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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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杉山は立派に死んだ。東條程の男であれば、…(徳富蘇峰NO4)

2020年04月26日 | 国際・政治

 戦時中、内閣直属の情報局や軍部の”指導ノ下”に”国体ノ本義ニ基キ聖戦完遂ノタメ会員相互ノ錬成ヲ図リ日本世界観ヲ確立シテ大東亜新秩序建設ノ原理ト構想トヲ闡明大成シ進ンデ皇国内外ノ思想戦ニ挺身スルコトヲ以テ目的”とした「大日本言論報国会」の会長であった徳富蘇峰は、戦時中の自らの考えを変えることなく、戦後の日本を見つめ、批判をしています。腹に据えかねることがいろいろあったからだと思います。
 だから、戦時中の戦争指導層の考えや、日本の戦争がどういうものであったかを知る上で、「徳富蘇峰 終戦後日記 『頑蘇夢物語』」(講談社)の文章は貴重だと思います。

 下記の”東條程の男であれば、死のうと思えば、死することは、絶対不可能とは言われまい”という徳富蘇峰の指摘は、きびしい指摘ですが、当然ではないかと思います。
 ”死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。
 とか
恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励してその期待に答ふべし、生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ
 というように、死を恐れず戦うことを””とし、””とする”戦陣訓(陸訓一号)”を発した陸軍大臣東條英機が、”生きて虜囚”となり、戦時中の鬼畜、敵側連合軍の裁判を受け、無罪を主張しつつ、処刑された事実は、「玉砕」前提の戦いを強いられ亡くなった日本兵や、「生きて虜囚」となることができず、”自決”した国民との関係で、簡単に忘れられてよい問題ではないと思います。
 すでに取り上げたように、ひめゆり学徒隊の一人、垣花秀子さんの手記には
神国日本に生まれ、捕虜になる! こんなことがあってたまるものか。死に倍する恥辱だ
とありました。
 また、上原当美子の手記には、
皇国の女性だ、死ぬのならいさぎよく死にたい。亡くなった学友に対して恥ずかしくないように…
 とありました。当時の政府や軍の指導・命令の下、日本兵のみならず、女生徒でさえ、こうした思いを抱いて何人も”自決”したのです。

 にもかかわらず、「玉砕」前提の戦いや特攻攻撃を強い、”生きて虜囚”となることなく、潔く”自決”することを説いた多くの軍人や政治家が、日本の降伏を受け入れ、アメリカに跪いて、敗戦後も”平気”恩給生活”を継続していることは、徳富蘇峰が指摘するように、本来” 無上の恥辱”であるはずです。
 でも、現実には、責任を感じて自決した軍人や政治家は少なく、”寥々(リョウリョウ)たるものである”というのです。
 さらに、そうした軍人や政治家が朝鮮戦争勃発後、公職追放を解除され、政界その他に復帰し、再び日本の指導者として、様々な分野で活躍ていることも見逃せません。「死ね」というわけではありませんが、恥かしいことであり、許されないことではないかと思います。
 そしてそれは、大日本帝国憲法教育勅語軍人勅諭国体ノ本義、戦陣訓などに表現された皇国日本の思想が、国民を支配するための単なる手段に過ぎず、まやかしであり、昭和天皇言うところの”架空ナル観念”であった証(アカシ)ではないかと思います。戦争責任を問われ、公職を追放された人たちは、空襲や本土決戦の危険が増し、追い詰められた時、かつて主張していた”架空ナル観念”を捨て、降伏を受け入れて、自ら鬼畜としていた米英主導の連合軍の指示に従ったからです。 

 ”敵が原子爆弾を濫用したとしても、その為めに大和民族が一人も残らず滅亡する心配はない。・・・日本国民が仮にその半数である四千万となっても、皇室は厳として国民の上に、君臨し給う事は確実である
 などといって、降伏せず戦うことを主張した徳富蘇峰の主張は、極めて野蛮であり、とても受け入れられませんが、それが、本来の皇国日本の思想なのだと思います。神の国、皇国日本に、降伏はあり得ないのです。
 

 徳富蘇峰が、戦後も自らの考えを変えることなく、皇国日本の思想を持ち続けたのは、死んでいった人たちに対する彼なりの良心の表現であったのかも知れないと思います。

 下記は、「徳富蘇峰 終戦後日記 『頑蘇夢物語』」(講談社)から『頑蘇夢物語』三巻の「三五 日本軍人と降伏」を抜粋しました
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                     『頑蘇夢物語』三巻

  三五 日本軍人と降伏
 陸軍海軍の元老ともいうべき人々、またその中堅ともいうべき人々、如何なる心底(シンテイ)を以て、今日の状態を見ているか。彼等は最も年齢の若き者、最も地位の低き者を 十二分に、若くは十五分に煽り立て、死地に就かしめた者である。
 しかるに彼等自身には、戦争(イクサ)が済んだからとて、平気でいるは、如何なる意見であるか。中には海軍側では、大西〔滝治郎〕中将が自決したが、陸軍側では、未だその話を聞かない。陸軍側では、陸軍大臣が自決したが、海軍側では、今尚お平気である。双方共に拾い上げたらば、暁天(ギョウテン)の星の如く、若干は有ろうが、洵(マコト)に寥々(リョウリョウ)たるものである。無条件降伏、武装解除などという事は、他国の軍人ならいざ知らず、日本の軍人としては、無上の恥辱である。従来日本の軍人には、降参がないという事が、原則になっていた。しかるに今度は降参が原則となって、誰一人これを怪しむ者はなく、加之(シカノミナラズ)今度はその軍隊が、武装を解除するばかりではない。軍そのものが消滅するのである。神武天皇の御東征に随従したる、物部、大伴、佐伯等の祖先以来、昭和の現代に至って、初めて日本には、軍そのものが、絶対的に消滅したのである。これは軍人としては、実に未だ曾て有らざる事件といわねばならぬ。しかるにこれを平気で見送り、依然恩給生活を継続しているなどという事は、実に日本武人として、この上なき不面目の至りではないか。

 聯合軍も、上陸する以前は、定めて若干の事件を、予期したことであろう。しかるに余りに無事太平で、飛礫(ツブテ)一つ聯合軍に向かって、投げ付けた者がない現状を見ては、余りに日本の軍人のおとなしさに、肝玉を抜かれたか。否、むしろ見掛けによらぬ野郎共であると、見縊(ミクビ)ったのであろう。この際生存しても、別段惜しき命でもない将官以上の人々は、申し合わせて一堂に集まり、切腹でもしたら、せめて日本の武人は、戦争(イクサ)は下手であったが、気骨だけは持っていたという事を、世界に証明せられたであろう。北条高塒入道が鎌倉で切腹した時でさえも、その一類二百三十八人は、我れ先にと腹切て、館に火をかけたという事がある。而(シカ)して尚(ナ)おその周辺に腹を切りたる一切を挙ぐれば、八百七十余人という事である。また斉(セイ)の田横(デンオウ)が死んだ時に、同時に自ら首刎(ハ)ねたる者が、二百余人あるという事である。しかるに我が陸海軍の滅亡に際し、これに殉ずる将官が、殆ど数うるに足らぬ程とあっては、昭和時代の陸海軍大臣以下は、高塒入道の一類よりも、田横の客よりも、劣り果てたる臆病者といわれても、申訳があるまい。

 自分は陸軍の将官中で、最も感心しない一人が、杉山〔元(ハジメ)〕元帥であった。この人は陸軍のあらゆる要職に就き、あるいは軍政を司り、あるいは軍務を掌(ツカサド)り、あるいは閫外(コンガイ)の任に庸(アタ)り、あるいは戦争の機務に当り、殆ど蜜蜂の花から花に飛ぶ様に、陸軍のあらゆる要職を飛び廻った。而して敗軍の将でありながら、罰も受けず、元帥までにも立ち昇った。自分は彼には面識さえも無い。しかし心窃(ヒソカ)に、世間が彼を称して「ダラカ幹」とか、「グータラ」とかいう事の、必ずしも不当でないと信じていた。しかるに彼は、その副官が「誠にお立派である」と言った通り、四発までも短銃を射ち込んで、立派に死んだ。而してその夫人も亦(マ)たその報を聞くや否や、立派に死んだ。この事だけで未だ必ずしも、杉山元帥に対する評判が、一変したとはいわぬが、世間も実は意外に思った。意外というは、杉山としては、出来が良かったという事である。これに反して東條大将は、世間は皆な誰よりも先に、自決するであろうと考えていた。しかるに彼は自決せず、しかも九月十一日、彼を米国側から召喚に来るや否や、自決した。しかるに不幸にして急所を外れた。彼れの部屋には、白紙の上に短刀が置いてあった。しかし彼は、切腹の法は知っているが、それで死せざる時は、失態であるから、殊更(コトサラ)にピストル自殺をしたと語った。しかるにそのピストルが、急所を外れたのである。杉山さえも四発放ったといえば、東條も今一発射つ位の、余裕があってしかるべきであるが、遂に一発で畢(オワ)り、その為めに、彼を知らざる者は、東條は故(コトサ)らに急所を外して、狂言をしたのである、などという濡れ衣を、彼に被するに至った。自分は東條とは面識があるばかりでなく、若干知っている。人間であるから、欠点はあるとして、勇気だけは、誰にも劣らぬ漢(オノコ)と考えていた。また一度決心したら、必ずそれを突き徹すだけの、徹底力ある漢と考えていた。しかるに彼は米国の医者に治療せられ、米国の陸軍病院に移され、遂に元の健康を取り戻した。英国あたりでは、婦人さえも、婦人参政権の時には、獄庁に入て、不食同盟(ハンガーストライキ)をしたことがある。東條程の男であれば、死のうと思えば、死することは、絶対不可能とは言われまい。しかるに彼が食事をなし、入浴をなし、薬用をなしていることを見れば、彼も亦(マ)た死することを諦めたものと思う。初めから死なぬ積りで、敵の法廷に引出され、堂々とその所信を陳述するも、亦た一の方法である。ただ彼が如く、その中間を彷徨したる事は、少くとも杉山元帥に比して、頗る見劣りのする事を、遺憾とする。せめてこの上は、自ら法廷に出て、立派な振舞をして貰いたいものと思う。(昭和20年10月6日午後、双宜荘にて)(以下、省略)

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”日本は侵略国に非ず”(徳富蘇峰NO3)

2020年04月21日 | 国際・政治

 徳富蘇峰が長く会長を務めた「大日本言論報国会」定款第二章 目的及事業第三条および第四条は、下記のような内容だったようです。
第二章 目的及事業
第三条 本会ハ国体ノ本義ニ基キ聖戦完遂ノタメ会員相互ノ錬成ヲ図リ日本世界観ヲ確立シテ大東亜新秩序建設ノ原理ト構想トヲ闡明大成シ進ンデ皇国内外ノ思想戦ニ挺身スルコトヲ以テ目的トス


第四条 本会ハ前条ノ目的ヲ達成スルタメ情報局指導ノ下ニ左ノ事業ヲ行フ
一、会員相互ノ思想的錬成
二、大東亜新秩序ノ原理ト構想ニ関スル共同研究
三、皇国内外ノ思想動向ニ関スル調査研究
四、皇国ノ内外ニ対スル言論活動
五、一般言論活動ノ指導育成
六、皇国内外ニ対スル啓発宣伝資料ノ蒐集作製
七、大東亜各地域ニ於ケル言論活動トノ聯繋
八、関係官庁トノ連絡並ニ諸団体等トノ提携
九、其他本会ノ目的達成ニ必要ナル事業
本会ハ其事業ニ関シ必要アルトキハ政府ニ意見ヲ具申ス本会ハ国体ノ本義ニ基キ聖戦完遂ノタメ会員相互ノ錬成ヲ図リ日本世界観ヲ確立シテ大東亜新秩序建設ノ原理ト構想トヲ闡明大成シ進ンデ皇国内外ノ思想戦ニ挺身スルコトヲ以テ目的トス”

(フリー百科事典『Wikipedia』)
 
 「大日本言論報国会」が、いわゆる”聖戦”に関する世論形成やプロパガンダと、思想取締りの強化を目的とした内閣直属の「情報局」の”指導ノ下ニ左ノ事業ヲ行フ”というのですから、”皇国臣民”を自認する徳富蘇峰が”日本は侵略国に非ず”と主張することに不思議はありません。

 したがって、彼の国際情勢や政治的諸問題、戦争に関する理解などはすべて、”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念(『新日本建設に関する詔書』)”に基づいているため、手前勝手で客観性や公平性を欠いているのだと思います。

 注目すべきは、敗戦後も日本の「建国神話」に基づく”架空ナル観念”を持ち続けていた徳富蘇峰は、戦争指導層=徳富蘇峰いうところの「敗戦論者」に騙されたとか、裏切られたというような思いを抱いて、日本の戦争の問題点を、敗戦後も一貫した「皇国臣」として、明らかにしていることです。
 例えば戦時中の日本が、国民に真実を伝えていなかったことを、
日本国民には、初めから終りまで、敗戦という事実は、大本営からも、情報局からも、新聞雑誌の報道班員からも、未だ一回も知らせていない。真珠湾以来沖縄に至るまで、勝った勝ったで四ヵ年過ごして来た。偶(タマタ)ま撤退する場合には、「転進」という立派な言葉を付け、また全敗したる場合には、「玉砕」という名誉ある文句を用い、国民の眼から、全く敗北という事を、払拭している。
と非難しています。また
鈴木首相を初め、阿南陸相その他、あらゆる軍官の人々は、本土決戦では、必ず敵を遣りつくすといっていた。
 とも非難しています。こうした徳富蘇峰の戦争指導層=「敗戦論者」に対する非難は、大筋、間違っていないように思います。当時の日本は、国民に、戦争について判断し、自らの頭で考えるための事実を、何も伝えていなかったのです。だから、徳富蘇峰のこの非難は、日本の戦争の真実の一面を明らかにしていると思うのです。

 ただ、”日本は侵略国に非ず”という下記抜粋文ような彼の主張は、戦後、似たような内容で繰り返されているようなので、きちんとした検証が必要だと思います。
 その手掛かりとして、いくつか思いつくことをあげれば まず、島国である日本が、海を越えて他国の領土に軍隊を送り、他国の領土で戦いながら、それを下記のように、正当防衛の戦争であるというのは、まさに”架空ナル観念”なしには考えられないことではないかと思います。
 通常、相手の攻撃がなければ、正当防衛は成立しないと思います。だから、正当防衛を主張するのであれば、具体的に防衛しなければならなかった相手の攻撃を指摘する必要があると思います。そういう事実を何も示さず、正当防衛を語るところに”架空ナル観念”に基づく主観的思考があるように思います。

 豊臣秀吉の朝鮮出兵は、大明帝国征服の野望を抱いた豊臣秀吉が、明の冊封国であった李氏朝鮮に日本服属をせまり、拒否されたことがきっかけだったのではないかと思います。侵略された側の受け止め方や主張、また、当時の情勢や様々な資料を考慮し、客観的に判断すれば、豊臣秀吉の朝鮮出兵は、明らかに朝鮮の主権侵害であり侵略であって、”欧羅巴人の先例”に従っただけなので侵略ではないなどと言い逃れることはできないと思います。
 また、明治維新以降の日本の戦争も、皇国日本の膨張・拡大政策に基づく侵略戦争であったことは、その時その時の歴史の事実や、日本統治下の台湾や韓国、また、満州などの実態が示しているのではないかと思います。

 例えば、徳富蘇峰は、征韓論を”明治六年の征韓論の如きも、本来朝鮮と平和的交通を開くに在ったが、朝鮮人がその国書を冒瀆し、我が使節を侮辱し、国家の体面上堪忍が出来ぬから、これを討つべしという論”と正当化して書いています。
 でも、倒幕によって王政を復古させた薩長を中心とする明治新政府が、対馬藩を通じて李氏朝鮮に対してその旨を伝える使節を派遣した時、それまでの江戸幕府の対応と違って、朝鮮政府を格下と位置づけ、見下した国書を持参させたため、朝鮮政府がその国書を受け取らなかったのであり、それを、”朝鮮人がその国書を冒瀆し、我が使節を侮辱し、国家の体面上堪忍が出来ぬ”というところに、皇国日本が”他ノ民族ニ優越セル民族”という思い上がりがあったことを見逃してはならないと思います。

 また、 日清戦争について、”二十七、八年の役は、清国が朝鮮を占有し、日本を排除せんとしたる結果から起り”とありますが、それは、事実に反する受け止め方だと思います。
 二十七年、東学党の下で蜂起した農民反乱を、自力で鎮圧することが難しいと判断した李氏朝鮮政府は、宗主国である清国に助けを求めたのです。それを”清国が朝鮮を占有し”と言うことはできないと思います。また、助けを求められていない日本が朝鮮に軍隊を送りこみ、なおかつ、李氏朝鮮政府が東学党と和睦して、日清両軍の速やかな撤兵を求めたにもかかわらず、日本は撤兵に応じなかったのです。これは、明らかに朝鮮の主権の侵害だと思います。そうした事実を踏まえれば、日清戦争が”清国が朝鮮を占有し、日本を排除せんとしたる結果から起り”ということは、事実に反するのです。

 徳富蘇峰の”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”が、そうした日本中心のとらえ方の根底にあることは、否定できないと思います。
 明治維新以来、皇国日本が、欧米列強に負けじと領土拡大の政策をとり続け、周辺国に侵略戦争を仕掛けたことは、丹念にひとつひとつの客観的事実を調べ上げた歴史家によって明らかにされており、否定できないと思います。したがって、”日本は侵略国に非ず”というのは、見苦しい言い逃れだと思います。

 下記は、「徳富蘇峰 終戦後日記 『頑蘇夢物語』」(講談社)から『頑蘇夢物語』ニ巻の「ニ四 日本は侵略国に非ず」を抜粋しました。
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                      『頑蘇夢物語』ニ巻
  ニ四 日本は侵略国に非ず
 マッカーサー元帥初め、アメリカの国論ともいうべきは、何れも日本人に敗戦を自覚せしむるということが大切である、日本人は未だしみじみ、敗戦という事を、自覚していないといい、また我国の当局及び指導階級も頻りに鸚鵡返(オウムガエシ)しに、その通りの言葉を繰返している。しかしこれは無理の話である。日本国民には、初めから終りまで、敗戦という事実は、大本営からも、情報局からも、新聞雑誌の報道班員からも、未だ一回も知らせていない。真珠湾以来沖縄に至るまで、勝った勝ったで四ヵ年過ごして来た。偶(タマタ)ま撤退する場合には、「転進」という立派な言葉を付け、また全敗したる場合には、「玉砕」という名誉ある文句を用い、国民の眼から、全く敗北という事を、払拭している。かくて最後に、絶対降伏という事が出て来たったから、一般国民にとっては、まるで天地が引くり返ったような気持ちをした。誰れも彼れも皆茫然となっていた。狐に欺まされたのではないかと、我れと我が鼻を抓(ツ)んでみるような状態であった。且(カツ)また鈴木首相を初め、阿南陸相その他、あらゆる軍官の人々は、本土決戦では、必ず敵を遣りつくすといっていた。中にはぼんやりぼかしていうた者もあれば、あるいは瞭(ハッ)きり語った者もある。その濃淡深浅は別として、本土決戦には必ず勝つものと、国民の大多数といわんよりは、殆ど九分九厘迄は、かく感じ、それを最後の頼みとしていたのである。しかもその為に使用すべき飛行機も使用せず、派遣すべき軍隊も派遣せず。一万二千台の飛行機、五百五十万の兵士は、チャンといざ来たれと待構えていたのである。しかるにそれを使用せずして、即ち本土決戦の真似方さえもせずして、絶対降伏を申し入れたから、日本国民に敗戦を自覚せしむるという事は、到底出来得べきことではない。今尚(ナ)お国民の大部分は、何故に最後の一戦を試みなかったのかという事に、不審を抱いている。この不審が霽(ハ)れない以上は、到底敗戦を自覚することは出来ない。今日の日本国民は、ただ米国の進駐軍が入来し、日本の軍人や官吏がその手先となって、汗だくだくとなって、使い廻され、追い廻されているのを見て、他覚的に、さては日本も敗北であるかと、気付いたようなものである。アメリカ人が何をいおうと、我等は没交渉だ。ただ我国の官吏や軍人等が、国民に向かって、敗北の自覚を押売りする事だけは、御免蒙りたいものと思う。

 再び、日本国は侵略国でありや否やという問題に戻る。日本国は侵略国ではない。侵略国というものは、侵略せんが爲めに、侵略するものである。即ち泥坊というものは、泥坊せんが爲めに泥坊する者を泥坊というのと同様である。日本国と朝鮮とは、むしろ有史以前から、至緊至密の関係があった。その事については別に語る機会もあろうが、例えば神功(ジングウ)皇后の三韓征伐などという事も、決して侵略の意味ではなかった。九州の熊襲(クマソ)の乱に、当時の朝鮮が、宛(アタ)かも米英が蒋介石を援助する如く、援助した為めに、余儀なく熊襲の乱を平ぐる為めには、その策源地に向って、手を着くるの外なしという理由からして、神功皇后の遠征は行われたのである。今日の言葉でいえば、全く正当防衛の戦争であって、決して侵略の為めの戦争ではなかった。
 また室町時代から戦国時代にかけて、倭寇なるものは、朝鮮、支那沿岸、延(ヒ)いて南洋のスマトラ方面迄も進出した。これを以て日本は他国を侵略するという者もあろうが、元来倭寇の根元は、蒙古襲来に淵源する。蒙古が日本を襲い、ここに於て日本は、事実に於て、殆ど総動員をなして、ここに備えたが、文永、弘安の役終って以来は、蒙古も幾度か日本を襲わんとしたが、遂に果たさなかった。その為めに、準備したる者共は、勢い失業者となり、その為めに銘々勝手な方角に出掛けたのである。これが倭寇の初まりといってよかろう。その後倭寇には、朝鮮では朝鮮人が参加し、支那に至っては、むしろ本家本元を凌(シノ)ぐ程、支那人が参加して、倭寇の名によって、支那人があらゆる窃取強盗を逞うしたる事実は、これ亦た争い難き事である。即ち王直とか鄭芝龍とかいう海賊の大頭目は正真正銘の支那人であって、彼等がある時には倭寇の仲間となり、ある時には倭寇を向こうに廻し、その時相応の仕事をしたものである。また豊臣秀吉の壬振(ジンシン)役なるものは、当初から朝鮮を征伐する筈ではなかった。恰(アタ)かも蒙古軍が、朝鮮を手引として、日本に攻め入らんとしたる如く、秀吉も亦た朝鮮を案内者として、明に向って交通を求めたのである。秀吉の目的は、支那との全面的の貿易通商を求めたものであって、いわば水師提督ペルリが、日本に来たのと、殆ど同様の目的であり、その手段も亦た同様であった。ところが朝鮮がこれに応じなかった為めに、遂に武力を以てその目的を果たすことになって、朝鮮征伐は出て来たったのである。しかし当時の欧羅巴(ヨーロッパ)は、すでに武力を以て、東亜に臨み、今日の比律賓(フィリピン)当時の呂宋(ルソン)などは、既に西班牙(スペイン)人や葡萄牙(ポルトガル)人が、その手を着けていた。秀吉も亦た世界的この膨張の気運に刺戟せられて、是(ココ)に出でたるものであって、日本人は、いわば欧羅巴人の先例に従い、その蹤(アト)を追うたるものに過ぎない。若し日本人が初めから、侵略国民であったならば、かかる手後れを為す迄もなく、ヨーロッパ人に先んじて、各方面に手を出したであろう。秀吉でさえも、今申す通りであれば、その他の人々は知るべきである。

 また維新以後、明治六年の征韓論の如きも、本来朝鮮と平和的交通を開くに在ったが、朝鮮人がその国書を冒瀆し、我が使節を侮辱し、国家の体面上堪忍が出来ぬから、これを討つべしという論と、否それは大早計である、先ず改めて使節を出し、その使節に対する彼の方の出方如何によって、和とも戦とも決むるがよかろうというのが、西郷隆盛の議論であった。それさえも閣議では否決せられた。若し日本国民が好戦国民であり、また侵略人種であったなら、明治六年の内閣破裂などのあるべき筈はなかった。何れかといえば、日本人はむしろ臆病という程に、平和愛好の国民である。

 例えば、樺太の一件でも、露人が横車を押して、飽く迄樺太全体を我物にせんと欲し、そこで日本もこれを南北に中分せんとしたが、それさえ露人が異議を生じた為めに、この上は詮方なしとて、千島と樺太を交換したのである。いって見れば、千島も樺太も、当然日本に属すべきものであり、地理的から見ても、歴史的から見ても、将(マ)た経済的から見ても、誰れも異存の無い所だ。千島樺太交換なぞという事は、日本の物を以て、日本の物と交換したようなものであって、外交の拙劣も、ここに至って極まるといってもよいが、しかし平和的日本人にとっては、それさえもは賢明の方法として、若干の反対者はあったが、一般には受け入れられた。二十七、八年の役は、清国が朝鮮を占有し、日本を排除せんとしたる結果から起り、三十七、八年の役は、露国が朝鮮の過大半を占有し、日本を排除せんとするより起こったものであって、その歴史は今ここに予が言を繰り返す必要はない。当時の支那も、当時の露西亜も、世界では皆日本にとって、勝ち目のない大敵であり、剛敵でありと認めていた。若し日本が侵略国民であったならば、かかる危険な戦争を試みる筈はなかった。しかし両(フタ)つの戦争俱(トモ)に、日本自衛の為めに、活きるか死ぬかの問題であったから、座して滅びんよりも、進んで戦うに若(シ)かずと考えて、やったのである。その意味に於て、今度の大東亜征戦も、亦た同様である。但(タ)だ前の二者は幸に勝利を得たが、今回は絶対降伏をする迄に立到ったのである。しかもこれは日本の立場として、自業自得であるから、我等は決して、これについて、何等勝った国を、恨むこともなければ、咎(トガ)むることもない。ただ若(モ)し恨むべきものがあったならば、この戦争を敗北に導いた当局者である。しかしこれは内輪の問題であって、世界に持ち出す問題ではない。我等自身としては、日本は尚(ナ)お戦う余力を持って居り、この余力存する間は、戦うて見たいものと考えていたが、それが実行の出来なかった事は、今更ながら遺憾千万といわねばならぬ。何れの点から見ても、日本国民は、好戦人種でもなければ、侵略国民でもない。
 これは我等が彼是(カレコ)れ自国を弁護するでも何でもなく、歴史事実が明々白々に、これを証拠立てている。今少しく日本国民が好戦人種であり、侵略的欲望があったならば、まさか今日に於て、かかる惨めな境遇に陥ってはいなかったろうと思うが、宛(アタ)かも長脇差(ナガワキザシ)の博徒の真ん中に、風流嫻雅(カンガ)な紳士が立ち交わったようなものであって、余りに綺麗に、余りお立派であった為めに、遂に今日では、つまらぬ状態に陥り、却って長脇差の連中から、貴様こそ博奕打ち(バクチウチ)の大親分であるなぞと、柄にもなき名号付けらるるに到った事は、笑止千万といわねばならぬ。
                                    (昭和二十年九月二十四日午後、双宜荘にて)

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”死中活を求め、日本民族の光を千古に放つ”ために降伏せず(徳富蘇峰NO2)

2020年04月16日 | 国際・政治

 日本書紀に書かれている「天壌無窮の神勅」に基づいて、徳富蘇峰は” 皇室が日本国家と日本国民とを離れて、皇室のみとして、御存在のあるべき筈はない”といいます。そして、”苟(イヤシク)も日本国民に国民たる魂がある以上は、外国に降伏し、日本固有の日本精神を抛棄(ホウキ)し、その生活も、その思想も、悉く外人の命令通り、誘導通り、強制通り、期待通り、行うべき筈はない。かくの如くに行うならば、最早や日本国民は、物質的にも、精神的にも、滅亡したものといわねばならぬ”と断言し、”大概の所で見切りを付けて、降参するが上分別である”というような考えは、”我等の平生排斥する功利論である”として、断乎として日本の降伏を非難し、攻撃するのです。

そして、”仮に戦争に負けたとしても、また敵が原子爆弾を濫用したとしても、その為に我が大和民族が一人も残らず滅亡する心配はない”などと決めつけ、被爆した人々の地獄の苦しみなど、何等考慮することなく、下記に文章にあるように、八千万の日本国民が”仮にその半数である四千万となっても”降伏することなく戦うべきだというのです。人命や人権などを全く問題にしない恐ろしい考え方であると思います。

 でも、「建国神話」を史実として受けとめ、日本書紀に記述されているという三大神勅(天壌無窮の神勅、宝鏡奉斎の神勅、斎庭稲穂の神勅)を、徳富蘇峰のように解釈すると、”皇室は厳として日本国民の上に、君臨し給い”、その君臨が、”外国の容認”や、”仁恵(ジンケイ)”や、”監視”や、”監督”のもとにあってはならないのであり、日本は、”天照大神以来の御神勅によりて、天皇が統治権を知ろしめす国”で、”かくてこそ日本は、再興の機会もあれば、復讐の機会もある”ということになるのだと思います。

 もちろん徳富蘇峰とは違った解釈をする人があったかも知れませんが、薩長を中心とする尊王攘夷急進派が、嘘と脅しとテロによって明治維新を成し遂げつくり上げた日本が、こうした怖ろしい考え方をする人たちに支えられた「皇国日本」であったことは否定できず、看過されてはならないことだと、私は思います。
 全滅が「玉砕」と表現され、特攻が「神風」と表現されて繰り返されたのも、「皇国日本」や「国家神道」の考え方が、当時の日本を覆っていたからで、他国ではほとんど例がないのではないかと思います。
 「検証 昭和史の焦点」保阪正康(文春文庫)によれば、1943年、アッツ島の日本軍守備隊が全滅した際、初めて大本営発表が「玉砕」の表現を使用したとのことですが、それは、下記のような内容でした。
『アッツ島守備隊は』五月十二日以来極めて困難なる状況下に寡兵よく優勢なる敵に対し血戦継続中の処五月二十九日夜敵主力部隊に対し、最後の鉄槌を下し皇軍の真髄を発揮せんと決意し全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり、爾後通信全く杜絶全員玉砕せるものと認む、負病者にして攻撃に参加せ得ざるものは之に先立ち悉く自決せり、我が守備隊は二千数百にして部隊長は陸軍大佐山崎保代なり、敵は特種優秀装備の約二万にして五月二十八日までに与へたる損害六千を下らず
 アッツ島守備隊のこの”壮烈なる攻撃”は、全滅が前提の攻撃であり、特攻と変わらないと思います。そして大本営が「玉砕」という言葉を使い、それを賞賛し美化したばかりでなく、戦陣訓の教え通り”攻撃に参加し得ざる”負病者が、天皇への忠誠や国家のために”生きて虜囚の辱を受け”ることなく”之に先立ち悉く自決”したことも、きちんと発表しています。
 ”単ナル神話ト伝説”によって”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”(1946年1月1日、官報により発布された昭和天皇の詔書の一節)なしには考えられないことだと思います。
 言い換えれば”天照大神以来の御神勅によりて、天皇が統治権を知ろしめす国”では、現在、日本国憲法に定められているような人命や人権は、問題にはならなかったということです。
 だから私は、明治時代の文明開化といわれるような部分のみに焦点をあて、歴史を語ってはならないと思うのです。

 ところが、日本にはサンフランシスコ講和条約調印後まもなくの頃から、「紀元節」復活の運動があったといいます。そしてその後、神武天皇が即位したといわれる二月十一日の「紀元節」の日が、「建国記念の日」となりました。なぜでしょうか。
 また現在、「文化の日」を「明治の日」に変えようという動きがあるようですが、「文化の日」はかつての「明治節」で明治天皇の誕生日をお祝いする日でした。それを「明治の日」に変えようというのです。
 だから私は、日本の政治の中枢には、確実に戦前の「皇国日本」を取り戻そうとする動きがあるように思います。それは、「玉砕」や「特攻」や「自決」に象徴されるような、戦前・戦中の人命軽視・人権無視の日本の歴史を、きちんと反省していないということなのではないかと、私は思います。

 下記は、「徳富蘇峰 終戦後日記 『頑蘇夢物語』」(講談社)から「四 万世太平の真諦」を抜粋しました。
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                    『頑蘇夢物語』一巻
 四 万世太平の真諦
 根本的の間違いは、皇室、国家、国民この三者を切り離して考える事である。外国では、君主は会社の社長や重役の如く、他から聘(マネ)うて来たこともあり、選挙することもあり、世襲であっても、勝手に取換えることも出来る。いわば帽子である。また国家と国民も、自ら同一の場合もあれば、同一ならざる場合もある。異なりたる民族が集まって、一の国家を作為する場合もあれば、一の民族が他の民族を支配する場合もある。しかるに日本では、絶対にこの三者は切り離して考うる事は出来ない。皇室を離れて日本国の存在もなければ、日本国民の存在もない。同時に恐れながら、日本国家を離れ、日本国民を離れて、皇室のみが存在せらるる筈もない。

豊葦原ノ千五百秋(チイホアキ)ノ瑞穂ノ国ハ是レ吾カ子孫ノ王タルヘキ地ナリ宜(ヨロ)シク爾(ナンジ)皇孫就キテ治セ行牟宝祚(ホウソ)ノ隆(サカ)エマサムコト当(マサ)ニ天壌(テンジョウ)ト与(トモ)ニ窮(キワマ)リナカルヘシ

 この御神勅の意味を奉戴すれば、皇室が日本国家と日本国民とを離れて、皇室のみとして、御存在のあるべき筈はない。いわば国も民も、皇室を頭首と戴くものであって、皇室に対する臣民としては、これを国民といい、皇室の統治せらるる地域としては、これを国家というに外ならない。首を戴くは体でなくてはならぬ。体を切離して、首のみが存在する筈はない。しかるにこの国家と、この人民を別にして、皇室を考えるという事は、全く頭首を帽子同様に考えている米英思想の残滓に過ぎない。

 従(ヨッ)て皇室さえ御存在あれば、日本は如何ようになっても、差支(サシツカエ)ないなぞという議論は、日本国民として、苟(イヤシ)も我が国体の真相を知る者は、断じて口にすべきものではない。義は君臣、情は父子、皇室と皇民とは、決して切離すべきものではない。皇民の本源に遡れば、必ず皇室がその源頭である。大なる家族的国家である日本が、家族は如何になっても、また家は如何になっても、家長さえあれば宜(ヨ)いではないかという論は成り立たない。しかるに我等は陛下の御主権を、敵国人が容認したから、それで差支なしなどという事は、何たる譫言(タワゴト)であるか。首を支うるには飽く迄(アクマデ)体がなからねばならぬ。体を切離して、首さえあれば差支なしという考えは、有り得る筈はない。日本国民の擁護を離れて、他の力によって皇室を擁護するなどという事は、実に皇室の尊厳を冒瀆し奉るの極度である。日本国を辱かしむるという事は、皇室を辱かしむる事であり、忠良なる皇室の臣民たる日本国民を辱かしむるの所以である。日本皇民は誰の皇民でもない。天皇の皇民である。苟(イヤシ)も尊王の大義に明かなる者は、この国家とこの国民とを、珍重護持せねばならぬ。しかるに国家や国民は如何ようにもあれ、皇室の主権だけを、外人が容認したから、それで我等は満足であるというような事は、実に皇国と皇民とを侮辱するばかりでなく、恐れながら皇室を侮辱し奉るものといわねばならぬ。

 また敵国に降参して、国家万世の太平を開くというが、万世どころではない、恐らくは三日の太平さえも、維持する事は出来まい。苟も日本国民に国民たる魂がある以上は、外国に降伏し、日本固有の日本精神を抛棄(ホウキ)し、その生活も、その思想も、悉く外人の命令通り、誘導通り、強制通り、期待通り、行うべき筈はない。かくの如くに行うならば、最早や日本国民は、物質的にも、精神的にも、滅亡したものといわねばならぬ。それで万世の太平を開くなぞという事は、余りにも事実と掛け離れている。
 
 あるいは曰く、戦争を継続すれば、到底勝ち目はない。勝ち目がないのに戦争をして、その挙句は、累を皇室に及ぼす事となる。そこで皇室の御為めを考えて、思い切って恥を忍んで、降伏すべきであると。元来戦争は水物である。相撲が土俵の中に立たぬ前に、勝敗が定まる筈はない。勝か負けるか、四つに組んで初めて判るのである。日露戦争の時にも、日本は必ず負けるものと、世界は折紙を付けていた。しかるに勝ったではないか。日本では、前にも申した通り、未だ使用せない軍隊が、内地ばかりで五百万ある。支那を合すれば六百万となり、飛行機のみが一万台ある。精々差引いても、八千台は優に、使用ができる。しかるに是等の物を擁しつつ、負けるから軍(イク)さはせぬという見込みは、余りにも臆病神に取り憑(ツ)つかれているのではないか。万一戦争をして、負けた時には、それは時の運である。その時には、累を皇室に及ぼすというが、日本国土と日本臣民とを離れて、皇室のみを考えることは出来ぬという前提から見れば、この戦争は皇室御自身の戦争であり、天皇御自身の戦争である。累を及ぼすとか、及ぼさぬとかいう事は、皇室を日本国家と別物としての考えであつて、切離すことの出来ぬものに、累を及ぼすとか、及ぼさぬとかいう文句の付くべき筈はない。一家が没落する時には、家長も当然没落せねばならぬ。国民と優苦艱難(ユウクカンナン)を共にし給(タマ)うところに、初めてここに皇室の有難味がある。国民の利害休戚は、一切度外視して、皇室さえ安泰であれば、それで宜しいという事は、日本の国体には有り得べき事ではない。それは独逸のホーヘンツォルレン家の最後の皇帝、ウィルヘルム二世の如きが、それである。国が如何になっても自分さえ安全ならば宜いというので、一番先に遁(ニ)げだしたのが、それである。身を以て国難に代らせ給う如き、亀山天皇の思召しの如きは、独逸の君主などの、夢にも領解するところではない。しかし、それが日本の国体の有難きところである。あるいは曰く、戦争をして敗北すれば、何もかも失うではないか。それよりも大概の所で見切りを付けて、降参するが上分別であると。それが全く我等の平生排斥する功利論である。仮に戦争に負けたとしても、また敵が原子爆弾を濫用したとしても、その為に我が大和民族が一人も残らず滅亡する心配はない。純粋なる大和民族と称すべきものは現在八千万内外であろう。その八千万内外の者を、一人も残らず殺し尽くすという事は、到底出来得べき事ではない。支那の歴史にも『楚三戸と雖も、秦を亡ぼすものは必ず楚ならん』という文句がある。即ち楚の国が三軒残っても、必ず復讐して秦国を亡ぼすであろうという事である。苟も日本国民が仮にその半数である四千万となっても、皇室は厳として日本国民の上に、君臨し給う事は確実である。しかるにその君臨は、外国の容認の下でもなければ、仁恵(ジンケイ)の下でもなく、監視の下でもなければ、監督の下でもない。天照大神以来の御神勅によりての天皇である統治権を知ろしめす訳である。かくてこそ日本は、再興の機会もあれば、復讐の機会もある。即ちかかる場合に於ては、戦うという事が、勝つ所以であり、死するという事が生くる所以であり、亡びるという事が、存する所以である。所謂死中活を求むるとはこの事である。これだけの一大決意をなし、一大飛躍をなして、初めてここに日本民族の光を千古に放つことが出来、所謂万世太平の基を開く事が出来るのである。降参して万世太平を開くなど、飛んでもない間違いである。降参の道は堕落の道であり、屈従の道であり、地獄に向かっての急行列車に乗るも同様である。

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絶対降伏交渉は、”日本臣民の臣道に違反している”(徳富蘇峰NO1)

2020年04月13日 | 国際・政治

 沖縄では、ひめゆり学徒隊の女生徒が「生き地獄」のなかに放り込まれ、国外の戦地では、いわゆる「玉砕」が続き、あちこちで弾薬や食糧が尽き、日本兵の餓死者や病死者が続出しているにもかかわらず、日本が戦いを続け、降伏しなかったのはなぜなのか。米軍の圧倒的な軍事力の前に、もはや対抗する戦力を失っているにもかかわらず、多くの優秀な若者を、敢えて”石つぶて”の如く、特攻兵として死に至らしめたのはなぜなのか。その人命軽視や人権無視はどこからきたのか。私は、日本人がきちんと突き詰め、後世に伝えていくべき重要な問題だと思っています。

 そんな思いを持って、「徳富蘇峰 終戦後日記 『頑蘇夢物語』」(講談社)を読みました。徳富蘇峰は、皇室中心主義的思想をもって軍部と関わり、戦時中、「大日本言論報国会」の会長に選ばれた人であり、日本の戦争を主導した重要人物の一人だと思うからです。
 そして、徳富蘇峰は、二・二六事件の蹶起将校と同じような、本心からの国家神道信者の一人だったのかも知れないと思いました。
 それは、降伏の交渉を進めた関係者を”全く日本臣民の臣道に違反している”と批判しているからです。”外国兵が屯在し、その総督たるマッカーサーが統治する”日本は、もはや”至尊の統治し給う所”の日本ではないのであり、そんな降伏は許されないという主張は、大日本帝国憲法や教育勅語、軍人勅諭や、その背景にある国家神道を信じる者には、あたりまえのことだと思います。
 連合国が天皇の存在を認めたとしても、”マッカーサーの統治”を受け入れるということは、明治維新以来の大日本帝国憲法や教育勅語、軍人勅諭などと、その背景にある国家神道の考え方の最も大事な部分を捨て無い限りあり得ないのであり、徳富蘇峰が、
それを以て、果して国体の擁護が出来たと言うか。皇室の尊厳が保たれたと言うか。洵(マコト)に以て驚き入りたる次第といわねばならぬ。
 それで殊更(コトサラ)に国体云々の文句を担ぎ出して来たのは、全く原子爆弾同様、ソ連の参戦同様、彼等が国民の耳目を眩惑せんとする一の手品に過ぎない。則ち国体も皇室も、彼等敗北論者にとっては、彼等の所志を到達する為めの一種の方便、一種の仮託、一種の口実、一種の保護色に過ぎないというも、差支あるまいと思う
 と結論づけたことは、そういう意味では間違っていないと思います。
 したがって、日本の戦争を主導した人たちの中には、二・二六事件の蹶起将校や、あくまでも戦争を続行しようとし、敗戦後自決した将兵、および敗戦後、徳富蘇峰のような考えを持ち続けた人たちと、国家神道の考え方や天皇を自らの利益のために政治的に利用し、敗戦後は、戦時中の”鬼畜”と手を結んで、再び要職に就いた人たちがいるのではないかと思います。

 そして、私は、そのどちらも恐ろしいと思うのです。
 まず、大日本帝国憲法や教育勅語、軍人勅諭などと、その背景にある国家神道の考え方は、昭和天皇のいわゆる「人間宣言」にあるように、”単ナル神話ト伝説”によって”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”と一体であり、日本の侵略戦争は、この”架空ナル観念”に基づいて始められたという意味で、私は恐ろしいと思います。
 また、天皇が”現御神”とされたために、日本人は”海行かば 水漬く屍かばね 山行かば 草生す屍 大君の辺へにこそ死なめ かへりみはせじ”などと”現御神大君=天皇”のために死ぬことを、自ら進んで受け入れなければなりませんでした。だから、ひめゆり学徒隊の女生徒が「生き地獄」のなかに放り込まれても、戦地で弾薬や食糧が尽き、あちこちで日本兵の餓死者や病死者が続出しても、少しも顧みられることがなかったのだと思います。

 したがって、戦時中の人命軽視や人権無視は、「皇国日本」や「国家神道」の考え方と切り離すことはできないという意味で、また、本心から「皇国日本」や「国家神道」の考え方を信じた人たちは、敗戦が避けられない状況になっても戦争を続行しようとしたという意味で、私は恐ろしいと思います。

 次に、徳富蘇峰が「敗北論者」と指弾した人たちは、戦時中、人命軽視や人権無視の政策・作戦を進め、”鬼畜米英”を倒すために人の命をあたかも”石つぶて”の如く利用しておきながら、敗戦後は、その”鬼畜”と手を組んで、「裏切り者」ともいうべき変節をした人たちであり、この人たちも、私は恐ろしいと思うのです。

 しばらく前に取り上げた「今日われ生きてあり」(新潮文庫)の著者である神坂次郎氏
いま、四十年という歴史の歳月を濾(コ)して太平洋戦争を振り返ってみれば、そこには美があり醜があり、勇があり怯(キョウ)があった。祖国の急を救うため死に赴いた至純の若者や少年たちと、その特攻の若者たちを石つぶての如く修羅に投げこみ、戦況不利とみるや戦線を放棄し遁走した四航軍の首脳や、六航軍の将軍や参謀たち(冨永恭次・陸軍中将や稲田正純・陸軍中将)が、戦後ながく亡霊のごとく生きて老醜をさらしている姿と……。”
 と書いていましたが、徳富蘇峰が敗戦論者と糾弾した人たちは、神坂次郎氏が””や””と表現した言動を続けた人たちであると、私は思います。
 そして、現政権は、こうした変節した人たちの流れを汲んでいるのではないかと、私は思っています。

 下記は、「徳富蘇峰 終戦後日記 『頑蘇夢物語』」(講談社)の「三 敗戦論者の筋書き」から抜粋しました。
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                                          『頑蘇夢物語』一巻
 三 敗戦論者の筋書き
 元来今度の事件は、決して偶発に起こった事ではない。予(アラカジ)め敗戦論者共の陰謀によって仕組まれたる狂言である。彼等は無条件降伏の理由としてソ聯の参戦、原子爆弾の使用を挙げている。しかしソ聯の参戦は、八月八日の通告によって、原子爆弾の使用は、八月六日の広島に於ける投下によって、初めて出来(シュツタイ)したるもので、彼等が所謂(イワユル)和平運動なるものは、恐らくは東條内閣の頃からの出来事で、東條内閣の没落も、恐らく和平運動者の毒手に罹ったものと思わるる。小磯内閣は、恐らくは和平運動者の手によって出来たもので、鈴木内閣に至っては、内閣それ自身が、全くその為めに出で来たったものと認めらるる。決して原子爆弾とか、ソ連の参戦とかいう事が、原因でもなければ、動機でもない。動機は正(マ)さしく英米追随である。

 殊(コト)に嗤(ワラ)う可(ベ)きは、絶対降伏を発表せざる以前は、原子爆弾は恐るべきであるが、苟(イヤシ)くもこれを避くべき手段方法さえ講ずれば、決して非常の禍害を蒙る事はないというような事を、新聞にも書き立てさした。手短に言えば、原子爆弾恐るるに足らずという事である。ところが無条件降伏の発表以来は、原子爆弾は実に人類を滅絶するに足る一大力を持つものであって、人類の福祉、民生の幸運を希(ネガ)う為めには、絶対これを畏避(イヒ)せねばならぬ。即ち原子爆弾の為めには、あらゆる犠牲を払っても、即ち満州を失うても、朝鮮を失うても、台湾を失うても、樺太を失うても、日本人たる誇りを失うても、面目を失うても、如何なるものを失うても、差支なしというような結論を生じ来たった。即ち彼等陰謀者にとっては、正にこれ原子爆弾大明神様々であって、全くこれが為めに降伏したのではなくして、降伏した事実を、これによって申訳を作ったというに過ぎない。初めは、さほど恐るるに足らず、心配にも及ばずとして、その舌が未だ乾かざるに、忽(タチマ)ちかく言い做(ナ)したる事を見れば、彼等がこれを以て、一種の辞柄(ジヘイ)となしたる事は、間違いない。ソ聯の一件もまたその通りである。満州軍の守備は厳然動かないという事は、彼等は屡々(シバシバ)明言している。しかるにソ聯の参戦があった為めに、掌(タナゴゴロ)を反すが如く、無条件降伏をせねばならない理由はない。これもまた彼等敗戦論者にとっては、好き辞柄であった。彼等は原子爆弾の発明者に向っても、スターリンに向っても、彼等の目的を達する良き援助を与えた事を感謝するの外はあるまい。これは聊(イササ)か皮肉の文句に似ているが、事実をありのままに語れば、全くこの通りである。

 それから殊(コト)に驚くべき事は、国体擁護という一件である。実は国体護持という文句が、最近各新聞の第一面に、特筆大書せられているから、これは何かの魂胆(コンタン)であろうと考えさせられた。日本国民が、今日に於て、改めて国体護持などという事を、仰々しく言い立つべき、必要もなければ、理由もない。しかるにかく藪から棒に、繰り返し巻き返し、書い立てる事は、敗戦論者が、何か仕組んだ筋書であろうと睨んでいたが、果然その通りであった。即ち敗北論者は、トルーマンに向って、彼等が日本に降伏を指定したる条件中には、日本主権者の地位については、何等関与する所なきものと、認めて差支なきやと、質問したところ、向こうからその通りとの返事を得たとて、宛も鬼の首を取ったる如く、これを天下に広告し、無条件降伏をしたればこそ、皇室の御安泰を維持する事が出来たという事を吹聴し、皇室の御安泰を保持する為には、何物を失うても差支えないという剣幕で、我等こそ日本国家の一大忠臣であると言わんばかりに、手柄顔に吹聴している。即ち連日新聞に掲げられたる国体云々は、畢竟如上の筋書によって出来たものである。

 しかし我等の考うるに、日本の国体は、日本国民の力によって維持すべきであり、日本の皇室は、日本国民が擁護し奉ることが、当然の務めである。しかるに外国人の許可の下に、恐れながら我が皇室を託し奉り、天皇陛下の主権を存置する事は、洵(マコト)に以て恐懼(キョウク)の至りといわねばならぬ。もし外国人が、一旦許可したものを、再びこれを取り消す時には、何を以て国体を擁護し、何を以て皇室を奉戴するか。如何に工面工夫を尽くしても、如何に千思万考しても、外国人が「イエス」といおうが、「ノー」といおうが、日本の国体は日本人によって、日本の皇室は日本国民によって、擁護する外はない事は、彼れ敗北論者といえども、今一歩を踏み込んで考慮すれば、豁然(カツゼン)貫通するであろう。

 しかるに、唯だ彼等が皇室の存続には干渉しないという事で、宛かも我が皇室を富嶽の安きに置き奉りたる如く、手柄顔に吹聴し、これが絶対降伏の一大功徳であるという如く、吹聴する事は、甚だ以て片腹痛き次第といわねばならぬ。万一外人が今後とても、皇室の御存続に干渉せずとしても、我等は全く我が皇室を、外国人仁恵(ジンケイ)の下に措(オ)くものであって、実に危険千万であり、実に汚辱至極であり、洵に以て天照大神の御神勅に対して申訳なき次第である。彼等はかかる交渉を外人としたその事さえも、全く日本臣民の臣道に違反している。されば彼等はこの一事に於ても、自ら恐懼謹慎すべきに、殊更に手柄顔で、それを吹聴するなどという事は、彼等は日本の国体を何と心得ているか。皇室の尊厳を何と心得ているか。

 且つ皇室の存続は彼等が許可するとしても、至尊(シソン)の主権には彼等は容喙せずとしても、日本国は至尊の統治し給う所でなくして、外国兵が屯在し、その総督たるマッカーサーが統治する事であるからして、至尊の主権も、至尊の御地位も、全くマッカーサーの下に置かせ参らす事になっている。主権は認めたというも、その主権自身は、米国の一軍人マッカーサーが、米、英、ソ、支の兵を率いて、日本に屯在し、その男の下に置かるるということになれば、恐れながら、陛下の主権は、全く紙上の空文であって、実際の主権は、マッカーサーに在りといわねばならぬ。それを以て、果して国体の擁護が出来たと言うか。皇室の尊厳が保たれたと言うか。洵に以て驚き入りたる次第といわねばならぬ。

 それで殊更に国体云々の文句を担ぎ出して来たのは、全く原子爆弾同様、ソ連の参戦同様、彼等が国民の耳目を眩惑せんとする一の手品に過ぎない。則ち国体も皇室も、彼等敗北論者にとっては、彼等の所志を到達する為めの一種の方便、一種の仮託、一種の口実、一種の保護色に過ぎないというも、差支あるまいと思う。

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ひめゆり学徒隊女生徒(兼城喜久子)の手記

2020年04月06日 | 国際・政治

 兼城喜久子さんの手記の後半に、見逃すことのできない文章があります。

その時、異様な光景が目に写った。米軍の船へ向かって泳ぎ出し投降していく日本軍兵士を、アダンのかげからねらいうちし、前方の海はまっかな血が広がっていった。何んと恐ろしいことか、味方同士で殺し合うなんて。人間のみにくさをまざまざとみる思いでたまらなくなった。

 この”味方同士が殺し合う”という日本の戦争の現実も、世界にはほとんど例がない悲惨なものではないかと思います。日本兵が寝返って敵側についたために殺し合うことになったというのなら、話はわかるのですが、沖縄戦における日本兵の投降は、明らかにそうしたものではなかったからです。
 背景には”生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ”(戦陣訓(陸訓一号)「第八 名を惜しむ」)という”皇軍の道義”があったからだと思われますが、投降する味方を射ち殺すほどに、当時の日本兵には”皇軍の道義”が徹底されていたということだろうと思います。
 死にそうなほどの飢えや渇き、そして、圧倒的な米軍の攻撃による死の恐怖の連続から逃れたいという思いさえ許さない、そんな残酷で悲惨な”味方同士”の殺し合いの例が、他国にあるでしょうか。

 兼城喜久子さんが”味方同士で殺し合う”場面を目撃し、”人間のみにくさをまざまざとみる思いでたまらなくなった”と記したことは、言いかえれば、日本の戦争が”聖戦”ではないことを実感したということではないかと思います。

 私は、ひめゆり学徒隊の女生徒の手記を読んで、”オウム真理教”が地下鉄サリン事件を起した後にしばしば耳にした”マインドコントロール”という言葉を思い出しました。”マインドコントロール”という言葉は、オウム真理教の教祖・麻原彰晃と一部の教団リーダーが、世の真理を体現する神の如く振る舞い、言葉巧みに人を集めて、徹底的に教祖がつくりあげた教理を教え込み、大勢の若者をコントロール下に置いていたことを表現するために使われたのだと思います。


 そして、天皇を現人神とした戦前・戦中の皇国日本も、戦陣訓(陸訓一号)などを発した戦争指導層が、”破壊的カルト”といわれるオウム真理教と同じように、徹底的に日本国民に”皇国史観”や”皇軍の道義”その他を教え込み、マインドコントロール下に置いたのではないかと思うのです。
 天皇自身が、戦後、「人間宣言」といわれる詔書を発したことでわかるように、天皇を”現人神”としたのは、歴史的事実に反する神話に基づくものでした。
 また、”八紘一宇”の精神に基づく「大東亜戦争」の実態は、近隣アジア諸国を、他国に優越する”神州皇国日本”の支配下に置こうする侵略戦争で、その意図の面でも、戦い方の面でも、”聖戦”というような戦争ではありませんでした。
 さらに、ひめゆり学徒隊の女生徒が、重傷を負った学友を治療したり、転倒した学友を助け起こしたり、水やコーヒーを差し出す米兵に接して、教え込まれた”鬼畜米英”に疑問を抱かざるをえなかったように、当時の日本国民は、事実に反することをいろいろ教え込まれて、戦争指導層のマインドコントロール下に置かれていたのではないかと思うのです。

 当時の日本は、歴史的事実に基づいて、天皇を現人神することに異を唱えたり、疑問を抱いたりすることは許されませんでした。皇国史観は、大日本帝国憲法に定められ、教育勅語でも説かれているように絶対的なものだったのです。
 そして、新聞紙法や出版法、さらには、放送禁止事項などの制定によって徹底的な検閲や情報操作が行われました。戦後、”大本営発表”が、”嘘の代名詞”として使われることになったのもそのためだと思います。
 それだけではなく、そうした法や国の意向に反する活動をすると、治安維持法や治安警察法で罰せられる世の中でした。日本国憲法に定められているような学問の自由や思想の自由、表現の自由などはなかったのです。
 したがって、当時の日本国民は、様々な思想や考え方に触れて、自らがつくり上げた歴史観や人生観を持つことができず、教え込まれた皇国史観や軍国美談を背景とするような偏った人生観を持つことになったのではないかと思います。
 だから、戦前・戦中の日本国民は、破壊的カルトといわれるオウム真理教のマインドコントロール下にあった信者と変わらないのではないかと思うのです。
 そういう意味で、安倍政権の天皇の”元首化”の動きや、教育現場における”建国神話”復活の動きには反対です。

 下記は、「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善(角川文庫)から抜粋しました。
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                        死の解散命令

                        三十 自決
兼城喜久子の手記
 昭和20年6月9日午後6時、佐藤三四次部隊長は経理部全員に解散を命じた。
「いたらぬ私のために、みんなにご苦労をかけとおしてすまない。靖国の社でお待ちします」
 愛情のこもる最後のあいさつに、みんなはすすり泣いた。
 部隊長は米軍上陸以来、父親のように私たちの身の上を心配してくださったのだった。作戦のためとあればしかたがなかったが、温顔の部隊長と別れるにしのびなかった。(佐藤部隊長は6月23日未明、牛島司令官とともに摩文仁で自決)6月10日、刻々と時はすぎ、壕脱出予定の午後7時になった。食糧やその他の品々を準備した。戦争がはじまってから二か月あまりも苦楽をともにした全員が、四方八方にはなればなれに解散してゆくのかと思うと、たえがたい寂しさを感じた。
「お元気で、ケガをしないように」
 と別れを告げあって壕を出た。
 負傷した昭子さんの手をひいて、砲弾をさけながら夜道を歩いていった。めちゃめちゃに破壊された真壁のを通って、伊原という小さいについた。
 このに、陸軍病院の壕のあることを聞いて、たずねていった。話しているうちに、もう幾人かの学友が戦死したことがわかった。壕は超満員だったので、あらたにはいって来た経理課の筆生と、私たち十五名は、ずっと奥の暗いじめじめしたところに入ることになった。誰もはいったこともなさそうなところだった。(伊原第一外科壕、石川節子、上江洲浩子のいた場所)泥の上に板を敷いて休んだが、洞窟の天井からは水滴がぽとぽとしたたり、まもなくびしょぬれになってしまった。よその壕におせわになっているのだし、わがままもいえず、互いに慰めあってがまんした。炊事場もなく、平良先生、仲栄間先生、石川先生が、砲弾の中をまでいってご飯を炊いて来てくださった。経理課のお姉さん方も、危険をおかしてイモを掘り、野菜をとって来てくださった。伊原の壕も日一日と砲弾は激しくなり、負傷者、戦死者の数は増した。十七日朝は、多くのお友達、看護婦、兵隊が、壕の入口で亡くなった。黄泉の国のようなこの壕の奥にいた私たちはかえって救われた。
 6月18日。不運はまたしてもめぐってきた。伊礼、伊原の近くにも、すでに米軍がせまり、壕脱出の準備で壕内はごった返した。重傷のお友達は、
「苦しい苦しい」
 とうめきながら、いっしょにつれていってちょうだい、と嘆願していた。
 残される者もつらかっただろうが、残してゆくほうがまだつらかった。足に負傷した比嘉勝子さんを、とうとう残していった。暗いうちにと喜屋武海岸へのがれていったが、道には数多くの戦死者がころがり、屍を踏みこえて進まねばならず、殺気はみなぎり、身の毛がよだった。壕を出るときは、はぐれぬようにと列をつくったが、たびたび至近弾に見舞われて、いつしかちりぢりになってしまった。深夜の人ごみの中から、ようやく先生方三名をさがしだしてほっとした。あえぎながら山城の坂道を登っていった。
 6月19日。ほのぼのと明けそめる空に、もはやグラマン機が姿をあらわした。壕もなく岩かげもなかった。みんなは近くのくぼ地に飛びこんで身をふせた。人員を調べてみると四名たりなかった。宜野座啓子さん、昌ちゃん、じゅんちゃん、山田さんがみえない。いまさきの至近弾でちりぢりになってしまったのであった。石川先生、仲栄間先生は身をふせるところもなく、危険な木のかげにおられた。
 砲弾は激しくなるばかりであった。たまりかねて両先生は石部隊の壕にかけつけた。
「僕たちが迎えに来るまで決してそこから移動してはいけないぞ。じっと身をふせておれ。部隊に頼んで来るから」
 うしろをかえりみて注意されながら、砲弾の雨をついて両先生は去られた。米軍の上陸当初から先生方にはご苦労ばかりおかけした。(これが両先生との最後の別れとなろうとは思わなかった)
 砲弾は激しくなるばかりであった。目をつぶってがまんしていて、轟然と至近弾がおそいかかると、目がくらくらになった。私は草にしがみついた。至近弾がつぎつぎに飛んで来た。やられた! と叫ぶ声に、ハッと目をあけて見ると、あたりには硝煙と土煙がたちこめていた。瀬良垣みえさんが手をやられ、宮城登美子さんは背中に傷を負った。
「昭ちゃんがやられた!」
 と宮城登美子さんが叫ぶ。
 昭ちゃんを見ると、うなだれて身動きもしない。かけ寄って、
「昭ちゃん、昭ちゃん!」
 とゆり動かしたが、もう返事がなかった。爆風で胸をやられたらしい。五分前まで笑顔でいた、かわいい昭ちゃんのかわりはてた姿に、みんなはすがりついて泣いた。砲弾はますます激しくなった。くぼ地にいっしょにふしていた兵隊が、匍匐前進で偵察に登っていった。まもなく、
「敵だ!」
 という声が聞こえた。さっとみんなの顔から血の気がひいた。くぼ地を飛びだして匍匐前進で、小銃の弾をさけながら進んだ。お二人の先生方はどうなったのだろう。私たちは、ある地点まで進んで先生たちを待った。
 夕方になって、ようやく静かになった。平良先生と平織先生、山川さんは、元来た道をたどってさがしにゆかれたが、とうとうむなしく帰って来られた。亡くなった昭ちゃんを、毛布にくるんで下さったとのこと、いくらか心が安まるようだった。両先生を見失った私たちは、しかたなく喜屋武の海岸へ進んだ。あてもなくさまよっているうちに、とうとう日はとっぷり暮れてしまった。心細さと寂しさがこみあげてきた。先生を見失った私たちは、照明弾の光をあびながら草原にぐったりふしていた。
 ふと聞きおぼえのある声がする。じっと声のする方を見ていると、仲宗根先生の姿があらわれた。伊原の壕から、私たちのうしろについて出て来られたらしい。しょんぼりしている私たちを、きのどくそうに見て居られた。私たちは、先生方についている師範生がうらやましかった。幸い、その晩は仲宗根先生、平良先生、平織先生や師範生もいっしょに、海岸の洞窟に夜を明かした。
 6月20日。海に向かって大きな口のあいている洞窟で、多くの人々はじっと黙りこんで天運を待っていた。岩にぴったり身を寄せたままで、誰も口をきかなかった。正午を少しすぎた頃であった。アメリカ船が寄って来た。手旗信号で、何か合図をしているようであった。恐怖のあまり、みんなは岩をよじ登って、またもとのジャングルにはいったが、今度は、弾よりも気味悪い声になやまされた。スピーカーを通じて、米兵の声がガンガンひびく。
「ハヤクココニコイ。オヨゲルモノハオヨイデコイ。ミナトガワニユケ。ヒルハアルイテモイイガヨルアルクナ」
 耳をおおってもガンガンひびく。
 ああおそろしい鬼畜の声。アダンのトゲにちくりちくり刺されながら、死人を飛びこえ飛びこえ、ふたたび仲栄間先生、石川先生の名を呼びながらさがし歩いた。経理課のお姉さんがたも、とうとう私たちにはぐれてしまった。平良先生、瀬良垣えみさん、比嘉三津子さんなど、とうとう十二名だけになってしまった。
 ジャングルの中を、さまよい歩いているときだった。なんという奇蹟か、幸運か、比嘉初枝さんがはからずもお父さんに出あった。神のひきあわせであったにちがいない。親子が手をとりあって泣いているようすに、みんなはもらい泣きした。ゆくえも知れぬ父母弟妹のことが、ますます気づかわれて、さまざめと泣いた。
 一日中さがしたかいもなく、とうとう二人の先生方にはあえなかった。二日めの夜がやって来た。もう両先生をさがすことをあきらめ、平良先生お一人にすがって、血路をひらくことを決心した。いったいこれからどうすればよいのだろうか。突破の目的地知念岬(注、摩文仁岳の誤り)が、ときどき照明弾に浮かび出る。知念の方では、平和な生活を送っているとの情報がひろがっていた。人々は、知念に向かって必死になって先を競っていた。泳いでゆく人、岩かげを伝ってゆく人、海岸は人の群れの流れをなした。ある者は、とうていだめだという。ある者は、成功するという。私たちはどうすればいいのかわからなかった。先生を先頭に、私たちは運を天にまかせて、途中までいってみたが、やはりだめだった。
 死の直前の寂しさと恐怖がひしひしと身にせまった。平良先生も、突破を断念し、とうとう自決の覚悟をきめられた。潮のひいた海辺におりて、比嘉三津子さんがわずかばかり残っていた米を集めて、飯を炊き、手のひらに少しずつ配った。水とてもなく、潮で炊いたのであった。部隊解散後、私たちを妹のようにいたわってくださった比嘉さんのご親切に、私たちは涙を流して感謝した。海岸には矢弾尽き、意気消沈した哀れな勇士たちが、ゆきつもどりつしていた。みんなは海に向かって小声で歌った。歌声はむなしくはてしない海に消えていった。誰歌うともなく、いつしか故郷の歌を歌っていた。
「ウサギ追いしかの山、コブナつりしかの川、夢はいまもめぐりて、忘れがたきふるさと、いかにいます父母……」
 声もかすれ、ついにすすり泣きにかわってしまった。母の顔が浮かぶ。妹の顔が浮かぶ。生まれてはじめて踏んだこの沖縄最南端の岩の上、ああ、ここに天命を終るのか。
 6月21日。ちょっとした岩かげで時をまった。艦砲射撃もなく、迫撃もなく、無気味な静けさであった。目の前には、米艦が静かに巨体を浮かべていた。岩かげは二つにわかれていた。比嘉三津子と、比嘉初枝さんと、石部隊の兵隊四名は、一方の岩かげで時を待った。退屈まぎれに、ポツリポツリ兵隊さんとも話したりしていた。その時、異様な光景が目に写った。米軍の船へ向かって泳ぎ出し投降していく日本軍兵士を、アダンのかげからねらいうちし、前方の海はまっかな血が広がっていった。何んと恐ろしいことか、味方同士で殺し合うなんて。人間のみにくさをまざまざとみる思いでたまらなくなった。
 正午近くになって、平良先生と話しているところへ、血にまみれた一人の兵隊が飛びこんで来た。
「どうしたんだ」
 とたずねると、吐息をつきながら、
「米兵が上陸してここに向かってやって来る」
 という。最期の覚悟はしていたが、身体(カラダ)がかたくなってふるえた。兵隊は米軍に手榴弾を投げつけて、あべこべに胸をやられたらしい。
 間もなく周囲がざわついた。と気がつくと同時に、英語らしい声が聞こえる。平良先生と比嘉三津子さんはみんなのかくれている岩かげに、とび込んでいかれた。比嘉初枝さんと私は、すぐそばの師範生の入っている穴へもぐり込んだ。
 ああ、もうこれで最後かと身をちぢめてじっと入口をにらんだ。
「デテコイ、デテコイ」
 入口から気味悪い声で米兵が呼んでいる。一秒、二秒と時はたった。
 息をころしていると、バラバラと入口から小銃弾が打ち込まれた。そばの安富祖嘉子さんがやられ、私にもたれかかって来た。即しらしい。仲本ミツ、上地一子さんもやられた。比嘉園子さん、大兼久ヨシさんがうめいている。となりの曹長殿もやられ、私の足元へ、くずれるように倒れた。平良先生やみんなのことが気になり、初枝さんと二人は、壕から飛びだしてジャングルの中に飛びこんでいった。アダンの葉かげからおそるおそるのぞくと、十数名のアメリカ兵だった。やがてアメリカ兵は二人に気づき、銃をつきつけた。私は握りしめていた手榴弾を捨てた。
 みんなは血しぶきをあびて岩の上に立っていた。平良先生がもどられた岩かげをのぞくと、鮮血は岩を染め、十名の学友が自決をとげていた。あまりにもいたましい姿に、二人は泣きくずれた。
 ああ! あの一瞬、左に身をかわした私たち二人だけがこの世に生き残り、平良先生以下九名がついに散華した。自決の位置は、比嘉三津子、(二高女出身)が一人はなれて岩の間にたおれ、普天間千代子と板良敷良子が岩の下、宮城貞子、宮城登美子、金城秀子、座間味静枝は平良先生を中心にして、瀬良垣えみと浜比嘉信子すこしははなれていた。あっという間に起こった信じられないような恐ろしい出来事だった。たった数分の間に十四名のかけ替えのない生命が奪われてしまった。最南端の地喜屋武岬の岩かげは深い悲しみに包まれ、何事もなかったように静かになった。
  
 

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ひめゆり学徒隊女生徒(久田祥子)の手記

2020年04月03日 | 国際・政治

 ひめゆり学徒隊の女生徒の手記を読むと、日本の戦争が、単なる戦争ではなく、世界に例のない異常で残酷な戦争だったのではないかと、あらためて思います。
 敗戦間近で、あらゆる物資が不足していた上に、日本周辺の制空権や制海権を失っていたため、負傷した兵の治療がままならず、未成年の女生徒までもが戦場に狩り出されることになったのでしょうが、下記の久田祥子さんの手記を読むと、ひめゆり学徒隊の女生徒が体験した沖縄戦が、まさに「生き地獄」であったことがわかります。
 身動きできない負傷兵が多く、傷口にウジ虫がわく状態で放置されており、女生徒たちは、不眠不休で、そうした負傷兵の世話や治療にあたったのです。
 でも、当時の日本軍の上層部は、沖縄戦に限らず、それぞれの戦場がどういう酷い事態に直面しているのか、ということについては、ほとんど考慮せず、戦争を進めていたように思います。それは、個々の戦場で日本の兵隊や住民が、どんなひどい状況にあり、どんな思いで過ごしているのかは、問題にはならない国だったからだと思います。
 「皇国日本」は、武器を手にして戦う兵隊ではない女生徒も、卒業式で、”海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見はせじ”というような恐ろしい歌を歌う国だったのです。
 だから私は、なぜ、日本がもっと早く「降伏」しなかったのか、ということについて、「皇国日本」の思想や考え方の問題として、きちんと検証し、後世に伝えることが、とても重要な問題だと思うのです。

 1941年、当時の陸軍大臣東條英機が示達した戦陣訓(陸訓一号)の「」には
夫れ戦陣は、大命に基き、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍く皇道を宣布し、敵をして仰いで御稜威の尊厳を感銘せしむる処なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず。
 などとあります。当時の日本人は堅く”皇軍の道義”を持つことを強要されたのです。そして、
生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ”(「第八 名を惜しむ」)
 ということで、降伏することが許されない状態におかれました。だから、下記の手記にもあるように、大勢の女生徒や引率教師、沖縄住民が、追い詰められて、そうした教えに基づき自決しました。
 垣花秀子さんの手記には”神国日本に生まれ、捕虜になる! こんなことがあってたまるものか。死に倍する恥辱だ”とありましたが、自決という痛ましい歴史的事実は”皇軍の道義”が生んだ人命軽視の考え方によるものだと、私は思います。

 そして、当時の日本軍や政府の指導者が、”生きて虜囚”となったことも忘れられてはならないことだと思います。当時の日本国民は、”大命に基き、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍く皇道を宣布”することが使命であったはずであり、それができず、現人神=天皇に敗戦の「玉音放送」をさせることになった当時の日本軍や政府の指導者は、「皇国日本」の教えに従えば、当然その非力と「負け戦」の責任を取らなければならなかったはずだと思います。
 日本の戦争指導層が、連合国(敵国)の裁判を受け、戦争犯罪人(戦犯)とされることは、”皇軍の道義”に従えば、”生きて虜囚の辱”を受けることではなかったのかと、私は思います。

 兼城喜久子の手記には、佐藤三四次部隊長(6月23日未明、牛島司令官とともに摩文仁で自決)が経理部全員に解散を命じたとき、
いたらぬ私のために、みんなにご苦労をかけとおしてすまない。靖国の社でお待ちします
 と愛情のこもる最後のあいさつをしたので、”みんなはすすり泣いた”と書かれています。
 同じように、日本軍や政府の指導者も、自ら現人神としていた天皇に対して、また、沖縄をはじめとする戦場で戦死したり、自決した将兵や住民に対して、敗戦の責任があるのではないかと思います。
 ところが日本では、GHQによって公職を追放された戦争指導者が、その後の情勢の変化によって公職追放を解除され、再び日本の政界や経済界その他に復帰し、活躍しました。
 そして、それが現在の日本国憲法を改正しようとする動きや「大東亜聖戦大碑」の建立、やりたい放題の安倍政治などとして、今に続いていることを見逃すことが出来ません。
 自決すべきだとは思いませんが、戦争指導者の裏切りや無反省は許されないと思います。
 下記は、「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善(角川文庫)から抜粋しました。
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                       陸軍病院の日々
             
                    十三 生き地獄の兵器廠
久田祥子の手記
 十号壕に配置されてから二週間がたったころだった。私は美里キヨさんや糸数看護婦などと、照屋の兵器廠勤務を命ぜられた。天願(テンガン)軍医に引率されていった。南風原製糖工場前の道路には直径3メートル、深さ2メートルぐらいの弾痕があった。そのそばに軍服のまま兵隊がうつぶせになって、手足がちぎれ飛んでいるのに肝をつぶした。兵器廠に到着しないうちから、何かしら陰惨な気配を感じた。はじめての壕であり、ようすも全然わからなかった。私たちは軍医について壕に入り、さっそく治療をはじめた。入口の地べたに大勢の患者が重なりあっていて、足の踏み入れ場もなかった。ほとんど重傷患者ばかりであった。入口の左側にこれでも生きているのだろうかと思われる、顔面総つぶれの患者が虫の息で横たわっていた。傷ついてから長く治療もしなかったのであろう。顔面のほうたいは膿で黒くよごれきって悪臭が鼻をついた。
「ああきのどくに。こんな患者から早くみてやらなくては」
 とさっそく消毒にかかった。いままでうめきつづけていた患者たちは、軍医が来たというので、静かに治療を待った。身動きができないほどぎっしりつまっていた。とこどき患者を踏みつけては大声でどなられた。患者は砂糖キビがらの上に横たわっていた。百人近くの患者をおおざっぱに治療をすませ隣の壕に移った。右側の壕は、くの字形の壕で、そこにも五、六十人ぐらいの患者がいた。左側の壕が小さく、二十人ぐらいの患者が収容されていた。ひととおり治療をすませると、もう夜が明けてしまった。軍医は本部に帰り、美里さんと二人は百名収容のまん中の大きな壕に配置された。糸数看護婦と、もう一人の看護婦は、各々左右の小さい壕に配置された。私たちはまず壕内の清掃からはじめた。患者を元気づけ、すわれる者にはすわってもらい、場所をかえてキビがらをかたづけた。二十センチぐらいもつもっているキビがらを空襲のあいまあいまに、外へはこびだすことは容易なことではなかった。
「どうしてこんなにたくさんのキビがらが積もっているの」
 と患者にきくと、
「この壕はいつもほったらかされて、三日も四日も食事がないのだ。軍医も来ないし食事も来ない。ひもじさのあまり壕をはい出て、外の畑からキビを折ってきてかじっとるんだ」
 という。五十メートルほどの壕内の清掃を終ったころは、すっかりくたびれてしまった。
 三日めの夕方本部から軍医と看護婦二人が来て治療にかかった。糸数さんたちも手伝いに来た。仕事の分担をきめ、超スピードでほうたいを交換した。私はほうたいをとく係にまわった。膿が上まであふれて寝台の上にもたまっていた。
 足をやられている患者、胴に傷のある患者、手をやられている患者、いずれもいっぱい膿をためている。手の骨をぐちゃぐちゃにやられている患者に、ちょっとハサミを入れると、悲鳴をあげる。いやな臭いと思ってハサミを入れてひらくと、ほうたいとほうたいの間をくぐって、膿の中からウジがむくむくとはい出る。胸がむかつくのをやっとがまんしてひらく。悪臭がぷうんと鼻をつく。頭からスーと血の気がひいて、患者のほうたいがしだいに見えなくなった。これではいけないと足を踏んばっていると、やっと正気づいた。つぎつぎと治療を進めているうちにまた気が遠くなる。昨夜からの不眠不休もたたったのか貧血しつづけた。
 ほったらかされていた患者は、私たちが来てからは、大よろこび であった。
「女学生さん 便器」
「女学生さん 尿器」
 とほうぼうから呼びつけられる。食事の世話から百名の患者のせわのいっさいを美里さんと二人でやらねばならなかった。夜どおし、
「女学生さん、女学生さん!」
 と方々から呼びつづけられて、一睡もできなかった。三日二晩不眠不休で看病しつづけて、とうとう疲労は極に達した。今晩はどうにかして睡眠をとらねばと思ったが、寝所がなかった。中央の階段になっているところに荷物をおいてあった。そこにすわって寝ようとしたが、うとうとすると、
「女学生さん、女学生さん!」
 と呼び起こされる。とうとう三晩の徹夜をつづけた。
 明けがたになって、石垣兵長が来て、入口に梱包を横にして寝台をつくってくださった。不安定な梱包の上でやっと睡眠をとることができた。
 壕の端と端では声が届かない。それで暇なときは、いつもまわっていなくてはならなかった。
「女学生さん、尿器」 
 という声に、カン詰カンを持っていこうとすると、途中でいきなり、
「水をくれ!」
 と飛びつき、カン詰カンを奪いとろうとする者が出た。
「これは便器ですよ。水はありません」
 とはらいのけると、
「水をくれないのか。看護婦は何をしていやがるんだ。水を汲んでこなければ、ここを通さぬぞ」
 とたちはだかる。
「何をするんですか!」
 私もかっとなった。
「今、真昼だということはわかって? 飛行機がブンブン飛んでいますよ。いくらなんでも砲弾の中に飛びこんでいって水を汲んでこいとおっしゃるの」
 負けずに反抗したら、相手もだまってしまった。あとでわかったがそれは脳症患者だった。
 兵器廠に来て四、五日たってから着弾は近く激しくなった。治療班はまわっても来ないし、交替の日になってもかわりは来なかった。夕方になり砲弾がとだえると、製糖工場の近くに水汲みに出かけた。
 いれものがないので、患者の水筒をいくつも肩にかけて汲みにいった。一日一度しか水の配給はできなかった。かわききっている患者は餓鬼のようにガブガブ飲んだ。三回も四回もかよって、やっと一通りの配給がすんだ。食事用の水を汲むところからは、また夜の砲撃がはじまった。向かいの丘陵に砲弾が炸裂し、ズシンズシンと地ひびきが伝わったかと思うと、もう井戸の近くで炸裂する。ブルンブルンと耳もとをかすめ、ブスンブスン足もとに飛んでくる。前後左右に破片が不気味な音で風をきってブスブス土にささる。ほうほうのていでやっと壕に逃げ帰った。
 本部の壕とはずいぶん離れているので、飯あげはいっそうつらかった。百名もの患者がいるので、飯はいつも不足がちだった。
 着弾の激しい日であった。一晩中飯あげにも出られず、明けがた近くになってやっと出かけていった。ところが炊事場にいってみると、飯は各壕に配られてほんのわずかしか残っていなかった。それだけではとても二食分はなかった。とうとう朝食はぬきにして昼ごろ配ることにした。おにぎりにすると直径三センチぐらいのおしるこダンゴぐらいだった。
 空腹をかかえてご飯どきばかり待っている患者に、一日たった一食、しかもこんな小さなおにぎりである。どうして配ることができよう。私には配る勇気がなかった。その日は兵隊さんにお願いして配ってもらった。もちろん私たちは翌朝まで空腹をこらえた。
 入口近くにいた破傷風患者は、顔面をやられ背をそらしてはブーッと口から泡をふいていた。食事もとらず同じことをくり返して。もだえ苦しんでいた。もう一人の患者は久米島出身であった。背中がそり、アゴがあかなかった。美里さんはいつも親切にこの患者の食事のせわをしてあげた。
 中央のまがり角から、
「女学生さん、女学生さん」 
 しきりに呼びつづけるのでいってみた。
「こいつがあばれまわっていたくてたまらないのですよ。つまみとってください」
 と訴えている。肩の傷をひらいてみるとウジであった。
 向う側の入口近くでおどけたように抑揚をつけて、
「ねえ、看護婦さん、看護婦さん」
 と黄色い声で呼んでいる。
「どうしたの?」
 と近づいてみると、土壁に向いた患者が、
「看護婦さん、看護婦さん、このハンカチは、この赤いハンカチは、私が満州にいったときにもらったものですよ」
 やさしい声でいっている。かわいそうに脳症患者であった。数えてみると、十人の脳症患者がいた。通路にころげこんでいた一人の患者が、
「この沖縄戦において諸君はよく奮闘してくれた」
 と軍隊口調でしゃべりはじめると、そのそばから、
「ほれほれ早く早く、ゆかんか、波止場さしてゆくんだ。あれ船がでる、船が、カンナを持って、ノコギリをかついで早く早く」
 と早口調でいう。なれてしまうと、脳症患者もあいきょうがある。ところが上の段にいる脳症患者が小便をたれる。
「女学生さん、上の奴、おしっこをたれやがった。なんとかしてくれ」
 と訴える。狂暴の脳症患者のそばにいる患者はたまったものではなかった。
「あいたたた! こいつ移してくれ、女学生さん頼む」
 とせがまれても、ぎっしりつまった壕にはどこにも移す余地はなかった。 
 この壕に来てから一週間目の昼ごろであった。壕のはしっこで仕事をしていると、壕の中に一種異様な臭いがただよい、煙が反対側から流れこんできた。
 向こう側でざわめいている。こんな真昼に炊飯をしているのだろうかと急いでいってみると、大勢たかってがやがやいっていた。
「ちくしょう、何のために陸軍病院などに来たのだ。バカヤロウ!」
 とどなっている。
「どうしたんです? 」
 とおそるおそるのぞくと、破傷風患者が、出口のほうで顔面をやられて、うつぶせになり、真っ赤な血が流れていた。右手は手のひらから吹き飛ばされ、五本の指の骨ばかりが残っていた。
「ばかですよ、信管をぬいていっちゃったんだ。危ないと思った瞬間、身をかわして、パッとふせたつもりだったが、傷ついた足が台の上に残り、左足はこれこのとおりまた傷ついてしまった。小さい破片がだいぶはいってしまった。こんなことで傷つくなんてばかばかしい」
 とぶつぶついっていた。この兵隊は京都出身の吾妻という人だった。自決した患者を夕方になって埋葬した。腸が飛び出ていた。あまりの苦しさにたえかねたにちがいない。これが私の埋葬したはじめての患者であった。自らの手で命をたたねばならぬ苦痛。ああ感傷などにふけっているときではない。その日は患者の持っている手榴弾を残らずとりあげた。
 そのころから糸数さんの壕から死人がつぎつぎに出て、私たちも埋葬の手伝いにいったが、多いときは十ニ、三人もいた。壕の前に弾痕ができたので、四、五人いっしょにほうりこんだりした。
 兵器廠に来てから十日もたったのに、治療班はやって来なかった。本部連絡に石垣兵長についていった。うす暗い八号の本部壕にはいってゆくと、上原婦長がおられた。
「兵器廠から連絡にまいりました」
「ああ久田さんですね。ご苦労様でした。兵器廠はご飯もなく、寝るところもなかったそうですね。さあ、ご飯をうんとおあがり。今日は私の寝台にぐっすりお休み」
 毛布を敷き、私の手をとってすわらせ、シイタケと肉のはいった大きなおにぎりを二つくださった。私は婦長の手をにぎりしめた。いままではりつめていた気がゆるみ涙がとめどもなく流れた。おかあさんのお顔が浮かんだ。これほど慈愛に満ち、実感のこもった”ご苦労様”ということばを私はこれまで聞いたことがなかった。兵器廠の苦労もすっかり忘れた。連日の疲労が一時に出たのであろう、その夜から四十度の高熱にうなされ、とうとう立てなくなってしまった。
 陸軍病院はどの毫も陰惨ではあったが、兵器廠の壕ほど陰惨をきわめた壕は少なく、全くこの世の生き地獄であった。
 その後、しばらくして吾妻という兵隊もとうとう自決したということを聞いた。

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