真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ルーズベルト大統領の天皇あて親電、意図的遅配問題

2020年08月25日 | 国際・政治

 戦前の日本は、朝鮮半島をはじめアジア諸国に領土や権益の拡大を目的として侵入し、中国や欧米列強と対立して戦争に至り、無条件降伏しました。でも、敗戦後も戦争指導層が様々な活動を通して影響力を持ち続けたために、日本国憲法によって”自国のことのみに専念して他国を無視してはならない”ことを確認したはずなのに、徐々に戦前・戦中の考え方が復活し、日本の戦争を正当化する歴史の修正が進んでいるように思います。
 歴史の修正は、戦争に関わった人たちのもっともらしい証言や都合のよい史料を使って、巧妙に、幅広くなされているため、なかなか厄介だと思います。
 歴史学者は、「そのとき」「その場で」「その人が」の三要素を充たした文献を「一次史料」と呼ぶそうですが、やはり、可能な限りそうした一次史料に当たらないと、日本の歴史修正の事実はなかなか見えてこないような気がします。

 開戦に至る日米交渉の史料を読むと、日本が武力を背景として中国で権益を拡大し、それを手放すことに同意できなくて、ハル・ノート(「合衆国及日本国間協定ノ基礎概略」)を「日本に対する最後通牒である」と受け止めたことがわかります。でも、 ハル・ノートは「最後通牒」でもなんでもありません。九ヶ国条約の尊重を日本に求めた米国務長官の覚書です。

 見逃せないのが、このハル国務長官の覚書を十一月二十六日に受領し、翌二十七日の大本営政府連絡会議で「宣戦に関する事務手続順序」及び「戦争遂行に伴ふ国論指導要綱」を採択し、十二月一日の御前会議で戦争開始の国家意思を決定すること、また、開戦の翌日に「宣戦ノ詔書」により宣戦布告を行うことなどを決定していることです。

 すでに取り上げたように「開戦ニ関スル条約」(1907年十月月十八日にハーグで署名された宣戦布告に関する条約)には、その「第一条」で”締約国ハ理由ヲ附シタル開戦宣言ノ形式又ハ条件附開戦宣言ヲ含ム最後通牒ノ形式ヲ有スル明瞭且事前ノ通告ナクシテ其ノ相互間ニ戦争ヲ開始スヘカラサルコトヲ承認ス”とあるのです。にもかかわらず、日本の国家意思決定にかかわる大本営政府連絡会議が、国際法を無視して、開戦の翌日に宣戦布告を行うことを決めているのです〔Y(X+1)日宣戦布告〕。

 ハル国務長官の覚書に対して、日本側は十日以上間を置き、十二月七日になって、長文の「対米外交打切り通告文」を返したのですが、それは、アメリカ政府高官バランタイン氏が、東京裁判において証言したように、”理由を付した宣戦布告でもなく、最後通牒でもなかった。それは外交関係断絶の意思表示とさえも解されなかった”といえるようなものであった上に、それが、”真珠湾攻撃から一時間以上のちに、マレー半島に日本軍が上陸してから二時間以上後、また上海共同租界の境界を日本軍が越えてから四時間後におこなわれたものである”というのです。形式の面でも、事前通告の面でも、国際法に違反していたということだと思います。

 そして、「ルーズベルト大統領の天皇あて親電」の配達遅延もあって、開戦に至りました。「ルーズベルト大統領の天皇あて親電」は、日米の関係者が、日本の外務省を通じてではなく、大統領が直接、天皇に電報を送れば、戦争は回避できるのではないかということで、最後の望みを託したものでした。

 ハル国務長官は、十二月六日ワシントン時間午後九時(日本時間七日午前十一時)、ルーズベルト大統領の天皇あて親電を、グルー大使あて打電しています。でも、東郷外相は、キーナン検事の尋問に、”グルー大使が解読して清書したものを日本文に翻訳しそれを陛下にお目にかけたわけです。十二月八日午前三時すぎだったと思います”と答えているのです。奇襲攻撃後で、手後れだったのです。

 1941年十二月七日正午に中央電信局に着電したルーズベルト大統領の親電(大至急指定)がグルー大使に配達されたのは、午後十時半ごろであったというのです。大至急指定の電報が、 十時間以上経過して配達されたのです。それが意図的であったことは、下記の抜粋文でわかります。

 当時外国電信課に所属していた白尾干城・電信通信官によれば、参謀本部通信課の戸村盛雄少佐から、外国電報の配達を遅らせるよう電話で要請されたといいます。 

 

 宣戦布告とはいえない「対米外交打切り通告文」の手交もハワイ奇襲攻撃後のことでした。

 皇国日本では、”天皇の御稜威(ミイツ)”を”四方”に広げる、という”肇国の大精神”に基づく”大東亜の建設”が最優先され、国際法が軽視ないし無視されていたということではないかと思います。 皇国日本は、米国大統領の天皇にあてた大至急指定の親電さえも、意図的に遅配させ、奇襲攻撃をする国であったのです。

 ハル国務長官が、ルーズベルト大統領の天皇あて親電をグルー大使あてに打電した後、アメリカのマスコミがそれを公表していたため、親電を無視した宣戦布告なき真珠湾奇襲攻撃に対し、それまで開戦に反対していた人たちまで、”戦争に向って一致結束させる口実を与えてしまった”という指摘は、重く受け止めなければならないと思います。

 下記は、「戦史叢書 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯<5>」防衛庁防衛研究所戦史室著(朝雲新聞社)の「第二十章 開戦 ─ 十二月一日の御前会議」から「ルーズベルト大統領の天皇あて親電」から抜粋しました。
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         第二十章 開戦 ─ 十二月一日の御前会議

 ルーズベルト大統領の天皇あて親電
 十二月六日ワシントン時間午後九時(日本時間七日午前十一時)ハル国務長官は、ルーズベルト大統領の天皇あて親電を、グルー大使あて打電した。それは「親愛なるコーデル、これをグルーにだでんせよ。灰色符号で打てると思う、時間の節約になる。傍受されても構わぬ」と命じたものであった。その一時間ニ十分前米国政府は既にそのことを新聞に発表していた。そして一時間前の午後八時(日本時間七日午前十時)ハル長官はグルー大使あて第八一七号電で「貴下が出来るだけ早い時機に伝達する必要のある大統領から天皇宛メッセージの本文を含む貴下宛の重要な電報が今暗号化されつつある」と知らせたのだった。
 十二月七日(日本時間)午前─おそらく十時(ワシントン時間六日午後八時)ごろであろう。─ 同盟通信社はAP及びUP通信によって右天皇あて大統領メッセージ発出のことを知り、関係要路に知らせた。そこで東郷外相は野村大使当て午後二時紹介電報を打ったりした。
 しかるにジョセフ・C・グルーによれば、駐日米国大使館が前記第八一七号電を受領したのは七日午後九時ごろ(日本時間)、大統領のメッセージを受領したのは午後十時半ごろであったという。そしてそのメッセージを日本の電信局が受信した時刻が午後零時(ワシントン時間六日十時)であることが記されていたというのであった。すなわち中央電信局が大統領親電を受信してから約十時間経過した後届けたことになるのである。それはだれかがわざと遅らせたことを意味するものであった。グルー大使は七日午後三時ごろ、米国の放送局が大統領から天皇あてメッセージを送ったむね放送したことを聞いて知っていた。
 右電報送達の遅延は、陸軍省、参謀本部、〔事務当局は陸軍省防衛課(軍機の保護及び防諜に関する事項等を掌る)、参謀本部通信課〕が協議の上、逓信省の電務局外国電信課に要請して、十一月二十九日以来行って来たことであった。それは開戦決意確定に伴う防諜工作の一つであり、開戦企図及びその他の秘匿に少しでも役立てるためのものであった。当時右外国電信課に所属し、逓信省の検閲室を監督していた白尾干城によれば次のような経緯があった。すなわち十一月二十九日白尾電信官は業務上熟知の参謀本部通信課の戸村盛雄少佐から、外国電報をすべて五時間ずつ配達を遅らせるよう電話で要請された。同電信官は直ちに中央電信局に電話し、「外国電報は発送電報も到着電報も皆五時間差止めにするよう命令」した。もとより日本政府及び恐らくは獨伊両国政府の電報はその適用から除かれた。白尾電信官日記には「夕方帰宅後電話にて外電遅延工作戸村少佐と打合せ中電に手配す」と記されている。十二月六日に至り右電報の差止め時間は、戸村少佐の要請により一日おきに、五時間の場合と十時間の場合とを繰返すことに変更された。そして、十二月七日午後白尾電信官は、米国大統領から天皇あてのメッセージを送られたことを知った。それと前後して戸村少佐から「今後電報は全部十五時間遅らせる様」にという電話に接し、それに応ずる措置を取ったというのであった。
 戸村少佐が特に十五時間遅らせるようにと要請したのは、ルーズベルト大統領の天皇あてメッセージが、時間切れになってしまうことをねらったのであった。十二月八日午前零時という武力発動の期限までに、あと多くも十二時間しか残っていないのである。戸村少佐によれば「十二月七日正午ころ米国大統領から陛下あて親電が送られたということを知った。この日参謀本部は企図秘匿上出勤する人が少なく至って閑散であった。作戦課の瀬島少佐から、前日馬來上陸船団に触接して来た敵機を友軍機が激撃し、すでに戦闘が開始されたこと、そしてそのことは杉山参謀長から陛下に上奏済みであることを聞いた。今更米国大統領から親電がきてもどうにもなるものではない、かえって混乱の因となると思って、右親電をおさえる措置をとった」というのであった。
 十二月七日午後十時十五分グルー大使は、重要緊急案件につき訓令が接到し電文解釈中であるから、間もなく会見したいと申入れ、八日午前零時半ごろ東郷外相を官邸に訪問した、グルー大使はルーズベルト大統領から天皇あて親電が到着したこと、及びそれを直接天皇に拝謁して奉呈するよう訓令されていることを告げ、東郷外相に斡旋を求めた。同外相は拝謁は夜分のことでもあり明朝でなければ手続き致しかねるが、拝謁できるかどうかは親電の内容にもよるという意味合いを述べた。グルー大使は親電写しを非公式に手交し、再会を約して会談十数分で辞去した。ルーズベルト大統領親電の全文は次のとおりである。

日本国天皇陛下
 約一世紀前米国大統領ハ日本国天皇ニ対シ書ヲ致シ、米国民ノ日本国民ニ対スル友好ヲ申出タル処右ハ受諾セラレ、爾来不断ノ平和ト友好ノ長期間ニ亙リ、両国民ハ其ノ徳ト指導者ノ叡智ニヨリテ、繁栄シ人類ニ対シ偉大ナル貢献ヲ為セリ。
 陛下ニ対シ余ガ国務ニ関シ親書ヲ呈スルハ両国ニ取リ特ニ重大ナル場合ニ於テノミナルガ、現ニ醸成セラレツツアル深刻且広汎ナル非常事態ニ鑑ミ、茲ニ一書ヲ呈スベキモノト感ズル次第ナリ。日米両国民及全人類ヲシテ、両国間ノ長年ニ亙ル平和ノ福祉ヲ喪失セシメントスルガ如キ事態ガ現ニ太平洋地域ニ発生シツツアリ。右情勢ハ悲劇ヲ孕ムモノナリ。米国民ハ平和ト諸国家ノ共存ノ権利トヲ信ジ過去数ヶ月ニ亙ル日米交渉ヲ熱心ニ注視シ来レリ。吾人ハ支那事変ノ終息ヲ祈念シ、諸国民ニ於テ侵略ノ恐怖ナクシテ共存シ得ルガ如キ太平洋平和ガ実現セラレンコトヲ希望シ、且堪ヘ難キ軍備ノ負担ヲ除去シ、又各国民ガ如何ナル国家ヲモ排撃シ若クハ之ニ特恵ヲ与フルガ如キ、差別ヲ設ケザル通商ヲ復活センコトヲ念願セリ。右大目的ヲ達成センガ為ニハ、陛下ニ於カレテモ余ト同ジク日米両国ハ如何ナル形式ノ軍事的脅威ヲモ除去スルコトニ同意スベキコト明瞭ナリト信ズ。
 約一年前陛下ノ政府ハ「ヴィシー」政府ト協定ヲ締結シ、之ニ基キ北部佛領印度支那ニ同地方ニ於テ支那軍ニ対シ行動シ居リタル日本軍保護ノ為ニ五、六千ノ軍隊ヲ進駐セシメタリ。而シテ本年春及夏「ヴィシー」政府ハ佛領印度支那共同防衛ニ為ニ更ニ日本部隊ノ南部佛印進駐ヲ許容セリ。
 余ハ佛領印度支那ニ対シ何等ノ攻撃モ行ハレタルコトナク、又攻撃ヲ企図セラレタルコトナシト言明シテ差支ナシト思考ス。最近数週間日本陸海軍部隊ハ夥シク南部佛領印度支那ニ増強セラレタルコト明白トナリタル為、他国ニ対シ印度支那ニ於ケル集結ノ継続ガ其ノ性質上防禦的ニ非ズトノ尤モナル疑惑ヲ生ゼシムルニ至レリ。
 右印度支那ニ於ケル集結ハ極メテ大規模ニ行ハレ、又右ハ今ヤ同半島ノ南東及南西端ニ達シタルヲモッテ、比島、東印度数百ノ島嶼、馬来及泰国ハ、日本軍ガ之等地方ノ何レカニ対シ攻撃ヲ準備乃至企図シ居ルニ非ズヤト猜疑シツツアルハ蓋シ当然ナリ。之等住民ノ総テガ抱懐スル恐怖ハ、其ノ平和及国民的存立ニ関スルモノナルガ故ニ、斯ル恐怖ハ当然ナルコトハ陛下ニ於カレテモ御諒解アラセラルル所ナリト信ズ。余ハ攻撃措置ヲ執リ得ル程度ニ、人員ト装備トヲ為セル陸海及空軍基地ニ対シ、米国民ノ多クガ何故ニ猜疑ノ眼ヲ向クルカヲ、陛下ニ於カセラレテハ御諒解相成ルベシト思惟ス。
  斯ル事態ノ継続ハ到底考ヘ及バザル所ナルコト明カナリ。余ガ前述シタル諸国民ハ何レモ無限ニ若クハ恒久ニ「ダイナマイト」樽ノ上ニ坐シ得ルモノニ非ズ。
 若シ日本兵ガ全面的ニ佛領印度支那ヨリ撤去スルニ於テハ合衆国政府ハ同地ニ侵入スルノ意図毫モナシ。
 余ハ東印度政府、馬來諸政府及泰国政府ヨリ同様ノ保障ヲ求メ得ルモノト思考シ、且支那政府ニ対シテスラ同様保障ヲ求ムル用意アリ。斯クシテ日本軍ノ佛印ヨリノ撤去ハ全南太平洋地域ニ於ケル平和ノ保障ヲ招来スベシ。
 余ガ陛下ニ書ヲ致スハ、此ノ危局ニ際シ陛下ニ於カレテモ同様暗雲ヲ一掃スルノ方法ニ関ソ考慮セラレンコトヲ希望スルガ為ナリ。余ハ陛下ト共ニ、日米両国民ノミナラズ隣接諸国ノ住民ノ為メ、 両国民間ノ伝統的友誼ヲ恢復シ、世界ニ於ケル此ノ上ノ死滅ト破壊トヲ防止スルノ神聖ナル責務ヲ有スルコトヲ確信スルモノナリ。
                               千九百四十一年十二月六日
                                 ワシントンニ於テ
                                 フランクリン・ディ・ルーズベルト  

 


 

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東京裁判NO14 12月8日対米外交打切り通告文書(宣戦布告)②

2020年08月21日 | 国際・政治

 前ページで取り上げたように、アメリカ政府高官バランタイン氏は、東京裁判において、日本の宣戦布告が、実は「対米外交打切り通告文」であったこと、そしてそれは”理由を付した宣戦布告でもなく、最後通牒でもなかった。それは外交関係断絶の意思表示とさえも解されなかった”といえるようなものであったこと、さらにそれが、”真珠湾攻撃から一時間以上のちに、マレー半島に日本軍が上陸してから二時間以上後、また上海共同租界の境界を日本軍が越えてから四時間後におこなわれたものである”ことなどを証言しました。

 だから、日本の「宣戦布告」に、国際法上重大な問題があったことは否定できません。
 日本が対米英蘭に対する開戦を決定したのは、十二月一日の御前会議です。十二月二日には杉山参謀総長から寺内南方軍総司令官あて、下記のような軍機電報が発電されているのですが、八日の奇襲攻撃も決定されていたのです。
 参電第五二九号
一 大陸命第五六九号(鷲)発令アラセラル。
ニ 「ヒノデ」は「ヤマガタ」トス。
三 御稜威ノ下切ニ御成功ヲ祈ル。
四 本電受領セバ第二項ノミ復唱電アリ度。

 着々と準備が進められていたのに、宣戦布告が事前になされず、奇襲攻撃の後になったのはなぜなのか。
 この”「ヒノデ」は「ヤマガタ」トス”というのは、連絡会議において決定されていた「宣戦ニ関スル事務手続順序ニ付テ」の”Y(X+1)日宣戦布告”とあるX(奇襲攻撃)について”X日ハ、十二月八日トス”の隠語であったということです。
 したがって、奇襲攻撃の翌日に宣戦布告をする計画が進められていたことがわかります。でもその後、関係者の間で攻撃開始と宣戦布告の関係について様々なやり取りが続けられ、バランタイン氏が証言したような「宣戦布告」になったようです。
 でも、決定にあたって石井大佐が述べたように、”事前布告のヘーグ条約の義務は誰も心得ていた。しかも尚且つ条約違反よりも作戦の成功を重視した”という考えが働いていたことは否定できないと思います。”攻むれば必ず取り、戦えば必ず勝ち、遍く皇動を宣布し、敵をして仰いで御稜威(ミイツ)の尊厳を感銘せしむる”ために、日本の中枢で、堂々と国際法を無視した宣戦布告の話し合いがなされていたのです。

 そしてそれは、九ヶ国条約を蔑ろにし、ハル・ノートを米国の日本に対する最後通牒であり、宣戦布告であると受け止める姿勢と共通のものだと思います。
 九ヶ国条約を背景とする、ハル・ノート(「合衆国及日本国間協定ノ基礎概略」)の四つの原則
  (一)一切ノ国家ノ領土保全及主権ノ不可侵原則
  (二)他ノ諸国ノ国内問題ニ対スル不関与ノ原則
  (三)通商上ノ機会及待遇ノ平等ヲ含ム平等原則  
  (四)紛争ノ防止及平和的解決並ニ平和的方法及手続ニ依ル国際情勢改善ノ為メ国際協力及国際調停尊據ノ原則
は、日本を不当に差別扱いするものではなく、ごく当たり前の原則だと思います。この原則を日本に要求することがどうして”米ノ回答全ク高圧的ナリ。而シテ意図極メテ明確、九国条約ノ再確認是ナリ。対極東政策ニ何等変更ヲ加フルノ誠意全クナシ。交渉ハ勿論決裂ナリ。…”ということになるのか、現在の常識的な判断では理解できないことだと思います。だから、ハル・ノートを最後通牒と受け止めた皇国日本は、やはり近代法の精神を尊重せず、”皇国の威徳を四海に宣揚”するために、条約や国際法を蔑ろにする国であったと思います。

 さらに言えば、下記に抜萃した「対米外交打切り通告」は、どう考えてもいわゆる「宣戦布告」の文書ではないと思います。「戦ヲ宣ス」という言葉はどこにもありません。また書かれている内容も、大部分、武力を背景とした日本の対外政策を過去にさかのぼって正当化し、米国の対応をいちいち非難する一方的なものだと思います。 ハル国務長官がこの文書を読み、野村・来栖両大使に向かい怒りをあらわにしたのも不思議ではないと思います。
 また、開戦という非常事態の時に、「開戦の詔書」をはるかに上回る長文の「対米外交打切り通告」の文書を米側に手交したことも、何か意図的な気がします。当時の日本は”攻むれば必ず取り、戦えば必ず勝ち、遍く皇動を宣布し、敵をして仰いで御稜威の尊厳を感銘せしむる”ためには、国際法無視も大した問題ではないと考える国だったのではないかと思うのです。

下記は、「戦史叢書 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯<5>防衛庁防衛研究所戦史室著(朝雲新聞社)から「外交打切り通告文」を中心に抜粋しました。
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        第二十章 開戦 ─ 十二月一日の御前会議

 対米外交打切り通告文の打電
 さて問題の対米外交打切り通告は、東郷外相發野村大使あて第901号、第902号、第907号の三つの電報をもって訓令された。十ニ月七日午前四時から発電する予定が、六日午後八時三十分からに変更された。第901号電は次のとおりである。

 第901号(館長符号)
 往電第八四四号ニ関シ、
一 政府ニ於テハ十一月二十六日ノ米側提案ニ付慎重廟議(ビョウギ)ヲ尽シタル結果、別電第902号ノ対米覚書ヲ決定セリ。
二 右別電覚書ハ長文ナル関係モアリ、全部(十四部ニ分割打電スベシ)接受セラルルハ明日トナルヤモ知レザルモ刻下ノ情勢ハ極メテ機微ナルモノアルニ付、右御受領相成リタルコトハ差当リ厳秘ニ附セラルル様致サレ度シ。
三 右覚書ヲ米側ニ提示スベキ時期ニ付テハ、追ッテ別ニ電報スベキモ、右別電接到ノ上ハ訓令次第何時ニテモ米側ニ手交シ得ル様、文書ノ整理其他予メ万端ノ手配ヲ了シ置カレ度シ。
 別電の第902号電は通告文そのものであり、これを十四通に区分し、第十四通が前記通告文の最後の項(第七項)であった。そして第907号電が次のような覚書手交時刻を指令したものであった。
 第907号 大至急(館長符号)
 往電第901号ニ関シ
 本件対米覚書貴地時刻七日午後一時ヲ期シ米側ニ(成るべく国務長官ニ)貴大使ヨリ直接御手交アリ度シ。

 右第901号と第902号の最初からの十三通は、十二月六日午後八時三十分から七日午前零時ニ十分の間に、外務省内電信分局から東京中央電信局に送られ、中央電信局はそれを六日午後九時十分から七日午前一時五十分の間に米国向け発電した。第902号の第十四通は迅速かつ正確な華府到着を期するため、米国のMKY及びRCAの両路線を通じ、一時間の差をおいて同文がそれぞれ発電された。その二重通信の着意は連絡会議において申合されていたことでもあった。すなわち右第十四通は七日午後四時外務省電信分局から中央電信局に送られ、中央電信局はそれを七日午後五時MKY経由、午後六時RCA経由でそれぞれ発電した。そして同じ要領に従った最後の第907号電の発信電時刻は、外務省電信分局が七日午後五時三十分、中央電信局が七日午後六時三十分(MKY)、又は同午後六時二十八分(RCA)であったのである。
 当時外務省電信課長であった龜山一二によれば、「当時の日米間に於ける通信状況は一般に良好で、電信連絡所要時間は大体三十分ないし一時間」であり、また「日米交渉関係電報はすべて官報であったばかりでなく、米国電信会社に於ても時局柄此の種電報の処理は迅速を期したものと想像せられ、仮に受信後二時間にして在華府(ワシントン)日本大使館に電報が送達せられたとすれば」ワシントン時間で次のような日時に訓電は日本大使館に到着していたはずであるというのであった。
 第901号      十二月六日十時ごろ
 第902号の十三通  同日午前十一時ないし午後三時ごろ
 第902号の第十四通 十二月七日午前六時ないし七時
 第907号      同日午前七時半ごろ
 以上外務当局の措置は綿密周到至れり尽くせりというべきであった。すなわち十二月七日午後一時(ワシントン時間)の外交打切通告は十分間に合うはずであった。

 外交打切り通告文手交の遅延
 しかるに右外交打切りの対米覚書が、野村大使からハル国務長官に手交されたのはワシントン時間十二月七日午後二時ニ十分であり、それより早くも一時間前(ハワイ時間七日午前七時五十分)ハワイ空襲は開始されていたのである。
 来栖大使に随行渡米した前亜米利加局第一課長結城司郎次及び当時駐米大使館附海軍武官補佐官であった實松譲大佐によれば十二月六日から七日(ワシントン時間)にかけての大使館の動きは以下のとおりであった。すなわち前記訓電第901号は六日(土曜日)正午までに解読を終了した。次いで続々到着した訓電第902号の始めの八~九通の解読も午後七時ごろまでに終わった。その間に「往電第902号ニ関シ申ス迄モナキコト乍ラ本件覚書ヲ準備スルニ当リテハ、『タイピスト』等ハ絶対ニ使用セザル様、機密保持ニハ此上共慎重ヲ期セラレ度シ」という第904号訓電(東京時間十二月六日午後十一時外務省分局発信)が到着解読済みであった。
 当夜転勤の一館員のための送別晩餐会が催され、一時作業は中断したが、電信課員は右送別会終了後再び大使館に帰り、第902号電の第十三通までの解読を夜半までに全部終了した。右解読の進むに従い、前記第901号訓電の趣旨に基づき、それは点検、整理、タイプせらるべきものであった。その主任者は大使館の総務担当たる奥村勝蔵書記官であり、大使館高等官職員中一応タイプの打てるのは同書記官だけであった。しかるに奥村書記官は同夜友人との約束があり、右作業は翌日まで全く放置された。井口貞夫参事官、松平康東書記官、寺崎英成書記官ももとより不在であった。電信課員らも六日夕刻井口参事官から、自由行動を取ってもよろしいとの指示があったことでもあり、七日早暁当直一名を残して引揚げてしまった。その後に肝腎の第902号電の第十四通及び第907号訓電が到着しているのであった。
 いつも出勤の早い奥村書記官の日曜日十二月七日の出勤は遅かった。午前九時ごろ實松海軍武官補佐官が出勤すると、大使館にはまだだれもおらず
(当直の電信課員も日曜日のミサに行っていた)郵便受には新聞電報等がいっぱい詰まっていた)電信課員が出勤して電報解読に取りかかったのは午前十時ころであった。第907号電の解読が終わったのは午前十一時、第902号第十四通の解読完了は遅れて午後零時三十分ころであった。奥村書記官の出勤した時刻は明らかでないが、不慣れなタイプに時間を要するのは当然であり──不出来のため最初の十三通の打直しを行ったりした──第902号電すなわち対米覚書全文のタイプが完了したのは午後一時五十分であった。
 午前十一時ごろ第907号電の解読完了に伴い、直ちに電話をもって午後一時におけるハル国務長官との会見が取付けられた。最初は午餐の先約があるからウェルズ次官と会ってくれということであったが、間もなく国務省で午後一時会見すると申越して来た。米側は七日午前十時三十分までに、第901号、第902号、第907号電全部の暗号解読及び関係要路への配布を終っていたのである。 午後一時五十分覚書のタイプ完了に伴い、大使館玄関で待っていた野村・来栖両大使は、国務省に急行し午後二時ごろ到着した。書類の準備遅延のため午後一時の訪問が遅れるかも知れぬということは既に先方の了解を得ていた。覚書手交が午後二時ニ十分となったのは、国務省で約ニ十分待たされたからであった。それはハル国務長官が日本軍のハワイ空襲を確認するためであった。野村大使が「午後一時この回答を貴長官に手交すべく訓令を受けた」と述べたところ、ハル長官は「何故一時か」と尋ねた。野村大使は「何故なるを知らず」と答えざるを得なかった。ハワイ空襲が行われていたことなどもとより知る由もなかった。覚書を受取ったハル国務長官の口から出た言葉は「五十年の公生活において私はこれ以上恥ずべき虚偽歪曲に満ちた文書を嘗て一度も見て来なかった。この恥ずべき虚偽歪曲は極めて大規模であり、地球上の如何なる政府もこれを述べ得るものとは私は嘗て思いもよらなかった」というのである。虚偽歪曲に満ちた文書であるか否かは歴史が判定すべきことである。
ーーー
 外交打切り通告文
 問題の対米覚書の前記末項(第七項)を除く全文は次のとおりであった。

一 帝国政府ハ「アメリカ」合衆国政府トノ間ニ友好的諒解ヲ遂ゲ両国共同ノ努力ニ依リ太平洋地域ニ於ケル平和ヲ確保シ、モッテ世界平和ノ将来ニ貢献セントスル真摯ナル希望ニ促サレ、本年四月来合衆国政府トノ間ニ両国国交ノ調整増進竝太平洋地域ノ安定ニ関シ、誠意ヲ傾倒シテ交渉ヲ継続シ来タリタル処、過去八月ニ亙ル交渉ヲ通シ合衆国政府ノ固持セル主張竝此間合衆国及英国ノ帝国ニ対シ執レル措置ニ付、茲ニ率直ニ其所信ヲ合衆国政府ニ開陳スルノ光栄ヲ有ス

二 東亜ノ安定ヲ確保シ世界ノ平和ニ寄与シ、モッテ万邦ヲシテ各其所ヲ得シメントスルハ帝国不動ノ国是ナリ。曩ニ中華民国ハ帝国ノ真意ヲ解セズ不幸ニシテ支那事変ノ発生ヲ見ルニ至レルモ、帝国ハ平和克復ノ方途ヲ講ズルト共ニ、戦禍ノ拡大ヲ防止センガ為終始最善ノ努力ヲ致シ来レリ。客年九月帝国が獨伊両国トノ三国条約ヲ締結シタルモ亦右目的ヲ達成センガ為ニ外ナラズ。然ルニ合衆国及英帝国ハ、有ラユル手段ヲ竭シ重慶政権ヲ援助シテ日支全面和平ノ成立ヲ妨碍シ、東亜ノ安定ニ対スル帝国ノ建設的努力ヲ控制セルノミナラズ、或ハ蘭領印度ヲ牽制シ、或ハ仏領印度支那ヲ脅威シ、帝国ト此等諸地域トガ相携ヘテ共栄ノ理想ヲ実現セントスル企図ヲ阻害セリ。殊ニ帝国ガ佛国トノ間ニ締結シタル議定書ニ基キ、佛領印度支那共同防衛ノ措置ヲ講ズルヤ、合衆国政府及英国政府ハ之ヲモッテ自国領域ニ対スル脅威ナリト曲解シ、和蘭国ヲモ誘ヒ資産凍結令ヲ実施シテ帝国トノ経済断交ヲ敢テシ、明カニ敵対的態度ヲ示スト共ニ、帝国ニ対スル軍備ヲ増強シ帝国包囲ノ態勢ヲ整ヘ、モッテ帝国ノ存立ヲ危殆ナラシムルガ如キ情勢ヲ誘致スルニ至レリ。右ニ拘ラズ帝国総理大臣ハ本年八月事態ノ急速収拾ノ為メ合衆国大統領ト会見シ、両国間ニ存在スル太平洋全般ニ亙ル重要問題ヲ討議検討センコトヲ提議セリ。然ルニ合衆国政府ハ右申入ニ主義上賛同ヲ与へ乍ラ、之ガ実行ハ両国間重要問題ニ関シ意見一致ヲ見タル後トスベシト主張シテ譲ラズ。

三 仍テ帝国政府ハ九月二十五日、従来ノ合衆国政府ノ主張ヲモ充分考慮ノ上、米国案ヲ基礎トシ之ニ帝国政府ノ主張ヲ取入レタル一案ヲ提示シ議論ヲ重ネタルガ、双方ノ見解ハ容易ニ一致セザリシヲモッテ、現内閣ニ於テハ従来交渉ノ主要難点タリシ諸問題ニ付、帝国政府ノ主張ヲ更ニ緩和シタル修正案ヲ提示シ交渉ノ妥結ニ努メタルモ、合衆国政府ハ終始当初ノ主張ヲ固執シ協調的態度ニ出ズ交渉ハ渋滞セリ。茲ニ於テ十一月二十日ニ至リ、帝国政府ハ両国交渉ノ破綻ヲ回避スル為メ最善ノ努力ヲ尽ス趣旨ヲモッテ、枢要且緊急ノ問題ニ付公正ナル妥結ヲ図ル為メ前記提案ヲ簡単化シ、(一)両国政府ニ於テ佛印以外ノ南東亜細亜及南太平洋地域ニ武力進出ヲ行ハザル旨ヲ確約スルコト、(二)両国政府ニ於テ蘭領印度ニ於テ其ノ必要トスル物資ノ獲得ガ保障セラルル様相互ニ協力スルコト、(三)両国政府ハ相互ニ通商関係ヲ資産凍結前ノ状態ニ復帰スルコト、合衆国政府ハ所要ノ石油ノ対日供給ヲ約スルコト、(四)合衆国政府ハ日支両国ノ和平ニ関スル努力ニ支障ヲ与フルガ如キ行動ニ出デザルコト (五)帝国政府ハ日支間和平成立スルカ、又ハ太平洋地域ニ於ケル公正ナル平和確立スル上ハ、現ニ佛領印度支那ニ派遣セラレ居ル日本軍隊ヲ撤退スベク、又本了解成立セバ現ニ南部佛領印度支那ニ駐屯中ノ日本軍ハ之ヲ北部佛領印度支那ニ移駐スルノ用意アルコト等、ヲ内容トスル新提案ヲ提示シ、同時ニ支那問題ニ付テハ、合衆国大統領ガ曩ニ言明シタル通リ、日支和平ノ紹介者ト為ルニ異議ナキモ、日支直接交渉開始ノ上ハ、合衆国ニ於テ日支和平ヲ妨碍セザル旨ヲ約センコトヲ求メタルガ、合衆国政府ハ右提案ヲ受諾スルヲ得ズト為セルノミナラズ、援蒋行為ヲ継続スル意思ヲ表明シ、次デ更ニ前記ノ言明ニ拘ラズ、大統領ノ所謂日支和平ノ紹介ヲ行フノ時機猶熟セズトテ之ヲ撤回シ、遂ニ十一月二十六日ニ至リ、偏ニ合衆国政府ガ従来固執セル原則ニ強要スルノ態度ヲモッテ、帝国政府ノ主張ヲ無視セル提案ヲ為スニ至リタルガ、右ハ帝国政府ノ最モ遺憾トスル所ナリ。

四 抑々本件交渉開始以来、帝国政府ハ終始専ラ公正且謙抑ナル態度ヲモッテ鋭意妥結ニ努メ、屡々難キヲ忍ビテ能フ限リノ譲歩ヲ敢テシタルガ、交渉上重要事項タリシ支那問題ニ関シテモ協調的態度ヲ示シ、合衆国政府ノ提唱セル国際通商上ノ無差別待遇ノ原則的遵守ニ付テハ本原則ノ世界各国ニ行ハレンコトヲ希望シ、且其ノ実現ニ順応シテ之ヲ支那ヲモ含ム太平洋地域ニ適用スル様努力スベキ旨ヲ表明シ、尚支那ニ於ケル第三国ノ公正ナル経済活動ハ何等之ヲ排除スルモノニアラザルコトヲモ闡
明セルガ、更ニ佛領印度支那ヨリノ撤兵ニ付テモ、情勢緩和ニ資スルガ為メ前述ノ如ク南部佛領印度支那ヨリノ即時撤兵ヲ進ンデ提議スル等、極力妥協ノ精神ヲ発揮セルハ合衆国政府ノ夙ニ諒解スル所ナリト信ズ。然ルニ合衆国政府ハ常ニ理論ニ拘泥シ現実ヲ無視シ、其ノ抱懐スル非実際的原則ヲ固執シテ何等譲歩セズ、徒ラニ交渉ヲ遷延セシメタルハ帝国政府ノ諒解ニ苦ム所ナルガ、特ニ左記諸点ニ付テハ合衆国政府ノ注意ヲ喚起セザルヲ得ズ
(一)合衆国政府ハ世界平和ノ為メナリト称シテ自己ニ好都合ナル諸原則ヲ主張シ、之ガ採択ヲ帝国政府ニ迫レル処、世界ノ平和ハ現実ニ立脚シ、且相手国ノ立場ニ理解ヲ持シ、相互ニ受諾シ得ベキ方途ヲ発見スルコトニ依リテノミ具現シ得ルモノニシテ、現実ヲ無視シ一国ノ独善的主張ヲ相手国ニ強要スルガ如キ態度ハ、交渉ノ成立ヲ促進スル所以ノモノニアラズ。
 今般合衆国政府ガ日米協定ノ基礎トシテ提議セル諸原則ニ付テハ、右ノ中ニハ帝国政府トシテ趣旨ニ於テ賛同吝カナラザルモノアルモ、合衆国政府ガ直ニ之ガ採択ヲ要望スルハ、世界ノ現状ニ鑑ミ架空ノ理念ニ駆ラルルモノトイフ外ナシ。尚日、米、英、支、蘇、蘭、泰七国間ニ多辺的不可侵条約ヲ締結スルノ案ノ如キモ、徒ラニ集団的平和機構ノ旧構想ヲ追フノ結果、東亜ノ実情ト遊離セルモノトイフノ外ナシ
(二)合衆国政府今次ノ提案中ニ、「両国政府ガ第三国ト締結シ居ル如何ナル協定モ、本取極ノ根本目的タル太平洋全域ノ平和確保ニ矛盾スルガ如ク解釈セラレザルコトニ付合意ス」トアルハ、即チ合衆国ガ欧州戦争ニ参入ノ場合ニ於ケル帝国ノ三国条約上ノ義務履行ヲ牽制セントスル意図ヲモッテ提案セルモノト認メラルルヲモッテ、右ハ帝国政府ノ受諾シ得ザル所ナリ。
(三)合衆国政府ハ其ノ固持スル主張ニ於テ、武力ニ依ル国際関係処理ヲ排撃シツツ、一方英帝国等ト共ニ経済力ニ依ル圧迫ヲ加ヘツツアル処、斯ル圧迫ハ場合ニ依リテハ武力圧迫以上ノ非人道的行為ニシテ、国際関係処理ノ手段として排撃セラルベキモノナリ。
(四)合衆国政府ノ意図ハ、英帝国其他ノ諸国ヲ誘引シ、支那其ノ他東亜ノ諸地域ニ対シ、其ノ従来保持セル支配的地位ヲ維持セントスルモノト見ルノ外ナキ処、東亜諸国ガ過去百有余年ニ亙リ、英米ノ帝国主義的搾取政策ノ下ニ現状維持ヲ強ヒラレ、両国繁栄ノ犠牲タルニ甘ンゼザルヲ得ザリシ歴史的事実ニ鑑ミ、右ハ万邦ヲシテ各々其ノ所ヲ得シメントスル帝国ノ根本国策ト全然背馳スルモノニシテ、帝国政府ノ断ジテ容認スル能ハザル所ナリ。合衆国政府今次提案中佛領印度支那ニ関スル規定ハ正ニ右態度ノ適例ト称スベク、佛領印度支那ニ関シ、佛国ヲ除キ日、米、英、蘭、支、泰六国間ニ、同地域ノ領土主権尊重竝ニ貿易及通商ノ均等待遇ヲ約束セントスルハ、同地域ヲ六国政府ノ共同保障ノ下ニ立タシメントッスルモノニシテ、佛国ノ立場ヲ全然無視セル点ハ暫ク措クモ、東亜の事態ヲ紛糾ニ導キタル最大原因ノ一タル九国条約類似ノ体制ヲ、新ニ佛領印度支那ニ拡張セントスルモノト観ルベキニシテ、帝国政府トシテ容認シ得ザル所ナリ。
(五)合衆国政府ガ支那問題ニ関シ帝国ニ要望セル所ハ、或ハ全面撤兵ノ要求トイヒ、或ハ通商無差別原則ノ無条件適用トイヒ、何レモ支那ノ現実ヲ無視シ、東亜ノ安定勢力タル帝国ノ地位ヲ覆滅セントスルモノナル処、合衆国政府ガ今次提案ニ於テ、重慶政権ヲ除ク如何ナル政権オモ、軍事的、政治的、且ツ経済的ニ支持セザルコトヲ要求シ、南京政府ヲ否認シ去ラントスルノ態度ニ出デタルハ、交渉ノ基礎ヲ根底ヨリ覆スモノトイフベク、右ハ前記援蒋行為停止ノ拒否ト共ニ、合衆国政府ガ日支間ニ平常状態ノ復帰及東亜平和ノ回復ヲ阻害スルノ意思アルコトヲ実証スルモノナリ。

五 要之、今次合衆国政府ノ提案中ニハ、通商条約締結、資産凍結ノ相互解除、円弗為替安定等ノ通商問題、乃至支那ニ於ケル治外法権撤廃等、本質的ニ不可ナラザル条項ナキニアラザルモ、他方四年有余ニ亙ル支那事変ノ犠牲ヲ無視シ、帝国ノ生存ヲ脅威シ、権威ヲ冒涜スルモノアリ。従ッテ全体的ニ観テ帝国政府トシテハ、交渉ノ基礎トシテ到底之ヲ受諾スルヲ得ザルヲ遺憾トス。

六 尚英国政府ハ交渉ノ急速成立ヲ希望スル見地ヨリ、日米交渉妥結ノ際ハ英帝国其他関係国トノ間ニモ同時調印方ヲ提議シ、合衆国政府モ大体之ニ同意ヲ表示セル次第ナル処、合衆国政府ハ英、濠、重慶等ト屡々協議セル結果、特ニ支那問題ニ関シテハ重慶側ノ意見ニ迎合シ、前記諸提案ヲ為セルモノト認メラレ、右諸国ハ何レモ合衆国ト同ジク帝国ノ立場ヲ無視セントスルモノト断ゼザルヲ得ズ。

 対米外交打切通告が政府の訓令どおり実施されなかったことは、ルーズベルト大統領をして「だましうち」というキャッチ・フレーズの下に、米国民を挙げて戦争に向って一致結束させるための絶好の口実を与えてしまった。ビュートゥによれば、それは「日本政府の官憲によってかつて行われた失態のなかでも最も高価についたものの一つ」であった。

 

 

 

 

 

 

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東京裁判NO13 遅延した宣戦布告①

2020年08月18日 | 国際・政治

 私は、東京裁判で証言したアメリカ高官バランタイン氏の”日本は近代国家として出発したときから軍国的膨張的政策を続けてきた”という指摘は、間違っていないと思います。明治維新以来、天皇を現人神とする皇国日本は”功業を掲げて国威を海外にひろめ、夷狄を駆逐して領土を開拓”し、”天祖の御神勅と天孫の御事業”を実現しようとする考え方で敗戦まで突き進んだと思うからです。
 「戦陣訓」の「」に
夫れ戦陣は 大命に基づき、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦えば必ず勝ち、遍く皇動を宣布し、敵をして仰いで御稜威(ミイツ)の尊厳を感銘せしむる處なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず
とありました。
 「軍人勅諭」には
己か本分の忠節を守り義は山嶽(サンガク)よりも重く死は鴻毛(コウモウ)よりも輕しと覺悟せよ”義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ”とありました。
 そして、”君民一体以て克(ヨ)く国運の隆昌を致”すことが最も価値ある事とされていたのだと思います。

 前ページのキーナン検事の”真珠湾無警告攻撃はあなたの同意なしにおこなわれたのか”という問いに、東条被告は”私は意図したことはない”と答え、さらに、”首相として戦争を起こしたことを道徳的にも法律的にも間違ったことをしていなかったと考えるのか”と問われて、左手を机上に突っ張り、胸を張ってキーナン氏に向い”間違ったことはない、正しいことをしたと思う”と声高く言い切ったといいます。日本人だけでも、300万人を越える人たちが亡くなり、周辺国ではその数倍の人たちが犠牲になって、結局、日本が降伏せざるを得なかったにもかかわらず、”正しいことをしたと思う”と主張するのは、現在の法意識や人権感覚ではとても理解できないことではないかと思います。
 
 日本は明治時代に西洋に学び、形式的には近代的な法制度を導入しました。でも、法学者・川島武宜は、西洋由来の近代法思想と日本古来の法意識や現実の国民生活との間に大きな隔たりがあることを具体的に指摘したといいます。
 私は、加えて、皇国史観によって明治維新以来の日本の政治家や軍人の法意識が、近代法思想と大きく乖離することになったのではないかと思います。現在の常識的な法意識や人権感覚では、とても理解できないことが、日本には多々ありました。七三一部隊の生体実験や細菌戦の凄惨な実態、軍の方針としての慰安所の設置や日本軍慰安婦の奴隷的酷使、師団命令ともいえる捕虜の殺害、多くの非戦闘員を含む南京大虐殺や情報取得のための拷問、対中政策としての阿片の生産・密売、毒ガス兵器の使用、軍命令によって編成された特攻隊、あちこちの戦地でくり返された万歳突撃(Banzai attack)…。
 それらの人命軽視・人権無視は、”天祖の御神勅と天孫の御事業”の実現を義務づけられた国民が、権利の主体ではなく、現人神・天皇の臣民であり赤子であったからではないかと思います。したがって、”夷狄”の人命や人権などは問題ではなかったのだろうと思います。大事なのは”皇軍の道義”であり、国民は”義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕しと覺悟”しなければならなかったのです。
 西欧では、ハーグ陸戦条約や不戦条約が採択され、戦争の惨禍を回避するための話し合いが継続されていたようですが、日本では、”皇国の威徳を四海に宣揚”するために、人命軽視や人権無視が看過され、「力は正義なり」とする作戦や政策が進められていたのではないかと思います。

 バランタイン氏の指摘するとおり、くり返された日米交渉に関しても、私は、日本側の主張に不当なものが目立つと思います。いかにして手に入れたものであっても、既得権益は決して手放さず、さらに権益の拡大を追い求めている面があるからです。
 また、真珠湾攻撃の前になされるべき宣戦布告に関して、ハル国務長官が野村・来栖両大使に向かって言った、下記の言葉も理解できます。
申しあげておくが、私は過去九ヶ月にわたる会談で、うそをついたことは一度もなかった。このことは記録によって証明される。私の全公職五十年間にこれ以上、劣悪な虚偽と歪曲にみちた文書を見たことがない。これほどの劣悪きわまる虚偽をいいうる政府が世界にあるのかとは、今日まで、さらに思いもおよばなかった
 というのは、確かにその文書は”理由を付した宣戦布告でもなく、最後通牒でもなかった。それは外交関係断絶の意思表示とさえも解されなかった”というような内容のものであったからです。奇襲攻撃を成功させるために、あえてアメリカを惑わす作戦だったのではないかと思います。
 それは下記資料1の「宣戦ニ関スル事務手続順序ニ付テ」の文書(資料1)が、その一端を示していると思います。
 奇襲攻撃の翌日に宣戦布告がなされる事務手続きが連絡会議で決定されているのです。”Y(X+1)日宣戦布告”がそれです。それは、「開戦ニ関スル条約」(資料2)の違反であり、同条約の精神を完全に無視するものだと思います。

 石井大佐の”宣戦布告の件は、九月の戦争指導計画研究当時よりの案件であり、事前布告のヘーグ条約の義務は誰も心得ていた。しかも尚且つ条約違反よりも作戦の成功を重視した”という言葉も見逃すことができません。攻むれば必ず取り、戦えば必ず勝ち、遍く皇動を宣布し、敵をして仰いで御稜威(ミイツ)の尊厳を感銘せしむる”ためには手段を選ばない、それが日本だったように思います。
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                 第七章 開戦前夜の対米関係

                   アメリカ高官の証言

 日米交渉の生き字びき・バランタイン口供書
 八日間にわたって続々と提出した書証により、検事側は以上のように日米開戦までの日本の動きを克明に立証した。次いで十一月十八日法廷に国務省顧問バランタイン氏の出頭を求め、日米交渉に関し、キーナン検事が直接尋問をおこなった。キーナン検事はバランタイン氏を「極東問題の権威者」として紹介し「その論旨は国務省当局と検事団と同じ基礎に立つもの」と強調し、法廷の注目をひいた。
 バランタイン氏は、日米外交史の生き字びきともいうべき人で、口供書は豊富な知識経験と、国務省記録を縦横に駆使して、明治以来の両国関係を詳述している。その中で、日本は近代国家として出発したときから軍国的膨張的政策を続けてきたと断じ、その例証として日清、日露の両戦争をはじめ満州事変、日華事変をあげ、一つの侵略政策からつぎの侵略政策までの間は地固めの期間にすぎなかったと証言している。さらに、1937年の日華事変以来、日米関係が次第に悪化した事情、米政府からのたびたびの好意的警告にも耳を貸さず、全東亜および西部太平洋の征服をくわだてたことを歴史的に解明「このような背景をはっきり頭にいれておくことは1941年、日米間におこなわれた会談の真意を解する上に欠くべからざることである」として日米交渉の経過を詳細に綴っている。いわば、日米交渉に対する米国政府の見解である。
 バランタイン氏の口供書から抜粋して米国政府の同交渉に対する態度を記してみよう。

「一九四一年(昭和16年)三月から四月にかけて、大統領と国務長官とは、日本大使と数回にわたって日米関係改善の問題を協議した。
 五月十二日、日本大使は全太平洋区域を含む日米間問題の全面的妥結に関する提案を訓令に従って提出した。日本が中国に対して提議しようとする条件は単に「近衛原則」を通じてのみ示されたのである。国務長官はそれで、日華交渉の基礎と日本が考えている条件をはっきりさせようとしたが、日本側はあいまいな抽象論で明確な言質(ゲンチ)をあたえなかった。また日本大使の軍事顧問、岩畔大佐はほかの機会に、中国における日本軍の駐兵区域は「内蒙古およびそれに隣接する中国本部の地域を含み、南は青島までの海の交通線をも包含する」と説明した。これは華北五省に対する事実上の支配を意味するものである。
 日本側提案に対して米政府は世界情勢と関連して、了解に達するため日本の提案をはじめ、あらゆる可能な手段を徹底的に探究することにした。日本側は日華事変の解決は日華両国の問題なので、日本が中国に対し提案する解決条件について、米国がかれこれいうのは意外だと述べた。国務長官は、日華間の和平解決は日米両国が念頭に置く目的、すなわち太平洋の平和をっ促進することが主要な条件であることを強調し、もし米国政府が日本のいうままに、中国政府に対して日本と交渉せよと言うならば、米国としては、米国の原則また交渉の基礎と、日本側条件とを一致させる責任を負わねばならなくなることを指摘した。
 日本のいう日華経済提携の問題も討議された。非公式会談によって、それは、日本が中国において優先的な経済的地位を保留し、同時に西南太平洋地域でも、中国におけると同様の経済的権益を獲得しようとすることであるのが判明した。それで長官はこのようなことは、国際通商における無差別主義と矛盾することをあきらかにしたのである。
 六月六日、国務長官はそれまでの会談で、日本は枢軸関係を強調しつつ、日華関係を東亜の恒久平和の基礎に置くとの意思表示を回避し、太平洋平和に対する明確な約束をもそらそうとしているとの印象を受けざるをえないと日本大使に告げた。
 六月二十二日、ドイツはソ連を攻撃し、しかも七月になると日本の南部仏印進駐の情報が入った。このような軍事行動と日米交渉はあいいれないものであることを日本側に指摘したところ、七月二十三日、日本大使は日本は物資の補給を必要とし、さらに対日軍事的包囲に対する保障が必要だと述べてきたのである。
 これに対しウエルズ国務長官代理は日米協約こそは、日本の仏印占領よりもはるかに大きな経済的安定を日本にもたらすであろう。また米国の政策は対日包囲政策とは反対で、日本の行動こそかえって南方征略の最後の手段であるとみるほかないと答えた。このような情勢では、日米交渉の根拠がなくなったと断じたのであった。
 七月二十四日になって、ルーズベルト大統領は、仏印の中立化を日本に提案した。これこそは日本側が求めている食糧供給の他物資の供給を保証するもっとも充分で自由な機会であった。しかし日本政府はこの大統領の提案に承諾を与えなかった。そしてついに大兵力を南部仏印に移動させた。
 日本の南部仏印進駐は他国を憤激させたばかりでなく、戦争勃発の危険を最大限に発展させ、その結果米国その他の関係国は、もはや自国の安危に関わる問題としなければならなくなった。ここで米国は自衛のため決定的かつ明確な行動に出ざるを得なかった。
 七月二十六日、ルーズベルト大統領は、日本資産凍結令を発し、英国・オランダ両政府も、同一の挙に出た。日米間の通商は事実上断絶したわけである。
 その後八月八日、日本大使は、日米関係調整のため両国政府首脳部の会合は可能であるかを問合わせてきた。それで、非公式会議が中止になったしだいを簡単に再検討したうえ、日米関係調整の策があるかどうかは日本政府の決定にかかっていることを長官より返答した。
 八月二十八日、ルーズベルト大統領は近衛首相から、日米間の重大問題を討議する巨頭会談についてのメッセージを受けたが、巨頭会談に先立ち協約成立のための根本的、本質的な問題について予備討議をすべきであるとの回答が九月三日、発せられた。
 九月六日になると、日本政府は新しい提案をおこなったが、これは八月二十八日に大統領に送られたステートメントに比べると範囲がせばめられていた。九月二十五日、日本政府は今度はグルー大使に対し新提案を手交し、回答を求めた。しかし、これも要点に関しては修正するという態度を示したものではなかった。
 そこで十月二日、国務長官は日本大使に対し、交渉経過を説明するオーラル・ステートメントの覚書を手渡し、日本側提案のあらゆる点について米政府の態度を説明し、米国の遂行しようとする政策と両立しないことを明らかにした。この覚書を受け取ると、日本はすみやかな交渉妥結を求めて躍起となった。しかし、日本の新提案には何らみるべきものがなかった。
 こうして、十月十七日、東条内閣が成立した。そして十一月十五日、来栖大使が、ワシントンに到着した。十一月二十日、野村、来栖両大使はハル長官に対し、極端な提議を手交した。この提議を手交する前後に野村・来栖両大使は時局が切迫したことを力説し、右提議は日本側として最後的なもので、この線で協定に達しえなければ、その結果はもっとも不幸なものになるだろうと力説した。
 十一月二十四日付日本の提案をもし米国が同意すれば、米国は日本の過去の侵略を看過し、将来の無限の征服に同意することを意味するばかりでなく、米国の外交方針を放棄することとなり、中国を裏切り、日本が西太平洋と東亜全域で盟主となることを容認するに等しいもので、結局米国の国家の安全にもっとも重大な脅威をもたらすことになったであろう。
 十一月二十六日、国務長官は日本側に回答を手交した。その後感じたことだが、日本はこの十一月二十六日回答で、太平洋地域の平和的解決に関する最後的なものだとみなしたにもかかわらず、十二月七日まで、交渉を継続しているかのように、見せかけたのである。
 十二月二日、大統領は、仏印に対し日本が兵力を増強している理由について日本側にただしたが、これに対する説明は、日本軍の増強は、国境に近い中国軍に対する防衛手段のためであるとの体裁のよい声明であった。
 大統領は十二月六日午後九時、天皇に対し、現下の情勢における「悲劇の可能性」を避けるよう大統領個人としての希望を打電した。特別の命令でそのメッセージは、平文で打たれ、日本側は容易に解読しえたはずである。
 十二月七日、日曜日正午ごろ、ハル長官は日本大使からの電話による要求に応じ、午後一時の会見を約束した。午後一時をすぎてまもなく、日本大使は会見を午後一時四十五分に延ばしてもらいたいと申し入れてきた。野村・来栖両大使が国務省に到着したのは午後二時五分で、両大使は午後二時ニ十分、長官と会見した。日本大使は、午後一時に文書を手交するように訓令されたが、電報翻訳困難のため遅延したことをのべ、ついで長官に文書を手交した。
 この文書は、理由を付した宣戦布告でもなく、最後通牒でもなかった。それは外交関係断絶の意思表示とさえも解されなかった。
 ハル国務長官は日本側のこの文書を読み、野村・来栖両大使に向かい、
『申しあげておくが、私は過去九ヶ月にわたる会談で、うそをついたことは一度もなかった。このことは記録によって証明される。私の全公職五十年間にこれ以上、劣悪な虚偽と歪曲にみちた文書を見たことがない。これほどの劣悪きわまる虚偽をいいうる政府が世界にあるのかとは、今日まで、さらに思いもおよばなかった』
 とのべたのである。
 野村・来栖両大使はなにも言わず別れを告げて立ち去った。
 この会見はあとでわかったように、真珠湾攻撃から一時間以上のちに、マレー半島に日本軍が上陸してから二時間以上後、また上海共同租界の境界を日本軍が越えてから四時間後におこなわれたものである。野村・来栖両大使はこれらの事実には言及しなかった」
資料1-----------------------------------------ーーーー 
   「戦史叢書 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯<5>」防衛庁防衛研究所戦史室著(朝雲新聞社)

              第二十章 開戦──十二月一日御前会議

宣戦布告に関する論議
            
              宣戦ニ関スル事務手続順序ニ付て
                                 十一月二十七日 連絡会議決定
宣戦ニ関スル事務手続順序概ネ左ノ如シ
第一 連絡会議ニ於テ戦争開始ノ国家意志ヲ決定スベキ御前会議議題案ヲ決定ス(十二月一日閣議前)。
第二 連絡会議ニ於テ決定シタル御前会議議題案ヲ更ニ閣議決定ス(十二月一日午前)。
第三 御前会議ニ於テ戦争開始ノ国家意志ヲ決定ス(十二月一日午後)。
第四 Y(X+1)日宣戦布告ノ件閣議決定ヲ経、枢密院ニ御諮詢ヲ奏請ス。
第五 左ノ諸件ニ付閣議決定ヲ為ス。
 一 宣戦布告ノ件枢密院議決上奏後、同院上奏ノ通裁可奏請ノ件(裁可)
 ニ 宣戦布告ニ関スル政府声明ノ件
 三 交戦状態ニ入リタル時期ヲ明示スル為ノ内閣告示ノ件
 四 「時局ノ経過並政府ノ執リタル措置要綱」ニ付発表、各庁宛通牒ノ件
第六 左ノ諸賢件ハ同時ニ実施ス
 一 宣戦布告ノ詔書交布
 二 宣戦布告ニ関スル政府声明発表
 三 交戦状態ニ入リタル時期ヲ明示スル為ノ内閣告示
 四 「時局ノ経過並政府ノ執リタル措置要綱」ニ付発表、各庁宛通牒(宣戦布告ノ直後ニ発表スルモ可ナルベシ)

 ・・・

 前記「宣戦ニ関スル事務手続」は、以上のような「宣戦布告」に関する手続きを規定しているのであるが、その「宣戦布告」をY(X+1)日すなわち開戦の翌日において、「機密戦争日誌」にも
明記されているとおり、「戦線ノ詔書」の公布によって行おうとしているのであった(第六項ノ一参照)。
 ところで明治四十五(1912)年一月十二日日本も批准したところの「開戦ニ関スル条約」第一条には、
「締約国ハ理由ヲ附シタル開戦宣言ノ形式又ハ条件附開戦宣言ヲ含ム最後通牒ノ形式ヲ有スル明瞭且事前ノ通告ナクシテ、其ノ相互間ニ戦争ヲ開始スベカラザルコトヲ承認ス」とある。そこで問題は、前記宣戦の詔書公布による宣戦布告が、国際法上この条約第一条の開戦宣言の通告とみなされるかどうかであるが、日本の元首たる天皇が「朕玆ニ米国及英国ニ対シ戦ヲ宣ス」と確言されている宣戦詔書の公布は、それが日本国民に向ってなされたものであっても、客観的には開戦宣言の通告たたるの条件を具備したもの、すなわち開戦宣言の通告たることに間違いはないであろう。ただし、政府および統帥部首脳が、この宣戦布告を「開戦ニ関スル条約」第一条の規定に基づく開戦宣言の通告そのものであることを意識し、したがってY(X+1)日にこれを行うことが、「開戦ニ関スル条約」の事前通告の義務を意識していたかどうかに疑問が残るのである。
 日清、日露の両戦役においては─まだ「開戦ニ関スル条約」は公布されていなかった─戦闘開始の数日後又は翌日宣戦の詔書によって宣戦布告が行われている。すなわち日露戦役においては明治三十七(1904)年二月九日午前零時ニ十八分、日本海軍は旅順港外において露国艦艇を襲い、また同日午後零時ニ十分仁川沖において敵艦に砲火を開いたが宣戦の詔書によって宣戦が布告されたのは翌二月十日であった。そこで前記のY(X+1)日宣戦布告ということは、あたかも「開戦ニ関スル条約」を意識せずに、その日清、日露戦役の事例を踏襲したしたかのようである。
 しかし「宣戦の布告」をいついかなる方法により行うべきかについては、前記「対米英蘭開戦名目骨子案」、すなわち宣戦詔書の骨子案の研究と関連して、十一月中旬から既に連絡会議の討議に上っている。すなわち「杉山メモ」には十一月十五日「事前に宣戦布告ヲスルカ、或ハ宣戦布告ヲスル事ナク戦争ニ入ルカハ研究ノ要アリトノ意見多数ナリ」、十一月二十二日「宣戦ノ詔勅ニ関連シ、宣戦ノ布告ヲナスヤ否ヤニ関シテ、其ノ方法ト共ニ法制的ニモ実際的ニモ慎重ニ研究スル事ニ申合セリ。(結局宣戦布告ハスルコトニナルベキモ、其ノ方法ニ就キテハ充分ニ研究ノ要アリトスル意見多シ)」と記されている。右は「開戦ニ関スル条約」を意識しながら宣戦布告を事前に行うべきや否やについて論議していたことを示すとともに、宣戦の詔書による宣戦の布告とは別途の「宣戦布告」すなわち「開戦ニ関スル条約」に基づく開戦通告を考えていたことを示唆しているようである。
 石井大佐はつぎのように述べている。
 宣戦布告の件は、九月の戦争指導計画研究当時よりの案件であり、事前布告のヘーグ条約の義務は誰も心得ていた。しかも尚且つ条約違反よりも作戦の成功を重視した。
 現に独逸は六月二十二日ソ連を奇襲した。事後布告するか、又は直前(例えば五分前)に布告して奇襲すべしの意見が支配的だった。十一月十五日の連絡会議では、事前事後の差はあれ、宣戦布告そのものは必要との見解が示され、十一月二十二日の連絡会議では、宣戦布告そのものの利害を討議、やっぱり布告すべしとの見解が多く、従って星野書記官長より宣戦の詔勅案が提出された次第である。布告しないと敵国を怒らせる外に中立国の船も臨検するなど交戦権の行使が不便となる。十一月二十七日決定の「宣戦に関する事務手続き順序」は誰の起案か知らず。私見によれば宣戦布告は、大日本天皇が国内を含む全世界に向けて厳かに戦争を宣するもの、国内向けだけとの見解は弁護に過ぎぬ。  日本は事後に宣戦を布告したが、それを補うべく事前に米国へ実質上戦争通告の措置を取った。実際はこれも事後となった。
資料2------------------------------------ーーー
                開戦ニ関スル条約 
 独逸皇帝普魯西国皇帝陛下・・・ハ平和関係ノ安固ヲ期スル為戦争ハ予告ナクシテ之ヲ開始セサルヲ必要トスルコト及戦争状態ハ遅滞ナク之ヲ中立国ニ通告スルヲ必要トスルコトヲ考慮シ之カ為条約ヲ締結セムコトヲ希望シ各左ノ全権委員ヲ任命セリ
・・・
因テ各全権委員ハ其ノ良好妥当ナリト認メラレタル委任状ヲ寄託シタル後左ノ条項ヲ協定セリ
第一条 締約国ハ理由ヲ附シタル開戦宣言ノ形式又ハ条件附開戦宣言ヲ含ム最後通牒ノ形式ヲ有スル明瞭且事前ノ通告ナクシテ其ノ相互間ニ戦争ヲ開始スヘカラサルコトヲ承認ス
第二条 戦争状態ハ遅滞ナク中立国ニ通告スヘク通告受領ノ後ニ非サレハ該国ニ対シ其ノ効果ヲ生セサルモノトス該通告ハ電報ヲ以テ之ヲ為スコトヲ得但シ中立国カ実際戦争状態ヲ知リタルコト確実ナルトキハ該中立国ハ通告ノ欠缺ヲ主張スルコトヲ得ス
 ・・・
                                       アジア歴史資料センター

 

 

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東京裁判NO12 キーナン検事の東条尋問③

2020年08月13日 | 国際・政治

  キーナン検事のハル・ノートに関する東条の尋問によって、当時の日本の方針や東条被告の考え方がわかります。ハル・ノートは、日本の北部仏印進駐や日独伊三国同盟の締結、また汪兆銘新政府(「梅機関」の工作により樹立されたといわれています)の承認などに対抗する、アメリカの対日方針を示したもので、1941年十一月二十六日、野村・来栖-ハル会談で手交されたといいます(下記資料1)。文書には「合衆国及日本国間協定ノ基礎概略」とありますが、アメリカ側の当事者であったコーデル・ハル国務長官の名前からハル・ノートと呼ばれているようです。
 このハル・ノートは覚書で、正式の文書ではないということですが、この文書が日本では最後通牒と受け止められ、開戦にいたったという意味で、極めて重要な文書だと思います。
 「機密戦争日誌」には、次のように記されているといいます
 果然米武官ヨリ来電、米文書ヲ以テ回答ス、全く絶望ナリト。曰ク
1、四原則ノ無条件承認
2、支那及沸印ヨリノ全面撤兵
3、国民政府(汪精衛政府・汪兆銘政府)ノ否認
4、三国同盟ノ空文化
 米ノ回答全ク高圧的ナリ。而シテ意図極メテ明確、九国条約ノ再確認是ナリ。対極東政策ニ何等変更ヲ加フルノ誠意全クナシ。
 交渉ハ勿論決裂ナリ。之ニテ帝国ノ開戦決意ハ踏切リ容易トナレリ。
   「戦史叢書 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯<5>」防衛庁防衛研究所戦史室著(朝雲新聞社)

 キーナン検事の尋問に答える東条被告の主張は、九ヶ国条約(下記、資料2)を蔑ろにして、中国に関わって来た日本の立場を示していると思います。
 キーナン検事の”一切の国家の領土不可侵の厳守”に関する問いに、東条被告は”それは日本は尊重してきました”と答えていますが、現実にはなんだかんだと言いながら、百万を超える軍隊を送り込んでいたため、”東亜の諸国がそれ自体の国でいろいろ分裂作用を起こす”とか、”満州国がその土地の住民の意思によって独立国家となった”りするので、関わらざるを得なかったかのような言い方をして、不可侵の厳守をしなかった言い逃れをしているように思います。
 また、 ”各国の国内問題に対する不干与の原則”も、”原則は支持されました”と言いつつ、”しかしたとえば日華事変という特殊の事態が発生”したので、関与せざるを得なかったかのように言っています。
 さらに ”第三の原則、商業上の機会、待遇の均等”についても、日本には特別の事情があるかのような言い方をしています。

 重要なのは、キーナン検事の”これらの原則を日本に要求することによってなにか理不尽なことを要求していたことになるのか”という問いであり、それに対して東条被告が”そうは申し上げたくない”と答えざるを得なかったことです。でも、それに加えて、”ただ東亜に起ったところの九ヶ国条約締結以後の変化、これの認識が足りないので、それからすべての喰い違いがくるのです”というのですが、その”変化”は、満州事変や日華事変を含め、日本が九ヶ国条約を蔑ろにして起こした”変化”ではないかと思います。だから、言い訳にはできない”変化”だと思います。

 それは、1937年十二月二十四日、蒋介石がルーズベルトへ宛てた手紙のなかに、
われわれはわれわれ自身を守るとともに、条約の精神の尊厳を守るために、とりわけ九ヶ国条約にうたわれた中国の主権と独立および領土的・行政的一体性が、日本および他の調印国によって尊重されるために戦っているのです。
 われわれは野蛮な日本軍に降伏などいたしません。日本政府がその侵略政策をやめるまで、中国の国政がわれわれの手にもどるまで、そして国際条約における領土不可侵の理念が守られるまで、われわれは抵抗しつづける覚悟です。
 とあることによってもわかると思います。

 日本には、戦後まもないころから、東條被告と同じような考え方で、”あの戦争を侵略戦争というのは間違っている”とか、”大東亜戦争は自存自衛の戦争であった”とか”大東亜共栄圏解放の戦争であった”というようなことを主張する人がいますが、キーナン検事の問いに対する東条被告の苦しい言い逃れが示しているように、日本の対中政策は、どう考えても、九ヶ国条約違反であったと思います。確かにハル・ノートは、日本が着実に中国で手にしてきた数々の利権を、すべて手放すことを要求するような内容であり、日本の軍部や政治家にとっては、最後通牒に等しいものであったとは思いますが、九ヶ国条約を踏まえれば、当然の要求であり、不当でも、高圧的でもなかったと思います。

  下記は、「東京裁判 大日本帝国の犯罪 上」朝日新聞東京裁判記者団(講談社)から「歴史的な大尋問」題された文章のなかの「ハル・ノートに異議あり」から抜粋しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
             第二十二章 白熱 東条尋問録

                歴史的な大尋問

 「ハル・ノートに異議あり
 問「あなたは口供書で十一月二十六日のハル米国国務長官より日本大使野村にあてたメッセージに言及している。(ハル・ノートの写しを見せる)それを見たことがあるか」
 答「(感慨深げにしばし見入る)「一生涯忘れませんッ」
 問「さてこの文書はあなたの知っている限り、非常に威厳のあるやり方で、米国国務長官より、自ら日本大使野村および来栖に手渡された。そうですか」
 答「形においてしかり。内容においては少しも互譲の精神のないものです」
 問「しかし実際問題としてこの文書は日本の大使が当時ワシントンに在って最上の礼遇を受けて、もし自分で望むならばいつでも国務長官にも大統領にも面会ができる特権を与えられていた当時に手交されたのは事実ではないか」
 答「それは事実である。なんらこの内容とは関係ありません」
 問「あなたはハル・ノートの内容に対して異議をもっていたといったではないか」
 答「大いに異議あります」
 問「ハル・ノートは長いものでないから、いまその異議はどこの点であるかを発見したい。読み上げます。さてひとつ、一切の国家の領土不可侵の厳守」
 答「それは日本は尊重してきました。九ヶ国条約にもこの文句はあったと思います。しかし東亜の諸国がそれ自体の国でいろいろ分裂作用を起こすということを、この中には含まれて考えられないと思っておりました。たとえば満州国がその土地の住民の意思によって独立国家となるということは、このうちには含まれておらないと解釈しておるのです。その意味で日本と米国の間に解釈の相違がありました」
 問「二つ、各国の国内問題に対する不干与の原則、これは日本によって支持されたものか、されなかったものか」
 答「原則は支持されました。しかしたとえば日華事変という特殊の事態が発生している。それに関連して影響している部分も出て来ました」
 問「第三の原則、商業上の機会、待遇の均等、これは日本の政策と反対であったか」
 答「これは条件があります。この政策が全世界に適応されればもちろん同感です。日本のすべての商業もこの趣旨で、全世界から締め出しを食っている現実のような事態にならないように、この原則の中に含まれることを希望していた」
 問「ハル・ノートに含まれていた三原則はすべて1922年に署名された九ヶ国条約に含まれていたのではないか。これは日本、中国およびアメリカが全部締約国であった」
 答「九ヶ国条約にこの通りのものがあったかどうか記憶していないが、こんなことがあったことを記憶します」
 問「これらの原則を日本に要求することによってなにか理不尽なことを要求していたことになるのか」
 答「そうは申し上げたくない。ただ東亜に起ったところの九ヶ国条約締結以後の変化、これの認識が足りないので、それからすべての喰い違いがくるのです」
 
 休憩ののち午後三時再開、キーナン検事の問いに東条は、首相になって太平洋戦争開始にいたるまでの間、九ヶ国条約に拘束されていたことを答える。キ氏質問を転じる。
 問「真珠湾無警告攻撃はあなたの同意なしにおこなわれたのか」
 答「私は意図したことはない」
 問(ここでくるりと体を東条の正面に向け、声を改めてまっ向から!)「首相として戦争を起こしたことを道徳的にも法律的にも間違ったことをしていなかったと考えるのか。ここに被告としての心境を聞きたい」
 答(左手を机上に突っ張り、胸を張ってキーナン氏に向い)「間違ったことはない、正しいことをしたと思う」と(声高く言い切る)
 問「それでは無罪放免されたら、同僚とともに同じことを繰り返す用意があるのか」
 と追いかければブルウエット弁護人、すかさず発言台にかけ寄り、
「これは妥当な反対尋問ではない」
 と異議を申し立て、ウエッブ裁判長その異議を容認し、キーナン氏の質問を却下。憤然たる面持ちのキーナン検事は、反対尋問を以上で終了するむね宣言、検事席にも座らず、書類を抱えてさっさと退廷してしまった。

 ウエッブ裁判長の尋問・天皇に開戦を進言した三人男
 1948年一月七日、ウエッブ裁判長が自ら各判事を代表して東条証人の尋問を開始した。この日東条は、前日までのキーナン尋問の場合とは打ってかわってもの静かな態度で応答した。
 裁判長は突如、だれが天皇に対し開戦に関する最後の進言をしたのかと質問に入ぐる。
 問「証人以外のなにびとが天皇に対し米英と宣戦するようにということを進言したか」
 答「(ちょっと首をかしげて)「複雑な問題を含んでいるいるがお答えしましょう。日本が開戦に決定したのは、連絡会議、御前会議、ならびに重臣会議、軍事参議官会議で慎重審議した結果、戦争をしなければならん、という結論に達した。そこで最後の決定について、陛下にお目にかかって申し上げたのは私と両総長(杉山参謀総長と永野軍令部総長)であった。私と両総長は『日本の自存を全うするため、ひらたくいえば戦争以外には生きる道はありません』と申し上げた。そして御嘉納をいただいたのです」
 天皇に開戦決定を進言したの三人の男のうち杉山、永野両氏はすでに亡く、いまはこのときの真相を知るただ一人の当事者としてこの法廷に立った東条の口から、いままで秘められていた「進言の内容」がこの日はじめて明らかにされた。
 東条被告に対する尋問は終わり、一月七日午前十一時十三分、ブ弁護人は、東条証人が被告席に帰ることを申請。
 東条はコップの水をごくりとのみほして、静かにイヤホーンをはずし、証人台からゆっくりおりて、法廷を横切り、中央被告席に帰った。十二月二十六日以来つづいた東条部門は、ここにまったく終了した。  
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
            「合衆国及日本国間協定ノ基礎概略」

第一項政策ニ関スル相互宣言案
 合衆国政府及日本国政府ハ、共ニ太平洋ノ平和ヲ欲シ、其ノ国策ハ太平洋地域全般ニ亙ル永続的且廣汎ナル平和ヲ目的トシ、両国ハ右地域ニ於テ何等領土的企図ヲ有セス、他国ヲ脅威シ又ハ隣接国ニ対シ侵略的ニ武力ヲ行使スルノ意図ナク、又其ノ国策ニ於テハ、相互間及一切ノ他国政府トノ間ノ関係ノ基礎タル左記根本諸原則ヲ積極的ニ支持シ、且之ヲ実際的ニ適用スヘキ旨闡明ス。
  (一)一切ノ国家ノ領土保全及主権ノ不可侵原則
  (二)他ノ諸国ノ国内問題ニ対スル不関与ノ原則
  (三)通商上ノ機会及待遇ノ平等ヲ含ム平等原則
  (四)紛争ノ防止及平和的解決並ニ平和的方法及手続ニ依ル国際情勢改善ノ為メ国際協力及国際調停尊據ノ原則
 日本国政府及合衆国政府ハ、慢性的政治不安定ノ根絶、頻繁ナル経済的崩壊ノ防止及平和ノ基礎設定ノ為メ、相互間並ニ他国家及他国民トノ間ノ経済関係ニ於テ左記諸原則ヲ積極的ニ支持シ、且実際的ニ適用スヘキコトニ合意セリ。
  (一)国際通商関係ニ於ケル無差別待遇ノ原則
  (二)国際的経済協力及過度ノ通称制限ニ現ハレタル極端ナル国家主義撤廃ノ原則
  (三)一切ノ国家ニ依ル無差別的ナル原料物資獲得ノ原則
  (四)国際的商品協定ノ運用ニ関シ消費国家及民衆ノ利益ノ充分ナル保護ノ原則
  (五)一切ノ国家ノ主要企業及連続的発展ニ資シ且一切ノ国家ノ福祉ニ合致スル貿易手続ニ依ル支払ヲ許容セシムルカ如キ国際金融機構及取極樹立ノ原則

第二項合衆国政府及日本国政府ノ採ルベキ措置
 合衆国政府及日本国政府ハ、左ノ如キ措置ヲ採ルコトヲ提案ス。
一 衆国政府及日本国政府ハ、英帝国、支那、日本国、和蘭、蘇連邦、泰国及合衆国間多辺的不可侵条約ノ締結ニ努ムヘシ
ニ 両国政府ハ米、英、日、蘭及泰政府間ニ、各国政府カ仏領印度支那ノ領土主権ヲ尊重シ、且印度支那ノ領土保全ニ対スル脅威発生スルカ如キ場合、斯ル脅威ニ対処スルニ必要且適当ナリト看做サルベキ措置ヲ講スルノ目的ヲ以テ、即時協議スル旨誓約スべキ協定ノ締結ニ努ムベシ。
 斯ル協定ハ、又協定締約国タル各国政府ガ、印度支那トノ貿易若ハ経済関係ニ於テ特恵的待遇ヲ求メ、又ハ之ヲ受ケサルヘク、且各締約国ノ為メ仏領印度支那トノ貿易及通商ニ於ケル平等待遇ヲ確保スルカ為メ尽力スヘキ旨規定スヘキモノトス
三 日本国政府ハ支那及印度支那ヨリ一切ノ陸、海、空軍兵力及警察力ヲ撤収スベシ
四 合衆国政府及日本国政府ハ、臨時ニ首都ヲ重慶ニ置ケル中華民国国民政府以外ノ支那ニ於ケル如何ナル政府若クハ政権ヲモ軍事的、政治的、経済的ニ支持セザルベシ
五 両国政府ハ外国租界及居留地内及之ニ於ケル諸権利及権益及之ニ関連セル諸権利権益並ニ一九○一年ノ団匪事件議定書ニ依ル諸権利ヲモ含ム支那ニ在ル一切ノ治外法権ヲ抛棄スベシ。
 両国政府ハ外国租界及居留地内ニ於ケル諸権利並ニ一九○一年ノ団匪事件議定書ニ依ル諸権利ヲ含ム支那ニ於ケル治外法権方ニ付、英国政府及其他ノ諸政府ノ同意ヲ取付クベク努力スベシ。
六 合衆国政府及日本国政府ハ、互恵的最恵国待遇及通商障壁ノ低減、並ニ生糸ヲ自由品目トシテ据置カントスル米側企図ニ基キ合衆国及日本国間ニ通商協定締結ノ為メ協議ヲ開始スベシ。
七 合衆国政府及日本国政府ハ、夫々合衆国ニ在ル日本資金及日本国ニアル米国資金ニ対スル凍結措置ヲ撤廃スベシ。
八 両国政府ハ円弗為替ノ安定ニ関スル案ニ付協定シ、右目的ノ為メ適当ナル資金ノ割当ハ半額ヲ日ベ本国ヨリ半額ヲ合衆国ヨリ供与セラルベキコトニ同意スベシ。
九 両国政府ハ其ノ何レカノ一方カ第三国ト締結シオル如何ナル協定モ、同国ニ依リ本協定ノ根本目的、即チ太平洋地域全般ノ平和確立及保持ニ矛盾スルガ如ク解釈セラレザルベキコトヲ同意スベシ
十 両国政府ハ他国政府ヲシテ、本協定ニ規定セル基本的ナル政治的経済的原則ヲ遵守シ、且之ヲ実際的ニ適用セシムル為メ其ノ勢力ヲ行使スベシ
   「戦史叢書 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯<5>」防衛庁防衛研究所戦史室著(朝雲新聞社)

資料2----------------------------------------------

      公文書にみる 日米交渉 ~開戦への経緯~ (アジア歴史資料センター)

 九ヶ国条約
 九ヶ国条約とは、大正11年(1922年)のワシントン会議において、アメリカ・ベルギー・イギリス・中国・フランス・イタリア・日本・オランダ・ポルトガルの各全権委員により調印された、条約締結国における対中国政策の原則を規定した条約です。正式には「中国に関する九国条約」といいます。
 九ヶ国条約が締結された理由については、条約文の中で「極東ニ於ケル事態ノ安定ヲ期シ支那ノ権利利益ヲ擁護シ且機会均等ノ基礎ノ上ニ支那ト他ノ列国トノ交通ヲ増進セムトスルノ政策ヲ採用スルコトヲ希望シ 右ノ目的ヲ以テ条約ヲ締結スル」と述べられています。
 九ヶ国条約の第1条に規定されている4つの項目は、「ルート4原則」「対中国4原則」と呼ばれるもので、条約の加盟国が中国の主権や領土を尊重する事などを定めており、日米交渉における中国に関する諸問題に関係する条項でした。

第1条
 支那国以外ノ締約国ハ左ノ通約定ス
(1)支那ノ主権、独立並領土的及行政的保全ヲ尊重スルコト
(2)支那カ自ラ有力且安固ナル政府ヲ確立維持スル為最完全ニシテ且最障礎ナキ機会ヲ之ニ供与スルコト
(3)支那ノ領土ヲ通シテ一切ノ国民ノ商業及工業ニ対スル機会均等主義ヲ有効ニ樹立維持スル為各盡力スルコト
(4)友好国ノ臣民又ハ人民ノ権利ヲ減殺スヘキ特別ノ権利又ハ特権ヲ求ムル為支那ニ於ケル情勢ヲ利用スルコトヲ及右友好国ノ安寧ニ害アル行動ヲ是認スルコトヲ差控フルコト

第2条
 締約国ハ第1条ニ記載スル原則ニ違背シ又ハ之ヲ害スヘキ如何ナル条約、協定、取極又ハ了解ヲモ相互ノ間ニ又ハ各別ニ若イハ協同シテ他ノ一国又ハ数国トノ間ニ締結セサルヘキコトヲ約定ス

第3条
 一切ノ国民ノ商業及工業ニ対シ、支那ニ於ケル門戸開放マタハ機会均等ノ主義ヲ一層有効ニ適用スルノ目的ヲ以テ支那国以外ノ締約国ハ左ヲ要求セサルへク又各自国民ノ左ヲ要求スルコトヲ支持セサルヘキコトヲ約定ス
(イ)支那ノ何レカノ特定地域ニ於テ商業上又ハ経済上ノ発展ニ関シ自己利益ノ為一般的優越権利ヲ設定スルニ至ルコトアル
(ロ)支那ニ於テ適法ナル商業若ハ工業ヲ営ムノ権利又ハ公共企業ヲ其ノ種類ノ如何ヲ問ハス支那国政府若ハ地方官憲ト共同経営スルノ権利ヲ他国ノ国民ヨリ奪フカ如キ独占権又ハ優先権或ハ其ノ範囲、期間又ハ地理的限界ノ関係上機会均等主義ノ実際上適用ヲ無効ニ帰セシムルモノト認メラルルカ如キ独占権又ハ優先権

 本条ノ前記規定ハ特定ノ商業上、工業上若ハ金融業上ノ企業ノ経営又ハ発明及研究ノ奨励ニ必要ナルヘキ財産又ハ権利ノ取得ヲ禁スルモノト解釈スヘカラサルモノトス
 支那国ハ本条約ノ当事国タルト否トヲ問ハス一切ノ外国ノ政府及国民ヨリノ経済上ノ権利及特権ニ関スル出願ヲ処理スルニ付本条ノ前記規定ニ記載スル主義ニ遵由スヘキコトヲ約ス

第4条
 締約国ハ各自国民相互間ノ協定ニシテ支那領土ノ特定地方ニ於テ勢力範囲ヲ創設セムトシ又ハ相互間ニ独占的機会ヲ享有スルコトヲ定メムトスルモノヲ支持セサルコトヲ約定ス

第5条
 支那国ハ支那ニ於ケル全鉄道ヲ通シ如何ナル種類ノ不公平ナル差別ヲモ行ヒ又ハ之ヲ許容セサルヘキコトヲ約定ス殊ニ旅客ノ国籍、其ノ出発国若ハ到達国、貨物ノ原産地若ハ所有者、其ノ積出国モシクカ若ハ仕向国又ハ前記ノ旅客若ハ貨物カ支那鉄道ニ依リ輸送セラルル前若ハ後ニ於テ之ヲ運搬スル船舶其ノ他ノ輸送機関ノ国籍若ハ所有者ノ如何ニ依リ料金又ハ便宜ニ付直接間接ニ何等ノ差別ヲ設ケサルベシ
 支那国以外ノ締約国ハ前記鉄道中自国民カ特許条件、特殊協定其ノ他ニ基キ管理ヲ為シ得ル地位ニ在ルモノニ関シ前項ト同趣旨ノ義務ヲ負担スヘシ

第6条
 支那国以外ノ締約国ハ支那国ノ参加セサル戦争ニ於テ支那国ノ中立国トシテノ権利ヲ完全ニ尊重スルコトヲ約定シ支那国ハ中立国タル場合ニ中立ノ義務ヲ遵守スルコトヲ声明ス

第7条
 締約国ハ其ノ何レカノ一国カ本条約規定ノ適用問題ヲ包含シ且右適用問題ノ討議ヲ為スヲ望マント認ムル事態発生シタルトキハ何時ニテモ関係締結国間ニ充分ニシテ且隔意ナキ交渉ヲ為スヘキコトヲ約定ス

第8条
 本条約ニ署名セサル諸国ニシテ署名国ノ承認シタル政府ヲ有シ且支那国ヲ条約関係ヲ有スルモノハ本条約ニ加入スヘキコトヲ招請セラルヘシ右目的ノ為合衆国政府ハ非署名国ニ必要ナル通牒ヲ為シ且其ノ受領シタル回答ヲ之ヲ締約国ニ通告スヘシ別国ノ加入ハ合衆国政府カ右ノ通告ヲ受領シタル時ヨリ効力ヲ生スヘシ

第9条
 本条約ハ締結国ニ依リ各自ノ憲法上ノ手続ニ従ヒ批准セラルヘク且批准書全部ノ寄託ノ日ヨリ実施セラルヘシ右ノ寄託ハ成ルヘク速ニ華盛頓ニ於テ之ヲ行フヘシ合衆国政府ハ批准書寄託ノ認証謄本ヲ他ノ締約国ニ送付スヘシ  本条約ハ仏蘭西語及英吉利語ノ本文ヲ以テ共ニ正文トシ合衆国政府ノ記録ニ寄託保存セラルヘク其ノ認証謄本ハ同政府ヨリ他ノ各締約国ニ之ヲ送付スヘシ                 

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東京裁判NO11キーナン検事の東条尋問②

2020年08月09日 | 国際・政治

 キーナン検事の問いに答える東条被告の主張は、間接的に日本の戦争がいかなるものであったかを示すことになっているように思います。それは、正直に作戦の全容を明らかにすることができない、不法な謀略工作等を含む戦争であったということです。

 日本は、正式に軍隊組織や行政組織に属さず、独立して秘かに情報を収集したり、謀略工作に取り組む「特務機関」をいくつも設置し、秘密裡に特殊任務を遂行させました。それはもちろん、どこの国でもなされた当然の情報収集の任務などもあったでしょうが、明らかに違法であり、また、不法である任務を含んでいたのです。
 一例をあげれば、里見機関があります。参謀本部では日中戦争の長期化に対処するため、対支特務工作専従の部署、第八課(宣伝謀略課)を設置しました。そして、民間人里見甫を指導して、中国の地下組織・青幇(チンパン)や、紅幇(ホンパン)と手を結び、アヘン密売を取り仕切らせました。それが里見機関で、関東軍が極秘に生産していた満州産阿片や、日本軍が生産していた海南島産阿片の売買を担当したのです。それにによって得た莫大な利益は関東軍や、日本の傀儡であった汪兆銘の南京国民政府、その他に秘かに回されたといわれています。

 また、偽札の流通工作を担当したのは、岡田芳正中佐を機関長とする「松機関」でしたが、実行役は、軍の嘱託の阪田誠盛であったといいます。彼は、青幣幹部の娘と結婚して協力をとりつけ、青幣の首領、杜月笙の家に「松機関」の本部を置いていたといいます。伴繁雄の著「陸軍登戸研究所の真実」(芙蓉書房出版)に、そうした謀略に関わる「対支経済謀略としての偽札工作」の記述があります。

 私は「ハルピン特務機関」も、そうしたものの一つだと思います。
 東条被告は、白系露人の謀略部隊が組織されていた事実に対するキーナン検事の問いに、”満州国の一部隊が訓練されたことは承知しております”などと答えていますが、満洲国の単なる一部隊であれば、ハルピン特務機関が関わることはなかったと思います。
 私が気になるのは、白系露人の謀略部隊の組織化が、なぜハルピン特務機関によってなされたかということと、どのようになされたかということ、また、組織されたいわゆる「白系露人」に、どういう意識を持たせて、祖国の攪乱・破壊工作やシベリア鉄道の爆破訓練等を受けさせたのか、ということです。白系露人に、満州国の一部隊としての任務遂行の自覚があったとは思えないのです。
 キーナン検事が、白系露人謀略部隊を尋問でとり上げることにした経緯については、よくわかりませんが、白系露人部隊は、交戦国ソ連との和平工作のための部隊ではありません。将来の日ソ戦を想定して、満州に居住していたロシア人を組織し、自らの祖国を攪乱し破壊するための軍事訓練をさせていたということなのです。だから、そこには何か常識的な理解を超えたものがあったのではないかと思います。どこの国でもやるような通常の組織化や訓練とは異質のものがあったと思うのです。
 当時満州に居住していたロシア人は俘虜でありませんが、私は、「ハーグ陸戦条約」の「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」の中に、”国家は将校を除く俘虜を階級、技能に応じ労務者として使役することができる。その労務は過度でなく、一切の作戦行動に関係しないものでなければならない”とあったのを思い出すのです。

 さらに、東条被告は満州国について、
中国から独立したのは満州国の住民の意思によってです。日本帝国はそれを承認したのです
 と言っていることも、問題だと思います。明らかに事実に反すると思います。 
 私は、外交官・石射猪太郎が、満州国建国が武力をもってなされたことを明らかにしつつ、”東三省中国民衆の一人だって、独立を希望したものがあったろうか”と「外交官の一生」(中公文庫)に書いていたことを見逃すことができません。

 また、東条被告は、溥儀が”法廷において裏切りました”と言っていますが、すでに取り上げたキーナン検事と溥儀のやり取りが、そうした主張が通らないことを明らかにしていると思います。
 溥儀は法廷で、
板垣が”私が満洲人であるため新政権の領袖になってくれと言った”が、板垣が”新政権を作るに当たって日本人官吏を採用し、満州人同様の官吏となりうることを要求したから”そのときは”拒絶した”といっています。
 また”日本軍は東三省を占領し、同時に奉天に地方治安維持会を日本側の手で組織した。土肥原がその主要人物だった。それから逃げ後れて奉天に残っている中国官吏に対して日本軍の圧迫がくわえられた”とか、”板垣が私に拒絶するなら日本軍は断固たる手段をとると言った”と証言しています。さらに、”顧問らも同様のことを告げられ”ていること、それからまた関東軍は秘密のあばかれるのを恐れていたことなどから”拒絶すると”身の危険”が感じられたと証言しているのです。
 (愛新覚羅)溥儀が、関東軍の主導で建国された満洲国の領袖になることを強要されたことは否定できないと思います。だから、満州国が中国から独立したのは、住民の意思によるものだとは言えないと思います。
 溥儀に対する東条被告の最後の主張に、同書の著者が”外人記者たちも盛んに笑う”と括弧書きで付け加えていることが、法廷の受け止め方をよくあらわしていると思います。

 次に、米英蘭との戦争が天皇の”意思とは反したかも知れませんが、とにかく私の進言、統帥部その他責任者の進言によってシブシブ御同意になった”といういい方も正確ではないと思います。
 確かに、昭和天皇は皇太子時代に、約六ヶ月にわたるヨーロッパ各国の歴訪を経験しており、また、皇室と英国王室の交流が明治維新以来続いていたこともあって、米英蘭との開戦には極めて否定的であったといいます。
 それは、1941年九月六日の御前会議で、
一 帝国は自存自衛を全うする為対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す
 ニ 帝国は右に並行して米、英に対し外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努む〔中略〕
 三 前号外交交渉に依り十月上旬頃に到るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英、蘭)開戦を決意す(外務省『日本外交年表並主要文書』下)
 などとする「帝国国策遂行要領」を決定しようとしていることに関し、天皇は、杉山参謀総長に”成るへく平和的にやれ、外交と戦争準備を並行せしめすに外交を先行せしめよ”と指示し、それでも種々奉答する参謀長に、”お前の大臣の時に蒋介石は直く参ると云ふたか未たやれぬてはないか”(参謀本部編『杉山メモ』上)とまで言っていることでわかります。
 でも、参謀本部作戦課は、天皇の思いを尊重せず、作戦面で勝算がある事を証明し、天皇を説得するための努力を重ねたのです。その結果、富田健治内閣書記官長に近衛首相がもらしたような心の変化が、天皇に起きたのです。
 ”……自分(近衛文麿)が総理大臣として陛下に、今日、開戦の不利なることを申し上げると、それに賛成されていたのに、明日御前に出ると「昨日あんなにおまえは言っていたが、それ程心配することはないよ」と仰せられて、少し戦争の方へ寄って行かれる。又次回にはもっと戦争論の方に寄っておられる。つまり陸海の統帥部の人達の意見がはいって、軍のことは総理大臣には解らない。自分の方が詳しいという御心持のように思われた。従って統帥について何等の権限のない総理大臣として、唯一の頼みの綱の陛下がこれではとても頑張りようがない(富田健治『敗戦日本の内側──近衛公の思い出──』)<『大元帥昭和天皇』山田朗(新日本出版)>とあることで、天皇自身が、開戦に前向きになっていったことがうかがわれるのです。対米(英蘭)開戦が、”天皇の意思ではない”と断言することはできないと思います。
 また、昭和十六年十二月八日の御詔勅(開戦の詔書)は、戦争がやむをえないものであり、”天皇の意思”ではなかったことを示すものではないと思います。日本が軍隊を派遣し、満州国を独立させ、軍事力を行使しつつ攻め込んでいるのに、開戦の詔書には、”中華民国政府曩ニ帝国ノ真意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亜ノ平和ヲ攪乱シ遂ニ帝国ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有余ヲ経タリ…”とあるのです。中国が”濫ニ事ヲ構ヘテ東亜ノ平和ヲ攪乱シ”ているというのは、国際社会に通用しない主張だと思います。中国が主権を放棄し、日本の対支方針を受け入れない限り平和はないのに、天皇は開戦を望んでいなかったというのは、おかしなことだと思います。

 下記は、「東京裁判 大日本帝国の犯罪 上」朝日新聞東京裁判記者団(講談社)の「歴史的な大尋問」から、「ハルピン特務機関」と「天皇の意思かいなか」を抜粋しました。
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            第二十二章 白熱 東条尋問録

                歴史的な大尋問

 ハルピン特務機関
 問「あなたが関東軍在勤中の経験について二、三の質問をしたいと思う。植田関東軍司令官が陸相に対し、新中国建設に関する基本要件の提案を上申したのを知っているか」
 答「はっきり記憶しておりません」
 問「あなたが関東軍参謀長のときに、ハルピンの特務機関は白系露人を組織し、ロシアとの間に戦闘行為が開始された場合には、これを使用する計画になっていたことを記憶しているか」
 答「一部は記憶しています。白系露人は満州国人の一部です。したがって満州国の一部として処置されていたのは記憶している。それに対してハルピン特務機関なるものが関心をもっていたことも知っております」
 問「あなたは白系露人の謀略部隊が訓練を受け、のちになってソ連の後方において破壊的行為あるいはシベリア鉄道を破壊するために訓練されたのを記憶しているか」
 答「万一対ソ開戦なった場合の準備として、満州国の一部隊が訓練されたことは承知しております。どこまでも計画の一部です」
 問「その一部隊というのは白系露人部隊からなっておったのではないか」
 答「満州国の一部であるところの白系露人部隊です」
 問「ハルピン特務機関は参謀本部、陸軍省から関東軍を通じて金銭を受け取り、将来ソ連の不利のために使用される白系露人部隊に補助金を与えたのではないか」
 答「複雑な質問ですから区切ってお答えしましょう。特務機関が陸軍省、参謀本部から関東軍を通じて経費を受け取ったのは事実です。それから第二はソビエトの不利のためにと言う意味はなにを意味するか私はわかりません。日ソ戦争でも起った場合においては、日本が有利になり敵が不利になるようにするのは当たり前のことです。第三点、白系露人部隊に対してハルピン特務機関から金銭的援助をしたかどうか私はこれを否定します。満州国の軍隊の一部であるから満州国の経費をもって支弁するが当然であります」
 問「あなたは満州国を中国から分離した一つの単位として承認することを強く強調していたのではないか」
 答「中国から独立したのは満州国の住民の意思によってです。日本帝国はそれを承認したのです」
 問「日本は溥儀氏を満州国の正式の皇帝として認めたことも事実ではないか」
 答「その住民の意思にもとづいておったところの溥儀皇帝です。これを認めたことは確かです。
 問「その皇帝は日本に来訪し、盛大に歓迎されてもてなされたか」
 答「真から歓迎しました。心の底からもてなした。しかし彼はこの法廷において裏切りました」
(いかにも慨嘆するおももち)
 問「この法廷に証人として出廷する前に、彼の性格は信用できないと聞いたことがあるか」
 答「ありません。私は信用しておりました。誰よりも信用しておりました。私の不明でありましょう」(外人記者たちも盛んに笑う)

 天皇の意思かいなか
 問「さて1941年十二月、戦争を遂行するという問題に関する天皇の立場とあなた自身の立場の問題に移ります。あなたはすでに法廷に対して、日本の天皇は平和を愛するといっていることは正しいか」
 答「もちろん正しい」
 問「そうしてまた日本臣民たる者は何人たるも天皇の命令に従わないということは考えられないといいました。それは正しいか」
 答「それは私の国民としての感情を申し上げていた。天皇の責任とは別の問題です。
 問「しかしあなたは実際米英蘭に対して戦争したのではないか」
 答「私の内閣において戦争を決意しました」
 問「その戦争をおこなわなければならない。おこなえというのは裕仁天皇の意思であったか」
 答「意思とは反したかも知れませんが、とにかく私の進言、統帥部その他責任者の進言によってシブシブ御同意になったのが事実です。そして平和御愛好の御精神は最後の一瞬にいたるまで陛下は御希望を持っておられました。戦争になっても然り、その御意思は明確になっておりますのは、昭和十六年十二月八日の御詔勅のうちに明確にその文句が加えられております。しかもそれは陛下の御希望によって政府の責任において入れた言葉です。それはまことにやむをえないものであり、天皇の意思ではないという意味の御言葉であります」

 

 

 

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東京裁判NO10 キーナン検事の東条尋問①

2020年08月05日 | 国際・政治

 キーナン検事の問いに答える東条被告の主張に、私は少なからず疑問を感じます。
 そのいくつかを指摘したいと思うのですが、先ず、大東亜建設について”できるだけ平和的な方法をもってをやりたいと思っていた”と答えているところがあります。でも私は、「大東亜」の考え方自体が、関係国の主権を蔑ろにするものであったことを見逃すことができません。 

 昭和15年7月26日、東条が陸軍大臣の時に閣議決定された、「基本国策要綱」の「一、根本方針」に
皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基き世界平和の確立を招来することを以て根本とし先づ皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設するに在り之が為皇国自ら速に新事態に即応する不抜の国家態勢を確立し国家の総力を挙げて右国是の具現に邁進す
 とありますが、これは、
天皇の御稜威(ミイツ)”を”四方”に広げる、という”肇国の大精神”に基づく方針です。したがって、皇国日本の方針に背くことを許さない、現人神・天皇を戴く「大東亜」の建設ですから、周辺国の主権は当然、限定されたものにならざるを得ず、平和的な方法で実現できるものではなかったと思います。
 1941年(昭和十六年)十二月八日の「開戦の詔書」の中に”中華民国政府曩ニ帝国ノ真意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亜ノ平和ヲ攪乱シ遂ニ帝国ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有余ヲ経タリ…”というようの言葉がありましたが、天皇の御稜威を四方に広げることを受け入れない中国が、東亜の平和を攪乱したことになっています。
 ”兵はかならず天つ神の命を受け、天人一体、億兆一心、祖宗の徳をあらわし、功業を掲げて国威を海外にひろめ、夷狄を駆逐して領土を開拓すれば、天祖の御神勅と天孫の御事業に含まれた深い意味ははじめて実現されのである”というような考え方が、「基本国策要綱」の背景にあるのだと思いますが、そうした考え方で「大東亜」の建設をしようとする限り、平和的な方法で達成できるはずはなかったと思います。

 さらにいえば、現実に台湾の植民地化も、韓国の併合も、満州国の建国も、平和的に進められたとはいえませんし、日中戦争の経過を見ても、日本の外交が平和的でなかったことは明らかだと思います。
 だから、”できるだけ平和的な方法をもって”というのは、関係国が主権を放棄しない限りあり得ないのであり、現実に”武力をもって”進められたのです。

 例えば、日本軍第二師団が吉林軍の武装を解除しようとしたとき、吉林省政府と日本軍第二師団の仲介に動き、熙参謀長と師団長の会談の場を設定した当時の吉林総領事・石射猪太郎は、「外交官の一生」(中公文庫)のなかで、”師団長がこの会談は軍事的なものであるから、外交官は席をはずしてもらいたいという。そこで私と施交渉員は別室に引き取った”と書いているのですが、その後しばらくして”今日の会談で、熙参謀長は吉林省の即時独立宣言を師団長から要求された。居並んだ参謀連から「独立宣言か死か」と拳銃を突き付けられての強要なので、熙参謀長は絶体絶命これを承諾した。ただし、吉林軍の武装解除は省政府の手に委ねられた”という連絡が、熙参謀長の張秘書からあったと書いているのです。外交問題も、軍が武力をもって進めていたことがわかります。

 次に、1941年十一月二十三日、日本の艦隊が真珠湾を攻撃するために単冠湾(ヒトカップ)を出発したことは、海軍統帥部の作戦準備行動であり、東条は知らなかったというのですが、私はあり得ないことではないかと思います。確かに、真珠湾奇襲攻撃作戦の詳細は海軍の立案でしょうが、もともと海軍の永野修身・軍令部総長も山本五十六・連合艦隊司令長官も、ハーバード大学に留学した経験があり、また駐米大使館付武官もやっており、アメリカ通です。アメリカとまともに戦うことは避けたかったと思います。嶋田海相も当初は日米開戦に反対だったと聞いていますし、終戦時の米内光政海相も開戦前の五相会議の席上で、日独伊と英仏米ソ間で戦争となった場合、日本の海軍に”勝てる見込みはありません。日本の海軍は米英を相手に戦争ができるように建造されておりません”と述べたといわれています。アメリカとの国力差を肌で感じていた海軍の関係者は、日米開戦を望んでいなかったことがわかります。
 逆に和平を模索していた近衛首相に、一刻も早い対米開戦を要求したのは、陸軍大臣東条英機であったといいます。海軍善玉論に組するつもりはないのですが、日米開戦を主導したのは陸軍だと思います。だから、下記のキーナン検事の問いに対する陸軍大臣東条の答えは信じ難いのです。
問「あなたは日本艦隊が真珠湾を攻撃せよという命令を受けて出発したのを、単に作戦の準備であったというのか」
 答「そういう細かいことをお聞きになっても私は知りません。海軍の統帥部に関することですから、はたしてあなたのいうように当時真珠湾を攻撃せよという的確な命令を出したかどうかはわかりません」
 日本の命運をかけて主力艦隊が真珠湾奇襲攻撃に向っている事実を、当時総理大臣兼陸軍大臣であった東条が知らなかったということはあり得ないと思います。奇襲攻撃が成功しなければ、日本軍は勝てる見込みがない、といわれていたのです。さらにいえば、海軍関係者が心配した通り、奇襲攻撃が成功したにもかかわらず、圧倒的な国力差によって日本は敗けたのです。だから、そんな一か八かの真珠湾奇襲攻撃について、日米開戦の流れを作った陸軍の大臣東条が知らないわけはないと思います。
 また、真珠湾奇襲攻撃と並行して、1941年十二月八日、大日本帝国陸軍第二十五軍がイギリス領マレー方面の攻撃を開始していることも見逃せません。「開戦の詔書」に”朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス”とあるように、米国のみならず、英国にも宣戦を布告し、日本から遠く離れたところで、陸軍と海軍がほぼ同時に攻撃を開始しているのです。宣戦布告との関係で、周到に準備されていることは明らかだと思います。真珠湾奇襲攻撃は海軍の作戦準備だったので東条が知らなかった、ということはあり得ない話だと思います。

 また、たびたび天皇に謁見していながら、真珠湾攻撃については、天皇に話していない、というのも、あり得ないと思います。
 下記は、「東京裁判 大日本帝国の犯罪 上」朝日新聞東京裁判記者団(講談社)から「歴史的な大尋問」題された文章のなかの”キーナン首席検事の反対尋問「軍国主義を宣伝するのか」”と”正月の法廷”と”真珠湾と日本艦隊”の部分をを抜粋しました。
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            第二十二章 白熱 東条尋問録

                歴史的な大尋問

 キーナン首席検事の反対尋問「軍国主義を宣伝するのか」
 大晦日の三十一日朝、ブラナン弁護人が退いたあとをうけて、首席検事のジョセフ・キーナン氏が反対尋問に立った。
 キーナン検事は「被告東条!」と呼びかけ、歴史的な大尋問の火ぶたを切った。
 問「被告東条、私はあなたに対し大将とは呼ばない。それはあなたも知っている通り、日本にはすでに陸軍はないからである。……一体あなたの証言というか、議論というか、過去三、四日にわたって証言台に立ち弁護人を通じてのべた宣誓口供書の目的は、あなたが自分の無罪を主張し、それを明白にしようとの意図であったか、それとも日本の国民に向ってかつての帝国主義、軍国主義を宣伝する意図のためにおこなわれたものであるか」
(ブルウエット弁護人から妥当な反対尋問でないと異議を申し立てT、この質問は却下)
 問「あなたは米国および他の西欧諸国に対して攻撃をする言訳のひとつとして、これらの諸国があなたの大東亜共栄圏に関する計画を邪魔しておったからだというのか、それが戦争を正当化するひとつの理由であったというのか」
 答「原因にはなります。しかしながら直接の原因ではない」
 問「これらの戦端が開始されるころ、およびその以前あなたの意図は大東亜に新秩序を樹立することであるとあったのを認めるか」
 答「もちろん一つの国家の理想として大東亜建設ということは考えていた。しかもできるだけ平和的な方法をもってやりたいと思っていた」

 正月の法廷
 年が明け、1948年(昭和23年)の一月六日。キーナン検事の尋問は鋭さを増していく。
 問「まず東郷外相より野村大使にあてた通信の第一節に注意を喚起する。
『熟議に熟議を重ねた結果ここに政府、大本営一致の意見にもとづき日米交渉対策を決定す。右は五日開催予定の御前会議において帝国の主要国策とともに確認をまつのみ、本交渉は最後の試みであり、わが対策は名実ともに最後案と御承知ありたく』
 とある。この文章を記憶しているか」
 答「よく記憶しています」
 問「この甲案、乙案は日本大使からアメリカに提出された最後案であったのではなかったか」
 答「外交上の最後案として使ったろう」
 問「二つの文章は一人の日本人から他の日本人に通知されたもので、その二人の日本人があなたのいう外交的な言葉をつかっていたのでしょうか。あるいは大真面目に話しておったのでしょうか」
 答「それは大真面目に話していたのはわかり切った話」
 問「その事実はこういうことを示すのではないか。連絡会議は最後案としてこの案を採択し、日本の大使に対しこれが最後の案で、これ以上変更することはできないという訓令を与えたことを示すものではありませんか」
 答「それはその通りしめしたであろう。しかし外交というものは相手があります。相手の出方によってまたやる点というものは変更してくるのです。そこのゆとりはどこの国でももっておるのです」
 問「その翌日(十一月五日)東郷外相はつぎのような電報を野村大使に送らなかったか。『右で妥結不可能な際は、最後の局面打開策として乙案を指示するつもりだから、甲案にたいする米国側の態度を大至急通報ありたし』」
 答「よく知っています」
 問「『第四節、今次訓令は帝国政府の最後案なり、前電に申しのべたことにして事態すこぶる逼迫し、絶対に遷延を許さざるものである。……』」
 答「今日においても日本が日米交渉に非常に焦燥していたという感じを新たにします」

 真珠湾と日本艦隊
 問「あなたは日本の艦隊が真珠湾を攻撃するために日本を出発した日を知っておるでしょう」
 答「この裁判で知りました。それは単冠湾(ヒトカップ)をニ十三日に出たということを知ったのです」
 問「さてこの日本艦隊が日本を出発したのは、東京においてハル・ノートが受領される前であったのは事実ではないか」
 答「それは事実です。作戦準備行動です」
 問「あなたは日本艦隊が真珠湾を攻撃せよという命令を受けて出発したのを、単に作戦の準備であったというのか」
 答「そういう細かいことをお聞きになっても私は知りません。海軍の統帥部に関することですから、はたしてあなたのいうように当時真珠湾を攻撃せよという的確な命令を出したかどうかはわかりません」
 問「あなたはこの艦隊がもっとも強力な機動部隊の一つであったことを否定するか」
 答「強力ということはなにに比較してのことですか、米国艦隊に対するものですか、あるいは抽象的なお尋ねですか」
 問「私の尋ねているのは、有史以来海軍によって派遣された機動部隊としてもっとも強力なもののひとつであったことを否定するのですか」
 答「有史以来と申しますと? ──航空母艦のできたのは最近だと思います。日本艦隊の一部であることは肯定致します」
 問「言葉のやり取りをしようとは思わないが、この艦隊が歴史上、1941年十一月二十六日までの間においてもっとも強力な機動部隊ではなったかと聞いている」
 答「相当強力なものと思いますが、有史以来ということになると私は海軍ではありませんから明確には答えはできません」
 問「あなたは現在連合艦隊の作戦命令は十一月五日に発せられたことを知っていたか」
 答「知りません。作戦準備命令はそのころ出たことをこの法廷で知りました」
 問「これが発せられた十一月五日当時においては知らなかったと言うのですか」
 答「知りません」
 問「あなたは総理大臣としてこの艦隊が十一月ニ十三日にしろニ十六日にしろ日本を出発したことも知らなかったわけですね」
 答「事実において知りません」
 問「それではあなたはまず真珠湾を攻撃すべきであるということを、艦隊が真珠湾に向って進行中に知ったか」
 答「それは艦隊の進行中知ったというよりも、十二月一日の御前会議決定にもとづいて当然攻撃開始に向って行動しつつあると想像しておりました。しかもその間において日米交渉が万一にでも打開できれば、技術上許す範囲においていつでも作戦行動を停止するということで行動していたと承知している。(裁判長にそれを知った日付を答えなさいと注意)
1941年(昭和十六年)十二月一日の御前会議において知りました」
 問「あなたはこの御前会議において艦隊が真珠湾を攻撃するため進行中であったことを知ったか、然りとか否とか答えて下さい」
 答「それは否と答えましょう」
 問「それでは最初に知ったのはいつか」
 答「イエスとかノーで答えるというのはつらい。御前会議においては真珠湾攻撃うんぬんということは出ていなかったのです。それで私は否と答えた」
 問「それでは御前会議において作戦部隊が合衆国あるいはその領土を攻撃するため出動中であるということがあきらかにされたか」
 答「そういう作戦に関する具体的なことは御前会議、連絡会議において採り上げられませんでした。そういうことは統帥部から提案すべきものではないのです」
(裁判長、いつ最初に真珠湾が攻撃されることになっていることを知ったか、と質問)
 答十二月一日か二日でしたか、日付けははっきりしませんがそのあたりのところです」
 問「それでは誰があなたに対し真珠湾を攻撃することになっていると話したか」
 答「陸軍大臣の資格において参謀総長から聞いたと記憶します」
 問「それが十二月一日の御前会議において知らされた情報ですか」
 答「違います」
 問「あなたが参謀総長からこの情報を受けたとき、あなたのほかに誰かいたか」
 答「誰もおりません」
 問「あなたはこの情報を天皇に伝えたか」
 答「伝えません。伝える責任をもちません」
 問「それは誰の責任か」
 答「当然軍令部総長、参謀総長の責任です」
 問「日本の総理として政府の首班としてこの情報を天皇に伝える義務はないと主張するのか」
 答「内閣総理大臣としてはありません」
 問「あなたの1941年当時の政府運営の観念においてはこういう計画が実施される前に、天皇はこの通知をうける権利をもっておったと考えるか」
 答「いまの純作戦のことであれば、政府としてはその責任はもちません。統帥部としてはあるていどの大綱は申し上げたろうと思います」
 問「その計画というのはすなわち真珠湾を攻撃するという計画ですね」
 答「もちろんです」
 問「十二月一日か二日から七日の間に天皇に謁見したか」
 答「たびたび謁見しました」
 問「その際戦争の問題について話したか」
 答「いま的確に記憶せぬが、当然お話があったと思う」
 問「真珠湾攻撃について話したか」
 答「しません」
 問「それに触れなかったのは故意か、あるいは遠慮したのか」
 答「それを含んだもっと大きな戦争について話した。真珠湾攻撃は戦争の一部です」
 問「真珠湾攻撃が天皇に話すに足りない、つまらないものだというのか」
 答「そうとられると困る。小さいものとは思わぬが、戦争の全体からいえばなんといっても一局です」

 

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