真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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京大問題(滝川事件)、美濃部達吉の論評

2021年11月30日 | 国際・政治

 下記は、帝国大学新聞に二回にわたって掲載された、京大問題(滝川事件)に関する美濃部達吉の論評です。当時の文部省が、滝川教授の著書や講演内容に問題があるとして休職処分を強行したことを、丁寧にわかりやすく批判しています。文部省による滝川教授の休職処分が、くり返してはならない、不当な権力行使であったことがよくわかります。
 また垣藤恭は、京大法学部教授会の一人として、”・・・この回答において、文部当局は「学問の自由」に関する無理解をあらはにし、徒らにき弁を弄してゐるに過ぎず、しかも五月二十六日の滝川教授休職処分にいたるまで、何ら反省する所なく、自己の主張を押し通そうとした。かやうにして多年尊重され来つた大学の自治が破壊された以上、法学部全教授はその地位に留まつて職責を果たすことは到底不可能であるとの判断に到達し、辞表を呈出すると共にその理由を社会に向つて声明したのであつた。”と書いています。
 自由主義者として知られる河合栄治郎は、”・・・京大法学部教授会の態度を正当だと思ふ。これは一京大法学部の問題でもなければ、一帝国大学の問題でもない。正に帝国大学全体の問題であり、更に全大学教育界の問題でもある。梧桐一葉落ちて天下の秋を知る、時漸く艱にして、学徒の地位は重責を加へて来た。”と書いています。
 多くの学者が京大問題(滝川事件)に危機感を募らせ、同様の批判を展開したようですが、時の文部当局は聞く耳を持ちませんでした。
 戦前の日本は、そうした権力行使によって、逆らう人たちを抑え込み排除しながら、悲惨な戦争へ突き進んだのだと思います。
 にもかかわらず、自由主義史観研究会の藤岡信勝教授は、「教科書が教えない歴史 明治~昭和初期、日本の偉業」藤岡信勝/自由主義研究会(産経新聞社)に、”現在、わが国の歴史教科書は、明治から昭和初期までの日本のことを「とてつもなく悪い国だ」と教えます。自国の歴史を呪い、誇りを持たない日本人が、国際社会で尊敬されるはずがありません。”などと書いています。曲解と言わざるを得ないと思います。
 歴史に学び、自国の過ちをしっかり受けとめて再出発し、世界に誇れる平和国家として信頼を得ようとすることが、そんなにいけないことでしょうか。過去を誇るために、過去の過ちに目をつぶり、いつまでも近隣諸国の信頼さえ得ることができないことのほうが問題なのではないでしょうか。近隣諸国の信頼を得られない日本が、国際社会で尊敬されるわけはないと、私は思います。

 先だって、政策提言を行う国の特別機関「日本学術会議」が、新会員として内閣府に推薦した法学者や歴史学者ら六人について、菅義偉前首相がその任命を拒否したことが報道され、問題になりました。法を無視して、政府に批判的な学者を排除するやり方は、京大問題(滝川事件)における滝川教授の休職処分と同質だと思います。政権中枢が、戦前・戦中の指導層の考え方を受け継いでいるために、藤岡信勝教授同様、歴史に学ぶことがないのではないかと、私は思います。

 下記は、「現代史資料 (42) 思想統制」(みすず書房)から抜萃しました。
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               二十九 滝川教授の問題(美濃部達吉 1933.5)

   滝川教授の問題
                                      教授 美 濃 部 達 吉

 大学は政府の政策を実行するために設けられた政府の属僚の集まりではなく、大学令第一条に明言せられて居る通り、専門の学術を攻究し及教授することを本分とするものであるから、この攻究及び教授の任に当つて居る大学教授は、学術上の事項に関する限り、時の政府の政策によつて拘束せらるることなく、専ら学問的の良心に従つて攻究し教授し又自ら真理と信ずる所を発表し得る自由を有しなければならぬもので、これが大学のもつとも大切な本質上の要素であり、又国家が莫大な経費を払つて大学を設立して居る目的の存する所である。もし大学の教授が時の政府の鼻息をうかゞひ、その指導に従つて、政府の政策の実行に便宜なやうな意見をのみ教授し発表する機関たるに止まつたならば、学問の進歩は閉ざされて、大学設立の目的は失はれ、大学を設立した国家の本旨に反すること甚だしいものとならねばならぬ。
    ◇
 もちろん、大学教授の学問の自由といつても、それは必ずしも絶対の自由ではあり得ない。官立大学の教授は同時に官吏たる身分を有するものであるから、当然に官吏服務規律の拘束を受くるものであるのみならず、学生を教授して将来国家に役立つべき人物を養成する大任に当つて居るものであるから、大学令第一条にも示されて居る通り、人格の陶冶及び国家思想の涵養に留意すべき義務を負うて居るもので、もし大学教授にしてこれ等の義務と相容れない思想を抱き、これを教授し発表するやうなことが有れば、それは大学教授の地位とは相両立し得ないものといはねばならぬ。随つてもし大学教授が国家を否定したり又は皇室に対する忠誠を失ふやうな信念を抱いて居るとすれば、大学教授としての地位を保持せしむることは不可能となる。この場合においては政府がその辞職を求めもしこれに応じない場合には、政府の権力を以ても強制的に罷免の手続きを取ることもまたやむを得ない。この点において大学教授の学問の自由は、当然の限界を有するものである。
    ◇
 京都大学の事件についても、問題は果たして同教授が官吏として及び大学教授としての義務と両立し得ないような思想の抱持者であり、又果たして真に斯かる不穏な思想を教授し発表したのであるや否やにある。もし果してさうであるとすれば、その退職を求めることも又やむを得ないことであり、これを単純な学問の自由といふことによつて排斥することは是認し得られないと思ふ。
 しかし根本的の問題については、これまで文部省その他諸種の方面から発表せらて居る意見には、全く首肯するに足るべきものを見ない。問題をひき起こした原因となつたのは、発売禁止となつた同教授の著「刑法読本」にあるといふことであつて、私は同書を一読したことも無いから、こゝに確実な断定を下すことは不可能であるが、文部省その他で問題とせられて居るのは、主として姦通罪及内乱罪に関する二点にあるやうである。姦通罪については、わが現行刑法の如く、夫の姦通罪は全く適法行為として看過し、妻の姦通罪についてのみこれを刑罰に処することが、果たして公正な法であるや否や可成り疑はしい問題であつて、これについて議論することは刑法学者としての当然の態度と見るべきであるし、内乱罪についても、内乱罪は普通の刑事犯とは大に趣を異にし、戦争に類似の性質を有するものであるから、刑法学者としてこの点を論ずるのも、敢て非難の理由あるものとは思はれない。これは唯私が新聞紙などに見えて居る所から推測した所過ぎないもので、固よりこれだけで、同教授の思想が果して大学教授の地位と両立し得ないものであるや否やを判断する不可能であるが、少なくともこれまで新聞紙に見えて居るやうな点を以ては同教授が日本の国家及国体に反するやうな思想を抱持せられて居るものとは何としても思考しえられない。
    ◇
 聞く所によると、京都大学の法学部の教授会では、一致して滝川教授の退職を理由なきものとして反対して居るといふことである。これは明らかに同教授会の一致の意見として、滝川教授の思想が官吏として及ビ大学教授としての義務と相両立し得るものと認めた事を表明して居るものである。学問上の意見と判断について文部省と大学教授会とが説を異にした場合においては、文部省としては、宜しく教授会の意見を尊重して、自ら反省熟慮する必要が有る。由来学問上の意見の発表に関して、学問に理解の無い者が批評する場合には、飛んでもない見当違ひの判断を下すことが甚だ多いことは、我々学問に従事して居る者の誰もが常に経験して居る所で斯ういふ俗衆の批判に惑はされて、軽々しく学問上の意見に対し、危険思想とか不穏思想とかいふ断定を下し大学教授の進退を左右するやうなことが有れば、それは文部省が自ら学問の進歩をと絶し、大学の本分を破壊するもので、文部省がさういふ判断を下す前には、単に俗衆の批判に惑はさるゝことなく、充分に学者の意見をも徴して、同教授の思想が果して真に国家国体に危険であるや否やを、慎重に判断する必要が有る。私は密に文部省の態度が余りに軽率であることの非難なきやを恐るゝものである。
    ◇
 最後に、新聞紙によると、滝川教授が辞表の提出に応ぜず、又総長もその罷免に同意しない場合には、文部省としては、総長の不同意に拘らず、強圧的に休職処分に出ることに決意して居るといふことであるが、私は法律上の問題として、さういふことが果たしてなし得られるや否や疑ふものである。京都帝国大学官制第二条には「総長ハ高等官ノ進退ニ関シテハ文部大臣ニ具状シ」うんぬんとあつて、
高等官の進退を具状する権限を総長に与へて居る。これは警視庁官制や地方官官制、総督又は知事が「奏任官ノ功過ハ内務大臣ニ具状シ」とあるのと明かに規定の仕方を異にして居るもので、単に「功過」ばかりでなく、高等官の「進退」についての発議の権を総長に与へて居るものと認めねばならぬ。それは大学が単に政府の政策を実行するための機関ではないことから生ずる当然の結果で、もし総長の具状を待たず、文部省の権力によつてその進退を決行することが有れば、それは官制をじうりんするものなるの結果を免れない。これは先年東京帝国大学のいはゆる戸水事件の際にも実際に問題となつた所で、当時政府は遂に大学の意見に同意するに至つたのである。それであるから、官制の上からいつて、文部省においてもし或る教授に休職を命じようとするならば、まづ総長にその具状を求めねばならぬもので、もし総長がその命に応じないならば、第一には総長自身に対し免官又は休職の処分をなし、文部省の命令を遵奉するやうな御用総長を新任し、然る後にその具状を待つて始めて教授に対する休職処分をなし得るものである。文部省がもしこの点につき官制の規定をじうりんするやうなことが有れば、それは二重に軽率の非難を免れないものである。
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              三十二 〔再び〕京都大学の問題(美濃部達吉 1933.6)

〔再び〕京都大学の問題
                                       教授 美 濃 部 達 吉            
 京都大学の件は、益紛糾して、千数百人の学生が既に久しく学業を休止し、いつ就学し得べきかの見込みもつかぬ状態にある。事のこゝに至つたのは、一つには滝川教授の論述が往々文字の穏健を欠き、読者の誤解を招くおそれの有ることも、その一原因をなして居ることを認めねばならず、大学当局の態度にも必ずしも賛成し難いものが無いではないが、然しその主たる原因は文部省態度が当を得なかつたことにあるものと断定せねばならぬ。この点についての卑見は既に一たび本紙に掲載したが、更に二の点についてのみ重ねて明白にして置きたいと思ふ。
    ◇
 第一の点は、今回の問題は専ら滝川教授の学問上の意見が反国家的であるや否やに関するもので、しかも法学部教授会が一致してその然らざることを保障して居るに拘わらず、尚行政事務の監督者としての文部省が、之を反国家的のものとして断定したことが、果たして当を得た処置であるや否やの点である。
 誤解を防ぐ為に予め一言して置きたいことは、私は必ずしも大学教授の罷免に付いて如何なる場合にも絶対教授会の同意を要することを主張するものではないことである。若教授の人格又は素行において教授の地位と相容れないものが有り、又は教授に刑罰若くは懲戒に相当するやうな行為の有つた場合であれば、それは事行政上の監督者の判断に属すべき事柄で仮令教授会において承認しないとしても、監督の任にある総長の意見によりその罷免を上申し、又は文部省から総長に命じて、これを上申せしむることは、敢て非難すべき理由の無いことと思ふ。
 然し今回の問題は全くこれ等の点にあるのではなく、一に滝川教授の学説がその原因をなして居るのである。学問上の意見についてそれが反国家的であるや否やを断定する為には、断定者自身が相当の学問上の理解を有することを必要とする。学問上の理解を欠いて居る者が、断片的に他人の論者を一見して、それが国家に危険であるや否やを断定するが如きは、それ自身すこぶる危険な事で、それこそ国家を誤ること甚だしきものといはねばならぬ。法律が夫の姦通を許容しながら妻の姦通を犯罪として居るのを不当とし、姦通罪の廃止を主張したのをもつて、姦通の自由を奨揚するものであると解したり、女子に経済上の独立が欠けて居ることが、男尊女卑の生ずる原因で、経済力のある所権力がこれに伴ふことを説明して居るのをもつて家族間の階級闘争を主張するものと解するが如きは総てかくの如き無理解から生ずるのである。もしかういう態度を以て他人の学説を批評し判断するならば例へば「孟子」には「民ヲ貴シト為ス人社稗(シャショク)之ニ次グ君ヲ軽シト為ス」とあるから、孟子は国体に反するもので、是非発売を禁止せねばならぬといつたり、甚だしきは日本書紀に見えて居る仁徳天皇の聖詔の中に「其レ天ノ君ヲ立つルハ是レ百姓ノ為ナリ然レバ則チ君ハ百姓ヲ以テ本ト為ス」とあるのをすらも、恐れ多くも兎角の論をなすものを生ずるであらう。
    ◇
今回の問題をひき起こした滝川教授の学説については、私自身その全部を熟読して居るものではないので、十分の判断の根拠を欠いて居るものであるが、然し本月八日の各新聞紙に発表せられた文部当局者の談話をよつて見ると、如何にそれが無理解に基いて居るかを、容易に推測することが出来ると思ふ。
 然しそれが無理解であるや否やは暫く差おき、仮りに誤解の無いものとしても、問題はかういう学問上の意見の批評及判断につき教授会及大学総長が一致してその反国家的ならざることを承認して居るにも拘らず、文部省においてこれを反国家的のものと断定することが、法律上から観て、果たして文部省の正当な権限に属するものといひ得べきや否やに在る。
 私はそれが大学令の明文にではないにしても、少なくともその精神に反するものであることを疑わない。大学は決して国民教育の機関ではなく、大学令第一条に明言して居る如く、「学術ノ理論及応用ヲ教授シ竝其ノ蘊奥(ウンオウ)ヲ攻究スルヲ以テ目的」とするものである。文部大臣は固より教育行政の主導者であるが、決して学術の理論及応用を指導する権限あるものではない。文部省官制第一条には「文部大臣ハ教育、学芸及宗教ニ関スル事務ヲ管理ス」とあつて、文部大臣の権限に属するものは、専ら事務の管理である。もちろん事務の管理といふ中には大学教授の身上に対する監督を含んで居るけれども「学術ノ理論及応用ヲ教授シ竝其ノ蘊奥(ウンオウ)ヲ攻究スル」ことは、大学令が大学に与へて居る大学の独立の任務であつて、文部大臣の指揮監督し得る事柄ではない。もし大学にして文部大臣の命令に従つて御用学説のみ教授し攻究するに止まるものとなつたならばそれは明白に大学の本分をはう棄したものとなる。それであるから、大学教授の学問上の意見が大学の本分に反するものであるや否やは、大学自身の自ら判断すべき事柄であつて、文部大臣の権限に属するものではない。それは大学の独立の任務としての学術の教授及び攻究の範囲に属するもので純然たる学問上の問題であり、文部大臣の任務としての「事務の管理」の問題ではない。「学術」と「事務」とを分立せしめて、事務は文部省の管理に属せしむが、学術は大学の独立して判断する所に任ずものとすることが、大学令の本質の存する所である。
 しかるに今回の問題は、「学術」の問題に関して、大学総長及び教授会の一致の判断を無視して「事務」の管理者たる文部省が、自分の独断的な判断を推し通したのであつて、私が文部省の態度を不当であると信ずるのは、こゝにその第一の理由がある。
     ◇
 第二の点は、大学総長からの具申に基かないで、滝川教授を休職に処したことが、法律上ゆるされ得ることであるや否やの点である。
 これは前稿においても既に一言した所であるが、私はそれが法律上許されない所であることを信じて疑わない。大学総長は官制によつて大学一般の事務を管理する検眼を与へられて居るもので、文部大臣は唯その監督の権限を有するに止まる。文部大臣が直接に大学の事務を管理する権限が有るのではなく、その監督下に、大学の一切の事務が総長に任されて居るのである。文部大臣は固よりその監督者として総長に命令することは出来るけれども、もし総長がその命令に従はないならば、まづ総長を休職に処し、又は免官する手続を取らねばならぬのであつて、総長を差置いて自ら直接に大学の事務を管理することは許されない。それは明らかに官制をじうりんするものである。
 官制には前稿にも述べた如く「総長ハ高等官ノ進退ニ関シテハ文部大臣ニ具状シ判任官ニ関シテハ之ヲ専行ス」とある。もし大学の判任官について総長を差おき、文部大臣が直接にこれを任免したとすれば、それが官制に違反するものであることは、何人も疑はないであらう。高等官の進退を具状することも、これと同様であつて、それは官制が総長にのみ認めて居る権限である。それは何故かといへば、大学の高等官の進退は、大学の事務の中でもつとも主要なもので、大学の一切の事務について管理の権限を有する総長が、その発議の権限を有することは、当然でなければならぬからである。官制の文字の上には、総長の具状に基かずして高等官を任免することを得ずといふ明文は見えて居らぬけれども、これは総長が大学の事務管理者であることからする当然自明の事理であつて、もし総長の具状によらずして、文部大臣が自ら大学教授を罷免する手続を取るならば、それは文部大臣が直接に大学の事務を管理することであり、総長の権限を不法に侵害するものである。官制によつて定められて居る権限の分配は、監督官庁といへどもこれを犯すことを得ないもので、監督者は唯被監督者に命令することが出来るに止まり、被監督者の権限に属する事柄を自ら代わつてなし得べきものではない、殊に滝川教授の休職処分に至つては「官庁事務ノ都合ニヨリ」といふ理由を以つて休職に処せられたのであり、然してこの場合いわゆる「官庁事務」とは即ち大学の事務を意味することはいふまでもない。大学の事務の都合に因つて休職を命ずるのに、大学の事務を管理する総長の意思に反して之をなすことが、総長の権限を不法に侵害するものでなくして何であらう。それは明白なる総長不信任でありかくの如き総長に大学の事務を任せて置かれぬことの表白である。しかもまづ総長を罷免することをなさなかつたのみならず、その辞職をも聴許せずして却て善後の処置に努力せしむるが如きは、たゞに違法であるばかりでなく、全く不可解である。

 

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京大問題(滝川事件)に関する全学部学生代表者会議の訴えと日本国憲法押しつけ論

2021年11月26日 | 国際・政治

 「教科書が教えない歴史 明治~昭和初期、日本の偉業」藤岡信勝/自由主義研究会(産経新聞社)から、いくつか気になる文章を取り上げ、私なりの考えを書いてきました。いろいろな執筆者が、受け入れ難い捉え方で、日本国憲法を貶めるような文章を書いていたからです。
 同書には、逆に明治憲法(大日本帝国憲法)を美化したり、高く評価したりする文章が掲載されています。そのテーマで、執筆者のおよその意図は察せられるのではないかと思います。いくつか上げると「大きな相違点がなかった政府と民権派」、「西洋の模倣ばかりはしなかった」、「古典に当り草案を練った井上毅」<政治的責任を負わないための「天皇は神聖不可侵」>「西欧諸国で高く評価された独自性」「行政権以外大きな差異はない新旧憲法」・・・
 私はこうしたテーマで文章を書いている人たちは、「日本を取り戻す」とくり返し、その内容について、”戦後の歴史から、日本という国を日本国民の手に取り戻す戦い”だというような説明をした安倍元首相と思いを共有しているのだろうと思います。
 でも、私はこういう考え方は、一般国民の考え方ではなく、戦前・戦中の軍人や政治家など、上部指導層の考え方であり、また、それを受け継ぐ一部の人たちの考え方だと思います。

 下記は、京大問題(滝川事件)に関する京大全学部学生代表者会議の訴えですが、これを読めば、滝川教授の休職処分をめぐって、京大法学部は、教授、助教授、講師、助手、副手の全員三十九名の辞表を総長に提出して抗議したことがわかります。また、京大法学部の学生は教授会を支持し、全員が退学届けを提出するなど処分に抗議する運動を起こし、さらに、他学部の学生もこれに続いたことがわかります。

 そうした抗議にかかわらず、文部省は滝川教授に対する非難の理由を、下記のように二転三転させながら、1933年5月、とうとう鳩山一郎文相が小西京大総長に滝川教授の罷免を要求するに至ります。でも、京大法学部教授会の断乎とした抗議に、小西総長は文相の要求を拒絶したのです。でも、文部省はそれを受け入れず、文官高等分限委員会に休職に付する件を諮問し、その決定に基づいて、文官分限令により滝川教授の休職処分を強行したのです。

 当時、大日本帝国憲法(明治憲法)は「言論著作印行集会及結社ノ自由」を保障していましたが、それは、「法律ノ範囲内ニ於テ」でした。そのため表現の自由やその他の自由には、法律によっていろいろな制約が加えられていました。例を挙げれば、出版法(1893年)、新聞紙法(1909年)、治安維持法(1925年)などです。そんな時代に、職を賭して、また京大の学生としての立場を賭けて、文部省の不当な処分に抗議したのです。
 そういう思い切った行動は、支える人や支持する人たちがまわりにいなければ難しい行動だっただろうと思います。でも、明治時代の自由民権運動や大正デモクラシーの流れを受けて、現在と何ら変わらない民主的な考え方をする人たちがまわりにいて、抗議の行動に立ち上がった人たちを支え、支持したのです。

 京大法学部教授会や京大全学部学生代表者会議を支持し、東京帝大など他大学の学生も立ち上がったといいます。7月には16大学が参加して「大学自由擁護連盟」を結成しているのです。さらには文化人も「学芸自由同盟」を結成して支持の声を挙げたといいます。雑誌社や新聞社も、京大法学部教授会や京大全学部学生代表者会議を支持し、文部省を批判する論説を多く掲載したといいます。

 1933年といえば、2月の国際連盟総会で、リットン調査団報告書を基礎に作成された「支日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」の採択が付議され、同意確認の結果、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ)の結果となり、それを不服として、日本政府が国際連盟を脱退した年です。

 だから、日本の軍国主義に基づく戦線拡大の時代にも、民主的な日本社会を求める国民が少なからず存在したが故に、GHQの憲法草案や民主化政策は、スムーズに受け入れられ、日本に定着することになったのだと思います。日本国憲法押しつけ論や日本を取り戻すという考え方は、一般国民のものではなく、戦前・戦中の軍人や政治家など、上部指導層の考え方であり、また、それを受け継ぐ人たちの考え方だと思うのです。  

 下記は、「現代史資料 思想統制」(みすず書房)から「二十六  京大問題の真相」の一部を抜萃しました。
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             二十六  京大問題の真相

       京大全学部学生代表者会議編 京大問題の真相 政経書院版 

       はしがき
 目まぐるしい世相の変遷をよそに、永遠の平和を約束されてゐたかの如く見えた我が京大学園に、突如、文部当局に依って投ぜられた滝川教授休職処分の一石は、はしなくも波紋に波紋を生み、学園の自治、研究の自由擁護の旗の下に、法学部教授以下の総辞職、法学部学生の対文部当局決死的抗争、経済学部学生の受講辞退、続いて全学七千の学生の奮起となり、日増しに昂まり行く興奮の中に、今や京大学園は挙げて奔流の中に巻き込まれた。
 更に問題は学外にも波及し、全国各地の学園之に和して立ち、先輩団又母校の危機、一国文化の浮沈坐視するに忍びずとて日夜之が対策に腐心しつゝあり、茲に問題は一大社会問題となった。文部当局又事件の意外に重大化せるに驚き、之が収拾に全力を注いでゐる状態である。
 我々学生は事件の発生以来、真理探究の熱意に動かされ、終始一貫、純真且つ慎重に、正しいと信ずる道を歩んで来た。然るに不幸にして、文部当局は我々の正々堂々たる主張に耳を掩ひ口を緘(カン)し、ひたすら強権を以て事を決せんとし、茲に世人の憂慮を煩はす状態に立至ったことは我々として誠に遺憾に思ふ所である。何が文部当局をしてかゝる態度を執らしめたか、それは一に賢明なる読者の御推察に任せる。我々はたゞ学生としての当然の任務を行ってゐるのであって、従って世間を騒がせた責任は我々には断じてないことを公言して憚らない。
 世人の中には我々の今回の行動を以て、或は血気に逸る若者の一時の興奮にもとづく軽挙と誤解したり、或は思慮の熟せぬ青年の左翼右翼の所謂思想的な妄動と考へ違ひして憂慮する人があるかも知れない。然しかゝる誤解や憂慮は、全く問題の真相を知らないことから起るのである。
 我々が今本書を公にする所以は、その真相を明かにし、我々の意の存する所を詳しく説明して、我々の行動が是か、文部当局の態度が非か、敢て公正なる社会一般の御批判を仰ぎたいと思ふからである。
         昭和八年六月
                         京都帝国大学全学部学生代表者会議
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                三  京大問題の発端
 時は昨年十二月に遡る。文部省専門学務局長赤間氏は、当時の京大総長新城博士に対し、「滝川教授が十一月中央大学に於て、復活に現はれたトルストイの刑罰思想なる題でなした講演は内容が危険だと思はれるから総長からよく注意して頂きたい」との話しがあった。
 新城博士は帰洛後、刑法担任の宮本英脩教授に伝へた。茲に於て法学部長は直ちに東上して、文部当局に対しその真意を問合された。その時赤間局長はあれは決して滝川教授をどうしようと考へて居るわけではなく、議会で質問された場合を考慮して、内容を調べたいと思っただけだ、と答へたので、
宮本法学部長も一応京都へ帰って、内容を調査する旨述べて会見は終わった。
 宮本部長は帰洛後直ちに詳細な調査を行はれたが、其の講演はかつて滝川教授が東北帝大や京都帝大で行はれたものと同一であり、極めて理想主義的なもので、事新しく文部当局の心配したやうな点は何処にも発見されなかった。それで宮本部長は直ちに上京して、文部当局に対し、滝川教授の講演内容が決して国家思想を危うくするものでない事を詳細に説明された。この説明によって文部当局も滝川教授の学説が危険でないことを諒解したやうであった。
 所が本年ニ月下旬、総長改選が確定して、新城、小西両博士が一緒に文相を訪問した際に滝川教授のことが話題に上ったが、然し、当時は単に座談に過ぎなかった。後三月中旬宮本部長が学生の就職運動のため上京した時、司法省の某氏より滝川教授は去年中央大学に於ける講演で裁判官を罵倒したと聞くが、かゝる人に高文委員をして貰っては困るからやめて貰へまいかとの話しがあった。部長は正当な理由があればいつでもやめ得るが、そんなことでは滝川教授にやめてもらふわけにはゆかぬと答へた。数週間後更に部長宛てに司法省某氏より個人的に滝川教授に高文委員をやめて貰へまいかと懇請して来た。部長が滝川教授に相談したところ、教授は高文委員なら此の方から望んでまで別にやりたくないとあっさり教授の方からやめられた。その後宮本部長が上京した際、赤間専門学務長から滝川教授に当分公開講演などをやめて欲しいとの話しがあり、部長はその理由を尋ねたが、伊東学生部長に聞いてくれとのことに、学生部長にその真意を正すと、学生部長は今度は刑法読本を問題にし、同書はマルキズムではないが、客観主義が困る、特に内乱罪、姦通罪に関する所説が公序良俗に反すると云った。宮本部長は学生部長の考への誤りであることを指摘し、そんなことで処分するつもりであるならば、京大法学部では大問題を起すであらうと述べた。学生部長は自分ではそれはわからぬから、次官に会って聞いてくれとのことなので、更に粟屋文部次官に会見すると、十年前とは随分世間が変ったからと、意味ありげな一言であった。部長は文部当局が時嘲に阿(オモネ)ることなく、時勢を正しく導いて行くべきであることを強調して会見を終わった。其後四月十五日、小西総長から宮本部長に対して、文部省へ行ったところ文部次官が滝川教授のことで困ってゐるが、どうかと言ってゐたと話された。そこで部長は総長の意見を求めたところ、総長も刑法読本を読んで見たが少しも悪い点はないと考へるとの意見であった。
 四月十九日に至り又もや小西総長が宮本部長を訪ね、赤間局長から二十二日に次官が会ひたいといって来たが、滝川教授の問題であればどうしたらよいかとの話しであった。そこで部長は個人としての資格で「十分慎重に考慮して戴きたい」と述べた。二十二日朝総長は文部次官と会見したが、その時総長は世上伝へられる如く滝川教授の処分を引受けたのではなく、徹頭徹尾之を拒否したのである。文部当局は滝川教授の学説内容は調査済である、何とかしてやめて貰ひたい、客観説とか何とかいふことは問題ではなく、社会的影響が問題であり、教授にやめて貰ふことこそ大学の自治研究の自由のためになるなどと語った。総長は大学教授は決して文部当局の考へてゐるような打算的なものでない旨を答へ、お互いに今一応慎重に考慮しようとして会見を打切った。かくて総長は滝川教授休職処分決定の絶対的要件たる具状を肯ぜざる旨の決意は最初より堅かった。
 越えて五月七日赤間専門学務局長は総長及び岸書記官に早く決定されたい旨を伝へたが、総長は「重大問題なるが故に切に考慮せん」と答へて、帰京後宮本法学に部長に通じた。こゝに於て五月十日法学部教授会が開かれ「文部省の示す理由は不充分であり、その要求には断じて応じ難い」旨の教授会の意思の伝達を総長に乞うた。その後数次教授会と文部省との間に意見の論駁が繰返された。五月十八日総長は「滝川教授の進退につき考慮の結果、本人より辞表を提出するとか、又法学部教授会でこれを決することは遺憾ながら出来ぬ、切に当局の考慮を願ふ」という内容の第三回目の回答を岸書記官をしてなさしめた。文部省は之に対し、「当局としては絶対的に決まった問題だから、大学に於ては尚一応考慮されたい」とのべ、さらに「近く総長が直接に大臣に会ひ返事してほしい」と促した。
 四月二十三日夜小西総長は最後の回答をなすべく東上。二十四日午前十一時文相官邸に於て総長は文相と会見、総長は「研究の自由の立場から滝川教授の休職手続きを上申することは出来ない」旨を繰返し主張した。かくてつひに大学と文部省との交渉は決裂するに至った。よく二十五日、滝川教授
休職問題を諮問する文官高等分限委員会は午後三時より首相官邸で開かれ、全員一致滝川教授を休職する政府案に賛成した。二十六日、斎藤首相は委員会の答申を閣議に附議し、更に上奏裁可を仰ぎ、即日左の如く発令した。
                             京都帝国大学  滝 川 幸 辰
  文官分限令第十一条第一項第四号により休職被仰付

 右の公電着と同時に、宮本法学部長は法学部教授、助教授、講師、助手、副手の全員三十九名の辞表を総長に提出し、一同学生大会にのぞんで、全教授、助教授、講師助手副手は形骸の学府に留るを潔とせずとの声明を発表し、遂に学園を去った。かくて京大対文部当局の抗争は漸く白熱化した。

 

 

 

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自由主義史観研究会の人たちの憲法論

2021年11月22日 | 国際・政治

 「教科書が教えない歴史 明治~昭和初期、日本の偉業」藤岡信勝/自由主義研究会(産経新聞社)の「日本国憲法」に関わる文章の最後は、藤岡信勝教授自身が、「奇妙な文章の九条二項」と題して書いています。下記の文章です。
 私には、自由主義史観研究会の憲法論にも、歴史認識同様受け入れ難いものがあるのですが、下記の文章についても、二つの問題点を指摘したいと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                奇妙な文章の九条二項

 この「日本国憲法」シリーズを終えるにあたって、次の二つのことを確認しておきたいと思います。
 その第一は、日本国憲法の成立過程にたとえどのような問題があったろうと、日本人はそのもとで半世紀近い年月を過ごしてきた、という事実の重みです。この憲法のもとで日本人は経済の復興をなしとげ、高度成長を達成し、豊かな社会を築き上げてきたのです。このことは、、それ自体として尊重しなければならないでしょう。
 しかし第二に、だからといって日本国憲法が万全のものだと思い込んだり、その条文に少しでも手を入れることは許されないと考えたり、さらには憲法改正の議論そのものをタブーにしたりするのは、まったく正しいことではありません。
 現在の日本国憲法が、全体としてアメリカ占領軍に押し付けられたという性格を持つことはあきらかです。それにともなう欠陥や悪影響も大きなものがあります。その欠陥に目をつぶっていては、日本人はいつまでも精神的に自立できません。なぜなら、それは、国の最高法規を自分たち自身で検討することができない、ということを意味するからです。
 そこで、そのような検討のための一つの提案をしてみます。それは、いろいろな前提や思い込みを排して、虚心坦懐に日本国憲法を読んでみることです。ここでは、問題が集中している憲法九条についてそれを実行してみます。憲法第九条の第二項はつぎの通りです。
《前項の目的を達するため、陸海空軍其の他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない》
 第一文は、普通の日本語としてすなおに読めば、どう考えても軍備をもつことを禁じています。
 現行の教育課程では小学校六年生で憲法を学習します。ですから、日本国の憲法は、小学校六年生くらいの国語力ですなおに解釈できるものであるべきではないでしょうか。憲法の専門家が特別な理屈をこね回さなければ正しい解釈ができないというのは、とてもおかしいことです。
 1990年(平成二年)からの湾岸戦争の時期に憲法の学習をしたある小学校六年生の女子児童は、その感想を次のように書きました。
「わたしは、憲法はおかしいと思います。戦争は放棄、武力はもたない。自衛隊はつくるで、言っていることと行っていることが矛盾していると思う。これは、憲法の書き方に問題があると思います。せめられてしまったら国を守らないとせめほろぼされてしまうから、自衛のための戦争はやむをえないし、しょうがないことだから、もう少し書き方を工夫して『侵略戦争はしてはいけないが、自衛の耐えの戦争はやむを得ない』などということをくわしく書けばよいが、今の憲法は少しおかしいと思います」
 第二文も、虚心坦懐に読むと奇妙な文章です。だれがだれの交戦権を「認めない」のかがあいまいなのです。自分の権利を自分が「認めない」などという言い方は日本語として成り立ちません。
 だから、唯一可能な読み方は「アメリカ占領軍」が「日本国」に対して「日本国の交戦権」を「認めない」ということです。そうすると、この規定は戦争直後の一種の懲罰的な性格をもった条約のようなものだと考えざるを得ません。
 この九条をおしいただいている限り、日本人が精神的に自立できないのは当然だと言わなければなりません。
                                                  (藤岡信勝)
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 藤岡教授は、”現在の日本国憲法が、全体としてアメリカ占領軍に押し付けられたという性格を持つことはあきらかです。それにともなう欠陥や悪影響も大きなものがあります。”と書いていますが、私は、その”欠陥や悪影響”の具体的な内容が、きちんと示されていないと思います。
 だから、”その欠陥に目をつぶっていては、日本人はいつまでも精神的に自立できません”というのも、適切ではないと思います。

 上記の文章の問題点の一つ目は、日本国憲法の第九条を問題にしながら、なぜ、第一項を省略し、第二項だけを取り上げるのか、ということです。
 第一項は”日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する”という内容であり、第二項は、第一項を受けて、”前項の目的を達するため、陸海空軍其の他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。”という内容です。

 だから、第二項の”陸海空軍其の他の戦力は、これを保持しない ”は、無原則に戦力の保持を禁止するものではなく、”前項の目的を達するため”の戦力を保持しないと解釈できるので、現在、自衛隊の存在が合法化されているのではないかと思います。第二項だけを取り上げれば、この”前項の目的を達するため”という縛りが意味を失い、”どう考えても軍備をもつことを禁じています”ということになってしまうのだと思います。
 また、昭和21年(1946)年8月、憲法改正草案を審議する日本政府憲法改正小委員会において、第九条二項の冒頭に”前項の目的を達するため”という文言を挿入する修正が行われたことを見逃してはならないと思います。
 この修正は、日本政府の帝国憲法改正小委員会委員長だった芦田均の提案によるもので、「芦田修正」といわれているようですが、GHQ草案は、そのまま日本国憲法になったのではなく、こうした重要な修正が加えられていることも見逃してはならないと思うのです。
 だから、第二項だけを取り上げるのは、この重要な修正を無視して、憲法改正を意図するねらいがあるからではないか、と私は想像します。

 二つ目の問題は、”第二文が奇妙な文だ”という捉え方です。私は、藤岡教授が、戦前・戦中の軍人や政治家などの指導層と同じように、国民が制定した憲法によって、国民が国家権力を縛るという立憲主義の考え方を受け入れていないのではないかと思います。
 明治憲法は、”第三条、天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス”が象徴するように、国民を縛る法でした。でも、日本国憲法は反対に、私たちの権利・自由を守るために国を縛る法だといわれています。
 例えば、日本国憲法二十条に、”国及びその機関は、宗教教育其の他いかなる宗教的活動もしてはならない”とありますし、二十一条には、”検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない”というような条文があります。これらは、憲法が国を縛るものであることをはっきり示しているのではないかと思います。
 だから、”だれがだれの交戦権を認めないのかあいまいだ”という藤岡教授の主張は、国民が制定した憲法によって国家権力を縛るということ、言い換えれば、国民が国家の交戦権を認めないということを視野に入れていない主張ではないかと思います。

 だから、”現在の日本国憲法が、全体としてアメリカ占領軍に押し付けられたという性格を持つことはあきらかです。それにともなう欠陥や悪影響も大きなものがあります。”という主張が、客観的な事実や国民の思いを尊重していると思えないのです。
 悲惨な戦争に強引に引き込まれ、塗炭の苦しみを味わった一般の国民は、戦後の平和を歓迎しましたし、現在の日本国民の多くも、”占領軍に押し付けられた”というような意味での憲法の改正など望んではいないと思います。
 その憲法を、過去の客観的事実を無視して貶め、改正しようとする人たちは、安倍元首相と同じように、日本の戦争を正当化したいという思い、そして、東京裁判における戦犯や公職を追放された戦争指導層の名誉を回復したいという思い、また、経済力や政治力だけではなく、軍事力も外交に生かせるようにしたいという思いなどがあるのではないかと想像します。でも、それはハーグ陸戦条約不戦条約世界人権宣言核兵器禁止条約などの国際法の歩み、発展に逆行するものであり、また、反国民的な気がするのです。

 

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日本国憲法のモデルとなった「憲法研究会案」

2021年11月17日 | 国際・政治

                     「憲法研究会案」
 
 『憲法「押しつけ」論の幻』の著者、小西豊治氏によれば、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの政治顧問として国務省から派遣されたアチソンが、1946年の年明け早々に、「ある私的な研究者集団」の憲法改正草案が出されていること、第一条「日本国ノ統治権ハ日本国民ヨリ発ス」をはじめ、その内容がきわめて注目すべきものであることを国務省に報告したといいますが、その「ある私的な研究者集団」の中心人物である法学者(憲法学者)・鈴木安蔵は、治安維持法違反(1925年)適用第一号事件としての「学連事件」に連座し、有罪となって京大を退学したということです。そして、出獄後も在野の研究者として憲法の歴史的研究に没頭し出版した「現代憲政の諸問題」でも、出版法違反に問われたといいます。
 その鈴木安蔵が中心となって作成した「憲法研究会案」は、「日本国憲法」に驚くほど近いもので、「国民主権」や「象徴天皇制」に関する規定が、GHQ草案に引き継がれたことは、『憲法「押しつけ」論の幻』の著者、小西豊治氏の指摘する通りだと思います。

 下記は、同書に付録として掲載されていた「憲法研究会案」です。この「案」はGHQの民政局、憲法制定会議が、憲法改正作業に入るずっと前の、1945年十二月二十六日には、政府と記者室に提出されていたということです。

 だから、この「憲法研究会案」について、元首相の中曽根康弘は、『岩淵辰雄追想録』に、下記のように書いているといいます。
今の憲法をつくるについて、岩淵先生の思想というものがマッカーサー司令部にかなり反映していたんじゃないかと思います。そういうことからいまの憲法の精神に自信をもっていたんじゃないか、そういう非常に強い印象を私はもっています。だから高野、岩淵案といわれるものは劃期的なんですね。松本烝治さんが腰をぬかすような案でしたよ。私も読んでみて、これは民主共和国憲法だな、という感じがしましたからね。とにかく大日本帝国憲法を思い切ってなおせということは誰よりも早く言っておられましたからね。マッカーサーから案をつきつけられる前に草案を出していたところに意味があり、先見性があったと思います。”(中曽根康弘「天壇に半月が照っている絵」『岩淵辰雄追想録』所収

 また、岩淵と大学(早大)が同窓の作家木村毅は次のようにのべているといいます。
いまの日本の憲法は、アメリカのお仕着せ憲法のように云ってしまう人があるが、それはまちがっている。終戦直後のこと、岩淵君や杉森孝次郎先生が主唱し、五、六人の同志をあつめて憲法改正案をつくった。── これが戦後はじめての憲法改正のうごきである。マッカーサーがきたとき、なるべく日本の案を尊重するようにと云って、いろいろ出た案を検討した結果、この会の案が一ばん意に適して、現行憲法にはかなりこれを採用した部分がある。”(木村毅「岩淵辰雄君といまの憲法」『岩淵辰雄追想録』所収)

 下記の「憲法研究会案」を読めば、”米国の素人が一週間で作った憲法”という主張が、適切ではないことがわかると思います。「憲法研究会案」をモデルとして作成された「日本国憲法」は、そんな粗末な憲法ではないということです。そうした主張は、近衛文麿、佐々木惣一、松本烝治など、明治憲法に近い、いわゆる「官」の憲法改正草案を作成し、GHQに受け入れられなかった人たちの主張であり、そうした戦前・戦中の指導層の思いを受け継ぎ、「日本国憲法」を貶め、「日本国憲法」のモデルになった、「民」の改憲草案=憲法研究会案を無視する主張は、多くの日本国民の思いとは乖離していると、私は、思います。それは、「日本国憲法」が、公布以来、一字一句変えられることなく現在に至っていることが物語っていると思うのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                 憲法草案要綱
憲法研究会案
 高野岩三郎、馬場恒吾、杉森孝次郎、森戸辰男、岩淵辰雄、室伏高信、鈴木安蔵

根本原則(統治権)
一、日本国ノ統治権ハ日本国民ヨリ発ス
一、天皇ハ国政ヲ親(ミズカ)ラセス国政ノ一切ノ最高責任者ハ内閣トス
一、天皇ハ国民ノ委任ニヨリ専ラ国家的儀礼ヲ司ル
一、天皇ノ即位ハ議会ノ承認ヲ経ルモノトス
一、摂政ヲ置クハ議会ノ議決ニヨル

国民的権利義務
一、国民ハ法律ノ前ニ平等ニシテ出生又ハ身分ニ基ク一切ノ差別ハ之ヲ廃止ス
一、爵位勲章其ノ他ノ栄典ハ総テ廃止ス
一、国民ノ言論学術藝術宗教ノ自由ヲ妨ケル如何ナル法令ヲモ発布スルヲ得ス
一、国民ハ拷問ヲ加ヘラルルコトナシ
一、国民ハ国民請願国民発案及国民表決ノ権利ヲ有ス
一、国民ハ労働ノ義務ヲ有ス
一、国民ハ労働ニ従事シ其ノ労働ニ対シテ報酬ヲ受クルノ権利ヲ有ス
一、国民ハ健康ニシテ文化的水準ノ生活ヲ営ム権利ヲ有ス
一、国民ハ休息ノ権利ヲ有ス国家ハ最高八時間労働の実施勤労者ニ対スル有給休暇制療養所社交教養機関ノ完備ヲナスヘシ
一、国民ハ老年疾病其ノ他ノ事情ニヨリ労働不能ニ陥リタル場合生活ヲ保証サル権利ヲ有ス
一、男女ハ公的並私的ニ完全ニ平等ノ権利ヲ享有ス
一、民族人種ニヨル差別ヲ禁ス
一、国民ハ民主主義並平和思想ニ基ク人格完成社会道徳確立諸民族トノ協同ニ努ムルノ義務ヲ有ス

議会
一、議会ハ立法権ヲ掌握ス法律ヲ議決シ歳入歳出予算ヲ承認シ行政ニ関スル準則ヲ定メ及其ノ執行ヲ監督ス条約ニシテ立法事項ニ関スルモノハ其ノ承認ヲ得ルヲ要ス
一、議会ハ二院制ヨリ成ル
一、第一院ハ全国一区ノ大選挙区制ニヨリ満ニ十歳以上ノ男女平等直接秘密選挙(比例代表ノ主義)ニヨリテ満二十歳以上ノ者ヨリ公選セラレタル議員ヲ以テ組織サレ其ノ権限ハ第二院ニ優先ス
一、第二院ハ各種職業並其ノ中ノ階層ヨリ公選セラレタル満ニ十歳以上ノ議員ヲ以て組織サル
一、第一院ニ於テ二度可決サレタル一切ノ法律案ハ第二院ニ於て否決スルヲ得ス
一、議会ハ無休トス
ソノ休会スル場合ハ常任委員会ソノ職責ヲ代行ス
一、議会ノ会議ハ公開ス秘密会ヲ廃ス
一、議会ハ議長並書記官長ヲ選出ス
一、議会ハ憲法違反其ノ他重大ナル過失ノ廉(カド)ニヨリ大臣並官吏ニ対スル公訴ヲ提起スルヲ得之カ審理ノ爲ニ国事裁判所ヲ設ク
一、議会ハ国民投票ニヨリテ解散ヲ可決サレタルトキハ直チニ解散スヘシ
一、国民投票ニヨリテ議会ノ決議ヲ無効ナラシムルニハ有権者ノ過半数カ投票ニ参加セル場合ナルヲ要ス

内閣 
一、総理大臣ハ両院議長ノ推薦ニヨリテ決ス
各省大臣国務大臣ハ総理大臣任命ス
一、内閣ハ外ニ対シテ国ヲ代表ス
一、内閣ハ議会ニ対シ連帯責任ヲ負フ其ノ職ニ在ルニハ議会ノ信任アルコトヲ要ス
一、国民投票ニヨリテ不信任ヲ決議サレタトキハ内閣ハソノ職ヲ去ルヘシ
一、内閣ハ官吏ヲ任免ス
一、内閣ハ国民ノ名ニ於テ恩赦権ヲ行フ
一、内閣ハ法律ヲ執行スル爲ニ命令ヲ発ス

司法
一、司法権ハ国民ノ名ニヨリ裁判所構成法及陪審法ノ定ムル所ニヨリ裁判所之を行フ
一、裁判官ハ独立ニシテ唯法律ニノミ服ス
一、大審院ハ最高ノ司法機関ニシテ一切ノ下級司法機関ヲ監督ス
大審院長ハ公選トス国事裁判所長を兼ヌ
大審院判事ハ第二院議長ノ推薦ニヨリ第二院ノ承認ヲ経テ就任ス
一、行政裁判所長検事総長ハ公選トス
一、検察官ハ行政機関ヨリ独立ス
一、無罪ノ判決ヲ受ケタル者ニ対スル国家補償ハ遺憾ナキヲ期スヘシ

会計及財政
一、国ノ歳出歳入ハ各会計年度毎ニ詳細明確ニ予算ニ規定シ会計年度ノ開始前ニ法律ヲ以テ之ヲ定ム
一、事業会計ニ就テハ毎年事業計画書ヲ提出シ議会ノ承認ヲ経ヘシ
特別会計ハ唯事業会計ニ就テノミ之ヲ設クルヲ得
一、租税ヲ課シ税率ヲ変更スルハ一年毎ニ法律ヲ以テ之ヲ定ムヘシ
一、国債其ノ他予算ニ定メタルモノヲ除ク外国庫ノ負担トナルヘキ契約ハ一年毎ニ議会ノ承認ヲ経ヘシ
一、皇室費ハ一年毎ニ議会ノ承認ヲ経ヘシ
一、予算ハ先ツ第一院ニ提出スヘシ其ノ承認ヲ経タル項目及金額ニ就テハ第二院之ヲ否決スルヲ得ス
一、租税ノ賦課ハ公正ナルヘシ苟モ消費税ヲ偏重シテ国民ニ過重ノ負担ヲ負ハシムルヲ禁ス
一、歳入歳出ノ決算ハ速ニ会計検査院ニ提出シ其ノ検査ヲ経タル後之ヲ次ノ会計年度ニ議会ニ提出シ政府ノ責任解除ヲ求ムヘシ
会計検査院ノ組織及権限ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム
会計検査院長ハ公選トス

経済
一、経済生活ハ国民各自ヲシテ人間ニ値スヘキ健全ナル生活ヲ為サシムルヲ目的トシ正義進歩平等ノ原則ニ適合スルヲ要ス
各人ノ私有並経済上ノ自由ハ此ノ限界内ニ於テ保障サル
所有権ハ同時ニ公共ノ権利ニ役立ツヘキ義務ヲ要ス
一、土地ノ分配及利用ハ総テノ国民ニ健康ナル生活ヲ保障シ得ル如ク為サルヘシ
寄生的土地所有並封建的小作料ハ禁止ス
一、精神的労作著作者発明家芸術家ノ権利ハ保護セラルヘシ
一、労働者其ノ他一切ノ勤労者ノ労働条件改善ノ為ノ結社並運動ノ自由ハ保障セラルヘシ
之ヲ制限又ハ妨害スル法令契約及処置ハ総テ禁止ス

補則
一、憲法ハ立法ニヨリ改正ス但シ議員ノ三分ノ二以上ノ出席及出席議員ノ半数以上ノ同意アルヲ要ス
国民請願ニ基キ国民投票ヲ以テ憲法ノ改正ヲ決スル場合ニ於テハ有権者ノ過半数ノ同意アルコトヲ要ス
一、此ノ憲法ノ規定並精神ニ反スル一切ノ法令及制度ハ直チニ廃止ス
一、皇室典範ハ議会ノ議ヲ経テ定ムルヲ要ス
一、此ノ憲法公布後遅クモ十年以内ニ国民授票ニヨル新憲法ノ制定ヲナスヘシ

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「米国の”素人”が一週間で作った憲法」という暴論

2021年11月15日 | 国際・政治

  高乗正臣氏は、「明治~昭和初期 日本の偉業 教科書が教えない歴史」藤岡信勝・自由主義史観研究会(産経新聞社)に「米国の”素人”が一週間で作った憲法」と題して、下記のようなことを書いています。 
1946年(昭和二十一年)ニ月四日十時、GHQの民政局二十五人は会議室に呼び集められた。全員を前にしてホイットニー局長は「これから一週間、民政局は憲法制定会議の役割をはたすことになるだろう」と言いました。そして、今の日本で最も急がなければならない問題は新憲法の制定だ。しかし、日本側が作成した草案はまったく不満足なものなので(マッカーサー)最高司令官は自分が介入する必要があると判断し、日本国民のための新しい憲法を起草するという歴史的な意義ある仕事を民政局に任せたと述べました。
 さらにホイットーニーは黄色い紙に書かれた「マッカーサーノート」をゆっくり読み上げ、憲法制定作業はリンカーン誕生日のニ月十二日までに終えること、作業は極秘にすること、秘密を守るために暗号を使うことなどを指示しました。出席していた民政局の人々は一様に驚き、興奮していました。
 民政局の「憲法制定会議」の組織はケーディス次長(当時四十歳)、ハッシー海軍中佐(四十四歳)、ラウエル陸軍中佐(四十二歳)、エラマン嬢で構成される運営委員会が全体をまとめ、その下に八つの委員会を置きました。委員会はそれぞれ立法、行政、人権、司法、地方行政、財政、天皇・条約、前文の各分野を担当します。二十五人のメンバーの内訳は陸軍将校十一人、海軍士官四人、軍属四人、秘書を含む女性六人で、弁護士の資格を持つ人が三人いましたが、憲法の専門家はただ一人としていませんでした。
 ・・・
 日本国憲法草案は、憲法にはほとんど素人といえる人々の手によってニ月十日にできあがりました。たった一週間の憲法制定作業でした

 でも高乗正臣氏も、前稿で取り上げた白濱裕氏同様、”米国素人が一週間で作った憲法”のどこに、どのような矛盾や不備、不都合があるのかは、何も指摘されていません。
 また、なぜ近衛案や佐々木案、松本案などのいわゆる「官」の憲法草案が受け入れられず、GHQ草案が手交されるという事態に至ったのかについて考慮すべき情報は無視されているように思います。
 

 高乗正臣氏の文章では、”1946年(昭和二十一年)ニ月四日十時、GHQの民政局二十五人は会議室に呼び集められた”と、ニ月四日から、憲法改正案の作成作業が開始されたかのように書いていますが、次のような事実を考慮していないと思います。

「新憲法の誕生」古関彰一(中公文庫)『憲法「押しつけ」論の幻』小西豊治(講談社現代新書)によれば、近衛は、敗戦後間もなく、マッカーサーの意向を探りに、いわば日本側を代表したかっこうで横浜のGHQへ出向いたといいます。二回目の会談の際、近衛が”政府の組織および議会の構成について、何かご意見なりご指示があれば、承りたい”と言ったので、マッカーサーが、”憲法を改正して自由主義的要素を充分取り入れる必要がある”と返したことが、日米双方の憲法改正の取り組みを加速することになったようなのです。同席していたアチソンは、国務省に宛てて、”政治に関心を持つ日本人の間で、憲法改正問題が話題に上ってきているので、この問題の最終的な指示をできるだけはやくお願いしたい。この問題で米国政府がとっている考え方の方向性を知ることができるよう〔憲法〕草案の概要を打電してほしい”と急いで手短に打電したといいます。そして、アチソンは、国務長官から憲法に盛り込まなければならない基本条項を示す、きわめて重要な「訓令」を受け取っているといいます。早い段階から、GHQ草案の作成に、本国国務省が深く関わっていたことがわかるのではないかと思います。日本の憲法改正に関わる情報は、ニ月四日より一ヶ月以上も前から、アメリカ本国とやり取りされているのです。
 また、民政局の「憲法制定会議」の組織の一人であるラウエル陸軍中佐は、日本に着任したときから、明治憲法についての研究と、あるべき憲法の構想を進め、「レポート・日本の憲法についての準備的研究」と題して総司令部に提出していたといいます。また、一月十一日には、「ある私的な研究者集団」すなわち鈴木安蔵が中心となってまとめた「憲法研究会」の改正草案に関する詳細な所見を、民政局長・ホイットニーと連名で幕僚長に提出しているといいます。
 さらに、カナダ外務省から少佐待遇で総司令部・民間諜報局対敵諜報部・調査分析課長という役職で派遣された日本の研究者、ハーバート・ノーマンも、重要な助言をしていたことがわかっています。ノーマンはアチソンから近衛の戦争犯罪に関わる調査を依頼され、報告書を出していますが、それには、
 ”近衛の公式記録を見れば、戦争犯罪人にあたるという強い印象を述べることができる。
 ・・・
 一つたしかなことは、かれが何らかの重要な地位を占めることを許されるかぎり、潜在的に可能な自由主義的、民主主義的運動を阻止し挫折させてしまうことである。かれが憲法起草委員会を支配するかぎり、民主的な憲法を作成しようとするまじめな試みをすべて愚弄することになるであろう。かれが手を触れるものは残骸とみな化す。
 というような、日本の憲法改正の動向に関わる重要な、警告ともいえる一文を書いているといいます。
 マッカーサーから篤く信頼され、総司令部にさまざまなアドバイスをしていたノーマンに関して、カナダ外務省には、「司令官とそのスタッフへの助言」は「最も貴重なもの」であったとする総司令部からの文書が残っているということです。
 ノーマンの主著「日本における近代国家の成立」は、総司令部の多くの幹部にとっては、バイブル以上の権威をもっていたといわれているとのことですが、そのノーマンは憲法研究会鈴木安蔵ともくり返し接触し、憲法問題について議論を重ね、民政局に適確な助言をくり返していたといいます。

 さらに、本国のSWNCC(国務・陸・海軍三省調整委員会)も「日本の統治体制の改革」と題する文書(SWNCC228)を承認し、マッカーサーに「情報」として送付しており、GHQの憲法起草に大きな影響を与え、「日本国憲法の原液」などという評価があるといいます。
 したがって、占領当初から、さまざまな組織や人物が、GHQの憲法草案づくりに関わっていたということを見逃してはならないと思います。それを、”米国の素人が一週間で作った憲法”などということは、適切ではないと思うのです。決してニ月四日に、ゼロからスタートしたのではないということです。

 そのGHQの憲法草案は、1946年(昭和二十一年)ニ月十二日、マッカーサーの承認を受けて、翌十三日に日本政府に示されています。そして日本政府がその草案を基に「憲法改正試案」を作成します。その試案は、「三月二日案」とよばれるているということですが、その「三月二日案」が総司令部にもどされ、日本政府関係者と一緒に検討が加えられ、三月六日に「憲法改正草案要綱」として公表されるにいたっています。だから、これは「三月六日案」とよばれるようです。さらに、この「三月六日案」が憲法草案の形に整えられて、四月十七日憲法改正草案」として公表されたのです。
 この「憲法改正草案」に対して、国民の国語運動連盟から、「日本国憲法口語化」の建議が出され、ひらがな口語体に修正されます。
 そのひらがな口語体の「憲法改正草案」が、枢密院の審議を経て、「第九十回帝国議会」に「帝国憲法改正案」として提出されたのです。八月二十四日衆議院で修正可決され、十月六日貴族院で修正可決、さらに、貴族院での修正点が、十月七日再び衆議院で可決され、さらに十月二十九日、また「修正憲法改正草案」として枢密院で可決されたので、天皇が憲法改正を裁可し、十一月三日「日本国憲法」として公布されるに至っているのです。
 GHQ民政局長ホイットニーは、日本側に、GHQ草案を押しつける考えはないことを告げており、現に、日本側がさまざまな修正をくり返していることも見逃してはならないと思います。
 
 『憲法「押しつけ」論の幻』小西豊治(講談社現代新書)によると、GHQ民政局「憲法制定会議」の一員、ケーディスは、田中英夫東大教授のインタビューで”日本側の提案は、ほとんどすべて認めた。私の記憶では、日本側の提案で認めなかったのは「総司令部案」の中の皇室財産に関する規定を改めようとする試みだけだったと思う。第九条についても、同様の態度をとっ[て修正を認め]た。私が芦田に、「芦田修正」に反対しないと告げたら、芦田は、はっきりと驚いた表情をしめした。(「憲法制定過程覚書」)”とのことです。
 
 この「芦田修正」は、1946年八月、憲法改正草案を審議する日本政府憲法改正小委員会において委員長の芦田均が、第九条二項、”陸海空軍その他の戰力は、これを保持しない。國の交戰權は、これを認󠄁めない”の冒頭に”前項の目的を達するため”という文言を挿入する修正を行ったことをいうのですが、これによって、自衛権の保持や国際安全保障への参画が可能になったといわれています。

 だから、高乗正臣氏や白濱裕氏のいう、”米国の素人が一週間で作った憲法”というのは、いろいろな意味で、違うと言わざるを得ないのです。

 自由主義研究会に結集し、「明治~昭和初期 日本の偉業 教科書が教えない歴史」藤岡信勝・自由主義史観研究会(産経新聞社)の原稿を執筆している人たちは、日本国憲法を貶めることによって、憲法改正に対する一般国民の抵抗感をやわらげ、平和憲法を変えたいのだろうと想像します。そういう意味では、憲法改正が悲願であるとくり返した安倍晋三元首相と、その思いを共有しているのではないかとも想像します。安倍元首相などが悲願とする憲法改正の背景には、日本の戦争を正当化したいという思い、そして、戦犯や戦争指導層の名誉を回復したいという思い、また、経済力や政治力だけではなく、軍事力も外交に生かせるようにしたいという思いなどがあるのでしょうが、日本国憲法押しつけ論を語る人たちや日本国憲法を貶めるようなことをいう人たちも同じなのではないかと思うのです。


 でも、戦後の憲法改正について論じながら、GHQが高く評価し、GHQ草案のモデルとなったといわれる「民」の憲法改正草案、すなわち鈴木安蔵を中心とする「憲法研究会案」に全く触れないのは、常識では考えられないと思います。 
 
 特に、「憲法研究会案」の根本原則(統治権)で示された「日本国ノ統治権ハ日本国民ヨリ発ス」は、「国民主権」の考え方であり、「天皇ハ国政ヲ親(ミズカ)ラセス国政ノ一切ノ最高責任者ハ内閣トス」や「天皇ハ国民ノ委任ニヨリ専ラ国家的儀礼ヲ司ル」というのは、明らかに「象徴天皇制」のもとになっている考え方だと思います。それらがGHQ草案に生かされていることを見逃してはならないと思います。
 
 GHQ案を手交する時、ホイットニーは、”最高司令官は(マッカーサー)は、私に、あなた方がこの案を最高司令官の完全な支持を受けた案として国民に示されてもよい旨を伝えるように指示されました。もっとも、最高司令官は、このことをあなた方に要求されているのではありません。しかし最高司令官は、この案に示された諸原則を国民に示すべきであると確信しております。最高司令官は、できればあなた方がそうすることを望んでいますが、もしあなた方がそうされなければ、自分でそれを行うつもりです”と迫ったということですが、「民」の憲法改正草案すなわち、鈴木安蔵を中心とする「憲法研究会案」の存在もあることから、民主的な憲法がどのようなものであるかを、国民の前に明らかにすれば、GHQ草案が日本国民の支持を広く得ることが出来るという見通しがあったのだろうと思います。

 それは、「憲法問題調査委員会試案」(「官」の憲法改正案=松本案)をスクープした「毎日新聞」の記事に対するメディアの反応からもうかがえますが、一般の日本人の多くは、戦争指導層とは違い、「憲法問題調査委員会試案」(「官」の憲法改正案=松本案)よりも、GHQ草案をもとにした「日本国憲法」をよしとしたと思いますし、それは今も変わらないのではないかと思います。日本の戦争の実態をほとんど知らない若者たちが、徐々に取り込まれているようで心配ですが、”米国の素人が一週間で作った憲法”というような日本国憲法に対する評価は、一般国民の多くの評価とは異なるものだと思います。

 また、日本国憲法はGHQによって押しつけられたものではなく、明治以降の日本のデモクラシーの思想、特に、自由民権運動などで深められた日本人の民主主義的な思想が、GHQによって生かされ、さらに発展させられたもので、その核心部分が日本人の思想に基づくものであったことを見逃してはならないと思います。

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「日本国憲法」押しつけ論 NO2

2021年11月12日 | 国際・政治

「教科書が教えない歴史 明治~昭和初期、日本の偉業」藤岡信勝/自由主義研究会(産経新聞社)には、見逃せないことがいろいろ書かれていますが、「”脅迫”で受け入れさせたGHQ草案」と題した白濱裕氏の文章にも、問題があると思います。

 まず最初に
1945年(昭和二十一年)十一月三日、日本国憲法は公布されました。その日、東京の皇居前広場での公布式典には、大勢の都民があつまりました。しかし、そこに集まった人々は、公布された憲法が実質的に占領軍の手で、しかもわずか一週間で作られたものであることなど知る由もありませんでした。
 とあります。でも、わずか一週間で作られたという「日本国憲法」に、どんな矛盾や不備があるのかにつては何の指摘もありません。指摘できないのではないかと思います。したがって、私は、この文章に「日本国憲法」を貶める意図を感じるのです。

 次に、
 ”そもそも、占領下の憲法の制定や改正は国際法やポツダム宣言の条項にも違反するものでした。すなわち、1907年に成立したハーグ陸戦法規は「占領軍は占領地の現行の法律を尊重されなばならない」と定め、敗戦国の国家体制を変えることを禁じています。
 とありますが、戦時中、多数の国を敵国として交戦地域を拡大し、「ハーグ陸戦法規」を無視して捕虜を拷問したり、虐殺したり、酷使したりしたのは日本軍だったのではないかと思います。戦争に敗けたら、その「ハーグ陸戦法規」を楯に、自ら守ろうとするのは、恥かしいことではないかと思います。
 また、確かに「ハーグ陸戦法規」の第五章・第三款の「第43条」には、
国の権力が事実上占領者の手に移った上は、占領者は絶対的な支障がない限り、占領地の現行法律を尊重して、なるべく公共の秩序及び生活を回復確保する為、施せる一切の手段を尽くさなければならない
 とありますが、ポツダム宣言は、日本の国家体制を変えることを禁じておらず、逆に、”軍國主義”を”驅逐”し、”日本國國民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ對スル一切ノ障礙ヲ除去”し、”日本國國民ノ自由ニ表明セル意思ニ從ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラル”まで、”聯合國ノ占領軍”が日本を統治すると宣言しているのです。戦時中の日本の”現行法律”を尊重していたのでは、軍国主義は克服できず、日本の民主化はできないということだと思います。ポツダム宣言が日本の憲法改正を禁じているというのであれば、どこにそうした文章があるのか、示してほしいと思います。

 次に、
 ”さて、そうしたGHQ起草の英文草案は、一週間後の二月十日にほぼ完成し、ニ月十三日に外務大臣官邸で日本側に手渡されます。
 会談の冒頭、アメリカ側は日本側の国務大臣松本烝治が中心となり起草した「松本案」の拒否を通告しました。さらに、GHQ案は天皇を戦犯として起訴すべきだという他国の圧力から天皇を擁護するために作成したもので、 これを受け入れれば天皇は安泰になる。もし受け入れなければ、政府の頭越しに日本国民に提示する、と述べました。
 とありますが、前稿で書いたように、近衛案や佐々木案、また松本案などの「官」の憲法草案は、ほぼ明治憲法を踏襲する内容であったのに対し、「憲法研究会案」すなわち、「民」の憲法草案が、GHQの考えに近い民主的な憲法草案だったことを無視してはならないと思います。「新憲法の誕生」古関彰一(中公文庫)によると、GHQは、憲法問題調査委員会・松本案批判の基軸をポツダム宣言に据え、ポツダム宣言の諸目的を充足したといえるかどうか、十項目に整理して、松本案は受諾し難いと通告したといいます。
 その会談については、日米双方に記録があり、下記の内容は、ほぼ同じであるといいます。日本側の記録は、下記のような内容です。
「ウィ」(ホイットニー)ハ本案ハ内容形式共ニ決シテ之ヲ貴方ニ押付ケル考ニアラサルモ実ハ之ハ「マッカーサ」元帥カ米国内部ノ強烈ナル反対ヲ押切リ天皇ヲ擁護申上クル爲ニ非常ナル苦心ト慎重ノ考慮ヲ以テ之ナラハ大丈夫ト思フ案ヲ作成セルモノニシテ又最近ノ日本ノ情勢ヲ見ルニ本案ハ日本民衆ノ要望ニモ合スルモノナリト信スト言ヘリ

 GHQには、自らの草案が「民」の憲法草案を踏まえたものであり、国民の支持を得られる見通しがあったのだと思います。それは、毎日新聞が「憲法問題調査委員会試案」(松本案)の全文を一面トップで報じたとき、この「試案」に対する評価はきわめて悪かったということで明らかだと思います。前掲書によると、毎日新聞自身が、”あまりに保守的、現状維持的のものにすぎないことを失望しない者は少ないと思ふ”と評したほどであったというからです。

 また、
 ”さらに松本の回想によれば、民政局のホイットニーはこのとき、もしこの改正案を受け入れなければ「天皇の御身柄を保障することはできない」という言葉を付け加えたといいます。もし、事実だとすれば、天皇の御身柄と引き換えにGHQ案の受け入れを逼ったわけで、一種の脅迫といえます
 とあります。この「天皇の御身柄を保障することはできない」という「松本案」の作成者、松本烝治の証言が、その後「押しつけ」論に発展したようですが、これは松本烝治の思い込みであり、日本側、GHQ側双方の公式記録を見るかぎり、松本がいうような言葉は見当たらないといいます。『芦田均日記』では、むしろ逆に天皇を護る警告のごとく使われており、内容的には会議録とも一致するというのです。だから、上記の、”本案ハ内容形式共ニ決シテ之ヲ貴方ニ押付ケル考ニアラサル…”というホイットニー の言葉を無視して、限られた資料をもとに、「”脅迫”で受け入れさせたGHQ草案」などと断定することは、問題があると思うのです。

 文末は、
その後の公布までの経過をみると、日本側からの修正要求は二院制の採用や「土地・天然資源の国有化の条文削除」など限られた項目しか認められず、結局、日本国憲法はこの英文草案を下敷きにしてできあがったのです。
 当時の心境を白洲は「『今にみていろ』という気持ちを抑え切れず。ひそかに涙す」と屈辱と怒りをあらわにしたメモを残しています。まさに日本側当局者の断腸の思いを代弁するものであったと思われます。
 ですが、これは、まさに日本側当局者=戦争指導層の思いであって、一般国民の思いではないと思います。
 
 白濱裕氏も、戦争指導層の言動や思いばかりを追っており、一般国民の言動や思いをほとんど見ておられないように思います。

 「敗北を抱きしめて 第二次大戦後の日本人」ジョン・ダワー(岩波書店)に下記のような一節があったことを思い出します。
” NHKは、マッカーサーの離日を生中継で放送した。蛍の光のメロディーが流れる中、アナウンサーは悲痛な声で「さようなら、マッカーサー元帥」と繰り返した。学校は休みになり、マッカーサーによれば200万人が沿道で別れを惜しみ、なかには目に涙をためた人もいた。警視庁の見積もりによると、沿道で見送ったのは約二十万人であったが、マッカーサーはものごとをほぼ十倍に誇張する傾向があったから、なかなか数字の辻褄はあっているように思われる。とにかく、相当な人数であった。吉田首相と閣僚たちは羽田空港でマッカーサーを見送った。天皇の代理として侍従長が、衆参両院からも代表が、羽田で見送った。「白い雲を背景に」マッカーサーの専用機バターン号が飛び立つ姿を背に、『毎日新聞』は異常なほど興奮して次のように号泣した。「ああマッカーサー元帥、日本を混迷と飢餓から救いあげてくれた元帥、元帥! その窓から、あおい麦が風にそよいでいるのを御覧になりましたか。今年のみのりは豊かでしょう。それはみな元帥の五年八か月にわたる努力の賜であり、同時に日本国民の感謝のしるしでもあるのです」

 上記の表現は大げさなようにも思いますが、一般国民には、確かにこうした思いがあったことを無視してはならないと思います。

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「日本国憲法」押しつけ論

2021年11月10日 | 国際・政治

 子どもたちの歴史認識に大きな影響を与えるような著書を書いている人たちには、可能な限り多種多様な資料にあたり、また、できるだけ多くの関係者の証言に基づいて、客観的に歴史を語ってほしいと思います。そして、利用した資料の出典や証言者を明らかにして その詳細が確認ができるようにしてほしいと、私は思います。
 でも、現在の日本では、徐々にそうした基本的なことを蔑ろにし、自分の思い描く歴史に都合のよい資料を使い、都合のよい証言だけを利用し、都合のよい解釈をして、歴史を語る人たちが増えているように、私は思います。  
 「教科書が教えない歴史 明治~昭和初期、日本の偉業」藤岡信勝/自由主義研究会(産経新聞社)に、「ポツダム宣言にはなかった新憲法制定」というテーマの打越孝明氏による、下記のような文章があります。

 ”1945年七月二十六日、米英中の連合国は「全日本国軍隊の無条件降伏」を求めるとともに、数項にわたる降伏条件を示したポツダム宣言を発表しました。しかし、この中に新憲法の制定は含まれていませんでした。
 実際、ポツダム宣言の起草者である元駐日大使グルーらは、起草当時、戦後の対日処理を実現するためには、憲法の部分的な改正は必要であるが、「新しく制定するというような根本的、全面的な憲法の改正は考えられていなかった」と述べています。
 このように、新憲法の制定はポツダム宣言に基づくものとはいえません。
 
 でも、ポツダム宣言に書かれていなかったから、”新憲法の制定はポツダム宣言に基づくものとはいえません”などという主張に、私は驚きを感じます。ポツダム宣言の第一項には、次のようにあります。


吾等合衆國大統領、中華民國政府主席及グレート、ブリテン國總理大臣ハ吾等ノ數億ノ國民ヲ代表シ協議ノ上日本國ニ對シ今次ノ戰爭ヲ終結スルノ機會ヲ與フルコトニ意見一致セリ

 ポツダム宣言は、米国のトルーマン大統領と、中華民国の蔣介石国民政府主席、イギリスのチャーチル首相の共同声明として発表されたものであり、日本に”戰爭”の”終結”すなわち、降伏を迫る文書だと思います。そんな文書に、日本降伏後の占領政策の内容が、事細かに明らかにされるとは思えません。
 また、ポツダム宣言は、”共同声明”として発表された”のであり、その内容は、元駐日大使グルーが考えたものではないと思います。
 だから、”起草当時、戦後の対日処理を実現するためには、憲法の部分的な改正は必要であるが、「新しく制定するというような根本的、全面的な憲法の改正は考えられていなかった」と述べています”という記述には疑問を感じました。
 ポツダム宣言に基づいて、占領政策を主導したのは、連合国軍最高司令官マッカーサーです。グルーがなぜ、占領政策に関わるマッカーサーの権限を規制するようなことを言ったのか、詳細を知りたいと思うのですが、打越氏の文章には、いつ、どこで、どのような意図をもって、グルーがそのようなことを言ったのかが示されていないので、調べることができません。 
 またそれは、ジョセフ・グルーが、1943(昭和18)年12月29日にシカゴで行った演説において、

神道は軍国主義者によって教条的に利用されたが、天皇崇拝という面は平和国家再建のために利用できると主張した。さらに、明治憲法は天皇に主権を与えているため、どの政党も国民主権を主張できないと指摘したうえで、憲法が改正され日本国民が十分な時間を与えられれば、日本に議会制度を再建し政党制度を確立することができるだろうと論じた”

 といわれていますので、打越氏の指摘には、疑問を感じるのです。

 さらに、
ではなぜ、新憲法がつくられたのでしょう。それは、アメリカを中心とする連合国軍総司令部(GHQ)の意向によるものでした。
 GHQはポツダム宣言に反し、当初から占領政策の大きな柱として新憲法の制定を決定していたのです。しかも「日本の統治体制の改革」という占領政策の基本方針となった文書の中には、わが国があたかも自らの意思で「憲法の改正または憲法の起草をなし、採択」したかのように仕向けること、と明示されていました。
 こうしてわが国は新憲法の制定を余儀なくされたのです。この章では日本国憲法を取り上げます
 とあります。いつの間にか、新憲法の制定が、”ポツダム宣言に反”するものとされています。
 でも、ポツダム宣言には、

六 吾等ハ無責任ナル軍國主義ガ世界ヨリ驅逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本國國民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ擧ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ

十 吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ國民トシテ滅亡セシメントスルノ意圖ヲ有スルモノニ非ザルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戰爭犯罪人ニ對シテハ嚴重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ日本國政府ハ日本國國民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ對スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由竝ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ

十二 前記諸目的ガ達成セラレ且日本國國民ノ自由ニ表明セル意思ニ從ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合國ノ占領軍ハ直ニ日本國ヨリ撤収セラルベシ

 などとあります。こうした目的を達成するためには、明治憲法を改める必要があったのではないでしょうか。明治憲法を改めることなく、軍国主義を克服して、日本の民主化が実現できたでしょうか。だから、日本の民主化のために、GHQが様々なところから情報を集め、できるだけ拒否反応や反発を招かないように配慮しつつ取り組んだ結果が、”わが国があたかも自らの意思で「憲法の改正または憲法の起草をなし、採択」したかのように仕向けること”になったのではないでしょうか。
 新憲法の制定は、”ポツダム宣言に反”するどころか、ポツダム宣言の目的を達成し、日本を民主化するために欠かせないものであったのではないかと思います。

 当然、日本の戦争を進めた人たちや、それを支えた政治家などの戦争指導層は、自らが立脚した明治憲法の改正をこころよしとはしなかったと思います。何とか一部修正程度で通したかったと思います。でも、それでは、ポツダム宣言の目的達成は難しかったと思います。
 そして何より、「日本国憲法」が、大きな混乱なく広く日本国民に受け入れられたことを見逃してはならないと思います。だから、「日本国憲法」押しつけ論を語り、あたかも、GHQが悪意をもって明治憲法を改正したかのようにいう人たちは、当時の戦争指導層とその意志を受け継ぐ人たちであると、私は思います。

 打越氏は、東久邇宮内閣や幣原内閣の憲法改正に関する考え方は取り上げても、1945年の末には、民間団体の草案が次々に発表され始めていたことやその内容には触れていません。そして、GHQが最も注目したという憲法研究会の案にも、全く触れていません。
 でも、憲法研究会に結集した、高野岩三郎、鈴木安蔵、室伏高信、杉森幸次郎、森戸辰男、岩淵辰雄らの、憲法改正に関する取り組みは見逃されてはならないと思います。GHQ草案に大きな影響を与えたといわれているからです。特に、憲法研究会案の、
憲法草案要綱 根本原則(統治権)
一、日本国ノ統治権ハ日本国民ヨリ発ス
一、天皇ハ国政ヲ親(ミズカ)ラセス国政ノ一切ノ最高責任者ハ内閣トス
一、天皇ハ国民ノ委任ニヨリ専ラ国家的儀礼ヲ司ル
          (憲法「押しつけ」論の」小西豊治(講談社現代新書、エピローグより)
 は、日本国憲法にとても近い考え方であり、こうした案が日本の民間人から提出されので、GHQが日本の戦争指導層の案に対応しなくなったことに不思議はないと思います。それを、GHQが悪意をもって、日本の戦争指導層の案を葬り去ったかのようにいうのは、違うと思うのです。

 

 

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満蒙問題処理方針要綱(昭和七年三月十二日 閣議決定)と教科書記述

2021年11月02日 | 国際・政治

 菅内閣が、本年四月に、日韓の懸案事項となっている問題に関して、”朝鮮半島から連れてこられた人々については、『強制連行された』、もしくは『強制的に連行された』、『連行された』などと一括りに表現することは適切ではない、また、『従軍慰安婦』または『いわゆる従軍慰安婦』という表現も適切ではなく、単に『慰安婦』という用語を用いることが適切”というような閣議決定をしたことを受けて、中学社会や高校の地理歴史、公民の教科書会社が訂正申請を出し、承認されたといいます。
 それは、「自由主義史観研究会」を組織し、「あたらしい歴史教科書をつくる会」の副会長をつとめる藤岡信勝教授が、”戦地に慰安婦がいたのは間違いないが、日本軍が強制的に連れてきた事実はなく、教科書でわざわざ取り上げる問題ではない。教科書から『慰安婦』の記述自体をなくすべきだ”というような主張をし、萩生田光一文科相(当時)に訂正申請の勧告を出すよう求めたことがきっかけだったようです。

 私は、日本の歴史の修正が、また一層進んだように思います。歴史家が書いた教科書の記述を、政治的な意図を持つ人たちの主張に基づき、文科省が訂正申請を勧告するというようなことはあってはならないことではないかと思います。
 藤岡教授が、教科書の記述が不適切であると考えるのであれば、歴史家や教科書執筆者に働きかけて、事実の検証や議論を促し、自らの考え方に対する理解を得る努力をすべきで、政権の力を利用して、自らの考え方を通そうとするのは、民主主義に反することではないかと思います。こういう流れで進むと、客観的な歴史研究に基づく記述がなくなり、教科書の記述は、政治的意図を秘めたものとなって、中国や韓国との関係改善は遠のくと思います。信頼を取り戻すことは、ますます難しくなると思うのです。
 現実は、”日本軍が強制的に連れてきた事実”がないのではなく、当時の指導層が、不都合な事実を隠すために、その事実を証明する公文書を焼却処分させ、その焼却処分の意図を受け継いで、藤岡教授が事実そのものをなかったことにしようとしているように、私は思います。歴史家が発掘した資料や、日本政府が集め、平成5年8月4日に発表された『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』に、「強制」を意味したり「強制」を疑わせる諸文書があります。
 また、中国にも、韓国にも、その他のアジア諸国にも、「強制」の事実を証言した人たちがいるのです。だから、そうした証言をした人たちを、みんな「嘘つき」にしてしまう日本の歴史の修正は、日本では受け入れられても、国際社会で受け入れられることはないと思います。それは、国際機関の日本政府に対する勧告や、アメリカの日本研究者・歴史家187人が、連名で2015年5月に出した、「日本の歴史家を支持する声明」で明らかだと思います。

 下記資料1の「満蒙問題処理方針要綱」は、当時の指導層が、満蒙をあたかも日本の領土であるかのように考えていたことがわかります。「田中上奏文」に沿う内容であり、中国の主権を尊重する姿勢に欠けていることは、誰でもわかるのではないかと思います。こうした資料は「侵略」を「侵攻」と言い換える問題を考える場合、とても重要な意味をもつのではないかと思います。

 また資料2は、そうしたことと関連して、「現代史資料 7 満州事変」(みすず書房)に添えられていた、現代史資料月報(第七回配本「満州事変」附録)の「軍令部戦史部始末記」(嶋田俊彦)から一部抜萃したものです。当時の歴史家が置かれていた状況がよくわかるような気がします。また、”…母校の東大文学部国史学科では、明治以後の研究は歴史研究ではないという偏見があったからである”という文章や”海軍大臣からは機密書類焼却の厳命が来ていた。だが当時資料保管の責任者であった私には、到底焼く気になれなかったし、また将来のために焼くべきでないと考えた”という文章を見逃すことができなかったのです。世の指導者は、軍人も政治家も、自らが進めた政策や指導の内容をきちんと残す責任があるのであって、公文書の焼却処分は、そういう意味で、それ自体が侵略戦争同様、犯罪的行為ではないかと、私は思います。
 そして、安倍元首相を中心とする自民党政権中枢の公文書に対する考え方は、公文書焼却処分の考え方を受け継いでいるのではないかと思うのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「現代史資料8 日中戦争1」(みすず書房)

         一 満蒙問題処理方針要綱  (昭和七年三月十二日 閣議決定)

一、満蒙に付いては帝国の支援の下に該地を政治、経済、国防、交通、通信等諸般の関係に於て帝国存立の重要要素たるの性能を顕現するものたらしめむことを期す
二、満蒙は支那本部政権より分離独立せる一政権の統治支配地域となれる現状に鑑み逐次一国家たるの実質を具有する様之を誘導す
三、現下に於ける満蒙の治安維持は主として帝国之に任ず
 将来に於ける満蒙の治安維持及満鉄以外の鉄道保護は主として新国家の警察乃至警察的軍隊をして之に当たらしむ右目的の爲之等新国家側治安維持機関の建設刷新を図らしめ特に邦人を之が指導的骨幹たらしむ
四、満蒙の地を以て帝国の対露対支国防の第一線とし外部よりの撹乱は之を許さず右目的の爲駐満帝国陸軍の兵力を之に適応する如く増加し又必要なる海軍施設をなすべし新国家正規陸軍は之が存在を許さず
五、満蒙に於ける我権益の回復拡充は新国家を相手として之を行ふ
六、以上各般の施措実行に当りては努めて国際法乃至国際条約抵触を避け就中満蒙政権問題に関する施措は九国条約の関係上出来得る限り新国家側の自主的発意に基くが如き形式に依るを可とす
七、満蒙に関する帝国の政策遂行の爲め速に統制機関の設置を要す但し差当り現状を維持す 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

                軍令部部戦史部始末記
                                             嶋田俊彦
 性来無類の臆病者である私は、何としても戦争へ行くのはイヤだった。徴兵検査は丙種だったから、満州事変、日華事変のうちはいささか高みの見物だったが、それが太平洋戦争にまで拡大されると、安閑としてもいられなくなってきた。恩師の辻善之助先生は、私のこの哀れな心情を察して、ある日私を招いて「海軍で軍人たちだけで大東亜戦争の戦史を編さんしているそうだが、最近、歴史の専門家がひとり欲しいといってきた。この仕事をやれば、かえって戦争に行かないですむかもしれない。行かないか。」といわれた。これにはさすがの私も返答に窮した。当時私が持っていた教職などには未練がなかったが、第一私は現代史、軍事史には皆目シロウトであり、しかも母校の東大文学部国史学科では、明治以後の研究は歴史研究ではないという偏見があったからである。だが、現代史という未開拓の分野に斧鉞(フエツ)をいれることの意義は了解できたし、それに何よりも、もしかすると戦争にいかないですむということが最大の魅力だったので、結局推せんをお願いして清水の舞台から飛びおりた。その後、先生は召集免除の問題をも含めて、私の身分保証について種々海軍側と折衝したあげく、私を推された。
 そこである日、先生の紹介状を持って軍令部戦史部に先任部員(課長相当)の高田俐大佐をたずねた。庁舎は今日も廃屋のような姿をさらしている、新橋第一ホテル脇の元政友会本部の薄汚い建物だった。高田大佐は海軍部内での乃木さんというアダ名が示すような謹厳そのものの軍人であったが、終始えみをたたえてもの静かに応待され、私に寄せる期待がすこぶる大であることを示されて、私をあわてさせた。そして、あなたにこれから書いてもらう戦史は、将来軍機書類として海軍軍人だけに研究させるのだから、あらゆる事実について絶対に筆を曲げないでほしい、よしんばそれで海軍が悪者になってもさしつかえないから──というそのときの一言は、吹きすさぶファシズムの嵐の中で、自由な歴史研究が妨げられつつあることを感じていた私に、この仕事にたずさわる最後の腹を決めさせた。軍艦マーチに感激するわけでもなく、「勝ってくるぞと勇ましく……」にはむしろ恐れおののくのだが、さりとてはっきり反戦態度にも出られない私は、もちまえのグウタラ気質そのままに、かえってこのような職場に自由な天地があるような気がして、今までの学歴や経験からするといささか突飛な軍属という身分に、われとわが身を投じたのである。ミッドウェーの惨敗により、帝国海軍の旗色に黒い影がまつわりはじめた1942年六月のことであった。

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 刻一刻と戦況が不利に陥りつつあった折から、戦史部のありさまが以上のようであったことはやむを得なかったかも知れないが、少なからず私は落胆した。その中で一度は外に飛び出そうかとも考えた私の足を、ともかく部内に引きとめたのは、そこに収蔵されている莫大な資料であった。海軍では一戦闘のあとには、例えば海上戦闘なら、小は単艦から大は艦隊に至るまで、それぞれ「戦闘詳報」と「戦時日誌」とを中央に送付する義務があった。だから戦史部ではジッとしたままで、転手古舞(テンテコマイ)するほどたくさんの貴重な資料が入手できた。それをいつでも自由に披見出来ることは、何ごとにも代え難い大きな魅力であった。ことに敗戦の四十五年になってからだと思うが、情報担当の軍令部第三部から、古い資料が場所ふさげでこまるから、そちらで不要なら焼却するがという照会があって、そのあげく資料の山が戦史部に移管されたとき、私の胸は躍った。それらは昭和初年からの各種対外案件に関する陸・海・外の機密電報、外地からの情報、中央国策決定の文書、軍令部甲部員(政策担当)関係の作戦日誌……さては新聞の切り抜きに至るまで、いずれも実によく整備された珠玉の資料であった。そのころ私は太平洋戦争のひとつの重要な核である日中両国のもつれ、そして戦争を、いつの日にか解明してやろうと考えていたので、これらの資料の中から主として中国関係のもの──つまり軍令部第六課(中国情報担当)のもの──ばかり二百冊余(一冊平均約二百枚)をえらび出し、自分用の金庫にこれを格納した。そして公務のあいまにこれを取り出しては、少しずつ読んでいった。

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 (玉音放送後の)戦史部の店じまいでは、やはり資料の始末が最大の問題だった。海軍大臣からは機密書類焼却の厳命が来ていた。だが当時資料保管の責任者であった私には、到底焼く気になれなかったし、また将来のために焼くべきでないと考えた。そこで私は独断で、ある日ひそかに湖畔の村の某家を訪れ、資料の隠匿を依頼した。幸い同家ではこれを快諾し、二階の物置をこれにあてるということだったので、私はすぐにホテルに戻り、夜陰に乗じて運びこむべく、水兵を指図して資料の箱詰めの作業にとりかかった。ロビーを資料で一杯にして作業している最中に、終戦だというので本省へ出張した長井大佐が帰られた。そしてこのていたらくを何事かと不審がられ、やがて真相が分ると「大臣の命令が分らないのか。全部焼け」と命じられた。先任部員の立場としては、もちろん当然の発言だったのだろう。私も上官の命令とあればやむを得ず、即刻箱詰めの作業を焼却作業に切換えた。それから四日三晩、徹夜で資料は火葬に付された。炎々たる焔は天を焦し、最初の晩には村人が火事とまちがえて駆付けるほどだった。
 こうして戦史部の全機密書類は焼却完了ということになった。しかしそのことは必ずしも事実と符合しなかった。なぜならば焼却の指導者であった私は、またしても独断で例の二百冊の日中関係資料をえらび出し、家族を疎開させてあった山中湖畔の借家に、ひそかに運びこませてしまったからである。これは明らかに大臣命令違反であり、またやがて進駐して来るアメリカ軍の追求を受ける恐れもあった。しかしこのことに関する限り、臆病者の私にしてはふしぎなことに少しも恐くなかった。これという理由もなしに、私は当然これを守るべきだし守り得ると考えていた。
 このようにこれらの資料と私ふしぎな縁でつながれていた。終戦後、私は職場を失い、また元軍令部職員ということから、しばらくは教員の適格審査にも合格せず、いささか世の辛酸をなめた。しかしそのようなことは臆病者、卑怯者の当然受けるべきしもと(木製のむち)であって、 問題ではない。私の任務は、幸い残すことのできたこれらの資料を活用することにある。だから今まで細々とではあったが、これらをもとに研究を続けてきた。そして一方では、私物ではないこれらに日の目を見せるチャンスをうかがってきた。
 幸い今回同学の人々と共に、みすず書房の「現代史資料」の企画に乗ることになってチャンスは到来した。第七巻満州事変では、これらの中から三、四編を出したに過ぎないが、第八巻「日中戦争(1)」の中には大量に放出して、大方の利用に資すべく、目下校正の歩を進めている。かつてハーバード大学から、そこの日本語講師をしている旧知を通じて、これらの資料買上げの話しがあった。そうすることも意義のあることだが、やはり今回のような形で国内に公表するのが本筋だろう。ハーバード大学や、そこの私の旧知からもこうなってかえってよかったと思ってもらえると信じている。

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