真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

戦争に関わる歴史の真実は・・・ http://hide20.web.fc2.com に記事にリンクの一覧表


原発事故 許容被曝線量 晩発性放射線障害

2013年05月30日 | 国際・政治
 2013年5月25日の朝日新聞は、「福島第1原発事故で避難した住民が自宅に戻ることのできる『年20ミリシーベルト以下』の帰還基準は、避難者を増やさないことにも配慮して作られていた」と報じた。住民の被曝を減らすために、帰還基準を5ミリシーベルトにするべきだという意見もあったようであるが、そうすると、福島県の13%が原発避難区域に入り、人口流出や風評被害が広がること、また避難者が増えて、賠償額が膨らむことが懸念されたためであるという。そして、2011年11月の放射線量に基づき、(1)5年以上帰れない帰還困難区域(年50ミリシーベルト超)、(2)数年で帰還を目指す、居住制限区域(年20ミリ超~50ミリシ-ベルト)、(3)早期帰還を目指す、避難指示解除準備区域(年20ミリシーベルト以下)に再編、と伝えている。
 しかしながら、チェルノブイリ原発事故後のソ連での議論や、晩発放射線性障害の発生状況を考えると、その放射線量はあまりに高く、日本政府や関係者は被曝による晩発性放射線障害の問題をどのように考えているのかと疑問に思う。
 チェルノブイリ事故後のソ連邦の対応は70年35レム説(生涯350ミリシーベルト概念)に基づいて進められたようであるが、それは、それまでの年間5ミリシーベルトの許容被曝線量を、事実上つり上げるための考え方であり、住民の命や健康を無視するものだ、と激しい反発の声が、下記のようにあちこちから上がったのである。そして、被曝による様々な晩発性放射線障害が、現在も問題となっている。 下記は、「チェルノブイリ極秘」アラ・ヤロシンスカヤ著・和田あき子訳(平凡社)からの抜粋である。
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            第1部 わが内なるチェルノブイリ

「子ども達の健康は心配ない」

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 そのあとでもう一つ、世論に影響を与えようとする試みがあった。雑誌『放射線医学』と新聞『科学技術革命の論壇』に、事故後の状況と関連して放射能の安全性の分野や放射線医学機関で活動してきた学者グループの声明が発表されたのである。その趣旨はまたもやこうである。35レムの限度内なら、被爆しても安全だ。この被爆線量まで達しないうちは、何も心配はないというのだ。子どもたちの健康には何の心配もない、と。

 彼らは誰一人として、一度くらいは次のような単純な事例を考えつかなかったのだろうか。大人の私が20年間かかって、35レムの被爆を受けたとしよう。徐々に。これは一つの事例だ。ところがここに1歳の赤ちゃん、あるいは2歳の赤ちゃんがいたとする。この子が同じ線量を、例えば10年ではなく、1-2年で受けたとする。はたしてこの2つが比較可能だろうか。はたしてこれが安全性という観点から許容されるだろうか。私の肉体とその赤ん坊の肉体の反応は、同一だという観点に立つのか。こんな単純な、小さな事柄を理解するのに、アカデミー会員である必要も、放射線生物学者である必要も、医学者である必要もない。それは私の判断でもなんでもなく、私たちが自分の州で出会う生活の現実である。私たちのところには村があり、それらの村にはたった2年間のうちに20レムの被爆をした子どもたちがいる。この子たちにこの先、何が起こるのだろうか。弱い子どもの肉体にとってそれは、彼らの体調から判断しても、打撃である。すべてが秘密にされていたので、それを知らなかったことも加えれば、それが彼らの両親にとっていかに言語道断な打撃であったかは想像にかたくない。イリインの言い方を借りれば、「ただの人」にとっては


 とくにアカデミー会員イリインと彼の同調者たちのために、私は、チェルノブイリ原発の職員たちでない、子どもも含めた住民たちが黒い沈黙の最初の2年間に10レムから20レム、15レムまで被爆したナロヂチ地区の12の村の名を列挙しておきたい。
 それは、ルードゥニャ=オソシニャ村(権力に隠れて私が潜入した最初の村)ズヴェズダリ村
、…(以下村名は略)

 これらの村の住民の即時避難に関する政府決定が採択されたのは、ソ連邦第1回人民代議員大会の前夜のことであった。それからほぼ2年がたった。そしてどうなったか。今日にいたるも、まだすべてが避難していない。理由は、国家、地方行政機関に支払い能力がないからである。人々を移住させるところがない。住宅がない。資材がない。建てる者がいない。労働力がない。ない、ないづくしである。

 そしてまさにここに、連邦政府の側が、「支持グループ」に積極的に加担する中で、学者グループが「70年35レム」というテーゼに固執していることの本質と理由がある。彼らが念頭においているのは被爆した何百万の人々を守ることではなく、そのテーゼのモデルを借りて、わが政府に万事うまくいっている、人々の健康にはまったく心配はないという幻想をつくり出すことだったのである。どうやら、ただ単に物──つまり住宅や長椅子やガス設備のみならず、「学問的」予測もまた便利で快適なものであることが多いらしい。

 自分の政府の居心地よさのために国民は高い代価を払わされているのである。
 では、ソ連邦最高会議委員会の公聴会ではイリイン説に一体どんな評価が与えられているのか。
 生物学博士のA・G・ナザーロフは言った。
「ここでいつも言われている原則的な命題が一つ、それはいわゆる35レム説である。われわれはこの問題を多角的に、ただ医学的観点からだけでなく、社会心理学的からも、社会学や経済学の観点からも、また地形生態学の観点からさえ研究した。これらの観点からすると、つまり総合的アプローチからすれば、いわゆる35レム説は、概念の体をなしていない。なぜなら、もとより35レム説にせよ。40レム説にせよ30レム説にせよ、基準自体が数字的に厳密な根拠を欠いているので、われわれは、医学アカデミーや保健省が提出したすべての科学的資料を検討して、いまそれが出されているような形では、35レム説は、決定を下すための指導的コンセプトとはなりえないという結論に達したのである」


 ソ連邦最高会議エコロジー委員会専門家E・M・ボロヴェツカヤは言った。
「生涯に35レムという数値は、『b』の範疇のひと、つまり核施設で働いていない、普通の住民にとっての被曝線量限度として、現在一般的に受け入れられている、1年0.5レムという線量を寿命を70年として単純に70倍して得られたものです。何のためにこれが必要であったかという問題が起こってきます。その目的はただ一つです。科学的アプローチと見せかけて、1年に0.5レムから35レムまで被曝しても、人間には害はないかのように線量限度値を恣意的につり上げたことを覆い隠すことです。実際に、曖昧な形での生涯許容線量というコンセプトは、数時間に取り込もうと、数ヶ月に取り込もうと、数十年に取り込もうと、それには関係なく、同じように害はないと思わせます。ですから事実上これは、1年0.5レムという現在一般に受け入れられている線量限度を70倍も高いものにすり替えることを意味します。それだけ被曝するまで、ゾーンから外へ人びとを出すことはないかのように。しかし、そのような線量限度値のすり替えは、絶対に許されません……。生涯35レム説は、線量の時間的割り振りを無視しており、そのことによって35レムの急性被曝と、70年間にわたる同量の被曝を等価に置いています。ところが、それは学問的データの総体と矛盾しているのです。実際に被曝が時間的に集中しているときには、その有害な作用は急激に増大します。生涯35レム説は、いろいろな年齢の人の放射線感受性の差を完全に無視しています……。子どもは成人、ましてや老年期の人よりはるかに被曝に感じやすいものですし、同一年齢の人でも放射線感受性は人によって数倍も違います。生涯35レム説は、急性あるいは慢性放射線障害のような作用しか考慮に入れておらず、ガンの誘発を含めたいろいろな病気の罹病率の上昇やいろいろな有害な作用に対する感受性の上昇といった、専門家にはよく知られているものの、まだ十分に研究されていない段階にある、免疫系の破壊に関連した影響を無視しています。35レムという線量は、人間にいろいろな遺伝子の異常の頻発を強める被曝線量に近い。それは、もし生殖期の終わりまでにそのような被曝を人間が受ければ、その人の子どもは先天的疾患を持って生まれてくる確率が高くなることを意味します」 
 E・M・ボロヴェツカヤが読み上げたテキストには400人の学者が署名していた。これは、雑誌『放射線医学』と新聞『科学技術革命の論壇』に発表された35レム論を信奉する学者グループの手紙に対する「チェルノブイリ原発事故による住民と生態系に対する放射線の影響の遺伝的価値」会議の参加者の名による集団的反論であった。


 ウクライナ共和国人民代議員、ナロヂチ地区執行委員会議長V・S・ブヂコは言った。
「この説は医学的なものというより経済的なものだ、とわれわれは理解している。これはその地域に住んでいる人びとへの背信行為である。なぜ私がそう言うのかといえば、それは1986年4-5月に現地で起こったことが何も考慮されていないからだ」


 ソ連邦最高会議エコロジー・資源有効利用委員会のメンバー、E・P・チホネンコは言った。
「チェルノブイリ大惨事の当初から中央省庁によって実施されたこれらの政策の基礎には、1987年末からは『生涯線量35レム』説が置かれていたが、この説の使命は、次のような課題を解決することだった。つまり一般世論を落ち着かせること、事故処理の責任を党と国家の機関や具体的個人から解除すること、多くの損害を被った被災者と汚染地区の住民への補償をできるだけ少なく済ますこと、それに人びとの生命と健康に対する危惧が根拠のないものであると思わせることである。
 その本質においてこの説は、反人道的なものである。そのことはこの説がいたるところで、決定的に拒否されていることを証明している。……それは破廉恥なものでさえある」


 医学博士のソ連邦人民代議員Y・N・シチェルバークは言った。
「われわれの学問と社会におおきな弊害をもたらしてきたのは、一般的に言って独占主義である。チェルノブイリの歴史にもまさしく同じものがあると私は考える。特にアカデミー会員イリインを先頭にした医学者グループの独占主義、これは私の深い確信であるが、この独占主義は最も深刻な弊害である。もし、ことが人の健康に関わるものでなければ、このような告発をしようとは思わない。心理的状態のことならば、このことはすでに明々白々だ。独占主義は35レム説の押しつけに表れている……。この説は、押しつけられ、さまざまな口実をつけてあらゆる公式文書に取り入れられている。5日前に私は、スイスから戻ってきたところだが、そこでは放射線防護の分野の大家たちに会ってきた。彼らはこの説に不審を抱いていた」

  
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外交政策と遊郭「駒形屋」「港崎遊郭」NO1

2013年05月26日 | 国際・政治
 先月 東京都の石原知事が定例記者会見で、旧日本軍の従軍慰安婦問題について「強制したことはない。ああいう貧しい時代には日本人だろうと韓国人だろうと売春は非常に利益のある商売で、貧しい人は決して嫌々でなしに、あの商売を選んだ」と述べたり、橋下大阪市長が従軍慰安婦問題に関し「河野談話は見直すしかない」と発言したりしたので、再び議論が活発化した。今後の日韓関係などへの影響が懸念される。
 しかし、こうした主張を繰り返す人たち同様、石原都知事も橋本市長も、河野談話がどういう経緯で、どのような調査に基づいて発表されたのか、には触れていない。また、河野談話と同時に発表された日本政府の慰安婦関係調査結果についての言及もない。さらに、自身の主張を裏付ける根拠の提示などもされていないようである。したがって、巷に存在する河野談話批判の単なる繰り返しのように思われる。「慰安婦関係調査結果発表に関する内閣官房長官談話」として発表された河野談話を批判するのであれば、当然その時発表された調査結果についても言及すべきではないか、と思う。20歳に満たない処女であった少女たちが、ほんとうに「嫌々でなしに、あの商売を選んだ」のかどうか…。数多くの性交渉強要の証言を、全て「嘘」と断じてよいのかどうか…。「従軍慰安婦」問題を、強制連行に関する日本側証拠の存否の問題にのみ限定してよいのどうか…。

 参議院予算委員会で、本岡昭次議員(社会党)が、「慰安婦」問題の実態調査を政府に要求したのに対し、清水傳雄労働省職業安定局長は、「慰安婦」は「民間の業者が軍とともに連れ歩いた…」と、国の責任を回避をしつつ「調査はできかねる」と答弁したのは、1990年6月のことであった。以来、様々なやり取りの結果、政府が調査を約束することとなり、”まだ不充分だ”との指摘を受けつつも、関係者の「聞き取り」をはじめ、かなり広範囲で綿密な調査が実施された(関連資料-323「従軍慰安婦」問題 資料NO1 日本政府の発表)。その調査の結果、河野談話の発表に至ったのである。また、「従軍慰安婦」問題は、国際的には、すでに結論の出ている問題といっても過言ではない状況を知っておくべきだと思う。

 国連人権委員会ILO(国際労働機関)条約勧告適用専門家委員会国際法律家委員会(ICJ)などの国際組織が、それぞれの調査団の調査に基づいて、日本政府に対し、謝罪や補償、関係者の処罰、その他を勧告しているのである。
《313「従軍慰安婦」国際法律家委員会(ICJ)の結論・318「従軍慰安婦」とクマラスワミ報告書・319「従軍慰安婦」問題 マクドゥーガル報告書など参照》

 さらに、アメリカ合衆国下院121号決議にとどまらず、オーストラリア上院慰安婦問題和解提言決議、オランダ下院慰安婦問題謝罪要求決議、カナダ下院慰安婦問題謝罪要求決議などがあり、フィリピン下院外交委や韓国国会なども謝罪と賠償、歴史教科書記載などを求める決議採択をしており、台湾の立法院(国会)も日本政府による公式謝罪と被害者への賠償を求める決議を全会一致で採択しているという。
 こうした勧告や決議を全て無視し、「従軍慰安婦」の証言を否定し続けることは、日本の孤立化を招き、近隣諸国との関係改善に様々な悪影響を与えるのではないか、したがって、目先の利益にとらわれず、歴史的事実を直視すべきではないか、と思うのである。

 そうした状況を踏まえつつ、「開港慰安婦と被差別部落ー戦後RAAへの軌跡」川元祥一(三一書房)を読むと、『外国人専用の遊郭が政策として造られたという事実から、それが「慰安所」であり、しかもそれが日本近代の象徴としての横浜開港のためであったことから私はそれを「開港慰安所」と考え、そこで働く女性を「開港慰安婦」であると考える』との指摘は、意味深い。戦時中の軍の「慰安所」や戦後のRAAによる「占領軍慰安所」など、国策として、軍や政府主導で造られた「慰安所」の初期的形態であるというのである。著者がそう考える根拠の一部を、下に抜粋した。
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               第二部 開港慰安婦

3 新港町横浜の最初の外国人遊郭──駒形屋

 それでは、新港町横浜の外国人遊郭がどのように出来てゆくか見てみよう。1854年(安政元)の日米和親条約によって下田を仮の開港地とした時、神奈川港開港はもう時間の問題だった。しかし幕府は神奈川港を開港するのを避けて横浜の入江を突貫工事し、そこを神奈川の港といつわり(実際幕末の地図に、今の横浜港を神奈川港と書いたものがある。幕府はここまでして神奈川港開港を避けた)開港したのである。それが1859年(安政6)5月28日である(『日本史年表』歴史学研究会・岩波書店)。が、この時は調印式が行われただけだ。横浜は、新港町として突貫工事がまだつづいており、新港町の形態はほとんどととのっていなかった。
 先に、横浜の駒形屋という仮設遊郭があったことを書いた。これができたのが同年6月10日なのである。だから横浜を本格的に開港するするための日米修好通商条約締結の話し合いがハリスのいる下田領事館などで話し合われているあいだ横浜の突貫工事がつづき、町の形態がととのはないうちに駒形屋を造った。同年8月、神奈川宿の旅籠屋の「飯盛女」を禁止したのも、先に駒形屋という仮設遊郭が出来たためであり、そこに──つまり新港町横浜に──外国人を集中させようとする幕府の意図があったわけである。


 そのあたりの幕府の意図について『横浜市史稿・風俗編』(前掲書)は次のように書いている。少し長い引用であるが注意深くみてみよう。もちろん幕府が指令した遊郭であることはすぐわかる。一見、関係業者の出願であるかのような形をとりながら幕府はこれをすすめた。

 開港条約の締結に因り都市建設に伴ふ必須条件であり、社会的施設の一要素であつた遊里の設置は、当然起こるべき事であったと同時に、其設置が条約面にあつた訳では無いが、幕府の当事者と某領事の間の非公式折衝に成つたものと伝へられてゐるのである。安政5年11月中、幕府は遊郭の設置を発表して、希望者の出願を促したところ、当時神奈川宿の旅籠屋41軒(飯盛宿屋と称した女郎屋兼業のものが多かった。)が協議の上当宿鈴木屋善二郎の名義を以て出願した。之と前後して品川宿の旅籠屋(飯盛宿屋)岩槻屋佐吉(岩亀楼佐七の通称・筆者註・以下同)は、同業五兵衛と共同出願した。又江戸橋本石町3丁目の金三郎、下香取郡下総国小川村の名主愛二郎の両人も、別箇に之を出願した。時の代官小林藤之助の役所では、何れに許可すべきやを決し難かつたので、願の趣を外国奉行永井玄蕃頭の手許に廻附して、其指図を仰いだ。外国奉行は2回出願人を召喚して取調べの末、翌6年3月5日、一同を戸部村の仮外国奉行役所へ招致し、調役成瀬善四郎をして、太田屋新田の内1万5千坪(現在横浜公園の地点)を遊郭地として下渡の命令を与えた。

 この遊郭は、日米修好通商条約など開港のための諸条約とともに、文章にはならなかったが、幕府と某領事(ハリスである)との約束であったことがわかる。幕府が関係業者に遊郭設置を発表し、関係業者が出願するという形をとっている。今日でいう公共事業の入札制度に似ている。
 何人かの関係業者が出願し、代官、外国奉行が取調べ、審査している。そして太田屋新田の内1万5千坪が遊郭地として指定される。これが今の横浜スタジアムの場所であり、スタジアムが出来る前は横浜公園だった。
 この土地が後に、本格的な遊郭・港崎(みよさき)遊郭になるのであるが、もともと海の浅瀬であり、軟弱な土質であるため埋立工事、施設建設が難行し、開設が遅れることがわかったので幕府は急遽、仮設遊郭をつくる。これが駒形町の駒形屋である。場所は今の神奈川県庁のあたりである。
 この駒形屋の建設、設営と神奈川宿の「飯盛女」禁止のいきさつなどについて『洋娼史談』(戸伏太兵・鱒書房)は次のように書いている。


 こうして当局は、いったん神奈川宿の飯盛女郎を全面的に禁止したが、その代替として横浜の新市街に外国人向け新遊郭を開設することは、かねてより外国使臣たちとの約束であったから、神奈川宿駅娼禁止の少し前、同年4月から、新門辰五郎の出願によって、太田屋敷の埋立案に着手させるとともに(但し、辰五郎は途中で手を引いた)、はやくもその6月、旧神奈川宿の駅娼50名を強制的に駒形町の仮設遊郭へ送らししめ、また品川、小田原間の宿駅遊女屋を誘引している。しかし、呼びかけられた遊女屋たちも、何分にも経験のない外人相手の営業を危惧して、あまり快く引き受ける亡人(くつわ・女郎屋)もいなかった。

 ここでも『外国使臣』(ハリス)との約束であったことがわかる。しかも神奈川宿の「駅娼」(「飯盛女」といわれていた人・筆者註)を、強制的に送っていることがわかる。また強制的でない誘引の場合は、こころよく引きうける女性はいなかった。
 ここには、外国人相手の娼妓になりたがらない日本の女性の姿があらわれている。このことは、本格的な遊郭・港崎遊郭を外国人専用として開設した時、大きな問題となって展開する。


 私はここにあらわれているような幕府の政策、ことに外国政策として造られた外国人遊郭を「開港慰安婦」と呼んでいる。その理由は先に言ったが詳細はこれから順次述べてゆく。
 しばらくのあいだ駒形遊郭の設営を通して外国人遊郭=「開港慰安婦」の初期の状態をみておきたい。同じ『洋娼史談』(前掲書)に次のような記述がある。当時ハリスや幕府要人の名も出ており、彼らが意図する政策の一端が具体的に見える。


  ハリス等外国の使臣たちは、長崎の《出島》のような隔離的取りあつかいを受けることをおそれて、極力反対するのみならず、あくまでも神奈川を主張して、英国は浄滝寺、米国は本覚寺、仏蘭西は慶雲寺と、いずれも神奈川の寺院に領事館を開設した。オランダのボルスブルック──この人は、後にいうように、ラシャメン史の上でも、なかなか活躍するのだが──この人だけが、ひどく幕府にたいして好意的で、はじめ神奈川の長延寺を仮領事館としていたのを、まっさきに横浜へ領事館をうつした。
 こうした反対があったにかかわらず、これを強引に押し切って、大いに土木の業を起し、道路をきずき、波止場をかため、運上書(税関)や町会所、役宅、お貸長屋(遊郭のこと・筆者註)等の設備をどんどん進行して、移住商人を招致し、土地を無償で貸しつけるなど、極力新市の建設につとめたのは、当時の外国奉行兼神奈川奉行、水野筑後守忠徳である。
 こんなわけで、横浜が新市として生まれ出るまでの1年間に、神奈川へ出入りする外人の数が、どんどんふえていった。幕府はまだ外国人の江戸居住を認めず、外人遊歩距離を神奈川を中心に5里四方と定め、東北は六郷川を限りとしたが、五里四方といえば甚しく狭隘。それでも当局は、《仮令(たと)へば5里に定め候にも、往返致し候へば10里に相成候間、10里無之とて遊歩差支へ候筋は之あるまじく候》と、屁理屈をこねている。


 ここに書いている「お貸長屋」は仮設遊郭としての駒形屋のことである。幕府が率先して建設していることがわかるとともに、運上所(今の税関にあたるところ)、町会所、役人宅と共に遊郭が建設されていることがわかる。
 実際は、横浜をつくる突貫工事が終わらないうちに、突貫工事一般をやっている建設労働者をすべて遊郭(ここでいう貸長屋)建設にあてて、急いでこれを造らせる。それだけでも幕府の指令で建設されていることがわかる。『洋娼史談』(戸伏太兵・鱒書房)は駒形屋建設後のことを、さらに次のように書いている。あまりパッとしない姿が見えてくる。

 この駒形屋のお貸長屋というのは、当局が建築して2棟に移住商人を招致し、他の24棟を下級外人の宿舎に提供したものだが、(その位置は、後の山下町50、及び70番地の両側)、相当地位のある上流外人はそこに泊らないで、神奈川宿の寺院(仮領事館)のほうに泊る。また軍艦乗組兵などは、上陸すると、元町山手商館へんの畑地や、山林に、野営するほうが多く、しまいにはお貸長屋へは、さっぱり外人が泊まらなぬようになってしまったので、新遊郭設立完成までの暫定期間を、その明長屋のうち表通り3棟を仮設遊郭に指定し、そこへ前期神奈川宿からの50名の飯盛女郎を送りこませたのである。前に誘引されて、決心をグズつかせていた各宿場の遊女屋たちも、やっと腰を上げ、品川、川崎、戸塚、藤沢、神奈川から各一軒、前記鈴木屋にならって、駒形町に出張店を張ることになった。この仮宅での揚げ代は、横浜市史引用の「錦園随筆」に、《一昼夜ドルラル1ツ。日本金3分也》とある。

 ともあれこのようにして、下田を窓口にし、後では横浜を通って上陸する外国人のために──といってもこれは政治全般との強い関連をもつ外交政策なのだ。一つは攘夷論者への牽制。二つは鎖国政策の一環として江戸に外国人を入れないためなど──、横浜に、性的欲求をみたすための施設を集中する。何回もいうがこれは関連業者が勝手にそうしたのではないし、業者と契約した女性がその道を選んだのでもない。
 私はここに、政治的目的によって、為政者(幕府や政府)が自ら造りだしてゆく性的「慰安所」の初期的形態があると思う。しかも外国人専用の遊郭が政策として造られたという事実から、それが「慰安所」であり、しかもそれが日本近代の象徴としての横浜開港のためであったことから私はそれを「開港慰安所」と考え、そこで働く女性を「開港慰安婦」であると考える。



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原発事故 許容被曝線量 晩発的影響

2013年05月25日 | 国際・政治
 福島第1原発の事故直後、テレビやラジオのニュースなどで「ただちに人体、健康に影響はない」というような言葉を何度も聞いた。
 ソ連でも、チェルノブイリ原発の事故後、「汚染地域で生活する人の全生涯に、事故によって上乗せされる被曝量が、350ミリシーベルト程度かそれ以下であれば、住民への医学的な影響は問題にならない」といわれた。

 しかしながら、放射線障害は急性放射線障害だけではない。晩発的影響があることを無視することはできないのである。そして、その晩発的影響が進行するリスクは、どんなに小さな被曝の下でも現れうるという。いわゆる「しきい値」はないというのである。この「直線しきい値なしモデル(LNTモデル)」が、国際放射線防護委員会(ICRP)において、人間の健康を護るために最も合理的なモデルとして採用さ
れ、国際的な安全基準となっていることを忘れてはならないと思う。現在では、WHOも旧ソ連3カ国で多発している小児甲状腺ガンがチェルノブイリ事故による放射能の影響であることを認めているという。

 チェルノブイリ原発事故後の1988年、ソ連放射線防護委員会(NCRP) が引き上げた許容被曝線量「生涯70年350ミリシーベルト概念=70年35レム説」によって、汚染地域からの移住を含めた様々な措置や汚染地でのほとんどの規制が解除されることになったという。その結果、ベラルーシでは、ソ連放射線防護委員会(NCRP)を主導したイリイン教授などの予測の、10倍を超える小児甲状腺ガンが、事故後35年間ではなく、たった10年間に確認されることになったという。対応が困難であったために引き上げられた許容被曝線量によって、予想をはるかに超える晩発的放射線障害が発生したのである。そして、その晩発的放射線障害が小児甲状腺ガンのみではないことはもちろんである。

 このソ連の「生涯70年350ミリシーベルト概念=70年35レム説」の許容被曝線量は、1年間では5ミリシーベルトになる。ところが、福島第1原発の事故後、文科省が設定しようとした子どもの許容被曝線量は、年間20ミリシーベルトであった。文科省は「子供の被ばくを年間20ミリシーベルト以下に抑えるため、国の調査結果で毎時3.8マイクロシーベルト以上を検出した福島、郡山、伊達各市の計13校・園に対し、体育などの屋外活動を1日当たり1時間に制限するよう通知した」のである。年間20ミリシーベルトという、ソ連の設定した4倍の被曝を子どもに許容しようとしたのである。国際的な医師団体を含め、日本国内はもちろん、世界各地から批判の声が上がったようである。晩発的影響を無視するかのような線量であり、当然であると思う。

 「チェルノブイリ 極秘」アラ・ヤロシンスカヤ著・和田あき子訳(平凡社)には、こうした問題を取り上げている部分がある。それが、下記である。

 註:単位と国際放射線防護委員会許容被曝線量について
  ○ 1 Sv = 100 rem[1] = 100,000 mrem (ミリレム)
  ○ 1 Sv = 1,000 mSv(ミリシーベルト) = 1,000,000 μSv(マイクロシーベルト)
  ○ 許容被曝線量 - 国際放射線防護委員会(ICRP)では、
             一般人については、年間1mSv。
             放射線作業従事者は、任意の5年間の年平均で20mSv

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            第1部 わが内なるチェルノブイリ

「子ども達の健康は心配ない」


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 …自分たちの「70年35レム」説がほぼ1990年まではいろいろな政府決定の基礎になってきたのであり、まさにこの「政府系」学者グループは、今日、4年間汚染地区で暮らし続けていた人びとに対して、2年間にほぼ20レム以上を「一気に」取り込んだ子どもたちに対して、責任の重みを感ずるべきである。つまり彼らは連邦および共和国の政府、政治指導者とともに、あらゆる集会、ミーティング、集いで悲嘆にくれた母親達の「なぜなのか」という質問に答えるべきである

 ナロヂチでのそのような会合の一つで、ソ連邦医学アカデミー生物物理学研究所実験室長のV・A・クニジニコフ教授は、大真面目にこう語った。
「世界中の被曝研究のいずれにおいても(ヒロシマでもナガサキでも、平均線量が52レムであった1957年のウラルでの事故後のわが国でも、鉱山の運転手、レントゲン医師等々のその他のデータによっても)100から50レムの線量を受けても遺伝子の破壊やガンの頻発は記録されなかった」と。


 これに対して会場から我慢しきれずに、「ここでヒロシマは関係ないでしょう、われわれのところには、他の放射性核種が落ちてきたのですから」という声があがった。教授は、間髪を入れずにこうかわした。「そうですね、あなたがおとぎ話の方に興味を持っておられるのでしたら……」と。しかし、長年嘘に苦しめられてきた人びとは、「おとぎ話」などに一度だって興味を引かれたことはなかったのだ。だから会場はクニジニコフ教授に対して一斉に「拍手をして話をやめさせようとした」。実際にこのような比較は、正当な根拠のあるものなのか。
 ヒロシマに落とされた原子爆弾は、全部で4.5トンであった。チェルノブイリ原発4号炉は、大気中に微粒子の形で50トン(!)の二酸化ウラン、高放射性核種のヨウ素131、プルトニウム239、ネプツニウム239、セシウム137、ストロンチウム90など、いろいろな半減期を持ったその他の放射性同位元素を放出したのである。さらに約70トンの燃料が炉心周辺部分から放出された。これに加えて事故を起こした原子炉のまわりでは、原子炉の放射性黒鉛およそ700トンがまき散らされた。一般的にチェルノブイリは、寿命の長いセシウムだけをとってみても、ヒロシマの300倍であり、そのセシウムは炉外に飛んでいったのである。
 
 学者たちに、このことがわかっていなかったなどということがあるだろうか。
 ところが、それにもかかわらず、公的医学界は自分の立場に固執しつづけ、自分たちの立場を保持するために、次々に新しいあらゆる拠り所を探し出した。クニジニコフ教授が、その集会で押し出した「論拠」の一つはこういうものであった。「アルゼンチンでは20年間に100レムという線量が政府によって採用されている」。欺かれ、病んでいる人たちにはそれはたいした慰めにはならなかった。アルゼンチンでは、われわれと違って、「ヨーロッパの核戦争」の影響のただ中に暮らしているというわけではない。本質的に、チェルノブイリはその規模からして核戦争に匹敵するものである。それと比べるべきものは存在しない。アルゼンチンも、ヒロシマも、ウラルも。クニジニコフ教授もイリイン教授もグシコーワ教授もチャーゾフ教授もそれを理解していないというのか。


 ・・・

 私は、国内で最も権威のある情報源の一つである『ソビエト大百科事典』を開いて、読んでみた。「線量。年間5レムの被曝線量が職業被曝の場合許容線量とされる」と書いてある。たった一つの州の、ナロヂチ地区の12の村の住人たちだけでも、自分はそれとは知らずに、原発で働く職業人たちと同じ条件の中で3年間暮らしていたということになる。それも休暇、年金、医学管理といった特典もなしに。

 V・A・クニジニコフ教授は言った。
「何度かの被曝で線量が25レムか、あるいはそれ以下でも、最も感じやすい人には、血液に一過性の変化が観察されるが、それは3-4週間の間に消える。いかなる健康障害も起こらない」
 『ソビエト大百科事典』ではさらにこうなっている。
「1回の被曝で一部の細胞の増殖能力の抑制を呼び起こすガンマ線最低線量は、5レムとされる。長期にわたって、毎日0.02-0.05レムの線量を浴びれば、血液に原初的変化が観察され、0.11レムの線量では腫瘍の形成が観察される。被曝の晩発的影響については、子孫の突然変異の頻度の増加によって判断する」。ああ、今日これらの晩発的影響そのものが現れはじめているというのに。ナロヂチ地区ではこの数年「モンスター」の数が顕著に増えている。事故から3年してコルホーズの畜産場では、突然変異の豚が19頭と子牛37頭が生まれている。手足がなかったり、目、肋骨、耳がなかったり、頭蓋骨が変形していたりする。あるコルホーズでは8本足の子馬が生まれた。


 ここに興味深い学者の文書が2つある。
「電離性放射線の作用には、『しきい値』がないという仮説によって、晩発的影響が進行するリスクは、どんなに小さな被曝の下でも現れうることを覚えておく方がよい……」
 2つ目は次のようなものである。
「地球規模での放射性降下物の晩発的影響を測るために、線量値として2.16レムを取り上げてみよう。地球のすべての住人にとって、核災害でこの世の平均的な人間が2.16レムの線量を被曝した結果起こる致死性腫瘍の数は、20年間で120万件となり、これに対応する遺伝的影響の総数は、38万人となる」


 これらの筆者は誰か。きわめて興味深いことに、これらは尊敬するE・I・チャーゾフ、L・A・イリイン、A・K・グシコーワ教授が書いた著書『核戦争の危険性』と『核戦争──医学的=生物学的研究』から取ってきたものである。そうなのだ、これはチェルノブイリ原発での爆発前、つまり1982年と1984年に書かれている。学者たちは、私が推測するところ、まさに学問的に裏付けられたデータを引きながら、世界に警告していたのである。
 それがチェルノブイリ原発事故後、彼らに何が起こったのか。
 ここに書かれている学問的結論を、なぜ数年のうちにあれほど急激に変えたのか。なぜ今日アカデミー会員、L・A・イリインは既成の理論を擁護して、「数百の村の移住の問題とは、人びとが慣れ親しんだ快適さを奪われるところの、習慣になった生活形態の破壊という深刻な行為である」といった、学問とはほど遠い論拠を押し出しているのか。1989年11月18日の『ソビエト文化』紙に掲載された論文「ザブレヂュール」で、有名な映画監督であり、国家賞受賞者のヂェムマ・フィールソワはこのことに関連して理にかなった質問をしている。「アカデミー会員はいかなる快適さを考えているのか。一体、いかなるものを。30ル-ブリの『棺桶代』をか。液体放射性廃棄物や子どもたちの際限のない発病を思わせる『汚染された』牛乳をか」と。


 よく知られているように、まさにメーデーの時期に放射能は市を直撃していたのに、キエフの子どもたちが5月7日になってはじめて疎開させられたのは、アカデミー会員イリインの説によってではなかったのか。

 ・・・(以下略)

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「もんじゅ」差止訴訟が問うたもの(後半)

2013年05月15日 | 国際・政治
  「もんじゅ」のような高速増殖炉は、軽水炉型の原発とは異なり、コントロールが極めて難しいという。そして、事故が発生した場合、福島第1原発のようなメルトダウン(炉心溶融)による放射能の放出・拡散にとどまらず、下記に記されているように、「核爆発」に至る可能性があるというのである。事故の可能性が大きく、「核爆発」に至るおそれのある「もんじゅ」を、今の状態で稼働させようとするのは、違法ではないか、と思う。

 旧ソ連のチェルノブイリ原発(黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉)の事故は、福島第1原発のようなメルトダウン(炉心溶融)にとどまらず、炉心が融解し、爆発したとされている。「原発事故を問うーチェルノブイリからもんじゅへー」(岩波新書)の著者(七沢潔)によると、旧ソ連の3ヶ国(ロシア、ウクライナ、ベラルーシ)で、事故後、汚染された土地の上に住む人々は、500万人。その汚染地帯の総面積は13万平方キロメートルで、日本の本州の57%に相当するとのことである。(汚染地帯:「チェルノブイリ事故被災者の社会保障に関する法律」<1991年採択>で、汚染地帯として認定され、保障措置の対象とする、1平方キロメートル当たり1キュリー以上のセシウム137に汚染された土地)
 そればかりでなく、爆発後の火災の鎮火やさらなる被害の拡大防止、放射線の遮断作業などに従事した原発運転員・消防士・軍人・予備兵・炭鉱労働者などが多数、急性放射線障害で亡くなっている。人海戦術で建設された「石棺」の作業者だけでも20万人にのぼるという。その後、どれほどの人が放射線障害で亡くなり、苦しんでいるのか。住民にも多くの被爆者が出たことが報告されているようであるが、正確な情報はない。
 「もんじゅ」で「核爆発」が起これば、被害はさらに深刻であろう。「核爆発」は、水素ガスの爆発による建屋の崩落とは、意味が異なるのである。

 その「もんじゅ」に関して、朝日新聞は、2013年5月13日付けで、”原子力規制委員会は近く、日本原子力研究開発機構に対し、原子炉等規制法に基づき、高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)の使用停止を命じる方針を固めた”とトップ記事で報じた。内規に違反し、1万個近い機器の点検を怠っていた問題を重くみたのだという。

 今回のような使用停止命令に踏み込むのは初めてであるというが、問題はそうした「怠慢」だけではない。もちろん、そうした怠慢やくり返された情報の隠蔽、改ざん、捏造なども問題ではあるが、さらに重要なのは、事故をくり返しているという現実であり、リスクの大きさである。今こそ30年近く前の”「もんじゅ」差止訴訟”が提起した問題をしっかり受け止め、根本的に考え直すべきだと思う。

 下記は『高速増殖炉の恐怖 「もんじゅ」差止訴訟』原子力発電に反対する福井県民会議(緑風出版)から「第三 なぜ「もんじゅ」訴訟を提起するか」の中の六~九を抜粋したものである。
---------------------------------
六 軽水炉にはない「もんじゅ」の危険性

1 
スケールアップの危険性
 「もんじゅ」は小型実験炉と大型実証炉の中間に位置する原型炉である。実用炉とされている軽水炉でも、いまだに予測もされなかった事故、故障が起こり続けている。ました原型炉では、何が起こるかわからないという問題がある。「もんじゅ」は、先行する実験炉「常陽」(5万KW)に比してスケールアップや性能など技術的にはるかに厳しい条件におかれているうえ、軽水炉にはない高速増殖炉固有の危険性を備えている。


2 
炉心崩壊の可能性
 まず、炉心の出力密度が軽水炉に比して大きく、熱のバランスがくずれると急速に温度が上昇し、燃料棒の破損、ナトリウムの沸騰をもたらしやすい。何らかの原因で炉心全体、あるいは一部の冷却効果が低下すると炉心の破壊、崩壊、溶融に至る危険性は、軽水炉より、はるかに大きいのである。


3 
核爆発は起こりうる
 軽水炉では、少なくとも核爆発は起こらないであろうとかんがえられているが、高速増殖炉は、炉心に異常が起こり、ナトリウムの気泡が発生し、原子炉の緊急停止に失敗するという事態が起これば大暴走→核爆発に至る可能性を秘めている。軽水炉では、炉心溶融という事態になっても、こうした核爆発はまったく考慮されていない点と比較すると、その危険性は重大である。


4 
ナトリウムの危険性
 冷却剤に使用されるナトリウムは、水や空気にふれると激しく反応し、爆発的に燃える性質を持っている。ナトリウムと水、空気との接触を完全に断つことは困難であり、思わぬ事故や故障で、押さえ込まれていた危険性が表面におどり出し、事態を一層悪化させる可能性は否定できない。



プルトニウムの危険性
 軽水炉の数十倍のプルトニウムを炉心にかかえこむ高速増殖炉で炉心溶融事故が起こった場合、蒸発、飛散によって微粒子となった大量のプルトニウムが放出され、住民を襲うことになる。西独が計画している高速増殖炉原型炉SNR-300(30万KW)について米国の科学者リチャード・ウェッブが行った評価によれば、核爆発による大規模な放射能放出が生じれば、一定の気象条件の下では16万平方キロメートルの土地を放棄しなくてはならないとされている。



七 プルトニウムの管理は不可能
 プルトニウムは、この世で最も毒性の強い物質の一つである。プルトニウム239の半減期は24000年で半永久的に消滅せず、体内にとりこまれると長く留まり、まわりの組織を長期間被曝し続ける。「もんじゅ」はこの猛毒物質を最も大規模に生産し利用する。プルトニウムの管理は、安全面で極めて厳しい条件下に置かれざるをえない。同時に核兵器の材料であることから軍事転用の危険性に歯止めをかける厳重な管理体制が必要とされるとして国民に対するあらゆる面での管理を強化する危険性も増大している。このようなプルトニウム管理社会は基本的人権を侵害し、民主主義の原理と相容れない。

 
 プルトニウム燃料の取得、加工の計画も明らかにされず、使用済燃料の再処理のメドも不確かなまま「もんじゅ」が運転されることになれば、過剰なプルトニウム、使用済燃料が施設内にあふれることになろう。その存在は各種の危険につながっていく。プルトニウムを完全に隔離し、安全に管理する方法は、未だ見い出すことができないのであり、このようなプルトニウムの大量利用に道を開く「もんじゅ」建設は許されない。 
 
八 「もんじゅ」は壮大なムダ

 高速増殖炉の開発には各国とも膨大な費用が投じられてきた。「もんじゅ」は昭和54年当初の建設見積もりが4000億円とされたが、早くも5900億円に修正された。80年代に「もんじゅ」に投じられる開発費は1兆円をこすものと予想されている。
 高速増殖炉は、軽水炉に比べて破格の建設費を要し、使用済み燃料貯蔵施設、燃料生産、輸送、再処理、廃棄物処理、廃炉の各段階を含めると、必要な経費は見当もつかない巨費にのぼろう。しかも、高速増殖炉核燃料サイクルのほとんどが未だ研究段階にあり、開発のメドは全く立っていないのである。アメリカのクリンチリバー原子炉は、当初予算の10倍をこえる建設費の高騰で、建設を中止し、西独のSNR-300もまた、4倍も建設費がふえたために建設を差し止められている。

 安全上の問題を多くかかえ、巨額の投資をしてまでも「もんじゅ」建設が急がれているのは、増殖の効果への期待とされる。しかし、高速増殖炉自体の増殖が意味を持つのには何十年も原子炉の運転を続けた後であり、それまでに要する費用を考えると経済的には全く意味をもたない。「もんじゅ」建設は壮大なムダと評するほかないものである。


九 結論

 若狭湾岸の既設原発11基だけでも、住民にとってその十字架は重すぎる。行き場のない廃棄物、廃炉のお守り。既に郷土は死の灰にいたるところまみれている。そのうえ、さらに「もんじゅ」を建設することは、子々孫々の未来までをも奪うことであり、人間として許されるべき行為ではない。そして何より住民は”モルモットにはなりたくない”と叫ぶのである。「もんじゅ」建設差止めは、福井県民全体の悲願である。我々は、必ずやこの裁判で「もんじゅ」の危険性が裁判所に十分理解され、その建設運転の差止めを認める判決が下されるものと確信するものである。


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「もんじゅ」差止訴訟が問うたもの(前半) 

2013年05月10日 | 国際・政治
 朝日新聞に連載された「プロメテウスの罠」は、元東電社員木村俊雄のおそろしい話を取り上げていた。木村は東京電力が運営する全寮制の学校「東電学園」を卒業、福島第1原発で研修し、新潟の柏崎刈羽原発で燃料管理の仕事をした後、福島第1原発に戻り、炉心の運転・設計業務に携わったという。

 彼の話を一言で言うと、原発推進は”利益優先・安全軽視”ということである。彼の話の中に「津波」に関するものがある。1991年10月30日、福島第1原発のタービン建屋で冷却用の海水が配管から大量に漏れ、地下1階にある非常用ディーゼル発電機が使えなくなったことがあったという。補機冷却系の海水配管が腐蝕していたため、そこから大量の水が漏れたのだ。そこで木村は、上司に
「津波が来たら一発で炉心溶融じゃないですか」
と言ったという。その返事が驚くべきものである。
「そうなんだよ、木村君。でも安全審査で津波まで想定するのはタブー視されてるんだ」
津波を想定すると膨大なお金が要る。だから無視する、ということなのであろう。

 東電幹部は、福島第1原発の事故は「想定外の津波によるものだ」と言った。しかしながら、それは、”利益優先・安全軽視”による「意図的想定外」と言えるのではないかと思う。

 下記は『高速増殖炉の恐怖 「もんじゅ」差止訴訟』 原子力発電に反対する福井県民会議(緑風出版)から、『第三 なぜ「もんじゅ」訴訟を提起するか』の、一から五を抜粋したものである。

 「もんじゅ」差し止めの訴訟が提起されたのは1985年9月26日である。それは、チェルノブイリ原発事故のおよそ7ヶ月前のことであり、ナトリウム漏洩事故の10年以上も前のことである。もちろん福島第1原発の事故前のことであることは言うまでもない。

 1995年の高速増殖原型炉「もんじゅ」の事故は、「想定外」の二次冷却系からのナトリウム漏洩であった。事故後、ナトリウムの検知が遅れたことや、事故時の停止措置が遅れたことも明らかになっている。自治体への連絡も遅れた。何も想定されていなかったのではないかと疑わざるを得ない。加えて、科学技術庁への虚偽報告やビデオの秘匿、改ざんも明らかにされた。そして、福島でも同じような過ちをくり返したのである。訴訟で提起されていたことをどのように受け止めていたのかと、疑問に思う。

 アメリカやイギリス、ドイツが、すでに高速増殖炉の研究開発は中止しているという。にもかかわらず、日本では福島第1原発の事故後もなお、沸騰水型や加圧水型の軽水炉原発はもちろんのこと、危険きわまりないプルトニウムリサイクルの中核としての高速増殖炉の稼働さえあきらめていない。利益に目が眩んで安全が見えなくなっているのか、あるいは、他に何かあるのか。
---------------------------------
          第三 なぜ「もんじゅ」訴訟を提起するか

一、本件訴訟で問われているもの

1  「もんじゅ」建設問題は、昭和50年7月、敦賀市議会で初めて明らかにされ、
  以来地元敦賀市、福井県で、市政、県政の最大争点として論じられてきた。「も
  んじゅ」は、県民の安全と郷土の将来を決定的にする運命を握るにとどまらず、
  その影響するところは国民的レベルに到達する問題をはらんでいる。

2  今、「もんじゅ」は、既設軽水炉とは格段に質の異なる問題をかかえながら、 
  それに立ち入った議論を経ることなく、原子炉と運命共同体を強いられる住民 
  の真の合意を得ることもないまま建設着工を前にしている。
   生命の安全に対する危機に常にさらされ、未知の問題をかかえたまま、多大
  の犠牲を払ってまで住民は「もんじゅ」を受忍しなければならないのか。この訴
  訟はそのことを問うものである。

二、原子力実験場と化す若狭湾岸

1  福井県嶺南地域の若狭湾岸には11基の原子力発電所があり、「もんじゅ」を
  含む2基が建設、準備中、さらに3基が計画中の我が国最大の原子力発電所
  密集地域地帯である。設置者は被告動燃、日本原電、関西電力の三者により
  炉型、出力はさまざまで、計画中を含むと15基、出力1173万キロワットにの 
  ぼり、西独一国分の原発(12基、1030万キロワット)を優に越える。

2  この密集地帯のなかで「もんじゅ」建設が予定されている敦賀半島は、加圧 
  水型軽水炉、沸騰水型軽水炉、新型転換炉、高速増殖炉の、計7基が集中す
  る。なかでも昭和45年に運転を開始した沸騰水型敦賀1号と加圧水型美浜1
  号は老朽化し、敦賀1号では、配管のひび割れや応力腐蝕割れが相次いだ。
  56年には、たまる一方の放射性廃棄建屋の増築部で大量の放射能が海洋に
  流出する事故を起こし、県民に多大の不安と被害を与えた。美浜1号は、47年
  から蒸気発生器細管の減肉、ピンホールが頻発し、全細管の4分の1が使用
  不能のままであるばかりか、炉心溶融事故につながる燃料棒折損という重大
  事故が、国にの立会い検査があったにもかかわらず3年半も隠されていた。こ
  の2つの原子力発電所は、明らかに健全性を失った欠陥炉であるが、敦賀1号
  では、61年から、わが国で初めての実験となるプルトニウム・ウラン混合燃料
  を軽水炉で燃焼させるプルサーマル実験が予定され、美浜1号も、やがては同
  様の実験を行うことになっている。新型転換炉「ふげん」は日本で自主開発され
  た実験型炉であり、これに「もんじゅ」を加えると、敦賀半島は日本における原 
  子炉の大型実験場そのものというほかない。

3  また高浜、大飯を加えると、若狭湾岸は巨大化、多様化、密集化の一大原子
  力実験場である。過去相当数の事故、故障が若狭湾岸すべての原子力発電
  所で起こった。公表されただけでも、年間30件は毎年起こっている。TMI事故
  (スリーマイル島の事故)以後安全管理が改善されたといわれるが、大飯1号
  のECCS誤作動事故、高浜2号の96トンもの一次冷却水漏洩事故、敦賀1号
  廃液漏出事故、大飯2号圧力容器付属器粒界割れ事故は、いずれもTMI事故
  以後に起こり、重大事故に属するものであった。住民は「安全性が高く信頼が
  おける」とされてきた既設軽水炉においても、いくつかの生命不安をいだかざる
  をえない経験に遭遇しているのである。そして事故の確率は、集中すればする
  ほど、実験的であればあるほど高くなるはずである。このように集中化した危険
  に、更に「もんじゅ」を加えることは到底許されない。

三 憂慮すべき環境汚染

1  集中化した原子力発電所は、大量の温排水を海に流し、その排出量は増大
  している。若狭湾岸稼働11基の原子力発電所から排出される温排水量は毎
  秒541トンに及び、福井県下最大の九頭竜川を4つ合わせた流量に達しようと
  している。その影響は、深さにおいても、広がりにおいても、当時「予測し、実験
  した数値をはるかに超えている。それが沿岸漁業にどのような影響を及ぼすの
  かの観測が始まったことは、漁業への影響はないとの当初の予測の破産を示
  している。また、放水口付近には、コバルト60、マンガン54、トリチウムなどの
  放射性物質が確実に蓄積されつつあり、大量温排水と放射能の影響は漁業資
  源の将来を脅かしている。

2  陸上では、原子力発電所から放出される放射能の影響を観測するために、
  住民たちがムラサキツユクサの実験を行ってきた。微量放射能が生物体に与
  える影響を観るこの実験は、高浜原発、大飯原発、敦賀原発の各周辺をとりま
  く形で、51年から現在まで10年間の観測が続いている。その結果は、原発が
  運転中の風下方面のムラサキツユクサに有意な突然変異率の上昇のみられ
  ることが共通している。このことは微量放射能、放射線が長期間にわたれば生
  物(人間)に対し身体的、遺伝的影響を与えることを示している。地元の原発労
  働者被曝に加え、地域全体の被曝線量は増大し、子供への影響は無視しえな
  いだろう。

四 防災対策の不在

1  原発密集地帯は、日本有数の観光である。夏の海水浴シーズンには、15万
  人の人口が10倍以上にふくれあがり、中都市と同一人口のリゾート地と変貌
  する。これに対応する原子力災害の防災体制は何らないといってよい状態であ
  る。TMI事故(スリーマイル島原発)以後、原子力安全委員会の指針に基づい
  て策定された福井県原子力防災計画は、これまでにわずか年1回、行政レベ
  ルの担当者間の通報連絡訓練が行われているに過ぎない。同計画によれば、
  空間ガンマ線量率が毎時1ミリレントゲンに達して、初めて災害対策本部の設
  置準備が開始される。しかしこの段階では、すでに環境放射能は平常時の10
  0倍に達しているのであり、このような防災対策は有効性を欠いている。災害発
  生をいかに早くキャッチし、公衆へ周知させ、避難させるのか。そのことを住民
  はもっとも強く望んでいるのである。原子力発電所から逃れることが許されず、
  原子力発電所とともに日々を営まざるをえない住民は、事故が起こらないこと
  を念じ、かつ起こった場合のことが常に頭から離れない。現行防災計画は、住
  民のこうした期待に応えうるものとはほど遠い。

2  とりわけ、前述した海水浴シーズンに地理不案内の県外海水浴客があふれ、
  道路が十数キロにわたって渋滞する際には、全く打つ手がないほど大混乱を
  生ずる恐れがあろう。
   しかも、夏期シーズンは、電力需給のピークに当たり、原子力発電所はフル
  稼働で運転しなければならない時期であり、事故の際の 影響も大きいのであ
  る。


五 住民の声をふみにじった「もんじゅ」開発

1 バラ色の夢は破れて
    原子力発電所設置の大前提は住民の同意であるとされてきた。しかし、福
  井県の原子力発電所新増設は住民同意を裏付けに進められたものではない。
  確かに敦賀1号、美浜1号など当初は国の主張する「安全性」と「経済性」を信
  じ、国策としての軽水炉建設を受け入れた若狭湾岸の住民も多かった。見たこ
  とも、経験したこともない先端科学の判断を、住民や自治体がもちうるはずもな
  く、国の専門家にゆだねるしかなかった結果であった。
   しかし、実際に運転に入ると、1年も経たないうちに、今日に連なる原子力発
  電所の様々な問題点が露呈しはじめた。事故、故障が相次ぎ、稼働率は計画
  をはるかに下回り、放射能が環境から検出され、労働者が被曝した。建設と同
  意した時点と、運転に入った時点では、状況は大きく変わったのである。

2 高まる原発不信「もんじゅ」反対の世論
    住民は既設原発の安全性に疑問をもち始めた。しかしその頃には、既に漁
  業権を放棄し、売却済みの原発敷地には、2号、3号と増設が進められていた
  のである。「できあがって動いている原発をとめることはできなくても、もう、これ
  以上福井県に原発をつくらせるのはゴメンだ」という思いが県民世論として一気
  に広がった。
   昭和51年10月「高速増殖炉等に反対する敦賀市民の会」は、敦賀市を中心
  に「もんじゅ建設反対」で3万665人の署名を敦賀市長に提出した。
   昭和52年9月「原発に反対する福井県民会議」は、10万2464人の署名を
  めて知事と県議会へ要請した。この署名は、「原発はもうたくさん。『もんじゅ』
  建設をはじめいっさいの新増設に同意しないこと」を趣旨としている。そして、こ
  の署名数は県政始まって以来の最大数といわれた。同年11月には、「もんじゅ
  」をはじめ原発施設の設置に関する市民投票の条例制定を求め、敦賀市で直
  接請求運動が始められようとした。ところが市長は、請求代表者の資格証明書
  交付を不当にも拒否したため、市民が直接「もんじゅ」可否を行政に反映させる
  手段は奪われたのである。56年9月、「もんじゅ」建設反対署名は知事と県議
  会へ出され、その署名者は10万9487人に及んでいる。


3 「もんじゅ」反対は県民の声
    このように、県民の「もんじゅ」反対の声は圧倒的な数をもって明らかにされ
  てきた。しかし、国は、住民を代表する機能を失った議会や自治体の形式的な
  同意を得て、住民の意思をふみにじって、「もんじゅ」の建設手続きを強行して
  きた。
   このような中で、住民は「もんじゅ」に対し、毅然と反対し続け、安全審査手
  続きのなかでも、「もんじゅ」に関する公開質問書、公開ヒアリングの開催に関
  する改善要求を科学技術庁及び原子力安全委員会に提出したが、何ら誠意あ
  る回答はえられなかった。
   かくて、住民の疑問に答えることなく、又その同意をえることもないままに「も
  んじゅ」建設手続きは強行されてきたのであり、生涯、更には子孫の代まで危
  険を負担しなければならない地域住民に重い十字架を課さんとしているのであ
  る。


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原発事故 チェルノブイリと福島 ”よく似たにおい”

2013年05月07日 | 国際・政治
 「原発事故を問うーチェルノブイリからもんじゅへー」七沢潔(岩波新書)は、福島第1原発の事故が、様々な点でチェルノブイリ原発事故と共通する部分があることを教えてくれる。

 チェルノブイリで大惨事が起こった時、日本の原子力関係者は異口同音に「日本では起こり得ない事故だ」と言ったという。確かに原子炉の型は違うようだが、正確な情報が公開されていなかった当時、なぜあの大惨事に至ったのかを、何も検証することなく発せられた言葉であったといえる。そして、結果的に、あの事故からほとんど何も学ばなかったのであろう。

 チェルノブイリでも、通報の遅れ、避難先延ばしによる住民の深刻な被曝、被曝許容線量の引き上げ、風向きを考慮しない30キロ圏住民の避難、汚染地帯への避難、汚染地帯での諸行事の黙認、事故後5日目のヨード剤の配布、情報隠し、事実の捏造などなどがあった。

 チェルノブイリ原発の構造的欠陥を指摘する声を封じ、事故後もその事実を隠蔽し、責任を運転員の操作ミスで処理したソ連の巨大組織と真相を隠すことを黙認した国際組織。

 同書の著者七沢潔は、ペレストロイカにあわせて進められたグラスノスチ(情報公開)や、その後のソビエト連邦崩壊によって入手可能となった極秘文書、膨大な内部資料などに当たり、また、事故当時の原発作業員や関係する組織の学者、ゴルバチョフなど行政の関係者多数の証言を得て、『私にはもんじゅの事故の周辺に、チェルノブイリ事故が発しているものとよく似た「におい」が感じられてならない』と記していた。2013年3月11日、過酷事故は福島で起きた。

 チェルノブイリでも事故は「想定外」であった。原子炉の構造的欠陥を指摘する声は封じられ、「原子炉が暴走によって破壊されることはあり得ない」とされていたのである。したがって、原発の運転員や管理職は、原子炉の破壊を把握できず、適切な対応ができなかったのである。

 下記は、原子炉の構造的欠陥についてアレクサンドロフ原子力研究所所長に手紙を出したが、返事がないので、当時のゴルバチョフ書記長やルイシコフソ連首相に同主旨の手紙を送り、内部告発したというクルチャトフ原子力研究所安全部長ボルコフの証言の部分と、ソ連政府が世界に公表した報告書とは全く異なるソ連共産党中央委員会政治局に提出された事故報告書に関する部分である。チェルノブイリ原発事故の真相を知る上で重要な証言であり、報告書であると思う。
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              第2章 隠された事故原因

<原子炉の欠陥>は、こうして隠された

内部告発

 史上最悪のチェルノブイリ原発事故は、それまで表向き一枚岩の固い結束を守ってきたかに見えたソビエトの原子力界に、目に見える形の亀裂を生んでゆく。
 事故から5日後の86年5月1日、クルチャトフ原子力研究所長のアレクサンドロフの机の上に、一通の手紙が置かれていた。そこには「事故の原因は運転員の操作ミスではなく、原子炉の欠陥にある」とはっきりと記されていた。しかも原子炉内部で起こった詳細な計算も添えられたうえで「制御棒の一斉投入による反応の急上昇、正のボイド効果による暴走」まで克明に書き込まれ、原子炉の改良策も示されていた。差出人の名は同じクルチャトフ研究所の原子炉安全部長、ウラジミール・ボルコフと書かれていた。


 私はこのボルコフという人物を探し、モスクワ市内のアパートにたずねた。ボルコフは3年前、ゆえあって脳卒中にたおれ、その後第2級の身体障害者となって在宅療養中だった。後遺症で言葉の発音が聞き取りにくいが、通訳を介して伝わるその内容は、かつてクルチャトフ研究所屈指の核物理学の論客言われたその人にふさわしいものだった。ボルコフは10年以上にわたる原子炉安全部長の在任中に、数々の事故を体験し、それを解析して安全性の向上に必要な提言を行うたびになめた辛酸をもとに、次のように話した。

 「事故のあとアレクサンドロフ所長に手紙を出したのは、実際の責任者ではなく運転員責任が転嫁されることがありうると思ったからです。私のそれまでの経験からして、今回も「炉はすばらしいが運転員の質が悪いために事故が起こってしまった」で済まされてしまうと思ったのです。それではいけないと思いました。もう10年もそんなことが続いてきたんですから。
 私が安全部長に就任した直後の1975年に、レニングラード原発で事故が起こりました。これは明らかに暴走事故だったのですが、真相は隠され、原子力界内部でも、原因は「圧力管が製造時のミスで欠陥品であったために破損した」ことにされてしまいました。私はこの時、本当の原因は原子炉の高すぎるボイド反応度係数にあることを報告書に書きました。
 冷却水のなかに蒸気が発生すると暴走しやすくなるこの性質は、原子炉の急速な巨大化に、炉のなかの反応の解析が追いつかなく成ったことから生じてしまいました。ソ連では当時、大型コンピューターの普及が遅れていたからです。
 75年に私がそれを指摘したら、研究所の指導部から「こんな問題の検討を続けるのならクビにするぞ」と、注意を受けたのです」


 実際クルチャトフ原子力研究所では、前任者の原子炉安全部長が、制御棒の本数を増やすことなど安全性向上策を提案していたが疎んじられ、別件の失敗を理由に解任されていた。

 「制御棒の欠陥についても、75年には運転員からの報告で知っていました。緊急停止スイッチAZー5を使ってテストをした時、千回のうち30~40回は出力が急上昇することがあったのです。こうしたことは研究者もみな知っていたんですが、しゃべれば身が危険だと思って黙っていたのです。現場の人々にたいしては、「われわれのほうが炉のことはよく知っていいる」という態度で押し通し、「君たちが運転の仕方を間違えたのだ」と言ってきたのです」

 ボルコフはチェルノブイリ事故の1年前にも、アレクサンドロフ所長に手紙を出し、「炉心の設計をすべて変更すべきだ」と進言したが、所長の側近が手紙を破棄してしまったという。
 「設計に携わった人々は、原子炉の欠陥を認めたら全部改善しなければならず、そんな面倒で金もかかることをやりたくないと思っていたんです。だから2000年までに200基の原子炉を稼働させるという党のプロパガンダを楯に「偉大なソ連の党と政治局が承認した化学が過ちを犯すことなどありえない。間違えるとしたら労働者しかいない」などと言って、政治の問題にすり替えてしまう。アレクサンドロフ自身も「RBME1000はワインを手作りする機械のように安全だ。赤の広場に置いてもよいくらいだ」と、一度ならず言っていたのです」


 チェルノブイリ事故5日後に出したボルコフの手紙をアレクサンドロフが知ったのは、5月14日だったという。なかなか返事が来ないので、ボルコフは思い切って、ゴルバチョフ書記長とルイシコフ・ソ連首相にも同様の趣旨の手紙を書き送った。この手紙は2人の手許に届き、ルイシコフ首相は、政治局会議の席上でそれを読み上げ、面前にすわるアレクサンドロフに感想を尋ねたという。それが5月14日だったのだ。
 ちなみに、ボルコフはその後、研究所内で「いじめ」を受け続けたという。そして、3年前のある日、職場で気分が悪くなり連れて行かれた病院で受けた注射がきっかけで、脳卒中を起こし、働けない体になってしまったという。ボルコフは、KGBが関与したことを疑い、その後、検察に調査を要請している。


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政府事故調査委員会の報告書

 86年6月末、シチェルビナ副首相が首班のソ連政府事故調査委員会は、チェルノブイリ原発事故の原因調査に関する最終報告書を作成し、ソ連共産党事故中央委員会政治局に提出した。
 1993年、私はそれまで機密扱いとなっていたこのオリジナルの報告書を初めて入手した。シチェルビナはじめ、科学アカデミー会員のレガソフ、ソ連電力電化省大臣マイオレーツ、中規模機械製作省次官メシコフら11名の政府事故調査委員会の公式メンバーが署名したこの報告書は、その後にソ連政府が世界に公表した報告書とはまるで違った率直さに満ちていた。
 まず、事故プロセスの説明において暴走・爆発に至る瞬間は、次のように記されている。

 午前1時23分40秒、運転員は緊急停止装置(AZ)を動かした。その時に、圧力管での蒸気量が増加していたことと、事故防護制御棒が下へ動き始めた時に制御防御システムのチャンネルから水が排除されたことによって、原子炉のなかの正の反応性が急に上がったため、原子炉の暴走を呼び起こした。

 ここだけ見るかぎり、1991年に出されるシュテインベルク報告書とまったく同じである。事故原因については、許可を受けていない実験を行ったこと、低い反応度操作余裕で操業したことなど、3点の運転員の規則違反が第1に指摘されたが、同時に正のボイド効果を持つ原子炉の欠陥、制御棒の構造上の欠陥も挙げられ、さらに設計上、反応度操作余裕の低下とその危険を運転員に即座に知らせる予告システムが欠けていたことまで指摘されている。


 そして事故の責任者としては、運転側から原発所長ブリュハーノフ、技師長フォミーン、ソ連電力電化省大臣マイオレーツらの名が挙げられ、設計側からは中規模機械製作省スラフスキー主任設計者ドレジャーリ、補佐をしたエミリヤノフ、学術指導者アレクサンドロフの名前が記されていた。さらに驚くべきことに報告書は、安全性に問題のあるRBMK型原子炉をこれ以上建設すべきでない、と勧告している。
 圧倒的な政治力を背景とした中規模機械製作省と、アレクサンドロスのペースで進んでいたはずの事故調査原因究明作業の結論がケンカ両成敗の形とはいえ、どうしてここまで公平に近いレベルに達したのか、その舞台裏を語る情報を、私は持たない。アレクサンドロフらの圧力に抵抗した電力電化省次官シャシャーリンの踏んばりや、クルチャトフ研究所原子炉安全部長のボルコフの内部告発が影響したのだろうか。いずれにしてもこの報告書をたたき台にした以上、原因究明の最終決着の場、ソ連共産党政治局会議が波乱に富んだ展開となったことは容易に想像できる。事故原因をめぐる戦いはここからがヤマ場だった。



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