9月29日の朝日新聞に「海底パイプライン破壊工作か」と題する記事が出ていました。ノルドストリーム1とノルドストリーム2の3カ所でガス漏れが発生したということです。そしてそのガス漏れは、西側諸国もロシアも「破壊工作」の結果であると受け止めていることがわかりました。
だから私は、アメリカが脅しではなく、本当に実行したと思ったのですが、デンマークのボドスコフ国防相はNATOの事務総長と会い、今回の破壊工作にロシアが関わっているとの味方をにじませたといいます。あり得ないと思いました。
バイデン大統領は、ロシアがウクライナに侵攻する前の声明で、”ロシアがウクライナに侵攻した場合、ノルドストリーム2を停止するよう緊密に調整してきた”と言ってるのです。また、”ロシアがウクライナに侵攻した場合、ノルドストリームを破壊する”言ったという記事を目にたこともありました。今年の2月のことです。
そして先日、https://english.pravda.ru/ で、下記の記事を目にすることになりました。
ロシア産ガスをバルト海経由で欧州に輸送するパイプラインの敷設にかかわり、ロシアと対立しているポーランドの前外務大臣が、「事故(破壊工作)」について、アメリカに謝意を表明する投稿をしたということに、ロシアは注目しているというような内容の記事です。それは、ロシアが破壊工作を実行したのが、アメリカであると受け止めていることを示していると思います。
”Russia pays attention to Poland's 'Thank you, USA' remark after Nord Stream accidents 28.09.2022 14:36 World
Maria Zakharova, an official spokesperson for the Russian Foreign Ministry, reacted to the statement from Poland's former Foreign Affairs Minister Radoslaw Sikorsky about the Nord Stream gas pipeline accident.
Sikorsky on Twitter* thanked the United States for today's accident on Russian gas pipelines. Is this an official statement about a terrorist attack?" Zakharova wondered.
Earlier, Sikorsky tweeted "Thank you, USA” and posted a quote from Ame”
こういうNATO諸国とロシアの真っ向から対立する情報について、どちらが正しいか断定する手段を、私は持っていません。真実を知る手段がなければ、過去の歴史や関係国の政治家、政府の高官、軍人などの発言をもとに推測するしかないと思います。
だから私は、ウクライナ戦争が始まってからは、ウクライナ戦争を主導するアメリカの対外政策や外交政策をふり返りながら、日々の情報を受けとめるようにしています。
下記は、「朝鮮戦争の起源 1 解放と南北分断体制の出現」ブルース・カミングス 鄭/林/加地:訳(明石書店)から抜粋したものですが、第二次世界大戦後の朝鮮半島を、38度線で分断することにしたときのアメリカの関係者の考え方がよくわかります。
朝鮮の人たちが建国準備委員会を結成し、着々と準備を進め、南北各界各層を網羅した代表一千数百名による「全国人民代表者会」を開催し、南北朝鮮を合一た「朝鮮人民共和国」を国号とする国家の創建と、新朝鮮国民政府の樹立を決議したにもかかわらず、アメリカは、そうした取り組みとは関係なく、勝手に、できうる限り広い占領領域を確保のために38度線を設定し、その後、共産主義勢力を排除した南朝鮮単独政府の樹立に専念したのです。
下記には、”南だけの単独政府を樹立しようとするソウルの米軍政の決定は、1945年11月20日付のウイリアム・ラングドンの電報の中にはっきり述べられている”とあります。
でも、ソ連軍は、アメリカ軍と違って、北朝鮮占領の直後、この人民共和国を承認したのです。だから、アメリカが人民共和国を承認すれば、朝鮮が分断されることはなかったし、戦争することもなかったのだと思います。
アメリカが、相手国を潰すことになっても、覇権や利益の維持・拡大を目指す姿勢が、今なお変わっていないことは、世界のあちこちの紛争に対するアメリカの関わり方を調べればわかるように思います。
だから、ノルドストリームの破壊工作は、アメリカによるものである可能性が大きい、と私は思うのです。
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第一部 物語の背景
第四章 坩堝の中の対朝鮮政策
戦後最初のコンテインメント(封じ込め)作戦──朝鮮の分断 1945年8月
…ポツダム会談の真最中、ニューメキシコ州のアラモゴード(Alamogordo)で原爆実験が成功したという報に接するや、これこそはソ連と交わした外交的な約定を凡て反古にした上で太平洋戦争を短期間に終息させ、そして東アジアの戦後処理の問題に対するソ連の参加を排除し、もって実質的にロシア人を封じこめうる絶好のチャンスと判断したのは、他ならぬこれらの政策担当官や大統領側近の顧問ないし大統領自身であったのだ。アメリカは8月6日と9日、広島と長崎に続けて原爆を投下したが、ソ連は間髪を入れず、アメリカの予測していなかった軍事行動をアジア大陸で開始し── そして日本は崩壊した。このような目まぐるしい事態の直後、朝鮮に38度線が引かれ、南北二つの分割地区が米ソ両国軍の占領下におかれることになる。
北緯38度に線を引くというそもそもの決定は全くアメリカが下したものであって、この決定が下されたのは8月10日の夜から翌11日の未明まで続いた国務・陸軍・海軍の三省調整委員会(SWNCC:スウィンク)の徹夜会議のときであった。この会議の模様については幾つかの報告がなされているが、その中の一つを紹介すれば次の通りである。
8月10日から11日にかけての深夜、チャールズ・H・ボンスティール大佐(後に将軍として駐韓国連合軍司令官に就任)とディーン・ラスク少佐(後にケネディ、ジョンソン両大統領の下で国務長官に就任)は……一般命令(General Order)の一部として朝鮮に於て米ソ両軍によって占領されるべき地域確定について文案を起草し始めた。彼らに与えられた時間は30分であり、作業が終わるまでの30分間、三省調整委は待つことになっていた。国務省の要望は出来うる限り北方に分断線を設定することであった。陸軍省と海軍省は、アメリカが一兵をだに朝鮮に上陸させうる前にソ連軍はその全土を席巻することができることを知っていただけに、より慎重であった。ボンスティールとラスクはソウルの北方を走る道(県)の境界線をもって分断線とすることを考えた。そうすれば分断による政治的な悪影響を最小限にとどめ、しかも首都ソウルをアメリカの占領地域内に含めることができるからである。そのとき手もとにあった地図は壁掛けの小さな極東地図だけであり、時間的な余裕がなかった。ボンスティールは北緯38度線がソウルの北方を通るばかりでなく、朝鮮をほぼ同じ広さの二つの部分に分かつことに気づいた。彼はこれだと思い、38度線を分断線として提案した。
その場に居合わせたラスクの話も大体において以上の記述と一致している。ラスクの書いたものによると、マックロイ(SWNCCにおける陸軍省代表)は自分とボンスティールの二人に「隣の部屋に行って、アメリカ軍ができうる限り北上して日本軍の降伏を受諾したいという政治的要望と、そのような地域にまで進出するにはアメリカ軍の能力にはっきりした限界があるという二つの事実を、うまく調和させうる案を考えてほしい」と求めたという。以上二つの述懐の中で注目すべき大事な点は、朝鮮分断に関するこの決定の性格は本質的に政治的なものであって、しかも国務省の代表はこの分断をもって朝鮮を二つの勢力圏に分割することの政治的利益を主張したのに反し、軍部の代表は朝鮮に足がかりを確保するだけの兵力は無いかも知れないということについて注意を促したという事実である。
ラスクの言によると、38度線は「もしかしたらソ連がこれを承諾しないかもしれないということも勘案した場合……アメリカ軍が現実的に到達しうる限界をはるかに越えた北よりの線」であったのであり、あとからソ連がこの分割線の提案を承諾したと聞いたとき、彼は「若干驚きを感じた」ということである。もう一つの説明によると、アメリカの提案がソ連に伝達されたあと、ソ連が果たしてどう返答するだろうかについて、アメリカは「暫くの間落ち着かない状態」にあったのであり、もし提案が拒否された場合は、構わず米軍を釜山に急派すべきだという意見もあったという。……
・・・以下略
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第六章 南朝鮮の単独政府に向かって
我々は政治権力の基本的な道具である官僚制、警察、そして軍隊に関するアメリカの事実上の政策が、最初にアメリカ軍が上陸してから数週間ないし数ヶ月の間にどのような形で朝鮮で形成されていったかを検討してきた。これらのアメリカの政策は、朝鮮は実質的には分断国家であり、アメリカとソ連が管理するそれぞれの地域の間には、何の協力関係も、また政策上の相互補完関係もありえないという前提に基づくものであった。ソ連軍は、アメリカ軍と違って、北朝鮮占領の直後、人民共和国(人共)を承認した。従って、これら二つの外国勢力は、それぞれ政治的主張において両極端に位置する朝鮮人と手を組んだ上、全く異なった政治機構を通じて占領政策を実施した。
しかし、アメリカ軍政は明らかに不利な立場にあった。なぜなら彼らが味方にした朝鮮人の大部分は、植民地時代における日本人との関係によって自らの過去を汚した連中であり、軍政の官僚機構を離れて大衆の支持の下に自立しうる政治組織を作るような能力に欠けているようにしか思われなかったからである。そこで、アメリカ軍政の目標は、自分たちの施策は朝鮮人の民族主義的要求を充足させるためのものであるという信憑性を与えてくれるような、信頼しうる愛国的朝鮮人の協力を得ることに集中した。もしこれらの人々とその支持者たちが復活された旧総督府官僚機構の行政職トップに据えられれば、アメリカが築き上げた既存の諸秩序に正統性を付与する役割を演じてくれるだろう。実際に、1945年末から48年を通じてアメリカの政策のほとんどは、復活された官僚機構を統轄できると同時に、アメリカ側としても受諾しうる朝鮮人指導者を探し当てることに関連したものであった。ここでもまた、ホッジはワシントンの上司たちと対立したのである。
臨時政府の帰国と「政務委員会」(Governing Commission)
1945年、ホッジと彼の顧問たちは、臨時政府とそれに関係した朝鮮人、たとえば李承晩や金九のような人々は、アメリカの努力にプラスとなりうる大衆的支持と正統性といったものを保持していると考えていた。すでに見たように、9月15日、すでにベニングホフは、臨時の指導者を占領軍の表看板として朝鮮に帰国させるべきであるというホッジの建議を上部に回附した。日本にいるマッカーサーの政治顧問代理、ジョージ・アチソンも10月中旬、ホッジとの会談後もう一度この構想に対する支持を表明した。
私はここ暫くの間、「国務」省当局に対し以下の建議を提出することを保留してきたが、朝鮮の現状からすれば我々は誰か大衆の人気と信望を集めている進歩的な指導者ないし少数のグループを見つけてこれに中核組織としての役割を担わせ、やがてこれをしてわが軍政庁の指令と協力の下に行政力をもつ政府へと発展させることが必要であり、もうそのような措置をとるべき時期にさしかかっているのではないか、本格的な考慮を払われたい。そのような中核組織は「大韓民国臨時政府」という名称である必要はなく、「朝鮮国民行政委員会」というような名前が敵当であろう。ホッジ将軍が作った顧問団はその委員会の顧問になることも可能であり、あるいは状況如何によっては、将来その委員会に統合されることも可能である。
彼は同時に、この委員会を指導しうる3人の名前を示した。李承晩、金九、そして金奎植であって、全員臨政の指導者である。アチソンはこのような提案が「アメリカの過去の考えと相反するもの」であることを認めたが、しかし、「積極的な行動をとらない限り……我々の困難は時がたつにつれてますます増大するだろうし、ソ連によって北朝鮮に作られ支援されている共産主義集団は、その影響力を南朝鮮まで拡大し、その結果は容易に予想される」ものであろうと主張した。臨政とは何であり、それに関する「アメリカの過去の考え」とはどのようなものであったのだろうか。
1919年に臨政を組織した指導者たちが一緒に活動したのは、1921年までであったにすぎない。その後、その集団は幾つかの派閥に分裂し「ほぼ消滅」したとさえ言われた。1920年代後半の上海にあって金九は臨政本部の家賃の支払いにも事欠く有様であった。臨政は真珠湾攻撃後少し活気を取り戻し、戦争の後半期には金九傘下の右派は、金奎植や金元鳳(キムウォンボン)に率いられた穏健派や左派と一時的に同盟したりした。しかし、臨政は国内の朝鮮人とは結びつきを持たず、重慶にある国民党政府の好意の下で存続したにすぎない。中国で対日戦が7年も続いた時点においても、臨政の指導者たちは連合国の戦争遂行努力にどう参加すべきか、その方法について何の具体案も持っていなかった。このことは、1944年の5月、駐中国アメリカ大使クレランス・ゴーストと臨政の趙素昴(チョソアン:臨時外務部長)との対話で示されている。
趙 臨政が連合国に承認されれば、我々臨政は朝鮮人が日本軍に徴集されるのを阻止することができるかもしれません。
ゴース どうやってですか?
趙 どうやればそれができるか、貴方のお考えを知りたいものです。
ゴース 誰か朝鮮人が朝鮮(ママ)、満洲、あるいは日本の軍事情報を手に入れて、それを連合国に送ったことがありますか?
趙 いいえ、ありません。
ゴース そうしようとする試みはありましたか?
趙 いいえ、しかしそれは資金がないと困難です。宣伝の機会はあるかも知れません。なぜなら最近朝鮮から重慶にたどり着いたある人の話によると、国内ではカイロ宣言は知られていないし、臨政についてもほとんど知られていないからです。
この会談で趙はゴースに、臨政の光復軍はわずか500人ばかりの武装していない兵士と将校の集まりに過ぎないが、満洲にはパルチザンの大部隊がいることを告げている。もちろんこれは例えば金日成に率いられたパルチザンのような兵力を意味していた。
大韓臨時政府の「政府」は自称であって、たとえば戦時中イギリスやアメリカに承認され、約9万人の兵力を有していたロンドンにおけるポーランド亡命政府とは全く比較にならないものであった。臨政とは要するに、孤絶した異郷の地にあって、しかも支配すべき国民を持たない存在であった。にも拘らず、1925年に臨政から追放された李承晩は依然として「臨政の駐米特命全権大使」を自称し、1940年代初め全朝鮮を代表する正統政府として、臨政に対するアメリカの正式承認を獲得しようとした。李は1942年の初め頃、ブルックリンの出版業者M・プレストン・グッドフェローの斡旋で国務省の官僚たちと会いその後彼らと文通を続けていた。1944年の6月以前のある時点で李は、戦争が最終的な局面に入り勝利が近いと考えていた国務省官僚に、共産主義と民主主義間の新しい闘争が水平線上に姿を現しているということを力説し始めた。つまり「アメリカがソ連との最終的衝突を避けようとするなら、その唯一の可能性は可能な限り全世界のいずこにおいても共産分子を抑え民主主義勢力の増大を図ることである」というわけだ。彼は臨政に対する承認を訴え、それによって「朝鮮における内戦の可能性を排除できる」と主張したのである。承認が得られそうにないと見るや、李と彼のアメリカ人支持者たちは、それは国務省内の共産主義者の影響のせいであると、次のような言葉で非難する手を使い始めた。
(共産主義者)グループはこれまで、そして今も尚、国務省の何人かの官僚の協力を受け続けている。それを考えれば、国務省が朝鮮の共産主義者達に(ポーランドの)ルブリン政府のようなものを樹立する機会を与えるため、重慶の臨時政府に対する承認をしぶっているのではないかという我々の疑念が一層明確になってくるように思われる。
国務省はこのような論を一蹴した。李承晩の伝記作者によると、早くも1942年に以下のようなことがあったという。
李は(スタンリー・)ホーンベック博士から、国務省の中で、李は朝鮮国内では知られていないし、臨政は亡命者グループ間の限られたメンバーが勝手に作ったクラブにすぎないというふうに信じられているという、にべもない話を知らされた。
後日国務省は、臨政の指導者たちが「個人的な野心に燃え、少なからず無責任である」ことに気づき、臨政に対する支持は「亡命者たちの間でさえ)大したものではないと指摘した。
1945年の夏、アメリカは「実際に朝鮮人の意志を代表しているように思われる」朝鮮人団体を見出せなかったのである。そのような判断は、臨政の歴史とこの組織の当時の実力に照らし全く妥当なものであっただろう。また、これまで検討してきたように、国務省は1943年以来、ソ連が朝鮮半島を領有するかもしれないという可能性について憂慮していたのであり、このことを考慮に入れれば臨政に対する国務省のこのような判断はとりわけ重要であった。
臨政に関する国務省のこのような認識は、ジョージ・アチソンが臨政に関する勧告をワシントンに送ったのとほぼ同時期にマッカーサー司令部が受け取った三省調整委員会(SWNCC)の「初期基本指令」に含まれていた。その指令は「貴官はいかなる朝鮮の臨時政府を自称する団体や類似の政治組織に対しても、決して公式の承認を与えてはならず、また政治的目的のために利用してはならない」と述べてる。もっともこの指令は、臨政に関して「貴官はもし必要であれば団体としてではなく、個人としての資格でその組織を利用しても構わない」と述べることによって、明らかな抜け穴を用意していた。しかしながらまた一方においてこの指令は「貴官はソ連側と連絡を保ち、それを通じて朝鮮の管理に関する手続きと政策において、この指令の目的と矛盾しないような最大限の(南北間の)均一性を達成するよう努力されたし」という要求もつけ加えている。ところがソ連は臨政に対しては何も公約のようなものを与えていなかったから、臨政の指導者たちを名目上の支配者とすることによって「手続きと政策における(南北間の)均一性」が実現されるはずはなかったのである。いずれにしても、1945年10月の中旬という時点では、南北朝鮮の行政面での統一をもとめる問題の中で、臨政の問題は取るに足らない程度のものであった。大体アメリカ軍政は、顧問団を設けたり、日帝時代の警察機構を復活させたりした時には南北間における政策や手続きを統一するという問題について何も考慮してはいなかったし、臨政を利用するという決定を下すに当たっても、何も気がかりを感じるようなことはなかった。
国務省極東局局長のジョン・カーター・ヴィンセントは、アチソンの電報に対する回答の中で、臨政を利用することについては反対の意を表明している。しかし彼の発言には、アメリカの政策が理想主義と現実の間で本質的な矛盾を抱えていることが如実に示されていた。ヴィンセントは「共産主義分子の活動に対抗するためにある種の信頼できる朝鮮人のリーダーシップが必要である」ことには同意しながらも、しかし次のように述べている。
アメリカ政府は、政府自体あるいは在朝鮮の軍司令官によって、金九グループ(臨政)のような集団であれ……また李承晩のような個人であれ、それがいかなるものであるにせよ、我々が他の朝鮮人ではなく彼等を支持しているという印象を与えるような行動がとられてはならないという方針を一貫して主張してきた。
ヴィンセントと彼のワシントンの同僚たちは、久しく李承晩の奇怪な振舞いには辟易していた。のみならず、ヴィンセントはおそらく臨政に関するアメリカの政策については戦前からの一貫性を維持したいと望んでいた。しかし、彼がポトマック川のほとり、国務省という快適な場所から朝鮮を見ていたのに対し、ホッジと彼の国務省顧問達は朝鮮の現場で実際に解放という革命の渦巻きに直面していたのであった。アメリカ政府には、たとえ左翼が勝利を占めるにしても、第二次大戦終了以前における朝鮮政策の曖昧さを克服し、最終的には朝鮮の独立を認める公正かつ温情的後見制を貫くという王道を歩む覚悟ができていただろうか。ホッジは「信頼できる」と同時に、反共でもある朝鮮人の指導層をまるで手品でもやるようにつくり出すことはできなかった。どこかで彼は味方を見つけなければならなかったのだ。この現実を国務省に認識させる難事は、陸軍次官補のジョン・J・マックロイに委された。彼はヴィンセントへの回答として作成された覚え書の中で次のように主張している。
ヴィンセントの覚え書は、朝鮮において我々が直面している真に緊迫した現実にはほとんど眼を向けていないように私には思われる。……ホッジ将軍との対話を通じて分かったことは、彼は共産主義者が直接的な手段をもって我々の地域(南朝鮮)において政府を掌握するような事態を憂慮しているということだ。もし、そのような事態になったなら、朝鮮人に自由に自分たちの望む形態の政府を選ばせようとする我々の意図は重大な難関に逢着することになろう。現在アメリカ占領地区の全域において、共産主義者による活動が積極的かつ知能的に展開されていることについては疑問の余地がない。……この問題に総括的に対処する最善の方法は、我々の主導の下に筋の通った尊敬できる政府ないし顧問のグループを形成させ、これがホッジ将軍の下で、現在38度線の南における政治的、社会的、経済的なカオスの中から何らかの秩序をもたらしうる状況を作り上げ、それによって、後日、朝鮮人が真に自由で強制されない選挙を行う基礎を提供することであると思われる。
以北でのソ連の行動に関する様々な主張を列挙した後、マックロイは次のように続けている。
ヴィンセントの覚え書の件に戻ると、それは結局、国務省はホッジを信用していないということを本人に伝えよということであり、しかも現地にいる彼に向って──この現地がいったいどれだけ困難な状況のもとにあるかを諒解していただきたいのであるが──アメリカの国益のために彼がやりたいと考えている幾つかのことをやらせる積りがないということを告げよということではないか。……我々は現地の共産主義の問題に関するより多くの情報と、如何にすれば我々の国家目的が共産主義者によってぶち壊しになるような事態を阻止しうるかについて彼の考え方を、国務省に送るよう強く求めるべきであろう。しかし海外に亡命していた朝鮮人のグループを十分に活用するという彼の構想は許容されるべきではないだろうか。勿論余り深くはまり過ぎないよう、彼が細心の注意を払ってくれればのことであるが。
マックロイは明らかにアメリカの対朝鮮政策の矛盾を指摘したうえで、軍政庁の方針に賛成したのである。つまりアメリカ軍政は、あくまでも自らの主導力の下で朝鮮の政府を樹立しなければならないということだ。マックロイは、言うまでもなく片田舎の下っ端役人などではなく、戦後のアメリカ外交政策の決定にあたっては中心的な役割を演じてきた人物の一人だった。アメリカ軍政当局はこうして国務省との対立抗争に際して強力な味方を獲得したのである。
南だけの単独政府を樹立しようとするソウルの米軍政の決定は、1945年11月20日付のウイリアム・ラングドンの電報の中にはっきり述べられている。彼は信託統治の構想は破棄すべきだという主張から始めている。