真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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満州事変の舞台裏 花谷 正

2017年03月28日 | 国際・政治

 『日本よ、「歴史力」を磨け』櫻井よしこ(文藝春秋)「第四章 第二次世界大戦の嘘」のなかに”「河本大佐供述書」の信憑性”と題された対談の文章があり、そこで、瀧澤一郎氏や北村稔教授、伊藤隆教授が、資料1のような、ちょっと気になる話をしています。張作霖の爆殺が、関東軍高級参謀・河本大作の計画に基づくものであったという定説を、いくつかの視点から疑問視する内容です。でも、私は、下記に抜粋した文章の中にあるのですが、

瀧澤 もともと日本犯行説は動機が薄弱だと指摘されていました。日本では田中義一首相はじめ、多くの政治家、軍人が張作霖との友好関係の維持を重視していましたからね。

北村 当時の日本側の政府首脳は事件に大変なショックを受けて、田中首相も怒ったし、満鉄総裁の山本条太郎も「何をするんだ」と憤激していたことは、台湾に逃れた国民党の関係者が書き残しています。関東軍の中堅がやったことになっていますが…。

などという会話には、とても違和感を感じます。定説を覆し、ソ連特務機関犯行説」によって「張作霖爆殺事件」の歴史を修正するため、歪んだ捉え方をしているのではないかと思うのです。
 「日本犯行説は動機が薄弱だ」と指摘しているのが、いったい誰であるのかは明らかにされていませんが、当時の満州で事を進めていたのは、田中首相ではなく関東軍であり、関東軍高級参謀・河本大作の「張作霖は私が殺した」の手記は、下記のように始まっているのです。

” 大正十五年三月、私は小倉聯隊附中佐から、黒田高級参謀の代りに関東軍に転出させられた。当時の関東軍司令官は白川義則大将であったが、参謀長も河田明治少将から支那通の斎藤恒少将に代った。 そこで、久しぶりに満州に来てみると、いまさらのごとく一驚した。
 張作霖が威を張ると同時に、一方、日支二十一ヶ条問題をめぐって、排日は到る処に行われ、全満に蔓(ハビコ)っている。日本人の居住、商祖権などの既得権すら有名無実に等しい。在満邦人二十万の生命、財産は危殆に瀕している。満鉄に対しては、幾多の競争線を計画してこれを圧迫せんとする。日清、日露の役で将兵の血で購われた満州が、今や奉天軍閥の許に一切を蹂躙されんとしているのであった。…

 また、河本大作は、事件の前に知人宛に、具体的に張作霖の名前をあげて、「今度という今度はぜひやるよ」というような手紙を書き送っているといいます。

 さらに、張作霖爆殺事件の首謀者・河本大作の後任として関東軍に赴任した高級参謀板垣征四郎や作戦参謀石原莞爾と共に、柳条湖事件を首謀したとされる関東軍司令部付(奉天特務機関)花谷 正の「満州事変の舞台裏」と題する文章にも、下記のように河本大作の文章と同じようなことが書かれています。

” 長い年月にわたる中国の排日、張学良が奉天政権となって以来の満州全土にわたる侮日。日露戦争以来満州在住の父子二代の日本居留民は日常生活を脅かされ、日本政府の温和政策を非難し、日本内外物情騒然たる世相が続きこのままではとても収まるまいとは国民の勘で想像されていた。
 昭和6年9月18日夜勃発した満州事変に日本国民の血潮が沸き立たったのは当然であった。
 特に満州在住の一般市民、会社員、実業家、軍人、満鉄社員など興奮感激その極に達したことは現地にいた当時の者でなくてはちょっと想像されない程である。各地に日本人大会が開催され、この際徹底的に満蒙問題を解決し、武力衝突の起こった現在中途で姑息な妥協をしてはならぬ、との激しい叫びが全満に響きわたり奉天に出動しておる関東軍司令部へは非常な激励が続いた。

 したがって、「張作霖爆殺事件」を知って”田中首相も怒ったし、満鉄総裁の山本条太郎も「何をするんだ」と憤激していた”ということを書き残した、国民党の関係者が誰であるかは知りませんが、そうしたことは「張作霖爆殺事件」そのものとは、あまり関係のないことではないかと思います。
 当時、関東軍を率いた人たちが、参謀本部や陸軍省といった陸軍中央の国防政策から逸脱する作戦を展開することが多かった事実、そして「張作霖爆殺事件」や「満州事変」を独断で実行したとされる現地の関東軍関係者が、当時の満州をどのように捉え、何を考え、どうしようとしていたのか、ということこそが重要であり、そこから目を逸らすような会話は、いかがなものかと思うのです。
 
 資料1の『「河本大佐供述書」の信憑性』は、『日本よ、「歴史力」を磨け』櫻井よしこ(文藝春秋)から、資料2の「満州事変の舞台裏」は『「文藝春秋」にみる昭和史』第一巻から抜粋しました。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   「河本大佐供述書」の信憑性
中西 実は私は前々から単純に河本大作ら関東軍の仕業と言うには、国際的な背景が強すぎる、何かが今だに隠されているのでは、という心証を抱いていました。さらにごく最近、『蒋介石日記』(未訳)から明確になったことですが、張学良がすでに父作霖の爆殺の前年七月に国民党に極秘入党していた(産経新聞2006年4月17日参照)。これは爆殺の背景として、学良=蒋=コミンテルンのつながりを検討ぜざるを得ないことを意味しています。モスクワで息子を人質に取られている蒋が、ソ連とは「四・一二上海クーデター」以後も常に地下でつながっていたことを考えれば、これは爆殺問題に絡む重大な新事実です。

瀧澤 もともと日本犯行説は動機が薄弱だと指摘されていました。日本では田中義一首相はじめ、多くの政治家、軍人が張作霖との友好関係の維持を重視していましたからね。

北村 当時の日本側の政府首脳は事件に大変なショックを受けて、田中首相も怒ったし、満鉄総裁の山本条太郎も「何をするんだ」と憤激していたことは、台湾に逃れた国民党の関係者が書き残しています。関東軍の中堅がやったことになっていますが…。

瀧澤 関東軍高級参謀河本大作大佐ですね。でも、「私が張作霖を殺した」と題された彼の手記(「」文藝春秋」昭和29年12月号)とされるものもあやしいんですよ。この手記は河本の自筆ではなく、義弟で作家の平野零児が口述をもとに筆記したと言っているものですが、この義弟は戦後、中共の強制収容所に長くいたので、マインドコントロールをされていた可能性があるんです。平野は昭和31年に帰国していますが、河本自身は中国の太原収容所で昭和28年に獄死しており、口述テープがあるわけでもなく、本人の死後現れたものが手記と言えるのかどうか。
 ユン・チアンが「ソ連犯行説」の参考にしたのは、2000年にモスクワで出版されたコルパキヂとプロホロフの共著『GRU帝国第一巻』(未訳)です。GRUとはソ連諜報本部情報総局のことです。私はこの原著を読みましたが、『GRU帝国』は張作霖爆殺のソ連犯行説については次のように書いています。
 <「グリーシカ」機関の実行したいくつかの工作の中でも、いちばん世間を騒がせたのは1928年6月の張作霖爆殺であったろう。張作霖は北京政権を牛耳り、露骨な反ソ姿勢をとっていた。特別列車が爆破されたとき、張作霖の乗っていた車輌の隣の客車にはイワン・ヴィナロフ(エイディンゴンの部下)が乗車しており、事件現場の写真を撮った。謀殺は周到に計画され、日本軍の特務機関がやったように見せかけた>

北村 張作霖がソ連にかなり恨まれていたのは事実です。彼は北京を支配していましたが、1927年4月に北京のソ連大使館に踏み込み、国民党とソ連が組んでいることを示す証拠を押収したうえ中国語に翻訳して大部の冊子として公表していましたから、命を狙われる可能性はあったんです。

瀧澤 1920年代、30年代のソ連では暗殺は日常茶飯事。喜んでやるような連中がソ連諜報部にはたくさんいましたからね。当時彼らが実行した多数の謀殺行動の連鎖に、この事件はぴったりおさまります。同一犯人による殺傷方法の特徴をロシアでは殺しの「筆跡」と言いますが、まさに「筆跡」が一致するのです。ただ、ソ連犯行説も完璧ではありません。『GRU帝国』には情報の出所が明示されていないんです。プロホロフは元軍人なので、未公開文書に触れた可能性はあるものの、それについては本の中でも何も語っていない。私も裏付け情報が出るのを待っているのですが、出版から6年以上たっても出てきません。この部分の情報は、まだ全面公開が許可されていないのです。

伊藤 私はエイティンゴンが自分の手柄にするために、報告書でもデッチ上げて書いたんじゃないかという印象を受けましたね。

瀧澤 おっしゃる通り、仮にそうした文書が残っていたとしても、”偽の報告書”である可能性もあります。ソ連の情報機関は上からのプレッシャーが強く、手柄の奪い合いや粉飾が頻繁で、偽書も多いですから。

・・・以下略
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 昭和六年
                      満州事変の舞台裏
                                                      花谷 正
 長い年月にわたる中国の排日、張学良が奉天政権となって以来の満州全土にわたる侮日。日露戦争以来満州在住の父子二代の日本居留民は日常生活を脅かされ、日本政府の温和政策を非難し、日本内外物情騒然たる世相が続きこのままではとても収まるまいとは国民の勘で想像されていた。
 昭和6年9月18日夜勃発した満州事変に日本国民の血潮が沸き立たったのは当然であった。
 特に満州在住の一般市民、会社員、実業家、軍人、満鉄社員など興奮感激その極に達したことは現地にいた当時の者でなくてはちょっと想像されない程である。各地に日本人大会が開催され、この際徹底的に満蒙問題を解決し、武力衝突の起こった現在中途で姑息な妥協をしてはならぬ、との激しい叫びが全満に響きわたり奉天に出動しておる関東軍司令部へは非常な激励が続いた。
 兵力移動の輸送に任ずる満鉄鉄道部の現地職員の張り切り方は軍隊と競争であり、大連本社の職員の各種専門家連中も大連を飛び出して軍司令部へ来て何でも御手伝いをすると各人非常な意気込みである。我々軍の参謀連中もこれには感激させられて不眠不休懸命の努力を自ら誓った。日本における時の民政党政府若槻礼次郎内閣は幣原喜重郎外相、井上準之助蔵相の宥和政策に押され、南次郎陸相、安達内相、の強硬主張と対立し、内閣不統一の状態を続け、若槻総理にはこれを一に纏める力がなかった。外相からは満鉄に対して「事件不拡大、武力行使停止の考えだから満鉄は関東軍と一緒になって事件の進展を図らぬよう静観せよ」との電報があり、満鉄理事以上の重役は無風地帯の大連で傍観的の無為無策の態度を採った。
 もともと鉄道の警備、満鉄マンを含む在満日本人の生命財産の保護から端を発した事変に満鉄首脳部のこの態度を軍司令部内では不快に思い、一般居留民は憤慨していた。
 誰が言い出したか忘れたが一つ内田康哉総裁を奉天に引っ張り出し、おおいに軍司令官以下と現在および将来に関し胸襟を開いて協議させようではないかという事になり、非公式にこれを大連本社の者に伝えた。
 しかし出て来たのは副総裁の江口定条氏であり、本庄繁軍司令官、三宅参謀長と会って月並みの儀礼的挨拶があったばかり、林総領事とも会ってアッサリと大連へ帰った。事件の現在将来に関する政策的問題には少しも触れず負傷者の慰問さえもしなかった。そして江口氏は大連で、
「軍司令官や軍参謀長は老熟した人々で、わざわざ挨拶に来られた副総裁に怒りの色を表すなどはしたない事はされぬのは当然だ。また江口氏が満州政策などは持ち合わせのある人ではない事を知っておるためニコニコと愛想良く応接したに過ぎない。これで軍と満鉄とが良くいって居る証左とはいささか呆れる」
 との話を大連の満鉄社員倶楽部で社員連中にやらせた。
 もちろんこれが内田総裁や江口副総裁の耳に入った事は確かである。内田伯は日本内地、満州その他世界情勢の推移を静観しつつ今度の事変をいかに処理すべきであるかを毎日考えていたのである。一日、理事の十河信二を呼んで、
「東京の中央部と出先の関東軍との意見が不一致のまま、関東軍としては敵を前にし作戦を続けつつ電報その他で政府と意見調整を図っておるようであるが、軍は積極的であり、政府は事なかれ主義で収めんとし、現地の満鉄としては容易に動きが取れぬ。それで私が東京に行き政府の意見を聞き、満鉄社内の統一を計らねばならないと思うがどうか」
 といった。十河は、
「総裁は外相の職も経験済みであり、総理大臣代理もやられた日本の重鎮であり外交畑の大先輩です。若槻総理からも幣原外相からも現地の実情と、現在および将来に関する対策を質問されるにきまっております。現地においては何といっても在満二十万同胞の輿望をになって満州三千万人民の安寧を企図し、幾万の軍人と幾千のシビリアンの有志達を指揮しつつあるのは軍司令部なのです。しかも軍司令官は法制上、満鉄に対し軍事指示権を持つ機関です。従って軍司令部の意見というものを十分明らかにしておらねばなりません。ゆえにまず奉天に行き軍司令官と胸襟を開いて対策を検討せられ、しかる後東京政府と折衝して意見を十分述べられる事が必要であると思います」
 と主張した。内田伯ただちにこれに同意し、その旨奉天の関東軍司令部に電話すべく命じた。
 十河は附言して、
「非常に多くの満鉄社員が軍司令部に入って職員となり、事務室内で政策の立案から、現地の活動にまで死力を尽くして働いています。また参謀中に各種の立案画策に当たっておる者がいますから、ぜひこれらの者とユックリ懇談せられる必要があります。軍病院の戦傷患者の慰問もわすれぬのが肝要です」
 といい、内田伯はいちいちこれを了承して奉天へ向かったのである。

 奉天ヤマトホテルにひとまず落ちついた内田総裁は満鉄関係の人を呼んで奉天の情況、軍司令部の様子を聞いた上、本庄司令官を訪れ、事件発生以来の軍諸機関の敏速なる活動と機宜に適した数多の処置を賞讃し、その労苦と心労とを犒った上、三宅参謀長を交えて時局に対する要談をなし、軍病院に傷病兵を見舞い、ヤマトホテルの特別室に帰り、軍司令部の幕僚板垣征四郎大佐(後の板垣大将)石原完爾中佐、竹下中佐、それに私の四人に午後三時よりヤマトホテルで会見したいと申し込んだ。四人は快諾して約束の時刻に総裁の部屋を訪れた。私はまず地図を開いて満州全般にわたる日満両軍対立の状況、イルクーツク以東浦塩に及ぶソ聯軍の配置、熱河省以遠支那本部における張学良軍および南京政府軍の状況を述べ、この事変勃発を契機として日、満、漢、蒙、鮮五族を基幹とする民族協和の新天地を作り交通に産業に、政治に、教育に大発展をするような新国家を仕上げねばならぬ。もちろん日本は満州を領土とする
意志があってはならぬと結んだ。

 次いで、石原、竹下、板垣等がそれぞれ自らの経綸、抱負を述べたのであるが、この間、4時間以上にわたり熱心に聴いて居た内田伯はいちいち首肯し、「そのような諸般にわたる構想が練られ、他民族を含む多くの人々と、従前から交わりがひそかに結ばれ、強大な武力が現在までに把握せられ、諸計画の大綱が出来ておるとは夢にも知らなかった。
 私はかつて外務大臣もやり、総理大臣代理もした者でありながら、日本民族および満州三千万民衆を厚生さすそのような具体的な雄大な計画を考えたことも作ったこともないのは、まことに諸君後輩に対して面目次第もない。よく腑に落ちるように将来のことまで胸襟を開いて話して下さった。外国に対しては秘密なことばかりのようだが外務省はもとより、陸軍中央部でも一部の人々を除いて自分で研究し、立案して見識をもっておる人は少ないであろう。それだから事に当たって危ぶみ遅疑するのだ。私も老躯に鞭打ってただ今以後、関東軍に全幅の信頼を寄せ、満鉄の財産全部を投じても諸君に協力する同志となる。一緒に夕食を取ろう」
 別室に秘書がすでに食事の準備をさせていた。老伯爵は秘書に命じて、大コップとウィスキーとをボーイに出させ、
「この年になるまで、今日のような愉快な感じになった事がない。私の決心が決まった以上老躯を提げておおいにやるゾ、乾杯」
「私は陸大の学生で中尉の頃、閣下は外務大臣でした。その頃新聞や世間では閣下をゴム人形と申していましたネ。どうか上京せられましても総理や枢府の老人や元老に会われ、無為の安全論にヘコマヌようにお願いします。まことに失礼な言い分ですが」
「俺も九州男児じゃ」
 服の釦を外し下腹まで、出しポチャポチャ叩きながら微酔と共にますます上機嫌だ。子か孫のような者から何といわれても可愛くなったものらしい。老いの一徹、老人なかなか意気盛んだ、と感じた。
 辞去せんとすれば「今夜、この感激を乱さぬため他の誰とも会わぬ。皆一度に帰らず半数位は残れ」との事にて板垣大佐と筆者は残ってさらに歓談した。

花谷「この調子では現内閣は国民感情で押し潰され、次は政友会内閣となりますネ。犬養さんは孫文以来南方の支那要人と連絡が多いでしょうから支那と満州とをいかに調節するかの夢でも見ていますかネ」
板垣「日本の政局は国民感情もそうであるが一蓮托生であるべき閣僚の中から割れ、内閣不統一で若槻さんは投げ出すヨ。もうその臭いがするではないか」
内田「君らはまだ壮年の盛りだから臭覚もよいネ。至誠天に通じ、人に通ずるゾ。君らが退官して義勇軍を作るような破目にまで、政府が追い込まぬように私共老人が働くよ」
板垣「閣下御上京早々拝謁の御沙汰があるよう、その筋に電請しますよ。御下問に対し御奉答の件、あらかじめ想を練って置いて頂きたいのです」
内田「君らはなかなか同志がおり、各方面に連絡が出来るようになっておるのだネ、若い者は機敏だ」
花谷「少し事務的になって相済みませんが、臨時議会が開かれて臨時軍事費が令達されるまで、作戦軍部隊および軍需品の輸送費は後払い証という書類を駅か輸送事務所へ差し出すことで満鉄は軍隊輸送を担任して下さい、後日精算します。
 それから満鉄社員が奉天へはもちろん各地へ来て軍の職員となって働いています。本社へ辞表を出して来ている者も多いですが満鉄ではこれらの者を依然会社の籍に置いて出張旅費を支給してください。」
内田「よろしい、二三日以内に責任者を奉天に来させて軍司令部との打ち合せを実施させる。後の件は上級幹部の頭の問題で中級どころの若い人は眼を開かすとすぐ順応する柔軟さがあるよ、おおいに鼓吹する」
板垣「理事中二名位は奉天に常駐させて軍司令部と連絡し、おたがいに構想を練り軍事以外の事に関しては軍を援助指導する位の気位をもって接触してほしいものです」
内田「軍事と政治との関連性があるから、軍力の保護がなければ調査すら出来ぬであろうし、奥地に飛び込むには軍からピストルなどの武器を貸して貰う事もあろう。時には将校の軍服を借りて支那人と話さねばならぬ人もあろう。その辺の事は軍でもよく面倒を見てやって下さい。全幅の協力をさせます。日本民族未曾有の大事業です。なお、板垣君、ずいぶんいろいろの支那人を使ったり、降伏した奉天、吉林の旧敵軍を改編したり、兵器弾薬材料の処理に臨時人夫を傭ったり、大変な数の日支人を運用しますネ。
 しかしこの人件費や事業費が日本の臨時議会が開かれぬ間、第二予備金などを大蔵大臣が出し渋れば陸軍大臣も関東軍に予算を増加令達するのがむずかしく、陸軍省も関東軍も苦しんでおるでしょう。陸軍省の方は東京でも何とでもやり繰りがつくとして関東軍は大変だ。
 過渡期すなわち今が大変だ。これは満鉄が一時立替え援助します。経理担当理事に話して置きますからただちに連絡して下さい。こんな緊急事態は歴史上そうあるものではない、各方面が協力すべきです」
 さすが国務大臣をやった人だけに国政の事務的着眼もよい。百万の味方を得たような気がした。
内田「東京の青壮年の参謀将校や、部隊の元気な将校連中、大変な意気込みだそうだネ。安達謙蔵内務大臣など内閣がボヤボヤしておるため、これらの精鋭を越軌の行動に出させる事があってはならぬと善意から心配しておるらしいぞ
 安達も若い時新聞記者で朝鮮にいて閔妃のやり方が日本を排撃する禍根であると、宮殿に飛び込んで皇后を斬り殺した一味で、元来熱血漢だよ。時局を積極的に促進するように自分の民政党など割っても努めるだろう。月日の経過に伴って自然に内地もだんだんシコリがホグされて行くよ、天行は健なりだ」
板垣「国際連盟が理事会、総会と日本をおさえるため、ずいぶんやかましくいい、今後紆余曲折を経ねばなりませんネ、外交畑の大先輩として御意見いかがですか」
内田「もとより通信社や新聞、雑誌を賑やかにするね。しかし先刻君らが判断していたように極東の一角の事で列強が兵力を差し向けるような事は馬鹿馬鹿しくてやらぬネ。
 外交官は嫌がるだろうが、死にはせぬのだから孤軍奮闘、論駁、また論駁で意志鞏固に粘って貰わねばなるまい、いったんその決意に踏み切れば後は先方が寄ってたかって何と言おうと蛙の面に水サ。
 時に奉天の林総領事も外交交渉の相手はけし飛んでしまったし、目下は軍事行動中で、彼に作戦に関する知識がある訳ではないし、軍司令部に進言することも出来まい。
 情報を調べもせずに、外務省に通達する。それが陸軍省、参謀本部に伝えられ、逆に関東軍に東京から通報する。従って事実と違っておる事があるから、軍の方で憤慨したり笑殺したりするのだ。その結果、出先の協力一致が乱れ、外務省と陸軍省との一致が乱れる訳だ。
 軍は居留民の生命財産を武力的に保護してくれるから、各地の居留民は軍隊に親しみ、総領事館を罵倒する。これが日本人全体としての協力一致を破る。だから、私は外交畑の先輩として林君に、今こそ用事がないのだから賜暇休暇を取って日本に帰りノビノビとしておる時だ、と勧めたいと思う。それとも軍司令部の方で総領事に何か頼んで現地でやって貰わねばならぬ事があるかネ」
 もちろん我々としては何も依頼する事はなかった。何故ならば現地の陸軍は奉天政権の排日的横暴に在満同胞が衰え行くのを見て切歯扼腕、時の至るのを待っていたのである。特に若林大尉が鴨緑江上流の満州側で殺され、中村震太郎大尉が興安嶺で井杉と共に殺され、さらに万宝山事件があり、それらの交渉が奉天政権の不誠実で解決がつかぬ事を知って激昂していたのである。
 暴力で来る相手には力で当たらねばならぬ。これが事件勃発するや大河の決する勢いで敵に押しかかったのだ。
 しかも予後備兵を動員する事なく、常備兵で編制された戦闘部隊であるから、将校と下士官兵との間には、教官すなわち指導官という親しみがあり精鋭度が高かった。また国家としても動員費が要らず、糧食、弾薬の運搬も、親日支那人が引き受けた。機関銃や、馬や、弾薬や、小銃や迫撃砲も鹵獲兵器のみで補充し、日本内地からの輸送はまったくなかった。こんな手軽な戦争は外国人や素人にはちょっと分かり兼ねるであろう。いったん矢が弦を離れた以上、日本政府の幣原外相や井上蔵相や若槻総理は何を危ぶんで躊躇していたのか。
 内田康哉伯は奉天に住む日露戦争以来の老居留民や外務省出先官や有志の人々と会って三日の後出発、上京の途についた。
 伯爵からはしばしば電報による激励がなされ、「幣原その他に会った、遠き慮の策案がない、諸君の意志を枉(マ)げず邁進せられよ、途は自ら開ける」と逆に促されもした。伯は陸軍省、参謀本部の首脳者にも会い、対満強硬策を述べ、現関東軍を掣肘するな、と烈しく進言した。政治家に対しては日本民族発展の好機を逸するなかれ、と論じ、枢府の老人に対しては積極的に政府を鞭撻せよと唱えた。陸軍省、参謀本部の若い連中は百万の味方を得たりと喜んだ。
 天皇陛下および皇太后陛下には別々に拝謁御下問があった由。全国至るところの国民大会は若槻内閣打倒、満州事変完遂、外国怖るるに足らずを絶叫決議して内閣に迫ったため、若槻民政党内閣はつぶれ、後継内閣たる犬養政友会内閣に外務大臣として伯爵内田康哉の名が連ねられ、昭和七年春には日本国は新興満州国を承認した。
 満州事変初期において国策長く決定せず、対内的にも、対外的にも過渡的混乱期があったがこの際に於ける満鉄総裁内田康哉伯の功績を知る人々が少ない。
 後に筆者は松岡洋右氏にこの話をしたところ、「ゴム人形がそんなになられたか。余はあまり傑出した人とは思っていなかったが、国家の大事に臨んでのその認識、その信念は敬服すべく、賞讃すべきものであったと思う。
 犬養内閣の外相としての強硬な主張、国際連盟のリットン調査団に対する応答、満州国早期承認論など堅確な意志には驚いていたのだ」と滅多に人を褒めぬ松岡氏が感心していた。
 筆者は昭和十年政務班長として関東軍参謀に済南駐在武官から転任して行ったが、満州国が内田康哉伯を表彰するのを事務当事者が失念していたのでぜひ表彰すべきだと主張した。満州国政府は勲一位の勲章を伯の霊前に捧げた。                         (30.8)三十五大事件

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『マオ 誰も知らなかった毛沢東』 一部抜粋

2017年03月11日 | 国際・政治

 元自衛隊航空幕僚長の田母神俊雄氏やアパグループ代表の元谷外志雄氏が取りあげた『マオ 誰も知らなかった毛沢東』の著者は、「日本語版によせて」のはじめに、「この毛沢東伝は、十余年にわたる調査と数百人におよぶ関係者へのインタビューにもとづいて書き上げたものです。インタビューに応じてくださった方々は、中国はもちろんのこと、日本を含む世界各国に及んでいます。

 わたくしたちが新しく入手した情報は、多くが原資料によるものです。これによって毛沢東に関する新しい理解が得られ、また、毛沢東の重要な決定や政策を新しい角度から読み解くことができました」と書いています。毛沢東の生涯を辿り、その全体像を明らかにしようと、大変な作業をされたことがわかります。

 しかしながら、同書で取りあげられている「張作霖爆殺事件」をはじめとした個々の事件の記述には、様々な問題が含まれていると思います。日本では、「張作霖爆殺事件」に関しては、関東軍の当時の状況や文書資料、関係者の証言などをもとに、多くの歴史家や研究者が、事件の首謀者を「河本大作」であると認定するに至っています。そして、それが定説として認められています。河本大作の義弟・平野零兒氏によって残された「私が張作霖を殺した」という河本大作自身の口述も公にされています。
 社会科学の一分野としての歴史学で、定説に対する異論を展開する場合には、そうした研究を踏まえて、その問題点や誤りを指摘し、深化・発展させるものでなければならないと思います。
 したがって、定説とは無関係に、『マオ 誰も知らなかった毛沢東』の本文を補足するかたちで、下記のように、★印を付けて小書きされた文章をもとに、「張作霖は、スターリンの命令で爆殺された」と結論づけるようなことは、あってはならないと思います。

 「張作霖爆殺事件」のような謀略の歴史的事実について、「ソ連情報機関の資料」をもとに、定説に対する異論を展開するのなら、「史料批判」は欠かせない作業であり、その史料が信頼できるものなのか、その客観性や確実性を、様々な文書資料や証言、時代背景などをもとに検証する必要があるのではないでしょうか。そして、「ソ連情報機関の資料」に基づく歴史と、日本の歴史家によって定説とされた歴史のどちらが正しいのかを確定してゆく作業がなければならないと思います。そうした作業をなすことなく、元自衛隊航空幕僚長の田母神俊雄氏やアパグループ代表の元谷外志雄氏のように『マオ 誰も知らなかった毛沢東』のなかで、★印を付け小書きされた文章を根拠に、「張作霖は、スターリンの命令で爆殺された」というのが、あたかも「正しい歴史」であるかのように主張するのは、いかがなものかと思います。

 さらにつけ加えれば、『マオ 誰も知らなかった毛沢東』のなかには、下記に抜粋した文章のように、「この交換条件は、スターリンにとって非常に魅力的だった。とくに、中国が日本と全面戦争に突入というのは、クレムリンの首領には願ってもない話だった。日本は1931年以来中国を蚕食しつづけていた。中国東北を併合したあと、日本は1935年11月に華北にも別の傀儡政権を作ったが、それでも蒋介石は対日全面戦争に踏み切ろうとしなかった。スターリンは、いずれ日本が北へ転じてソ連を攻撃するのではないかと心配していた」というような表現が、そこここに出てきます。でも、著者はスターリンからそういう内容の話を直接聞いて書いたわけではありません。「張学良は大総統に取って代わろうと企んでいた。英仏を合わせたよりも広い東北を治めてきた張学良としては、蒋介石の配下に甘んじることは面白くなかった。張学良は中国全土を支配したかったのである」などという文章も、私は同じではないかと思うのですが、著者は、スターリンや張学良の気持ちを推察して書いているのだと思います。でも、多くの人に読んでもらおうとする「伝記」では許されても、社会科学の一分野としての歴史学の書では、そうした推察を事実であるかのように記述することは、許されないことだと思います。「推察」は、「推察される」というような表現にするか、あるいは推察の根拠をその都度きちんと示さなければならないと思います。したがって、「張作霖爆殺事件」のような謀略の歴史的事実について、『マオ 誰も知らなかった毛沢東』を拠り所にするのには、歴史学上は慎重であるべきだと思います。

 コロンビア大学のトマス・バーンスタイン教授は、同書について「彼らの発見の多くは確認不可能なソースからのものであり、他は公然とした推論あるいは状況証拠に基づき、いくつかは事実ではない」というような指摘しているといいます。私は、踏まえておくべきではないかと思います。

 下記は、『マオ 誰も知らなかった毛沢東』ユン・チアン/ジョン・ハリディ/土屋京子訳(講談社)から、張作霖爆殺事件「ソ連特務機関犯行説」に関わる「第十六章 西安事件」の一部を抜粋したものです。
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                        第三部
                     第十六章 西安事件
                   1935~36★毛沢東41~42歳
 1935年10月、長征の末に毛沢東が黄土高原にたどりついたとき、とりあえず生きのびること以外に毛沢東が目標としたのは、ソ連支配地域までのルートを開拓することだった。そうすれば、武器その他の支援物資を受け取って勢力を拡大できるからだ。一方、蒋介石のほうは紅軍を柵の中に封じておきたいと考え、その任に少し前まで中国東北の軍閥だった「少帥」こと張学良を指名した。張学良は陝西(シャンシー)省の省都西安に司令部を置いていた。毛沢東の根拠地も同じ 陝西省で、西安からは北に300キロほど離れていた。
 武器の引き渡しに使えるソ連支配地域は二つあった。ひとつは新疆(シンチャン)で、根拠地から西北西へ1000キロ以上離れている。もうひとつは外モンゴルで、真北に500キロ強の距離にある。張学良率いる約30万の大軍は、この両方面を制する位置に駐留していた。
 張学良のアメリカ人パイロット、ロイヤル・レナードは、この世慣れた人物の横顔を、「わたしが最初に受けた印象は……まさにロータリー・クラブの会長、という感じだった。恰幅が良く、羽振りが良く、くつろいだ愛想の良い物腰で……わたしたちは、ものの五分で友だちになった……」と書き残している。東北軍閥の父張作霖(「大帥」)が、1928年6月に暗殺された★あと、張学良は父親の地盤を引き継いで中央政府に帰順し、そのまま東北の支配者としてとどまった。1931年に日本が東北を侵略すると、張学良は20万の軍を率いて関内(長城以南)に退き、その後さまざまな重要ポストを蒋介石から与えられた。表向き、張学良は蒋介石夫妻と親密な関係を装っていた。蒋介石より13歳年下の張学良は、蒋介石を「自分の父親同然に思っている」と公言していた。

 ★張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという。

 しかし、蒋介石の背後で、張学良は大総統に取って代わろうと企んでいた。英仏を合わせたよりも広い東北を治めてきた張学良としては、蒋介石の配下に甘んじることは面白くなかった。張学良は中国全土を支配したかったのである。そのために、張学良はヨーロッパに滞在中の1933年、ソ連の人間に近づいて訪ソを打診した。が、ソ連側はこれを警戒し、張学良の申し入れを断った。わずか4年前の1929年にスターリンが中国東北に侵攻し、その後中東鉄道の強行接収をめぐって、ソ連は短期間ながら張学良と戦火を交えたばかりだった。しかも、張学良はファシズムを賞讃する発言をし、ムッソリーニと家族ぐるみの親しい関係にあった。1935年8月に中国共産党の名でモスクワから出された声明は、張学良を「敗類(くず)」「売国奴」と呼んでいた。
 ところが、その年の後半に張学良が毛沢東の見張り役に任命されると、モスクワの態度が一変した。張学良のさじ加減ひとつで中国共産党の置かれた状況が好転し、さらにソ連からの支援物資受け取りも容易になるということで、張学良はモスクワにとって価値ある存在になったのである。毛沢東が陝西省の根拠地に到着して何週間もたたないうちに、ソ連の外交官は張学良(チャンシュエリアン)と踏み込んだ話し合いを進めていた。

 張学良は、上海や主都南京(ナンチン)に足を運んでソ連と秘密裏に協議を進めた。カムフラージュのため、張学良はプレーボーイの評判を利用してわざと軽薄な行動を見せた。アメリカ人パイロットは、ある日、張学良から「飛行機を垂直バンクで飛ばしてくれ、と頼まれた。片翼を街路につっこんだまま、友人らが逗留しているパーク・ホテルの前を飛んでくれ、というのだ。われわれの乗った飛行機は、ホテルの正面から三メートルもないほど近くを飛んだ。モーターの爆音が窓ガラスをカタカタと鳴らした」と回想している。この派手なショーをやってみせたとき、ホテルには張学良の女友達の一人が宿泊していた。「こんなことを言うと、あなたは笑うでしょうけれどね」と、1993年、九十一歳になっていた張学良は著者に話してくれた。「当時、戴笠(タイリー)[国民党特務の大物]は必死になってわたしの居所を探していました。で、わたしが女の子たちといいことをしていると思っていたようです。だが、実際には、わたしは密談していた…」
 張学良はソ連に対して、中国共産党と同盟する用意があること、しかも、「日本との決戦」に臨む--すなわち蒋介石が渋っている対日宣戦布告をする--用意があることを、はっきりと伝えた。そして、それと引き換えに、自分が蒋介石に代わって中国の支配者になるための後押しをしてほしい、と求めた。
 この交換条件は、スターリンにとって非常に魅力的だった。とくに、中国が日本と全面戦争に突入というのは、クレムリンの首領には願ってもない話だった。日本は1931年以来中国を蚕食しつづけていた。中国東北を併合したあと、日本は1935年11月に華北にも別の傀儡政権を作ったが、それでも蒋介石は対日全面戦争に踏み切ろうとしなかった。スターリンは、いずれ日本が北へ転じてソ連を攻撃するのではないかと心配していた。
 スターリンの狙いは、中国を利用して日本を中国の広大な内陸部へおびきよせ、泥沼にひきずりこむこと、そして、それによって日本をソ連から遠ざけることだった。モスクワは自らの狙いを包み隠したまま中国国内における対日全面戦争の気運を煽ることに力を入れ、大規模な学生デモに手を貸した。また、ソ連のスパイ、とくに孫文(スンウェン)夫人で蒋介石の義姉にあたる宋慶齢(ソンチンリン)は、圧力団体を結成して南京政府に行動を求めた。
 蒋介石は日本に降伏する気はないものの、宣戦布告する気もなかった。現実的に見て中国に勝ち目はなく、日本と対決すれば中国の破滅につながると考えていたからだ。そこで、蒋介石は降伏するでもなく全面戦争に出るでもない、きわめて異例などっちつかずの態度を選んだ。それが可能だったのは、中国が途方もなく大きく、また、日本が徐々にしか侵略してこなかったからである。蒋介石は、そのうちに日本がソ連のほうを向いて中国のことを忘れるのではないか、という希望さえ抱いていたかに思われる。
 張学良の提案はソ連にとって好都合だったが、スターリンは張学良を信用していなかった。かつての東北軍閥ごときに中国を統(ス)べて対日全面戦争を戦うほどの力量があろうとも思っていなかった。もし、中国が内戦状態に陥ったら、かえって日本に征服されやすくなる-そうなれば、ソ連にとって日本の脅威が倍加するだけだ。
 とはいえ、モスクワも張学良の提案を即座にはねつけるほど単純ではない。ソ連は提案を検討するふりを装って、気を持たせつづけた--ー張学良(チャンシュエリアン)から中国共産党に対する協力をひきだすためである。ソ連の外交官は張学良に対し、秘密裏に中国共産党との直接コンタクトを確立するよう指示した。中国共産党の交渉担当者と張学良との第一回目の話し合いは、1936年1月20日におこなわれた。
 ・・・(以下略)

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張作霖爆殺事件 河本大作義弟・平野零兒の証言

2017年03月03日 | 国際・政治

 繰り返しになりますが、米国をはじめとする海外の歴史家や日本研究者ら187名が、連名で「日本の歴史家を支持する声明」を発表するに至ったのは、安倍政権が、これまで「従軍慰安婦」問題をはじめとする歴史の問題にきちんと向き合おうとせず、国連人権委員会の勧告や諸外国の議会決議を無視し、逆に日本に不都合な史実を覆そうとする歴史修正主義的な姿勢を見せているからだと思います。

 そうした安倍政権の姿勢が影響しているのでしょうが、ビジネスホテル大手のアパグループが客室に日中戦争中の南京大虐殺を否定したり、「従軍慰安婦」の存在を否定したりする本を置いているとして、同社を非難する声が上がり、国際問題にまで発展してしまいました。
 中国国内の予約サイトがアパホテルのボイコットを決定し、中国外務省も、「日本の一部勢力がいまだに歴史を直視しようとせず、さらには否定し、歴史を歪めようとさえしていることが、またもや示された」と発表したのです。
 韓国のオリンピック委員会を兼ねる大韓体育会も、札幌市における冬季アジア大会での韓国選手団の宿泊先の変更を要請し、同市のアパホテルから札幌プリンスホテルに変更されたといいます。また、ソウル聯合ニュースは、誠信女子大教授が、日本のビジネスホテルチェーン、アパホテルの今後の利用自粛を韓国国民に呼び掛ける運動を行うと明らかにした事実を伝えています。
 問題となっている本はアパグループの元谷外志雄代表の著書ですが、同書の中の近現代史にかかわる部分について、アパグループのホームページには

本書籍の中の近現代史にかかわる部分については、いわゆる定説と言われるものに囚われず、著者が数多くの資料等を解析し、理論的に導き出した見解に基づいて書かれたものです。国によって歴史認識や歴史教育が異なることは認識していますが、本書籍は特定の国や国民を批判することを目的としたものではなく、あくまで事実に基づいて本当の歴史を知ることを目的としたものです

とあります。
 私は、定説を覆し、「本当の歴史」を主張するのであれば、元谷外志雄氏が自らの見解を展開するだけではなく、多くの歴史家や研究者によって確立された「定説」の誤りや矛盾を、きちんと指摘する必要があると思います。定説を無視して、自らの見解を「本当の歴史」と主張することはできないと思うのです。

 例えば、張作霖爆殺事件の首謀者は、関東軍高級参謀河本大作であることが日本では定説となっていますが、元谷外志雄氏は『マオ 誰も知らなかった毛沢東』ユン・チアン/ジョン・ハリディ/土屋京子訳(講談社)の中の下記の文を引いて、この文章の記述が「本当の歴史」であると主張しているようです。

張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロッキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍のしかけにみせかけたものだという。”

 でも、『マオ 誰も知らなかった毛沢東』は、毛沢東を取り巻く様々な人の証言をもとに、毛沢東の生涯を描くことがねらいで、個々の歴史的事実を研究対象とするものではないため、上記の文章は、本文を補足するかたちで、★印を付けて小書きされたもので、「ソ連情報機関の資料」というものが、どこに保存されていた、どういう資料であるのか、また、どのような経緯で張作霖爆殺が実行されたのか、命令に関係した人物や実行した人物の証言は存在するのかなどについては、何も触れられていません。さらに、情報源を明らかにすることなく、「日本軍のしかけにみせかけたものだという」と、伝聞であることを示す表現をしています。たったこれだけの、それも小書きの文章で、多くの資料や関係者の証言を基に、歴史家が歴史的事実とした日本の定説を覆してしまうことは、とても無理であると思います。

 また、張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説を最初に主張したというドミトリー・プロホロフ、ロシア人歴史作家も、「ソ連特務機関犯行説」の根拠が「ソ連共産党や特務機関の秘密文書を根拠とする」ものではなく「ソ連時代に出版された軍指導部の追想録やインタビュー記事、ソ連崩壊後に公開された公文書などを総合し分析した結果から、張作霖の爆殺はソ連特務機関が行ったのはほぼ間違いない」と、彼が自分自身で推察したものであることを明らかにしているといいます。したがって、「スターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴンが計画し、日本軍のしかけにみせかけた」という決定的な「ソ連情報機関の資料」というものは、発見されていないということではないかと思います。
 ドミトリー・プロホロフという人物が、当時の関東軍内部の動きはもちろん、当時の日本軍の様々な命令文書や関係者の証言を十分踏まえた上で、「ソ連特務機関犯行説」を主張しているのか、気になるところです。

 下記は、河本大作の「私が張作霖を殺した」に関わる義弟・平野零兒の記述です。歴史家や研究者が明らかにした当時の満州の歴史的事実と矛盾のない記述だと思います。 「目撃者が語る昭和史第3巻 満州事変」新人物往来社から抜粋しました。
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                      戦争放火者の側近
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戦争敢行者 ・・・略
河本大作の口述
 私は河本と共に中共で戦犯として罪に坐した。彼は日本で開かれた国際軍事裁判でもA級戦犯になるだろうと、私は敗戦直後には思っていたが、一時証人に出廷させるか否かが、田中隆吉の証人出廷の時に問題になった程度で、敗戦後も日本の復興を企図して山西に残って、梟雄軍閥閻錫山の顧問となって、多くの日本人を残留させたが、当時の蒋介石等国民党軍は、 閻錫山の庇護によって、中国の戦犯にも扱わなかった。ある時国民党政府から、一応の訊問に形式的にやってきたが、ことなく帰ってしまった。
 解放になって二日目、河本は西北公司の総顧問の机を整理し、解放当局の接収組に引き継ぎをやっているところを、太原公安局第三科に連行された。第三科は戦犯や、反革命者の取り調べを受けるところで、後には審訊科と名まえが変わった。その後一ヶ月余り経って、私は三科の科長から、私が書いた「河本大作伝稿」の提出を求められた。これはかつて私が河本の口述を基として筆録したもので、その一部分は私の不在中、その稿本のプリントの一部が、当文藝春秋誌上に河本大作手記として『私が張作霖を殺した』という一文となって、発表されたことを帰国してから知った。当時私はこの記録を、主として張作霖爆死事件を秘録として書いたので、そのコピーは、伝記の依頼者であった昭徳興業株式会社の重役で九州大学医学部教授故高岡達也医学博士に一部と河本の家族のもとに一部、そして太原へは私が一部を保存したもので、本誌に掲載された資料は、家族の保存した分を戦後私の友人Oが、これを文藝春秋社に提供したものであったと知れたが、私の保存した分は解放直後に証拠になると思って、私は社宅のカマドで焼却してしまっていた。
 太原公安局で河本は、自己の経験全部の坦白を命じられ一切を供述して書いたが、その真実を裏付けるため、私が比較的正確な彼の伝記を所持していることを申し出たので、公安局は私にその提出方を要求したのであったが、その始末なので、私は執筆者として、記憶をたどり改めて書いて出すことにした。そのため私は前後八ヶ月、公安局に拘留を受け、そこでこれを認めた。この時には、私は河本の大きな罪悪の秘密はやはり張作霖事件が最も重大と思っていた。しかし実際は中国にとっては、河本に対して張作霖事件は、あまり問題ではなかった。それは張作霖事件は、当時にあっては某重大事件として、国の内外には大きな問題であったが、国際裁判では、戦争犯罪は大体1931年以後の問題を取り上げることになっていて、それ以前には遡らないことになっていたからであった。張作霖事件は、1928年6月のことに属するからである。解放後の中共当局でも張作霖事件については、私が考えていたほどこれのみを重要視はしていなかった模様であった。


河本の大陸雄図
 彼は確かに張作霖事件によって、その存在が世間的に一部には知られたが、陸軍部内の大陸派として、中国に対しては古くから侵略的野望を抱いていた。それは日本の国家のため、東洋の平和のためという盲信のもとに彼は、日露戦争の陸軍少尉として遼陽の戦いで負傷した後、講和後、明治39年、鉄道警備に当たった安奉線陽山の守備隊長から更に安東守備隊副官となった時代に既にその思想を強く抱いた。
 話は古くなるが、明治36年、日露の風雲急なとき、帝政ロシアの陸相クロパトキン将軍が日本へ来た。時の日本陸相寺内正毅は、小石川砲兵工廠内の後楽園で招宴を開いたことがある。この時寺内陸相は、クロパトキンに、砲兵工廠で打った村田刀を贈ったので、クロパトキンはよろこんで、これを抜いてコウコウたる刀身に見惚れていると、たちまち一天かき曇り、豪雨が降ると共に、激雷が園内の老杉に落ちた。クロパトキンは思わず抜身の刀を取り落とした。河本は士官学校の学生として参列してこの光景を見て、「これは日本は勝つ」と思ったという。そして、『今にこいつと戦ったやるんだ』と力み、戦争になったら軍事探偵をなろうと決心し、シベリアを放浪せねばならぬと、気候の似ている寒い北海道を歩いて偵察の下稽古をやったりした。安東守備時代には、日露の戦いの中で、東亜義軍というのを組織して馬賊を率いて暗躍した橋口中佐に憧れていたが、当時橋口と共に有名だった「花大人」の花田中佐の部下で大久保彦左衛門の末孫だという大久保豊彦が、当時間島が朝鮮のものか、中国のものかという問題の帰属が明らかでないのを、武力で占領してしまうほかないが、それには日本の正規軍がやっては面倒だと、三千の馬賊の頭目である楊二虎に占領させる陰謀をはかっている。それの参謀が必要なので、河本を誘いに来た。河本は渡りに舟と、心を躍らせ、宿願なれりと承諾し、詳しい計画を聞くと、軍資金は三道浪頭の銅山と寛旬県孔雀石礦山を掠め、武器はドイツのシーメンス・シュッケルト会社から買う密約ができているというのであった。そこで河本は、本渓湖に近い橋頭駅の上流約一里半の白雲塞の山塞に行った。彼は日本軍の軍紀に触れねば、そのまま馬賊の参謀になってしまったのだが、守備隊から連れ戻されて失敗に終わった。
 
 彼の大陸の夢はこの時からの連続で、彼の一生を支配したといってもいい。後に陸軍大学在学中に組織した大陸会というのも、第二の日露戦争を企図し、蒙古に根拠を置き、いざとなったらシベリア鉄道を破壊しようと、盟約を結ぶ秘密結社を作り、陸軍青年将校を糾合した。そのうちの一人であった、三村豊少尉が、その頃威を張り出した張作霖を殺そうと、奉天小西辺門で、張作霖に爆弾を投じたが失敗した事件もあった。陸大を出ると漢口派遣軍司令部付参謀大尉となって赴任した頃第一次世界大戦が勃発した時であったが、雲南に起義した葵鍔と唐継堯が三回目の革命を企図したので、当時の大隈内閣は、密かに袁世凱を倒し、葵鍔を助ける政策をとった。河本はその密約を受けて、袁の股肱、曹錕を総帥として幕下に呉佩孚・馮玉祥と共に揚子江を逆航して四川に向かおうとする蔡の進軍を阻もうとするのを助けるために四川に潜行し密かに蔡に有利な条件を作った。そして各所に蜂起した雲南軍に呼応する重慶の周道剛、北方軍の中で蔡の方へ寝返った劉存厚、四川の陳宦の孤立などが縁となって、一時雲南軍の天下となったことがあった。ところが、元来中国軍閻間の争覇をねらって、日本の地歩を占めようとした、一貫した方針のほかには、これを手玉にとって自由に陰謀をめぐらせることのみであった日本の軍部は、袁が死し、段祺瑞の天下に移ると、南北がまた対立し、そこへ張勲等の復辟に名をかる出現があり、中国の内戦は、日本の思う壺にはまった。段が張勲討伐を始めた時、日本の中央は援段方針をとったので、この内戦の死命を制する雲南軍を制討するために河本をして劉存厚を操らせて、遂に雲南軍を鎮圧せしめた。


河本大佐へのアクセサリー
 昨日助けた雲南軍を今日は制する道義を破った行動は、河本も気が進まなかったが、上原元帥に、国策と私情は別だと諭されたのだと述懐している。その後のシベリア出兵には、大谷軍司令官の下に参謀として従い、帰還すると参謀本部の演習課員を経て、大正十年北京公使館付武官となり、中国各地を探り、青海と西蔵を残したほかは悉く踏破し、参謀本部に転帰して支那班長となった。
 その間に部内にはびこった、薩長の陸軍といわれた部内の派閥が、さらに石川、佐賀閥を加えたのに対抗するための秘密の会を組織し、渋谷の道玄坂の仏蘭西料理屋「二葉」に同志が会合した。小畑敏四郎、磯谷廉介、永田鉄山、板垣征四郎、岡村寧次、山岡重厚、後輩の東条英機、山下奉文等に上級では、荒木貞夫、真崎甚三郎、などとも連繋があったが、ほかに鈴木貞一、黒木親慶、小笠原数夫などを始め全国的に青年将校とも結び、閥族的色彩があるものの陸大入学を阻止したりして暗躍し、そのうちに一旦小倉の連隊付中佐に左遷されたが、間もなく関東軍高級参謀に就任して、大陸を舞台とすることになった。その後に起こったのが、張作霖事件である。
 私が河本大佐のアクセサリーになったのは、この頃からである。…
 ・・・以下略

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