真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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戦争期の日本の国家犯罪”阿片政策”

2011年04月26日 | 国際・政治
 「日本の阿片戦略-隠された国家犯罪」倉橋正直(共栄書房)の著者は、「日本の阿片政策」というテーマで研究を進めるかたわら、ケシ栽培農家を訪ねたり、自身で、ケシの乙種研究栽培者の許可を得て、ケシの栽培にも取り組んだようである。そして、日本の阿片政策をケシ栽培の側面からも追及している。日本のケシ栽培の普及に力を尽くし、「阿片王」といわれたニ反長音蔵(ニタンチョウオトゾウ)についても、彼のケシ栽培や阿片生産に関する著書の内容にまで踏み込んで分析・考察したり、また、新たな情報を得るべく彼の遺族を訪ねたりして、ほとんど知られていない数々の事実を明らかにしている。
 さらに著者は、名古屋商工会議所図書館で、佐藤弘編『大東亜の特種資源』(大東亜株式会社、1943年9月)という貴重な書物を発見し、その内容の一部を取り上げて、考察を加えつつ紹介している。『大東亜の特種資源』によると、明治以来の日本のモルヒネ輸入量は、戦争によって急増し、1920年に最高を記録するが、モルヒネの国産化に成功すると、輸入量は急速に減少し、1930年を最後に輸入は終わる。そして、一転、日本は世界有数のモルヒネ生産国へとのし上がっていったのである。
 1935(昭和10)年には、モルヒネ製造量が世界第4位となり、ヘロインでは世界第1位の製造量になっていたという。1934(昭和9)年のヘロイン生産量は、世界生産の5割近かったというから恐れ入る。技術が進歩し、阿片からモルヒネやヘロインが抽出されるようになると、阿片を吸煙する方法から、モヒ丸(モヒガン)といわれる丸薬や注射による利用が広まり、中毒者の心身の荒廃スピードが、一層早まって、数年で死にいたるケースが多かったといわれているのである。おまけに、丸薬や注射は阿片吸煙よりずっと簡単で、比較的値段も安く、中国の人々に急速に広がっていったようである。日本の阿片政策は、収益目当ての許されない政策であったが、戦後もそうした事実がきちんと明らかにされていない現実を、とても残念に思う。
 日本の歴史には、隠蔽された事実が多々あるが、それらを明らかにする貴重な研究の一つだと思う。同書の中から、日本の阿片政策の問題点についてまとめている部分を抜粋する。
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            第1章 国際関係の中での位置づけ

 国家ぐるみの犯罪

 阿片・モルヒネ類の生産配布などの仕事(いわゆる阿片政策)は、国内では、内務省(ただし、1938年1月以降は新設の厚生省に移管)が担当した。また、外地では、台湾総督府や朝鮮総督府などの植民地官庁が、阿片政策にかかわった。さたには、後になると、興亜院や大東亜などの官庁も、この仕事に加わった。この他、軍部も、この問題に深くかかわっていた。これらの官庁や組織は、みな国家組織である。国家組織が、長年にわたって、阿片モルヒネ類を大量に生産し、それを密輸出していた。


 一方、1912年のハーグ阿片条約以来、一連の国際条約で阿片類の密輸出は公には禁止されていた。だから、前述のような、日本の行為は明らかに国際条約に違反していた。それに、国家組織が密接に関与していたのであるから、日本の阿片政策は、国際条約に背いた、いわば「国家ぐるみの犯罪」というべきものであった。
 ・・・(以下略)


国際条約を結ぶ意味

 国際条約を締結し、阿片類の密輸出をしないことを、日本は国際的に約束する。しかも、たった一回限りではなく、きちんとした条約だけでも、少なくとも、4回も、ほぼ同じ趣旨の内容を国際的にくり返し約束している。従って、阿片類を中国などに密輸することは、明らかに国際条約違反であった。日本が阿片類の密輸出をしていることが暴露され、公に追及されれば、日本が国際的に激しく非難されることは目に見えていた。この件で、日本は申し開きは許されなかった。国際条約を結ぶということは、本来、それだけの厳しさを締結国に求めていた。そのことを、当時の日本の為政者は十分に理解していた。

 だから、国際条約に違反するような阿片政策を進めるべきではないという、いわば良識派も、日本の為政者の中にいたはずである。彼らは、万一、阿片類の密輸出がばれた場合に受ける、ダメージの大きさを考慮し、国際条約に違反する阿片政策をやめるように主張したことだろう。しかし、結果的には、そういった良識派の主張は退けられてしまい、実際には、国際条約違反を承知の上で、日本は前述のような阿片政策を進めてしまう。


阿片の収益の大きさに目がくらむ

 日本が財政的に余裕があれば、国際条約を締結した以上、それを遵守し、阿片類の密輸のような汚い仕事に、手を染めたくなかったはずである。しかし、当時の日本の財政基盤は脆弱であった。富国強兵をめざす日本の当局者にとって、たとえ、汚いものであっても、阿片政策がもたらす金を、無視することは不可能であった。
 しかも、その額は、生半可なものではなかった。裏の世界においてであっても、それは財政の基幹部分を形成するといっても、決して言い過ぎとはならなかった。阿片政策の収益が、もし、とりたてていうほど大きくなければ、ばれた時の非難が恐くて、きっと、やめたことであろう。

 万一、ばれた場合、国際世論から激しく非難・攻撃される危険性と、続けた時の収益の大きさを天秤にかける。後者が大きかった。前者の危険性もたしかに無視しえなかったが、しかし、後者によって得られる収益の大きさは、なお、それを補ってあまりあると判断された。結局、阿片の収益の莫大さに目がくらんで、日本は後者を選択する。
 こうして日本の当局者は、国際条約違反は百も承知で、阿片類を大量に密輸出する方針を、敢えて捨てなかった。ばれて国際的な非難を浴びる危険性は十分、承知しているが、なお、国際条約違反(=非合法)で、かつ、非道徳的な汚い道を選んでしまう。いってみれば、背に腹は替えられなかったということであろうか。実力以上に背伸びして、国際社会の中に出ていった無理が、ここにも現れていた。



関係資料をひたすら隠す

 こうして、日本は前述のような阿片政策を敢えて採ることになる。しかし、それが国際条約に違反した、本質的に非合法なものであることを、日本の為政者はよく承知していた。彼らにとって、それは、まさに人の目にさらしてはいけない恥部であった。
 そこで国際世論をはばかるため、阿片関係の資料は意識的、かつ、組織的に隠滅させられた。それは徹底していた。阿片モルヒネ問題で、日本が国際条約に背いた行為をしていることを、諸外国に知られてはいけなかったからである。阿片に関する事項は、極力、隠された。それは、諸外国に対してというだけでなく、国民の目からも隠された。
 まず、阿片関係の統計資料は、なるべく出さないようにされた。従来、主に国際聯盟に提出するために、内地だけでなく、支配する植民地まで含んだ阿片関係の包括的な統計が、内務省によって刊行されていた。しかし、この統計も、1928年を最後にして、以後、刊行されていない(ただ、地方レベルや植民地のものは、もっと後までわかるが)。また検閲によって、新聞などのマスコミが、阿片・モルヒネに関することを報道することは、ほぼ全面的に禁止された。戦前軍事関係を除けば、阿片に関する事項に対して、報道管制が最も厳しかったといっても、まず、さしつかえなかろう。それだけ、為政者は阿片問題には気を使っていたのである。



 肝心の日本の阿片政策は知られていない

 こうして、戦前、日本が行った阿片政策は、闇から闇へ葬り去られ、これまで、広く国民の目にふれる機会はあまりなかった。だから、国民は、戦前、日本が国際条約に背いて、中国などに阿片類を密輸出していたことをほとんど知らない。また、それと関連して、内地でも、和歌山県や大阪府で、大規模にケシが栽培されていたことさえ、一般にはほとんど知られていない。
 現状では、阿片の輸出というと、日本国民は、おそらく、イギリスがインド産の阿片を中国に持ち込んだことを、すぐに思い出すことであろう。すなわち、18世紀末から、イギリスは、中国の茶を本国に、本国の綿製品をインドに、インド産の阿片を中国に運ぶ、いわゆる三角貿易を行う。それがやがて阿片戦争につながってゆく。──こういったイギリスの当時の阿片政策のことは、高等学校の世界史できちんと教えられている。だから、それはいわば国民的な歴史認識の段階に達している。
 しかし、肝心の日本の阿片政策については、これまでほとんど知られていない。戦前、日本が推進した阿片政策は、これまで述べてきたように、客観的にいって、イギリスのそれよりも、はるかに大規模であり、かつ、影響はもっと深刻であった。にもかかわらず、日本国民は、日本が行った阿片政策について、ほとんど知らない。

 ・・・(以下略)


私の失敗──厚生省は戦前から存続

 ・・・
 戦時体制下、阿片政策を推進してきた厚生省の責任は重い。それ以前に担当した内務省とともに、当然、厚生省もまた、その責任追及からのがれられない。ところが、後述するように、戦後の東京裁判で、内務省も厚生省も、阿片政策を担当した責任をうまくのがれる。彼らが行った阿片政策は、不問に付され、結果的に免罪される。
 このこともあって、阿片政策を担当したことに対して、彼らはなにも反省していない。だから、自分たちが行ってきた阿片政策に関する資料を全く公表していない。まず、旧内務省の場合である。戦後になって、旧内務省の官僚は大霞会という団体を組織する。彼らが編纂した大霞会編『内務省史』(原書房、1980年)は、全体で4000ページにも及ぶ浩瀚(コウカン)な書物である。しかし、阿片に関しては、たった2ページ、それも法律の制定について記しているだけである。これでは、内務省が担当していた阿片政策は、その片鱗さえもわからない。
 厚生省も何回か自分たちの歴史をまとめている(厚生省20年史編集委員会編『厚生省20年史』1960年。厚生省五〇年史編集委員会編『厚生省五〇年史』1988年)。しかし、これらの書物もまた、阿片政策のことをまともに扱ってはいない。
 このように、阿片に関する事項は、「とにかく隠す、表に出さない」という戦前の方針が、戦後にまで、そのまま、続いている。だから、日本の阿片政策の中でも、基幹部分を占めていた内務省や厚生省の資料は、今日に至っても、全く公表されていない。今後、こういった資料の公開を求めてゆく運動が必要である。

 ・・・(以下略) 

 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を示します。  

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続く旧日本軍毒ガス遺棄弾の被害

2011年04月10日 | 国際政治
 中国のみならず、日本でも旧日本軍の毒ガス遺棄弾による被害が出ていることを「化学兵器犯罪」常石敬一(講談社現代新書)は取り上げている。そして、遺棄弾の調査と処理を急ぐべきだという。まったくその通りだと思う。関係者は高齢化しているが、今ならまだ遺棄した場所や投棄した場所が分かるかも知れない。毒ガス兵器の廃棄や投棄、遺棄について文書を残したとは思えないだけに、急がないと分からなくなってしまう。これ以上被害者を出さないようにするために、また、戦後の日本が真に民主的な平和国家に生まれ変わったことを示し、信頼を取り戻すために、毒ガス遺棄弾の調査と処理を急いでもらいたいと思う。
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                第1章 化学兵器の今

1 旧日本軍の毒ガスの亡霊がが出てきた

 日本での井戸水汚染
 2003年に入って、旧日本軍の毒ガスによる人への被害がいくつか表面化した。ひとつは4月になって明らかとなった、茨城県神栖(カミス)町で起きた1歳7ヶ月の男児を含む数十人の井戸水のヒ素汚染による健康被害だ。被害者達が飲んでいた井戸水の汚染は環境基準の450倍だった。原因は、毒ガスであるくしゃみ剤が地中で分解して、その成分が地下水を汚染したものと考えられる。
 もうひとつは、 8月になって中国チチハルの工事現場で掘り出されたびらん剤による死傷者の発生だ。こちらは死者1人を含め40人ほどが被害を受けた。
 茨城県の被害について日本政府はその原因が旧軍の毒ガス、くしゃみ剤によるものであることをほぼ認め、被害者の救済に乗り出した。 くしゃみ剤による被害であることが確実であると認められた人には、国から医療補助をするため、「医療手帳」を交付している。同年9月初めの段階で61人が手帳の交付を受け、それ以外に150人程が被害を訴え、手帳の交付を求めている。
 被害が表面化した時に、脳性マヒを疑われた1歳7ヶ月のの男児は、歩けず言葉を発することがなかった。歩けないというのは、ヒ素中毒によって神経を圧迫され、関節に痛みやしびれを感じていたためではないか、と思われた。5月にその子の母親から直接うかがったところでは、転居2ヶ月頃から嘔吐し、また咳き込むようになった、ということだった。
 7月になり新聞に「男児が歩いた」という見出しが躍った。井戸水をやめ、水道水にしてから4ヶ月目のことだった。これは単にヒ素で汚染されていない水に切り替えただけではなく、体内のヒ素を体外に出す特別な治療法(キレート療法)の効果とあいまっての朗報だった。
 
 中国で死者が出る
 8月になって中国から、チチハルの工事現場からびらん剤が掘り出され、数十人が被害を受けている、というニュースが飛び込んできた。
 この事件について日本の外務省は8月12日に1回目の外務省報道官談話、「黒龍江省チチハル市における毒ガス事故について」を発表し、「8月4日に黒龍江省チチハル市において発生した毒ガス事故は、その後の調査の結果、旧日本軍の遺棄化学兵器によるものであることが判明した」としている。さらに中国政府からの通報として、「チチハル市の建築現場において掘り出されたドラム缶から漏れ出た液体により、建築作業員が頭痛・嘔吐等の症状をきたし、29人が入院し、そのうち3人が重体」という事実を明らかにした。

 
 さらに8月22日には新たな外務報道官談話が出され、「22日午前、中国外交部よりわが方在中国大使館に対し、今回の事故の被害者のうち1名が、21日午後8時55分に死亡した旨の通報があった」ことが明らかにされた。この時点までに被害者総数は、亡くなった人も含めて、43人になっていた。10月になって日本政府はこれら被害者に対して合計3億円程度を支出することを決定した。日中国交正常化時に、中国は賠償請求権を放棄しているため、3億円は見舞金として支払うようだが、それは日本政府の理屈であり、中国側がそうした理解をするかどうかはおぼつかない。その内訳は遺族や中毒患者への見舞金、患者の入院費、現地の医療チームに対する支援金などとなっている。なお今回発見されたびらん剤とそれが入っていたドラム缶の処理は今後日本政府がやることになり、3億円にはその無毒化処理費用は含まれていない。

 ・・・(以下略)

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               第5章 毒ガスの明日

 日本がなすべきこと

 ハルバレイの67万発の処理を早めることも重要だが、それ以上に早急に行うべきことがある。日本は第3章で見たように、戦争中東南アジアおよび太平洋戦線にあか弾を中心に文書上判明しているだけで27万発の毒ガス砲弾を配備していた。これまでのところ、被害の報告はない。しかし今後もないかどうかは分からない。被害が発生してからでは遅い。また中国でも今後チチハルのような事態を繰り返さないための方策を日本は取る必要がある。


 日本はこれらの地域について、敗戦時の毒ガス配備の状況を調査することが求められている。そして得られた情報をそれら各国に提供する必要がある。筆者が調べた限りでは、1944年以降の公文書が公開されていないのか、それとも廃棄されてしまったのか、閲覧できない。自国の戦争中の兵器の配備状況が、その国の公文書で確認できないなどということがありうるのだろうか。しかし日本とはそうした歴史に無頓着な国なのかもしれない。もしそうだとすれば国際的にはみっともないことだ。米国その他の公文書館を調べ、日本軍の敗戦時の状況を詳しく調査すべきだろう。

 配備状況をつかんだうえで次になすべきことは、敗戦時に、毒ガス使用は国際条約違反であることを認識して、毒ガス弾を埋めたり池や沼に投棄したりした人の証言を得ることだ。ここに遺棄したなどということは公文書には出てこない。証言を得るためには、お国の為に毒ガスを遺棄したという責任を感じている元兵士が証言しやすい環境を作る、すなわちもうしゃべっても良いのだと思ってもらうことだ。それには政府が毒ガス使用は秘密ではないことを示すことだ。それは日本が各種の毒ガスを使ったことを明確に認めることだ。政府には、戦前の日本が老いた元兵士たちにかけた「秘密保持」という呪縛を解く義務がある。呪縛からの解放だけは早期に実現してもらいたい。
 そうした調査および証言に基づいて、日本が毒ガスの所在調査を進めることは、アジア諸国の信頼をかちとる道となるだろう。またそれが悲劇を繰り返さないために必要なことだ


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海外における旧日本軍毒ガス兵器の遺棄・投棄

2011年04月09日 | 国際・政治
 敗戦前後に、旧日本軍が遺棄したり投棄したりした毒ガス兵器については、戦後日本国内では、「忘れさられていた」ともいえる状況にあった。しかし、1990年に中国が「旧日本軍が残したものなので日本側に責任がある」と毒ガス兵器の廃棄処理を要求し、1992年の化学兵器禁止条約のなかに、遺棄国廃棄条項が盛りこまれたことで、再び大きな問題となった。下記は、国際条約違反の毒ガス兵器の遺棄・投棄にかんする部分を「毒ガス戦と日本軍」吉見義明(岩波書店)から、また、実際に毒ガス兵器の廃棄・投棄の作業に関わった軍属の証言を「日本軍の毒ガス戦 迫られる遺棄弾処理」小原博人他(日中出版)から抜粋したものである。

「毒ガス戦と日本軍」吉見義明(岩波書店)----------------
                 Ⅹ 敗戦・免責・遺棄・投棄

 3 中国での毒ガスの遺棄

 海外での毒ガスの遺棄

 1944年に、対米英戦用の毒ガス弾薬の基地として指定されたマニラ・シンガポール・トラック島・上海・青島・大連には相当数の毒ガスが集積されていた。海外の日本軍は毒ガスを連合軍に引き渡すことなく事前に投棄しようとした。これらの集積基地はすべて海に接しているので、敗戦前後に近くの海に投棄されたと推測される。また、投棄は現地軍の独断でできることではないので、陸軍中央からの指示が出されたと思われる。

 マニラでは、毒ガス弾薬はアメリカ軍の進攻が予想される1944年10月にコレヒドールに移されたが、それを海没したいという要望が第4航空軍(またはマニラ航空補給廠)から出されていたことはすでにみたとおりである(第Ⅶ章)。戦後、マニラやコレヒドールで日本軍の毒ガスが発見されたという情報はないので、アメリカ軍進攻前にマニラ湾に投棄されたのであろう。1945年8月24日、スラウェシ(セレベス島)マカッサルにいた海軍第23特別根拠地隊は、ガスマスクを含む「あらゆる化学戦資材の痕跡を廃絶すべし」という指示を出している。


 中国ではどうだっただろうか。毒ガスの配備は関東軍と支那派遣軍がもっとも充実していた。とくに。関東軍は、実験・演習、一部討伐戦などを除いてほとんど毒ガスを使用しなかったので、大量に残っていた。これらはソ連参戦・日本降伏の直後に、海・河・地中・古井戸などに投棄されるか、その余裕がない場合弾薬庫に遺棄された。たとえば、吉林省敦化にいた第16野戦兵器廠は、黒龍江省石頭に集積した弾薬爆破のため8月11日に兵士3名を派遣している。この兵士たちは15日から「化学戦弾薬だけ埋没を開始したが、武装解除迄完了しなかった」という。また、敦化の大橋、沙河沿、秋梨溝、大山、馬鹿溝、林勝などではソ連軍の進撃が急なため毒ガス弾薬を処分する余裕がなく、大量の毒ガス弾を弾薬庫に遺棄していったという。

 支那派遣軍は、国民政府軍により武装解除されるまでの期間に海・河・地中・古井戸などに投棄した。たとえば、第11軍直轄自動車第34連帯のある将校は、8月20日、湖南省湘潭県滴水埠で停戦命令を聞いたが、このとき地区司令部から一切の書類焼却とともに、毒ガスの秘密裡の処理を命じられ、湘江に毒ガス弾入りの箱、20個余りをすてた、とのべている。その後、日本は海外に遺棄した毒ガスのことを忘れていった。


「日本軍の毒ガス戦 迫られる遺棄弾処理」小原博人他(日中出版)-----

                Ⅱ 遺棄された毒ガス弾

1 遺棄化学兵器による傷害事件


 敗戦まぎわに旧日本軍が毒ガス弾を廃棄

 日本軍がどのように毒ガスを遺棄したか、数少ない証言がある。チチハル郊外の第516部隊(関東軍化学部)の軍属だった人(宮城県在住)が毒ガス戦研究者の1人、糟川良谷さんに語ったものだ。


 「ソ連が怒とうのように進撃してきた1945年8月13日、上官から貯蔵庫の毒ガス弾を郊外の大河・嫩江に捨てるよう命令された。当日朝から中国人作業員を使役し木箱入りの砲弾をトラックに積み込んだ。私レベルでもきい弾だと知っていた。ばれないようにするのだなと。橋の上からドカドカ放り込んだ。一刻も早く片付けたい一心で地元の人々への迷惑なんて考えもしなかった。弾の数は覚えていないがトラックで2往復した」。

 また69年秋、東京・新宿で開かれた市民による毒ガス展(毒ガス展実行委員会主催)で、東京北区の元兵士は「敗戦時、湖南省・湘潭の南滴水埠にトラックいっぱいのきい弾を捨てた」と証言した。元兵士は第11軍隷下の自動車第34連帯に属していた。「毒ガスは迫撃砲弾だった。一つの木箱に5,6個入っていた・木箱ごと捨てた。自分の部隊がガス弾を使ったことはなかった」。このような水中投棄はかなりおこなわれたようだ。



 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します

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日本国内における毒ガス兵器の廃棄や投棄

2011年04月02日 | 国際・政治
 日本の毒ガス兵器は、その多くが中国戦線で実戦使用された。当然のことながら、多数の死者や被毒被害者を出した。そればかりでなく、日本国内でも多くの生産労働者や保管・輸送関係者などを被害者にした。そして、戦後66年になろうとする今なお、中国には大量の毒ガス兵器の遺棄弾があり、その処理をめぐって難しい問題に直面している。ここでは、日本国内における毒ガス兵器の廃棄や投棄の状況に関する部分を「毒ガス戦と日本軍」吉見義明(岩波書店)から抜粋する。
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              Ⅹ 敗戦・免責・遺棄・投棄

秘密裏の廃棄・投棄

 日本は、1945年8月14日にポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した。ついで、15日には天皇の「玉音放送」が行われ、国民に降伏の事実が告げられた。しかし連合軍の先遣部隊が厚木に進駐するのは28日で、マッカーサー連合国軍最高司令官が到着するのは30日であった。日本各地に部隊が進駐するのはもっと後で、2週間以上最長6週間が経過する間に日本軍の文書・記録は戦争犯罪の追及をおそれて焼却され、また、多くの毒ガス兵器も密かに廃棄・投棄された。この廃棄・投棄は、文書・記録の焼却と同様、陸軍中央の指示にもとづいて行われたと思われる。代表的なものをみてみよう。

 青森県の海軍大湊警備府には、60キログラムイペリット投下弾が2000発または3000発あったという。これは8月20日から23日にかけて陸奥湾に投棄されたが、宇垣完爾元警備府長官は、これは17,8日頃海軍省軍需局送られてきたもので、「わからないように投棄処分せよ」と指示されたと語っている。陸軍習志野学校にあったイペリットとルイサイトの缶約6トンは、8月17日から20日にかけて、晒粉で消毒し埋設された。青酸ボンベ2,3本は夜間に放散された。横須賀海軍軍需部にあった嘔吐性・催涙性砲弾用型薬缶3万個は、海中に投棄されたと推定された。相模海軍工廠平塚分所には青酸入りサイダー瓶が約1万本あったが、コンクリート塔に投げつけたところ発火したのでこの方法で速やかに処分された。静岡県の陸軍三方原教導飛行団(航空化学戦学校)には、イペリット・ルイサイト缶4,5個、またはイペリット缶約80個(16トン)・ルイサイト缶約20個(約2トン)があったが、これらは8月16日、7日頃、浜名湖北部に投棄された。大阪では、8月20日頃、堺市の輜重隊がイペリットとルイサイトの入ったドラム缶十数個を大阪府長野村(現河内長野市)の池に運んできて投棄し、一部を岸辺と松林に埋めた。福岡県の曽根製造所には敗戦時、各種ガス弾4403発(または1万5561発)が残っていた。また、小沢敏雄曽根製造所元所員らの証言によれば、敗戦時、投下ガス弾約1000発、万単位の砲弾、毒ガス液入100リットルドラム缶3,40本があったが、九州総監部の指示により、20日前後の3日間に苅田港沖・門司区東部沖に投棄した。ホスゲンと青酸が入った投下弾は藍島沖に投棄したという。


 連合国軍による廃棄・投棄

 しかし、すべての毒ガス弾薬が秘密裏に廃棄・投棄されたわけではない。とくに相当大量に備蓄されていた所では、廃棄・投棄ができず連合軍に押収された。
 1945年10月、アメリカ陸軍第8軍化学戦部は第1海軍航空廠(瀬谷)で60キログラムイペリット爆弾8000発を見つけた。また、敗戦時の相模海軍工廠などにあった残存毒ガス量は268,4トン(または333トン)であった。これらは、1946年4月、第一騎兵師団の化学将校、W・E・ウィリアムソン少佐の指揮で、日本の漁船70隻に積みこまれ、銚子沖に投棄された。投棄された場所は水深250から300メートルの浅海で、ボタンエビ、ミズダコ、アンコウなどの豊かな漁場だった。山口県大嶺炭鉱の廃坑には、毒ガス砲弾(糜爛性ガス・嘔吐性ガス)83974発があった。これはアメリカ軍の指導で12月前後に宇部沖に投棄された。海軍第2航空廠(大分)関係では、イペリット爆弾2351発または3811発が米軍に引き渡され、別府湾に投棄された。大分県の国鉄久大線旧宮原トンネルにはイペリット鉄甕1800個(90トン)が保管されていたが、米軍の指導で豊後水道に投棄されたという情報もある。

 最大の備蓄基地は、大久野島周辺でその量は陸軍のものだけで3253トンあった。この廃棄・投棄作業はウィリアムソン少佐の指揮でイギリス連邦軍が行った。実際の作業は帝人の請負となり、作業員が募集された。全従事者は8月17日には846人に達した。彼らは多くの作業をガスマスクも防毒衣も着けずに行った。こうして、多くが被毒し、後に激しい喘息を伴う慢性気管支炎に苦しむことになった。その数は307名に達した。また、1名が糜爛性ガスを吸い込んで死亡した。

 イペリット・ルイサイトを戦車揚陸艇LST814号へ船積みする作業は7月14日から開始されたが、「船内は忽ちにして毒臭に満ち」、困難を極めた。大型タンクに入っているイペリット・ルイサイトは真空輸送管で送り込まれたが、29日には台風が大久野島を襲い、814号が座礁し、パイプが破壊されたため、船首と岸壁が糜爛性ガスによって汚染され、90名の作業員が被毒した。ウィリアムソン少佐も被毒した。814号は8月12日、北緯32度37分、東経134度13分の地点(土佐沖、室戸岬の南約100キロ)で、爆破され沈没した。

 ・・・

 残りの60キログラムイペリット投下弾(海軍)8000発以上、150キログラム缶入糜爛性ガス400トンなど総重量1800トンの毒ガスは、貨物船、新屯丸に船積みされ、10月に北緯32度30分・東経134度10分の地点で(土佐沖、LST814号海没の近く)で、手作業により海中に投棄された。海が荒れたために、すべてのものを投棄するのに、22日もかかった。
 嘔吐性ガスと催涙ガスは、大久野島にあるトンネル(地下壕)へ埋設された。これら毒ガス剤と漏れ始めている催涙ガス手榴弾は9月2日までに地下壕に埋められた。ついで、地下壕正面にコンクリート製の大きな囲い堰を作り、80トンずつの塩水と漂白剤をまぜた液(スラリー)を作って地下壕に流し込んだ。その後地下壕入口を封鎖した。埋没された量は嘔吐性ガス筒(あか筒)65万6553本に達した。こうして廃棄されたが、嘔吐性ガスに含まれる有毒な砒素はそのまま大量に地下壕内に残留することとなった。


 その後、糜爛性ガス貯蔵タンクの底に残った沈殿物約50トンと催涙棒2820箱・催涙筒1980箱の焼却、工場地帯一帯の焼却とサラシ粉による徐染などが行われ、1947年5月27日、ようやく全作業が終了した。


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