戦時中、内閣直属の情報局や軍部の”指導ノ下”に”国体ノ本義ニ基キ聖戦完遂ノタメ会員相互ノ錬成ヲ図リ日本世界観ヲ確立シテ大東亜新秩序建設ノ原理ト構想トヲ闡明大成シ進ンデ皇国内外ノ思想戦ニ挺身スルコトヲ以テ目的”とした「大日本言論報国会」の会長であった徳富蘇峰は、戦時中の自らの考えを変えることなく、戦後の日本を見つめ、批判をしています。腹に据えかねることがいろいろあったからだと思います。
だから、戦時中の戦争指導層の考えや、日本の戦争がどういうものであったかを知る上で、「徳富蘇峰 終戦後日記 『頑蘇夢物語』」(講談社)の文章は貴重だと思います。
下記の”東條程の男であれば、死のうと思えば、死することは、絶対不可能とは言われまい”という徳富蘇峰の指摘は、きびしい指摘ですが、当然ではないかと思います。
”死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。”
とか
”恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励してその期待に答ふべし、生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ”
というように、死を恐れず戦うことを”勇”とし、”美”とする”戦陣訓(陸訓一号)”を発した陸軍大臣東條英機が、”生きて虜囚”となり、戦時中の鬼畜、敵側連合軍の裁判を受け、無罪を主張しつつ、処刑された事実は、「玉砕」前提の戦いを強いられ亡くなった日本兵や、「生きて虜囚」となることができず、”自決”した国民との関係で、簡単に忘れられてよい問題ではないと思います。
すでに取り上げたように、ひめゆり学徒隊の一人、垣花秀子さんの手記には
”神国日本に生まれ、捕虜になる! こんなことがあってたまるものか。死に倍する恥辱だ”
とありました。
また、上原当美子の手記には、
”皇国の女性だ、死ぬのならいさぎよく死にたい。亡くなった学友に対して恥ずかしくないように…”
とありました。当時の政府や軍の指導・命令の下、日本兵のみならず、女生徒でさえ、こうした思いを抱いて何人も”自決”したのです。
にもかかわらず、「玉砕」前提の戦いや特攻攻撃を強い、”生きて虜囚”となることなく、潔く”自決”することを説いた多くの軍人や政治家が、日本の降伏を受け入れ、アメリカに跪いて、敗戦後も”平気”で”恩給生活”を継続していることは、徳富蘇峰が指摘するように、本来” 無上の恥辱”であるはずです。
でも、現実には、責任を感じて自決した軍人や政治家は少なく、”寥々(リョウリョウ)たるものである”というのです。
さらに、そうした軍人や政治家が朝鮮戦争勃発後、公職追放を解除され、政界その他に復帰し、再び日本の指導者として、様々な分野で活躍ていることも見逃せません。「死ね」というわけではありませんが、恥かしいことであり、許されないことではないかと思います。
そしてそれは、大日本帝国憲法や教育勅語、軍人勅諭、国体ノ本義、戦陣訓などに表現された皇国日本の思想が、国民を支配するための単なる手段に過ぎず、まやかしであり、昭和天皇言うところの”架空ナル観念”であった証(アカシ)ではないかと思います。戦争責任を問われ、公職を追放された人たちは、空襲や本土決戦の危険が増し、追い詰められた時、かつて主張していた”架空ナル観念”を捨て、降伏を受け入れて、自ら鬼畜としていた米英主導の連合軍の指示に従ったからです。
”敵が原子爆弾を濫用したとしても、その為めに大和民族が一人も残らず滅亡する心配はない。・・・日本国民が仮にその半数である四千万となっても、皇室は厳として国民の上に、君臨し給う事は確実である”
などといって、降伏せず戦うことを主張した徳富蘇峰の主張は、極めて野蛮であり、とても受け入れられませんが、それが、本来の皇国日本の思想なのだと思います。神の国、皇国日本に、降伏はあり得ないのです。
徳富蘇峰が、戦後も自らの考えを変えることなく、皇国日本の思想を持ち続けたのは、死んでいった人たちに対する彼なりの良心の表現であったのかも知れないと思います。
下記は、「徳富蘇峰 終戦後日記 『頑蘇夢物語』」(講談社)から『頑蘇夢物語』三巻の「三五 日本軍人と降伏」を抜粋しました
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『頑蘇夢物語』三巻
三五 日本軍人と降伏
陸軍海軍の元老ともいうべき人々、またその中堅ともいうべき人々、如何なる心底(シンテイ)を以て、今日の状態を見ているか。彼等は最も年齢の若き者、最も地位の低き者を 十二分に、若くは十五分に煽り立て、死地に就かしめた者である。
しかるに彼等自身には、戦争(イクサ)が済んだからとて、平気でいるは、如何なる意見であるか。中には海軍側では、大西〔滝治郎〕中将が自決したが、陸軍側では、未だその話を聞かない。陸軍側では、陸軍大臣が自決したが、海軍側では、今尚お平気である。双方共に拾い上げたらば、暁天(ギョウテン)の星の如く、若干は有ろうが、洵(マコト)に寥々(リョウリョウ)たるものである。無条件降伏、武装解除などという事は、他国の軍人ならいざ知らず、日本の軍人としては、無上の恥辱である。従来日本の軍人には、降参がないという事が、原則になっていた。しかるに今度は降参が原則となって、誰一人これを怪しむ者はなく、加之(シカノミナラズ)今度はその軍隊が、武装を解除するばかりではない。軍そのものが消滅するのである。神武天皇の御東征に随従したる、物部、大伴、佐伯等の祖先以来、昭和の現代に至って、初めて日本には、軍そのものが、絶対的に消滅したのである。これは軍人としては、実に未だ曾て有らざる事件といわねばならぬ。しかるにこれを平気で見送り、依然恩給生活を継続しているなどという事は、実に日本武人として、この上なき不面目の至りではないか。
聯合軍も、上陸する以前は、定めて若干の事件を、予期したことであろう。しかるに余りに無事太平で、飛礫(ツブテ)一つ聯合軍に向かって、投げ付けた者がない現状を見ては、余りに日本の軍人のおとなしさに、肝玉を抜かれたか。否、むしろ見掛けによらぬ野郎共であると、見縊(ミクビ)ったのであろう。この際生存しても、別段惜しき命でもない将官以上の人々は、申し合わせて一堂に集まり、切腹でもしたら、せめて日本の武人は、戦争(イクサ)は下手であったが、気骨だけは持っていたという事を、世界に証明せられたであろう。北条高塒入道が鎌倉で切腹した時でさえも、その一類二百三十八人は、我れ先にと腹切て、館に火をかけたという事がある。而(シカ)して尚(ナ)おその周辺に腹を切りたる一切を挙ぐれば、八百七十余人という事である。また斉(セイ)の田横(デンオウ)が死んだ時に、同時に自ら首刎(ハ)ねたる者が、二百余人あるという事である。しかるに我が陸海軍の滅亡に際し、これに殉ずる将官が、殆ど数うるに足らぬ程とあっては、昭和時代の陸海軍大臣以下は、高塒入道の一類よりも、田横の客よりも、劣り果てたる臆病者といわれても、申訳があるまい。
自分は陸軍の将官中で、最も感心しない一人が、杉山〔元(ハジメ)〕元帥であった。この人は陸軍のあらゆる要職に就き、あるいは軍政を司り、あるいは軍務を掌(ツカサド)り、あるいは閫外(コンガイ)の任に庸(アタ)り、あるいは戦争の機務に当り、殆ど蜜蜂の花から花に飛ぶ様に、陸軍のあらゆる要職を飛び廻った。而して敗軍の将でありながら、罰も受けず、元帥までにも立ち昇った。自分は彼には面識さえも無い。しかし心窃(ヒソカ)に、世間が彼を称して「ダラカ幹」とか、「グータラ」とかいう事の、必ずしも不当でないと信じていた。しかるに彼は、その副官が「誠にお立派である」と言った通り、四発までも短銃を射ち込んで、立派に死んだ。而してその夫人も亦(マ)たその報を聞くや否や、立派に死んだ。この事だけで未だ必ずしも、杉山元帥に対する評判が、一変したとはいわぬが、世間も実は意外に思った。意外というは、杉山としては、出来が良かったという事である。これに反して東條大将は、世間は皆な誰よりも先に、自決するであろうと考えていた。しかるに彼は自決せず、しかも九月十一日、彼を米国側から召喚に来るや否や、自決した。しかるに不幸にして急所を外れた。彼れの部屋には、白紙の上に短刀が置いてあった。しかし彼は、切腹の法は知っているが、それで死せざる時は、失態であるから、殊更(コトサラ)にピストル自殺をしたと語った。しかるにそのピストルが、急所を外れたのである。杉山さえも四発放ったといえば、東條も今一発射つ位の、余裕があってしかるべきであるが、遂に一発で畢(オワ)り、その為めに、彼を知らざる者は、東條は故(コトサ)らに急所を外して、狂言をしたのである、などという濡れ衣を、彼に被するに至った。自分は東條とは面識があるばかりでなく、若干知っている。人間であるから、欠点はあるとして、勇気だけは、誰にも劣らぬ漢(オノコ)と考えていた。また一度決心したら、必ずそれを突き徹すだけの、徹底力ある漢と考えていた。しかるに彼は米国の医者に治療せられ、米国の陸軍病院に移され、遂に元の健康を取り戻した。英国あたりでは、婦人さえも、婦人参政権の時には、獄庁に入て、不食同盟(ハンガーストライキ)をしたことがある。東條程の男であれば、死のうと思えば、死することは、絶対不可能とは言われまい。しかるに彼が食事をなし、入浴をなし、薬用をなしていることを見れば、彼も亦(マ)た死することを諦めたものと思う。初めから死なぬ積りで、敵の法廷に引出され、堂々とその所信を陳述するも、亦た一の方法である。ただ彼が如く、その中間を彷徨したる事は、少くとも杉山元帥に比して、頗る見劣りのする事を、遺憾とする。せめてこの上は、自ら法廷に出て、立派な振舞をして貰いたいものと思う。(昭和20年10月6日午後、双宜荘にて)(以下、省略)