真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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津田左右吉「明治維新の研究」孝明天皇は、”王政復古を欲せられなかった”

2022年01月28日 | 国際・政治

 私は、現在の日本の歴史教育には問題があると思っています。特に近現代の歴史、すなわち明治維新からアジア太平洋戦に至る歴史が、一部の勢力によって、歪められていると思うのです。
 学校で日本の歴史を学んだ人たちは、薩摩藩が1863年(文久3年)、イギリス艦隊と戦った薩英戦争で敗北し、また、1864年(元治元年)、長州藩が、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四国連合艦隊を砲撃した下関戦争で敗北し、欧米の軍事力を実感していたにもかかわらず、薩長が「攘夷」をかかげて幕府を倒したことを、そして権力を手にするや、直ぐに幕府の政策を引き継いで開国に転じたことを納得できているでしょうか。すでに、開国政策を進めていた幕府が「大政奉還」をし、諸侯会議で話し合いが進んでいたにもかかわらず、その諸侯会議の話合いを無視して、討幕の密勅(偽勅)を根拠に武力討伐に至ったことを納得できているでしょうか。

 津田左右吉は、「明治維新の研究」(毎日ワンズ)「第三章 維新前後における道徳生活の問題」で、”彼等が国賊と呼び極悪無道の朝敵として甚だしき悪罵を加えた幕府の定めた国策を遵奉することによって、明治の新政府を立て新政権を握ったものが、彼ら薩長人であった。幕府の定めた国策を攻撃して悪罵しておきながら、事実においてそれを遵奉したからこそ、彼らはその地位を得、その権力を得たのである。孝明天皇に政治上至重至大の責任を負わせ奉りながら、一方ではこういうことをしたのが、薩長人であった。日本人はこのことをどこまでも銘記しなければならぬ。”とか、”いわゆる王政の復古は幕府の権力を破壊して皇室に政治上の権力をもたせようとする主張であったが、それは事実上実現せられず、また実現し得られることでもなかった。”と、様々な事実をもとに、強い調子で書いていますが、現在の歴史教育では、そうした視点はほとんどないように思います。
 それは、明治維新によって権力を手にした、薩長を中心とする尊王攘夷急進派が、先の大戦における敗戦に至るまで、みずからに都合のよい歴史を語り、政権運営を続けた結果であり、また、戦後もなおその影響力を失っていないからだと思います。

 だから私は、津田左右吉の下記の記述(「明治維新の研究」(毎日ワンズ)から抜粋)は、しっかり受け止められる必要があると思います。そして、憲法改正などを主張し、戦前回帰を進めようとする勢力を政権から遠ざけ、真に日本国憲法に基づいた国にしなければならないと思います。
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             第三章 維新前後における道徳生活の問題

 ・・・
 そこで問題を当時の政治上の変動に向けてみる。志士輩浪人輩の行動の主旨は初めから決まっていたので、要するに幕府を擁護するかそれを倒そうとするか、二つのうちのいずれを採るかにあり、そうしてこれまでの彼らの言動によって推測すれば、尊王思想はいうまでもなく、攘夷の主張とても、幕府を倒す方法としての謀略に利用せんとするのが主意であったに違いない。謀略を要する如く思われたのは、幕府が現存するために、言論のその存亡に触れることを避けたのであるが、それを避けたところに謀略があったと考えられる。そうしてそれを避けたのは、一つは当時の志士輩に権力争い・党派争いが多く、その争いにおいて自派の勢力の弱く見える場合には、世の批評なり藩論なりを動かすだけの権力か勢力かをもっているものが横暴惨酷な処置をする習いがあったために、その害にかかることを避けようとしたからでもあるが、大局から論ずれば、幕府を倒すべき時機の来ることを予想していたためでもある。だから尊王思想の鼓吹者は、後からいえば、明治以後に実現せらるべき思想の趣向を空想としてもっていたというべきであろう。というよりも、それを実現するがために行動していたのだと、いうべきである。
 かつてはタカヤマヒコクロウ(高山彦九郎)の如き南朝の狂信者があり、当時においてはマキ・イズミ(真木和泉)やヒラノ・クニオミ(平野国臣)などや、またはタママツ・ミサオ(玉松操)やの如きものがあったことを思うと、かかる教信者に追従するものも志士輩浪人輩の間には少なくなかったであろう。後に思想問題としての南朝の再現を空想するようになるのもその仲間であった、と考えられる。志士輩浪人輩はかかる狂信的妄想者、それは狂信すること妄想することに興味をもっているとともに、即時にもそれが実現し得られるものの如くも思っていたものである(南北朝正閏論の如きは過去の歴史上の問題であって、事実は南北朝の合一によって遠い昔に既に解決していたことである。思想的にではあるが、いまさら南朝の復活を思うのは、過去を再び現在に見ようとするものに過ぎない。南朝は詩人の懐古で十分であり、夢に見ることによって足れりとしなくてはならぬ)。要するに討幕の主張者は南朝の思想的復活を妄想するものに他ならず、歴史の展開を全く理解しないものである、というべきである。
 さてもとへ立ち帰っていうと、孝明天皇は安政年間における幕府の上記の意義での尊王の態度及び諸般の施政を嘉納せられ、志士輩浪人輩の煽動撹乱を喜ばれなかったことが、文久頃から後の御言葉によっても明らかに推測せられるので、天皇は彼らのいうが如き意義での尊王及び攘夷、一言にしてこれを掩えば王政復古を欲せられなかったのである。
 外交問題についていうと、アメリカとの通商条約が成立した初めからこう明らかな御考えがあったかどうかは、外聞から窺知しがたいところもあったろうが、温和な天皇の御性質から見ても、こう解せられる。かかる尊王論・攘夷論を含む王政復古論は、大政を幕府に委任せられている長い間の習慣を変更せんとするものであり、またその尊王は天皇親政の意義での王政復古を実現せんとするものであるが、天皇にはそういう御考えは全くなく、王政復古は欲せず大政は幕府に委任する、と明言せられていたのである。それにもかかわらず、志士輩浪人輩及ビ一部の宮廷人はかかる意義での尊王が叡慮であるが如く世上に宣伝することを努めたが、当時の宮廷の組織及び宮廷人の状態において、どうしてそういうことが実行できるのか、もしそれを実現せんとして、例えば天皇がいわゆる攘夷の意見を有せられ、攘夷の勅命を発せられるようなことがあるならば、それは日本を亡国の域に陥れるおそれの多いものであって、いわゆる攘夷を(※外国船に対して)実行した長藩の敗戦はそれを証するものであるが、もしそれが勅命によって行われたとするならば、それを命ぜられた天皇の責任のいかばかり重大であったかは、いうまでもあるまい。幸いに天皇は無謀な攘夷はすべきでないとしばしば仰せられていたが、この叡慮を解するものは、志士輩にも浪人輩にも一部の宮廷人にもなかったのである。だから、マキやヒラノの徒の無謀の攘夷論及びそれに伴う王政復古論が志士浪人の間に横行したのであるが、実は攘夷論のすべてが無謀なものであって、有謀な攘夷論というものは当時には存在しなかったのである。従って攘夷がもし叡慮であるとしたならば、それは叡慮を本来無謀なものとすることを示すに他ならなかったのである。
 攘夷がそうであれば尊王もまた同じであって、上記のマキやあヒラノやその他の、長藩人及び浪士輩の言動もすべてがそうであり、元治年間における長藩兵皇居の乱入の企てはそれを明示するものであった。後に政府を建設して政権を握るようになった薩長人は、国策としてはこれら無謀の徒の行動を抑制した幕府の開国及び尊王の国策を実行したものであり、それによって政府を建立し、その実権を握り、維新の経綸を行なうことができたのであるが、思想的にはいわゆる王政復古の意義での尊王の主張を追従し、それに伴う無謀な攘夷の実行を宣伝して、それによって世に勢力を得たものである。空言を弄して徒らに大声疾呼したものが政府の実権を獲得したのである。
 彼等が国賊と呼び極悪無道の朝敵として甚だしき悪罵を加えた幕府の定めた国策を遵奉することによって、明治の新政府を立て新政権を握ったものが、彼ら薩長人であった。幕府の定めた国策を攻撃して悪罵しておきながら、事実においてそれを遵奉したからこぞ、彼らはその地位を得、その権力を得たのである。孝明天皇に政治上至重至大の責任を負わせ奉りながら、一方ではこういうことをしたのが、薩長人であった。日本人はこのことをどこまでも銘記しなければならぬ。
 いわゆる王政復古は現実には行われなかったが、しかし皇室による国家統一の要望は暗黙の間に国民の間に生じ、人知れぬ間にそれが次第に実現に向ってきた。戦国割拠の空気がようやく世に広まり、国家の統一がまさに崩壊せんとする情勢の間にかくの如き要望が具体化せられんとするに至ったのは、矛盾のようであるが、そこに皇室がおのずから有せられる精神的権威、国家統一の象徴としての権威が、何人にも明らかに意識せられないながら、はたらいてきたのである。幕府の力によって長い間維持せられた国家の統一がまさに崩壊せられんとするに当たって、否むしろそれが破壊せられんとすることによって、皇室による統一が漸次成立の勢いを示してきたのでもあり、破壊せられんとしたことが成立の勢いとなって更新したのである。そうしてそれは日本の国家統一の真の精神の現われであった。
 いわゆる王政の復古は幕府の権力を破壊して皇室に政治上の権力をもたせようとする主張であったが、それは事実上実現せられず、また実現し得られることでもなかった。そうして皇室が、政治的権力ではなくして、国家統一の象徴であられるという、上代から継承されてきた思想に立ち帰ったところに、当時の政治家にも国民にも十分に理解のできなかった新精神、むしろ上古から持続せられてきた旧精神が、昔ながらにはたらいていたのである。
 ところが、よし明らかな意図がなく意識せられた政治運動でないにせよ、国民をしてその向うべきところに向かわせるには、時勢の趨くところを見抜く明識と、真に国を憂うる誠実なる心情とを有する優れた思想家、その意義での一世の指導者がなくてはならぬ。けれどもそれは容易には求め得られぬ。フジタ・トウコ(藤田東湖)やサクマ・ショウザン(佐久間象山)や、またヨシダ・ショウイン(吉田松陰)の如きが、多くの書生輩に指導者として仰がれていたようにも見えるが、彼らは、あるいはあまりにも偏狭なシナ式慷慨家であり、あるいは功名心に富んだものであり、またいずれも時勢を達観する思想の深さを欠いていた。
 やむなくんばアベやホッタの如き幕府の当局者、すなわちそれらに信任せられ重用せられて、国家の枢機にも参じ世界の形勢も知っていた有力な事務官たちを挙げねばならぬが、しかし彼らの多くは幕府の重要な地位にありそれぞれ職務をもってもいて、静思する遑がない。要するに彼らは時務には通じ政治上の形勢に対する識見をば豊かにもっていたが、思想家としての日本の指導者たる資質には幾分欠けているところがあった。
 そこで世の中は磁針のない船の如く風向き次第でどちらにも動くか、また国家を盲目的な志士の徒の暴動に委するか、の他はないような情勢になった。多くの武士を含めて一般の民衆は、知力が足らず識見もなく、志士輩の宣伝に乗せられたり、世間の噂話に動かされたりするのみであったから、思想上のよき指導者がない限り、彼らみずから健実な世論を打ち建てることができなかったのである。 マキやヒラノや、サツマのサイゴウ及びオオクボ(大久保利通)やチョウシュウのカツラ(桂小五郎=木戸孝允)や、彼らの行動が、如何に軽浮であり無思慮であったか、また彼らが幕府とその政治とに対し、何事についても甚だしき猜疑の目をもってそれを見ていたか(これは小人どものすることである)あるいはまた一部の宮廷人が安政年間に開港はキョウト付近を避けよといったり、文久年間に老中のオガサワラが兵を率いて上京しようとしたときにそれを阻止しようとしたり、アイヅの武士が御所で旧式の訓練を行って天皇に供したときに発砲を禁じようとしたり、チョウシュウの兵のキョウトに乱入したときに慌て蓋めいて御所を逃げ出そうとしたりそういうことをしたのでも知られる如き怯懦の言動、またはマツダイラ・シュンガクの宮廷に対する曖昧な態度などを知るものは、上記の推測に誤りがないことを感ずるであろう。なお志士輩が「鎖国和戦紛紛議、多在偎紅倚翠中(※多くは偎紅倚翠の中に在り。偎紅倚翠中とは、遊女と戯れること)」といわれたのも、また私刑を加えて殺害したものの耳や腕を斬り取ってそれを政敵と思ったものの家に送致するような残忍なことをしたのも、彼らの人物の如何に低劣であったかを示すものである。
 しかし世間の情勢がこういうものであったにもかかわらず、それによって国家の大本を誤まることが少なかったのは、上にも述べた如く皇室のおのずから有せられる精神的権威の故であった、と考える他はあるまい。昔から幾たびも皇室内部に種々の紛争が生じ、時には兵乱となるようなことがあり、または天皇もしくは上皇の播遷(ハセン)もしくは幽囚というような異変があったにしても、皇室の地位にも声望にも豪末の動揺がなく、かかる異変もいつとなく人の記憶から失われて、皇室はむかしながらの皇室として国民の尊崇の対象であったのも、このことと深い関連がある。  
 ここで一応日本の国学のことを考えてみよう。アブチ(賀茂真淵)、ノリナガ、アツタネ(平田篤胤)、及びそれらの門下から出た人々は、皇室尊崇の思想を鼓吹したが、如何にそれを尊崇すべきかには多く注意せず、そうしてまたトクガワ氏歴代の将軍をば、政権の掌握者として深くそれを敬重した。しかし皇室とトクガワ氏との関係については、明らかな考えをもっていなかったように見える。
 彼らの最も重きを置いたのはシナの思想、特に儒教思想の排斥であって、儒者が道として説くことは真の道ではなく、王室に易姓革命の行われるのがその明証であるという。真の道は我が国の皇祖から神代のままにいまに伝えられているものであり、その意味でそれが神の道であるといわれたが、それを具体的に説くことはほとんどせられていないので、その点では儒教道徳の思想と同じく抽象的概念に過ぎず、従って現実の国民生活を指導するはたらきのないものである。国学は種々の面で儒教の影響を受けているが、ここにもその一つがあるといってよかろう。
 シナの儒者は、儒教思想におけるかかる抽象概念を、一方では単なる文字上の知識としてそれを語りそれを論ずるけれども、実生活はそれとは別のものとして取り扱う場合と、それとは反対に概念をそのまま現実の生活に当てはまるものと思ってみずから欺いている場合とがあるが、それとともに、他方ではかかる概念にも実生活に何ほどかの由縁のあるものもあって、政治上における王室の易姓革命や家族生活における大家族的風習の如きがそれであるとし、そういうものにおいては概念そのものがそのまま現実の生活を示すものではないにしても、心理上それを連想し得る点があると見る。ところが日本の儒者は、シナの社会において実生活上の根拠のない、もしくは甚だ少ない概念を、シナ人の現実の生活を表示しているものの如く思いなすことが多く、国学者の儒教排斥にもそれが少なくない。そうしてそこからこういう排斥にはいろいろな錯誤が生ずるのである。
 しかし国学者の意向は、マブチやノリナガの主張したような意味での儒教主義でもなく、ノリナガのいうような平安朝式「もののあはれ」でもなく、政治思想としてのトクガワ氏賛美でもなく、またアツタネ流の世界包容の思想でもなく、当時の政治問題としての王政復古の主張などとも連結の少ないものであった。いろいろの世情の動きや政治的勢力の盛衰や権力者の権力の趣向や一般の思想界の情勢やに引きずられて、彼らの思想そのものが混乱もし動揺もし、畢竟は時の権勢に左右せられていたのである。要するに復古でも維新でもなく、はっきりした志向をもたないものが国学者には少なくなかった、というべきであった。国学者というものの性質上、王政復古を喜ぶ傾向があったことは事実であろうが、こういう思想は水戸学のものももっていたから、必ずしもいわゆる国学者に特有のことではなかったようである。
 こういうようにして儒教の道徳論にもそれを排斥する国学者のにも多くの錯誤があるが、ヨーロッパやアメリカから伝えられた道徳思想についても、またそれに似たことがある。フクザワは、西洋からは書物によっていろいろの新知識を得たが、ただ修身を教え道徳を説いた書物はまだ見たことがなかった。ところが、明治元年に慶應義塾の人が偶然書肆の(ショシ)の店頭でアメリカで出版せられたウェーランドという人の編纂した修身書を見つけ、こういうもののあることをいままでは知らなかったといって、さっそくそれを求め、塾の教科書としてそれを使うことにした、ということをいっている。
 フクザワの書き方で見ると、人の道徳は家庭の教養や世間の風尚やによって、つまり日常の生活によって、自然に養われてゆくものとは思わず、やはり書物によって教えられる知識として考えていたのではないか、少なくともそういう傾向が、たぶん無意識の間に、彼の思想の一隅にあったのではないか、と感ぜられる。道を教えるものとしての儒教の書物などを読み慣れていた彼には、そういうところがあったとしても不思議ではないであろう。ウェーランドのこの書は今日いう倫理学を講じたものでも研究したものでもないが、題号を道徳學としてあるのでも知られる如く、単なる教訓の書ではなくして、ある程度に体系を整えて一般道徳の要綱を述べたものであるから、こう考えられたことにも一理由があるけれども、そればかりではないように思われる。なお西洋の道徳の書がどのような形で日本に入ってきたかについては、別に述べる機会があろう

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津田左右吉「明治維新の研究」 ”人を殺しても世を欺しても幕府を倒すためには… ”

2022年01月21日 | 国際・政治

 津田左右吉は「明治維新の研究」(毎日ワンズ)で、明治維新が、”種々の陰険なる権謀術数を弄することにより、または暴力をもって治安を撹乱することによって、断えず幕府の新国策の実行を妨害し”て、なされたものであることを明らかにしています。
 また、”維新の変革は民衆の要望から出たものではなく、民衆の力なり行動なりによって実現せられたものでもなく、また民衆を背景にしたり基礎にしたりして行われたものでもない。一般の反幕府的空気が背景とも地盤ともなってはいるが、当面のしごとは、主として雄藩の諸侯の家臣のしわざであり、そうしてすべてが朝廷の政令の形において行われた。そこでこの朝政の主動者となっていたものが、皇室をどいう風に盛り立ててゆこうとしたか、ということが、この朝政の性質を知るについて大切な問題となる”と、明治維新以降の日本の歴史を理解するための手掛かりを示しています。

 それらを踏まえれば、明治維新以後の反立憲的な藩閥政治の実態、すなわち、明治維新を担った薩長土肥とくに薩長両藩出身者が権力を独占した事実がよく理解できるのではないかと思います。だから、大正デモクラシーでは「打破閥族・擁護憲政」が合言葉となったのだと思います。
 例えば、明治期の内閣(第一次伊藤内閣から第二次西園寺内閣まで)の閣僚経験者は延べ79名だということですが、出身藩別に見ると、薩摩藩が14名、長州藩も14名、土佐藩が9名、佐賀藩が5名だということです。また、元老とされた人たちやそれに準ずる者人たちは、公家出身の西園寺公望を除き、すべて、長州又は薩摩の出身者だということです。

 さらに見逃せないのが、「薩の海軍、長の陸軍」などといわれた日本軍、また、警察の要職の独占です。歴代陸軍大臣や海軍大臣のみならず、警察関連を見ても、1874年(明治7年)から1901年(明治34年)までの警視長、大警視、警視総監等14人の内訳は、薩摩藩出身が12人、土佐藩出身が2人であるというのです。
 また、司法省や大審院も薩長土肥からなる藩閥が握っていたといわれています。そこに、明治維新の意図が透けて見えるように思います。もちろん、時代が進むとともに、そうした要職の独占は、次第にそれほど極端ではなくなっていったのでしょうが、その体質や思想は、戦前はもちろん、敗戦後の現在に至ってもなお、受け継がれていると私は思います。

 それは、「日本を取り戻す」という言葉に象徴されると思うのですが、敗戦後間もない頃からGHQの民主化政策に反するかたちで、始まっていると思います。その典型が「軍人恩給」の復活です。
 日本の「戦後補償」は、戦時中の考え方がそのまま受け継がれている部分があるのです。例えば、日本の戦争被害者に対する補償は、ごく一部の例外を除けば、軍人・軍属が対象です。「戦傷病者戦没者遺族等援護法」は民間人戦争被害者を対象としていません。GHQが廃止を指令した「軍人恩給」が、日本の主権回復後間もなく復活したのみならず、その支給額が帝国軍隊当時の階級に基づいているのです。戦争責任のより大きな元軍人ほど、より多くの軍人恩給を給付されているということです。ドイツの戦後補償は、民間人戦争被害者も等しくその対象であり、軍人に対する補償に階級差などはないということですので、そこに、敗戦後の日本の問題がはっきり示されていると思います。
 
 それだけではなく、自民党政権中枢は、初代天皇である神武天皇が即位したニ月十一日を「建国記念の日」としたり、「君が代」を国歌と定めたり、憲法改正草案に天皇の元首化をもり込んだり、第二十四条に”家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は互いに助け合わなければならない。”などという条文を挿入し、日本を天皇を戴く家族国家とした戦前の家族国家観を受け継ごうとしたりしているのです。

 そして、そうした戦前の体質や思想が、現在日本の「選択的夫婦別姓問題」や「子ども家庭庁」の名称問題、さらに、外交問題発生の源になっているように思います。

 先日、日本政府が、「佐渡金山」をユネスコ世界文化遺産に推薦する構想を見送る方向で調整していることが報道されました。日本の植民地時代における朝鮮人の強制労役現場であったことから、”韓国の反発などで、2023年のユネスコ世界遺産委員会で登録される見通しが立たないと判断した”ためということです。でも、戦前の体質や思想を受け継ぐ安部元総理や高市早苗現自民党政調会長は、”韓国の反発のせいで推薦をあきらめることはできない”とか、”日本の名誉の問題だ”などとして”政府には登録に向けて本気で頑張ってほしいと希望する”と語ったということです。
 でも、こうした問題が続くのは、日韓間の戦後補償の問題が、少しも解決済みではないことのあらわれであり、日本が、戦前の体質や思想をきちんと改めない限り、延々と続くように思います。 

 それは、戦後のアメリカにも責任の一端があるとは思います。米ソ冷戦の激化や朝鮮戦争に対応するため、日本に再軍備を求めたJ.F.ダレスは、”日本は戦争賠償をしなければならないから再軍備する金がない”と答えた吉田首相に対し”戦争賠償はしなくてもいいから再軍備せよ”古関彰一獨協大学教授の研究による)と言った といわれているからです。日本の戦争賠償や被害者補償は、戦争被害国や戦争被害者への賠償や補償を脇に置いて、アメリカのアジア戦略に沿うかたちになり、「経済協力方式」になってしまったことにあるのだろうと思います。
 したがって、韓国に対する戦争賠償・被害者補償は、日韓基本条約締結時には、まったく取り上げられなかったいわゆる日本軍「慰安婦」問題はもちろん、「強制連行された朝鮮人労働者の問題」でも、実態調査などがきちんとなされず、さらに、植民地支配の問題もその詳細が究明されることなく、経済協力方式の戦争賠償・被害者補償となってしまったということです。戦争被害者個人に対する補償が、韓国に対する経済協力に置き換えられてしまったのです。戦争責任を免れ、経済的利益を追求したい日本の関係者と、米ソ冷戦の対応にせまられたアメリカの思惑が一致した結果の戦後処理が、現在に問題を引き摺る原因となったといえるように思います。だから、日韓関係改善のためには、日韓の政治家の間で決着させるのではなく、被害者自身を含めた関係者と、誠実に話し合い、根本的に解決する必要があると思います。それをしないで、「解決済み」にはできないと思うのです。

 「ナヌムの家」を訪れた時、90歳をこえる高齢にもかかわらず、日本大使館前の水曜集会に意欲的に参加しているという李玉仙(イオクソン)さんは、慰安所における戦時中の「性奴隷」といわれる扱いをはっきり証言し、当時の安倍総理にきちんと責任を認めて謝ってほしいとくり返していました。だから、尊厳の回復のためには、個人的な謝罪や民間基金の補償ではなく、日本政府の公式の謝罪と、それをもとにした法的な補償や事実を継承する教育などが求められているのだと思います。戦時中の日本政府や軍の過ちを認めない限り、「解決済み」にはならないのだと思います。

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              第二章 幕末における政府とそれに対する反動勢力
     
     三
 対外問題が起こってから、幕府は当時の世界情勢に対応して、日本の国家の使命を新たに認識するとともに、日本の政府としての幕府の責務を自覚し、それに基づいて開国の新国策を決定し、そうしてその実現に努力したが、一方ではそれに対する反動勢力が生じ、志士とか浪人とかいわれたものの幾群かと、それと何らかの関係を持っている諸藩士と、並びにそれに動かされている一部の宮廷人とによってそれが形勢せられ、そうして彼らは種々の陰険なる権謀術数を弄することにより、または暴力をもって治安を撹乱することによって、断えず幕府の新国策の実行を妨害した。これがこれまでいったきたところの大要であるが、ここで少しくそれを補足しておきたいことがある。
 その第一は、反動勢力という語を用いたことであるが、これは幕府の国策が現実の情勢に対応して日本の国家の進んでゆくべき針路を見定め、それがために幕府の従来の政治を根本的に改めることによって成立したものであるとは反対に、現実を無視した空疎な臆断と一種の狂信とによって、この国策を破壊せんとせるものであったからである。知識人の間に歴史的感覚の発達していなかった当時においては、かかる呼称は用いられなかったけれども、事実としてそれが反動勢力であったことは明らかである(「反動」という観念そのものが本来歴史的感覚から生まれたものであるが、世を古の状態に立ち戻らせることができるとせられ、または一たび列国と通交を開きながら、それの開かれない前の状態に復帰することができるように思われていたのでも知られる如く、この頃の知識人には、反動という歴史的感覚はなかったのである)。
 次には、反動勢力の活動の主なるものであった鎖国または攘夷の主張や行動は、上にいった如く全く敗亡し、幕府の開国の国策及びその国策の実現としての諸施政が一般に公認せられたが、反動勢力の活動としてはなお依然として行われているものがあった、ということである。それは封建の制度の上に立ち、そうしてそれを悪用し、戦国割拠の状態を再現することによって日本の国家を分裂に導き、また武士の制度の変態的現象ともいうべき暴徒化した志士や浪人の徒が日本の政治を撹乱し日本の社会を無秩序にすることによって、究極にはトクガワ氏の幕府の倒壊を誘致し、もしくは二、三の藩侯の力によってそれを急速に実現しようとしたことである。反動勢力の行動の根底には幕府倒壊の欲求の潜在していたことが、種々の資料によっても、またそれより前のいわゆる勤王論者の主張によっても知られるが、初期のうちはそれがまだ、反動勢力の主動者・参加者みずからにおいても、多くは明らかに意識せられなかった。しかるに安政の末年からはそれがかなり明らかにせられ、それから後には次第にその傾向が強められてきた。当時の時勢の動きは、幕府の国策とその実現とを除いて考えると、何らかの明確な思想が一世の指導精神となって、それが種々の困難を克服しつつ次第に実現せられてゆく、というようなものではなく、人によって互いに齟齬したり矛盾したりしている雑多の、また時によって変動常なき、いわば場当たりの思いつきと軽浮な行動欲とのおのずから重なり合いはたらき合いまたは排撃し合うところから、知らぬ間にある勢いが生じて、その勢いみずからが盲目的に動いてきたものに他ならぬ。反動勢力といったものもかかる動きを概観してのことであって、その活動に参加したものまたはある時期ある場合に主動者となったものとても、初めから一定の目的をもっていてその実現のために奮闘努力したのではなく、勢いに駆られて奔馳してきたに過ぎない。ただ幕府倒壊の方向だけについていうと、ほぼ上記の如き情勢となったのである。
 ところが、こうなってからの反動勢力の主張は、幕府の政治・幕府の外交がよくあにというのではなくして、幕府が政治をすること外交をすることがよくない、即ち幕府というものの存在することがよくない、という考えであった。彼らが幕府を非難するに当たり、具体的に事実を挙げるよりも、国民を塗炭の苦に陥れたとか、幕吏に奸徒が多く正義が地に落ちたとか、国家傾覆して戎夷(ジュウイ)の管治を受ける日が遠くないとかいうような、甚だしく誇張せられたことばで抽象的ないい方をすることに重きを置いたのも、これがためである(文久二年の詔勅の語、慶應三年のトクガワ氏討伐の密勅もほぼ同様)。 
 これは、武家が政権を握ったために皇室の権が衰えた、頼朝以来の将軍は皇室の逆臣だ、という、歴史的事実を無視した勤王論者のほしいままな臆断に由来があるが、こういう考え方からいうと、攘夷や鎖国の主張は敗亡しても、幕府倒壊の主張はなくならないのが、自然である。鎖国思想・攘夷思想の敗亡したのは、幕府の定めた開国の国策が日本の国家の前途のために必要と認められたからであるが、従来志士や宮廷人によって宣伝せられていた如く、攘夷や鎖国が叡慮であり勅諚の示すところであったならば、これはかかる叡慮なり勅諚なりが日本の国家のために不利なものであったこと、従ってそれをそのまま遵奉しなかった幕府の処置は、叡慮勅諚に背くことによってこの不利を避け得たこと、少なくともそれを軽減したことを、明らかにしたものといわねばならぬ。しかし反動勢力に属するものは、そういうことを少しも考えなかった。もっとも既に述べた如く勅諚といっても叡慮といっても実は反動勢力の主動者たる志士や宮廷人の意向の仮託せられたものであったから、これもまた自然のことであろう。ただ開国の国策が公認せられた後となってはいうまでもなく、それより前とても現実の情勢と事態とを見るだけの明識のあるものからいえば、彼らがかかる仮託をしたことは、主上が不明(※無知)であられた如く世上に宣伝したことになるので、その点でも彼らの罪は甚だ大であるが、このことをもまた彼らは考えようとしなかった。それだけの良心のはたらきが彼らにはなかったのである。のみならず、主上を欺瞞して京畿の外に鳳輦(ホウレン=天皇の乗り物、即ち身柄)を移そうとしたことさえあっても、彼らは幕府を倒すためにはそれを当然の企図または行動と考えていた。それはあたかも彼らが人を殺しても世を欺しても幕府を倒すためには当然のことだと思っていたのと同じである。そうしてそれから後になっても、同じく勅命に名をかりまた宮廷及び京師の武力的占領を行って倒幕の兵を起こし、またしても幼冲の主上(※明治天皇)の京外移御をさえ計画したのである。
 これらの事実は、トバ・フシミのトクガワ勢の敗戦の後に東帰した前将軍(※慶喜)のいわゆる「恭順」が、実はかかる反動勢力のほしいままに朝廷の名を利用した陰険な権謀と隠密の間に準備せられた武力との前に屈服したものであることを、示すものに他ならぬ。討幕の密勅のことは前将軍は知らなかったであろうが、薩長の徒が錦旗をかざして幕兵を圧し前将軍に賊名を負わせたことは、知っていたに違いない。その直前に、当時の事態をサツマ人の陰謀から出たものとし、その罪を数えて上奏しようとしたのとは、あまりにも甚だしい態度の変りようである。それは敗戦のときから諸侯の多くが次第に薩長政府に追従していったのと、その形跡において同じであった。
 世に喧伝せられているカツ・アワの行動は、かかる際に行われたものである。
     
    
 

 

 

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倒幕の理由を示せない歴史教育

2022年01月15日 | 国際・政治

 津田左右吉は「明治維新の研究」(毎日ワンズ)の”はじめに──明治維新史の取扱いについて”で、”今日では維新を一種の社会革命と見なす考え方があって、それが明らかな事実のように思われているらしいが、こういう見方が正しいかどうかは、後にいうところによっておのずからわかろう”と自らの著書の内容を暗示しています。
 
 私は、「明治時代」は、確かに、それまでの封建的な幕藩体制を改め、私たちが暮らす「現代」の礎を築いた時代であるとは思います。現代の私たちにとって当たり前の「制度」や「生活」の多くは、明治時代から始まっているからです。
 でも、それを明治の元勲の功績によるとして、明治の時代を高く評価する一般的な歴史認識は誤りであると、私は思います。津田左右吉が、下記に明らかにしているように、幕府は「新国策」を定め、「開国」をはじめとする諸改革を着々と進めていたのです。それを妨害し、撹乱して権力を奪取したのが、明治の元勲を中心とする尊王攘夷急進派(津田は、「反動勢力」といっています)です。
 
 だから、日本が統一国家として飛躍的な発展を遂げた裏側で、統帥権の独立につながる日本独特の軍制を確立し、”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”や、”攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍く皇道を宣布し、敵をして仰いで御稜威の尊厳を感銘せしむる”ような思想教育を徹底して領土拡張の戦争を継続することになったということを見逃してはならないと思います。

 言い換えれば、明治時代の生活や制度の近代化が、人命や人権を尊重する学問や文化の発展に裏づけられた政治体制や軍事体制をもたらさなかったということです。 
 それは、自由民権運動の抑圧や、国際的に評価されるような社会科学や人文科学の分野における研究者の著書の発禁処分などに示されていると思います。したがって、尊王攘夷急進派が、明治維新によって作り上げた日本は、”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族”とする「カルト国家」であり、国際社会に通用する健全な国家であったとは言えないと思うのです。
 そういう意味で、私は津田左右吉の「明治維新の研究」は、貴重だと思います。
 
 日本は、残念ながら敗戦後も、尊王攘夷急進派の流れを汲む戦争指導層の影響を払拭できず、明治時代の近代化は、明治の元勲の功績によるものとされているように思いますが、そういう歴史認識では、「新国策」を定め、「開国」をはじめとする改革を着々と進め、大政を奉還した幕府を、なぜ薩長を中心とする尊王攘夷急進派が倒したのか、倒幕の理由が示せないと思います。また、外国の勢力が日本に及ぶ恐れがあったにもかかわらず、なぜ日本を二分するような戊辰戦争などをやったのか、その理由も、きちんと示すことができないと思います。
 したがって、明治維新に関わる日本の歴史教育は、いまだに論理的にあいまいで、誰もが納得できるものになっていないように思います。薩英戦争四国艦隊下関砲撃事件の敗北で、攘夷が不可能であることを知りながら、なぜ薩長を中心とする尊王攘夷急進派は、「攘夷」を掲げて倒幕に走ったのか、その矛盾も明らかにされてはいないと思います。  

 明治維新を主導した志士や浪人は、みな優秀で新しい時代を切り開こうとしていたことは間違いないと思いますが、元勲とされている人たちも含めて、あまりにも向こう見ずで、了見が狭く、過激な若者集団だったのではないかと思います。だから、倒幕は、決して日本の近代化を目的としたものではなかったこと、また、倒幕後の日本が、”廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ”といわれるような体制の国家にならなかったことは、見逃されてはならないと思います。そして、明治維新によってつくりあげられた日本が、敗戦後の日本につながっていることを、しっかり受けとめる必要があると思います。

 津田左右吉の ”わたくしの考えは、日本の国家経営の一大転機に立っていたいわゆる幕末の十余年間において、当時の日本の政府であった幕府当局者が、日本の国家の進んでゆく針路を如何なる方向にとらせようとして努力したか、そうしてそれがどれだけの効果を収めその後の日本にどういうはたらきをしたか、を見るとともに、幕府のこの方針に対立して断えずそれを妨害する力、歴史的意義においては一種の反動勢力があったこと、また、後に維新の元勲などといわれた人物の思想や行動もこの反動的勢力に属するものであって、それが明治の日本にいろいろの暗い影を投げかけたことを明らかにし、カツをその間に立たせてみようとしたのである。”という考えに基づく、下記の論稿は、日本の歴史教育にとって重要だと、私は思います。
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             第二章 幕末における政府とそれに対する反動勢力

    一
 わたくしは他日機を見てカツ・アワの人物とその行動とに関する卑見を述べてみたいといっておいた。
 わたくしの考えは、日本の国家経営の一大転機に立っていたいわゆる幕末の十余年間において、当時の日本の政府であった幕府当局者が、日本の国家の進んでゆく針路を如何なる方向にとらせようとして努力したか、そうしてそれがどれだけの効果を収めその後の日本にどういうはたらきをしたか、を見るとともに、幕府のこの方針に対立して断えずそれを妨害する力、歴史的意義においては一種の反動勢力があったこと、また、後に維新の元勲などといわれた人物の思想や行動もこの反動的勢力に属するものであって、それが明治の日本にいろいろの暗い影を投げかけたことを明らかにし、カツをその間に立たせてみようとしたのである。カツをあまりにも大きく見せ過ぎることにもなるし、いまさら百余年も前の幕末時代を回顧することに何ほどの意味があるかと思われるかもしれぬが、わたくし自身には、興味深い問題なのである。
 これまでの幕末の政治の根幹は、治安を維持することによってトクガワ家の権力を固めるところにあった。いわゆる禁教の政策だけは、世界に対して日本の国家の独立と平和とを確立するためのものであったが、それすらも上記の意味での治安の維持と絡み合っていた。ところが、嘉永・安政の交(変わり目)に至り、アメリカおよびヨーロッパ諸国の開国の要求に接し、親しく列国と交渉を開くようになると、交渉を重ねるそのことによって、幕府の当局者は初めて幕府が世界における独立国としての日本の政府であることを新しく認識し、おのれらが世界における日本人であることの明らかな自覚に導かれた。幕府の政治はこれまでの如くトクガワ家の権力を維持しまたはそれを固めることにあるのではなく、世界列国に対して独立国日本を立派に打ち立ててゆくこと、列国の一員として進んでその間に立ち交わり、彼らとともに盛んな活動をしてゆくことである、という根本方針が、かくして決定せられた。アベ(阿部正弘)・ホッタ(堀田正睦)の二閣老によって指導せられ、新たに登用せられた幾多の優秀なる事務官によって翼賛せられ助成せられた開国政策は、この根本方針から割り出されたものであり、それによって幕府政治の一大転換が行われたのである。
 列国との通商条約の締結及びその実行としての貿易港の開設、批准交換使のアメリカ派遣、オランダから教師を招聘して行われた海軍伝習、日本の海軍軍人がその伝習の開始から三、四年の短日月を経たのみでありながら、僅々百馬力の小艦咸臨丸を運転してアメリカに渡航し、日本の国旗を初めて海外に翻したこと、西洋の学術の研究と教授とのための国立の学校たる洋書調所の開設、その後における留学生のヨーロッパ派遣、あるいはまた蝦夷地の警備及び拓殖、小笠原島の所属決定、数次にわたってのヨーロッパへの使節の派遣、後には在外公使の任命及び公使館の設置、将軍の特派大使のヨーロッパ列国の宮廷歴訪、フランスに開かれた万国博覧会への参加、なお幕府の最後の事業としてのヨコスカ(横須賀)造船所の開設、実現はできなかったけれども朝鮮の開国を勧誘しようとした新しい外交政策、およそこれらの事業は、上記の如き反動勢力の執拗な妨害のために、あるいは態度の明轍を欠きあるいは行動の渋滞を来たしたことが少なくないにかかわらず、大観すれば、幕府が終始一貫して最初に決定した国策を遂行したことを示すものである。
 この国策は、要約していうと、日本が初めて外国と正常な外交関係をもつようになったことと、ヨーロッパ及びアメリカの文明を学びとろうとしたことがあって、その外交関係は昔からのシナに対するのとは全く違っていたことが注意せられなければならぬ。自国を中国とし他国を夷狄とするようなシナに対しては、正常な外交関係は成り立たず、力に任せて他を圧服せんとするような態度をとったトヨトミ・ヒデヨシ(豊臣秀吉)の行動もまた外交ではない。日本が他国と外交関係を生じたのは、トクガワ幕府のこのときのしごとに始まるのである。
 ただ外に対して国家の独立を保つには内においてその統一を堅固にすることが必要であるのに、戦国時代の遺習による世襲的封建諸侯の存在はそれを妨げるし、新しい国策の遂行には人材を必要とすることが多いのに、世禄を食む武士によってすべての吏療が構成せられ、そうしてそれが一般社会組織の根幹ともなっている従来の制度においては、このことが困難である。この封建の政治制度と武士本位の社会組織とは、トクガワ家の権力の固定をその政策の根本としていた旧来の幕府にとっては、極めて自然でまた極めて重要なものであり、事実それによって幕府が存立し得たのであるが、国策に一大転換を行った以上、それをそのまま維持するのでは、新国策が行い得られぬ。第一、政治的勢力の上からも外国貿易に関する経済上の利益の点からも、封建諸侯が幕府の新国策を賛助するどうかが疑問であり、また武士の制度は当時においては焦眉の急とせられていた兵制の整備にすら大なる障害を与えることになる。この二つの制度は制度自身がそれぞれに大なる矛盾を抱いているのであって、多年にわたる幕府の政弊もそれによるところが多かったが、このことは別の問題としても、差し当ってここにいったような困難がある。しかしそれを改めることは幕府の根幹を揺るがすことであるから、当時の幕府の当局者も軽々しくそれに手を触れるわけにはゆかぬ。そこであるいは一種の政治道徳観から、封建諸侯をして幕府の国策に親しませることによって彼らを思想的に統一せんことを試み、あるいは人知れぬ間に徐々に直参武士の生活と目前の要求(※兵制改革)とを調和させようとした。対外の問題について諸侯の意見を徴した幕府としての空前の処置は前者であるが、その効果には幕府の国策の執行にとって益するところはほとんどなかった。またトクガワ家の直参武士に対する方策としても、それを新しい国策に順応させるには、概していうと彼らの道徳的心情と、その生活に対するある程度の安定感と、また一種の名誉心とに委する他はなかったが、幸いにこの点では幕府の苦心がほぼ酬いられた。上に記した新国策の実現としての種々の事業の企画もその遂行も、みな直参武士から選任せられた諸有司によってなされたのである。けれども封建諸侯の家臣については、少数の例外を除いては、幕府の如何ともする能わざるところであった。要するに、幕府はその新国策を実現するに当り、封建諸侯の存在と武士というものの政治的・社会的な地位によって未曽有の困難に遭遇せざるを得なかったのである。
 
     二
 日本の政府たる幕府は、列国と種々の交渉を重ねることによって、次第に世界の形勢を知り、そうしてそれによって日本の国家の使命と日本の政府の責務とを覚ってきたので、そのために旧来の因襲を放棄し去って新たに世界に対する日本の国策を立て、またそれに伴って封建諸侯の思想的統一と直参武士の生活の変改とを企図したことは、上にいったとおりである。ところが、儒学思想または神道思想によってその知見を養われてきた当時の知識人の中の一群は、これに反して現実の世界の形勢には眼を塞ぎ、徒らに列国をもって我が「神州」に危害を加えるものと信じ、一面ではそれに対していわれなき恐怖心を抱くとともに、他面では武備することが手軽にでき、従って「夷狄」を撃攘することが容易であるように思い、幕府の明識ある閣僚とそれを翼賛した諸有司とのなみなみならぬ努力と、日本をして初めて一応の国際的地位を占めるを得しめたその大なる功績とをみとめようとせず、かえって外夷の脅嚇に屈服したものとしてひたすらそれを非難し、締結せられた条約の破棄を主張するに至った。
 のみならず、彼らはこれらの主張を、これまで内外ともに認めていた日本の政府としての幕府の地位を否認する思想にまで発展させてゆくことによって、日本の政治形態の問題、政権の所在の問題に転化させ、長い間政府と全く分離していて政治の上に超然たる地位にあった宮廷を、政治の政界に引き下ろした。宮廷には政治に参与するだけの人物もなく機関もないのに、急にこういう地位に置かれたために、それは結局、当時志士とか浪人とかいわれていたこれらの一部の「知識人」の左右するところとなり、彼らによって引き起こされた政治上の紛乱に巻き込まれることになった。勅諚(チョクッジョウ)とか叡慮(エイリョ)とかいう名によって宮廷から発表せられる声明が実は彼らの意向であって、政治上の紛乱はそれによって生ずるのであった。幕府の大老の地位に就いたイイ(井伊直弼)の行動も実はそれに引きずられたのであって、彼がアベやホッタによって定められた新国策を継承しまたは推進するよりも、トクガワ家の権力の維持を根幹とする幕府の旧方針を守ってゆくことに重点を置いたのでも、それは知られる。彼のこの態度はいわゆる志士や浪人の運動を抑圧する点においてそれとは正反対のように見え、事実その間に激しい衝突が起ったが、それは政権の所在を幕府とするか宮廷とするかの違いから来たことであって、問題の中心点はどこまでも国内における政権の所在であった。 
かかる運動を行った志士や浪人の間には、一方では全国的に種々の連絡が作られ、諸侯の家臣にも脱藩して彼らの群れに投ずるものが多かったが、脱藩者も実は主家との関係を持続していて武士としての地位と生活を失わないのがむしろ彼らの常状であり、それによって封建諸侯の勢力の存在が示されるとともに、他方では、彼らはもはや知識人とはいわれない暴徒と化し、暗殺劫略、凶悪の限りを尽くして世の秩序を破壊しながら、政権の根本を動かすような行動をとろうとする場合には、やはり有力な諸侯及びその家臣の力によらなければならなかった。
 そこで彼らは宮廷内の勢力とかかる諸侯またはその家臣とを連結させることを努めた。ところが、諸侯をしてかかる活動をさせることは、おのずから戦国割拠の形勢を誘致するので、それは彼らの間の思想的統一を求めることによって国家の結合を固めようとする幕府の新国策とは一致しないし、またそれが宮廷内の勢力と連結せられると、それは単に思想の上においてのみではなく、実行運動として日本の政府としての幕府を倒壊せんとするようになってゆく。ただ宮廷人の内でも意見は必ずしも一致せず、有力な諸侯とてもまた同様であるから、かかる実行運動は容易に実現せられず、特に従来叡慮の名によって声明せられていたことは、武士や浪人の煽動に基づいた一部の宮廷人の意向であって、真の叡慮ではなかったことが、一般に推測せられているのみならず、その一部分は主上(※孝明天皇)御自身によっても明らかにせられ、キョウト(京都)の守護職アイヅ侯の手によって行われたクーデターによって、かかる宮廷人とそれを支持したチョウシュウ(長州)侯との勢力は宮廷から一掃せられた。名を叡慮にかり勅諚にかりておのれの主張を宣伝し、それによって宮廷を政治上の紛争に巻き込もうとした一部の宮廷人やその煽動者たる志士や浪人やその支持者たる有力な諸侯の、悪辣な運動は、かくして一たび挫折したが、彼らがほしいままに勅諚の名を利用したことは、日本の国家の進展のために新国策を行なおうとする幕府の行動を抑制もしくは妨害したのみならず、今日から見れば、政治上の重大なる責任を皇室に帰したことになるが、当時においても識者のうちにはそのことに思慮の及んだものがあった。    
 さてこのクーデターと前後して、チョウシュウの行った外艦砲撃の失敗とイギリス艦隊の来攻によるサツマの敗戦とは、勅諚の名・叡慮の名によってしばしば声明せられた攘夷が実行すべからざる空想であることを、志士や浪人の徒にも有力な諸侯にも覚らせるとともに、外夷は必ずしも「神州」を窺窬(キユ)する(※隙をうかがい狙う)ものでないこと、日本は進んで列国と親好しなければならぬことを、彼らに感知させた。
 しかし志士や浪人の徒の幕府倒壊の計画は消滅せず、チョウシュウ侯の勢力はそれがために宮廷の武力的占領を企てるに至った。この計画もまた失敗に帰したが、幕府の一部にはこの機会においてトクガワ氏の権力の確立を根幹とする伝統的の政策を強行しようとする意向をもつものも生じた。けれども時勢の動きは必ずしもそれに便ならざるものがあったので、サツマを主とする有力諸侯は、一方では列侯会議を設けて幕府を牽制せんとしたが、外交上では諸侯が列国と各別に条約を締結する権能をもつべきだという主張が、サツマの家臣の間に生じていたし、勅命の名をかりて外艦を砲撃しながらそれが失敗すると忽ち外艦に降伏して一種の平和条約ともいうべきものを締結したチョウシュウの行動も、それと通ずるところのあるものであった。サツマ人のこの主張の裏面には、列国と親和することは必要だが、勅諚を奉ぜずして幕府が締結した条約は無効であるという考えがあるので、そこに攘夷論から継承せられたところがある。この思想は現実の情勢としては戦国割拠の状態の復活を来すことになるので、そこにはまた日本の政府としての幕府の存立を否認し、日本の国家の統一を破壊せんとする思想が伏在しる。フランスの万国博覧会におけるサツマの行動(※幕府に対抗し「薩摩琉球国太守政府」の名で独自に物産を展示)は、この主張の実行に移されたものと解し得られよう。諸侯会議によって国政を処理せんとするのとこれとは、矛盾するもののようであるが、諸侯会議とても実は四、五の有力諸侯がそれぞれ自己の勢力を伸長しようとすること、もしくは諸侯の一人がその主導権を握ろうとすること、に他ならず、そうしてその根底には幕府否認の思想が存在するから、この二つは、形を異にして精神を同じくするものなのである。
 サツマとチョウシュウとの連合は斯かる形勢の間に行われ、そうして宮廷の内部に起った新勢力がそれと結びつくに至って、いわゆる王政復古・幕府征討の計画がせられたのである。この計画はかつてチョウシュウの勢力が一たび企てて成功しなかった宮廷の武力占領と、その力により勅命の名をかりた宣伝もしくは声明を行うこととによって成立したものであるが、勅命をかりるのは、前々からいわゆる志士や浪人の煽動によって一部の宮廷人の行ってきたところを踏襲したものである。ただこのときには前主上の崩御が有力な機会となったことが、ほぼ推知せられる。しかしここで注意せられるのは、かねてから勅諚まあたは叡慮として宮廷人によって宣伝せられた「攘夷」が、幕府の締結した条約の勅許という形において全く否定せられたことであって、これは名を勅命にかりることが精神的にその権威を失ったという重大な事実の生じたことを示すものである。かかる明白なる事実が示されたにもかかわらず、王政復古・トクガワ氏の征討を同じく勅命の名をかりることによって行なおうとしたのが、一部の宮廷人やいわゆる薩長の意図であった。
 しかし実はそれよりも、薩長の軍事活動がドバ(鳥羽)・フシミ(伏見)の戦争において勝利を得たことの方が、重要である。この戦争が薩長にとっては、昔のト44444クガワ氏におけるセキガハラ(関ケ原)もしくはオオサカ(大坂)の役のはたらきをしたのである。諸侯の多数は結局勢力の強いものになびいたに過ぎないからである。チョウシュウの勢力がかつて宮廷人を使嗾して勅命の名を用い、それによって幕府倒壊の運動を起しながらそれが失敗したのに、いま薩長勢力が同じことをして成功したのは、このことを証するものでなくて何であろうぞ。
 アベやホッタの指導下にあった日本の政府としての幕府が、日本に国際的地位を得させようとして定めた新しい国策は、種々の紛乱を経た後、条約勅許の名において公式に承認せられ、明治の政府の政府もそれを継承するようになってゆくのであるが、封建諸侯の存在と、その諸侯の家臣たる武士及びそれとともに暴悪の限りを尽くして国家の秩序を壊乱させた志士輩浪人輩の行動とは、事実において戦国割拠の形勢の復活となって現われ、日本の国家の政治的統一はそれによって破られた。これが幕府の国策を妨害し撹乱しようとした反動勢力の活動であったのである。

 

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天皇と天皇機関説と”天皇=現人神”信仰

2022年01月09日 | 国際・政治

 下記の文(「昭和天皇ご自身による「天皇論」半藤一利(講談社)より抜萃)にあるように、天皇は、「憲法学説として機関説は少しも不都合がないではないか」という考えでいました。でも、当時の政権は、議会の役割を重視した美濃部達吉の天皇機関説を受け入れることはありませんでした。逆に、美濃部を不敬罪の疑いにより取り調べるとともに、美濃部の著書を出版法違反として発禁処分にしたのです。そして、軍事的緊張の高まりとともに、統帥権の独立を主張し、議会の統制を受けない軍部が徐々に前面に出て来るようになると、天皇は、自らの思いと離れて行く日本の政治に様々な不満を抱き、それを周囲にもらしています。こうした憲法を遵守しようとする天皇に対して、当時の本庄武官長は、
恐れながら、軍においては陛下を現人神として信仰申上げております。これを機関説によって人間なみに扱うがごときは、軍隊教育および統帥上至難のことと心得ます」と説得を試みたようですが、ここに私は、明治維新を成し遂げた尊王攘夷急進派の意図を越えた皇国日本の姿を見ます。

 というのは、すでに取り上げた長州藩の木戸孝允が、同じ長州藩の品川弥二郎に宛てた書簡の文章に、”玉(天皇)を我が方へ抱き奉り、万々一も彼手(幕府)に奪われては、その計画は大崩れとなって、三藩(長州、薩摩、土佐)の亡滅は申すに及ばず、皇国には、徳を損なう者があるということになって、再起不能になることは明らかだ”というような内容があったことと関連します。
 明治維新前後の長州藩、即ち尊王攘夷急進派にとっては、当時の関連事件から判断して、尊王も攘夷も、幕府を倒して権力を奪取するための手段の側面が強かったのだろうと思われます。だから、倒幕後はすぐに攘夷を捨て、開国に転じるとともに、奪取した権力を奪われないように天皇を神格化し、大日本帝国憲法や軍人勅諭、教育勅語に盛り込みつつ、統帥権の独立を見通した山縣有朋や桂太郎による反立憲的軍制の確立に至ったのだと思うのです。
 権力を奪取するために、天皇を政治的に利用し、”玉を我が方へ抱き奉り”つつ、権力を奪い取られないように、天皇を神格化した国家体制、すなわち皇国日本を作り上げたのだと思うのです。

 ところが、時代が進み、そうした皇国日本で育った者が日本を支えるようになると、そうした尊王攘夷急進派の政治的意図を越えて、上記の”軍においては陛下を現人神として信仰申上げております”に表現されているように、”天皇=現人神”信仰は、本ものとなって、政治的手段ではなくなっていったのだと思います。
 
 それを象徴するのが二・二六事件ではないかと思います。二・二六事件は、支配層の政治的意図を越えた、本ものの”天皇=現人神”信仰によって、支配層自身が脅かされた事件であったのではないかと思うのです。
 たとえ天皇が、”軍部にては機関説を排撃しつつ、而も自分の意思に悖る事を勝手に為すは、即ち朕を機関説扱と為すものにあらざるなきか乎”と主張しても、もはや、本ものの”天皇=現人神”信仰をもつ軍人は聞く耳を持たず、ひたすら、”夫れ戦陣は 大命に基づき、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦えば必ず勝ち、遍く皇動を宣布し、敵をして仰いで御稜威(ミイツ)の尊厳を感銘せしむる處なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず”というような考えに基づいて、国家を動かすことしか考えられなくなっていたのだと思います。それも、”皇室の尊厳を冒瀆するとか、陛下のご宸襟を悩ます”とかいう言葉を楯にして。
 そこに、人権や人命を尊重しない、”天皇=現人神”とする国家のカルトの恐ろしさがあったのではないかと思います。したがって、戦前の皇国日本の正当化は許されないことだと思います。天皇は神ではないのです。一日も早く皇国日本の考え方の残滓を払拭し、人間の尊厳個人の尊重を基本原理とする考え方で政治が進められるようにしなければならないと思います。靖国神社問題、憲法改正問題、夫婦別姓問題、こども庁の名称問題などで顔を見せる皇国日本の考え方では、人間の尊厳個人の尊重を基本原理とする国際社会の仲間入りはできないのだと思います。天皇を国民(臣民)の父とし、日本全体を「家族国家」とするような戦前の家族国家観は、きちんと乗り越えられなければならないと思います。  
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                 陛下ご自身による「天皇論」 

5 天皇神格化と天皇機関説
 1930年代前半の昭和史とは、駐日アメリカ大使グルーが書いたように、「穏健派」と「革新派」とのきわどい鍔ぜり合い、せめぎ合いであったといえる。それだけに、今日になってみれば、昭和十年ごろまでのさまざまな状況下で、天皇の”人間的”発言を、いろいろな文献によってみることができる。
 昭和八年の国連脱退は、天皇には最後まで納得できない国策決定であった。これにたいし奈良武官長が「脱退は遺憾であるが国民の世論である」と説明したとき、天皇は、
「世論というも、現今のように軍人が個人の意見を圧迫するようなことがあっては、真の世論はわからないではないか」
  といった。また、当時頻りに叫ばれていた「日本精神」についても、
「この日本精神というのは、いわゆる”日本精神”で排他的なものではあるまいね」
 と、国際的に孤立化することを戒める発言を天皇はしている。
 しかし、当時、それらの天皇発言は残念なことに、いっさい下のレベルまで流れでるようなことはなかった。なぜなら、穏健派であろうと天皇の超越性の維持については、革新派と同一線上に立たなければならなかったからである。ここに大きなジレンマがあった。
 その穏健派が、「君側の奸」として軍や右翼の標的とされ、もはや自分たちには情勢に対処する力がない、という事実を認めざるをえないときがきた。昭和十年の天皇機関説問題である。
 統帥権が国務から独立して運用されているのは、事実としても、それは一つの慣行でしかない。「将来之を改めて軍の統帥に付いても等しく内閣の責任に属せしめ」ようとする美濃部理論は、軍にとっては明らかに「敵」でしかなかった。この大元帥を天皇の下位におこうとする天皇機関説を、このときの国体明徴運動が一気に押しつぶした。そして天皇の絶対的”神格化”によって、国民を動員するという軍の意図は果たされたことになる。
 この明徴運動のさなか教育総監真崎甚三郎は全陸軍に訓示した。
「うやうやしくおもんみるに、神聖極を建て統を垂れ、列聖相承け神国に君臨し給ふ。天祖の神勅炳(ヘイ)として日月の如く、万世一系の天皇かしこくも現人神として国家統治の主体に在(イマ)すこと疑を容れず。………この建国の大義に発して我が軍隊は天皇親ら之を統率し給ふ」
 結果は牧野の引退、一木の枢相辞任、法制局長官金森徳次郎の辞職、全面的な穏健派の敗退となる。そして国体明徴の名のもとに、軍人右翼の合作による天皇の「神」への模造が再確認された。このあと理屈抜きの天皇神格化への試みがくり返されていく。
 事実昭和六年ごろよりひろく配布されはじめた天皇皇后の御真影が、皇室尊崇観念の血肉化のため、小中学校で極端に重要なものとされるようになったのは、昭和十年からである。御真影と奉安殿普及の徹底化、それと教育勅語によって天皇の神格化は見事に演出され、それにふさわしい最敬礼と唱歌、いわば宗教的なおごそかな雰囲気のもとの儀式は、子供たちの心に尊王愛国をなんの抵抗もなしに浸透していったのである。
 さらにもっと重大な事件がそのあとの穏健派を襲った。昭和十一年の二・二六事件は、まさに「昭和」の不可逆点であったといえる。牧野のあとの斎藤内大臣は殺され、鈴木侍従長は重傷を負った。西園寺と牧野は辛うじて暗殺者の手を逃れたが、立憲君主主義者は一人また一人と、天皇のまわりから去らねばならなくなった。
 いまになってみると、天皇機関説にたいして、もっとも明快な意見をもっていたのが、天皇その人であったという事実は、なんたる歴史の皮肉としかいいようがない。
侍従次長広幡忠隆には、
「憲法学説として機関説は少しも不都合がないではないか」
 と非公式に感想を述べている。また鈴木侍従長にもはっきりいっている。 
「主権が君主にあるか国家にあるか、ということを論ずるならばまだ事が判っているが、ただ機関説がよいとか悪いとかという議論をすることは、すこぶる無茶な話である。自分からいえば、君主主権説よりもむしろ国家主権の方がよいと思うが、日本のような君国同一の国ならばどうでもよいではな
いか。君主主権はややもすれば専制に陥りやすいと思う」
 さらに本庄侍従武官長と、なんどとなく機関説をめぐって天皇は熱心に議論している。
「自分の位は勿論別なりとするも、肉体的には武官長と何等変る所なき筈なり。従って機関説を排撃せんがため、自分をして動きの取れないものとする事は、精神的にも身体的にも迷惑の次第なり」(三月十一日)
 神聖化への、明らかな天皇の抵抗である。またこうもいった。
「天皇主権説も天皇機関説も帰する所同一なるが如きも、労働条約その他債権問題の如き国際関係の事柄は、機関説をもって説くを便利とする」(三月二十八日)
 さらに追求する。
「憲法第四条の天皇は、”国家の元首”云々即ち機関説なり。之が改正を要求するとせば、憲法を改正せざるべからずこととなるべし」(三月二十九日)
 こうした憲法遵守の天皇の鋭い指摘に、武官長は困惑しながらも、こう応じている。
「恐れながら、軍においては陛下を現人神として信仰申上げております。これを機関説によって人間なみに扱うがごときは、軍隊教育および統帥上至難のことと心得ます」
 以下、四月から五月にかけても、機関説をめぐってこの天皇の詰問はつづくのである。しかし、恐らくは、こうして表明された意思はついに政治の中枢部へは伝わっていかなかったのであろう。畢竟、天皇と侍従武官長との会話は、大内山の宮廷内部に秘匿されるべきもので、内閣の奉仕や軍部の意思に反映してはならぬものであったからである。
 結果は、四月二十五日の天皇の、「軍部にては機関説を排撃しつつ、而も自分の意思に悖る事を勝手に為すは、即ち朕を機関説扱と為すものにあらざるなきか乎」という言葉どおりに、明確直截な天皇の意思に一顧だに加えず、いや国民がしらぬが幸いと、軍部はかれらの希望する方向へ国家を動かしていった。皇室の尊厳を冒瀆するとか、陛下のご宸襟を悩ますとかいう言葉を楯にして。
 昭和前半史の分水嶺は、よく指摘されるように、その意味でも、昭和十年から十一年にかけてのときにあったことは確かである。それ以後は危機の時代から破局の時代へと移っていった。そして破局の時代ではもはや、多くの文献でも天皇の人間らしい声は失われ、沈黙する天皇にして大元帥だけが存在するようになってくる。天皇その人に大きな政治的虚構が加えられ、神として崇め奉られるようになったのはもちろんであるが、その上に日本は”戦時下””非常時”となり、大本営が設営され、第一次近衛内閣のときに考えだされた大本営政府連絡会議が、「不可」をいわぬ天皇をつくりあげていったのである。
 すでに書いたように、国政にたいしては輔弼の条項があり、憲法第五十五条にもとづいて天皇はノーということはなかった。しかし軍事にかんしては大元帥として、みずからの責任において直率する以上、天皇はあえて首を横にふることもしばしばであった。少なくとも昭和八、九年ごろまでは、大元帥として統帥部を叱咤することも多かった。軍はそのためしばしば恐懼して、奔馬(ホンバ)の手綱をしめざるをえなかった。
 しかし、あまりに史家が指摘しないことであるが、昭和十二年末に大本営政府連絡会議(のち戦争指導会議となる)ができてからは、すっかり様相が変るのである。政府と陸海統帥部は、このときから、事前に議をつめて合意に達した国策(政戦略)を、天皇に奏上するようになった。しかも最重要なものは、天皇臨席の御前会議にかけられることになった。危機の時代に、あれほど軍部を押しとどめるために切望された御前会議が、破局の時代になって、天皇と大元帥を沈黙させるためかのように、ひらかれるようになったのである。何かと大元帥に掣肘(セイチュウ)されることの多かった軍部にとっては、近衛の提案は思う壺であったろう。軍部がねらった親政と親率の合体である。こうして天皇の自由意思が無になるにつれて、現人神として奉られた天皇の名のみが濫用され、絶対的な威力を持って君臨するようになっていく。
 日中戦争勃発から太平洋戦争開戦まで、政府・軍部合同の御前会議は八回ひらかれている。いずれも昭和史を大きく破滅のほうへねじまげた決定が、そこでなされた。
 第一回 昭和十三年一月十一日
 「国民政府を相手とせず」の声明
 第二回 昭和十三年十一月三十日
 「東亜新秩序建設」の声明
 第三回 昭和十五年九月十九日
  日独伊三国同盟の締結
 第四回 昭和十五年十一月十三日
  汪精衛政府承認と対中国持久戦方略
 第五回 昭和十六年七月二日
  南方進出、対米英戦を辞せず
 第六回 昭和十六年九月六日
  戦争を辞せざる決意のもと外交交渉をおこない、要求通らぬときに開戦を決意
 第七回 昭和十六年十一月五日
  交渉不成立の場合、十二月初頭に武力発動
 第八回 昭和十六年十二月一日
  自存自衛のため対米英開戦決定
このいずれの会議の場合にも、天皇の肉声を聞くことはできなくなっている。御前会議の直前、連絡会議での決定事項を内奏するさいに、天皇(または大元帥)のかなりきびしい質問をみることはあっても、最高の国策決定の場であるかんじんの御前会議においては、天皇はまったく無言のままに、意見一致をみた国策を承認するだけとなった。わずかに第六回目の九月六日の会議において、明治天皇の御製「四方の海みなはらからと思ふ世になど波風の立ちさはぐらむ」を誦し、外交交渉による日米関係の解決を念じた天皇の言葉が、稀有の例として残されている。
 そして真珠湾奇襲攻撃によってはじまった対米英戦争においては、陸海軍を信頼し、国の自存自衛のため懸命に戦争指導する”戦う大元帥”の姿だけが、むしろ大きくクローズアップされる。『大東亜戦争肯定論』で論陣を張った作家林房雄の書いたように「天皇もまた天皇として戦った。日本国民は天皇とともに戦い、天皇は国民とともに戦った」というのが、いちばん正しいいい方となる。
 それゆえ、はじめに書いた「天皇の病気」が大きな意義をもってくる。六月二十日の、天皇のもつ講和の大権を強く前面に押したてることによって、徹底抗戦の大元帥命令を否定する──それこそが、対米英開戦いらい、”国際協調”を第一義とする天皇の、何年かぶりに聞く肉声であったということができるのである。

 

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玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて…

2022年01月04日 | 国際・政治

  下記は、第三次桂内閣の不信任決議案に関する尾崎行雄の第三十議会(大正二年ニ月五日)における主張全文です。
 桂太郎自伝の解説で、宇野俊一教授も取り上げていますが、尾崎は”彼等は玉座を以て胸壁(キョウヘキ=とりで)となし、詔勅を以て弾丸に代へて、政敵を倒さんとするものではないか”ときびしく桂首相を指弾したといいます。護憲をスローガンとした桂内閣不信任決議案提案当日は、多くの民衆が早朝から衆議院を取巻き、議場も開会前から異常な緊張状態にあったということです。
 この時、尾崎の立憲主義の主張を受け入れていれば、日本は統帥権独立を盾にした軍部の暴走による戦争の大きな犠牲を払うことはなかったと思います。
 だから私は、王政復古のクーデターによって、日本を”大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス”という天皇制国家にしたことが、日本の敗戦に至る歩みの始まりであったと考えざるを得ないのです。王政復古のクーデター以来アジア太平洋戦争の敗戦まで、日本の政権中枢は、くり返し、”玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて、政敵を倒”し、領土拡張の戦争を続けることになってしまったと思うのです。

 天皇の政治利用の意図は、何度も取り上げている木戸孝允品川弥二郎宛書簡の、”玉を我方へ奉抱候御儀千載之一大事に而自然万々一も彼手に被奪候而はたとへいか様之覚悟仕候とも現場之處四方志士壮士之心も乱れ芝居大崩れと相成三藩之亡滅は不及申終に 皇国は徳賊之有と相成再不復之形勢に立至り候儀は鏡に照すよりも明了…” という文章から読み取れると思いますが、そうした考え方が、残念ながら王政復古のクーデター以来、日本の敗戦まで、政権中枢の根本思想であり続けたと思います。

 明治維新を成し遂げた薩長を中心とする尊王攘夷急進派が、天皇を政治的に利用しつつ幕府を倒したこと、そして自らの目的達成のために手段を選ばないような戦いを展開したこと、また維新後、薩長の関係者で要職を独占し、政権を掌握し続けたという事実は、忘れられてはならないと思います。

 尾崎行雄が”玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて、政敵を倒さんとするものではないか”と叫んだとき、桂は”顔面蒼白となり、首をうなだれた”といいますが、内心を見抜かれたからではないかと想像します。
 最後の、”誤解を解いて欲しい”とくり返す桂の答弁も、尾崎の主張にきちんと答えるものでないことは、明らかではないかと思います。誤解などではないのです。

 そうした過去の権力政治の過ちをきちんと受けとめず、”日本を、取り戻す”などと言って、戦後の日本を批判し、国民を欺いた戦前の日本、すなわち、天皇を利用して、国民の口をふさぎ、一部指導層がやりたい放題をやった日本を復活させようとしている人たちが少なくないことが、現在日本の大きな問題ではないかと、私は思います。

 だから政権中枢は、現在もなお、多くの国民の声を聴き入れず、権力政治を続けているのだと思います。女性や子どもの人権を尊重せず、多くの人の願いを受け入れず夫婦同姓を維持し、また、関係者の思いを無視して「こども庁」に無理矢理「家庭」という言葉を加え「こども家庭庁」と名称を変更したりするところに、そうした姿勢があらわれていると思います。
 そうした意味で、日本はいまだに天皇家を総本家とした一大家族であるという、戦前の家族国家観をきちんと克服することができていないと言わざるを得ないと思います。人権後進国と批判されるような実態は、そうしたところに原因があると思います。
 100年以上も前のことですが、桂首相を弾劾した尾崎行雄の主張は、現在に通用するものであり、噛み締める必要があるように思います。
 下記は、「尾崎咢堂全集 第五巻」(尾崎行雄記念財団)から、「桂首相を弾劾す」と題された文章の全文を抜萃したものです。(漢字の旧字体は新字体に変更しています)
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                    桂首相を弾劾す

      決 議 案〔書紀朗読〕
 内閣総理大臣侯爵桂太郎は大命を拝するに当り、屡々聖勅を煩わし宮中、府中の別を紊り、官権を私して党與を募り、又、帝国議会の開会に際し、濫りに停会を行ひ、また、大正二年一月二十一日本院の提出したる質問に対し、至誠其責を重んずるの意を昭にせず、是れ皆立憲の本義に背き、累を大政の進路に及ぼすものにして、上、皇室の尊厳を保ち、下国民の福祉を進むる所以にあらず。本院は此の如き内閣を信認するを得ず。仍て茲に之を決議す。(拍手起こる)

議長(大岡育造君) 尾崎行雄君
  (尾崎行雄君登壇)(拍手盛んに起る)
尾崎行雄君 本員等の提出しましたる決議案は、只今桂総理大臣の答弁に照し、尚その前後の挙動に鑑みて、茲にこの決議案を提出するの已むべからざることを認めて出しました訳であります。その論点たるや、第一は身内府に在り、内大臣兼侍従長の職を辱(カタジケノウ)うして居りながら、総理大臣となるに当つても優詔(ユウショウ=天子のありがたいみことのり)を拝し、又その後も海軍大臣の留任等に就ても、頻りに優詔を煩わし奉りたると云ふことは、宮中・府中の区別を紊ると云ふのが非難の第一点であります。
 只今桂侯爵の答弁に依りますれば、自分の拝し奉ったのは勅語にして、詔勅では無いが如き意味を述べられましたが、勅語も亦詔勅の一つである。(「ヒヤヒヤ」=演説会などで聴衆が発する掛け声。賛成。そうだ。いいぞ。など )而してわが帝国憲法は、総ての詔勅は──国務に関するところの勅語は必ずや国務大臣の副署を要せざるべからずことを特筆大書してあつて、勅語と云はうとも、勅諭と云はうとも、何と言はうとも、その間に於て区別は無いのであります。(「ノーノー」「誤解々々」と呼ぶ者あり)若し然らずと云ふならば、国務に関するところの勅語に若し過ちがあつたならば、その責任は何人が之を負ふのであるか。(「ヒヤヒヤ」拍手起る)畏多くも 天皇陛下直接その御責任に当たらせられなけれならぬことになるでは無いか。故に之を立憲の大義に照し(「勅語に過ちがあるとは何だ」と呼ぶ者あり)立憲の本義を弁へざる者は黙して居るべし。勅語であらうとも、何であらうとも、凡そ人間のなすところのものに過ちが無いと云ふことは言へないのである。(拍手起る)是に於て憲法はこの過ちの無きことを保障するがために──(「勅語に過ちとは何のことだ、取消せ取消せ」と呼ぶ者あり議場騒然)憲法を調べて見よ──(「不敬だ不敬だ」と呼ぶ者あり)
議長(大岡育造君)討論中であります。ご意見があれば順次登壇して御述べなさい、斯る大切な問題を議するに、徒らに騒擾するが如きは甚だ取らざるところであります。(「ヒヤヒヤ」)「議長注意を与えよ、不敬である」と呼ぶ者あり)

尾崎行雄君(続)わが憲法の精神なるものは……
    (「議長注意をなさい」と呼ぶ者あり)
尾崎行雄君(続) わが憲法の精神は、天皇を神聖侵すべからざる地位に置かんが為に、総ての詔勅に対しては国務大臣をしてその責任を負はさせるのである。然らずんば……
   (「天皇は神聖なり」「退場を命ずべし」と呼ぶ者あり)
議長(大岡育造君)静かになさい。
  (取消を命ぜよ」「何だ不敬の言葉を使つて」と呼ぶ者あり) 
議長(大岡育造君)討議が憲法論である間は、本院に於ける議論は自由であります。

尾崎行雄君(続)御聴きなさい、御聴きなさい、総て 天皇は神聖にして侵すべからずと云ふ大義は、国務大臣がその責任に任ずるから出て來るのであります。(拍手起る)然るに桂侯爵は内府に入るに当つても、大詔已むを得ざると弁明し、又内府を出て内閣総理大臣の職を拝するに当つても、聖意已むを得ぬと弁明する。如何にも斯の如くなれば、桂総理大臣は責任が無きが如く思へるけれども、却つて 天皇陛下に責任を帰するを奈何(イカン)せん。(拍手起る)凡そ臣子の分として、己の責任を免れんがために、責を外に帰すると云ふが如きは、本員等は断じて臣子の分に非ずと信ずる。(拍手起る「西園寺侯爵はどうだ」「間違つて居る」と呼ぶ者あり)殊に唯今の弁明に依れば、勅語は総て責任無しと言ふ、勅語と詔勅とは違ふと言ふが如きは、彼等一輩の、曲学阿世の徒の憲法論に於て、斯の如きことがあるかも知れないが、天下通有の大義に於て、そのやうなことは許さぬのである。(拍手起る)
 彼等がやゝもすれば、引いて以て己の曲説を弁護せんとするところのドイツの実例を見よ、ドイツ皇帝が、屡々四方に幸して演説を遊ばされる、その中には、頗る物議を惹起するところのものがある、天下騒然たるに至つて、総理大臣の主として仰ぐところのピューロ公爵は、総ての陛下の演説に対して、拙者その責に任ずるといふことを天下に公言して居るではないか。(拍手起る)演説に対してすら、総理大臣たるものは総て責任を負ふ、況んや勅語に対して責任を負わぬと云ふが如きは、立憲の大義を弁識せざる甚だしきものと言はなければならぬ。(拍手起る)殊に桂侯爵が、未だ内閣を組織せざる前、身内府に入つたときに、天下の物情如何であったかと云ふことは、侯爵自ら之を知らなければならぬ。
 惟ふに、公爵の邸にはただ纔(ヒタタ=わずか)にその道を踏まずして内府に入り、恰も新帝を擁して天下に号令せんとするが如き地位を取つたがために、幾通もの脅迫状、幾通の血を以て認めたるところの書面が参つたであらう。この一事を以て見ても、天下の形勢何処にあるかと云ふことは、ほぼ承知致さなくてはならぬ。
 彼等は常に口を開けば、直に忠愛を唱へ、恰も忠君愛国は自分の一手専売の如く唱へて居りまするが、その為すところを見れば、常に玉座の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動を執つて居るのである。(拍手起る)彼等は玉座を以て胸壁(キョウヘキ=とりで)となし、詔勅を以て弾丸に代へて、政敵を倒さんとするものではないか。斯の如きことをすればこそ、身既に内府に入つて未だ何をも為さざるに当つて、既に天下の物情騒然として、なかなか静まらない。況んやその人が常侍輔弼の性格──其人の性格として一点だも常侍輔弼と云ふ責任を執るべき資格ありや否やと云ふことは、公爵自ら承知して居らなければならぬ。(「ヒヤヒヤ」拍手起る)常侍輔弼なるものは、その品行端正、擧止(キョシ=立ち居振る舞い)謹厳、一挙一動帝王の師となるべき者にして始めて成就するのである。桂侯爵は、それ等の資格の一点をも備へて居るところがありますか。(「恥を知れ」「黙れ」と呼ぶ者あり)斯の如き性格の者が、玉座の蔭に隠れて、常侍輔弼の任に当り、而してその野心を逞うせんと欲すればこそ、天は人をして言はしめ、誰が教ふるとなく、天下物情騒然として定まるところがないのである。
 況んやその人が入つて未だ数ケ月を経ざるに、再び諸般の奇略を弄し、殊に 先帝崩御の後、天下皆憂愁の裡に沈むの場合に当つて、諸般の陰険なる策略を弄して、故(コトサ)らに平地に風波を捲起し、而して徐ろに優詔を拝して内府を出で来る、恰も吾々にあらずんば天下を治むる者なしと云ふが如き顔色をして、総理大臣の職に就くと云ふに至つて、天下の物情、益々騒然となると云ふことは、敢て怪しむに足らぬのである。(拍手起る)今日苟も眼ある者は、天下の形勢を見なければならぬ。如何に地方忠愛の士が、殊に醇朴なる地方の人々が、如何に今日の事態を憤慨して居るかと云ふことは、蓋し臺閣の裡に隠れて、天下の実情を識らざる者の予想の外であるでありませう。本員は近来地方を歩いて、余程この朴直なる人々に接しましたが、近来の事態、殊に桂侯爵の出入、皆優詔を煩はし、常にその責任を免れるが如き言動に至りましては、いづれの地の没分曉漢(ボツブンギョウカン=わからずや)と雖も、涙を以てその非行を語らぬ者はないのであります。(拍手起る)即ち吾々は已むを得ずしてこの物情に副ひ、冀くば国家今日の危急の状態に対して、民論のあるところを表明するがために、第一に於てこの宮中・府中の区別を紊ると云ふことを掲げて、彼総理大臣及その他の人々の反省を促すの目的に外ならぬ。吾々は好んでこの議を提出するにあらず、世間の形勢実に已むを得ざるのであります。
 殊に今日鋒(キッサキ)を逆まにして、吾々が天下の輿論を代表して内閣の反省を促すのを見て、恰も故(コトサ)らに平地に風波を起す如き言説を、彼れ臺閣の者が為しまするが、もともとその原因は、彼等が前内閣を倒して不法なる手段陰険なる方法を設けて前内閣を倒し、取つて之に代つたといふのが、そもそもこの大逆浪を捲起したる原因であつて、その形勢は恰も積水を決するが如き事態であります。実に怒濤の逆捲く所、何人と雖も之に対抗することが出来ないのである(拍手起る)この形勢を識らずして、徒に彼等の非行を助けんとするところの徒輩は、ただ自ら逆浪の中に葬らるゝの一法あるのみ(拍手起る)。又その内閣総理大臣の地位に立つて、然る後政党の組織に着手すると云ふが如きも、彼の一輩が如何に我が憲法を軽く視、その精神のあるところを理解せないかの一斑が分る。
 彼等が口に立憲的動作を為すと云ふ、併しながら天下の何れの処に、先づ政権を握り政権をさし挟んで与党を造るのを以て立憲的動作と心得る者がありますか。(「政友会あり」と呼ぶ者あり)凡そ立憲の大義として、先づ政党を組織し、輿論民意のあるところを己の与党に集めて、然る後内閣に入るといふのが、その結果でなければならぬのに、彼等は先づ結果を先にして、而してその原因を作らんとするが如きは、所謂逆施倒行の甚だしきものであつて、順逆の別を識らない者であります。(拍手起る)又斯の如き非行を見て立憲的動作等と考へて、これに服従する者があるに至つては、その無智また大いに驚くべきものがある。(拍手起る「妥協はどうだ」「黙れ」と呼ぶ者あり)又この議会の初に当つて濫りに停会を致したと云ふが如きも、現に彼等は立憲的動作の何物たるかを弁別せざるか、但しは之を知つて敢へて非立憲的挙動を為して憚らずと云ふことの証拠である。ただ予算の印刷が間に合わないと云ふがために議会を停会して、議会の権能を抑止するが如き乱暴狼藉なる挙動を為す非立憲的大臣が、天下何れの処にあります。(「ヒヤヒヤ」拍手起る)
 又本員等の提出したるとこの質問に答ふるところの有様を見るに、一も誠意の見るべきものなし。但し桂総理大臣の誠意を欠くと云ふことは、啻にこの一事に止まらず、彼が誠意において欠くるところあるは、天下万衆の皆認むるところでありまするが故に、彼如何に口に美なる事を唱へ、如何なる約束をしようとも、天下の人、多くは之を信じませぬ。蓋し之を信ぜしめんと欲すれば、啻に口に言ふのみならず、先づ之を実行に於て示さなければならぬ。実行に於て示すべき機会は幾らもあるに拘わらず、却つて実行に於ては、謂われなくして議会の停会を命じ、甚だしきに至つては詔勅と勅語の区別の如き事を述べて、人目を誤魔化し去らんとするが如きは、彼が凡その点に於て誠意なきの証拠である。斯の如き誠意無き者が、如何に立憲的動作をすると申したところが、真正にその事の行はれ
よう筈がない。若し行はんとするならば、吾々は謹んでその事蹟を見、然る後非難することである。
 今日桂公爵を談ずるものは、既往二、三十年間の桂公爵でなければならぬ。彼既往二、三十年間に於て何を致して居りましたか、一として非立憲的挙動ならざるなし。政党組織可ならざるにあらずとも雖も、彼の伊藤公が十余年以前、政党組織をされた時に、百方之を妨害したでは無いか。又更に溯れば、板垣・大隈諸伯の如きが、明治十四年、十五年の際に政党組織を致して以来、彼が如何にこの政党なるものを呪ひ、之を毒し、之を賊(ソコナ)ひしかと云ふことは、天下公衆の皆知って居るところであります。併しながら、彼もし三十年の後に於て過を悟つたといふことなら、吾々はその過を改むことを咎めはしない。彼若し十余年の前に於て伊藤公の政党を妨害したる過を悟つたと云ふならば、これまた過を改むることを非難は致さぬ、併しながら真に悟れる者は、真にその過を改むるの実を挙げなければならぬ。彼れ何を以て今日に於て改む実を挙げましたか。若しその実を挙げんとすれば、前二週間の停会中に於て、その事実を証明することが出来たのでありますが、その間為したところのことを見れば、僅かに政権を挟む利益を賄賂として、政党攪乱の仕事をしたと云ふ一事にあるのみである。凡そ朝憲を挟んで与党を募らんとするが如きは、非立憲的行為の最も甚だしきものである。吾々は第一波が頻りに 新帝を擁して、己の利を逞うすると云ふが如き挙動に対して、天下の公憤を漏らし、今日人天倶に憤ると言ふ事態を生じたるは、彼の挙動止むを得ざるものであつて、その原因は唯に彼の既往の事蹟、現在の所為、総て是にあるのである。彼自ら之を改むるにあらずんば、天下の物情は如何にしても之を鎮静することが出来ないと考へますが故に、聊か全国の公憤を漏らすためにこの決議案を提出した次第であります。(拍手起る)

   〔内閣総理大臣公爵桂太郎君登壇〕
内閣総理大臣(公爵桂太郎君) 諸君、唯今この議場に不信任案を提出相成りまして、尾崎君は数千言をを費やされまして、その説明を致されました。その初めに当りまして本官が内府より出でて総理大臣の重任を拝しました間、勅語濫発と云ふことを述べられました。その勅語の性質に於きましては、過刻元田君よりの御質問に対しまして余儀なく畏多くも本官は是に対する答弁を致しまして置きましたから、この尾崎君の説明致されましたところの箇条に付きましては、諸君は疾くに誤解を御解きになつたであらうと考へるのであります。又、決議案に御賛成になつた諸君は宜しくこの点に付いて誤解を御解き下さるやうに希望致すのである。ただこれ等のことは感情を以て、わつとなさるべきものではないと云ふことは本官の申すまでもないことである。(「感情論ではない」と呼ぶ者あり)また、数千言を費やされまして、私の数十年に於ける動作の御非難を御演説になりましたが、これには尾崎君に向つて御答弁をする必要はないと考へます、これ等は天下の人が公平なる判断を以て尾崎君の演説を判断するであらうと考へる、ただ勅語の一点に付きまして、その勅語に対しまして責任がないと言ふのではない。能くお聴きなさい、憲法第五十五条により副署を要するものにあらざることを云ふのであります。又必ずしも奏請を待つものでないと云ふことを言ふのであります。大命を奉ずる者がその責に任ずるは勿論のことであると云ふことを茲で明言致して置くのであります。どうか諸君、この議場の有様を見ますると多分誤解を御解きになつても、或は多数で御決議になるかも知れないが、本官は、どうか、かくの如き誤解のないやうに諸君の誤解は十分に御解き下さることを希望して已まぬのであります。

 

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