真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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東京裁判NO9 「南京大虐殺」松井被告側の反証

2020年07月31日 | 国際・政治

 東京裁判における南京大虐殺の検事団側証人は、前ページで取り上げたように、被害者の治療に当たったウィルソン医師や避難民の救済に当たった紅卍会の許伝音博士、また、日本軍に捕らえられ死の恐怖に直面しつつ、九死に一生をえた三人の被害者、南京大学歴史学教授マイナー・シール・ベーツ博士、ピーター・ジェー・ローレンス英国公使館区域警察署長など様々で、その証言内容は極めて具体的なものでした。
 さらに、検事団が派遣した出張尋問団は、関係者から多数の証言を得て、事件の公判中に帰国しており、南京軍事法廷における証言なども踏まえて、確信を持って立証を進めたのではないかと思います。

 それに比して、被告弁護側の証人に第三者的立場の人はなく、証言台にたった脇坂次郎大佐も西島剛少佐も、自分たちは放火も殺人も略奪も強姦もやっていない、見てもいない。それらは、日本兵ではなく中国兵がやったのだ、というようなことを言うだけで、その根拠も”住民から聞いた”というような説得力に欠けるものでした。

 だから、松井被告弁護団は、南京大虐殺という「人道に対する罪」の事実については、ほとんど争わず、松井被告の責任回避を中心においた弁護を展開することにしたのだと思います。それは、下記のマタイス弁護人の冒頭陳述や岡田尚氏の証言が裏づけているように思います。
 マタイス弁護人も岡田尚氏も、南京大虐殺の事実については何も語らず、争わず、ひたすら松井被告の思想遍歴や中国に対する思い、また、人間性を語ることによって、松井大将に責任を負わせることには無理があり、適切ではないという判断を誘導しているように思います。それは、検事団にとっては、肩透かしのような証言だったのではないかと思います。

 松井被告自身が、かつて、”急劇迅速ナル追撃戦”は、”南京一番乗り”を目指して進撃した全ての部隊で”我軍ノ給養其他ニ於ケル補給ノ不完全”につながった。それが多くの場合、掠奪同然のかたちで食糧を確保することになったかと思う。だから、”我軍ノ南京入城ニ当リ幾多我軍ノ暴行掠奪事件ヲ惹起シ”たのであろう、と認めていたことを考えると、脇坂次郎大佐や西島剛少佐のような証言では、検事団側証人の証言を虚言とし、被告弁護側の証人の証言こそ真実であると関係者に納得させる説得力がないことは、被告弁護団に深く認識されていたのだと思います。だから、松井被告の責任を回避するために弁護団が重視したのは、南京大虐殺の事実に関する論争ではなく、マタイス弁護人や岡田尚氏が取り上げたような松井石根個人の思想遍歴、思い、人間性に関する証言だったのだろうと思います。

 また、南京軍事法廷では、第六師団長谷寿夫、同師団の歩兵第四十五連隊中隊長田中軍吉、および、戦時中の新聞で百人斬り競争を実施したと報じられた向井敏明少尉と野田毅少尉が起訴され、いずれも死刑判決を受けて処刑されていることを考えても、”南京大虐殺は連合国の創作”とか、”南京大虐殺は東京裁判がでっち上げた”というようなことがあり得ないことははっきりしているように思います。もし本当に南京大虐殺がなかったのなら、被告弁護団が、そのことを主張し、事実について争わないはずはないと思うのです。

 南京大虐殺でも、日本軍「慰安婦」の問題でも、戦時中の徴用工の問題でも、被害者の訴えに耳を貸さず、真摯な事実の議論をすることなく「なかった」、「なかった」とくり返す人たちがいます。そればかりでなく、被害の事実を訴えたり、真実を明らかにしたり、語り継ごうとする人がいれば、脅してでも黙らせようとする人たちがこの日本にいることは、ほんとうに悲しいことだと思います。


 そしてそれは、嘘と脅しとテロによって明治維新を成し遂げた薩長を中心とする尊王攘夷急進派が、明治維新で頑迷な徳川幕府を打ち破って文明開化をもたらし、すばらしい近代国家を作り上げたとする作り話を、日本の歴史として残すことができた成功体験に由来しているような気がします。
 勝ったが故に、「官軍」として歴史を創作することができたという成功体験が、秘かに現在の日本の政権にまで受け継がれ、今も不都合な事実を「なかった」ことにしようする考え方として存在しているように思います。明治維新同様、不都合な事実を認めることなく政権を維持すれば、年が経てば人は忘れ、歴史は都合よく修正し、美化できるという思いがあるのだろうと思うのです。
 
 韓国が登録取り消しを求めるに至った、通称“軍艦島”と呼ばれる長崎市の端島炭鉱に関する世界文化遺産の展示内容の問題も、不都合な事実はなかったことにしようとする、日本の政権の政治姿勢をあらわしているのではないかと思います。それは、日韓両国にとって、大きな問題であると私は思います。

 

 下記は、「東京裁判 大日本帝国の犯罪 下」朝日新聞東京裁判記者団(講談社)から抜粋しました。
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           第十九章 木村・小磯・松井・南・武藤・岡・大島・佐藤  

                    責任は回避せず

 南京事件の責任者
 あるか無いかのアゴヒゲを、退屈そうにヒジをついた右手で揉んでいる松井石根。彼は昔から病身だったといわれるが、年のせいもあったかよく風をひいて法廷を欠席した。法廷が休廷となって退廷するときの彼は、病鶏が小屋にかえるように、そうろうとしてドアーの中に消える。しかしこうした枯木の風姿にも似ず、獄中、数々の漢詩を作ってうさを晴らしており、相当茶目振りを発揮しているということだ。
 松井部門は松井被告病欠のまま十一月六、七両日マタイス、伊藤両弁護人により証拠提出が行われた。
 まず、マタイス弁護人はその冒頭陳述で
「松井は陸軍幼年学校当時、陸軍の大先輩・川上操六提唱の『日本軍の存在理由は東洋平和の確保にあり』という思想に深く感銘し、その後中国の孫文の提唱した『大アジア主義』に共鳴し、日華親善とアジアの興隆に心魂を傾けてきた。彼は政治上重要な地位についたこともない。したがって検事側の主張するように侵略戦争を計画・実行したのではないことはもちろん共同謀議の事実もない。また中支那方面軍司令官は作戦に関して統一指揮の権限はあるが、直属の部隊をもたず、将兵の行動は下級指揮官(軍司令官)によって規制されていたことは、すでに中山証人が立証した通りである」
 とのべ、反証の方向を明らかにしたのち証拠提出に入り、「南京事件」を中心として、当時の部下、知人多数を召喚した。これらの証人はいずれもつぎのように「南京虐殺事件を」を否認した。

 脇坂次郎大佐(第九師団第三十六連隊長、いわゆる南京一番乗りの部隊長)
「一、松井大将は、『軍規風紀を厳守し良民を愛護し、外国権益をほごせよ』と機会あるごとに訓示した。私は大将の精神を部下に徹底させ、放火、殺人、略奪、強姦などなきように部下を戒めた。
ニ、私の部隊は常に先頭に立っていたが、中国軍が日本軍の行動を妨害しようとして、いわゆる清野戦術による放火や破壊をやったことや、中国軍の常習たる戦時の略奪をやったことを住民から聞いた。私たちは家屋その他焼却破壊することは絶対にしなかったし、これは日本軍の常識であった」

 西島剛少佐(当時の歩兵第十九連隊第一大隊長)
「一、蘇州は停車場およびその付近が爆撃で破壊されていたほかは無傷だった。それは中国軍がこの町で戦闘、破壊、略奪をしないで退却してくれるよう住民が金を出して中国軍に頼んだけっかである、と住民から聞いた。
ニ、松井司令官からはもちろんその他の上官から『略奪暴行などをなすべし』との命令を受けたことは絶対にない。
三、十二月十九日私は南京で中山路から下関まで巡視したが、中国軍の死体はみなかった」

 岡田尚氏(同氏の父は松井大将と親友、松井軍司令官付としてとくに上海派遣軍嘱託となった。中国事情に詳しく元政治中学校の講師)
「一、1937年(昭和12年)八月出征するとき松井大将は『輝かしい武功をたてるより最少の犠牲で事変を処理し、日華融和の道を開きたい』と語った。
ニ、松井大将は各部隊が先陣を争って南京を攻撃すれば、首都を破壊し良民を悲惨にするので、日本軍全部隊に十二月九日総攻撃停止を命令した。そして飛行機で降伏勧告文を城内に投下した。しかし降伏しなかったので総攻撃の命を下した。
三、十二月十八日(南京入城後)松井軍司令官は非常に憂鬱な顔をしていた。敵首都を攻略した武勲輝かしい将軍の顔としては不似合いなのでその理由をたずねると、沈痛な面持ちで次のように答えた。
『自分は南京を度々訪問したが、それは三十数年來念願してきた中日両国の平和な姿を実現するためであった。しかるに今自分は夢にさえ考えなかったもっとも悲しむべき結果をもたらした。中国の友人たちはどんな気持ちでこの南京を立ち退いたことかと思えば感慨無量である。そして日中両国の前途を考えると胸が一ぱいになって、戦勝の喜びに酔う気持ちにはなれない。実に淋しい思いがする』
 四、十二月下旬松井大将は南京から上海へ帰る駆逐艦の中で私につぎのように語った。
『不幸な戦禍はこれ以上拡大すべきではない。武力では日華両国間の問題は解決しない。自分が軍司令官として中国に派遣された使命は、今日までの作戦にではなく、今後の平和工作にこそ使命の重点がある』
 いろいろ討議した結果和平工作の会相手は宋子文とけってした。私は上海に帰ると、李択一氏を仲介に、香港で宋氏に大将の意思を伝えた。そのとき宋氏は『松井軍司令官がその考えならできるだけ協力してもよい』といった。
 ところが翌十六日『蒋介石を相手とせず』の近衛声明が発表され、軍司令官も更迭され、万事休した。
 五、松井大将は帰還後、熱海伊豆山に観音菩薩を建立し、両国将兵の永代供養をした。そして、『両国将兵の尊い血のにじんだ土を観音菩薩を作る粘土に混ぜたい』
 と大場鎮からとりよせた中国兵と日本兵の各死体の下の土をそれに使った」
 ここでマタイス弁護人は、岡田氏の証言中にある観音堂の写真を提出した。
 こうして多くの知人証言に援護された松井被告は十日も病気欠席していたが、二十四日ようやく出廷、大島部門を中断して証言をおこなうことになり、痩身を証言台に運んだ。伊東弁護人によれば、彼はこの証言の日に備えて日ごろ健康をいたわっていると語っていたそうである。
 

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東京裁判NO8 「南京大虐殺」検事団の立証②

2020年07月28日 | 国際・政治

 下記は、南京で日本軍に捕らえられ、死の恐怖に直面し、九死に一生をえた被害者三人の証言、および、南京大学歴史学教授マイナー・シール・ベーツ博士と北京英国公使館区域警察署長を勤めていたピーター・ジェー・ローレンス氏の証言、それに、太平洋戦争のビルマ、雲南ルート閉鎖作戦で、日本軍の避難民虐殺事件を語る徐節俊氏の証言です。
東京裁判 大日本帝国の犯罪 上」朝日新聞東京裁判記者団(講談社)の「第五章 戦慄・南京大虐殺」で「惨・惨・惨」と題された文章の中の「生き残った市民の恐怖」と「大学構内で連日の暴行」から抜粋しました。

 似たような日本兵による残虐行為の証言は、中国では数え切れないほど集められているということですが、見逃せないのは、それを裏づけるような日本兵の証言や日本側証拠資料も少なくないということです。
 例えば、『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言』松岡環編著者(社会評論社)には、
徴発と称する略奪、放火、強制労働、現場では豚でも鶏でも盗るのは当たり前”というような内容の証言その他が取り上げられていますし、”捕虜を貨車ごと河に落としたり、倉庫ごと燃やした”とか、”銃殺は城外のあちこちで見た”というような南京陥落後の集団虐殺についての元日本兵の証言も、たくさん取り上げられています。

 また、「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち 第十三師団山田支隊兵士人陣中日記」小野賢二・藤原彰・本多勝一編(大月書店)には、
 歩兵第65連隊第4中隊・第3次補充、宮本省吾少尉の陣中日記が取り上げられており、その12月16日には、
警戒の厳重は益々加はりそれでも午前10時に第2中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも束の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后3時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕虜兵約3千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。
 とあります。似たような捕虜殺害の陣中日記の記述も、たくさん取り上げられているのです。

 さらに、『南京戦史資料集』(偕行社)や『南京戦史』(偕行社)には、様々な資料が集められているのですが、第十六師団長・中島今朝吾陸軍中将の日記には”捕虜七名アリ直ニ試斬ヲ為サシム”とか”捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシ…”という記述とともに、”佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約一万五千…”という、下記のような記述があるのです。
12月13日  天気晴朗 
一、天文台附近ノ戦闘ニ於テ工兵学校教官工兵少佐ヲ捕ヘ彼ガ地雷ノ位置ヲ知リ居タルコトヲ承知シタレバ彼ヲ尋問シテ全般ノ地雷布設位置ヲ知ラントセシガ、歩兵ハ既ニ之ヲ斬殺セリ、兵隊君ニハカナワヌカナワヌ
一、本日正午高山剣士来着ス
   捕虜七名アリ直ニ試斬ヲ為サシム
   時恰モ小生ノ刀モ亦此時彼ヲシテ試斬セシメ頸二ツヲ見事斬リタリ
一、大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシタレ共千五千一万ノ群集トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ唯彼等ガ全ク戦意ヲ失ヒゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノヽ之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ
 部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ
 十三日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ乍併戦勝直後ノコトナレバ中ゝ実行ハ敏速ニハ出来ズ、斯ル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ参謀本部ハ大多忙ヲ極メタリ
一、後ニ到リテ知ル処ニ依リ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約一万五千、太平門ニ於ケル守備ノ一中隊ガ処理セシモノ約千三百其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約七~八千人アリ尚続々投降シ来タル
一、此七~八千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ一案トシテハ百 2百ニ分割シタル後適当ノケ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ
一、此敗残兵ノ後始末ガ概シテ第十六師団方面ニ多ク、従ツテ師団ハ入城ダ投宿ダナド云フ暇ナクシテ東奔西走シツヽアリ
一、兵ヲ掃蕩スルト共ニ一方ニ危険ナル地雷ヲ発見シ処理シ又残棄兵器ノ収集モ之ヲ為サザルベカラズ兵器弾薬ノ如キ相当額ノモノアルラシ
 之ガ整理ノ為ニハ爾後数日ヲ要スルナラン
 とあります。

 そして、中島今朝吾師団長のもとにあった 歩兵第三十旅団隷下の歩兵三十八聯隊副官・児玉義雄氏の回想記事には、
 ”南京1~2キロ近くまで近接して、彼我入り乱れて混戦していた頃、師団長副官から師団命令として『支那兵の降伏を受け入れるな、処置せよ』と電話で伝えられ、とんでもないことだと大きなショックをうけた。師団長中島今朝吾中将は豪快な将軍で好ましいお人柄と思っておりますが、この命令だけはなんとしても納得できないと思っております。部隊としては実に驚き困却しましたが、命令止むを得ず各大隊に下達しましたが、各大隊からはその後何ひとつ報告はありませんでした。”
 と書かれており、

 また、歩兵第六十六聯隊第一大隊『戦闘詳報』の12月13日には、
八、午後二時零分聯隊長ヨリ左ノ命令ヲ受ク
    左記
  イ、旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スヘシ
    其ノ方法ハ十数名ヲ捕縛シ逐次銃殺シテハ如何
  ロ、兵器ハ集積ノ上別ニ指示スル迄監視ヲ附シ置クヘシ

 ・・・”
 などとあるのです。

 どうして、こういうことになったのかについては、前頁でとりあげた松井石根大将の「支那事変日誌抜粋」の「我軍ノ暴行、奪掠事件」と題した文章に書かれている通りだと思います。
 その一つが、”上海上陸以来の悪戦苦闘”が著しく、多くの戦友を中国兵に殺されて、”敵愾心”が強烈であったこと
 もう一つが、”急劇迅速ナル追撃戦”で、休みも補給もほとんどなく、食糧は現地調達するしかなかっため、略奪にならざるをえなかったこと。したがって、現地住民でも抵抗する中国人は、中国兵同様、容赦なく射殺したり、刺殺したりしながら南京に至ったこと
 当然、日本軍は捕虜を養う余裕などなく、捕虜は殺すしかなかったことがあったと思います。

 ところが日本には、東京裁判における被告(戦争指導層)の弁明を受け継いでか、多く被害者や関係者の証言、および、文書資料を無視して、”南京大虐殺は連合国の創作”とか、”南京大虐殺は東京裁判がでっち上げた”というようなことをくり返している人たちが少なくありません。

 また、毎年九月一日には、東京・横網町公園の追悼碑前で、関東大震災の混乱の中で虐殺された朝鮮人や中国人を追悼する式典が開かれているということですが、最近は、その朝鮮人犠牲者追悼式とほぼ同時刻、公園内のすぐ近くで、「真実の関東大震災石原町犠牲者慰霊祭」が行われるようになり、朝鮮人犠牲者追悼式へのあてつけのように、「六千人虐殺の濡れ衣を晴らそう」とか、「六千人虐殺は捏造・日本人の名誉を守ろう」とか大書した看板を掲げ、「虐殺はでっち上げだ」などと大音量で演説するのだといいます。
 在特会(在日特権を許さない市民の会)と協力関係にある「そよ風」という女性グループが、主催団体の一つだそうですが、そういう人たちは、歴史の事実はどうでもよいのではないかと思います。日本人にとって不都合な事実をなかったことにするため、そういう行事を潰しにかかっているのではないかと思います。慰霊祭実施団体の関係者が「目標は両方の慰霊祭が許可されないこと」などと言っていることに、そうした姿勢があらわれているように思うのです。

 そしてそれは、東京裁判における日本側被告弁護団の弁護方針や、日本軍「慰安婦」問題および徴用工問題における安倍政権の姿勢ともつながっているように思います。大事な問題は受け答えせず、事実を明らかにするような議論は回避して、不都合な事実は「なかった」、「なかった」とくり返す、それでも真実を語ろうとしたり、語り継ごうとする人がいれば、脅してでも黙らせる。年月を経れば、人は忘れ、歴史は修正される、そういう戦略があるのはないかと思います。
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                  第五章 戦慄・南京大虐殺

                     惨・惨・惨


 生き残った市民の恐怖

 ウィルソン、許伝音両証人とともに、中国からはるばる証人として来日した人に、尚徳義(ショウトクギ)、伍長徳(ゴチョウトク)、陳福宝(チンフクホウ)の三人がある。この三人はいずれも日本軍の南京入城に際し、多数の中国人とともに、日本軍に捕らえられ死の恐怖に直面し、九死に一生をえた運命の人達である。その陳述は次の通り。

尚徳義氏の陳述 
「私は1937年、上海路革新巻一号(難民地区内)に住んでいた。その年の十二月十六日午前十一時ごろ、日本兵隊(中島部隊の兵かと思われる)に拘引された。同時に拘引されたのは、私の兄の徳仁(元嘉興航空駅書記を勤めていた)と従兄の徳全元(絹物商)および氏名不詳の隣人五人だった。
 ニ人ずつ 手を縛り合わせ、揚子江岸の下関に連行された。そこには千人以上の男が拘引されていた。私達の前、四、五十ヤードの所には十余基の機関銃が私達に面していた。四時ごろになると、一人の日本将校がやって来て、私達に対して、機銃掃射を加えるように、日本兵士に命令を下した。
 私は機銃掃射が始まる直前に、地上にたおれた。そのあとから私の身体の上に、死体がバタバタと覆いかぶさって倒れて来た。私は気絶していたが、やがて私は積み重ねられた死体の山からはい出し、やっとのことで逃げ帰ることができたのだ」

 伍長徳氏の陳述
「私は三十八歳で、中国南京の食料品商である。1937年(昭和12年)十二月および、その以前、長年にわたって南京市の警官をしていた。私はいまだかつて一度も中国軍に入ったことはない。南京陥落の直後、私は三百人ほどの警官とともに司法院にいたのだ。十二月十五日、突然日本兵がやって来て、司法院にいるすべての人に同行を命じた。国際委員会から二人の人が来て、これ等の人々は軍とは関係のない人だと告げたが、これを聞き入れず、われわれを西大門へ連れて行った、
 われわれがそこにいくと、数台の機関銃が門の外側と両側にあった。門の外の運河には橋がかけてあった。われわれは銃剣を突きつけられて、百人くらいずつ一団となって門を押し出された。門を出るやいなや、機関銃の掃射を喰い、死体は坂をごろごろ転がって、ついには運河に落ちこむというわけなのだ。私達が門の通過を命じられたとき、私は機関銃の発射の直前に、うつ伏せになってしまった。これで機関銃弾はまぬがれることが出来たが、日本兵は私のところにやって来て、グサリと銃剣を私の背中に突き刺したのだ。私は苦しさに耐えられなかったが、死んだように倒れたまま動かなかった。
 日本兵は死体にガソリンをかけて帰ってしまった。もう夕暮れで、あたりは暗くなっていたが、死体は河岸に散乱して、凄惨な光景をしていた。しばらくして、私は死体のなかからはい出して、近所の空家に隠れていた。そこに十日ほども居たが、付近の人が毎日私に一椀の粥を届けてくれた。私は市内に潜入し、大学病院へ行って、ウィルソン医師に手当てをうけたのだ。私は五十日ほど入院してのち、蘇北部の郷里へ帰ったが、あの事件のとき門の前で射殺されたのは約二千名であった」
 
 陳福宝氏の陳述
「日本軍の南京入城第二日、すなわち十二月十四日のことだった。日本軍は避難地域から、中国人三十九名をつれて行った。取り調べの結果、額に帽子の跡のあるもの、手に銃を扱って出来たタコのあるものは射殺された。私は助かったが、そのとき三十七名が射殺された。しかも、その大部分は民間人だった。死骸は池の中になげこまれたままになっていたが、四ヶ月後にようやく紅卍会の手で埋葬された。これは米国大使館の付近でおこなわれたことであり、しかも白昼のできごとだったのだ。私はまた同じ日の午後、三人の日本人が十六歳のオシの娘を学校の校舎で、しかも私の目前で強姦するのを見た。
 十二月十六日、私はふたたび日本兵に捕えられた。そして多数の壮健な若者とともに、群集の中を引き立てられ、ここで相撲に負けると銃剣で殺されてしまうのだった。
 私はまた日本兵が強姦するのを見た。これはある写真師の夫人だった。日軍入城の第三日目のこと、日本兵の一人がわれわれのいる家にやって来た。そして人々をみんな追い出して、写真師の夫人だけを部屋に連れこんだ。私は隣室でそれを見ていた。その夫人はそのとき妊娠していた。日本兵は十分ほどして出て来たが、夫人は部屋を出るとき泣いていた」

 次いで徐節俊証人が証言台に現われた。徐証人は太平洋戦争のビルマ、雲南ルート閉鎖作戦で、日本軍がサルフィン河畔(怒江)でおこなった避難民虐殺事件を初めてとり上げた。
「私は三十三歳、東洋開拓公社の総支配人である。この会社の本社は以前雲南省の昆明にあった。
 1938年以来、私は織物を取り扱うために、この会社に関係していた。
 1942年五月、ビルマ──雲南公路を旅しているとき、橋を爆撃されて、交通を遮断されたことがあった。ビルマからの中国人避難民を満載したトラックや自動車など、約三百台はサルフィン河を渡ることが出来ず困っていた。そして、ともかくこのトラック、自動車の一団は一応分散して、別々の地点から渡河することになったのだ。
 私は約七十人からなる一団に加わっていたが、不幸にして日本軍に捕らえられてしまった。われわれは一人残らず略奪された。私自身も万年筆と二万ルピーの金を奪われた。
 日本人将校は私達の一団を二分し、一団を山岳地帯に連れて行き、他の一団を川岸に座らせた。私達は川岸で円形に座らせられ、将校は私達に機関銃の掃射を命じた。私はいち早く、地面に付せて動かずにいた。私の両側の男はバタバタとなぎ倒されて、死体が私の上に重なって覆いかかって来た。ちょうどそれは正午ごろのことだったが私はジッと動かず、午後の六時まで死体の中にうずくまっていた。翌朝私は付近の道端に千人以上の死体が転がっているのを見た。
 その日の午後だった。私は四人の日本兵が二人の女を山に連れて行くのを見た。女が帰って来たとき、二人とも泣いていた。そして強姦されたのだと言っていた。三日目に私は付近の地理に詳しい土地の者数人と一緒に逃げ出してきたのだった」

 大学構内で連日の暴行
 南京大学歴史学教授マイナー・シール・ベーツ博士と北京英国公使館区域警察署長を勤めていたピーター・ジェー・ローレンス氏が出廷、南京における、日本兵の暴行と華北におけるアヘン、麻薬の販売などにつき恐怖の事実をつぎの様に証言した。
「1937年秋、南京では日本軍の入城を予期して、国際委員会を設け、避難民のために、家や食糧を準備した。ところが日本軍の占領後、意外な残虐事件が起ったのだ。幾多の中国民間の人が銃殺され、城内だけでも一万二千におよぶ中国非戦闘員が虐殺され、ある中国兵の一群は城外で武装解除され、揚子江のほとりで射殺された。われわれはこの死体を埋葬したが、この数は三万人を越えていた。そのほか揚子江に投げこまれた死体はかぞえ切れない。
 南京大学の構内にいた三万人の避難民のうち、数百人の婦人は暴行された。占領後一ヶ月間に、二万人におよぶこうした事件が国際委員会に報告された。占領当時から約五万の日本兵は市民から寝具、台所道具、食糧等を略奪した。
 この後、定期的建物の焼き払いがあり、ソ連大使館も焼き払われた。私は毎日南京の日本大使館へこれらの事件の報告を提出した。すなわち、十六日には南京大学の婦女子が連行されたこと、十八日には前夜金陵大学の六つの建物で暴行がおこなわれたこと。二十二日には私の家も六回にわたって略奪され、アメリカの学校の星条旗が二回引き降ろされ、引き裂かれ、踏みにじられたこと、なおこれらを阻止するために、日本側ではなんらの努力も払わなかったことなどを報告したのだ。
 戦慄すべきこれらの事件はニ月五、六日ごろ日本の高官が来るまでなんらの強い措置がとられたようには見られなかった。二月の六、七日ごろから状態はずっとよくなり、以後、夏までは重大な事件は起こらなかった。
 占領後、中国商人は火災や略奪で商店、商品を失い、その上、日本人商人に店舗や商品を接収され、交通、金融、銀行、米、綿、貴金属、建築材料の卸売りは日本人に独占されてしまった。
 日本商人は資本を提供せずに、利益の分け前をとり、しかも営業権を持っていた。統制は生産者にも消費者にも双方に行われ、それは極めて有害なものだった。
 当時南京市内の公定米価は一ピクル十八ドルないし二十ドルだったが、揚子江沿岸の生産地帯では八ドルから九ドル程度に、日本軍の専売機関によって抑えられていた。救済委員会は安い米を買おうとして交渉したが拒絶された。
 アヘンやヘロインは占領前十年間は公然と販売も使用もされていなかったが、占領後、1938年の夏から秋まで、行商人により、公然と避難民へ販売され、その後、これらの麻薬の販売は傀儡政府の営業となり、新聞にも広告が出るようになった」
 
 ローレンス氏の陳述要旨。
「私は英国人であり、三十七年間、主として、華北に住んでいある。1912年、天津英租界の警察検視官を勤めていたが、38年七月から41年末まで、すなわち私が日本軍に拘禁されるまで、私は北平の公使館区域警察署長兼外交委員会書記官をしていた。
 私は英租界にある、アヘン窟を監検したことがあるが、その取り調べによって、アヘン、麻薬は日本租界から購入されていたことが判明した。1935年以後、英租界には朝鮮人、日本人が入って来て、アヘン、麻薬の取り引きは非常に繁昌した。主として中国人、朝鮮人がその販売に当たっていた。アヘンは天津の下層階級の住むアヘン窟で販売され、モルヒネ、ヘロインは天津で売られていた。朝鮮人達が注射器で埠頭付近の苦力たちに注射していたが、その注射針は消毒さえされなかった」

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東京裁判NO7 「南京大虐殺」検事団の立証①

2020年07月26日 | 国際・政治

 国際的によくい知られている日本軍の残虐事件には、「バターン死の行進」や「泰緬鉄道建設捕虜虐待事件」などがありますが、東京裁判で最も注目されたのは、「南京大虐殺」だったのではないかと思います。
 それは、「南京大虐殺」が「人道に対する罪」の典型的な事例として注目されたからではないかと思います。
 「南京大虐殺」は”連合国の創作”で、”東京裁判がでっち上げた”というようなことをくり返し語っている人がいるようですが、南京陥落当時、欧米のジャーナリストや実業家、医師や牧師、大学教授などが「国際安全地帯委員会」を組織して、中国の「紅卍会」と協力しつつ保護任務に当たる一方、関係機関に報告や依頼をくり返し、また、情報を伝えていたために、それを察知していたシカゴ・デイリーニューズの南京特派員A・Tスティールやニューヨーク・タイムズの上海特派員H・アベンド、同じく南京特派員F・T・ダーディンなどが南京の状況を本国に打電し、日本の残虐行為は、世界中に知られるようになっていたといいます。東京裁判ではじめて知ることになったのは、情報を遮断されていた日本の一般国民だったのではないかと思います。
 また、マンチェスター・ガーディアンの中国特派員であったH・J・ティンパーリー編著の『戦争とは何か──中国における日本軍の暴虐』が、ロンドンとニューヨークで発行されたのは1938年、それは同年中に中国で日本語訳と中国語訳でも刊行されているといいます。だから、どのような検察側立証や弁護側反証がなされるのかに関心を寄せるジャーナリストも多かったのではないかと思います。

 下記に抜粋した、中国代表の向検事の陳述やウィルソン証人(南京大学病院にいた米人医師)、許伝音証人(南京国際委員会理事・紅卍会副会長)、「東京裁判 大日本帝国の犯罪 上」朝日新聞東京裁判記者団(講談社)で、”惨・惨・惨”と題された通りの内容であり、明らかな戦争犯罪だと思います。

 ところが、東京裁判では、日本側の被告や証人は、”虐殺などはなかった”とか、”見なかった”とか、”残虐行為は、中国人のしわざであると住民から聞いた”などと言い逃れをくり返したようです。
 そして、判決が確定した後も、そうした主張が続けられ、”南京大虐殺は連合国の創作だ”とか”南京大虐殺は東京裁判がでっち上げたものだ”、というような主張が、今なおくり返されています。
 でも、圧倒的多数の被害者の証言や証拠資料、また、当時南京に残留した欧米人や日本人関係者の証言を無視し、戦争犯罪を犯したとされている日本軍関係者の証言や主張こそが真実だ、ということには、明らかに無理があるでしょうし、国際社会で受け入れられることもないと思います。

 南京大虐殺は、東京裁判のみならず、中国国民党政府による戦犯裁判「南京軍事法廷」でも裁かれており、第六師団長・谷寿夫中将、同師団の歩兵第四十五連隊中隊長・田中軍吉大尉、および、百人斬り競争を実施したとされる向井敏明少尉と野田毅少尉が起訴され、処刑されているのです。
 また、南京軍事法廷における谷寿夫への判決文、南京安全区国際委員会の一員マイナー・シール・ベイツの証言、南京法廷による南京事件の調査報告書は、他の事件記録史料とともにユネスコ記憶遺産へ登録された事実も見逃すことが出来ないと思います。

 かつて取り上げたことがありますが、松井被告の「支那事変日誌抜粋」に「我軍ノ暴行、奪掠事件」と題した文章があります。それには、
上海附近作戦ノ経過ニ鑑ミ南京攻略開始ニ当リ、我軍ノ軍紀風紀ヲ厳粛ナラシメン為メ、各部隊ニ対シ再三留意ヲ促セシコト前記ノ如シ。図ラサリキ、我軍ノ南京入城ニ当リ幾多我軍ノ暴行掠奪事件ヲ惹起シ、皇軍ノ威徳ヲ傷クルコト尠少ナラサルニ至レルヤ。
 是レ思フニ
一、上海上陸以来ノ悪戦苦闘カ著ク我将兵ノ敵愾心ヲ強烈ナラシメタルコト。
二、急劇迅速ナル追撃戦ニ当リ、我軍ノ給養其他ニ於ケル補給ノ不完全ナリシコト。
等ニ起因スルモ又予始メ各部隊長ノ監督到ラサリシ責ヲ免ル能ハス。因テ予ハ南京入城翌日(12月17日)特ニ部下将校ヲ集メテ厳ニ之ヲ叱責シテ善後ノ措置ヲ 要求シ、犯罪者ニ対シテハ厳格ナル処断ノ法ヲ執ルヘキ旨ヲ厳命セリ。然レドモ戦闘ノ混雑中惹起セル是等ノ不詳事件ヲ尽ク充分ニ処断シ能ハサリシ実情ハ巳ムナキコトナリ。
 などと書かれています。どの程度、戦争犯罪の事実を認識していたのかは知りませんが、戦争犯罪あったことや、戦争犯罪が起きるに至った理由をきちんとあげていることは見逃せません。だから”南京大虐殺はなかった”と言うのは論外だと思いますし、”知らなかった”で言い逃れることができる問題ではないと思います。

 また当時、外務省東亜局長であった石射猪太郎は『外交官の一生』という回想録のなかで「南京アトロシティーズ」と題して
南京は暮れの13日に陥落した。わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告がわれわれを慨嘆させた。南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である。憲兵はいても少数で、取締りの用をなさない。制止を試みたがために、福井領事の身辺 が危ないとさえ報ぜられた
 と書いていることも以前取り上げました。関係者は知っていたのです。それをなかったことにしようとする歴史の修正は、恥ずかしいことだと思います。
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                 第五章 戦慄・南京大虐殺

                     惨・惨・惨

 虐殺と麻薬
 満州侵略の陳述がおわった検事団は、いよいよ日本軍の対中国侵略の立証に入る。
 中国代表の向検事は、虐殺と麻薬の手段を使って、日本軍がいかにして中国に侵入したかを、まざまざと描く。
「人道に対する日本軍の犯罪はあらゆる占領地域にわたり全期間おこなわれた。その顕著な一事例は、1940年南京陥落後発生した。中国軍があらゆる抵抗を中止し、南京市がまったく被告松井指揮下の軍隊に制御されたのち、暴行と犯罪の大狂乱が始まり、やむことなく四十余日にわたって続行された。
 この兵は、将校、東京の統帥部の完全なる了知と同意のもとに残虐行為により、中国民衆のあらゆる抗戦意識を永久に滅却しようと企図したものである。
 これは殺人、虐殺、拷問、凌辱、略奪、破壊を含むもので、孤立的事例でなく、典型である。これらは全地域にわたり九万五千余にのぼっている。これら残虐行為は戦争についての日本的形態である。なお日本軍は侵略の拡大のためアヘンその他の麻薬を使用し、これによって侵略の反抗に無感覚、無能力化させようと企図した。
 日本の目的は、麻薬の勧奨政策により(1)中国民衆の体力を低下させ、抗戦意識を弱体化させようとすること、(2)軍事的経済的侵略を賄う巨大なる収入をあげようとすること、を目的としていたことをあきらかにするであろう」

 重要証拠資料「七・七紀実」
 さらに検事団は泰徳純氏の「七・七事変紀実」を証拠として提出した。終戦後中国検事団の求めにより南京でしたためられ、検事の前で同氏が認証したもので、これが国際検事団へ提出され、同氏が東京法廷出廷と同時に法廷へ提出された。盧溝橋事件についていずれがその責任をとるべきかを当事者としてあきらかにしたものである。王冷斉氏の証言とならんで、七・七事変の謎を実証する歴史的文献といってよい。
 ・・・

 幼児にも暴行
 1937年(昭和12年)十一月、日本軍は上海戦線の行き詰まりを打破するため、杭州湾へ奇襲上陸をおこない、さらに急進撃を続けた。十二月には南京を攻略したが、このとき日本軍は南京市民に対する血なまぐさい虐殺事件を起こし、各国から非難攻撃の的とされた。当時南京大学病院にいた米人医師ロバート・ウィルソン氏は証人台に登場。サットン検事の直接尋問に答えて、南京における日本軍の暴虐ぶりをつぎのように明らかにした。
「私は1906年、南京に生れた。プリンストン・ハーバート両大学に学んだ後、外科医として、南京大学病院で副外科医長をしていた。日本軍によって、上海が陥落、南京侵入の気配さえあったので、病院の職員達は揚子江の上流へ避難したいと要求してきた。というのは上海──南京間の蘇州、鎮江、無錫等で日本軍がおこなった残虐行為から見て、職員たちは生命の危険を感じていたからであった。
 結局私や看護婦、召使数名を残し、約五十名の職員たちは1937年十二月一日、南京を出発した。
 南京陥落の直前ころには、患者も減少して動けない重傷患者五十名が残留しているだけだった。日本軍は十二月の十三日に入城したが、その前夜までには、すべての中国軍による敵対行動は中止していた。
 数日のうちに病院は見る見る内に満員となってしまった。ある日、四十歳くらいになる一人の婦人が病院につれこまれた。彼女の首は筋肉を斬られており、頭が危険な状態だった。人々の話によれば、彼女は無残に日本兵にやられたのだった。
 また八歳のいたいけない少年が腹部貫通を負い、なお他の一人の男は銃弾で右肩に傷をうけていた。彼の話によれば多数の中国人が日本兵によって揚子江沿岸につれて行かれ、岸辺で射殺され、死体は河中に投げこまれた。そして、彼は死を装い、闇に乗じて、逃げ去ることの出来たただ一人だというのだ。その名前は梁と言った。
 もう一人は中国の警察官で、背中に深い刺創をうけて、病院にはこび込まれた。この警官は多数の人々とともに城外へ連行され、機関銃で掃射され、そのうえ、銃剣で突き刺された中で、たった一人生き残った人である。彼の名前は伍長徳と言った。
 また、ある日自宅で昼食していると付近のものが駆け込み、日本兵が強姦していると知らせに来た。駆けつけると、戸の締まった裏庭に、日本兵三人が銃を持って立っており、われわれが入ると二人の日本兵が中国婦人を強姦していた。私はその女を南京大学の避難民収容所へ連れて行った。
 また一人の男が病院へやって来た。その男の顎に鉄砲の弾の傷をうけていて、ほとんど話すことさえできなかった。彼は身体の三分の二に、非常な火傷をしていたが、その語るところによれば、日本兵に捕らえられ、射たれたうえにガソリンをぶっかけられ、火をつけられたということだ。そして彼は二日後に死んでしまった。
 もう一人の男が病院へつれこまれた。彼は全頭部に火傷をしていた。多数の人と一緒にくくられて、ガソリンをかけられ、火をつけられたが、やっとのことで一人だけ助かったというのだ。私が今まで申し述べた事件について写真をもっている。
 今度は六十歳くらいの老人が胸に傷を受けて入院した。彼は避難民収容所区域にいたが、市街地の親戚を訪ねるために、その区域を出て行った帰り道、日本兵に出会い、その兵隊に銃剣で胸を突き刺されドブに叩き込まれた。そして六時間も意識不明となっていたがやっとのことではい出してきたということだ。
 このような事件は1937年十二月十三日、南京が陥落した直後から、六、七週間の間、無数に病院に持ちこまれて、百八十の病院のベッドは絶えまなく満員続きだった。もう二つの事件を思い出した。その一つは、七、八歳の女の子だった。腕の肘の間接が外れて、非常に重態だったが、その子の話では、両親は日本兵のために眼の前で殺され、その子もそのとき負傷したとのことだった。
 ジョン・マギという牧師に連れられてきたのは十五歳になる女の子だった。彼女は強姦されたというのだ。診察の結果、それは確証された。そしてそれから二ヶ月ほどして、再び彼女は病院へやって来たのだが、その時は第二期梅毒の腫物が現れていた」

 残虐の三ヶ月
 ウィルソン証人の証言についで、中国人、許伝音博士が証人として出廷した。博士は日本軍が南京攻略をおこなった当時、紅卍会の副会長を勤め、日本軍侵入と同意に国際委員会の一員として、難民救済に努力した人。サットン検事の尋問に答えて、南京陥落後の日本軍の暴状をつぎのように語った。
「私は南京で生まれ、1928年以来ひき続き南京に住んでいる。東京大学文学博士、イリノイ大学文学博士の学位をもっている。
 中国に帰ってから、私は天津浦口鉄道に奉職し、その後中国鉄道省に入った。中国政府が南京に移駐したときから家族とともに南京へ移ったのである。
 日本が南京を占領したのは1937年十二月十三日であるが、当時市内では中国軍の抵抗がまったくなかった。
 当時私は南京における安全地帯に関する国際委員会に関係しており、家屋関係の委員長をやっていた。
 私の職務は、安全地帯内で家屋を持っている者や持っていない者のために、種々の便益をはかることだった。私は収容所を二十五カ所も設け、避難民を収容したのだが、その数は非常なものだった。安全地帯にいた中国人は二十万から三十万に及ぶほどだった。
 私は当時紅卍会の副会長をやっていたが、国際委員会がこの会に協力を望んで来たのだった。
 日本軍は当時、市の南側から侵入したが、市内を占領した日本軍は非常に野蛮で、人を見つけしだい、片っぱしから射殺した。日本軍の占領後三日目に私は日本軍同伴という条件付きで市内を見回った。中国人の死体はいたるところに転がっていたが、その中にはひどく斬りきざんであったものさえ見かけた。
 ある大通りで、私はそのあたりに横たわっている死体の数を数えて見たが約五百を数えたときに、もうこれ以上数えてもしかたがないと思ってやめてしまった。
 私は南京の東西南北の各地区で、全く同じ状態が起こっているのを見た。そして日本兵は中国人をなんらの見さかいもなくやっつけるのだった。もしわれわれの車のなかに日本語を話す者がおらず、許可証を示さなかったとすれば、私もまた非常な困難に遭遇したに違いなかった。私の見た死体は老若男女種々様々であったが、すべて民間人ばかりで、軍服を着けていたものは一人も見あたらなかった。
 家屋委員会には一つの規則があって、武器を持ったものは絶対にこの安全地帯に入れないことにしていた。軍人は入れないことになっていたが、十二月十四日の朝八時ごろだった。日本軍の将校が国際委員会の本部にやってきて、私に安全地帯の捜査を許可せよというのだ。その理由は安全地帯には中国の兵士達が隠されているということで、私は安全地帯には武器を持ったものは一人もいないと言って拒絶したが、次の日ふたたび日本兵がやってきて、収容所や私人の家から兵士だという名目で大勢の一般市民を連れて行ったのだ。
 ある日のことだった。私は紅卍会の人達と一緒に避難民に食糧を配っていると、二人の日本兵がやって来て、門を固く閉めてしまった。そして日本兵は縄で中国市民の手を縛り、十人、十五人を一団にして連れ去った。その数は千五百人におよぶだろう。私はすぐに国際委員会のラビー氏に急報した。ラビー氏とフィッチ氏の二人と私とは日本の特務機関司令部に行って抗議を申しこんだ。なぜ日本兵を安全地帯に入れたか、中国人をどこへ連れて行ったか、なお連行した中国人をただちに釈放せよ、等の点について交渉したのだがさっぱり要領を得ない。一時間も待っていたが返事がないので、翌朝返事をもらうことを約束して帰った。しかし翌朝七時か八時ごろ、国際委員会と紅卍会の建物の方向で機関銃の音をきいた。われわれは直ちに探索させて見ると、連行された中国人が機関銃によってことごとく射殺されたことがわかったのだ。そのあたりに散らばっている死骸を調べてみると、確かにこれはさっき連行された中国人であることが判明した。その後も日本兵は毎日のように収容所にやってきて、市民を連行した。
 さっき述べたラビー氏というのはドイツ人で、海員協会長を勤め、国際委員会の理事だった。
 婦人に対してとった日本兵の行動はさらに悪く、文明の世界ではとうてい夢想だにできないほどのものだった。そして日本兵は信ずべからざるほどに、女に対する嗜好ををしめしていた。
 あるキャンプでは、日本兵は三台のトラックを連ねてやってきて、すべての女を廊下に連れて行き、片っ端から強姦した。私はそれを阻止しようとしたが駄目だった。これ等の婦人は十二、十三歳から四、五十歳のあいだであり、私は日本兵の強姦をこの目で目撃したことがある。
 あるとき日本兵は浴場で中国婦人を強姦したことがあった。あとからわれわれがそこへ行って見ると、着物が外に掛けてあり、ドアを押して浴場に入ると裸の女が泣きながらしょんぼりとして立っていた。
 またああるとき、福田さん──当時南京の日本領事で今は東京で首相の秘書官をしている人だが、私は彼と一緒にキャンプへ行き、二人の日本兵を捕えた。そのうち一人は腰を下ろしており、部屋の隅には、一人の中国婦人が泣いていた。私は福田さんにこの日本兵が強姦したのだと告げると、福田さんはこの日本兵を叱りつけて、追い出した。
 あるとき私はマギー氏と一緒に、南門の東新開路第七番に行ったことがある。その家では十一人が殺され、三人が強姦されたのを発見した。その婦人のうち二人は十四歳で、一人は十七歳だったが、日本兵は強姦したのち、膣の中に異物を差込んであった。他の若い娘は卓の上で強姦され、卓にまで血潮が流れていた。またある一家族が船に乗って、河を横切ろうとしていた。河の真中で日本兵に発見された。日本兵は船の検索をしてから、若い女を見つけ出し、老父と夫の見ている前で強姦した。それで夫は非常に怒って日本兵に喰ってかかったが、老父と娘とは河に飛び込んで溺死してしまった。 紅卍会は二百人の労働者を雇い入れて、中国人の死体の埋葬をやったがその数は四万三千におよんだ。
 日本兵がロシアの公使館に火をつけるのを私は目撃した。彼等はこの建物に油をかけて、火をつけた。この事件は1938年一月一日十二時ごろだったが、そのほかYMCAのような各種団体の建物が次々と焼かれた。
 私は南京付近の二つの町を訪問したことがある。一つは1939年に蕪湖、それから1942年に安慶を訪問した。また1942年には私の故郷の貴州を訪問した。これ等の街でも日本兵のやり方は同様でさらに小さい町ではもっとひどかった」

 ついでサットン検事の尋問がアヘン、麻薬の密売問題に及び、許証人はよどみない英語で、すらすらと陳述を続ける。
「1937年十二月以前にはアヘンは公然と販売することを禁じられていた。しかし日本軍が南京占領後、公然と販売されるようになった。私が住んでいた町の近くにもアヘン窟はたくさんあった。私はふとその一つに入って状況を調べてみた。アヘンはなんら警察の干渉もなく、公然と吸われていた。さらにヘロインの入手は非常に容易となった。シガレットのなかにもヘロインを入れて売っていた。ことに苦力を雇うときには、ヘロイン入りのシガレットが提供された。そして、これをもらった労働者は十代という若い者もいた。
 前述したような、日本軍暴虐行為は日本軍が進駐後、最初の数ヶ月、少なくとも三ヶ月の間はつづいた。時日の経過とともに野蛮行為は次第になくなった。これは日本、中国の双方がなるべくこのような事件の起こらぬように努力し、まず日本の兵隊が遊びに行く所、すなわち慰安所を作って、そこで売淫させるということにしたためだと思う」

 
 

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東京裁判NO6 世界制覇への野望、日独伊三国同盟

2020年07月20日 | 国際・政治

 日本が受諾したポツダム宣言には、 

吾等ハ無責任ナル軍國主義ガ世界ヨリ驅逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本國國民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ擧ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ

 とありましたが、日独伊三国同盟(日本國、獨逸國及伊太利國間三國條約)締結に至る大島大使、白鳥大使、リッペンドロップ独外相の裏面工作やヒトラー総統と松岡外相とのシンガポール攻撃に関する会談内容は、まさに、”世界征服ノ擧ニ出ヅル”ためのものであったと言わざるを得ないように思います。
 その後、日独伊三国条約の精神にのっとり、具体的に世界を二つの地域に分割して戦うという軍事協定を締結していますが、大島口供書は、

私が第一回の大使のときは、日独間に防共協定が存在し、また第二回の大使の時には三国条約が存在したので、大使として日独国交の維持、増進に努力することを当然の職務と考え、政府の政策にしたがってこの所信のもとに行動した。しかし、私はなにも彼らの思想ないし政策を全般的に肯定していた訳ではない。ことにナチスの人種理論、反ユダヤおよび反キリスト教政策または戦争中の占領地行政政策等に対して、強い反対意見を持っていた。もっとも外交上の慣習によりこの意見は発表しなかった。
 検察側の出した文書についてのべると、これらの会談記録はあとから記憶にもとづいて作成されたものに相違なく、その内容は必ずしも正確を期しえないと思う。なおリッペンドロップとの会談に関する文書については、大体が彼に都合よく書かれ、また話題にのぼっただけのことを、私が同意したように記されている場合すらある。…” 

 などとあります。当然かも知れませんが、自己弁護に終始し、本質的な論証を避けているように思います。”日本を底知れぬ「世界戦争」の泥沼へ追い込む原因となった”三国同盟の締結が問題なのに、大使としてどのように締結に向けて努力したのかということは、ほとんど語っていないように思います。

 それは、 白鳥駐伊大使も同様です。”…宇垣外相が官舎に私を招き、大使としてローマに行かぬかとたずねた。たしかに昇進には違いなかったが少しも興味はなかった”とか、”近衛首相は、将来外相となる資格をつけるためにも行ったらどうかと勧め、ストックホルムと違って今度はローマで、少しは面白いことがあるかも知れぬと言った。私はそのとき初めて、日本と枢軸諸国との接近ということが話題に上っていることを聞いた”とか”当時公が実際に欲していたのは、独伊との接近そのものよりは、日本側のこのようなゼスチュアが英米の極東政策に及ぼす影響にあると私は察知、ついに駐伊大使を引きうけた。しかし枢軸接近の件についてなんらの訓令も与えられなかった”とかいうのですが、こんな受け身の人間が大使に選ばれるのか、とちょっと信じがたいのです。
 特に、”翌年一月六日、チアノ伯(伊外相)はムッソリーニ首相に私を紹介、自ら通訳をつとめた。近衛内閣からも平沼内閣からもそのときまでなんら訓令を受けていず、信任状も提出されないため大使として行動する資格がなかった。だから、私はムッソリーニの話にときおり相づちを打つ以上口を出さなかった。ところがチアノ日記では、なんの間違いか故意か知らぬが、当時岳父ムッソリーニの言ったことを、私が言ったように記している節がある。…”と言うのも、三国同盟締結に至る自らの責任を回避するためではないかと思います。もっとも頑固な軍国主義者であるといわれた白鳥大使が、こんな受け身な姿勢の大使であったとは思えないのです。

 また、松岡外相が、ヒトラー総統に、
”…日本人は道徳的には共産主義者であるが、西洋から輸入した自由主義、個人主義、利己主義によってくつがえされたと説明して置いた。なお、これはとくにアングロサクソン人種に根本的な責任があり、伝統的な日本人の思想を取り戻すためにも、日本はアングロサクソンと戦わねばならない。・・・アングロサクソンこそ日独ソの共同の敵である”と、スターリンとの会談の際指摘しておいたなどと伝えていることも見逃せません。
 ただ、三国同盟を主導した松岡が、結核悪化によって法廷では、罪状認否で無罪を主張して終わってしまったため、検察側の追及にどのように対応しようとしたかはわかりません。 
伝統的な日本人の思想を取り戻すためにも…”というような考え方も、皇国日本の軍部独裁との関係で、気になるところですが…。

 下記は、「東京裁判 大日本帝国の犯罪 上」朝日新聞東京裁判記者団(講談社)から 「第六章 世界制覇への野望」の一部を抜粋しました。

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                   第六章 世界制覇への野望

 大島大使の暗躍
 このころ、ドイツにあって、同盟締結の裏面工作のたて役者として暗躍したのは大島大使である。大使はリッペンドロップ外相と折衝を続けるかたわら、使者を東京に派し、日本軍部を通じて、政府首脳部に働きかけるなど、その活躍ぶりは強引かつはなやかであった。大島大使の尋問調書は、この間の事情をつぎのようにいっている。
「1937年、日華事変処理のため、日本はドイツを利用しようとした。私は東京の参謀本部から訓令を受け、ドイツ軍指導者、さらには蒋介石のドイツ軍事顧問等に接近することに努めた。
 1938年一月と思う。私はゾンネンベルグの別荘に、リッペンドロップを訪ねた。リ外相は私に対し、日独が条約その他の方法で、さらに緊密となる方法はないかとたずねた。私はこの会見の概略を東京の参謀本部へ通達した。
 同六月、私は参謀本部から通告を受けた。軍の一部では日独協調の進展をみとめているが、この提携は、ソ連に関しては一致行動をとるとの約束がなければならぬ、とあった。
 七月初旬、私はふたたび、リ外相と会談、このときは日本からの通告にはふれず、ソ連から攻撃された場合、なんらかの行動に出る前に、お互い話し合うことを約するとの協定を取結ぶことについての意見をのべた。リ外相は一応考えさせてくれと言って別れた。数日後、リ外相はゾンネンベルグから、わざわざ私と会談のためにやってきた。そして彼は大体次のように私に語った。
『私見として、単に対ソ条約ではなく、全世界を目標とする相互援助条約を提案する。もし日独協定が十分強力であるなら、世界平和を確保しうると考える』
 私はこれに対し、日本はソ連に対し行動を起こす準備があるのみだから、全世界を目標とする相互援助協定にまで目的を拡大することは困難であると思うとのべたが、リ外相はさらに、
『日本に実力以上のことをしてもらいたいのではない。しかし、平和確保のため、強力な協定はぜひ必要だ』
 と力説、この点につき日本陸軍の意見を知りたいというのだ。なお、防共協定締結のときには外部にもれたから、今度は絶対に秘密を保持してくれと要求するので、私は無線通信をやめて、笠原少将を帰国させることにした。少将は飛行機で飛び、同年八月、日本に到着。参謀本部を通じて、これを宇垣外相に通じた。外相は、さらに五閣僚と意見の交換をおこない、結局、参謀本部がこの提案に同意、また近衛首相、宇垣外相、池田(成彬)蔵相、板垣陸相、米内海相の五閣僚も了解したとの電話を私は受け取った。
 彼等の意見は、調印国の一つが理由なく、侵略の犠牲となった場合、相互援助を約する協定を希望するというにあった。しかし日本はこの協定の目標は、ソ連を第一とし、他の諸国は第二義的とすることを希望していた。
 私は同年十月、大使となり、ひきつづきリ外相およびガウス法務部長と協議し、条約の大綱を決めて、東京の外務省に送達した」

 ついに三国同盟を結ぶ
 三国同盟の交渉は大島大使、白鳥大使、リッペンドロップ独外相等の裏面工作により、着々と進展し、1940年九月二十七日、締結されたが、この締結をきっかけに、日、独の世界計画は勢いに乗じて発展し、ついには太平洋戦争突発の原因をつくるにいたったのである。
タナベー陳述はつぎのようにこれを解明する。
「三国同盟交渉のかたわら、日独両国の侵略企図は、一瞬のたゆみもなく、続けられていった。
 1939年ニ月、海南島の占領、同三月、新南群島の奪取、次の年の三月には、汪精衛政権の樹立となったが、被告陸軍大臣畑俊六は議会で、
『日本の発展は陳腐な九ヶ国条約によって、止められるものではない』
と、激越な言葉で、陸海軍の意向を表明している。
 ドイツのオランダ侵略、フランス降伏ののち、日本の蘭印、仏印に対する関心は急速にたかまり、日独伊三国軍事同盟締結の希望はきわめて強力となった。
 1940年七月、陸軍は、米内内閣の外交政策に不満を抱き、これ以上独仏との交渉をのばすと、日本にとって取り返しのつかないことになるという見解から、米内内閣の打倒を策し、陸軍大臣畑大将を辞職させ、陸軍三長官は後継陸相の推薦を拒否したのである。このため米内内閣は総辞職した。
 こうして近衛内閣の成立を見るにいたったが、新内閣では、松岡が外相に就任、東条は秘密のうちに陸相として推薦されていた。
 日独提携に関する日本の外交政策の強化はますます明白となり、東條陸相は、日本国民に反英感情をたきつける計画を始めたのである。
 1940年9月初旬、近衛総理、松岡外相、東條陸相、及川海相出席の四相会議が開かれ、その席上、日独伊三国の協調強化のため、『会談をすみやかに始める』時機が熟したとの意見の一致をみた。そして、いまや日本は武力行使の決意をしない限り、ドイツと有効な会議を続けることは不可能だということが認められたのである。
 三国同盟は、先例のない程の急速調で進み、1940年九月二十七日ついに締結された。
 三国同盟の締結とともに、対米英侵略戦争は、いよいよ具体化し、シンガポールへの無警告攻撃が日程にのぼってきた。
 1941年一月。駐日ドイツ大使は、大使館付武官とともに、日本のシンガポール攻撃の可能性について調査をおこなった結果、米国政府に対し、
『日本のシンガポール攻撃の勝算は有望である。まずサイゴンおよびマレー半島を経由して攻撃がおこなわれるであろう。この間もし、ハワイの米国太平洋艦隊が出動し、日本軍の進撃をぼうがいしようとしても、ハワイ・マレー間は甚だ長距離にあるから近接行動途上で、日本軍はこれを撃滅するであろう』
と、日本軍の勝算を打電している。
 1941年三月、リッペンドロップドイツ外相は大島特使と会談の結果、駐日ドイツ大使に打電し、日本がすみやかにシンガポールを急襲するよう大使として可能なあらゆる手段を尽くすよう訓令を発し、続いて、ドイツ軍最高司令部は、日独共同に関する命令で、
『日本をして、すみやかに極東において、積極行動をとらせること。シンガポール占領は、枢軸三大強国にとり決定的成功を意味する』 
 ことを指令している。これに対し、日本からは、
『海軍軍令部長近藤大将は、海軍としてはシンガポール攻撃のため、すでに活発な準備中であり、参謀総長杉山大将は、陸軍また攻撃準備中である旨を言明した』
 ことが報告された。
 1941年七月二日、日本では重要な御前会議が開かれた。この会議では、対ソ攻撃の問題が出されたが、結局日本としては、日華事変を一日も早く処理して、南方へ進出すべし、と決定し、ドイツに呼応して、東方からソ連を攻撃する点については、これをできる限りおくらせるような決議が採択されたのである」
 このタナベー陳述を裏書きする書証として、1940年六月、仏印(フランス領インドシナ)問題に関するオットー大使よりドイツ外相あての秘密電報が出された。
「日本外務省からの情報によれば、日本は仏印で自由行動を許されるようなドイツの声明を期待している。この点につき、すでにベルリン駐在大使に訓令を発したとのことだ。
 仏印併合により、東洋における日本の地位が向上することは、ドイツにとっても有利となることは疑いない。仏印占領は、日華事変の早期終結を促進しようと意図したものだが、一方これによって、日本と米英両国との対立は深刻化し、日本対米英の危機は長期にわたって除去されないだろう。もし、日本の要求を考慮するつもりならば、これを利用して、日本を決定的に、しかも無制限に我々の線に沿わす方法をとるべきと思う。そのためには、まず第一に日本が仏印即時占領を余儀なくされるように仕向けさえすればよい」
 日本はオットー大使の意図したように、ついに仏印進駐に深入りすることとなったが、オットー大使はこれにとどまらず、日本の蘭印(オランダ領インド)に対する野望を看破し、太平洋戦争の突発により、アメリカを太平洋に釘づけにしようとする構想を描いていた。
 三国同盟締結の当時、日本の政界上層部は非常な不安感をもっていた。ことに、対ソ、対米関係の悪化を懸念していたことは、1940年九月二十六日の枢密院審査委員会の質疑記録および、同夜九時四十分、天皇陛下臨席のもとに開き、同条約を最終的に可決した枢密院会議の記録によってあきらかである。
 三国同盟は日本を底知れぬ「世界戦争」の泥沼へ追い込む原因となったものであり、両会議は、日本の運命を決定した実に重要な転機となった。

  松岡・ヒトラーの大バクチ
 1941年三月、松岡外相は意気揚々とドイツを訪問、オットー、大島両大使とともにヒトラー総統と会見、得意の重要会談をおこなった。
 このなかで、ヒ総統と松岡外相との間にシンガポール攻撃の闇取引までおこなわれ、日本はドイツの思うツボにはまりこんで、抜きさしならない泥沼におちいっていった。
 1941年三月二十七日、松岡・ヒトラー会談の要旨はつぎの通りである。
ヒ総統「まず、米国が自身で武装するか、英国を援助するかであるが、もし米国が英国を助けるとすれば、自国の武装は不可能となろう。もし米国が英国を無視するとすれば英国は打倒され、米国自身、三国同盟に対し孤立することになろう。しかし、米国が他の土地で開戦することは、いかなる場合にもありえない。だから、いまこそ三国が共同行動を起こす絶好の機会である。英国は欧州に拘束され、米国はまだ軍備の初期にある。またソ連は西部国境でドイツ軍百五十個師団の大軍にけん制されている。
 これこそ、日本にとっては歴史上未曽有絶好の機会ではないか。もしこの好機をのがして、欧州戦が万一妥協に終わるならば、英仏はここ両三年中には回復するであろう。また米国は日本の第三の敵として、英仏と結び、日本は早晩、これ等三国に対する戦争に直面することとなろう。自分の対日態度は今にはじまったものではない。日本とドイツとの間に、何等利害の衝突が存在しないことは、特に好都合である。日本はヨーロッパにほとんど利害関係がない。また同様にドイツも東亜に対してはほとんど利害関係がない。これこそ日独間の協力の最善の基礎をなすものである」
松岡「日本にも他国と同様に、強者によってのみ抑圧することの可能な知識階級がある。この種の知識階級なるものは、二人の皇族の出席する軍令会議や小胆な親英米派政治家にも現れている。自分は軍令会議でも、自分の意見を主張し、彼等を承服させた。自分は欧州大戦の突発前から同盟を主張して大いに努力したが、成功しなかったのだ。欧州戦が突発して以来、日本は英国打倒戦争に対し、なんら貢献していない。その代償として日本はシンガポール攻撃計画を強化すべきだと考える。しかし、自分は残念ながら、日本を支配する地位にはいないから、支配者たちを自分の意見に転換させるように努力しているのだが、これはたしかに成功するものと確信している」
 松岡は個人的な意見として、シンガポール攻撃の主張をし、この言明が日本に知れると、意見を異にする閣僚が、彼を免官するための工作をやるかも知れないという理由で極秘にすることを要求している。さらに、
松岡「三国同盟が締結される少し前、英国大使が日本は三国同盟に加入すれば、非常に危険だということを、日本国民に対し、猛烈に宣伝していた。しかし、私はドイツが勝つからという予想から同盟を締結したのではない。新秩序に関する私の構想にもとづいて結んだのだ。新秩序思想は『征服なく、圧迫なく、搾取なし』のモットーに基づくものであり、これは日本では一般にいまだ十分理解されていない」
 さらに松岡外相は、ドイツ訪問の途中ソ連を訪れ、モスクワにおけるスターリン首相との会談に言及し、
松岡「モロトフと約三十分、スターリンと約一時間会談した。私はスターリンに対しては、日本人は道徳的には共産主義者であるが、西洋から輸入した自由主義、個人主義、利己主義によってくつがえされたと説明して置いた。なお、これはとくにアングロサクソン人種に根本的な責任があり、伝統的な日本人の思想を取り戻すためにも、日本はアングロサクソンと戦わねばならない。日華事変も、中国にあるイギリスおよび、資本主義に対し、日本は戦っているのだ。英帝国崩壊ののちは、日ソ間に横たわる諸問題も解決できる。アングロサクソンこそ日独ソの共同の敵である旨を指摘した」
 さらに第二会談(四月四日)の要旨はつぎのようである。
松岡「日米戦争はできるだけ回避するが、日本のシンガポール攻撃が米国の参戦を誘引する危険がないとはいえない。この際は陸海軍の意向では五年以上ゲリラ戦の形をとってのち、決戦することとなろう。だからドイツのゲリラ戦術、とくに潜水艦の戦術について、日本の軍事使節の希望に応じてもらいたい」
ヒ総統「ドイツも米国と日本との衝突を望んでいないが、もし日本が対米戦にまきこまれるようなことになれば、ドイツはドイツの分野でその結果を引きうける」
松岡「日米戦は不可避である。また対米戦という危険をおかすことによって、日本は今後数代にわたる戦争をさけることができる。しかし日本には、このような思想系統を嫌うものがある。私はこのような人々から危険人物と見られている」
ヒ総統「自分もフィンランドの回復や再軍備宣言のとき、同様の立場にたったことがあるから、貴官の立場を了解できる」
松岡「アメリカの政治家たちは、日本がゴムやスズの米国向け輸送の自由を保証するならば、中国や南洋のために、わざわざ火中の栗を拾うようなことはしないだろう。しかし日本が英国打倒のため参戦するような印象を与えるならば、米国は日本に対し、直ちに開戦するだろうということを、米国側が宣言しているが、これは英国文化にはぐくまれた日本人には、相当効果を発揮している」

 世界戦場を二つに分担
 自らがまき起こした世界戦争のが激化にともない、その攻撃と防禦のため、日独伊三国は1942年一月十八日、日独伊三国間に軍事協定を締結、三国条約の精神にのっとり、作戦のために世界を二つの地域に分割するという協定をおこなった。その内容は、力と力の誤算の上に立ち、遠大な距離をへだてたこの連携が、わずかに潜水艦その他の連絡に止まったことは世界の知るところである。
軍事協定はつぎのようである。
「一、作戦区域の区分
ドイツ・イタリア両国軍と日本陸海軍は、左のように担当地区内で、必要な作戦を遂行する。
1、日本
(イ)東経70度以東から米大陸西岸までの水域および、その水域にある大陸と島(豪州、オランダ領インド、ニュージーランド等) (ロ)東経70度以東のアジア大陸
2、ドイツとイタリア
(イ)東経70度以西から、米大陸東岸までの水域と、その水域にある大陸と島(アメリカ、アイスランド等) (ロ)近東、中東、および東経70度以西のヨーロッパ。
3、インド洋では状況により、前項に協定した地域境界、地域制限を超えて作戦することができる。

 ニ、一般作戦
1、日本は英米に対するドイツ、イタリアの作戦に協力し、南洋方面と太平洋で作戦を遂行する。
(イ)日本は大東亜における英・米・蘭(オランダ)の重要基地を攻撃し、同地域内のその領土を攻撃する。 (ロ)日本は西太平洋における制海権を確保するため、太平洋およびインド洋における米・英陸海空軍の撃滅を期する。 (ハ)米・英艦隊が、大西洋にその主力を集結する場合、日本は太平洋およびインド洋全域で通商攻撃を増強し、なお大西洋にその海軍力の一部を派遣し、ドイツ・イタリア海軍と直接協力する。
2、ドイツ・イタリアは、南洋方面および太平洋における日本の作戦に協力し、対英・米作戦を遂行する。
(イ)ドイツとイタリアは近東、中東、地中海、大西洋の英・米の重要基地を撃滅し、同地域の英・米領土を攻撃占領する。(ロ)独・伊は大西洋および地中海における英・米の陸海空軍を撃滅し、かつ敵の通商を破壊する。 (ハ)英・米艦隊が太平洋にその主力を終結する場合、ドイツ・イタリアは太平洋にその海軍の一部を派遣し、日本海軍と直接協力する。

三、軍事作戦の重要点
1、作戦計画の重要事項に関する連絡の維持。
2、経済戦における協力、左のものを含む。
(イ)経済戦計画に関する連絡の維持。 (ロ)経済戦の進行、重要情報その他必要事項に関する連絡の維持。 (ハ)一つの加盟国が、その担当作戦地域を越え、経済戦をおこなう場合、その計画をあらため、他の同盟国に通知し、作戦基地の使用、補強供給、乗員の休養、修理業務に関する協力、相互援助を確保する。
3、作戦に必要な情報の収集と交換。
4、心理的戦争に関する協力。
5、相互の軍用電報伝送を確保するための協力。
6、日独伊三国間の航空通信の連絡とインド洋の航路と海上輸送を開始するための協力」  

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東京裁判NO5 オランダ領への侵略とフィリピン残虐事件

2020年07月15日 | 国際・政治

 東京裁判の審理が「日本の対オランダ侵略」の段階に入った時、日本側被告のアメリカ人弁護士オーウェン・カニンガム(大島浩担当)弁護人が突如発言台に立ち、「オランダはポツダム宣言の署名国ではない。しかも訴追事項の発生時オランダ政府は、国際法上の合法的な存在ではなく、英国に亡命していた。したがって陸戦法規に対する裁判の権限を有せず、また検事任命の権利もない」と、オランダの裁判参画を全面的に否定する爆弾発言をしたとのことですが、この主張は、すでに触れた清瀬弁護人の、下記の主張と通じるものだと思います。

異議の第二点を説明します。ポツダム宣言の受諾とは、七月二十六日現在に連合国とわが国との間に存在しておった戦争、われわれは当時大東亜戦争と唱えた戦争、その戦争を終了する国際上の宣言であったのです。それゆえに、その戦争犯罪とは、あの時に現に存在していた戦争、諸君の言う太平洋戦争、この戦争の戦争犯罪をいったものです。この大東亜戦争にも含まれず、すでに過去に終了してしまった戦争の戦争犯罪を思い出して起訴するということは、断じて考えられておりません。

 日本側弁護団は、このように裁判の対象をできるだけ時間的、また、空間的に狭めることを方針としたのではないかと思います。

 でも、ポツダム宣言には、
カイロ宣言ノ條項ハ履行セラルベク…
 とあり、そのカイロ宣言には
三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス
 とあります。それは東京裁判が、単に、戦勝国が敗戦国に賠償を求めるような裁判ではないことを意味するのではないかと思います。また、カイロ宣言には
右同盟國ノ目的ハ日本國ヨリ1914年ノ第一次世界戰爭ノ開始以後ニ於テ日本國ガ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト竝ニ滿洲、臺灣及澎湖島ノ如キ日本國ガ清國人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民國ニ返還スルコトニ在リ
ともあります。明治以後の皇国日本が、侵略国であったと断定しているとも言える内容だと思います。

だから、裁判の目的は、
無責任ナル軍國主義ガ世界ヨリ驅逐セラル
ことであり、また
吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戰爭犯罪人ニ對シテハ嚴重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ
 ということなのだと思います。

 日本側弁護団が、裁判の対象を時間的、また、空間的に狭めようとするのは、被告の戦争責任を可能な限り回避しようとする意図によるものだと思います。しかしながら、東京裁判は日本の戦争犯罪を裁く法廷です。訴追事項の発生当時、オランダ政府が国際法上の合法的な存在であったかどうかは関係のないことだと思います。大事な事は戦争犯罪の事実なのだと思います。
 また、裁判の対象が、太平洋戦争(1945年12月8日開戦)以後の戦争犯罪だけでないことは、日本が受諾したポツダム宣言の文章で明らかだと思います。

 戦争責任回避の姿勢は、被告の主張にも共通していると思います。

 「東京裁判 大日本帝国の犯罪 上」朝日新聞東京裁判記者団(講談社)によると、A級戦犯の容疑で逮捕された東条被告は冒頭の罪状認否で”訴因全部に対し、わたくしは無罪を主張いたします”と言っています。訴因55の内、該当しないのは、25、35、45、46、47の五つのみだったのに、すべてで無罪だというのです。私には考えられないことですが、軍関係の文書は、市町村役場の文書に至るまで、すべて焼却処分を命じたので、言い逃れができると考えたのかも知れません。
 証拠を突き付けられ、否定しようのなかった全戦域の捕虜虐待・虐殺などの諸事件については、抗議がくり返されたにもかかわらず、”敗戦までその事実をまったく知らず、新聞発表をみて驚いた”などと言っているのです。そして、捕虜の取り扱いは、”各指揮官の責任であり、自分は彼らが人道を重んじ、条約、法規を守るものと信頼していた”と直接の責任を回避しています。
 直接責任を回避した後、”しかし私は、監督者として全責任がある”と認めるのです。でも、”全責任がある”と認めながら、結論としては、”訴因全部に対し、わたくしは無罪を主張いたします”ということなのです。一国の指導者の戦争責任が、こういう論理で逃れられるとは思えません。

 「モリカケ桜、黒川問題」の政権の対応を見ていると、こうした戦前・戦中の日本の指導者の姿勢が、「逆コース」といわれるアメリカの対日政策転換によって、現政権にまで引き継がれることになってしまったような気がします。(横書きのため、漢数字は算用数字に変更するなどしています)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                   オランダ領への侵略

「オランダに裁判の資格なし」

十二月三日、審理は「日本の対オランダ侵略」の段階に入り、ヒギンス検事から、冒頭陳述担当者のオランダ代表検事としてフロゲフホフ・ムルダー少将が紹介された。ところがこのときカニンガム弁護人が突如発言台に立ち、
「オランダはポツダム宣言の署名国ではない。しかも訴追事項の発生時オランダ政府は、国際法上の合法的な存在ではなく、英国に亡命していた。したがって陸戦法規に対する裁判の権限を有せず、また検事任命の権利もない」
 と、オランダの裁判参画を全面的に否定する爆弾発言を申し立て、満廷一時はどうなることかと固唾をのんだが、ウェッブ裁判長は冷静な口調で、
「事実の上からも法的にもなんらの根拠なし」とこの異議を却下、ムルダー検事の冒頭陳述に入った。

 ムルダー検事の論陣
「一、オランダ国の領土保全の尊重
 1940年五月十一日有田外相は蘭印の現状維持を希望する公式声明をおこなった。さらに翌年三月二十四日渡欧中の松岡外相もモスクワ駐在米大使に対し日本はいかなる情勢においても、英、米、蘭の領土を攻撃しないであろうと主張している。

ニ、南方への膨張に関する日本の政策発展
 蘭印が新秩序圏内に含まれることを含蓄のある表現で声明されたのは1940年四月有田外相が
『日本は相互依存の関係により蘭印と緊密に結ばるべきだ』と述べたことにはじまる。
 1940年五月、ドイツのオランダ占領直後、日本政府はドイツにその対蘭印態度の声明を求めた。ドイツはこれに対し『無関心』を表明、白紙委任状を認めたのである。陸海軍および外務省代表者合同会議で南方地域は日本が政治的指導権を行使すべき地域であることをドイツに承認させる決議をした。 1941年ニ月ドイツ外務大臣は被告大島やベルリンを訪問した松岡と、戦後のヨーロッパおよび東亜の再建を論じ、この討論はさらに進んで蘭印の油田をいかにして無傷で獲得するかという問題にまで進んだ。

三、1940,41両年におけるオランダ、日本間の直接関係ならびに交渉
 1940年九月、日本は直接交渉のため時の商相小林一三を団長とする三十名の経済使節団を蘭印に派遣した。使節団の主目的の一つは、日本の軍需生産を強化するためと、三国協定下、盟約国ドイツ、イタリアに戦争遂行上必要な資材を供給するため蘭から原料の継続的流入を確保することであった。
 日本の緊急必需物資は石油であり、交渉においては製品よりもむしろ石油利権の獲得に努力するよう訓令されていた。交渉は数ヶ月続いたが、オランダは日本に特権を与えることも、南方における日本の優位をも承認せず、1941年五月末最後の覚書が交換されたが、協定までには達しえなかったので、日本は六月交渉を打ち切った。こうして七月には南部仏印の占領がおこなわれ、その結果として蘭印におけるすべての日本資産が凍結されることとなった。
四、蘭印における日本の壊乱行動
 戦争勃発前多年にわたって日本による広範な情報組織が蘭印に内に築かれ、幾千という日本人の大部分が軍事的重要性のある情報集めに活躍した。宣伝はとくに中国人とインドネシア人に力を注ぎ、占領地からは多数の中国人情報提供者がつれて来られた。

五、戦争ならびに戦争準備
 十二月八日日本は米英に宣戦を布告したが、オランダにはそれをおこなわなかった。このような処置は戦略的理由から思わしくないためであった。しかしオランダ政府は戦争状態の存在を認め日本に戦いを宣した。
 一月十二日、最初の日本軍が蘭印に上陸し、日本政府は余儀なく戦争するにいたったことは遺憾だとの声明書を出した。さらに同二十二日には東郷外相が第七十九議会においてオランダにより戦争を強制されたことは遺憾であったとふたたび表明、右戦争の目的は日本が共栄圏を第三国の侵害から保全する責任をはたすためであって、戦略上必要な全地域は日本に把握されねばならぬであろうと付言した。
 一方日本軍はタラカンを占領、油井の破壊を知り、ボルネオのパリックパパンの司令官に最後通牒を送り、油田が無傷で接収されなければ白人をみな殺しにすると声明した。ついで同市を攻撃、油井は破壊され、白人は殺された。1942年三月一日ジャワ上陸、バンドンに接近し、日本軍最高指揮官は、全オランダ軍が降伏しなければ同市を攻撃破壊すると公言した。かくて日本軍脅迫の下に降伏がおこなわれ、ジャワは完全占領とともにオランダ領インドの大部分もその後まもなく占領されたのである。
 
六、日本の占領と日本侵略の統一
 日本の侵略企図の完全描写は日本が軍事的侵略をもって併合しようとした方法の考察にまたなければならない。日本が占領後まずおこなったことは西洋出身官吏の罷免と婦女子を含むこれら国民の抑留であった。蘭印の所領は分割されて日本陸海軍の軍政下におかれた。あらゆる諮問会立法会は解散され、独裁的地方政治組織が取り入れられた。経済機構は完全に日本に掌握され、銀行は閉鎖、日本の銀行がこれに代わった。西欧諸国人の広範囲の私有財産が没収された。数十万のものが日本軍の奴隷的労働者として各地に送られ、彼らの大部分は食住医の不足で死んだ。
 日本崇拝を鼓吹するための『青年運動』を通じ全社会機構は厳格な日本の支配下に置かれることとなった。
 こうして日本憲兵による恐怖的支配が一年余の間に完遂されたが、全地域に対する指揮権が、東京にあったことはまちがいのない事実である。この目的のため1942年十一月大東亜省が設置された。1943年ビルマおよびフィリピンには名目上の独立が与えられたが、蘭印にはこのような処置はとられず日本の直接支配下におかれることが決定した。しかし戦争が進展し、日本の地位が危うくなるにつれて、小磯内閣は蘭印に対する政策を修正、1944年九月七日将来における独立を約束、1945年フィリピンを失い、日本と南方諸地域との連絡がまったくたたれた五月になって独立の処置にとりかかった。日本は降伏の報を秘密にして一週間のうちに所要の準備をし、独立が宣言された」
 つぎに婦人警察官ストルーカー女史が発言台に現われ、有田、松岡外相らの蘭印に対する非侵略意図披歴の公文書を提出、米国と日本の南方政策とがしだいに衝突していくいきさつを立証した。

                  フィリピンでの虐殺

 射殺、焼殺、殴殺、蹴殺 ……
 十二月十日オランダ証人ヴェールト氏の退廷したあと、フィリピン代表検事ロペス氏が立って、マニラを中心とするフィリピンの捕虜、一般抑留者、市民に加えられた残虐行為の立証が始められた。フィリピン残虐事件は、終戦後ただちに連合軍公報によって新聞にも掲載され、その後山下、本間両将軍のマニラ裁判によって世界の知るところであったが、国際検事団は他の地域における残虐事件と独立にこの問題をとりあげ、フィリピン自身の代表者をあげて、この責任を追及するという態度をとった。
 フィリピン残虐事件は、南京事件、タイ・ビルマ鉄道建設における捕虜虐使事件とともにこの東京法廷における三大残虐事件の一つであり、すでに山下、本間公判をはじめ、現地における軍事裁判でそれぞれ処断されている。しかしこれらの一兵士、一軍隊の行動も、指導者である東京の首脳部に責任があった、とする見地に立って訴追されたものである。この責任論についてカニンガム弁護人(大島担当者)は、「フィリピンは、陸戦法規の加盟国として名を連ねていないし、そのうえ犯罪が起こった当時フィリピンの宗主権というものは、まだ確立されていなかった。しかもフィリピンにおける犯罪は、米国議会によってつくられたフィリピンの法廷で、解決をみた問題であり、陸戦法規違反は、軍事的責任であり、政治的責任ではない」と抗議を申し立てたが、裁判長は「この裁判は山下、本間のとった行動についても、責任ありとして起訴されている被告を審理するのである」と異議を却下、一応責任論の性質をあきらかにした。
 法廷には、一枚のフィリピン全図と、虐待によって死亡した犠牲者表がかかげられ、気負いこんだロペス陳述の朗読がはじめられた。
 この統計によれば、フィリピンにおけるアメリカ軍人の犠牲者は、二万三千三十九人、フィリピン軍人二万七千二百五十八人、アメリカ市民五百九十五人、フィリピンの市民実に九万一千百八十四人
、総計十四万ニ千七十六人にのぼっていると示される。もとよりバターン死の行進にはじまる、日本軍降伏までの、直接戦闘による以外の犠牲者としてである。
 十日の法廷以外にロペス検事の召喚した証人は、一般人としての虐待経験者としてロス・バニオス収容所にいた妙齢(ミョウレイ)のワンダローフ嬢をはじめ、バターンにおける死の行進に参加した生存者ムーディ米軍参謀軍曹、ドナルドイーグル氏。パナイ島イロイロ収容所にいたフランクリン・エム・フリーニオン中佐、コレヒドール要塞生残りのモントゴメリー中佐、バターンの元参謀ガイ・H・スターブス中佐らで、これらの人々は、恐怖にみちた往時を回想しつつ、『信じられぬ日本の武士道』について、野戦軍のありとあらゆる蕃行、拷問、虐使の事実をあげていった。 
 しかし証人の口述以上に深刻な蕃行を再現したものは、うず高くつまれ、そして読まれてゆくいろいろの被害者たちの供述書であった。これらの書証には、山下公判で喚問された証人の尋問書もあり、中には、強姦されたフィリピン妻の記録もあったが、その尋問は、微に入り細をうがって 、ほとんど聞くに耐えないものが多く、公開の席でとうてい婦人の耳にしうるものでなかったが、裁判長はあくまで『事実』として、その朗読を要求、首切り、射殺、舌抜き、焼殺、目抜き、殴殺、蹴殺、およそありとあらゆる殺人の方法と、強姦、輪姦、死体凌辱、屍姦あらゆる情欲犯罪と拷問の方法が、いやというほど人々の耳へ伝えられた。
 なお、この書証中には、1945年ニ月二十四日マニラで、米軍の手に入ったといわれる岡田部隊の大隊命令があり、それには、
「フィリピン人を殺すのは、極力一ヶ所にまとめ、弾薬と労力を省くように処分せよ、死体の処理うるさきをもって、焼却予定家屋または爆破家屋にあつめ、あるいは河につき落すべし」
 とあって、米軍の前進と、ゲリラ部隊の蜂起に狂気になった、フィリピン最後の戦場の情景をほうふつさせているが、
「人肉を食っても、戦いぬけ、ただし友軍の肉をくったものは死刑に処す」
 との命をうけた柳沢エイジ元上等兵の口述書や、ニューギニアのアイタベ地区における支隊長の布告文によって、飢餓のせまった戦争の中で、原住民の人肉をくうのはもちろん、ついには友軍の戦友を倒しても飢えを支えようとした事実も公開された。

 聖パウロ大学の惨劇
 つぎにロペス陳述の要旨をかかげることによって、その事件がどのような性質のものであったかの片鱗を偲ぶこととしよう。この事件の全部を知ることはとうてい限られたスペースでははたせないからである。
「日本人の残虐行為は、一、個々の偶発的非行ではなく、集団的なこと、二、1937年の南京事件より1945年のマニラ事件まで八年間にわたり連続的であること、三、犯行の範囲は、ビルマ、マレー、蘭印、フィリピン、ニューギニア等地球の四分の一におよんでいること、四、犯罪者に将校下士官兵の別がないこと、五、犠牲者は、捕虜のほか老若男女すべてにおよび乳児さえも含んでいること。
 などにより特徴づけられている。日本の指導者は、権利を侵害された各国からの公式抗議に目もくれず、虚妄の宣伝として葬り去り、そして、告発も、調査もせず、犯罪者の処罰や、再発防止を怠り、これらの犯行を黙認してきたのである。
 フィリピンにおける日本軍の残虐非行により、十三万一千二十八人のアメリカ人およびフィリピン人が死んでいった。これには戦闘による死傷者数は含んでいないのである。これらの犠牲者は、1941年十二月から1945年八月までのあいだに日本憲兵隊、陸戦隊その他の軍人によって犯された。
 フィリピン非戦闘員虐殺のうち、もっともいちじるしいものは、マニラ市聖パウロ大学における八百人の男女子供に加えられたもので、彼らは五個のシャンデリアのもとの、卓上におかれた菓子にひかれて広間の中央に集まったが、一人の日本海軍兵士が紐をひくと、シャンデリアの中に隠されてあった数個の手榴弾(手投げ弾)が爆発し、建物の屋根を吹き飛ばし、広間にいた多数のものを即死させた。そしてかろうじて生存したものも、そこからとび出そうとして、機銃でなぎ倒されたのである。
 なお数分とかからない真似事の裁判ののち、約二千人の非戦闘員がマニラの北方墓地で首を斬られた。リサール博士の生誕地として、彼らの尊崇の地であるラグナのカランパノでは、、二千五百名の男女幼児が銃殺あるいは刺殺された。セブ島のボンソンの全住民は、村の教会に集合を命ぜられ、百人が殺された。残りのものは村中を追いまわされ、およそ三百名が家庭で、あるいは沼沢地で惨殺に遭った。
 パタネスのパスコでは、八十名の市民が捕縛され、垂木に吊るされたリ、ガソリンをかけられたりしたのち全部斬首された。タブアオのマティナ、パンギでは、百六十九名の男女子供が惨殺された。
 日本軍とくに憲兵隊はマニラ湾のサンディエゴ要塞を拷問室と、死の穴にかえてしまった。聖パウロ大学では、一人の赤児が放り上げられ、銃剣で刺殺された。ルソンのカパヨでは一フィリピン人が四ガロン入りの水を二回無理にのまされ、ふくらんだその腹の上で日本人が跳ねまわった。パタンガスのタナウアンでは妊娠中の一婦人が腹から胎児をえぐり出され胎児の首は斬られた。
 日本人の卑劣ぶりは、マニラが最後に迫った1945年二月ごろ絶頂に達した。ベイ・ビュウ・ホテルその他で社交界の知名な若い娘たちが多数暴行された。一人の娘は拒んだため首を斬られ、その死体まで暴行が加えられた。
 フィリピンの公私有財産の破壊もまた広範囲にわたり、その破壊侵害の合計は、十三億七千二十六万三千三百二十四ドル五十セントに達する。
 条約違反の事実──フィリピンにおける日本軍の暴行はヘーグ条約およびジュネーブ条約の違反である。条約違反の代表的なものは、降伏したものに対し、戦時捕虜の身分と待遇を与えなかったこと、戦時捕虜を公衆の好奇心、侮辱、非人道な待遇のままとしたこと、婦人に対し婦人相当の考慮をもって待遇しなかったこと、捕虜と、収容者に、その軍隊と国家に関する情報を暴露するよう強制したこと、衛生と健康を保証せずして仮小屋に住まわしたことなどである。
 フィリピンにおける捕虜に対しておこなわれた残虐なもっとも人を戦慄せしめるものは、バターン死の行進であって、1942年四月十日に降伏した一万一千人の米兵および六万二千人のフィリピン兵は、炎熱のもと、約百二十キロの道を、食物も水なく、七日ないし十一日間の行進を強要された。全行進がおわってからも、彼らはオードンネル収容所で虐待され、同年八月一日までに合計千五百二十二名のアメリカ兵と、二万九千名のフィリピン兵が死亡した。
 バターン行進に比較される事件は、ミンダナオにもあった。1944年十二月十四日パラワン島プエルト・プリンセサで百五十名の米人捕虜は、長さ七十五フィート、高さ四フィート、幅三フィートの三つの防空壕に押しこまれ、バケツに数杯のガソリンを注ぎ火を放たれた事件もある。
 またサンチャゴ要塞では、マニラ爆撃の際撃墜された三名の米人飛行士は刀で肩を刺されたり、火のついたタバコで焼かれたリ、指に穴をあけて針金でを通してつるされたりしたのである。
 これら、暴虐の正確な事実が正式抗議をもって日本政府と、その指導者に注意されてきたことを示そう。1942年十二月十八日ハル覚書は、フィリピンにおける劣悪な状態、バターン死の行進に抗議した。1943年四月四日のハル覚書では、日本政府に対し、米人捕虜にこれ以上の犯罪的蕃行を加えるならば責任者たる日本政府官吏に彼ら相当の罰を加えんとするものであることを警告した。
 また1944年九月十一日の覚書、同四月六日のアチソン覚書では、米人捕虜虐殺事件に抗議、日本政府は、この責任をまぬがれえないと警告がなされている。
 日本政府はこの抗議に対し、もっともらしい保証を与えたが、なお米比捕虜、抑留者が引きつづき虐待、殺害されたので、1945年三月十日、米政府はグルー覚書で抗議を行った。日本政府のもっともらしい言明の虚偽と偽善にとどめを刺すに足る一つの証拠は、1942年七月、東京から各地捕虜収容所長にあてた『白人俘虜を労働に使役し、もって収容所所在の住民をして日本人が白人に優るものなることを感得せしむる』ように命じた指令であった」
 
 

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東京裁判NO4 満州国元首溥儀の証言

2020年07月12日 | 国際・政治

 幕末の尊王攘夷急進派が倒幕によってつくった日本は皇国(スメラミクニ)でした。だから、”万世一系ノ天皇之ヲ統治ス”と定められました。その皇国の目標は、”天皇の御稜威(ミイツ)がたえず四方に広がること”でした。
 幕末の尊王思想の代表的な思想家、藤田東湖は「弘道館記述義」に
孝と敬の道をひたすらつくして天照大神の御威霊をおしひろめるならば、ひとり日本の人民がかぎりない徳化に浴するばかりでなく、遠く海をへだてた外国の国々もまた、わが国の徳を慕い、その恵みを仰ごうとしないものはなくなるであろう
と書いていました。
 また、吉田松陰は、「幽囚録」に

善く国を保つものは徒(タダ)に其の有る所を失ふことなきのみならず、又其の無き所を増すことあり

と書いていました。
 『宇内混同秘策』の著者、佐藤信淵は、
皇大御国(スメラオオミクニ)は大地の最初に成(ナ)れる国にして世界万国の根本なり。故に能く根本を経緯するときは、則ち全世界悉く郡県と為すべく、万国の君長皆臣僕と為すべし”
 とか、
凡そ他邦を経略するの法は、弱くして取り易き處より始るを道とす。今に当て世界万国の中に於て、皇国よりして攻取り易き土地は、支那国の満州より取り易きはなし
 と書いていました。こうした幕末の思想家の書いたものは、戦時中も、軍人を中心に多くの人に読まれたといいます。
 だから、大日本言論報国会の会長をつとめた徳富蘇峰は『頑蘇夢物語』に、
日清日露の戦争は、悉く皆維新の大改革に、淵源している。而して大東亜戦争は、即ちその延長である。”
と書いたのです。
 天皇のいわゆる「人間宣言」(1946年(昭和21年)1月1日に官報により発布された昭和天皇の詔書)に書かれている
天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念
 が、日本の侵略戦争の原因であったことは否定できず、しっかり受け止められなければならないと思います。

 本当に溥儀が板垣の申し出を拒絶したかどうか、また、拒絶できたかどうかということには疑問がないわけではありませんが、幼かったとはいえ、溥儀は清朝の最後の皇帝です。日清戦争や日本軍による東三省の武力占領に内心憤りを覚えていたでしょうし、実際の政治運営が、満洲帝国駐箚大日本帝国特命全権大使兼関東軍司令官の指導の下にあった満州国の元首を引き受けたことを、”私の一代の恥辱であった”という気持に偽りはなかったと思います。
 当時の溥儀の言動は、すべて、逆らうと殺されるかもしれないという恐れの中にあったと考えられ、その証言は、真摯に受け止めるべきだと思います。

 というのは、日本軍の独断専行に苦慮しながら、当時領事館で直接軍や中国側と交渉に当たっていた外交官・森島守人の著書、「陰謀・暗殺・軍刀…一外交官の回想…」(岩波新書)四 陰謀の産物 満州事変」の「柳条湖事件の発生」に下記のようにあるのです。
 ・・・
 …林総領事は当夜友人のお通夜に行っていたため、わたしは独り官邸に残っていたところ、10時40分ごろ、突然特務機関から柳條溝で中国軍が満鉄線を爆破した、軍はすでに出動中だから至急来てくれとの電話があった。私は大きくなると直感したので、総領事に対する伝言を残すとともに、館員全部に対して徹夜の覚悟で至急参集するように、非常召集令を出して、特務機関へ駆けつけた。特務機関内では、煌々たる電灯の下に、本庄司令官に随行して奉天を離れたはずであった関東軍の板垣征四郎高級参謀を中心に、参謀連が慌しく動いていた。板垣大佐は「中国軍によって、わが重大権益たる満鉄線が破壊せられたから軍はすでに出動中である」と述べて総領事館の協力を求むるところがあった。私から「軍命令は誰が出したか」と尋ねたところ、「緊急突発事件でもあり、司令官が旅順にいるため、自分が代行した」との答であった。私は軍が怪しいとの感想をいだいたが、証拠のないこととてこの点には触れず、くり返し外交交渉による平和的解決の必要を力説し、「一度軍の出動を見た以上、奉天城の平時占領位なら外交交渉だけで実現してみせる」とまで極言したところ同大佐は語気も荒々しく「すでに統帥権の発動を見たのに、総領事館は統帥権に容喙、干渉せんとするのか」と反問し、同席していた花谷の如きは、私の面前で軍刀を抜き、「統帥権に容喙する者は容赦しない」とて、威嚇的態度にさえ出た。こんな空気では、もとより出先限りで話のつけようもないので、一応帰館した。そして、一切を総領事に報告した上、東京への電報や居留民保護の措置にとりかかった。
 ・・・

 東京裁判において、日本人被告の弁護人が、日本に対して批判的な溥儀の証言にどのような反論をしたかはよく知りませんが、私は、当時の状況を考えれば、国際社会が受け入れることのできるような反論はできなかっただろうと思います。
 なぜなら、日本は「神国」で、日本人は”他ノ民族ニ優越セル民族”であるという”観念”と、上記、森島守人の著書の記述にみられるような、脅しや武力で思いを通してきた成功体験によって、日本軍は破壊的カルトにも似た組織になっていた側面が否定できないからです。

 下記は、「東京裁判 大日本帝国の犯罪 上」朝日新聞東京裁判記者団(講談社)から、「証言台に立つ溥儀廃帝」を抜粋したのですが、溥儀の三種の神器に関する答弁中の鵜沢弁護人による突然の異議申し立ては、的外れであると同時に、日本が特異な国であることを感じさせるものではないかと思います。
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                第四章 満州へ侵略のステップ

                  証言台に立つ溥儀廃帝

 濃紺の背広姿で
 八月十六日は東京裁判にとって画期的な日であった。この日、前満州国皇帝溥儀氏が証人として法廷に出頭、宣誓したのちキーナン首席検事の直接尋問に答えた。彼は、満州国草創の裏面史、清朝最後の皇帝から五歳で帝位を追われ、北京、天津、旅順を転々、ついに日本関東軍の傀儡となって満州国皇帝に擁立されるまでの、数奇をきわめた生い立ちをこまごまと陳述した。
 満州国は英米から独立国家として承認されなかったとはいえ、形の上では十余年にわたって五族三千万の民衆の上に君臨していた一国の元首が法廷に立つということは、ニュールンベルク裁判にもついになく、前大戦にもその例をみず、ましてそれ以前の世界政治の歴史にかつて想像もされなかった裁判史上空前のことである。
 終戦と同時に溥儀氏は長春の宮殿からソ連の手に捕らえられ、フォーリ(ハバロフスク近郊)に抑留の身となり、今回東京裁判のためウラジオストックからソ連官憲に護衛されて、空路東京に到着、八月十二日はじめてキーナン検事と対面した。
 濃紺の背広に同じ色のネクタイ、平凡な一個の人間に還った溥儀氏は、午前十一時二十五分バンミーター法廷執行官に導かれて静かに証言台に立った。満廷はこの新証人を迎えて緊張した。
 前日まではまばらだった来賓席をはじめ連合国記者席も満員の盛況。同じく満員の階上傍聴席の一隅には溥儀氏幼少の頃から側近に侍し、満州国建国後は護衛長を勤めた工藤忠氏や、その他満洲ゆかりの人々も詰めかけて、法廷を流れる「廃帝の声」に深く聴き入った。キーナン首席検事の直接尋問は特に口供書によらず、法廷で直接の陳述をきくための重要尋問であった。溥儀氏は少しだみ声の北京語で
「1906年北京に出生、名は溥儀という。満州流には名前の前に愛親覚羅(アイシンカクラ)をつける。1909年清朝の帝位に即(ツ)く」
 ややうつむき加減に一つ一つ尋問に答えていく。

 数奇の運命を淡々と
 廃帝溥儀が自らの生い立ちを語る陳述はまるで一篇の物語であった。
「父の名は愛親覚羅。1909年即位してから三年目の1911年国内革命(武漢革命の孫文らの旗挙げ)が起こり、孫中山(孫文)先生は国民党を領導して新しい中国を作り上げた。その年十二月中華民国成立とともに私は退位した」
 それから以後の波乱にとむ廃帝の途を偲んでか、証言する溥氏の顔はかすかにふるえる。
「私は実は愛親覚羅の子ではなく、皇位継承のため養子となったのである。生母は隆裕(ロンユン)皇太后である。母は孫中山先生の革命に非常な賛意を表し、自ら進んで宗主権を孫先生に譲ることを主張した。中華民国成立後、民国政府は皇太后に対し非常に感謝した。
 中華民国が成立し皇帝から退位したのは1911年、私が五歳のときであった。その後も北京の宮殿(紫禁城)に住んでいた。民国政府は清朝皇帝としての身分保持を認め、毎年四百万元の生活費を提供してくれた。宮殿内の一切は内務府の所管であり、私は宮殿内に家庭を持っていた。
 1924年馮玉祥(ヒョウギョクショウ)、張作霖両将軍が争い(第二奉直戦争)その戦後馮玉祥がクーデターを起こし私たち清朝王族に対し、その日のうちに宮殿を去るよう命じた。私は身をもって紫禁城を脱出したが、北京を離れず、実父のもとに身を寄せた。
 当時新聞紙上に私に不利かつ危険な宣伝がおこなわれていたので、私の英語教師ジョンストンがまずドイツ人の病院へ連れていった。当時私は十九歳だった。ジョンストンは私の隠れ場所について英国公使マクレー、オランダ公使オーデンカと相談し、英公使館はせますぎるので、日本公使館に行くようすすめた。私と同伴した者はわずかにジョンストンおよび鄭孝胥(テイコウショ:後の満州国初代総理)の二人だった.
 半年あるいはもう少し日本公使館にいてから、段祺瑞(ダンキズイ)臨時執政の許可をえて天津にはニ十歳から二十七歳まで七年間いた。
 天津にいた当時日本軍と中国軍との間に衝突が起こった。すなわち九・一八事件で、日本は武力により東三省を占領した。当時天津ではいろいろ不思議なこと、危険なことがあいついで起こった。あるときは中国人の名で一籠の果物が届いた。その中には爆弾が入っていて、発送人が誰だかわからなかった。またそのころ天津駐在の軍司令官香椎将軍が来て、私が天津に住むのは危険だから旅順にいけとすすめた。強制なのでやむをえず旅順にいった。天津では妻と父が一緒だったが、旅順へは家族も同伴せず後からやってきた。同行したのは鄭孝胥(テイコウショ)とその息子である。約半年のち関東軍司令官本庄繁大将が参謀板垣征四郎大佐を私の許につかわしてきた」
 溥氏の陳述はいよいよ満州国との因縁に話しが進んで行き、被告席の板垣将軍はさりげない態度で聴き耳を立てている。

 板垣大佐との密談
 キーナン検事の直接尋問はさらにつづく。
キ 「板垣大佐はどんな話をしたか」
溥 「およそ二時間半も会っていたろうか。彼は東三省における張学良旧政権が人民に対して悪政を行い、圧迫を加えたので色々の事件が続発し、日本の既得権益にも悪い影響を及ぼしている。旧軍閥を東三省から追っ払って人民の幸福をはかるため満州に新政権を樹立したいと言った」
キ 「それは板垣の独断か。上官の命令によるものか」
溥 「本庄司令官の命令によると言った」
キ 「どういう役について欲しいと言ったか」
溥 「私が満洲人であるため新政権の領袖になってくれと言った。そして日本は東三省に領土的野心はまったくなく完全な独立政権を樹立すると言った」
キ 「あなたは承諾したか」
溥 「拒絶した。板垣は新政権を作るに当たって日本人官吏を採用し、満州人同様の官吏となりうることを要求したからだ」
キ 「板垣の申し入れがなされるまで、日本軍は満州で何をしたか」
溥 「日本軍は東三省を占領し、同時に奉天に地方治安維持会を日本側の手で組織した。土肥原がその主要人物だった。それから逃げ後れて奉天に残っている中国官吏に対して日本軍の圧迫がくわえられた。
キ 「板垣の申し出があったのは?」
溥 「私が旅順に着いたのは1931年の冬で、それから半年位経ってからだ」
キ 「申し出が拒絶されたときの板垣の態度は」
溥 「非常に不満そうにみえた」
キ 「板垣との第一次会見後顧問と相談したか」
溥 「顧問の鄭孝胥と万繩栻(バンジョウショク)に会った。板垣はこの二人にも会った。申し出は関東軍の既定方針であるから拒絶すれば関東軍は断固たる手段に出ると顧問に言ったと聞いた」
キ 「顧問と板垣の話は、あとで顧問から聞いたのか」
溥 「そうである。顧問の話では板垣はもしもこの申し出を拒絶すれば生命の危険があると脅迫した。それで両名と顧問の一人羅振玉(ラシンギョク)は板垣の申し出を受諾するように私に勧めた」
キ 「顧問に対する板垣の態度はどうであったか」
溥 「顧問は板垣が非常に厳格で強圧的だったと話した」
キ 「満州国元首に推すことを主張したのは誰だといったか」
溥 「本庄軍司令官だといった」
キ 「当時顧問の名は?」
溥 「鄭孝胥(テイコウショ)、万繩栻(バンジョウショク)、羅振玉(ラシンギョク)、鄭無(テイブ)の四名」
キ 「四人の内中国国民政府に官職を持っていた者はいなかったか」
溥 「ない」
キ 「顧問と板垣の申し出を拒絶すべきかについて相談したか」
溥 「本当の気持ちは拒絶したかった。然し四人は受諾をすすめた。当時日本軍の圧迫を如何なる民主国家も阻止しえなかった。私だけで抵抗はできなかった。」
キ 「抵抗の意志はあったのか」
溥 「私の意志は拒絶するにあったが、武力圧迫を受け、しかも一方に顧問から生命が危険だから応諾せよとすすめられてついにやむをえず受諾したのだ」

 このように語りつつ溥氏は裁判長に訴えるかのように両手を大きく広げて身体を乗り出す。広い額には一つかみほどの頭髪が垂れ下がり、溥氏の顔は少し青いようだ。「板垣大佐とはこの被告席の板垣のことか」とキーナン検事にとわれ、溥氏は板垣被告の方を見るともなく素早い一瞥を投げ、無表情に「是(シイ)」とうなずいたのみ。板垣被告の横顔は固く、ゆがんでいた。

キ 「満洲の元首になるということを拒んだら生命に危険があるとの脅迫は直接聞いたか」
溥 「板垣が私に拒絶するなら日本軍は断固たる手段をとると言ったこと、顧問らも同様のことを告げられ私に伝えたこと、それからまた関東軍は秘密のあばかれるのを恐れていたことなどから、身辺の危険を感じた」
キ 「大きな国家の国政を司る経験を持っていたか」
溥 「私は幼い時に政権を譲ってしまい、政治的経験はなにもなかった」

 清朝最後の幼帝であり、満州国の初代皇帝であった人の、この寂しげな答弁を最後として十六日の直接尋問は終わった。
 溥儀氏に対するキーナン首席検事の直接尋問は十九日も続行。その直接尋問はこの皇帝がいかにロボット的存在であったかの要点を仮借なく追及し、多くの秘密に挑んでいったが、これに答える溥儀証人は絶えず眉をケイレンさせ、身体をこきざみに動かしつつ、ときどき激した調子で証人台を叩くなど、満廷の注視を浴びる。
「日本人は満州を奴隷化し、中国と南方を奴隷化し、さらに世界を奴隷化せんとしていた。三種の神器の剣と鏡をうけとってかえったとき、家族は皆泣いた。これは私の一代の恥辱であった」
 と、ときをえて胸一杯の憎悪を叩きつけるような激しい陳述をつづけ、かつてその妻が吉岡中将によって毒殺されたこと、神道は一方的に強制され、皇帝以下すべての満州国人の宗教の自由がなかったことなど、はてるともない暴露をくりひろげていった。

  「私の妻は毒殺された」
 同日午後一時再開後、溥儀氏は、
「私の妻は当時二十三歳で非常に仲が良かった。そして中国の国家を愛する人間の一人であった。私に対しては常に今はやむをえないから忍耐して、また自由の日が来たら満州を日本から取り返しましょうと語った。しかるに彼女は日本人によって毒殺されたのです。(この証人台を激しく叩き満廷なにごとかと注視)
 その下手人は吉岡中将であった。最初は中国の医者が見ていたが、のち吉岡が日本の医師を紹介した。彼女の病気は重かったが死ぬほどでなかった。医師の診察が終わってから、吉岡と医師は三時間にわたって秘密になにか話していた。その夜その医師がきて、翌日の朝彼女は死んだのである。本来なら葡萄糖を一時間ごとに注射しなければならないのに、日本の医師が来てから朝までに二、三本しかうたなかった。
 吉岡はそのまま宮中に泊り、憲兵や看護婦の報告をきいていたが、死んだときくや早速かえった。その後一ヶ月ほどたってから、吉岡は私に日本婦人と結婚せよといって沢山の写真を見せたが私は表面上拒絶できぬので、結婚は愛というものが根本だから、何人たるとを問わず私が愛しうるものなら結婚すると返事していた。のち私は若い中国人と結婚した。なぜ若いのを選んだかといえば、日本の教育をうけていないこと、そして自分で教育しようと思ったからである」
 宮廷の幄(トバリ)深く秘められた夫人の死の真相を、法廷ではじめてあきらかにしたのち溥氏はさらに日満関係について憤然と、
「吉岡は満州国は日本の子供のようなものだと言った。梅津もまた同意見であった。すなわち日満は一徳一心であると説明、満州を日本の植民地化せんとしたのである。一徳一心とはいわゆる八紘一宇に発している」
 と八紘一宇思想の侵略意義を体をのり出し、両手をあげて説明する。

 「三種の神器」
キ 「天皇から剣と鏡を与えられたのはいつか」
溥 「1940年」
キ 「その鏡にどんな意味があると教えられたか」
溥 「日本の古代の神話によると鏡は天照大神を象徴するものである」
 と説明しかけたが、この時鵜沢弁護人異議を申し立て、
「日本の神道は学者、政府、政治家の間にも意見の一致を見ていない。また日本政府は神社を宗教とは扱っていない。証人のきいた神道は神社の神道か、証言するからには間違いの起らぬよう確実な責任者をあげてもらいたい」
 とせめよれば、ウ裁判長
「ただ今の異議は本証言の関連性ではなく、真実性に関するものだ。真実性如何は弁護人側より後刻証人ないしは証拠を提出して反証をあげることができる」
 と却下した。
 
 
 
             

 

  

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東京裁判NO3 五十五の訴因と政治的免責

2020年07月10日 | 国際・政治

 東京裁判の問題は、「平和に対する罪」や「人道に対する罪」という事後法で日本軍および政府の要職にあった人たちを裁いたから違法であるとか、戦勝国による単なる「復讐裁判」であるとかいうことではないと、私は思います。 
 すでに触れましたが、キーナン首席検事は、裁判に先立つ記者会見で”裁判の準拠法は文明国間に長年にわたっておこなわれた慣習法である”と明言しました。日本は成文法主義の国ですから、それが受け入れ難いのは分かりますが、アメリカは不文法主義の国であるとされているので、”裁判の準拠法は慣習法”であるというキーナン検事の主張を違法として退けることは難しい思います。

 だから、「平和に対する罪」や「人道に対する罪」で裁くことが違法であると主張するためには、「平和に対する罪」や「人道に対する罪」が慣習法として成立していないということを論証しなければならないと思います。でも、ドイツ軍のベルギー侵攻やルシタニア号事件のような軍事行動は戦争犯罪に当たるとして、ベルサイユ条約でドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の訴追を決定しているのです。ニュールンベルク裁判において「平和に対する罪」や「人道に対する罪」が出てきたのも、当時不戦条約やハーグ陸戦条約を成立させていた西洋列強にとっては、かなり一般的な考え方になっていたからではないかと思います。ニュールンベルク裁判を前にして、突然、国際軍事裁判所憲章(ロンドン憲章)が出てきたのではないと思うのです。

 それでもなお、罪刑法定主義をかかげて、キーナン検事の主張に抵抗することは可能かも知れませんが、それは、 キーナン検事の”被告らは本裁判の合法性に異議を申し出ているが、その異議はすべての文明の破壊を防止するため有効な手段を講じる文明国の能力に対するあきらかな挑戦といわねばならない”という主張に敵対することであり、将来ふたたび第二次世界大戦のような戦争が起こらないようにしようとする世界平和の流れに逆らうことになると思います。

 東京裁判が、単なる「復讐裁判」でないことは、個々の訴因に対する検察側の主張や日本側の弁論、被告の証言をみれば明らかではないかと思います。

 問題は、東京裁判が戦勝国アメリカの主導するものであったことだと、私は思います。現実的には無理であったかも知れませんが、ベルサイユ条約の発効日(1920年1月10日)には国際連盟が発足していたのですから、そうした国際機関が裁判を主導すれば、もっと世界平和にとって効果的な裁判ができたのではないかということです。アメリカによる原爆投下など連合国側の「人道に対する罪」も、取り上げることができたのではないかと思うのです。

 でも、連合軍総司令部が一般命令として公布した東京裁判の裁判憲章や検察側の裁判に臨む姿勢、個々の検事の主張、また戦争犯罪に関する考え方や訴因、それぞれの審理などにはそれほど大きな問題はなかったのではないかと思います。

 私が見逃せないのは、むしろ東京裁判が戦犯として起訴すべき人を、対象から意図的に外した問題です。例えば、アメリカの政治的判断で、当時日本の国家元首であり、軍の最高責任者であった天皇の戦争責任は、まったく不問に付されました。そのため、東京裁判や戦後の日本に様々な影響を与えたのではないかと思います。天皇の戦争責任は明白だという主張も少なくなかったということですから、本来、天皇を東京裁判の対象から外すということは、法的にはあってはならないことだったと思います。

 また、731部隊(石井部隊=関東軍防疫給水部隊)関係者の生体解剖や人体実験、細菌戦の計画・実行に関する戦争責任も、アメリカの政治的意図によって不問に付されました。「731」青木冨貴子(新潮社)は、その経緯を貴重な資料をもとに明らかにしていますが、それによると731部隊 (石井部隊)の研究者たちは、「九項目の条件」をのんで、人体実験や細菌戦に関わるリポートを作成し、アメリカ側に提出したということです。「九項目の条件」の中には、”日本人研究者は戦犯の訴追から絶対的な保護を受けることになる”とか、”報告はロシア人に対しては全く秘密にされ、アメリカ人にのみ提供される”とか”ソ連の訴追及びそのような(戦犯を問う)行動に対しては、絶対的な保護を受けるものである”という内容が含まれていたということです。
 この731部隊関係者の免責も、戦犯を裁く東京裁判や戦後の日本に様々な影響を与えたと思います。
 アメリカとの政治的取引によって、戦犯として裁かれるべき当時の731部隊研究者や日本軍関係者が、過去に蓋をしたまま生き延び、戦後、要職に就いたというのですから、それは、東京裁判の趣旨に反し、アメリカにとっても日本にとっても、大きな問題であったと思います。

 さらには、主要戦争犯罪人として逮捕され、巣鴨に監禁されていたA級戦犯十九名が、法廷に立つことなく、1948年(昭和23年)12月23日、突如釈放されたということも見逃せません。背景には「逆コース」といわれるアメリカの対日政策の転換があったようですが、このA級戦犯の釈放も、東京裁判の趣旨に反するものだったと思います。戦犯として処刑された東條英機の内閣で、商工大臣であった岸信介第五十六代内閣総理大臣が、釈放された十九名うちの一人であったということも、戦後の日本に重大な影響があったのではないかと想像します。

 そういう意味で、アメリカ主導の東京裁判に問題があったことは否定できないと思います。
 ただ、五十五の訴因に基づき争われた審理自体には、それほど重大な問題はなかったのではないかということです。
 下記は、「東京裁判 大日本帝国の犯罪 上」朝日新聞東京裁判記者団(講談社)から抜萃しました。
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                  第二章 市ヶ谷の熱い日々

 

 五十五におよぶ訴因
 どのような人が、どのような理由で罪に問われたのか。
国際検事団は五ヶ月にわたって起訴状を作成した。
起訴状は、序論、戦争犯罪問責の訴因、そして、その細目書である付属書からなっている。
訴因は三部に分けられている。
第一類 平和に対する罪
第二類 殺人
第三類 通例の戦争犯罪ならびに人道に対する罪

第一類 平和に対する罪
1 1928年(昭和3年)1・1から1945年(昭和20年)9・2までの共同謀議(東亜、太平洋、インド洋地域の支配を確保しようとしたこと)
2 同右(満州を支配することの共同謀議)
3 同右(全中華民国の支配の共同謀議)
4 同右(アメリカ合衆国、全英連邦〔大ブリテンおよび北アイルランド連合王国、オーストラリア連邦、カナダ、ニュージーランド、南アフリカ連邦、インド、ビルマ、マレー連邦および国際連盟において個々に代表されない大英帝国の他のすべての部分を含む〕、フランス共和国、オランダ王国、中華民国、ポルトガル共和国、タイ王国、フィリピン国およびソビエト社会主義共和国連邦に宣戦を布告し、または布告しない一回または数回の戦争を行う共同謀議)
5 同右(訴因1の地域と訴因4の国に対して戦争を行うための日独伊三国の共同謀議)
6 中華民国に対する戦争の計画準備
7 アメリカ合衆国に対する戦争の計画準備
8 全英連邦に対する戦争の計画準備
9 オーストラリア連邦に対する戦争の計画準備
10 ニュージーランドに対する戦争の計画準備
11 カナダに対する戦争の計画準備
12 インドに対する戦争の計画準備
13 フィリピン国に対する戦争の計画準備
14 オランダ王国に対する戦争の計画準備
15 フランス共和国に対する戦争の計画準備
16 タイ王国に対する戦争の計画準備
17 ソビエト社会主義共和国連邦に対する戦争の計画準備
18  1931年(昭和6年)9・18、中華民国に対する戦争の開始(満州事変)
19  1937年(昭和12年)七・七、中華民国に対する戦争の開始(日華事変)
20 1941年(昭和16年)12・7、アメリカ合衆国に対する戦争の開始
21 同右期日、フィリピン国に対する戦争の開始
22 同右期日、全英連邦に対する戦争の開始
23 1940年(昭和15年)9・22、またはそのころ、フランス共和国に対する戦争の開始(北部フランス領インドシナ進駐)
24 1941年12・7、タイ王国に対する戦争の開始
25 1938年(昭和13年)7、8月中にハーサン湖区域におけるソビエト社会主義共和国連邦に対する戦争の開始(張鼓峰事件)
26 1939年(昭和14年)夏期中ハルヒン・ゴール河区域における蒙古人民共和国に対する戦争の(ノモンハン事件)
27 1931年(昭和6年)9・18~1945年(昭和20年)9・2中華民国に対する戦争(満洲事変)
28 1937年7・7~1945年9・2までの中華民国に対する戦争(日華事変)
29 1941年12・7~1945年9・2までのアメリカ合衆国に対する戦争
30 同右期間のフィリピンに対する戦争
31 同右期間の全英連邦に対する戦争
32 同右期間のオランダ王国に対する戦争
33 1940年9・22、フランス共和国に対する戦争
34 1941年12・7~1945年9・2までのタイ王国に対する戦争
35 1938年の夏期中ソビエト社会主義共和国連邦に対する戦争(張鼓峰事件)
36 1939年の夏期中、蒙古人民共和国連邦およびソビエト社会主義共和国連邦に対する戦争

   第二類 殺人
37 1940年~1941年12・8までのアメリカ合衆国、フィリピン国、全英連邦、オランダ王国及びタイ王国の軍隊および一般人に対する殺人
38 同右期間の同右諸国の軍隊および一般人に対する同右責任
39 1941年12・7、真珠湾で平和状態にあったアメリカ合衆国の領土と艦船、航空機に対する攻撃、実行。キッド海軍少将のほか陸海軍将兵約四千人と一般人に対する不法な殺害
40 1941年12・8、マレー半島コタバルで平和状態にあった全英連邦の領土と航空機に対する攻撃、実行。全英連邦軍将兵に対する不法な殺害
41 同右期日、香港で同右責任
42 同右期日、上海で平和状態にあった全英連邦のべトレル号に対する攻撃、実行。全英連邦海軍人三名に対する不法な殺害
43 同右期日 フィリピンのダバオで同右状況下、アメリカ合衆国軍将兵とフィリピン国軍将兵と一般人に対する不法な殺害
44 1931年9・18~1945年9・2までの捕虜の虐殺
45 1937年12・12以降の南京市攻撃により目下その氏名および員数不詳の数万の中華民国の一般人および武装を解除された軍隊に対する不法な殺害
46 1938年10・21以降の広東市攻撃による員数不詳な多数の同右人員の殺害
47 1938年10・27の前後に漢口市攻撃による員数不詳の同右人員の殺害
48 1944年6・18前後に長沙市の攻撃による員数不詳の数千の同右人員の殺害
49 1944年8・8の前後に湖南省衡陽市を攻撃、員数不詳の多数の同右人員の殺害
50 1944年11・10前後に広西省の桂林、柳州両都市の攻撃による員数不詳の多数の同右人員の殺害
51 1939年夏ハルヒン・ゴール河地域で員数不詳の蒙古およびソビエト社会主義共和国連邦軍隊若干名の殺害
52 ソビエト社会主義共和国連邦軍隊の若干名の殺害

 第三類 通例の戦争犯罪および人道に対する罪
53 1941年12・7~1945年9・2までの間、アメリカ合衆国、全英連邦、フランス共和国、オランダ王国、フィリピン国、中華民国、ポルトガル共和国、ソビエト社会主義連邦の軍隊と捕虜と一般人に対する戦争法規慣例違反
54 1941年12・7~1945年9・2までの戦争法規違反 
55 1941年12・7~1945年9・2までの訴因53にある諸国の軍隊と数万の捕虜に対する戦争法規違反
 

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東京裁判NO2 清瀬弁護士の陳述とキーナン首席検事の反論

2020年07月08日 | 国際・政治

 「東京裁判 大日本帝国の犯罪 上」朝日新聞東京裁判記者団(講談社)によると、東京裁判の罪状認否が始まる直前、清瀬一郎弁護団副団長は、
有罪、無罪の申し立ての前に、その前提となる動議があります。裁判官にたいする忌避の申し立てです」と、ウェッブ裁判長の忌避を申し立てています。
 また、「この法廷が違法である」とも指摘して、被告の厳罰を回避すべく、手を尽くしています。

 しかしながら東京裁判は、日本側のポツダム宣言受諾に基づくものである上に、キーナン主席検事をはじめとする国際検事団は、1945年(昭和20年)11月6日厚木飛行場に着いて以来、約五ヶ月にわたって関係者の尋問を進め、日本の戦争の全体像をほぼ正確につかんで裁判に臨んでおり、清瀬弁護人の抵抗が功を奏することはあまりなかったようです。
 
 清瀬弁護人は、”当裁判所においては、平和に対する罪、また人道に対する罪につき裁く権限がない”と強く主張していますが、”戦争犯罪人と称しない者の裁判をなす権限はない”というのは、ポツダム宣言を歪曲する解釈に基づくものではないかと思います。
 ポツダム宣言には、”われわれの捕虜を虐待したものを含めて、すべての戦争犯罪人に対しては断固たる正義を付与するものである”とあります。捕虜を虐待するような犯罪を犯したものはもちろん、そうした戦争犯罪者を”含めて、すべての戦争犯罪人に対して”とあることを読み飛ばしてはいけないと思います。

 また、宣言には、”日本の人民を欺きかつ誤らせ世界征服に赴かせた、全ての時期における 影響勢力及び権威・権力は永久に排除されなければならない。従ってわれわれは、世界から無責任な軍国主義が駆逐されるまでは、平和、安全、正義の新秩序は実現不可能であると主張するものである”ともあります。こうした内容のポツダム宣言に基づいた裁判である以上、戦地で戦争犯罪を犯した者のみを裁いて終わりにすることはあり得ないことだと思います。教唆者や命令者も、罪を逃れることはできないということです。
 また、戦地での戦争犯罪が、大本営などの最高統帥機関の作戦や命令と切り離せないものであったことは、日本軍関係者の証言によっても明らかであり、清瀬弁護人の主張には無理があると思います。

 さらにいえば、「平和に対する罪」の背景には、国策の手段としての戦争は違法であるという不戦条約の考え方があるのではないかと思います。確かに、日本軍指導者を裁くことのできる明文化された法や条約は存在しないかもしれませんが、キーナン首席検事が十二月の記者会見で”裁判の準拠法は文明国間に長年にわたっておこなわれた慣習法である”と明言しているのです。
 第一次世界停戦以後の世界では、「平和に対する罪」を裁く慣習法が存在していたと考えることはできるということだと思います。だから、”ニュールンベルクにおける裁判で、平和に対する罪、人道に対する罪を起訴しているからといって、それをただちに類推して極東裁判に持ってゆくということは、絶対の間違いであります”というのは、通らないのだと思います。
 今も、東京裁判における「平和に対する罪」は、事後法による裁判であり、「勝者の復讐裁判である」というような主張をする人が多いのですが、それはキーナン検事のいう”文明国間に長年にわたっておこなわれた慣習法”の無視であると思います。
 キーナン検事が取り上げているように、例えば、「ベルサイユ条約の第7編、制裁、第227条」
同盟及び連合国は国際道義に反し条約の神聖を涜したる重大の犯行につき前ドイツ皇帝「ホーヘンツォルレルン」家の維廉(ウィルヘルム)2世を訴追す
右被告審理のため特別裁判所を設置し被告に対し弁護権に必要なる保障を与う
該裁判所は5名の裁判官をもってこれを構成しアメリカ合衆国、大ブリテン国、フランス国、イタリー国及び日本国各1名の裁判官を任命す
右裁判所は国際間の約諾に基づく厳正なる義務と国際道義の厳存とを立証せむがため国際政策の最高動機の命ずるところに従い判決すべし その至当と認むる刑罰を決定するは該裁判所の義務なりとす
同盟及び連合国は審理のため前皇帝の引渡しをオランダ国に要求すべし”(国会図書館デジタルコレクション)
とあります。
 第一次世界大戦の休戦協定締結後、この世界戦争の責任はドイツ側にあるとする考え方で、連合国側は裁判を計画しました。その際、ドイツ軍のベルギー侵攻やルシタニア号事件のような軍事行動は、戦争犯罪に当たると考えられたといいます。そして、その最終責任は皇帝ヴィルヘルム2世にあるとするのが、上記「ベルサイユ条約の第7編、制裁、第227条」です。
 ドイツ海軍潜水艦の雷撃を受け、沈没した当時最大の旅客船ルシタニア号の犠牲者は1,198名で、そのうち128名はアメリカ人であったといいます。
 この戦犯裁判は、オランダ政府がヴィルヘルム2世の引き渡しに応じなかったため、実現しなかったようですが、成文法の違反とはいえないこの訴追は、「平和に対する罪」の前例とも考えられ、キーナン検事は、こうした前例も踏まえて、”裁判の準拠法は文明国間に長年にわたっておこなわれた慣習法である”と主張したのではないかと思います。ニュールンベルク裁判の平和に対する罪や人道に対する罪よる起訴も、こうした考え方が一般的になっていた証ではないかと思います。
 そして、ヴィルヘルム2世を特別法廷で裁く戦犯法廷5名の裁判官の一人が、日本人であったということも見逃すことができません。

 また、このような慣習法の考え方を進めることが歴史の進歩につながるのだと思います。そういう意味で「平和に対する罪」を受け入れないということは、平和的に戦争を回避しようとする国際社会の考え方の流れに逆らうものだと思います。 キーナン検事の”被告らは本裁判の合法性に異議を申し出ているが、その異議はすべての文明の破壊を防止するため有効な手段を講じる文明国の能力に対するあきらかな挑戦といわねばならない”という主張は、平和な国際社会を築くために重く受け止める必要があるのではないかと思います。
 下記は、「東京裁判 大日本帝国の犯罪 上」朝日新聞東京裁判記者団(講談社)から一部抜粋しました。
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                 第二章 市ヶ谷の熱い日々

                    有条件降伏
 堂々の論陣
 このような背景のもとに、五月十三日の法廷で、清瀬弁護人は正面から法廷の罪、合法性を論証しようとした。例によって、兵隊靴をガッシリと踏みしめ、小柄ながら全身に闘志をわきたぎらせ、あるときは右腕を振り、あるときは卓上の草稿をたたき、
「日本の降伏はドイツとはちがう。ポツダム宣言という条件による降伏である。この条件は連合国もまた守らなければならぬ」
とやり出したのである。 
 むろん、法廷における論争だからできたことである。弁護士だからできたことである。しかし、あの混乱のさ中における弁論の準備、論理の組立、そして誰はばからず喝破するその勇気には、廷内にいる者誰もが感銘をうけたことである。
 清瀬陳述の要旨はつぎの通りである。
「その第一は、当裁判所においては、平和に対する罪、また人道に対する罪につき裁く権限がないということであります。
 いうまでもなく、当裁判所は連合国が1945年7月26日にポツダム宣言で発した降伏勧告の宣言、その中に連合国の捕虜に対して残虐行為ををなした者を含むすべての戦争犯罪者に対しては峻厳なる裁判をおこなわるべし、という条規が根源であります。このポツダム宣言は同年9月2日に東京湾で調印された降伏文書によって確認受諾されたものであります。それゆえに、ポツダム宣言の条項はわが国を拘束するのみならず、ある意味では連合国もまたその拘束を受けるのであります。すなわちこの裁判所は、ポツダム条項で戦争犯罪人と称する者に対する起訴は受けることができますが、同条項で戦争犯罪人と称しない者の裁判をなす権限はないのであります。
 本法廷の憲章においては、平和にたいする罪ないし人道に対する罪という明文はありますけれども、連合国においてこのような罪に対する起訴をする権限がなければ、連合国から権限を委任された最高司令官は、やはりその権限はないのであります。自己の持たない権限を他人に与うること能わずという法律上の格言は、国際条約の解釈の上においてもまた同様であります。それゆえにわれわれは、ここに冷静に厳格に、ポツダム宣言で戦争犯罪人と称するものの意義、限度をきめてかからねばなりません。
 本法廷憲章の発布された一月十九日、マッカーサー元帥の特別命令の中に、連合国は随時戦争犯罪者を罰する旨を宣言したということが載っております。この宣言もやはり、わが国に対する宣言と解釈するのほかありません。
 しかしドイツに対する宣言、ヨーロッパ枢軸国に対する宣言を、日本にあてはめるわけにはゆきません。ドイツに対し、モスクワ、あるいはヤルタ、これらの会議でどう宣言されようとも、わが日本に対し、その宣言を適用するという理由は断じてありません。
 裁判長、ここが私は非常に大切なことと思います。ドイツとわが国とは、降伏の仕方がちがっている。ドイツは最後まで抵抗してヒトラーも戦死し、ゲーリングも戦列を離れ、ついに崩潰してまったく文字通りの無条件降伏をしました。
 わが国では、まだ連合軍が日本本土に上陸しない間にポツダム宣言が発せられ、その第五条には、蓮合国政府は、われわれもまたこれを守るであろうという条件で──この条件は連合軍も守るであろうということで、わが国に対して宣言を発し、わが国はこれを受諾したのであります。それゆえ、ニュールンベルクにおける裁判で、平和に対する罪、人道に対する罪を起訴しているからといって、それをただちに類推して極東裁判に持ってゆくということは、絶対の間違いであります。
 わが国では、ポツダム宣言という一つの条件付き、かりに民事法の言葉を借りれば、ひとつの申し込みについた条件があるのです。それを受諾したのですから、連合国といえども、これを守らなければなりません。連合国側では、今回の戦争の目的の一つが、国際法の尊重であるということをいっております。
 国際法の上からみて、戦争犯罪の範囲を超越するということはまさかなかろうと、われわれは固く信じておったのです。日本国民もそう信じ、その受諾を決しました。
 当時の鈴木貫太郎内閣でも、この条件の一つである戦争犯罪人の処罰というものは、世界共通の言葉、よくきまった熟語、それで罰せられるものだ、と思って受諾している。受諾してしまうと、当時とはちがう他の罪を持ち出してこれを起訴するということは、いかがなものでしょうか。
 世間では、国家の政策としての戦争、又は侵略戦争それ自身が犯罪となると極論する人もあります。しかしこれは徹底的に間違いです。不戦条約は、国の政策としての戦争はとがめて非としておりますが、これを犯罪とはいっておりません。
 終戦後、ヨーロッパからの資料を研究すると、1945年8月8日に、ロンドンの戦争犯罪会議で、戦争犯罪の意義を拡張することがきまったということです。これがすなわちニュールンベルク裁判のチャーターです。しかし、それは八月八日のこと、われわれへのデクラレーションは七月二十六日の宣言を解釈するのに、八月八日の資料をもってするというのは矛盾撞着、いやしくも法律家のすることではありません。
 この問題は、じつに大きな問題で、私は、今日の世界で、法律問題としては、この裁判所の管轄にかんする問題くらい大きな法律問題はないと思います。
 日本に対して、平和に対する罪だといって、当時の政府の要人、当時の外交官、当時の民間の指導者を被告とするということは、どういうわけでしょうか。われわれ日本人としては、じつに、重大なる疑義を持っています。
 すなわち訴因第一より、第三十六までは、これを調査する必要なく、本裁判所の権限に属さないものとして排斥されんことを請います。
 
 また、起訴状には、人道に対する罪と称して、麻薬乱用防止条約なり、議定書の違反、これを罪としてあげている。すなわち訴因第五十三、ないし五十五の戦争犯罪を除いた部分、付属文書Bがこれに当たる。
 また、その上に単純な殺人罪、戦争の開始の際または戦争攻撃中に発生した軍人または非戦闘員の生命に対する加害をも戦争犯罪としてあげている。訴因第三十七ないし五十二がすなわちこれである。これらもまた先刻言った理由により、戦争犯罪にのらないものとして、証拠調べを要せず、ただちに排斥することを要望いたします。以上が異議の第一点です」

 「タイ国との戦争はフィクションだ」
「異議の第二点を説明します。ポツダム宣言の受諾とは、七月二十六日現在に連合国とわが国との間に存在しておった戦争、われわれは当時大東亜戦争と唱えた戦争、その戦争を終了する国際上の宣言であったのです。それゆえに、その戦争犯罪とは、あの時に現に存在していた戦争、諸君の言う太平洋戦争、この戦争の戦争犯罪をいったものです。この大東亜戦争にも含まれず、すでに過去に終了してしまった戦争の戦争犯罪を思い出して起訴するということは、断じて考えられておりません。そこで、私ども、じつに不思議にたえないのは、遼寧、吉林、黒竜江、熱河における日本政府の行動を戦争犯罪としていることです。これは、あの満州事変を宣言なき戦争とみておられたのでしょうけれども、満州事変の結果、満州国ができ、満州国は多数の国々によって承認されております。
 ここにはソ連代表の裁判官もおりますが、ソ連は満州国を承認しています。東支鉄道は、ソ連から満州国に売却されました。満州国を国と見なければ、それに売却するということは起こりませんから、ソ連は満州国を承認しておるものと、われわれは解釈しております。
 そうして見れば、遼寧、吉林などに関する事件は、古き過去の歴史であります。太平洋戦争には包含されないものです。
 しかるに、本件の起訴状の訴因第二は、これ等の事件にさかのぼり、戦争犯罪があるとして訴えられているのです。
 さらに驚くべきことは、わが国と、ソ連との間にかつて起ったハーサン湖区域における事件、またハルヒン・ゴール河流域における事件、前の事件をわが国では張鼓峰事件といい、あとの事件はノモンハン事件というが、これらの事件は、1938年八月に日ソ間に停戦協定が成立しております。
 さらにハルヒン・ゴール河流域における事件も、1939年九月には協定済みです。その後、日ソ間には中立条約ができて、ロシアと日本の間は、七月二十六日には戦争状態にはなかったのです。
 以上の理由から、訴因第二十五、二十六、三十五、三十六、五十一、五十二、この訴因の排斥を求めます。
 第三点は、降伏は、戦争状態にあった国との間のことで、タイ国とわが国は同盟国であった。わが国がタイ国で戦争犯罪をしたといったようなことは、夢想もできぬ架空のことのように思うのです。かりになにかの解釈で、日本とタイ国とが戦争をしていたと仮定しても、タイ国は連合国ではない。それゆえに、わが国がタイ国に対して犯した戦争犯罪は、この裁判所で裁判すべきものではないのです。しかし訴因第四の一部分、十六、二十四、三十四では、わが国がタイ国でタイ国に対して戦争犯罪を起こしたとして、この戦争犯罪につき中央にいた被告が責任を負うべきだというのです。この訴因もまた本裁判所で裁判されるに適しない範囲外、権限外のものですから、証拠を要せずして、ただちに排斥されんことを求めます。
 以上三点につき、あらかじめ処理を願います。

「日本の降伏は無条件だ」
 この清瀬陳述に対して、当然キーナン首席検察官が立って、連合国の立場から反論を行った。
 キーナン氏は、まず、
「世界の人口の半数ないし三分の二まで占めている十一カ国が、今までの侵略戦争により多くの資源を失い、また非常な人的損失をしているが、この連合国がこの野蛮行為および略奪行為に対して責任のある者を罰することができないのだろうか。また、この十一カ国は、この侵略戦争を武力をもって終結させたのだが、彼らはこの侵略戦争の責任者をただなにもせずに、このまま放っておくことができるでしょうか」
 とやや感情的に、大上段に振りかぶった議論からはじめたが、さすがにウェッブ裁判長もそれを聞きとがめ「これらの言葉は、この際不適当」という注意をしばしばはさんだ。
 しかしキーナン氏はその語調を改めず、
「日本の降伏は無条件降伏である」
 と主張し、さらに、
「1919年ベルサイユ条約の日本をふくむ締結国は、犯罪の廉(カド)をもってドイツ皇帝ウィルヘルム二世の公判について規定した。四十八カ国によって調印された国際紛争の平和的解決についてのジュネーブの決定書には、侵略戦争は国際的犯罪を構成すると規定している。ついで1927年、国際連盟の第八回総会で満場一致で決議されている。日本はこの両方の締結国である。1928年の第六回汎米会議は、侵略戦争は人類に対する国際犯罪を構成すると規定している」
と反論、さらにモスクワ宣言、ポツダム宣言、およびカイロ宣言にも言及して、
「疑問があるならば、ポツダム宣言を読めば、その疑いはすぐに晴れるはずである」
として、一切の戦争犯罪人の処罰の中には戦争指導者の裁判もふくみ、その個人の責任を追及するのは当然である、と強調した。

「文明への挑戦」 
 検事側論告の大前提ともいえる冒頭陳述(オープニングステートメント)は、六月二十四日、キーナン首席検事によっておこなわれた。ニュールンベルク裁判のジャクソン検事の冒頭陳述に匹敵する歴史的陳述である。
 そこには、検事団の東京裁判に対する態度、国際法に対する見解、立証すべき基礎的侵略の事実、などが総括的にまとめあげられている。それは四万字に達する膨大なものであるが、大要は、つぎの通りである。
「一、被告らは文明に対し宣戦を布告した。民主主義とその本質的基礎すなわち人格の自由と尊重を破壊しようと決意し、この目的のためヒットラー一派と手を握った。そしてともに彼等は民主主義国家に対し、侵略的戦争を計画し準備しかつ開始したのである。それのみではない。被告らは進んで人間を動産および抵当物のごとくとりあつかった。これは、殺戮という百万の人々の征服および奴隷化を意味する。そういうことは彼等にはなんら重要ではなかったのである。条約、協定および補償は彼等にとってはじつに単なる言葉──紙片──でしかなかったし、アジアひいては世界の支配と統制が彼らの共同謀議の主意であったのである。
 将来の戦争はあきらかに文明の存在をおびやかす。人類の願望たる平和の問題は、今こそ十字路に達している。われわれに付与された権限をもって、このような将来の戦争を防止するため正当かつ効果的な方法を講じることがわれわれの責務だ。本審理を通じ、将来同様の侵略的好戦的活動をなすような人士の出て来るのを制止するすることがわれわれの法廷に切望するところである。
一、殺戮は正義または法律とは断じてあいいれない。百万人の生命の破壊を計画し、これを実行することもただ一人の殺害を計画し、これを実行することも、同様不法行為にほかならない。さらに国家の法律および制度を支持するからといって、それはけっして刑罰の免除の理由にならない。
一、被告らは本裁判の合法性に異議を申し出ているが、その異議はすべての文明の破壊を防止するため有効な手段を講じる文明国の能力に対するあきらかな挑戦といわねばならない。そこでわれわれがもし責務を果たしえず、世界を破壊に導くような暴力に対し終止符を打ちえなければ、この失敗はそれ自体犯罪を構成するものであろう。
一、起訴状が根拠としている法律について一言すれば、第一の犯罪は共同謀議である。
一、第二の犯罪は起訴状中の不法行為であるが、その本質的要素は侵略戦争ということにつきる。
一、共同謀議に参加した各個人は共同の計画の推進に当たり、共同謀議に参加した他のいずれの者の犯した個々の行為についてもひとしく責任がある。日本政府において権力ある地位をしめ、その権力により不法な戦争を共同謀議し計画し準備しかつ実行した被告らはその戦争から生ずるあらゆる犯罪行為に対し責任を負うべきものである。
一、このように個人が国家の首脳者として犯した不法行為につき、個人として罪を問われることは歴史上初めてのことであって真に先例をみない。しかしわれわれは文明の存在そのものにかんする厳しい現実に直面しているのである。最近の科学の発達に伴って次の戦争は必然に文明の破滅をもたらすであろう。これは理論ではなく今日では事実である。
一、国家自体は条約を破るものではなく、また公然たる侵略戦争をおこなうものではなく、責任は正に人間という機関にある。これらの被告の不法行為の結果はあらゆる犯罪の内でもっとも古い犯罪である殺人を構成し、人命の不法もしくは不当なる奪取となった。われわれが求める処罰はこのような不法行為に相応するような処罰なのである。

 

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東京裁判NO1 キーナン首席検事の記者会見と起訴状要旨

2020年07月06日 | 国際・政治

 日本が、再び野蛮な方向に向かっているように思われ、心配です。
 地上配備型の迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」の計画断念が発表されるとすぐに、攻撃を受ける前に拠点をたたく敵基地攻撃能力の保有を巡る話になりました。政府はこれを、自衛権の範囲にあって、国際法上認められないいわゆる「先制攻撃」と異なるというのですが、敵基地攻撃が許されるという”相手が武力攻撃に着手した段階”は、どのように判断するのか疑問です。あからさまに先制攻撃の準備を進める国があるとは思えません。疑心暗鬼による誤った判断の武力衝突が起きる危険が増すのではないかと思います。
 また、かつて周辺国に大変な被害をもたらした日本が、再びそんな能力を持てば、友好関係を深めることが一層難しくなり、何もいいことはないと思います。

 加えて、見逃せないのが、日本国憲法に基づく戦後の日本を否定するような最近の思想的動向です。「大東亜戦争」という戦中の名称を公然と使い、その正当性を主張するとともに、戦後の日本国憲法に基づく考え方を「GHQ史観」とか「東京裁判史観」と称して批判する人たちが、活発に動いています。東京裁判関係の書籍も、その多くが、「こうして日本は侵略国にされた」とか、「さらば東京裁判史観 何が日本人の歴史観を歪めたのか」とか、「汚辱の近現代史 いま、克服のとき」というようなものが多数をしめるようになり、歴史の歯車が逆回転を始めているように思います。
 かつて航空自衛隊第29代航空幕僚長であった田母神俊雄氏は、「日本をまもる会・大東亜聖戦大碑護持会」会長だそうですが、ブログに 
安倍総理が日本を取り戻すと言って総理になった。それでは日本を取り戻すとはどういうことなのか。多分多くの国民は、再び強い経済力を持った日本を造ると受け止めているのではないか。しかし日本を取り戻すとはそれだけではない。もちろん強い経済力を持った日本を目指すが、併せて戦前の日本を取り戻すことではないかと思う。それが戦後レジームからの脱却である。・・・
 と書いています。間違いではないと思います。

 確かに、いわゆる「東京裁判」(極東国際軍事裁判)にはいろいろな問題があったと思います。でも、「日本国憲法」に基づいてスタートした戦後の日本が否定されてはならないと、私は思います。

 下記は、「東京裁判 大日本帝極東国際軍事裁判国の犯罪 上」朝日新聞東京裁判記者団(講談社)から一部抜粋しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
           第一章 敗戦から「裁かれる日」まで

                国際検事団の動き
 敏腕・キーナン検事の登場
 日本の国際戦争犯罪人の処罰ということはポツダム宣言の中で規定されている。したがって日本がこのポツダム宣言を受諾し、降伏したときから日本は国際戦争犯罪人の連合国による裁判、処罰を認めたわけである。
 終戦になって米軍が進駐を開始し、連合軍司令部が東京に設けられるとまもなく、戦争犯罪容疑者の拘引が始まった。この逮捕令を出したのは、連合軍総司令部法律部である。
 進駐以来、二、三ヶ月の間に百名以上にのぼる国際戦犯容疑者が逮捕されたが、日本のほんとの戦争責任者を見つけ出すのは日本国民でも相当困難に思える時期であった。
 こういう情勢のところに国際検事団首席検事に任命されたジョセフ・B・キーナン米検事が検事その他三十八名の部下をひきつれて、1945年(昭和20年)11月6日厚木飛行場着、東京にのりこんで来た。
 主な顔ぶれは主席補佐としてッジョン・ダルシ検事、その他ハンマック、ヒッギンス、ハイダー、モロー(陸軍大佐)、サケットら各検事であった。キーナン首席検事は新聞記者団との初会見で「戦争犯罪人の追及は日華事変の1937年(昭和12年)7月までさかのぼってやる。現在逮捕されている人が必ずしもすべて有罪というわけではない。逮捕にはそれ相応の理由がある。しかし慎重に事実を調べた上、釈放される人も出てくるだろう。裁判は公明正大にやる」と語った 
 キーナン首席検事は米検事総長補という要職にあった人。刑事事件の摘発にその手腕をうたわれたほか、政治的には故ルーズベルト大統領の信任が厚かった。その関係でトルーマン大統領とも関係が深いと言われている。
 キーナン首席検事一行は、旧明治ビルにその本拠を構え、検察に必要な一切の陣容を整備し、一方では総司令部法律部および諜報部の協力をえて、ただちに本格的な活動を開始した。
 一行の各検事の分担、たとえば日本の戦争準備、満州事変、日華事変、太平洋戦争などの受け持ちが決まり、巣鴨にいる容疑者の尋問はもちろん、日本の各界各層の尋問が始まった。キーナン検事は国際検事団の首席検事であり、明治ビルの本拠は国際検事局(I・P・S)と呼ばれるが、実際は米検事団によって代表された。国際検事団の活躍はつまり米検事団の活躍ということである。
 キーナン首席検事は十二月二十二日、あらためて日本記者団と会見し、こう語った。
「私は日本の侵略戦争を計画し助長し、その結果世界に大きな破壊をもたらした日本の主な指導者を裁判する。しかし征服者が被征服者に征服者の意思を強制するようなことは毛頭考えていない。裁判はあくまでも公平に正義にもとづいてやる。将来ふたたび今日のようなことが起こらないようにするのが目的である。裁判の準拠法は文明国間に長年にわたっておこなわれた慣習法である。私はマ元帥に任命された。マッカーサー元帥が連合国総司令官たる以上、私もまた連合国を代表する」

 大きな手がかり・木戸日記
 年が明けて二十一年一月になると国際検事局の陣容は、一層強化された。東條大将らの尋問は連日のように巣鴨でおこなわれ、国際検事局はのち、市ヶ谷の旧陸軍省、極東軍事裁判所に移ったが、ここには、岡田大将、米内大将、若槻男爵、宇垣大将ら大物をはじめあらゆる要人から官僚の下っ端、街の人までが姿を見せた。喚問された人士は起訴状が出るまでに百数十名はくだるまいとみられ、その調書も多大なものになった。
 この喚問は五ヶ月にわたった。その間、日本の戦争責任、国際戦争犯罪の実体はどこにあるかということが明確に、検事団の手に把握された。この検事団の検察に大きな助けになったものの一つに木戸日記がある。
 ・・・

 裁判憲章の公布
 これら第一級戦犯者を裁くチャーターは、一月十九日マッカーサー元帥の名でマ総司令部一般命令として公布されたが四月二十六日改正された。
 極東軍事裁判所──「極東」の名は、これが世界的観点に立っていることを強く印象づける点で、きわめて効果的だが、あくまで「軍事裁判」であることを示しているのは重要である。
 チャーターの第一章は、裁判の構成を定め、第二章は管轄および一般規定をおき、第三章に被告人に対する審理、第四章に裁判所の権限および審理の執行を定め、第五章に有罪、無罪の判決と刑の宣告を定めている。ようするに、あらゆる国際法、自然法、一般条約の基礎に立って、この裁判に付せられる犯罪がどのようなものかの実体法を規定し、さらに、この裁判の進行について公平と迅速を期するための手続法を合わせたものである。
 ・・・
 裁判管轄──この裁判所の扱う犯罪は㋑平和に対する罪──侵略戦争の計画、準備、開始、実行またはそのいずれかの共同謀議の罪。㋺戦争法規または慣例に違反した罪。㋩人道に対する罪(戦前・戦中の殺戮、殲滅、奴隷的虐使 追放その他非人道的行為)の三つである。そして、この三つの犯罪のいずれかを犯そうとする、共通の計画、または共同謀議の立案または実行に参加した指導者、組織者、教唆者と共犯者は、この遂行上おこなわれた一切の行為について、それが何人がなしたかを問わず、責任があるとしている。
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 公正な裁判のために第三章で、起訴状を平易にして被告に渡すこと、日本語の使用を公認すること、弁護士を自由に選択できること、弁護士なしでは裁判はすすめられないこと、証人を尋問し、証拠の申請をするなどの被告の権利も認めた。
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 二十八被告を起訴
 起訴状は四月二十九日、終戦後初めて迎える天長節に公表された。起訴された者は、
 荒木貞夫、土肥原賢二、橋本欣五郎、畑俊六、平沼騏一郎、広田弘毅、星野直樹、板垣征四郎、
 賀屋興宣、木戸幸一、木村兵太郎、小磯国昭、松井石根、松岡洋右、南次郎、武藤章、永野修身、   
 岡敬純、大川周明、大島浩、佐藤賢了、重光葵、島田繁太郎、白鳥敏夫、鈴木貞一、東郷茂徳、
 東條英機、梅津美治郎
 の二十八名。
 原告はアメリカ、中国、イギリス、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランド、インド、フィリピン、の十一カ国である。
 起訴状全文は非常に長文なので、その要旨を掲げるにとどめるが、まず基礎理由は、

「一、1928年(昭和3年)一月一日から1945年(昭和20年)までの間、日本の対内、対外政策は犯罪的軍閥によって支配され、また指導された。
 (イ)対内政策。日本国民に組織的な民族的優越性の思想を餓えつけ、政治的には日本の議会制度にナチ党あるいはフィシスト党と同様の組織を導入し、これを侵略の道具化した。また経済的には、日本の資源の大部分を戦争目的に動員した。また政治に対する陸海軍の威令と制圧を強化し、翼賛会を創設、国家主義的膨張政策を教え、新聞ラジオに厳格な統制を加えて国民の世論を精神的に侵略戦争に備えさせた。
 (ロ)対外政策。ナチ・ドイツならびにファシスト・イタリアの統治者の参加をえて、侵略国家による世界の支配と搾取獲得のための共同謀議をし、平和諸国家に対し国際法、条約に違背して侵略戦争を計画し、準備し開始しかつこれを実行した。
一、こうして世界的紛争と、侵略戦争を起こし、他方捕虜虐待等の戦時法規違反および一般民衆に対する残虐行為をあえてした」

 となっている。被告らは、このような犯罪的軍閥それ自身であるか、またはそれらとの共同謀議者ということになる。しかも被告ら個人の責任については、検事側は、

「国際法の侵犯は戦争法規に対し、実際に特定の違反行為をおこなった下級者のみでなく、その決定によってこのような行為を起こした上級者にも個人的な責任のかかる犯罪だとみなそうとするものである。また法的に正当な理由なくして人を殺すことは殺人罪であると主張する。合法的な交戦状態は正当な理由となるであろうが、日本の交戦状態は侵略禁止の諸条約をおかしかつ宣戦布告なくしてなされたものだから非合法とみなしている」

 とキーナン検事は同日の声明書であきらかにした。
 そこで起訴状では犯罪を第一類、平和に対する罪。 第二類、殺人。第三類、通例の戦争犯罪および人道に対する罪の三類に分け、訴因として五十五項目をあげ、付属書ASWこれらの訴因を正当づける主要な事実を十節にわたって列記、また付属書B、CおよびDで日本が侵犯した条約の主要なもの、さらに日本が違反した公式の保証また戦争法規を列挙、付属書Eで、三類にわたる犯罪で対する個人的責任を被告の略歴によって摘発した。ニ十八名の被告らは、犯罪的軍閥ないしその共犯者として罪があるばかりでなく、戦争にともなう殺人また陸戦法規の違反について、個人的にも罪があるということになっている。これが起訴状の眼目である。
 
 「罪はあまりに深い」
 ウェッブ裁判長の開廷の辞。ひどく柔らかい語調でたんたんと進む。
「本日ここに集合するに先たち、当裁判所の各判事は法により、なにものをも恐れず、公正、かつ外より影響されることなく裁きをくだすことを誓った共同宣誓書に署名した。われわれは責任がいかに重大であるかを十分認識している。
 今回起訴され当法廷に出頭している各被告は、過去十余年の間、日本の国運隆々としていた当時、指導的立場をしめていたものばかり、元首相、外相、蔵相、参謀総長、その他の日本政府部内の最高の地位にあった人びとがふくまれている。起訴されている罪状は世界平和に対し、戦争法規に対し、人道に対しあるいはこれらの罪を犯すべく陰謀したことに対する罪等である。 
 これらの罪はあまりりにも深い。これを裁くのに適する法廷は国際的性格をもった軍事法廷、すなわち日本を破った各連合国代表をもって構成する裁判所にすればよかろうということになった。被告たちは従来、いかに重要な地位にあったにしても、それがためにうける待遇はもっとも貧しい一日本人兵卒とかわりはない。しかし、訴追された罪状の数および性質により、本法廷は提出された証拠物件、適用できる法令について、もっとも慎重な審理をおこなうことを被告に約束する。
 この重大な職責を遂行するに当たって、われわれ一同白紙の態度をもって真実と法の命じるところにぶつかっていく。犯罪事実に一点疑問の余地なく、これを立証することは検察当局の責任である。本裁判所は公正迅速な裁判ができるが、二か国語を使用しなければならない関係で、裁判が長引くことは避けがたい。
 われわれは近く検事団および弁護団の出廷を求めて、実際の論争を必要としない書類や事実はこれをただちに是認するように申し合わせ、これによって訴訟手続きを短縮したいと思う」

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