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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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南京事件 一召集兵(東史郎)の記録

2015年03月30日 | 日記

  「わが南京プラトーン 一召集兵の体験した南京大虐殺」東史郎(青木書店)の著者は、戦時中、第十六師団福知山歩兵第二十聯隊第一大隊第三中隊に所属し、歩兵上等兵として南京攻略戦に関わった人である。著者は、帰国の途次マラリアのために下船し、南京病院に入院した。そのため、数ヶ月後に一人帰国し除隊することになったおかげで、自分の行軍「日記」を持ち帰ることができたという。そして、自分自身のために、また、子孫のためにその記録を手記として残す目的で清書したという。彼はその「まえがき」で下記のように書いている。

この本は、加害者としての私の実録であるが、戦争の実相を多くの人に知っていただき、二度と再び日本人が戦争加担しないこと、そして永久に日中友好を発展させることが、戦場で命を失ったわが戦友への最高最大の慰霊であると思う。

と。なぜなら、

強姦・略奪・虐殺・放火……南京占領前後の一ヶ月に繰り広げられた日本軍の悪行を、私はみずから体験し、見聞きした。だが、こうした悪行の数々は、当時日本国民には、いっさい知らされなかった。政府のきびしい言論統制によって、戦場の実相は、国民からおおいかくされたのである。

という現実があったからであり、また、戦後も日本の政府は、そうした歴史の事実を明らかにしようとしてこなかったからであろうと思う。

 また、巻末に寿岳章子氏の「真実をみつめて」という文章があり、それは、”隠蔽からは何も生まれない。真実を知ることからこそ未来への展望がある。”という文章で終わっている。

 現在、日本国内のみならず、海外からも日本の歴史認識に懸念の声があがっている時だけに、印象深い。ここでは、南京陥落の日(12月13日)と、その次の12月21日の前半部分のみを抜粋した。

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 12月13日
 午前7時に整列した。
「南京は、すでに昨夜、陥落せり。わが部隊も、ただ今から入城する!」
中隊長が得意げに宣言した。
 おゝ!ついに落ちたか!
 兵隊たちの顔がゆるみ、肩をたたき合って祝福した。兵士たちの興奮の渦。
 私には、はたと思い当たるふしがあった。昨夜10時ごろに、ぴたりととまった敵の銃声。それが本丸の陥落とともに敗走に移った敵の合図だったのだ。
 もし、中隊長に勇気があったなら、あのとき前進して、我々の手で一番乗りの栄誉を手にできたかもしれないのだった。
 しかし、我々の夜襲によって敵の最後の抵抗は破られ、完全占領が可能になったといえる。

 わが第一分隊は、負傷者の護衛収容を命じられた。私は、分隊長代理として兵7名を連れ、城内に残った。
 残敵の襲撃にそなえ、負傷者3名を地下室へ運ぶ。
 その一人は、手と脚をやられており、昨夜から出血が止まらない。軍医も衛生兵もいないここでは、言葉でなぐさめるより外に何もしてやれない。
 外は小春日和。いたるところに敵兵の死体が転がっている。
 敵は、よほど狼狽して逃げたらしく、幾千という弾薬が封も切らずに放置されていた。
 中山門へ面した方向には、幾重にも張りめぐらされた鉄条網が朝日に光っている。
 足元に、まだ息のある敵兵を見つけた。銃を持ち直し、とどめを刺そうと構えた。
 すると、彼はかすかに目を開き、ぜいぜい鳴る息の下で何かつぶやき、重たげに手をあげた。
 私は殺すのを待った。
 彼は懐中から小さな手帳を出し、震える手で万年筆をにぎった。懸命に何かを書きつけている。それを私にさし出した。
 そこには五文字の漢字が書いてあるのだが、判読できなかった。
 彼は最後の渾身の力をふりしぼって、五文字を書くのがやっとであった。書き終えたとき、かすかな笑みが表情に浮かんだ。
 これは何だろう。本当は何と書いてあるのか。手紙か、それとも遺言だろうか。
 彼の顔には、すでに死相が出ていた。しかし、夢見るような微笑を浮かべていた。
 私は急に、この男をいとおしく感じていた。
 刺殺をためらっている様子を見て大嶋一等兵が「東さん、殺そうか」と聞いた。
「さあ……」──私はあいまいに答えた。
「どうせ死ぬんだから殺そう」と大嶋は剣をかまえた。
「待て。突かずに射ってやれ」
 銃声が響き、男はもう動かなかった。
 後方の塹壕のなかには、白粉(オシロイ)のビンや紅いハンカチ、女物の靴などが散乱していた。娘子軍がいた壕だったのだろう。全員逃げ出せたのか、死体はなかった。
 朝日のなかを我々は身も心も軽く、四方城通りの舗装路を歩いていた。
 高い城壁と堀が現れた。橋は破壊され、人一人がやっと渡れる。中央に三つの大きな門があった。夢にまで見た、あこがれの門だ。突撃する何人もの戦友が傷つき、死んだ門でもある。
「大野部隊、13日午前3時10分占領」
 おゝ、大野部隊の一番乗りだったのか。
 新聞記者がしきりと写真をとっていた。
 どの部隊の兵士の顔も明るく、髭面が笑っている。
 南京市街は、ほとんど破壊されていなかった。どの家も表戸を堅く閉ざし、住民はほとんど歩いていない。
 私たちは口笛を吹きながら歩いた。
 
 「昨日入城式があったんだよ。大野部隊代表として第一大隊が参列した。お前たちがいなかったけれど、入城式に参加したことになっているよ」
 戦友はこういった。
 「あたりまえだよ。最後まで戦闘に参加したのだし。命令で負傷者の収容に残ったのだから」
 私たちが広場に集合して歩哨配置から宿舎割に時を過ごしているうちに、突然捕虜収容の命令が来た。
 捕虜は約2万だという。私たちは軽装で強行軍した。
 夕暮が足元に広がり、やがて夜の幕が下がり、すっかり暗くなって星がまたたいても歩いていた。
 3、4里も歩いたと思われる頃、無数の煙草の火が明滅し、蛙のような喧噪をきいた。約7千人の捕虜が畑の中に武装を解除されて坐っている。
 彼らの将校は、彼ら部下を捨て、とっくに逃亡してしまい、わずかに軍医大尉が一人残っているだけである。彼らが坐っている畑は道路より低かったので、一望に見渡すことができた。

 枯枝に結びつけた2本の、夜風にはためく白旗をとり巻いた7千の捕虜は壮観な眺めである。
 あり合わせの白布をあり合わせの木枝に結びつけて、降参するために堂々と前進して来たのであろう様を想像するとおかしくもあり哀れでもある。
 よくもまあ、二個聯隊以上もの兵力を有しながら何らの抵抗もなさず捕虜になったものだと思い、これだけの兵力には相当な数の将校がいたに違いないが、一名も残らずうまうまと逃げたものだと感心させられる。我々には二個中隊いたが、もし、7千の彼らが素手であるとはいえ、決死一番反乱したら2個中隊くらいの兵力は完全に全滅させられたであろう。

 我々は白旗を先頭に四列縦隊に彼らを並べ、ところどころに私たちが並行して前進を開始した。
 綿入れの水色の軍服に綿入れの水色の外套を着、水色の帽子をかぶった者、フトンを背負っている者、頭からすっぽり毛布をかぶっている者、アンペラを持っている者、軍服をぬぎ捨て普通人に着がえしている者、帽子をかぶっている者、かぶらない者、12、3の少年兵から40歳前後の老兵、中折帽子をかぶって軍服を着ている者、煙草を分けてのむ者もあれば、一人でだれにもやらないでのむ者もあり、ぞろぞろと蟻のはうように歩き、浮浪者の群れのような無知そのものの表情の彼ら。

 規律もなく秩序もなく無知な緬羊(メンヨウ)の群れは闇から闇へこそこそとささやきつつ、歩いていく。
 この一群の獣が、昨日までの我々に発砲し我々を悩ませていた敵とは思えない。これが敵兵だと信ずることはどうしてもできないようだ。
 この無知な奴隷たちを相手に死を期して奮戦したかと思うと全く馬鹿らしくなってくる。しかも彼らの中には12、3歳の少年さえ交じっているではないか。
 彼らはしきりにかわきを訴えたので、仕方なく私は水筒の水をあたえた。これは一面彼らが哀れにも思えたからである。休憩になると、彼らは再三こうたずねた。
 「ウォデー、スラスラ?(私は殺されるのか)」
 彼らにとってもっとも重大なことは、今後いかに処置されるかである。彼らはそれが不安でならないといった顔付きである。私は、顔を横に振って、この哀れな緬羊に安心を与えた。
 夜が深まるにつれて冷えびえとした寒気が増した。
 下キリン村のとある大きな家屋に到着し、彼らを全部この中へ入れた。彼らはこの家の中が殺戮場ででもあるかのように入ることをためらっていたが仕方なくぞろぞろと入っていった。戦友のある者は、門を入っていく彼らから、毛布やフトンをむしりとろうとし、とられまいと頑張る捕虜と争っていた。

 捕虜の収容を終わった私たちは、コンクリートの柱と床だけ焼け残った家に、宿営することになった。
 翌朝わたしたちは郡馬鎮の警備を命ぜられた。私たちが郡馬鎮の警備についている間に捕虜たちは各中隊へ2、3百人ずつあて、割あてられて殺されたという。
 彼らの中にいた唯一の将校軍医は、支那軍の糧秣隠匿所を知っているからそれで養ってくれと言ったとか。

 なぜこの多数の捕虜が殺されたのか、私たちにはわからない。しかし何となく非人道的であり、悲惨なことに思えてならない。私には何となく割り切れない不当なことのように思える。7千の生命が一度に消えさせられたということは信じられないような事実である。
 戦場では、命なんていうものは、全く一握りの飯よりも価値がないようだ。
 私たちの生命は、戦争という巨大なほうきにはき捨てられていく何でもないものなのだ──と思うと、戦争にはげしい憎悪を感じる。

12月21日
 南京城内の整備を命じられ、郡馬鎮を去る。
 中山通りにある最高法院は、灰色に塗られた大きな建物である。日本の司法省にあたろうか。
 法院の前にぐしゃりとつぶれた自家用車が横倒しになっていた。道路の向こう側に沼があった。
 どこからか、一人の支那人が引っぱられてきた。戦友たちは、仔犬をつかまえた子供のように彼をなぶっていたが、西本は惨酷な一つの提案を出した。

 つまり、彼を袋の中に入れ、自動車のガソリンをかけ火をつけようというのである。
 泣き叫ぶ支那人は、郵便袋の中に入れられ、袋の口をしっかり締められた。彼は袋の中で暴れ、泣き、怒鳴った。彼はフットボールのようにけられ、野菜のように小便をかけられた。ぐしゃりとつぶれた自動車の中からガソリンを出した西本は、袋にぶっかけ、袋に長い紐をつけて引きずり回せるようにした。
 心ある者は眉をひそめてこの惨酷な処置を見守っている。心なき者は面白がって声援する。
 西本は火をつけた。ガソリンは一度に燃えあがった。と思うと、袋の中で言い知れぬ恐怖のわめきがあがって、こん身の力で袋が飛びあがった。袋はみずから飛びあがり、みずから転げた。
 戦友のある者たちは、この残虐な火遊びに打ち興じて面白がった。袋は地獄の悲鳴をあげ、火玉のようにころげまわった。
 袋の紐を持っていた西本は、
「オイ、そんなに熱ければ冷たくしてやろうか」
というと、手榴弾を2発袋の紐に結びつけて沼の中へ放り込んだ。火が消え袋が沈み、波紋のうねりが静まろうとしている時、手榴弾が水中で炸裂した。
 水がぼこっと盛りあがって静まり、遊びが終わった。
 こんな事は、戦場では何の罪悪でもない。ただ西本の残忍性に私たちがあきれただけである。
 ・・・以下略

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南京事件 陣中日記 日本兵加害の記録 NO3

2015年03月21日 | 国際・政治

 下記は、NO1およびNO2に引き続き、南京戦に関わった第13師団山田支隊の兵士の手帳などに書き留められた陣中日記、戦闘日誌、陣中メモ、出征日誌、軍事郵便(戦地から親戚や知人宛に送られたもの)など19人の記録から、6人の記録(14~19)のごく一部を抜粋したものである。南京陥落後の投降兵・捕虜の「処分」(殺害)や死体処理に関する部分を中心に「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち 第十三師団山田支隊兵士人陣中日記」小野賢二・藤原彰・本多勝一編(大月書店)から抜粋した。

 下記を読むと、12月16日と17日に多くの中国人捕虜が、歩兵第65連隊の兵士によって殺害されたことが分かる。しかしながら、捕虜に「不従順ノ行為」があったという記述はない。すなわち、「戦闘行為」による殺害ではなかったということであろう。だから、この時の捕虜の殺害を、戦闘行為による殺害として、「南京大虐殺」を否定することなどできないのだと思う。

 にもかかわらず、”そうした事実はどうでもいいのだ”と言わんばかりの報道があった。人気俳優アンジェリーナ・ジョリーさんが監督した映画「アンブロークン」を反日映画としてボイコットする運動が起きているというのである。旧日本軍の捕虜虐待を描いた内容が、「日本を貶める」ものであるということらしい。「東京裁判史観を変えない限り、第2のアンジェリーナじゃ現れる」という指摘もあるという。事実を検証することもなく「日本を貶める」などと主張することは、完全な歴史の否定で、歴史修正主義以前の主張ではないかと思う。

 また、16日の参院予算委員会で自民党の三原じゅん子参院議員が、「ご紹介したいのが、日本が建国以来、大切にしてきた価値観、八紘一宇(はっこういちう)であります」としたうえで、同理念のもとに経済や税の運用をしていくべきではないかと、質問したという。「八紘一宇」という言葉は、先の大戦期間中、日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた言葉で、敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部によって、公文書におけるこの語の使用が禁止されたことを知ってのことなのか、と考えさせられる。日本の政権中枢には、敗戦後も日本の戦争を正当化しようとする人たちが存在し続けてきただけに、気になるところである。
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14 [大内利己]陣中日記

所属:歩兵第65連隊第9中隊・第3次補充
階級:不明(一等兵か?)
入手経緯:遺族より
日記の態様:縦約11.5センチ×横約7センチの手帳。縦書き。・・・

12月2日
 荻洲部隊両角部隊と編入に成り、我牛渡部隊は江陰に向愈々本朝7時半整列し上海を出発す、8時乗船し其後25里の行軍で目的地に任じ聯隊に加する予想、自分は入院のため一緒に行動出来ぬが一番残念で在つた、自分は井上軍医に引率され第一兵站病院に入院し第1日の生活である。伊佐部隊に入院である、患者は沢山居た、自分は大場病院の第3号病棟の生活である。何と無く心が憂鬱と成り一日も早く全快いたし一線部隊に加入する事を心から神に祈つて居た。

以下主として入院生活の記述なので略

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15 [高橋光夫]陣中日記

所属:歩兵第65連隊第11中隊・第4次補充
階級:上等兵
入手経緯:本人より
日記の態様:縦約12.5センチ×横約8センチの手帳。縦書き。・・・

〔12月〕15日

 朝8時に出発、前夜は宿舎にてじん中の真の風景、三方を壁にて月光が輝々と光りまつたく言ふに言ふことのできない風景である。
 4時に竜潭に着す、この途中にて支那人2人を殺す、この日も夕食、朝食をうべく一里余に入る、聯隊中の食料を集めてきた、其の途中一方は水郷□月一方は川にて、ニーヤに徴はつ品をおわせて、銃を肩に故郷を望むも戦場の風景と思ふ、夜はなにかの工場に宿舎をとる。
 
〔12月〕16日
 前8時半出発にて東流に2時頃に着、夜は分隊は衛兵、寒かりし。

〔12月〕17日
 前8時半出発、本田上等兵は銃をなくし午後4時に本隊に入る,聯隊本部の所に一夜をあかすことになる。

〔12月〕18日
 午前8時半整列にて各中隊に分類され12時に中隊第十一中隊に入る、第4次22名、これより南京を見学に行こうと思ふが行かれなかった。
 午後にわが聯隊の捕虜2万5千近くの殺したものをかたつけた。

〔12月〕19日
 本日も中隊の位置にて分隊に入る、第一小隊 第2分隊、
 午前は死体をかたつけるために前日の地に行く、本日又16人程の敗残兵をころした。

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16 [菅野嘉雄]陣中メモ

所属:歩兵第65連隊砲中隊・編成
階級:一等兵
入手経緯本人より
メモの態様:縦約16センチ×横約10センチの手帳。内容は「戦闘詳報」と「陣中日記」に分かれており、「戦闘詳報」は縦書き、「陣中日記」は横書き。・・・

  昭和12年 日支事変 陣中日記

12、13
 午前8時半出発、大華山山脈鉄路ニ沿ヒ行軍ス、龍潭鎮ヲ通リ棲霞山近クニ山中一村ニ宿営ス、夜ル敵将校斥候3名ヲ捕フ。

〔12、〕14
 午前5時出発夜明頃ヨリ敵兵続々ト捕虜トス、幕府山要塞ヲ占領シ午後2時戦斗ヲ中止ス、厰舎ニ捕虜ヲ収容シ其ノ前ニ宿営警戒ス、捕虜数訳1万5千。

〔12、〕15
 今日モ引続キ捕虜アリ、総計約弐万トナル

〔12、〕16
 非行便ノ葉書到着ス、谷地ヨリ正午頃兵舎ニ火災アリ、約半数焼失ス、夕方ヨリ捕虜ノ一部ヲ揚子江岸引出銃殺ニ附ス。

〔12、〕17
 未曾有ノ盛儀南京入城式ニ参加、1時半式開始。
 朝香宮殿下、松井軍司令官閣下ノ閲兵アリ、捕虜残部1万数千ヲ銃殺ニ附ス

〔12、〕18
 朝ヨリ小雪ガ降ツタ、銃殺敵兵ノ片付ニ行ク、臭気甚シ。

〔12、〕19
 本日モ敵兵ノ片付ニ行ク、自分ハ行カナカツタ。

〔12、〕20
 午前10時出発ス、中山碼頭ヨリ乗船、浦口ヨリ約4里ニテ宿営ス。

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17 [近藤栄四郎]出征日誌

所属:山砲兵第19連隊第8中隊・編成
階級:伍長
入手経緯:遺族より
日記の態様:縦11.5センチ×横約7.5センチの手帳。縦書き。

〔12月〕14日
 午前4時起床、鞍を置き直ちに出発スル、道路暗くテ而も寒い、前進して午前8時頃敵の降伏兵一団に逢ひ敗残者の悲哀、武装解除に珍らしき目を見張る、更に数団、全部にて3千名に達せん、揚子江を船で逃げる兵を小銃軽機にて射撃するのも面白し、南京も目の前に南京城を見て降伏兵の一団を馬上より見下ろすのも気持ちが悪くない、南京牧場設営、女を混じへた

敵兵の姿。

〔12月〕15日
 出発命令なく午前御令旨及訓示の伝達式あり。
 午后、米徴発に行く、幸に南京米が沢山あつたので6本駄馬を持つて取つて来る、支那の工兵の材料集積所らしい。

〔12月〕16日  
 午前中給需伝票等を整理する、一ケ月振りの整理の為相当手間取る。
 午后南京城見学の許しが出たので勇躍して行馬で行く、そして食料品店で洋酒各種を徴発して帰る、丁度見本展の様だ、お蔭で随分酩酊した。
 夕方2万の捕虜が火災を起し警戒に行つた中隊の兵の交代に行く、遂に2万の内三分ノ一、7千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く、そして全部処分を終わる生き残りを銃剣にて刺殺する。

 月は14日、山の端にかゝり皎々として青き影の処、断末魔の苦しみの声は全く惨しさこの上なし、戦場ならざれば見るを得ざるところなり、9時半帰る、一生忘るる事の出来ざる光景であった。

〔12月〕17日
 今日も一生忘るる事のなき日だ、南京入城式参列、午前9時に出発にて中隊の半数参加す、幸いに参加できて嬉し、午後1時半より開始され沿道整列、松井軍司令官の閲兵あり、其他多数の参謀及幕僚には驚く、夕方徴発しながら帰る。

 丁度野戦病院開設しありたるにより家と役場と本地と康と収様へ手紙を出す。
 記念スタンプを押捺して来る。

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18 [黒須忠信]陣中日記

所属:山砲兵第19連隊第Ⅲ大隊大隊段列・編成
階級:上等兵
入手経緯:本人より
日記の態様:「支那事変日記帳」と題された、縦17センチ×横約11センチの手帳。縦書き。大部分カタカナ書きのうちに一部平仮名書きとなっているが、原文の通りにした。

12月13日 晴
 7時半某地を出発した、揚子江附近の道路を通過する際我が海軍の軍艦がゆうゆうと進航して居るのがよく見えた、敵の敗残兵は諸所に殺されて居た、午后8時某地に到着宿営す。

12月14日 晴◎
 午前3時半出発して前線に進む、敵弾は前進するに従つて頭上をかすめて来る、敵の真中を打破りぐんぐん前進する途中敗残兵を65にて1千8百名以上捕虜にし其の他沢山の正規兵で合計5千人の敗残兵を拾三師団にて捕虜にした、全部武装解除をしたのも見事なものである、命令我が大隊は幕府山砲台を占領して東外村宿営す、残敵に注意すべしと、本日の感想は全く言葉に表す事が出来ない位であつた、捕虜兵は両手をしばられ歩兵に警戒せられて或る広場に集められて居た、幕府山砲台には日章旗高く掲げられて万歳を唱えられた、種々なる感想を浮べて前進を続け東外村に宿営す、×××××氏に面会する事が出来て嬉しかった。

12月15日 晴
 南京城外某地ニ我ガ拾三師団ハ休養する事トナツタ、午前馬糧ノ徴発に忙しカツタ、敵首都南京城モ助川部隊(16師団)ガ13日午前10時30分ニ占領シテシマツタノデアル、城内ニモ入城スル事ガ出来タ。

12月16日 晴
 午后1時我ガ段列ヨリ20名ハ残兵掃蕩ノ目的ニテ幕府山方面ニ向フ、2、3日前捕虜セシ支那兵ノ一部5千名ヲ揚子江ノ沿岸ニ連レ出シ機関銃ヲ以テ射殺ス、其ノ后銃剣ニテ思フ存分ニ突刺ス自分モ此ノ時バカリト憎キ支那兵ヲ30人突刺シタ事デアロウ。
 山となつて居ル死人ノ上をアガツテ突刺ス気持ハ鬼ヲモヒシガン勇気ガ出テ力一ぱいニ突刺シタリ、ウーンウーントウメク支那兵ノ声、年寄モ居レバ子供モ居ル、一人残ラズ殺ス、刀ヲ借リテ首ヲモ切ツテ見タ、コンナ事ハ今マデ中ニナイ珍ラシイ出来事デアツタ、××少尉殿並ニ×××××氏、×××××氏等ニ面会スル事ガ出来タ、皆無事元気デアツタ、帰リシ時ハ午后8時トナリ腕ハ相当ツカレテ居タ。

12月17日 晴
 本日意義ある南京城入城式ガ挙行サレル事トナリ自分モ其ノ一人トシテ参列スル事光栄ヲ得タ、午前9時出発城内ニ向フ、各師団各隊ノ志気旺盛ナル行軍ニテ正午整列、朝香宮殿下ノ

閲兵が目覚マシク行ワレタ、後ニ市街ノ見物モ出来テ実ニ嬉シカツタ、本日ノ盛歓ハ言葉ニ表ワセナイ位デアツタ。

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19 [目黒福治]陣中日記

所属:山砲兵第19連隊第Ⅲ大隊大隊段列・編成
階級:伍長
入手経緯:本人より
日記の態様:縦15センチ×横10センチの手帳。中国兵捕虜から奪ったものだとの本人の証言がある。記述は1937年12月20日で終わっている。縦書き。カタカナ書きのうちにところどころ

ひらがながまじっているが、原文の通りにした。

12月13日 晴天
 午前3時起床、4時出発、南京幕府山砲台攻撃ノ為前進ス、途中敵捕虜各所ニ集結、其ノ数約1万3千名トノ事、12、3才ノ子供ヨリ50才位迄ノ雑兵ニテ中ニ婦人2名有リ、残兵尚続々ト投降ス、各隊ニ捕エタル総数約10万トノ事、午後5時南京城壁ヲ眺メテ城外ニ宿営ス。

12月14日 晴天 南京城外
 首都南京モ落ツ、休養、午前中南京市内見物旁々支那軍馬ノ徴発ニ行ク、城内ノ膨大ナルニ一驚ス。

12月15日 晴天 〃
 休養。

12月16日 晴天 〃
 休養、市内ニ徴発ニ行ク、至ル処支那兵日本兵ノ徴発セル跡ノミ、午後4時山田部隊ニテ捕エタル敵兵約7千ヲ銃殺ス、揚子江岸壁モ一時死人ノ山トナル、実ニ惨タル様ナリキ。

12月17日 晴天 南京城外
 午前9時宿営地出発、軍司令官ノ南京入城式、歴史的盛儀ニ参列ス、午後5時敵兵約1万3千名ヲ銃殺ノ使役ニ行ク、2日間ニテ山田部隊2万人近ク銃殺ス、各部隊ノ捕虜ハ全部銃殺スルモノゝ如シ。

12月18日 晴天 南京城外
 午前3時頃ヨリ風アリ雨トナル、朝起床シテ見ルト各山々ハ白ク雪ヲ頂キ初雪トナル、南京城内外ニ集結セル部隊数約10ケ師団トノ事ナリ、休養、午後5時残敵1万3千程銃殺ス。

12月19日 晴天 南京城外
 休養ノ筈ナル処午前6時起床、昨日銃殺セル敵死体1万数千名ヲ揚子江ニ捨テル、午後1時マデ、午後出発準備、衛兵司令服ム。

12月20日 晴天 
 午前4時起床6時出発渡河シテ新任ムニ服スベク前進ス。
 年夜 下給品
 スルメ 羊かん 梨 リンゴ 酒1合5勺

 1日下給品
 酒 蜜柑 五色おこし 勝栗 コブ 干魚 鯛かん詰 きんとん 

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南京事件 陣中日記 日本兵加害の記録 NO1

2015年03月16日 | 国際・政治

 下記は、南京戦に関わった第13師団山田支隊の兵士の手帳などに書き留められた陣中日記、戦闘日誌、陣中メモ、出征日誌、軍事郵便(戦地から親戚や 知人宛に送られたもの)など19人の記録から、7人の記録(1~7)の、それもごく一部を抜粋したものである。南京陥落後の投降兵・捕虜の「処分」(殺害)やその死体処理に関する部分を中心に「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち 第十三師団山田支隊兵士人陣中日記」小野賢二・藤原彰・本多勝一編(大月書店)から抜粋した。

 これらの資料収集に当たった小野賢二氏は同書の「あとがき」に、

 俺 は「6[宮本省吾]陣中日記」入手をキッカケに、これでもう調査をやめようと決心した。何故なら、この日記は、証言ではすでにわかっていたが、まだ発表さ れていなかった2日連続捕虜虐殺をはじめて記述した陣中日記だったし、それまでの調査が、俺にとってはあまりにもキツかったからに他ならない。電話で怒鳴 られ、玄関払いをくらい、調査依頼の手紙をそのまま返却される。しかも、当事者と向き合う緊張感に耐えられなくなっていたのだ。…

と 書いている。南京戦に関わった元日本兵が、なぜ電話で怒鳴るのか、なぜ玄関払いするのか、なぜ調査依頼の手紙をそのまま返却するのか、と疑問に思う。もち ろん「辛い過去を思い出したくない」ということはあるだろう。でも、そうであるのなら、何も怒鳴る必要はない。門前払いや調査依頼の手紙をそのまま送り返 すこともない。気持ちを伝えて断ればよいことである。だから、なぜ、と考えさせられるのである。

 『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言』(社会評論社)の編著者、松岡環氏 も、南京戦に関わった元日本兵を尋ねて歩き、小野賢二氏と同じような経験をした事実について書いている。そうした元日本兵の反応は、やはり、軍命に従って 命をかけて戦った辛く苦しい戦争経験を、残虐だとか、戦争犯罪だとかいうことで敗戦後に批判され、その責任を問い詰められるようなことが受け入れがたいか らではないか、と思う。しかしながら、根底には略奪や強姦、捕虜虐殺というような戦争犯罪に加担し、惨酷なことをしたというような後ろめたい気持ちがあるからこその反応ではないか、と思う。もし、南京で日本兵がほんとうに歓喜をもって迎えられ、南京大虐殺が単なる「まぼろし」であるのなら、そうした反応は考えにくい。

 「再現 南京戦」(草思社)の著者東中野修道氏は、

”逃走中の中国兵は日本軍に対する好機を狙っていた。日本軍への反撃を狙って、被拘束兵が幕府山で故意に火を放った。会津若松65連隊はいつ襲われてもおかしくない戦闘中にあったのである。

 ちなみに、ハーグ陸戦法規は第8条の「処罰」において、「総テ不従順ノ行為アルトキハ、俘虜ニ対シ必要ナル厳重手段ヲ施スコトヲ得」と謳っている。従って戦闘下にあるこの処刑は合法であった。

と書いている。下記のような会津若松第65連隊の兵の記録を読むと、そういう解釈が可能であるとはとても思えない。投降兵・捕虜の処分(殺害)は明らかに計画的である。日本軍兵士に犠牲者が出たという[宮本省吾]陣中日記の記録ついても、捕虜殺害にあたって失態があり、犠牲者が出たということであって、捕虜に「不従順ノ行為」があり犠牲者がでたから、捕虜を殺害したという記録ではない。すなわち、戦闘行為による殺害で、合法であるとは受け止められないものである。

 なお、抜粋にあたって、漢数字を半角算用数字にしたり、明らかに誤字と思われるため、正しいと思われる文字が示されているものは、その文字に変えたりした。また、所属や階級、入手経緯、日記の態様とともに示されている住所や職業は省略した。 (並べかえ編集3/21)
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1 [斎藤次郎]陣中日記

所属:歩兵第65連隊本部通信班小行李・編成
階級:輜重特務兵(1938年1月一等兵に進級)
入手経緯:遺族より
日記の態様:縦約11.5センチ×横約7.5センチの「川崎汽船株式会社」の社名入り手帳。縦書き。以下略

12月17日 晴
 今日は南京入城式があるので各班は勤務者以外は参列する事にする。小行李では折半して自分と××、武田、岡本の三君が勤務する事にして残の諸君が午前8時出発する、午前中当番を残し馬糧を徴発して来る、我が飛行機十数機が入城式に参加して爆音勇ましく我等の上空を翼を並べて飛んで居る様は勇壮だ、今日は旧の油しめ15日だとて乗馬の××××君と合して5人で砂糖小豆をしてたべながら「内地に居るとなあー」と焚き火を囲んで雑談に耽る、我等も近々に揚子江対岸にあがり10余里行軍して守備につくらしい話し向きがある、避難民の有様を見たが実に哀な状態だ、どんな事をしても敗残国になりたくないものと思った、夕刻補充部隊が150名到着した、×の安藤房雄君や橋本佐武郎君に会ひ金吉君の消息なども聴く、残留部隊になつて居るそうだ。

12月18日 曇、寒
 午前零時敗残兵の死体かたづけに出動の命令が出る、小行李全部が出発する、途中死屍累々として其の数を知れぬ敵兵の中を行く、吹いて来る一陣の風もなまぐさく何んとなく殺気だつて居る、揚子江岸で捕虜○○○名銃殺する、昨日まで月光コウコウとして居つたのが今夜は曇り、薄明い位、霧のような雨がチラチラ降つてきた、寒い北風が耳を切るようだ、捕虜銃殺に行つた十二中隊の戦友が流弾に腹部を貫通され死に近い断末魔のうめき声が身を切る様に聞え悲哀の情がみなぎる午前3時帰営、就寝、朝はゆつくり起床、朝の礼拝をして朝食用意をして××、岡本、××の三君と南京見学に行く、都市を囲んで居る城壁の構造の広大なるのに一驚する、城壁の高さ約3丈乃至4丈幅約14、5間南京市内も焼け又は破壊され見るかげもない惨憺たる有様だ、敵兵の死体やら武装解除された品々が路傍に沢山ある、帰途は夕刻近く9時就寝する。
〔欄外記事〕銃殺捕虜の死体処理(18日0時)

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2 [堀越文男]陣中日記

所属:歩兵第65連隊本部通信班(有線分隊長)・編成
階級:伍長
入手経緯:遺族より
日記の態様:縦約18.5センチ×横約12.5センチのノート。縦書き。・・・

12月14日
 未明油座君支那の工兵大尉を一人とらえへ来る。
 年、25才なりと、R本部は5時出発、吾は第5有線班の撤収をまちて8時半出発。
 午後1時40分敗残兵を一人銃殺。
 敵の銃をひろひて撃てるものなり。
 第一大隊は1万4千余人の捕虜を道上にカンシしあり(午前)天気よし、彼の工兵大尉に車をひかせて南京へ向ふ、鹵獲銃は道路に打ちくだく。
 一丘をこえて南京の城壁間近に見ゆ。
 城壁1千米手前にて彼の工兵大尉を切る、沈着従容たり、時午後4時也。
 後5時半、R本部に至るも、本部未着6時40分頃着す。

12月15日
 午前9時朝食、10時頃より×××伍長と二人して徴発に出かける、何もなし、唐詩300首、一冊を得てかへる、すでに5時なり。
 揚子江岸に捕虜の銃殺を見る、3、40名づゝ一度に行ふものなり。

12月16日
 東京日々の記者の托便で稲田さんよりハガキをもらふ、内地は雪とのこと、去月28日歌会ありと。
 一日なすこともなし、×××伍長以下2ヶ有線班南京見物にゆく。

12月17日
 午前8時整列、山霧ながるゝ枯葉の道を下つて南京城へ向ふ、午前9時30分和平門より入城、松井石根大将(軍司令官)、朝香宮、長谷川第三艦隊司令官等の閲兵あり。
 午後2時20分国民政府楼上に国旗掲揚式を見る、故国の空に万才の三唱あり、正に劇的の一シーンなり、軍事ユービン局にハガキを出す。
〔欄外に発信一覧──省略〕

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3 [遠藤重太郎]陣中日記

所属:歩兵第65連隊第Ⅰ大隊本部・大行李・編成
階級:輜重特務兵(1938年1月に一等兵に進級)
入手経緯:遺族より
日記の態様:縦約10.5センチ×横約6.5センチの手帳。縦書き。南京事件にかかわる部分は、手帳の2頁分が破かれている。

10月3日
 ・・・
 小生は其所から呉淞の第一兵站病馬廠に行つて22日間行李長馬看ご、其の内に我大行李は前進したので我等残留部隊は後続して行つた、馬家宅、老陸宅、新木橋の戦争は我65の一番の戦績があつた、其の後我等は羅店鎮から軍行路嘉定城を通過、無錫に到着、軍の通信に依り江陰県の江陰鎮に着いて我本隊に到達した、其所に来る迄に我六十五聯隊は4ヶ所ばかりの戦斗があつて江陰に入城、一番乗は三大隊十二中隊、××君の名誉の働きをしたのは江陰の手前だ。
 江陰から鎮江に着く迄××君と2日一緒に行軍した、銃と背のう持ってくれた、私が馬がない為に足もいたいので自転車なり。

 江陰を出発して5日目、鎮江に到着、鎮江は電気もついて居つた上海の様でした、其所へ一宿又進軍、烏龍山砲台に向つた所はやくも我が六十五の一中隊と仙台騎兵とで占領してしまつたので又南京北方の砲台に向つたら南京敗残兵が白旗をかゝげ掲げて来たので捕虜2万
宗形君は12月17日夜10時戦死。

10月19日
 明20日揚子江を渡り北にすすむ、滁県に向ふ、南京城見たのは12月17日であつた。

12月20日
 揚子江を渡り西北方に進む。

12月21日
 七里行事、敵の姿も見えず敵の陣地もない、只所々の橋を破壊して逃げたので我軍の行軍はひまとれる。

12月22日
 我六十五聯隊はもくてき地に到着したのは午後5時、敵は退却して敵兵一人も居ない。
 南京北方一里の幕府山砲台一帯で捕虜した敵兵のしまつは実に我々特務兵に取つてわすれる事の出来ない感を一寸記す。

 幕府山に着く日の朝5時出発、一里も行軍しない内、まだくらいのに敵兵は白旗を立て、我軍に服して来た、見れば皆支那兵、服装は四分五裂これでも皇軍に抵抗したのかとびつくり驚いた、そこで一大隊は千八百名武器から馬から皆せんりょうした、二大隊も三大隊も皆

〔このあと2頁分破られて欠〕

 それから私と×××君と××君と3人で英れいを拝し火葬後骨をおさめて我隊に帰つた、誠に残念であつた。そして19日休んで又12月20日そこを出発したのであつた。

 南京から揚子江を渡り浦口に上陸、南京のすぐ向ひ、それから2日がかりで全椒に着いたのは12月22日午後5時であつた、市民は皇軍を迎へて日章旗を立てゝ迎へた、此所で我隊は警備に付くらしい。

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4 [伊藤喜八]陣中日記

所属:歩兵第65連隊第1中隊・編成
階級:上等兵
入手経緯:本人から贈与
日記の態様:縦約11.5センチ×横約7.5センチの手帳。縦書き。
 
12月17日
 午前8時出発、湯山鎮から自動車にて途中軍官学校、総理の墓、色々と戦友の墓など思ひもくたう(黙祷)して南京中山門通過、我部隊に復帰出来るだろう、午前10時到着。
 門内、励志社、陸軍軍官学校、警護司令部などあった。
 午後1時から南京入城式。
 夕方は大隊と一緒の処で四中隊で一泊した。
 その夜は敵のほりょ2万人ばかり銃殺した。

12月18日
 大隊本部に行った、そして午后銃殺場所見学した。実にひどい惨状でした。
 我軍に戦死10名、負傷者を出した。
 夕方中隊の自動車にて宇立山砲台警備の処に復帰致して安心した。

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5 [中野政夫]陣中日記

所属:歩兵第65連隊第1中隊・第3次補充
階級:上等兵
入手経緯:遺族より
日記の態様:縦約15センチ×横約8.5センチの手帳。縦書き。主としてカタカナ書きの文中にひらがなが混じっているが、原文どおりにした。

12月14日 晴
 警備。
 敗残兵掃蕩ノタメ中隊長准尉ノ一分隊と我四分隊トデ砲台ニ行ク。
 幾名トモ知レズ射殺ス。

12月15日 晴
 敗残兵数百投降シ来ルトノ報ニ一同出動、約2千名。
 山中ニ小銃約百丁、チェック4、銃重機2其ノ他多数ノ弾薬ヲ置キ逃走。
 右武器ヲ前日占領ノ自動車ニテ中隊ニ運ブ。

12月16日 晴
 警備。
 攻撃部隊ハ南京入城。
 中隊ハ砲台警備ヲ命ゼラル

12月17日
 警備。
 小隊員中××××、××××ノ両名歩哨服ム中、敵敗残兵ノタメ手榴弾ヲナゲツケラレ負傷ス。
 毎日敗残兵ノ銃殺幾名トモ知レズ。

12月18日
 警備。(大隊ニ於テハ1万7千ノ捕虜ヲ処分ス)
 変リタル事モナシ。

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6 [宮本省吾]陣中日記

所属:歩兵第65連隊第4中隊・第3次補充
階級:少尉
入手経緯:遺族より
日記の態様:縦9.5センチ×横6センチの手帳。縦書き。…11月3日までは主としてカタカナ書き、11月4日以降はひらがな書きとなっている。

〔12月〕15日
 一昨日来の疲れのため下士官に警戒をたのみ睡眠す、本日も出発の様子なく警戒に任ず。
 中隊は衛兵を多数出し又自分は巡察将校を命ぜられ全く警戒のため非常に疲労す。
 夕方より一部食事をやる、兵へも食糧配給出来ざる様にて、捕虜兵の給食は勿論容易なものでない。

〔12月〕16日

 警戒の厳重は益々加はりそれでも午前10時に第2中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも束の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后3時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕虜兵約3千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。

〔12月〕17日 (小雪)

 本日は一部南京入場式に参加、大部は捕虜兵の処分に任ず、小官は8時半出発南京に行軍、午后晴れの南京入城式に参加、荘厳なる史的光景を目のあたり見る事が出来た。
 夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加わり出発す、2万以上の事とて終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出してしまつた。
 中隊死者1傷者2に達す。

〔12月〕18日 曇

 昨日来の出来事にて暁方漸く寝に付く、起床する間もなく昼食をとる様である。
 午后敵死体の片付をなす、暗くなるも終らず、明日又なす事にして引上ぐ、風寒し。

〔12月〕19日 

 昨日に引続き早朝より死体の処分に従事す、午后4時迄かゝる。
 夕方又捕虜の衣類の始末につき火災起る、少しで宿舎に延焼せんとしたが引留む事が出来た、明日は愈々渡河の予定にて兵は其の準備に晩く迄かゝる、牛肉の油揚迄作り、米、味噌の久しぶりの配給、明日の食料の準備をなす、風寒く揚子江畔も漸く冬らしくなる。
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7 [杉内俊雄]陣中日記

所属:歩兵第65連隊第7中隊・編成
階級:少尉
入手経緯:遺族より
日記の態様:縦約11.5センチ×横約7.5センチの手帳。縦書き。カタカナとひらがなが混じっているが原文のままとして。

12月14日
 5時出発、一路南京へ進撃急なり、南京城外約6粁バクウ(幕府)山麓附近にて敗残兵捕虜スル事約壱万7千、武装解除ス、第Ⅲ大隊収容隊トナル、第7中隊軍旗護衛為南京城外城元門に午後6時20分ニ着、支那海軍学校宿営ス。

12月15日 晴天
 中隊主力(×小隊欠)残敵掃蕩為出動、小隊軍旗護衛為待機。

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OCNブログ人がサービスを終了するとのことなので、2014年10月12日、こちらに引っ越しました”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。「・・・」や「…」は省略を意 味します。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。また、明らかに誤字と考えられ、正しい文字が示されているものは、正しい文字にしました。 (HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:ブログ人アクセス503801)

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南京事件 皇軍兵士 捕虜虐殺の記録 NO2

2015年03月09日 | 国際・政治

 下記は、前回のNO1に引き続き、南京戦に関わった第13師団山田支隊の兵士の手帳などに書き留められた陣中日記、戦闘日誌、陣中メモ、出征日誌、軍事郵便(戦地から親戚や知人宛に送られたもの)など19人の記録から、6人の記録(8~13)のごく一部を抜粋したものである。
 南京陥落後の投降兵・捕虜の「処分」(殺害)や死体処理に関する部分を中心に「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち 第十三師団山田支隊兵士人陣中日記」小野賢二・藤原彰・本多勝一編(大月書店)から抜粋した。

 先日ドイツのメルケル首相が来日し、東京都内で行った講演や会見の中で歴史認識に触れ、「過去の総括は、和解をするための前提になっている。和解の仕事があったからこそ、EUを作ることができた」と、地域の安定に自国の「過去の総括」が必要だったとの見方を示した。

 一方日本では、昨年4月の参院予算委員会で安倍首相が、戦前の日本による「植民地支配と侵略」について謝罪した村山富市首相の「談話」を否定し、「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国との関係でどちらから見るかで違う」というような発言をしている。
 また、先日、自民党の「党三役」の一人である稲田朋美政調会長が、太平洋戦争などをめぐり日本の指導者が責任に問われた東京裁判について「事後法(での裁き)だ。法律的には問題がある」との認識を示している。

 メルケル首相の上記の発言は、先の大戦における日本の戦争を正当化し、中国や韓国との溝を深めている安倍政権に対する決定的な問題提起であると思う。下記の記録に見られるような投降兵や武装解除された捕虜の殺害が、「戦闘行為で合法であった」と いうような主張が日本国内で繰り返され、安倍政権もそうした主張に同調するような外交を進めていることが問題なのだと思う。こうした日本の歴史修正主義 が、中国や韓国にとどまらず、アジア各国、さらには国際社会に波紋を広げつつあることをしっかりと受け止め、一日も早く軌道修正して、ドイツのように和 解・共存の道を歩むべきだと思う。(並べかえ編集3/21)
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8 [柳沼和也]陣中日記

所属:歩兵第65連隊第7中隊・編成
階級:上等兵
入手経緯:本人から
日記の態様:表紙に陣中日誌」と書かれた縦10センチ×横8センチの手帳。縦書き。

12月15日 晴
 何する事もなくして暮す。
 其の辺の敗残兵を掃蕩に出て行ったが敵はなくして別に徴発してきた。支那饅頭がうまかった。16師団が敗残兵を殺すのを見たが惨酷だったと聞く、英国の会社には電灯もついたりして日本軍の手がつけられない言ってた。

12月16日 
 略

12月17日
 四交代の歩哨であるからゆっくりと休まれる。日中は単哨で夜間は複哨である。
 工兵隊はトウチカを爆破させたり、南京の攻撃に一つの印象を残して居る。
 夜は第2小隊が捕虜を殺すために行く、兵半円形にして機関銃や軽機で射ったと、其の事については余り書かれない。
 一団7千余人揚子江に露と消ゆる様な事も語って居た。

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9 [新妻富雄]陣中日記

所属:歩兵第65連隊第7中隊・第2補充
階級:上等兵
入手経緯:遺族より
日記の態様:縦約105センチ×横約15センチ、穴をあけた用紙を革表紙とともに紐でとじてある。縦書き。・・・

12月14日 晴天 清国
  本日は朝4時50分整列、南京中間虎子台砲台攻撃□□□□前のより出発、夜明間も無敵兵白旗を飜る返し約1万5、6千人□□□解除、砲台は戦死者約 45名□傷者78名にして占領第二大隊我が中隊は其の地より南京入城、軍旗護衛として約2粁程前進して虎子台海軍独立陸戦隊兵営揚子江沿岸午後7時頃到着 し宿舎割になる。
 第4次補充部隊430名
 
12月15日 晴天 海軍兵舎ニテ
 明れば朝東から太陽ゆうゆうとただ一発の銃声もなくのんびりとした朝聞くからに
敵の捕虜兵2万5、6千名我が聯隊でのみ「シウヨウ」(収容)したと云ふ事だ。
 聞けば櫓網湾、馬家宅の我が軍の苦しめられた事また戦友の戦死されたと事を思ひ浮べ今日共に戦友の霊をなぐさめる事が出来たと遠い上海の空を向いて異郷を向いて拝した。

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10 大寺隆陣中日記

所属:歩兵第65連帯第7中隊・第4次補充
階級:上等兵
入手経緯:本人から
日記の態様:縦7センチ×横12.5センチの手帳。縦書き。11月24日までは主としてカタカナ書き、それ以降はひらがな書きとなっている。 以下略

12月17日
 ・・・
 〔空頁への記事〕 
 平安路ヲ南進。
 南京ノ捕虜約10万、
 9、11、13ノ各師団。
 65ノホリヨ1万2千。

12月18日
 今朝は昨日に変る寒さ。風は吹く、小雪は降る、吹雪だ、7時過ぎ起きて中山さんと2人で朝食をたいて食ふ。整列は8時半と云ふのであわてゝ整列する。
 9時整列を終り閲兵を終り訓辞がある。
 それから佐藤曹長により各隊に配属せらる、俺は松沢准尉殿の居る第7中隊に入れて貰う、郡君も一緒だ、第7中隊は現在、軍旗中隊だ。中隊に来て俺は指揮班、郡君は一小隊4分隊、大谷君も3小隊に入る。
 午前中に大隊本部に行き、後藤大隊長の訓辞、帰へつて中隊長矢本中尉殿の訓辞ありて、各分隊に別れる午後は皆捕リヨ兵片付に行つたが俺は指揮班の為行かず。
 昨夜までに殺した捕リヨは約2万、揚子江岸に2ヶ所に山のように重なつて居るそうだ、7時だが未だ片付け隊は帰へつて来ない。 
 俺は飯前に直ぐ傍にある南京の要塞を見に行きその完備せるのに驚いて帰へる、然しあれ程完備して置いてほとんど使はずに逃げてしまつたのだ、第8中隊と第5中隊が占領したものらしい。

12月19日
 午前7時半整列にて清掃作業に行く、揚子江岸の現場に行き、折重なる幾百の死骸に驚く、石油をかけて焼いた為悪臭はなはだし、今日の使役兵は師団全部、午後2時までかゝり作業を終る、昼食は3時だ、直ぐに夕げの仕度にかゝり5時半頃又夕食だ、今日捕リヨ死骸片付に行き、松川の菊地さんに会ふ、こゝの要塞は馬尾山の要塞と云ふ、工兵隊らしい、砲台の爆破をやる、見事なものだ、バクフ山要塞。

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11 [遠藤高明]陣中日記

所属:歩兵第65連帯第8中隊・第3次補充
階級:少尉
入手経緯:遺族より
日記の態様:縦12センチ×横7.5センチの手帳。横書き

12月16日 晴
 定刻起床、午前9時30分ヨリ1時間砲台見学ニ赴ク、午後零時30分捕虜収容所火災ノ為出動ヲ命ゼラレ同3時帰還ス、同所ニ於テ朝日記者横田氏ニ逢ヒ一般情勢ヲ聴ク、捕虜総数1万7千25名、夕刻ヨリ軍命令ニヨリ捕虜ノ三分ノ一江岸ニ引出シIニ於テ射殺ス。
 1日2合宛給養スルニ百俵ヲ要シ兵自身徴発ニヨリ給養シ居ル今日到底不可能ニシテ軍ヨリ適当ニ処分スベシノ命令アリタルモノノ如シ。
 
12月17日 晴
 幕府山頂警備ノ為午前7時兵9名差出ス、南京入城式参加ノ為13Dヲ代表Rヨリ兵ヲ堵列セシメラル、午前8時ヨリ小隊ヨリ兵10名ト共ニ出発和平門ヨリ入城、中央軍官学校前国民政府道路上ニテ軍司令官松井閣下ノ閲兵ヲ受ク、途中野戦郵便局ヲ開設記念スタンプ押捺シ居ルヲ見、端書ニテ×子、関ニ便リヲ送ル、帰舎午後5時30分、宿舎ヨリ式場迄3里アリ疲労ス、夜捕虜残余1万余処刑ノ為兵5名差出ス、本日南京ニテ東日出張所ヲ発見、竹節氏ノ消息ヲキクニ北支ニ在リテ軍慰問中ナリト、風出テ寒シ。

12月18日
 午前1時処刑不完全ノ為生存捕虜アリ整理ノ為出動ヲ命ゼラレ刑場ニ赴ク、寒風吹キ募リ同3時頃ヨリ吹雪トナリ骨マデ凍エ夜明ノ待遠シサ言語ニ絶ス、同8時30分完了、風梢々治リ天候恢復、幕府山警備兵帰舎、南京見学兵6名アリ、午前中1時間仮眠ス、久シク口ニセザル林檎1個支給サル、正午第4次補充員9名編入サル、午後2時ヨリ同7時30分マデ処刑場死体1万有余取片付ノ為兵25名出動セシム

12月19日
 前日ニ引続キ死体片付ノ為午前8時ヨリ兵15名差出ス、Rハ対岸渡江ニツキ材料搭載掛ヲ命ゼラレ午後1時ヨリ中山碼頭碇泊司令部ニ連絡ニ赴ク約1里半アリ、徴発セシ乗馬足ヲ痛メ使用ニ耐エズ残置ニ決ス、南京見学兵12名アリテ土産ニ羊羹、蜜柑缶等持参セリ、尚持参ノ赤玉葡萄酒1杯ヲ飲ム、増田リューマチニテ入院ス。

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12 [本間正勝]戦闘日誌

所属:歩兵第65連隊第9中隊・編成
階級:二等兵
入手経緯:遺族より
日記の態様:縦約15センチ×横約9センチの手帳。縦書き。表紙に「戦斗日誌」と書かれている。・・・

12月13日
 午前7時出発ニテ南京ニ向フ、牛引キ行軍午后6時マデ、7時ニ宿舎ニ入ル、残敵所々居ツタ。

12月14日
 午前5時出発、体ノ工合ハ良カツタ、途中降参兵沢山アリ、中隊デモ500名余捕虜ス、聯隊デハ2万人余モ捕虜シタ。

12月15日
 具合悪ク一日休養ス、中食セズ、夕方高木実君面会ニ来タ、夕方自家母ヨリ女子出産ノ報アリ、安心スル。

12月16日
 午前中隊ハ残兵死体整理ニ出発スル、自分ハ患者トシテ休養ス、午后5時ニ実ヨリ塩規錠ヲモラー、捕虜三大隊デ3千名揚子江岸ニテ銃殺ス、午后10時ニ分隊員カヘル。

12月17日
 午前9時当聯隊ノ南京入城、軍ノ入城式アリ、中隊ノ半数ハ入城式ヘ半分ハ銃殺ニ行ク、今日1万5千名、午后11時マデカゝル、自分ハ休養ス、煙草2ケ渡、夜ハ小雪アリ。

12月18日
 南京見学ト支那兵死体整理ト中隊ハ分レル、自分舎内監ニ残ル、家ヘ手紙ヲ出ス。

12月19日
 午前8時整列ニテ中隊ハ南京見学ト渡河準備ニ出ル、自分ハ診断シテ「マラリア」トナル、始メテ決定スル。

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13 天野三郎軍事郵便

所属:歩兵第65連隊第9中隊・第3次補充
階級:少尉
入手経緯:戦地から送られた軍事郵便を謄写版印刷して親戚・知人に配布したものを1976年に改めて私家版として活版印刷したものによる
資料の態様:私家版では、はがき、手紙の到着順序に収録されているが、本書への収録にあたっては、これを記録日順に変えた。・・・
日記の態様:縦約15センチ×横約9センチの手帳。縦書き。表紙に「戦斗日誌」と書かれている。・・・

 ・・・

  先日(12日)江陰で書いた手紙は差し出す機会が無くて今日に至りました。その後前進に前進を重ねて去る14日旅団長率ゐる歩兵65(104は江北)は南 京東北方一里余にある幕府山砲台占領目下附近の残敵掃滅中にて一部は今日南京城に入城式を挙行の為出かけました。留余の主力は捕虜の処置に任じておりま す。今までの捕虜は歩65のみで約2万に上り目下砲台下の支那軍厰舎に収容中にて食糧の補給も不充分にて早一週間も水も米も食はない支那兵が相当数に上ってゐます。小生巡察将校を昨朝より拝命まだ下番の命令はなく目下の処何処へも出られず支那投降兵の監視に任じてゐます。寒さは夜明を除いては内地よりも ずっと温暖にてさしたる心配も要りません。雨は乗船中呉淞にて降られたきりで其後は連日の晴天です。明日は下番となる事故(?)南京城見学としゃれるつも りです。23日中は65は江北(揚子江対岸)に渡航します。65を除く師団主力はすでに渡航してゐます。

 敗残兵一人小生の寝台のかげにかくれてゐたのに気がつかず二晩ばかり一緒に寝ましたが昨夕見付けられて直ちに射殺した様なナンセンスもあります。

  何処まで押して行くのか此処では殆んど見きわめつかず戦局の方は却って内地の皆様方の方が御承知の事でせう。軍用行李はすべて上海に残置せし為何かに不自 由ですが、何とか徴発品で間に合わせてゐます。慰問袋は一度も手に入らず最初からの兵すらまだ一度も入手して居りません。

 かうして書いて置いた処で何時出せるやらわかりませんが書いて置きますからその中出せる事と思ひます。これで失礼します。

   12年12月17日                     (三郎)
 支那軍の捕虜の書いたもので之を小生に手渡して善処を願ったものです。御参考迄に。

[訳文]
〔我々 は軍を離れ大日本軍隊に武器を渡し投降して、よろしくおとりはからい下さるようお願いしました。しかしここに来てからすでに3日たちましたが結局のとこ ろ、どうとりはからっていただけるのか分かりません。数万人のあわれな者達は4日以上も、ひもじい思いをしています。重湯は少しも腹の足しにはなりませ ん。我々は、まもなく餓死してしまうでしょう。この死ぬか生きるかの瀬戸際に我々は、大日本が我々数万人の命を救って下さるようお願い致します。もし我々 の願いをかなえて下さったら、我々は将来心から服従し、大日本のために水火も辞さず、恩に報いる所存です。どうか我々が生きてゆけるように食べる物を下さ るよう切にお願いいたします。大日本万歳。
  謹呈
   大日本長官殿
                                    投降軍臨時代表
                                       釜 核 拝〕
〔謹んで大日本軍編隊にお願い申し上げます。我々が安心して服従できるように、あるいは解散し故郷に帰り安らかに暮らし、楽しく仕事に励むことができるようにしてください。御恩は忘れません。大日本の前途に勝利があることを高らかに叫びます。   終わり〕
                                           〔鈴木和子訳〕    
〔原文〕
     報告
 我們離了隊伍投到 大日本軍隊繳槍 希望給我們一個安
 置的弁法 但是到了這処己有三天 究竟有没有弁法処置
 数万可憐的人 餓了四天多了 粥水都没有半点食 我們
 快要餓死了、在這生死的頃刻中、要求我們大日本来拯救
 我們数万人的命、将来服従 大日本的駆使択答 你給我
 們的恩恵、赴湯踏水、我們也是甘愿、懇求 大日本維持
 我們一粥一飯 共祝大日本帝国万歳
  謹呈                ?
    大日本長官        釜 核
                  投降軍臨時代表呈     
 伏懇 大日本軍日編隊、使我們大家安心服従、或者遺散
 回郷、大家回去安居楽業、我們数万人都感恩不忘、我們
 高呼大日本前途勝利、『完了』

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OCNブログ人がサービスを終了するとのことなので、2014年10月12日、こちらに引っ越しました”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。「・・・」や「…」は省略を意 味します。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。また、明らかに誤字と考えられ、正しい文字が示されているものは、正しい文字にしました。 (HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:ブログ人アクセス503801)

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南京事件 陥落後も続く集団虐殺 元日本兵の加害証言

2015年03月02日 | 国際・政治

 「再現 南京戦」(草思社)の著者、東中野修道氏は、そのエピローグの「当時の人々は南京大虐殺を思ってもいなかった」と題した部分で、支那派遣軍報道班、馬淵逸雄中佐の『報道戦線』(昭16)の、下記の文章を取り上げている。

《南京には外人記者が2,3居残って、市中を巡回した形跡があつた。彼等は攻略日本軍の行動を観察して、アラ、欠点を探索し第三国の対日輿論を悪化せしめんとするスパイ的存在であるので、之が行動を完封したのであるが、それにも況(マ)して悪影響の種子を蒔(マ)いたのは、米国宣教師達の悪質デマ通信であつた。恰(アタ)かも入城した日本軍が鬼畜の行動を為(ナ)したかの如(ゴト)き通信をなし、世界の対日感情を悪化せしめた》(72頁)

 東中野修道氏は、これが真実だお考えのようである。そして、「その当時、日本軍将兵も、英・米・独の外交官たちも、南京の欧米人たちの国際委員会も、南京市民も、国民党政府も、上海その他の外国人記者たちも、南京の日本軍の不法殺害を指摘したことはなかった」と書いている。


 陳光秀さんや陳光秀さん、郭立言さんのような中国側の被害者証言(450「南京事件 陳光秀さんの証言」、451「南京事件 郭立言さんの証言」参照)、および、それらに符合する下記のような日本側の加害証言には、目もくれず、また、繰り返し南京金陵大学などから、日本大使館に届けられた抗議や要望の文書、南京安全区国際委員会のメンバーが、アメリカ大使館に宛てた窮状を訴える書簡(445「南京安全区 NO1」および446「南京安全区 NO2」参照)なども、強姦などを中心とする不法行為に関するものであるためか、すべて無視されているようである。それで南京事件の解明ができるものなのか、と思う。

 また、海外で報道された数々の南京に関する記事は、国民党中央宣伝部が日本を陥れるために工作したものであるという。だとすれば、パナイ号(バネー号)事件やレディーバード号事件の記事(432「南京大虐殺 パナイ号(バネー号)事件 レディーバード号事件」参照)は、どのように理解すればよいのであろうか、と思う。
 日本軍による厳しい報道統制下において、日本軍報道班の中佐の文章が真実で、当時南京に留まった外国人記者のみならず、南京戦のずっと前から南京にいた大学教授や宣教師までが、国民党のスパイとして、国民党中央宣伝部の宣伝工作に関わったというような主張が、国際的に通用するであろうか。

 下記のような、元日本兵の具体的な加害証言を、謙虚に受け止めるべきではないか、と思う。下記は『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言』松岡環編著者(社会評論社)からの抜粋である。
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                第3部 証言

        3 陥落後も続く集団虐殺

捕虜を貨車ごと河に落としたり、倉庫ごと燃やした

                                         朝倉正男
                                     1915年3月生まれ
                        南京戦当時 第16師団歩兵三十三聯隊第二大隊
                                      2000年12月取材
●──貨車に詰め込んだ敗残兵を揚子江に突き落とす
 私は昭和10年兵です。現役のときから同じ中隊でした。支那事件で8月、部隊に応急動員で召集がありましてな、現役のままで応召しました。北支の天津や保定とかいろいろな所を歩きました。

 中支では、一日に十里くらい歩きましてさ、そこに食料はないし、現地調達やね。橋や何やみんな落ちてるさかいに輜重隊が来ない。戦争は勝ち戦やから、背嚢は背負わんと奉公袋と水筒と歩兵銃だけ持ってどんどん進むんですわ。軽機関銃は重たいので交替で持ちました。夜到着すると食料探しての中を探して外米や肉類をとるんですわ。兵隊はまず食べることでしたな。

 紫金山の戦いでは、二大隊の各部隊が一緒に攻めました。3日間ぐらいは紫金山で戦っていましたが、山の中は食べ物も何もないので、食料は麓で炊いてから飯盒で運んでくれました。亡くなった同年兵の始末もあって木を拾ってきて焼きましたな。骨を拾って持って紫金山から降りました。紫金山の下りでは道に地雷が埋めてあって工兵隊が探って除去しました。それがすむまで動けませんでしたな。

 紫金山から下りると敗残兵がいっぱいおってな。揚子江の近くまで行った広いところで、汽車がいっぱいありましてん。そこにあった空の貨車に捕まえた敗残兵をどんどん詰め込んで、こんなことを言うていいもんかどうか。ここらは坂になっていてな、みんなでちょっと押すと貨車が動いたんで、「こいつら、河に流したれ」て言うて、みんなで押して揚子江へビシャと放り込んだんや。

 貨車のあるところの手前では、工兵隊が濠の中に人を入れて、その周りを銃を持った兵隊が見張っているさかい逃げるちゅうわけにいかん。その上を戦車でゴーとひいているのを見ました。自分らは貨車のほうで(敗残兵を貨車に詰め込む)仕事をしてるからじっとは見てなかったけどな。

●──陥落してから2日ぐらいしてから南京城内で掃蕩しました。家を一軒一軒調べて、男なら全部引き出した。調べることはせえへん。捕まえて調べるので引っ張ることもあるし、その場でぽんと銃でやってしまうこともあった。その時、私の分隊は、敗残兵を30人くらい捕まえたな。男ばかり若いのから中年くらいやねえ。それを集めて倉庫みたいなところに入れました。女は女で倉庫というか宿舎みたいなところに別に集めて入れて処分や。それはよくやりましたが、そやけど逃がした者もおるんでな。それが後から戦争のなにで〔裁判で証言するので〕やったことがわかってくるのやろな。倉庫に入れた者を銃で撃ってから、後で火をつけた。その辺の家が壊れてるから木やごみなんか取ってきてそれに火をつけて放り込んだんや。中はそれは騒ぐ。死なんさかい〔死なないから〕、わー助けてくれ言うような喧しい声が聞こえた。叫んでいる中で日本語の助けてという声が聞こえた。

 徴発は、危ないのでそう遠い所へ行けないんで、城外の河のあたりでやりました。「行く時は一人では絶対に行くな」と小隊長に言われていたので、2人以上で行ったな。まあ食わんなしゃあないからな。始めのうちだけで、落ち着いてくると後方から大行李も来て、食料もくれるからな。

 憲兵隊は見なかったな。クーニャン徴発はあったし、分隊内では好きな人がおって一人か二人はおって、女探しに出かけていった。長いことたつと女の人がやって来るしな。そういう所にいく人はおるおる。みんな珍しがっていきましたな。朝鮮とか中国人の女の人が多かったな。

 揚子江にはよく行った。死体が浮いとったり、岸に流れ着いているのを見たなあ。ごみみたいに寄せられていた。死体は慣れっこになっていて驚くどころやなかった。そら最初はやらしいわなあ、と思ったけどなあ。

 城内は警備をしたので、難民区をぐるぐる回ったりしていた。そういうところに敗残兵とか怪しい者がおらへんかなあと思って入って行くやろ。だけど、男はおらん。すると、女ばかり固まっている建物もあった。なんぼ女がいてもそんな所は危なくて遊べんわなあ。後からみつからんようにせんとなあ。
 南京大虐殺は、ありました。強姦もありましたで。

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               第3部 証言

        3 陥落後も続く集団虐殺

銃殺は城外のあちこちで見た

                                     榊 正夫
                                  1916年10月生まれ
                       南京戦当時 第16師団野砲兵第二十二聯隊
                                     2000年6月取材
 昭和11年兵です。南京、徐州戦まで野砲隊にいたな。私は野砲隊では二番砲手で、二番砲手の仕事は照準を合わして大砲を撃つ、つまり照準の担当者だった。二番砲手は分隊長の命令によってやらなければならないし、砲手では一番難しい仕事でした。つまり照準をしてこっちが「よし」と言うと中隊長が「撃て」と命令する。野砲の射程距離は大体8千メートルぐらいで、実行距離は4千だと思う。

●──南京攻略で初めて零キロ射撃
 福知山の部隊と一緒で、南京入城の前から中山門撃ち込んだな。「二番砲手、前へ出ろ」と言われたので前に出て、その時に初めて零キロ射撃をしたんや。零キロ射撃というのは百メートル手前の空中で砲が破裂してしまう。そこから1センチの弾がダーと散らかって落ちていく。それを零キロ射撃と言うんですわ。その時は三十八聯隊の一個中隊を野砲隊が護衛する時に使った。南京陥落の2、3日前だと思う。それで支那兵は沈没した。支那兵が逃げていくのが向こうの方でぼんやりと見えたわ。

 紫金山の下にいて、山に敵がいるというので山に向かって砲を撃った。そこで初めて大砲を撃ったね。すると支那兵がうろうろ逃げていくのが見えた。逃げる様子はあっちに行くわこっちに行くわ、といった感じやった。

 大砲は一分間に一発撃ったら上等です。城門は福知山〔歩兵第二十聯隊〕が入って中から開けてくれてた。土嚢も全部片付けてあった。私らは南京陥落の2、3日後に入ったので、その時は死体もポツポツとあるだけやった。城内に入ると南京政府には16師団の司令部が駐屯していて、私ら野砲隊はその近くの支那の部隊の跡地に駐屯した。広い講堂に入った。駐屯場所は司令部から歩いて行ける距離だった。駐屯している間は歩兵と違って忙しかった。馬の手入れとか大砲の整理とかをやってたし、訓練もあったからな。

●──城内で徴発をしたし 捕虜の銃殺もあったな
 徴発は城内だけやった。日用品が何もないので、学校とか会社に入って机とか椅子とか何でも盗ってきたな。向こうは逃げる時に全部置いて逃げたので、会社なんかは全部開きっぱなし。日常的なものだけ盗った。私らはあんまり徴発には関係してないんだが、歩兵隊とか輜重隊がよくそんなことをしたと聞いている。そして逆に支那の便衣隊にやられた人もようけいいたらしい。強姦もしたと聞いたことがある。私らは使役で城外の河の方に糧秣を運びに行ってました。

 中山門を出るとすぐ横に公園か広場があって、そこで捕虜を銃殺しているのを目撃しました。それは南京に入ってから一週間後だった。捕虜はどこかの戦地から捕まえてきたと思う。私は4、5人連れてきてポンポンと撃ってたのを見た。それはどこの部隊やったかは分からんが、銃殺は城外のあっちこっちでやってるのを見たな。それは紫金山か南京攻略戦で捕まえて来た捕虜だと思う。大体どこの部隊も捕虜を捕まえたからな。各聯隊皆やった。私らも怪しい者がいれば捕まえたね。当時私ら野砲隊は銃を持っていた。歩兵より短い三八式の銃です。みんなたりましたわ。

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