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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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「従軍慰安婦」五つの問題点(藤岡信勝)に対する異論④

2020年09月29日 | 国際・政治

 藤岡信勝氏が「国民の油断 歴史教科書が危ない」(PHP文庫)で、「従軍慰安婦」五つの問題点の第四として指摘しているのは、下記のとおりです。

第四に、教育的に全く無意味だということです。限られた学校教育の時間を割いて、人間の暗部を早熟的に暴いてみせることに何の意味があるのでしょうか。教科書にまで載せて、教師が授業で取り上げる必要はありません。それは害こそあれ、何の得るところもありません。
 もちろん人間の暗部に目を向けるべきだという議論もあり得るでしょうが、人間の暗部というのはそれ以外にもさまざまにあるわけで、それは子どもが大人になる過程で、さまざまなことのなかから、自然に学んでいけばいいことです。制約された学校教育の中の貴重な時間を使って、性産業についてわざわざ教える必要は認められません。それよりもっと教える価値のある大切なことは、歴史に限ってもたくさんあるのです。”

 二度とくり返してなならない戦争の悲劇を後世に伝えることが、教育的に何の意味もないことでしょうか。
 国連人権委員会より任命された女性に対する暴力に関する特別報告者である、ラディカ・クマラスワミ氏の報告書には、日本軍の「従軍慰安婦」問題(報告書では「軍事的性奴隷問題」とされている)について解決のための勧告が含まれていますが、その中には、
(e)歴史的現実を反映するように教育課程を改めることによって、これらの問題についての意識を高めること
 という項目があります。それは、元「従軍慰安婦」の人たちの要求でもあり、尊厳回復のためにもも不可欠なのだろうと思います。
 国際化の進んでいる今日、被害国の子どもたちが詳しく教えられている事実を、加害国日本で教えないということになれば、日本の子どもたちは戦争の事実、特に加害の事実を何も知らないことになって、真の信頼を得ることが難しくなるのではないでしょうか。
 「従軍慰安婦」の問題は、わが国が過去におかしたアジア地域の女性に対する組織的暴力であり、女性及び外国人に対する差別でもあると思います。恥かしい事実にはちがいありませんが、日本人は、この事実から目をそらしてはならないと思います。そういう事実を、どういう時期に、どのように教えるかということについては、私にはよくわかりませんが、二度とくり返してはならない、戦争の残酷で悲惨な事実の一つとして、教えなければならないと思います。人命軽視・人権無視の歴史的事実を教えることが”教育的に全く無意味だ”というようなことは決してないと思います。

 1991(平成三)年、韓国で初めて元慰安婦として名乗り出て、自らの体験を語った元「従軍慰安婦」金学順さんは、”歴史を正しく伝えてほしい”として、下記のようなことを語っています。

過去の侵略の歴史を若い世代に正しく伝えてほしいと思っています。日本の若者たちは日本が過去にどうしたことをしたか知らない。日本政府が過去にあった侵略の歴史を隠し、なかったことだというふうに押し通しているから、若い世代が知らないのです。若い世代、次の世代に正確に歴史を伝えてほしいのです。過去にあったこと、悪かったことも正しく伝えなくてはなりません。それを隠すということは、それをまた繰り返すことにもなりかねません。
 日本は朝鮮を三十六年間植民地支配し、多くの朝鮮人を殺し、朝鮮という国をなくそうとした歴史があります。姓や名前までも変え、日本人として名乗らないと学校へも通えなかった時代が三十六年間続いたのです。そのような歴史を今の若い人に隠し、なかったことだというのではなく、正しく伝えてほしいのです。


 私は以前アジアの国々が、どのように戦争を語り継いでいるのか、それぞれの国の教科書には、どのようなことが書かれているのか、ということについて、下記のようなタイトルで、その一部をアップしています。

 アジアの教科書に書かれた日本の戦争 シンガポール
 アジアの教科書に書かれた日本の戦争 マレーシア
 アジアの教科書に書かれた日本の戦争 ブルネイ・ミャンマー
 アジアの教科書に書かれた日本の戦争 タイ
 アジアの教科書に書かれた日本の戦争 ベトナム・ラオス・カンボジア
 アジアの教科書に書かれた日本の戦争 フィリピン
 アジアの教科書に書かれた日本の戦争 インドネシア

 これらを読むと、村山談話の下記の一節は、日本人にとって、とても重要だと思います。

いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。

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「従軍慰安婦」五つの問題点(藤岡信勝)に対する異論③

2020年09月28日 | 国際・政治

 藤岡信勝氏が「国民の油断 歴史教科書が危ない」(PHP文庫)で、「従軍慰安婦」五つの問題点の第三として指摘しているのは、下記のとおりですが、筋違いの話だと思います。

 

第三に、売春自体が許しがたい悪徳で、当時、仮に合法的であったとしても、今の観点から見てこれはやはり過去に遡って糾弾すべきことだという観点から、教科書に慰安婦問題をかくべきだという立場もあり得ます。

 しかし、当時の社会には、戦地の軍付属の慰安施設だけでなくて、内地においてもごく普通に女郎屋とか赤線とかよばれるさまざまな施設がありました。だから売春がけしからんというならそのことを書かなければいけない。また、世界中の国々の軍隊がそうした施設を持っていましたからそれも書かなければいけない。アメリカ占領軍自体が日本にやってきたときに、真っ先にそういう施設を日本側に要求したという事実もあります。

 松本清張の『ゼロの焦点』という推理小説は、米軍相手の慰安施設で働いていたという過去を持った女性が自分の前歴を隠すために犯罪をおかすというストーリーです。ところが、そうした事実を一切伏せておいて、戦前の日本の軍隊だけがこういうものを持っていたかのように書くのは、きわめてアンフェアです。日本人だけが好色で、淫乱で、愚劣な国民であるということを、国民の税金を使って教科書に書き込ませて、中学生に教え込むということになるのです。これは絶対に許しがたいことです。そして何よりも、もし慰安婦問題を糾弾している人たちが、売春自体が悪徳だという観点で問題にしているとすれば、過去の悪徳はさておき、今、現在進行中の悪徳を先ず以て阻止しなければならないはずで、新宿・歌舞伎町あたりに真っ先にデモをかけるべきでしょう。ところが、そういうことは一向にしないのです。

 日本においてだけでなく、どこの国においても売春が盛大に行われていることは、ほとんどだれもが知っている公然の秘密です。そういうことは糾弾せずに、過去の日本軍の慰安施設だけを問題にするということは、売春そのものに反対しているのではなく、日本の国家とか日本の軍隊を糾弾することが真の動機だということを暴露しています。

 

 「従軍慰安婦」の問題は、「売春婦」の問題とは別の問題です。理由はいろいろでしょうが、売春婦や娼婦と呼ばれた人たちは、報酬を得ることを目的に、性交渉に応じる人たちです。それはそれで、大きな問題があるため、1956(昭和31)年、「売春防止法」が公布されたのだと思います。

 でも、多くの「従軍慰安婦」は、体を売ったのではなく、性交渉を強制されたのです。性交渉を拒否したために、日本兵に殴られたという証言があります。なかには斬りつけられたという証言もあります。慰安所経営者からひどい仕打ちを受けたという証言もあります。「従軍慰安婦」は、売春婦ではないのです。

 1995年10月25日発行のアジア女性基金パンフレットは、政府の調査結果に基づいて、「従軍慰安婦」問題について、下記のようにまとめています。下記の文章が、でっち上げられた話でないことは、元「従軍慰安婦」の証言はもちろん、元日本兵の証言や、当時の政府が発した要請文書によって関係機関から集められた公文書、また、その後歴史家や研究者が、さまざまなところから見つけ出した諸文書によって明らかだと思います。

 だから、藤岡氏が「従軍慰安婦」五つの問題点の第三にあげられた話は、筋違いだと思うのです。

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             「従軍慰安婦」にさせられた人々

    ─1995年 10月25日発行 アジア女性基金パンフレットより─

 「従軍慰安婦」とは、かつての戦争の時代に、日本軍の慰安所で将兵に性的な奉仕を強いられた女性のことです。

 慰安所の開設が、日本軍当局の要請によってはじめておこなわれたのは、中国での戦争の過程でのことです。1931年(昭和6年)満州事変がはじまると、翌年には戦火は上海に拡大されます。この第1次上海事変によって派遣された日本の陸海軍が、最初の慰安所を上海に開設させました。慰安所の数は、1937年(昭和12年)の日中戦争開始以後、戦線の拡大とともに大きく増加します。

 

 当時の軍の当局は、占領地で頻発した日本軍人による中国人女性レイプ事件によって、中国人の反日感情がさらに強まることをおそれて、防止策をとることを考えました。また、将兵が性病にかかり、兵力が低下することをも防止しようと考えました。中国人の女性との接触から軍の機密がもれることもおそれられました。

 岡部直三郎北支那方面軍参謀長は1938年(昭和13年)6月に出した通牒で、次のように述べています。

 

「諸情報ニヨルニ、………強烈ナル反日意識ヲ激成セシメシ原因ハ………日本軍人ノ強姦事件カ全般ニ伝播シ………深刻ナル反日感情ヲ醸成セルニ在リト謂フ」「軍人個人ノ行為ヲ厳重ニ取締ルト共ニ、一面成ルヘク速ニ性的慰安ノ設備ヲ整ヘ、設備ノナキタメ不本意乍ラ禁ヲ侵ス者無カラシムルヲ緊要トス」

 このような判断に立って、当時の軍は慰安所の設置を要請したのです。

 

 慰安所の多くは民間の業者によって経営されましたが、軍が直接経営したケースもありました。民間業者が経営する場合でも、日本軍は慰安所の設置や管理、女性の募集について関与し、「統制」を行いました。日本国内からの女性の募集について、1938年3月4日に出された中央の陸軍省副官の通牒には次のようにあります。

 「支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為、内地ニ於テ之ガ従業婦等ヲ募集スルニ当リ、故ニ軍部諒解等ノ名義ヲ利用シ、為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ、且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ、或ハ………募集方法誘拐ニ類シ、警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等、注意ヲ要スルモノ少ナカラザルニ就テハ、将来是等ノ募集ニ当タリテハ、派遣軍ニ於テ統制シ、之ニ任ズル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ、其ノ実施ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連繋ヲ密ニシ、以テ軍ノ威信保持上、並ニ社会問題上、遺漏ナキ様配慮相成度依命通牒ス」

 

 最初は日本国内から集められた女性が多かったのですが、やがて当時日本が植民地として支配していた朝鮮半島から集められた女性がふえました。その人たちの多くは、16、7歳の少女もふくまれる若い女性たちで、性的奉仕をさせられるということを知らされずに、集められた人でした。

 

 1941年(昭和16年)12月8日、日本は米英オランダに宣戦布告し、(太平洋戦争)、戦線は東南アジアに広がりました。それとともに慰安所も中国から東南アジア全域に拡大しました。そのほとんどの地域に朝鮮半島、さらには中国、台湾からも、多くの女性が送られました。旧日本軍は彼女たちに特別軍属に準じた扱いをおこない、渡航申請に許可をあたえ、日本政府は身分証明書の発給をおこなうなどしました。それと同時にフィリピン、インドネシアなど占領地の女性やオランダ女性が慰安所に集められました。この場合軍人が強制的手段をふくめ、直接関与したケースも認められます。

 

 慰安所では、女性たちは多数の将兵に性的な奉仕をさせられ、人間としての尊厳をふみにじられました。さらに、戦況の悪化とともに、生活はますます悲惨の度をくわえました。戦地では常時、軍とともに行動させられ、まったく自由のない生活でした。

 日本軍が東南アジアで敗走しはじめると、慰安所の女性たちは現地に置き去りされるか、敗走する軍と運命をともにすることになりました。

 

 一体どれほどの数の女性たちが日本軍の慰安所に集められたのか、今日でも事実調査は十分に「はできていません。1939年(昭和14年)広東周辺に駐屯していた第23軍司令部の報告では、警備隊長と憲兵隊監督のもとにつくられた慰安所にいる「従業婦女ノ数ハ概ネ千名内外ニシテ軍ノ統制セルモノ約850名、各部隊郷土ヨリ呼ビタルモノ約150名ト推定ス」とあります。第23軍だけで一千人だというのですから、日本軍全体では相当多数の女性がこの制度の犠牲者となったことはまちがいないでしょう。現在研究者の間では、5万人とか、20万人とかの推計がだされています。

 

 1945年(昭和20年)8月15日戦争が終わりました。だが、平和がきても、生き残った被害者たちにはやすらぎは訪れませんでした。ある人々は自分の境遇を恥じて、帰国することをあきらめ、異郷に漂い、そこで生涯を終えました。帰国した人々も傷ついた身体と残酷な過去の記憶をかかえ、苦しい生活を送りました。多くの人が結婚もできず、自分の子供を生むことも考えられませんでした。家庭ができても、自分の過去をかくさねばならず、心の中の苦しみを他人に訴えることができないということが、この人々の身体と精神をもっとも痛めつけたことでした。

 軍の慰安所で過ごした数年の経験の苦しみにおとらない苦しみの中に、この人々の戦後の半世紀を生きてきたのです。

 

 現在韓国では、政府に届けでた犠牲者は162名とのことです。フィリピン、インドネシア、台湾、オランダ、朝鮮民主主義共和国、中国などの国や地域からも名乗りでている方々がいます。しかし、いずれにしても多くの人がこの世を去ったか、名乗りでることをのぞんでおられないのです。このことも忘れてはならないでしょう。

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 先日、 名古屋市の河村たかし市長が、愛知県の大村秀章知事の辞職勧告決議を求める請願を県議会事務局に提出したといいます。その理由の一つが「あいちトリエンナーレ2019」企画展「表現の不自由展・その後」の展示内容だということです。

 「平和の少女像」などを展示した国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」内の企画展『表現の不自由展・その後』が、開催から三日間で中止に追い込まれたことは、記憶に新しいと思います。”ガソリン携行缶を持ってお邪魔する”という脅迫があったという事実は忘れられません。「従軍慰安婦」の問題について考える事を許さない雰囲気や、展示内容が不愉快だからということで、表現の自由を認めようとしない雰囲気が広がっていることは恐ろしいことだと思います。河村名古屋市長には、表現の自由を尊重してもらいたいと思います。

 国際連合人権委員会特別報告者による「従軍慰安婦」に関するクマラスワミ報告書マクドゥーガル報告書の記述を無視してはならないと思います。「従軍慰安婦」が売春婦だったという議論は、世界では通用しないのです。

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「従軍慰安婦」五つの問題点(藤岡信勝)に対する異論②

2020年09月26日 | 国際・政治

 藤岡信勝氏が「国民の油断 歴史教科書が危ない」(PHP文庫)で、「従軍慰安婦」五つの問題点の第二として指摘しているのは、下記のとおりです。

第二に、慰安婦問題の焦点は、強制連行があったかどうかです。
 それが焦点なのです。軍に付属の慰安施設があって、そこで売春が行われていたことは、誰もが認めていることで争いがありません。男性の集団である軍を相手に、戦地で売春という商売が行われていたこと自体は、当時において違法でも何でもないのです。
 問題は、日本軍が組織的に取り組んで強制的に朝鮮の女性を連行した事実があれば、これはセックス・スレイブ(性奴隷)です。しかし、そうでなければ、これは自由意志によって、仕事として、職業としてやっていたことで、プロスティテュート(売春婦)です。プロスティチューション(売春)は、人類の最も古い職業と言われています。強制連行があったという事実は、ただの一件も確実な証拠によって証明されていません。まして、日本軍が方針として強制連行したなどということはありません。

 藤岡氏のこのような主張には、いくつかの問題があると思います。
 先ず藤岡氏は、元「従軍慰安婦」の数多くの証言を完全に無視されていると思います。日本側に強制連行の証拠が残されていなくても、それが、強制連行がなかったということにはならないと思います。自ら売られたことを証言している元「従軍慰安婦」の方もおられるのですが、その多くは騙されたという証言であり、強制連行されたという証言もあるのです。
 藤岡氏と同じようなことをいう人たちが少なくないので、私は証言集から、下記のような証言を抜き出してアップしています。こうした韓国、中国、台湾、フィリピンの元「従軍慰安婦」の人たちの証言が、すべて”嘘”であると、どうして断定できるのでしょうか。

 朝鮮人慰安婦の声に”耳を澄ませる"その1── 初潮前に処女を奪われ 李相玉(イ・サンオク)
 朝鮮人慰安婦の声に”耳を澄ませる"その2──「一家に一人の供出」だと言われ  
                                   黄錦周(ファンクムジュ)
 朝鮮人慰安婦の証言 その3 ─────────  挺身隊から慰安婦に 姜徳景(カンドクキョン)
 朝鮮人慰安婦の証言 その4 ────── 自宅のそばの慰安所に監禁  尹頭理(ユンドウリ)
 中国に連行された「慰安婦」──── 家の中でも、外に出てもみじめだ 洪江林(ホン・ガルリム) 
 中国に連行された朝鮮人「慰安婦」─── 故郷の歌に悲しみをこめて…  鄭学銖(チョン・ハクス)   
 強制連行、監禁、強かん ─────  十人が監禁されていた     テオドラ・コグロン・インテス 
 慰安婦狩り、監禁、強かん、殺人  ── 父を殺され、将来を破壊された  トマサ・サリノダ  

 また、藤岡氏は”慰安婦問題の焦点は、強制連行があったかどうかです。それが焦点なのです”といいますが、「従軍慰安婦」の問題は「強制連行」だけではないのです。「慰安婦」を戦地に送り、「慰安所」に拘束するような状況において、性交渉を強制することも、著しい人権侵害だと思います。「性奴隷」といわれる所以です。強制連行がなくても問題なのです。

 さらに、藤岡氏は”当時において違法でも何でもないのです”というのですが、「醜業婦ノ取締ニ関すスル1910年5月4日国際条約」には


第1条 何人ニ拘ラス他人ノ情欲ヲ満足セシムル為メ売淫セシムル意思ニテ未丁年ノ婦娘ヲ傭入レ誘引若クハ誘惑シタル者ハ仮令本人ノ承諾アルモ又犯罪構成ノ要素タル各種ノ行為カ他国ニ於テ遂行セラレタルトキト雖モ処罰セラルヘキモノトス 

第2条 何人ニ拘ラス、他人ノ情欲ヲ満足セシムル為メ売淫セシムル意思ニテ詐偽、暴行、強迫、権勢其他強制的手段ヲ以テ成年ノ婦娘ヲ雇入レ誘引若クハ誘惑シタル者ハ仮令犯罪構成ノ要素タル各種ノ行為カ他国ニ於テ遂行セラレタルトキト雖モ処罰セラルヘキモノトス

第3条 現ニ各締盟国ノ法規カ前2条ニ規定セラレタル犯罪ヲ処罰スルニ足ラサルトキハ締盟国ハ各自国ニ於テ其犯罪ノ軽重ニ従ヒ処罰スル為メ必要ナル処分ヲ定メ若クハ之ヲ立法府ニ建議センコトヲ約束ス” 


 とあります。未丁年(未成年)の場合は、たとえ本人の承諾があっても婦女子を「慰安婦」のような立場におくことを犯罪とする国際法があったのです。日本軍は、性病の関係で売春の経験がある女性ではなく若い女性を求めたので、多くの少女が「慰安所」に送られました。”当時において違法でも何でもないのです”というのは、事実に反し、国際法を無視するものだと思います。 

 また、藤岡氏は”強制連行があったという事実は、ただの一件も確実な証拠によって証明されていません。まして、日本軍が方針として強制連行したなどということはありません”などと断定しているのですが、敗戦時、大量の公文書が焼却処分されたことを、どのように考えておられるのか疑問に思います。

 当時内務省の官僚だった故・奥野誠亮元法相が、公文書焼却の指示について、下記のようなことを明かしたと聞いています。
 ”ポツダム宣言は「戦犯の処罰」を書いているから、私が会議で、「犯罪人を出さないために、証拠にされるような公文書は全部焼かせてしまおう」と言った。その後、公文書焼却の指令書を書いた
 そして、現実に大量の公文書が焼却処分されたのです。焼却処分に関しては、多く人がその事実を証言しています。奥野発言を待つまでもなく、それは、責任ある立場の人たちが、犯罪に問われることを逃れるための対応だったと思います。

 日本がポツダム宣言を受諾を決定した直後から、公文書の焼却が各機関で行われたのです。それは当然のことながら、内務省関係だけではなく、軍関係で特に徹底されたのです。大本営や陸軍省・海軍省はもちろん、各司令部や現地部隊にいたるまで、文書の焼却処分が指示・徹底されたといいます。そして、それは兵士・軍物資の供給を担っていた各地方行政機関にまで及んだと聞いています。
 膨大な公文書を焼却処分しておきながら、多くの元「従軍慰安婦」の証言を無視し、”強制連行があったという事実は、ただの一件も確実な証拠によって証明されていません。まして、日本軍が方針として強制連行したなどということはありません”などと断定する資格が、日本人にあるのでしょうか。

 「従軍慰安婦資料集」吉見義明編(大月書店)には、下記のような陸軍省兵務局兵務課起案の文書が取り上げられています。軍や官憲が「慰安所」の設置・運営に深く関わっていたこと、そして、「慰安婦」が単なる売春婦ではなかったことを示しているのではないかと思います。

1938年3月4日   
            軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件
        副官ヨリ北支方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒案

 支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為、内地ニ於テ之ガ従業婦等ヲ募集スルニ当リ、故ラ(コトサラ)ニ軍部諒解等ノ名義ヲ利用シ、為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ、且(カ)ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞(オソレ)アルモノ、或ハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ、或ハ募集ニ任ズル者ノ人選適切ヲ欠キ、為ニ募集方法誘拐ニ類シ、警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等、注意ヲ要スルモノ少ナカラザルニ就テハ、将来是等(コレラ)ノ募集ニ当タリテハ、派遣軍ニ於テ統制シ、之ニ任ズル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ、其ノ実施ニ当リテハ、関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連繋(レンケイ)ヲ密ニシ、以テ軍ノ威信保持上、並ニ社会問題上、遺漏ナキ様配慮相成度(アイナリタク)、依命(メイニヨリ)通牒ス。

 藤岡氏のように、日本にとって不都合な事実に目を向けない主張では、日中や日韓の関係は永遠に改善されないことになるのではないでしょうか。われわれだけでなく、将来世代にとっても、大変不幸なことだと思います。また、国際平和や経済的側面でも大変なマイナスだと思います。私は、真摯に歴史の事実に向き合って、信頼関係を深めたいと思います。
 

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「従軍慰安婦」五つの問題点(藤岡信勝)に対する異論①

2020年09月25日 | 国際・政治

  私は、日本が近隣諸国の信頼を得て、よりよい日中関係や日韓関係を築くためには、過去の歴史に真摯に向き合う必要があると思っています。そして、自分自身の歴史認識をより客観的で確かなものにするために、敢えて、その主張が受け入れられないと思われる人の著作も手に取るように心がけています。

 今回は、「新しい歴史教科書をつくる会」創設者として知られる、西尾幹二氏と藤岡信勝氏の「国民の油断 歴史教科書が危ない」(PHP文庫)を読みました。予想通りとても違和感を感じました。
 だから、昨年も”あいちトリエンナーレ『平和の少女像』展示”で大きな問題となった、いわゆる「従軍慰安婦」の問題に焦点を当て、藤岡信勝氏があげた五つの問題点を一つ一つ抜萃し、自分の考えをまとめておきたいと思いました。
 同書の”第六章 歴史的事実が確定していないことを書く「雰囲気」史観”の中に、”慰安婦を日本や日本軍糾弾の材料に──藤岡”と題して五つの問題点があげられています。その第一には、下記のようにあります。

第一に、「従軍慰安婦」と言うけれども、そんな言葉は一体あったのかどうかという問題です。「従軍」という言葉は、戦前の軍の正式の用語として規定があって、これは軍属であることを示す用語でした。軍の正規の組織の一部なのです。だから「従軍看護婦」もいるし、「従軍記者」もいるいし、「従軍僧侶」もいました。「従軍」という言葉はそういう明確な定義のある公的な用語です。そして「従軍慰安婦」というのは当時、存在していません。
 そういう事実を無視して、千田夏光という作家が『従軍慰安婦』『従軍慰安婦慶子』という本を書きました。私は後者の本で「従軍慰安婦」という言葉に最初に接したのですが、作家がつくった通俗的な言葉をあたかもそういう制度があったかのように教科書に載せるのは問題だというのが、まず第一点です。
 ただし、「従軍慰安婦」という言葉をそのまま使っているのは七社中三社で、他の四社は「慰安婦」としてとか、あるいは「慰安婦として従軍させた」となっています。内容的にはほとんど同じですが、厳格に「従軍慰安婦」という言葉ではありません。世上、「従軍慰安婦」という言葉が当たり前のように使われているのが、まず根本的に問題といえましょう。

 「従軍慰安婦」という言葉には、確かにいろいろな意味で問題があると思います。でも、それは藤岡氏のいう意味においてではありません。
 藤岡氏は、戦地に売春婦はいたし、娼婦はいたけれど、「従軍慰安婦」などいなかったという意味で、「従軍慰安婦」という言葉が存在しなかったことを主張されているのではないかと思いますが、いわゆる戦地の「従軍慰安婦」は、一般的に「売春婦」や「娼婦」と呼ばれる女性とは明らかに異なる存在でした。日中戦争が長引くと、軍の方針によって戦地のあちこちに「慰安所」つくられるようになりました。そして、「従軍慰安婦」という言葉の存在など関係なく、軍が管理する慰安所で、意思に反して毎日のように多数の日本の軍人に性交渉を強制された女性が存在したのです。そうした女性を「慰安所」に拘束するような状況に置いて「慰安婦」と呼び、時には軍とともに移動させたので、千田夏光氏が「従軍慰安婦」という言葉を使ったのだと思います。「従軍慰安婦」という言葉が、日本人にはもっともわかりやすく、実態を踏まえた言葉だったからではないかと思います。
 でも、当然のことながら軍や政府は、戦地の「慰安所」や「慰安婦」の実態が知れ渡ることを恐れ、極秘裏に事を進めていたので、「従軍慰安婦」というような言葉は存在しなかったのではないかと思います。
 

 「従軍慰安婦」という言葉の問題について考えなければならないのは、「従軍慰安婦」と呼ばれる女性の多くが「軍」に「従う」ことを強制されたのであり、意思に反するものであったということと、「慰安婦」という言葉は、軍人側にとっての勝手な言葉であったということです。一部の「慰安婦」が、日本兵の「慰安」という意識を持って性交渉に応じていたことは否定できませんが、大部分の女性は、その証言から強制されたことが明らかなのです。だから「慰安婦」という言葉は、性交渉を強制した側の勝手な呼び方だということです。

 国連人権委員会より任命された「女性に対する暴力に関する特別報告者」のラディカ・クマラスワミ氏の報告書は、「戦時における軍事的性奴隷問題に関する朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国および日本への訪問調査に基づく報告書」と題されています。「慰安婦」ではなく「性奴隷」という言葉が使われているのです。 
 また、1998年8月、国連人権委員会差別防止・少数者保護小委員会で採択された「戦時性奴隷制特別報告者ゲイ・マクドゥーガルの「武力紛争下の組織的強姦・性奴隷制および奴隷制類似慣行に関する最終報告書」の「附属文書」 には”1932年から第2次大戦終結までに、日本政府と日本帝国軍隊は、20万人を越える女性たちを強制的に、アジア全域にわたる強かん所(レイプ・センター)で性奴隷にした。これらの強かん所はふつう、「慰安所」と呼ばれた。許し難い婉曲表現である。”とあります。「慰安所」を「強かん所」であるというのです。日本人は、噛み締める必要があるのではないかと思います。

 下記は、そうした慰安所の実態の一端を示す、フィリピンのイロイロ島における「慰安所使用規定」です。「従軍慰安婦資料集」吉見義明編(大月書店)に取り上げられているものです。
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  比島軍政監部ビサヤ支部イロイロ出張所 慰安所(亜細亜会館 第1慰安所)規定
一、本規定ハ比島軍政監部ビサヤ支部イロイロ出張所管理地区内ニ於ケル慰安所実施ニ関スル事項ヲ規定ス
二、慰安所ノ監督指導ハ軍政監部之ヲ管掌ス
三、警備隊医官ハ衛生ニ関スル監督指導ヲ担任スルモノトス接客婦ノ検黴ハ毎週火曜日拾五時ヨリ行フ
四、本慰安所ヲ利用シ得ベキモノハ制服ヲ着用ノ軍人軍属ニ限ル
五、慰安所経管(営?)者ハ左記事項ヲ厳守スベシ
 1、家屋寝具ノ清潔並日光消毒
 2、洗浄消毒施設ノ完備
 3、「サック」使用セサル者ノ遊興巨止
 4、患婦接客禁止
 5、慰安婦外出ヲ厳重取締
 6、毎日入浴ノ実施
 7、規定外ノ遊興拒止
 8、営業者ハ毎日営業状態ヲ軍政監部ニ報告ノ事
六、慰安所ヲ利用セントスル者ハ左記事項ヲ厳守スヘシ
 1、防諜ノ絶対厳守
 2、慰安婦及楼主ニ対シ暴行脅迫行為ナキ事
 3、料金ハ軍票トシテ前払トス
 4、「サック」ヲ使用シ且洗浄ヲ確実ニ実行シ性病予防ニ万全ヲ期スコト
 5、比島軍政監部ビサヤ支部イロイロ出張所長ノ許可ナクシテ慰安婦ノ連出シハ堅ク禁ズ
七、慰安婦散歩ハ毎日午前八時ヨリ午前10時マデトシ其ノ他ニアリテハ比島軍
   政監部ビサヤ支部イロイロ出張所長ノ許可ヲ受クベシ尚散歩区内ハ別表1ニ依ル
八、慰安所使用ハ外出許可証(亦ハ之ニ代ベキ証明書)携帯者ニ限ル
九、営業時間及料金ハ別紙2ニ依ル
 別表1 公園ヲ中心トスル赤区界ノ範囲内トス (地図略)
 別表2
   区分      営業時間         遊興時間   料金 第1慰安所  亜細亜会館
   兵    自 9:00 至16:00  30分       1,00       1,50
下士官・軍属  自16:00 至19:00  30分         1,50    2,50
 見習士官   自19:00 至24:00  1時間       3,00    6,00

 

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中村大尉事件(リットン報告書の記述)

2020年09月19日 | 国際・政治

 中村大尉事件は、万宝山事件(「吉林総領事と万宝山事件」他参照)とともに、「満洲事変」の引き金になったとされる事件です。中村震太郎大尉は、軍命により”僻遠なる一地方”満洲北部興安嶺方面で任務遂行中、下記抜粋文にあるように、屯懇軍第三団(団長関玉衡)に捕まり、部下らとともに銃殺され、遺体を焼棄されたということです。
 中村大尉は”農業技師を装いスパイ活動をしていた”とか、”軍部の威信を中外に顕揚し、満蒙問題の根本的解決の端緒たらしむる”計画的挑発行為で犠牲になったという話もあるようですが、中村大尉事件に関するリットン報告書の記述は、日本側と支那側の両方の主張をそのまま取り上げており、特に調査団としての結論は下していません。そこに、リットン調査団の謙虚で公平な姿勢が読み取れるのではないかと思います。
 それだけに、 第四章における、日本側の「匪賊を使嗾(シソウ)」に関する記述や、 第六章の日本側の調査妨害に関わるような記述は見逃すことができません。

 下記は、「リットン報告書 日支紛争に関する国際連盟調査委員会の報告」国際聯瑛協会編・外務省仮訳(角川学芸出版)の「第三章 日支両国間の満州に関する諸問題」から「七 中村大尉事件」、「第四章 1931年九月十八日当日及満洲に於て発生せる事件の概要」から「事件突発直前の事態」の一部、 「第六章 満州国」から「第三節 満州居住民の意見」の一部を抜粋しました。(旧字体は新字体に、漢数字の一部は算用数字に変更しました)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
          第三章 日支両国間の満州に関する諸問題

七 中村大尉事件
 中村大尉事件は日本側の見解によれば満州に於ける日本の権益に対し支那側が全然之を無視せる幾多の事件が遂に其の極点に達せるものなり。中村大尉は1931年盛夏の候満州の僻遠なる一地方に於て支那兵に殺害せられたり。
 中村震太郎大尉は日本現役陸軍将校にして日本政府の認めたるが如く日本陸軍の命令に依る使命を有したり。哈爾濱通過の際支那官憲は同大尉の護照(旅券)を検査せるが同大尉は農業技師と自称せり。其の際大尉は其の旅行地域は匪賊横行地域なる旨警告せられ右事実は同大尉の護照に記載せられたり。同大尉は武器を携帯し且売薬を所持し居たるが支那側に拠れば売薬中には薬用に非ざる麻薬ありたり。六月九日大尉は三名の通訳者及助手を伴ひ東支鉄道西部の伊勤克特駅を出発せり。同大尉が洮南の方向において奥地へ相当の距離にある一地点に到達せる際一行は屯懇軍第三団長関玉衡の指揮する支那兵に監禁せられたり。数日後六月二十七日頃同大尉及一行は支那兵の為に射殺せられ死体は右行為の証跡湮滅の為焼棄せられたり。
 日本側は中村大尉及其の一行の殺害は不正にして日本軍隊及国民に対する侮辱なりと主張し又在満支那官憲は事件の公式調査を遷延し事件の責任を回避し且支那官憲は事件の真相を確むる為あらゆる努力を為しつつありと称するも何等誠意なかりしと主張せり。
 支那側は当初中村大尉及一行は慣習上内地旅行の際外国人が所持すべき許可証を検査する期間中監禁せられたること、同大尉一行は厚遇せられたること及中村大尉は逃走を企てつつある際一歩哨に射殺せられたることを主張せり。支那側に拠れば中村大尉は身辺に日本軍事地図一葉及日記帳二冊を含む書類を携帯せることを発見せられたるが右は同大尉が軍事偵察若しくは特別の軍事的使命を帯びたる将校なりしことを証するものなりと云ふなり。

 七月十七日中村大尉死去の報が在齊々哈爾日本総領事の許に到達せるが同月末在奉天日本官憲は支那地方官憲に対し中村大尉が支那兵に依り殺害せられたる確実なる証拠を有する旨を通告せり。八月十七日在奉天日本軍当局は中村大尉死去の最初の報道を公表せり(1931年八月十七日「マンチュリア・デーリー・ニュース」参照)。同日林総領事及事件調査の為東京日本陸軍参謀本部より満州へ派遣せられたる森陸軍少佐は遼寧省主席臧式毅と会見せるが臧主席は即時同事件を調査す可きことを約せり。
 臧式毅主席は其の後直ちに北平の一病院に病臥中なる張学良元帥及在南京外交部長に之を通告し又二名の支那人調査員を任命し直ちに所謂殺害の現場へ赴きたり。右二名の調査員は九月三日、又日本陸軍参謀本部の為独立に調査を為しつつありし森少佐は九月四日奉天に帰還せり。同日林総領事は支那参謀長栄臻将軍を訪問し同将軍より支那調査員の判定は不確実且不満足なりしを以て再度調査の必要ある可き旨の通告に接せり。栄臻将軍は満州事態の新たなる進展に関し張学良元帥と協議の為、九月四日奉天に帰還せり。

 張学良元帥は満州に於ける事態の重大なるを知り、臧式毅主席及栄臻将軍に対し遅滞なく中村事件の現地再調査を訓令せり。張学良元帥は本事件に対し日本陸軍が多大なる関心を有することを其の日本人軍事顧問より知りたるを以て事件を有効的に解決せんと欲する意思を明らかならしむる為柴山少佐を東京に派遣せり。柴山少佐は九月十二日東京に到着したるが其の後の新聞報道に拠れば張学良元帥は中村事件の速急且公平なる結末を得んことを切望し居る旨述べたり。其の間張元帥は満州に関する諸種の日支係争問題解決のため両国に取り何等共通点ありやを確めしむる目的を以て高級官吏湯爾和を外務大臣幣原男爵と商議せしむる為特別の使命の下に東京に派遣せり。湯爾和氏は幣原男爵、南大将及他の陸軍高級武官と会談せり。九月十六日張学良元帥は新聞記者と会見せるが新聞は張学良元帥が中村事件は日本側の希望に基づき臧式毅主席及満州官憲に依り処理せられ南京政府は與からざる可き旨述べたりと報道せり。

 第二回支那調査団は中村大尉殺害の現場を視察せる後九月十六日朝帰奉せり。十八日午後日本領事は栄臻将軍を訪問せるが其の際同将軍は関玉衡団長は九月十六日中村大尉殺害の責により奉天に召還せられ即時軍法会議において裁判せらる可き旨述べたり。日本側は奉天占領後関団長が支那側により陸軍監獄に監禁せられ居る旨発表せり。在奉天林総領事は九月十二日及十三日日本外務省に対し「調査員の奉天帰還後恐らく友好的解決を見る可きこと」殊に栄臻将軍は遂に支那兵が中村大尉殺害に対し責任あることを認めたることを報告せる旨報道せられたり。日本電報通信社奉天通信員は「支那屯墾軍団の兵隊に依る日本陸軍参謀本部中村震太郎大尉の所謂殺害事件の有効的解決は近きにあり」と九月十二日電報せり。然れども幾多の日本陸軍将校、殊に土肥原大佐は中村大尉の死去に対し責任ありと称さるる関団長は奉天において監禁せられ其の軍法会議の日取りが一週間以内なる可きものとして発表せられたる事実に鑑み、中村事件の満足なる解決を図らむとする支那側努力の誠意如何に付引続き疑惑を表明せり。支那官憲は九月十八日午後開催せられたる正式会議において、在奉天日本領事官憲に対し支那兵は中村大尉の死に対し責任あることを認め又速やかに事件が外交的に解決せらる可き希望を表示せるにより中村事件解決の為の外交交渉は九月十八日夜迄は好都合に進展しつつありしが如し。

 中村事件は他の如何なる事件よりも一層日本人を憤慨せしめ遂に満州に関する日支懸案解決の為実力行使を可とするの激論を聞くに至れり。本事件自体の重大性は当時萬寶山事件、朝鮮に於ける排支暴動、日本陸軍の満州国境圖們江渡河演習並に青島に於ける日本愛国団体の活動に対し行われたる支那人の暴行等に依り日支関係が緊張し居たる際なるを以て一層増大せられたり。
 中村大尉は現役陸軍将校なりしが此の事実は強硬迅速なる軍事行動の理由として日本側により指摘せられ斯る軍事行動に好都合なる国民的感情を純化する為満州及日本国において国民大会行はれたり。九月最初の二週間中日本新聞は陸軍において問題解決の為他に方法無きを以て武力に訴えるべきことに決定せりと繰り返し述べたり。
 支那側は事件の重大性は甚だしく誇張され居る旨並に右は満州の軍事占領に対する口実とせられたる旨主張し支那側に於て事件処理上不誠意または遅延ありたりとの日本側主張を否認せり。
 斯くて1931年八月末頃迄に満州に関する日支関係は本章に記述せるが如き幾多の紛議及事件の結果著しく緊張し来れり。両国間に三百の懸案あり且此等事件を処理すべき平和的手段が当事国の一方に依り利用し尽くされたりとの主張については充分なる実証あり得ず。此等所謂「懸案」は根本的に調和し得ざる政策に基づく一層広汎なる問題より派生せる事態なりき。両国は各他方が日支協定の規定を侵害し一方的に解釈し又は無視せりと責むるも両者何れも他方に対し正当なる言分を有したり。

 両国間の此等紛争解決の為一方又は他方に依り為されたる努力に付與えられたる説明に依れば外交交渉及平和的手段の正当なる手続きに依り処理する為多少の努力が為されたることを立証せられ居るも而も右手続は未だ十分用い尽くされざりき。然るに長期に亘る支那側の調査遅延は日本側をして之を隠忍し得ざる事態に立至らしめたり。特に軍部は中村事件の即時解決を主張し十分なる賠償金を要求せり。就中帝国在郷軍人会は世論喚起に與て力ありたり。
 九月中支那問題に関する一般的感情は中村事件を焦点として頗る強大となり満州に於て幾多問題を未解決のまま放置するの政策は支那官憲をして日本を軽視せしむるに至らしめたりとの意見屡々表示せられたり。あらゆる係争問題の解決が実力に依るを必要とする場合には実力に訴ふ可しとの決議は民衆の標語となれり。右目的を以てする計画討議の為の陸軍省、参謀本部及他の官憲間の会議、必要の場合に右計画を実行せしむ可き関東軍司令官に対する確定的訓令及九月上旬東京に招致され且必要なる場合には実力に依り成る可く速やかに有らゆる懸案を解決す可しとする主張者として新聞に引用せられたる奉天駐在武官土肥原陸軍大佐等に関する記事が新聞紙上に遠慮なく掲げられたり。此等及他の団体に依り述べられたる所感に付ての新聞報道は漸増しつつありし時局の危険なる緊張を支持せり。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    第四章 1931年九月十八日当日及満洲に於て発生せる事件の概要
 
 事件突発直前の事態
 ・・・
 支那に於けると同様満洲に於ても匪賊は常に存在したりき。職業的匪賊は政府の強弱に応じ其数或は大となり或は小となりて東三省の凡ゆる地域に存し、政治的目的の為め各党派に依り用ゐられたり。支那政府は調査団に対し最近二十年又は三十年の間に日本側の手先が其の政治的目的を遂ぐる為め非常に匪賊を使嗾(シソウ)せる旨述べたる書類を提出せり。右書類には南満州鉄道出版の「1930年に於ける満洲開発に関する第二回報告」の一節引用せられあるが右に依れば附属地内に於てすら匪賊の数は1906年の九件より1929年の368件に増加したる由なり。上述支那側書類に依れば匪賊は大連及関東州よりの大規模の武器密輸入に依り奨励せられたる由。例へば有名なる馬賊頭目凌印情は昨年十一月所謂独立自衛軍組織の為武器弾薬其他供給せられたる旨述べてあり。右自衛軍は三人の日本側手先の助力に依り組織せられ且錦州攻撃を目的とせるものなり。右企が失敗せる後他の匪賊頭目が同様の目的の為日本側助力を得たるが日本製の材料と共に支那軍の手に捕はれたり。

 勿論日本官憲は満州匪賊に関し別種の見方をし居れり。日本官憲に依れば匪賊の存在は全然支那政府の無能に基くものなり。日本官憲は又張作霖は或程度迄其領土内に匪賊の存在するを支持したりと称す。何となれば作霖は非常時には匪賊は容易に兵卒に改編せられ得べしと思考したればなり。日本官憲は張学良政府及其の軍の完全なる打倒が大に満州匪賊数を増加せしめたる事実を肯定する一方日本軍が満州に在る結果二、三年間に主要匪賊は掃蕩得せら得べき旨主張す。日本官憲は満州国警察及各に於ける自衛団の組織が匪賊を消滅せしむるに役立つべきことを望み居れり。現在の匪賊の多くは元来良民にして其の財産を凡て失ひたる為め現在の職業に投ずるに至れるものと信ぜられ居れり。農工の業を再び営む機会あらば之等匪賊は従前の平和的生活に復帰すべきこと望まれ居れり。
 ・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
               第六章 「満州国」

             第三節 満州居住民の意見

 満州居住民の新「国家」に対する態度を確かむることは本委員会の目的の一なりき。然れども調査を行ひたる現地の状況に依り証拠を蒐集することに若干の困難に遭遇せり。匪賊、朝鮮人共産主義者及支那側参与員の新政権批評の為同人の同伴を憤慨すべき新「政府」の擁護者等よりの本委員会に対する実際の又は予想せられたる危険は、委員会保護の為の例外的手段を執ることとなりたる一理由と成れり。同地方の動揺せる状態に於ては確かに実際の危険が屡々存せり。而して吾人は吾人の旅行中与へられたる効果的なる保護に対して感謝するものなり。然れども斯くて執られたる警察的手段の結果は証人を近づかしめざりしことなり。而して多数の支那人は吾人の部員と会見することすら卒直に恐怖し居たり。吾人は或場所に於て、何人と雖も官の許可なくして本委員会と会見するを許されざる旨吾人の到着前に通達されたることを聞きたり。依て会見は常に甚しき困難と且秘密裡に準備せられたり。然も斯る方法に依てすら吾人と会見することは彼等にとり餘りに危険なりしを吾人に知らせたる人多かりき。
 斯る困難にも拘らず吾人は「満州国」の役人及日本国の領事館陸軍将校との公の会見の外実業家、銀行家、教育家、医師、警察官、商人及其の他との私的会見を行ふことを得たり。吾人は又千五百通以上の書面を接受したるが、其の中若干は手交せられ大多数は各宛先に郵送せられたり。斯くして得たる情報は之を中立的方面に依り出来得る限り真偽を照会せり。
 公の団体又は協会を代表する多数の代表団を接受せるが彼等は通例吾人に陳述書を提出せり。代表団の多くは日本国又は「満州国」の官憲に依り紹介せられたり。而して吾人は彼等が吾人に手交せる陳述書が予め日本側の同意を得たるものなりと信ずべき強き理由を有せり。実際若干の場合に於ては陳述書を手交したる人々が後に至り右陳述書は日本人に依り書かれ又は甚しく修正せられたるものにして彼等の真の感情を表はせるものと看做されざるべきものなることを吾人に告げたり。此等の陳述書の顕著なる特質は「満州国」政権の樹立又は維持に対する日本の参加に対しては有利にも又反対にも批評することを故意に避けたる点なり。大体に於て此等の陳述書は従前の支那政権に対する不平の叙述に関するものにして且新「国家」の将来に対する希望と信頼を表明せる文句を包含せり。

 接受したる信書は農民、小商人、都市労働者級学生より発せられたるものにして、筆者の感情及体験を述べ居れり。本委員会が六月北平に帰還せる後、此の手紙の山は特に其の為に選任したる専門委員をして翻訳、分析及配列をなさしめたり。此等千五百通の手紙は二通を除き他は凡て新「満州国政府」及日本人に対し痛烈なる敵意を示せり。此等は真摯且自発的に意見を表明したるものの如く思はれたり。
 「満州国政府」の支那人の高級官吏は種々の理由の為其の地位に在るなり。彼等の多数は曾て旧政権の官吏たりしが誘惑又は種々の脅迫に依り引留められたるものなり。彼等の或者は脅迫に依り其の地位に留まることを強制せられたること、一切の権力は日本人の手中にあること、彼等は支那に忠誠なること及彼等が日本人立会いの下に行はれたる本委員会との会見に於て述べたることは必らずしも信を置くべきものに非ざること等の趣旨の通報を吾人に為したり。若干の官吏は彼等の財産の没収を禦ぐため其の地位に留まりたり。而して斯る没収は支那本部に遁入せる官吏中の若干人の場合に事実として起りたり。他の評判良き人々は、彼等が行政を改善する権力を有するに至るべしとの希望と、彼等が自由行動権を有すべしとの日本人の約束との下に参加したり。若干の満州人は満州人種に属する人々の為に利益を得るの希望の下に参加したり。彼等の或者は失望し且真の権力が彼等に与へられざることを訴へたり。尚少数の者は旧政権に対し個人的不平を有せし爲或は利得せんが爲其の地位に在るなり。
 ・・・
 吾人は支那人の大多数が「満州国」に対し敵意あるか然らざれば無関心なることを発見すると同時に新「政府」は満州に於ける少数民族団体─蒙古人、朝鮮人、白系露人及満洲人の如き─より或支援を受け居れり。彼等は程度は異れるも孰れも旧政権の為圧迫を受け又は過去数十年間に於ける多数の
支那移民の為経済的に不利益を蒙りたり而して何れの部族も新政権に全く傾倒せるものと云ひ能わざるも新政権より従来に優れる待遇を受くべきことを予期し新政権亦此等少数民族を支援す。
 

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満州の問題に関するリットン報告書の記述

2020年09月17日 | 国際・政治

 1995年年八月十五日、戦後五十周年の終戦記念日にあたり、村山富市内閣総理大臣は閣議決定に基づいて、いわゆる「村山談話」を発表しました。その中に下記のような一節があります。
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます
 ”皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設”するために、他国の主権を侵し、人命を軽視し、人権を無視し、戦争犯罪を重ねるに至った「国策」の誤りを、日本人は忘れてはならないと思います。

 ところが、残念ながら「村山談話」のような考え方を、「コミンテルン史観」とか「GHQ史観(東京裁判史観)」とか「自虐史観」とか名づけて批判し、日本の戦争を正当化しようとする人達がいます。そうした人たちは、「国策」の「誤り」を受け入れず、日本にとって不都合な事実をなかったことにしたり、過小評価したりする主張を繰り返しています。
 そして、2013年四月には、日本の総理大臣が”侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国との関係でどちらから見るかで違う”と発言し、戦前の日本による「植民地支配と侵略」について謝罪した「村山談話」を否定するに至りました。その結果、かつて”薩長史観”とよばれた歴史観によって、明治の時代が悉く明るく描かれたように、再び日本の歴史教科書が「創作物語」に変えられようとしているように思います。
 例えば、扶桑社の「新しい歴史教科書」の「戦時下の生活」には、
物的にもあらゆるものが不足し、寺の鐘など、金属という金属は戦争のために供出され、生活物資は窮乏を極めた。だが、このような困難の中、多くの国民はよく働き、よく戦った。それは戦争の勝利を願っての行動であった
 とあります。違和感を感じます。強制された側面が消されているからです。

 大事な事は、「村山談話」のような考え方は、他国から押しつけられたものでも、自虐でもないということです。日本にとって不都合な事実にも目を向け、歴史を客観的・総合的にふり返れば、当然出て来るものだと思うのです。

 「国民の油断」(PHP文庫)の中で、西尾幹二氏は日清戦争について、
日清衝突の本当の原因は、清が日本の抬頭を自らの中華秩序を乱すものとだけとらえて、近代化の成果、あるいは文明への努力とは見ずに、自国のみを文明とした大国中国の古い体質にありました。
 欧米の侵略には中国は寛大で、本来日本に対して優越意識をもっていたがゆえに、どうしても日本の中国への介入を冷静に考えられないのは、今日の日中関係にも継続する意識でしょう…”
 などと、書いています。とても受け入れられません。日本にとって不都合な事実にもしっかり目を向け、他国の受け止め方も踏まえて、歴史を客観的・総合的にふり返れば、そういう主張は生まれてこないと思います。

 少し時代が下りますが、リットン報告書を読むと、中国に対する日本の姿勢が、西尾幹二氏のいうようなものでなかったことがわかります。例えば、

満州は明に支那の一部たりしも同地方に於て日本は支那の主権行使を制限するが如き特殊の権益を獲得若は主張し両国間の衝突は其の当然の帰結なりき” とか”1915年一般に二十一個条要求として知らるる日本の異常なる要求の結果同年五月廿五日日支両国間に南満州及東部蒙古に関する条約の調印及公文の交換行はれたり
 とあります。二十一か条の要求には、日本こそ、”優越意識”をもって中国を支配下に置こうとしていた姿が読み取れるのではないかと思います。また、
支那人は満州を以て支那の構成部分と見做し同地方を支那の他の部分より分離せしめんとする一切の企てに対して憤激す。従来東三省は常に支那及諸列国が共に支那の一部と認むる所にして、同地方に於ける支那政府の法律上の権限に付異議の称えられたることなし。右は多数の日支間諸条約及協定並に他の諸国際条約に依り明なる所にして又日本を含む諸国の外務省より正式に公表せられたる多数のステートメントに繰返へされ居る所なり
 とあります。様々な勢力争いがあっても、「支那人」は満州を支那から切り離して独立させることは望んでいなかったということだと思います。
 日中戦争初期に外務省東亜局長を務めた外交官・石射猪太郎が、満州国建国が武力をもってなされたことを明らかにしつつ、”東三省中国民衆の一人だって、独立を希望したものがあったろうか”と「外交官の一生」(中公文庫)に書いていたことは、以前取り上げました。

支那人は満洲を以て其の「国防の第一線」と考へ居れり”とか”支那人は又経済的理由によるも満州の彼等の為に重要なるを認むるものにして、数十年來彼等は満州を「支那の穀倉」と呼び更に近年に至りては之を近隣諸省の支那農民及労働者の季節的勤労地と認むるに至れり”ということも、そのことを示していると思います。

 にもかかわらず
満州に於ける日本の利益は諸外国の夫れと其の性質及程度に於て全く異なるもの”であり、”満洲に関する日本の要求は支那の主権に抵触し又国民政府の翹望(ギョウボウ)と両立し得ざるものなり”であったとの指摘は、しっかり受け止める必要があると思います。
 ”皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設”するために、他国の領土に軍隊を送り、武力を背景にその主権を侵し、勝つために様々な戦争犯罪を重ねるに至った日本を、西尾幹二氏ように”西欧列強に単身立ち向かった日本”などと美化し、正当化する近代史の認識でとらえることは許されないことではないかと、私は思います。

 江戸時代後期の思想家、佐藤信淵の著書『宇内混同秘策』には、”皇大御国(スメラオオミクニ)は大地の最初に成(ナ)れる国にして世界万国の根本なり。故に能く根本を経緯するときは、則ち全世界悉く郡県と為すべく、万国の君長皆臣僕と為すべし”とありましたが、皇国日本は、明治維新以来こうした”優越意識”をもって、攻撃的に戦争をくり返してきたのであり、”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス”というような”架空の観念”は、日本の敗戦まで一貫したものであったことを無視したり軽視したりしてはならないと思います。

 下記は、「リットン報告書 日支紛争に関する国際連盟調査委員会の報告」国際聯瑛協会編・外務省仮訳(角川学芸出版)の「第三章 日支両国間の満州に関する諸問題」の一部抜粋です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
           第三章 日支両国間の満州に関する諸問題 

一、 支那に於ける日本の利益
 1931年九月に至る四半世紀間に於て満州と支那の他の部分との結合は追々強固となりつつあり夫れと同時に満州に於ける日本の利益は増加しつつありたり。満州は明に支那の一部たりしも同地方に於て日本は支那の主権行使を制限するが如き特殊の権益を獲得若は主張し両国間の衝突は其の当然の帰結なりき。
 1905年十二月の北京条約に依り支那は従来露西亜の租借し居たる関東州租借地及露西亜の管理し居たる東支鉄道南部線中長春以南の鉄道の日本への譲渡を承認し尚追加協定に依り支那は安東奉天間の軍用鉄道を改良し之を十五ヵ年間経営する権利を日本へ譲与したり。
 1906年八月勅令に依り従前の露西亜鉄道を安奉鉄道と共に引受け且管理する為南満州鉄道会社設立せられたるが、日本政府は鉄道、其の附属財産並に撫順及煙台の価値ある炭鉱を提供する代償として同会社の株式の半額を其の有とし同会社を統制する地位を得たり。同会社は鉄道地帯に於ける行政を委任せられ徴税を許され且鉱業、電気事業、倉庫業その他の諸事業経営の権限を与えられたり。

 1910年日本は朝鮮を併合したるが是に依り朝鮮人移住民は日本国民となり日本官吏は之等鮮人に対し法権を行使することとなりたる為満州に於ける日本の権利は間接に増大したり。 
 1915年一般に二十一個条要求として知らるる日本の異常なる要求の結果同年五月廿五日日支両国間に南満州及東部蒙古に関する条約の調印及公文の交換行はれたり。右協定に依り旅順及大連を含む関東州の元来二十五箇年間の租借期限、並に南満州及安奉両鉄道に関する期限は総て九十九箇年に延長せられ、日本臣民は南満州に於て旅行及居住し、各種の営業に従事し、且商業、工業及農業の為め土地を商租する権利を得、尚日本は南満州及東部内蒙古に於ける鉄道及其の他或種借款に対する優先権並に南満州に於ける顧問任命に関する優先権を獲得したり。然れども1921─22年の華盛頓(ワシントン)会議に於て日本は右諸権利の中借款及顧問に関する権利を放棄したり。
 上記各条約及其の他の諸協定は満州に於て重要にして且特殊な地位を日本に与へたり。即ち日本は関東州租借地を事実上完全なる主権を以て統治し、南満州鉄道会社を通じて鉄道附属地の施政に当たれるが、右鉄道附属地は数箇の都市並に奉天及長春の如き人口大なる都会の広大なる部分を含み此等地域に於て日本は警察、徴税、教育及公共事業を管理したり。又日本は租借地に関東軍を置き鉄道地帯に鉄道守備隊を駐屯せしめ、各地方に領事館警察官を配する等満洲地方に武装部隊を存置し来れり。
 上記満洲に於て日本の有する数多の権利概説に依り満州に於ける日支両国間の政治、経済及法律関係の特殊性は明瞭にして、此の如き事態は恐らく世界の何處にも其の例なかるべく、又隣邦人の領土内に此の如き広汎なる経済上及行政上の特権を有する国は他に比類を見ざるべし。若し此の如き事態にして双方が自由に希望又は受諾し、且経済的及政治的領域に於ける緊密なる協力に関する熟策の表現及具体化なりとせば、不断の紛争を醸すことなく之を持続し得べきも、斯る条件を欠くに於ては軋轢及び衝突を惹起するのみ。

二、満州に於ける日支両国間の根本的利害関係の衝突
 支那人は満州を以て支那の構成部分と見做し同地方を支那の他の部分より分離せしめんとする一切の企てに対して憤激す。従来東三省は常に支那及諸列国が共に支那の一部と認むる所にして、同地方に於ける支那政府の法律上の権限に付異議の称えられたることなし。右は多数の日支間諸条約及協定並に他の諸国際条約に依り明なる所にして又日本を含む諸国の外務省より正式に公表せられたる多数のステートメントに繰返へされ居る所なり。
 支那人は満洲を以て其の「国防の第一線」と考へ居れり。支那の領土として満州は之と接壌する日本及露西亜の領域に対する一種の緩衝地帯と見做され、日本及露西亜の勢力が之等の地域より支那の他の地方に侵入するを防ぐ為の前哨とせられ居れり。北京を含む長城以南の支那へ満洲より侵入することの容易なるは歴史上の経験に依り支那人の熟知する所なるが、右東北よりの外国の侵略を虞るる念は鉄道の発達に依り近年一層増大し且前年の事件中一層激化せられたり。
 支那人は又経済的理由によるも満州の彼等の為に重要なるを認むるものにして、数十年來彼等は満州を「支那の穀倉」と呼び更に近年に至りては之を近隣諸省の支那農民及労働者の季節的勤労地と認むるに至れり。
 支那は全体として人口過剰なりと謂い得べきやは疑問なるも、或地方又は或省例へば山東省の如きが住民を他地方に移出する要ある程度に人口過剰なることは此の問題に関する権威者の一般に認むる所なり。(附属書第三号の特別研究参照)従って支那人は満州を以て現在及将来に於ける支那の他地方の人口問題を緩和し得る辺境地方と認め居れり。支那人は満州の経済的開発が主として日本人の力に依るとの主張を否定し、其論駁の根拠として1925年以降に於ける支那人の植民事業彼等の鉄道建設及其の他の事業を挙げ居れり。
 満州に於ける日本の利益は諸外国の夫れと其の性質及程度に於て全く異なるものあり。1904─5年奉天及遼陽南満州鉄道沿線、鴨緑江並に遼東半島等満洲の野に於て戦われたる日本の露西亜に対する大戦争の記憶は総ての日本人の脳裡に深く印せらるゝ所なり。日本人にとりては対露戦争は露西亜の侵略の脅威に対する自衛の為生死を賭したる戦として永久に記憶せらるべく此の一戦に十万の将士を失ひ且二十億円の国帑(コクド:国財)を消費したる事実は日本人をして此の犠牲を決して無益に終らしめざらんことを決心せしめたり。
 然れども満州に於ける日本の利益は其の源泉を日露戦役より十年以前に発す。1894─5年の主として朝鮮問題に関する日清戦争は大部分旅順及満洲の野に於て戦はれたるが、下関に於て調印せられたる講和条約に依り遼東半島は完全に日本に割譲せられたり。日本人にとりては露西亜、仏蘭西及独逸が此の獲得したる領土の放棄を強制したる事実は日本が戦勝の結果満州の此の部分を獲得し之に依りて日本は同地方に対する道徳的権利を得、其権利は今尚存続するものなりとの確信に何等の変更を及ぼすものに非ず。
 満洲は屡々日本の「生命線」なりと称せらる。満州は日本の領土たる朝鮮に境を接す。支那四億の民衆が一度統一せられ強力となり且日本に敵意を有し満洲及東部亜細亜に蟠居(バンキョ)するの日を想像することは多数日本人の平静を撹乱するものなり。然れども彼等が国家的生存の脅威及自衛の必要を語る時多くの場合彼等の意中に存するのは寧ろ露西亜にして支那に非ず。従って満州に於ける日本の利益中根本的なるものは同地方の戦略的重要性なり。
 日本人中には日本は「ソ」連邦よりの攻撃の場合に備ふる為め満州に於て堅き防衛線を築く要ありと考へ居るものあり。彼等は朝鮮人の不平分子が隣接せる沿海州の露西亜共産主義者と連携して将来北方よりの軍事的侵入を誘致し、又は之と協力することあるべきを常に惧れ居れり。彼等は満州を以て「ソ」連邦及支那の他の部分に対する緩衝地帯と認め居れり。殊に日本の陸軍軍人は露西亜及支那との協定に依り南満州鉄道沿線に数千の守備兵を駐屯せしむる権利を得たるは日露戦争に於ける日本の莫大なる犠牲に対する代償としては尠(スクナ)きに失し、同方面よりの攻撃の可能性に対する安全保障としては貧弱に過ぐると考へ居れり。
 愛国心、国防の絶対的必要及特殊なる条約上の権利等の総てが合体して満州に於ける「特殊地位」の要求を形成し居れり。乍併日本人の懐く特殊地位の観念は支那又は他の諸国との間の条約及協定中に法律的に規定せられ居る所に局限せられ居るものに非ず。日露戦役の遺産たる感情及歴史的連想並に最近四半世紀間に於ける在満洲日本企業の成果に対する誇は「特殊地位」の要求の現実なる─捕捉し難きも─一部分を為すものなり。従て特殊地位なる語を日本政府が外交用語として使用する時其の意味は不明瞭にして、他の諸国が国際文書により之を認むることは不可能に非ずとするも困難なること蓋し当然なり。
 日本政府は日露戦争以来随時露西亜、仏蘭西、英国及米国より満州に於ける日本の「特殊地位」、「特殊勢力及利益」又は「最高の利益」の承認を得んことを試みたるが、其の努力は単に部分的に成功したるに止り斯る要求が稍々明瞭に認められたる場合にも右承認を含む国際協定又は了解の多くは時の経過と共に正式なる廃棄又は其他の方法に依り消滅するに至れり。旧露西亜帝政政府と結ばれたる1907年、1912年及1916年の日露秘密協約、日英同盟協約、1917年の石井ランシング協定は其の例なり。
 華盛頓(ワシントン)会議に於ける1922年二月六日の九国条約の調印国は(米、白、英、支、仏、伊、日、蘭及葡〔ポルトガル〕の九ヶ国)「支那に於て一切の国民の商業及工業に対する機会均等」を維持する為支那の「主権、独立並に其の領土的及行政的保全を尊重すること」や約定することに依り、支那に於て「特別の権利又は特権を求むる為」支那に於ける情勢を利用することを差控ふることに依り、又「支那が自ら有力且安固なる政府を確立維持する為最完全にして且最障碍なき機会」を之に供与することに依り、満州を含む支那の各地方に於ける調印国の「特殊地位」又は「特別の権利及利益」の要求を広き範囲に於て非とせり。
 然れども九国条約の規定及廃棄其他の方法に依る前記諸協定の失効は日本人の態度に何等の変更を生ぜしめざりき。石井子爵が其の最近のメモアール(外交余禄)中に左記の如く述べ居るは良く同国人一般の意見を表明し居るものと謂ふべし。
「石井ランシング協定は廃棄せられたりと雖も日本人の特殊利益は何等変化を受くることなく存在す、支那に於て日本の有する特殊利益は国際協定に依りて生じたるものに非ず、又廃棄の目的と為り得るものにも非ず」
 上記満洲に関する日本の要求は支那の主権に抵触し又国民政府の翹望(ギョウボウ)と両立し得ざるものなり、蓋し同政府は支那領土を通じて今尚諸外国の有する特別の権利及特権を減殺し、且将来之等の特別の権利及特権の拡張を阻止せんことを企図するものなるを以てなり。日支両国が夫々満州に於て行ふ政策を考察せば此の衝突が益々拡大すべきこと自ら明かとなるべし。
 ・・・
 日本政府は満州に於て有する特殊なる権利を維持発展せしむる為満州に於ては概して支那の他の地方に於けるより一層強硬なる政策を行へり。或内閣は武力による威嚇を伴う干渉政策に傾けり。右は1915年支那に対する二十一箇条要求の際に於て殊に然るものありしが、二十一箇条要求並に他の干渉及武力政策の得失に関しては日本国内に著しき意見の相違ありたり。
 華盛頓会議は支那の他の地方の事態に著しき影響を及ぼしたるも満州に於ては実際殆んど変化の見るべきものなかりき。1922年ニ月六日の九国条約は支那の領土保全及門戸開放に関する規定あり又同条約の効力は条文上満洲にも及ぶべきものなるに拘らず、満州に付ては日本の既存利益の性質及範囲に鑑み単に其制限的適用ありたるのみ。前述の如く日本は1915年の条約に依り許与せられたる借款及顧問に関する特別の権利を正式に放棄したるも、九国条約は満州に於ける既存利益に基く日本の要求を実質上何等縮小することなかりき。
 ・・・
 
 
 

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リットン報告書、「緒論」一部抜粋

2020年09月14日 | 国際・政治

 日本の政治家や軍人が、領土や権益の拡大・拡張に夢中になって満州で活発に動いていたころ、西洋列強はアジアやアフリカ諸地域の植民争奪戦の悲劇を踏まえ、「ハーグ条約」や「不戦条約」を成立させ、「国際連盟」を組織するに至っていました。
 その「国際連盟規約」第十一条(戦争の脅威)には、下記のようにあります。
”1  戦争又は戦争の脅威は、聯盟国の何れかに直接の影響あると否とを問わず、総て聯盟全体の利害関係事項たることを茲に声明す。仍って聯盟は、国際の平和を擁護するため適当且つ有効と認むる措置を執るべきものとす。この種の事変発生したるときは、事務総長は、何れかの聯盟国の請求に基づき直ぐに聯盟理事会の会議を招集すべし。
 2  国際関係に影響する一切の事態にして国際の平和又はその基礎たる各国間の良好なる了解を攪乱せむとする虞あるものに付き、聯盟総会又は聯盟理事会の注意を喚起するは、聯盟各国の友詛的権利なることを併せて茲に声明す。

 1931年9月18日、奉天(現在の瀋陽市)近郊の柳条湖付近で、南満州鉄道(満鉄)の線路が爆破された事件(爆破したのは奉天独立守備隊の河本末守中尉ら)を受けて、当時の支那政府代表が、この国際聯規約第十一条に基づいて、国際連盟に訴えました。 

 リットン報告書の下記「緒論」は、支那政府の訴えを受けた国際連盟理事会の話し合いのあらましや、調査団派遣に至る経緯について書かれています。
 リットン報告書の「緒論」を読んで驚いたのは、支那政府の訴えに応えて話し合われた、国際連盟理事会としての受け止め方や対応の仕方についての「決議」について、
理事会は紛争を考究する為更に十月十三日より二十四日迄会議を開催したるが日本代表の反対の結果該会議に於て提案せられたる決議に対し全会一致を得ること能わざりき。” 
 とあったことです。

 日本代表が、「決議」の内容の、どこがどう受け入れられなかったのかの詳細は書かれていませんが、当時の皇国日本は、欧米列強が求めた国際平和ではなく、領土や権益の拡大・拡張を優先する国であったということではないかと思いました。

 「リットン報告書」を読むと、柳条湖事件をきっかけとする日支間の紛争が本格的な戦争に発展することを回避するため、国際連盟が可能な限り公平な立場で、出来る限りのことをしようと努力したことがわかります。
 でも、日本の政治家や軍人とって、満州における日本の権益は、日清戦争や日露戦争で血を流して獲得したものであり、拡大・拡張が課題なのであって、手放すことなど考えられないことであったのだろうと思います。また、日本の経済や国防の将来にとっても、満洲は極めて重大で、まさに満州は日本の「生命線」であると考えていたため、中国(支那)はもちろん、国際連盟の関係者の意識とも、大きく隔たっていたのではないかと思います。突っ走っていた日本にとって、”国際の平和を擁護するため適当且つ有効と認むる措置を執る” 国際連盟は、調査団を派遣する前から疎ましい存在であったのだろうと思います。

 下記は、「リットン報告書 日支紛争に関する国際連盟調査委員会の報告」国際聯瑛協会編・外務省仮訳(角川学芸出版)から、「緒論」の一部を抜粋したものです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                リットン報告書

 緒論
 1931年九月二十一日在ジュネーブ支那政府代表は連盟事務総長に書翰を送り九月十八日より十九日に至る奉天に於て発生せる事件より起れる日支間の紛争に関し理事会の注意を喚起せんことを求め且規約第十一条に基き「国際の平和を危殆ならしむる事態の此の上の進展を阻止する為即時手段を執らんこと」を理事会に訴へたり。
 九月三十日理事会は左の決議を可決せり。 

一、理事会ハ理事会議長カ日支両国ニ致セル緊急通告ニ対スル右両国ノ回答及該通告ニ従ヒ為サレタル措置ヲ了承ス。
二、日本カ満州ニ於テ何等領土的目的ヲ有セサル旨ノ日本政府ノ声明ノ重要ナルヲ認ム。
三、日本政府ハ其臣民ノ生命ノ安全及其財産ノ保護カ有効ニ確保セラルルニ従ヒ日本軍隊ヲ鉄道附属地内ニ引カシムル為既ニ開始セラレタル軍隊ノ撤退ヲ出来得ル限リ速ニ続行スヘク最短期間内ニ右ノ意向ヲ実現センコトヲ希望スル旨ノ日本代表ノ声明ヲ了承ス。
四、支那政府ハ日本軍隊撤退ノ続行並支那地方官憲及警察力恢復ノ成就ニ従ヒ鉄道附属地外ニ於ケル日本臣民ノ安全及財産ノ保護ノ責任ヲ負フヘキ旨ノ支那代表ノ声明ヲ了承ス。
五、両国政府カ両国間ノ平和及良好ナル了解ヲ攪乱スル虞アル一切ノ行為ヲ避ケンコトヲ欲スルヲ信シ、両国政府ハ各自ニ事件ヲ拡大シ又ハ事態ヲ悪化セサル為ノ必要ナル一切ノ措置ヲ執ルヘシトノ保障ヲ日支両国代表ヨリ与ヘラレタル事実ヲ了承ス。
六、両当事国ニ対シ其間ノ通常関係ノ恢復ヲ促進シ且之カ為前記約定ノ履行ヲ続行且速ニ終了スル為両国カ一切ノ手段ヲ尽スヘキコトヲ求ム。
七、両当事国ニ対シ事態ノ進展ニ関スル完全ナル情報ヲ屡々理事会ニ送ランコトヲ求ム。
八、緊急会合ヲ余儀ナクスルカ如キ未知ノ事件発生セサル限リ十月十四日(水曜日)同期日ニ於ケル事態審査ノ為更ニ壽府(ジュネーブ)ニ会合ス
九、理事会議長カ其同僚特ニ両当事国代表ノ意見ヲ求メタル後事態ノ進展ニ関シ当事国又ハ他ノ理事会員ヨリ得タル情報ニ依リ前記理事会召集ノ必要ナキニ至レリト決定スル場合ハ右招集ヲ取消スコトヲ議長二許可ス。」

 右決議採択前の討議中支那代表は「日本の軍隊及警官の迅速且完全なる撤退並に完全なる原状回復を確保する為に理事会の計画すべき最良の方法は中立の委員会を満州に派遣することなり」との支那政府の見解を表明せり。
 理事会は紛争を考究する為更に十月十三日より二十四日迄会議を開催したるが日本代表の反対の結果該会議に於て提案せられたる決議に対し全会一致を得ること能わざりき。
 理事会は再び十一月十六日パリに会合し約四週間の間熱心に事態を研究せり。十一月二十一日日本代表は九月三十日の決議が其の精神に於て且条章に於て遵守せらるべきことを日本政府は念じ居るものなることを述べたる後一の調査委員会を現地に送らんことを提案せり。右提案は次いで他の一切の理事会員の歓迎する所と為り、1931年十二月十日左の決議は全会一致を以て採択せられたり。

「理事会は
一、両当事国カ厳粛ニ遵守スル旨宣言シ居レル1931年九月三十日理事会全会一致可決ノ決議ヲ再ヒ確認ス依テ理事会ハ右決議ノ定ムル条件ニヨリ日本軍ノ鉄道附属地内撤収カ成ルヘク速ニ実行セラレンカ為日支両国政府ニ対シ右決議実施ヲ確保スルニ必要ナル一切ノ手段ヲ講センコトヲ要請ス。
二、十月二十四日ノ理事会以来事態ノ更ニ重大化シタルニ鑑ミ理事会ハ両当事国カ此上事態ノ悪化スルヲ避クルニ必要ナル一切ノ措置ヲ執リ又此ノ上戦闘又ハ生命ノ喪失ヲ惹起スルコトアルヘキ一切ノ主動的行為ヲ差控フヘキヲ約スルコトヲ了承ス。
三、両当事国ニ対シ情勢ノ進展ニ付引続キ理事会ニ通報センコトヲ求ム。
四、其他ノ理事国ニ対シ其関係地域ニ在ル代表者ヨリ得タル情報ヲ理事会ニ提供センコトヲ求ム。
五、上記措置ノ実行トハ関係ナク
 本件ノ特殊ナル事情ニ顧ミ日支両国政府ニ依ル両国間紛争問題ノ終局的且根本的解決ニ寄与センコトヲ希望シ
 国際関係ニ影響ヲ及ホシ日支両国間ノ平和又ハ平和ノ基礎タル良好ナル了解ヲ攪乱セントスル虞アル一切ノ事情ニ関シ実地ニ就キ調査ヲ遂ケ理事会ニ報告センカ為五名ヨリ成ル委員会ヲ任命スルニ決ス。
 日支両国政府ハ委員会ヲ助クル為メ各一名ノ参与委員ヲ指名スルノ権利ヲ有シ両国政府ハ委員会カ其必要トスヘキ一切ノ情報ヲ実地ニ就キ入手センカ為ノ各般ノ便宜ヲ委員ニ供与ス。
 両当事国カ何等カノ交渉ヲ開始スル場合ニハ右交渉ハ本委員会所定ノ任務ノ範囲内ニ属セサルヘク又何レカノ当事国ノ軍事的施措ニ苟モ干渉スルコトハ本委員会ノ権限ニ属セサルモノト了解ス。
 本委員会ノ任命及審議ハ日本軍鉄道附属地外撤収ニ関シ九月三十日ノ決議ニ於テ日本政府ノ与ヘタル約束ニ何等影響ヲ及ホスモノニ非ス。
六、現在ヨリ1932年一月二十五日ニ開カルヘキ次回通常理事会期迄ノ間ニ於テ本件ハ依然理事会ニ繋属スルモノニシテ議長ニ於テ本件経過ヲ注意シ若シ必要アラハ新ニ会合ヲ召集センコトヲ求ム。」

 右決議を採用するに当たり議長ブリアン氏は左の宣言を為せり。

 

 ・・・


 日本代表は決議を受諾するに当り決議第二項に関する留保を為し「本項は満州各地に於て猖獗を極むる匪賊及不逞分子の活動に対し日本臣民の生命及財産の保護に直接備ふるに必要なるべき行動を日本軍が執ることを妨ぐるの趣旨に非ずとの了解の下に」日本政府の名に於て本項を受諾せるものなる旨を述べたり。
 支那代表は又決議を受諾せるも原則に関する其の或意見及留保が左の如く議事録に挿入せられんことを求めたり。

「一、支那ハ規約ノ一切ノ規定、其ノ加入セル一切ノ現存条約並ニ国際法及国際慣例ノ承認セラレタル原則ニ基キ支那ノ有シ又ハ有シ得ヘキ一切ノ権利、救済方法及法律的地位ヲ完全ニ留保スルヲ要シ且之ヲ留保ス。
二、支那ハ理事会ノ決議及理事会議長ノ声明ニ依リ明白ナラシメラレタル施措ヲ以テ必要ニシテ且相関関係ヲ有スル左ノ四個ノ本質的ニシテ相関関係を有スル要素ヲ包含スル実際的措置ト認ム。
(イ)敵対行為ノ即時停止
(ロ)日本ノ満州占領ノ能フ限リ短期間内ニ於ケル清算
(ハ)今後生シ得ヘキ一切ノ事件ニ関スル中立国人ノ観察及報告
(ニ)理事会ノ任命シタル委員会ニ依ル全満州ノ事態ニ関スル現地ノ包括的調査
右施措ハ条章及精神ニ於テ右ノ基本的要素ニ基クモノナルカ故ニ其ノ完全性ハ右要素ノ一タリトモ予定ノ如ク具体化セラレ且実際ニ現実化セラレサル場合ニハ明白ニ破壊セラルヘシ。
三、支那ハ決議中ニ規定セラルル委員会ハ其ノ現地ニ到着セルトキ日本軍隊ノ撤退カ完成セラレサルトキハ右ノ撤退ニ関シ調査シ且勧告ヲ載セタル報告ヲ為スコトヲ其ノ第一任務ト為スヘキモノト了解シ且希望ス。
四、支那ハ右協定ハ満州ニ於ケル最近ノ事件ヨリ発生セル支那及支那人ニ対スル損害賠償ノ問題モ直接ニモ暗黙的ニモ害スルコトナキモノト想定シ此ノ点ニ関シ特別ナル留保ヲ為ス。
五、茲に提出セラレタル決議ヲ受諾スルニ当リ支那ハ理事会カ此ノ上戦闘ヲ惹起スルコトアルヘキ一切ノ主動的行為及事態ヲ悪化セシムル虞レアル他ノ一切ノ行動ヲ避クル様日支両国ニ命シ以テ此ノ上戦闘及流血ノ惨ヲ阻止セラルルコトニ付理事会ノ努力ヲ謝ス。決議カ終息セシムルコトヲ真ニ目的トシタル事態ヨリ生シタル無法律ノ状態カ存在スルコトノ口実ヲ以テ右ノ命令ヲ破ルヘカラサルコトハ之ヲ明白ニ指摘セサルヘカラス。現ニ満州ニ在ル無法律ノ状態ノ多クハ日本軍ノ侵入ニ依リ生シタル通常生活ノ中絶ニ因ル所多キコトヲ看過スヘカラス。通常ノ平和的生活ヲ快復スル唯一ノ方法ハ日本軍ノ撤退ヲ迅速ナラシメ且支那官憲ヲシテ平和及秩序維持ノ責任ヲ負ハシムルコトニ在リ。支那ハ如何ナル外国ノ軍隊ニ依リテモ其ノ地域ノ侵入及占領ヲ許容スルコトヲ得ス。支那官憲ノ警察職務ヲ冒スコトヲ右軍隊ニ許スコトハ一層為シ得サル所ナリ。
六、支那ハ他ノ列国ノ代表者ヲ通シテ為ス中立的意見及報告ノ現在ノ方法ヲ継続シ且改善スルノ意向ヲ満足ヲ以テ了承ス。而シテ支那ハ斯カル代表者ヲ派遣スルコト望マシト思考ラレルル地方ヲ時々必要ニ応シ指示スヘシ。
七、日本軍ノ鉄道附属地内ヘ撤収ヲ規定スル本決議ヲ受諾スルニ当リ支那ハ右鉄道附属地内ニ於ケル軍隊維持ニ関シ其ノ常ニ執リ来レル態度ヲ何等放棄スルモノニ非サルコト了解セラレサルヘカラス。
八、支那ハ其ノ領土的又ハ行政的保全ヲ害スル如キ政治的ノ紛議(例ヘハ所謂独立運動ヲ助クルカ如キ又ハ之カ為ニ不逞分子ヲ利用スルカ如キ)ヲ挑発セントスル日本側ノ一切ノ試ヲ以テ事態ノ此ノ上ノ悪化ヲ避クヘシトノ約束ノ明白ナル違反ト看做スヘシ。」

 委員会委員は次で理事会議長に依り選定セラレ両当事国の賛成を得たる上1932年一月十四日の理事会に於て左の如く最終的に承認せられたり。
  エィチ・イー・アルドロヴァンディ伯爵(伊国人)
アンリ・クローデル中将(佛国人)
リットン伯爵(英国人)
フラック・ロッス・マッコイ少将(米国人)
ハー・エー・ハインリッヒ・シュネー博士(独逸人)
 欧州諸国の委員は代表者と一月二十一日ジュネーヴに於て二回の会合を催したるが右会合に於てリットン卿は満場一致を以て委員長に選挙せらるると共に委員会の事業の仮計画は是認せられたり。
 日支両国政府は十二月十日の決議に基き委員会を補助する為夫夫一人の参与員を指名する権限を有したるに付右参与員としてトルコ駐剳特命全権大使・吉田伊三郎及前総理大臣、前外交部長・顧維釣を任命する。
 国際連盟事務総長は連盟事務局部長ロバート・ハース氏に委員会の事務総長を委嘱せり。
 ・・・以下略

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東京裁判、二十五被告に対する個人判決②

2020年09月06日 | 国際・政治

 日本は、田中義一内閣当時、満州・華北に対する領土的野心をもって、中国山東省へ出兵をくり返しました。
 第1次は1927年五月、蒋介石の北伐革命に対する不祥事件予防,居留民保護などを名目とした出兵でした。でも、領土的野心を疑われ、中国および国際社会から撤兵要求の声があがったといいます。
 第2次は1928年四月、蒋介石による北伐の再開に合わせ、出兵しました。この時は、青島や済南にまで進駐し、済南事件がありました。日本軍の出兵に対し国民政府は内戦への干渉であると非難し、中国では排日運動が激化したといいます。
 日本は、この時の済南事件を契機にさらに軍隊を動員し、山東省全域から華北各地に兵力を展開するとともに、国民革命の東北への波及を実力で阻止するとの声明まで出したといいます。そして、関東軍による奉天軍閥指導者・張作霖爆殺事件が起こります。
 こうした田中内閣時代の侵略的強硬政策が、1922年(大正11年)に締結された「九ヶ国条約」に反するものであることは明らかだと思います。
 この「九ヶ国条約」の第1条に規定されている下記の4つの項目は、「対中国4原則」と呼ばれるもので、条約の加盟国が中国の主権や領土を尊重する事などを定めています。開戦前にハル・ノートでも示され、日米交渉における重要問題でした。これを軽視ないし無視した日本の政策が、悲惨な戦争をもたらしたことを、忘れてはならないと思います。下記の条項が守れない日本は、やはり侵略国家であったと思います。

第1条
 支那国以外ノ締約国ハ左ノ通約定ス
(1)支那ノ主権、独立並領土的及行政的保全ヲ尊重スルコト
(2)支那カ自ラ有力且安固ナル政府ヲ確立維持スル為最完全ニシテ且最障碍ナキ機会ヲ之ニ供与スルコト
(3)支那ノ領土ヲ通シテ一切ノ国民ノ商業及工業ニ対スル機会均等主義ヲ有効ニ樹立維持スル為各盡力スルコト
(4)友好国ノ臣民又ハ人民ノ権利ヲ減殺スヘキ特別ノ権利又ハ特権ヲ求ムル為支那ニ於ケル情勢ヲ利用スルコトヲ及右友好国ノ安寧ニ害アル行動ヲ是認スルコトヲ差控フルコト

 さらに言えば、満州事変以前の1929年(昭和四年)には、すでに 下記のような条項を含む、「不戦条約」(「戦争ノ抛棄ニ関スル条約」)が発効していました。その前文には

独逸国大統領、亜米利加合衆国大統領、白耳義(ベルギー)国皇帝陛下、仏蘭西共和国大統領、「グレート、ブリテン」「アイルランド」及「グレート、ブリテン」海外領土皇帝印度皇帝陛下、伊太利国皇帝陛下、日本国皇帝陛下、波蘭共和国大統領、「チェッコスロヴァキア」共和国大統領ハ、人類ノ福祉ヲ増進スベキ其ノ厳粛ナル責務ヲ深ク感銘シ、其ノ人民間ニ現存スル平和及友好ノ関係ヲ永久ナラシメンガ為国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ率直ニ抛棄スベキ時期ノ到来セルコトヲ確信シ、其ノ相互関係ニ於ケル一切ノ変更ハ平和的手段ニ依リテノミ之ヲ求ムベク又平和的ニシテ秩序アル手続ノ結果タルベキコト及今後戦争ニ訴ヘテ国家ノ利益ヲ増進セントスル署名国ハ本条約ノ供与スル利益ヲ拒否セラルベキモノナルコトヲ確信シ、其ノ範例ニ促サレ世界ノ他ノ一切ノ国ガ此ノ人道的努力ニ参加シ且本条約ノ実施後速ニ加入スルコトニ依リテ其ノ人民ヲシテ本条約ノ規定スル恩沢ニ浴セシメ、以テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ノ共同抛棄ニ世界ノ文明諸国ヲ結合センコトヲ希望シ、茲ニ条約ヲ締結スルコトニ決シ之ガ為左ノ如ク其ノ全権委員ヲ任命セリ

 とあります。そして、

第一条
 締約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言スル
第二条
 締約国ハ相互間ニ起コルコトアルベキ一切ノ紛争又ハ紛議ハ其ノ性質又ハ起因ノ如何ヲ問ハズ平和的手段ニ依ルノ外之ガ処理又ハ解決ヲ求メザルコトヲ約ス

 と定めていたのです。でも、日本は紛争を解決するために戦争をしました。
  だから私は、日本人が、東京裁判は戦勝国による報復裁判であり、違法で無効だ”などという権利があるとは思えません。

 ふり返れば、明治維新以来、日本の法や道義・道徳は、”天祖の御神勅と天孫の御事業”の実現のためにあり、”皇国の威徳を四海に宣揚”することが目的で、教育勅語や軍人勅諭も皇国臣民を都合よく統制し、縛るものとしてあったのではないかと思います。
 したがって、日本の一般国民は、国家に対する権利意識が希薄であったのではないかと思います。同時に日本の支配層は、近代法の基本的原理を重視せず、皇国日本を「神国」と解し、近代法の基本的原理に縛られることなく、法を超越した考え方をしていたのではないかと思います。

 1933年2月、国際連盟総会のリットン調査団報告書に関する審議において、”満州国は自主的に独立した国家である”と一時間を超える演説をしたという日本代表・松岡洋右の主張は、他国に全く受け入れらませんでした。反対したのは日本のみで、賛成42カ国、棄権一カ国でリットン調査団報告書が可決されたという事実、そしてその後、日本政府が国際連盟を脱退した事実は、いかに日本が近代法の基本的原理を軽視し、無視する国であったかを示しているのではないかと思います。
 当時の東京朝日新聞は、”連盟よさらば! 遂に協力の方途尽く 総会、勧告書を採択し、我が代表堂々退場す 四十二対一票、棄権一”などと松岡を称え、日本の国民は、帰国した松岡を「ジュネーブの英雄」などと言って、凱旋将軍のように歓迎したという話には驚きます。戦前の日本は、多数決など意に介しない特別の国であったと思います。

 そして考えさせられるのは、そうした近代法の基本原理を軽視し、無視した戦前の姿勢が、現在の自民党政権に受け継がれているのではないかということです。法を国や権力ではなく国民を縛るものとして利用し、道徳を教科化することによって、再び戦前の皇国日本のようなかたちで、国民を統制しようとしているのではないかと思います。モリカケサクラ問題に象徴されるように、自らは法の外にあるかのような振舞は、戦前の継承ではないでしょうか。

 下記は、「東京裁判 大日本帝国の犯罪 下」朝日新聞東京裁判記者団(講談社)から抜粋しました。

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関係資料Ⅱ
              二十五被告に対する個人判決

      嶋田繁太郎
 被告は、東条内閣で海軍大臣になり、1944年二月から八月までの六か月間、海軍軍令部総長であった。東條内閣の成立から、1941年十二月五日に日本が西洋諸国を攻撃するまで、この攻撃を計画し開始するについて、かれは共同謀議者によってなされたすべての決定に参加した。宣戦が布告された後、この戦争の遂行にあたって、かれは主要な役割を演じた。本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二について、島田を有罪と判定する。  

      白鳥敏夫
 日本、ドイツおよびイタリア間の同盟の交渉が開始されてから、1938年九月に、かれはローマ駐在大使に任命された。この交渉において、右の諸国間の一般的軍事同盟を固執した共同謀議者を支持して、かれは当時ベルリン駐在大使であった被告大島と協力した。
 1941年四月に、かれは病気になり、その年の七月に、外務省顧問の職を辞した。その後は、いろいろの出来事で重要な役割を演じなかった。本裁判所は、訴因第一について白鳥を有罪と判定する。

      鈴木貞一
 企画院総裁および無任所大臣として、鈴木は、実際上日本の政策を作り出す機関であった連絡会議に常例的に出席した。連合国に対する侵略戦争の開始と遂行を引き起した重要な会議の大部分に、鈴木は出席した。これらの会議で、かれは積極的に共同謀議を支持した。われわれは、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一および第三十二で訴追されているように、鈴木を有罪と判定する。

      東郷茂徳
 被告東郷は、1941年十月から東条内閣の外務大臣として、太平洋戦争の勃発まで、かれはその戦争の計画と準備に参加した。かれは閣議や会議に出席し、採用された一切の決定に同意した。外務大臣として、戦争勃発直前の合衆国との交渉において、かれは指導的な役割を演じ、戦争を主張した者の計画に力を尽くした。1942年九月に、占領諸国の取扱いについて起った閣内の紛争のために、かれは辞職した。訴因三十六に関係のあるかれの唯一の役割は、満洲と外蒙古との国境を確定したところの、ソビエト連邦と日本との戦後協定を調印したことであった。1942年に辞職するまで、東郷は戦争法規が順守されることにつとめたように見える。かれは自分のところにきた抗議を調査のために回付し、数個の場合には、改善の措置がとられた。1945年春、かれが再び外務大臣になったときは、抗議が山積していたが、かれはそれを関係当局に回付した。本裁判所の意見では、戦争犯罪に関して、東郷が義務を怠ったということについて、充分な証拠はない。本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一および第三十二について、東郷を有罪と判定する。

      東条英機
 東条は1937年六月に関東軍参謀長となり、それ以後は、共同謀議者の活動のほとんどすべてにおいて、首謀者の一人として、かれらと結託していた。
 かれはソビエト連邦に対する攻撃を計画し、準備した。ソビエト連邦に対して企てられた攻撃において、日本陸軍はその背後の不安から解放するために、中国に対してさらに攻撃を加えることをかれは勧めた。この攻撃のための基地として、満州を組織することをかれは助けた。1938年五月に、かれは陸軍次官になるために、現地から呼びもどされた。この職務のほかに、かれは多数の任務をもち、これによって、戦争に対する日本国民と経済の動員のほとんどすべての部面において、重要な役割を演じた。このときに、かれは中国との妥協による和平の提案に反対した。1940年七月に、かれは陸軍大臣になった。それ以後におけるかれの経歴の大部分は、日本の近隣諸国に対する侵略戦争を計画し、遂行するために、共同謀議者が相次いでとった手段の歴史である。かれは首謀者の一人だったからである。かれは巧みに、断固として、ねばり強く、共同謀議の目的を唱道し、促進した。
 1941年十月、かれは総理大臣になり、1944年七月まで、その職に就いていた。陸軍大臣および総理大臣として、中国国民政府を征服し、日本のために中国の資源を開発し、中国に対する戦争の成果を日本に確保するために、中国に日本軍を駐屯させるという政策を、終始一貫して支持した。1941年十二月七日の攻撃に先立つ交渉において、かれが断固としてとった態度は、中国に対する侵略の成果を日本に保持させ、日本による東アジアと南方地域の支配を確立するのに役立つような条件を、日本は確保しなければならないというのであった。この政策を支持するために、戦争を行うという決定を成立させるにあたって、かれが演じた指導的役割の重要さは、どのように評価しても、大き過ぎるということはない。日本の近隣諸国に対する犯罪的攻撃に対して、かれは主要な責任を負っている。本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一および第三十二および第三十三について、東条を有罪と判定し、訴因第三十六について、無罪と判定する。
── 戦争犯罪について ──
 東条は、捕虜および一般人抑留者の保護に対して、継続的責任を負っていた政府の最高首脳者であった。捕虜および抑留者の野蛮な取り扱いは、東条によくわかっていた。かれは、違反者を処罰し、将来同じような犯罪が犯されるのを防止する充分な手段をとらなかった。パターン死の行進に対するかれの態度は、これらの捕虜に対するかれの行為を明らかにするかぎを与えるものである。1942年には、かれはこの行進の状態の結果として、多数の捕虜が死亡したことを知っていた。この事件について、かれは報告を求めなかった。処罰された者は一人もいなかった。このようにして、日本政府の最高首脳者は、日本政府に課せられたところの、戦争法規の順守を励行するという義務の履行を意識的に故意に拒んだのである。もう一つのいちじるしい例をあげるならば、戦略目的のために企てられた泰緬鉄道の敷設に捕虜を使用すべきであるとかれは勧告した。かれはこの工事に使われている捕虜の悪い状態を知って、調査のための将校を送った。この調査の結果としてとられた唯一の措置は、捕虜の虐待に対して、一中隊長を裁判することだけであった。
 捕虜収容所における栄養不良とその他の原因による高い死亡率に関する統計は、東条の主宰する会議で討議された。東條内閣が倒れた1944年における捕虜の恐るべき状態と、食糧および医薬品の欠乏のために死亡した捕虜の膨大な数とは、東条が捕虜の保護のために適当な措置をとらなかったことに対して、決定的な証拠である。われわれは、中国人捕虜に対する日本陸軍の態度について、すでにのべた。日本政府は、この「事変」を戦争とは認めていなかったから、戦争法規はこの戦いには適用されないこと、捕らえられた中国人は、捕虜の身分と権利を与えられる資格がないと主張された。東条はこのおそるべき態度を知っており、しかもそれに反対しなかった。働かざる捕虜は食うべからずという指令について、かれは責任がある。病人や負傷者がむりやり働かされたり、その結果として、苦痛と死亡を生じたりするようになったのは、大部分において、東条がこの指令の実行をくり返し主張したためであるということを、われわれはすこしも疑わない。捕虜の虐待が外国に知られるのを防ぐためにとられた措置に対して、東条は責任がある。
 本裁判所は、訴因第五十四について、東条を有罪と判定する。われわれは、訴因五十五については、いかなる判定も下さない。

      梅津美治郎 
 1939年から1944年まで、梅津が関東軍司令官であった間、かれは引き続いて満州の経済を日本の役に立つように指導した。その期間に、ソビエトの領土の占領計画がつくられ、占領されることになっていたソビエト地域の軍政に関する計画も立てられ、さらに、南方の占領地域における軍政を研究するために将校が同地域に送られた。この研究の目的は、こうして手に入れた資料をソビエト領土で利用するためであった。被告が共同謀議の一員であったという証拠は、圧倒的に有力である。訴因三十六についていえば、ノモンハンにおける戦闘は、かれが関東軍の指揮をとる前に始まっていた。戦闘の終わるわずか数日前に、かれは司令官になった。1944年七月から降伏まで梅津は参謀総長であった。これによって、かれは中国と西洋諸国に対する戦争の遂行に主要な役割を演じた。本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一および第三十二について、梅津を有罪と判定する。
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                   終章                

 A級戦犯十九名釈放
 さらに、ニ十四日、総司令部は発表をおこない、突如として、巣鴨に遺されていた十九名のA級戦犯容疑者の釈放をおこない、この種の裁判をまったく終了させることを明かにした。
 それはつぎの通りである。
(渉外局二十四日発表)総司令部法務局長アルヴァ・C・カーペンター氏は二十四日、前A級戦犯容疑者で現在巣鴨に拘置されているもの、あるいは自宅で監禁されているものおよび現在裁判中でないものは、全部監禁から釈放されると発表した。これらの人々は極東国際軍事裁判所またはこれに類する法廷で主要戦争犯罪人として裁判される見込みで逮捕されたが、彼らがA級戦犯あるいは主要戦犯として判決されないことが決定されたとき、連合軍最高司令官は法務局に対しB・C級戦犯として起訴されるか否か調査を指令していたものである。これに含まれる十九名はつぎの通りである。

 元内閣企画院次長 内相 安倍源基     元内相         安藤紀三郎
 元情報局総裁      天羽英二     元大東亜相       青木一男
 元内相         後藤文夫     元駐華大使       本多熊太郎
 元石原産業社長     石原広一郎    元法相         岩村通世
 元商相         岸信介      元児玉機関       児玉誉士夫
 元黒龍会会長      葛生能久     元中国派遣軍総司令官  西尾寿造
 著述家         大川周明     元国粋大衆党首     笹川良一
 元スペイン公使     須磨弥吉郎    元華北派遣軍総司令官  多田 駿
 元軍事参事官      高橋三吉     元内閣情報局総裁 外相 谷 正之
 元逓相         寺島 健  

 こうして、米英ソ三国を中軸とする旧連合国の、旧日本帝国に対する広い意味の懲罰作業は終わった。この多数判決は、サンフランシスコ平和条約において、新日本国政府代表吉田茂氏によって受諾された。
 

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東京裁判、二十五被告に対する個人判決①

2020年09月03日 | 国際・政治

 「東京裁判 大日本帝国の犯罪 下」朝日新聞東京裁判記者団(講談社)によると、1948年四月十六日、タナベー検事の最後論告をもって審理の幕を閉じ、ウェッブ裁判長は、”判決を留保し、追って発表するときまで休廷”と告げたといいます。そして十一カ国代表判事の会議によって、判決が準備され、なんと半年以上も後の、十一月四日、再び市ヶ谷法廷に関係者を集めて判決が言い渡されたということです。
 判決文は、第一章から第十章まであり、第一章は裁判所の設立および審理、第二章は法として、一、本裁判所の管轄権、二、捕虜に対する戦争犯罪の責任、三、起訴状 第三章は日本の権利と義務の史的展開、第四章は軍部による日本の支配と戦争準備、第五章は中国に対する侵略、第六章はソ連に対する侵略、第七章は太平洋戦争、第八章は通例の戦争犯罪、第九章は起訴状の訴因についての認定、第十章は判定として、二十五被告の有罪証明を行っているということです。これに関係条約の付属書A、Bがついて、総ページ数は英文で1212ページにおよぶ膨大なものだということです。 
 そして、十一月十二日アルファベット順に荒木被告から「インプリズメント・フォア・ライフ」(終身刑)、・・・土肥原被告「デス・バイ・ハンギング」(絞首刑)と刑の宣告が告げられていったということです。
 判決の朗読に始まって、刑の宣告に至るまでにも、八日間を要したことがわかります。
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関係資料Ⅱ
             二十五被告に対する個人判決

 判決文はさらに続き、荒木貞夫以下二十五被告の個人判決がつぎのようにしめされている。
     荒木貞夫
 本裁判所は、かれが訴因第一に述べられている共同謀議の指導者の一人であった認定し、同訴因について、かれを有罪と判定する。荒木は、満州で中華民国に対する侵略戦争が開始された後、1931年から1934年一月まで、引き続き陸軍大臣であった。その期間を通じて、中国の領土のその部分を占領するために、相ついでとられた軍事的措置に対して、かれはできる限りの支持を与えた。1938年五月から1939年八月まで、荒木は文部大臣であり、その資格において、中国の他の部分における軍事作戦を承認し、それに協力した。そして、この被告はその戦争の遂行に参加したものと認定する。したがって、われわれは、訴因第二十七について、彼を有罪と判定する。

     土肥原賢二
 われわれは、訴因第一における侵略戦争遂行の共同謀議と、訴因第二十七、訴因第二十九、訴因第三十一、、第三十三、第三十五及び第三十六で訴追されている侵略戦争の遂行とについて、かれを有罪と判定する。土肥原の犯罪は、訴因第五十五よりも、むしろ訴因第五十四に該当する。したがって、訴因第五十四について、かれを有罪と判定し、訴因第五十五については、なんらの判定も下さない。

     橋本欣五郎
 かれは共同謀議の成立について首謀者であり、その遂行に大いに貢献した。訴因第二十七については、かれは最初に武力による満州の占拠を画策した後、満洲占領の口実となるように、奉天事件を計画するについて、ある程度の役割を演じた。本裁判所は、訴因第一と第二十七について、橋本を有罪と判定する。

     畑俊六
 かれの指揮下の軍隊によって、残虐事件が大規模に、しかも長期間にわたって行われた。畑は、これらのことを知っていながら、その発生を防止するためになんらの措置もとらなかったか、なんらの方法も講じなかったかである。どちらの場合にしても、訴因第五十五で訴追されているように、かれは自己の義務に違反したのである。
 本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、及び第五十五について、畑を有罪と判定する。

     平沼騏一郎
 平沼は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五、第三十六、第五十四及び第五十五で起訴されている。
 起訴状にあげられた全期間において、平沼は、必要とあれば、武力によっても日本が東アジアと南方を支配するという政策の支持者であったばかりでなく、共同謀議の指導者の一人であり、その政策を推進することについて、積極的な参加者であった。本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二および第三十六について、被告平沼を有罪と判定する。

     広田弘毅
 本裁判所は、少なくとも1933年から、広田は侵略戦争を遂行する共通の計画または共同謀議に参加したと認定する。外務大臣として、かれは中国に対する戦争の遂行にも参加した。
訴因第二十九、第三十一および第三十二についていえば、重臣の一人として1941年における広田の態度と進言は、かれが西洋諸国に対する敵対行為の開始に反対していたことと、よく首尾一貫している。
 訴因第五十五については、かれをそのような犯罪行為に結びつける唯一の証拠は、1937年十二月と1938年一月及びニ月の南京における残虐行為に関するものである。かれは外務大臣として、日本軍の南京入城直後に、これらの残虐行為に関する報告を受け取った。本裁判所の意見では、残虐行為をやめさせるために、直ちに措置を講ずることを閣議で主張せず、また他のどのような措置もとらなかったということで、広田は自己の義務に怠慢であった。本裁判所は、訴因第一、第二十七及第五十五について、広田を有罪と判定する。

     星野直樹
 被告東条が1941年十月に総理大臣として就任すると、星野は内閣書記官長になり、やがて企画院参与になった。このときから、かれは、侵略戦争のためのすべての準備に、密接な関係があった。1932年から1941年までの全期間を通じて、かれは侵略戦争遂行の共同謀議をしたばかりでなく、その遂行に直接参加した。これらの訴因全部についても、かれは有罪と判定される。

     板垣征四郎
 1938年五月に、かれは近衛内閣の陸軍大臣となった。かれのもとで、中国に対する攻撃は激しくなり、拡大した。中国の国民政府を打倒し、その代わりに、傀儡政権を樹立しようと試みることを決定した重要な閣議にかれは参加した。ついで、汪精衛の傀儡政権の樹立をもたらした準備工作について、かれは大いに責任があった。日本のために、中国の占領地域を開発するとりきめにかれは参加した。平沼内閣の陸軍大臣として、かれは再び中国に対する戦争の遂行と日本の軍備拡張とについて責任があった。陸軍大臣として、かれは、ハサン湖におけるソビエト連邦に対する武力の行使について、策略によって天皇の同意をえようとした。その後、五相会議で、かれはこのような武力行使の承認をえた。ノモンハンにおける戦闘中も、かれはまだ陸軍大臣であった。1945年四月から降伏の日まで、かれはシンガポールに司令部のあった第七方面軍を指揮した。かれの指揮する軍隊は、ジャワ、スマトラ、マレー、アンダマンおよびニコバル諸島、ボルネオを防衛した。かれは、侵略戦争を遂行する共同謀議を行い、その遂行に積極的で重要な役割を演じた。本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十五および第三十六について、板垣を有罪と判定する。
 板垣が指揮していた地域は、何千という捕虜と抑留者が収容されていた。かれはこれらの収容所に食糧、医薬品及び医療設備を供給する責任をもっていた。かれのとった方針によって、かれは自分が適当に扶養すべき義務のあった何千という人の死亡または苦痛に対して責任がある。本裁判所は、訴因第五十四について、板垣を有罪と判定する。

     賀屋興宣
 第一次近衛内閣と東条内閣との大蔵大臣として、また北支那開発会社総裁として、かれは、中国における侵略戦争と西洋諸国に対する侵略戦との準備と遂行とに積極的に従事した。かれは、、訴因第一に主張されている共同謀議の積極的な一員であり、この訴因について、有罪と判定される。賀屋は、かれが占めたいろいろの地位において、侵略戦争の遂行に、主要な役割をはたした。したがって、これらの訴因について、かれは有罪と判定される。

     木戸幸一
 被告木戸幸一は、1937年から1939年までのこの期間に、共同謀議者の見解を採用し、かれらの政策のために、一意専心努力した。内大臣として木戸は、共同謀議を進めるために、特に有利な地位にあった。かれのおもな任務は、天皇に進言することであった。かれはこの勢力を天皇に対して用いたばかりでなく、共同謀議の目的を促進するようにも用いた。訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二における起訴事実について、木戸は有罪と判定される。 

     木村兵太郎
 師団長として、つぎには関東軍参謀長として、後には陸軍次官として、彼は中国における戦争と太平洋戦争との遂行に目立った役割をはたした。かれはビルマ方面軍の司令官となり、降伏の時まで、引続いてその地位にあった。かれは捕虜を作業に使用することを承認したが、その作業は、戦争法規によって禁止されている作業と、何千という捕虜の最大の艱難と死亡をもたらした状態における作業とであって、この点で、かれは戦争法規の違反に積極的な形で参加した一人である。後者の場合の一例は、泰緬鉄道の建設における捕虜の使用であって、これに対する命令は、木村によって承認され、伝達されたものである。
 戦争犯罪を防ぐような充分な措置をとるべき法律上の義務を、かれは故意に無視したのである。
 本裁判は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第五十四及び第五十五について、木村を有罪と判定する。

     小磯国昭
 1932年八月から1934年三月まで、関東軍参謀長として、共同謀議者の方針による満州国の政治的、経済的の組織のために計画をかれは作成し、またはこれに同意した。1944年七月に、小磯は朝鮮総督の任を解かれて、総理大臣になった。この資格において、かれは西洋諸国に対する戦争の遂行を主張し、また指導した。この間に、日本の捕虜と抑留者の取扱いには、なんらの改善も見られなかった。これは、かれがその義務を故意に無視したことに相当する。本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二および第五十五について、小磯を有罪と判定する。

     松井石根
かれは、1937年十二月十三日に南京市を攻略した。南京が落ちる前に、中国軍は撤退し、占領されたのは無抵抗の都市であった。それに続いて起ったのは、無力の市民に対して、日本の陸軍が犯した最も恐ろしい残虐行為の長期にわたる連続であった。これらの恐ろしい出来事が最高潮にあった十二月十七日に、松井は同市に入城し、五日ないし七日の間滞在した。本裁判所は、何が起こっていたかを松井が知っていたという十分な証拠があると認める。これらの恐ろしい出来事を緩和するために、かれは、なにもしなかったか、何かしたとしても、効果のあることは何もしなかった。同市の占領の前に、かれは自分の軍隊に対して、行動を厳正にせよ、という命令を確かに出した。これらの命令は何の効果もなかった。かれは自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務をもっていたとともに、その権限をももっていた。この義務の履行を怠ったことについて、かれは犯罪的責任があると認めなければならない。
 本裁判所は、被告松井を訴因第五十五について有罪、他の訴因について無罪とする。

      南次郎
 1934年十二月から1936年三月まで、かれは関東軍司令官であり、満州の征服を完了し、日本のために中国のこの部分を開発利用することを助けた。軍事行動の威嚇のもとに、華北と内蒙古に傀儡政権を樹立することに対して、かれは責任があった。
 ソビエト連邦に対する攻撃の基地として、満州を開発したことについても、このような攻撃の計画についても、かれは一部分責任があった。
 1936年に、かれは朝鮮総督となり、中国に対する戦争の遂行と、中国国民政府の打倒とを支持した。
 本裁判所は、訴因第一と第二十七について、南を有罪と判定する。

      武藤章
 陸軍省軍務局長になったときに、かれは共同謀議に加わった。この期間において、共同謀議者による侵略戦争の計画、準備および遂行は、その絶頂に達した。これらの一切の活動において、かれは首謀者の役割を演じた。本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二について、武藤を有罪と判定する。1944年十月に、フィリピンにおいて、武藤は山下の参謀長になった。降伏まで、かれはその職に就いていた。このとき日本軍は連続的に虐殺、拷問、その他の残虐行為を一般住民に対して行った。捕虜と一般抑留者は、食物を充分与えられず、拷問され、殺害された。戦争法規に対するこれらの甚だしい違反について、武藤は責任者の一人である。本裁判所は、第五十四及び第五十五について、武藤を有罪と判定する。

      岡敬純
 1940年十月に、海軍少将に進級し、海軍省軍務局長としての職にあった間、岡は共同謀議の積極的な一員であった。中国と西洋諸国に対する侵略戦争を遂行する政策の樹立と実行に、かれは参加した。
 本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一および第三十二について、有罪と判定する。

      大島浩
 大島は、最初はベルリンの日本大使館付陸軍武官であり、その後大使としてベルリンに帰り、日本の降伏まで、そこに留まった。
 大島は主要な共同謀議者の一人であり、終始一貫して、おもな共同謀議の目的を支持し、助長した。本裁判所は、訴因第一について、大島を有罪と判定する。

      佐藤賢了
 被告佐藤賢了は、1942年四月に、陸軍において、はなはだ重要な地位である軍務局長になった。われわれの意見では、日本が企画していた戦争がそのように犯罪であることを知っていた佐藤賢了は、1941年から後は、明らかに共同謀議の一員であったのである。
 日本の軍隊の行動に対する多くの抗議について、佐藤が知っていたことは、疑いがない。これらの会合を主宰した者は東条であって、かれの部下であった佐藤、自分の上官の決定に反対して、みずから進んで予防的措置をとることはできなかった。
 本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二について、佐藤を有罪と判定する。

      重光葵 
 かれが外務大臣になった1943年までには、一定の侵略戦争を遂行するという共同謀議者の政策はすでに定まっており、かつ実行されつつあった。本裁判所は、訴因第一について、重光を無罪と判定する。1945年四月十三日に辞職するまで、かれは太平洋戦争の遂行に主要な役割を演じたのである。本裁判所は、訴因第二十七、第二十九、第三十一、第三十二および第三十三について、重光を有罪と判定する。
 刑の軽減として、われわれは次のことを考慮に入れる。重光は、共同謀議の成立には、少しも関係していなかったこと、1943年四月に外務大臣になるまで、かれは侵略戦争を遂行しなかったのであって、この時期には、すで日本がその将来に致命的な影響を及ぼす戦争に深くまきこまれていたこと、戦争犯罪の問題については、かれが外務大臣であったときには、軍部が完全に日本を支配していたので、軍部を非難するには、どのような日本人にとっても、大きな決意が必要であったであろうということである。                               ─続く─

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東京裁判における被告二十五名の断罪表

2020年09月02日 | 国際・政治

 東京裁判における検事団の立証に対する弁護団の反証は、ほとんど受け入れられず、日本は満州事変以来、一貫した政策を以て侵略戦争を企て、実行してきたとされました。また、共同謀議に対する日本側弁護団の主張も受け入れられず、 松井石根大将と重光葵外相以外の被告すべてが、侵略戦争の共同謀議で有罪とされました。
 弁護団の反証は、検事団の集めた膨大な資料や証言、捕虜虐待や残虐事件の数々によって否定されることになってしまったのではないかと思います。
 一例をあげれば、「東京裁判NO5 オランダ領への侵略」に取り上げたように、1945年ニ月二十四日、マニラで米軍が入手した岡田部隊の大隊命令には、
フィリピン人を殺すのは、極力一ヶ所にまとめ、弾薬と労力を省くように処分せよ、死体の処理うるさきをもって、焼却予定家屋または爆破家屋にあつめ、あるいは河につき落すべし
 とあり、また、
人肉を食っても、戦いぬけ、ただし友軍の肉をくったものは死刑に処す
 との命をうけた柳沢元上等兵の口述書や、ニューギニアのアイタベ地区における支隊長の布告文によって、飢餓のせまった戦争の中で、原住民の人肉を食うのはもちろん、ついには友軍の戦友を倒しても飢えを支えようとした事実なども明らかにされたというのですから、日本側の責任逃れは、通用しなかったのではないかと思います。

 下記は、「東京裁判 大日本帝国の犯罪 下」朝日新聞東京裁判記者団(講談社)から抜萃しました。
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                第二十三章 判決下る

                  大法廷の終幕

    断罪表
 刑の宣告をうけた、二十五被告の断罪表をあげればつぎの通りである。

            年齢(出身地)         前歴
絞首刑   東条英機   六五(東京)   陸軍大将、陸相、内相、首相、参謀総長
絞首刑   広田弘毅   七一(福岡)   駐ソ大使、外相、首相
絞首刑   土肥原賢二  六六(岡山)   陸軍大将、在満特務機関長、陸軍航空総監
絞首刑   板垣征四郎  六四(岩手)   陸軍大将、中国派遣軍総参謀長、陸相
絞首刑   木村兵太郎  六一(埼玉)   陸軍大将、陸軍次官、ビルマ派遣軍司令官
絞首刑   松井石根   七一(愛知)   陸軍大将、上海派遣軍司令官
絞首刑   武藤章    五七(熊本)   陸軍中将、陸軍省軍務局長
終身禁固  木戸幸一   六〇(東京)   文相、内相、厚相、内大臣
終身禁固  平沼騏一郎  八二(岡山)   首相、枢府議長、国本社会長
終身禁固  賀屋興宣   六〇(広島)   蔵相
終身禁固  島田繁太郎  六六(東京)   海軍大将、海相、軍令部総長
終身禁固  白鳥敏夫   六二(千葉)   駐伊大使
終身禁固  大島浩    六三(岐阜)   陸軍中将、駐独大使
終身禁固  荒木貞夫   七二(東京)   陸軍大将、陸相、文相
終身禁固  星野直樹   五七(東京)   満州国総務長官、内閣書記官長
終身禁固  小磯国昭   六九(山形)   陸軍大将、朝鮮総督、拓相、首相
終身禁固  畑俊六    七〇(東京)   元帥、陸相、中国派遣軍総司令官
終身禁固  梅津美治郎  六七(大分)   陸軍大将、関東軍司令官、参謀総長
終身禁固  南次郎    七五(大分)   陸軍大将、陸相、朝鮮総督
終身禁固  鈴木貞一   六一(千葉)   陸軍中将、企画院総裁 
終身禁固  佐藤賢了   五四(石川)   陸軍中将、陸軍省軍務局長
終身禁固  橋本欣五郎  五九(福岡)   陸軍大佐、赤誠会統領
終身禁固  岡敬純    五九(東京)   海軍中将、海軍省軍務局長、海軍次官
禁固二十年 東郷茂徳   六七(鹿児島)  駐独、駐ソ大使、外相
禁固七年  重光葵    六二(大分)   駐英、駐華大使、外相
 重光、東郷の禁固は罪状認否の日(昭和二十一年五月六日)より起算す

 さらに、起訴状中最後まで残された罪状項目十項について、各被告がどのような責任を負わされたかを次の表によってみよう。アラビア数字は、起訴状中の訴因(「東京裁判NO3 五十五の訴因と政治的免責」を参照)
 Gは有罪 Xは無罪 〇は判定せず △は絞首刑 2─36(平和に対する罪) 
54─55(通例の戦争犯罪)

被告名 1 27 29 31 32 33 35 36 54 55  
荒木  
土肥原 0
橋本        
   
平沼  
広田  
星野    
板垣 0
賀屋        
木戸  
木村      
小磯      
松井  
       
武藤  
       
大島        
佐藤        
重光    
嶋田        
白鳥            
鈴木    
東郷      
東条   0
梅津        

 

 起訴状は、訴因第一より訴因第五十五までをあげ、第一類平和に対する罪(一より三十六まで)
第二類殺人(三十七より五十二まで)第三類通例の戦争犯罪および人道に対する罪(五十三より五十五まで)に分けられていたが、判決はまず、侵略戦争の共同謀議を(訴因一)もっとも悪質な犯罪であるとみとめ、ついで各戦争の遂行(二七、二九、三一、三二、三三 、三五、三六)を有罪とし、つづいて第三類通例の戦争犯罪および人道に対する罪(五四、五五)を有罪としたのみで、第二類殺人の項を無視し、その他残虐行為の共同謀議その他四十五訴因について大幅の削除をおこなった。
 とりわけ第二類殺人の罪は、日露戦争の旅順攻撃以来の例をあげ、真珠湾奇襲開戦による殺人は、当然殺人罪を構成すると主張され非常な注目をひいたのであったが、判決はこれをあつかわず侵略戦争の遂行という範疇にふくめばたりると断定し、注目された。
 右表(上表)の訴因第一は、共同謀議の罪、二七は、中国に対する侵略戦争の実行、二九は、アメリカに対する侵略戦争の実行、三一はイギリス連邦(オーストラリアを含む)同。三二は、オランダ同。三三は、フランス同、三五は、ソ連同(張鼓峯)。三六、同じくノモンハン関係。五四は、残虐行為の命令授権、許可。五五は、故意または不注意による防止の怠慢。

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