また、スミソニアンの国立航空宇宙博物館が、原爆被害やその歴史的背景も含めてエノラ・ゲイの展示を企画した時、それを強く批判し非難した人たちは、広島と長崎の爆弾投下は「道義的に非の打ちどころがない出来事のひとつ」だと主張したり、「第2次世界大戦におけるエノラ・ゲイの役割は、第2次世界大戦に慈悲深い終結をもたらす助けをした点できわめて重要だった。それは日米両国の人命を救う結果となった」などと主張したことが広く知られている。そして、そうした考えに基づく組織や団体の強い抗議によって、展示は原爆被害や歴史的背景を省くこととなり、規模が大幅に縮小されたのである。
しかし、多くの日米の歴史家や原爆の研究者が明らかにしている原爆投下に関わる歴史的事実からは、そうした認識は生まれようがない。鳥居民氏が、その著書(草思社文庫)の題名で表現したように「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」というのが実態であり、まさに、アメリカのモラル・ハザードが問われる対応であった。
ここでは、「黙殺 ポツダム宣言の真実と日本の運命」仲晃(日本放送出版協会・NHK-BOOKS-891)の中から、アメリカが効果的に原爆を投下しようと、ポツダム宣言をさまざまな形で利用した事実を明らかにしている部分を抜粋した。
ポツダム宣言は、発表の時期も、発表の内容も、発表の仕方も、「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」というような意図を持って決定されていったと考えられるのである。
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第4章 ポツダムの暑い夏
ポツダムでの”ねじれ現象”
これで分かるように、ポツダムで終戦前夜に起きた2つの出来事、すなわち、ポツダム首脳会談の開催と、ポツダム宣言の発表には、複雑でこの上なく入り組んだ当時の国際情勢がつきまとっている。まるで現代史のクイズの集大成のような感さえある。「ポツダム会談」と「ポツダム宣言」をめぐる問題点を、若い読者のために数え上げることから話を始めよう。
(イ)ポツダム首脳会談とポツダム宣言参加国は別々である。
(ロ)ポツダム首脳会談では、「日本」は正式議題としてとして討議されることはなか
った。
(ハ)ソ連の対日参戦の意向は、三国首脳会談の席上ではなく、米ソ首脳間の非
公式会談で、アメリカ側に通告され、トルーマン大統領を当初大いに喜ばせ
た。
(ニ)ポツダムでは、2つの「ポツダム宣言」が発表された。
(ホ)日本に対する米、英、中国の「ポツダム宣言」には、三首脳揃っての正式署名
がない。
(ヘ)アメリカは当初、ソ連を「ポツダム宣言」の原参加国に加える構想を持ってい
たが、原爆実験の成功を見て、最後の瞬間にソ連を はずし、中国を繰り
入れた。
・・・
第1の「ポツダム宣言(The Potsdam Declaration)」は、敗戦ドイツの分割占領を含む戦後欧州のあり方を米、英、ソ連で協議した内容を明らかにしたもので、首脳会談が終了した8月2日未明に三国首脳の連盟で発表された。
第2の「ポツダム宣言(The Potsdam Proclamation By The Heads of Government、United States、China、and the United Kingdom)」は、日本に無条件降伏を要求する最後通告で、アメリカのトルーマン大統領によって7月26日に発表された。
これで分かるように、ポツダム首脳会談の途中と、その終了にそれぞれ「ポツダム宣言」が発表されており、参加国は入れ替わっている。最初の「Potsdam Declaration」に使われた「declaration」は、1689年の英国の「権利の宣言」、1976年「アメリカ独立宣言」などに使われているように、「宣言」と伝統的に訳されてきた。
一方日本向けに出された最後通告、「Potsdam Proclamation」の「proclamation」は、「宣戦布告」などに使われる「布告」とか、「公告」の意味で使用されることが多い。ただし、日本では戦後、こちらのほうが人口に膾炙しているため、後者を「ポツダム宣言」と呼び、首脳会談のまとめの宣言は、「ポツダム協定」の名で呼んで区別するのが現在では一般的になっている。
原爆に”連動”したポツダム会談
ポツダム首脳会談の開催期日を事実上決めたのは、トルーマンン米大統領である。だが、それだけではなかった。開幕と閉幕のタイミングには、深く秘められた2つの思惑があった。会談開幕のタイミングが、当時間近に迫っていた史上初のアメリカの原爆実験と緊密に連動していたことが一つ、この会談の閉幕が、トルーマンンの胸中では、日本政府による無条件降伏受諾の最終期限、とひそかに設定されていたことがもう一つである。後者はそのまま、日本への原爆投下の解禁期限となった。
”宣伝文書”扱いのポツダム宣言
ポツダム宣言の政治、外交、軍事的意義について、詳しく検証していく前に、これまで見過ごされてきたいくつかの問題点に触れておこう。
その第1は、トルーマン大統領の回想にも表れているように、アメリカ政府がポツダム宣言を、日本政府に降伏を要求する正式の外交文書とは当時見なしていなかった、ということである。
参加する各国首脳立ち会いのもとに国際社会に発表する従来の慣例とは違い、トルーマン大統領は、首脳会談の会場のツェツィリエンホーフ宮ではなく、アメリカ政府代表団の宿舎で、他の2カ国の代表を交えずに報道陣に宣言文を発表した。宣言文のコピーは、アメリカでの記者発表の慣行として、その2時間も前に配布されていた。米政府代表団は、留守を預かる本国のホワイトハウス事務局に、宣言のテキストを至急送って、国内報道機関に対する宣言の配布を指示することはせず、事前に宣言発表の連絡すらしなかった。
代表団がポツダム宣言の全文を送った本国での相手は、第2次大戦の広報と宣伝を担当する米政府の「戦時情報局(OWI)」であった。大統領はそのさい、あらゆる方法によって、この宣言を日本国民に周知徹底させるようOWIに命じた。アメリカ国民への報告よりも、日本への宣伝攻勢が優先したわけである。
なお、日本国に即時の無条件降伏を呼びかけながら、日本政府には、中立国を通じるなどして、宣言の文書を送達する手続きが一切とられなかった。
・・・
面食らったホワイトハウス留守部隊
そのエアーズ大統領副報道官が、ポツダム会談をめぐるホワイトハウス(バーベルスベルクとワシントン)の動きを記録したものを邦訳から紹介しよう。なお、日記はこの期間は毎日ではなく、一週間まとめて書かれている。括弧内は引用者の注である。
7月22日、日曜日 ー 28日、土曜日
(前略)ポツダム会談で、行き当たりばったりのニュース発表のやり方を象徴する出来事が起こった。トルーマンとチャーチル両首脳は、日本に対する共同発表または最後通牒について合意したようだった。しかし私は、その件について事前通告を受けていなかった。不意をつくように、ホワイトハウスのマップルーム(作戦会議室)に、この共同発表の本文とともにメッセージが届いた……。ホワイトハウスあてでも私(エアーズ)あてでもなかったが、「大統領よりOWIあて」と書いてあった。そして、発表文を公表するように、との指示があった。OWIは指示を受け、不意打ちをくらって、どうしたらいいか、わからないようだった……。
一方、ロス(大統領報道官)が、ベルリンで発表を行い、短い雑報が通信社電で流れると、それを(イギリス)BBC放送が取り上げ、それがアメリカの夕刊に掲載された。
私はロスにメッセージを送り、状況確認を試みた。その結果、大統領からのメッセージ(注、ポツダム宣言)は、もともと国内発表向けではなく、ただちに対日放送用に準備すべくOWIに送られたもので、ベルリンの(各国)マスコミに流す以外、国内発表など考えていなかったことが判明した。
記者たちは、何が起こったのか興味津々で、OWIがホワイトハウスの代行をしているなどと冗談をいうものもいた。(後略)
トルーマンンはポツダム宣言の発表を、留守部隊とはいえ、ホワイトハウスへ事前に連絡する労さえとらず、エアーズ副報道官を面食らわせたことが、日記からあざやかに浮かび上がる。この宣言の狙いは、まず日本への宣伝攻勢であり、ホワイトハウスでも国務省でもなく、一介の戦時情報局がポツダム宣言を担当する”主管官庁”とされた。ポツダムに特派員を送る資力のないアメリカの中小新聞は、「ベルリン発の英BBC放送によれば」という、いくらか気恥ずかしい書き出しで自国大統領によるポツダム宣言発表の第一報を、7月27日の夕刊に掲載するほかなかった。
”宣伝文書”になったポツダム宣言
・・・
こうした背景の中で新大統領は、敗戦前夜にある日本国民に対するポツダム宣言の政治的。軍事的、さらには外交的効果を盤石なものにすることによって、太平洋戦争のよりすみやかな終結を手繰り寄せたかも知れない貴重な切り札を、次々と放棄していった。このため、せっかくの宣言の意味が大幅に薄められ、外交宣伝文書に近いものにまで後退してしまう。
雑誌『ルック』や『コリアーズ』(いずれも現在は廃刊)の編集長をつとめたジャーナリストのロバート・モスキンは、1996年に出版した『トルーマンン氏の戦争』の中でこう指摘している。
「日本に圧力をかけて、戦争をやめさせるのにきわめて重要なこの2つの情報(日本への原爆使用とソ連の参戦)を、ポツダム宣言が活用しなかったのは、とりわけ奇妙である。
というのも、トルーマンンはそれまで、ソ連の対日参戦が再確認され、原爆実験の成否が判明するまではポツダム宣言の発表を先延ばしにすると言い続けてきたからだ。トルーマンンとバーンズは、日本に無条件降伏を要求し続けてきたが、日本での(戦争継続派の)抵抗を無力化するこれらの非常に重要な材料を利用しなかった。ポツダム宣言は、アメリカ大統領が、無条件降伏以外は受けつけないのか、天皇の地位の維持という問題を(降伏)条件からはずすつもりがあるのかどうか、について日本国民に何の手がかりも与えなかったのである」
モスキンだけではない。歴史家レオン・シーガルは、戦後間もない1948年に出版された『決着をつけるための戦争──日米戦争の終結をめぐる政治』の中で、やはりこの点に注目して、次のように鋭く批判する。
「日本が直面するはずの最も恐るべき脅威をポツダム宣言から省略することで …… バーンズ国務長官は、この最後通告(ポツダム宣言)から導火線を取り外してしまった……。バーンズがそうした行動をとったことで、宣言はほとんど新味のないものになってしまう。それは日本に対する和解のジェスチャーでもなければ、最後通告でもなく、単なる宣伝に堕したのである」
現在の時点から振り返ってみると、ポツダム宣言は次のような4つの点で重要この上ない問題──欠陥といってもよい──をはらんでいた。トルーマンン大統領を頂点とする当時のアメリカ政府首脳部が、これらの問題について、多分に感情的な要素に支配されていた当時のアメリカ世論に完全に身を任せることなく、戦争の早期終結と、戦後世界の再建を最優先課題に、思い切った指導力を発揮していたら、ポツダム宣言はもっと合理的で現実的な内容となり、その結果、終戦の期日が早まることで、当時の日本を襲った悲劇のいくつかは、起きずにすんだかも知れないのである。
(1)「無条件降伏要求」へのこだわり。日本の敗北が誰の目にも明白になったとき
に、トルーマンン大統領は終戦を最優先にする方策をとらず、真珠湾攻撃な
どへの報復にこだわり、あくまでも日本に”無条件”降伏を要求し続けて、結
果的に戦争を長引かせた。
(2)敗戦必至の日本が唯一求めた天皇制の存続という要望を、米政府最高首脳
部が、最後のギリギリまで無視し続けたこと。すぐれた暗号解読技術によって
日本の外交電報をほぼ完全に傍受し、日本が天皇制の維持継続という”象
徴的”な条件だけで降伏に傾いているのを知りながら、ポツダム宣言で柔軟
な対応をするのを避け、早期終戦の可能性を逃した。
(3)ソ連の対日参戦と、これと有機的に結びついたソ連のポツダム宣言参加という
基本方針を、アメリカが土壇場で放棄したこと。日本の陸軍など戦争継続派
も、ソ連の参戦をきわめて警戒しており、ポツダム宣言に最初からソ連の名を
連ねておれば、降伏が早まった可能性が少なくなかった。
(4)原爆投下に先立って、示威のためのデモンストレーションを行い、日本の降伏
を待つといった”分別ある考慮”を払わなかったこと。もしこうしたやり方が非
現実的というのなら、ポツダム宣言に、人類史上初めてという恐るべき新型兵
器の保有と、日本への実戦使用の意図を明白な表現で警告することもできた
はずであった。
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