真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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日本軍の南京空襲

2014年12月29日 | 国際・政治

 確定の難しい虐殺人数を別にすれば、国際的に、はほぼ議論の余地のない「南京大虐殺」が「日本を悪にしたい」中国やアメリカが仕組んだ「でっちあげ」だった、というような主張がネットに溢れ、日本国内でくり返されている。その中には、「虐殺を命令した命令書も、実行に当たったものも、それを裏付ける史料も、なにひとつ存在していないという」などと、日本の若者を惑わすようなものもある。歴史を偽って溝を深めるような、そんな動きを何とかしたいと思う。南京事件に関しては、日中以外の国にも多くの資料があるのである。下記は、「南京事件資料集」南京事件調査研究会編・訳(青木書店)から、南京大虐殺を暗示するような強引な南京空襲に関わる資料のごく一部を抜粋したものである。

 北京(北平)西南方向の盧溝橋で日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件・盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)が起きたのは、1937年(昭和12年)7月7日である。驚くのは、その翌月に、勅命に基づいて、軍令部総長から長谷川第三艦隊司令長官に「上海確保ニ関スル第三艦隊ヘノ指示」が発せられ、昭和12年8月14日午後7時には、長谷川第三艦隊司令長官が南京等空襲命令を発していることである。
 その「第三艦隊機密第607番電」には、

一、明朝黎明以後成ルヘク速ニ当方面ニ於テ使用得ル全航空兵力ヲ挙ゲテ敵空軍ヲ急襲ス。
二 攻撃目標
 第二空襲部隊               南京・廣徳・蘇州
 第三空襲部隊               南昌(臺北部隊)
 第四空襲部隊(第12戦隊・第22航空隊) 杭州            
 第8戦隊・第10戦隊・第1水雷戦隊航空機 虹橋

 とある。そして、1937年8月15日には、日本本土から海を越えた攻撃、「渡洋爆撃」が敢行されているのである。それは、7月12日軍令部策定の「作戦指導方針」・「時局局限の方針に則り差当り平津地域に陸軍兵力を進出迅速に第二十九軍の膺懲の目的を達す」という内容を「第三艦隊司令長官ノ意見具申」に沿う形で変更し、「支那第二十九軍ノ膺懲ナル第1目的ヲ削除シ、支那膺懲ナル第2目的ヲ作戦ノ単一目的トシ」た結果であった。
 あっという間の戦線の拡大である。それも、日本側の外交交渉軽視による戦線の拡大だったのではないかと思う。当初の「第二十九軍ノ膺懲」が、なぜ「支那膺懲」になるのかも考えさせられるのである。

 資料1は、そうした日本の爆撃に対する在南京五ヶ国外交代表による停止要求であるが、その中に、

”…いかなる国の政治的首都、とりわけ戦争状態にない国の首都に対する爆撃に対して、人間性と国際的礼譲についての配慮を必要とするような抑制について日本側当局に適当な配慮を促すべきである”

というような重要な指摘がなされていることを見逃すことができない。

 資料2は、日本側が「軍事目的物以外には爆撃するつもりはない」といいながら、「日本軍の爆撃作戦は南京だけでなく、広州、漢口でも、その他の中国の都市において、非戦闘員を殺害する結果をもたらしていて、そのことはアメリカおよび他の国に、最も遺憾な印象をうみださざるをえないという事実は残る」との、ワシントンと南京アメリカ大使館のやりとりが示すような実態であった。

 資料3は「都市爆撃に対する国際連盟の対日非難決議」であるが、「無防備都市の空中爆撃」と表現されていること、また「全会一致で採択」されたことを忘れてはならないと思う。

 資料4は、爆撃の危険を感じて、あらゆるルートを通じて国際法遵守を懸命に働きかけ、努力したにもかかわらず、日本軍爆撃機によって撃沈された米国アジア艦隊揚子江警備船「パナイ号」からの電報である。

 資料5は、日本軍が外国船をも見境なく爆撃していたと考えざるを得ない、英国砲艦クリケット号とスカラブ号爆撃に関するやりとりである。
 これらは、いずれも東京裁判以前の文書であり、でっち上げなどできる文書ではないことは明らかだと思う。日本の戦争がどういうものであったのか、これらごく一部の資料からも窺えるのであり、直視する必要があるのではなかと思うのである。
 
資1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
      1D<在南京五ヶ国外交代表による爆撃行為の停止要求>
                               1937年8月29日

1、8月29日の午前中、ドイツ、イギリス、フランス、イタリアの外交代表から、私が東京のアメリカ大使へ以下のことを電報し、我々にかわって行動して欲しいという要請を在京の各国代表に伝えるよう求めてきた。 

2、在南京の五ヶ国の外交代表は、日本に対し、爆撃にさいしては、市中のおけるこれらの国民の居留区域や船舶停泊地は避けるようにすでに申し入れた。彼らはしかし別の側面からも同様な配慮が必要だと考えている。たとえば、8月26日夜、南京市の地域に行われた大規模
な爆撃は、明らかに非戦闘員である外国人および中国人の生命や財産に対する危険を無視したものであった。それにともない、当外交代表は、いかなる国の政治的首都、とりわけ戦争状態にない国の首都に対する爆撃に対して、人間性と国際的礼譲についての配慮を必要とするような抑制について日本側当局に適当な配慮を促すべきである。

 ちょうど指定した限定区域の安全を保障して欲しいという早期の申し入れを行った直前と直後に南京市が爆撃を受け、広い地域の建物が被害を受け、国立中央大学の職員が殺された。さらに平和な生活をいとなんでいた中国人の貧民街の一角を炎上させ、さらに多数の焼死者を出した。
 こうした破壊と殺戮の現場は、外交官が直接行って見たものである。上記の外交代表の政府および国民は、日本と同様に中国とも友好関係にある。
 自分たちの公務を妨害を受けることなく遂行できる疑う余地のない権利、通常の人間の諸権利、およびこれらの友好関係にかんがみて、五ヶ国代表は爆撃行為の停止を要求する。爆撃は、かかげられた軍事目標にもかかわらず、現実的には教育や財産の無差別の破壊、および
民間人の死傷、苦痛に満ちた死につながる。

資2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
       4D 南京の爆撃について
          ──日本大使館参事官の国務省訪問

           海軍電報
           発信:ワシントン
           受信:南京 1937年9月28日午後7時30分
           グレイ電
           南京アメリカ大使館宛
           第269電 9月27日午後7時
 9月25日に日本大使館の参事官が他の用件で国務省の係官を訪れた際、むこうから進んで、南京爆撃のもくろみに関する日本海軍司令長官(在上海)の通告に言及した。その参事官がいうことには、「日本の海軍および陸軍当局は、軍事目的物以外には爆撃するつもりはない」とのことだった。

 これに対して、当方から次のようなコメントを行った。
「我々は日本政府から、その種の保証をを何度も受け取っているが、実際には、日本軍の爆撃作戦は南京だけでなく、広州、漢口でも、その他の中国の都市において、非戦闘員を殺害する結果をもたらしていて、そのことはアメリカおよび他の国に、最も遺憾な印象をうみださざるをえないという事実は残る。」
 
 いっぽう、参事官は「いうまでもなく、南京には城壁の内外に、多数の中国軍要塞や兵団があるからである」と言った。これに対して、「その場合でも、南京には性格上非軍事的な区域が広大にあり、日本軍の空襲は、そうした区域の非戦闘員を殺害している」と、さらにコメントを与えた。そしてもう一度、「非戦闘員に対する爆撃の事実は、遺憾であり、最も不幸な印象をもたらしている」と警告を繰り返した。
                                     ハル(Cordell Hull)
資3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
       6 都市爆撃に対する国際連盟の対日非難決議
           (国際連盟・日中問題諮問委員会で採択された対日非難決議案を、
            1937年9月28日の国際連盟総会において全会一致で採択)
 諮問委員会は、日本航空機に依る支那に於ける無防備都市の空中爆撃の問題を緊急考慮し、かかる爆撃の結果として多数の子女を含む無辜の人民に与えられたる生命の損害に対し深甚なる弔意を表し、世界を通じて恐怖と義憤との念を生ぜしめたるかかる行動に対しては何ら弁明の余地なきことを宣言し、ここに右行動を厳粛に非難す。
・本資料に限り、外務省編纂『日本外交年表並主要文書  下』(1955年)、370ページから引用した。
資4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
       9D <日本軍へパナイ号の位置を報せたし>
              MEO    平文電報   
              発信:南京 海軍無線局経由
              受信:1937年12月12日午前4時00分
  ワシントン国務長官宛
  第1040号、12月12日午前7時(電文からすると午前9時以降になるはず、誤記か─訳者)
  大使館電報第1035号(12月11日午後5時発信)参照
 1、本日午前9時の砲火のため、パナイ号はさらに上流への移動を余儀なくされ、同艦は現在、南京上流27マイル、呉淞から上流221マイル地点に投錨している。付近にはスタンダード石油会社のタンカー美平(メイピン)、美安(メイアン)、美峡(メイシア)号も投錨している。
 
 2、当大使館からとして、どうか日本の大使館に対してパナイ号とアメリカ商船の現在位置を知らせ、日本部隊に適切な訓令がでるように要請してほしい。飛行機および本艦の直面するかもしれない状況のため、パナイ号はふたたび上流へ移動せざるをえなくなるだろう。しかし、南京に残っているアメリカ人との連絡を回復するため、また当大使館が早急に地上での業務を回復するために、パナイ号はできるだけ早く下流へ、あるいは南京へ戻ることを考えている。

 アメリカ大使館は、関係当局すべてがこの計画を促進するために適切な措置を講じてくれることを望んでいると述べてほしい。

 3、上海へ送信、漢口、北平は在東京大使館が日本の外務省へ伝達するようにとの要請を付して東京へ転電してほしい。
                                   大使に代わって   アチソン
資料5ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
       10D <クリケット号とスカラブ号爆撃される>

              発信:揚子江警備隊司令官
              受信:1937年12月12日午後5時54分

  sms…本電報は他に伝達する前に言い方を変えよ。
  作戦:CINCAF(中国駐留米軍総司令官)
 第0013号、護衛船をともなった英国砲艦クリケット号とスカラブ号は、南京上流12マイルの地点で午後3回にわたって空襲される。18発の爆弾が落とされる。1発が商船に命中したほかは命中弾なし。2隻の砲艦とも攻撃してくる飛行機に対して発砲した。2112。   

            
   
 


 

 

 

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松井石根 東京裁判 「権限への逃避」

2014年12月23日 | 国際・政治

 『「文明の裁きを」こえて 対日戦犯裁判読解の試み』牛村圭(中公叢書)に、東京裁判における松井石根に対する検察側の追及や代理裁判長の質問、およびそれらに対する松井の答弁の一部が引用されていた。下記である。

 私は、これを読んで正直驚いた。特に、すぐれた中国通として知られ、中支那方面軍司令官であった松井が「各軍隊の将兵の軍紀、風紀の直接責任者は、私ではないということを申したにすぎません」といい、「南京を攻略するに際して起こったすべての事件」の直接的責任は「師団長にあるのであります」といっていることを知ったからである。

 また同書の著者が 丸山眞男の「現代政治の思想と行動」(未来社)から

”第一線の司令官としての行動に付いてもまた『法規』と『権能』が防塞とされるのである」(軍118)と記し、さらに、「自己にとつて不利な状況の時は何時でも法規に規定された厳密な職務権限に従って行動する専門官吏(Fachbeamte)になりすますことが出来るのである。〔軍120〕”

と言う文章を引いて、丸山が、この松井の答弁を”「権限への逃避」の好例だ”と主張していることを批判している。”はたして松井石根は自ら責任を取るという心境になれないまま専ら責任回避に終始したのだろうか”というのである。

 そして、松井が自ら「責任を回避せず」と明言している箇所を丸山が「中略」としたことはきわめて問題であるという。松井が、人の依頼に応じて揮毫する文字は常に「捨生取義殺身成仁」や「殺身為仁俯仰不愧天地」であり、自分は国家のために死ぬことや部下の身代わりになって死ぬことを少しも恐れてはいなかったという関係者の記述を引いている。

 また、東京裁判における

中支那方面軍司令官の職務は、上海派遣軍と第十軍の両軍の作戦を統一指揮することに限られていた。なお、日本陸軍においては、将兵の軍紀・風紀の維持粛正の権限職務は師団長にある。その証拠に、これ迄将兵の不法行為を理由に問責された方面軍司令官はもちろん軍司令官もいない。従って、中支那方面軍司令官であった松井には法律上の責任はない。

という弁護側の主張を評価しているが、裁判でその弁護側主張を押し通すことができなかったのは、松井自身による「責任は回避せず」という意味の、下記の

当時の方面軍司令官たる私は、両軍の作戦を統一指揮するべき職権は与えられておるのであります。従つて各部隊の軍紀、風紀を維持することについては、作戦上全然関係がないとは申されませんから、自然私がそれに容喙する権利はあるとは思いますけれども、法律上私が軍紀、風紀の維持について具体的に各部隊に命令する権限はなかつたものと私は当時考え、今もそれを主張するのであります

という証言であったというわけである。にもかかわらず、丸山は松井の「責任は回避せず」という発言部分を故意に引用から省くという形で無視したと批判している。

 そして、松井は南京攻略時の最高指揮官として「道義上の責任」は回避しないが「法律上の責任」は直接の指揮官である師団長が負うべきものだと主張しているのであり、責任回避はしていないというのである。さらに、

”…松井石根が「自らの道義上の責任は回避せず」と言明している箇所に対し、松井の人格を歪曲する削除を加えたのち、これは「権限への逃避」でありこのように日本の旧指導者たちは「矮小」だったのだ、と丸山は指摘する。だが、速記録というテクストを虚心坦懐に読解して、そこに道義上の責任は決して回避せぬが日本陸軍の法規ではこうなっている、と説明している、覚悟を決めた老将軍の姿を認める方が、はるかに自然な解釈に思える。松井石根被告への言及に際して丸山は、引用資料に決定的削除を加え、予断と先入観を、恣意的と呼んでよい論証法を用いて押し通そうとした。このような論法につき、丸山は「道義上の責任」を感じてしかるべきだろう。

とまで言っている。果たしてそうか。同書の著者のこの丸山批判に、私はとても違和感を感じた。丸山が”中略”としたのは赤字部分であるが、私には著者のいうような意味で、丸山が松井の「責任は回避せず」の部分を意図的に削除したとは思えない。丸山は「日本ファシズムの矮小性」を論じるにあたって、松井にも「権限への逃避」の証言があることを取り上げたのであり、松井個人の責任の取り方をテーマとして論じているのではないと考える。
 丸山の「軍国支配者の精神形態」には、

東京裁判の戦犯たちがほぼ共通に自己の無責任を主張する第二の論拠は、訴追されている事項が官制上の形式的権限の範囲には属さないということであった。弁護側の申し立てはこの点で実に見事に歩調を揃えていた”

とある。こういう問題意識で松井の証言を引いたのであり、”中略”とした部分は、ここでは、丸山の論証の外にあると考えるのである。
 丸山は「日本ファシズムの矮小性」で、「既成事実への屈服」と「権限への逃避」について論じているが、それは、戦犯の自己弁解をえり分けていくと、その二つに行きつくというのであり、同書の著者のいう「道義上の責任」などは、丸山にとって論外なのではないか、と思う。

 そう言う意味で、同書の著者の批判に対して、丸山の下記の記述が心に残った。 

この問答をよく読むと、まるで検察官の属する国よりも、松井の祖国の方がヨリ近代的な「法のルール」(ルール・オブ・ロウ)が行われていたかのような錯覚が起つてくる。あの「上官の命は即ち朕が命なりと心得よ」という勅諭を ultima ratio とした「皇軍」の現地総司令官が、ここでは苟も法規を犯さざらんと兢々とし、直接権限外のことは部下に対しても希望を表明するにとどまる小心な属吏に変貌しているのである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
              第2章 責任は回避せず──松井石根と南京事件

松井大将の「権限への逃避」

 「法廷が休憩となって退廷するときの彼は、病鶏がトヤにかえるように、飄々、そうろうとしてドアーの中に消える」と朝日新聞法廷記者に描かれ、裁判を傍聴したGHQ外交局長ウィイリアム・J・シーボルトが「枯木のようにひからびて」いると形容した松井石根は、老齢に加えて病弱のため法廷を欠席することがしばしばあった。個人反証段階でも病気ににより出廷が遅れ、証言台に立ったのは昭和22(1947)年11月24日である。担当弁護人マクマナスによる型通りの宣誓口述書朗読ののち、ノーラン検察官の反対訊問を受けた。この反対訊問の一部を丸山眞男は以下のように引用している。(丸山眞男が「中略」として省略した部分は赤字)

 ・・・

責任は回避せず
 
 そこで一つの疑問が浮かぶ。はたして松井石根は丸山眞男が引用部分で紹介する姿を反対訊問の際とり続けたか、換言すれば自ら責任をとる、という心境になれないまま専ら責任回避に終始したのだろうか、という疑問である。そこで速記録の該当個所にあたってみると、松井が自ら「責任は回避せず」と明言している箇所があった。しかもその箇所は、丸山の前記引用の中では「(中略)」とされた部分なのである。以下該当箇所を引用してみることとしたい。

ノーラン検察官
 ちょっと前に、あなたは軍紀、風紀はあなたの部下の司令官の責任であるというようなことを言いましたね。

松井証人
 師団長の責任です。

 

ノーラン
  検察官 あなたは中支方面軍の司令官であったのではありませんか。

 

松井証人
 方面軍の司令官でありました。

 

ノーラン検察官
 そういたしますと、あなたはそれではその中支方面軍司令官の職というものは、あなたの麾下の部隊の軍紀、風紀の維持に対するところの権限を含んでいなかったということを言わんとしているのですか。

 

松井証人
 私は方面軍司令官として部下の各軍の作戦指揮権を与えられておりますけれども、その各軍の内部の軍隊の軍紀、風紀を直接監督する責任はもっておりませんでした。

 

ノーラン検察官
  しかしあなたの麾下の部隊において、軍紀、風紀が維持されるように監督するという権限はあつたのですね。

 

松井証人
 権限というよりも、むしろ義務というた方が正しいと思います。

 

ノーラン検察官
 それがとりもなおさず、南京入城後、あなたの部下の将校を参集せしめて、そうして軍紀、風紀の問題について、彼らに訓示した理由なのですね。 

 

松井証人
 さようです。

 

ノーラン検察官
 しかし、あなたはまさかあなたの当時占めておりましたところの司令官という 職務そのものの中に、軍紀、風紀を維持するところの権限が含まれてはいなかったと言おうとしているのではありますまいね。

 

松井証人
 私は方面軍の司令官として、部下を率いて南京を攻略するに際して起こったすべての事件に対して、責任を回避するものではありませんけれども、しかし各軍隊の将兵の軍紀、風紀の直接責任者は、私ではないということを申したにすぎません。

 

ノーラン検察官
 というのは、あなたの指揮する軍隊の中に軍司令官もあつたからというのですね。そうしてあなたはこれらの軍司令官を通じて軍紀・風紀に関するところの諸施策を行ったのですね。懲罰を行つたわけですね。

 

松井証人
 私自身、これを懲罰もしくは裁判する権利はないのであります。それは、軍司令官、師団長にあるのであります。

 

ノーラン検察官
 しかしあなたは、軍あるいは師団において軍法会議を開催することを命令することは、できたのですね。

 

松井証人
 命令すべき法規上の権利はありません。

 

ノーラン検察官
 それでは、あなたが南京において行われた暴行に対して厳罰をもつて報ゆるということを欲した、このため非常に努力したということを、どういうふうに説明しますか。そうしてさらに中支方面軍の司令官として罪を犯した者に──有罪な者には厳罰を与えるということを実現するために、あらゆる努力をした。こういうことをどういうふうに説明しますか。

 

松井証人
 全般の指揮官として、部下の軍司令官、師団長にそれぞれ希望するよりほかに、権限はありません。

 

ノーラン検察官
 しかし、軍を指揮するところの将官が、部下にその希望を表明する場合は、命令の形式をもって行うものと私は考えます
が……

 

松井証人
 その点は法規上かなり困難な問題であります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 ・・・
 なお引用の冒頭でノーラン検察官が「ちょっと前に、あなたは……言いましたね」と指摘しているのは、松井が実際にこの訊問の少し前の箇所で次のように発言したことを指している。

松井証人
 元来軍紀、風紀の維持は師団長が最も重要な責任者であり、軍司令官はまたその上に これを監督して、みずからもつておる軍法会議によつて、それぞれ処分をするのであります。私はその上の……私の方面軍司令官は、そういう法律機関ももつて おりませず、憲兵隊のような検察に当たる人間ももつておりませんから、直接私に報告をしたということはないのでありますが、事実を私の参考のために通報し たというふうに、むしろ解釈した方が正しいと思います。〔320・14〕

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
      運命の答弁

 翌11月25日にも、松井への反対訊問が続行された。当日劈頭、クレーマー代理裁判長(ウェッブ裁判長はオーストラリアへ一時帰国中)より、前日の訊問への補足質問があった。この補足質問は、松井の「責任論」を考察する上で決定的な重要性を持つものと思われる。

代理裁判
 あなたは〔ノーラン検察官〕が質問を継続されます前に、判事の一人として私より質問があります。証人、もしあなたが軍紀を維持することに関して命令を与える権限がなかつたというならば、このあなたの宣誓口供書の第9ページにあるところ のことを説明してください。第9ページの一番最後のところを私が詠みます。「17日、南京入城後初めて憲兵隊長よりこれを聴き、各部隊に命じて即時厳格な る調査と処罰なさしめたり」そこに書いてある条(クダリ)をどういうふうに説明しますか、証人。

 

松井証人
 部下の軍司令官及び各部隊長を集めて、軍紀、風紀を維持すべきを私の希望を伝えて、それに適当なる手段をとることを命令したのであります。

 

代理裁判長
 しかし私は、証人、あなたが昨日、証人自身としては命令を与える権限はなかつたと証言したように記憶しておりますが。

 

松井証人
 当時の方面軍司令官たる私は、両軍の作戦を統一指揮するべき職権は与えられておるのであります。従つて各部隊の軍紀、風紀を維持することについては、作戦上全然関係がないとは申されませんから、自然私がそれに容喙する権利はあるとは 思いますけれども、法律上私が軍紀、風紀の維持ついて具体的に各部隊に命令する権限はなかつたものと私は当時考え、今もそれを主張するのであります。 〔321・1〕

 クレーマー代理裁判長は問う、松井が主張するように方面軍司令官に軍紀・風紀の維持に関する命令を下す権限がないならば、その宣誓口供書に記された、非行風聞を耳にして各部隊に即時厳格なる調査と処罰を命令したという事実と矛盾するのではないか、と。対する松井は、軍紀・風紀の維持は作戦と無関係ではないからそれに「容喙」した──そういった命令を出した──と答えた。この日終了した松井への反対訊問を重光はこう記した。

 法廷、松井部門は無事済んだ。松井の態度も検事ノーラン加奈陀(カナダ)代将の態度も好かつた。支那側は松井に寛大であつた。〔巣鴨303〕

 重光は「無事済んだ」と書いた。しかし実際のところの代理裁判長との問答こそ、法廷における松井にとつて決定的失点となったのであり、運命の答弁だった。

 論を進める前に、ここまでの引用箇所での松井の主張を整理しておきたい。方面軍司令官には配下の各軍(松井の場合は上海派遣軍と第十軍)を作戦指導する権限が与えられているものの、各軍内部の軍隊──つまり各師団──の軍紀・風紀を直接監督する権限はない。南京で起きたとされる事に対して責任回避はしないが、軍紀・風紀違反者を処分しようとする際には、方面軍司令官としては部下の軍司令官・師団長に希望する以外にない。松井にあったのは、風紀が維持されるように監督する義務のみだった。従ってこの軍紀・風紀の問題に関しての方面軍司令官の法規上の責任について論じることは、むずかしいと言える。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 OCNブログ人がサービスを終了するとのことなので、2014年10月12日、こちらに引っ越しました”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。「・・・」や「…」は省略を意味します。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:ブログ人アクセス503801)






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ラーベの日記 1938年1月26日 南京事件

2014年12月09日 | 国際・政治

 下記は、『南京の真実 The Diary of John Rabe』ジョン・ラーベ著 エルヴィン・ヴィッケルト編/平野卿子訳(講談社)から、1938年1月26日の記述を抜粋したものである。

 ラーベの日記からの抜粋1回目、12月16日では、「武装解除した中国人兵士がまだ数百人、安全区から連れ出され、銃殺されたという。そのうち、50人は安全区の警察官だった。兵士を安全区に入れたというかどで処刑されたという」というような日本軍による国際法無視の処刑を、また、抜粋2回目の12月17日では「昨晩は千人も暴行されたという。金陵女子文理学院だけでも百人以上の少女が被害にあった。いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。夫や兄弟が助けようとすればその場で射殺。見るもの聞くもの、日本兵の残忍で非道な行為だけ」というような強姦を中心とする日本兵の犯罪行為を見逃すことができないと思った。

 さらに、3回目となる今回の1938年1月26日では、凄まじい略奪の実態ととともに、「日本大使館の態度から、軍部のやり方をひどく恥じていることがずっと前からわかっているだけになおさらだ。なんとかしてもみ消そうとしている。南京の出入りを禁止しているのだって、要は南京の実態を世界に知られたくないからだ」という文章も、しっかり記憶にとどめたいと思ったのである。

 なぜなら、このところ日本では、南京大虐殺は「捏造だった」とか、「東京裁判によってでっち上げられた」とか、「非道行為を行なったのはむしろ中国兵たちだった」というような主張が多くなっているからである。それは「南京の実態を世界に知られたくないからだ」というのと同類ではないかと思えるのである。

 ラーベの日記は、ラーベという個人が、ただ日々の出来事を日記に書きとめただけではない。その日記には、彼が南京安全区国際委員会の代表として、日本軍の南京市民に対する指示や対応、また、日本兵の蛮行に関して、日本大使館をはじめ、様々な人とやりとりした事実や、その証拠ともいえる文書が含まれている。そして彼は1937年9月22日、その日記に「本日をもって私の戦争日記の始まりとする」として書き始めているのである。間違いなく、南京事件に関する第一級の資料であると思う。

ーーー
1月26日
 中国人兵士の死体はいまだに野ざらしになっている。家の近くだからいやでも目に入ってしまう。いったいいつまでこんなことが続くのだろう。信じられない。なんでもたいそうなお偉いさんがくるという話だ。こちらの軍隊ではなく、陸軍省直属の将校だとか。ぜひともこの混乱をおさめてもらわなければ。もう限界にきている。

 この間1人の若いアメリカ人が、日本の衛兵につきそわれてやってきた。イギリス大使館に配属されているそうだ。英米合弁製材会社の膨大な在庫を日本軍に売りにきたという。この人から聞いたのだが、上海からここへ来る途中、はじめの50マイルで出会った人間は全部でたった60人くらいだったという。いまだに大ぜい人が住んでいるのはもはや南京だけだといっていた。上海と南京のあいだはどこも死に絶えたも同然だ、と。

 安全区を出て人気のない道を行く。どの家にもそのまま入っていける。ドアが軒並みこじ開けられているか、大きく開けっ放しになっているからだ。そして、くりかえしすさまじい破壊の結果を見せつけられる。なぜこんなに野蛮なのか、理解できない。思えばこれは実に衝撃的なことだ。

 いったい何のためにこれほどひどいことをするのだろう。ただただわけがわからない。日本大使館の態度から、軍部のやり方をひどく恥じていることがずっと前からわかっているだけになおさらだ。なんとかしてもみ消そうとしている。南京の出入りを禁止しているのだって、要は南京の実態を世界に知られたくないからだ。だが、そんなことをしたところで、しょせん時間の問題だと思うがね。ドイツ、アメリカ、イギリスの大使館に再び外交官をおくようになってから、何百通もの手紙が上海へ送られているのだから。それには、ここの状況が克明に記されている。大使館が電報で報告しているのはいうまでもない。

 南京のなかで、安全区は人々が生活していることを感じさせる唯一の場所だ。ここの中心部にはつぎつぎと新しい露天ができている。朝早く、たいていまだ薄暗いうちに、人々は手元残った品物を手あたりしだいに引きずってくる。まだ売り物になるもの。あるいは、なる、と思っているもの。そして、誰か買ってくれないだろうか、ときょろきょろするのだ。食べもの以外のものに使える金をまだいくらかふとろこにしている人はいないだろうか、と。群集は押しあいへしあいしながら、この露店の立ち並ぶ街、常設市を押し分けて進んでいく。貧困と窮乏の支配する市を。生活必需品や嗜好品──米、小麦粉、肉、塩、野菜、タバコ──のその時その時の相場で物価が決まる。

 我々はドイツをはじめ、アメリカやイギリスの各大使館に頼んで、なんとかして食糧をとりかえしてもらいたいと考えている。市内の倉庫にはまだ米や小麦粉があるはずなのだ。だが、日本軍の手に渡ってしまったので、取り戻せる見込みはきわめて少ない。

 我々の話を聞いた大使館の3人は、それはどうかな、という顔をして首を振った。たとえばまだ残っているとしても日本軍は引き渡さないだろう。それどころか、なんとかしてこれ以上補給させまいとがんばるに違いない。われわれはかれらにとって目の上のこぶだからだ。厄介払いしたいにきまっている。一日一日とけむたい存在になっているのだ。そのうち、ぽいと上海に追い出されはしないかと、我々のほうでもひやひやしている。

 ジーメンス社洋行・中国本社のラーベあての手紙 1938年1月14日 於上海

 ラーベ様
 新聞の報道はむろんですが、なによりも奥様からお元気だと伺って安心しています。早くまた電話がつながって、仕事の件や資本、そのほか主要な設備状況などについて、報告していただけるようになるとよいのですが。

 それから、エッケルト氏よりパプロ社の南京の住宅と事務所の電気関係の設備を据えつけるよう頼まれました。できるかぎりこれらの建物の状態を調べて、氏にお知らせください。
 ラーベさんがそちらでどのくらい自由に動けるのか、なにぶんこちらでははっきりつかめません。けれども、折りをみてご報告くだされば、エッケルト氏ともども幸いに存じます。

 どうかお元気で過ごされるよう祈っております。
    ナチ式敬礼をもって
           ジーメンス洋行               プロープスト、マイヤー

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ラーベの日記 12月17日 南京事件

2014年12月08日 | 国際・政治

 下記は、『南京の真実 The Diary of John Rabe』ジョン・ラーベ著 エルヴィン・ヴィッケルト編/平野卿子訳(講談社)から、12月17日の記述を抜粋したものである。ラーベは友人たちから高く評価され、中国人たちからも聖人のように崇められたが、決して謙虚さを失うことのない柔和な人物であったという。そのラーベが、女性を乱暴しようとする兵士などを見かけると、日頃の謙虚さや柔和さが信じられないくらい、激しい怒りを見せたという。そして、そんな時ドイツ人であるラーベは、まるで水戸黄門の印籠のように、よくハーケンクロイツ(鉤十字。ナチ党の印)を利用したようである。下記にも「ナチ党のバッジを見せると…」というような記述があるが、いろいろな意味で考えさせられる。

 ラーベは1937年9月22日、その日記に「本日をもって私の戦争日記の始まりとする」と書いている。その時点ですでに、アメリカ人やドイツ人の多くが南京を去り、裕福な中国人も避難しはじめていたという。でも、ラーベは自分のまわりで働く従業員や使用人のことを考えると、どうしても南京を離れるわけにはいかないと考え、妻と離れて南京に留まることにしたようである。

 そして、毎日長文の「戦争日記」を書くのである。その大部分が、残念ながら日本軍の不当な指示や行いであり、日本兵の蛮行の記録であることを、我々はしっかり受け止めなければならないと思う。ウィキペディア(フリー百科事典)の「ジョン・ラーベ」に「一般的にこの日記は日本軍の南京における残虐行為を証言する内容を含むと誤解されているが…」などという文章があるが、日記を読めば、それが誤解であるとは思えない。

 また、「安全区は日本兵用の売春宿になった」というアメリカ人の言葉や「昨晩は千人も暴行されたという。金陵女子文理学院だけでも百人以上の少女が被害にあった。いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。夫や兄弟が助けようとすればその場で射殺。見るもの聞くもの、日本兵の残忍で非道な行為だけ…」という文章は、今も議論の続く日本の「従軍慰安婦問題」を連想させる。

ーーー
12月17日
 2人の日本兵が塀を乗り越えて侵入しようとしていた。私が出ていくと「中国兵が塀を乗り越えるのが見えたもので」とかなんとか言い訳した。ナチ党のバッジを見せると、もと来た道をそそくさとひきかえして行った。

 塀の裏の狭い路地に家が何軒か建っている。このなかの一軒で女性が暴行を受け、さらに銃剣で首を刺され、けがをした。運良く救急車を呼ぶことができ、鼓楼病院へ運んだ。いま、庭には全部で約200人の難民がいる。私がそばを通ると、みなひざまずく。けれどもこちらも途方に暮れているのだ。アメリカ人のだれかがこんなふうに言った。
「安全区は日本兵用の売春宿になった」
 当たらずといえども遠からずだ。昨晩は千人も暴行されたという。金陵女子文理学院だけでも百人以上の少女が被害にあった。いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。夫や兄弟が助けようとすればその場で射殺。見るもの聞くもの、日本兵の残忍で非道な行為だけ。
 仲間のハッツがひとりの日本兵と争いになった。その日本兵は銃剣を抜いたが、アッパーカットを食らい、吹っ飛ばされて地面に叩きつけられた。そして、完全武装した2人の仲間といっしょに逃げていった。

 きのう、岡崎総領事から、難民はできるだけ早く安全区を出て家に戻り、店を開くように、との指示があった。店? 店なんかとっくに開いているじゃないか。こじ開けられ、ものをとられていない店なんかないんだからな。驚いたことに、ドイツ大使トラウトマンの家は無事だった。

 クレーガーといっしょに大使の家からわが家に戻ってきた。なんと家の裏手にクレーガーの車が停まっているではないか。きのう日本軍将校数人とホテルにいたとき、日本兵に盗まれたものだ。クレーガーは車の前に立ちはだかり、がんとして動かなかった。ついに、中に乗っていた日本兵は、”We friend … you go!”(俺たち友だちね……さあ行けよ!)と言って返してよこしたのだった。

 このときの日本兵は午後またやって来て、私の留守をいいことに、今度はローレンツの車を持っていってしまった。私は韓に言った。「『お客』を追っ払えないときは、せめて受け取りをもらっておくように」すると、韓は本当にもらっておいたのだ。I thankk your present! Nippon Army,K.Sato."(プレゼントどうも! 日本軍 K・サトウ)

 ローレンツはさぞ喜ぶことだろう!
 軍政部の向かいにある防空壕のそばには中国兵の死体が30体転がっている(写真18)。きのう、即決の軍事裁判によって銃殺されたのだ。日本兵たちは町をかたづけはじめた。山西路広場から軍政部までは道はすっかりきれいになっている。死体はいとも無造作に溝に投げこまれた。

 午後6時、庭にいる難民たちに筵(ムシロ)を60枚持っていった。みな大喜びだった。日本兵が4人、またしても塀をよじ登って入ってきた。3人はすぐにとっつかまえて追い返した。4人目は難民の間をぬって正門へやってきたところをつかまえ、丁重に出口までお送りした。やつらは外へでたとたん、駆け出した。ドイツ人とは面倒を起こしたくないのだ。

 アメリカ人の苦労にひきかえ、私の場合、たいていは「ドイツ人だぞ」あるいは「ヒトラー」と叫ぶだけでよかった。すると日本兵はおとなしくなるからだ。きょう、日本大使館に抗議の手紙を出した。それを読んだ福井淳書記官はどうやら強く心を動かされたようだった。いずれにせよ福井氏はさっそくこの書簡を最高司令部へ渡すと約束してくれた。私、スマイス、福井氏の3人が日本大使館で話し合っていると、リッグズが呼びに来て、すぐに本部に戻るようにとのこと。行ってみると、福田氏が待っていた。発電所の復旧について話したいという。私は上海に電報を打った。

 ジーメンス・中国本社 御中。上海市南京路244号。「日本当局は当地の発電所の復旧に関し、ドイツ人技術者をさしむけてほしいとのこと。戦闘による設備の損傷はない模様。回答は日本当局を介してお願いしたい」ラーベ

 日本軍は本当はわれわれの委員会を認めたくはないのだが、ここはひとつ、円満にことを運んでおく方がいいということだけはわかっているようだ。私は最高司令官に、次のようにことづけた。「『市長』の地位にうんざりしており、喜んで辞任したいと思っています」 

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ラーベの日記 12月16日 南京事件

2014年12月05日 | 国際・政治

 ジョン・ラーベは、「中国のシンドラー」と呼ばれ、南京事件当時、南京安全区国際委員会の代表として、中国人を救うために東奔西走し奮闘した人物である。それまでドイツのジーメンス社・南京支社の責任者として、当時中国の首都であった南京で、電話、発電機、医療機器などを提供し、毎日のように役所に出向いて注文を取っていたという。

 日本軍の南京爆撃が続き、南京に直接戦闘行為が及ぶ可能性が大きくなってきた1937年11月19日、「国際委員会」が発足したと彼の日記にある。メンバーは南京に留まった鼓楼病院のアメリカ人医師や金陵大学の教授たちであったという。そして、11月22日の会議で、彼はその委員会の代表に選ばれたと書いている。その日、国際委員会は、非戦闘員の避難先を提供する一般市民安全区設置の電報を発したという。以降、彼の避難民を救うための東奔西走が始まるのである。

  下記は、そのラーベの日記、『南京の真実 The Diary of John Rabe』ジョン・ラーベ著 エルヴィン・ヴィッケルト編/平野卿子訳(講談社)から、たった1日の内容を抜粋したものである。下記のように、彼は「いまや略奪だけではなく、強姦、殺人、暴力がこの安全区のなかにもおよんできている」と書いている。また、「武装解除した中国人兵士がまた数百人、安全区から連れ出され、銃殺されたという。そのうち、50人は安全区の警察官だった。兵士を安全区に入れたというかどで処刑されたという」とも書いている。南京城陥落直後の状況が想像される。

 前日の12月15日の日記では、ロイター通信社のスミス氏の講演内容について触れているが、そこには、下記のような捕虜銃殺に関するスミス氏の目撃証言が含まれている。

 ”12月15日、外国の記者団が上海に向かう日本の軍艦に乗せてもらうことになりました。ところがそのあとで、イギリスの軍艦でいけることになり、桟橋に集合するよう指示がありました。出発まで予想以上に時間がかかったので、偵察をかねて、あたりを少し歩くことにしました。そこでわれわれが見たものは、広場で日本軍が中国人を縛り上げ、立たせている光景でした。順次引きたてられ、銃殺されました。ひざまづいて、後頭部から銃弾を撃ち込まれるのです。このような処刑を百例ほど見たとき、指揮をとっていた日本人将校に気づかれ、すぐに立ち去るように命じられました。ほかの中国人がどうなったかのかはわかりません。”

 彼の日記を読み進めると、「平和甦る南京《皇軍を迎えて歓喜沸く》」などということが、常識的にはあり得ないことに思われる。また、下記の12月16日の文章には、「在南京日本大使館 福田篤泰様」という文書が入っているが、そのほかにも彼の名前で、日本軍司令部、日本大使館、アメリカ大使館、イギリス大使館、ドイツ大使館、南京自治委員会などに23の文書を発したようである。これらも、当時の状況を知るための重要な手がかりであると思う。ラーべは、日本と同盟関係にあったドイツの人でありナチ党員であったというが、その彼の名前で、関係国の大使館や南京自治委員会に宛てた文書は、単なる個人の日記や回想などより、一層資料的価値があると思い、敢えて「在南京日本大使館 福田篤泰様」という文書が入っている12月16日の部分を抜粋した。

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12月16日
 朝、8時45分、菊池氏から手紙。菊池氏は控え目で感じの良い通訳だ。今日の9時から、「安全区」で中国兵の捜索が行われると伝えてきた。
 いまここで味わっている恐怖に比べれば、いままでの爆弾投下や大砲連射など、ものの数ではない。安全区の外にある店で略奪を受けなかった店は一軒もない。いまや略奪だけではなく、強姦、殺人、暴力がこの安全区のなかにもおよんできている。外国の国旗があろうがなかろうが、空き家という空き家はことごとくこじ開けられ、荒らされた。福田氏にあてた次の手紙から、そのときの状況がおおよそうかがえる。ただし、この手紙に記されているのは、無数の事件のうち、我々が知ったごくわずかな例にすぎない。

 在南京日本大使館 福田篤泰様
 拝啓
 安全区における昨日の日本軍の不法行為は、難民の間にパニックを引き起こし、その恐怖感はいまだに募る一方です。多くの難民は、宿泊所から離れるのを恐れるあまり、米飯の支給を受けたくとも、近くの給食所にさえ行けないありさまです。そのため宿泊所まで運ばなければならなくなり、大ぜいの人々に食料をいきわたらせることは、大変むずかしくなっています。給食所に米と石炭を運びこむ苦力を十分に集めることすらできませんでした。その結果、何千人もの避難民は今朝、何も口にしていません。

 国際委員会の仲間が数人、なんとかして難民に食事を与えようと、今朝がたトラックを手配しようとしましたが、日本軍のパトロール隊に阻止されました。昨日は委員会のメンバー数人が、私用の乗用車を日本軍兵士に奪われました。ここに日本兵の不法行為リストを同封します。(ただし、ここにはリストは掲載されていない)

 この状況が改善しない限り、いかなる通常の業務も不可能です。電話や電気、水道などの修復、店舗の修繕をする作業員はおろか、通りの清掃をする労働者を調達することすらできません。


 ……私たちは昨日は苦情を申し立てませんでした。日本軍最高司令官が到着すれば、街はふたたび落ちつきと秩序を取り戻すと考えていたからです。ところが昨晩は、残念ながらさらにひどい状況になりました。このままではもうどうにも耐えられません。よって日本帝国軍に実情をお伝えすることにした次第です。この不法行為が、よもや軍最高司令部によって是認されているはずはないと信じているからです。                      敬具
                             代表 ジョン・ラーベ
                   事務局長    ルイス・S・C・スマイス

 ドイツ人軍事顧問の家は、片端から日本兵によって荒らされた。中国人はだれひとり、家から出ようとしない! 私はすでに百人以上、極貧の難民を受け入れていたが、車を出そうと門を開けると、婦人や子どもが押しあいへしあいしていた。ひざまずいて、頭を地面にすりつけ、どうか庭に入れてください、とせがんでいる。この悲惨な光景は想像を絶する。

 菊池氏と車で下関に行って、発電所と米の在庫を調べた。発電所は見たところ損傷なく、もし作業員がきちんと保護されれば、おそらく数日中に稼働できるだろう。手を貸したい気持ちはやまやまだが、日本軍のあの信じられない行為を考えると、40~45人もの労働者をかき集めるのはむずかしい。それに、こんななかで、日本当局を通じて我が社のドイツ人技術者こちらに呼ぶような危険なことはごめんだ。

 たったいま聞いたところによると、武装解除した中国人兵士がまた数百人、安全区から連れ出され、銃殺されたという。そのうち、50人は安全区の警察官だった。兵士を安全区に入れたというかどで処刑されたという。
 下関へいく道は一面の死体置き場と化し、そこらじゅうに武器の破片が散らばっていた。交通部は中国人の手で焼きはらわれていた。挹江門は銃弾で粉々になっている。あたり一帯は文字通り死屍累々(シシルイルイ)だ。日本軍が手を貸さないので、死体はいっこうに片づかない。安全区の管轄下にある紅卍字会(民間の宗教的慈善団体)が手を出すことは禁止されている。

 銃殺する前に、中国人元兵士に死体の片づけをさせる場合もある。我々外国人はショックで体がこわばってしまう。いたるところで処刑が行われている。一部は軍政部のバラックで機関銃で撃ち殺された。

 晩に岡崎勝男上海総領事が訪ねてきた。彼の話では、銃殺された兵士が何人かいたのはたしかだが、残りは揚子江にある島の強制収容所に送られたという。
 以前うちの学校で働いていた中国人が撃たれて鼓楼病院に入っていた。強制労働にかり出されのだ。仕事を終えた旨の証明書をうけとったあと、家に帰る途中、なんの理由もなくいきなり後ろから2発の銃弾を受けたという。かつて彼がドイツ大使館からもらった身分証明書が、血で真っ赤に染まっていま私の目の前にある。

 いま、これを書いている間も、日本兵が裏口の扉をこぐしでガンガンたたいている。ボーイが開けないでいると、塀から頭がにゅっとつきでた。小型サーチライトを手に私が出ていくと、サッといなくなる。正面玄関を開けて近づくと、闇にまぎれて路地に消えていった。その側溝にも、この3日というもの、屍がいくつも横たわっているのだ。ぞっとする。

 女の人や子どもたちが大ぜい、庭の芝生にうずくまっている。目を大きく見開き、恐怖のあまり口もきけない。そして、互いによりそって体を温めたり、はげましあったりしている。この人たちの最大の希望は、私が「外国の悪魔」日本兵という悪霊を追い払うことなのだ

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