真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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アメリカによる南朝鮮単独政府樹立とノルドストリーム破壊工作

2022年09月30日 | 国際・政治

 9月29日の朝日新聞に「海底パイプライン破壊工作か」と題する記事が出ていました。ノルドストリーム1とノルドストリーム2の3カ所でガス漏れが発生したということです。そしてそのガス漏れは、西側諸国もロシアも「破壊工作」の結果であると受け止めていることがわかりました。
 だから私は、アメリカが脅しではなく、本当に実行したと思ったのですが、デンマークのボドスコフ国防相はNATOの事務総長と会い、今回の破壊工作にロシアが関わっているとの味方をにじませたといいます。あり得ないと思いました。
 バイデン大統領は、ロシアがウクライナに侵攻する前の声明で、”ロシアがウクライナに侵攻した場合、ノルドストリーム2を停止するよう緊密に調整してきた”と言ってるのです。また、”ロシアがウクライナに侵攻した場合、ノルドストリームを破壊する”言ったという記事を目にたこともありました。今年の2月のことです。
 そして先日、https://english.pravda.ru/ で、下記の記事を目にすることになりました。
 ロシア産ガスをバルト海経由で欧州に輸送するパイプラインの敷設にかかわり、ロシアと対立しているポーランドの前外務大臣が、「事故(破壊工作)」について、アメリカに謝意を表明する投稿をしたということに、ロシアは注目しているというような内容の記事です。それは、ロシアが破壊工作を実行したのが、アメリカであると受け止めていることを示していると思います。
”Russia pays attention to Poland's 'Thank you, USA' remark after Nord Stream accidents 28.09.2022 14:36 World
 Maria Zakharova, an official spokesperson for the Russian Foreign Ministry, reacted to the statement from Poland's former Foreign Affairs Minister Radoslaw Sikorsky about the Nord Stream gas pipeline accident.
Sikorsky on Twitter* thanked the United States for today's accident on Russian gas pipelines. Is this an official statement about a terrorist attack?" Zakharova wondered.
Earlier, Sikorsky tweeted "Thank you, USA” and posted a quote from Ame

 こういうNATO諸国とロシアの真っ向から対立する情報について、どちらが正しいか断定する手段を、私は持っていません。真実を知る手段がなければ、過去の歴史や関係国の政治家、政府の高官、軍人などの発言をもとに推測するしかないと思います。
 だから私は、ウクライナ戦争が始まってからは、ウクライナ戦争を主導するアメリカの対外政策や外交政策をふり返りながら、日々の情報を受けとめるようにしています。

 下記は、「朝鮮戦争の起源 1 解放と南北分断体制の出現」ブルース・カミングス 鄭/林/加地:訳(明石書店)から抜粋したものですが、第二次世界大戦後の朝鮮半島を、38度線で分断することにしたときのアメリカの関係者の考え方がよくわかります。
 朝鮮の人たちが建国準備委員会を結成し、着々と準備を進め、南北各界各層を網羅した代表一千数百名による「全国人民代表者会」を開催し、南北朝鮮を合一た「朝鮮人民共和国」を国号とする国家の創建と、新朝鮮国民政府の樹立を決議したにもかかわらず、アメリカは、そうした取り組みとは関係なく、勝手に、できうる限り広い占領領域を確保のために38度線を設定し、その後、共産主義勢力を排除した南朝鮮単独政府の樹立に専念したのです。
 下記には、”南だけの単独政府を樹立しようとするソウルの米軍政の決定は、1945年11月20日付のウイリアム・ラングドンの電報の中にはっきり述べられている”とあります。
 でも、ソ連軍は、アメリカ軍と違って、北朝鮮占領の直後、この人民共和国を承認したのです。だから、アメリカが人民共和国を承認すれば、朝鮮が分断されることはなかったし、戦争することもなかったのだと思います。
 アメリカが、相手国を潰すことになっても、覇権や利益の維持・拡大を目指す姿勢が、今なお変わっていないことは、世界のあちこちの紛争に対するアメリカの関わり方を調べればわかるように思います。
 だから、ノルドストリームの破壊工作は、アメリカによるものである可能性が大きい、と私は思うのです。
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                    第一部 物語の背景
    
                  第四章 坩堝の中の対朝鮮政策 

 戦後最初のコンテインメント(封じ込め)作戦──朝鮮の分断 1945年8月
 …ポツダム会談の真最中、ニューメキシコ州のアラモゴード(Alamogordo)で原爆実験が成功したという報に接するや、これこそはソ連と交わした外交的な約定を凡て反古にした上で太平洋戦争を短期間に終息させ、そして東アジアの戦後処理の問題に対するソ連の参加を排除し、もって実質的にロシア人を封じこめうる絶好のチャンスと判断したのは、他ならぬこれらの政策担当官や大統領側近の顧問ないし大統領自身であったのだ。アメリカは8月6日と9日、広島と長崎に続けて原爆を投下したが、ソ連は間髪を入れず、アメリカの予測していなかった軍事行動をアジア大陸で開始し── そして日本は崩壊した。このような目まぐるしい事態の直後、朝鮮に38度線が引かれ、南北二つの分割地区が米ソ両国軍の占領下におかれることになる。
 北緯38度に線を引くというそもそもの決定は全くアメリカが下したものであって、この決定が下されたのは8月10日の夜から翌11日の未明まで続いた国務・陸軍・海軍の三省調整委員会(SWNCC:スウィンク)の徹夜会議のときであった。この会議の模様については幾つかの報告がなされているが、その中の一つを紹介すれば次の通りである。

 8月10日から11日にかけての深夜、チャールズ・H・ボンスティール大佐(後に将軍として駐韓国連合軍司令官に就任)とディーン・ラスク少佐(後にケネディ、ジョンソン両大統領の下で国務長官に就任)は……一般命令(General Order)の一部として朝鮮に於て米ソ両軍によって占領されるべき地域確定について文案を起草し始めた。彼らに与えられた時間は30分であり、作業が終わるまでの30分間、三省調整委は待つことになっていた。国務省の要望は出来うる限り北方に分断線を設定することであった。陸軍省と海軍省は、アメリカが一兵をだに朝鮮に上陸させうる前にソ連軍はその全土を席巻することができることを知っていただけに、より慎重であった。ボンスティールとラスクはソウルの北方を走る道(県)の境界線をもって分断線とすることを考えた。そうすれば分断による政治的な悪影響を最小限にとどめ、しかも首都ソウルをアメリカの占領地域内に含めることができるからである。そのとき手もとにあった地図は壁掛けの小さな極東地図だけであり、時間的な余裕がなかった。ボンスティールは北緯38度線がソウルの北方を通るばかりでなく、朝鮮をほぼ同じ広さの二つの部分に分かつことに気づいた。彼はこれだと思い、38度線を分断線として提案した。

 その場に居合わせたラスクの話も大体において以上の記述と一致している。ラスクの書いたものによると、マックロイ(SWNCCにおける陸軍省代表)は自分とボンスティールの二人に「隣の部屋に行って、アメリカ軍ができうる限り北上して日本軍の降伏を受諾したいという政治的要望と、そのような地域にまで進出するにはアメリカ軍の能力にはっきりした限界があるという二つの事実を、うまく調和させうる案を考えてほしい」と求めたという。以上二つの述懐の中で注目すべき大事な点は、朝鮮分断に関するこの決定の性格は本質的に政治的なものであって、しかも国務省の代表はこの分断をもって朝鮮を二つの勢力圏に分割することの政治的利益を主張したのに反し、軍部の代表は朝鮮に足がかりを確保するだけの兵力は無いかも知れないということについて注意を促したという事実である。
 ラスクの言によると、38度線は「もしかしたらソ連がこれを承諾しないかもしれないということも勘案した場合……アメリカ軍が現実的に到達しうる限界をはるかに越えた北よりの線」であったのであり、あとからソ連がこの分割線の提案を承諾したと聞いたとき、彼は「若干驚きを感じた」ということである。もう一つの説明によると、アメリカの提案がソ連に伝達されたあと、ソ連が果たしてどう返答するだろうかについて、アメリカは「暫くの間落ち着かない状態」にあったのであり、もし提案が拒否された場合は、構わず米軍を釜山に急派すべきだという意見もあったという。……
 ・・・以下略
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                  第六章 南朝鮮の単独政府に向かって

 我々は政治権力の基本的な道具である官僚制、警察、そして軍隊に関するアメリカの事実上の政策が、最初にアメリカ軍が上陸してから数週間ないし数ヶ月の間にどのような形で朝鮮で形成されていったかを検討してきた。これらのアメリカの政策は、朝鮮は実質的には分断国家であり、アメリカとソ連が管理するそれぞれの地域の間には、何の協力関係も、また政策上の相互補完関係もありえないという前提に基づくものであった。ソ連軍は、アメリカ軍と違って、北朝鮮占領の直後、人民共和国(人共)を承認した。従って、これら二つの外国勢力は、それぞれ政治的主張において両極端に位置する朝鮮人と手を組んだ上、全く異なった政治機構を通じて占領政策を実施した。
 しかし、アメリカ軍政は明らかに不利な立場にあった。なぜなら彼らが味方にした朝鮮人の大部分は、植民地時代における日本人との関係によって自らの過去を汚した連中であり、軍政の官僚機構を離れて大衆の支持の下に自立しうる政治組織を作るような能力に欠けているようにしか思われなかったからである。そこで、アメリカ軍政の目標は、自分たちの施策は朝鮮人の民族主義的要求を充足させるためのものであるという信憑性を与えてくれるような、信頼しうる愛国的朝鮮人の協力を得ることに集中した。もしこれらの人々とその支持者たちが復活された旧総督府官僚機構の行政職トップに据えられれば、アメリカが築き上げた既存の諸秩序に正統性を付与する役割を演じてくれるだろう。実際に、1945年末から48年を通じてアメリカの政策のほとんどは、復活された官僚機構を統轄できると同時に、アメリカ側としても受諾しうる朝鮮人指導者を探し当てることに関連したものであった。ここでもまた、ホッジはワシントンの上司たちと対立したのである。

 臨時政府の帰国と「政務委員会」(Governing Commission)
 1945年、ホッジと彼の顧問たちは、臨時政府とそれに関係した朝鮮人、たとえば李承晩や金九のような人々は、アメリカの努力にプラスとなりうる大衆的支持と正統性といったものを保持していると考えていた。すでに見たように、9月15日、すでにベニングホフは、臨時の指導者を占領軍の表看板として朝鮮に帰国させるべきであるというホッジの建議を上部に回附した。日本にいるマッカーサーの政治顧問代理、ジョージ・アチソンも10月中旬、ホッジとの会談後もう一度この構想に対する支持を表明した。

 私はここ暫くの間、「国務」省当局に対し以下の建議を提出することを保留してきたが、朝鮮の現状からすれば我々は誰か大衆の人気と信望を集めている進歩的な指導者ないし少数のグループを見つけてこれに中核組織としての役割を担わせ、やがてこれをしてわが軍政庁の指令と協力の下に行政力をもつ政府へと発展させることが必要であり、もうそのような措置をとるべき時期にさしかかっているのではないか、本格的な考慮を払われたい。そのような中核組織は「大韓民国臨時政府」という名称である必要はなく、「朝鮮国民行政委員会」というような名前が敵当であろう。ホッジ将軍が作った顧問団はその委員会の顧問になることも可能であり、あるいは状況如何によっては、将来その委員会に統合されることも可能である。

 彼は同時に、この委員会を指導しうる3人の名前を示した。李承晩、金九、そして金奎植であって、全員臨政の指導者である。アチソンはこのような提案が「アメリカの過去の考えと相反するもの」であることを認めたが、しかし、「積極的な行動をとらない限り……我々の困難は時がたつにつれてますます増大するだろうし、ソ連によって北朝鮮に作られ支援されている共産主義集団は、その影響力を南朝鮮まで拡大し、その結果は容易に予想される」ものであろうと主張した。臨政とは何であり、それに関する「アメリカの過去の考え」とはどのようなものであったのだろうか。
 1919年に臨政を組織した指導者たちが一緒に活動したのは、1921年までであったにすぎない。その後、その集団は幾つかの派閥に分裂し「ほぼ消滅」したとさえ言われた。1920年代後半の上海にあって金九は臨政本部の家賃の支払いにも事欠く有様であった。臨政は真珠湾攻撃後少し活気を取り戻し、戦争の後半期には金九傘下の右派は、金奎植や金元鳳(キムウォンボン)に率いられた穏健派や左派と一時的に同盟したりした。しかし、臨政は国内の朝鮮人とは結びつきを持たず、重慶にある国民党政府の好意の下で存続したにすぎない。中国で対日戦が7年も続いた時点においても、臨政の指導者たちは連合国の戦争遂行努力にどう参加すべきか、その方法について何の具体案も持っていなかった。このことは、1944年の5月、駐中国アメリカ大使クレランス・ゴーストと臨政の趙素昴(チョソアン:臨時外務部長)との対話で示されている。

趙 臨政が連合国に承認されれば、我々臨政は朝鮮人が日本軍に徴集されるのを阻止することができるかもしれません。
ゴース どうやってですか?
趙 どうやればそれができるか、貴方のお考えを知りたいものです。
ゴース 誰か朝鮮人が朝鮮(ママ)、満洲、あるいは日本の軍事情報を手に入れて、それを連合国に送ったことがありますか?
趙 いいえ、ありません。
ゴース そうしようとする試みはありましたか?
趙 いいえ、しかしそれは資金がないと困難です。宣伝の機会はあるかも知れません。なぜなら最近朝鮮から重慶にたどり着いたある人の話によると、国内ではカイロ宣言は知られていないし、臨政についてもほとんど知られていないからです。

 この会談で趙はゴースに、臨政の光復軍はわずか500人ばかりの武装していない兵士と将校の集まりに過ぎないが、満洲にはパルチザンの大部隊がいることを告げている。もちろんこれは例えば金日成に率いられたパルチザンのような兵力を意味していた。
 大韓臨時政府の「政府」は自称であって、たとえば戦時中イギリスやアメリカに承認され、約9万人の兵力を有していたロンドンにおけるポーランド亡命政府とは全く比較にならないものであった。臨政とは要するに、孤絶した異郷の地にあって、しかも支配すべき国民を持たない存在であった。にも拘らず、1925年に臨政から追放された李承晩は依然として「臨政の駐米特命全権大使」を自称し、1940年代初め全朝鮮を代表する正統政府として、臨政に対するアメリカの正式承認を獲得しようとした。李は1942年の初め頃、ブルックリンの出版業者M・プレストン・グッドフェローの斡旋で国務省の官僚たちと会いその後彼らと文通を続けていた。1944年の6月以前のある時点で李は、戦争が最終的な局面に入り勝利が近いと考えていた国務省官僚に、共産主義と民主主義間の新しい闘争が水平線上に姿を現しているということを力説し始めた。つまり「アメリカがソ連との最終的衝突を避けようとするなら、その唯一の可能性は可能な限り全世界のいずこにおいても共産分子を抑え民主主義勢力の増大を図ることである」というわけだ。彼は臨政に対する承認を訴え、それによって「朝鮮における内戦の可能性を排除できる」と主張したのである。承認が得られそうにないと見るや、李と彼のアメリカ人支持者たちは、それは国務省内の共産主義者の影響のせいであると、次のような言葉で非難する手を使い始めた。

 (共産主義者)グループはこれまで、そして今も尚、国務省の何人かの官僚の協力を受け続けている。それを考えれば、国務省が朝鮮の共産主義者達に(ポーランドの)ルブリン政府のようなものを樹立する機会を与えるため、重慶の臨時政府に対する承認をしぶっているのではないかという我々の疑念が一層明確になってくるように思われる。

 国務省はこのような論を一蹴した。李承晩の伝記作者によると、早くも1942年に以下のようなことがあったという。

 李は(スタンリー・)ホーンベック博士から、国務省の中で、李は朝鮮国内では知られていないし、臨政は亡命者グループ間の限られたメンバーが勝手に作ったクラブにすぎないというふうに信じられているという、にべもない話を知らされた。

 後日国務省は、臨政の指導者たちが「個人的な野心に燃え、少なからず無責任である」ことに気づき、臨政に対する支持は「亡命者たちの間でさえ)大したものではないと指摘した。
 1945年の夏、アメリカは「実際に朝鮮人の意志を代表しているように思われる」朝鮮人団体を見出せなかったのである。そのような判断は、臨政の歴史とこの組織の当時の実力に照らし全く妥当なものであっただろう。また、これまで検討してきたように、国務省は1943年以来、ソ連が朝鮮半島を領有するかもしれないという可能性について憂慮していたのであり、このことを考慮に入れれば臨政に対する国務省のこのような判断はとりわけ重要であった。
 臨政に関する国務省のこのような認識は、ジョージ・アチソンが臨政に関する勧告をワシントンに送ったのとほぼ同時期にマッカーサー司令部が受け取った三省調整委員会(SWNCC)の「初期基本指令」に含まれていた。その指令は「貴官はいかなる朝鮮の臨時政府を自称する団体や類似の政治組織に対しても、決して公式の承認を与えてはならず、また政治的目的のために利用してはならない」と述べてる。もっともこの指令は、臨政に関して「貴官はもし必要であれば団体としてではなく、個人としての資格でその組織を利用しても構わない」と述べることによって、明らかな抜け穴を用意していた。しかしながらまた一方においてこの指令は「貴官はソ連側と連絡を保ち、それを通じて朝鮮の管理に関する手続きと政策において、この指令の目的と矛盾しないような最大限の(南北間の)均一性を達成するよう努力されたし」という要求もつけ加えている。ところがソ連は臨政に対しては何も公約のようなものを与えていなかったから、臨政の指導者たちを名目上の支配者とすることによって「手続きと政策における(南北間の)均一性」が実現されるはずはなかったのである。いずれにしても、1945年10月の中旬という時点では、南北朝鮮の行政面での統一をもとめる問題の中で、臨政の問題は取るに足らない程度のものであった。大体アメリカ軍政は、顧問団を設けたり、日帝時代の警察機構を復活させたりした時には南北間における政策や手続きを統一するという問題について何も考慮してはいなかったし、臨政を利用するという決定を下すに当たっても、何も気がかりを感じるようなことはなかった。
 国務省極東局局長のジョン・カーター・ヴィンセントは、アチソンの電報に対する回答の中で、臨政を利用することについては反対の意を表明している。しかし彼の発言には、アメリカの政策が理想主義と現実の間で本質的な矛盾を抱えていることが如実に示されていた。ヴィンセントは「共産主義分子の活動に対抗するためにある種の信頼できる朝鮮人のリーダーシップが必要である」ことには同意しながらも、しかし次のように述べている。

 アメリカ政府は、政府自体あるいは在朝鮮の軍司令官によって、金九グループ(臨政)のような集団であれ……また李承晩のような個人であれ、それがいかなるものであるにせよ、我々が他の朝鮮人ではなく彼等を支持しているという印象を与えるような行動がとられてはならないという方針を一貫して主張してきた。

 ヴィンセントと彼のワシントンの同僚たちは、久しく李承晩の奇怪な振舞いには辟易していた。のみならず、ヴィンセントはおそらく臨政に関するアメリカの政策については戦前からの一貫性を維持したいと望んでいた。しかし、彼がポトマック川のほとり、国務省という快適な場所から朝鮮を見ていたのに対し、ホッジと彼の国務省顧問達は朝鮮の現場で実際に解放という革命の渦巻きに直面していたのであった。アメリカ政府には、たとえ左翼が勝利を占めるにしても、第二次大戦終了以前における朝鮮政策の曖昧さを克服し、最終的には朝鮮の独立を認める公正かつ温情的後見制を貫くという王道を歩む覚悟ができていただろうか。ホッジは「信頼できる」と同時に、反共でもある朝鮮人の指導層をまるで手品でもやるようにつくり出すことはできなかった。どこかで彼は味方を見つけなければならなかったのだ。この現実を国務省に認識させる難事は、陸軍次官補のジョン・J・マックロイに委された。彼はヴィンセントへの回答として作成された覚え書の中で次のように主張している。

 ヴィンセントの覚え書は、朝鮮において我々が直面している真に緊迫した現実にはほとんど眼を向けていないように私には思われる。……ホッジ将軍との対話を通じて分かったことは、彼は共産主義者が直接的な手段をもって我々の地域(南朝鮮)において政府を掌握するような事態を憂慮しているということだ。もし、そのような事態になったなら、朝鮮人に自由に自分たちの望む形態の政府を選ばせようとする我々の意図は重大な難関に逢着することになろう。現在アメリカ占領地区の全域において、共産主義者による活動が積極的かつ知能的に展開されていることについては疑問の余地がない。……この問題に総括的に対処する最善の方法は、我々の主導の下に筋の通った尊敬できる政府ないし顧問のグループを形成させ、これがホッジ将軍の下で、現在38度線の南における政治的、社会的、経済的なカオスの中から何らかの秩序をもたらしうる状況を作り上げ、それによって、後日、朝鮮人が真に自由で強制されない選挙を行う基礎を提供することであると思われる。

 以北でのソ連の行動に関する様々な主張を列挙した後、マックロイは次のように続けている。

 ヴィンセントの覚え書の件に戻ると、それは結局、国務省はホッジを信用していないということを本人に伝えよということであり、しかも現地にいる彼に向って──この現地がいったいどれだけ困難な状況のもとにあるかを諒解していただきたいのであるが──アメリカの国益のために彼がやりたいと考えている幾つかのことをやらせる積りがないということを告げよということではないか。……我々は現地の共産主義の問題に関するより多くの情報と、如何にすれば我々の国家目的が共産主義者によってぶち壊しになるような事態を阻止しうるかについて彼の考え方を、国務省に送るよう強く求めるべきであろう。しかし海外に亡命していた朝鮮人のグループを十分に活用するという彼の構想は許容されるべきではないだろうか。勿論余り深くはまり過ぎないよう、彼が細心の注意を払ってくれればのことであるが。

 マックロイは明らかにアメリカの対朝鮮政策の矛盾を指摘したうえで、軍政庁の方針に賛成したのである。つまりアメリカ軍政は、あくまでも自らの主導力の下で朝鮮の政府を樹立しなければならないということだ。マックロイは、言うまでもなく片田舎の下っ端役人などではなく、戦後のアメリカ外交政策の決定にあたっては中心的な役割を演じてきた人物の一人だった。アメリカ軍政当局はこうして国務省との対立抗争に際して強力な味方を獲得したのである。
 南だけの単独政府を樹立しようとするソウルの米軍政の決定は、1945年11月20日付のウイリアム・ラングドンの電報の中にはっきり述べられている。彼は信託統治の構想は破棄すべきだという主張から始めている。
 

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建国準備委員会による「朝鮮人民共和国」の創建とアメリカの38度線単独決定

2022年09月27日 | 国際・政治

 前回、ゼレンスキー大統領が、”ウクライナも、欧州も、世界も、平和がほしい。戦争をしたがっている唯一の人物は誰か。私は知っている”などと言って、ロシアのプーチン大統領を非難したことを取り上げ、”戦争をしたがっている”のは、ロシアではなく、実はアメリカであろうということを書きました。
 アメリカは、ヨーロッパが、エネルギーをロシアに依存することが、アメリカの利益を損なうばかりでなく、アメリカとヨーロッパの結束を弱体化させると考えたことは、アメリカの国務省が、ノルドストリーム2の計画に関し、「欧州のエネルギー安全保障を弱体化する」との見解を発表したこと、また、当時のトランプ大統領も、”ベルリンはロシアの捕虜となっている”と述べたことなどで明らかであり、また、現実にアメリカが「ノルドストリーム2」に関わる企業を対象に制裁を課した事実は、「ノルドストリーム2」が有効に機能する前に、何とか手を打たなければならないという追い詰められた状況にあったことを物語っていたと思います。
 だから、アメリカは、ロシアの影響力拡大を阻止するために、さまざま方法でロシアを挑発し、ウクライナとの戦争に誘い込んだのだと思います。
 それは、裏を返せば、ロシアは利益の面でも影響力の面でも見通しが明るいこの時期に、せっかくの「ノルドストリーム2」の計画を潰すような戦争をするはずはないということでもあります。

 そうした見方で、ウクライナ戦争の報道を受け止める私は、アメリカの情報操作を、そこここに感じます。

 先日、9月25日の朝日新聞のトップ記事は、「林の陰 番号だけの十字架」と題する集団墓地に関する下記のような内容のものでした。
木々の香りが心地よい松林に、死臭が突然漂ってきた。さらに歩くと、60以上の遺体が横たわっていた。「身元不明」「首に傷」遺体が収められた白や黒の袋には、そう記されていた。ウクライナ北東部ハルキウ州の要衝イジューム。今月11日、約5か月にわたるロシア軍の占領から奪還が宣言された街だ。その外れで、民間人が埋められた集団墓地が見つかった。21日記者が訪れると、捜査当局による遺体の掘り起こしが行われていた。・・・別の場所では、帯状のひもを使って7人がかりで遺体を引き上げていた。穴の深さは1メートルほど。ひつぎに入れられた遺体もあれば、土に覆われたものもある。・・・墓には十字架が立てられていた。木材を簡単に組み合わせただけで、多くは名前も、亡くなった日付もない。「145」「275」「339」記されているのは番号だけ。この街で営んだ証しは、何も残されてはいなかった。遺体の掘り起こしが終わったのは23日。クリメンコ国家警察長官や、シネフボウ州知事のSNSへの投稿によると、見つかったい遺体は計447体。女性が215人を占め、子どもは5人いた。遺体が一部分しかなく、性別が分からない人も11人いるという。大半が民間人で、30人の遺体には首にロープがかけられたり、手を縛られたリするか、手足を折られるなど明らかな拷問の跡があったとしている。数人の男性の遺体は性器が切断されていたという。
 ロイター通信によるとロシアのペスコフ大統領補佐官は19日、ロシア軍の関与が指摘されていることについて「うそだ」と否定した。(イジューム=高野祐介)

 ロシアに対する国際世論に大きな影響力を持った「ブチャの虐殺」の報道にも、私はいくつかの疑問を感じましたし、kla tvなども、さまざまな疑問を提示していました。そして、上記の記事にも私は、疑問を感じます。
 ハルキウ州のオレグ・シネグボウ知事は、暴力的な死や拷問の跡がある450人の民間人の遺体が、森に埋められていたと明かし、”ブチャ、イルピン、マリウポリ……イジューム。これはウクライナ人の大虐殺だ!”と、ウクライナ侵攻で虐殺の可能性が指摘されている町の名を列挙して、強くロシアを非難したといいます。
 でも、ブチャでは虐殺遺体が路上に放置されていたというのに、イジュームでは松林に、一体一体、それぞれ1メートルほどの穴を掘り埋められていたといいます。松林に400を超える穴を掘る作業はかなり大変だと思うのですが、なぜ、虐殺した遺体を放置せず一体一体別々の穴に埋め、木製とは言え、十字架を立てたのかと疑問に思います。ウクライナ人を拷問したり、処刑したりするような野蛮な人たちが、そういう埋葬をするとは、私には思えないのです。
 また、そうまでして一体一体埋葬しながら、なぜ、”首にロープを巻いたり、後ろ手に縛ったり”、拷問・処刑など虐殺が疑われる痕跡を残したまま埋めたのか、私は納得できないのです。数人の男性の遺体は性器が切断されていたといいますが、なぜ、そんなことをする人たちが、遺体を放置せず、一体一体穴を掘って埋め、十字架まで立てたのでしょうか。 
 真実はわかりませんが、そこに私は、ロシアを悪とし、プーチン大統領を悪魔に仕立て上げて追い詰めようとするアメリカのプロパガンダの可能性を感じるのです。

 また、ウクライナ東部ドンバス地域(ルガンスク、ドネツク両州)や南部の一部を支配する親ロシア派は、ロシア編入を問う「住民投票」を行いましたが、銃を突き付けて投票を強制しているというような報道がくり返されました。
 でも、この地域は親ロ派の地域であり、長くウクライナのアゾフ連隊から攻撃され、多くの死者を出してきたという地域ですから、そんな強引な手段が必要だとは思えません。一部に投票を拒否しようとする反露のウクライナ人がいるのかも知れませんが、地域全体としては、編入に賛成なのではないかと思います。Twitterには、カチューシャの音楽が流れるなか、ニコニコして投票の列に並ぶ人びとをとらえた動画が投稿されていました(https://twitter.com/i/status/1573716583570370560)。周辺にはロシアの国旗の色の風船を持つ子どもの姿もあり、まるでお祭りのような雰囲気です。でも日本では、こうした動画を見ることはできず、銃を突き付けて投票を強制しているというような内容の報道がくり返えされているのです。

 前回は、1945年8月15日、天皇による「大東亜戦争終結ノ詔書」のラジオ放送が流れたその日に、朝鮮では建国準備委員会が組織され、翌月の9月6日には、全国の南北各界各層を網羅した代表一千数百名による、全国人民代表者会が開催されたこと、そして建国準備委員会を発展的に解消して、南北朝鮮を合一した「朝鮮人民共和国」を国号とする国家の創建と、新朝鮮国民政府の樹立を決議したことを取り上げました。
 今回は、そうした朝鮮の人たちの取り組みとは無関係に、アメリカが、やっていたことを「朝鮮戦争 三十八度線の誕生と冷戦」孫栄健(総和社)から、抜萃しました。
 アメリカは、日本の降伏直前、”ソ連勢力が朝鮮全域を席巻する前に、なんらかの政治的手段で、朝鮮半島における自国の足場を確保”しようと、夜を徹して国務・陸軍・海軍の三省調整委員会を続け、終戦処理の事務文書である「一般命令第一号」に、38度線の分割ラインを設定して、イギリス、中国、ソ連の三同盟国に通報、承諾を得たのです。下記で、その経緯がわかります。
 また、その発令者が日本国大本営のスタイルをとっていることも、実に巧みな戦略だと思います。

 朝鮮の人たちのそうした独立の取り組みを無視した、アメリカの覇権や利益の維持・拡大の戦略が、ウクライナ戦争にも見えると、私はいろいろな報道で感じるのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー       
                 第一章 戦後米ソ対立と南北体制の起源

                     第一節 38度線の成立 

 (四) ソ連軍南下とアメリカの驚き
 だが、このような、ソ連軍の急速な南下と現地日本軍の簡単な崩壊と逃亡は、アメリカ軍部の予想外の作戦進捗であった。
 このソ連極東軍の満洲・朝鮮全域への軍事的席巻を放置すれば、アメリカの戦後アジア政策構想が瓦解する恐れが生じることになった。そのため、このソ連軍による占領地域拡大の既成事実に対抗するには、アメリカも即刻自国軍戦闘部隊を派遣して、軍事的占領地域を広くしておく政治的必要があった。しかし、当時の太平洋・極東戦域において朝鮮半島に転用可能なアメリカの陸戦兵力は、マッカーサー元帥麾下の、沖縄占領部隊であり、日本本土侵攻作戦のために待機中であるジョン・R・ホッジ中将麾下の第二十四軍程度しか無かった。
 しかし、これらの沖縄戦占領米軍は朝鮮作戦のための準備はなんら持たない部隊であった。これを直ちに海上輸送して、まだ日本軍降伏以前の朝鮮半島に揚陸することは、事実上、不可能であった。
 しかし、朝鮮半島の地理的位置は、中国大陸やシベリヤ内部への橋頭保ともなる大陸から突出した半島でもある。これは、アメリカのような海上兵力が大陸に進出する際に必要な戦略的重要性を持つ。そこでアメリカの政策立案者達には、これ以上のソ連極東軍の急速南下を阻止する為にも、ソ連勢力が朝鮮全域を席巻する前に、なんらかの政治的手段で、朝鮮半島における自国の足場を確保する必要があった。

 だが、すでに8月9日には、第二の原爆が長崎に落とされ、8月10日、日本は降伏申し入れを連合国に通報していた。そして、8月14日、降伏の条件が合意され、翌15日、第二次大戦は終わる。しかし、ソ連極東方面軍第二十五軍隷下部隊は、その頃、北朝鮮東海岸の港湾地帯を南下して、軍事・工業施設を破壊しながら急速退却する日本軍守備隊を追撃。南下をつづけて、上陸部隊と連結して北朝鮮東北部を軍事的に制圧下に置いていた。さらに、ソ連太平洋艦隊艦船が朝鮮東海岸に出動して、19日にはソ連軍上陸部隊第三梯団の第三三五狙撃師団がナホトカ港を出発、清律に上陸する展開となっていた。

 (五) 38度線分割の緊急決定
 太平洋戦争の終結による日本軍の全面敗北によって、極東アジアに「力の真空状態」が生じるのは明らかであった。この真空を、軍事的に埋めることができるのは、南の海上からのアメリカ軍戦力か、それとも北の大陸からのソ連軍戦力かであった。
 この日本の降伏によって生じる極東の「力の真空状態」を埋めるために、また戦後世界における国際政治の主導権を争うために、戦時中における英米とソ連間の協調関係は崩れたとされた。米ソ両国はともに極東においても、その占領地域をできる限り拡大しておこうという考慮が優先的に働いたとされた。とくにアメリカ政府部内においては、ヨーロッパにおける戦後処理問題や占領地分割、政治的再編成等での米ソの利害対立の表面化などから、同様に、極東アジア地域に対するソ連の力の浸透への反発、恐れがあったとされた。
 すると、ここで政治的な重大問題となるのは、その米ソ両軍勢力・政治勢力のぶつかる線がどこに引かれるかであった。すなわち、大戦直後の軍事的結果として、アメリカ軍戦力が極東アジアに直接的に進出したと同様に、ソ連軍戦力も満洲を席巻して朝鮮半島におよぶ線まで、南下、拡大したのであり、ここで米ソ両軍が極東において直接接触することになったのである。その処理が、極東における米ソ両国の戦後処理の最初の係争問題となった。
 
 だが、もともと第二次大戦時の連合国間での政策、戦略決定では、ヨーロッパ戦線が連合国間の、それぞれ各国独自の立場と諸国相互の立場の調整、協議から決定されていたのと違い、アジアにおいては、その対日戦の全面的な主戦力であるアメリカが、ほぼ独断的に決定していた。また、対日戦勝利後の軍事事務処理や各国の占領地割当て、以後の占領地区の軍政などに関しても、その地域の勢力圏分割を事実上決定する判断においても、アメリカの政治的意志が濃く反映されていた。
 ソ連極東軍の電撃戦の成功と日本の早期降伏は、あるいはアメリカ政策立案者達の予想外のようであったが、全体的には、極東における戦後分割においても、具体的には、アメリカ政府と軍部が主体的に決定していた。
 
 この間の経緯については、すでに1944年末、対日戦が終局に向かっていくと、アメリカ統合参謀本部(JCS)は、終戦処理のための布告や命令の用意を終了。これらは、国務、陸軍、海軍三省調整委員会(SWNCC)に提出されたが、その一つに、「一般命令第一号」があった。この44年末の時点での「一般命令第一号」は、日本軍の武装解除と降伏受領、部隊の引き揚げ等に関する、きわめて実務的な内容の指令文書でしかなかった。
 だが翌年、1945年8月10日、日本はポツダム宣言を受諾、無条件降伏の申し入れを連合国側にした。この降伏の申し入れを受けてから、直ちにアメリカ政府と軍部内においては、その深夜から翌朝にかけて、終戦処理の緊急会議が設けられた。そして、問題の終戦指令文書である「一般命令第一号」の、その第一節に、各方面の日本軍の降伏を受領する連合国の分担を指定する主旨の文章が、急遽、挿入されることになった。
 その挿入部分の目的は、ソ連極東軍の満洲・朝鮮半島への急速南下と、それによる占領地域管理の既成事実化を危惧して、それ以上のソ連軍の進撃、すなわち、ソ連軍占領地域の拡大を抑止し、その共産主義的勢力圏が極東に浸透することを押し止めることにあった。

 この8月10日から11日にかけて、ワシントンの三省調整委員会で夜を徹して開かれた会議こそが、すなわち、朝鮮分断の発端であった。
 まず──8月10日の夜、ジョン・J・マクロイ陸軍次官がディーン・ラスク大佐(ケネディおよびジョンソン政権の国務長官)とチャールズ・ボーンスティール大佐(のちに在韓米軍司令官)の二人を隣室に呼び、30分の時間を与えて、ソ連軍の急進撃の現況を踏まえて、朝鮮半島を横に割って、米ソ両軍が分割占領管理する境界線を引く場所の判断具申を命じた。
 そこで彼らは、朝鮮地図を前にして、首都ソウルをアメリカ軍管轄地域に入れることを念頭に、その北の北緯38度線で線を引くのが適当と判断した。

 当時の両軍の展開状況では、アメリカ軍戦闘部隊が朝鮮半島に上陸するには、どうしても3週間の時間が必要とされたのに対して、ソ連軍の大機械化部隊は各地の日本軍部隊を撃破しながら、その進撃速度は更に加速されていた。たちどころに満洲を制圧して、そのまま一気に朝鮮半島南端の釜山まででも南下できる態勢にあった。つまり、38度線分割ラインの設定は、そのような軍事情勢下での、ソ連の軍事的進出を政治的に抑止するための、アメリカ側の急遽の対応であった。そして、このような太平洋戦争終戦直前の混乱のなかで、朝鮮半島の分断ラインは、30分で決定され、それは、予ねて用意の「一般命令第一号」に、各地域の日本軍降伏受領担当国の表現として、急ぎ挿入されることになった。
 
 その結果、それまでは終戦処理の事務文書でもあった「一般命令第一号」は、これによって、一夜明けると、戦後の連合国の占領地域割当に関する基本文書、米ソ両国の極東分割に関する根本文書へと変った、

 (六) 一般命令第一号
 このように、「一般命令第一号」は、アメリカ軍において起草用意されたものだが、発令者は日本国大本営のスタイルをとっており、それが隷下日本軍各部隊に対して、現地連合軍司令官への降伏を指令する形をとっていた。その主な内容は次のようなものであった。
A 満洲を除く中国、台湾および北緯16度線以北の仏領インドシナにある日本軍は、蒋介石総帥に降伏すべし、
B 満洲、北緯38度線以北の朝鮮および樺太にある日本軍は、ソ連極東軍司令官に降伏すべし、
C タイ、ビルマ、マライ、北緯16度線以南の仏領インドシナ、スマトラ、ジャワ……にある日本軍は、東南アジア軍最高司令官に降伏すべし、
D 省略(オーストラリア軍関係)
E 日本国委任統治諸島、小笠原諸島および他の太平洋諸島にある日本軍は、合衆国太平洋艦隊司令長官に降伏すべし、
F 北緯38度線以南の朝鮮にある日本軍は、合衆国朝鮮派遣軍司令官に降伏すべし、
G 日本国大本営、その先任指揮官、ならびに日本本土諸島およびこれに隣接する諸小島、琉球諸島およびフィリピン諸島にある日本軍は、合衆国陸軍部隊総司令官に降伏すべし。

 こうして修正された「一般命令第一号」は、8月15日までに引き続きアメリカ政府内部で検討され、さらに細部を修正された。そして、8月15日の日本降伏確定後に、この「一般命令第一号修正最終文書)」はイギリス、中国、ソ連の三同盟国に通報された。ただ、それは各国の同意を求めるためではなく、アメリカ案を一方的に通告する形のものであった。

 イギリス、中国は、ただちに同意の回答を送ってきた。だが、スターリンソ連首相は翌16日、トルーマン大統領に書簡を送り、千島列島ならびに北海道北部へのソ連軍進駐を求めた。これに対して8月18日、ハリ・S・トルーマン大統領は千島列島に関するスターリン首相の要求は認めたが、北海道北部の占領は拒否した。だが、ソ連は意外にも、それ以外の朝鮮半島の38度線の分割ラインの設定などの部分に関しては、なんらの反対意見を表明しなかった。
 この朝鮮半島分断申し入れに対するソ連の受諾は、ソ連極東軍が朝鮮半島全域を簡単に占領できる情勢であっただけに、アメリカ政府筋でも驚きをもってみられた。これは、まだ連合軍間の同盟関係において、まだある程度の協力関係が存在していたからとみられた。つまり、この時点では、戦後の米ソ対立、東西両陣営の冷戦は、まだ深刻な形のものとしては始まっていなかった。

 スターリン首相によって承認された「一般命令第一号」の主旨によって、ソ連軍は、その進撃南限を38度線とすることを了承して、米ソ両軍の役割分担に従い、38度線を前にして、その戦闘部隊は前進を停止した。このような一連の経緯によって、アメリカ政府がソ連勢力の朝鮮半島南下を政治的に抑止する手段として、8月15日に急遽、ソ連政府に対して通告した緊急提案でもある「一般命令第一号」の内容、すなわち、北緯38度線以北の日本軍の降伏はソ連軍が受領し、以南はアメリカ軍が担当するという軍事協定の主旨は、一応、初期の目的が果たされた。

 これで、朝鮮の分割占領が決定されたが、しかし一方政治的には、これで朝鮮の政治的分断が決定化された。すなわち、1945年秋頃からの米ソの戦勝国間の戦後処理にともなう利害対立が表面化しだし、ともに異質なイデオロギーや社会制度の相剋の問題もからみ、調整不能なまでに深刻化。やがて、東西冷戦として米ソの全面的政治対決へと発展していくにしたがい、当初は暫定的な線であった筈の38度線の分割ラインは、戦後冷戦構造での東西両陣営の最前線に変じて、さらには朝鮮半島を南北に分断する前線と化して行き、ついには恒久的な国境線へと変容していくことになった。

 

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朝鮮建国準備委員会とアメリカによる38度線単独決定

2022年09月25日 | 国際・政治

 ウクライナのゼレンスキー大統領は21日、国連総会一般討論にビデオ演説を届け、そのなかで、ロシアへの処罰を訴え、安保理におけるロシアの拒否権を剥奪するよう主張しているといいます。私は、この主張は、アメリカのロシア孤立化・弱体化の目標を代弁するものであるように思います。
 また、”ウクライナも、欧州も、世界も、平和がほしい。戦争をしたがっている唯一の人物は誰か。私は知っている”などと言ったようですが、不可解です。
 ではなぜ、ゼレンスキー大統領は、ロシアがウクライナとの国境線に軍を集結させていたときに、話し合いを求めたり、侵攻を止めるために関係各国にさまざまな働きかけをしなかったのでしょうか。
 バイデン大統領もロシアは2月16日にウクライナに侵攻するだろうというような予言めいた発言をしましたが、侵攻を止めるための活動については、何ら報道はありませんでした。逆に、話し合いをしないのかと問われて、今は話し合う時ではない、とか、話し合う意味がなければ、話し合いはできないなどと言ったことが報道されました。
 そして、ゼレンスキー大統領は、くり返し各国に武器の供与を求め、アメリカは武器の供与だけでなく、世界各国に、ロシアに対する制裁を呼びかけました。
 したがって、私は、”戦争をしたがっている”のはロシアではなくアメリカであり、アメリカと一体となっているゼレンスキー大統領だろうと思うのです。

 ずいぶん前になりますが、米紙ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)は、独露間で建設されているガスパイプライン「ノルド・ストリーム2」に関するバイデン米政権の姿勢に皮肉を込めて、下記のような記事を掲載したといいます。
 ”バラク・オバマ氏とドナルド・トランプ氏は、ロシアからドイツへ直接輸出される天然ガスの量を2倍にし得る110億ドルのガスパイプラインに反対してきた。しかし、バイデン政権は、今回同プロジェクトの完成を祝福し、ウクライナと欧州のエネルギー面の独立を犠牲にウラジーミル・プーチンに大きな戦略的勝利をプレゼントしたのだ
 だから、ドイツの原発廃止方針に端を発するエネルギー問題で、ヨーロッパに対するロシアの影響力が決定的に拡大することを恐れたアメリカが、ロシアを挑発し、ウクライナ戦争に踏み切るようにしたのだろうと、私は思うのです。
 そして、現実には、ウォール・ストリート・ジャーナルの記事とは反対に、バイデン大統領の策略に基づくウクライナ戦争によって、今回、同プロジェクトの完成をほぼ破壊することに成功したといえるように思います。
 さらに、国連安保理におけるロシアの拒否権を剥奪することで、バイデン大統領の目標は、ほぼ達成されることになるように思います。

 9月23日朝日新聞社説も、ウクライナ戦争を主導するアメリカの動きや姿勢などを全く論じることなく”世界秩序を破壊するロシアに、常任理事国の資格がないことは明らかだ。国連改革の道は険しくとも、平和と安全を守る国連の機能を担保する方策を真剣に論議する必要がある”などと記して、アメリカの方針を後押ししているように思います。
 だから私は、戦後のアメリカの対外政策や外交政策をふり返り、世界各地でアメリカが関わった過去の紛争の事実を確認しています。

 今回は「朝鮮戦争」ですが、朝鮮では、1945年8月15日の日本の無条件降伏によって、日本の過酷な植民地支配から解放されました。あちこちで終日「マンセー」の声が響き渡ったといいましす。
 そして、朝鮮総督府の働きかけに応じて、朝鮮市民に声望のある呂運亨が立ち上がり、朝鮮人の自由意思による民族国家の樹立、その政府および政治形態を決定をするべく、関係者を集めて、天皇の無条件降伏の放送が流れたその日に「建国準備委員会」を組織し、活動を開始しています。
 翌16日には、建国準備委員会は、ラジオを通じて具体的な建国方針を朝鮮市民に訴えたといいます。だから、この呼びかけに応じて、朝鮮各地で続々と各地の準備委員会が組織され、急速に朝鮮市民自身による自治、自主管理が推進されていくようになったといいます。そして、朝鮮全土の道、府、市、郡、面から洞・里(部落)にいたるまで、民衆の手で建国準備委員会の「下部組織」と「保安隊」が作られたというのです。
 9月6日には、全国の南北各界各層を網羅した代表一千数百名の中心的人物をソウルに召集して、「全国人民代表者会」を開催し、建国準備委員会を発展的に解消して、南北朝鮮を合一た「朝鮮人民共和国」を国号とする国家の創建と、新朝鮮国民政府の樹立を決議したといいます。
 さらに翌7日には、朝鮮人民共和国臨時組織法を上程採択して、その成立を宣言し、中央人民委員会の中央執行委員会12名、人民委員55名、候補委員20名、顧問12名を選任しています。9月14日には、共和国政府の組閣も完了しているのです。朝鮮民族の自主独立の願望がどれほど強いものであったかが、わかるような気がします。

 にもかかわらず、アメリカは、この朝鮮民族の自主独立の取り組みを無視し、何の話しも相談もせず、38度線での分断を決め、ソ連に働きかけて、米ソ両軍による分割占領・管理の承諾を得ているのです。「朝鮮人民共和国」の創建と、新朝鮮国民政府の樹立は、完全に無視されたのです。
 それは民主主義や自由主義を掲げる国のやることではないと思います。ひどい話だと思います。

 下記は、「朝鮮戦争 三十八度線の誕生と冷戦」孫栄健(総和社)からの抜萃ですが、「朝鮮人民共和国」の創建と、新朝鮮国民政府樹立に至る経緯がわかります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
           第一章 戦後米ソ対立と南北体制の起源

             第二節 朝鮮の解放と軍事占領

 (二) 朝鮮独立運動と左右両派の構図
 だが一方、その反作用として、朝鮮民衆のなかの政治的主権の回復、民族国家復興へのエネルギーは国外亡命集団による抗日独立運動として、中国、満洲、アメリカ、ソ連の土地へと分岐して行った。また、朝鮮内部に沈潜して、国内勢力による左右両派の独立闘争として、いくつかの潮流に分岐。それぞれ独自に展開されていくことになった。
 この各派の独立運動の諸派の流れ、活動の性格も、その後の路線対立や内部紛争により複雑な軌跡を辿った。左右両派への分裂、あるいは活動の舞台をどこにするかなど、さまざまな形態に分岐して行き、その様々な流れは各自の主義と信念にもとづいて、国外あるいは国内において独自の独立運動を展開する状況にいたった。それは改良主義から武装路線、また極左から極右まで広範な、ある面では不統一な独立運動の潮流を形づくっていた。だが最終的には、広範な諸戦線を統一する運動の中核的組織は確立されなかった。結果として1945年8月15日直前の時点において、大別すれば、次のようなメンバーを中心とする独立運動の流れが存在していた。

〇 アメリカ派 ・・・・・・・ 李承晩、李起鵬、許政
〇 重慶派(臨時政府派)・・・ 金九、金奎植、李範爽、李始栄
〇 延安派 ・・・・・・・・・ 金科奉、崔昌益、武亭、許貞淑
〇 ソ連派 ・・・・・・・・・ 金日成、崔庸健、南日、金策、金光侠、許可誼
〇 国内民族派 ・・・・・・・ 曺晩植、宋鎮禹、金性洙、安在鴻
〇 国内進歩派 ・・・・・・・ 呂運亨、洪命薫、曺奉岩
〇 国内共産系 
    ソウル(長安)派 ・・ 李英、鄭柏、崔益翰、李承燁
    火曜会(再建派)・・・ 朴憲永、李観述、金三龍、李舟河
    M・L派 ・・・・・・ 李廷允、申用雨、朴用善
〇 在日アナキスト ・・・・・ 朴烈

 この独立運動における主な国外民族主義グループとしては、中国に亡命政権を樹立し蒋介石の中国国民党の支援の下に独立運動を展開した右派民族主義者の金九、中道派の金奎植が率いて上海、重慶などで活動していた大韓民国臨時政府(亡命)政府、アメリカで朝鮮委員会を組織して外交活動をおこなっていた李承晩らの在米グループ、また中国共産党と連携しながら中国亡命組織として活動していた 金科奉、武亭(金武亭)、崔昌益らの延安グループ、ソ連国内に亡命居住していた許可誼などのソ連系朝鮮人グループ、コミンテルンの指導下に満洲において活動していた金日成らの共産主義者グループ(ソ連派)等があった。

 また、これらの武装闘争路線にもとづく軍事組織としては、とくに右派では大韓民国臨時政府が編成して、中国国民党軍と連携しながら抗日戦を戦った光復軍司令部の戦闘部隊、また、共産主義グループでは、コミンテルンとソ連極東軍の指導下で満洲において抗日遊撃戦を展開した金日成らパルチザン・グループ、中国共産党の支援のもとに大陸において抗日戦を闘った 金科奉、武亭、崔昌益らの朝鮮独立同盟軍(延安派)などの武装部隊、あるいはソ連に亡命移住した在ソ朝鮮人でソビエト赤軍に入った朝鮮人軍人の一群などが有力であった。
 一方、朝鮮国内での民族主義グループとしては、国内での日本による統治政策での制限下において穏健な活動を行い、のちに韓国民主党に結集した金性洙、 宋鎮禹らを代表とする有産階級による保守派のグループがあった。また、左派民族主義系の流れとしては、のちに南朝鮮国内で朝鮮人民共和国を結成した呂運亨を中心とする建国同盟などのグループがあった。
 また、かつての生活苦にもとづく日本支配下での抗日運動では、その民族感情と独立への願望が容易に共産主義思想とむすびつきやすい時代状況もあった。その潮流の、すなわち無産階級と当時の進歩的知識人の民族感情を吸収したのは、おおむね朝鮮共産党の流れをくむ国内共産主義者グループ等の系統であった。その民族としての皮膚と、血に訴える自覚運動、民族闘争と、日本の侵出資本主義に結びついている朝鮮財閥地主を打倒しようとの階級闘争をも唱える流れは、朝鮮共産党の内部分裂後も、執拗に朝鮮国内における苛酷で残忍な弾圧状況下での地下活動を継続し、後に南朝鮮労働党を結成した 朴憲永を中心とする国内共産主義者達のグループの系統として深く朝鮮市民の間に潜行していた。

(三) 分派的風土と政治的求心力の欠如
 しかし、これらの独立運動の各グループ、また亡命政府や組織、あるいはその戦闘部隊は、その抗日民族解放運動を一貫して継続的な活動を長期にわたって展開してはいた。
 だが、各政治勢力は自力によって祖国解放を成し遂げたのではなかった。結局、第二次大戦の日本敗北の結果として、他力による朝鮮解放の日を迎えることになった。そのため、各政治勢力は、その運動の経緯と解放への貢献度においても、また組織内容と規模、政治理念と実際的能力においても、そのバックグラウンドとなる外国勢力との関係においても、以後の解放朝鮮の統一的中心勢力となるほどの正統性や基盤は、どの勢力も弱かった。また、抗日民族解放運動の時代に左右合作による民族統一戦線の樹立に失敗し、深刻な内部対立を展開した経緯もあった。さらに国内諸派の運動は、日本政府官憲の徹底的な弾圧のため、統一的な連携がと創り出せる状況ではなかった。つねに組織的な弾圧を受けて、それぞれ各派の独自の路線のまま孤立的な潜行活動をする状況であった。
 そのため、解放後朝鮮半島における統一的国民一致的な受け皿となるには、どの諸派ともに、組織的・内容的な脆弱性を常に内部に含んでいた。このような解放前の独立運動の諸派閥が内包していた路線対立の矛盾は、やがて8月15日以後に、逆に深刻化することになった。

 その1945年8月から年末までの決定的時点において、国内で沈潜していた国内派が政治の全面に飛び出し、また国外の諸グループ、亡命政府、諸軍事団体が国内に還流してきた際に、各派がその活動舞台としていた国内の諸階級や、依存していた外国勢力とのイデオロギーや利害などとの関連もからんで、やがて各派の相互矛盾が一気に噴出することになった。
 すなわち彼らが忌み嫌った36年におよぶ日本統治の収奪と抑圧から解放された1945年において、朝鮮の以後の統一政治的な中核として、国内的にも国際的にも認められるような公的な政治思想的・政体的な受け皿が存在せず、以後の朝鮮の政情がどの方向に向かうのかを予測できるものはほとんどいなかった。そして、以後の朝鮮半島政権は、米ソの戦後対立の圧倒的な影響もからんで、また、朝鮮の伝統的政治風土である党争、派閥主義、党派性の問題もからんで、極めて複雑な軌跡を辿ることになった。

 (四)日本降伏と建国準備委員会
 1945年8月15日正午、ポツダム宣言受諾を告げる天皇の無条件降伏放送がソウルの市街にも流れた。これは36年に及ぶ、苛酷な他民族支配の終焉と朝鮮民族の解放を意味するものであった。この日、夜半遅くまで「マンセー」の歓声がソウル市街や全国にどよめいた。そして一般の朝鮮市民にとって、日本の敗戦による戦争終結は朝鮮の即時独立を意味するものであった。
 すなわち、1919年3月1日のいわゆる「三・一万歳事件」を頂点として、日本統治下で絶え間なく独立地下活動につとめてきた朝鮮人民族主義者たちは、1945年8月15日の日本の無条件降伏によって、過酷な植民地支配から解放されたが、その時にあたって彼等のほとんどが朝鮮が即時独立し、朝鮮人の自由意思によって、民族国家の樹立、その政府および政治形態の決定をなし得るものと解釈した。
 だが、この時期の国際政治においては、すでに43年11月でのカイロ宣言において、「やがて朝鮮が自由かつ独立のものとなることを決定した」という一項があり、また45年7月26日のポツダム宣言の第8項で、「カイロ宣言の条項は履行される……」とあって朝鮮半島は「やがて独立の国家」となることが確定していた筈であったが、この「やがて」という表現「in due course」の具体的な内容は、この時点では米英中ソの戦勝四大国の合意として確立されていなかった。だが、一般的意味としては、それは米ソ等の戦勝大国により、彼らの定める期間、朝鮮を国際的信託統治の下に置くという連合国間の諒解を含んでいた。これは、一般的には朝鮮市民には想像もつかないことであり、朝鮮解放は、無条件な、即時独立として受け止められていた。

 一方、現地朝鮮においては、朝鮮総督府の日本人官僚達が日本敗戦後の対策に苦慮していた。当時のソウルの朝鮮総督阿部信行や政務総監遠藤柳作などは、ソ連極東軍の総攻撃による満洲駐屯関東軍のパニック的崩壊、あるいは民間人を見捨てての政府・軍関係者の急速逃亡などの状況、ソ連第二十五軍隷下狙撃師団の朝ソ国境突破南下、あるいはソ連太平洋艦隊所属海兵部隊などの北朝鮮東海岸港湾地帯への強襲上陸作戦の実施、またすでに東京政府のポツダム宣言受諾方針の探知等により、日本敗戦後の混乱を予測して、その対応策をとろうと試みていた。
 一説によると、8月9日、日本軍武装解除後の朝鮮の治安(朝鮮総督府関係者・日本人保護)のため、東亜日報前社長の宋鎮禹に降伏後の朝鮮の治安維持(安全保障)を依頼した。だが、保守派の民族主義者である宋鎮禹は、①朝鮮における政権の樹立は、まず連合国の承認を待つべきこと ②朝鮮の正統政府は重慶で亡命活動中の臨時政府(大韓民国臨時政府)であり、これを帰国させて統治権を委譲すべきであるとして、両三度にわたる朝鮮総督府日本人官僚の懇請を拒絶したともされた。
 一方、政務総監遠藤柳作は、8月15日の早朝に進歩派の民族主義者で、朝鮮市民に声望のある呂運亨に降伏後の治安の維持を委嘱した。遠藤は呂運亨に「日本は戦争に負けた。今日か明日の敗戦が発表されるだろう。そうなったときに治安を守らなくてはならないが、これから先の日本人の生命はこれにかかっている」と述べたとされる。呂運亨は、もし朝鮮独立に備えて秩序を維持するための何らかの委員会を組織して治安維持協力をしてくれるなら、新聞やラジオ、その他の交通機関の運営を委ねるという遠藤案を受けて、呂は次の五条件を示した。

① 全国の刑務所から全ての政治犯と経済犯を即時釈放すること、
② 8月、9月、10月の三か月間の食糧供給を保障すること、
③ 治安維持と独立準備のための朝鮮人活動に干渉しないこと
④ 学生の訓練と青年の組織にも干渉しないこと、
⑤ 労働者と農民を組織し訓練するのに干渉しないこと。

 すでに、ソ連軍の朝鮮半島全面占領が目前とされていた状況下で、朝鮮総督府日本人高官たちには選択の余地がなく、これを受諾した。そして呂運亨はこれを受けて「建国準備委員会」を結成することになった。すなわち、直ちに自宅に何人かの指導的人物を召集し、連合軍が進駐し、海外にいる亡命政客が帰国するまでの過渡的行政組織を樹立する構想を提示して、ここで建国準備委員会(建準)を組織することを決定した。
 こうして彼等は、基本的に政治的混乱をふせぎ法と秩序を維持し、国民の希望に合致した朝鮮政府を樹立するために、総督府の権限が委員会に渡されるよう総督府に提案した。総督府は現政府は解体されず、日本人の軍人および文官が職にとどまるのを妨げられないという了承の下に、これを承諾した。
 この建国準備委員会(建準)の委員長は呂運亨、副委員長は安在鴻および許憲(後に参加)、組織部長には鄭柏を推して、民主主義独立国家の建設準備に邁進するとともに、また、当時の朝鮮総督府とも治安維持に協力するという条件の下に、事実上総督府の権限移譲を受けたかのような具体的活動を行うに至った。
 翌16日、建国準備委員会は、ラジオを通じて具体的な建国方針を朝鮮市民に訴えた。この呼びかけに応じて、朝鮮各地では続々と各地の準備委員会が組織され、会社・工場・学校・新聞社・警察署などを接収して、急速に朝鮮市民自身による自治、自主管理が推進されていくようになった。また、解放から旬日も経たないうちに、朝鮮全土の道、府、市、郡、面から洞・里(部落)にいたるまで、民衆の手で建国準備委員会の下部組織と保安隊が作られた。
 また、すでに8月15日の翌日、朝鮮のすべての刑務所から膨大な数にのぼる政治犯、思想犯、独立運動の闘士たちが一斉に釈放されていた。こうして、長い他民族支配下での政治的抑圧と弾圧の暗雲が突如として晴れ、朝鮮半島は、その津々浦々まで政治熱に沸き立つことになった。また、無数の地方組織、政治集団、政党、労働組合、各種委員会や同盟、独立運動の地下組織等が連日のように、地下潜行から表舞台に飛び出して再建され、また新しく産声をあげていった。
 このような8月15日以後の朝鮮政情において、その後の数ヶ月間、南北朝鮮政治の中心となったのが、呂運亨の指導する建国準備委員会と、日帝警察にとってかわった治安隊・保安隊なのであった。

 (五) 左翼政治活動家の大量出獄
 しかし、この建国準備委員会は、当初は中道左派的な名士中心の中央組織であり、呂運亨自身も自由主義的な左派であった。だが、8月16日に数千人の独立運動の闘士、朝鮮人政治犯が日帝の監獄から釈放されたため、その強力なエネルギーが建国準備委員会各支部に急激に注ぎ込んだ。
 また、戦前・戦中の独立運動家には、とくに植民地主義・帝国主義反対の立場から左翼的な活動家が圧倒的に多かった。そのため建国準備委員会は、これらの強力な、古い活動歴を持つ独立闘士たちが主導権を握るようになり、北朝鮮においても、南朝鮮においても、たちまち左傾化していくことになった。
 また逆に、右派的な立場にある者は、国外亡命によって、独立運動を行い軍事組織より抗日戦を行っていた者は別として、一般にブルジョア階級に属して保守的立場にあった。あるいは日帝時代に、朝鮮総督下級官吏あるいは朝鮮人警官として雇用されており、結果として対日協力者として反民族的立場に立っていた経歴の者も相当に多かった。したがって、日本敗戦による解放直後の政治活動の前面からは、民族反逆分子として糾弾され、排除される場合が多かった。そのため、この時期の朝鮮政情は、国民感情からも、民族主義の立場からも圧倒的に左派が優勢であり、容易に左傾化した。
 このような政情の傾向の結果、共産主義グループは8月末くらいまでには、建国準備委員会のある程度の部分を掌握した。そして9月3日には、古くからの社会主義指導者である許憲を建準副委員長に就任させる経緯となった。しかし、そのため同委員会はその後の活動過程において、やがて急進派と穏健派間に意見対立が生じて、その右派である建準副委員長であった安在鴻は、9月1日脱退した。この流れの勢力は、韓国民主党および朝鮮国民党などの新党を組織する方向に進むことになった。
 だが委員会にとどまった急進的な左派は、呂運亨、許憲を中心として再出発。当時の南朝鮮政情において、極めて顕著な組織的活動を示した。
 この解放直後朝鮮政情の中心であった呂運亨の指導した建国準備委員会とその傘下の各地の地方委員会の系統の政治勢力は、やがて9月9日のアメリカ朝鮮派遣軍(第二十四軍団)の仁川上陸の前々日の9月6日には、ソウルで「朝鮮人民共和国」としての国家樹立宣言を行い、以後、1945年夏から晩秋にかけての数ヶ月の間に、当時の南北朝鮮最大最強の政治組織として、事実上の国民政府としての影響力を南北両地域におよぼすことになった。

 (六) 建準から人民共和国樹立
 すなわち建国準備委員会は、アメリカ軍先遣隊の仁上陸が二日後に迫った9月6日に、全国の南北各界各層を網羅した代表一千数百名の中心的人物をソウルに召集して、全国人民代表社会を開催した。これには、北朝鮮の代表も参加した。その結果、建国準備委員会を発展的に解消して、南北朝鮮を合一して社会主義的傾向を有する「朝鮮人民共和国」を国号とする国家の創建と、新朝鮮国民政府の樹立を決議した。
 翌7日、朝鮮人民共和国臨時組織法を上程採択して、その成立を宣言した。また、中央人民委員会を組織して中央執行委員会12名、人民委員55名、候補委員20名、顧問12名が選任された。さらに9月14日には、共和国政府の組閣完了を発表した。これには南北朝鮮、左右両派、内外の有力な人材の名を連ねてあって、主席には当時アメリカに滞在中の李承晩、副主席呂運亨、国務総理許憲、内政部長金九、外交部長金奎植、軍事部長金元鳳、財政部長曺晩植、保安部長崔容達、文教部長金性洙、宣伝部長李観述、その他司法、経済、農林、保健、逓信、交通、労働の各部長を決定し、書紀長には
李康国が就任することになる。
 また、その建国初期政府の組織、政綱、施政方針を決定した。その発表された閣僚名簿は、つぎのようなものであった。 

主   席 李承晩
副 主 席 呂運亨
国務総理 許 憲
内務部長 金 九 ・・・代理 趙東祐 金桂林
外交部長 金奎植 ・・・代理 崔謹愚 姜進
財務部長 曺晩植 ・・・代理 朴文奎 姜炳郁
軍事部長 金元鳳 ・・・代理 金世鎔 張基郁
経済部長 河弼源 ・・・代理 鄭泰植 金泰植
農林部長 康基徳 ・・・代理 柳丑蓮 李珖
保健部長 李万珪 ・・・代理 李延允 金占権
交通部長 洪南杓 ・・・代理 李舜根 鄭鐘根
保安部長 崔容達 ・・・代理 武亭、 李基錫
司法部長 金炳魯 ・・・臨時代理・許憲、代理・李承燁、鄭鎮泰
文教部長 金性洙 ・・・代理 金台俊、金起田
宣伝部長 李観述 ・・・代理 李如星、徐色錫
通信部長 申 翼 ・・・臨時代理・李康国、代理・金錣洙、趙斗元
労働部長 李胄相 ・・・代理 金相赫、李順今
法制局長 崔益翰 ・・・代理 金竜岩
書 記 長 李康国 ・・・代理 崔星煥
企画部長 鄭 柏    

 つまり、かつての抗日独立運動が、反日という一点において、容易に共産主義運動と一致した歴史的経緯もあり、この「朝鮮人民共和国」の政権構想と閣僚編成は、名目的には在アメリカの李承晩、在重慶の金九らの右派民族主義指導者から、国内、国外の共産主義者まで網羅されていたが、実質的には、呂運亨ら国内中道左派指導者と、朴憲永ら国内共産主義者、とくに長安派共産党系が連合して、やがて、その実権を掌握していたとみられた。

 

 
 

 

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クリントン大統領に対するサパティスタ民族解放軍の訴え

2022年09月20日 | 国際・政治

 アメリカが、メキシコにおける莫大な権益を保持し、その権益を守り抜くために、民族主義的なマデロ政権の転覆に手を貸し、ウエルタ独裁政権を誕生させたことは、すでに「メキシコ革命物語」渡辺建夫(朝日選書285:朝日新聞社)で確認しました。
 今回は、そのアメリカのメキシコ政策被害者とも言えるチアパス州先住民の組織、サパティスタ民族解放軍の総司令部が、アメリカ大統領、ビル・クリントンに宛てた文書を「もう、たくさんだ! メキシコ先住民族蜂起の記録」サパティスタ民族解放軍:太田昌国・小林致広編訳(現代企画社)から、抜萃しました。

 その内容は、アメリカという国の対外政策や外交政策が、いかなるものであるかを示していると同時に、アメリカが自らの政策を正当化するために語る言葉が、国際社会を欺瞞するプロパガンダであることも示しているように思います。

 だから、ウクライナ戦争や台湾問題に関するアメリカの主張(プロパガンダ)の背後にある実際の目的を見逃してはならないと思います。
 先日、 バイデン米大統領が、CBSの番組のインタビューで、中国が台湾に侵攻した場合、米軍は台湾を防衛すると言明したことが伝えられました。
 でも、この発言は矛盾に満ちています。だから、ホワイトハウスの報道官は、バイデン大統領の発言に対するコメントを求められ、”台湾に関する米国の政策に変更はない”などとと言わなければならないのだと思います。もし、本当に”台湾に関する米国の政策に変更はない”のであれば、バイデン大統領の発言に問題があることになり、矛盾しているのです。
「世界には一つの中国しかなく、台湾は中国の一部であり、中華人民共和国政府は中国の唯一の合法的な政府だ」という台湾に関する米中共同声明(上海コミュニケ)の内容に変更がなければ、台湾にに対する大量の武器の売却や、要人の台湾訪問は、どう考えても中国に対する内政の干渉であり、挑発であるといってもいいと思います。

 したがって、こうした苦しい言い訳をしながら、台湾にかかわるアメリカには、急成長し、国際社会で影響力を拡大しつつある中国を、台湾問題で孤立させ、弱体化させようという実際の目的が隠されているように思います。
 アメリカが、他国の紛争を話し合いで解決に導いた例があるでしょうか。アメリカが、他国の紛争をアメリカ自身の覇権や利益の維持・拡大のために利用し、クーデターによる独裁政権誕生に関わったり、独裁に抵抗する人民を武力的に抑圧する政権を支援したり、時には直接武力介入したりしてきたことは否定できないと思います。私は、そうした過去の事実から、アメリカは、台湾を第二のウクライナにしようとしていように思わざるを得ないのです。
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資料10 1994.1.13

                     ビル・クリントン大統領へ

1994年1月13日
アメリカ合衆国大統領ビル・クリントン氏宛
アメリカ合衆国議会宛
北アメリカ合衆国人民宛
                   ★ 
 われわれが本状を認(シタタ)めるのは、メヒコ(メキシコ)連邦政府が北アメリカ合衆国人民および政府から受け取った経済的・軍事的な援助を、チアパス州の先住民を虐殺するために使っていることを告発するためです。
 北アメリカ合衆国議会ならびに人民は、この軍事的・経済的援助を、麻薬商人と戦うために提供したのか、それともメヒコ南東部で先住民を虐殺するために提供したのか、われわれは問うものです。軍隊、航空機、ヘリコプター、レーダー、通信機器、武器、その他の軍事物資は、現在、麻薬商人や麻薬マフィアを追跡するためにではなく、わが国の南東部で、メヒコ人民とチアパス先住民の正義の戦いを弾圧するために、また、罪も無い男、女、子どもたちを殺害するために使われているのです。
 われわれは、外国の政府、個人、組織などからはいっさいの援助を受けていません。麻薬商人との関係もないし、内外のテロリズムともなんの関係もありません。われわれが組織できているのは、われわれが無一物であり、多くの問題を抱えているからです。長年に及ぶペテンと死はもうたくさんなのです。尊厳ある生のために戦うことは、われわれの権利です。われわれは常に民間人を尊重し、戦争に関する国際法に基づいて行動しています。
 北アメリカ人民および政府は、メヒコ連邦政府に対して援助を供与することによって、自らの手を先住民の血で汚しているのです。われわれが求めているのは、世界中の全ての人民が求めているものと同じく、真の自由と民主主義です。この希望のためなら、われわれは自らの生命を賭する用意さえできています。あなたがたがメヒコ政府の共犯者となって、その手をわれわれの血で汚すことのないよう希望するものです。
                                                       メヒコ南東部の山中より
                                                       先住民革命地下委員会=
                                                   サパティスタ民族解放軍総司令部
                                                                メヒコ、1994年1月
            出典──A  Bill Clinton,La Jornada, 18 de enero de1994         
                                                                  【太田泉生=訳】

 
 

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アメリカがメキシコ独裁政権を支援したのは収奪のため

2022年09月18日 | 国際・政治

 エリザベス女王の死後、毎日毎日、英国王室に関わる報道を見せつけられ、うんざりしています。何か政治的意図があるようにも思います。
 ふり返れば、大英帝国は、全盛期には地球上の陸地と人口の4分の1を支配下に置いたといわれています。そしてその一部が、今なお、イギリス連邦を構成していますが、偉大な大英帝国時代を懐かしむかのごときエリザベス女王の盛大な国葬と、また、それを羨むかのごとき日本の報道機関の眼差しが気になるのです。
 
 英国王室ジャーナリストと言われるような人が出てきて、英国王室の伝統をあれやこれや説明する意味は、どこにあるのだろうと思います。
 大英帝国の繁栄は、多くの植民地から利益を吸い上げ、収奪することによってもたらされたのではないでしょうか。私は、そのことを忘れてはならないと思うのです。
 だから、英国王室の伝統をあれやこれや話すのではなく、ウクライナ戦争の停戦・和解の話が、なぜ進まないのかを追求し、どのようにすべきかを提起するような報道をしてほしいのです。

 前回は、アメリカがメキシコに莫大な権益を保持し、その権益を守り抜くために、ウエルタ独裁政権の誕生を歓迎・支援したことを「メキシコ革命物語」渡辺建夫(朝日選書285:朝日新聞社)で確認しました。
 1910年頃までは、アメリカ資本が最も多く投下されたのがメキシコであり、アメリカ資本は、メキシコの鉄道の三分の二、鉱山の76パーセント、製鉄業の72パーセント、石油の58パーセントを支配、またゴム園、農園、牧場、森林の68パーセントを所有するなどして、メキシコの富の半分以上を得ていたといわているのです。

 それを踏まえて、今回は、「もう、たくさんだ! メキシコ先住民族蜂起の記録」サパティスタ民族解放軍:太田昌国・小林致広編訳(現代企画社)から、1980年以降のメキシコが、なお悲惨な状況に置かれていることを示す文章の一部と、「ラカンドン密林宣言」および「戦争宣言」を抜萃しました。メキシコにおいて、長く最も厳しい収奪にさらされてきた先住民族の生の叫びに耳を傾ければ、欧米の繁栄を手放しで賛美するような見方や考え方はできないのではないかと思います。
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                第一の風

 第一章
 悲惨な生活を送るチアパス先住民を不憫に思った最高政府は、どうしてホテル、刑務所、軍飛行場をチアバスに作ったのか。野獣がどのようにチアバス先住民族の血を吸って生きているのか。その他の悲惨極まりない出来事について語ろう。

 メヒコの北部、中央部、または西部で暮らしているあなた。「まず、メヒコを知ろう」。この陳腐な観光省の宣伝文句を聞いたことはある? メヒコ南東部を知ることにしよう。南東部から選んだのはチアパス。さあ、陸路で出掛けよう。(空路によるチアパス訪問は金がかかるだけで確実ではないし、酔狂そのものだ。二つの民間空港と一つの軍用空港しかないから)。テワンテペック地峡縦断道路を通って行こう。マテアス・ロメロを通ったけど、そこにある連邦政府軍の砲兵連隊兵舎に気づかないまま、ラ・ベントサに到着だ。そこにある内務省の出入国管理事務所の監視所に気づかなかった? (監視所を見ると、国を出て他の国に入る人のことを考えてしまう)。左側の道を進めば、間違いなくチアパスだ。数キロ進むと、オアハカとはお別れだ。「ようこそ、チアパスへ」という大きな看板が飛び込んでくる。出くわしたね? 見えたはずだ。あなたがチアパス州に入った経路は、チアパスに行く三つの道路のひとつだ。州北部からの道路、太平洋沿いの道路、そして今辿ったこの道路によって、メヒコの他の地域からメヒコ南東部に位置するこの州に到着できる。この州の豊富な資源は、三つの道路から出ていくとは限らない。チアパスの血を抜き取る経路は、石油・ガスパイプライン、送電線、貨物列車、銀行口座、トラックや軽トラック、船や飛行機、秘密の小道、砕石道路、踏み分け道や森の小道など、何千もある。チアパスの大地は石油、電力、家畜、現金、コーヒー、バナナ、蜂蜜、とうもろこし、カカオ、煙草、砂糖、大豆、ソルガム、メロン、マメイ、マンゴ、タマリンド、アボガドなどを帝国へ貢納し続ける。メヒコ南東隅の喉元に食い込んだ千一本の略奪の牙を通じ、チアパスの民の血が流れ出す。メヒコの港湾や鉄道・航空・トラックの集配センターに集まった何十億トンもの第一次産品は、米国、カナダ、オランダ、ドイツ、イタリア、日本へと向かう。しかし、行き着く先はひとつ、つまり帝国である。資本主義がこの国の南東隅に押しつける分担金は、帝国の誕生以来、血と泥のように滲み出ていく。
 メヒコ国家を含めた一握りの商人たちは、チアパスからあらゆる資源を奪い去り、引き替えに致命的で有害な傷跡を残していく。金融という牙は1989年に1兆2266億6900万ペソ(約60億円)を獲得しながら、6163億4千万ペソしか融資や事業に回さなかった。6千億ペソ以上が野獣の胃袋に飲み込まれてしまった。
 86本ものペメックス(メヒコ石油会社)の牙がチアパスの大地に食い込んでいる。その牙はエスタシオン・フアレス、レフォルマ、オストゥカン、ピチュカルコ、オコシンゴ地区にある。毎日、9万2千バレルの原油、5167億立法フィートのガスが大地から吸い出される。石油やガスを奪い去るのと引き替えに、環境破壊、農地略奪、超インフレ、アルコール依存症、売春、貧困といった資本主義の傷跡が残される。野獣は飽くことなく、ラカンドンの密林にまで触手を伸ばしている。八つの油田が開発中である。踏み分け道はマチューテ(山刀)で切り開かれる。それを握るのは、貪欲な野獣によって土地を奪われた農民である。木々は倒され、ダイナマイトの爆発音が鳴り響く。その土地では、播種のために農民が伐採することは禁じられている。一本伐採すれば、最低賃金十日分相当の罰金が科され、収監される。貧しい者は伐採できない。外国資本に握られつつある石油資本の野獣は伐採できる。農民は生活のため、野獣は略奪するため、木を伐り倒す。
 チアパスはコーヒーによっても血を抜かれている。チアパスの大地は全国のコーヒーの35パーセントを産出し、8万7千人がコーヒー生産に従事している。生産の47パーセントは国内市場に、53パーセントが主に欧米諸国など外国に輸出される。チアパス州から出ていった10万トン以上のコーヒーは、野獣の銀行口座を膨らませる。1988年、証明書付きのコーヒー1キロは、国外で平均8千ペソで売れたが、チアパスのコーヒー生産者に支払われた額は2500ペソ弱だ。
 コーヒーに次ぐ重要な略奪品は家畜である。300万頭の牛は、コヨーテ(ブローカー) や一握りの仲買い業者の手を経て、アリアガ、ビジャエルモサ、メヒコ市の冷凍庫に山積みされる。極貧のエヒード農民には、牛の脚肉1キロ当たり1400ペソ以下しか支払われない。コヨーテや仲買い業者の卸売り価格は、買上げ価格の10倍に釣り上がる。
 資本主義がチアパスから徴収する貢ぎ物は、歴史上比類のないものである。全国の水力発電エネルギーの55パーセントを生産するチアパスは、メヒコの全電力の22パーセントを生産している。しかし、電気はチアパスの三分の一の家庭にしか届かない。チアパスの水力発電所が毎年生産する12,907ギガワットはどこに行くのか。
 エコロジー・ブームにもかかわらず、木材伐採はチアパスの森林でいまなお続く。1981年から1989年にかけて、44万4700立方メートルの貴重材、針葉樹が伐り出され、熱帯からの潮流となり、メヒコ市、プエブラ、ベラクルス、キンタナ・ロー に流れ込んだ。1988年に木材開発が生み出した利潤は、1980年の60倍に相当する239億ペソに達した。
 チアパス州の7万9千個の養蜂箱から採取された蜂蜜は、そっくりそのまま欧米の市場に向かった。農村で年間2756トンあまり生産される蜂蜜や蜜蠟は、チアパス人が見ることもない額のドルを稼ぎだす。
 チアパス州で生産されたとうもろこしの半分以上は国内市場に向かう。チアパス州はとうもろこしの生産において、全国一、二を争う。ソルガムの大部分はタバスコ州へ行く。タマリンドの90パーセントはメヒコ市や他の州にいく。アボガドの三分の二が州外で取り引きされる。カカオの69パーセントは国内市場、31パーセントは米国やオランダ、日本、イタリアなど外国に輸出される。

”奪い去ったものと引き替えに、野獣は何を残すのか”、以下略
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
             ラカンドン密林宣言

 いまわれわれは宣言する。もうたくさんだ。
 メヒコの人民へ
 メヒコの仲間たちへ。

 われわれは五百年におよぶ戦いから生まれた。初めは奴隷制との戦いであった。ついで蜂起者が指導するスペインからの独立戦争、その後は北アメリカの拡張主義に吸収されることを回避する戦いであった。そして、われわれの憲法を制定し、われわれの領土からフランス帝国を追い出すために戦った。ポルフィリオ・ディアス独裁体制は改革諸法をわれわれに適正に適用することを拒んだが、人民は自らの指導者を創り出し決起した。こうしてサパタとビリャが登場したのである。彼らはわれわれと同じように貧しき人間であった。われわれ貧しき人間には、人間形成にもっとも基本的なことすら認められなかったが、それは、単なる肉弾としてわれわれを利用し、われわれの祖国から資源を略奪するためであった。飢えや治療可能な病気でわれわれが死んでも、彼らは何ら痛痒を感じない。われわれが何もない無一物でも、彼らは心を痛めることはない。われわれに雨露の凌げる家屋、土地、仕事、健康、食物、教育がなくても構わない。しかも、われわれの手には、自由かつ民主的に自分たちの権力執行者を選ぶ権利もなければ、外国勢力からの独立もなく、われわれやこどものための平和も正義もない。
 しかし、いまわれわれはもうたくさんだと宣言する。
メヒコという民族性を本当に造り上げた者の後継者は、われわれである。われわれ持たざる者は無数にいる。われわれはあらゆる仲間に呼びかける。われわれのこの呼びかけに応じてほしい。それこそが、超保守的な売国奴連中の意向を代表する裏切り者の徒党によって70年以上にわたり牛耳られてきた独裁体制の貪欲な野望により、われわれが座して飢え死にすることをなくす唯一の道である。イダルゴやモレロスに敵対した者、ビセンテ・ゲレロを裏切った者、われわれの領土の半分以上を外国の侵略者に売り渡した者、われわれを支配するためにヨーロッパ的基準を持ち込んだ者、ポルフィリオ・ディアス期のシエンティフィコスによる独裁体制を造り上げた者、石油産業国有化に反対した者、1958年に鉄道労働者、1968年に学生を大量虐殺した者は、すべて同じ穴のむじなである。現在も、その連中はわれわれからあらゆるものを根こそぎ奪い取っている。
 彼らによる略奪を回避するために、そしてわれわれの最後の希望として、メヒコの大憲章に基づいた合法的活動を実践しようとあらゆる努力をしてきた。その結果、われわれはメヒコ憲法に依拠し、その39条を適用することにした。そこには次のように記されている。
「民族の主権は、本質においても起源におきても、人民の手に委ねられている。すべての公権力は、人民に由来し、人民のよりよき生活のために制度化されている。人民はいかなる時も政府の形態を変更し修正する譲渡不能の権利を保有している」
 それゆえ、メヒコ憲法に依拠し、われわれはこの宣言を公表する。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                戦争宣言

 われわれは独裁体制を支える連邦政府軍に対し、宣戦布告する。われわれを苦しめ、権力を握る一政党(制度的革命党=PRI)により独裁体制は独占され、合法性のないまま大統領職にあるカルロス・サリナス・デ・ゴルタリが不法に掌握する連邦当局により、現在領導されている。
 この戦争宣言を通じて、われわれは国の他の諸権力が結集し、独裁者を解任し、国の合法性と安定性を取り戻すように要請する
 国際機関や国際赤十字に対しても、われわれの軍が市民を防衛しながら展開する戦闘を監視し規制するよう要請する。われわれの解放闘争のための軍事勢力としてサパティスタ民族解放軍を編成したわれわれは、現在そしてつねにジュネーブ協定の戦争法の規定を遵守することを宣言する。メヒコ人民はわれわれの側にいる。蜂起した戦士たちが愛し、敬意を抱く祖国と三色旗はわれわれのものである。われわれは制服の色として、ストライキで決起し戦う労働者人民のシンボルである赤と黒を採用する。われわれの旗には、EZLN(サパティスタ民族解放軍)と記されている。われわれはつねにこの旗を掲げ、戦闘の場に赴く。
 われわれの戦いの正当な大義を歪め、麻薬密売組織、麻薬密売ゲリラ、山賊、われわれの敵が使うその他の言葉でわれわれを貶めようとする策動を、われわれはあらかじめ拒否しておく。われわれの戦いは、憲法が定めている権利の行使であり、正義と平等を旗印とする戦いである。
 それゆえ、この戦争宣言に基づき、サパティスタ民族解放軍に属するわれわれの軍隊に以下の指令を与える。
 一、メヒコ連邦軍を打ち破りつつ、首都にむけて前進する。解放闘争を前進させ、市民を守り、解放された人民が自由かつ民主的に自らの行政当局を選出できるようにしよう。
 二、捕虜の生命を尊重し、負傷者は医療を受けるため国際赤十字に引き渡す。
 三、メヒコ連邦軍兵士や政治警察官の略式裁判を行う。国内または外国で外国勢力による講義、指導、訓練や経済的支援を受けてきた者は、祖国に対する裏切りの嫌疑で告発される。さらに、市民を弾圧し虐待し、人民の財産を略奪、侵害した者の裁判も行う。
 四、われわれの正義の戦いに合流する決意をしたすべてのメヒコ人とともに新しい隊列を創ろう。敵の兵士であった者でも交戦することなくわれわれの軍隊に降伏し、サパティスタ民族解放軍総司令部の指令に従うことを誓えば、われわれの隊列に参加できる。
 五、戦闘を始める前には、敵の兵営に無条件降伏を呼びかける。
 六、EZLNの統制下にある場所から、われわれの天然資源を略奪することを停止させる。

 メヒコの人民へ。われわれ誠実で自由な男と女たちは、われわれが宣言したこの戦争が最後に残された正当な手段であると認識している。かなり前から、独裁者は布告のない大量虐殺戦争をわれわれに仕掛けてきた。それゆえ、われわれは君に要請する。仕事、土地、住宅、食料、健康、教育、独立、自由、民主主義、正義と平和を求めて戦うというこのメヒコ人民の計画を支持し、断乎とした決意をもって参加してほしい。自由で民主的な祖国の政府を創り出し、われわれ人民のこうした基本的
要求を充足できるまで、戦いを決して止めないことをわれわれは宣言する。
 君もサパティスタ民族解放軍の決起部隊に加わるのだ。
                                              EZLN総司令部
   1993年、メヒコ、チアパス州ラカンドン密林にて。

 

 

 

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日本の戦争指導層公職追放解除とアメリカの外交戦略とメキシコ革命

2022年09月14日 | 国際・政治

 先日の朝日新聞デジタルに、注目すべき記事がありました。
 大阪府泉南市の市議会定例会の一般質問で、添田詩織市議が、市が採用している国際交流員について、「市民目線でいえば、中国籍の方が就くのは大丈夫か、ありえへん、怖いという声がある」と述べたというのです。国際交流員は市内の小中学校に通う外国人の児童・生徒への通訳や異文化交流の授業を担当するのだそうですが、その4人のうち1人が中国出身だので、それを問題にしたようです。その発言を、中国人に対する差別的な発言であり、市議会が謝罪と反省を求める決議をしたということですが、添田氏は、「決議の手続きは市議会規則に反しており違法だ」として、市議会の広報誌に決議内容を掲載しないよう求める仮処分を大阪地裁に申し立てたというのですから、少しも反省していないということではないかと思います。
 ”怖い”というような声があったら、適切な指導をするべき市議が、自身の発言について「市民の懸念を代弁したに過ぎない。市民の暮らしと安全を守るためのもので、差別やヘイトというのは筋違いだ」と主張したともいいますが、私は、恐ろしい考え方だと思います。
 ユネスコ憲章に、下記のようにあります。
”戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。”
 文部省の検定に基づく教科書による教育や自民党政権の政治、また、さまざまなメディアの報道などによって、日本の若者の心の中に、すでにこうした中国との戦争が生まれてきているように思います。

 また、沖縄県の知事選に勝利した玉城デニー氏が、沖縄の基地問題に関して、”平和的な外交努力が最も重要。しかし有事を想定して住民の分断を煽り、合意すら得られていないミサイル基地の整備や、計画ありきのその状況が進んでいくという事は、これは沖縄県としても到底認められない”と語ったことを受けて、”有事の想定さえしない。県民の命など守る気なし。国防意識、危機管理ゼロ。”などとツイッターで呟く人や、それに同調する人たちも少なくないのが現状のようです。
 世界大戦で、大変な戦争犠牲者を出して生まれた「国際連合憲章」に、
すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない。
 と定められたことなど、すでになかったかのような深刻な状況になっているように思います。

 さらに先日、在日コリアンが多く暮らす、京都府宇治市のウトロ地区の空き家などに放火した有本被告は、求刑通り懲役4年の実刑判決受けたということですが、取材した東和香奈記者に、「韓国人は悪。そうした思想があることは否定できません」と語ったといいます。
 でも彼は、実際には在日コリアンと接触はなく、在日コリアンの「特権」の問題に関する事実確認などもきちんとしてはいなかったといいます。だから、日本社会に存在する在日コリアンに対する偏見や嫌悪感に影響されて、事実上一人で、韓国との心の中の戦争を実行にうつしたといってもいいと思います。
 京都地裁の「在日韓国人の出自を持つ人に対する偏見や嫌悪感からの身勝手な犯行動機は悪質。酌むべき点はない」との判決や、求刑通りの4年の実刑判決は当然だと思いますが、見逃してはならない問題は、どうしてこうした偏見が生まれ、嫌悪感を抱く人たちがいるのかということだと思います。

 私は、戦後、日本の政府が真摯に歴史の事実に向き合わず、歴史を日本に都合よく修正したこと、そして、その修正された歴史が、日々子どもたちに教えられていること、さらに、自民党政権の中国や韓国を敵視するような日々の外交姿勢、また、政府見解に沿ったさまざまなメディアの報道などによって、日本の若者の心の中に、中国や韓国との戦争が生まれてきているように思います。

 だから、私は、控えめ過ぎるように思いますが、東和香奈記者の
ヘイトクライムについての法整備を欧米諸国のレベルにまで持っていく必要はあると感じましたが、それだけではなく、そもそも「差別はいけない」といった部分や正しい歴史認識について、日本の教育はまだ伝えきれていない部分があると感じました。法整備と教育、どちらも進めていく必要があると思います
 という結論は正しいと思います。

 そしてその”法整備と教育”が進まない原因の一端が、過去の戦争指導層の考え方を受け継いでいる自民党政権の歴史修正主義にあることを、私は見逃してはならないと思うのです。
 たとえば、今回「国葬」が問題視されている安倍元首相の主導で進められた、2015年の「慰安婦問題日韓合意」なども、明らかに歴史修正主義に基づくものであり、日本に都合よく、「慰安婦問題」を歴史から葬り去ろうとするものであったと思います。
 それは、この「慰安婦問題日韓合意」が、当事者を脇に置いて、日韓両国の政治家によって合意され、公式な条約としてではなく、また国際的なルールに基づく文書の交換などもすることなく発表されたことにあらわれていると思います。
 そうした歴史修正主義の考え方は、「あいちトリエンナーレ2019:表現の不自由展・その後」での《平和の少女像》展示阻止の動きなどとして表に出てきたこともありました。
 河村たかし名古屋市長は、《平和の少女像》の展示を”どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの”と発言しましたが、それは歴史的事実をなかったことにするような主張であり、明らかに歴史修正主義の立場の発言だと思います。そうした発言が、若者に韓国に対する偏見や嫌悪感を抱かせることになっているように思います。

 日本政府のこの歴史修正主義は、自民党政権が過去の戦争指導層の考え方を受け継いでいることを示していると思います。そしてそれは、アメリカが戦争指導層の公職追放を解除した結果、広まった考え方だと思います。
 だから、現在の自民党政権は、過去の歴史を都合よく修正し、子どもたちに歴史の真実を伝えようとはしていない面があると思います。
 また、日本がアメリカに対して、法や道義道徳に基づく正当な要求をすることができず、主権を放棄しているかのように隷従するのも、戦争指導層がアメリカによって公職追放を解除され、政界や経済界などに復帰して、政権中枢を支えることになったからだと思います。

 最近の日中関係や日韓関係、また、国内のさまざまな差別問題が、アメリカの対日政策に端を発するものであるを、私は、アメリカの対外政策や外交政策と関連して考えるべく、今回は、「メキシコ革命物語」渡辺建夫(朝日選書285:朝日新聞社)にあたりました。
 そうしたら、やはり下記のような記述がありました。
この強力な軍事独裁政権の出現をいちばん歓迎したのは、メキシコ駐在アメリカ大使ヘンリー・レーン・ウイルソンだった。彼はマデロ夫人(当時のマデロ大統領夫人)に夫の命を救うため援助してほしいと懇願されたとき、厚顔無恥にも内政干渉することはできないと答えてつっぱねている。が、彼ほどアメリカの巨大な国力を背景に最大限メキシコの内政に干渉しつづけた男もいなかった。

いまも昔も、ラテン・アメリカで頻発する政変、クーデター、反革命の背後には必ずアメリカ合衆国政府の黒く大きな影があったのである

 アメリカは、ラテンアメリカに限らず、いたるところで、独裁政権を支援したり、軍事政権を誕生させたりしていますが、日本における戦争指導層の公職追放解除は、そうした対応と同じようなものであると思います。
 アメリカが、独裁政権を支援したり、軍事政権を誕生させたりするのは、独裁政権や軍事政権の方が、影響力を発揮しやすく、利益を得るのに好都合だからではないかと思いますが、アメリカにとっては、戦争指導層の考え方を受け継ぐ自民党政権は、独裁政権や軍事政権と同じように、ひそかに支配下に置くとができ、好都合なのだろうと思っています。
 下記は、「メキシコ革命物語」渡辺建夫(朝日選書285:朝日新聞社)からの抜萃ですが、いつものように、漢数字を算用数字に変えたり、空行を挿入したりしています。
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                   第一章 大農園主の革命

 アメリカ大使の陰謀と軍事政権
 堀口大学は、事件発生の数日前ウエルタに会っている。

 私が初めてウエルタ将軍を見たのは2月1日のことだった。彼はその数日前に、北辺の反乱を平定して凱旋したのであった。彼と彼の軍隊の入市式は市民を狂喜させた。2月1日には大統領がこの凱旋将軍の名誉のために、チャプルテペック宮殿に於いてレセプションを催して上流人士や外交官一同を招いたのであった。その日大統領はウエルタ将軍の手を取って客中をまわって「これが私の英雄です」と云って自ら人々に紹介してゐたものであった。ウエルタ将軍は、苦虫を噛みつぶしやうな顔をした一癖も二癖もありさうな黒眼鏡をかけた大男だった。嫌な手をしてゐた。
 この「英雄」が、その日からまだ20日とたゝぬうちに、マデロ大統領をおしこめて、裏切って、反軍に通じたのである。

 マデロの人のよさと、煮ても焼いてもくえぬウエルタの性格のちがいを堀口大学はちゃんと見抜いているが、この頃すでにウエルタにはマデロにふくむところがあった。
 オロスコの反乱を鎮圧するために派遣された部隊の軍費から3万ペソの使途不明金が発見され、そのことをマデロに追及されたウエルタは、「わしは帳簿係なんぞじゃない」といって誤魔化したものの、面目を潰されたとして怒っていたのである。
 大統領として権力を握ったウエルタは、政府官僚と軍に忠誠を要求、これに同意しないマデロ派の一掃にのりだし、数日間で百人以上を逮捕、処刑してしまった。そして、その後もウエルタ政権に協力しない政治家、議員たちの逮捕、銃殺が続いたが、それも面倒になったのか最後には批判的な下院議員130名のリストを作り、一斉逮捕を命じている。うち84名が逮捕され、他はいち早く雲隠れしてしまった。こうして上・下院は解体され、裁判所も閉鎖、ウエルタの軍事独裁制がしかれることになった。クーデターの発案者であるウエルタと取り引きして次期大統領となる野心を燃やしていたフェリックス・ディアスも、老練なウエルタに太刀打ちできず、グスタボ・マデロにかわる親善大使として体よく日本へ追っ払われる始末だった。
 この強力な軍事独裁政権の出現をいちばん歓迎したのは、メキシコ駐在アメリカ大使ヘンリー・レーン・ウイルソンだった。彼はマデロ夫人に夫の命を救うため援助してほしいと懇願されたとき、厚顔無恥にも内政干渉することはできないと答えてつっぱねている。が、彼ほどアメリカの巨大な国力を背景に最大限メキシコの内政に干渉しつづけた男もいなかった。彼は典型的なドル外交の信奉者であり、帝国主義者、革命ぎらいの共和党の超保守主義だった。ワシントン州の共和党の幹部である兄のジョン・ロック・ウイルソンを通じて、アメリカ実業界と密接な関係があり、兄自身の投資先の会社がメキシコに製鉄所を所有。それがマデロ一族の所有する製鉄所と競合関係にあり、なにかとマデロ政府の存在が目ざわりだった。
 しかし、そうした個人的利害以上にアメリカそのものがメキシコに莫大な権益を保持、その権益を守り抜こうという強固な国家意思をもっていた。1910年まで、アメリカ資本が最も多く投下されたのがメキシコであり、アメリカ資本は、メキシコの鉄道の三分の二、鉱山の76パーセント、製鉄業の72パーセント、石油の58パーセントを支配、またゴム園、農園、牧場、森林の68パーセントを所有するなどして、メキシコの富の半分以上を支配していたといわれる。
 自身が新興民族資本の一員でもあるマデロの自国民、自国資本優先の民族主義的政策は、アメリカにとって不都合だった。また、地方の反乱に悩まされたリ、たえず方針が変わるマデロ政府の不安定さは、メキシコでのアメリカ企業の経済活動にとって障害だった。ウイルソンは、そこでアメリカに都合のよい強力な政府の出現を画策、クーデター計画を後援したのだが、それは別にメキシコにかぎったことことではなかった。いまも昔も、ラテン・アメリカで頻発する政変、クーデター、反革命の背後には必ずアメリカ合衆国政府の黒く大きな影があったのである。
 銅山に巨額の権益をもっていたアメリカが軍部と共同でアジェンデ大統領を殺害、民族主義的な人民連合政府を倒したチリの1973年の反革命はあまりにも有名だが、この当時、19世紀末から20世紀はじめにかけてのアメリカ政府のやり方はもっとも露骨だった。
 もともとアメリカという国は、白人入植民が先住民インディアンの土地と富(野牛など)を奪うことで出発、さらにフランス、スペイン、メキシコなっどと戦争するたびに領土を拡張、そして、その後、工業化に成功すると工業製品の市場を獲得するため、また工業化で蓄積した膨大な資本をとうかしてさらに利益を上げるため投資先を求めて、カリブ海諸国から中南米諸国へ帝国主義的な支配を強め、それで強勢化していった国である。
 インジアナ州選出の上院議員アルバート・ピヴァリッジは1897年、公然と「アメリカの工場はアメリカ人が使用しうる以上の製品を製造している。アメリカの大地は国民が消費できる以上の作物を生産している。われわれがとるべき政策は定まっている。世界の通商はわれわれのものでなければならず、また、そうならせることになろう」と表明、事実、その言葉通りになった。
 たとえば、キューバの独立を援助することを名目に始まった1898年のスペイン・アメリカ戦争では、「スペイン国旗がキューバの空から引き降ろされる前から、早くもアメリカの実業界は進出を始めていた。商人、不動産業者、株屋、山師、その他のあらゆる金もうけの計画をかかえた商売人たちが何千人となくキューバに群がってきた」という有様だった。そして数年のうちに三千万ドルのアメリカ資本が投下され、ユナイテッド・フルーツ社はキューバの製糖産業に進出、エーカーあたり20セントで190万エーカーを買収、また1901年までキューバの鉱石輸出の80パーセントがアメリカ人の手に、主としてベツレヘム・スチール社に握られてしまっていた。
 そして、この権益を守るためキューバ占領中のアメリカ軍は、合衆国議会を通過したプラント修正条項をキューバ憲法制定会議にむりやり押しつけた。その修正条項とは「キューバの独立を保全するため、また、生命、財産、および個人の自由を保護するのに適切な政府を維持するために介入する権利」をアメリカ合衆国に与え、さらに特定の地点に石炭補給地もしくは海軍基地をアメリカ合衆国が獲得することを定めたものだった。
 同様のことが、プエルトリコ、ドミニカ、ハイチ、そしてメキシコに起こった。アメリカ政府は自国の権益を守るため、砲艦で脅し、海兵隊を上陸させ、軍の反乱、陰謀に手をかし、植民地としたり、保護領としたりして、意のままになる政府をつくろうとした。反革命成功直後、ウエルタはそうしたアメリカに迎合する電報を合衆国大統領ウイリアム・ハワード・タフトに打っている。
「私がマデロ政権を打倒したことをあなたにお知らせできるのは光栄です。国軍は私を支持しており、これより平和と繁栄が回復されるでしょう」
 
 ウエルタはアメリカ大使と組んでできたこの新政権が、どの国よりも先にアメリカ政府に承認されると信じていた。ところがアメリカは最後まで承認しなかった。反革命直後の1913年3月、共和党出身のタフトにかわって民主党出身のウッドロー・ウイルソンが新しく大統領に就任、共和党支持の超保守主義者ウイルソン大使との関係が悪化、承認がのびていたところにアメリカ海軍がベラクルス港市を占拠するという事件が起きてしまったからである。また、ウエルタがタフトに約束した、メキシコの平和と繁栄の回復も反古になってしまった。平和と繁栄が回復されるどころか、メキシコ始まって以来の大規模な内戦と破壊が始まってしまったからである。
 国立宮殿の一室に逮捕監禁されていたマデロに対して、アメリカ政府はウエルタを支持していると告げて観念させ、大統領辞任に踏み切らせたのはアメリカ大使だが、そのあと見舞った親しいキューバ人外交官にマデロはこう語ったという。
 「もし、もう一度政府をつくることができたら、自分の周囲には果敢な実行力のある者たちを集めるつもりだ。……私はとりかえしのつかない失策をおかしてしまった。……が、ときすでに遅しだ」
 理想主義者マデロは「自由」と「民主主義」を説きはしたが、そのために必要な改革を実行することができなかった。それを実行力のない側近たちのせいにしているが、彼自身が、サパタが怒ったように、統治能力に欠けていた。指導力も欠けていた。にもかかわらず革命の最高指導者の地位にまつりあげられてしまったところに、マデロの悲劇があった。
 彼はもともと大農園主の息子であり、有産階級出身の良心的な改良主義者、伝統的な自由主義者にすぎなかった。社会改革家でも、革命家でもなかった。ところが、マデロには不思議なカリスマ性があり、そのカリスマ性が、30数年におよぶディアスの長い独裁の反動として人びとが解放をいっせいに求めたこの時代にあって、マデロを一気に革命の英雄、革命の最高指導者にまつりあげさせてしまったのだ。
 マデロのカリスマ性は、長くしいたげられてきたメキシコの貧しいインディオ・農民の心に発したものであり、マデロが彼らとは無縁の生活を送ってきたにもかかわらず、彼を心から敬愛させてしまった。おそらく人びとはマデロの禁欲的で純粋な性格の中に、他の支配階級の誰も持っていない自己犠牲の精神を見たからだろう。そして、その自己犠牲の精神をもって、マデロが自分たちインディオ・農民の悩み、苦しみ、窮状に耳を傾けてくれるものと信じたのだ。
 ところが、マデロは、確かに禁欲的で人道主義的だったが、インディオ・農民のおかれた窮状、困難、矛盾を正しく理解したり、同情を示したりせず、またできなかったのである。1911年、かつての同志リカルド・フロレス・マゴンが「マデロは、自分の大農園のペオンの汗と涙で信じがたいほど財産を増やした富豪である。そしてマデロ一派はアメリカ合衆国と同じブルジョアジーの共和国をつくるため戦っている」と手厳しく批判したように、マデロは根っからの大農園主であり、資本家だった。インディオ・農民のために自分の土地を解放するような自己犠牲の人ではなかった。
 マデロは、くりかえし民主主義の確立と個人的自由の保障、生命、財産の保護を訴え、そのことの重要性を国民一人一人が自覚できるようになるための教育制度の充実を重要な政策とした。が、貧しいインディオ・農民が生きていくための「今日のトルティーリヤ(パン)」と「明日の土地」を保障する改革には冷淡だった。むしろサパタに対してそうであったように抑圧する側にまわった。
 マデロが望んだのは革命でも、改革でもなかった。彼が望んだのはメキシコの近代化であり、メキシコ経済の繁栄だった。そのためには、政治活動の自由、経済活動の自由さえ回復すれば、あとは自動的にうまくいくと考えた。
 ところがマデロ革命の勢いとマデロが約束した自由は、それまで独裁下で抑えられてきたあらゆるエネルギー、不満、怒り、夢を一気に解き放ってしまった。パンと土地を求める農民、権利と保護を求める労働者、自由競争を求める新興商工階級、復権を夢見る大農園主、カトリック教会、特権を守ろうとする外国資本、義勇兵を排除しようとする国軍幹部……そのどれにもいい顔をしようとしてマデロはどの階級、どの階層にも失望感を与えることになった。そのためサパタの反乱、オロスコの反乱、レイエスの反乱、ディアスの謀反などがつぎつぎ起こり、マデロ政府の威信は地に落ちていた。そして最後に、軍部の反乱からウエルタの反革命を招き、マデロは鶏の首をひねるように殺された。
 殺されたとたん、しかしそれまで八方美人で優柔不断、無能な男と悪しざまに言われていたマデロが、不思議なことに雄々しくよみがえってきたのである。人がいいばかりで、メキシコ人好みの「男らしい男」のかけらもないと言われてきた男が、再び英雄として、民主主義の犠牲者、革命の殉教者として、あれよあれよというまにインディオ・農民たちにまつりあげられていったのである。
 ニ年前、大農園主の息子でありながら、インディオ・農民から改革の夢を託されたように、今度もまた改革の抑圧者でありながら、マデロは虐殺されることで革命の殉教者としてインディオ・農民の心に長く生きつづけることになったのである。メキシコ革命でマデロほどその実体とイメージとがかけ離れた人物はいないかもしれない。
 しかしそんなことにおかまいなく、メキシコ各地で、マデロの死に報復を叫ぶ農民、マデロに栄光あれと喚声をあげるインディオがぞくぞくと立ち上がり、それがしだいに大きな波へ、大きな渦へと勢いを増していった。首都から遠く離れたチワワ州の山村で、ソノラ州の漁村で、ユカタン半島の密林の村で、オアハカの谷の村で、死ぬことで雄々しくよみがえったマデロのために革命の継承を誓って人びとは歌った。

奴らは打ちのめした
気絶するまで 
残酷なやり方で
彼を辞任させた。

しかし すべては無駄だった
なぜなら強い勇気は
むしろ死を選んだからだ
その偉大な心意気!

それが命の終りであった
救済者マデーロの
インディオ共和国と
全ての貧乏人の救済者の。(「反乱するメキシコ」)


 

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アメリカのマルコス独裁政権支援と反マルコス運動

2022年09月11日 | 国際・政治


 また朝日新聞の「声」欄にに見逃せない投稿がありました。同じような内容の投稿がくり返されているので、全文を残しておくことにしました。下記です。
「ロシアと共存 話し合いで模索を」(8月25日)を読んだ。現状を前提に話し合いをせよと言っているように私には読めた。
 私はこの提案に反対である。生じた結果の原因を誰が作り出したかが問題であり、原因の除去が最優先だと考える。今までロシアと共存していたウクライナが一方的に侵略されたのに、同じ条件で話し合えというのは無法に目をつぶれと言うに等しい。また仮に合意に至ったとしても、侵略した側のロシアがその合意をいつまで順守するか保証はない。そもそも停戦が合意されたとして、そのとき国境線をどこに引くのだろうか。対話が必要なことは言うまでもない。だが話し合いの実現のためには、ロシア軍が自国に帰り、侵略前の状態に戻すのが先決だというのは間違っているだろうか。
 たしかにロシア人の中にも優しい人はいるだろう。だがそうした個別の体験の特殊から一般を演繹し、国家間で話し合いをと期待するのは無理な話だ。むろん話し合いは積極的に進めるべきである。だが現在、話し合いを回避して武力に訴えているのはいずれの国であるか、振り返ってみる必要がある。
 この方は、侵攻前のプーチン大統領の演説を、ご存知ないのではないかと思います。また、NATO諸国のロシアに対する挑発的な動きやウクライナのアゾフ連隊とドネツクの親ロシア派勢力の戦いなどもご存知ないのではないかと思います。
 さらに、「ノルドストリーム2」をめぐる米ロの争いなども考慮されていないのではないかと思います。
 原発の運転停止を決定したドイツにとって、ロシアの天然ガスが重要なエネルギー源でした。だから、ロシアとの間で「ノルドストリーム2」の計画を推進していたのに、アメリカは、オバマ大統領当時から、こうしたロシアとドイツの接近に強い警戒感を示し、トランプ前大統領は、「悲劇だ。ロシアからパイプラインを引くなど、とんでもない」と発言したのみならず、「制裁」を課すに至ります。
 実質的にウクライナ戦争を主導しているアメリカの、こうしたロシア封じ込め対策を考慮せずに、ウクライナ戦争をとらえるから、”ウクライナが一方的に侵略されたのに…”という受け止め方になり、また、”話し合いを回避して武力に訴えているのはいずれの国であるか…”というような偏ったとらえ方になるのだと思います。
 私は、話し合いで解決すれば、ヨーロッパ諸国に対するロシアの影響力拡大を止めることができず、アメリカの覇権や利益が損なわれるので、アメリカが話し合いを回避しているのだと思っています。

 また、私は最近アメリカの要人が、次々に台湾を訪れていることも、とても気になっています。
 かつてアメリカは、台湾を対共産主義勢力の最前線として位置付け、蒋介石国民党政権の戒厳令に依拠する圧政に目をつぶって、軍事援助や経済援助を続けました。
 そして現在、中国が急成長して、アメリカの覇権や利益を脅かしつつあるために、アメリカが台湾の戦闘的な独立派に近づいているように、私は思います。
 ペロシ米下院議長の訪台後、バイデン政権は、再び、台湾に対する、約11億ドル(1500億円)にのぼる武器の売却を承認しましたが、これは、「中国は一つであり、台湾は中国の一部である」とした米中共同宣言(上海コミュニケ)に反することであり、内政干渉であり、挑発であると思います。

 もちろん、多くの台湾の人たちは、自らを「中国人」ではなく、「台湾人」と自認しているということですので、独立を望んでいることは間違いないと思います。でも、台湾行政院の大陸委員会が昨年9月に行った世論調査では、「現状維持」を望む人が、85%以上を占めており、この割合は毎年ほぼ同じ率で、「すみやかに独立」は例年約5%、「すみやかに統一」は約1%だということです。
 だから、独立を希望していても、中国と戦って独立しようとは思っていないということだと思います。台湾の人たちは、植民地支配のなかで、さまざまな差別や強制をした日本人や、中共軍に追われて台湾に逃げ込んできたのに、台湾を横取りするようにして政権を独占し、戒厳令のもとで圧政を強いた蒋介石国民党政権の人たち、すなわち大陸人(外省人)には、少なからず敵意を抱いているでしょうが、中華人民共和国の人たちには、それほど敵意は抱いていないということだろうと思います。
 でもアメリカは、ウクライナと同じように、大量の武器を売り込んで、中国と戦わせようとしているように、私は思うのです。台湾のためというより、アメリカの覇権と利益の維持・拡大のために。

 だから私は、プウクライナや台湾に対するアメリカのかかわり方を、第二次世界大戦後のアメリカの対外政策や外交政策を具体的に検証することによって、より正確に捉えたいと考え、今回は「物語 フィリピンの歴史」鈴木静夫(中公新書1367)から、「13章 ニノイ・アキノとフィリピン政治」のなかの「5 マルコス大統領の登場」と「6 上院に議席を占め、マルコスを攻撃」、および「14章 マルコス政治と”ピープル・パワー”(人民の力)革命」から「3 ニノイ・アキノの暗殺──「フィリピン人のためなら死ぬ価値がある」を抜萃しました。
 フィリピンでも、自由主義と民主主義を掲げるアメリカが、マルコス独裁政権を支援していることがわかります。言うことと、やることが違っているのです。そうした過去を踏まえて、ウクライナ戦争や台湾問題を考えないと、アメリカのプロパガンダをとらえることは難しいと思います。

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               13章 ニノイ・アキノとフィリピン政治

 5 マルコス大統領の登場
 マカパガルの挑戦者は、自由党から国民党に鞍替えしたイロコス・メルテ州生まれのフェルディナンド・マルコスであった。この選挙でマカパガルが勝ったのは、テルラク、パンパンガの両州だけであった。マルコスはマカパガルに67万票の大差をつけた。イロカノ人が63%もいるタルラク州での敗北を、マルコスはニノイ知事に結びつけて考えた。
 ニノイは大統領就任式を控えたマルコスに、ある同窓会の席上でばったり会った。主賓のマルコスはニノイを見つけ、「この男は私の国防大臣になるべきだ。なぜなら彼の私兵はフィリピン軍より大きいからだ」と皮肉った。二人の間に敵意が芽生えていた。マルコスは、後に彼がよく口にした「ニノイは、フク団の首領である」という非難を行った。
 マルコスは65年12月30日の大統領就任演説で、厳しい国家の現状分析を行った。国庫が空であること、支出が収入の三分の一も上回っていること、食糧の自給に失敗していること──などである。「外部からの援助を期待することはできない。国家はわれわれの労働と奉仕、自己犠牲の量に応じてだけ、偉大になり得るのだ」とマルコスはいった。ジョン・F・ケネディばりの愛国的な演説であった。
 この演説のとおり、マルコスが誠実に国家と国民に奉仕する大統領となっていれば、後にフィリピンを見舞い、いまもその後遺症に苦しむ事態は避けられていたかもしれない。しかし、マルコスの演説を聞いていた議員の中には、この時点ですでにフィリピンの将来を憂慮していたものがいたはずである。なぜなら議員としてのマルコスは、地位を利用して企業の許認可に口をはさみ、不正なリベートをとったり、地下組織との関係が噂されていたからである。下院議員のあいだでは、マルコスが警察の高官、ギャング、密輸業者、職業的な殺し屋を含むイロカノ人暗殺団とのつながりがあると信じられていた。しかし、議員を含めて、誰もマルコスの非愛国的な行動を非難しなかったのは、自分や家族が災難に遭う恐れが農厚だったためだ。
 それにマルコスは、抜群の頭脳の持ち主でもあった。フィリピン大学時代のマルコスは、法学部切っての秀才とうたわれ、「ナンバー・ワン」と呼ばれていた。マルコスは、あるとき父親の政敵殺しの容疑をかけられた。彼は自らの弁護を行いながら、フィリピン司法試験で、史上最高の平均92.35点をあげていた。またマルコスは特異な記憶力の持ち主で、フィリピン憲法を最初からでも、最後からでも自由に暗唱できたといわれている。誰もマルコスのすることに口を出せなかった理由がこれだ。
 戦時中、自称「抗日ゲリラの隊員」だったというマルコスは、戦後直ちに社会的活動をはじめたわけではない。病気療養のあとの47年春、当時の大統領ロハスに呼ばれ、経済開発大統領特別補佐官に任命されたことが出発点だった。ロハスは、マルコスに政界入りをすすめた。49年、マルコスは32歳の最年少議員として、下院議員に初当選している。マルコスは、まったくものおじしない議員で、たちまち初当選組のリーダーにおさまった。そしてそのころから不正蓄財の噂が飛びかった。59年には自由党から上院選に立候補、第一位で当選を果たしている。その後は先輩議員をごぼう抜きし、63年には、上院議長に就任、65年の大統領選で頂点を極めたわけである。
 フィリピンの戦後政治は、基本的に戦前の政治様式を引き継いだ。マレー系であれ、華僑系であれ、地方名士がウタン・ナ・ロオブと伝統のしがらみの中で培った勢力を地盤に中央政界に乗りだし、地方のパトロン・クライアント関係を中央でも再現したのである。マルコスも例外ではあり得ない。ただし、マルコスの場合は一地方を背景にしていたのではなく、政界、財界、軍部まで勢力下におさめていた点で際だっていた。戦前の政治家で、マルコスに近い独裁体制を築いたのはケソンである。しかし、ケソンは軍事力を持たず、マルコスほどの人権無視は行っていない。
 マルコスが大統領に当選した60年代中ごろは、ちょうどアメリカのベトナム介入が本格化した時期と重なっている。65年3月、米海兵隊はダナンに上陸、北爆も激しさを増していた。米軍は忙しくフィリピン基地に出入りし、ベトナムは日ごとに大戦争の様相をみせていた。米国が、ベトナムの共産主義者の活動を圧殺しようとする限り、フィリピンは最重要基地であり続けるはずだった。マルコスが就任演説で述べたように、フィリピンの国庫は空であっても、米国のドルで満たす方法は残っていたのである。
 大統領選の公約で、マルコスはベトナム派兵に反対した。ところが当選後二週間すると、派兵方針に転換して米国を喜ばせた。米国との交流が始まり、米大統領リンドン・ジョンソンは、マルコスに3800万ドルを渡した。疑似軍隊であるフィリピン民間行動グループ(PHILCAG)の派遣費名目であった。この金は国防総省の秘密会計から出されており、マルコスは申し訳程度に軍の医療専門家グループを送り、大半は着服したといわれている。どうしてもフィリピン基地を利用し続けるため、米国はさらに米国開発局(USAID)から360万ドルをマルコスに贈与した。米国は”打ち出の小づち”であった。
 66年10月には、孤立化した米国を精神的に支援するため、マルコスは「参戦七カ国会議」をマニラに召集した。マルコスはあるときにはフィリピン民族主義を振りかざしこわもてを見せ、あるときには協力的な態度に出た。リンドン・ジョンソン、リチャード・ニクソンはこの手で翻弄された。人権外交で有名なジミー・カーター大統領はフィリピンの人権問題で遠慮気味であった。ロナルド・レーガン大統領とその妻は、マニラ旅行にやってきて、フィリピノ・ホスピタリティーに幻惑された。レーガンが「米軍基地の守り神」として、マルコスに肩入れしたことはよく知られている。

 6 上院に議席を占め、マルコスを攻撃
 一方、ニノイはタルラク州知事の任期が切れ、67年には上院選に自由党から出馬している。彼はただ一人の自由党員として、ほとんど奇跡的に第二位で当選した。しかし、投票日が法定被選挙権年齢の35歳に13日不足していたため、またもや裁判に持ち込まれた。
 裁判中の68年2月5日、ニノイは上院で初演説を行った。ニノイはマルコスがフィリピンを「兵営国家」にしていると非難した。地方のすみずみまで軍隊を派遣し、国営企業に軍幹部を投入して、国家をまるごと兵営にしようとしているとの指摘である。マルコスはベトナム戦争だけでなく、国内にも米国との取引に使える共産主義勢力を必要としていた。共産主義者を作る方法は、マルコスに反対するものは誰であれ共産主義者だとレッテルを張り、弾圧することである。弾圧すれば、逃げ場のない庶民は反政府的行動に出ざるを得ない。マルコスは全国を一元支配するため軍人を使っていたのである。この同じ軍事力は野党勢力の壊滅をはかっていた徴候があった。
 上院におけるニノイの活躍は続いた。マルコスの「兵営国家」を攻撃したあと、「ジャビダ作戦」なるものにぶつかった。ある英国人特派員はニノイとの会見で、フィリピン政府が北ボルネオに特殊部隊を送る秘密計画を練っているのではないか、と質問した。スルー諸島スルタンは、北ボルネオが自分の領土だと主張していた。フィリピン政府も自国領だと主張してはいたが、それを武力で奪還しようという計画だというのである。その後のニノイの調査で、イスラム教のヘレン伝説にちなんだ「ジャビダ作戦」の全貌が判明した。計画は陸軍民政局(CAO)が立案し、ボルネオに武力侵攻するため、多数のイスラム教徒の青年たちにスルー諸島のシムヌル島とマニラ湾のコレヒドール島で軍事訓練をほどこしていた。
 ニノイは「ジュビダ作戦」を上院で暴露した。彼が国民に訴えたかったのは、北ボルネオがマレーシア領であったことより、この陰謀の持つ本質的な意味だったという。マルコスがこの作戦のため、「イスラム教徒だけでなく、前科者や前フク団員、とくに中部ルソンで警察の”非正規軍”を構成したモンキーズと呼ばれるテロリスト集団を集めていた」からであった。ニノイはマルコスが犯罪歴のある男たちを中核とする、秘密攻撃部隊を建設し、防衛費を乱用し、対外関係を混乱させたなどと、非難を浴びせかけた。
 「ジュビダ作戦」は放棄された。ニノイは次々にマルコスの政策がつくりだす矛盾について暴露を行った。ニノイは”ボンバ”(暴露)と分かちがたく結びつけられ、一年もしないうちに上院の「スーパースター」、若者のアイドル、新聞の売れっ子となった。
 だが、マルコス政治は一向に修正されず、農村の空気は着実に殺伐なものに変化した。フィリピンの地主階級や金持は、多くの場合私兵を持つか外部からの侵入に備えてガードマンを置くのが常である。マルコスの農村を不安定化させる政策で、この傾向は、いちじるしくなった。武装民間人による「郷土防衛隊」や「村落自衛隊」が出現し、農民を不安のどん底に突き落とした。

 7 「独裁者、アメリカの走狗マルコス」
 マルコス流の恐怖政治と、フィリピンのベトナム参戦に反対する運動は、連動していた。最も危機感を抱いたのは学生と労働者だった。69年1月、約5000人のデモ隊が、ケソン市の国会議事堂周辺に陣取った。彼らの掲げたプラカードは貧困、腐敗、都市犯罪の激増など、フィリピン社会の崩壊に果たしたマルコスの責任を追及していた。同時に、マルコスがポピュリスト的ポーズをとりながら、フィリピンをベトナム戦争最大の後方基地としてアメリカに提供し、さらに疑似軍隊を派遣していることにも抗議していた。
 デモ隊は、まだマルコスの蓄財や膨らみつつあった対外借款などの現実に気がついていなかった。しかし、彼らの問題意識は的をはずしてはいなかった。なぜならマルコスは、アジアの安全保障に名を借りたアメリカの勢力圏維持と拡大政策に取りつく形で、政権維持をはかり、強権と腐敗の政治構造を生みだしていたからである。
 70年1月26日、年頭教書を発表するため議会に到着したマルコスは、前年よりさらに手荒な歓迎陣に包囲された。デモ隊は卵や石をマルコスの車めがけて投げつけた。その中には小さな爆発物までまじっていた。これはフィリピン国民と国警部隊との長い衝突の幕開けとなった。
 サルバドール・ロペス・フィリピン大学学長は、30日、警察の暴力行為に抗議するためマカラニアンを訪れた。その夜、市街から宮殿に通じるメンディオラ橋を警戒していた国警と国軍がデモ隊を銃撃した。報道によると死者3人、多数の負傷者がでた。「メンディオラ橋事件」は、マニラの政治的空気を一変させた。学生や市民が反マルコス運動を組織化し、マニラとケソンで連日のように「独裁者マルコス、アメリカの走狗マルコス」の非難が叫ばれた。
 この動きは71年1月の「ディリマン・コミューン」に引き継がれた。「ファースト・クォーター・ストーム」(第一四半期の嵐)と呼ばれるこの運動は、フィリピン大学ディリマン校(ケソン)を開放する12日間の大闘争であった。日本の東大紛争やその他の学園闘争と違い、フィリピンでは圧倒的多数の教師と学生、それに反マルコス運動につながる無数の市民が参加した。86年2月の「ピープル・パワー」革命の原型がここにあった。
 フィリピン社会は、マルコスの計画通り騒然としてきた。時は満ちたのである。果たして、マルコスは72年9月21日、戒厳令を布告した。69年選挙で史上初めて再選大統領になったマルコスの任期は、73年末で切れることになっていた。戒厳令は、政権を無制限に延命させるため考えだされた政治的トリックであった。マルコスはフィリピンには差し迫った共産主義の危険があると述べ、72年7月4日ごろ、太平洋に面したイサベラ州ディゴヨに入港した貨物船”カラガタン号事件”をとりあげた。
この事件は現在に至るまで真相が不明のままである。しかし、大統領によると、同船は海外から3500丁のMー14ライフル銃と弾薬および医療品、無線機器を陸揚げし、そのうち900丁を政府軍が捕獲したという。”カラガタン号事件”の前後にも、同様な外国からの武器の運搬があったことが判明しており、フィリピンにとって重大な脅威となっている──というのが戒厳令公布の理由であった。
 戒厳令の公布によって、ニノイを含む約8000人の政治家、新聞記者、労働組合指導者が逮捕され、15にのぼる新聞雑誌が発禁処分を受けた。多くは間もなく釈放されたが、ニノイは80年5月まで釈放を認められなかった。
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               14章 マルコス政治と”ピープル・パワー”(人民の力)革命

             3ニノイ・アキノの暗殺──「フィリピン人のためなら死ぬ価値がある」

 戒厳令直後にマニラ・ヒルトン・ホテルで逮捕されたニノイ・アキノは、直ちに市内の陸軍基地フォート・ボニファシオに移され、収監された。それから、1年後の73年8月に第1回軍事法廷が開かれ、「殺人、共産主義者への教唆と資金援助、銃砲不法所持法」などの罪に問われた。ニノイはその場で、訴訟手続きを拒否、(1)軍事法廷自体が恥知らずなごまかしである、(2)私はすべての独裁政治に反対する──という理由をあげた。第2回法廷はさらに、約2年後の75年4月4日に開かれた。この間にニノイは40日間のハンストを行い、死にかけたことがある。
 セルヒオ・オスメニアとユーヘニオ・ロペスは、マルコス戒厳令のもう一つの狙いである、”オルガキ”そのものであった。まずオスメニアは、米自治領時代の副大統領、大統領を務めたセルヒオ・オスメニアの甥で、72年には自由党上院議員であった。ロペスはネグロス、パナイの砂糖産業を背景に、電力、運輸、マス・メディアにまで事業を展開していたロペス財閥の出身。弟のフェルディナンドは政界に進出、キリノ政権と65年、69年のマルコス政権の副大統領であった。
 マルコスはロペス家相続人のユーヘニオを捕えている間に、同家の基幹的な事業であるマニラ電力会社と複数の放送局、『マニラ・クロニクル』紙を取り上げた。それらの事業はマルコスの友だちのロベルト・S・ベネディクトに渡された。その後、続々と出現した”クローニー財閥”の始まりである。マルコスは旧オルガキーを腕ずくで乗っ取り、ほとんど企業家精神もない”取り巻き”連中に利権を与え、国家を私物化していった。
 ニノイ・アキノの第3回軍事法廷は、さらに2年後の77年11月に開かれ、新人民軍のコマンダー・ダンテ、コルプス中尉らとともに銃殺刑の判決を受けた。”不当裁判”に抗議する文書が世界中化から寄せられた。判決の実行はマルコスの独裁者ぶりを印象づけることになるため、ずっと見送られた。78年4月7日、マルコスは国民議会議員選挙を行うと発表、ニノイは監獄から立候補した。マニラではイメルダ・マルコスがトップ当選し、ニノイは落選した。
 獄中闘争の心労から、ニノイは心臓失疾患を訴えていた。検査の結果、バイパス手術が必要なことが判明した。しかし、ニノイは軍病院での手術を拒否し、マルコスは、”人道的はからい”としてニノイの米国での治療を許可した。7年8ヶ月ぶりの80年5月8日、ニノイは釈放され、フィリピン航空機で米国に護送された。
 心臓手術のあと、ニノイはハーバード大学とマサチューセッツ工科大学に席を置き、講演や執筆活動に従事した。彼は在米の反マルコス派とも頻繁に会っていた。マルコス政権の腐敗と国民の士気の低下、マルコス自身の健康悪化の情報が米国にも伝わっていた。ニノイは83年5月2日、イメルダ・マルコスとニューヨークで会った。イメルダは、ニノイが帰国すれば暗殺しようと準備しているグループがいる、と警告した。銃殺判決を受けているニノイの帰国を阻止すること自体、軍事法廷の政治性と茶番的性格を明らかにしていた。
 しかし、ニノイは、8月13日、ボストンを出発した。NHK、TBSを含め、ニノイの帰国を取材するため各国の記者が集まってきた。ニノイは彼らに対し、「マルコスの死が迫っているかもしれないときに、亡命していることは許されない」と帰国の理由を語っている。各種の情報からニノイは、マニラ空港到着後襲われるか、再び収監されることを覚悟していた。そのため、機内で分厚い防弾チョッキを重ね着した。しかし、ニノイは米国でも何度も、「フィリピン人のためなら死ぬ価値がある」と発言していた。
 台北発マニラ行きの中華航空機は8月21日午後、マニラ国際空港に到着した。征服の警官が何人か乗りこんできた。彼らはニノイを乗組員用のタラップに連れだし、ニノイが着地しない前に、ニノイの後頭部から喉にめがけて一発の拳銃弾を発射した。ニノイが席を立って、銃声が聞えるまで、一分たらずの出来事であった。防弾チョッキも、多数の記者団、テレビ・カメラもニノイの生命を守ることはできなかった。
 ニノイの葬儀は、シン枢機卿が出席してマニラ市ケソン大通りのサント・ドミンゴ教会で行われた。マニラ西郊のパラニャケの墓地まで、約20キロの沿道では約100万人の市民がニノイの葬列を見送った。真昼間、衆人環視の中で起こった暗殺事件は、これまでニノイを”普通のエリート政治家”と見ていた人たちをも憤激させた。人々は直観的にニノイの暗殺をマルコス政権の中枢と結びつけた。二度、三度と調査や裁判が行われた。だが、もはや人々は、マルコス政権下で正義が貫徹されるとは思わなかった。
 

 

 

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台湾人は、「現状維持」を望んでいる

2022年09月07日 | 国際・政治

 戦後長く日本の政治を主導してきた自由民主党は、GHQの「逆コース」といわれる政策転換によって、公職追放を解除され復活した戦争指導層の考え方や思いを深く受け継いでいる政党だと思います。
 戦前、国民に「鬼畜米英」を強制しながら、戦後は、アメリカに追随し、あたかも独立国家としての主権を自ら放棄しているかのようなアメリカ従属を続けています。だから私は、自由民主党が法に基づいて、日本国民の生命・自由および幸福追求の権利を保障するための政治をやっているとは思えません。
 4割に満たない得票数で、6割以上の議席を獲得するという選挙制度や欺瞞的な権力の行使によって政権を維持し続け、自らに都合のよい政治を続けてきていると思います。
 先日、朝日新聞は、西村経済産業相について、経産省職員が作成した出張時の対応マニュアルを入手し、公表しました。その帰宅時の対応に関する部分には、”「弁当購入部隊とサラダ購入部隊の二手に分かれて対応」とあり、発射時刻の20~30分前には駅に到着していることが必要”などとありました。国家公務員が公僕であることをすっかり忘れ、あたかも大名に仕える家来のように、西村大臣の身の回りのことに気を使っていることがよくわかりました。
 これは、安倍政権のときに「内閣人事局」が発足し、事実上、各省幹部の人事権を掌握する体制を整えた結果、政と官の関係が歪められ、多くの官僚が、官邸の意向を忖度するようになったからだと思います。安倍元首相による官僚支配体制のシステム構築によって、優秀な日本の官僚の堕落と腐敗が一気に進んだと言っても言い過ぎではないように思います。
 だから私は、自由民主党が、私利私欲にまみれた政治を続けてきたとしか思えないのです。

 同じように、私は、アメリカから大量の武器を買い込む蔡英文総統も、台湾の人たちの思いや利益を代表しているとは思えません。先月ペロシ米下院議長が訪台しましたが、その後、バイデン政権は、再び、台湾に対する、約11億ドル(1500億円)にのぼる武器の売却を承認しました。
 これは、「中国は一つであり、台湾は中国の一部である」とした米中共同宣言(上海コミュニケ)に基づけば、不当な内政干渉にあたると思います。中国と微妙な関係にある台湾に対する高度の武器の大量売却は、民主主義国のやることではないと思います。

 蔡英文総統はもともと民進党の政治家なので、台湾人(本省人)の思いを受け継いでいるはずですが、アメリカからの大量の武器の購入は、多くの台湾人(本省人)の思いとは違っているように思います。
 大部分の台湾人(本省人)は、中国大陸との経済関係が切断されたり、戦争になったりしては大変という現実的な判断から、「現状維持」を望んでいることは、台湾行政院大陸委員会が行った世論調査でもはっきり示されていると思います。だから、あたかも中国が敵であるかのように位置付け、アメリカから大量の武器を購入することは、多くの台湾人(本省人)の望んでいることに反するものだと思います。

 多くの台湾人(本省人)に受け継がれているのが、中華人民共和国に対する敵対意識ではなく、台湾人(本省人)を差別し、抑圧した蒋介石国民党政権の人たち、すなわち大陸人(外省人)に対する敵対意識であることは、下記のアミ族青年(バスの運転手)の話でよくわかります。
 すでに乗車していた台湾人(本省人)を威嚇して下車させ、暴力をふるって出発を命じた国民党軍の兵士を乗せたアミ族の青年が、その兵士たちを道連れに、断崖から海につっこんだという話が、日本の特攻精神とともに語り伝えられている事実は見逃せないと思います。
 だから、 台湾人(本省人)を差別し、抑圧した蒋介石国民党政権を支援したアメリカから武器を購入し、中華人民共和国に敵対するような政策を進めることに違和感を感じるのです。
 さらに、アメリカが、現在も外交上「一つの中国」政策を堅持し、正式な国交も、台湾とではなく中国と結んでいるにもかかわらず、先日、ジョー・バイデン米大統領が、”台湾を軍事的に防衛するのか”と記者から問われ、「イエス」と答えたという報道にも驚きました。公然と内政に干渉することを宣言したに等しいと思います。

 最近、中国と台湾の関係が緊張状態にあるにもかかわらず、多くの台湾人が比較的平静を保っていることを示す調査結果があるといいます。それは昨年、台湾民意基金会が、「いずれ中国と戦争が起こる」と思うか質問したところ、回答者のほぼ3分の2(64.3%)が「あまりそう思わない」、「まったくそう思わない」と答えたというものです。
 台湾のほとんどの人が「台湾人」を自認しており、中国大陸の人とは明確に異なるアイデンティティーを持っていることも明らかにされています。

 ”台湾行政院の大陸委員会が昨年9月に行った世論調査では、「広義の現状維持」を望む人は85.4%を占めている”ということです。

 だから最近の中華人民共和国(中国)と台湾の緊張状態は、やはり、中国の急成長と一帯一路の政策による影響力拡大によって、自らの覇権と利益が危うくなりつつあるアメリカによってもたらされたものだと、私は思います。
 アメリカは、台湾やウイグル自治区の人権問題をきっかけに、中国を孤立化させ弱体化させようと動いているように思うのです。

 下記は、「非情城市の人びと 台湾と日本のうた」田村志津枝(晶文社)から、「2 二二八事件の暗い影」の「アミ族青年の特攻精神」を抜萃しました。
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                    2 二二八事件の暗い影

 アミ族青年の特攻精神
 去りぎわに、塀のそばで小さな台を並べて売っているテープを買った。鍾逸人(ジョン・イーレン)の「二・二八について語る」という講演を録音したものだ。 鍾逸人は『辛酸六十年』という、日本の植民地時代から戦後にいたる苦悩を語った本の著者で、二・二八事件のとき、台湾人を率いた二十七部隊の部隊長だったという。彼のような特別の立場にいた人だけではなく、人々は二・二八事件について重い口をひらきはじめている。
 四川料理をたらふく食べたあと、阿東(アトン)の部屋で数人の友人と一緒にテープを聞いてみた。日本の敗戦により、1945年に祖国中国に復帰できるのがどれほどうれしかったかが語られていた。その後、その気持がしだいに裏切られていく。テープは全部台湾語で、ところどころに夏目漱石とか、猿も木から落ちる、などと流暢な日本語が突然はさまる。聞く者の注意をそらさせない、たくみな語り口だ。阿東が、私のためにすばやく北京語の説明を入れてくれ、私は日本語の部分を説明した。
 祖国復帰の喜びもつかの間、新しい支配者の横暴に不満が鬱積していく。二・二八事件にいたるまでのいくつかの小さい事件の話がつづいた。そのなかに、アミ族事件というのがあった。

<終戦当時は、列車は台北から蘇澳(スーアオ)までで、そこから花蓮(ホアリエン)までのバスの便もあてにならなかった。乗客は一昼夜も待ってやっと乗れるというありさまだった。あるとき、苦労して手に入れた切符をもった乗客が、バスのなかで発射を持っていた。すると、、中国兵がいきなり乗りこんできて銃で台湾人乗客をおどして降ろした。車内ではやつらが、一人でいくつもの座席を占領し、椅子に足を投げ出して高笑いだ。徹夜してくたくたになっていた乗客たちは怒り心頭に発した。「豚野郎、おぼえてろ!」
 バスの運転手は、日本の軍隊で特攻精神をたたきこまれたアミ族の青年であった。目をぎんぎん光らせ、この情景に耐えた。中国兵たちは、わがもの顔で、運転手にむかって「はやくバスを出せ」とどなり、揚げ句はげんこつの催促だ。アミ族の運転手は、きっとにらみかえすや急発進して中国兵をなぎはらうように尻もちをつかせ、なおもスピードをあげた。走った、走った、走りに走った。やがて前方に断崖が見えてきた。豚野郎たちは青くなった。それでもバスはスピードを落とさず、走りに走り、人も車ももろとも崖から海にまっさかさま。アミ族青年は、日本の軍隊でたたきこまれた特攻隊精神を実行したのだ。この話はたちまち全島に伝わり、みなおおいに感激した。

 日本語をしゃべらぬ阿東は、テープをまねたのかあるいは前から知っていたのか、北京語の説明のあいまに「特攻隊」と日本語で言ったとき、一瞬、沈黙があたりを支配した。私がいるせいなのか、それともほかの理由か、よくわからなかった。
 阿東は日本の植民地支配の名残りや、いいきになってのさばってくる日本人には、激しい憎悪をあらわにする。台湾の青年が、たった一人で中国人支配者に反抗した起動力は、日本軍でたたきこまれた特攻精神だったと、特攻精神をあたかも称讃するようなテープの言葉が、阿東を怒らせたのか。しかもその青年は、台湾社会のなかでも差別を受けているアミ族だ。先住少数民族は、日本の植民地時代には、討蕃あるいは理蕃事業の名のもとに、居住地区への侵略を受け、従属を強要された。それが、太平洋戦争の勃発後は、一転して同胞扱いされ、「高砂義勇隊」として南方作戦に動員されて危険にさらされた。1974年、戦後30年ぶりにインドネシアのモロタイ島で発見された元皇軍兵士、中村輝夫(アミ族名はスニオン、中国名は李光輝)さんも、数多い犠牲者の一例だ。
 テープの話は、二・二八事件のなまなましい実相にすすんでいった。テープを口うつしに北京語に変えながら、阿東は思いつめたときのクセで、青ざめた無表情になっていった。彼の胸中を去来するのは何だったのか。日本の植民地時代に生まれ育って、軍隊の経験もあり、だが家の中では一貫して絶対に日本語はしゃべらないという父親の姿なのか。あるいは、同世代の友人たちをもいまだに暗くおおっている、きびしい抑圧のことなのか。テープを最後まで聞きおえたときには、せっかく愉快に飲んだ紹興酒の酔いもすっかりさめてしまった。

 それまでに政治に無縁だった葉菊蘭(イエジュラン)は、12月はじめの選挙でみごとに当選を果たした。民主進歩党は大躍進をとげた。台湾の政治は国民党と民進党の二政党時代にむけて一歩を踏みだしたと、阿東が送ってくれた台湾の雑誌に書かれていた。

  

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アメリカの介入がなければ、台湾有事はない

2022年09月04日 | 国際・政治

 下記は、台湾の二二八事件の経緯に関する部分を「台湾の悲劇 世界の行方を左右する台湾」正木義也(総合法令)から抜萃したのですが、そのタイトル通り、台湾はくり返し強国・強権に翻弄されてきた「悲劇の島」であり、再び悲劇をむかえようとしているように思います。


 台湾が、日清戦争の結果、下関条約によって清朝から大日本帝国に割譲されたのは1895(明治28)年でした。日本の植民地支配の一端は、「霧社事件」などで、その実態を知ることができるように思います。
 アジア太平洋戦争における日本の敗戦で、台湾は、およそ50年間にわたる日本の植民地支配から解放されますが、1949年以降、国共内戦に敗れて逃げ込んで来た蒋介石国民党政権の圧政下におかれました。蒋介石国民党政権は、軍事力に物を言わせ、その中枢を、国民党関係者すなわち大陸人(外省人)で固めたばかりでなく、地方公職選挙で台頭する台湾人(本省人)を排除するシステムを構築し、非民主的な独裁政治を続けたのです。それは、史上最も長いといわれる38年間にもわたる戒厳令続行に象徴されていると思います。
 また、見逃せないのは、民主主義や自由主義を掲げるアメリカが、台湾を、対共産主義勢力の最前線として位置付け、蒋介石国民党政権の戒厳令に依拠する圧政に目をつぶって、軍事援助や経済援助を続けたことです。
 そしてその姿勢は、国連総会で(1971年)、中華人民共和国の中国代表権を認め、中華民国政府(台湾=国民政府)を追放する決議が採択された後も、基本的に変わることがなかったということです。
 アメリカのニクソン大統領は、1972年、「中国は一つであり、台湾は中国の一部である」した共同宣言(上海コミュニケ)を発表し、米中国交正常化を実現させました。でも、その宣言内容を変更したことがないにもかかわらず、アメリカが、再び台湾に大量の最新兵器を売却している事実は、看過できないと思います。
中国は一つ」ということであれば、それは、内政干渉であり、中国に対する挑発であるといってもいいと思います。

 1945年9月、中華民国南京国民政府は、日本の現地軍の岡村寧次総司令官から降伏文書を受領しましたが、翌月、台湾省行政長官に任命された陳儀は、日本領台湾の安藤利吉総督・台湾軍司令官兼第10方面軍総司令官から降伏文書を受領しています。だから、国民政府は台湾・澎湖諸島に対する領土の主権が回復されたことを宣布ました。
 でも、蒋介石国民党政権は、地元民台湾人(本省人)の政治参加を事実上拒否し、非民主的で差別的な独裁政治を続けたので、それに不満を持った台湾人(本省人)が立ち上がり、下記のような、二・二八事件となるのです。一人の煙草売りの女性に対する官権の差別的で暴力的な扱いが、台湾全島を巻き込む大事件に発展したことが、台湾における国民党政権の政治がいかなるものであったかを示しているのではないかと思います。

 また、国連総会の中国代表権問題にかかわって、蒋介石が主張した「漢族不両立」というのも、台湾人(本省人)の存在や思いを無視したものであったと思います。「漢族不両立」というのは、国共内戦で戦った中華民国(国民党)の側が「正義」であり、大陸の中華人民共和国の側が「賊」すなわち「不正義」であるという考え方ですが、中華民国の国連追放が決定したのは、蒋介石がこの言葉を使って、自ら国連を飛び出す姿勢を示したからであると言われています。アメリカや日本は、中華民国が「台湾」の名で国連にとどまるよう説得したようですが、蒋介石は、自らの正統性を主張し、国連に「正義」と「不正義」が両立することは受け入れられないということで、アメリカや日本の提案を拒否し、脱退したというのです。
 蒋介石の思いは理解できなくはありませんが、国共内戦に敗れて、自らが暮らしていたわけではない島に逃げ込み、その島の住民の意向を無視して、独裁政治を続けたり、国連脱退を決めるなどということは、どう考えても「正義」として通用するものではないと思います。

 したがって、台湾有事が心配される現在、自由や民主主義を掲げる国は、台湾の人たちの存在や思いを大事にし、台湾行政院の大陸委員会が昨年9月に行った世論調査で、85.4%を占めるという「現状維持」を尊重すべきだと思います。
 台湾の一部の政治家が、アメリカと結んで、大量の兵器を買い込み、中国と武力で対峙しようとしているようですが、危機感を煽ったり、中国を挑発するようなことは、謹むべきであると思います。

 また中国が急成長して、アメリカの覇権や利益を脅かしつつあるために、焦るアメリカが台湾の独立派に近づいていることも見逃してはならないと思います。
 アメリカが、民主主義や自由主義を尊重する対外政策や外交政策を続ければ、急速に没落し、ロシアや中国が力を得ることは避けられないのではないでしょうか。だから、ウクライナ戦争があり、台湾問題があると、私は思います。
 言い換えれば、アメリカの介入がなければ、台湾有事はないということです。
 だから、誰が台湾を第二のウクライナにしようとするのか、という視点を持たないと、プロパガンダに引きずられて、酷い目に遭うことになる、と私は思うのです。  
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                     第五章 二二八事件 元凶は誰か

 義理は禁物
 政治権力の中枢台北市の、李登輝総統の執務する総督府の赤レンガの斜め向かいに、こんもり木々の茂る公園がある。台湾民族の悲劇、二二八事件の資料が展示された「台北二二八記念館」が、その隅に建っている。
 日本が第二次世界大戦に敗れ、中華民国政府(国民党)に台湾と澎湖島などを返すまで、日本統治下の台北放送局庁舎であった。
 1930年に落成した建物はこげ茶色のかわらの屋根、ベージュの外壁、二階建てのバルコニーをもつ瀟洒な南ヨーロッパ風の建物である。周りに南洋の樹木が植えられ、高雄や台中などの鉄道駅と共に、日本統治下の歴史ある文化遺産として貴重な建物である。
 訪問者は、一階の通路で、第二次大戦前の日本統治下の台湾の過去に引き戻され、激しいカルチャーショックを受ける。入口の左手に「台湾人的訴求」のコーナーがある。
 1935年台湾で行われた直接選挙の写真が展示されている。
 選挙管理人が、腕章を巻いて白いクロスに覆われた壇上にいる。その目前に投票箱が並んでいる。
 正面壁の日の丸の両側に、
──小さな一票大きな使命
──義理は禁物 人物本位
などと記された垂れ幕が下がっている。投票箱の左右と、入口の受付に背広ネクタイに正装した日本の男たちが真剣な面もちでこちらを見つめている。

 日本皇軍の未亡人
 1947年2月27日の木曜日。この日、昼間は晴天だった。しかし夕方から小雨になりはじめた。台北から北東へ約20キロの淡水港へ煙草の密輸捜査に行った福建人の伝学通らは夜6時、警察隊数人と合流して、台北市内のパトロールに入った。
 淡水河沿いの繁華街、延平北路を南に下り、南京西路に曲がった天馬茶房付近で、一人の中年女の煙草売りを発見した。
 林江邁(リンコウマイ)であった。彼女の夫は、日本皇軍の兵士として南方に派遣され、帰らぬ人となっていた。
 未亡人は、わずかの資本を元手に外国煙草を仕入れ、日本軍の出征兵士として戦地で没した夫に代わって、糧を稼いでいたのである。
 本国からやって来た大陸人にとって、日本化された台湾女性は、侮蔑の対象でしかなかったのであろう。
 捜査員はパラパラと飛び降りた。抵抗する林江邁を殴り、屋台をぶちこわした。そうして煙草と売上金の押収にかかった。
 夫を戦争にとられ、生活苦にあえいでいた台湾夫人は、捜査員に向って土下座した。額を地べたに何度もすりつけ「救命」「救命」と嘆願した。
 この時すでに、多くの群衆が遠巻きに繁華街の成り行きを見つめていた。ほとんどの台湾人は、専売局捜査員によって女子供の零細な煙草売りをいじめられるのは国民党政府が、自分たちの巨大な利益や裏金を独り占めにするためのカムフラージュであることを知っていた。
 延平北路から南京西路の円環の辺りは、屋台が並ぶ雑踏であり、群衆の数は急に増えてきた。

 大事件の導火線
 外国煙草を大量に密輸入し、巨額の利益を得ている一部の商売人の背後に軍隊や税関がついている。これら捜査員は、彼らの犯罪をおおい隠すために、零細な屋台を狙ってスケープゴートを次々と捕まえて見せしめにしていたのである。このようにして取り上げられた煙草やお金はどこに行くのか。彼らのポケットに入るのはいうまでもない。群衆は、歯がみし、身体を震わせ、舌を打ちならした。
 散乱した屋台と哀れな台湾夫人の周りに、群衆の輪がせばまった。
 この時、福建省籍の捜査員・葉得根がもっていた拳銃の台で林江邁の頭を殴った。執拗にすがりつ林江邁は、頭から血を流して転倒した。
 十重二十重と現場を取り巻いて、かたずをのんで成り行きを見ていた群衆がこれを見て、我慢の限界を超えて、捜査員にどっと詰め寄った。
「ブタ警察」
「泥棒」
「阿山(大陸から押しかけて来た中国人)め」
 などと、ののしり、
「煙草を返してやれ」
「金を返せ」
 と押寄せた。
 威張り散らしていた捜査員は、ふくれあがった群衆の勢いに押され、あわてて退却しはじめた。群衆は怒声と力でどんどん追っかける。
 捜査員は銃を抜き、発砲して群衆を威嚇しながら、乗ってきたジープも捨てて、走って逃げはじめた。そのとき、一人の警官が発砲した銃弾が陳文渓という台湾人に命中した。彼は即死した。
 これが、全島を揺るがす大事件の発端であり導火線となった。

 専売局を襲う 
 南京西路に置き去りにされたジープは群衆によりその場で焼き打ちにされた。陳文渓が、警官によって銃殺されたニュースはまたたく間に台北市内を駆けめぐり、市民が続々と現場に集まってきた。
 群衆は犯人銃殺を求めて警察官や憲兵隊に押しかけた。
 しかし、警察局も憲兵隊も、事態を偶発的、一時的なものと楽観していた。台湾人の底に根強く広がっている大陸人への反感を軽視していたのである。
 翌2月28日は早朝から不穏な空気が漂いはじめた。学生は授業を放棄し、商人は店を閉じた。大勢が事件の現場の円環近くなどに集まってきた。市内でそれぞれ集会を開いた後、台北専売局に押しかけた。彼らは建物に押し入り、局内の中国人職員を殴りつけた。そして煙草、酒、マッチなどを道路にほうり出して放火した。
 急激にふくれ上がったデモ隊は、事件の元凶である南門の専売総局に向った。
 ドラや太鼓をたたきながら、
「専売局長を出せ」
「犯人を銃殺せよ」
 と叫んだ。
 この時、警察隊が威嚇射撃を行ったので、群衆の怒りはさらに増大した。彼らは身の危険も顧みず、専売総局の構内に乱入したので、局長を始め専売局職員はわれ先に逃げ出した。
 群衆は建物の中の物を片っ端から破壊し、前方の広場に持ち出し焼いた。

 長官出て来い
 午後には、市政府や警察局へ行った群衆も合流し、長官公署前に集まって来た。一万人を超える大集団になあった。
「陳儀(長官)出てこい」
「犯人を引き渡せ」
などと群衆は叫び、武装警官と憲兵隊が何重にも警備陣で取り巻いている長官公署を包囲した。長官公署には、日本が台湾から撤退して、入れ違いに大陸からやって来た行政長官・陳儀がいる。彼が、中国国民党の権力をカサに着て、台湾人を悲惨な状況においていることを群衆は知っていた。
 長官公署前で、抗議を繰り返している群衆へ、バルコニーの憲兵隊が突然一斉掃射を始めた。
 デモ隊の戦闘にいた数十人に命中し、死傷した。群衆は隊列を崩し、一斉にくもの子を散らすように退却した。しかし、陳儀のこの弾圧策は、一般民衆の怒りの火に油を注ぐ結果となった。
 このようにして、台湾史上最大の悲劇、二二八事件は台北だけでなく、全島を巻き込む大暴動となっていく。

 天に代わりて不義を討つ
 大陸人、国民党の陳儀長官による同胞への機銃掃射の弾圧は、台北市内の隅々まで津波のように伝えられた。街という街は人々の熱いるつぼとなった。
 市民のなかには、元日本兵もいる。軍歌を高らかに歌いながら、
「豚(中国人)を殺せ」
「阿山を台湾から追い出せ」
と叫んでいた。交番は軒並み襲われ、破壊された。 
青年グループは、
「日本語話せるか」
と質し、日本語で返答できない通行人は阿山と決めつけて、殴りつけた。
 街の電柱には
「打倒陳儀」
「打倒阿山」のスローガンがはり出された。このスローガンは国民党と大陸支配人に対しての台湾人反逆と抵抗が政治的暴動に発展することを予見させた。

 戒厳令
 夕刻、台北市全域に戒厳令が発表された。街のすみずみまで国民党軍隊が動員された。軍隊はデモ隊と衝突すると素手の群衆に機銃掃射を浴びせた。怒った群衆と武装した軍隊や警官隊が衝突し、街は内戦の様相となった。
 一部の群衆は、中山公園で決起大会を開いた。二二八記念館となっている公園内の台北放送局を占拠し、全島に事件の発端となった内容を放送した。
 前日の延平北路から南京西路での煙草売り婦人への血の弾圧と、群衆が長官公署前で機銃掃射されたことなどが全島に知らされた。このラジオ放送に呼応して、中部の台中市などでも群衆が動き始めた。
 戒厳令のしかれた台北市の街角では国民党の軍隊や警察、憲兵が横行していた。
 台湾人の中から多くの死傷者や逮捕者が出ていたが、一方、大陸人が街のあちこちで群衆によって袋叩きにされていた。
 国民参政院と省参議員などによって、事態の収拾をはかるために選出された代表が、陳儀行政長官に「闇煙草取り締まり流血事件調査委員会」を設けることを建議した。
 委員会は、黄朝琴、周延壽、林忠、王添燈を代表として長官公署に派遣した。これらの人々のうちには一週間後、国民党軍の増援部隊が進駐して来ると殺され、いまだにその行方さえ判明しない人もいる。
 代表の要求は次のとおりであった。
戒厳令の即時解除
逮捕者の即時釈放
軍隊、憲兵、警察の発砲禁止
官民合同の処理委員会の組織化
陳儀長官のラジオ放送

 陳儀の時間稼ぎ
 陳儀長官は、あたかも台湾人の要求を受け入れるかのようなポーズを示した。この日の夜、事件発生後はじめてラジオ放送を行い、「深夜12時から戒厳令を解く」「官民共同の事件処理委員会に、長官公署秘書など、当局側の代表を参加させる」ことなどを約束した。
 陳儀はさらに被害を受けたものは、台湾人、大陸人を問わず、負傷者は治療し、死者には弔慰金を支給すると述べた。
 市民はこれによって、さらなる流血の惨事が避けられると安堵したが、これは陳儀の狡猾な時間稼ぎであった。
 一方で陳儀は本土にいる蒋介石の軍隊派遣を打電していた。南京にいる蒋介石もまた武力によって台湾民衆を鎮圧することを決意した。
 陳儀が約束した戒厳令の解除は実際行われず、逆に武装部隊は増強された。台北市内は戒厳令体制が続き、ひっきりなしに銃声が聞えて逮捕者が相次いでいた。
 一方、官民共同の「二二八事件処理委員会」は、日曜日の3月2日から官庁街の中山堂で善後策を論議した。民衆が傍聴しようと押しよせ会議場は人であふれた。会議はそのあと三日間にわたり延々と続いた。組織論議に時間が費やされ、各県市に分会を設立することなどが決まるのに3日を費やした。陳儀はこの間、処理委員会の中に特務スパイを潜入させ、時間稼ぎを行っていた。
 すでに南京の蒋介石から軍隊派遣の返電を受け取っていたので、陳儀は時間さえたてば武力弾圧できる確信を持っていた。処理委員会のメンバーは、うかつにもその腹黒い企みに気付いていなかった。
 陳儀のカムフラージュが功を奏し、処理委員会が組織論議にあけくれている台北での膠着状態とは異なり、地方各地で暴動がわき起こっていた。

 暴動全土に
 現在世界的なハイテク生産地になっている新竹では、この頃台北に向って走る軍事列車がストップされ、民衆と軍隊とが交戦していた。
 中南部嘉義の市民は市庁舎を占拠し、政府職員は追い出された。斗六では警察署が占拠された。台南でも警察や市の出張所が次々と焼き打ちされた。
 こうして、事件はまたたく間に全島に拡大している。しかし、なかでも強硬な武装闘争を展開したのは、中部の主要都市・台中であった。
 二二八事件の軌跡をたどってみると、台中は他の都市に比して、きわだった特徴を示している。
 台湾放送局ラジオの突然の惨劇ニュースが台中や嘉義など中南部の家庭や職場に流れたのは2月28日の午後だった。
 台北からの交通が遮断されるなど、すでに異変は中南部におよんでいたが、電波による影響は大きかった。
 ラジオから突然、呼びかけがはじまった。
「あなた方も我々、台北市民の正義の決起に応えて立ち上がってください。いまこそ、台湾人のための国にしよう。汚職の官人を打ち倒そう」
 この放送は、中南部の台湾人を一気に興奮状態に巻き込んだ。

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台湾有事を望んでいるのは誰か

2022年09月01日 | 国際・政治

 「台湾の悲劇 世界の行方を左右する台湾」(総合法令)の著者正木義也氏によると、アメリカのトルーマン大統領は、1950年初頭に、台湾について下記のような三つの重大な政策を発表しています。
一、アメリカは台湾人の軍事基地設置を希望しない
二、中国情勢の干渉にアメリカ軍隊を使わない
三、国民党に軍事援助しない
 この政策は、中台問題、すなわち中国(中華人民共和国)と台湾(中華民国)との問題を、この時期のアメリカは、国内問題ととらえていたことを示していると思います。
 しかし、朝鮮戦争が勃発すると、トルーマン大統領は、「今や共産勢力が、地下運動に頼る段階を終え、武力侵略および戦争を実行するに至った」と述べて、南北朝鮮の内戦に軍事介入するとともに、台湾海峡への第七艦隊の出動を命じています。この台湾海峡への第七艦隊の出動が、事実上中台の内戦にも介入することにつながったということです。中国人民解放軍(中国共産党軍)による台湾解放を頓挫させることになったというのです。
 
 また、1971年の国連総会で、アルバニアが提案した中華人民共和国の中国代表権を認め、中華民国政府(台湾=国民政府)を追放する決議が採択されています。さらに翌年に訪中したアメリカのニクソン大統領は、「中国は一つであり、台湾は中国の一部である」という中国の主張に同意する内容を盛り込んだ、米中共同宣言(上海コミュニケ)を発表し、米中国交正常化を実現させました。その結果、中華民国政府(台湾)は、日本をはじめ、世界の各国とも正式な国交を断絶され、現在に至っていると思います。

 でも最近、アメリカの要人が、次々に台湾を訪れている状況は、中台問題が、すでにアメリカにとって、中国の国内問題ではなくなっていることを示していると思います。
 社会主義体制の国である中国の急成長や一帯一路の政策は、アメリカの覇権を危うくするのみならず、世界中から利益を得ているアメリカの存亡にかかわるので、アメリカは、台湾独立派を支援して、中国をたたき、弱体化に結びつけたいのではないか、と私は疑っています。台湾が、第二のウクライナにさせられるのではないかと心配なのです。

 世論調査によると、台湾は、すでに中国とは相互依存があり、8割以上の人たちが「現状維持」を希望しているということです。また、台湾行政院の大陸委員会が昨年9月に行った世論調査では、「広義の現状維持」を望む人は85.4%を占めており、この割合は毎年ほぼ同じ率で、「すみやかに独立」は例年約5%、「すみやかに統一」は約1%だということです。
 大部分の台湾人は非民主的な中国との統一はうれしくないが、台湾の輸出の44%を占め、台湾の海外投資の60%以上が存在する中国大陸との経済関係が独立することによって切断されたり、戦争になったりしては大変、という現実的な判断から「現状維持」を支持するのだろうといいます(DIAMOND onlineの報道)。
 また、「中国は軍事侵攻しない」と受け止めている台湾人が、約6割を占めるとの情報もあります。

 それでもアメリカは、一部の親米的な政治家と共に、無理矢理危機感を煽り、様々な情報を流して、台湾の人たちを、自らの都合のよい方向に動かそうと躍起になっているように、私には思えます。

 なぜなら、アメリカは、くり返し、台湾に武器を売却しているからです。
日経新聞は2020年10月、下記のように報じています。
【台北=中村裕】米政府は26日、台湾への対艦ミサイルシステムなど総額23億7000万ドル(約2500億円)の武器売却を承認し、議会に通知した。21日には空対地ミサイル(AGM)など総額18億ドル(約1900億円)強の武器売却を承認したばかり。米国から台湾への武器売却が加速している。
 台湾は米国からの武器購入を増やし、軍事力の強化を急いでいる(7月、台中市)=ロイター
今回売却を決めたのは、「ハープーン」と呼ばれる米ボーイング製の対艦ミサイル最大400発のほか、ハープーンを搭載した沿岸防衛システム100基など。
 21日にはボーイング製の空対地ミサイル「SLAM-ER」135発や、米ロッキード・マーチン製のロケット砲システム「HIMARS」など3種類の兵器システムの売却を承認したばかりだ。…”

 だから、アメリカは、着々と、台湾の人たちが望んでいない戦争の準備を進めているように思います。

 ふり返れば、台湾は、日本のみならず、中国国民党の蒋介石政権にも、苦しめられています。台湾の人たちの思いの背景を知るために、「台湾の悲劇 世界の行方を左右する台湾」正木義也(総合法令)から、一部抜萃しました。
 国共合作で戦った第二次世界大戦終結後、中国国民党軍による解放区攻撃などによって、ふたたび中国国民党と中国共産党の軍隊は内戦状態となりましたが、人民解放軍との「三大戦役」で国民党軍は敗退し、台湾に逃れたにもかかわらず、軍事力を背景に、圧倒的多数の台湾の人たちを、圧政下においたのです。
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                    第四章 台湾民族 謝雪紅の運命

 血の自供
 台湾ではこの頃、中国国民党特務による中国共産党の地下組織への大がかりな弾圧が始まっていた。
 蒋介石が、大陸の最後の拠点、成都から台北に向った1949年12月よりも2ヶ月も前の10月すでに、国民党特務によって台湾地下組織の最高責任者、工作委員会書紀・蔡孝乾は逮捕されている。中ソ両国の領袖が、厳冬のモスクワ会談を行っていた50年1月29日、蔡孝乾の逮捕が公表された。国民党特務はこの間に地下組織摘発の十分な情報を自供させていた。蔡孝乾は毛沢東が抗日戦争時代に行った長征に同行。中国革命のメッカ、延安での革命活動も経験している。「名誉ある」中国共産党幹部党員であったがスネを削られるような陰惨な拷問を受け、台湾における地下組織の、組織図と党員名を全面自供した。800名の秘密党員が逮捕され、9000人が検挙された。
 この自供により、国民党特務のてによって3000人が銃殺された。
 弾圧工作を指揮したのは、蒋介石の息子の蒋経国である。父親と共に成都から台湾に逃げ込んで来ると、ただちに地下共産党の弾圧にとりかかった。50年4月には、正式に国防相政治部主任となってその後、30数年間恐怖の白色テロを全島に繰り広げた。
 20代に、モスクワで学んだソ連共産党仕込みの粛清方法を蒋経国は存分に発揮した。
 その残虐さと冷酷さは日本の植民地時代の特高警察よりひどいものだった。中国共産党の台湾地下組織は壊滅し、一人の党員も逃げられなかった。
 こうして、中国大陸からの軍事攻撃に呼応して、台湾島内で武装闘争を引き起こして台湾を武力解放しようとした中国共産党の思惑は完全についえた。
 毛沢東と共に長征に参加した蔡孝乾は、台湾革命の信奉者何千人もの血のあがないの上にたって、全面自供・裏切りの功績により、その後国民党軍隊の幹部に登用されている。

 朝鮮動乱
 1950年6月25日明け方北朝鮮軍隊は、陸路と海路6ケ所から38度線を突破し、韓国側に侵入した。翌日の26日夜には、ソウル北方14キロの地点に到達し、早くも韓国の首都ソウルは、陥落寸前となった。北朝鮮軍の侵入がスターリンの指示によることは明らかだった。北朝鮮軍はソ連製の武器で武装していた。翌日の26日、ソ連戦闘機ヤク二型機と、アメリカの戦闘機ムスタングは、ソウルの上空で空中戦を行った。アメリカ大使館10名の目撃によればヤク戦闘機4機ソウル上空に現われ、米機2機のうち1機を追尾した。爆弾2個を投下したが、ムスタング戦闘機は撃退した。
 韓国を西側の海から攻撃するためモスクワの中ソ会談において、スターリンが渤海と黄海の青島や大連など7つの軍港の管轄を求めて毛沢東に拒否されてから、6ヶ月がたっていた。
 一方、ロンドン発AFPによると、オーストラリアのスペンダー外相は、北朝鮮の韓国侵入について次のような声明を出している。
「北朝鮮軍の韓国侵入は中共軍の台湾侵入を誘発するかも知れない」

 蒋介石の幸運
 北朝鮮軍が韓国に侵入して3日後の1950年6月26日、ソウルは陥落した。この日、米国防総省はアメリカ第七艦隊が台湾海峡に到着し、警戒中であると発表した。
 米軍スポークスマンは、
 「まだ敵との接触はないが、台湾と朝鮮の両海域で米海軍の警戒はすでに始まっている」
と語った。
 1月初頭には、トルーマン大統領は、台湾をめぐっての中国共産党軍と中国国民党軍の争いは国共内戦との立場を取り、不介入を表明していた。
 しかし、朝鮮戦争の勃発は、その政策を一気に覆すこととなった。
 トルーマンは開戦直後の声明で、
 「今や共産勢力が、地下運動に頼る段階を終え、武力侵略および戦争を実行するに至った」
 と述べた。
 連動して起こる侵略事態にそなえ、アメリカ海兵隊は朝鮮に武力行動を起こすと同時に、台湾海峡への第七艦隊の出動が命令された。
 「中国共産軍が台湾を占領するような事態になれば、太平洋地域の安全とアメリカ軍に対し、新たな脅威となる」と声明は述べていた。
 ・・・
一方、蒋介石は朝鮮戦争の勃発によって、再びアメリカの強力な支援と援助を得られる幸運に恵まれた。

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