真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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原爆を投下するために利用されたポツダム宣言

2013年10月31日 | 国際・政治
 アメリカに「神様、原子爆弾をありがとう」という題名の有名なエッセイがあるという(ポール・ファシル)。原子爆弾が、最後に残った枢軸側の日本を降伏させ、戦争を早く終わらせることによって、無数のアメリカ人の生命を救ったが故に「ありがとう」というわけである。
 また、スミソニアンの国立航空宇宙博物館が、原爆被害やその歴史的背景も含めてエノラ・ゲイの展示を企画した時、それを強く批判し非難した人たちは、広島と長崎の爆弾投下は「道義的に非の打ちどころがない出来事のひとつ」だと主張したり、「第2次世界大戦におけるエノラ・ゲイの役割は、第2次世界大戦に慈悲深い終結をもたらす助けをした点できわめて重要だった。それは日米両国の人命を救う結果となった」などと主張したことが広く知られている。そして、そうした考えに基づく組織や団体の強い抗議によって、展示は原爆被害や歴史的背景を省くこととなり、規模が大幅に縮小されたのである。

 しかし、多くの日米の歴史家や原爆の研究者が明らかにしている原爆投下に関わる歴史的事実からは、そうした認識は生まれようがない。鳥居民氏が、その著書(草思社文庫)の題名で表現したように「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」というのが実態であり、まさに、アメリカのモラル・ハザードが問われる対応であった。
 ここでは、「黙殺 ポツダム宣言の真実と日本の運命」仲晃(日本放送出版協会・NHK-BOOKS-891)の中から、アメリカが効果的に原爆を投下しようと、ポツダム宣言をさまざまな形で利用した事実を明らかにしている部分を抜粋した。

 ポツダム宣言は、発表の時期も、発表の内容も、発表の仕方も、「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」というような意図を持って決定されていったと考えられるのである。
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                 第4章 ポツダムの暑い夏

 ポツダムでの”ねじれ現象”

 これで分かるように、ポツダムで終戦前夜に起きた2つの出来事、すなわち、ポツダム首脳会談の開催と、ポツダム宣言の発表には、複雑でこの上なく入り組んだ当時の国際情勢がつきまとっている。まるで現代史のクイズの集大成のような感さえある。「ポツダム会談」と「ポツダム宣言」をめぐる問題点を、若い読者のために数え上げることから話を始めよう。


(イ)ポツダム首脳会談とポツダム宣言参加国は別々である。
(ロ)ポツダム首脳会談では、「日本」は正式議題としてとして討議されることはなか
   った。
(ハ)ソ連の対日参戦の意向は、三国首脳会談の席上ではなく、米ソ首脳間の非
   公式会談で、アメリカ側に通告され、トルーマン大統領を当初大いに喜ばせ
   た。
(ニ)ポツダムでは、2つの「ポツダム宣言」が発表された。
(ホ)日本に対する米、英、中国の「ポツダム宣言」には、三首脳揃っての正式署名
   がない。
(ヘ)アメリカは当初、ソ連を「ポツダム宣言」の原参加国に加える構想を持ってい
   たが、原爆実験の成功を見て、最後の瞬間にソ連を   はずし、中国を繰り
   入れた。


 ・・・

 第1の「ポツダム宣言(The Potsdam Declaration)」は、敗戦ドイツの分割占領を含む戦後欧州のあり方を米、英、ソ連で協議した内容を明らかにしたもので、首脳会談が終了した8月2日未明に三国首脳の連盟で発表された。

 第2の「ポツダム宣言(The Potsdam Proclamation By The Heads of Government、United States、China、and the United Kingdom)」は、日本に無条件降伏を要求する最後通告で、アメリカのトルーマン大統領によって7月26日に発表された。

 これで分かるように、ポツダム首脳会談の途中と、その終了にそれぞれ「ポツダム宣言」が発表されており、参加国は入れ替わっている。最初の「Potsdam Declaration」に使われた「declaration」は、1689年の英国の「権利の宣言」、1976年「アメリカ独立宣言」などに使われているように、「宣言」と伝統的に訳されてきた。

 一方日本向けに出された最後通告、「Potsdam Proclamation」の「proclamation」は、「宣戦布告」などに使われる「布告」とか、「公告」の意味で使用されることが多い。ただし、日本では戦後、こちらのほうが人口に膾炙しているため、後者を「ポツダム宣言」と呼び、首脳会談のまとめの宣言は、「ポツダム協定」の名で呼んで区別するのが現在では一般的になっている。



原爆に”連動”したポツダム会談

 ポツダム首脳会談の開催期日を事実上決めたのは、トルーマンン米大統領である。だが、それだけではなかった。開幕と閉幕のタイミングには、深く秘められた2つの思惑があった。会談開幕のタイミングが、当時間近に迫っていた史上初のアメリカの原爆実験と緊密に連動していたことが一つ、この会談の閉幕が、トルーマンンの胸中では、日本政府による無条件降伏受諾の最終期限、とひそかに設定されていたことがもう一つである。後者はそのまま、日本への原爆投下の解禁期限となった。


”宣伝文書”扱いのポツダム宣言

 ポツダム宣言の政治、外交、軍事的意義について、詳しく検証していく前に、これまで見過ごされてきたいくつかの問題点に触れておこう。
 その第1は、トルーマン大統領の回想にも表れているように、アメリカ政府がポツダム宣言を、日本政府に降伏を要求する正式の外交文書とは当時見なしていなかった、ということである。
 参加する各国首脳立ち会いのもとに国際社会に発表する従来の慣例とは違い、トルーマン大統領は、首脳会談の会場のツェツィリエンホーフ宮ではなく、アメリカ政府代表団の宿舎で、他の2カ国の代表を交えずに報道陣に宣言文を発表した。宣言文のコピーは、アメリカでの記者発表の慣行として、その2時間も前に配布されていた。米政府代表団は、留守を預かる本国のホワイトハウス事務局に、宣言のテキストを至急送って、国内報道機関に対する宣言の配布を指示することはせず、事前に宣言発表の連絡すらしなかった。

 代表団がポツダム宣言の全文を送った本国での相手は、第2次大戦の広報と宣伝を担当する米政府の「戦時情報局(OWI)」であった。大統領はそのさい、あらゆる方法によって、この宣言を日本国民に周知徹底させるようOWIに命じた。アメリカ国民への報告よりも、日本への宣伝攻勢が優先したわけである。


 なお、日本国に即時の無条件降伏を呼びかけながら、日本政府には、中立国を通じるなどして、宣言の文書を送達する手続きが一切とられなかった。

 ・・・

面食らったホワイトハウス留守部隊

 そのエアーズ大統領副報道官が、ポツダム会談をめぐるホワイトハウス(バーベルスベルクとワシントン)の動きを記録したものを邦訳から紹介しよう。なお、日記はこの期間は毎日ではなく、一週間まとめて書かれている。括弧内は引用者の注である。

 7月22日、日曜日 ー 28日、土曜日

(前略)ポツダム会談で、行き当たりばったりのニュース発表のやり方を象徴する出来事が起こった。トルーマンとチャーチル両首脳は、日本に対する共同発表または最後通牒について合意したようだった。しかし私は、その件について事前通告を受けていなかった。不意をつくように、ホワイトハウスのマップルーム(作戦会議室)に、この共同発表の本文とともにメッセージが届いた……。ホワイトハウスあてでも私(エアーズ)あてでもなかったが、「大統領よりOWIあて」と書いてあった。そして、発表文を公表するように、との指示があった。OWIは指示を受け、不意打ちをくらって、どうしたらいいか、わからないようだった……。


 一方、ロス(大統領報道官)が、ベルリンで発表を行い、短い雑報が通信社電で流れると、それを(イギリス)BBC放送が取り上げ、それがアメリカの夕刊に掲載された。
 私はロスにメッセージを送り、状況確認を試みた。その結果、大統領からのメッセージ(注、ポツダム宣言)は、もともと国内発表向けではなく、ただちに対日放送用に準備すべくOWIに送られたもので、ベルリンの(各国)マスコミに流す以外、国内発表など考えていなかったことが判明した。


 記者たちは、何が起こったのか興味津々で、OWIがホワイトハウスの代行をしているなどと冗談をいうものもいた。(後略) 
 
  トルーマンンはポツダム宣言の発表を、留守部隊とはいえ、ホワイトハウスへ事前に連絡する労さえとらず、エアーズ副報道官を面食らわせたことが、日記からあざやかに浮かび上がる。この宣言の狙いは、まず日本への宣伝攻勢であり、ホワイトハウスでも国務省でもなく、一介の戦時情報局がポツダム宣言を担当する”主管官庁”とされた。ポツダムに特派員を送る資力のないアメリカの中小新聞は、「ベルリン発の英BBC放送によれば」という、いくらか気恥ずかしい書き出しで自国大統領によるポツダム宣言発表の第一報を、7月27日の夕刊に掲載するほかなかった。



”宣伝文書”になったポツダム宣言

 ・・・

 こうした背景の中で新大統領は、敗戦前夜にある日本国民に対するポツダム宣言の政治的。軍事的、さらには外交的効果を盤石なものにすることによって、太平洋戦争のよりすみやかな終結を手繰り寄せたかも知れない貴重な切り札を、次々と放棄していった。このため、せっかくの宣言の意味が大幅に薄められ、外交宣伝文書に近いものにまで後退してしまう。

 雑誌『ルック』や『コリアーズ』(いずれも現在は廃刊)の編集長をつとめたジャーナリストのロバート・モスキンは、1996年に出版した『トルーマンン氏の戦争』の中でこう指摘している。
「日本に圧力をかけて、戦争をやめさせるのにきわめて重要なこの2つの情報(日本への原爆使用とソ連の参戦)を、ポツダム宣言が活用しなかったのは、とりわけ奇妙である。
 というのも、トルーマンンはそれまで、ソ連の対日参戦が再確認され、原爆実験の成否が判明するまではポツダム宣言の発表を先延ばしにすると言い続けてきたからだ。トルーマンンとバーンズは、日本に無条件降伏を要求し続けてきたが、日本での(戦争継続派の)抵抗を無力化するこれらの非常に重要な材料を利用しなかった。ポツダム宣言は、アメリカ大統領が、無条件降伏以外は受けつけないのか、天皇の地位の維持という問題を(降伏)条件からはずすつもりがあるのかどうか、について日本国民に何の手がかりも与えなかったのである」


 モスキンだけではない。歴史家レオン・シーガルは、戦後間もない1948年に出版された『決着をつけるための戦争──日米戦争の終結をめぐる政治』の中で、やはりこの点に注目して、次のように鋭く批判する。
「日本が直面するはずの最も恐るべき脅威をポツダム宣言から省略することで …… バーンズ国務長官は、この最後通告(ポツダム宣言)から導火線を取り外してしまった……。バーンズがそうした行動をとったことで、宣言はほとんど新味のないものになってしまう。それは日本に対する和解のジェスチャーでもなければ、最後通告でもなく、単なる宣伝に堕したのである」

 現在の時点から振り返ってみると、ポツダム宣言は次のような4つの点で重要この上ない問題──欠陥といってもよい──をはらんでいた。トルーマンン大統領を頂点とする当時のアメリカ政府首脳部が、これらの問題について、多分に感情的な要素に支配されていた当時のアメリカ世論に完全に身を任せることなく、戦争の早期終結と、戦後世界の再建を最優先課題に、思い切った指導力を発揮していたら、ポツダム宣言はもっと合理的で現実的な内容となり、その結果、終戦の期日が早まることで、当時の日本を襲った悲劇のいくつかは、起きずにすんだかも知れないのである。

(1)「無条件降伏要求」へのこだわり。日本の敗北が誰の目にも明白になったとき
   に、トルーマンン大統領は終戦を最優先にする方策をとらず、真珠湾攻撃な
   どへの報復にこだわり、あくまでも日本に”無条件”降伏を要求し続けて、結
   果的に戦争を長引かせた。
(2)敗戦必至の日本が唯一求めた天皇制の存続という要望を、米政府最高首脳
   部が、最後のギリギリまで無視し続けたこと。すぐれた暗号解読技術によって
   日本の外交電報をほぼ完全に傍受し、日本が天皇制の維持継続という”象
   徴的”な条件だけで降伏に傾いているのを知りながら、ポツダム宣言で柔軟
   な対応をするのを避け、早期終戦の可能性を逃した。
(3)ソ連の対日参戦と、これと有機的に結びついたソ連のポツダム宣言参加という
   基本方針を、アメリカが土壇場で放棄したこと。日本の陸軍など戦争継続派
   も、ソ連の参戦をきわめて警戒しており、ポツダム宣言に最初からソ連の名を
   連ねておれば、降伏が早まった可能性が少なくなかった。
(4)原爆投下に先立って、示威のためのデモンストレーションを行い、日本の降伏
   を待つといった”分別ある考慮”を払わなかったこと。もしこうしたやり方が非
   現実的というのなら、ポツダム宣言に、人類史上初めてという恐るべき新型兵
   器の保有と、日本への実戦使用の意図を明白な表現で警告することもできた
   はずであった。



http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。

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ポツダム宣言発表前の原爆投下命令

2013年10月16日 | 国際・政治

 日本の降伏にかかわるポツダム宣言の発表は1945年7月26日であった。ところが、下記の2つの文書で明らかなように、その前日の7月25日に原爆投下命令が下されている。俄には信じがたいこの公式文書は「黙殺 ポツダム宣言の真実と日本の運命」仲晃(日本放送出版協会・NHK-BOOKS-891)に紹介されている。
 日本のポツダム宣言拒否が原爆投下につながったという理解が誤りであるとすれば、歴史は書き直される必要があると思う。

 当時のアメリカ大統領トルーマンはチャーチルやスターリンの要請を巧に退け、ポツダム会談を、原爆実験の結果が判明する時期まで、意図的に延ばした。そして、原爆の実験が成功し、投下の準備が整うと態度を一変させたという。トルーマン大統領は、ポツダム宣言発表直前に調印国からソ連を外し、強引に、ポツダム会談には参加していなかった中国(蒋介石政権)を加えた。また、草案にあった天皇の地位保全の条項を宣言からは削除している。さらに、原爆投下前に、「原爆保有の事実とその破壊力」について、きちんと日本に通告するべきだという科学者等の進言も受け入れなかったし、ソ連の参戦についても何も触れなかった。当時、日本はすでに降伏に動いており、アメリカの日本本土上陸作戦の予定は、かなり後の1945年11月1日であった。にもかかわらず、ソ連の参戦直前に突然原爆を投下したのである。なぜなのか。

 それらを考え合わせると、アメリカ大統領トルーマンが
「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」という意図を持って動いていたという主張が、間違ってはいないように思う。トルーマン大統領を中心とする一部のアメリカ首脳部にとっては、「日本の降伏」ではなく、効果的な「原爆の投下」こそが課題であったということである。下記は、そうした意味で、世界中の歴史教科書の書き直しをせまる重要文書であると思う。

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              第2章 ケイト教授からの質問状

ケイト教授からの質問状

 1952年(昭和27年)の初冬、12月6日。
 アメリカの首都ワシントンにある大統領官邸、ホワイトハウスに一通の手紙が届いた。中西部の大都市、シカゴにある名門シカゴ大学歴史学部の封筒に入っている。差出人は同学部のジェームズ・L・ケイト教授、宛名は「ハリー・トルーマンン大統領閣下」となっていた。
 もともと西洋中世史が専門ながら、その後戦史研究の道に転じたケイト教授は、この手紙の中で広島・長崎への史上初の原爆投下命令が出された正確な日時と状況を、アメリカ合衆国大統領に尋ねていた。とりわけ、この命令と、ポツダム宣言に対する日本政府の拒否──いわゆる「黙殺」──との正確な前後関係について戦争終盤の米国の最高責任者であったトルーマンから直接の”証言”を得たいと望んでいた。

 いうまでもないが、これは2つの事実の時間的な前後関係を確認するだけの意味合いではない。日本政府のポツダム宣言拒否という”事態を受けて”(以下の手紙の中で、ケイト教授はこれを”inthe face of〔事態に直面して〕”とわざわざ括弧を付けて強調している)、アメリカ政府最高責任者による日本への原爆投下が初めて決断されたのかどうかの因果関係を知りたいと望んでいるのである。


 その意味でこの手紙は、一民間学者からの学問的照会ではなかった。手紙を受け取った側のトルーマンンにとっても、合衆国元首であり、かつは憲法上の三軍最高司令官として、自分がとった歴史的決定の根拠を後世に示す絶好の機会であった。

 ケイト教授はこのとき、多忙な大統領の日程を長い手紙で邪魔することを丁重に詫びているが、そんな必要は実はほとんどなかった。
 というのも、トルーマン大統領は、45年4月から続いた7年9か月もの長い任期をあと1か月と2週間で終え、故郷のミズリー州インディペンデンスへ帰る日を心待ちにしていたからである。官邸のスタッフたちも、このころ政権最後のクリスマスの飾り付けに余念がなかった。


責任のタライ回しを止める ・・・略

てんやわんやのホワイトハウス ・・・略

「黙殺」と原爆の前後関係

 ケイト教授の手紙と、ホワイトハウスのあたふたとした対応を示す内部メモ、大統領の返書の草案、スタッフの入れ知恵で修正された最終回答などは今日、ミズリー州インディペンデンス市のトルーマンン記念図書館で、大統領秘書所蔵のファイルの一部として公開されている。大統領スタッフによると思われる書き込みや横線も入った手紙の写真も残っている。

 まずは騒ぎの発端となったケイト教授の質問状の全文からご紹介しよう。マル括弧の中は、日時や指名を明確にするために筆者が挿入した(以下同じ)。原注の場合はそう断っておいた。
 念を押す必要もないと思われるが、トルーマン記念図書館を含む全米9か所(フランクリン・ローズベルトからレーガンまでの各大統領の名を冠している)の大統領記念図書館の文書や資料は、国立公文書館(NARA)の管轄下にあり、すべて米政府の公式文書の扱いを受けている。


大統領閣下
ワシントンDC                            シカゴ大学  
                                     イリノイ州シカゴ市37
                                     歴史学部   
                                     東59丁目1126番地
謹啓
 この数年間というもの、『第2次世界大戦における陸軍航空隊』の編集者および執筆者の一人として奉職することは、私に与えられた特権でした。この本は、米空軍とシカゴ大学が共同スポンサーとなって、非営利を原則に公刊されている歴史書です。現在はこの第5巻の刊行作業中で、この巻での私の仕事は広島、長崎に対する原爆攻撃の説明を書くことにあります。原爆を使用するとの決定に関して、私は証拠の食い違いと思われるものに直面しており、これを解決することが私にはできません。そこで、大統領閣下の時間に食い込むのは、気乗りしないのですが、(この問題の)最良かつ恐らくは唯一の権威である閣下に情報をいただくようお願いする次第です。


 閣下ご自身が出された声明──1945年8月6日(の広島原爆投下直後)にだされたものと、1946年12月16日付でカール・T・コンプトン博士に出され、1947年2月号のアトランティック・マンスリー誌に掲載された手紙──を、私は非常な関心を持って読みました。また、故スティムソン(終戦時の陸軍長官)が、さらに詳しく説明し、1947年2月号のハーバーズ誌に掲載された論文も読みましたが、これも閣下の声明に完全に一致しています。こちらの要旨はこうでした。閣下が勇気を持って責任を遂行されたあの恐るべき(原爆投下の)決断は、(1945年)7月26日のポツダム宣言に盛られた警告を、鈴木首相が拒否したのを”受けて”ポツダムで下されたものであること、その(原爆使用の)動機は、(1945年)11月に予定されていた九州進攻作戦に伴うはずの大量の人命の損失を避けるためであること、がそれです。最近になって私は、予定された4つの(原爆投下)目標のうちのひとつに対し、最初の原爆を投下するよう、カール・スパーツ陸軍大将(原爆投下作戦を担当する陸軍戦略航空隊司令官)に命じた命令書の写真コピーを目にしました。この指令書は機密を解除されているので、(コピーを)同封しておきます。命令書は、1945年7月25日の日付でワシントンで出されたもので、マーシャル陸軍参謀総長のポツダム出張中、参謀総長代理をつとめたトマス・T・ハンディ陸軍大将(参謀次長)のサインがあります。アーノルド将軍(戦時中の陸軍航空隊総司令官、元帥)が別のところで述べているところによると(原注、H・A・アーノルド『グローバル・ミッション』589ページ、1949年ハーバー社刊)、この指令は、(1945年)7月22日に、アーノルド自身とスティムソン陸軍長官、それにマーシャル元帥が協議したのち、ワシントンに使者を出して送達した覚書に基づいたものとされています。

 この指令は、”1945年8月3日ごろからのち、天候が有視界爆撃を可能とするようになり次第”、(日本への原爆)攻撃を開始するように、との無条件の命令を含んでいます。この翌日(7月26日)に出される予定になっているポツダム宣言への言及はなく、8月3日以前に日本が降伏を申し出た場合にどうすべきかも述べていません。文書によるこの指令に、口頭による指示という条件が付いていたことは考えられますし、もしも日本がポツダム宣言を受諾した場合は、(原爆投下への)無線のメッセージによって指令を取り消すよう意図されていた可能性もあります。(原爆投下)指令が、スティムソン陸軍長官の意図を誤って伝えたものであったことも考えられます。

 にもかかわらず、この指令自体は、ポツダム宣言の発出の少なくとも1日前、さらには、東京時間では7月28日の鈴木(首相)によるポツダム宣言の拒否の2日前に、原爆を使用することの決定が下されていたことを示唆するように思われます。このような解釈は、公表されているもろもろの(米政府)声明にそれとなく含まれている説明、つまり、(原爆投下の)最終決断は、日本がポツダム宣言を拒否したのちに初めて下されたという説明と真っ向から矛盾します。


 この問題が、とてつもない重要性を帯びていることから、閣下が(原爆投下の)最終決断に到達された日時と状況についてより完全な情報を提供していただくこと、閣下の回答を私が担当する前記の本に引用する許可をいただけるようお願いします。閣下が歴史に関心を抱いておられるのはよく知られており、これに勇気づけられて私は、歴史家がそうであるべきであるように、源泉から情報を求めることにしました。ただ一つのお詫びは、問題を正確に述べようと望むあまり、過度に長くなった手紙をお送りすることで、閣下のご多忙な日程を妨害したことです。
                                ジュームズ・ケイト(署名)
                                中世史担当教授



 ケイト教授の質問状の焦点は、すでに触れたように、ポツダム宣言発表前日の日付を持った原爆投下の命令書が出された状況である。教授の質問状をよりよく理解するため、問題の命令書の全文を掲げておこう。括弧の中は、筆者の注である。


 米陸軍省
 参謀長局
 ワシントン25 DC
                                     1945年7月25日
 あて名   カール・スパーツ陸軍大将
        米陸軍戦略航空隊司令官
1、第20空軍第509混成群団は、1945年8月3日ころ以降、天候が有視界爆  
  撃を可能にするようになり次第、最初の特殊爆弾(原爆)を、次の目標のうち  
  の一つに投下すること。広島、小倉、新潟、長崎。爆弾の爆発効果を観測、記 
  録すべく、陸軍省から武官および文官の科学担当者を搭乗させるため、(原  
  子)爆弾搭載機には別の飛行機一機を随伴させること。観測にあたる飛行機 
  (複数)は、爆発点 から数マイル(1マイル約1.6キロ)の距離を置くこと。


2、(原爆開発のマンハッタン)計画のスタッフによって、準備が完了次第、追加
  の(原子)爆弾(複数)を、前記の目標に投下すること。以上のリスト以外の目 
  標(複数)に関しては、追って指示する。

3、日本に対する(原子)兵器の使用について、いかなるものかを問わず、すべて
  の情報 の公表は(スティムソン)陸軍長官と、(トルーマンン)アメリカ合衆国大
  統領の手に留保される。具体的な事前の承認のない限り、現地司令官(複数)
  らによるこの件についてのコミュニケや情報の公表はおこなわないものとする。
  どのような(報道)記事であっても、特別の許可を得るため、陸軍省に送付のこ
  と。


4、以上の指令は、陸軍長官と(マーシャル)参謀総長の命により、かつその承認
  のもとに、貴官に出されたものである。貴官がこの指令の写し各一部を(西南
  太平洋軍総司令官の)マッカーサー陸軍元帥と、(米太平洋艦隊司令長官の)
  ニミッツ海軍元帥に対し、情報として自身で手交されるのが望ましい。

                                トマス・ハンディ(署名)
                                陸軍大将、陸軍参謀総長局
                                陸軍参謀総長代理

 この有名なハンディ参謀総長代理の命令書の日付は、7月25日とタイプされているが、トルーマンンは、回顧録の中で、これを7月24日の指令と書いている。実際にはハンディが24日に書いて同日中に、「25日発効」としてスパーツ将軍に手渡したと伝えられているが、米政府の文書では「7月25日」で統一されている。

 ・・・以下略


 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。  

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原爆論争とスティムソン論文

2013年10月09日 | 国際・政治
 第2次世界大戦終結後しばらくして、アメリカ国民に原爆の破壊力の情報が伝わり、広島・長崎の惨状が明らかにされるにつれて、原爆投下に対しての批判や非難の声が渦巻いた。そんな中で、アメリカ国民に向けて原爆投下の正当性を訴えるために書かれたのが、「スティムソン論文」である。以後、その内容が原爆投下に関するアメリカ政府の「公式解釈」をかたちづくり、今もアメリカ国民の間では広く受け入れられている。それは、「原爆投下は,戦争の終結を早め,予定されていた日本への上陸を無用にし,結果として100万の米兵の命を救った、ゆえに正当であった」というような内容である。

 ところが、このアメリカ国民の常識となっている「公式解釈」は、今では、原爆を研究する多くの歴史学者や研究者によって事実上否定されている。「スティムソン論文は、戦後創作された作文である」というわけである。もしアメリカ国民が、「原爆が戦争の終結を早め100万の米兵の命を救った」というスティムソンの論文が根拠のないものであると受け止めていたら、あるいは、アメリカ国民が、米兵の「死者1万5000ないし、2万を含む6万3000の損耗」を避けるために、多数の一般市民を含む20万以上の日本人を、原爆投下の年に無残な死に追いやり、その後も毎年被曝による死者を出している事実を知ったら、さらに、原爆を投下しなくても、日本を降伏させることは可能であったという事実を知ったら、原爆投下に対するアメリカ国民の批判や非難は、核廃絶に向かっていたかも知れないと残念に思う。

 下記は、そうした原爆投下に関わる戦後の論争の経緯を、「アメリカの中の原爆論争 戦後50年 スミソニアン展示の波紋」NHK取材班[編集・執筆](ダイヤモンド社)から抜粋したものである。
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           第7章  作られた「100万人神話」

1 太平洋の苛酷な戦争

 日本への原爆投下の決断をアメリカの国民に説明するための動きは、1945年8月10日、国民に宛てたハリー・トルーマンン大統領のスピーチから始まった。
「世界は、初の原爆が軍事基地のある広島に投下されたことに注目するであろう。これは、この攻撃で、できるかぎり一般市民を犠牲にしたくない、と考えたからである。私たちは、戦争の苦しみを終わらせ、何千人もの若いアメリカ人の命を救うために、原爆を使ったのである」
 この発表の中の「軍事基地のある広島」という言葉によって、これを聞いたアメリカ人は、命を落とした一般市民は少数であり、一方「何千人」もの若いアメリカ人の命が救われたと信じた。日本の本土への攻撃に備えて移動中だったり、九州沖の艦上で待機していたアメリカの兵士たちは、原爆によって自分たちの命が救われたと確信しただろう。国で待っている人々にとっても、いつ、どんな不幸が舞い込んできてもおかしくない太平洋の彼方の戦地から若者たちが帰ってくるというだけで、どのような兵器の使用も正当性のあるものとなった。終戦直後の8月末に行われた世論調査では、アメリカ人の85パーセントが原爆の使用に賛成であった。


 しかし、終戦の喜びが次第におさまり、この新兵器の破壊力に関する情報が広がるにつれて、一般市民が暮らす大都市に原爆を投下したことに対して、批判の声が上がるようになった。原発の開発に加わった科学者やジャーナリストたちが、アメリカの勝利がほぼ確定していた時期にそのような兵器を使ったことが、真に必要なことだったのかどうかを問い始めた。

 やがて、数人の宗教者たちがこれに加わり、1946年3月6日の『ニューヨーク・タイムズ』に、広島と長崎への原爆投下は「道義的に弁護の余地がない」と非難する投書が掲載された。これらの投書は、2つの都市を破壊したことによって戦争の終結を早めることができたかどうかにかかわらず、その行為によってアメリカは「神の法則に反すると同時に、日本の人々に対しても大きな罪を犯した」と主張している。


 1946年8月31日、ニューヨークの市民誌『ニューヨーカー』は特集を組んで、その号すべてをジョン・ハーシーというジャーナリストによる、荒廃した広島からのレポートに当てた。被爆者の目から見た現状、そして荒廃した町のようすを渾身の力を込めて描き出す感動的な記事は、読者に強い印象を与え大きな反響を呼んだ。ハーシーの記事はいくつかの新聞に紹介されたほか、ABCラジオを通じて全国民に放送され、公共の場での話題となった。

 トルーマンの発表によって「日本の軍事基地」とされた広島の破壊を、アメリカの人々は当然のように支持していた。しかし、原爆の犠牲になった人々の姿を知り、普通の人々が住む大都市が、まるごと破壊されてしまったことが明らかになったのである。こうして、原爆の投下に対する疑問や、原爆そのものの道徳性を問う想いがまたたく間に広がっていった。


 2 1946年のノーマン・カズンズの発言

 原爆の使用に対する疑いの世論が高まるなかで、1946年9月14日の『サタデー・レビュー・リテラチュア』は、原爆を承認したリーダーたちを正面から攻撃し、質問によって回答を要求する、編集長ノーマン・カズンズの記事を掲載した。
 「私たちは人間として、広島と長崎で犯した罪に責任を感じているだろうか」「事前の示威行動をせずにただちに原爆を使用することに反対した科学者たちの申し立てを、権力者たちはなぜ、聞こうとしなかったのだろうか」そして、「日本がヒロシマ以前にすでに降伏しようとしていたという主張を、どう考えればよいのだろうか」
 カズンズは、この問題をさらに追及するために、アメリカの人々に対して、原爆の使用は理想的なものだったと思うかと問い、「他の国が核をまったく持っていない時に、われわれが他に先がけてそれを使用し、これからの戦争では核使用が一般化してしまうことを承認してしまったようなものだ」とつけ加えている。


 このような質問や批判に、原爆投下の決定に関わった指導者たちの間にも動揺の色が見え始めた。
 
 ・・・

 コナント(マンハッタン計画に参加したハーバード大学学長)は、陸軍省の元同僚を通して、スティムソン(ルーズベルト・トルーマンン両大統領のもとで陸軍長官を務めた人物)に手紙を出し、原爆の使用を正当とする声明文を書いてほしいと説得した。スティムソンはこの計画に加わることに最初乗り気ではなかったが、数人の元同僚たちから要望を受けて、結局、声明文を書くことを承諾した。
 
 トルーマンン大統領も、この計画を知って、スティムソンの執筆に期待するという手紙を1946年12月31日に、スティムソンに送っている。トルーマンンも、広島への原爆投下は十分に検討されることなく性急に決断されすぎたのではないか、という疑問があがっていることに不安を感じていたのである。大統領はスティムソンに「投下決定に関する記録を早急に整理する」よう要請した。


3 1947年のスティムソン論文

 アメリカ国民に向けて原爆投下の正当性を表明するという役割を与えられたスティムソンは、マクジョージ・バンディという若いアシスタントの協力を得て論文の執筆作業を開始した。このバンディは、後にベトナム戦争の時代に国務次官補を務めることになる人物である。

 スティムソンに代わってほとんどの執筆をお行ったバンディは、どのようにすれば最も説得力のある声明文を書くことができるか、コナントをはじめ多くの官僚たちからアドバイスを受けながら作業を進めた
。…

 ・・・

 この論文は、あらゆる批判をすべて否定するために書かれるものであると同時に、その意図を、人々に感じとらせないような配慮が必要だった。
 論文の最終原稿を読み終えたコナントは、スティムソンに宛てた手紙に「いい調子に仕上がっていると思います。このおかげで十分な成果をあげられるでしょう」と書いている。
 ヘンリー・スティムソンによる「原爆使用の決断」(The Decision to Use the Atomic)と題する論文は、1947年の『ハーバーズ・マガジン』2月号に掲載されたが、その反響はコナントが初めに予想していたよりずっと大きなものになった。


 高まる原爆投下批判に対するジェームズ・コナントの対応策は、こうして、原爆に関する最も影響力の大きい声明へとつながったのである。この声明はすぐにヒロシマの決断についての「公式な」歴史として認められ、批判的だった人々をも含む多くの人々から絶賛されることになった。
 『ニューヨーク・タイムズ』はこれを一面で取り上げ、その記事は「公共への高い重要性」があるとして、無料で国内のさまざまな新聞に掲載されることになった。読者たちは、決断の背景にあった理由やそれまで知られていなかった事柄を力強く語るスティムソンに感動し、彼の厳格で、人間性に満ちた論文に感銘を受けた。


 スティムソンの論文の中の最も重要だった点は、原爆の使用に至った最大の理由は戦争を早く終わらせることだったとし、そのために救われたアメリカ人の人数として「100万人以上」という数字をあげたことである。

 ・・・

 やがて極秘となっていた資料が公開され、1980年代半ばにはこの死傷者の推定人数の確実性を問うための十分な証拠が、歴史家たちの手許に揃った。すべての調査の結果、本土進攻に動員されると予想された人数はすべて合わせても、スティムソンの言った「100万人」を下回っていた。…

 1995年4月、私たちはスティムソンの声明文執筆の協力者、つまり論文のゴーストライターを務めたマクジョージ・バンディに会うことができた。そして、彼自身の口からこの死傷者の推定は何の根拠もなかったことを確認することができたのである。

4 バートン・バーンステインの証言

「50年前の夏、トルーマンン大統領が運命の決断を下したとき、彼が得ていた情報は、原爆の投下によって、約6万3000人のアメリカ兵の命を救うことができることを語っていた」──バートン・バーステインがそう記す研究結果は、トルーマンン大統領が後に回顧録で記した「50万人」という数字を、そしてスティムソン論文以来、教科書にも堂々と記され続けた「100万人」という数字を、大きく書き替えるものだった。
 バーンステインの許には、そのことで非難の手紙が数え切れないほど寄せられた。
 沖縄戦の50周年記念式典も終わった1995年4月、スミソニアンの展示計画がすっかり姿をかえてしまったことに大きな失望の表情を見せるバーンステインに、私たちはスタンフォード大学の一室で会うことができた


 Q スティムソン論文について、どうお考えになりますか。
 A スティムソン論文は、1947年、原爆使用に反対の声が渦巻いていた時代に発表され、たとえて言えば、率先してこれらの波を大洋から締め出し、おし静めて基本的なコンセンサスを築き直しました。論文が存在しなくてもこの見方がおおかたのコンセンサスでもありえたかどうかは、何とも言えません。間違いなく、論文はコンセンサスを作るのに役立ちました。そして論文は1948年以後60年代中頃まで、ほぼ一世代にわたるアナリストにとって判断の基準となり、ほとんどのアナリストがこの論文を、なぜ原爆が使われたのかを説明するのに引用しました。
 この論文は、真実を伝えるためではなく、真実を利己的な目的で作文し、しかもそうした目的があったことを暗に否定するために思いついたものです。歴史は単に過去に起こった事柄ではなく、人々が、過去に起こったと考える事柄でもあるのです。時として、過去に起こった事柄について、ある特定の考え方を他人に押しつけようと目論むこともあります。これが、ヘンリー・スティムソンのなし遂げた仕事でした。
 Q この論文が作り上げた「事実」は、突き崩されるべきですか? あるいは崩すことができますか?

 A ・・・
   歴史学者の中には、1945年の6月中旬の推定損耗兵員数は6万3000人であったこと、そしてこの数字は、トルーマンンに原爆投下を決断させるのに十分意味のあるものだったという見方も、けっしてありえないことではないという意見もあります。実際、私も、それがトルーマンンが原爆を使った最大の理由の一つであると考えています。死傷者数6万3000人は彼にとって許し難い数だったのです。
 ところが50年後の今日、全米退役軍人協会と空軍協会は、思うに、死者1万5000ないし、2万を含む6万3000の損耗という数は少なすぎると思ったのでしょう。そして、50万とか100万なら、どんな議論をも抑えられるだろうと

 Q あなたは、自分の考え方が少数派だと感じられたことがありますか。
 A 原爆の問題に関して、自分が少数派だとは思いません。実際、展示企画の担当者たちがスミソニアン展示を実現しようとしていた1992年、93年頃に、ほとんどの国民のコンセンサスを取りつけていた考え方は、原爆は必要ではなかったか、あるいはたぶん必要ではなかっただろうという考え方でした。わたしは「たぶん必要ではなかった」という立場を代表していました。今も、代表しています。原爆を研究している歴史学者はほとんどが、今でもその立場をとり、おそらくはほとんどの学者がその立場をとっているのではないかと思います。
… 
 …歴史学者のなかの多数派だろうと思います。
・・・


(以下略)

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原爆投下の経緯・トルーマンの策略

2013年10月07日 | 国際・政治
 「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」鳥居民(草思社文庫)は、題名が衝撃的であるが、その内容も衝撃的であり、驚かざるをえない。原爆投下に関してトルーマンンが語ったこと、また、戦後、原爆投下の正当性と大統領の名誉を守るために書かれたという陸軍長官ヘンリー・スティムソンの論文は、事実に基づく論文ではなく、創作なのだという。

 トルーマンンは、広島・長崎への原爆投下について「百万人のアメリカ兵の生命を救うために、原爆を投下したのだ」と語った。1995年第2次世界大戦終結50周年を記念して、原爆を投下したB29爆撃機「エノラ・ゲイ」や日本の被爆資料の展示を計画したアメリカのスミソニアン航空宇宙博物館が、アメリカ国内で大変な抗議や批判を受け、その計画を変更せざるを得なかったのは、そうしたトルーマンンの言葉が、多くのアメリカ人に受け入れられてきたからであろう。

 しかしながら、同書によると、当時のアメリカ軍の首脳は、誰も、百万人の犠牲者など考えていなかったし、そんな数字を挙げたこともなかったという。百万人の犠牲者という数字が登場したのは、戦後、原爆投下に対する批判や非難の声が高まってからの創作であり、原爆投下の前に、日本の降伏は確実な状況にあったというのである(スティムソン論文の百万人の数字が根拠のないものであったことは、この論文のゴーストライターを務めたマクジョージ・バンディにNHK取材班が確認をしている)。したがって、「百万人のアメリカ兵の生命を救うため…」という原爆投下の目的は虚偽説明だったのである。

 原爆投下の前に、「ソ連の参戦」、「天皇の地位の保全」、「原爆保有の事実とその破壊力」について、きちんと日本に通告すれば、日本は必ず降伏する、と軍の関係者や政府関係者の多くは考え、トルーマンに進言していた。原爆投下の前に警告を発するべきだという声もあった。また、当時すでに日本が戦争終結に向けて動いているという情報を、トルーマンは得ていた。しかし、トルーマンンはそれらを考慮しなかった。チャーチルやスターリンさえも、日本の面子を認めて、実質的な無条件降伏の達成を助言したが退けたという。

 それは、トルーマンンに「4つの期日」を計算に入れた予定表があったからであるという。その4つの期日は、7月4日・原爆実験の予定日、7月15日・三国首脳会談の開幕日、8月1日・原爆投下の準備が整う日、8月8日・ソ連の参戦の日である。同書は、この4つの期日をにらみながら、トルーマンンが原爆投下のために、どのようなの策略をめぐらしたのか、を明らかにしている。トルーマンのねらいは、「日本の降伏」ではなく、「ソ連参戦前の原爆の投下」だったということである。

 トルーマンンは、チャーチルが何度も電報を打ち、早期開催を要求した三国首脳会談を延ばしに延ばし、対日戦早期終結ため、日本への通告あるいは警告を発するべきだ、という軍関係者や政府関係者のたび重なる進言を巧みにかわし、スティムソンの日本に対する通告の草案から、天皇の地位保全に関する部分を敢えて削除し、原爆については意図的に何もふれず、さらに、スティムソンの草案に入っていた共同署名国のソ連の名を消し、その宣言は、アメリカ国務省からではなく、日本が正式なものと受け止めにくいように宣伝と広報を担当する戦時情報局から日本に伝えさせた。それらは、すべて原爆を投下するまで、日本を降伏させないようにしておくためであったという。そして、ソ連参戦前に、原爆投下の準備が整ったので、その予定表通り、原爆を投下したのである。

 その原爆投下の経緯を比較的簡潔まとめている文章が「原爆はこうして開発された」山崎正勝・日野川静枝編著(青木書店)にあったので、それを抜粋する。原爆投下に関するこうした理解は、あまり知られていないが、歴史学者や原爆の研究者の間では「常識」となっているとのことである。
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                第7章 核と科学者たち

3 ポツダム会談と原爆

ローズヴェルト大統領の死

 1945年4月12日、原爆開発を指令した大統領ローズヴェルトが、心臓発作で急死した。かわって大統領になったH・S・トル-マンは、そのとき副大統領であったが、それまでまったく原爆開発計画の存在を知らされていなかった。そのため、大統領就任式の日に陸軍長官スティムソンが、トルーマン新大統領にはじめてその話をし、あらためて4月25日に詳しい説明をした。原爆の威力について、原爆投下の目標が日本となっていることについて、またさらに原爆が戦争の終結をはやめると確信されていることなどについて話した。とくにスティムソンは、原爆の扱いを誤れば、世界が最後にこのような兵器によって意のままにされることになるであろうと警告し、原爆の存在する戦後世界についてトルーマンの注意を喚起しようとした。この会談の結果、原爆に関するさまざまな政策を大統領に勧告する役割を持つ、暫定委員会設置されることになった。議長にはスティムソンがなり、7月には国務長官に就任する予定のJ・F・バーンズが、大統領代理として参加した。


 5月8日、ドイツは無条件降伏した。ヨーロッパでの戦争は終結し、残るはアジアでの対日戦のみとなった。そのころ、ソ連の進出に対抗するために、アメリカの政策決定者たちの間でアジア政策が根本的に見直されることになった。そうした過程で、ソ連の対日参戦の前提となっているヤルタ秘密協定の内容を、アメリカ有利に改訂する課題が生まれてきた。当然、その改訂はソ連の対日参戦前に実現しなければならないものであった。また、アメリカのアジア政策の柱に中国ではなく日本を据えるという考え方も改めて主張された。それは、ソ連やアジアの革命勢力に対抗するために、日本をアメリカのパートナーとして残そうというものであり、そのためには、徹底的な破壊がなされる前に日本を終戦に追い込む必要があった。

引き延ばし戦術

 5月28日朝にトルーマンと会談した国務長官代理のJ・C・グルーは、対日戦の早期終結のために、大統領がただちに対日警告を出すようにと進言した。彼によれば、日本側で無条件降伏に対する最大の障害は、無条件降伏が天皇および天皇制の破壊または永久的除去を伴うであろうとする日本人の信念にあった。それゆえに、日本人自らが、自身の将来における政治形態を決定することを許されるであろうという何らかの指示を与えれば、早期終結が可能であろうというものであった。グルーは、日本が東京大空襲で大損害を被っている今こそ、そうした内容の対日警告が「最大の効果」を発揮するだろうと予測していた。

 トルーマンはグルーに、自分も同様な考えであるが、まず陸軍長官、海軍長官、参謀総長、そして海軍作戦部長と討議するようにと指示した。彼らは、翌29日にスティムソンの事務所で会合をもった。会議の結論は、グルーの進言した内容の対日警告を出すことには賛成であるが、今すぐ出すことについては異論があるというものだった。「全問題の核心は、タイミングの問題」とされ、結局、対日警告は今すぐ出さず先延ばしされることとなり、大統領はそれを諒承した。


 こうした見解の相違の根底には、何があったのだろう。それは、原爆開発計画の存在を知らされていないグルーと、それを知っている人びととの状況判断の違いであった。原爆開発計画を知っているスティムソンたちは、グルーのように対日警告と対日戦の早期終結を結びつけるだけでなく、対日警告、対日戦の終結、原爆の対日投下、そして極東における対ソ関係、それらを密接に関連づけて考えていた。それゆえに、対日警告の先延ばしも、原爆の完成を待つ「先延ばし戦術」の一環であった。

原爆外交のスタート

 原爆の対日投下についての暫定委員会の勧告を、トルーマンンにつたえた6月6日の会談の時、スティムソンは、大統領が原爆開発の進展にあわせて、巨頭会談を、7月はじめから7月15日まで延期したと聞かされた。これまた、「引き延ばし戦術」であったが、それは巨頭会談でヤルタ秘密協定の改訂をもくろむアメリカにとって、原爆の完成がいかに重要な意味をもっていたかということを示していよう。

 ポツダム会談は、7月17日からはじまった。陸軍長官スティムソンは代表団に加わらなかったが、重要な任務を帯びてポツダム近くのバーベルスクベルクにきていた。彼は刻々と送られてくる原爆実験の報告を、すぐさま大統領に伝える役目を担っていた。ポツダム会談のさなか、原爆実験の結果を知ったトルーマンンが、ソ連に対する交渉態度をいかに変えていったかをみるとき、それは明らかに脅迫外交ともいえる原爆外交のはじまりといえた。


 7月16日、スティムソンのもとに届いた実験結果の第一報は、それが「予想をこえた」成功であることを告げていた。翌朝、さっそく彼はトルーマンンに、実験成功の知らせをもたらした。この日、はじめてトルーマンンはスターリンと会った。彼はその日の日記にスターリンとのやりとりを記している。それによれば、トルーマンンが「ダイナマイト」と称したスターリンの積極姿勢がうかがえる。スターリンはスペインのフランコを首にしたがっているし、イタリアの植民地や、イギリスの委任統治領なども含めた他の委任統治領を分割したがっていた。しかし、トルーマンンも「私もまだ爆発させてはいないが、あるダイナマイトをもっている」として、原爆を力強い後盾と考えていることがわかる。

 しかし、この日(17日)の会談で、ソ連の対日参戦が8月15日になることを知らされトルーマンンは、日記に「それが起こったときには、日本は終わる」と記した。それは、対日戦の終結がソ連の参戦によってもたらされる、と考えていたことをあらわしている。


 7月18日、ハリソンから原爆実験の広範囲な細目のいくつかについて知らせる第二報が、スティムソンの手もとに届いた。トルーマンンは原爆の存在強い味方にして、スターリンに対してヤルタ秘密協定の改訂を迫ろうとしていた。また、その日の日記には、「ロシアが参加する前に、日本はつぶれるだろうと信じる。マンハッタンが日本本土のうえにあらわれるとき、彼らはそうなるだろうと私は確信している。私はスターリンに適当なとき、それについて知らせることになるだろう」と記している。その日の会談で、スターリンから日本の和平依頼の事実を知らされた。つまり、日記は、日本が終戦決意を示している現在、対日戦の終結はロシアの参戦によってではなく、それ以前になされるアメリカの原爆の対日投下によってもたらされるであろうという判断をあらわしていた。また、原爆が現実の存在となった今、チャーチルとの合意のうえで原爆の存在をスターリンにも知らせようというのである。

 7月21日、特使によって原爆実験の詳報がスティムソンに届けられた。長文のグローブスの覚書は、爆発で開放されたエネルギーが少なく見積もってもNTT火薬1万5千トンから2万トンに達するものであったことを示していた。それは予想以上の値であり、トルーマンンは原爆の威力にますます自信を深め、ついにはそれを、「過信」するようになったといえよう。22日チャーチルはスティムソンに、前日の会談でのトルーマンの変化をこう語っている。「昨日トルーマンンに何が起こったかを今や知った。私は理解できなかったが、この報告(グローブスの覚書)を読んだ後で会議に出たとき、彼(トルーマンン)は別人となった。彼は、ロシアにああしろこうしろと言い、会議全体を牛耳った」(荒井信一『原爆投下への道』東京大学出版会、222ページ)しかし、こうして達成されたヤルタ秘密協定の改訂は、後にさまざまな禍根を残したと言われている。

 原爆投下作戦命令とポツダム宣言

 原爆実験を知った後、トルーマンンがいまかいまかと待ち望んでいた知らせが7月23日の夜に届いた。スティムソンは翌朝、そのハリソンからの電報をもって大統領を訪ねた。それは、8月1日以降ならば原爆の投下作戦がいつでも可能であることを告げていた。さっそくトルーマンンは、8月3日以降、目視爆撃ができる転向となり次第、最初のウラン爆弾を広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに投下する命令を承認した。

 同時に彼は、こうした状態のなかで対日戦終結の方法として前から検討されてきた対日警告、すなわちポツダム宣言を出す準備に取りかかった。しかし、トルーマンンが出そうとしているポツダム宣言には、対日戦の早期終結のために必要と考えられていた天皇制を保証する条文が、それまでのものから変更されてあいまいにしか示されていなかった。その結果、トルーマンン自身が日本側の拒否を確信しているようなポツダム宣言となって、会談不参加の中国の蒋介石総統の承認を得て、7月26日に出されることになった。


 さらにもう一つ、チャーチルとすでに合意していたスターリンへの原爆告知が、この日まったく誠意のないやり方でおこなわれた。それもまた、7月4日にワシントンの国防省で行われた英米合同政策委員会の確認に反したやり方であった。トルーマンンは会談が終了する間際になって、何気なくスターリンに、前例のない破壊力をもつ新兵器をもっているとだけ告げた。それは、実際の原爆投下の衝撃をもっとも大きくするために、意図的になされたことであった。トルーマンン自身は、たぶんスターリンには何のことかわからなかったに違いないと推測した。しかし、スターリンは新兵器が原爆であることをしっかりと理解し、さっそくモロトフ外相といっしょに1942年以来停止していた原爆開発の再開について話し合ったのである。まさに、トルーマンンの誠意のない、あいまいな原爆告知が、この時点からの核兵器開発競争の引き金になったといえよう。

 こうした7月24日の一連のトルーマンの行動は、いったい何を意味しているのであろう。それは対日戦の終結を、ソ連の参戦によって実現するのでもなく、またポツダム宣言によって実現するのでもなく、まさにアメリカの原爆投下によって実現しようという考えであった。その根本には、ソ連の参戦前に日本が降伏すれば、ソ連の参戦の条件であるヤルタ秘密協定自体が空文化できる。それによって、アメリカの国益は守られるし、同時にヤルタ秘密協定の公開によってうまれるであろう、国内世論の批判から自分たちの身を守ることもできる。さらに重要なことに、実践使用することで原爆の威力は誰の目にもあきらかになろう。こうしたさまざまな目論見があったのだろう。

 8月6日、最初の原爆が広島に投下された。しかし、トルーマンたちの予測に反して日本は降伏しなかった。逆にこの原爆投下が引き金となって、ソ連は8月9日の未明、それまでの8月15日という予定を繰り上げて対日戦に参加してきた。日本の降伏については、ソ連参戦の衝撃を抜きにしては8月9日の終戦劇はありえなかった」と言われている。トルーマンたちの思惑、ソ連の参戦前に原爆の投下によって対日戦を終結するということは、みごとに裏切られたのである。


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