真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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選択的夫婦別姓と新しい歴史教科書をつくる会

2021年03月25日 | 国際・政治

 安倍晋三前首相を会長とする”創生「日本」”の総会で講師をつとめた長谷川三千子埼玉大学名誉教授は、その著書「民主主義とは何なのか」(文春新書)で、八木秀次氏の著書を取り上げておられました。だから、「国民の思想」新しい歴史教科書をつくる会編(産経新聞社)を読んだですが、戦争正当化を宿命づけられたと思われる人たちの、第一線での活躍に、あらためて暗澹たる気持になりました。

 まず、下記、「一 ジェンダーフリーに浸食される日本」の「男女生徒が同室で寝る、着替える!」の文章に関して 私は、とても違和感を感じました。

 小学生の校外学習で、男女の児童を一定の配慮をしながら同じ部屋で寝かせることが、さわぎにしなければならないほど非常識なことでしょうか。また、それはジェンダーフリー教育の結果によるものでしょうか。学校の先生方は、ジェンダーフリー教育に無自覚で、非常識なのでしょうか。男女別に布団を敷き、間に仕切りを立てているのに、それを性犯罪の多発する社会情勢と結びつけて、非常識と断定することこそ、私は非常識ではないかと思います。確かに、男女を同室に寝かせること関しては、子どもたちの発達段階との兼ね合いで難しい面があるとは思います。だから、嫌がる子どもがいるのに、無理矢理同室にしたというのであれば、問題かも知れません。でも、話はそういうことではありません。それを”「ジェンダーフリー」とは、男女の性差を無視して無差別に扱うという奇妙なイデオロギー。それに無自覚のまま染まっている教育界の現状を象徴する事件”などと騒ぎたてるのは、家父長制的な伝統的家族観をもつ人たちの、ジェンダーフリー教育に対する感情的反発であり、一種のアレルギーのようなものではないかと、私は想像します。(テーマは、小学生なので「生徒」ではなく、「児童」とすべきではないかと思います。)
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           第二章 今こそ伝統的家族の強化を
一 ジェンダーフリーに浸食される日本
・男女生徒が同室で寝る、着替える! 
 うわさには聞いていたが、まさかそこまではないだろうと思っていた。それが、『産経新聞』(2003年9月1日、10月3日付)の記事を見て、「本当にあったのか!」と驚き、あきれた。記事によれば、静岡県沼津市の九つの市立小学校が同年夏に実施した五年生(一部は四年生と合同)を対象にした校外学習で、男女の児童を同室に宿泊させていたというのだ。
 問題の校外学習は、沼津市立の全小学校が毎年行っている「高原教室」。五年生の児童が近くの「自然の家」に宿泊し、自然観察や昆虫採集、キャンプファイヤーなどを体験するというものである。市内二十五小学校の十六校がこのとき実施済みで、このうち九校が男女混合で、七校は男女別に宿泊させていた。
 男女混合で宿泊させていた九校の中には、事前に保護者から「万が一のことが起ったらどうするのか」という抗議を受けていた学校もある。それに対して、男女別に宿泊させることも可能だったが、教職員が協議した結果、「ずっと同じ方法で続けているが保護44444者からの苦情はなく、今回も問題はない」と判断し、そのように回答したという。これらの学校では「広めの部屋に男女別に布団を敷き、間に仕切りを立てた」「部屋は一緒だがベッドの列を男女で分けた」「女子児童の着替えは引率教諭用の和室を使わせた」などの一定の配慮をしたというが、それならなぜ男女を同じ部屋で寝かせる必要があるのか、という疑問がわいてくる。
 記事には「ジェンダーフリー教育(中略)が無自覚のまま浸透していく学校の常識不足が浮かび上がる」との解説がある「ジェンダーフリー」とは、男女の性差を無視して無差別に扱うという奇妙なイデオロギー。それに無自覚のまま染まっている教育界の現状を象徴する事件だといえよう。
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 また、極めて問題があると思うのは、「ジェンダーフリーはマルクス主義フェミニズム」と題された下記の文章です。いくつかに分けて、問題点を上げたいと思います。

・ジェンダーフリーはマルクス主義フェミニズム
 奇妙な「男女混合」現象が広がっているのには、組織的な背景がある。日本教職員組合(日教組)は近年、「ジェンダーフリー教育」を毎回の運動方針の冒頭に挙げている。2003年度(平成15)の「政策・制度要求と提言」の中にも「日教組は、男女平等を実現するために『ジェンダーフリー』教育を提案し」と記されている。
 その日教組が出した『隠れたカリキュラムを考えるジェンダーフリーの教育を』と題する小冊子には、「子どもたちが女である、男であることで、差別されずに、ジェンダーによって生き方や行動をしばられず、一人ひとりの個性を伸ばし、可能性が発揮できるようにジェンダーフリーの教育をすすめましょう」と書かれている。そして、「ジェンダー」を「生物学的な性差(sex)ではなく、社会的・文化的につくられた性差(性役割)をいいます。長い歴史の中で『支配ー被支配』『優位ー劣位』の男女の関係の中でつくられてきた女の役割、男の役割など固定的な考え方です」と説明されている。
 この冊子が問題にするのは、まず「男女を区別すること」である。「男女を分けることは長い間問題とされずにきました。しかし、男女を分けることは差別と認識されるようになりました」。つまり男女の区別は差別だというのである。そこから「特に、男子が先の男女別名簿は『女と男はちがう』『男が先、女は後』の考え方を植えつけるものとなります。女の子には『さん』男の子には『くん』、男女色分け、男女グループ分けも問題」という主張が出てくることになる。
 実は沼津小学校の例は、この最後の部分を真に受けたものである。問題の小学校では六、七人ずつの班を作って同室に宿泊させたが、すべての班を「男女混合」にしていた。「男女グループ分け」は「差別だから問題だ」というわけである。
 冊子はさらに「女と男を分けることをやめよう」と続き、具体例として「名簿、出席簿、指導要録(男女別にしなければならない法的根拠はない)、グループ、整列、ロッカー、靴箱、色分け、トレーニングウエア、掲示物、男女別平均、『さん』『くん』の呼び方……」を挙げている。「学校行事はジェンダー・フリーで」としながら、「入学式、卒業式の並び方、呼名、運動会の種目、並び方、応援、係、学芸会、文化祭の出し物、準備、係……」と具体例に例示している。何から何まで「男女混合」というわけである。
 そして学校をジェンダー・フリーにするに際し、その第一に掲げられているのが「男女混合名簿」の導入。先に見た日教組の2003年(平成15)度の「政策・制度要求と提言」にも引用した部分に続けて「男女混合名簿の実施と隠れたカリキュラムの点検、是正の取り組みを進めてきました」と記されている。要するに「男女混合名簿」は「ジェンダー・フリー教育」の象徴であり、その第一歩と位置づけられているのである。そして「混合名簿」導入から男女同室着替えまでは一直線で結ばれていることも見落としてはならない。なお沼津市のある静岡県は1998年(平成10)、県教委が全国に先駆けて県内の公立小中高校で「男女混合名簿」を完全導入した”ジェンダー・フリー先進県”でもある。

 先ず八木教授は、戦前と違って、女性の社会進出が進み、男性と同じ職場で、男性と同じ仕事をするようになった社会情勢の変化を考慮されていないように思います。私は、学校で働く女の先生の、”お茶汲みは女性の仕事なのか”というような新聞の投書を目にしたり、金融機関で働く女性の”同じ仕事をしているのに、昇進や昇給に違いがあるのはなぜなのか”という疑問の投書を目にしたことを記憶しています。当然の疑問であろうと思います。ジェンダー・フリーの考え方の広がりは、その背景に、女性の社会進出が進み、女性が男性と同じ職場で、同じ仕事をするようになった結果、不平等を感じる機会が増えたという社会情勢の変化があると思います。八木教授は、ジェンダー・フリーの考え方の広がりを、あたかも日教組の取り組みやマルクス主義者の洗脳であるかのような指摘をされていまが、それは社会情勢の変化を無視した暴論であると思います。
 また、教育現場は、決して日教組の組合員が、何でも自分たちの思うようになるところではないと思います。第一、日教組の組合員の数はそれほど多くはないですし、たとえ過半数以上が日教組の組合員であるところでも、教育現場には、文部省や都道府県や市町村の教育委員会に逆らうことが難しい立場の校長や教頭等の管理職がいるのです。ジェンダー・フリー教育は、教育現場の合意に基づくものであって、合意がなければできないことだと思います。

 また、ジェンダー・フリー教育は、戦前の家父長制的な考え方による根深い女性に対する差別をなくそうとするための教育だと思います。我が国で女性が初めて参政権を行使したのは戦後の昭和21年のことです。家事労働の一切を女性がやっていた戦前は、女性に参政権はなく、”女は男のやることに口を出すな!”というような社会だったのです。また、女性は家長となる資格はなく、男性が権力を独占するとともに,父系によって財産の継受と親族関係が組織化されていたのです。そうした伝統的家族観のために、現在の日本には今なお、様々な差別が残っているのだと思います。戦後、民法が改正され、家族制度は廃止されました。にもかかわらず、男女が結婚すると男性が世帯主となり、女性が姓を変えています。男性が姓を変えたり、女性が世帯主になったりすると、何かあるのか、と疑われるような雰囲気があると思います。だから、そうした伝統的家族観に基づく、数々の女性差別をなくそうと思えば、様々な取り組みが必要だと思います。しかしながら、八木秀次教授は、ことごとくジェンダー・フリー教育の取り組みを否定するばかりで、差別を克服するための取り組みを示すことなく、差別を容認するかのような主張をされていると思います。
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 下記の文章で、八木教授は誇らし気に「毎日新聞」の記事を取り上げています。八木教授のジェンダー・フリー教育に対する考え方が、現実に教育現場の指導の在り方を変えたということが分かります。また、八木教授は大学で日々若者の指導に当たっていることを考えれば、その影響はとても大きいと思います。
 後述するように、ジェンダー・フリー教育を無理矢理マルクス主義と結びつけて否定しているのです。私は、悪意のようなものさえ感じます。

ところで、ジェンダー・フリー教育の象徴、男女混合名簿の廃止を打ち出した小学校がある。新潟県白根市の市立茨曽根小学校である。同校では長谷川清長校長(当時)の判断で2003年(平成15)四月から男女混合名簿を廃止し、男女別名簿に戻した。ロッカーも男女別にし、呼称も男子は「くん」付け、女子は「さん」付けに戻した。
 実はこのことが三ヶ月近く経って地元紙『新潟日報』六月二十七日付で報じられ、その後、複数の全国紙が後追い報道をしたこともあって話題になった。実は長谷川校長は私の編著書『教育黒書』(PHP研究所刊、2002年)を読んで混合名簿の廃止を決断したという。そういう経緯もあって、私もいくつかのメディアから取材を受けた。そのうちの一つ、『毎日新聞』2003年六月二十八日付朝刊から、事の次第を紹介しておこう。

 長谷川校長は3月、『校長室だより』で理由を説明している。高崎経済大の八木秀次助教授(憲法学)らが著書で、混合名簿の背景には男女の役割分担を否定する「ジェンダー・フリー思想」があり「根底は『マルクス主義フェミニズム』と書いていることを紹介。「マルクス主義は共産主義の根本思想」と説明した。
 ジェンダー・フリー社会は▽夫婦別姓▽夫を主人と呼ばない▽男女の違いがある「ひな祭りや鯉のぼり」は不要──などを目指す社会で「このような社会をつくるための一歩が『隠れたカリキュラム』として学校に入り込んでいる」と指摘。「ジェンダー・フリー論者に加担できない」と書いてある。
 同校によると、保護者からの反対はなく、げた箱やロッカーなどが男女別になった。混合名簿は99年4月から採用され、長谷川校長は昨年四月に着任した。長谷川校長は「男女差別は許されない。といって、性差を否定するジェンダー・フリーは受け入れられない。一つの思想を学校で教えるのはよくない」と語る。
 八木助教授は「校長の対応を評価したい。肉体的に違いがある男女の特性を生かすのが教育だ。混合名簿を認めれば、男女に一緒の制服を着させるなどエスカレートする危険もある」と話す。

 記事を書いた記者はジェンダー・フリーに不案内で、「混合名簿の背景にジェンダー・フリーあり」という長谷川校長や私などの指摘をまゆつばものであるかのように書いている。しかし、私たちは、先に見た日教組の冊子の内容などを踏まえ、極めて一般的な見解を述べたまでである。
 なお、ジェンダー・フリーが「マルクス主義フェミニズム」に基づいているとの指摘については、異論が出されている。『毎日新聞』同日付でも評論家の樋口恵子氏と教育評論家の尾木直樹氏が、それぞれ「混合名簿」を「マルクス主義フェミニズムとは何の関係もない」「マルクス主義フェミニズムに基づくとする考えは多数意見ではない」とコメントしている。
 まず樋口氏は「ちょっと行き過ぎ」のタイトルで次のように述べている。「ちょっと行き過ぎだと思う。名簿を性別に改めることで、どうして男女平等教育が進むのか。学校現場で性別による分け隔てをしない教育が行われるのは人権尊重の観点からで、マルクス主義フェミニズムとは何の関係もない」
「ちょっと行き過ぎだと思う」というところまで読んだ読者は、ジェンダー・フリーが行き過ぎだと言っているかと思うがそうではない。私はこのタイトルを見て、つい噴き出してしまった。「どっちが行き過ぎなんだ」と。しかし、「マルクス主義フェミニズムとは何の関係もない」とはよく言ったものである。必死でマルクス主義の色を消そうとしていることがわかる。
 実は後ほど触れる少子化社会対策基本法(案)を審議した参議院の内閣委員会でもこの男女混合名簿の廃止が俎上に上げられたのだが、その際、共産党の議員までがマルクス主義とは何の関係もないかのように振舞った。私は「ジェンダー・フリーはクリスティーヌ・デルフィというフランスのマルクス主義フェミニズムの学者が提唱した考えであって」と敢えて説明したのだが、これには誰からの反論もなかった。「そんなにマルクスがお嫌いですか」と思ったものだが、今、マルキストはカール・マルクスやフリードリッヒ・エンゲルス、ウラジミール・レーニンという彼らの思想の”お里”を隠そうと必死である。であれば、その逆にその”お里”を知らせてやればいい。 
 話を戻すと、もう一人の尾木氏は「混合名簿がマルクス主義フェミニズムに基づくとする考えは多数意見ではない。社会の常識や良識に従って行動するのが公立の学校の校長の責務だ。ストレートに実践するのは考えものだと思う」とコメントしている。ここでも混合名簿とマルクス主義とは無関係であることをほのめかそうとしている。加えて「社会の常識や良識に従って行動する」とは、これもよくいったものだと思う。ジェンダー・フリーがどれほど社会の常識や良識に反しているかは明らかである。これまた「どっちがだ」と言葉を返さざるを得ない。
 同紙は2003年七月七日付朝刊でも、大阪女子大学助教授木村涼子氏に「男女混合名簿ですら『マルクス主義フェミニズム思想だ』との強引な解釈も登場しているようだ」と批判させている。「何の関係もない」だの、「強引な解釈」だのとはよくもいえたものだと思う。私は「ジェンダー・フリー」を前出の大沢真理氏などの説明に従って、クリスティーヌ・デルフィの考えを基にしていると考え、デルフィの立場を「マルクス主義フェミニズム」と位置づけただけのことである。
 ただ彼女の思想的な位置づけについては論争があり、彼女の著書『なにが女性の主要な適なのか』(勁草書房刊、1996年)の「訳者解説」によれば、「ラディカル・唯物論フェミニスト」とされている。しかし、これはマルクス主義フェミニズム」と「何の関係もない」どころか、逆にそれを一層先鋭化させたものという意味である。
 事実、デルフィはその思想の多くをマルクスに依拠している。フランスの現代思想に詳しい神戸女学院大学教授の内田樹氏は、デルフィの用語や結論を「ほとんどそのままマルクスの言葉だ」「限りなくマルクスに近い」「フェミニズムは150年かかってマルクスに回帰した」と指摘しているほどである(ジェンダー概念の功績は大きい。だ、しかし自己矛盾に陥っていないか」、文藝春秋『日本の論点2003』、文藝春秋刊、2002年)。そうであれば、ジェンダー・フリーはマルクス主義フェミニズム」という表現は間違っていないどころか、控えめすぎるともいえよう。

 この ”ジェンダー・フリーはマルクス主義フェミニズム」という表現は間違っていないどころか、控えめすぎるともいえよう ”という文章は、いかがなものかと思います。マルクス主義とジェンダー・フリー教育の考え方の両方を意図的に潰そうとしているのか、単なる八木教授の認識不足なのかはよくは分かりませんが、二つの点で、明らかにおかしいと私は思います。

 一つ目は、「フェミニズム」をマルクス主義に限定することはおかしいということです。フェミニズムという言葉は、女性解放思想に基づく運動の総称です。性別による格差や差別を乗り越え、男女平等の権利行使ができる社会の実現を目指す思想や運動の全体をあらわす言葉です。だから「男女平等主義」と訳されたこともあると聞いています。当然のことながら、そうした思想や運動は、なにもマルクス主義者だけのものではないのです。

 例えば、フェミニズムに大きな影響を与えたシモーヌ・ド・ボーヴォワールは、実存主義の立場で、女性を論じました。「第二の性」という著書に、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」とあることは有名です。また、ボーヴォワールが終生の伴侶としたジャン=ポール・サルトルは一時期実存主義の哲学を牽引した哲学者ですが、その哲学は、「実存は本質に先立つ」として、自分自身を未来に投げかけ(投企)、自分の存在を発見、創造することの意味や大切さを明らかにした個人主義的なもので、マルクスの考え方とは根本的に異なります。

 でも、サルトルと同じ実存主義の立場に立つボーヴォワールは、クリスティーヌ・デルフィ共に『フェミニズム問題』 および後続誌『新フェミニズム問題』 を創刊したといいます。フェミニズムは多様だということだと思います。
 さらに、1960年代に欧米を中心に広がったウーマンリブ運動も、女性解放運動であり、マルクス主義とは直接関係のないフェミニズムであると思います。だから、ジェンダー・フリーの考え方をマルクス主義フェミニズムと限定することはおかしいと思います。

 戦前、マルクス主義者(共産主義者)は危険思想の持ち主として、治安維持法で逮捕されることが当たり前でした。そればかりではなく、マルクス主義者でなくても、マルクス主義に関わる書物を持っているだけで捕まったといいます。そして、そうした過去は、現在もなお、マルクス主義者(共産主義者)を危険視する雰囲気として残っているのではないかと思います。八木教授は、そうした雰囲気を利用して、ジェンダーフリーの考え方を潰そうと意図しているのではないかと、私は、疑わざるを得ないのです。日々広がりをみせるフェミニズムを抑え込むために、フェミニズム全体を、無理矢理「マルクス主義フェミニズム」と限定されているのではないかということです。

 もしかしたら、そういう意図はなくて、八木教授には、女性の権利や労働者の権利を主張する人すべてが、マルクス主義者に見えているのかも知れませんが…。

 次に、世界的に大きな影響力をもったカール・マルクスについてです。マルクスの代表的な著書は資本論ですが、資本論は、窮乏化(今でいう「格差」)をもたらす資本の運動諸法則(資本の論理)を明らかにした経済学に関するものです。マルクスは一貫して、人間社会の精神的な活動、観念、思想、信仰、理念等々を上部構造とし、それらを決定づけるのは、資本の運動諸法則=資本の論理(下部構造)であるとして、資本の論理について研究し、明らかにしたのです。そして、人びとに語りかけた唯一ともいえる言葉が、”万国のプロレタリアートよ、団結せよ!” ということでした。団結が、資本の論理から労働者を解放するために欠かせないことだったからです。
 だから、ジェンダー・フリー教育などの考え方(思想、上部構造)について論じたり、人びとに語りかけるようなことはしていない筈です。そういう意味で、マルクスは、ジェンダー・フリー教育とは直接的な関係はないのです。関係があるというのであれば、マルクスの著書から、ジェンダー・フリー教育やフェミニズムに関わる文章を抜き出し示してほしいと思います。
 ただ、マルクスの経済学は、あらゆる社会科学の土台となるような原理的なものだったため、様々な領域の学者や研究者が、マルクスの経済学を土台として、自らの領域の学説を構築しました。クリスティーヌ・デルフィの教育理論もそうしたものの一つであると思います。現に、デルフィは、「なにが女性の主要な敵なのか」で、資本主義が労働者とともに、女性を抑圧・搾取するというマルクスの理論を土台としつつ、女性の「主要な敵」は「家父長制」であるとしています。マルクスにはなかった視点です。そして、資本制の階級関係を説明するために発展させられた概念は、女性に特有の抑圧を見えなくしてしまうからフェミニズムはそれらの概念を使用することはできないというのです。さらに、マルクス主義が、時として、女性解放闘争を促進するよりむしろ抑制してしまう側面があることも指摘しているのです。

 「なにが女性の主要な敵なのか」クリスティーヌ・デル(勁草書房)の「第七章 私たちの友人と私たち──偽フェミニズム言説の隠された基盤」の中の「Ⅰ 新・性差別主義、または男性フェミニズム」に、下記のような文章があります。
男性のなかに何人か親切な友人がいる。私たちは彼らをペストかなにかのように嫌って逃げだすのだが、彼らの方は無理にもわたしたちの関心をひこうと努力する。そこに真の友情のしるしを認めずにいられようか。こうした友人たち、女性解放を支持する男たちにはいくつかの共通点がある。すなわち、
1 彼らは私たちにとって代わろうとしている。
2 現に彼らは私たちの代わりに発言している。
3 彼らは女性解放に賛成し、女性がこの計画に参加することにも賛成する。ただし、解放も女性も彼らに従うのであって、けっして彼らの先には立たないという条件で。
4 彼らは女性解放についての自分たちの考えを私たちに押しつけようとしている。それは男たちの参加を含むものであり、運動とその主導権、つまり女性解放の主導権を掌握するために男の参加を無理にも認めさせようとしている。
 彼らは非常に好意的で、折にふれて私たちの意見に耳を傾けてくれる。彼らは女性解放運動の理解者であり、運動が女性にのみ開かれているのを見て、「もちろん、被抑圧者たちは自ら解放しなければならない」と言えるほどなのである。そして、そう言うことによっておおかたの男たちと一線を画し、自分たちの方がすぐれていることを示す。高潔にも私たちの友人はそんな無理解な男たちと縁を切ることもいとわない。
 このように私たちの友人は「開放的な」態度を示している。彼らは理解しようと努める。というのも、彼らは鋭い政治的頭脳の持ち主であって、風向きを誰よりもはやく察知できる人種なのだ。しかし、鋭い政治的頭脳の持ち主としては、鋭い政治分析をすることがまさにその任務であるから。彼らは当然、女たちの見落としていた点をあちこちに見つけだすことになる(忘れてはならないが、女たちが女性解放の主役であることに変わりはない)。ところで、そうした点を探し出したからには、女たちの見落としていた要素を指摘しないのでは不誠実だし、友達がいもないだとう。そこで彼らは親切に、ただし断固として、それらの要素を指摘してくれるわけだ。”

  デルフィは、フェミニズムに理解を示すマルクス主義者でさえ、男性であれば、”ペストかなにかのように嫌って逃げだす”というのです。それほど女性の立場にこだわっているのです。まさに、フェミニズムが多様であることを示しており、マルクス主義フェミニズムとして、一括りにはできないと思います。

  

 したがって、フェミニズムを「マルクス主義フェミニズム」と限定すれば、マルクス主義とはいったい何なのか、わけがわからなくなってしまいます。クリスティーヌ・デルフィの理論は、デルフィ主義フェミニズムと呼んだ方が正確ではないかと思います。マルクス主義そのものではないのです。さらに言えば、「マルクス主義フェミニズム」などというものは存在しないのです。デルフィの理論について語るのであれば、「デルフィ主義フェミニズム」とすべきであり、どうしてもマルクスの名前を使うのであれば、マルクス主義的フェミニズムと「的」をいれるべきではないかと思います。八木教授に、マルクス主義やフェミニズムを貶める悪意がなければ、それほど神経質になることでもないように思うのですが…。

 以下の項目についても、問題だらけだと思います。

・男女共同参画社会基本法もジェンダーフリー
・自治体にジェンダーフリーの条例が続出
・ジェンダーフリー隠しを見逃すな
・石器捏造事件と男女共同参画行政
・実際に行われた性転換人体実験
・フェミニストを活気づかせた人体実験
・破綻した学説に依拠する”ジェンダーフリー”
・「男らしさ」「女らしさ」を失う日本の高校生
 二 子どもを地獄に堕とす過激な性教育
・「性交」をリアルに教える小学校
・狙いはフリーセックスへの性革命
 三 子どもが増えない少子化対策
・同床異夢の少子化対策基本法
・専業主婦の支援策になっていない
・年金の賦課方式を改めよ
 四 新憲法に家族尊重条項を設けよ
・新憲法のあるべき姿
・「家族」軽視の憲法
 五 家族解体を狙う夫婦別姓と非嫡出子「差別」の撤廃
・日本は伝統的に夫婦同姓
・イデオロギーからの夫婦別姓論
・夫婦別姓の最大の被害者は子ども
・家族こそ保守主義の柱
・嫡出子と非嫡出子の区別は不要か

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民主主義が不和と敵対のイデオロギー? 長谷川三千子教授?

2021年03月19日 | 国際・政治

 先のアジア太平洋戦争における日本人の死者は、およそ310万人で、その六割から七割が餓死や病死であったといいます。あの悲惨な東日本大震災の100倍以上の人が亡くなったのです。戦争は自然災害ではありません。日本が戦争をしなければ、その310万人の人たちは死ぬことはなかったのです。また、アジア太平洋戦争では、生き抜いた人たちも皆、大切な人やものを失ったり、否応なく自分の人生を、戦争のために捧げなければなりませんでした。自分が進むべき道を自分で決めたり、自分がやりたいことをやることができる世の中ではなくなっていたのです。私の父母も時々洩らしました。「戦争がなければ今頃……」。

 でも残念ながら日本には、そうした馬鹿げた戦争を、責任逃れのために正当化する人たちや、正当化する宿命を負わされ人たちがいるように思います。
 そしてそれは、ポツダム宣言と降伏文書に基づき「日本の民主化・非軍事化」を進めていた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が、1947年の二・一ゼネストに対する中止命令をきっかけに、「逆コース」といわれる政策転換にふみ切り、公職追放指定者の処分を解除したことによるのだと思います。
 追放を解除されたことによって、旧日本軍の軍人その他の戦争指導層は、戦争犯罪者としての立場を逃れたばかりでなく、警察予備隊(自衛隊の前身)や政界、経済界その他の第一線に復帰することになりました。一例を挙げれば、真珠湾攻撃の立案に深く関わった源田実氏は、自衛隊の初代航空総隊司令となり、第3代航空幕僚長を務めた後、参議院議員となって活躍しています。だから、戦後の日本は、日本国憲法に基づく歩みを始めたとはいえ、公職追放を解除された人たちが、戦争の過ちを指摘する人たちの主張を抑え込み、戦争を正当化することによって、戦前・戦中の考え方を少しずつ復活させることを許すことになってしまったのだと思います。
 大日本帝国憲法が日本国憲法に変ったにもかかわらず、戦争の過ちがきちんと確認され、共有されることがなかったは、GHQによる公職追放指定者の処分の解除が大きく影響したのではないかと思います。

 当然、戦争を指導した人たちの子や孫は、自らの父や祖父が指導し戦った戦争を、「過ち」とすることは難しく、その考え方を受け継ぐ宿命を負わされることになったのではないかと思います。東条内閣の商工相であり、一度はA級戦犯被疑者として逮捕され、東京の巣鴨拘置所に拘置された岸信介氏(第五十六代内閣総理大臣)を祖父にもつ安倍晋三前首相などは、そのよい例だろうと思います。また、現在、戦後日本の考え方を、「東京裁判史観」とか「自虐史観」という言葉を使って否定する人たちも、その多くが、何らかのかたちで日本の戦争を正当化する宿命を負わされた人たちなのではないかと思います。

 『日本支配36年「植民地」朝鮮の研究 謝罪するいわれは何もない』(展転社)の著者、 杉本幹夫氏や、「首相が靖国参拝してどこが悪い!!」(PHP研究所)の著者、新田均教授、『ひと目でわかる「日韓併合」時代の真実(PHP研究所)の著者、水間政憲氏、「民主主義とは何なのか」(文藝春秋)の著者、 長谷川三千子教授も、そうした宿命を負わされた人たちではないかと、私は想像します。
 なぜなら、いずれも日本の戦争を正当化し、国際社会では通用しないようなことを主張されているからです(もしかしたら、日本人としての誇りをもちたいがために、自分自身で、そういう著書を書くに至ったのかも知れませんが…)。
 
 今回は、「民主主義とは何なのか」(文藝春秋)の著者、 長谷川三千子教授の文章で、私が問題があると思う部分を指摘したいと思います。

 まず、第一章の”「いかがわしい言葉」──デモクラシー ”というテーマそのものが、私には「いかがわしい」と思われますが、そうしたテーマを掲げる背景にある考え方が第二章の”「われとわれとが戦う」病い”にあるように思います。その”まっとうな政治としての「人民のための政治」”と題された文章の中に、下記のようにあります。

たとえば、多くの日本人が「民主主義」と聞いて反射的に思いうかべるのは、あの有名なリンカーンの言葉、「人民の、人民による、人民のための政治」であろう。この言葉は、単に語呂がよいというだけではなしに、非常にわかり易い──とわれわれには思われる。そして、そのわかり易さ中心は、何と言ってもこの中の「人民のための政治」というところにある。政治が政治であるかぎり、それが人民のための政治でなければならないのは当然のことである。そわれわれは直観的に理解する。そして、おそらくその直観は正しい。
 そもそも人間とは群れをなして生きる動物であり、「政治」というものも、もとをたどってゆけば、まさにその「群れをなして生きる」というあり方から生じてきた技術である。とすれば、その目指すところは、群れの構成員たちの安全と安楽以外ではありえまい。もし「人民のための政治」でないような政治があったとしたら、それは政治とは言えないはずである。
 さて、この「人民のための政治」ということを実現するためには、いくつかの条件が必要であって、その一つは、まず「良い指導者」を持つということである。同じく群れて生きる動物たちのうちでも、スズメの群れやアジの群れには「指導者」といったものは存在しないし、必要でない。彼らの生活の大部分は本能と反射神経に頼って営まれているので、群れの誰かが逃げ出せば皆が逃げる。群れの誰かがエサを見つければ皆が寄ってくる。──それが群れとしての活動の基本型ということになる。これに対して、これと狙いを定めた獲物を数日にわたって追いつめる、というような仕方で行動する狼の群れとなると、「指導者」というものが不可欠である。つまり、或る程度の組織だった行動をする動物の群れにおいては、指導者というものがどうしても必要となるのである。
 言うまでもなく、人間の群れは後者のタイプに属する。したがって、人間の世界において「良い政治」が行われるためには、「良い指導者」──適確な判断力をそなえた公正な指導者──が不可欠であるということになる。…”

 なぜ長谷川教授は、言葉をもち、話し合うことによって理解を深め、問題解決が可能な人間を、”狼の群れ”と同一視して、”「指導者」というものが不可欠である”などと断定するのでしょうか。あらゆることを思考の対象とし、過去から学び、経験を生かして改善・改革を重ねながら進んだり、話し合いによって問題解決のできる人間は、狼とは根本的に異なる存在だと思います。
 私は、長谷川教授が、”人間の群れは後者のタイプに属する”などと言って”人間の群れ”を”狼の群れ”と同じレベルに引き下げ、”「指導者」というものが不可欠である”と結論した時点で、戦いを通しての人間社会の変化や進歩を、動的にとらえることができなくなったのではないかと思います。さらに、歴史を分析し考察する客観性も失うことになっていると思います。

 また、第二章の”「われとわれとが戦う」病い”というテーマ自体にも、同じような問題があると思います。人間社会の戦いは、決して”われとわれとが戦う”というような枠をはめてとらえられてはならないし、「病い」と一般化されてもならないと思うのです。
 人間社会の戦いは、様々です。戦いの内容や原因をきちんと把握すれば、そこには、必ず戦う者相互の生活基盤、文化や宗教の違い、あるいは、立場や階級、支配するものとされる者、搾取する者とされる者といった異質性や対立があるはずで、それらを捨象して、”「われとわれとが戦う」病い”などという枠をはめて戦いをとらえていては、どんな戦いも、客観的に理解することはできず、戦いの意味や、歴史のダイナミズムも理解できなくなると思います。
 戦いにおける相互の異質性や対立、また、その背景等を具体的に把握し、客観的に分析・考察することによって、その戦いを乗り越え、よりよい人間社会を築き上げることができるのだと思います。決して一直線ではなかったし、逆行することもしばしばあったでしょうが、人間はそうやって歴史を進めてきたと思います。不完全ではあっても、現在の様々な法や条約、また、国際社会における数々の組織の存在は、そうした人類の歩みの結果ではないかと思います。


 また、人間の戦いを”「われとわれとが戦う」病い”というような枠をはめてとらえるのではなく、戦う者相互の異質性や対立に注目し、その背景なども含めて考察することで、歴史の変化を正しくとらえ認識することができるのではないかと思うのです。

 長谷川教授は、戦う者相互の異質性や対立を捨象し、”「われとわれとが戦う」病い”などという枠でとらえることによって、民主主義の考え方に基づく政治が、人間社会を野蛮なものにするかのように主張されているようですが、私は、間違っていると思います。
 人間社会を野蛮にするのは「戦い」であって、民主主義の考え方に基づく政治、言い換えれば民主政ではないと思います。逆に、人間が野蛮性を克服するためには、徹底した民主政が欠かせないと思います。
 民主主義の考え方に基づく政治、民主政が”「われとわれとが戦う」病い”を生み、人間社会を野蛮にするというような考え方では、歴史の変化やその必然性を理解することができないばかりでなく、国際社会の理解も得られないと思います。

 また、下記の文章に、私は、天皇制を復活させようという意図を感じます。310万人もの人たちが亡くなった戦争の実態や、市民的自由権がほとんどなかった戦前・戦中の一般国民の生活実態を完全に無視していると思います。

けれども、ただ単に良い指導者がいるだけでは、本当の意味での「人民のための政治」は成り立たない。大切なことは、その指導者と共同体のメンバーとが、それだけ信頼し合い、一致協力して事にあたることができるか、ということであって、それは同じ能力をもつ監督と選手を集めたチームであっても、その相互信頼と一致協力の如何によって大きく成績が異なってぃるようなものである。まして、近代のように国民一人一人の創意工夫と勤勉さによって国全体の経済の成績が大きく左右されるようになってくると、「人民による」努力こそがむしろ主役で良き指導者はその活躍を上手に支えるべき黒子であるとさえ言える。しかしいずれであるにせよ、重要なことは全員が一致協力することによって本当の「人民のための政治」が実現するということであって、そのような理想的な政治のさまを指して「人民の、人民による、人民のための政治」という言い方をしているのだとすれば、あのリンカーンの言葉は、この上なくまっとうな政治理念を語っていたと言えるのである。
 実際、この「人民のための政治」ということは、古来、多くのまっとうな政治思想が目指してきた究極の目標であったと言ってよい。たとえば、古代メソポタミアの都市国家においては、王は神からその国を手厚く世話をする義務を負わされているものと考えられており、その責任が充分に果たされたとき、その国には「シュルム」(福祉)がゆきわたるのだとされていた。あるいはまた、わが国の伝統的な政治思想──天皇は皇祖皇宗の教えにより、民を「おおみたから」として第一に重んじる──もその典型的な一例と言えよう。

 さらに、第三章の「抑制なき力の原理──国民主権」の中の”引き継がれた「不和と敵対のイデオロギー」と題された文章には、下記のようにあります。
 
第一章、第二章を通じてわれわれが見てきたのは、一口に言うならば「不和と敵対のイデオロギー」としての民主主義(あるいは民主政:デーモクラティア)の姿であった。多くの人々がただつつましく「人民のための政治」を願っているときに、「この不和と敵対のイデオロギー」はどこからともなく現れ、人々の理性的な判断を狂わせては「われとわれとが戦う」病いをひきおこしてしまう──それが民主主義の宿命であるとすら言いたくなるほどなのであった。
 たしかに、現代の世の中では、十八世紀の後半にあったような典型的な「革命」というものは見かけなくなっている。しかしそのかわりに、たえず薄められたかたちで、この「不和と敵対のイデオロギー」は民主主義の社会を支配しつづけている。それは、中小国における絶え間ない、闘争的な政権交代、というかたちを取ることもあれば、先進諸国におけるフェミニスト運動やその他のさまざまの「反体制運動」というかたちを取ることもある。およそどんなかたちを取るにしても、そこには同じ「不和と敵対のイデオロギー」 ── 一つの共同体の 内側に、常に上下の対立を見出し、上に立つものを倒さなければならないとするイデオロギー ── が存在しつづけているのである。”

 長谷川教授は、不和と敵対の現実や実態はほとんど考慮されていないように思います。民主主義は「不和と敵対のイデオロギー」であり、それが、”人々の理性的な判断を狂わせては「われとわれとが戦う」病いをひきおこ”すというのですが、不和と敵対には、その背景に必ず、異質性や対立、さらに言えば、理不尽な差別や抑圧、搾取などがあるのだと思います。したがって、それは、前述したように「われとわれとが戦う」ということではなく、異質性や対立に基づく戦いであり、そうした犠牲を伴う戦いを繰り返して、人類はよりよい社会をつくるために、民主主義という考え方を共有するようになったのだと思います。だから民主主義は「不和と敵対のイデオロギー」ではなく、逆に不和と敵対を理性的に乗り越えるためのイデオロギーとして誕生したと言えるのではないかと思います。

 また、”「主権」とは何か──正しい国政の原理としての「君主主権」”の下記の文章は、明らかに天皇制を正当化し、その復活を意図しているように思います。アジア太平洋戦争を正当化しなければならない宿命を負わされた長谷川教授にとっては、それは、避けられないことなのだろうと察します。日本国憲法によって民主化された戦後の日本を受け入れるわけにはいかないのです。したがって、戦前の日本を戦後の日本よりもすぐれたものとせざるを得ないために、古臭い王権神授説などを持ち出し、それに「正しさへの義務」などという概念を結び付けて、無理に絶対王政を民主政の上に置こうとしているのだと思います。戦争を正当化するためには、そうやって、「国民主権」や「基本的人権の尊重」を否定せざるを得ないのだと思います。

たしかに、これを「王権神授説」と呼ぶのは間違いではないけれども、それでは言わば半分の真実を語っているにすぎない。たとえばさきの佐藤功氏は、絶対王政においては「一切の国家権力・政治権力は専制君主に属するものとされ、しかもそれがいわゆる王権神授説によって、宗教的にも根拠づけられていた」と言うのであるが、王権は単に「根拠づけられ」ていただけではない。それよりも重要なのは、それが「正しさ」へと義務づけられていたということなのである。このボダンの『国家論』にかぎらず、ほとんどすべての古今東西の王権神授説(あるいはそれに類したもの)においては、こうした「正しさへの義務」と「根拠づけ」とが一対になって結びついている。現代の人々がその両面を見ようとしないのは、王政と言えばなにか必ず悪いもののように思いたがる偏見のなせるわざとも言えよう。”

 私は、王政を民主政よりすぐれたものとし、究極の政治体制として民主政の上に置こうとする長谷川教授のこうした考え方は、馬鹿げていると思っているのですが、安倍晋三前首相が会長を務める”創生「日本」”の研修会で講演し、”日本は負けたままでいいのか”とくりかえし語っていたことが、とても気になるのです。

 長谷川教授の文章は、さらに、”国民に理性を使わせないシステムとしての国民主権”とか”惨劇を生み出す原理──国民主権”と題された、下記のような文章が続いています。

「国民主権」の原理とは、一口に言って「国民に理性を使わせないシステム」である。そして、そのことによって「国民主権」はありとあらゆる暴力の抑制装置を解除してしまった。しかも、この「歴史的性格」は決して過去のどこかに置き去りにされたのではない。いまもなお、民主主義の中心的理念の一つとして、「国民主権」はその毒を発しつづけているのである。

 何を根拠に、”「国民主権」はありとあらゆる暴力の抑制装置を解除してしまった”というのでしょうか。あり得ないことではないかと思います。また、「国民主権と人権」と題され文章の中には、

前章に見た「国民主権」の原理は、単なる「闘争的な」原理であるばかりでなく、およそ一切の抑制の手綱をふりちぎった、「力の暴走」の原理であり、また他方では「国民に理性を使わせないシステム」という側面をもつものであった。こんな原理が我国の憲法の基本原理の一つをなしているかと思うと、暗澹たる思いにとらわれるのであるが…”

 などとありますが、日本国憲法のどこに、「力の暴走」を許す定めがあるでしょうか。民主主義理論は、話しあうことを基本とし、「力の暴走」を乗り越えるための理論であり、国民に理性的な対応を求める理論だと思います。

 また、「人権──この悪しき原理」の中には、

現代の日本では「人権」とは、一人一人の人間が人間であるかぎりにおいて持っている、かけがえのない価値のことである、といった説明をわれわれはよく耳にする。もしその通りであえうとすれば、「人権」尊重におけるもっとも大切なことは自己修養にはげむべし、ということであって、それ以外のことではないであろう。ごく一般的な事実として、「一人一人が人間であるかぎりにおいて持っている、かけがえのない価値」を損なうのはその人自身であることがもっとも多いのだからである。
 ところが、実際の「人権」思想や「人権」運動は、そうした自己修養などということには目もくれず、まさに「デモクラシー」のイデオロギーとしてはたらいている。すなわち、「人権」という言葉が叫ばれるたびに、その背後には、あの「絶対的恣意的権力」という幻がたちあらわれる。現実にそのようなものが存在するか否かにかかわらず(現実には、その通りのものが存在するのはたいへん稀有のことである)、「人権」の概念はそれを必要とするのである。あるときは政府が、あるときは大企業が、人々を「自己の絶対権力の下におこうと試みる者」と見なされ、それによって各人の自由を生存が脅かされているものとして糾弾される。時とすると、そうした糾弾はほとんど無意識のうちになされている。しかし、いずれにしても、「人権」という言葉を「正当な要求・訴え」として叫ぼうとするかぎり、そこでは常に「その権利を奪おうとしている悪玉」というフィクションが不可欠なのであり、その幻は繰り返しそこに呼び出される、ということになるのである。
 
 などとありますが、主観的な理解で、実態に基づいたものではないと思います。私は、”「その権利を奪おうとしている悪玉」”が、常に、フィクションであるということはないと思います。

 そして、「結語」の”──理性の復権──”には、すでに取り上げた選択的夫婦別姓の導入に反対する下記のような文章があるのです。人間は、単なる哺乳動物ではないにもかかわらず…。
 
現代の民主主義理論は、広く「国家」のうちに錯乱を持ち込んだだけでなく、家族の内側にまで入り込んで、そこに「権力者に対する闘争」のドグマを植えつけようとしている。フェミニスト達は、どんな哺乳動物にも何らかの形で見られる雌雄の分業が人間においても存在しているのを見て、それを「不平等」であると糾弾し、攻撃している。そういったことすべてを、「理性」の目は、ただ端的に錯誤と見抜くことができる。そして、人間が「家族」ということの寛容なシステムを存続させてきたこと自体を、一つの恵みとして認識することができるのである。

 また、人間の理性の復権は、民主主義の徹底の中にしかないにもかかわらず、結語は、下記のような文章で終わっているのです。

”…人間の不和と傲慢の心を煽りたて、人間の理性に目隠しをかけて、ただその欲望と憎しみを原動力とするシステムが民主主義なのである。まさに本来の意味での「人間の尊厳」を人間自らにそこねさせるのが民主主義のイデオロギーであると言える。
 逆に言えば、福田氏も(またおそらく大多数の人々も)願うであろうように、「人間の尊厳」を保ちうるような政治思想を目指すのであれば、われわれは何としても民主主義を克服しなければならない。そして本当の意味での人間の理性の復権を目指さなければならないのである。

 多くの国の、多くの人たちの大変な努力によって、やっと2021年1月22日、核兵器の開発、保有、使用を全面禁止する初の国際法規である核兵器禁止条約が発効しました。”本当の意味での人間の理性の復権を目指”すのであれば、長谷川教授は、核兵器の力にたよる野蛮な国家に参加を呼びかけ、理性的な国際関係にすべきことを主張すべきではないでしょうか。

 

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女性蔑視発言や選択的夫婦別姓問題と「日本異質論」

2021年03月15日 | 国際・政治

 以前アメリカで、「円高ドル安」にもかかわらず日米の貿易不均衡が縮小しないことをめぐって、「リビジョニズム(日本見直し論)」という新しい日本論が流行したといいます。”日本は異質だ、封じ込めなければならない”といわれるようになったというのです。
 そして最近、東京五輪・パラリンピック大会組織委員会・森前会長の女性蔑視発言が世界的に問題視されたのに合わせて、男女格差などのジェンダー問題や、選択的夫婦別姓の問題なども問題視されるようになり、日本の内外に、「日本異質論」が広がったように思います。
 海外で生活したことのある日本人や、日本に移り住んでいる外国人も、しばしば、日本人は個人ひとりひとりの個性よりも、「世間」と同じであることを重視していると指摘していましたが、それが、「日本異質論」として、批判的な眼差しに集約されていきつつあるのではないかと思います。

 それが当然であると思われるのは、日本の自民党政権中枢が、戦前回帰の考え方で、政治を進めているからです。第一次安倍内閣の法務大臣・長勢甚遠氏が、安倍前首相が会長を務める”創生「日本」”の東京研修会で、”国民主権、基本的人権、平和主義(中略)、この三つを無くさなければ本当の自主憲法にならないんですよ”などと語り、また、埼玉大学の長谷川三千子名誉教授は、「日本がよって立つ新しい理論は」と題して講演し、”日本は敗戦国のままでいいのか”とくりかえし語っているのです。

 その長谷川教授は、長勢氏の主張を根拠づけるかのように、”国民に理性を使わせないシステムとしての国民主権”とか”人権──この悪しき原理”などという文章を書き、国民主権や基本的人権を否定するような内容の本を出版しています。私は、背後に天皇制を復活させようとする意図を感じましたので、「民主主義とは何なのか」長谷川三千子(文藝春秋)から、受け入れ難い部分を中心に、何カ所か抜萃しました。その中には、下記のように、

現代の民主主義理論は、広く「国家」のうちに錯乱を持ち込んだだけでなく、家族の内側にまで入り込んで、そこに「権力者に対する闘争」のドグマを植えつけようとしている。フェミニスト達は、どんな哺乳動物にも何らかの形で見られる雌雄の分業が人間においても存在しているのを見て、それを「不平等」であると糾弾し、攻撃している。

 という文章がありました。こうした考え方をしているから、長谷川教授は、選択的夫婦別姓制度はもちろん、女性に社会進出を促す男女雇用機会均等法や男女共同参画社会にさえ批判的なのだと思います。
 「女性が家で子を産み育て男性が妻と子を養うのが合理的」というような考え方の長谷川教授が、安倍前首相が会長を務める”創生「日本」”の会合で安倍前首相にエールを送りつつ、”日本は敗戦国のままでいいのか”というような話をしているのですから、「日本異質論」が広がることは当然ではないかと思うのです。

 国民主権や人権を否定する考え方を持っている政権が、どこかにあるでしょうか。哺乳動物である人間は、雌雄の分業を受け入れ、女性は家庭に入るべきだ、という考え方を持っている政権が、どこかにあるでしょうか。
 過去の過ちを認めず、日本の戦争を正当化したい気持や、靖国神社に参拝したい気持がわからないわけではありませんが、だからといって、進むべき道を、再び、誤ってはならないと思います。
 
 下記は、「民主主義とは何なのか」長谷川三千子(文藝春秋)から、思いつくままに抜萃しました。抜萃した文章のいくつかは、後で、取り上げたいと思います。
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           第一章 「いかがわしい言葉」──デモクラシー  

 ・・・
 かくして、ヨーロッパの側でもアジアの側でも、第二次大戦の戦後処理は、それぞれ欺瞞と錯誤にみちたものとなった。そして、福田歓一氏の言い方によれば、「戦勝国の原理としての民主主義は今度こそ普遍的な権威を持つようになりました」ということになったのであった。
 さらに、ニ十世紀の終わり近くになって、(これも本来は民主主義の内から芽生えた同類の一つである)共産主義というライヴァルが自壊していった後では、民主主義の「普遍的な権威」は、もう一度ゆるぎなく打ちたてられる、という次第となった。現在のわれわれにとっては、もはや「民主主義という言葉ははなはだいかがわしい言葉であっ」たということが、ただ遠い昔の奇妙な風俗のひとつとしてしか感じられなくなっている。それは、いま見たとおり、二つの世界大戦において「民主主義」が二度も「戦勝国の原理」となり、しかもそこで或る種のトリックによて、「正義と平和の原理」としての地位を獲得された、ということが大きくあずかっていると思われる。しかし、そればかりではあるまい。むしろそれ以上に大きな要因は、現代の人々が、「民主主義」という言葉に「いかがわしさ」を感じ取る能力を失ってしまったということにあるのではないか、という気がしてくるのである。
 かつてヨーロッパの人々は、フランス革命を眺め、そこで行われた大量虐殺のことを知らぬ人までも、そこにおける、人々の理性を失って熱狂するさま、何か得体の知れぬ「怒り」にませた行動のさまを見て、何か或る「いかがわしさ」を感じ取ったのであった。けれども、先ほど見たとおり、第一次大戦というものは、その「精神の病理」がヨーロッパ中に拡がったことによって起った現象であった。しかも、その開始においてのみではない。ドイツの敗戦直前に、ルーデンドルフが敗北宣言を出したとたん、各地で叛乱とストライキがあいついだのもその一つのあらわれであったし、戦勝国がヴェルサイユ会議においてドイツに課した、あの常軌を逸して苛酷な講和条件も、冷静な計算や政策にもとづいたものではなしに、「国内世論」の圧力に押されて出てきたものであった。さらに、戦間期の欧米のさまを見ても、第二次大戦後の各国のさまを見ても、同様の「力」はつねに至るところに見受けられるのである。
 それは、言うならば、かつてトクヴィルが「あの断続的におこる無政府状態、かつての民衆の間でよく知られたあの周期的に起る不治の病」と呼んだものが、うすめられた形において常態となり、人々の心をつねに支配しつづけている──そんなありさまなのである。
 おそらく、理性的な目を持った宇宙人が現在の地球人たちのあり方を見たならば、世界全体が民主主義という言葉をいかがわしともうさん臭いとも思わなくなってしまったということ自体、現在の世界のいかがわしさである、と言うに違いない。しかし、地球人たち自身には、鏡のない世界で自分の顔が見えないように、それが少しも見えないのである。

         第二章 「われとわれとが戦う」病い

 まっとうな政治としての「人民のための政治」
 それにしても、われわれにとって「いかがわしいものとしての民主主義」という考え方は、大変なじみにくい。われわれのうちには、或るきわめて健全でまっとうな政治思想としての「民主主義」のイメージというものがあり、そこから前章のような話を眺めると、ただまったく別次元の話としか思われないのである。
 たとえば、多くの日本人が「民主主義」と聞いて反射的に思いうかべるのは、あの有名なリンカーンの言葉、「人民の、人民による、人民のための政治」であろう。この言葉は、単に語呂がよいというだけではなしに、非常にわかり易い──とわれわれには思われる。そして、そのわかり易さ中心は、何と言ってもこの中の「人民のための政治」というところにある。政治が政治であるかぎり、それが人民のための政治でなければならないのは当然のことである。そわれわれは直観的に理解する。そして、おそらくその直観は正しい。
 そもそも人間とは群れをなして生きる動物であり、「政治」というものも、もとをたどってゆけば、まさにその「群れをなして生きる」というあり方から生じてきた技術である。とすれば、その目指すところは、群れの構成員たちの安全と安楽以外ではありえまい。もし「人民のための政治」でないような政治があったとしたら、それは政治とは言えないはずである。
 さて、この「人民のための政治」ということを実現するためには、いくつかの条件が必要であって、その一つは、まず「良い指導者」を持つということである。同じく群れて生きる動物たちのうちでも、スズメの群れやアジの群れには「指導者」といったものは存在しないし、必要でない。彼らの生活の大部分は本能と反射神経に頼って営まれているので、群れの誰かが逃げ出せば皆が逃げる。群れの誰かがエサを見つければ皆が寄ってくる。──それが群れとしての活動の基本型ということになる。これに対して、これと狙いを定めた獲物を数日にわたって追いつめる、というような仕方で行動する狼の群れとなると、「指導者」というものが不可欠である。つまり、或る程度の組織だった行動をする動物の群れにおいては、指導者というものがどうしても必要となるのである。
 言うまでもなく、人間の群れは後者のタイプに属する。したがって、人間の世界において「良い政治」が行われるためには、「良い指導者」──適確な判断力をそなえた公正な指導者──が不可欠であるということになる。
 けれども、ただ単に良い指導者がいるだけでは、本当の意味での「人民のための政治」は成り立たない。大切なことは、その指導者と共同体のメンバーとが、それだけ信頼し合い、一致協力して事にあたることができるか、ということであって、それは同じ能力をもつ監督と選手を集めたチームであっても、その相互信頼と一致協力の如何によって大きく成績が異なってぃるようなものである。まして、近代のように国民一人一人の創意工夫と勤勉さによって国全体の経済の成績が大きく左右されるようになってくると、「人民による」努力こそがむしろ主役で良き指導者はその活躍を上手に支えるべき黒子であるとさえ言える。しかしいずれであるにせよ、重要なことは全員が一致協力することによって本当の「人民のための政治」が実現するということであって、そのような理想的な政治のさまを指して「人民の、人民による、人民のための政治」という言い方をしているのだとすれば、あのリンカーンの言葉は、この上なくまっとうな政治理念を語っていたと言えるのである。
 実際、この「人民のための政治」ということは、古来、多くのまっとうな政治思想が目指してきた究極の目標であったと言ってよい。たとえば、古代メソポタミアの都市国家においては、王は神からその国を手厚く世話をする義務を負わされているものと考えられており、その責任が充分に果たされたとき、その国には「シュルム」(福祉)がゆきわたるのだとされていた。あるいはまた、わが国の伝統的な政治思想──天皇は皇祖皇宗の教えにより、民を「おおみたから」として第一に重んじる──もその典型的な一例と言えよう。
 ・・・

 

         第三章 抑制なき力の原理──国民主権

 引き継がれた「不和と敵対のイデオロギー」
 第一章、第二章を通じてわれわれが見てきたのは、一口に言うならば「不和と敵対のイデオロギー」としての民主主義(あるいは民主政:デーモクラティア)の姿であった。多くの人々がただつつましく「人民のための政治」を願っているときに、「この不和と敵対のイデオロギー」はどこからともなく現れ、人々の理性的な判断を狂わせては「われとわれとが戦う」病いをひきおこしてしまう──それが民主主義の宿命であるとすら言いたくなるほどなのであった。
 たしかに、現代の世の中では、十八世紀の後半にあったような典型的な「革命」というものは見かけなくなっている。しかしそのかわりに、たえず薄められたかたちで、この「不和と敵対のイデオロギー」は民主主義の社会を支配しつづけている。それは、中小国における絶え間ない、闘争的な政権交代、というかたちを取ることもあれば、先進諸国におけるフェミニスト運動やその他のさまざまの「反体制運動」というかたちを取ることもある。およそどんなかたちを取るにしても、そこには同じ「不和と敵対のイデオロギー」 ── 一つの共同体の 内側に、常に上下の対立を見出し、上に立つものを倒さなければならないとするイデオロギー ── が存在しつづけているのである。
 第二章に詳しく見たとおり、このイデオロギーはすでに古代イギリシャの民主政においてはっきりと姿を現わしていた。そして、それは他ならぬ「デーモクラティア}という名そのもののうちに告げ知らされていたのであった。近代民主主義もまた、その名を引き継ぐことによって、同じ病いを背負いこむことになった。ただし、もはや古代ギリシャ語を日常的に使っているわけではない近代以降の欧米人にとっては、この「デモクラシー」という言葉が正確に何を意味するのかが、常にくっきりと見えているわけではない。彼らにとって「デモクラシー」という言葉自体は、単なる符牒でしかない。(まただからこそ、この言葉がなんとなく「いかがわしい言葉」として感じられる、ということになったのである)。近代民主主義においては、「デーモクラティア」から引き継がれた「不和と敵対のイデオロギー」はあらためて一つの原理、基本概念として表明される必要があった。「国民主権」(または「人民主権」)という原理がそれである。

 これから詳しく述べるとおり、「主権」という言葉は「最高の力」という意味であって、「国民主権」とはすなわち、「国民(デーモス)が最高の力(クラトス)を持つ国政」── デーモクラティア──にほかならない。しかもそこには、「征服によって」「力による争いによって」という意味合いがくっきりと刻み込まれている。実際、これから見てゆくとおり、この「国民主権」の原理は、「デーモクラティア」の病理をさらに一段と尖鋭なかたちで繰り返すことになるのである。
 ・・・

 「主権」とは何か──正しい国政の原理としての「君主主権」
 ・・・
 たしかに、これを「王権神授説」と呼ぶのは間違いではないけれども、それでは言わば半分の真実を語っているにすぎない。たとえばさきの佐藤功氏は、絶対王政においては「一切の国家権力・政治権力は専制君主に属するものとされ、しかもそれがいわゆる王権神授説によって、宗教的にも根拠づけられていた」と言うのであるが、王権は単に「根拠づけられ」ていただけではない。それよりも重要なのは、それが「正しさ」へと義務づけられていたということなのである。このボダンの『国家論』にかぎらず、ほとんどすべての古今東西の王権神授説(あるいはそれに類したもの)においては、こうした「正しさへの義務」と「根拠づけ」とが一対になって結びついている。現代の人々がその両面を見ようとしないのは、王政と言えばなにか必ず悪いもののように思いたがる偏見のなせるわざとも言えよう。
 ただし、この「正しさへと義務づけるもの」が捨て去られるとき、ボダンの主権の定義はたしかに危険なものとなりうる。彼の国家理論のなかでは、ただ単に、まっとうな国政を実現するための一条件にすぎなかった「主権」の概念が、ボダンの国家理論全体の枠組をはなれて一人歩きし始めるとき、そこには暴走の危険がつきまとうことになる。現に、この『国家論』出版の二百年ほど後にその「暴走」がおこり、その結果、主権の概念はきわめて「闘争的な概念」に変身する、ということになるのである。

 ・・・ ・・・

 国民に理性を使わせないシステムとしての国民主権
 実は、彼が「国民の意志」ということを語るとき、その背景には明らかにルソーの「一般意思(ヴォロンテ・ジェネラル)」という考え方がある。そもそも「主権者」が一人の人間であるかぎり、主権者の意志がどこにあるか、などというのは全く問題にならないことなのであるが、「主権者」が複数になったとたんに、「主権者の意志」の決定ということはたちまち難しい問題を生じる。まして「主権者」が何千万人もいる場合には、いったい「主権者の意志」などという言葉に意味があるのかすら怪しくなってしまう。そして、もしも「主権者の意志」という言葉が無意味であるような場合には、「主権者」(最高の力をふるって政治の決断を下すことが許されている者)という言葉自体が無意味となってしまうのである。
 ・・・

 惨劇を生み出す原理──国民主権
 いま見たとおり、シェイエスの国民主権論においては、国民の意思が至上のものであって、それは個々人の「われ欲す」という意志を多数決によって束ね上げたものである。そこには、各人が他人の意見に耳を傾けて、虚心坦懐に事柄そのものについて熟慮すべきであるとか、自分が単に怒りにまかせ、スローガンにひきずられているだけなのではないかと反省するとか、そうした一切の「理性的」な態度は期待されていない。シェイエスの戒める唯一のことは、「徒党を組むな」ということであり、それ以外はすべて多数決のメカニズムにゆだねる、という考え方である。
 ところが実際には、このような極端な「意思至上主義」ともいうべきものは、「多数決」さえも不可能にしてしまうのである。多数決ということ自体は、アテナイの民会だけでなく、古くから到るところで行われていた、ごくありふれた方式である。そして、一見したところ、ここには数を数えるという機械的な作業以外何物も含まれていないように思われる。たとえば、百人が集まって、何かを決めるとき、六十人が賛成して、四十人が反対したら、多数決でそれが可決される──それ以上でもそれ以下でもない、と思われる。しかし、現実にそのような多数決が「多数決」として機能するためには、各人が「その意志を理性に一致させるようにする」という「道義心」が必要不可欠である。決して単なるメカニズムによって多数決が成り立つものではないのである。
 ・・・
 ところが「少数者」と言えば必ず「第一・第二階級」(第一階級=聖職者、第二階級=貴族)を指すもの、と決めつけているシェイエスは、「国民」に対して「少数者」となったときの心構えを説くなどということは考えもしない。彼はただ「国民がたとえどんな意思をもっても、国民が欲するということだけで十分なのだ」とすべての第三階級(平民、国民)の人々に叫んでみせるだけなのである。
 このような人々の間で「多数決」を試みることがどのような結果に終るかは、想像するだに怖しいことである。
 ・・・

 戦争と革命の相互関係
 佐藤氏の語ったとおり、まことに「国民主権」とは「闘争的な概念」である。その遠い源は、たしかに「主権」という概念そのもののうちにあると言える。「主権」という言葉が「最高の力」という意味を持って出現してきたときに、ちょうど古代ギリシャにおいて、「支配」を表わす言葉が「アルケイン」から「クラティア」へと変ったときと同じような変化が起った──力による支配の考え方が主流となった──ということは否定できない。けれども、それが「君主主権」という概念として現れ「王権神授説」(神法・自然法への服従)の理論と結びついている間は、そこにはしっかりと抑制の手綱がかけられていたのであった。
 また他方で、英国の伝統的な国政のかたちは、最初から国王対国民という対立をはらんでいた。しかし、いま見てきたとおり、これまた英国内においては「均衡」の原則によって、十七世紀の例外的な一時期を除けば、「闘争」より「調和」を目指してコントロールされてきたのであった。
 「国民主権」の概念は、この英国の国政が例外的にコントロールを失い、国王対国民の対立がむき出しの「闘争」となったことに刺激され、「君主主権」を逆転して、「国民の力」を国政の支配者に立てる、というかたちででき上ったのである。言うなれば、これは大陸の主権論と英国の憲法とが、もっとも不運な結びつき方をしたところに出現したハイブリッド概念ということができるであろう。この概念の特殊な暴力性は、そこに発していると見ることができるのである。
 一口に言えば、「国民主権」の概念は「抑制装置を取りはずした力の概念」である。そして、そのために、この概念は「国民」それ自体の内においても、歯止めのない暴力性を発揮することになり、また、一転して国の外側に対しても、きわめて闘争的な様相を見せることになるのである。
 ・・・
 「国民主権」の原理とは、一口に言って「国民に理性を使わせないシステム」である。そして、そのことによって「国民主権」はありとあらゆる暴力の抑制装置を解除してしまった。しかも、この「歴史的性格」は決して過去のどこかに置き去りにされたのではない。いまもなお、民主主義の中心的理念の一つとして、「国民主権」はその毒を発しつづけているのである。

          第四章 インチキとごまかしの産物──人権

 国民主権と人権
 前章に見た「国民主権」の原理は、単なる「闘争的な」原理であるばかりでなく、およそ一切の抑制の手綱をふりちぎった、「力の暴走」の原理であり、また他方では「国民に理性を使わせないシステム」という側面をもつものであった。こんな原理が我国の憲法の基本原理の一つをなしているかと思うと、暗澹たる思いにとらわれるのであるが、ただし、前章に見たのは、あくまでもフランス革命を通じて──それも、もっぱらその「思想的指導者」の一人であるシェイエスの理論を通じて──眺めたかぎりでの「国民主権」であった。もしこれをアメリカ革命の側から眺めたならば、そこにはもっと違った「国民主権」の顔が見えてくるのではないか、と考えることもできる。
 ・・・
 しかし、「人民主権のドグマ」それ自体に即して言えば、そこで重要なのは、それが「人権」という原理と結びつけられ、それによって根拠づけられているということである。そのことがもっとも明瞭にしめされているのは、あの有名な「独立宣言」(正式には「大陸会議に「おける十三のアメリカ連合諸邦の一致した宣言」)の一節である。
「われわれは、次の真理を自明のものと信じる。すなわち、すべての人間は平等につくられている。すべての人間は創造主によって、誰にも譲ることの出来ない一定の権利が与えられている。これらの権利の中には、生命、自由、および幸福追求が含まれる。これらの権利を確保するために、人びとの間に政府が設置されるのであって、政府の権力はそれに被治者が同意を与える場合にのみ、正当とされるのである。いかなる形体の政府であれ、こうした政府本来の目的を破壊するようになれば、そうした政府をいつでも改変し廃止することは国民の権利である。そして、国民の安全と幸福とに最も役立つと思われる原理や権限組織に基づいて、新しい政府を設立する権利を国民はもっている」
 ここに言う<創造主によってすべての人間に与えられている、誰にも譲ることの出来ない権利>こそ、現在われわれが「人権」と呼んでいるところのものである。そしてここでは、「これらの権利を確保するために」政府が作られるのだと言い、だからこそ政府の権力は(これらの権利の持ち主である)人民の同意がなければ正当なものとは見なされないのだと言う。つまりそういう形で、「人権」の概念と「人民主権のドグマ」とが結びつけられているのである。
 実は、あのリンカーンの「人民の、人民による、人民のための政治」という言葉も、こうした「理論」を念頭において語られたものなのであった。1863年、彼がゲティスバーグの国立墓地で演説したとき、彼は(明らかに「独立宣言」の内容とひびき合うかたちで)こう語り始めている。「八十七年前、われわれの父祖たちは、自由の精神にはぐくまれ、すべての人は平等につくられているという信条に献げられた、新しい国家を、この大陸に打ち建てました」
 そして彼は、自分たち北軍の戦争目的について「……そして人民の、人民による、人民のための政治を地上から絶滅させないためであります」と言って、この演説をしめくくっている。「人民の、人民による、人民のための政治」とは、まさに「独立宣言」のあの一節の、簡潔な要約にほかならなかったのである。
 ・・・
 もしもここに提唱されている「人間の権利」というものが、その語義の通りに、確実に根拠づけられた「正当な」ものであるとすれば、前章に見たあの「抑制なき力の原理」としての「国民主権」(「人民主権」)も、この「人権」なる概念によって、ようやく「正しさ」へと結びつけられたのだと言うことができよう。そして、「王権神授説」が全知全能の絶対神の命令によって「正しい統治」を目指すものとなっていたように、「国民主権」も「人権」の確保という大義を目指すことによって、「正しい国政」を実現すべきものとなりうるかも知れない。そうだとすれば、世界中の人々がこれほど「人権」「人権」と口々に叫びたてるのも当然のこととしうるのである。
 しかし、そのためには、この二つの宣言がともに提唱する「人間の権利(ライツ)」なるものが、本当に確実に根拠づけられた正当な権利なのかどうかを充分に吟味検証しておくことが不可欠である。これから述べるとおり、「権利」とは、誰かがそれを権利だと主張すれば権利になるというようなものではない。それが正しく根拠づけられているか否かが、それを「権利」と呼びうるか否かの分かれ道なのであって、その検分なしには、「権利」という言葉を用いてはならないのである。
 ところが、それではいったい、この二つの宣言に掲げられた「人間の権利」とは、どのように根拠づけられたものなのだろうか、と問いかけようとすると、「独立宣言」も「人権宣言」も、はなからそうした問いかけを拒むかのごとき姿勢を見せているのである。たとえば、「独立宣言」はまずあらかじめ一切の吟味検証を防いでおこうとでもするかのように、こう語っていた──「われわれは、次の真理を自明のものと信じる」。また、「人間宣言」も、それが自明のものであると決め込んで、何の前置きもなしにこう語っていたのであった──「国民議会として組織されたフランス人民の代表者達は、人権の不知・忘却または蔑視が公共の不幸と政府の腐敗の諸原因にほかならないことにかんがみて、一の厳粛な宣言の中で、人の譲渡不能かつ神聖な自然権を展示することを決意した」
 いったい「人権」とは、本当に「自明のもの」なのだろうか? 多くの場合、人が何かをことさら「自明のもの」と言いたてるのは、そこに何か探るとボロが出るような事柄がひそんでいるときである。むしろ、これらの宣言が、それを問うまでもないものとしていればいるほど、われわれはこの「人権」の概念を用心ぶかく吟味検証してみる必要があろう。
 一口に言えば、近代民主主義理論というものが「理論」として成り立ちうるか否かは、この「人権」という概念が本当に正しく根拠づけられた権利を語ったものか否かという一事にかかっている。それを、このように問答無用の形で棚の上にまつり上げてしまっているのでは、これらの宣言はもはや最初からその理論の正しさなどということは念頭に置いていないのだ、と言われても仕方あるまい。しかし、少なくとも「民主主義とは何なのか?」と知的にといかけようとしている者にとっては、この「人権」概念の吟味検証は、もっとも重要な核心をなす仕事である。われわれはここにあらためて
、「人権」とはどのような概念なのか、と問いなおしてみる必要がある。そして、それに先立っては、そもそも「権利」という概念がどのようなものなのかをふり返ってみなければなるまい。

 人権──この悪しき原理
 現代の日本では「人権」とは、一人一人の人間が人間であるかぎりにおいて持っている、かけがえのない価値のことである、といった説明をわれわれはよく耳にする。もしその通りであるとすれば、「人権」尊重におけるもっとも大切なことは自己修養にはげむべし、ということであって、それ以外のことではないであろう。ごく一般的な事実として、「一人一人が人間であるかぎりにおいて持っている、かけがえのない価値」を損なうのはその人自身であることがもっとも多いのだからである。
 ところが、実際の「人権」思想や「人権」運動は、そうした自己修養などということには目もくれず、まさに「デモクラシー」のイデオロギーとしてはたらいている。すなわち、「人権」という言葉が叫ばれるたびに、その背後には、あの「絶対的恣意的権力」という幻がたちあらわれる。現実にそのようなものが存在するか否かにかかわらず(現実には、その通りのものが存在するのはたいへん稀有のことである)、「人権」の概念はそれを必要とするのである。あるときは政府が、あるときは大企業が、人々を「自己の絶対権力の下におこうと試みる者」と見なされ、それによって各人の自由を生存が脅かされているものとして糾弾される。時とすると、そうした糾弾はほとんど無意識のうちになされている。しかし、いずれにしても、「人権」という言葉を「正当な要求・訴え」として叫ぼうとするかぎり、そこでは常に「その権利を奪おうとしている悪玉」というフィクションが不可欠なのであり、その幻は繰り返しそこに呼び出される、ということになるのである。
 ・・・

                   結語

 ──理性の復権──
 ・・・
 そしてまた、一人一人の生き方においても、理性の復活は、われわれをさまざまの不必要な葛藤から解放してくれることになろう。現代の民主主義理論は、広く「国家」のうちに錯乱を持ち込んだだけでなく、家族の内側にまで入り込んで、そこに「権力者に対する闘争」のドグマを植えつけようとしている。フェミニスト達は、どんな哺乳動物にも何らかの形で見られる雌雄の分業が人間においても存在しているのを見て、それを「不平等」であると糾弾し、攻撃している。そういったことすべてを、「理性」の目は、ただ端的に錯誤と見抜くことができる。そして、人間が「家族」ということの寛容なシステムを存続させてきたこと自体を、一つの恵みとして認識することができるのである。
 ・・・
 福田歓一氏は、『近代民主主義とその展望』を、こんな文章で結んでいる。
「この民主主義に根本的な一つの特徴、ほかに求めがたい長所があるとすれば、それのみが、人間が政治生活を営むうえに、人間の尊厳と両立するという一点であります。このことを忘れて民主主義を論ずることは、すべて無意味なことであると私は思います」
 これがいかに事実と正反対であるかは、これまで見てきたところから明らかであろう。人間の不和と傲慢の心を煽りたて、人間の理性に目隠しをかけて、ただその欲望と憎しみを原動力とするシステムが民主主義なのである。まさに本来の意味での「人間の尊厳」を人間自らにそこねさせるのが民主主義のイデオロギーであると言える。
 逆に言えば、福田氏も(またおそらく大多数の人々も)願うであろうように、「人間の尊厳」を保ちうるような政治思想を目指すのであれば、われわれは何としても民主主義を克服しなければならない。そして本当の意味での人間の理性の復権を目指さなければならないのである。

 

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女性蔑視発言と選択的夫婦別姓問題の源、家族国家観

2021年03月07日 | 国際・政治

 前回、東京五輪・パラリンピック組織委員会・森前会長の女性蔑視発言は、日本が、いわゆる先進国で唯一、多くの国民の声を聞き入れることなく、いまだに法律婚の条件に夫婦同姓を義務付けている考え方と関連していると思われることについて書きました。
 また、選択的夫婦別姓を認めると”夫婦の一体感を損なう”とか”家族の絆が失われる”というような主張がなされていますが、それは表向きの話で、本当はもっと深い理由が隠されているのではないかということも書きました。

 そんな時に、また考えさせられる報道がありました。新しくオリンピック・パラリンピック担当相となった丸川珠代氏が、選択的夫婦別姓の導入を求める意見書などを、地方議会で採択しないよう呼びかける文書に名を連ねているというのです。
 IOC理事会は、オリンピック大会に出場する選手たちの間におけるさらなるジェンダー平等を促進するために、様々な取り組みをしている上に、丸川五輪相は、オリンピック・パラリンピック担当だけではなく、日本における男女共同参画担当も兼務していることから、地方議会に圧力をかけるような文書に名を連ねていることが問題視されたのだと思います。男女平等の社会作りを進める旗振り役でありながら、選択的夫婦別姓導入反対の文書に名を連ねていることは、報道通り、明らかにおかしいと思います。
 あらゆる面で、マイノリティの権利を尊重し、多様性を認め、受け入れるようとしている国際社会の流れにも逆行するものだと思います。

 先日の朝日新聞に、外国で別姓のまま結婚した夫婦が、日本に帰って来たら、「事実婚」と認められず、ビザの手続きができないなど、様々な不利益を被り、国を相手取って裁判中であるという記事が出ていました。欧米で「日本異質論」が広がるのも当然ではないかと思います。
 自民党政権関係者は、支持が得られず、政権を奪われる恐れがあるからか、一般国民の前では真意を語らないようですが、安倍前総理が会長を務める神道政治連盟国会議員懇談会創生「日本」の会合では、明らかに日本国憲法を否定する発言が平然となされているようです。また、自民党政権は、GHQが解体され、日本が主権を回復するや否や、GHQが軍人優遇に問題があるとして停止を命じた軍人恩給をそのまま復活させたり、紀元節の日を建国記念の日にしたり、元号を法制化したり、様々な戦前回帰の政策を進めてきました。また、憲法改正草案は、日本国憲法の第一条の条文に、なぜか”(天皇は)日本国の元首であり…”、という文言を追加しています、だから私は、自民党政権が、なぜ執拗に選択的夫婦別姓導入に反対するのかを、しっかり理解する必要があると思います。

 戦前、日本の子どもたちは、親を敬い、親に尽くすことが何より大事であると指導されました。それは、修身の教科書を開くまでもなく、教育勅語に、”爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ…”と「」が最初にあげられていることでわかります。
 戦前の日本は、家父長制的な家族意識を深化・発展させ、親に対する「」を重視するとともに、それを天皇に対する「」と強引に結び付けていました。そして、皇室は国民の宗家であり、天皇は国民の父、国民は天皇の赤子という日本民族の神聖性を体得させる家族国家観を「修身」の授業の柱としていたと思います。
 それが天皇への忠と親への孝を一つのものとした「忠孝」を第一とする戦前の「神州日本」の精神であったのではないかと思うのです。そして、その「忠孝」第一の考え方が、”一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ”という戦争の考え方に結びつき、日本の戦争を支えたのだと思います。欧米の兵士が戸惑った、日本兵の「万歳突撃」や「特攻攻撃」は、こうした「忠孝」の思想なしには考えられないことであったと思います。

 したがって、選択的夫婦別姓を認めることは、極論すれば、そうした日本の伝統的家族国家観、さらに言えば「忠孝」を第一とした戦前日本の神話的国体観を放棄することにつながり、ひいては、日本の戦争は過ったものであったという東京裁判の判決の正統性を認めることもなってしまうため、日本の戦争責任を認めたくない自民党政権は、あの手この手で、選択的夫婦別姓導入を阻止しようとしているのではないかと思います。
 
 でも、それが欧米のみならず、世界中が多様性(ダイバーシティ)に注目し、諸政策を進めつつある現在、その流れに逆行するものであることは明らかだと思います。だから、現在の自民党政権では欧米でが広がる「日本異質論」を払拭することはできないと思います。

 日本国憲法を「押し付け憲法」だとか、「マッカーサー憲法」などと言って、憲法改正に血道をあげるのではなく、一日も早く、日本の戦争の根本的過ちを認め、戦争責任をしっかり受け止めて、真に日本国憲法の精神に基づく政治を展開し、諸外国の信頼を得て「日本異質論」を乗り越えなければならないと思います。

 また、私は日本の戦争の根本的過ちをより深く理解するためには、明治維新を支えた水戸学を知る必要があるのではないかと思い。今回は「維新水戸学派の活躍」北條猛次郎(国書刊行会)から伊藤博文、吉田松陰、西郷隆盛と水戸学派に関わる記述及び会沢正志齎、藤田東湖にかかわる部分を抜萃しました。明治維新に関わった多くの人たちが、水戸に足を運び、水戸学の思想家、会沢正志齎や藤田東湖に直接会って、いろいろ学んでいるからです。
 
 でも、見逃してはならないことは、御三家の一つである水戸藩の思想家、会沢正志齎や藤田東湖には、当然のことながら、倒幕の意図はなかったということです。会沢正志齎が、その代表的著書「新論」の「はじめに」で、”あえて国家(幕府)が頼むべきものは何かについて論じたい”と書いていることで明らかなように、幕藩体制の改革・強化を意図していたのです。でも、薩長の志士、特に幕府を倒したい長州の志士は、水戸学を倒幕ために利用したといえるように思います。
 だから、薩長の志士は、水戸学を単なる勤王ではなく、暴力を伴う尊王思想に発展させ、明治維新を成し遂げることによって、”天皇の御稜威(ミイツ)がたえず四方に広がる”ことを国家の基本目標とするような侵略国家、皇国日本をつくりあげた、と言えるのではないかと思います。
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               維新水戸学派の活躍

             第三 現代名士の水戸回顧談

伊藤博文公の水戸回顧談
 尚茲に旧水戸藩士前木七郎翁(鈷次郎)がある。今年八十八歳の長寿を保ち、然も耳目聰明確乎たる識見を有し、関雲野鶴(カンウンヤカク)に日を送っている。筆者は一日その居を訪ひ、往時を聞いた。翁は文久三年十七歳の時、適水戸に来った長州の木戸孝允に従つて京師に上り、更に攘夷観察使正親町卿に扈従(コショウ)して長州に下ってゐるうち、平野国臣等と共に但馬生野銀山に兵を挙げた勇士である。
 その直話に”吾等は京洛の間で伊藤博文等と屡々会飲したが、博文は常に、「我藩尊攘の機運を作ったのは、実に貴藩の行動に促された為である」、と言明された”と
 而して此の水戸が勤王の首倡(シュショウ)たる論拠は、伊藤博文が嘗て明治四十二年八月韓国太子太師の重職を帯びて水戸に来りし際、歓迎会席上にて次の如き演説をされたのを見れば一層明瞭である。

 (前略)水戸の学問は、或る諭者の説の如く今日から見ると、鎖国攘夷の如く見えるけれども、日本臣民の耳目を開き、上下一致に出る政策の根本たる勤王の発端は、水戸の学問、水戸の人物の嚮導(キョウドウ)する所であって、此の為に日本国家の盛衰を慮かり、或は文武の道を講究するといふが如く、関西九州の雄藩志士を興起せしめたのも、水戸が率先して、勤王の議論と唱えたのが原因であると私は考へる。 時世の推移することが恰も太陽が朝海を出でゝ、而して天に冲し更に夕陽に至るが如く、次第々々に光線の反射、又は其の熱力の及ぶ所、厚薄の別をなくすが如く、序を追はなければ変遷しないのであるから、発端と終局とを比較して来たらば、大いに異なる点があらう。併しながら、独り此は学問や、時世の変遷にのみいふ事ではない。凡そ事物に当って深く探究すると皆斯の如くである。水戸の学問は、全国の勤王心を誘発し、而して日本国の士気を振興したといふが、当時水戸には攘夷論が唱へられてゐたのであるが固より発端は斯くの如くである。而してそれよりして遂に一面に於ては、徳川の権力を衰微せしむる助となったかも知らんが、又同時に六七百年王権の地に墜ちたのを恢復するの端緒を発達せしむる率先者も、また水戸に在ったと云うて宜しいと考へる。水戸に就いては、今日始めて私は水戸へ参った訳ではない。殆んど四十四五年前に、一度水戸へ参った事がある。其の時は二十一二歳であったかと考へる。その以後、水戸には三四年前に、今泊って居る公園の梅を看に来て、半日ばかり居た事がある。夫れで今回は三回目に当る。水戸の日本の歴史に於て、以上述ぶる如き関係あるは、茲に諸君に述ぶる必要ないと思ふが、自分は維新前の当時より水戸の関係上に於て、之を述ぶる必要があると認めて述べた訳である。当時の人物は固より今日存在して居る訳ではないが、其の子孫が皆それぞれの職に従事して居ると考へる故に、水戸の歴史は日本の盛衰興廃に斯くの如く関係あると云ふことを、一言諸君に述ぶるのは、敢て贅言(ゼイゲン)でないと思ふ云々(伊藤公演説全集)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
          第三十六 吉田松陰の水戸訪問

 天保以降、水戸学の普及と相俟って村田清風(ムラタセイフウ):長州藩士)の水戸移入は、先づ松下村塾の志士等を奮起せしめた。そも、此の村塾は安政三年、吉田松陰の開塾にかゝるものなるが、その前身は松陰の叔父の玉木文之進の開く家塾に基づく。初めこの家塾に入った者は、松陰その兄民治、及び山縣半蔵(子爵宍戸璣)の三人のみであった。
 松陰幼時の感化は、一は敬神家にして忠良篤実なる父、杉百合之介常道、一は硬直廉幹にして勤王の志篤、玉木文之進に依ったものである。彼はこの二尊属より、水戸派の教育を受けた。百合之介といふは好学の志厚き士で嘗てその父が江戸在番中に送り届けてくれた、五経図解を生涯座右に置き、一日も離さなかった。また常に玉田氏の「神国由来」会沢正志の「新論」、頼山陽の「楠公墓下詩」等を愛読し、民治、松陰の二子をして暗誦せしめたといふ。玉木文之進に至っては、最も水戸学派の諸書を熱愛し、藩主より尊攘の大義を確守し云々の故を以て賞賜を受けしこともあった。(徳富氏吉田松陰に拠る)
 要するに松陰の尊王奉公の思想は、庭訓の致す所であると共に、家学たる山鹿流の兵法、佐久間象山、及び水戸学の諸書に負ふ所が少なくなかつた。

 前述の事情にて、松陰の心が常に水戸に馳せてゐたのは、勿論の事である。彼は嘉永四年三月、藩主に扈従(コショウ)して初めて江戸に行き、同年六月同志肥後人宮部鼎蔵(ミヤベテイゾウ)と共に相模安房の海岸を視察してゐたが、同年七月藩主より東北旅行の許可を得て、年来の願望を達し、その喜びや知るべしである。仍(ヨッ)て鼎蔵、安芸五臓(別名、江幡五郎)の二人と約し、その十二月十四日、赤穂義士討入の日を卜して、門出の期と定めた。然るに出発間際に至り江戸詰役人等はその願出の関所札は、一応国許へ照会せし後ならでは渡されずと拒んだ。彼は大に失望したが、一旦張り詰めた弓は弛むべきではない。「よしさらば脱走するまでだ」と叫んで、予定の如く遂行することに決した。彼は求道立志の前には、名誉も、秩禄も、なかったのである。斯くて同年十二月十四日、亡邸した、その江戸を出るに臨み左の一詩を留めた。

  漢詩 略

 宮部等は、突然事故が生じ、急に発するを得なかった。松陰は単身江戸を発し、武總の野を過ぎ水府へと志した。此の行、彼は既に藩籍を脱し、全く天涯万里の覊旅(キリョ)一个(イッコ)の武者修業に過ぎない。素より公の責任もなく、悠々自適の境遇であった。窮冬(キュウトウ、冬の終わりころ))の短日を長亭短驛に関し盡して、常総の境なる阪東太郎河(別名、利根川)を渡り、開曠(カイコウ)の平野に聳ゆる筑波の秀峰に接するに及んでは、一句なかるべからず、左の即事を得た。

   漢詩 略

 ・・・
 松陰水戸に入るや、直ちに永井政介を訪問してこゝを仮宿と定め、滞在三十日に及んだ。而してその間多くの水戸人と往来した。政介は水藩士で剣を好くし、嘗て江戸に在って斎藤弥九郎の門に学んだ。初め弥九郎の子、新太郎長州萩に来った時、松陰はこれに永井への紹介状を貰っておいた。この関係からして突然政介を訪うたのである。当時政介は水戸市外吉田に住してゐた。東北游日記に、「入水戸ナリ直訪永井政介政介不在逢子芳之介」と記してある。猶同日記常陸大津にて記せし所には、

 二十三日(嘉永五年一月)、大津に至る。二十八年前、夷船此処に来る。脚船二隻を卸す。十数人登陸、数日不去。会沢憩齋は筆談役となり、地図を按じて之を詰る。時に永井政介、伊豆韮山に在り。変を聞きて帰り、藤田幽谷の所に至る。幽谷、政介に命じて夷人を斬殺せしむ。たまたま夷船颺去。事果さず。幽谷の意、鼂錯削七国之策、諸を政介に命ぜしなり。

 とある。
 
 永井氏の現主、道直氏は芳之介の嗣で、今その語る所によれば、「私の家と松陰とは、何ら縁故のあった訳ではなく、松陰の旅行がたゞ一個の武者修行であり、私の祖父と父とが剣客であるところから、訪問されたものであるが、一度相逢ふて見ると、いわゆる肝胆相照すで、書を論じ、剣を評して滞在三旬の長きに亙ったのださうだ」、と
 因に永井氏宅には、数多の松陰の書き物があったが、水戸甲子(キノエネ)の難に盗難等に罹り、今は松陰が、野山の獄中より送った書面二通のみであるといふ。
 二十日、政介帰来し、談話益々はずみ、夜に入りて一詩を得た。

 詩 略

 二十一日、二十三日、二回会沢正志を訪問して、その学説や時論を傾聴した。…
 ・・・以下略
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
            第十一 会沢正志と全国の門人

 東湖と相並んで、諸国の志士の尊敬措かざるものは、会沢正志である。彼は藤田幽谷の高弟で、その学識の富贍(フセン)といひ、尊王精神といひ、よく師の遺鉢を伝へた。名は恒蔵、諱(イミナ)は安、正志齋又は憩齋と号した。著書頗る多く新論、廸□篇、退食閑話、下学邇言、及門遺範等は有名である。就中新論は実に嵐の如く、霰の如き勢を以て天下の読書界を風靡した。
 この書の成ったのはあ文政八年、彼が四十四歳の時といhれてゐる。初めは深く秘して、世に示さなかった事は、その跋文に見えてゐる。後、文政九年に至り、彼は之をその師幽谷によって藩主哀公(烈公の兄)に献じたところ、その論旨激烈にして、幕府の忌諱(キイ)に渉るものありとして公刊を許されなかった。は門下人は往々伝写し、漸次世に知らるゝやうになり、東湖などは屡々その刊行を慫慂した。が謹厚なる彼は承諾しなかった。弘化に至り、烈公謹慎を命ぜられ、彼も幽囚四年におよんだ。
 その不在中に留守を預かる門人等が、私に印行した。それが新論の初版であった。新論が未だ刊行されぬ時分、即ちその幽囚中、密かに甥へ贈った書簡に

 此間承り候へば、阿勢(老中阿部伊勢守 )儒臣石川円蔵勢州へ新論を侍読(ジドク)候由、老朽九尺中の身と相成候処(中略)時務を諭候新論は閣老の海防掛の人被見候事、志行れ候と申程には無之候へ共、赤誠の甲斐も少く無之様被存候。

 とあり、また徳富蘇峰氏の談話に

 「新論」に就いて、川路左衛門尉が奈良の奉行をしてゐる時、弟の井上信濃守から出版と同時に送り来たのを読み、其の感じを日記に書いてゐるが、其の意味は「これは無名氏とあるが、水戸人の作った本であるに違ひない。これ程の諭を書く人は、藤田虎之介(東湖)以外にない」と書いてあります。又「かういふ論が行はれてはやりきれない」とも書いてあります。川路は偉い人でありますが、此の書物の議論通りに、幕府に肉薄せられては困ると思ったのでありませう。川路が困った程世間に影響は多かったのであります。私の家は熊本の辺鄙な所でありましたが、私が子供の時、私の家の書物箱にも、その「新論」はありました云々(昭和三年三月三日於青山会館講演)

とあって、早くも幕府の要路の注目するところとなり一方次第に伝播したのであった。当時の東湖の書簡中にも「近来新論悉く伝播、雷名有志の間に遍く、愉快此事に御座候」とあるは、よくその消息を物語ってゐる。

 扨(サ)て次の記事は本題にやゝ不適当だが、便宜上茲に録することゝした。私は最近竦然(ショウゼン)衿を正して拝読した一書がある、それに由ると新論が、孝明天皇の御手に触れて、やがて皇運扶翼の機会を生んだ事である。この新論が関東の重圍(チョウイ)を脱出して雲上に翺翔(コウショウ)するに至った経路は、いふまでもなく当時慨世憂国の志士が苦心百端の結果三条実萬(三条実美の父)公の膝下(シッカ)に近づいてその目的を達したもので、実に神助(シンジョ)といふべきである。今、吉田松陰門下の入江子遠(九一:別名河島小太郎)が草稿のまゝ遺した著書「伝信録」の中に孝明天皇の御聖徳に就いて記した一文があるが、その一節に

 兼て御学問を好ませ給ひ、柳原大納言、御素読を上げられしと伝ふ。或は曰く、貞観政要(ジョウカンセイヨウ)、孝経(コウキョウ)の外は御覧に備へ奉らざる事年来の弊なり、是も関東の所為と云可憎……」とか,或は「三条公密奉進新論嘉永五年の事の由、先師(吉田松陰)の反古の中に記してありし」。などとあって、志士憂憤の口吻(コウフン)が明瞭に看取される。
 この一事と思ひ合せて吾人の感激措かざるは、明治二十三年、明治大帝水戸へ行幸し給へし砌(ミギリ)、特別の畏き思召によって会沢正志手澤本の汚れたるまゝの新論稿本を、直接御手許に御納めになったことで、斯る事は全く異例と云ふべく、徒に先生一人の身ならず、水戸学の為に光栄の極みといふべきである。

 新論は勿論漢文であるけれども、嘉永年間には仮名文に訳したものさえ三種出版され、各藩に於ける同書の出版を合すれば、漢文のものを併せ、十数種を挙げることが出来る。新論の内容は、国体、形勢、慮情、守禦、長計の五論七篇に別たれ、すべては夫の有名な蘇東坡の策論に酷似している。次に国体論中の一節を和訳して抽出しよう。

  ・・・以下略(国体論中の一節は、「日本の戦争と水戸学(会沢正志斎) NO2」を参照)

 さて此の書が如何にして地方へ普及されたか、会沢塾生の手によって広がったのは勿論であるが、又多数の水戸志士が四方に同志を求めんとして、出発する際、第一に此の書を土産物として齎した点からも広まったのである。而して彼等が此書を繙くや、如何に感激したか、筑前の平野國臣は、その著藎忠録の日記に
 壬子(嘉永五年)新論を読みて感有り、自ら非を恥ぢ、喫煙を絶ち、武を練る。
と書いてゐる。当時ペルリ提督はまだ来航せざるが、英、米、露艦は辺海に出没して、遠雷の響頻りに耳を掠(カス)めた際であったから、、この二十五歳の青年も今はうかうかしてゐる時勢ではないと目醒めて決然禁欲したのであらう。又久留米藩の勤王家真木和泉(保臣)の「遺稿」に同志木村三郎(士遠)が書かせし跋文を見るに
 余(木村)曾て諸州に遊び、水戸にて会沢翁に親炙(シンシャ)翁の著す所の国体論を読みて、大に感奮する所あり、携へ帰りて、保臣に示すに、保臣一読三歎、奮然として、直に水戸に遊びて翁の門に入る。
とあって、その感激の状躍如たるものがある。斯くて新論によって会沢塾を紹介し、会沢塾によって新論を紹介し、両々相須つて水戸学は普及せられ、会沢門の士の如き、關東北は勿論、遠く中国、四国、九州に及ぼし実に盛んなものであった。当時会沢の家は城下南町の中程にあったから土地の人がその方面を通る時は、会沢塾の所在を、他国の旅人に屡々尋ねられたものだと故老が今もよくいってゐる。その塾には長い長い格子が続いてあって多数の書生の読書の声が始終聞こえてゐたといふ。

・・・以下略
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            第十三 西郷南洲と東湖との会見
 
 薩藩士にして水戸人とも交際し、やがて強烈なる勤王思想を発揮した者は、西郷隆盛を第一とする。元来西郷は学問に於ては如何なる系統であらうか。何に由て腹を拵(コシラ)へたかと探究するに、蓋し陽明の実行主義と禅学とが与って力あったやうである。
 由来、薩藩の文教は古く文明年間、周防(スオウ)の僧桂庵によって播種せられたる程朱学以外に見るべきものがなかったが、幕末に至って、松山隆阿弥及びその親友伊東潜龍の出づるに及んで漸く陽明学の台頭を見るに至ったのである。
 一日、西郷、大久保(利通)二人は、同志有村俊齎(海江田信義)及び長沼嘉平の両氏に向って、「伊東茂衛門(潜龍)翁は陽明学に通ぜりと聞いている、陽明学といふものは士の精神を鍛錬するに最も好い。これから倶(トモ)にいって学ぼうではないか」といったから俊齎も之に同意し、此れから同志相誘って伊東翁の門に入り、翁指導の下に王陽明の伝習録を読み、特に西郷の如きは、親(ミズカ)ら佐藤一齎の言志録を手抄(シュショウ)した程でる。
 西郷はまた傍ら鹿児島の福昌寺の無参和尚に参禅して修養に努められた。
 この陽明学、禅学を外にして、西郷にとって感化力の最も大なるものは東湖との接触であらう。西郷にして、若し東湖の人格、学問、見識、度量に学ぶ所がなかったならば、流石の彼も終に性来の偉器を発揮し得なかったかも料り知ることが出来ない。
 彼が東湖に会するに至った楔子(ケッシ)は、蓋し夫の桜田烈士中ただ一人の薩人、有村左衛門の実兄、有村俊齎であらう。

 ・・・

 さて、茲に東湖と西郷との両雄会見であるが、名にし負ふ当代無雙の英傑だから、その会見の模様も演劇がゝりに奇抜に伝えられてゐて信を掴むことも容易ではない。今世に伝ふる二三を記さう。

 西郷は東上するや間もなく単身飄然と東湖の門を叩いた。刺を通ずると書生は「暫く」といひ置いて、奥へ引き下がったが、再び現れて、西郷を応接間へ請じて去った。が当の主人公東湖は待てども待てども出て来ない。待ち呆けを喰った西郷、例の鈍重振りを発揮して、睡魔の襲ふまゝにいゝ気持になって、ドタリと巨木の倒るゝ様に横臥して了った。忽ち万雷の如き鼾声(カンセイ:イビキ)で、邸もゆるぐばかりである。時しも轟然たる銃声一発、棟も落ちよ、襖も砕けよといふ物すごい物音に、快夢を破られた西郷、ハッと眼を開けば濛々たる硝煙が部屋一杯に立ち込めてゐる。西郷驚くかと思ひきや、平然として大欠伸をしてゐる。
 そこへ大きな跫音がして、煙の中から現れたのは誰あらう、東湖その人であった。東湖は豫(カ)ねて、西郷の来訪と聞いて、故意に先づ銃を放って、その胆力を試みたのだ。二人はこの奇想天外な対面に端を発して、互いに意気を以て相酬い、東湖は早速大好物の酒を呼んで、西郷を歓待すれば、巨体に似ず酒に弱い西郷、忽ち酩酊度を失して、四辺かまはあず、嘔吐し散したといふ。東湖は反って彼の野生を愛して、度々招き、且つ戸田忠太夫、武田耕雲齎を始め熊本の長岡監物、信州の佐久間象山、尾州の田宮如雲等に紹介した。西郷また愈々東湖を景慕して、これより暫々小石川の邸を訪うて意見を聴いた。
以上は「明治功臣録」等に拠って記述するところであるが、「西南勇士伝」所載の記事を掲げると次の如くである。
 ・・・以下略

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