真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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機密戦争日誌8月9日から15日 NO2

2021年06月27日 | 国際・政治

 先日、最高裁大法廷が、 ”夫婦別々の姓(名字)での婚姻は認められない、夫婦同姓を定めた民法などの規定は、憲法24条の「婚姻の自由」に違反しない”との判断を示しました。裁判官15人のうち11人が、夫婦同姓を定めた民法を「合憲」とし、4人が「違憲」としたとのことです。日本の裁判官の多くも、自民党政権中枢と同じように、個人の尊厳を基本原理とする国際社会の民主主義の歩みと逆方向を向いているのを感じました。

 どう考えても、夫婦同姓を義務づけることは、「法の下の平等」を保障する憲法14条や「婚姻の自由」を定めた24条に反するばかりではなく、国際連合憲章などに基づき、あらゆる男女差別を禁じた国際条約、「女子差別撤廃条約」や「国際人権規約」にも反すると、私は思います。

 「女子差別撤廃条約4部第16条の(g)には、守るべき権利の一つとして、”夫及び妻の同一の個人的権利(姓及び職業を選択する権利を含む。)”とあります。それらが法的に認められていないので、国連女性差別撤廃委員会は、日本政府に対し、選択的夫婦別姓を認めるように勧告しているのだと思います。夫婦同姓を義務づけている国が、他にないことも見逃せません。

 また、国際人権規約の第一条【人民の自決の権利】に”すべての人民は、自決の権利を有する。この権利に基づき、すべての人民は、 その政治的地位を自由に決定し並びにその経済的、社会的及び文化的発展を自由に追求する。”とあります。だから、自らの「姓」を決定することは、自決権の行使だと、私は思います。

 でも、日本ではいまだに、結婚したら女性が姓を変えることが当たり前であり、性別による役割分担意識が強く、”夫は外で働き,妻は家庭を守るべきである”という考え方に基づくさまざまな制約が、女性に多くあると思います。だから、女性の社会的地位や、政治的・公的分野における参画率も低く、「経済」「政治」「教育」「健康」の4つの分野のデータから作成された世界経済フォーラムのジェンダーギャップ指数でも、日本は156か国中120位という結果だったのだと思います。

 また、しばしば、「人権後進国」ともいわれたりします。

 

 でも、なぜ大日本帝国憲法を一新し、他国の憲法に比べて人権規定が多いといわれる「日本国憲法」のもと、著しい経済成長を遂げた戦後の日本が、いまだに、そういう状態にあるのでしょうか。

 私は、それを知る手掛かりの一端が、「神道政治連盟」の「綱領」にあると思います。『ウィキペディア(Wikipedia』によると、神道政治連盟設立時(1969年)の綱領は、以下の5項目だといいます。

1、神道の精神を以て、日本国国政の基礎を確立せんことを期す。

2、神意を奉じて経済繁栄、社会公共福祉の発展をはかり、安国の建設を期す。

3、日本国固有の文化伝統を護持し、海外文化との交流を盛んにし、雄渾なる日本文化の創造発展に  

  つとめ、もつて健全なる国民教育の確立を期す。

4、世界列国との友好親善を深めると共に、時代の幣風を一洗し、自主独立の民族意識の昂揚を期す。

5、建国の精神を以て、無秩序なる社会的混乱の克服を期す。

 そして、安倍前総理が会長を務める「神道政治連盟国会議員懇談会」には、圧倒的多数の自民党国会議員や閣僚が所属しているのです。

 上記のような綱領をもって、選択的夫婦別姓制度の導入に反対しつつ、日本を戦前の「神話的国体観」に基づく国に戻そうと、大勢の人々が日々活動しているのですから、ジェンダーギャップ指数の低迷も不思議ではないと、私は思います。

 

 自民党の「日本国憲法改正草案 Q&A」の「5 国民の権利及び義務」に、下記のようにあります。”権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたものです。したがって、人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要だと考えます。現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました。

 この内容は、神道政治連盟の綱領をやさしく言い換えたようなものだと、私は思います。

 そしてそれは、1945年8月、ポツダム宣言受諾を拒否することによって、日本の降伏を阻止しようと軍事クーデターを企図した陸軍省軍務局軍事課の若い将校達(稲葉中佐、井田中佐、竹下中佐、椎崎中佐、畑中少佐等)が堅く信じていた「神話的国体観」の延長線上にあると、私は思います。当時、「教育勅語」や「軍人勅諭」の教えを深く学んだ若い将校達には、「国体護持」のために、ポツダム宣言受諾派の要人を殺害することも、戦地で日本兵が亡くなることも、原爆や空襲で一般国民が亡くなることも、やむを得ないことだったのだと思います。井田中佐、竹下中佐、畑中少佐は、皇国史観の教祖と言われた平泉澄の直門であったと聞いています。

 下記にあるような、”仮令(タトヘ)逆臣トナリテモ、永遠ノ国体護持ノ為、断乎明日午前、之ヲ(軍事クーデター)決行セムコトヲ…”というような考え方は、骨の髄まで「神話的国体観」が沁み込んでいた証しだと、私は思います。

 私は、そうした「神話的国体観」が、いまだに日本で隠然と生き続けており、当時の若い将校を含む戦争指導層の思い受け継いでいる自民党政権中枢の政治家や、自民党政権中枢で活動したい政治家は、そうした「神話的国体観」を切り捨てることができないのだろうと思います。したがって、自民党政権中枢に関わる政治家にとっては、GHQの指導によって生まれた戦後の民主主義の日本が、受け入れ難いということであり、選択的夫婦別姓導入の問題も、単なる法律論ではなく、「神話的国体観」に基づく「家族国家」存亡の問題なのだと思います。

 神政連のホームページには、「神政連が目指す国づくり」の一つとして、”日本を守るために尊い命を捧げられた、靖國神社に祀られる英霊に対する国家儀礼の確立をめざします。”とあります。将来的には、GHQの神道指令を覆し、東京裁判で裁かれた戦犯の、名誉の回復を目指しているのだろうと思います。

 下記は、「大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌 下」軍事史学会編(錦正社)のなかの、813日から15日の部分を抜萃したものですが、阿南陸相の自決の様は、「神話的国体観」がどのようなものであるか、ということをよく示していると、私は思います。(一部数字を漢数字や算用数字に変更しています)

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     機密作戦日誌 (自 昭和二十年八月九日 至 昭和二十年八月十五日)

                           軍務課内政班班長 竹下正彦中佐

 

   八月十三日 火[月]曜

一、朝、菅波三郎氏ト共ニ、大臣ヲ官邸ニ訪問。特ニ大臣ハ内大臣邸ニ行キ不在ナリ。帰来ヲ待チ、最高戦争指導会議出  席前小時ヲ、自動車側ニテ立話シス。三笠宮殿下、木戸[幸一]、共ニ動カズ。三笠宮殿下ハ、大臣ニ対シテモ、相当強ク云ハレシ模様ナリ。サレド大臣ハ、コノ憂愁ニ拘ラズ、予ヲ見ルヤイツモノ微笑ヲ以テ迎ヘ、予ヲ麾(サシマネ)キテ簡単ニ立話セラレタリ。

二、吾等少壮組ハ、情勢ノ悪化ヲ痛感シ、地下防空壕ニ参集、真剣ニクーデターヲ計画ス。竹下、椎崎、畑中、田島、稲葉、南[清志]、水原[治雄]、中山安[安正]、中山平[平八郎]、島貫[重節]、浦[茂]、国武[輝人]、原等、二、三課、軍務課ノ面々ナリ。竹下ヨリ大綱ヲ示シ、手分ケシテ細部計画ヲ進メ、更ニ秘密ノ厳守ヲ要求ス。

今ヤ吾人ハ、御聖断ト国体護持ノ関係ニ附、深刻ナル問題ニ逢着セリ。計画ニ於テハ要人ヲ保護シ、オ上ヲ擁シ聖慮ノ変更ヲ待ツモノニシテ、此ノ間国政ハ戒厳ニ依リテ運営セムトス。

三、此ノ日、吉本重章大佐、軍務課長ニ補セラレ著[着]任。恰モ前課長永井[八津次]少将モ本日帰京。急ニ頭ガ揃ヒタリ。吉本大佐ハ詔書必謹、山田成利大佐ハ態度明瞭ナラザリシモ、課長著[着]任スルヤ詔書必謹トナル。

四、夕方米紙ニューヨークタイムス及ヘラルドトリビューン両紙ノ、日本皇室ニ関スル論説放送アリ。皇室ハ廃止セラレルベシトノ露骨ナルモノナリシヲ以テ、大イニ喜ビ急遽印刷ノ上、閣議席上ノ大臣ニ届ケタレドモ──山田大佐持参──迫水、閣議中配布セザリシ由ナリ。

五、三笠宮殿下、吉本課長ト山田大佐ヲ呼ビ、例ノ調子ニテ陸軍ヲ責メ、特ニ陸軍大臣ノ態度ハ聖旨ニ反シ不適当ナリト云ハレシ様ナリ。

課長ハ陸軍ノ自粛等諒承セルモ、陸軍ノ主張ハ真ニ国体ヲ思フ切々ノ至情ニ出ヅル点、御諒承願ヒ度旨申上ゲテ帰ル。

六、夜、竹下ハ稲葉、荒尾大佐ト共ニ、「クーデター」ニ関シ、大臣ニ説明セント企図シアリシ所、20:00頃閣議ヨリ帰邸セル大臣ヨリ招致セラレ、椎崎、井田ト共ニ、仮令(タトヘ)逆臣トナリテモ、永遠ノ国体護持ノ為、断乎明日午前(始メノ計画ハ今夜十二時ナリシモ、大臣ノ帰邸遅キ為不可能トナル)、之ヲ決行セムコトヲ具申スル所アリ。大臣ハ容易ニ同ズル色ナカリシモ、「西郷南州ノ心境ガヨク分ル」、「自分ノ命ハ君等ニ差シ上ゲル」等ノ言アリ。時々瞑目之ヲ久シウセラル。十時半頃散会トシ、一時間熟考ノ上、夜十二時登庁、荒尾大佐ニ決心ヲ示シ、所要ノ指示ヲセラレ度旨述ベ、三々五々帰ヘル。

予ハ最后ニ残リ、大臣一人ノ時、賛否ヲ尋ネシニ、人ガ多キ故アノ場デハ言フヲ憚リタリト答ヘ、暗ニ同意ナルヲ示サル。尚、皆帰ヘル時、今日頃ハ君等ニ手ガ廻リ、逮捕セラレルヤモ知レザルヲ以テ、用心シ給ヘ、トノ注意アリキ。他ヨリ入手セル情報ニ基クモノノ如シ。

七、皆、役所ニ帰ヘリ、夫ヨリ更ニ計画ヲ練ル。予ハ特ニ左ヲ提案シ、全員ノ一致賛同ヲ得タリ。

  明朝ノコトハ、天下ノ大事ニシテ、且、国軍一致蹶起ヲ必須トス。苟モ友軍相撃ニ陥ラザルコトニ就テハ、特ニ戒ムルノ要アリ。依テ明朝、大臣、総長先ヅ協議シ、意見ノ一致ヲ見タル上、七時ヨリ東部軍管区司令官、近衛師団長ヲ招致シ、其ノ意向ヲ正シ、四者完全ナル意見ノ一致ヲ見タル上立ツベク、若シ一人ニテモ不同意ナレバ、潔ク決行ヲ中止スルコト。

決行ノ時刻ハ十時トスルコト。

等ナリ。

近衛師団長ノ進退イ就テハ、昨日ヨリ問題トナリアリ。軍事課島貫中佐ハ、彼レハ大命ニ非ル限リ、仮令大臣ノ命ナリトモ、絶対ニ立ツコトナシ。二、三日マエ、訪問シテソノ心境ヲ知リアリト述ベ、若シ然ル場合ノ措置トシテ、師団長ヲ大臣室ニ招致シ、聴カザレバ監禁セントスルモノ、大臣ガ呼ンデモ来ルコトナカルベシ、然ル場合ハ師団ニ行キ師団長ヲ斬リテ、水谷[一生]参謀長ニヨリテ事ヲ行ハムトスベシトノコトトナル。

 

   八月十四日 水[火]曜

一、七時、大臣、総長前後シテ登庁、大臣ハ荒尾大佐ト共ニ総長室ニ至リ、決行同意ヲ求ム。然ルニ総長ハ、先ヅ宮城内ニ兵ヲ動カスコトヲ難ジ(計画ハ本日十時ヨリノ御前会議ノ際、隣室迄押シカケ、オ上ヲ侍従武官ヲシテ御居間ニ案内セシメ、他ヲ監禁セントスルノ案ナリ)、次デ全面的ニ同意ヲ表セズ。茲ニ於テ計画崩レ万事去ル。

二、大臣ハ自室ニ帰レバ、東部軍[管区]司令官田中[静壱]大将、参謀長高島[辰彦]少将アリテ待ツ。大臣ハ一般的ニ治安警備ヲ厳ニスベキ旨指示サレタルニ対シ、参謀長ヨリ降服受諾ノ結果トナラザルコトニ関シ、縷々具申シ、継戦トナレバ治安ヲ維持スルコト可能ナルモ、降服トナリテハ請ケ合ヒ兼ヌル旨述ベ、且、仮令御聖断アルモ詔書ニ副書セザレバ、効力発生セズトノ意見等述ベ、又治安出兵ノ為ニハ、筆記命令ヲ貰ヒ度旨述ベタリ。

三、一方、此ノ日、畑[俊六]元帥広島ヨリ到着、次官之ヲ迎ヘ、此ノ頃陸軍省ニ出頭セラル。白石[通教]参謀随行。原子爆弾ノ威力大シタアコトニ非ラザル旨語ルヲ以テ、元帥会議ノ際、是非其ノ旨、上聞ニ達セラレ度頼ム。

四、茲ニ一ヶノ挿話アリ。即、大臣、総長室ヲ出、自室ニ帰ヘリ、東部軍管区司令官ト面会終リシ頃、井田中佐、大臣室ニ来リ、総長が[ガ]先程上奏ニ出ラレシモ、二課、総務課ニ訊(トヒタダ)スモ、上奏案件ナク、今ノ大臣ノ計画ヲ暴露ニ行カレシニアラズヤ、且、総長ハ昨日鈴木、東郷、迫水ト会シアリ、本日ノ御前会議ニ於テハ、和平論ヲ唱フルコトトナリシ風説アリトノコトヲ述ブ。真逆トハ思ヘドモ、今日ノ計画ガ計画丈ケニ棄テ置カレズ、サリトモ処置モナシ。大臣ハソンナコトハナイ、二課ヲヨク調ベヨトノコトニテ、井田ハ退出セルモ、再ヒ来リテ、二課ニテハ本日上奏案件ナシト云フ、参内ハ確実ナリト云フ。サレド大臣ハ、ソンナコトハナイヲ繰リ返ヘセラレタリ。

五、昨日ヨリノ計画ニテ、8:10ニハ省内高級部員以上集合シアリ。大臣ハ不決行ト決マリシヲ以テ、訓示内容ヲ変更シ、本日ハ重大時期ナルコト全省ノ一致結束ヲ説カレタルニ止マル。

六、本日午前ニ予定サレアリシ御前会議ハ、13:30ニ延期セラレ、午前ハ閣議ノミトナル。

然ルニ、閣議参集ノ閣僚、及平沼、両総長、最高戦争指導会議幹事ニ対シ、突如10:30ヨリ、宮中ニ御召シ遊バサレ、歴史的御前会議ハ突如開カレ、世記[紀]ノ御聖断ハ下ルコトトナリタリ。

陸軍ノ昨夜ノ計画ト思ヒ合ハセ、此ノ御前会議ノ変更過程ハ、何等カノ関連ヲ予想セラレ、即、部内ニ政府ト通ズルモノナキヤヲ思ハシムルニ十分ナリ。

七、竹下ハ万事ノ去リタルヲ知リ、自席ニ戻リシガ、黒崎[貞明]中佐、佐藤大佐等相踵(アイツ)イデ来リ、次ノ手段ヲ考フベキヲ説キ、特ニ椎崎、畑中ニ動カサル。

次デ、総長ガ決心ヲ固メ、大臣ト共ニ最后迄ヤル旨述ヘタリトノ報アリ。

細田[熙]、松田[正雄]、原等ノ具申ニ依ルモノノ如シ。

茲ニ於テ「兵力使用第二案」ヲ急遽起案ス。要旨左ノ如ッシ。

(一)、近衛師団ヲ以テ、宮城ヲ其ノ外周ニ対シ、警戒シ、外部トノ交通通信ヲ遮断ス。

(二)、東部軍ヲ以テ、部内各要点ニ兵力ヲ配置シ、要人ヲ保護シ、放送局等ヲ抑ヘ。

(三)、仮令聖断下ルモ、右態勢ヲ堅持シテ、謹ミテ、聖慮ノ変更ヲ待チ奉ル。

(四)、右実現ノ為ニハ、大臣、総長、東部軍[管区]司令官、近衛師団長ノ、積極的意見ノ一致ヲ前提トス。

    此頃ニ於テ、吾等ハ大臣ハ閣議中ニテ、御前会議ハ午后ナリト思ヒ込ミアリタリ。

八、竹下、右計画ヲ持参シテ宮内省ニ至リ、此処ニテ最高戦争指導会議メンバー及閣僚全部ガ御召シニヨリ、参集中ナルヲ知リタリ。

十二時頃終了、大臣ノ跡ヲ追ヒテ総理官邸閣議室ニ到リ、御前会議ノ模様ヲ承ハル。陸相、両総長ノミニ発言ヲ許サレ、其ノ後、御聖断アリシ由、細部第九項。

大臣は[ハ]沈痛ナリ。予ハ閣議室ヲ眺メ硯箱ノ用意ヲ見テ、大臣ニ辞職シテ副書[署]ヲ拒ミテハ如何ト申セシ所、意大イニ動キ林秘書官ニ対シ、辞表ノ用意ヲ命ジタルモ、辞職セバ陸軍大臣欠席ノ儘、詔書渙発(カンパツ)必至ナリ。且、又、最早御前ニモ出ラレナクナル、ト呟キ取止メラル。

予ハ此ノ時、兵力使用第二案ヲ出シ、詔書発布迄ニ断行セムコトヲ求ム。之ニ対シ、大臣ハ意少ナカラズ動レシ様ナリ。閣議迄ノ間、一度本省ニ帰ヘル旨伝ハレシニヨリ、次官ト相談ノ上、決意セラレ度旨述ベタリ。

之ヨリ先、総長ガアレヨリ朝ノ案ニ同意セラレタリト述ベタルニ対シ、「ソウカホントカ」トテ、兵力使用第二案ニ意動カレシヲ察セリ。

九、午后一時ヨリ三時迄閣議アリ、其ノ後大臣ハ課員以上全員ヲ、第一会議室ニ集メ、左ノ趣旨ノ訓示ヲ為セリ。本日午前、最高戦争指導会議構成員、及閣僚ヲ御召シ遊バサレ、御聖断ニ依リ、ポツダム宣言内容ノ大要ヲ受諾スルコトトセラル。其ノ時、御上ニハ此ノ上戦争遂行ノ見込ナキコトヲ述ベラレ、無辜ノ民ヲ苦シメルニ忍ビズ、明治天皇ノ三国干渉ノ時ノ心境ヲ以テ、和平ニ御決心遊バサレ、一時如何ナル屈辱ヲ忍ビテモ、将来皇国護持スルノ確信アリ、忠勇ナル軍隊ノ武装解除ハ堪ヘ難シ、然レ共為サザルヲ得ズト云ハレ、特ニ陸軍大臣ノ方ニ向ハレ、陸軍ハ勅語ヲ起草シ、朕ノ心ヲ軍隊ニ伝ヘヨト宣(ノタマ)ハセラル。又、武官長ハ侍従武官ヲ陸軍省ニ派遣スル由。

御聖断ニ基キ、又重ナル有リ難キ御取リ扱ヒヲ受ケ、最早陸軍ノ進ムベキ道ハ唯一筋ニ、大御心ヲ奉戴実践スルノミナリ。

皇国保持ノ確信ニ就テハ、本日モ、「確信アリ」ト云ハレ、又元帥会議ニ際シテモ、元帥ニ対シ、朕ハ「確証ヲ有ス」ト仰セラレアリ、三長官、元帥会合ノ上、皇軍ハ御親裁ノ下ニ進ムコトト決定致シタリ。

今後、皇国ノ苦難ハ愈々加重セベキモ、諸官ニ於テハ過早ノ玉砕ハ、任務ヲ解決スル途ニ非ラザルコトヲ思ヒ、泥ヲ喰ヒ野ニ臥テモ、最後迄、皇国護持ノ為奮闘セラレ度。

十、次デ、軍務局長ヨリ、本日御前会議ニ於ケル御言葉ヲ伝達ス。要旨左ノ如シ。

自分ノ此ノ非常ノ決意ハ変リハナイ。

内外ノ動静国内ノ状況、彼我戦力ノ問題等、此等ノ比較ニ附テモ軽々ニ判断シタモノデハナイ。

此ノ度ノ処置ハ、国体ノ破壊トナルカ、否(シカ)ラズ、敵ハ国体ヲ認メルト思フ。之ニ附テハ不安ハ毛頭ナイ。唯反対ノ意見(陸相、両総長、ノ意見ヲ指ス)ニ附テハ、字句ノ問題ト思フ。一部反対ノ者ノ意見ノ様ニ、敵ニ我国土ヲ保障占領セラレタ後ニドウナルカ、之ニ附テ不安ハアル。然シ戦争ヲ継続スレバ、国体モ何モ皆ナクナッテシマヒ、玉砕ノミダ。今、此ノ処置ヲスレバ、多少ナリトモ力ハ残ル。コレガ将来発展ノ種ニナルモノト思フ。

──以下御涙ト共ニ──

忠勇ナル日本ノ軍隊ヲ、武装解除スルコトハ堪ラレヌコトダ。然シ国家ノ為ニハ、之モ実行セネバナラヌ。明治天皇ノ、三国干渉ノ時ノ御心境ヲ心トシテヤルノダ。

ドウカ賛成ヲシテ呉レ。

之ガ為ニハ、国民ニ詔書ヲ出シテ呉レ。陸海軍ノ統制ノ困難ナコトモ知ッテ居ル。之ニモヨク気持チヲ伝ヘル為、詔書ヲ出シテ呉レ。ラヂオ放送モシテヨイ。如何ナル方法モ採ルカラ。

十一、閣議ハ午后七時二十分ヨリ八時半迄開カレ、更ニ九時ヨリ十一時三十分迄開カレタリ。此ノ間、詔書案分議セラル。閣僚署名アリ。

 

十ニ、竹下ハ、連日不眠ヲ医スル為、駿河台渋井別館ニ帰ヘリ、白井、浴両中佐ト語リタル後、二十三時頃就寝シタル所、二十四時半頃、畑中来訪シ、「近歩二連隊長芳賀[豊次郎]大佐ハ、本日近歩二ガ守衛上番ナルヲ機トシ、更ニ一ヶ大隊ヲ赴援シ、軍旗ヲ捧ジテ蹶起スルノ決心ヲ固メ、本夜二時ヲ期シ、宮城ヲ固ムルノ処置ヲ採ルニ決ス。近衛師団中ニハ、別ニ四ヶ大隊蹶起ニ同意セシメタリ。自分ハ今ヨリ近衛師団長ノ許ニ至リ、之ヲ説得スルモ、若シ聴カザル時ハ之ヲ許[斬]リテモ実行ス。石原[貞吉]、古賀[秀正]、ノ両参謀ハ同意シアリ」ト述ベ、予ニ対シ、大臣ノ許ニ至リ、本朝来ノ計画ニ基キ、近衛師団ノ蹶起ヲ機トシ、全軍蹶起ニ至ラシメラレ度依頼ス。竹下ハ東部軍ガ立タズシテハ問題トナラズ、近衛師団長モ難シカルベク、東部軍ハ今トナリテハ恐ラク同意セザルベク、成功ノ算少キヲ以テ、計画中止ヲ静ニススメタルモ、畑中ノ決心牢固タルモノアリ。且、予ハ嘗テ予自ラ捧持セシ軍旗ガ動キ、大臣ニ取リテハ之亦嘗之ヲ仰ギタル軍旗ガ動クコトハ、天意カモ知レズト大イニ心動キタルヲ以テ、畑中ニ対シ、大臣ノ許ニ至ルヲ約ス。但、昨日来ノ決心ト同ジク、近衛師団長、東部軍司令官ノ同意ヲ先決トシ、近衛師団長ハ斬リテ代理者ニ依リテ動クナラ兎モ角、東部軍官区司令官ガ立タザル時ハ、大臣命令ノ発動ハ要求セズ、若シ両者策応蹶起セバ、大臣ニ対シ力ノ限リ

蹶起ヲススムベシト約シ同車出発、畑中ハ一寸役所ニヨリ、軍事課ノ諸士ニ東部軍ヘノ工作ヲ依頼シ、直チニ予ヲ大臣官邸ニ送リ、自ラハ近衛師団ニ向ヒタリ。

十三、十四日夜、即十五日一時半、竹下、大臣官邸着。案内ヲ乞ヒタル所、大臣ハ自室ニ在リ、「何シニ来タカ 」ト、一寸咎メル如キ語調ナリシモ、軈(ヤガ)テ、ヨク来タトテ室ニ請(ショウ)ズ。 室内ニハ床ヲ展ベ、白キ蚊帳ヲ吊リアリ、ソノ奥ニテ書物ヲセラレアリシ如ク感ズ、──遺書ナリ──机上ニハ膳ヲ置キ、一酌始マラントシアリシ模様ナリキ。大臣ハ予ニ対シ、本夜予(カネ)テノ覚悟ニ基キ、自刃スル旨述ベラル。之ニ対シ予ハ、覚悟尤(モットモ)ニシテ、其ノ時機モ本夜カ明夜カ位ノ所ト思フニ附、敢テ御止メセズト述ベタル所、大臣ハ大イニ喜ビ、君ガ来タノデ妨ゲラルルカト思ヒシガ、夫レナライイ却(カエッ)テヨイ処ニ来テ呉レタトテ、盃ヲ差シ頗(スコブ)ル上機嫌トナリ、本夜ハ十分ニ飲ミ、且、語ラムトテ、夫レヨリ五時頃迄語ル、其ノ要旨左ノ如シ。

 

( 室内図・・・略)

 

予ハ平素ニ似ズ飲マルルヲ以テ、アマリ飲ミ過ギテハ、仕損ズルト悪シ、ト云ヒシ所、飲メバ酒ガ廻リ血ノ巡リモヨク、出血十分ニテ致死確実ナリト、予ハ剣道五段ニテ腕ハ確カト笑ハレタリ。

問答要旨、前後不同。

一、若シバタバタセル時ニハ君ガ、仕末シテ呉レ。然シソノ心配ハナカラム。

一、遺書ハ、「一死ヲ以テ大罪ヲ謝シ奉ル、昭和二十年八月十四日夜、陸軍大臣阿南惟幾」ト、既ニ書キアルヲ示サレシガ、裏ニ、更ニ「神州不滅ヲ確信シツツ」ト書キ足サレタリ。

辞世「大君ノ深キ恵ミニ浴(アミ)シ身ハ言ヒ残スベキ片言モナシ、八月十四日夜、陸軍大臣阿南惟幾」ハ、コレハ戦地ニ出ル時ノ、イツモノ心境ナリト云ハル。

一、短刀デヤルガ、卑怯ノツモリハナイ。

一、畳ノ上ハ、武人ノ死ニ場所デハナイ。外デハ見張リニ妨ゲラレルノデ、縁側デヤル、向キハ、皇居ノ方向デアル。

一、大臣ハ夜、風呂ニ入リアリ、自決ノ時ハ侍従武官時代、拝領セシ下着ヲ身ニ附ケラル。コレハオ上ガオ肌ニ附ケラレタルモノデアル。コレヲ着用シテ逝クノダト。

一、本夜、畑中等ノ件ニ附テハ、蹶起時刻タル二時迄ハ触レザリシモ(事前ニ、知レバ、大臣トシテ中止ヲ命ズルノ責モ生ズベキヲ考慮シタルモノナリ)、二時過ギ説明シタル処、東部軍ハ立タヌダラウト言ハレタリ。其ノ後、三時頃窪田[兼三]少佐来訪。竹下ノミ面会シ、同少佐ヨリ森[赳]師団長ハ肯(ガヘ)ゼザリシ為、畑中少佐之ヲ拳銃ニテ射撃シ、窪田少佐軍刀ニテ斬リタル由、又、居合ハセタル白石参謀(第二軍)ハ制止セル為、之又、窪田少佐斬殺セル由。窪田少佐ハ報告ニ来リ、今ヨリ守衛隊本部ニ行ク由ヲ聞キ取リ、東部軍ノコトハ分ラヌ由モ聞キ、少佐ノ帰リタル后、大臣ニ報告セル所、森師団長ヲ斬ッタカ、本夜ノオ詫ビモ一緒ニスルト洩ラサレタリ。四時頃、井田中佐来訪、大臣ニ会ヒ、東部軍ハ立タヌ、万事去ツタ由ヲ大臣ニ対シ述ベタリ。

之ヨリ先、大臣ハ十三日、大臣室ニ於テ、井田中佐が[ガ]「大臣ハ変節サレタノカ、ソノ理由ヲ承リ度」ト云ヒシコトニ附、アノ際ノ返答ハ井田ヲ後ニ残シタカッタノダト云ハレ、井田中佐ニヨロシク伝ヘテ呉レト云ハレ居リシガ、井田来訪スルニ及ビ、相擁シテ語ラレタリ。

一、井田中佐帰リタル後、大城戸[三治]憲兵司令官来邸、近衛師団ノ変ヲ報告ニ来ラル。大臣ハ夜ガ明ケルカラ始メル、司令官ニハ、オ前会ヘトテ、竹下ヲ応接間ニ出シ、其ノ後ニテ自刃セラレタリ。

林秘書官、此ノ頃、近衛師団ノ件ニテ来訪、応接間ニテ竹下ニ会ヒ、大臣ノ登庁ヲ要スト云ハレシガ、大臣室ニ至リ自刃中ナルヲ知リ、竹下ニソノ旨伝ヘラル。

一、細田大佐ニヨロシク。

一、安井国務大臣ニ御世話ニナッタ。

一、林秘書官ニ礼ヲ云フテ呉レ、ヨイ秘書官ダッタ。

一、総長ニ長イ間御世話ニナリマシタ、書キ遺シマセンガ、閣下ニハ御世話ニナリマシタ。国家ハ閣下ガ指導シテ下サイ。

一、竹下ノ婿トシテ、阿南家ノ陸軍大将トシテ、堂々ト死ンデユク、笑ッテ逝ク。

一、アア六十年ノ生涯、顧ミテ満足ダッタ。ハハハハ。

一、惟敬ニ対シ、アア云フ性格ダカラ、過早ニ死ナヌ様、呉々伝ヘテ呉レ。

一、惟晟ハ、ヨイ時死ンデ呉レタ。惟晟ト一緒ニ死ンデ逝ク。

 大臣ハ三時頃、例ノ下着ヲ着換ヘ、ソノ上ニ一度、勲章ヲ全部佩用(ハイヨウ)シテ軍服ヲ着シ、竹下ニ対シ、ドウダ堂々タルモノダロウト伝ハレ、此時両人相擁セリ。軈(ヤガ)テ服ヲ脱イデ床ノ間ニ残置サレ、終ッタラ体ノ上ニカケテ呉レト頼マレシガ、ソノ際両袖ノ間ニ、惟晟ノ写真ヲ抱クガ如ク安置サレタリ。

一、惟正以下男ノ子ガ三人モ居ルカラ大丈夫。

一、綾子ニ対シ、オ前ノ心境ニ対シテハ信頼シ感謝シテ死ンデユク、ト伝ヘテ呉レ。

一、姉ヲ始メ親戚一同ニ、ヨク分ッテ呉レルダラウ。

一、惟道ハ、オ父サンニ叱ラレタト思フト可哀想ダガ、此ノ前帰ッタ時、風呂ニ入レテ洗ッテヤッタアノデ、ヨク分ッタラウ、皆ト同ジ様ニ可愛ガッテ居ルコトヲ伝ヘテ呉レ。

一、家族ノコト等、君ガ来タカラ伝ヘラレタノダ。

一、次官ニ後ヲ頼ム。

一、豊田、大西、畑閣下ニ厚思ヲ謝ス。

一、板垣、石原、小畑[敏四郎]閣下同ジク。

一、荒木[貞夫]閣下ニヨロシク。

一、米内ヲ斬レ。

一、台上各位ニヨロシク。

一、野口、除野、久雄[阿南尚男]サンニヨロシク。

一、辞表ノ日附ハ十四日トセラレ度。

一、モウ十五日ダガ、自決ハ十四日ノ夜ノ積(ツモリ)ナリ。十四日ハ父ノ命日デ此日ト決メタ。ソウデナイ場合ハ、二十日ノ惟晟ノ命日ダガ、夫デハ遅クナル。

十四、林秘書官ノ知ラセニテ、竹下ガ現場ニ到レバ、大臣ハ既ニ割腹ヲ了ハリ、喉ヲ切リツツアリ、予ガ介添シマセウカト言ヒタルニ対シ、無用、アチラニ行ケト云ハル。暫クシテ来リ検スルニ、少々右前ノメリトナリ居ラレタルモ、呼吸十分ニ聞ユルヲ以テ、予ハ苦シクハアリマセンカト呼バハリタルモ、既ニ意識ナキ如キモ手足モ少々動クヲ以テ、短刀ヲ取リテ介添ヘス。

其ノ後、載仁親王ヨリ拝領ノ軸物ヲ側ニ展ケ、遺書ヲ並ベ、軍服ヲ体ニカケタリ。

十五、陸軍省ヨリ再度連絡アリシニ依リ、三度大臣ノ死ヲ慥(タシカ)メ登庁ス。コノ時、未ダ呼吸アリ。

 

八月十五日 木[水]曜

一、次官閣下以下ニ報告。

二、十一時二十分、椎崎、畑中両君、宮城前(二重橋ト坂下門トノ中間芝生)ニテ自決。

  午后、死体ノ引取リニ行ク。

 

三、大臣、椎崎、畑中三神ノ茶[荼]毘、通夜。

コレヲ以テ愛スル我カ国ノ降伏経緯ヲ一応擱筆(カクヒツ)ス。

 

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機密戦争日誌8月9日から15日 NO1

2021年06月23日 | 国際・政治

 最近のオリンピック開催をめぐる関係機関の諸判断は、自民党政権中枢の本質を、かなりはっきりと国民の前にさらけ出すことになったように思います。前回も書きましたが、新型コロナ感染症によって日本人が何人亡くなろうが、医療機関がどんな困難に直面しようが、飲食店その他がいくつ潰れようが、さらに、職を失い、住む所までも失う人が何人出ようが、オリンピックはやるという姿勢とともに、オリンピック関係者に対する露骨な特別扱いが、いろいろ指摘されているからです。慶応大学名誉教授でパソナ会長の竹中平蔵氏の発言や内閣官房参与の高橋洋一教授のツイッターが問題視されたこと考え合わせると、それらが、相当多くの人たちに不満や失望を感じさせることになっているのではないかと思います。

 加えて、先日、東京五輪組織委員会が主催するイベントの企画・構成を手掛けるなど、オリンピックの開催に協力してきた演出家の宮本亞門氏が、日刊ゲンダイが行ったインタビューで、オリンピック東京招致をめぐる黒い疑惑に関して、衝撃の事実を語ったことが報じられています。
東京の招致決定後、あるトップの方とお会いした時、招致が決まった会場で、裏でいかに大金の現金を札束で渡して招致を決めたか、自慢げに話してくれたのです。驚いた私は「それ本当の話ですか?」と言ったら笑われました。
「亞門ちゃん若いね。そんなド正直な考え方で世の中は成り立ってないよ」”(「ニュースサイト/リテラ」より)
ということです。
 オリンピック東京五輪招致を巡る贈収賄疑惑については、仏司法当局が日本オリンピック委員会(JOC)の前竹田恒和会長に対する捜査などを続けているといわれています。JOCの前竹田会長は”正当な支払い”と主張しているようですが、国際オリンピック委員会の委員だったラミン・ディアク国際陸上競技連盟前会長の息子に支払ったというおよそ2億2000万円という金額は、”正当な支払い”としては、あまりに大きな金額で、仏司法当局が捜査対象にしたことは、間違っていないのではないかと思います。

 森友学園問題、加計学園問題、桜を見る会問題、河井克行前法相と妻・案里氏の選挙に関わる買収と一億五千万円支出問題等すべて真実は闇の中ですが、総理が変わっても学術会議任命拒否問題や東北新社による接待問題などが続きました。それに、オリンピック東京招致疑惑にからみ、当時官房長官だった菅首相が、セガサミーホールディングスの里見治会長に、オリンピック招致のための工作資金を依頼したとの情報まで報道されるに至っています。

 こうした一般国民には考えられないような利益がらみの政治問題の連続は、やはり、単なる儲け主義の結果ではなく、自民党政権中枢が戦前の考え方を引きずっているからであり、戦前回帰を意図しているからだと、私は思います。今はまだ詳細を公にできない目的を共有しているからではないかと、私は疑っているのです。河井案里氏は、選挙違反容疑に関わる家宅捜索後の記者団の取材で、国会議員を続ける意向を示しつつ、”日本を変えたい”、と語ったことが忘れられません。安倍前総理同様、戦後の日本が受け入れられないということだと思います。

 下記は、「大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌 下」軍事史学会編(錦正社)から、軍務課内政班班長、竹下正彦中佐の記した8月9日から15日の中の、12日までの部分を抜萃したものです。ポツダム宣言受諾をめぐる論争を中心とするものですが、戦後の教育を受けた一般国民の考え方とはあきらかに異なる考え方が随所に読み取れます。

 下記には、あくまでポツダム宣言受諾を拒否し、和平論を語る、”平沼、近衛、岡田[啓介]、鈴木、迫水、米内、東郷等ヲ葬ラムトスル者アリ。”とか、”陸軍大臣ノ治安維持ノ為ノ兵力使用権ヲ利用シ、実質的クーデターヲ断行セムトスル案アリ。”というような記述がありますが、現在の一般国民から見れば、あってはならない人命軽視の考えだと思います。

 「宮城事件」の原因となる「兵力使用計画」を起案し、陸軍大臣に”仮令(タトエ)逆臣トナリテモ、永遠ノ国体護持ノ為、断乎・・・之を決行センコトヲ具申”したという筆者の竹下中佐が、戦後、陸上自衛隊幹部学校研究部長や防衛大学校幹事、第4師団長、陸上自衛隊幹部学校長(陸将)等を歴任し、活躍したという事実も見逃せません。

 そして、そうした人たちと考え方を共有し、”日本を取り戻す”、という安倍前総理をはじめとする自民党政権中枢の政治家が目指しているのは、人命や人権を軽視したかつての日本であることを見逃してはならないと、私は思います。

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     機密作戦日誌 (自 昭和二十年八月九日 至 昭和二十年八月十五日)
                                軍務課内政班班長 竹下正彦中佐

                     昭和二十年
  八月九日金[木]曜
一、7時10分、渋井別館ニ於テ軍務課岩佐曹長ヨリ、至急登庁方、同時、次官秘書広瀬[栄一]中佐   
 ヨリ、「ソ連宣戦セリ、至急登庁」ノ電話連絡アリ、8時前登庁ス。
二、山田[成利]大佐ト協議ノ上、ソ連参戦ニ伴フ処置トシテ、
  陸軍意思ノ決定
  大臣、総長局部長会議  9:00
  最高戦争指導会議   11:00
  閣議         13:00
  御前会議       15:00
  決意開[闡]明    17:00
 ノプログラム作[製]成上申ス。
三、「ソ」連ノ宣戦布告ニ伴ヒ、帝国ノ採ルベキ態度案トシテ別紙作成。
    「ソ」連ノ参戦ニ伴フ戦争指導大綱(案)
             昭和20・8・9
方針
 帝国ハ「ソ」ノ参戦ニ拘ラズ、依然戦争ヲ継続シテ、大東亜戦争ノ目的完遂ニ邁進ス
 (一)「ソ」ニ対シテハ宣戦ヲ布告セザルモ、自衛ノ為飽ク迄交戦ス
 (二)「ソ」連、若(モシク)ハ中立国ヲ利用シテ、好機ニ乗ジ戦争終結ニ努力ス。
    但シ、皇室ヲ中心トスル国体ノ護持及国家ノ独立ヲ維持スルヲ最小ノ限度トシ、当分対 
    「ソ」交渉ヲ継続ス。
 (三)国民ヲシテ大和民族悠久ノ大義ニ生クル如ク、重大決意ヲ促スモノトス(詔勅)。
 (四)速カニ国内ニ戒厳ヲ施行ス
四 十時三十分ヨリ最高戦争指導会議開催。
  出席者構成員ノミ(総理、陸海軍大臣、参謀総長、軍令部総長、外務大臣ノ六名)
  十三時三十分終了(予定ヨリ一時間半延長)、論尽キズ決定ニ至ラズ、閣議ニ譲リシモノノ如   
  シ。
五 総合計画局参事官白井[正辰]中佐、長官ノ命ニ依リ軍務局長ノ許ニ来訪、総理、陸海軍、外務   
  大臣(最戦指出席者)不在中ノ閣僚、書記官長等ノ気分ヲ披露ス。 
(一)、対「ソ」見透シヲ誤リタル責ニヨリ、総辞職スベキナリ、(ニ)、戦争ニハ勝テヌ、(三)、統帥部ノ作戦ニ関       スル見透シヲ軍ニ尋ネムトノ空気ナル由ニテ、竹下中佐ハ局長ノ命ニ依リ、 
   宮内省内、最高戦争指導会議室ニ至リ、大臣、総長ニ右ノ空気ヲ伝達、閣議ノ参考ニ供セリ。
六、引キ続キ、総理官邸ニテ閣議開催、17:30一旦散開。18:30再会[開]、22:20終    
  了。前後実ニ九時間ニ及ビ、遂ニ決定ヲ見ルニ至ラザリシモノノ如シ。特ニ第一次ニ於テハ、閣   
  僚ヨリ国力ノ現状 食糧ノ見透シ 作戦ノ見透シ等ニ附、質問続出セル模様ニテ、陸軍大臣ハ今   
  頃カカルコトガ分ラヌデハ困ル旨、発言在リシ模様ナリ。小田原評定トハ正ニコレヲ評スベキカ。
七、23:00ヨリ、御前会議開催、参集員最高戦争指導会議構成員(幹事含ム)。

八、午前ノ最高戦争指導会議ノ内容ハ、極秘ニ附サレアリシモ、軍事参議官会同席上、参謀総長ノ発   
  言ヲ聞キタル軍事課高山[信武]大佐ノ洩ラス所ニ依レバ、陸軍提案ノ和平四条件ハ、(一)国  
  体ノ変革ヲ許サズ、(二)、外地日本軍隊ノ武武装解除ハ外地ニテ行ハズ内地ニテ日本自ラ行フ、
 (三)、保障占領許サズ、(四)、戦争責任者ノ処罰許サズ、ニシテ右条件ニ附、意見ノ一致ヲ見 
  ザリシ模様ナリ(仄聞スル所ニ依レバ、外相ハ第一項ノミニテヤリ度意向)
  右ニ附、飯尾[裕幸]、畑中[健二]等陸軍ガ和平条件ヲ出シタルコトニ附、不満ノ意ヲ表セリ、徹底抗戦以外ニナ  シト言フ
九、軍事参議官会同、18:30ヨリ開催、東久邇[稔彦]、朝香[鳩彦]、杉山[元]、土肥原 
  [賢二]、梅津[美治郎]各将軍参集セラル。
十、今後ノ準備ノ為、内政班ハ班長竹下中佐ハ全般及戦争指導輔佐、浴[宗輔]中佐班業務総轄、  
  椎崎[二郎]、畑中政変対応、江口[利夫]中佐宣伝情報、田島[俊康]少佐戒厳法規、白木
  [義孝]少佐庶務ニ臨時分担ヲ定メ、20:00ヨリ班内会報ヲ開ケリ。
十一、加藤[丈夫]大佐ハ、午后、東條[英機]大将ニ情況ヲ報告ス。
   小磯[国昭]大将ハ所在不明ナリ。

   八月十日 土[金]曜
一、昨夜二十三時ヨリ開レタル御前会議ハ、本朝三時終了、引キ続キ閣議アリ。
二、9:30分ヨリ地下防空壕ニ於テ、陸軍省高級部員以上ノ集合ヲ命ゼラレ、大臣ヨリ昨日ノ御前   
  会議ノ模様ニ附、左記要旨ノ説明アリ。
      左記(下記)
  昨夜十一時ヨリ本朝三時ニ亘リ、御前会議開催セラレ、皇室ノ保全ヲ条件トシテ、ポツダム宣言内容ノ大部ヲ受諾ス  ルコトニ、御聖断アラセラレタリ。
然レ共、之ガ実効ヲ見ル為ニハ、皇室保全ノ確証アルコトヲ前提トスルモノナリ。予ノ微力遂ニカカル帰結ニ至ラシメタルハ、諸官ニ対シ申訳ナク、深ク責任ヲ感ズルモ、御前会議ニ於テ、予ガ主張スベキコトヲ十分ニ主張シタルコトニ就テハ、予ハ信頼シ呉レルモノト信ズ。コノ上ハ唯、大御心ノママニ進ム外ナシ。此ノ際左記ニ注意セヨ。
(一)、総テヲ捨テテ厳粛ナル軍紀ノ下ニ団結シ、越軌ノ行動ヲ厳ニ戒ム。国家ノ危局ニ際シ、無統 制ナル行動ハ国ヲ戒ル因ナリ。
(二)、国民ノ動向ヲ十分ニ観察シ、之ヲ把握シ、大御心ニ従フ如ク指導スルコト肝要ナリ。
    難局ニ立チタル大和民族ノ方向ヲ誤ラザラシムルコト。
(三)、軍ノ自粛ハ必要。
    海外軍隊ノ処理ニ就テハ最痛心事ナリ。
(四)、今後ノ外交交渉ノ経過ヲモ考ヘ、軍ハ和戦両用ノ態勢ヲ以テ臨ム要アリ。
三、大臣説明ニ続キ、吉積[正雄]軍務局長ヨリ細部ノ説明アリ。
四、此ノ夜、大臣官邸ニ大臣ヲ訪ヒ、九日ニ於ケル状況ヲ聴取セル所左(下)ノ如シ。
 1、午前ノ最高戦争指導会議ニ於テハ、外務大臣及ビ米内[光政]海相ヨリ和平論アリ、和平交渉ニ入ル為、敵ト何等カノ手掛リヲ得ルコト絶対必要ニテ、之ガ為ニハ最少[小]限ノ要求タル皇室ノ保全ノ一条項ヲポツダム宣言内容ニ含マルルモノトノ了解ノ下ニ受諾シ度トノ論ニ対シ、大臣ハ戦争ノ継続ヲ主張シ、交渉ノ余地アラバ五頁(九日ノ条ノ八)記載ノ四カ条ヲ、国体護持ノ最小限条件トシテ附スルノ要アル旨力説シ、梅津総長、豊田[副武]軍令部総長之ニ同意セル由ナリ。
 2、此ノ会議ノ間、軍令部次長大西[滝次郎]中将ヨリ、大臣ヲ呼ビ出シ、米内ハ和平ナル故心許ナシ 陸軍大臣ノ奮闘ヲ期待スル旨依頼セルニ対シ、大臣ハ承諾シ、且海軍部内ノ立場モアルベク、本件ハ聞カザルコトトシ度旨答ヘタリ。
 3、会議ハ意見対立シ議決ニ至ラズ、14:30ヨリ閣議ニ入ル。閣議ニ於テハ、鈴木[貫太郎]総理ヨリ最高戦争指導会議ノ模様ヲ御伝ヘスル旨宣シ、東郷[茂徳]外務大臣ニ発言セシム。東郷ハ、和平交渉ノ手掛リヲ得ル為ニモ一カ条ノ条件附ニテ受諾ノ要アル旨述ベタリ。之ニ対シ大臣ハ、夫レハ外相ノ意見ニテ最高戦争指導会議ノ内容トハ異ル旨詰(ナジ)ル。外相ハ之ヲ是認シ、今ノハ自己ノ見解ナル旨述ブ。次デ米内海相ハ戦局ノ不利ヲ述ベ(此ノ時敗北ト云ヒタルニ対シ、大臣ハ敗北ハナシアラズト詰メ寄リ、不利ト訂正セシム)、軍需大臣、農商大臣、運輸大臣等ニ対シ逐次戦争継続ノ可能性アリヤト質シ、各相交々(コモゴモ)困難ナル事情ヲ答フ。茲ニ於テ大臣ハ、カカルコトハ既ニ十分承知ノ事ニテ、本日今更繰リ返スノ要ナシ、カカル状態ニ於テ之ニ堪ヘテ戦争ヲ遂行スベキ[カ否カ]ガ今日ノ決心ナラズヤト断ズ。── 一時間休憩
4、18:30頃ヨリ閣議最会[開]。今度ハ端的ニ、ポツダム受諾ヲ一ヶ条件デヤルヤ、四ヶ条附ケルヤニ附議セラル。和平交渉ノ手掛リヲ得エルナラ、四ヶ条ヲ附ケテハ駄目ナラント云フ意見多シ。安井[藤治]国務相ハ陸相ヲ支持セリ。松阪[広政]法相ハ国体護持ヲ条件トスル以上、軍備ノ保有、駐兵権ノ拒否ハ当然ノ条件ナルベシト正論ヲ唱フ。岡田[忠彦]厚相モ右ト同ジ、但シ現実ノ状況ハ和平ノ要アルベシト述ベタリ。──22:10終了。
   5、閣議ハ意見対立シ、議決ニ至ラズ。22:55ヨリ御前会議開催トナル。此ノ間、鈴木総理ハ参内、閣議ノ経過ヲ 上奏セリ。
 6、御前会議
総理、阿南陸相、梅津総長、外ニ両軍務局長、迫水書記官長、平沼枢相、米内海相、東郷外相、豊田軍令部総長

   会議室ニ入ルヤ、机上ニ議案トシテ外相案印刷配布シアリ。即、天皇ノ国法上ノ地位ヲ確保スルヲ含ムトノ諒解ノ下ニ、ポツダム宣言案ヲ受諾スルノ案ナリ。大臣ハ之ヲ見テ、総長ニ対シ、条件問題ヲ議スルヲ止メ、戦争遂行一点張リデ議論スルノ要アル旨耳打チシ、次デ陸軍大臣ハ左(下)ノ如ク発言ス。
   之ノ原案ニ全然不同意ヲ表明シタル后、
   イ、天皇ノ国法上の[ノ]地位確保ノ為ニハ、自主的保障ナクシテハ絶対ニ不可。臣子ノ情トシテ我ガ皇室ヲ敵手ニ渡シテ、而モ国体ヲ護持シ得ルトハ考フルコト能ハズ。
   ロ、今次ノ行キ方ハ、伊太利屈服ノ時ト同様ナリ。敵ノ謀略ニ乗ル能ハズ。
   ハ、カイロ会談ノ承認ハ、満州始メ他ノ大東亜諸国ニモ申訳ナシ。例令戦争ニ敗ルトモ、最后迄戦フコトニ依リ、日本ノ道義ト正義ト勇気ハ永久ニ残ルベシ。之レ国家トシテ悠久ノ大義ニ生キルコトニシテ、精神ニ於テハ天壌無窮ト云ヒ得ベシ。
ニ、戦争継続ニ進ムベキモ、万一交渉ノ余地アラバ国体護持ノ自由的保障タル軍備ノ維持、敵駐兵権ノ拒否ヲ絶対必要トシ、戦争犯罪者ノ処分ハ国内問題トシテ扱フベキ旨、主張スル要アリ。
ホ、最后ニ重ネテ、「ソ」連ハ不信ノ国ナリ、米ハ非人道国ナリ カカル国ニ対シ保障ナキ皇室ヲ敵ニ委スルコトハ絶対反対ナリ。
ヘ、尚作戦上ノ判断ニ就テハ両総長ニ譲ル。
 次デ、梅津総長ヨリ陸相ニ全ク同意ノ旨、且、作戦上ノ所見開陳アリ 次デ、総理ハ豊田総長ヲ措イテ、平沼[騏一郎]枢相ノ発言ヲ促シヲ以テ、大臣ハ紙片ニ、「豊田ハ?」ト記シテ渡シタリ。平沼ハ二時間ニ亘リ、突如参列セシ為、一般状況ニ通暁セザルノ故ヲ以テ、各参列者ニ質問ノ上、「原案ニ同意スルモ、陸相ノ四ヶ条モ至極尤モナル故、十分考慮サレ度旨」。賛否明瞭ナラザル発言ヲセリ。尚、其ノ間「天皇ノ国法上ノ地位」云々ニ附、日本天皇ノ地位ハ国法上ノモノナラズ、 憲法以前ヨリノモノナルコトヲ述ベ、「天皇大権ノ確保」ノ趣旨ニ訂正ヲ要求シ、修正セラレタリ(大臣ハ平沼ハバドリオノカモフラーヂニ非ズヤ、ト疑惑ノ念ヲ有タル)。次デ、豊田軍令部総長ヨリ阿南陸軍大臣ノ意見ニ全ク同感ノ旨述ベ、且、海軍トシテモ尚一戦ノ力アル旨奏セリ。大臣ハ 平沼ノ意見賛否何レナルヤ分明ナラザル点モアリ、之ヲ追及スベク「議長」ト発言ヲ求メタルモ、総理ハ左耳悪ク、聞エズ、発言ヲ開始セリ。即、遺憾乍ラ議分レテ決セズ。三対三ナルヲ以テ、此ノ上ハ陛下ノ御聖断ヲ仰グ旨奏ス。
 此ニ於テ、陛下ハ原案ニ同意セラレ、彼我戦力ノ懸隔上、此ノ上戦争ヲ継続スルモ徒ラニ無辜ヲ苦シメ、文化ヲ破壊シ、国家ヲ滅亡ニ導クモノニシテ、特ニ原子爆弾ノ出現ハコレヲ甚シクス、依テ終戦トスル。忠勇ナル陸海軍ノ武装解除ハ忍ビズ、又、戦争犯罪者ハ朕ノ忠臣ニシテ、之が[ガ]引渡シモ忍ビザル所ナルモ、明治大帝ガ三国干渉ノ時、忍バレタ御心ヲ心トシテ、将来ノ再興ヲ計ラムトスルモノナル旨聖断アリタリ。
 7、次デ閣議アリ、大臣ハ其ノ席上、敵ノ信用程度如何、皇室保全ノ確証ナキ限リ陸軍ハ戦争ヲ継続スル旨述ベ、更ニ総理ニ対シ、天皇大権ヲハッキリ認ムルコトヲ確認シ得ザル時ハ、戦争ヲ継続スルコトヲ首相ハ認ムルヤト訊(トヒタダ)シタルニ対シ、総理ハ小声ニテ認ムル旨答ヘタリ。更ニ海相ハ戦争ヲ継続スル旨答ヘタリ。
五、午後、重臣会議アリ。
六、午后、臨時閣議アリ。発表方法ニ附検討セラレシ模様。
七、夜、予ハ九時頃ヨリ大臣ヲ訪問、十一時頃迄第四項ノ如キ話ヲ承ハル。

  八月十一日 日[土]曜
一、九日ノ御聖断ハ和平ヲ基礎トスルコト勿論ナルモ、議案ハ単ニポツダム宣言ニ対スル帝国ノ申入レ要領ヲ決定セラレタルニ止マル。省部内、騒然トシテ何等カノ方途ニ依リ、和平ヲ破摧(ハサイ)セムトスル空気アリ。
之ガ為、或ハテロニ依リ、平沼、近衛、岡田[啓介]、鈴木、迫水、米内、東郷等ヲ葬ラムトスル者アリ。又陸軍大臣ノ治安維持ノ為ノ兵力使用権ヲ利用シ、実質的クーデターヲ断行セムトスル案アリ。諸氏[処士]横議漸ク盛ナリ。
二、情報局ハ、九日御聖断ニ基キ、所要ノ発表ヲ為サムトス。
  陸軍ハ、和戦両用ノ構ヘニ基キ、ソ連参戦以来二日、未ダ何等ノ意思表示ヲ為サズシテハ、軍ノ士気ノ崩壊ヲ恐レ、飽ク迄軍隊ハ任務ニ邁進スベキ大臣訓示ヲ発セラル。
予ハ右発表ヲ、ラジオ及新聞ヲ通シテ発表方処置ス。
三、然ルニ本件ハ、聖旨必謹ニ反スルモノトシテ重大化シ、軍事課長、軍務局長ヨリ注意ヲ受ケ、局長ハ各新聞社ヲ歴訪シ、発表停止ニ努メタルモ及バズ。
四、此ノ日、梅津参謀長、豊田軍令部総長、東郷外務大臣、平沼枢府議長、鈴木総理ハ交々(コモゴモ)参内、上奏スル所アリ。
五、井田[正孝]、畑中、大臣ヲ私邸ニ訪フ

  八月十二日 月[日]曜
一、朝三時過ギ、次官秘書官広瀬中佐、自動車ニテ渋井別館ニ来リ、九日ノ我カ申入レニ対スル敵側回答ノ放送アリシ由 告ゲタルニ依リ、竹下、浴、加藤、ソノ車ニテ登庁シ、五課ニ寄リ、傍受情報ヲ見、軍事課長室ニ至ル。
ニ、軍事課長荒尾[興功]大佐ノ下ニハ課員皆在リ。極度ノ緊張ヲ呈シアリ、蓋シ昨夜、井田、畑中、大臣邸ニ至ルヤ、   巡査六人護衛ニ来在リ、「バドリオ」側ガ、反対ニ大臣ヲ保護監禁セントスルニ非ズヤトノ判断ニテ、憲兵二十名ヲ畑中 引率ノ下ニ差遣シ、且、台上警戒ノ処置ヲ講ジツツアリ。
三、九日ノ後手ニ鑑ミ、訳文不充分に[ニ]拘ラズ、局長ハ直チニ外務次官ノ許ニ、軍事課長ハ書記官長ノ許ニ、次官ハ 侍従武官ノ許ニ至リ、各々本回答ニテハ受諾シ難キ陸軍ノ意思ヲ通シ、情勢馴致ニ努ムル所アリ。
四、昨日ニ予定セシ大臣ノ上奏ハ、手続ノ為本日トナリ、人事上奏後、九日ノ件ニ附軍ノ実情等ニ附、委細上奏セリ 此ノ時陛下ハ、「阿南心配スルナ、朕ニハ確証ガアル」旨、却テ御慰藉的の御言葉アリシ由(通常ハ陸軍大臣ト御呼ビ遊サレ、阿南ノ姓ヲ呼バルルハ、侍従武官時代ノ御親シキ心持ノ表現ナル由)
五、竹下中佐ハ、昨日来計画セル治安維持ノ為、東部軍管区及近衛師団ヲ用ヒテ、宮城、各宮家、重臣、閣僚、放送局、陸海軍省、両統帥部等ノ要処ニ兵力ヲ配置シ、陛下及皇族ヲ守護シ奉ルト共ニ、各要人ヲ保護スル偽装クーデター計画ニ附、次官ニ意見ヲ具申ス(人事局長等同席)
ソノ席上、佐藤[裕雄]戦備課長入室シ、コノ計画ノ不可ナル理由ヲ具申ス。
次官ハ必ズシモ同意ノ意ヲ表セズ。寧(ムシ)ロ、民間テロヲ可トスル意見ヲ附シ、折シモ閣議ニ出デントスル大臣ニ該案ヲメモトシテ渡スベキ由ヲ命ジ、竹下ハ之ヲ行ザ可ラザル一般情勢ト該案ノ骨子ヲ記ス。
六、メモハ林[三郎]秘書官ニ、次官ヨリ手交シ、大臣ニハ次官ヨリ極メテ簡単ナル説明ヲ行ヒタル模様ナリ。然ルニ竹下、次官室ヲ出ヅルヤ、省部二課 軍事課、軍務課ノ少壮将校十数名、室外ニ屯(タムロ)シ、直接大臣ニ意見具申スルノ要ヲ説キシ為、全員入室、大臣ニ対シ、竹下ヨリ要旨説明ヲ行ヒタリ。稲葉[正夫中佐]捕足。次官、局長ニ、三、荒尾、山田大佐、竹下、椎崎、畑中、稲葉、井田、原[四郎]等同室。此ノ時、畑中少佐ハ軍内既ニバドリオ通謀者アリト発言、竹下ハカカルモノハ即刻人事的処理ヲ加ヘラレ度旨述ブ(目標、佐藤裕雄大佐)。大臣ハ相互不信ヲ戒メラル。
竹下ハ、更ニ東部軍及近衛師団参謀長ヲ招致シ、万一ノ為ニ準備ヲ命ゼラレ度旨具申、大臣ハ許可シ次官ニ処理ヲ命ゼラル。
更ニ広瀬中佐ノ発意ニ依リ、省内将校ハ大臣ヲ中心トシ、一糸紊レズ行動スベキ旨、竹下ヨリ発言スル所アリ。
七、15:00──17:00間、皇族会議開催セラル。後ニ諸情報ヲ綜合スルニ、午前中予備会議アリ、午后、天皇親臨ノ下ノ皇族会議ニ於テハ、宮殿下ヨリノ御発言ハナク、陛下ヨリレイテ以来ノ戦蹟ニ基ク軍不信ノ御言葉ノ后、和平ノ御決意鞏(カタ)キ由述ベラレ、タノムタノムト宣(ノタマハ)セラレシ由ニ承ハル。
因ニ、近来三笠宮[崇仁]殿下ノ御言動ノ和平的ニシテ、且、陸軍ノ驕慢ヲ反省スベシトノ過激ナル御言動、同期生、曲等ニ洩ラシ、我等憂慮ノ念深シ。
八、大臣、夜、三笠宮邸ヘ伺候。
九、竹下中佐、夜、竹田宮[恒徳]邸ヘ伺候。殿下、皇族会議内容ニ就テハ触ルルヲ避ケラル。

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ミャンマー 南機関とアウンサン将軍

2021年06月09日 | 国際・政治

 私が、アジア太平洋戦争にこだわるのは、310万もの日本人と、その数倍のアジアを中心とする人々を死に追いやった戦争を指導した人々が、冷戦など、その後の情勢の変化によって、公職追放を解除され、戦争責任を追及されることなく、敗戦後も日本の中枢で活躍することになったために、今なおいろいろな場面で、日本の野蛮な戦争を正当化し、日本国憲法を蔑ろにしたり、戦前・戦中の考え方に基づく政策を進めようとするからです。
 先日、慶応大学名誉教授でパソナ会長の竹中平蔵氏が、”オリンピックってのは、世界のイベントなんですよ。世界のイベントをたまたま日本でやることになっているわけで、日本の国内事情で、世界の『イベント(五輪)やめます』というのは、あってはいけないと思いますよ。世界に対して、『やる』と言った限りはやる責任があって”、と述べたことが報道されました。驚きました。
 しばらく前には、内閣官房参与の高橋洋一教授がツイッターで、世界各国の新型コロナウイルス感染者数比較のグラフとともに、”日本はこの程度の『さざ波』。これで五輪中止とかいうと笑笑””、と投稿したため、ネット上で反発が広がり、退職したとの報道もありました。
 新型コロナ感染症によって、何人亡くなろうが、医療機関がどんなに追い詰められようが、飲食店が何店潰れようが、職を失い、住む所までも失う人が何人出ようが、オリンピックはやる、という自民党政権中枢や政権を支える人々の感覚は、明らかに戦争指導層のそれと同じではないかと、私は思います。降伏を許さず、玉砕といわれる全滅戦を強いた、かつての戦争指導層の人命軽視、人権無視は、生き続けているように思うのです。
 
 戦前・戦中の日本は、現人神である天皇が統治する国でした。だから、戦争指導層は、”上官の命令は朕の命令と心得よ”という「軍人勅諭」に支えられ、かなり強引な作戦も、反対を恐れることなく命令できました。
 そして、戦争指導層の考え方や思いを受け継いでいる安倍・菅政権のコロナ対応にも、そうした強引な独断専行の傾向がうかがえると思います。コロナ一斉休校布マスク全戸配布も、ワクチン1日100万回接種も、きちんとした専門家に対する諮問や民主的な手続きなしに行われ、今、五輪開催を強行しようとする政府の姿勢に警告を発している新型コロナ対策分科会の尾身茂会長外しが話題になっています。
 当初から、安倍・菅政権の下では、専門家が専門家として尊重されず、政治的に利用されているという指摘がありました。そして、野党から”五輪開催について尾身氏に諮問しないのか”と聞かれた西村コロナ担当相が、”分科会は五輪開催の可否などを審議する場所ではなく、そういう権限はない”と答えたことが報道されています。政府の新型コロナ感染症に対する政策や姿勢が問題なのであって、分科会に権限があるかないかの問題ではないと思います。西村コロナ担当相の答えは、一般国民の感覚とは、著しく乖離していると思います。

 またミャンマーでは、軍がクーデターを起こし、多くの民主化指導者を拘束するとともに、抗議活動の弾圧を続けていますが、すでに死者が800人を超えているといわれています。軍の暴力的なクーデターはもちろん、民主化指導者の拘束や抗議活動の弾圧に対し、世界中から抗議や非難の声が上がっているなか、日本の丸山大使は、軍事政権のワナ・マウン・ルイン氏と会談を行いました。それ自体が、他国では考えられないことのようですが、会談後、在ミャンマー日本大使館が、フェイスブックに投稿した内容や、ワナ・マウン・ルイン氏を「外相」と表記していることが、ミャンマーで大変な反発を招いたといいます。
 ”日本はミャンマー国民の声を聞かず、軍人を認めるつもりなのか?”とか、”ワナ・マウン・ルウィン氏は、外務大臣ではありません。誰も認めてはいけませんし、このような言葉使いをやめて頂きたい。ミャンマー国民としては強く非難します”などという非難コメントが相次いだといいます。
 これを受けて、加藤官房長官が、”「外相」と呼称はしているが、呼称によって国軍によるクーデターの正当性やデモ隊への暴力を認めることは一切ない”と強調し、その上で、”ミャンマー側の具体的な行動を求めていくうえで、国軍と意思疎通を継続することは不可欠で、これまで培ってきたチャンネルをしっかり活用して働きかけを続けることが重要だ”と、記者会見で語ったということです。私は、こうした対応にも、やはり法や道義・道徳の軽視を感じます。
 それで、”これまで培ってきたチャンネル”というものが何なのかをよりよく知りたいと思い手にしたのが、「自由 自ら綴った祖国愛の記録」アウンサンスーチ、柳沢由実子訳(角川文庫)です。  
 その内容は、私の戦争指導層に対する認識を、さらに一層強めるものでした。
 
 というのは、ミャンマーの人たちとの交流によって信頼を得たのは、当時の鈴木敬司陸軍大佐を中心とする「南機関」(特務機関の一つ)の人たちであり、戦争指導層は、その信頼を台無しにするような作戦を展開したことがわかったからです。鈴木大佐の考えは、イギリスの支配から逃れるために、ビルマを独立させようと活動を続けるアウンサン将軍などと力を合わせることによって、援蒋ルートを遮断しようということでした。でも、下記抜粋文でわかるように、戦争指導層は、そうした真のビルマ独立の作戦を受け入れませんでした。だからアウンサン将軍は、”立ち上がれ、そしてファシスト勢力を攻撃せよ”と言って、逆に連合軍と手を結び、日本軍に銃口を向けるに至るのです。鈴木大佐以下南機関のメンバーたちも、次第に戦争指導層の方針に反発し、事と次第によっては反旗を翻すことさえ仄めかしたといいます。
 日本の敗戦は、戦争指導層のそうした現場の意向を無視した作戦や、現地の情勢分析の欠如にあったことも忘れてはならないことだと思います。
 下記は、「自由 自ら綴った祖国愛の記録」アウンサンスーチ、柳沢由実子訳(角川文庫)から、日本との関わりについて書かれている「第一部 わたしの父、アウンサン」のなかの、「日本との同盟」と「レジスタンス」から、一部を省略して抜萃しました。
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             第一部 わたしが受け継いだもの

             第一部 わたしの父、アウンサン

 日本との同盟
 アウンサンは、軍事闘争の必要性について考えていた。幼い頃からの独立の夢とは異なるが、合法的手段で独立を手に入れる可能性を否定していたわけではなかった。大学生の頃には、文官試験を受けることも考えたし、教養に裏づけられた政治手腕とその愛国精神ゆえに、心から崇拝していたインドの政治家たちの例に倣うことも、おそらく考えただろう。
 有名な学生運動のリーダーになった後、アウンサンはラングーン大学の英語教授に、自分は「平和的革命家」だと書き送ったともいわれている。しかし、ビルマの国情は彼のそうした考え方を変えてしまった。アウンサンは、1940年に自らの考えをつぎのようにまとめている。

 個人的には、われわれの運動を世界に知らしめて支持を得ることも必要だと考えたが、民衆を民族闘争に駆り立てるという最も大事な仕事は、ビルマ国内で実行しなければならないとわたしは思っていた。
 わたしの計画の概要は以下のものだった。
 まず、イギリス帝国主義に対する民衆の抵抗運動がビルマ全土で展開される。それは世界および国内の流れとも歩調を合わせ、産業・農業労働者による各地での散発的なストライキがゼネラル・ストライキや地代不払い運動に発展し、また民衆のデモなどあらゆる形での闘争的プロパガンダや民衆の行進が大規模な民族抵抗運動につながるようにすることである。さらにイギリス帝国主義に反対する経済キャンペーンが、英国製品の不買運動という形であらわれ、最後には納税拒否運動に発展していく。そして、この計画は軍部、官僚、警察機構の各機関や情報網を攻撃するゲリラ活動の展開によってさらに勢いを増し、その結果、わがビルマにおけるイギリス人の統治が終焉を迎えるという筋書だった。その時こそ、世界情勢の変化に同調しながら、ついにはわれわれが権力の掌握を宣言できる時だったのである。さらには、英国政府に帰属する軍隊のなかで、とりわけイギリス人以外で編制された部隊が、われわれの側に寝返ってくれることをわたしは期待していた。
 計画の中でわたしは、日本がビルマに侵攻してくる可能性についても考えはした。しかし、その時点でそれを明確に想定することはできなかった。
 ・・・
 1940年8月、アウンサンともうひとりのタキン、フラミャイン(後のヤンアウン)が、ハイリー号(海利号)に乗ってビルマを脱出した。彼らは、中国アモイのカウンロンスにある外国の租借地に着いた。彼らはそこに数ヶ月間滞在し、中国共産党と接触をはかろうと空しい努力を続けた。中国共産党との接触は実現しなかったが、彼らはある日本人に会った結果、日本で鈴木敬司大佐に会うべく東京に飛んだ。鈴木は日本軍の将校で、やがて南機関の機関長として有名になる人物だった。南機関は「ビルマの独立を支援し、ビルマ・ロードを遮断すること」を任務とする秘密軍事組織だった。
 ・・・
 「自由ブロック」のメンバーの意見は、日本の援助を受けるべきかどうかで分かれた。共産主義者たち(シュエやバヘェィン、タントゥン、テェィンペなどが力をもってえいた)は、日本のファシスト政府と協力する考えに特に反対だった。しかしアウンサンは、援助の手を差し伸べてくれる所からはどこからであれ援助を受け入れ、事態の推移を見守るべきだという現実的な考え方をしていた。とは言え、彼自身が認めているように、それが結果にどう結びつくかは、充分に考えぬいていたわけではなかったようである。
 東京では、アウンサンと鈴木が相互理解を深めていたが、双方にためらいもあったようだ。鈴木は、アウンサンの誠実さと愛国精神は認めていたが、「彼の政治的思想は充分に熟していない」と考えていた。
 それは、当時の評価として必ずしも不当なものではなかった。と言うのも、日本の侵攻を招いたのは自分や同胞たちの「ファシズムへの傾倒ではなく、自らの失策と小ブルジョア的小心さだあった」と、アウンサン自身が記している。日本に向かう途上、アウンサンは不安にかられていた。日本に来てみると、状況が「さほど悪くない」ことが分かり安心したが、心配はなお残った。彼は、日本人の愛国精神や清廉潔白さ、禁欲的な姿勢に尊敬の念を抱いたが、軍国主義思想の「残虐さ」には反発を覚えたし、女性に対する態度には少なからぬショックを受けた。
 アウンサンは、1941年2月、中国人の船員に変装してビルマに戻った。彼は、日本からある申し出を受けていた。これはきっと、反乱を支援する武器と資金の提供だろうとビルマ側は理解していた。
 選り抜きの若者たちに軍事訓練が行われることになり、彼らは密かに国外に脱出することになった。アウンサン自身は早々にビルマを離れ、レッヤーその他三人と共に再び日本に行った。彼らは「三十人志士」と呼ばれる先鋭メンバーだった。三十人は、やがてビルマ独立義勇軍(BIA)の中心的存在となるのだが、彼らの選抜の基準は、その人望(投獄中の民族主義者は除外)と、タキン党内の派閥の対立(将来の紛争の原因)を抑えたいという意向にそったものだった。
 海南島で、三十人は厳しい軍事訓練を享け、その中から、アウンサン、レッヤー、トゥンオウ、アウンタン(のちのセッチャー)が、司令官、指揮官としての特別訓練のために選抜された。タキン党の一派閥のリーダーだったトゥンオウが、このグループの「政治的指導者」に選ばれた。
 しかし、「三十人志士」のリーダーとしてのみならず、ビルマ独立義勇軍誕生後の軍の指導者として誰もが認める存在となったのは、アウンサンだった。彼は細身で、とりわけ頑強というわけではなかったが、優れた能力をもつ勇敢な兵士として、多くの困難に耐え抜いた。
 しかも「人間関係が下手だ」という批判があったにもかかわらず、心身ともに弱り果てた仲間を元気づけ、とりわけ若い者たちに心を配った。訓練生活への不満が出たり、日本人に対して感情が高ぶった時にそれを抑えるように言い聞かせたのは、ほかならぬアウンサンだった。と言うのも、若い訓練生の多くは一部の指導官に対して尊敬や親愛の情を抱いてはいたが、日本人の態度をある面ではきわめて不愉快と感じていたのだ。二つの民族の間には、1941年末の日本軍のビルマ侵攻以前にすでに摩擦が生じ始めていた。
 ビルマ独立義勇軍は、海南島軍事基地の訓練生とビルマ系のタイ国人と南機関のメンバーによって構成され、1941年12月にバンコクで正式に結成された。鈴木が司令官となり、アウンサンは、副司令官格の参謀となった。
 結成したばかりの軍の隊員は、忠誠の誓いを立て、将校たちは勇ましい響きをもつビルマ名を使うようになった。例えば、鈴木はモウジョウ(「雷」の意味)、アウンサンはテーザ(「火」の意味)と名乗った。「三十人志士」のほかのメンバーもやがてその名を知られるようになったが、その中には、レッヤー、セッチャー、ゼヤ、ネウィン、ヤンナイン、チョオゾオといった人々がいた。しかし、「テーザ」の名は、やがて彼がまだ学生でタキン党の指導者だった頃に国内に知れ渡っていた元の名前、アウンサンに戻った。彼が国民的英雄として偶像視されるようになったのは、「将軍ボジョウ)」アウンサンとしてであった。ビルマ独立義勇軍が日本軍と共にビルマに進軍したことは、ビルマ人にとって非常に誇らしく、喜ばしいことであった。ビルマ人は、自分たちの民族の尊厳がついに認められたと感じた。
 しかし、すでにアウンサンとその同志たちは、目の前に難題が控えていることに気づいていた。彼は、まだバンコクにいた間にビルマ国内の民族主義者たちに対して独立の準備を進めるよう、そしてそれを既成事実として日本に認めさせるように働きかけたと、記録に残している。それが失敗に終わると、民衆を動員し、侵略者日本が権力の地盤を固めることのないよう、地下活動による抵抗運動を開始した。しかし、ビルマは混乱常態に陥り、政治家の多くは投獄された。そのためにあらゆる計画が実行不能となり、ビルマは日本に占領されてしまった。
 日本による占領の物語は、幻滅と疑惑と苦痛の物語である。イギリスから離れて自由になることができると信じていた人々は、今度はアジアの同胞によって支配されることになり、激しい落胆を覚えた。多くの人々は日本の兵士を解放者として歓迎していたのだが、その正体は、評判の悪かったイギリス人以上に悪質な圧制者だった。日ごとに忌まわしい事件が増えていった。ケンペイ(日本の軍事警察、憲兵)という言葉が恐れられ、人々は、突然失踪や拷問、強制労働が、日常生活の一部となった世界で生きる術を身につけなければならなかった。
 それに加えて、連合国と日本軍の双方からの爆撃による被害、戦争による物不足、密告、異なる国同士の気質と文化の衝突、共通の言葉を持たない人間同士の避けられない誤解といった問題もあった。もちろん、正義と人間の道に則した生き方をし、ビルマの味方となる日本人もいた。しかし、軍国主義的な人種差別が幅をきかす中では、彼らの積極的な貢献も水泡に帰した。
 南機関のメンバーで、ビルマに独立を約束したからには、面目にかけても実現しなければならないと考えていた人々は、事態の推移に苦々しい気持ちを抱いていたようだ。実際に、鈴木は、1942年にラングーンが日本軍の手に落ちた直後、トゥンオウを首班とするビルマ中央政府を作った。しかしこの政府は短命に終る。
 なぜなら、占領下の状態が長引くにつれて、日本軍が軍政を敷き、ビルマは征服された一領土として扱われるようになっていったからだ。ビルマ独立義勇軍の立場は、不安定で厄介なものとなっていた。義勇軍は、行軍に加わってきた補充兵でどんどんふくれ上がっていったが、こうした新兵は、部隊の一員として効率的に動けるような訓練も教育も受けていなかった。アウンサンは、部下を指揮する権限を与えられず、鈴木の参謀将校に過ぎなかった。
 一方で鈴木は、ビルマの将来を巡って日本の軍政と義勇軍の間で苦しい立場にたっていたようだ。アウンサンと彼の同志たちは、義勇軍の指揮権をビルマ人将校に譲るべきだという気持をしだいに強めていった。レッヤーは、自分とアウンサン、そのほか数名の「三十人志士」のメンバーが、この問題で鈴木と対決した劇的な場面を記録に残している。この結果、アウンサンがビルマ義勇軍の司令官に任命された。レッヤーが参謀長となった。
 アウンサンは、自らの立場や祖国の窮状について、何の幻想も抱いていなかった。独立のための闘争が決して終っていないことを知っていた彼は、軍隊の強化と訓練を徹底的に行った。同時に、ビルマ独立義勇軍を党派政治から遠ざけ、行政上の問題に介入させないように努めた。しかし、政治を軍から切り離す時はすでに遅く、軍の中枢が政治を掌握していたことをアウンサンは知っていたに違いない。1942年7月、鈴木はビルマを去り、ビルマ独立義勇軍は「ビルマ防衛軍」に改編された。アウンサンは司令官となり、大佐の地位に就いた。しかし、日本人の軍事「顧問」が、新しい軍隊の各レベルに配属され、ビルマ人将校の実際の権限はかなり制限されていた。8月には、ビルマ日本軍の司令官、飯田中将がバモオを首相に据えた。表面的には、ビルマ政府は国民のものとなったかのように見えたが、実際には、それは完全に日本軍の支配下にあった。

 レジスタンス
 アウンサンとその同志は、ビルマ独立義勇軍(BIA)との行軍で体力を消耗し、マラリアもこれに追い打ちをかけて、その多くが入院した。アウンサンが大勢の仲間とともに運び込まれたラングーン総合病院では、献身的な医師と看護婦たちが働いていて、大変な混乱の中で最大限の治療を施そうと努力してくれた。アウンサンはその厳めしい顔つきと、近寄りがたい雰囲気、さらに英雄であるという評判が広まっていたこともあって、新参の看護婦たちは彼を恐がって、ほとんど近づこうとしなかった。
 そのため、彼は若いが経験の豊富な看護婦、マ・キンチーの介護を受けるようになる。彼女は大変魅力的な女性で、治療に打ち込むその姿勢は、患者からも同僚からも深く敬愛されていた。彼女の優しく、そして明るく献身的な介護を受けるうち、皆に怖がられていたこの最高司令官も、すっかり彼女に魅了されてしまった。アウンサンは内気だったし、強い使命感を持っていたので、それまで女性を避けてきた。自らに非常に厳しかった彼は、東京で鈴木から女性を提供されたとき(鈴木にしてみれば、おそらく本流の親切心からやったことなのだろうが)、たいへんショックを受け、この年上の男は自分を「堕落」させようとしているのではないか、と疑ったほどだった。
 ・・・
 1943年3月、アウンサンは少将に昇格、日本へ招かれて天皇から勲章を授かった。この日本への代表団は、バモオが団長を務め、アウンサンのほかに、ビルマの優れた政治家、テインマウンとミャも同行した。日本の東条首相はこの年の1月、まもなくビルマの独立が認められると発表しており、代表団は一通の文書を携えて帰って来た。
 その文書は、アウンサンの簡潔な言葉を借りれば、「ビルマは1943年8月1日をもって独立を認められ、われわれは条約を締結することになるであろう」という内容だった。アウンサンはその文書をあまり重大に受け止めてはいなかった。8月1日、ビルマはその文書どおりに、主権を有する独立国家として認められ、大東亜共栄圏の対等なメンバーとなる。バモオは首相となるとともに、アディパティ(「国家代表」の意)も称号を与えられた。
 アウンサンは陸軍大臣となった。日本はさまざまな策略を使って、ビルマ国軍(BNA)と改名されたビルマの軍事力を弱めようと試みた。最初は軍隊を国中に分散させて配置し、その後、ニ三カ所に集中させたりして、陸軍省と実戦部隊の接触を困難にしようとした。アウンサンは冷静沈着だった。彼は、日本の示唆することには何でも同意しながらも、胸中を明かさず、独自の計画を練った。
 アウンサンが、レッヤー、ゼヤ、ネウィン、チョオゾオら、数人の軍将校を招集し、レジスタンスの時機について討議したのは、彼が東京から帰ったころのことだったにちがいない。将校たちは事態が好転するまで待つように主張した。アウンサンがしぶしぶこの意見に同意したのは、タントゥンとこの問題について話し合ったすぐあとだったと思われる。タントゥンも、まだ機が熟していないという意見をのべたのである。ほかの共産党員、特にシュエとテェィンペは、イギリスの撤退によって監獄から解放される前から、ずっと抗日運動を唱えていた。
 日本軍の前進とともに、彼らは地下に潜行し、テェィンペは、シュエボーでアウンサン、ネウィンと短い会談を持ったあと、イギリス軍との接触を図るためインドへ向った。1943年11月には、対日反乱の計画は着実に進み、ビルマの山中に隠れてゲリラ部隊を組織しようと狙っていたシーグリムという少佐は、「ビルマ国軍のアウンサンという人物が、機を見て日本に攻撃を仕掛けようと計画している」と、インドに報告している。
 アウンサンはレジスタンスの準備が完了するまでは、日本からの疑いをそらしておかなければならなかった。が、その一方で彼は国民に対しては、現在の「独立」はみせかけであって、真の独立のための闘いはこれから始まるのだ、と大胆な発言をしていたのである。
 1942年の終わりごろ、ビルマ防衛軍内の無責任なメンバーと、国内の主要民族のひとつであるカレン族との間で衝突が起こり、大規模な流血事件と民族紛争になった。アウンサンは、ビルマの異民族間の関係を良好に保つことが、国家統一にとって不可欠であることを知っており、この問題をいつも非常に重視してきた。
 1940年に鈴木のために描いた「ビルマ独立の青写真」のなかで、彼はすでに「イギリスの陰謀によって、大多数を占めるビルマ族と、アラカン州、シャン州などの山岳民族との間にできてしまった大きな溝を完全に埋め、各民族を統一してひとつの国家とし、平等な扱いを受けられるようにする」ことの必要性を強調している。
 カレン族とビルマ族の争いは、アウンサンを大いに悩ませた。1943年の後半を通して、彼とタントゥン、レッヤーは、この二民族間に平和と理解をもたらそうと懸命に力を尽くした。彼らの必死の努力は報われた。カレン族はビルマ族のリーダーたちを全面的に信頼するようになり、カレン族の大部隊がビルマ国軍に加わったのでる。
 アウンサンが急いで解決しなければならなかったもうひとつの問題は、共産党員とビルマ革命党の社会主義者との間でしだいに高まっていた敵対感情だった。共産党のリーダーはシュエ(日本の占領下、ずっと地下での活動を続けた)、タントゥン、(農林大臣になっていた)、バヘェィンで、これに対してチョオニェィンとバスェの二人が、最も活動的で傑出した社会主義者だった。アウンサンは、この両者の間を取りなそうと必死で努力した。
 こうした調停は迅速に行われた。と言うのは、このころ、政治上の意見の相違が軍隊内部に広がり、軍の団結が脅かされそうになっていて、レジスタンスを成功させるチャンスも危うくなっていたからだ。さらにシュエが、反ファシスト運動の過程で、BNAを攻撃する宣伝を広めたことから、軍隊内部に憤りが広がり、アウンサンも腹を立てていた。数ヶ月にわたる意見交換をしたあと、1944年8月、アウンサンは、シュエ、タントゥン、バヘェィンと、数日間におよぶ秘密会議を持った。反ファシスト組織に関するアウンサンの提案が討議され、同組織結成へ向けて声明書の草案と、団結行動のための計画案が承認された。
 まもなく、共産党のリーダーとビルマ革命党のメンバーの間で会議が設定され、その席でアウンサンは、「立ち上がれ、そしてファシスト勢力を攻撃せよ」と題された声明を、ビルマ語で読み上げた。ここに、公式に反ファシスト組織(AFO)が発足、シュエが政治的指導者となり、タントゥンは参謀として対日連合国との連携を担当し、アウンサンは軍事指導者となる。当時ビルマ国軍内には若手将校も何人かいたが、アウンサンは自分の相談相手を、数人のタキン党のリーダーと幹部将校に限定していた。ところが、若い将校たちは、独自にレジスタンスを起こそうと計画した。これを知ったアウンサンは、事態を解決するため、彼らにAFOでの特殊任務を与えた。
 国内勢力の統一が終われば、あとは対日連合軍とどのように連携していくかを決めさえすれば、レジスタンスの計画は完了する。アウンサンとAFOのリーダーは、外部からの援助があろうとなかろうと、、日本に抵抗して立ち上がろうと決めていたが、連戦連勝の連合国の協力が得られれば、さらに有利になることは明らかだった。
 結局、イギリスの明白な理解が得られないまま、1945年3月27日に対日反乱は開始され、国中のビルマ軍が日本に反抗して立ち上がった。その10日前、アウンサンはラングーンで記念行進に参加し、それが終ると「作戦行動」のために、部下とともに首都を抜け出した。イギリス人将校スリムの第十四連隊は、すでにマンダレー北方のイラワジ河を渡っており、タントゥンもイギリス軍将校との会合を試みるためタウングーへ発っていた。対日反乱は一気に盛り上がった。
 5月15日、アウンサンは部下の将校を伴って、スリムをその本部に訪ねた。そのあとの会談で、アウンサンは大胆にも、自分はビルマ臨時政府の代表であると名乗り、ビルマにおける連合軍の指揮官の地位を要求した。しかし、このイギリス軍将校から最大限の譲歩を引き出そうとしながらも、アウンサンは自分が現実的で、協力的で、正直な人間であることを相手に分からせ、スリムの好意と尊敬を勝ち取ったのである。スリムはこう言っている。
 「彼から受けた最大の印象は、いわゆる誠実さだった。いいかげんな安請け合いを並べ立てたりせず、はっきりと公約することも躊躇していた。だが、もし何かをやると約束すれば、その約束は必ず実行する男だろうと思った」
 アウンサンとスリムとの会見後、ビルマ軍と連合軍は日本軍に対抗して共同作戦をとり、日本軍はあっと言う間に崩れ去った。6月15日、ラングーンで戦勝パレードが行われ、大英帝国と連合軍を代表する部隊とともに、ビルマ軍も参加した。対日反乱は終った。ビルマの民族主義者たちにとって、イデオロギーの違いや個人的意見より共通の目的が優先された。最も素晴らしいときであった。
 1945年8月、AFOは拡大して、広範囲にわたる社会団体、政治組織や個人を含むことになり、反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)と改名した。

 

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憲法改正草案第86条,89条,92条,93条,96条,98条,99条,100条の問題点を考える NO4

2021年06月02日 | 国際・政治

 これまで、何度も取り上げてきたのですが、昭和21年1月1日の官報号外に掲載された「詔書」、いわゆる天皇の「人間宣言」のなかに下記のような一節があります。

惟フニ長キニ亘レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハ動モスレバ焦躁ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪セントスルノ傾キアリ。詭激ノ風漸ク長ジテ道義ノ念頗ル衰へ、為ニ思想混乱ノ兆アルハ洵ニ深憂ニ堪ヘズ。
然レドモ朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。

 これは、日本の戦争が、”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”に基づくものであったということだと思います。どういう経緯で、こうした内容の「証書」が出されるに至ったかは分かりませんが、この内容に間違いはないと思います。
 にもかかわらず、自民党政権中枢は、戦後の日本を受け入れようとせず、「日本国憲法」を「押し付け憲法」として改定し、「世界人権宣言」に基づく国際社会の歩みとは違った道を進もうと意図しているように思います。
 それは、「日本国憲法改正草案Q&A増補版」のなかの「5国民の権利及び義務」に、下記のようにあることで察せられます。
権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたものです。したがって、人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要だと考えます。現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました。”
 でも、「天賦人権説」を含めた「自然権思想」は、あらゆる国の歴史、文化、伝統を踏まえた普遍的なものだと思います。だから、憲法改正草案は、そうしたことを踏まえ、日本国憲法と比較してみていく必要があると思います。

 日本国憲法第86条には
内閣は、毎会計年度の予算を作成し、国会に提出して、その審議を受け議決を経なければならない。
 とあります。
 自民党憲法改正草案第86条
内閣は、毎会計年度の予算案を作成し、国会に提出して、その審議を受け、議決を経なければならない。
2 内閣は、毎会計年度中において、予算を補正するための予算案を提出することができる。
3 内閣は、当該会計年度開始前に第一項の議決を得られる見込みがないと認めるときは、暫定期間に係る予算案を提出しなければならない。
4 毎会計年度の予算は、法律の定めるところにより、国会の議決を経て、翌年度以降の年度においても支出することができる。”
 となっています。特に問題だと思うのは、4の”毎会計年度の予算は、法律の定めるところにより、国会の議決を経て、翌年度以降の年度においても支出することができる。”という条文です。
 国の予算は原則として「単年度主義」です。この「単年度主義」は、毎年度の予算に対する国会の審議権を確保するために欠かせないものだと思います。しかしながら、最近、この予算の単年度主義の例外である「継続費」や「国庫債務負担行為」が増え、歳出の複数年度化が進んでいるといわれています。そして、歳出の複数年度化は、後年度の歳出の硬直化や国会審議の空洞化をもたらすので、問題があると指摘されているのです。また、それらが主に防衛予算と関わり、護衛艦や潜水艦の建造に用いられている現実を見逃すことが出来ません。防衛予算の特別扱いが進んでいるということだと思います。それを憲法で正当化するような改定は、国会の審議を軽視するもので、重大な問題だと思います。一度決めたら変えられないというような国家予算の会計年度をこえた支出の仕方は、憲法に定めるべきではないと思います。

日本国憲法第89条には、
公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。”
 とあります。
 自民党憲法改正草案第89条は、
公金その他の公の財産は、第二十条第三項ただし書に規定する場合を除き、宗教的活動を行う組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため支出し、又はその利用に供してはならない。
2 公金その他の公の財産は、国若しくは地方自治体その他の公共団体の監督が及ばない慈善、教育若しくは博愛の事業に対して支出し、又はその利用に供してはならない。
となっています。” 第二十条第三項ただし書に規定する場合を除き”の部分が問題なのです。”社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないもの”は別だという理由で、「神道」を特別扱いすることになると思われるからです。なぜなら、全国にある護国神社靖国神社が、戦前の日本人の生活と深く結びつけられていたので、それらに関わる行事などが、社会的儀礼又は習俗的行為として復活し、財政的に支えられることになると思うのです。

日本国憲法第92条には,
地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。
とあるのですが、自民党憲法改正草案では、これが第93条になり第92条は、
地方自治は、住民の参画を基本とし、住民に身近な行政を自主的、自立的かつ総合的に実施することを旨として行う。
2 住民は、その属する地方自治体の役務の提供を等しく受ける権利を有し、その負担を公平に分担する義務を負う。
 と新しく追加された条文になっています。私は、地方自治を、この”住民に身近な行政”に限定することに大きな問題があると思います。
 例えば、沖縄に米軍基地が集中し、現実に生起している諸問題で、沖縄県民の切実な要望を受けた沖縄県の県政が、国政と対立していることに関し、地方自治体は国政に口を出すな、と抑え込むために利用されることになるのではないかと思います。国政と地方自治が政策的に対立する難しい問題は、いろいろあると思います。それを、地方自治は”住民に身近な行政”ということで、地方自治体が国政に抵抗することを、憲法で封じるような条文は、日本国憲法の精神、すなわち「地方自治の本旨」に反するものだと思います。
 また、 ”住民は、…その負担を公平に分担する義務を負う”と、あります。国政や地方自治が、国民のためになされることを定めた日本国憲法の精神が後退し、国民の義務が重視されているように思います。

 さらに、自民党憲法改正草案第93条では、
地方自治体は、基礎地方自治体及びこれを包括する広域地方自治体とすることを基本とし、その種類は、法律で定める。
2 地方自治体の組織及び運営に関する基本的事項は、地方自治の本旨に基づいて、法律で定める。
3 国及び地方自治体は、法律の定める役割分担を踏まえ、協力しなければならない。地方自治体は、相互に協力しなければならない。
 とあります。この、”国及び地方自治体は、法律の定める役割分担を踏まえ、…”の”役割分担”が問題だと思います。自民党憲法改正草案の考え方は、当然、地方自治は ”住民に身近な行政”ということでしょうから、地方自治が国政と対立することになった場合には、国政が優先され、抑え込まれることになるのではないかと思うのです。

 日本国憲法第93条には、
地方公共団体には、法律の定めるところにより、その議事機関として議会を設置する。
② 地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。
 とありますが、自民党憲法改正草案は、第94条で、
地方自治体には、法律の定めるところにより、条例その他重要事項を議決する機関として、議会を設置する。
2 地方自治体の長、議会の議員及び法律の定めるその他の公務員は、当該地方自治体の住民であって日本国籍を有する者が直接選挙する。
 と定めています。すでに触れたように、自民党憲法改正草案は、第92条で、”住民は、…その負担を公平に分担する義務を負う。”と住民の義務を定めていました。でも第94条では、”日本国籍を有する者”にしか、選挙権を与えていません。義務は公平に分担し、権利は、日本国籍を有するものだけしか行使できないのです。在住外国人の人権に配慮すべきではないかと思います。地方自治は ”住民に身近な行政”と言っておきながら、在住外国人の選挙権を認めようとしない自民党政権中枢は、未だに戦前の女性差別と共に、外国人差別も払拭しきれていないように思います。

 日本国憲法の第96条は、
”この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
② 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。”
 とあるのですが、自民党憲法改正草案では、「第十章 改正」の第百条になっています。そして、
この憲法の改正は、衆議院又は参議院の議員の発議により、両議院のそれぞれの総議員の過半数の賛成で国会が議決し、国民に提案してその承認を得なければならない。この承認には、法律の定めるところにより行われる国民の投票において有効投票の過半数の賛成を必要とする。
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、直ちに憲法改正を公布する。”
 となっています。 ”各議院の総議員の三分の二以上の賛成で…”が、”両議院のそれぞれの総議員の過半数の賛成で…”と変えられているのです。
 憲法は、専断的な国家権力の支配を排し、国家権力の監視と抑制を行うための大事な規範だと言われています。だから、単純過半数で進められるような簡単な問題ではないという意味で ”各議院の総議員の三分の二以上の賛成で…”とあるのだと思います。それを”両議院のそれぞれの総議員の過半数の賛成で…”と変えようとするのは、やはり、自民党政権中枢の過去の歴史認識が、一般国民のそれとは異なるからだろうと思います。憲法改正のハードルを下げ、簡単に憲法を改正できるようにして、少しずつ”日本を取り戻”そうということではないかと、私は思います。
 先だって憲法改正推進本部最高顧問に就任した安倍前首相は、かつて記者会見で、「憲法改正というのは、決してたやすい道ではありません。必ずや私たちの手で、私自身として私の手で、成し遂げていきたい」と語ったことが報道されました。それは、敗戦後の日本が、連合国(GHQ)によって無理矢理変えられてしまったので、憲法改正によって、戦前の日本、即ち「皇国日本」を可能な限り取り戻したいということなのだろうと思います。日本国憲法を「押し付け憲法」と主張する人たちは、皆同じ思いなのだろうと思います。したがって、安倍・菅政権の日本は、欧米を中心とする国際社会とは、進む方向が違っているのだと思います。

 東京五輪・パラリンピック組織委員会・森会長の”女性蔑視”発言や世界経済フォーラム(WEF)による「ジェンダーギャップ指数2021」で、日本が、世界156カ国のうち、120位という不名誉な結果も、そうしたことと無関係ではあり得ないことを見逃してはならないと思います。

 もともと、行政府の長である内閣総理大臣が、憲法改正を語り、そのための運動を主導すること自体がおかしなことだと、私は思います。率先して憲法を遵守し、国会の議決に基づいて行政を主導すべき内閣総理大臣が、”衆議院又は参議院の議員の発議により”進められるべき立法府の問題を主導することは、専制政治の始まりのように思います。そこにすでに安倍前首相の独裁性があらわれていたように思います。

 また、見逃すことができないのは、自民党憲法改正草案が、第九章として、第98条第99条で、下記のような「緊急事態」の条項を新たに設けていることです。
第98条
内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。
2 緊急事態の宣言は、法律の定めるところにより、事前又は事後に国会の承認を得なければならない。
3 内閣総理大臣は、前項の場合において不承認の議決があったとき、国会が緊急事態の宣言を解除すべき旨を議決したとき、又は事態の推移により当該宣言を継続する必要がないと認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、当該宣言を速やかに解除しなければならない。また、百日を超えて緊急事態の宣言を継続しようとするときは、百日を超えるごとに、事前に国会の承認を得なければならない。
4 第二項及び前項後段の国会の承認については、第六十条第二項の規定を準用する。この場合において、同項中「三十日以内」とあるのは、「五日以内」と読み替えるものとする。”


第99条
緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。
2 前項の政令の制定及び処分については、法律の定めるところにより、事後に国会の承認を得なければならない。
3 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。この場合においても、第十四条、第十八条、第十九条、第二十一条その他の基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない。
4 緊急事態の宣言が発せられた場合においては、法律の定めるところにより、その宣言が効力を有する期間、衆議院は解散されないものとし、両議院の議員の任期及びその選挙期日の特例を設けることができる。
 この緊急事態に関わる第98条と第99条は、内閣総理大臣にかつての「天皇大権」にも似た権限を与えています。
法律と同一の効力を有する政令を制定すること”できるほか、”内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。”とあるのです。
 また、国民は、” 国その他公の機関の指示に従わなければならない”とあります。一度「緊急事態」が発せられれば、誰も逆らえないということだと思います。

 日本国憲法の第97条は
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
 とありますが、これは過去の歴史を踏まえた大事な条文だと思います。でも、自民党憲法改正草案では完全に削除されています。そこに、すでに述べたように、歴史や憲法に関する認識があらわれているように思います。
 内閣総理大臣や内閣の行政権限を強化し、国民の権利や自由は制限しつつ、義務を明確にしようとする安倍・菅政権の方向性は、国際社会とは異なる方向性を示していると思います。だから、選択的夫婦別姓法案LGBT差別禁止法案も、簡単には成立しない難しさがあるのだと思います。 
 ただ、自民党政権中枢も、政権を維持する必要上、国際社会や国民の意識と甚だしく乖離した戦前回帰の意図を明白にできないというジレンマがあり、ところどころで妥協しつつ、時間をかけてゆっくり変えていこうとしているように思います。それだからこそ、この憲法改正が、本格的な戦前回帰の端緒として、重要な意味をもっているのだろうと思います。(条文のいくつかは、http://tcoj.blog.fc2.com/blog-category-4-1.htmlを利用させていただきました。)
 
 

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