真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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北方領土問題と米国アジア戦略の問題

2013年01月20日 | 国際・政治
 北方領土のソ連領有が不当であることは明らかである。それは、大西洋憲章や連合国共同宣言、カイロ宣言などの領土不拡大の方針に反するものであった。カイロ宣言には「右同盟は自国の為に何等の利得をも欲求するものに非ず、又領土拡張の何等の念をも有するものに非ず」とある。そして、そうした考え方を基に、日本に対して「…1914年の第1次世界戦争の開始以後に於いて日本国が奪取し又は占領したる太平洋に於ける一切の島嶼を剥奪すること並に満州、台湾及澎湖島の如き日本国が清国人より窃取したる一切の地域を中華民国に返還することに在り日本国は又暴力及貪欲に依り日本国の略取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし」と迫るものであった。

 にもかかわらず、アメリカは先の大戦末期に、ソ連に対日戦参戦を求め、その代償として『千島列島は「ソヴィエト」連邦に引渡さるべし』という内容を含んだ「ヤルタ協定」を締結した。だから、ソ連が敗戦間近の日本に宣戦を布告し、アメリカの求めに応じて参戦することによって、あっという間に千島列島を占拠した。アメリカがどんな言い訳をしようと、それが北方領土問題の始まりである。

 北方領土返還を求める日本の外務省は、北方領土がロシアによって不法占拠されていると主張しながら、ヤルタ協定やその後の日本の返還運動に対するアメリカの介入(「ダレスの脅し」などとして知られる)をほとんど問題とせず、アメリカのアジア戦略に沿う主張を展開しているようである。しかし、ヤルタ協定はもちろんのこと、その後の冷戦下における北方領土をめぐる米ソ取引も、大西洋憲章や連合国共同宣言、カイロ宣言などに反するものである。そういう意味で、北方領土問題は、ロシアだけの問題ではなく、アメリカの問題でもあり、両国に大西洋憲章や連合国共同宣言、カイロ宣言などの趣旨を踏まえ、法に則った対応を求める必要があると思う。

 下記は「東アジア近現代通史 【7】アジア諸戦争の時代」(岩波書店)の中の「北方領土問題と平和条約交渉」原貴美恵からの抜粋であるが、北方領土に関わるアメリカのアジア戦略を、様々な資料をもとに具体的にとらえている。たとえば、アメリカは、ミクロネシア信託統治の施政国となったが、国連安保理の常任理事国五カ国を「直接関係国」とするよう迫ったソ連の主張を受け入れなかった。千島をバーゲニング・カードとして、アメリカを唯一の施政国とすることをソ連に認めさせたというのである。まさに表向きの主張に反する裏取引といえる。

 また、アメリカが作成した平和条約案では、最終的に日本が放棄する領土の帰属先の記載を意図的に消し、処理領土について、帰属先は明記されなかったという。それは、中・ソを意識したアメリカの狡賢いともいえるアジア戦略によるものであろう。

 さらに、サンフランシスコ講和会議で、ソ連代表グロムイコは、『…領土処理については、他にも台湾や南沙諸島の帰属先が「中国」と明記されず、故意に最終処理が未定にされている。沖縄・小笠原諸島の処理は信託統治を口実にこれらの島を米国の管理下に置き、日本から分割するもので不法である。その他にも、条約は日本の軍国主義再建の危険を伴うものである。草案は外国占領軍の撤退について何等規定もしていないだけでなく、外国の軍事基地在留を保障し、防衛の名をかりて日本の侵略的軍事同盟を規定し、また米国極東軍事ブロックに日本参加の道を開いている。さらには、「平和条約ではなく、極東における新しい戦争の準備のための条約である…』と演説したという。アメリカの強引なアジア戦略が、北方領土問題の解決を難しくしていることを痛感せざるを得ない。

 米ソ冷戦が終結したとはいえ、日本がアメリカとの同盟関係を強化し、北海道をはじめとして、様々な場所で日米共同軍事演習を実施し、時には日米韓合同軍事演習なども行う現状では、北方領土の返還交渉は進まないのではないかと思う。やはり、軍縮を進め、東アジア全体をできるだけ非軍事化することによって、緊張関係を緩和する方向で、日本が米ソをはじめ近隣諸国に働きかけることが、北方領土問題の解決につながるのではないかと考えさせられる。 
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          「北方領土問題と平和条約交渉」
                                        原貴美恵

ミクロネシア信託統治と千島

 1947年4月、国際安全保障理事会は、旧国際連盟の日本委任統治領ミクロネシア(南洋)について、米国を唯一の施政国とする国連の戦略的信託統治下に置くこと、すなわち米国による独占支配を決定している。ここでも千島がカードとして巧みに利用された。
 先のヤルタ会談で米英ソ三首脳は、信託統治制度の基本条項を含んだ国連憲章の草案にも同意していた。そこでは、信託統治は、①従来の国際連盟委任統治地域、②敗戦国から分離される地域、③施政国が自発的にこの制度下に移行させる地域に適用することになっていた(FRUS:TheConferences at Malta and Yalta 1945.p.859、これはその年の10月24日に採択された国連憲章の第77条となる)。だが、米国にとってミクロネシアは戦時中から沖縄・小笠原と共に戦略的要所であり、特にミクロネシアは終戦の翌年から核実験場として使用されており、米軍部はその所有あるいは恒久的独占支配を求めていた。それゆえ、国務省では併合という形を避けてそれを信託統治制度の中で実施する案を模索した。そして、1946年11月、トルーマン大統領が次のような発表を行うに至った。


 米国は、旧日本委任統治諸島及び第2次大戦の結果としてその責任を負う如何なる日本の諸島も、施政国として信託統治領に置く準備をしている[FRUS.1946.I..p674]。
 ソ連は当然これに反発した。プラウダは、米国の試みは「将来の戦争準備と関連しかねない」、と太平洋を「アメリカの湖」に変えようとしていると報じ、「赤い艦隊」誌は米国の計画を「米帝の野望、防衛というには程遠い」と非難した[ibid.,pp679-682]。ソ連は、信託統治協定には米国だけでなく国連安保理の常任理事国五カ国を「直接関係国」とするよう何度も迫った。しかし米国は、平和条約での千島処理はこの件でのソ連の出方次第であるとして、千島をバーゲニング・カードとして再び持ち出したのである。ソ連の千島併合は既に合意済みであり「別問題」であるとするソ連に対し、米国はそれは平和会議での最終決定を待つ非公式合意であり、ソ連占領地を棚上げして米占領地だけが管轄と査察を受けるという「ダブル・スタンダード(二重基準)」には同意しない、と応酬した[ibid.,p691]。ソ連はそれなら両者とも平和条約の中で決定すべきだとしたが、米国は信託統治協定の適用範囲をミクロネシアに限って提出することにし、結局ソ連も国連安保理事会で米提案を支持するのである[原 2005.176ー182頁]。

 
 この交渉で中心的役割を果たしたのは、当時国連信託統治委員会の米国代表を務め、後に,、対日平和条約の起草でも活躍するジョン・フォスター・ダレスであった。交渉は1946年10月から始まった国連総会の舞台裏で行われたが、同時期に米国国務省内に対日講話委員会が作られ、平和条約草案の作成が始まっている事から、米政府内でも当初は信託統治協定と平和条約は近い時期に成立が予測されていたと思われる。ソ連が米国の信託統治案に合意したのも、平和条約での千島列島処理を近い時期に期待して取引したつもりいたのだろう。しかし、結論からいえば、信託統治協定は翌47年4月に可決されたものの、平和条約の調印はそれから4年5ヶ月も後のことであった。

米国主導の条約起草

 米国で作成された初期の平和条約草案は、連合国間の協調と日本に対する「厳格な平和」を特徴としていた。草案は長大で詳細なもので、領土条項では戦後日本の新しい国境線が緯度・経度を用いて克明に記載されており、それを示した地図も添付され、また「歯舞・色丹」や「竹島」といった個々の島名も帰属先も明記されていた。内容は連合国間の戦中合意を大まかに踏襲するものとなっており、全体として、初期草案は「将来に係争が残らない事」を特に配慮していた。

 しかし、冷戦の激化に伴い米国のアジア戦略における日本の重要性が増し、その防衛と「西側」確保が最重要課題の一つとなると、対日講和は「厳格」から「寛大」なものへと変容していく。米政府内や関係国との折衝を経て、ダレスの下で仕上げられた草案の内容は、初期のものとは随所で異なり、条文は「シンプル」になり、諸々の問題が曖昧にされた。締結された平和条約には、千島・南樺太のほか、台湾や朝鮮に対する日本の領土放棄が規定されているが、初期草案に見られたような処理領土の厳格な範囲や、戦後の新しい国境線についての規定はなくなっていた。
 千島・南樺太については、朝鮮戦争勃発後に一時「国連の決定を受諾する」という内容の案が一時浮上したが、これは朝鮮処理案が波及したものだった。結局、それが廃案となったのも、朝鮮戦争の展開が(米国に不利になり)その採用を難しくしたのに加えて、国連で領土を処理すると英国が中華人民共和国を承認したため台湾が中国に渡り共産化することが懸念された、すなわち台湾処理が影響したためでもあった。結局、千島・南樺太と台湾については、初期草案にあった「ソ連」や「中国」という帰属先の記載が消え、最終的には、すべての処理領土について帰属先は明記されなかった。


 千島については、平和条約が起草されていく過程で、その定義とその処理に関する問題が発生していた。大戦中から進められていた米政府内での対日領土処理検討では、大西洋憲章がその導きの星となっていたが、ヤルタ協定の存在が公表されると、その矛盾を解消するために様々な打開策が検討された。度重なる検討が行われ、日本への「零」「二島」「四島」返還を想定した様々な条約案が作成された。だが、結局、「シンプル」に仕上げられた条項では「千島」の定義もその帰属先も未定にされてしまう。

 この千島と南樺太の帰属先「ソ連」が消えたのは、講和会議の三ヶ月前に作成された1951年6月草案である。同年の5月案までは、ソ連は参加しさえすれば千島と南樺太を得ることが出来るようになっていた。帰属先を明記しないという案は、5月案が作成される前から中華民国やカナダ政府によって提案されていた。中華民国は、4月24日付覚書で、台湾とほうこ島については日本による放棄のみが記されているが、南樺太と千島列島についてはソ連という帰属先が記されている点を指摘し、整合性を持たせるために、これらも、放棄のみの表現に置き換えるよう要求した。カナダ政府も5月1日及び18日付の覚書で、領土処理における合意欠如という状況に鑑み、「個々の領土が差別的に処理されたと非難されることのないように」、全ての領土処理に一貫性をもたせることを提案した[FRUS.1946.I.pp1058-1062]


 当初、この点に関して米国の反応は否定的であった。6月1日に国務省が作成した見解では、この方式は各領土間の事情のちがいが考慮されていない、台湾処理について条約中で合意するのは無理だが、ソ連が条約当事国になれば、千島・南樺太に対する法的権利を問題にする根拠はないとしていた。しかし更なる検討が重ねられた末、先の提案は採用されることになる。6月5日、ダレスはロンドンにて、日本の千島・南樺太の放棄のみを記し、台湾処理と整合性を持たせる旨提案している[ibid.,p1106-1107]。この理由として、前の草案では、ソ連に「直接利益」を与える形になっており、国内的に上院での批准が困難であることを挙げていた[FO371/92554;FJ1022/376.PRO]。当時は、ソ連の講和会議欠席が予想されていた。ソ連は条約を承認しなくても島の占領は続けるであろうから、これらの島の主権が日本に留まれば、日本と安保条約を結ぶ米国には不都合な状況が出てくる可能性がある[FO371/92547;FJ1022/376.PRO]。日ソの離反は望ましいが、それが米ソ直接武力衝突にエスカレートする事態は避けなければならない。それ故、日本にこれらを放棄させる一方、帰属先も故意に未定にしておいたのである。[和田、1999、213-214頁]米国はこの処理に心理的効果も見越していた。すなわち、日本の領土かも知れない島々をソ連が占領していることに対して、日本人は否定的な感情を持つ一方、米国は同情的態度を見せることで、日本人から好感を得るという効果である。
 平和条約の共同起草国である英国は、1951年初期までヤルタ協定遵守の姿勢を持っていた。しかし、米側の説得により米国案を受諾し、6月8日の米英会談ではソ連という帰属先の削除が決定された[FO371/92556.PRO]。千島・南樺太に関しては、この結果作成された6月14日付草案が講和会議で調印された最終草案となる。

サンフランシスコ講和会議

 ソ連は米国による対日平和条約の準備に大きな不満を持っていた。その具体的な問題点については、メディアを通して、あるいは再三にわたり公式覚書を送って米国政府に指摘していた。その立場は、領土処理はカイロ、ポツダム宣言及びヤルタ協定に基づきすでに決定済みである、というものであった、1951年6月10日のソ連の覚書には、「領土問題についてソ連が提案するのは唯一つ、すなわち上述した国際合意の公正な遂行を保障することだけであある」と記されていた。しかし、ダレス自身が9月3日のニューヨークタイムズ紙上で答えているように、最終草案はポツダム宣言のみに則したものであった(NewYork Times.1951.9.3)


 大方の予想に反してソ連は講和会議に出席した。朝鮮では7月10日に休戦に向けた話し合いが開始されていた。中国は講和会議に招待されなかったが、ソ連は講和会議を棄権するより代表を送り込んで米英草案を批判し、公の席で自国の立場を説明して条約案の修正を迫る道を選んだ。9月5日の第2総会で、ソ連代表グロムイコは長い演説をぶちまけている。そこでは、米英草案が、ヤルタ協定で保障されていたはずの千島・南樺太のソ連割譲について矛盾している点を指摘し、訂正案を提示した。領土処理については、他にも台湾や南沙諸島の帰属先が「中国」と明記されず、故意に最終処理が未定にされている。沖縄・小笠原諸島の処理は信託統治を口実にこれらの島を米国の管理下に置き、日本から分割するもので不法である。その他にも、条約は日本の軍国主義再建の危険を伴うものである。草案は外国占領軍の撤退について何等規定もしていないだけでなく、外国の軍事基地在留を保障し、防衛の名をかりて日本の侵略的軍事同盟を規定し、また米国極東軍事ブロックに日本参加の道を開いている。さらには、「平和条約ではなく、極東における新しい戦争の準備のための条約である」として、米国草案を厳しく非難した[日本外務省・ロシア連邦外務省 1992、2001、121頁]

 ソ連の講和会議出席およびグロムイコの演説にもかかわらず、米英草案は修正されなかった。講和会議は結局、開催国である米国によって選ばれ招待された国々による調印式典でしかなかった。平和条約の内容に不満を持つソ連は調印を拒否した。よって日ソ間には平和条約は締結されることなく、領土問題はここで棚上げにされ、二国間の平和交渉は1955年にようやく始まることになる。


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北方領土問題 米ソの本音 「ダレスの脅し」

2013年01月13日 | 国際・政治
 「ソ連は最初北方四島は諦めていた 知られざる北方領土秘史 四島返還の鍵はアメリカにあり」戸丸廣安(第一企画出版)は、下記のように、その3章で、「クルクル変わる米国の北方領土政策」と題して、アメリカの北方領土問題に対する本音の部分を記述している。アメリカは、2島返還を条件に、日本がソ連と平和条約を締結しようとした時、沖縄返還の問題を持ち出し、それを認めなかった。「ダレス の脅し」である。米国の極東政策上、日本は「反ソ」でなければならず、対ソ政策で”一人歩き”することを許されなかったのである。

 「東アジア近現代通史 【7】アジア諸戦争の時代」(岩波書店)にも同じような記述があるが、さらに踏み込んで『米国政府が日本の「4島返還」を支持したのは、それがソ連には受け入れ不可能と解っていたからであり、4島が千島列島ではないと考えたからではなかった』とある。『日本は西側陣営に確保し、共産主義陣営との和解は阻止しなければならない。』というわけである。

 「北方領土 軌跡と返還への助走」木村汎(時事通信社)には、反対にソ連の北方領土に対する「本音」といえる部分が取り上げられている。それは、クタコーフやスターリン、ミコヤン、フルシチョフなどの言葉に共通してみられる、北方領土の軍事戦略的価値重視の論調である。「クリール列島は、カムチャッカの南端から、北海道に至る連続的な鎖として伸びることによって、オホーツク海に鍵をかける。それは、ロシアの極東沿岸への接近を遮断する。クリール列島の地理的位置は、極東沿岸の前哨地点として最も重要な意義を与える」(クタコーフ)「南サハリンとクリール列島はソ連と大洋との直接の結びつきの手段、そして日本からのわが国への攻撃に対する防衛の基地として…」(スターリン)、 「エトロフやクナシリは、小さな島々ではあるが、カムチャッカへの門戸であり、放棄しえない」「日米が軍事同盟を結んでいる現状では返還を考える余裕がない」(ミコヤン)「これらの島々(=歯舞・色丹)は、われわれにとって経済的には大した意義はないが、戦略・国防的には重大な意味がある。われわれは、自己の安全保障を配慮するのだ」(フルシチョフ)などである。

 1960年の日米安保条約改定を機に出されたソ連の池田内閣宛「対日覚書」には、「歯舞・色丹の引き渡しに日本からの全外国軍隊の撤退」という新条件が加えられた。そうしたことは国際法上考えられないことだといわれるが、それは、北方領土に対するソ連の軍事戦略的価値を重視する姿勢のあらわれといえる。

 1990年秋の米ソ冷戦終結宣言によって、当時と情勢は大きく変わってきたとはいえ、北方領土問題に関する米ソの本音にどれほどの変化があるか定かではない。したがって、日本は、日米同盟を強化し、アメリカの主張に沿って北方領土の返還をもとめるのではなく、平和主義に徹し、北東アジアを含む東アジア全体の軍縮・非軍事化を主導することによって、北方領土返還を求めていくべきではないかと思う。
資料1-------------------------------
        第3章 クルクル変わる米国の北方領土政策

ソ連の2島返還を邪魔したダレス

 サンフランシスコ平和条約締結後の米国は、積極的応援とは言えないものの、北方領土復帰運動を推進する日本をバックアップするかのように見えた。
 しかし、その後判明するが、米国の対「北方領土」政策はそう単純なものではなかった。米国は日本の思惑とは合致しない観点から北領土の戦略的位置づけをしていたのだ。


 スターリンの死(1953年3月)を契機に日ソ関係に修復のきざしが見え、北方領土問題にも波及するかに見えた。55年6月、ロンドンで開かれた日ソ交渉は松本俊一外交官(日本代表)とマリク元駐日大使の間で行われ、ソ連側は歯舞諸島と色丹島の返還を対日平和条約締結を条件に約束すると表明した。これを受けて日本側も2島返還論に傾きかけた矢先のことだった。
 これに対する米国の反応は予想以上に慌てふためいたものであって、即刻行った対抗策は沖縄がらみの対日圧力であった。即ち、日本が2島返還に応ずるならば、沖縄返還はあり得ないとするダレス発言である。
「ダレスは全くひどいことをいう。もし、日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカ領土にするということを言った」
 と、ダレス国務長官との会談を終えた重光外務大臣は、青ざめた顔で松本俊一全権大使に伝えている。2島返還に応ずるならば、沖縄返還はあり得ないとするダレス発言である。
 ダレスは、サンフランシスコ条約では、千島列島がソ連に帰属するとは定められておらず、日本が千島列島、特に択捉・国後両島をソ連領と認めてかかるなら、同条約の第26条により、アメリカは沖縄を併合するしかない、と重光外相に警告、アメリカの思惑から外れそうな日ソ交渉を牽制したのである。


 当時のアメリカにとって、日本がソ連との関係改善を急ぐあまり領土問題で”大譲歩”するのは米国の極東政策上傍観できなかったからであり、すでに日米、米ソ両関係を無視した日ソ関係はあり得ないことを暗に示したことと言えよう。
 この陰には、
「北方領土は反ソ感情の原点であり、早期返還は好ましくない」 
 との米政府の考えがある。日本の公安関係者も、米ソ冷戦下で、北方領土が長くソ連支配下に置かれている限り、日本が、反ソであり続けるとの読みが米国にある、と分析している。もし早期返還ともなれば日本が対ソ政策で”一人歩き”するきらいがあったからである。
 いずれにしろ、このダレスの牽制により、4島返還は崩さないものの、まずは2島返還を実現させておこうとした日本政府のもくろみは頓挫してしまった。以後日本は2島返還という段階的返還論は語らず、あくまでも4島一括・全面返還に固執するようになったあのである。
 それ以後今日もなお米国の北方領土全面返還要求には変化が見えず、たとえ当事国である日本の政策変更であっても米国の主張にそぐわないものなら受け入れないとの態度を崩していない。


資料2------------------------------
           「北方領土問題と平和条約交渉」
                                       原貴美恵

3 日ソ交渉と4島返還論

 サンフランシスコ平和条約締結から4年後、大戦終了から10年を経た1955年、日本とソ連との間で平和条約交渉が開始された。この交渉の期間中に「4島返還」が日本政府の中核的方針となる。これと関係する主要な出来事には、米国の干渉と及び「1955年体制」の成立がある。
 日ソ交渉への米国の介入は、「ダレスの脅し」としてよく知られている。1956年8月、日本側全権であった重光葵外相が、ソ連の歯舞・色丹オファーを受諾し平和条約を締結しようとしたところ、当時米国務長官になっていたダレスが、もしソ連に譲歩して国後・択捉を諦めるなら、沖縄に対する日本の潜在主権は保障できないと警告したのである。[松本1966、114-117頁/久保田1983,133-137/FRUS.1955 -57.pp.202-203]。米国の介入には主として2つの理由があった。一つは米国の沖縄支配を確実にするため、もう一つは日ソの和解を阻止するためである

 米国務省の記録に残る「米国にとって琉球諸島(沖縄)は、ソ連にとっての千島列島よりも、価値がある」というダレス発言にみるように、沖縄の戦略的重要性は、アジア太平洋地域で冷戦が激化するにつれて増大していた(/FRUS.1955-57.p.43)。しかし、米国には沖縄を自国の管理下に留めておく強い根拠がなかった。もし日ソ間で北方領土問題が解決されたら、次は米国に沖縄を返還するよう圧力が掛かるであろう。それは、歯舞・色丹をオファーして領土問題の解決を図ったソ連の狙いでもあった。そこで、ダレスは、彼自身が平和条約に挿入しておいた「歯止め条項」第26条を使って、もし日本が北方領土でソ連に譲歩したならば、米国は沖縄を請求できるという議論を持ち出したのであった。
 米国政府が日本の「4島返還」を支持したのは、それがソ連には受け入れ不可能と解っていたからであり、4島が千島列島ではないと考えたからではなかった。日本は西側陣営に確保し、共産主義陣営との和解は阻止しなければならない。日ソ平和交渉は1950年代半ばの「雪解け」あるいは「平和的共存」という状況下で始まったものの、米国にとってこのデタントは一時的なもので、ソ連の「平和攻勢」はアジアにおけるナショナリズムや反植民地運動に呼応しながらその影響範囲を拡げ、戦略的にはソ連に有利に働いているにさえ認識されていた。日ソ平和条約の締結は、日本と中華人民共和国との間の国交正常化へと発展しかねない。これもまた米国には受け入れられなかった。
 ・・・

資料3-----------------------------
            第3章 ソ連が返還に応じない理由

2 軍事戦略的価値

 ソ連が北方領土返還を頑ななまでに拒否し続ける、もう一つの有力な背後理由として、同地域がもつ特殊な価値があげられる。日本人が北方領土返還要求を行っている主たる理由が、同地域がもつ軍事的価値に基づくとはとうてい考えられない。返還の暁には同地域を非軍事化して平和的管理下におくという条件を呑みさえすれば、返還が実現するというのならば、異論を唱える日本人は少ないだろうと推定される。漁業を主とする経済的利益も確かに返還要求の一つの有力な根拠ではあろうが、ただそれだけのものならば同要求が全国民的規模の運動にまで盛り上がりうるはずがない。やはり、日本人にとり北方領土の価値は、金銭には還元できぬ無形のものにあると見るべきであろう。この点で、仮に北方4島が日本に返ってくるとすると、「日本人一世帯当たり6万円以上の負担となる」と説かれる大前研一氏のご意見はあまりにも純経済的に焦点を絞った見解のように思われる(文献20)。そのようなお考えを延長すると、北海道や東北地方も、中央政府からの国庫補助金を頂戴して初めて平均的日本人に近い生活水準を維持していることを思い起こさせられ、北海道の住人の一人としての筆者は、多額納税者に違いない大前氏に申し訳なく思うと同時に、何か割り切れないものを感ずる。大前氏は、世の中には純経済的価値に還元できない価値の存在することを経済学ですら認めていることを、看過しておられるのではないか。北方領土返還は、「固有の領土」の返還をもってあの汚辱に満ちた敗戦にピリオドを打つという儀式上の象徴的意味をもつ。さらに、戦後の日本がとってきた全方位ないし平和的な話し合い外交路線がソ連にも通用することを確認したいという心理的な価値を担っている。


 このような日本側の事情とは異なり、ソ連にとって北方領土がもつ意義は、ひとえに軍事戦略的な価値にあると見て差し支えないだろう。北方領土地域は、幸か不幸か、ソ連にとり、オホーツク海を開かれた海にするか閉ざされた海にするかの要(カナメ)に位置している。クタコーフは、クリール列島一般の地政学的重要性を、次のように説明する。「クリール列島は、カムチャッカの南端から北海道に至る連続的な鎖として伸びることによって、オホーツク海に鍵をかける。それは、ロシアの極東沿岸への接近を遮断する。クリール列島の地理的位置は、極東沿岸の前哨地点として最も重要な意義を与える」(文献21)

 北方領土やクリール列島のもつ地政学的な価値を、歴代のソ連指導者たちは、十二分といえるまでに高く認識、評価している。スターリンは、第二次大戦終了時のソ連人民向け演説中において、とくに日露戦争以来閉ざされていた「大洋への出口」(ベレージン)(文献22)が再びソ連に開かれることとなった喜びと意義を、次のように叫んでいる。
 
 「日本は、ツアーリズム・ロシアの1904~5年戦争における敗北を利用し、ロシアから南サハリンを奪い、クリール列島に根をおろし、かくして、わが国にとり、極東の大洋へのすべての出口に鍵を固くかけ、閉ざしてしまった。…しかるに、第二次大戦によって、南サハリンとクリール列島はソ連のものとなり、今後は、ソ連を大洋から引き離す手段としてや、日本のわが極東への攻撃の基地としては、役立たないであろう。むしろ、ソ連と大洋との直接の結びつきの手段。そして日本からのわが国への攻撃に対する防衛の基地として役立つであろう」(文献23)


 1965年5月、訪日中のミコヤンは、池田首相に向かい、「エトロフやクナシリは、小さな島々ではあるが、カムチャッカへの門戸であり、放棄しえない」(『北海道新聞』64・5・27)と語り、藤山愛一郎、三木武夫氏らに向かっても、「島は小さくとも、その位置が重要」と述べた、と伝えられている(『朝日新聞』64・5・27)ほぼ同じ頃(同年7月9月)フルシチョフ首相は、二度にもわたり、日本人訪ソ団に向かい口をすべらし本音(?)を漏らした。「これらの島々(=歯舞・色丹)は、われわれにとって経済的には大した意義はないが、戦略・国防的には重大な意味がある。われわれは、自己の安全保障を配慮するのだ」(『朝日(夕刊)』64・7・15『プラウダ』64・9
・20)。

 ・・・
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北方領土問題と大西洋憲章、連合国共同宣言、カイロ宣

2013年01月09日 | 国際・政治
  下記資料はいずれも北方領土問題に関わる国際的な「宣言」である。特に、「英米共同宣言(大西洋憲章)」(資料1)は、それまでの列強による帝国主義的・植民地主義的領土拡張を、問題視し、その1で「両国ハ領土的其ノ他ノ増大ヲ求メス」と格調高く宣言した画期的なものであった。また、それぞれの国の主権を尊重するのみならず、「一切ノ人類ガ恐怖及欠乏ヨリ解放セラレ其ノ生ヲ全ウスルヲ得ルコトヲ確実ナラシムヘキ平和」などの文面からも読み取れるように、人権に配慮した平和主義的な内容の宣言であった。

 「連合国共同宣言」(資料2)は、それを受け、ドイツの「ヒトラー主義」に勝利するため発せられた宣言である。また、「カイロ宣言」は日本の周辺国に対する侵略の阻止や日本が暴力的に窃取・略取した領土の返還を意図する宣言である。

 ところが、こうした宣言が発せられた後の、1945年2月、これらの宣言の趣旨に反する「ヤルタ協定」が締結された。ヤルタ協定の2、『1904年の日本国の背信的攻撃に依り侵害せられたる「ロシア」国の旧権利は左の如く回復せられるべし』は、宣言の内容に沿うものであるが、その3、『千島列島は「ソヴィエト」連邦に引渡さるべし』は、宣言の趣旨に反するのである。特に北方4島は、日本固有の領土であり、日本が暴力的に窃取・略取した領土ではない。にもかかわらず、アメリカは、ソビエトの対日参戦を求めて、その見返りに『千島列島は「ソヴィエト」連邦に引渡さるべし』としたのである。まさに、帝国主義的・植民地主義的な領土の拡張を認める協定であった。ソビエトの対日参戦を条件に、アメリカが南樺太と千島列島をソビエトに譲り渡すことを認めたこのヤルタ協定があったが故に、日本はサンフランシスコ講和会議で、北方領土を「放棄」することになった経緯を忘れてはならないと思う。

 1956年になってアメリカ国務省が、「ヤルタ協定は三国(米英ソ)首脳の目標を述べたものに過ぎず、領土移転のような法律的効果を持つものでなく、北方4島が正当に日本の領土下にあるものとして認めるべきものである」との見解を公にしているが、日本が無条件降伏した後に、そのような主張をすることは、いかがなものかと思う。事実は、ソ連がアメリカの求めに応じて1945年8月9日対日宣戦布告をし、ヤルタ協定通り進んだのである。

 日本の外務省もアメリカと同じように、北方領土問題に関して「北方領土は、ロシアによる不法占拠が続いていますが、日本固有の領土であり、この点については例えば米国政府も一貫して日本の立場を支持しています。」との主張をくり返している。しかしながら、当時のヤルタ協定に関する関係者の理解や、トルーマンとスターリンの「一般命令第1号」をめぐるやり取りなど無視して、そのような主張をく り返すことには問題があるといわざるを得ない。

 終戦当時アメリカは、千島列島がソ連の領有になることを認めていたのである。対日占領軍総司令部政治顧問のシーボルトは「千島列島の処分はカイロ、ヤルタ両会談で決められていた」と記しているという(『日本の国境問題 尖閣・竹島・北方領土』孫崎亨<ちくま新書>)。また、多くの外交関係者や日本の政治家も、そういう認識を持っていた。そうした認識があったから、当初、日本は歯舞・色丹は千島列島に含まれるものではないとして「2島返還」を条件として、「日ソ平和条約」を締結しようとしたのである。(ところが、その「2島返還」を条件とした日ソ平和条約は、「ダレスの脅し」として知られるアメリカの介入によって、「4島返還」に変更されたために、締結に至らなかった)。
 したがって、「米国政府も一貫して日本の立場を支持しています」というのは、米ソ関係が終戦当時と変化し、米ソ冷戦が深刻になってからのことであり、事実に反する主張だと思う。現実にソ連(現ロシア)はそうした主張を受け入れていない。

 したがって、日本は米ロの狭間でアメリカと同じ主張をくり返すのではなく、アメリカの世界戦略から離れて、堂々と「英米共同宣言(大西洋憲章)」や「連合国共同宣言」「カイロ宣言」などに反する「ヤルタ協定」締結の問題点を指摘すべきだと思う。そして、アメリカが認めたロシアによる北方領土の領有が、帝国主義的・植民地主義的な領土の拡張であり、不当に開始されたことを認めるよう迫るのが筋だと思うのである。そのために、ロシアの主張する条件について考慮する姿勢を示すとともに、アメリカに対しても、「4島返還」のための諸条件について考慮するよう要求すべきだと思う。そういう意味では、北方領土返還問題は、日ロ間の問題というよりむしろ「日・米・ロ」の3国の問題といえる。下記資料は「ソ連は最初北方四島は諦めていた 知られざる北方領土秘史 四島返還の鍵はアメリカにあり」戸丸廣安(第一企画出版)よりの抜粋である。

資料1-------------------------------
歴史を浮き彫りにする資料集

             英米共同宣言(太平洋憲章)
(ママ)
                     (1941年8月14日大西洋上ニ於テ署名)
アメリカ合衆国大統領及連合王国ニ於ケル皇帝陛下ノ政府ヲ代表スル「チャーチル」総理大臣ハ、会合ヲ為シタル後両国ガ世界ノ為一層良キ将来ヲ求メントスル其ノ希望ノ基礎ヲ成ス両国国策ノ共通原則ヲ公ニスルヲ以てテ正シト思考スルモノナリ。
1、両国ハ領土的其ノ他ノ増大ヲ求メス。
2、両国ハ関係国民ノ自由ニ表明セル希望ト一致セサル領土的変更ノ行ハルルコ
  トヲ欲セス。
3、両国ハ一切ノ国民カ其ノ生活セントスル政体ヲ選択スルノ権利ヲ尊重ス。両国
  ハ主権及自治ヲ強奪セラレタル者ニ主権及自治カ返還セラレルコトヲ希望ス。
4、両国ハ其ノ現存義務ヲ適法ニ尊重シ大国タルト小国タルト又戦勝国タルト敗戦
  国タルトヲ問ハス一切ノ国カ其ノ経済的繁栄ニ必要ナル世界ノ通商及原料ノ均
  等条件ニ於ケル利用ヲ享有スルコトヲ促進スルニ努ムヘシ。
5、両国ハ改善セラレタル労働基準、経済的向上及社会的安定ヲ一切ノ国ノ為ニ
  確保スル為、右一切ノ国ノ間ニ経済的分野ニ於テ完全ナル協力ヲ生ゼシメンコ
  トヲ欲ス。
6,「ナチ」ノ暴虐ノ最終的破壊ノ後両国ハ一切ノ国民ニ対シ其ノ国境内ニ於テ安
  全ニ居住スルノ手段ヲ供与シ、且ツ一切ノ国ニ一切ノ人類ガ恐怖及欠乏ヨリ解
  放セラレ其ノ生ヲ全ウスルヲ得ルコトヲ確実ナラシムヘキ平和カ確立セラレル
  コトヲ希望ス
7、右平和ハ一切ノ人類ヲシテ妨害ヲ受クルコトナク公ノ海洋ヲ航行スルコトヲ得
  シムヘシ
8、両国ハ世界ノ一切ノ国民ハ実在論的理由ニ依ルト精神的利用ニ依ルトヲ問ハ
  ス強力ノ使用ヲ抛棄スルニ至ルコトヲ要スト信ス。陸、海又ハ空ノ軍備カ自国
  国境外ヘノ侵略ノ脅威ヲ与ヘ又ハ与フルコトアルヘキ国ニ依リ引続キ使用セラ
  ルルトキハ将来ノ平和ハ維持セラルルコトヲ得サルカ故ニ、両国ハ一層広汎ニ
  シテ永久的ナル一般的安全保障制度ノ確立ニ至ル迄ハ斯ル国ノ武装解除ハ
  不可欠ノモノナリト信ス。両国ハ又平和ヲ愛好スル国民ノ為ニ圧倒的軍備負担
  ヲ軽減スヘキ他ノ一切ノ実行可能ノ措置ヲ援助シ及助長スヘシ。
                          フランクリン・ディー・ローズベルト
                          ウィンストン・チャーチル


資料2-------------------------------
                  連合国共同宣言

〔アメリカ合衆国、グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国、ソヴィエト社会主義共和国連邦、中国、オーストラリア、ベルギー、カナダ、コスタ・リカ、キューバ、チェコスロバキア、ドミニカ共和国、サルヴァドル、ギリシャ、グァテマラ、ハイティ、ホンジュラス、インド、ルクセンブルク、オランダ、ニュー・ジーランド、ニカラグァ、ノールウェー、パナマ、ポーランド、南アフリカ及びユーゴースラヴィアの共同宣言〕
                        (1942年1月1日ワシントンで署名)

 この宣言の署名国政府は、
 大西洋憲章として知られる1941年8月14日付アメリカ合衆国大統領並びにグレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国総理大臣の共同宣言に包含された目的及び原則に関する共同綱領書に賛意を表し、
 これらの政府の敵国に対する完全な勝利が、生命、自由、独立及び宗教的自由を擁護するため並びに自国の国土において及び他国の国土において人類の権利及び正義を保持するために必要であること並びに、これらの政府が、世界を征服しようと努めている野蛮で獣的な軍隊に対する共同の闘争に従事していることを確信し、次のとおり宣言する。
(1)各政府は三国条約の締結国及びその条約の加入国でその政府が戦争を行っ
  ているものに対し、その政府の軍事的又は経済的な全部の資源を使用するこ
  とを誓約する。
(2)各政府は、この宣言の署名国政府と協力すること及び敵国と単独の休戦又は
  講和を行わないことを誓約する。
   この宣言は、ヒトラー主義に対する勝利のための闘争において物質的援助及
  び貢献をしている又はすることのある他の国が加入することができる。


資料3-------------------------------
                   カイロ宣言

                    (1943年11月27日「カイロ」に於いて署名)
「ローズベルト」大統領、蒋介石大元帥及「チャーチル」総理大臣は各自の軍事顧問及外交顧問と共に北「アフリカ」に於いて会議を終了し左の一般的声明を発せられたり
 各軍事使節は日本国に対する将来の軍事行動を協定せり 三大同盟国は、海路、陸路及空路に依り其の野蛮なる敵国に対し仮借なき弾圧を加ふるの決意を表明せり 右弾圧は既に増大しつつあり 三大同盟国は日本国の侵略を制止し且之を罰する為今次の戦争を為しつつあるものなり 右同盟は自国の為に何等の利得をも欲求するものに非ず
 又領土拡張の何等の念をも有するものに非ず
 右同盟国の目的は日本国より1914年の第1次世界戦争の開始以後に於いて日本国が奪取し又は占領したる太平洋に於ける一切の島嶼を剥奪すること並に満州、台湾及澎湖島の如き日本国が清国人より窃取したる一切の地域を中華民国に返還することに在り日本国は又暴力及貪欲に依り日本国の略取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし
 前記三大国は朝鮮の人民の奴隷状態に留意し軈て朝鮮を自由且つ独立のものたらしむるの決意を有す
 右の目的を以て右三同盟国は同盟諸国中日本国と交戦中なる諸国と協調し日本国の無条件降伏を齋すに必要なる重大且長期の行動を続行すべし



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