真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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アジアの教科書に書かれた日本の戦争 ブルネイ・ミャンマー

2014年05月31日 | 国際・政治
 ブルネイは、カリマンタン島(ボルネオ島)北部に位置する三重県ほどの面積の小国である。北側が南シナ海に面するほかはマレーシアに取り囲まれているが、石油資源が豊富で、かつてはイギリス東洋艦隊の重要な燃料補給基地があり、イギリスの植民地であった。そのブルネイを、1941年12月16日、日本陸軍が攻撃し占領した。そして、日本が降伏するまで、ブルネイの人びとも、日本軍の圧政に苦しめられたのである。教科書の日本軍政下の記述内容は、それほど詳しいものではないが、「アジア人のためのアジア」をスローガンに「西洋列強を排除する企て」もってなされた、「東亜新秩序」の実態を、ブルネイの子どもたちが学んでいることを忘れてはならないと思う。

 また、イギリス軍を追い出し、バモオ博士を首班とする暫定内閣を組織させたミャンマー(ビルマ)における日本軍の軍政に関わる記述も、日本人には耳の痛いものばかりである。しかし、その「ファシスト日本の支配下においては、・・・」というような「日本時代」の悲しむべき数々の記述を、日本人がなかったことにしてはならないと思う。

 下記のような教科書の記述をしっかり踏まえ、それを乗り越えて、生まれ変わるしか「誇りを取り戻す」ことなどできないと思うのである。  

 下記は、「アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編」越田 稜編著(梨の木舎)の、「ブルネイ」および「ミャンマー」から、私が忘れてはならないと思った項目を、選んで抜粋したものである。
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初級中学校用『ブルネイの歴史』(英語)ブルネイ言語・図書委員会編1978年版

            三部    21 日本のブルネイ占領
 1938年、日本は「東亜新秩序」を宣言した。それは、日本が蒋介石政府をうち倒し、中国を掌中に収めるためのものであった。また、新秩序は、東南アジアにおけるすべての西洋列強を排除することも目的とした。日本のスローガンは”アジアのためのアジア”であった。

 日本陸軍は、東南アジア本土への第1回目の攻撃を陸から開始した。東南アジア本土に攻撃を加えながら、ブルネイにも日本陸軍は上陸していた。

 1941年12月16日、日本陸軍はクアラ・ベライトに上陸し、ただちにセリア油田を占領した。6日後の1941年12月22日、ブルネイ市は日本陸軍により占領され、ブルネイ政府のイギリス将校全員が捕虜となった。

 日本陸軍は、その後すぐ、その新秩序を宣伝し始めた。その新秩序は、日本陸軍の宣伝の方法が乱暴かつ横暴だったため、ブルネイの人びとの歓迎を受けなかった。クアラ・ベライトの住民は油田の労働にかり出され、村人は穀物の生産を強いられた。彼らはまた、日本の軍事規律を無視した者たちに対して行われた大量処刑を目の前で見させられた。

 商売の取引も行われなくなってしまった。2、3人の小売商人のみが配給係として、その商売を続けることを許された。ブルネイの住人にとって幸いなことに、政府が第2次世界大戦勃発以前に、大量の米の輸入を貿易業者に命じていた。米はブルネイの人びとにとって主要な食糧である。ブルネイ政府は、ヨーロッパの戦況から察して極東における輸送ルートがマヒしてしまうだろう、ということを考慮に入れて、このような行動をとった。それ故、日本がブルネイを占領した初めのころは食糧不足はなかった。しかし、十分であった食糧のすべての貯えも、1943年の終わりまでには使い果たされてしまった。日本軍もまた、食糧の欠乏に困窮していた。収穫の時期がくると、日本軍はほとんどの穀類を奪っていった。そのため、ブルネイの人びとは米不足に陥った。

 日本陸軍は、ブルネイを占領すると病院を管理下においた。当時薬品を手に入れるのは困難なことだった。マラリアが流行していたのに、日本陸軍その蔓延を予防しようとしなかった。

 日本陸軍は道路、排水、灌漑の管理に留意しなかった。彼らが修復したのは、わずかに、ブルネイ──トゥトン間とブルネイ──ムアラ間の道路のみであった。この2つの道路を日本軍が提案したのは、ムアラまで、石油のパイプラインをひくためであった。

 ムアラは貿易と漁業の小さな村であったが、日本陸軍により完全に破壊されてしまった。日本陸軍は、ムアラの向かい側の島を日本の艦船の基地として使いたかったのでる。

 日本陸軍は1943年末までに、ペアカス通り沿いにあるクンパン・パサン区画に小さな空港を建設した。その空港は泥炭質の土壌上につくられたため、軽飛行機だけが使用可能であった。
 現在その空港は、使いものにならない。

 日本陸軍がセリア油田を占有していたときには、159万4000英トンもの石油を確保していた。セリア油田は、日本陸軍が退却した1945年、日本陸軍の手によって破壊された。

 1945年6月10日、連合国軍の軍隊がムアラに上陸し、ただちにブルネイに向かって進軍した。そのころ、日本陸軍は自分たちの施設を壊し、セリア油田を焼失させるのに余念がなかった。日本陸軍は、自分たちが東南アジアで敗北したことを察知していた。退却するまえに、日本陸軍は反日運動を組織したと思われる人たちを殺した。

 日本陸軍がブルネイから立ちさると、新政府がイギリス軍政のもとにおかれた。ベルネイは新しい局面を迎えた。食糧、衣料が全住民に無料配布された。病人は病院での看護が受けられるようになった。住民の健康はしだいに快方にむかい、貿易も徐々に再興した。1945年7月6日、ブルネイの統治は民政の手に移った。


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8年生用『ビルマ史』(ビルマ語)ビルマ連邦社会主義共和国教育省初等中等教育カリキュラム・教科書委員会編 1987年版

                 二 民族解放闘争

2 反日・反ファシスト闘争(1942~1945年)
 
1 状況と情勢
 「独立」したとはいえ、ビルマ政府には本来あるべき権限はなかった。ファシスト日本が許容した権限があっただけである。日本時代にもっとも強大な権力を見せつけたのは、日本軍のキンペイタイ(憲兵隊のこと)である。憲兵隊が管轄し、処理する事柄については、階級の上下を問わず、いかなる日本軍将校も口出しできなかった。一般の国民は、憲兵隊の思うがままに逮捕され、拷問され、さらには虐殺されたのである。こうしたファシストの弾圧の結果、無法者から学歴があまりない者までが、反乱への怒りの炎をたぎらせた。真の独立を望む声は全土に広がった。民族、男女を問わず、僧侶も一般国民も、ファシスト日本に反乱を起こそうという強い決意を抱くようになった。

 ビルマ軍は、30人志士に始まり、ビルマ独立義勇軍=BIA、ビルマ防衛軍=BDAを経て、ビルマ国軍(BNA=Burma National Army)へと変遷をとげていた。この間、国内においては、ミンガラドン士官学校、国外では、海南島、台湾そして日本の士官学校での訓練を積み、さらには、日本軍とともにイギリス軍と戦って、実戦のよき経験を重ねてきた。ファシスト日本に対して反乱を起こすために、ビルマ軍は、精神面でも、戦闘技術についても向上してきていた。

 情勢の推移にともない、日本と接触をもたざるをえない状況となったが、ファシストの本質についての理解は浸透しており、時がくれば一斉に蜂起することを、ごく初期の段階からビルマの指導者たちは、考えていた。また、タキン・テインペイ、タキン・ティンシュエら一部の指導者は、日本軍の侵攻直後からインドへ渡り、連合軍司令部と接触を保っていた。

 1944年8月には、ファシスト打倒連盟(AFO=Anti Fascist Organization)が結成され、ビルマ国軍、共産党、人民革命党がこれに加わった。その後、しばらくして、ラカイン民族連盟、カレン中央本部、東アジア青年連盟なども加わってきた。のちに、この組織は、反ファシスト人民自由連盟(AFPFL=Anti Fascist People's Freedom League)と名称を変更した。
 1944年には、連合軍指導部と合意に達し、44年末から45年初めには、武器援助を得るようになった。連合軍は、ラカイン地方やカレン方面での戦闘に勝利をおさめ、ビルマ国内へ進撃してきた。対日反乱の機は熟してきたのである。


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                    三 独立獲得

2 日本時代

2 経済
 日本は、ビルマ国民が必要とする物資を供給できなかったばかりか、物資を運搬する船舶にも不足をきたしていた。ビルマからは、米、チーク材、綿花を始め、鉄屑や古自動車にいたるまで、あらゆる物を日本へと持ち去った。

 日本の銀行は、まったく保証のない紙幣(=軍票)を際限なく発行し、ビルマの経済を破壊した。価値のない紙幣で米や穀物を買い、ときにはそれさえも払わずに持ち去ることもあった。日本時代の外国貿易は、三井や三菱といった日本の大企業に独占されていた。
 日本時代には、ビルマの国民は食糧、衣料品、医薬品などの不足に苦しめられた。米の足りない地域では、豆やトウモロコシ、タロ芋などを米の代わりにした。医薬品への不足は食料の不足よりもっと深刻であった。ビルマでとれるすべての綿花だけでなく古着にいたるまで日本人が持ち去った。こうして、日本時代、ビルマの経済は壊滅的な打撃を受けたのである。

3 社会
 ファシスト日本の支配下においては、軍事目的に使うという大義名分によって、国民は貴金属を強制的に供出させられた。さらに、働ける男は労務者として狩りだされた。国民はさらに、イギリス植民地軍の反攻のために度重なる苦しみを味わった。
 また、ファシスト日本の支配下では、食糧、衣料品、住宅、医薬品の欠乏のため、マラリア、天然痘、ペスト、疥癬といった病気が蔓延した。爆撃や銃撃のために負傷した人々も十分な治療を受けられなかった。


 着るものもなく、治療するための薬もなく、さまざまな経済的な落ちこみのためにビルマの国民は貧しい生活を強いられた。しかし、日本人に取りいり、不法なやり方で利得を狙った者たちは潤った。ファシスト日本が支配した時代には、社会にまとまりがなく、教育もまたほとんどなきに等しい状態であったため、道徳や規律は乱れ、人びとの精神も退廃した。

 「ワ}部隊と呼ばれる公務員部隊が編成されたが、国民の利益のために何一つできなかった。東アジア青年同盟が組織されて以降は、社会的活動や組織活動が有効に行われるようになった。
 日本時代には、ビルマ語が公用語になった。英語に代わって日本語を学ばなければならなかった。 

 
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です

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アジアの教科書に書かれた日本の戦争 マレーシア

2014年05月31日 | 国際・政治
 1988年、すでに文部省の検定を合格した高校用英語教科書から、突然その一部が削除され、代わりのものに差し替えられるということがあった。その一部とは「WAR」と題された教材の一文で、そこには、赤ん坊をほうり投げ、落ちてくる赤ん坊を日本兵が銃剣で刺すという話が出てくる。その削除は、自民党のクレームによるものであるというが、それはマレーシアに大きな怒りを生じさせたという。

 マレーシアで出版された小・中学生向けの英語学習副読本に「JAPANESE SOLDIERS IN OUR COUNTRY」(私たちの国にやってきた日本軍)という小冊子があり、その中には”赤ん坊”のことが絵入りで出てくるという。昨年(1989年)初頭、マレーシア政府はこの小冊子を8000部一括購入して、全国の小・中学校に配布したということである。日本の動きに対応したものなのであろう。

 「日本に生まれたことを誇らしく思える」教育をするために、加害の事実を隠蔽するような教育は、日本国内では支持されても、国際社会では受け入れられないのではないかと思う。特に、大戦によって大きな被害を受けた被害国や戦争被害者は、日本が誠実に歴史の事実と向き合うことを求めている。日本国憲法の精神に基づき、生まれ変わった日本を示すことで、誇りを取り戻すのでなければならないと思う。

 下記は、「アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編」越田 稜編著(梨の木舎)の、「マレーシア」から、私が記憶しておきたいと思った部分を、選んで抜粋したものである。
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中学校2年生用『歴史の中のマレーシア』(マレー語)M・タムビラジャー著 連合出版 1988年版

              第8章 日本人によるマラヤ占領
日本によるマラヤ支配
 日本は、マレーの解放獲得への期待を裏切った。日本人はマラヤを、まるで自分たちの植民地であるかのように支配した。今度は彼らがイギリス人の座を奪ったのだ。日本の支配はイギリスよりずっとひどかった。
 ペナン島やマラッカ、シンガポールといった海峡植民地は、日本の直轄となった。マレー人の州では、スルタンが州の長となることが許された。しかし、各州には日本の軍政官がいた。この軍政官が権力を持っていた。スルタンは宗教と慣習についてのみ統治した。

 マラヤは事実上日本軍政府によって支配された。本部はシンガポールにあった。日本軍政府の長は「軍政部官長」と呼ばれた。シンガポールは、南の光という意味の「昭南」と新しく名づけられた。日本は行政上、スマトラとマラヤを合わせ、本部をシンガポールに置いた。
 1943年、日本の行政に一つの変化があった。日本は、スマトラとマラヤを合わせたのでは満足な成果が得られないということがわかった。のちにその二つを分離した。



敵機関
 敵機関は日本軍の諜報部、すなわちスパイであった。その役目は、一般大衆のなかから敵を捜し出すことだった。多くのマレー人はイギリスを支持し、日本人を憎んだ。敵機関のスパイはそういう人を探した。このスパイは、あらゆる場所にいた。日本はまた、敵機関で働く現地人を採用した。これらの人びとはいつも、ベチャ引きや給仕、物売り、コック、ボーイになりすましていた。現地人スパイは一般の人びとと接触し、彼らの会話を聞くことができる。このスパイはたとえ自分の友人であろうとだれも信用していなかった。次のことをするものはだれでも逮捕された。
 1、反日思想をもつ人間と交わる。
 2、日本人の行政に文句をいう。
 3、日本人に協力している現地人をからかう。
 4、イギリス国王または女王の写真を掲げる。
 逮捕された人びとを尋問するのは軍の警察であった。この軍の警察は、「憲兵隊」という日本の組織だった。


憲兵隊
 憲兵隊は一般の人びとにとても恐れられた組織だった。
 憲兵隊は、逮捕された人はだれでも罪があると見なした。現在では、逮捕された人は、ただ疑わしいと思われるだけである。その疑わしいと思われた人は裁判で罪が立証されるまでは罪人だとは見なされない。しかし、憲兵隊は疑わしい人を犯罪が立証された罪人のように扱った。罪のない人間を罪人だと自白させるため、さまざまな残酷な拷問が行われた。彼らは、手や足の爪を抜いた。


 日本占領時代は、マラヤの国民を怖がらせた暗い時代だった。国民のすべての生活様式は、日本人が自分たちの文化をマラヤに持ち込んだため、混乱した。このことは、この地に持ち込まれた教育制度を通して知ることができる。 


日本語教育
 すべての学校で日本語が教えられた。現地の住民が、日本語の先生になるようにも訓練された。日本語をうまく話せる人には公務員としてよい仕事が与えられた。このようにして、彼らは国民に日本語を勉強するようにしむけた。大人むけの教室がさまざまなクラブや協会で開かれた。新聞にまで日本語学習のための特別枠があった。

 学校ではまた、日本人の生活様式が教えられた、。そこでは日本人の挨拶の仕方や日本の習慣、歌が教えられた。いつも愛国的な歌が教えられた。当時、日本の国家「君が代」は全国でよく知られたものだった。



日本の独占
 日本はすべての大きな企業を支配した。個人でゴムを生産しようとすれば、すでに決められた価格で売らなければならなかった。ゴム産業は当時、発達しなかった。第一に、ゴムを輸出する機会がなかった。第二に、ゴムの木が、他の食用植物を植えるために切られてしまった。
 日本はまた、スズ鉱山も支配下に置いた。鉱山で使われる多くの機械は、イギリスによって破壊された。当時、それら機械を手に入れることは困難だった。それで国の二つの主産業となっていたゴムとスズ鉱石は、放置されたままとなった。日本人はココナツ、ヤシ油の生産や運輸業、米の流通など、主な経済活動すべてをおさえた。


食糧不足
 イギリスが私たちの国を支配していたとき、私たちは米をビルマやタイから輸入していた。日本支配時代には、米はあまり多く輸入されなかった。米不足の問題は深刻だった。日本人は米をマラヤに運ぶための輸送手段を用意しなかった。すべての輸送手段は兵士を運ぶために必要とされた。タイ政府が日本の貨幣価値を信用しないという理由で、日本人に対して米を売ることを渋るようになって、事態はますますひどくなった。それで、日本人は米の配給制度をしいた。米はまず日本の官吏や兵士、日本人に協力した現地住民に与えられた。そして余ったものが国民に与えられた。
 米がないため、国民は他の食用植物を植えるようになった。よく植えられたものとしてサツマイモやタピオカ、ヤムイモがある。都市に住んでいる人びとは、自給用の食用植物を植えるために郊外に移動し始めた。数千人のマレー人がタピオカやサツマイモを食べて生活した。これらの食物は、ただ満腹させるだけで、あまり栄養はなかった。まもなく多くの人びとは脚気や結核、皮膚病などを患った。


 日本人は米不足問題を克服すると宣言しようとしたが、成功しなかった。彼らは、二期作の台湾種の米を導入した。しかし灌漑システムがよくなかったため、収穫は年に1回だけだった。地方の農民だけが米を栽培したり、魚を採ったりして生活していたので、食糧不足には見舞われなかった。しかし、彼らの生活もしだいに圧迫された。彼らは都会から物資を買う必要があった。都会の物価がしだいに暴騰していった。


インフレーション
 日本は、役人に給与を与えるためのお金が必要だった。イギリス通貨が使用されなくなったため、日本は自分たちの通貨をつくらなければならなくなった。日本の紙幣にはバナナの木が描かれていた。それで「バナナの木の紙幣」と呼ばれた。日本人も現地の住民からものを買うお金を必要とした。彼らはお金が必要になるたびに紙幣を印刷した。物価が上がると、日本はさらに多くの紙幣を印刷した。
 日本人自身、どのくらいの量の紙幣を印刷したのかわからないようだ。ついには、すべての人びとが多くのお金をもつようになった。商店主たちも物資の値段を引き上げた。このため、日本人はさらに多くの紙幣を印刷した。経済状況はますます悪化した。このような状態をインフレーションと呼んでいる。
 物価上昇は非常に驚くべきものとなった。例えば、卵1の値段は1941年12月には、3セントであったが、1945年には35ドルであった。同様に、砂糖1カティは、1941年に8セントだったものが、1945年には120ドルにもなった。

 マラヤの人びとも、日本が負ければ日本の紙幣は価値がないということに気がついた。そこで、彼らは、そのお金をできるだけ早く使おうとした。理解していない人だけがその日本のお金をためていた。


 日本占領時代の生活
 日本の兵士が上陸したとき、マラヤの状況は混乱し殺人と強盗が多く発生した。
 彼らが全土を支配したあとも、この状態は変わらなかった。日本軍政部の態度は厳しく、乱暴だった。このことが国民生活の状況をさらに悪化させた。健康のためのサービスはないがしろにされた。ヨーロッパ人の医師と看護婦はすべて囚人キャンプへ送られた。医療品の補給は、医療施設には与えられなかった。病気とビールスが広がった。

 日本は、マラヤの国民を、日本軍自身の目的を達成するために利用した。例えば、彼らはタイとビルマの間に鉄道を建設しようとした。この計画は多くの労働者を必要とし、マレー人の労働者がそのために使われた。多くの普通の国民がトラックで運ばれ、強制的に鉄道建設のために働かされた。そのうちの多数の人は帰国できなかった。およそ10万人が、その鉄道建設のために犠牲となった。この計画は、まさに「死の鉄路」と呼ぶにふさわしい。
 マラヤにいるそれぞれの民族に対する日本の態度は異なっていた。中国人は、日本人にひどく扱われた。


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初級中学校用『歴史 第二冊』(中国語)マレーシア華文独立中学校統一課程編集委員会編(連合出版有限公司 1980年版)

               第7章 日本支配下のマラヤ
第2節 日本の統治政策

中国民族を虐殺、酷使する
 日本軍の侵略以前に、マラヤの中国人は、日本軍の中国に対する暴挙に敵愾心を抱き、南僑籌賑会の指揮のもと、さかんに中国の抗日軍に義援金を送った。これによって日本は特に中国人を敵視し、マラヤ占領後すぐに虐殺を強行した。日本軍のシンガポール上陸のとき、「星華義勇軍」の抵抗を受けた。このため、日本軍がシンガポールを占領すると、日本軍総司令官山下奉文は、3日以内に当地の中国人抗日分子を掃討するように命令を下した。このとき、日本の憲兵隊は、中国人に指定地点に集まって取調べを受けるように命令した。その結果、嫌疑を受けた4万人の中国人が、殺戮された。
 続いて、マレー半島の各地であいついで「大検証」が行われ、中国人がむやみに虐殺された。総数を計算すると、少なくとも10万人以上の中国人が殺害された。

 

http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です
 

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アジアの教科書に書かれた日本の戦争 シンガポール

2014年05月23日 | 国際・政治
  日本には、戦争被害の事実を後世に伝えようとする記念館や碑があちこちにあるのに、加害の事実を伝えようとするものはほとんどないようである。また、加害の事実を子どもに指導しようとする教師に対しては、すぐに、反日教師のレッテルが貼られ、時には、学校の周りに街宣車が来ることもあるという。そして、日本の教科書からは加害の事実が少しずつ消えつつある。その結果、日本と中国や韓国はもちろん、東南アジア諸国とも、歴史認識のズレがいっそう大きくなっていく。
 「世界の歴史教科書ー11カ国の比較研究」石渡延男・越田稜編著に、シンガポールの教科書に関わる下記のような記述がある。

” ・・・ ところでシンガポールでは最近大きな変化がありました。これまでは教科書の改訂を8年から9年間隔くらいで実施していたのが、94年からわずか5年後に全面改定となったのです。歴史学習の様子も大きく変わりました。93年までは、日本占領下の暗黒時代は中学2年生で初めて学習することになっていたのが、94年からは中学1年生で学習するように早められました。ところが、99年からは、小学校4年生でそれも半年間「ダークイヤーズ(暗黒時代)」という単独の教科書で学習することになりました。その上、中学1年生でまた詳しく占領時代を学習するというわけです。
 これまでシンガポールは、「ルックイースト」政策で日本を国づくりのお手本とし、経済立国に成功したのだし、いまも日本とは有効な関係にあるので、日本のマイナスイメージになる占領時代のことは小学生には教えないのだといわれていました。それが、最近になってこのように急変したのです。ここに最近の日本の右傾化に対するシンガポール側の警戒心の強まりが読み取れます。「新しい歴史教科書をつくる会」による中学歴史教科書の登場はますます警戒心を強めさせたと思います。

 ・・・”

 ところが、日本では、 そんなことは無視して、安倍自民党政権が「自虐史観から脱皮する教育を進める」として、教科書検定基準の「近隣諸国条項」を廃止する方向で動いている。「近隣諸国条項」とは、日本が「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに、国際理解と国際協調の見地から必要な配慮をする」というものである。
 ”なぜ廃止するのか”という「問い」に関しては、安部首相自身が「残念ながら、教科書の検定基準が、愛国心や郷土愛を尊重することとした改正教育基本法の精神を生かせないものとなっている。自負心を持てるようにすることが(教育の)基本だ。教育的な観点から教科書が採択されるかどうか検討していく必要がある」と述べた言葉が「答え」になっているのではないかと思う。

 下村博文文部科学相も、教科書検定制度について「日本に生まれたことを誇らしく思えるような歴史認識が教科書に記載されるようにしていく必要がある」として、見直しを検討していくと述べている。「自虐史観に陥ることなく日本の歴史と伝統文化に誇りを持てるよう、教科書の編集・検定・採択で必要措置を講ずる」という安倍自民党政権の方針に沿うものである。 
 このような、「愛国心や郷土愛を尊重」し、「日本に生まれたことを誇らしく思えるような」歴史教育をするために、不都合な事実を隠蔽するような歴史教育でよいのか、と思う。侵略地・占領地で住民を苦しめた日本軍の行為やいわゆる「従軍慰安婦」の記述などを削除することによって誇りを取り戻すことが、国際社会で通用するとは思えない。

 「世界の歴史教科書ー11カ国の比較研究」石渡延男・越田稜編著には、上記の文章に続いて、シンガポールから日本に来ている有識者の方の話が紹介されているが、まとめると、以前とちがって最近の日本の大学生は、戦時中の話をするといやがり、正面から受け止めてくれなくなっているというような内容である。東南アジア諸国の歴史教育とかけ離れた自分勝手な歴史教育を続ければ、これからの子どもたちの相互理解は、いっそう難しくなるのではないかと思う。

 下記は、「アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編」越田 稜編著(梨の木舎)から、シンガポールの中学校初級用『現代シンガポール社会経済史』(英語)第13章のごく一部を抜粋したものである。
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 中学校初級用 『現代シンガポール社会経済史』(英語)

            第13章 日本占領下のシンガポール

13・1 イギリス降伏後のシンガポール

 123年間、シンガポールの人びとは平和に暮らしていた。日本軍がシンガポールを攻撃したとき、人びとは戦争の恐怖を体験しなければならなかった。日本軍が島を占領した3年半の間は、さらに大きな被害と困難な状況が待ち受けていた。この時期は、日本軍占領時代として知られている。

 イギリスが降伏してからすぐ、シンガポールの町は恐怖の都市と化した。多くの建物が破壊され、多くの死体が道や焼けた建物の中に横たわっていた。イギリスとオーストラリアの捕虜が町の清掃と遺体の埋葬を強いられた。そのうえ、水や電気やガスの不足もあった。昇る太陽を示す日本の旗が家の前に掲げられた。シンガポールは昭南島(ショウナントウと発音)あるいはショーナンアイランドと名前を変えさせられた。”ショーナン”は”南の光”を意味する。しかし、この”光”は明るく輝くことなく、シンガポールの人びとは日本の支配下で彼らの生涯のうち、もっとも暗い日々をすごした。


 シンガポール在住のさまざまな民族の指導者たちは、中国人をのぞいて、日本陸軍の将校たちに会うため、ブキティマに行った。中国を助けるため資金を集めていた多くの中国人指導者は、シンガポールから逃げ出してしまっていた。彼らは、もし隠れて残っていれば首をはねられるであろうことを知っていた。

 ブキティマで偶然日本軍隊と出会ってしまった何人かの中国人は、彼らの平手うちにあった。ある者は蹴られ、そしてある者はひざまずかされた。数人の人は、互いの顔を平手打ちさせられることもあった。それから日本人は欲しがっている物を人びとから奪った。例えば、車や時計やミシンなど、何でも奪った。婦人や少女たちは日本の兵士を恐れて暮らした。

 有刺鉄線が道路を閉鎖するため、道にはりめぐらされた。日本兵はそこを通り過ぎる人びとをおどしたり、ときには何時間も道ばたにひざまずかせたりして、見張りをした。日本兵の見張りが見ていないすきに自転車で逃げようとした人もすぐ捕らえられた。彼はひざまずかせられ、気を失うまで頭部を殴打された。日本の兵士は、シンガポールに住むだれもが彼らに従い、尊敬の念を示すことを欲した。見張り番についている日本兵士とすれちがうときは、だれもが彼にお辞儀をせねばならなかった。もしそうしなければ、彼は打たれるか蹴られるか、もしくは他のなんらかの方法で罰せられた。


 店主が略奪を恐れたので、多くの店は閉まっていた。日本軍がシンガポールを完全に制圧する直前まで、多くの略奪者がオランダ通りやタングリン通りやブキティマ通りやその他で、家からの略奪を行っていた。彼らは手に入るものならなんでも盗んだ。彼らのうちの何人かが日本の軍用倉庫に侵入する日まで、どのようなことをしても、彼らを止められそうもなかった。その場で彼らは現行犯として日本兵に捕らえられ、日本兵はただちに彼らの首をはねた。日本兵は彼らの首を、スタンフォード通りやフラトンビルの外側やキャセイビルの外側やその他の場所にさらした。略奪はすぐにとまった。

13・3 中国人処罰

 日本人は中国人を憎悪し、虐待した。彼らは中国で中国人と戦い続けてきた。したがって、中国人は日本人の敵であった。彼らは、シンガポール在住の中国人が抗日戦争中の中国を援助するため、資金を与えているいるのを知っていた。また中国人志願兵の一群が日本と激しく戦っていたことも知っていた。日本人に抵抗する中国人を排除するという企みをもって、日本人は、シンガポール在住の中国人を処罰することに全力を尽くした。すべての中国人、とくに18歳から50歳までの男性は、日本人によって”検証(訳注:敵性華僑摘発と粛清の調査)”されるため、何ヶ所もの集合場所(たとえば、ジャラン・プサールやタンジュン・バーガー)に出頭しなければならなかった。いくつかの集合場所には小屋もなく、人びとは何日も野ざらしのままだった。ほとんど食糧も水なく、トイレの設備さえもなかった。彼らの中のだれが日本人に反抗したかを見つけるための、中国人を”検証する”適当な方法を日本人は持っていなかった。ある集合場所では、フードやマスクをさせて顔を隠した現地の市民の助けを借りた。彼らは日本の敵だとして何人かの人を名指しした。これらの人びとは連れ去られ、けっしてふたたび姿を見ることはなかった。何千人もの中国人が貨物自動車で連れ去られた。彼らのほとんどがチャンギ海岸や他の東海岸地域に連行され、そこでグループごとに一緒に縛られた。それから彼らは射たれ、死ななかったものは銃剣(銃の先端に固定されたナイフ)で死にいたるまで刺された。


 連行されなかった中国人は、センターで恐怖の数日を過ごしてから帰宅することを許された。あるものには「検証済み」という印がおされた一枚の小さな紙が与えられた。他のものは、ワイシャツやチョッキの上にこの印をおされた。彼らはそれ以上、日本人に詰問されないように、その紙やスタンプのおされたワイシャツやチョッキを持っていた。 

13・6 ケンペイタイの恐怖

 日本軍警察であるケンペイタイについては、恐ろしい話がたくさんある。「ケンペイタイ」ということばを口にすると、人びとは心に恐怖の念が打ちこまれる思いをもつことだろう。ケンペイタイは島全体にスパイをおいた。だれを信じてよいのかだれにもわからなかった。スパイによって日本軍に通報された者は、オーチャード通りにあるYMCAやクィーン通りにあるラッフルズ女学校といったケンペイタイの建物に連れていかれた。そこで彼らはあまりにもひどい拷問を受けたので、多くの者は自分の受けた苦しみを、人に告げることなく死んでいった。日本軍が使ったもっとも一般的な拷問の一つは「水責め」であった。捕われた人は寝かせられ、大量の水が鼻や口から流し込まれた。ときには、この残酷な仕打ちが数週間もくりかえされた。

13・7 食糧供給不足と闇市

 日本軍がシンガポールを占領した時点では、都市周辺の倉庫には物や食糧の貯えが、2、3年は十分もちこたえられるほど、多量にあった。しかし日本軍は、彼ら自身のためにこれらの貯えをとりあげ、シンガポールの人びとにはほとんど残らなかった。最初の2、3ヶ月間は、中国人街の人びとは盗んだ品物を売っていた。この「商売」はすぐになくなった。食糧その他の商品の値がはねあがった。市場はまもなくほとんどからっぽになり、店では売るものがなかった。米や他の食料品の価格はあがり続けた。たとえば、米の価格は1941年12月には1ピクル(約60キログラム)につき5ドルであったのに、1944年3月には200ドルになった。1945年6月には5000ドルにまでなった。

 富のある者も貧しき者もともに、食糧不足に悩み、多くの人が飢えと渇きを経験した。このようなときに、もしだれかが店からジャムを買おうとしても、店員はそんなものは全然ないというであろう。しかし、もしも大変高い額を支払うつもりであることを示せれば、店主は、それを手に入れる場所を知っていた。それは「闇市」として知られているものである。もし、高額が支払えないのであれば、それなしですまさなければならなかった。こういうことは靴ひも、針、タオル、石けんのようなものでも同じだった。多くの人はそのような品物に高額の金を払う余裕はなかった。しかし人びとが困っている一方で、日本人は最上の物をなんでも持っていた。たとえば米や砂糖、肉、魚、ウイスキー、タバコなどである。


 当時使用されていた紙幣、つまりドル紙幣は日本の「バナナ紙幣」(訳注:軍票)であった。これら紙幣にはバナナや他の果物の絵が描かれていたので、バナナ紙幣と呼ばれた。日本人は好きなだけ紙幣を印刷した。彼らは、しばしば粗悪な紙を使用したり、また通し番号のない紙幣まで使用したりした。品不足の深刻化にしたがい、商品の価値は急速に上昇し、日本の金の価格はますます低下していった。このことは、同じ額の金で買えるものがどんどん少なくなっていくことを意味した。

 品物不足と、その結果起きる困窮が、シンガポールの外国貿易もほとんど行きづまり状態にさせた主要な原因である。日本をふくめて、他の諸外国との貿易は無に等しかった。船主が燃料油に不足していたため、ほとんどの船が近隣諸国から食料品を持ちこめなかった。日本軍は自軍の戦艦や飛行機や戦車や軍用トラックに使うために、東南アジアでとれる石油や石油製品をとりあげた。そのうちのいくらかは、日本国民が使うために持ちさられた。

 イギリスやアメリカやオーストラリアやその他の連合国の船も、食料品や他の品物をシンガポールに持ちこめなかった。これらの国は日本と交戦中であり、シンガポールと貿易をすることができなかった。彼らの船の多くは、日本の戦艦と潜水艦によって沈められた。海運業が極度に減り、他国との貿易もままならなくなったので、シンガポールの貿易業者や商人は、もはや貿易で金を稼ぐことができなくなった。そして貿易や他の商売がこんなにも少なくなってしまったことで、その生計を貿易や商売にたよっていた何千人もの人びとは働く場所を失ってしまった。


 貿易も仕事も金もない多くの人びとは、どのようにして飢餓の年月を、生きぬいたのだろう。たいていの人は、さつまいもとかタピオカとか野菜のような食べものを栽培しなければならなかった。彼らは、裏庭や自分の家に近い小さな土地で、それらを栽培した。実際、さつまいもやタピオカは人びとの主食となった。日本人はブキティマやベドックやヨウチューカンやその他の場所に新しく農地を開いた。しかし、これらの農業地域も、人びとに十分な食糧を生産できなかった。そこでは米の収穫はなかった。政府はまた、何千人もの中国人やユーラシア人が、自分たちで食べるものを栽培できるように、二つの農場を開拓しようとして、マラヤに彼らを移民させる政策をとった。食糧の不足にともなって、シンガポールでは配給制が行われた。たとえば、米は1ヶ月に男性1人につき、たったの8カイツ(4.8キログラム)、女性1人につき6カイツ(3.6キログラム)、子ども1人につき4カイツ(2.4キログラム)だけが配給された。米の配給量は1944年の初頭に減らされた。

 シンガポールの多くの人びとは、食べるのに十分な食糧がなかった。彼らはバランスの取れた食事がとれないため、多くの人びとがベリ・ベリ(訳注:脚気のこと)と呼ばれる病気に苦しんだ。そうでない人も、結核とかマラリア、その他の病気で悩まされた。人びとの健康状態の悪化から、そしてまた薬品類の不足により、多くの人びとが死んだ

 
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戦争賠償・被害者補償 タイ/ビルマ(ミャンマー)/ベトナム/ラオス/カンボジア/ミクロネシア

2014年05月17日 | 国際・政治
 日本の裁判所は、アジア諸国の戦争被害者を原告とする補償要求の訴訟において、一貫して「棄却」の判決を下してきた。サンフランシスコ講和条約や”二国間条約(協定を含む)における「請求権放棄」で「解決済み」”ということがその根拠のようである。でも、解決したのは「国家間賠償」であり、現実に被害者の補償はほとんどなされていない。したがって、「解決済み」ではないと思う。
 「国際法は、国家をその法主体とし、国家の行為および国家関係を規律する法であると定義され、国際法によって権利を享受し義務を負うのは国家だけである」というような法理論を持ち出す人もいるようであるが苦しい言い逃れであると思う。

 日本国憲法で保障されている個人の財産権(請求権含む)にも関わる、戦争被害者の賠償や補償の請求権を、国家や条約締結者が、本人に何の相談もなく個人に代わって放棄できるとする考えは、納得できるものではない。戦争被害者の被害状況を調査・確認することなく、被害者個人の請求権を国家や条約締結者が被害者に代わって勝手に放棄できるということであれば、それは民主主義の国とはいえないし、法治国家ともいえないように思うのである。

 戦後のサンフランシスコ講和条約、およびサンフランシスコ講和条約に基づいて日本がアジア諸国と締結した二国間条約や協定によって「放棄」されたのは、国家の外交保護権であり、それが、戦争被害者個人の請求権をも消滅させたと考えることはできないし、してはならないと思う。日本国憲法で保障されている個人の財産権(請求権含む)の否定につながると思うからである。現に、日本人が被害者とし、補償を要求しているシベリア抑留者国家賠償請求訴訟に関しては、1991年3月の参議院内閣委員会で、高島有終外務大臣官房審議官が

私ども繰り返し申し上げております点は、日ソ共同宣言第六項におきます請求権の放棄という点は、国家自身の請求権及び国家が自動的に持っておると考えられております外交保護権の放棄ということでございます。したがいまして、御指摘のように我が国国民個人からソ連またはその国民に対する請求権までも放棄したものではないというふうに考えております。

と言っている。「日ソ共同宣言」で、日本とソ連がお互いに請求権を放棄したが、それはシベリア抑留被害者個人のソ連またはその国民に対する請求権までも放棄したものではないと答弁しているのである。日本政府は、言い逃れを繰り返すのではなく、この答弁に沿った補償を誠実に開始するべきであると思う。アジア諸国の戦争被害者が、ほとんど何の補償も受けていない現実を直視すれば、「解決済み」として放置できる問題ではないはずである。日本国民のソ連に対する請求権を認めておきながら、アジア諸国の戦争被害者の日本政府に対する請求権は「放棄」されているというのは、通らない。

 下記は、「日本の戦後補償」日本弁護士連合会編(明石書房)から、タイ・ビルマ(ミャンマー)・ベトナム・ラオス・カンボジア・ミクロネシアの「個別の賠償条約、経済協力協定の締結」の部分を抜粋したものである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
             第2章 日本の戦後処理の実態と問題点

第3 日本政府による賠償と被害者への補償

2 個別の賠償条約、経済協力協定の締結


(7)その他の国々

①タイ

 1951年のサンフランシスコ対日講和会議後、日本とタイの国交が回復したが、戦争中に日本がタイから円建ての清算勘定協定に基づいて発生していた借越残高約20億バーツのうちの未決済分の16億バーツ「特別円」問題があったが、1955年7月9日に、バンコクで「日・タイ特別円協定」を調印した。

☆「日・タイ特別円協定」特別円問題の解決に関する日本国とタイとの間の協定
第1条 日本国は、54億円に相当する額のスターリング・ポンドを5年に分割してタ
     イに支払うものとする。
第2条 日本国は、経済協力として、96億円を限度として投資及びクレジットの形
     式で日本国の投資財及び日本人の役務をタイに供給する。
第3条 タイ政府は、「特別円問題」に関する日本国の政府及び国民に対する全て
     の請求権をタイ政府及び国民に代わって放棄する。(要約)

 ところが、この協定の第2条の96億円の支払いに関して協議が難行し、1962年1月31日に「日本・タイ特別円新協定」をバンコクで調印して決着するに至った。


☆ 「日・タイ特別円新協定」特別円問題の解決に関する日本国とタイとの間の協定のある規定に変わる協定

 1955年7月9日の協定の第2条、第4条を変更する。
第1条 96億円を日本国の通貨で8回の年払いで支払う。
第3条 第1条の金額は、日本国の生産物並びに日本国及び日本国民の支配す
     る日本国の法人の役務のタイ政府による調達により生ずる経費の支払い
     のために使用されるものとする。(要約)

 支払われた円は、タイ国防省被服工場、ナムプン発電所建設、国鉄車輌及び資材購入などに使用されたが、1970年5月の全額返済時点で30億円余の未使用があり、タイ政府はこれを興業基金に委譲し民間企業による日本製品の買い付けに使用させた。この日本製品の買い付けが、タイへの日本企業進出の大きな足掛かりとなった。

② ビルマ(ミャンマー)

 1950年3月、当時日本を占領し統治していた連合軍総司令部が日本政府を代表して日本とビルマとの間で貿易協定を締結、当時食糧不足であった日本に大量の米が輸入された。
 1951年のサンフランシスコ講和会議にはビルマは出席しなかったが、1952年1月から平和条約締結のための交渉に入り、1952年4月戦争状態の終結を通告、1954年11月5日、平和条約、および賠償および経済協力に関する協定が締結された。
 平和条約第5条では、「日本国は戦争中に日本国が与えた損害および苦痛を償うためビルマ連邦に賠償を支払う用意があり、また、ビルマ連邦における経済の回復および発展、並びに社会福祉の増進に寄与するための協力をする意思を有する」とし、しかし、日本の資源はビルマおよびその他の国に対し戦時中に与えた損害および苦痛に対して完全な賠償を行い債務の履行をするには充分でない(この文言は対日平和条約第14条aとほぼ同じである)として、年間2,000万ドル(72億円)に等しい役務および生産物の10年間におよぶ提供および年平均500万ドル(18億円)におよぶ経済協力の10年間にわたる実施について約定し、同じ内容の賠償および経済協力に関する協定を締結している。


 なお、第5条1、a、Ⅲでは「日本国は、また他のすべての賠償請求国に対する賠償の最終的解決の時にその最終的解決の結果と賠償総額の負担に向けることができる日本国の経済力とに照らして公正なかつ衝平な待遇に対するビルマ連邦の要求を再検討することに同意する」との規定を置いている。
 ビルマ政府は1963年に他の国への賠償の方が条件が良かったので追加賠償を要求し、1963年3月29日再協定が結ばれ、日本は1965年から12年間にわたって総額1億4,000万ドル供与および3,000万ドルの借款を約した。

 日本からの賠償により、バルチャウン水力発電所が造られたが、設計は日本工営、鹿島建設が施工し、また、4プロジェクトと呼ばれる製造工場が建設されたが、バス、トラックなどの大型自動車については日野自動車が、乗用車などの小型自動車は東洋工業(マツダ)が、農機具については久保田鉄工(クボタ)、家庭電気は松下電器がそれぞれ担当し、賠償や経済協力の機関が終わってからもODAによる建設作業、部品調達など、日本の経済進出のための基盤となった。
 そして、1988年までの26年間、日本のODA援助の額はビルマに対する2国間援助総額の80% を占めてきた。
 これは、当時のネウイン大統領が日本軍の防諜組織、南機関の援助によってつくられたビルマ独立義勇軍のメンバーであり、ビルマ国軍将校に日本人による教育、訓練を受けた者が多かったなどの事情による。


③ ベトナム

 1959年5月13日、日本とベトナム(南ベトナム)の賠償協定が締結され、1960年1月12日に発効した。
 協定では、第1条で140億4,000万円に等しい生産物、および日本の役務を5年の期間内に供与するとされた。
 しかし、この賠償は当時の南ベトナム政府に対してなされ、戦争被害の最も大きかった北部に対する賠償がなされず、しかも140億円は中部の水力発電所建設に使われた。この建設計画はもともと日本のコンサルタント会社が南ベトナム政府に持ち込んだものであった。
 北ベトナムとの賠償問題は、ベトナム戦争が終わった1975年10月11日署名の「経済の復興と発展のためのブルドーザー運搬用トラック、掘削機等の供与」(85億円)、1976年9月14日署名の「経済の復興と発展のためのセメントプラント用設備等の供与」により事実上の賠償とされた。

④ ラオス

 1957年3月ラオス王国は日本に対する賠償請求権を放棄し、これに対して日本は1958年10月15日、経済および技術協力協定を締結した。
 前文では、「ラオスが日本国に対するすべての賠償請求権を放棄した事実を考慮し、かつラオスが同国の経済開発のためにの経済および技術援助を日本国がラオスに与えることを希望する旨を表明した事実を考慮して」経済および技術協力協定を締結するとされている。
 協定は第1条で、生産物ならびに役務による10億円の無償援助を定め、これに基づいてビエンチャン市の上水道工事、ナムグム発電所建設工事などが行われた。


⑤ カンボジア

 カンボジア王国は1954年にサンフランシスコ条約(対日平和条約)に定められた対日賠償請求権を放棄、日本はこれに応えて、1957年に15億円の無償援助を決定、1959年3月2日、経済および技術協力協定に署名した。
 同協定では前文で「カンボジアによる戦争賠償請求権の自発的な放棄および1955年の日本とカンボジアとの間の友好条約の締結によって顕著に示された両国間の友好関係を強化し、かつ相互の経済および技術協力を拡大することを希望して協定を締結する」とあり、第1条で生産物および役務からなる15億円の無償援助を供与することを約した。
 これに基づき日本は、農業、畜産、医療の3分野における施設とその運営を行った。
 これ以外に1962年からは無償供与および円借款によりプノンペン市の上水道ダム建設に協力、技術指導も行った。
  

⑥ ミクロネシア(パラオ)

 ミクロネシアのうちパラオ共和国は現在も米国の信託統治地域となっているが、ミクロネシア地域については、1969年4月18日、日本と米国の間で、対日平和条約第4条(a)に基づき「太平洋諸島信託統治地域に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」(米国とのミクロネシア協定)が締結された。

 前文では、太平洋地域の住民が第2次世界大戦中の敵対行為の結果被った苦痛に対し、ともに同情の念を表明することを希望し、信託統治地域の住民の福祉のために自発的拠出を行うことを希望し、日本国およびその国民の財産ならびに請求権、施政当局および住民の財産ならびに請求権の処理に関し、特別取極め締結するとされている。

 そして、日本は500万ドル(18億円)相当の生産物および役務を3年間の間に無償で施政権者であるアメリカ合衆国の使用に供し、アメリカ政府は同地域の住民のために500万ドルの資金を設定し、第3条で財産、請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決されたとする。
 
 協定第3条に関する交換公文では、日本国および日本国民は、役務を3年間の間に無償で施政権者であるアメリカ合衆国の使用に供し、アメリカ政府は同地域の住民のために500万ドルの資金を設定し、第3条で財産、請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決されたとする。


 協定第3条に関する交換公文では、日本国および日本国民は協定第3条の規定の範囲内におけるミクロネシア側の請求(信託統治地域が第2次世界大戦に巻き込まれたことから生ずる請求を含む)に対する全ての責任から完全かつ最終的に免れるとし、かつ、アメリカ政府はその相当と認められる形式 態様および範囲で、アメリカおよび日本による拠出の合計額(1,000万ドル)に見合う金額を限度として協定第3条に規定するミクロネシアの個々の住民の請求につき支払いを行うための措置を取るとされている。
 これに基づき、1971年、ミクロネシア賠償法により戦病死者に対し、最低死亡年齢12才以下に対する補償500ドル、最高死亡年齢21才に対して5,000ドル、支払われた。


3 問題点

(1)締結された条約、協定は、交渉過程においても、その内容においても、日本が行った行為についての真相の究明を行ったものではなく、各国における日本の与えた戦争被害の実態等の把握もなされていない。
 また、日本が被害を与えた国および被害者に対する謝罪も行っていない。(アジア各国を日本の首相が訪問する際に、近時遺憾の意を表明することはあっても、公式の謝罪を行っていない)。

(2)対日平和条約によって、アジアのそれぞれの国が賠償についての交渉をすることになったが、対日平和条約の役務賠償の規定にもかかわらず、具体的交渉の中では、資本財が含まれることになり、日本にとっては、賠償はアジア各国への長期の資本投資を行う機会となり、アジアに新たな市場を形成するのに役立った。


 また、賠償は帯貨商品をアジアに対して捌くのに役立ち、不況産業の再興にも役立った。更に、賠償が輸出と競合しないよう貿易振興方針を、インドネシア、ベトナム、との間では賠償協定で規定し、フィリピン、ビルマとも合意し、賠償が通常の貿易の妨げとなることがなかったばかりか、賠償を利用して新たな貿易の販路を拡大した。日本は賠償交渉にあたって、当初は額をいかに抑えるかで交渉に臨み、交渉過程の中で、賠償を投資として条約、協定を締結した。また、相手国についてもその為政者自身の権力維持、経済政策の推進などのためのものとなっている。
 このように、日本の賠償、経済協力は、被害者の視点を欠くものであったことは前項で記したとおりである。

(3)このため、実際にも、日本から無償援助、経済協力をもとにして、戦病死者に金銭が支払われたのは、韓国の30万ウォンおよびミクロネシアの最低500ドル最高5,000ドルのみであり、被害者個人に対する補償はほとんどなされていない。
 対日平和条約第16条に基づく捕虜への補償は、各人への補償額は小額(70ドル)にすぎなかったとはいえ、ICRC(赤十字国際委員会)によって行われ、捕虜である被害者個人への補償がなされている。
 ここでは、賠償が投資にかわったり、経済協力におきかえられたりしてはいないのである。
 事実の究明もされていないのであるから、被害者個人は今なお放置されているといってよい。

(4)賠償に関する、日本国民1人当たりの負担額についてみると、総額が、賠償10億2,500万ドル(3,565億5,000万円)、無償経済協力4億9,567万ドル(1,686億9,000万円)、合計15億776万ドル(5,252億4,000万円)であり、通算して、1人当たり5,000円であった。(原朗、「賠償戦後処理」大蔵省財政史室編『昭和財政史・終戦から講和まで』東洋経済新報社)
 しかも、その支払いは長期であり、最後のフィリピンに対する20年の支払いが終わったのは、1976年であった。


(5)前項で述べたように対日平和条約自体がそうであったが、その後の各国との賠償交渉も、冷戦構造のもとでのアメリカのアジア戦略の中に位置付けられ、交渉の要所、要所で、アメリカが大きな役割を果たしており、締結を渋るようであればアメリカの経済援助を考え直すと脅かすなどがなされてきた。


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戦争賠償・被害者補償ーマレーシア・シンガポール

2014年05月08日 | 国際・政治
 マレーシアの人たちは、当初「アジア人のためのアジア」を唱えて、東南アジアに進出してきた日本軍に期待したようである。その言葉通り、日本軍が西欧列強諸国からアジアを解放してくれると信じのだ。しかし、しばらくすると、イギリス人の座を奪った日本の支配が、イギリスによる支配より残酷なものであり、日本軍が、日本軍自身の目的を達成するために、マレーシアの国民を利用しているのだと気づいて抵抗するようになっていったという。強制的に泰緬鉄道(「死の鉄路」と呼ばれているという)建設工事に動員された労働者はおよそ10万人にのぼり、帰国できなかった人も多いようである。マレーシアを占領した日本軍は、華僑による中国援助を阻止するため、特に中国人に対して厳しく、疑わしい中国人はみな処刑したといわれている。日本に敵対した最大組織の反日マラヤ国民軍MPAJAのメンバーが中国人が中心だったということも頷ける。殺害された中国人は、10万人以上であるという。
 戦後のマレーシア・シンガポールを相手とした日本の戦争賠償・被害者補償は、「血債」協定とよばれているが、その内容は、29億4,000万3,000円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務である。そのことに関して、下記に”これで「血債」として虐殺されり障害を負った被害者らの損害を賠償したことになったのであろうか。大いに疑問がある。”とあるが、まったく同感である。

 日本の戦争賠償に関して、サンフランシスコ講和条約は、その第14条a項に

日本国は、戦争中に生じさせた損害及び苦痛に対して、連合国に賠償を支払うべきことが承認される。しかし、また、存立可能な経済を維持すべきものとすれば、日本国の資源は、日本国がすべての前記の損害及び苦痛に対して完全な賠償を行い且つ同時に他の債務を履行するためには現在充分ではないことが承認される。

と明記した。
 そのため、日本の賠償は大幅に軽減され、アジア諸国の戦争被害の実態に見合うものとはならなかった。そればかりでなく、冷戦に対応するためのアメリカのアジア戦略により、日本の経済復興が重視され、賠償の内容が「役務、生産物供与、加工賠償」という支払い方式にされた。極東における安全保障体制確立を優先させるアメリカの政策によって、日本のアジア諸国に対する賠償支払いの額や方式が、アジア諸国の要求するものとかけ離れたものになったといえる。アジア諸国は様々な抵抗を試みたが、通らなかったようである。
 そうした日本の賠償は、「商売」であり、形を変えた「貿易」であるといわれた。また、当時の吉田首相は、「むこうが投資という名を嫌がったので、ご希望によって賠償という言葉を使ったが、こちらからいえば投資なのだ」と語ったという。日本の戦争賠償は、結局、日本のアジア諸国に対する再進出の足がかりとなった。その結果、アジア諸国の戦争被害者に対する個人補償は、完全に切り捨てられた。戦争被害者の間に「怨念」を残すことになったといわれるのはそのためである。
 日本の経済復興が実現し、冷戦後、日本が経済大国となって、湾岸戦争に130億ドルもの拠出をするようになると、アジア諸国の戦争被害者が補償を求めて声を上げ始めたというが、当然のことではないかと思う。

 下記は、「日本の戦後補償」日本弁護士連合会編(明石書房)から、マレーシア・シンガポールの「個別の賠償条約、経済協力協定の締結」の部分を抜粋したものである。
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             第2章 日本の戦後処理の実態と問題点

第3 日本政府による賠償と被害者への補償

2 個別の賠償条約、経済協力協定の締結

(6)マレーシア、シンガポール

① マレーシア

 1962年1月にシンガポールのイーストコーストの宅地造成地で、日本軍の占領中に日本軍によって虐殺された華僑の人骨が大量に発見され、これがマレーシアに波及したのがいわゆる「血債問題」であった。マレーシア華僑は、日本製品の不買運動をして問題解決を日本政府に迫り、マレーシア政府が交渉の末、1967年9月21日にクアラ・ルンプールで「血債協定」を締結するに至った。
  
☆ 「血債協定」日本国とマレーシアとの間の1967年9月21日の協定

第1条 日本国は、29億4,000万3,000円の価値を有する日本国の生産物及び日本
     人の役務を無償で供与する。
  3 生産物及び役務は、まず外航用の新造貨物船2隻の建造のために当てら
    れるものとする。
第2条 マレーシア政府は、第2次世界大戦の間の不幸な事件から生ずるすべて
    の問題がここに完全かつ最終的に解決されたことに同意する。(要約)

 この協定に基づいて、同額相当の外航貨物船2隻が1972年5月6日に供与されたが、これで「血債」として虐殺されり障害を負った被害者らの損害を賠償したことになったのであろうか。大いに疑問がある



② シンガポール

 1962年1月にイーストコーストの宅地造成現場で日本軍の占領中に日本軍によって虐殺された華僑の人たちの人骨が大量に発見された。これに端を発し、中華総商会の手で続々と華人の人骨が発掘され、「殺人は命で、血債は血で償え」という対日賠償の要求が高まった。日本製品の積みおろし拒否、暴徒による襲撃など、シンガポールの日本人社会に大きな衝撃を与えた。その後、「マラヤとの合併によるシンガポール独立」を求める運動の中で、1963年9月16日にマレーシア連邦が成立し、血債問題の日本との交渉担当者が同連邦のラーマン首相(マレー人)に変更されたが、1965年のシンガポールの独立を経て、1967年9月21日にシンガポールで日本政府との間で「血債協定」の調印に至った。


☆ 「血債協定」日本国とシンガポール共和国との間の1967年9月21日の協定

第1条 日本国は、29億4,000万3,000円の価値を有する日本国の生産物及び日本
    人の役務を無償で供与する。
第2条 シンガポール共和国は、第2次世界大戦の存在から生ずる問題が完全か
    つ最終的に解決されたことを確認し、かつ、同国及びその国民がこの問題
    に関していかなる請求をも日本国に対して提起しないことを約束する。

 この協定に基づいて、1972年3月までに造船所建設、人工衛星地上通信基地建設、港湾クレーンなどの品目が供与されたが、これらの供与は、「血債」として虐殺されたり傷害を負った被害者らの損害を賠償したことになったのであろうか。大いに疑問がある。


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