと言われてしまいそうだが、私はジョン・F・ケネディの言葉が好きで、いろいろな原稿に引用してきた。
 今回のウクライナ戦争で頭に浮かんだのも、キューバ危機で語られた「われわれの目標は、力の勝利ではなく、正義の擁護である」との一言だった。
 プーチン大統領にも彼なりの正義があるだろうが、核で脅して他国を侵略し、多くの市民を殺害したロシアの暴力を、歴史は正義と認めまい。得られるものがあったとしても、ケネディの言う理念を欠いた「力の勝利」に過ぎない。
 「断固として正義の側に立つ」(王毅外相)。そう言明しつつ、ロシアに配慮を重ねる中国にも強い疑問を感じる。
 これまで国連中心を唱えてきた中国が国連憲章違反の蛮行をとがめないのは全く筋が通らない。ましてや国内の「戦争反対」の声さえ封殺しているのでは、中国の平和主義にどう信をおけというのか。” 


 先ず、ケネディの言葉であるという「われわれの目標は、力の勝利ではなく、正義の擁護である」 は、キューバ危機の本質を表現しているでしょうか。キューバに対する様々なアメリカの工作(政権転覆の意図を含む)が、ソ連の介入をもたらし、キューバにおけるソ連の基地建設や武器配備の計画につながったのではないでしょうか。そして、それをアメリカが武力をもって阻止しようとしたことが、「正義の擁護」でしょうか。当時、世界は核戦争の危機におののいたといわれていますが、そのときの核戦争を辞さずというアメリカの対応が、「正義の擁護」であるなら、NATOの東方拡大やロシア領土の周辺での軍事演習、さらにウクライナに対する武器の配備は、正義ではなく「不正義」なのではないでしょうか。
 また、ロシアのウクライナ侵攻を「国連憲章違反の蛮行」と断定するのであれば、同時にNATOの東方拡大やロシア領土の周辺での軍事演習、さらにウクライナに対する武器の配備も、国連憲章違反として批判すべきではないでしょうか。
 国連憲章第2条の3と4には、下記のようにあるのです。


”3 すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない。
4 すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。”


 フランスの大統領選でマクロン氏と争ったルペン氏は、「NATOの統合軍事機構から離脱したい」と自主独立外交を主張し、その理由を「NATOはソ連と戦うために作られたからです。今日、ソ連は存在しません」と説明していたとのことですが、ワルシャワ条約機構が解散され、ソ連が崩壊した後もNATOを温存させたことが、正義でしょうか。冷戦が終結してもなお、「力の勝利」を意図して、国連憲章の精神に反することを、アメリカを中心とするNATO諸国が続けてきたはのではないでしょうか。

 知の巨人として世界的に知られている米国の哲学者、ノーム・チョムスキーが、米国のジャーナリスト、ジェレミー・スケイヒルと語り合っているyoutube動画(日本語字幕付)が、公開されています(https://www.youtube.com/watch?v=yw5DvUgJlZA)。そのなかでチョムスキーは、ウクライナ戦争におけるバイデン政権の欺瞞や西側諸国のメディアの偏向報道について例をあげて指摘しています。

 また、チョムスキーは、この戦争が終わるのは二つのケースしかないとし、ひとつは、どちらか一方が破壊される場合だけれども、ロシアが破壊されることはないと言っています。
 もうひとつは、交渉による解決で、ウクライナの人々を大惨事から救うためには、交渉による和解の可能性を探ることが最も大事だと言っているのです。
 その際、余計な推測や憶測で、判断することは賢明ではないとも言っています。
 見逃せないのは、バイデン政権の姿勢が、「いかなる交渉も拒否する」というものであることを明らかにしていることです。
 その根拠として、2021年9月1日の共同方針声明、その後11月10日の合意があるといいます。その内容をみると「基本的にロシアとは交渉しない」と書いてあるというのです。そしてウクライナにNATO加盟のための強化プログラムへ移行することを要求しており、そのために、ウクライナへの最新兵器供与や軍事訓練の強化、合同軍事演習、国際配備の武器の供与などを約束したといいます。
 だからそれが、ウクライナ政権がロシアとの交渉によって、問題を解決するという選択肢を奪ったと言うのです。
 そして、バイデン政権が、プーチン大統領とその周辺の人びとを軍事侵攻へ駆り立てた可能性があり、バイデン政権は、基本的に「最後の一人になるまで、ウクライナ人は戦え」というような方針であると言うのです。
 
 大事だと思うのは、チョムスキーが、ロシアにはウクライナを破壊する力があり、交渉による解決がウクライナの破壊に代わる唯一の選択肢であると言っていることです。
 それは、アメリカに追随してはいけないということだと思います。

 随分前に、チョムスキーは、アンドレ・ヴルチェクと似たようなことを話し合っています。だから、「チョムスキーが語る戦争のからくり ヒロシマからドローン兵器の時代まで」(ノーム・チョムスキー、アンドレ・ヴルチェク:本橋哲也訳)から、その一部を抜萃しました。
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                 第二章 西洋の犯罪を隠蔽する

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A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 いまやルワンダでも同じようなことが起きています。タンザニアのアルーシャにあるルワンダ国際刑事裁判所(ICTR)が、お話しになられた日本の植民地主義犯罪と同じような構造と原則で時間制限付きの犯罪審査をおこなっているのですが、私たちが支援しているルワンダ愛国戦線(RPF)〔1987年、ウガンダに逃れたツチ族難民によって設立された反政府勢力〕やポール・カガメ〔1957年ルワンダ愛国戦線の最高指導者で、98年からルワンダ共和国大統領〕側はこのプロセスから排除されている。

NC(ノーム・チョムスキー)
 国際刑事裁判所で有罪となるのは圧倒的にアフリカ人が多く、あとはミロシェヴィッチのような西側諸国の敵と見なされた人だけですね。それにそのアフリカ人たちは西側が気に入らない国々の人たちばかり。しかし近年、ほかに犯罪などなかったと言えるでしょうか。
 イラク侵攻を例にとれば、ただの一つも犯罪とは見なされていませんね。ニュルンベルク裁判もほかの近代の国際法も無視。事実それには法的な理由があって、そのことはあまり知られているとは言えない。アメリカ合衆国はどんな訴追も受けないよう自分で免除しているのです。アメリカが1946年に、現代の国際的な司法による正義を開始したとされる国際司法裁判所に加入したとき、アメリカはどんな国際条約によっても──国際連合憲章にも米州機構憲章にもジュネーブ条約にも──裁かれないという留保付きで加盟したからです。アメリカはこうした国際問題でけっして裁かれないように自国を免除しており、国際司法裁判所もそれを認めた。ですからたとえばニカラグアが国際司法裁判所に同国に対するテロ行為でアメリカ合衆国を提訴しても、ほとんど却下されてしまう。他国への介入を禁止する米州機構憲章に違反しているとしても、アメリカはそれに縛られないので、裁判所もそれを追認せざるを得ない。
 実際、興味深いことに、ユーゴスラウィアが国際司法裁判所に空爆で北大西洋条約機構(NTO)を訴えたとき、アメリカ合衆国は訴追対象から自国を除き、裁判所もそれを追認した。訴えのなかには民族虐殺が含まれていたのですが、アメリカが四十年たってからやっとジェノサイド条約に調印したとき「アメリカ合衆国には適用されず」という留保を付けてあったから、裁判所がアメリカを除外したのは正当な理由があるというわけ。権力を持つ者を誰かが法に訴えようとすれば必ず法的な障害にぶつかる。ローマ条約が締結されて国際司法裁判所が創立されたときのことを覚えておられるでしょう。アメリカ合衆国は参加を拒否しましたね。でもそれだけではなかった。議会が法を制定し、それを当時のブッシュ政権も喜んで認可しましたが、それによれば、もしアメリカ市民がハーグの国際司法裁判所に連れてこられたときは、アメリカは武力でハーグを攻めることができるというものです。ヨーロッパではこれはときに「オランダ侵略法」と呼ばれている。とにかくアメリカではこの法をこぞって歓迎したし、こんなわけでアメリカの自己免責はさまざまなレヴェルに及んでいるのです。一方には理解能力の欠如がある。たとえばアメリカ先住民に起きたことを否定したり、自分の目の前で起きていることが見えない、といったように。他方ではそれが法によって裏付けられているという現実がある。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 中国に対する攻撃を見てください。中国が過ちを犯すとどんなに小さなものでも、たとえばザンビアで起きた炭鉱事故で何人かが亡くなりましたが、これに中国企業が関係していて、その死者は数名──何百万ではないですよ──、それでも地元や他国の新聞の徹底攻撃にさらされた。炭鉱事故で亡くなった数人の悲劇が突然、西側の植民地や新植民地勢力によって何千万という人たちの殺戮に格上げされてしまったのです。

N・C
 過去100年のあいだにとても洗練されたプロパガンダの体制が出来上がり、それが人々の頭を、犯罪者の頭のなかも含めて植民地化してしまった。だから西側諸国の知識人階級は総じて物事を見ることができなくなってしまった。私がよく覚えている興味深い例の一つが東ヨーロッパとその反体制派についてです。ヴァーツラフ・ハヴェル〔1936年~2011年。プラハ生まれのチェコの劇作家。チェコスロヴァキア大統領1989年から92年、チェコ共和国初代大統領1993年~2003年を歴任〕のような東欧の反体制派は西側でも大変有名で、大きな名誉を与えられています。彼らが辛酸をなめたことは疑いないし、多くが牢獄に囚われていた。しかし他方で、世界でもこれほど特権的な反体制派はいないのでは? 西側諸国のプロパガンダ・システムがこぞって彼らを讃えるのだから。ほかの場所のどんな反体制派もこんな扱いを受けていない。ベルリンの壁が壊されてからすぐあとにいくつかの衝撃的な事件がありました。たとえばサンサルバドルで、ラテンアメリカの指導的知識人だった六人のイエズス会神父がイエズス会の大学で残虐に殺害された。殺したのはエルサルバドル軍のエリート部隊であるアトラカトル大隊〔エルサルバドルで「死の軍団」と言われて恐れられた部隊で、米軍の訓練を受けた〕で、彼らがこの事件以前にいったいどれほどの人を殺したのか想像もつかないほどです。

 事件当時、この部隊員たちは、アメリカ・ノースカロライナ州のジョン・F・ケネディ特別武器訓練校で新たに訓練を受けて帰国したばかりでした。帰ってきた彼らはアメリカ大使館と緊密な連絡を取っていた部隊長から特別命令を受けて大学に送られ、神父たちと周りにいた人たちを殺した。ですから家政婦もその娘も証人にならないようにと殺された。この事件のあとすぐヴァーツラフ・ハヴェルがアメリカ合衆国にやってきて両院合同会議で演説しましたが、大変な歓迎ぶりで、とくに彼がアメリカを自由の守護者だと言ったときの拍手は割れんばかり。実際にハヴェル自身がそう言ったのです。「自由の守護者」と。直前にサンサルバドルの「非人間」とされた人たちの住む場所で、六人を殺害した者たちのことを、です。まったく開いた口がふさがらない。この事実はさまざまなことを考えさせてくれますが、これに言及した人は非難にさらされた。
 まったく反対のことが起きたかもしれないと、と想像することもできますね。つまりハヴェルとその同調者六人ほどがロシアで訓練され武器供与された治安部隊によって惨たらしく殺され、その直後に殺されたイエズス会の神父の一人であるエラキュリア神父がロシアに行って国家会議で演説し、殺害者を自由の守護者と褒め讃える・・・。世界は怒り狂うでしょう。しかし現実のアメリカ合衆国の場合には事実が見えなくされてしまい、何度か取り沙汰されて指摘があったとしても抹殺しようとするヒステリー反応しか返ってこない。
 私にはこのことが、東ヨーロッパの知識人とラテンアメリカの知識人のとても大きな違いを説明するように思われます。東ヨーロッパの人たちは自分自身への関心がとても強くて「我々は苦しんだのだ」と言う。ラテンアメリカの人はもっと人間一般に関心があり、国際主義者です。エラキュリア神父がハヴェルと同じことをするなど考えられない。東ヨーロッパの知識人たちが厳しい扱いを受けたことは事実ですが、同時に彼らは大事にされ崇拝されてきた。西側諸国の人が東ヨーロッパに行って彼らを訪問することが名誉の印になっていたのですから。私もそうしようとしたことがありますがビザの申請が認められず、入国を許可されなかった。その一方でアメリカ合衆国が知識人や多くの人を殺害しているときにラテンアメリカに行った人たちは、気高いことをしたとけっしてみとめられない。
むしろ「サンダル履きの反体制派びいき」〔sandalistas=ニカラグアの反体制派集団「サンディニスタをもじった揶揄〕とか何とか言われて馬鹿にされることのほうが多い。
 それだけではありません。たとえば、ここサマチューセッシ州ケンブリッジから数マイル離れたところにグアテマラのマヤ避難民の集落があります。三十年前レーガン政権がおこなった高地住民のジェノサイドで破壊された土地から今日でも逃げ出してくる人が絶えないのです。実際に手を下したグアテマラの将軍はいま裁判にかけられていますが、レーガンについては誰も何も言わない。彼はこの将軍を民主主義への献身者として讃え、「左翼」が牛耳る人権団体によって濡れ衣をきせられたのだと断じた。不法移民を憤る声は多くあるが、そもそもなぜ人々は逃げ出してくるのでしょうか。
 もちろん、このことを考え出すと米国の血まみれた過去に直面しなくてはならないから、そのことは忘れておく──ラオスでもカンボジアでも、こうした事例はきりがない。

 

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