藤岡信勝氏が「国民の油断 歴史教科書が危ない」(PHP文庫)で、「従軍慰安婦」五つの問題点の第三として指摘しているのは、下記のとおりですが、筋違いの話だと思います。
”第三に、売春自体が許しがたい悪徳で、当時、仮に合法的であったとしても、今の観点から見てこれはやはり過去に遡って糾弾すべきことだという観点から、教科書に慰安婦問題をかくべきだという立場もあり得ます。
しかし、当時の社会には、戦地の軍付属の慰安施設だけでなくて、内地においてもごく普通に女郎屋とか赤線とかよばれるさまざまな施設がありました。だから売春がけしからんというならそのことを書かなければいけない。また、世界中の国々の軍隊がそうした施設を持っていましたからそれも書かなければいけない。アメリカ占領軍自体が日本にやってきたときに、真っ先にそういう施設を日本側に要求したという事実もあります。
松本清張の『ゼロの焦点』という推理小説は、米軍相手の慰安施設で働いていたという過去を持った女性が自分の前歴を隠すために犯罪をおかすというストーリーです。ところが、そうした事実を一切伏せておいて、戦前の日本の軍隊だけがこういうものを持っていたかのように書くのは、きわめてアンフェアです。日本人だけが好色で、淫乱で、愚劣な国民であるということを、国民の税金を使って教科書に書き込ませて、中学生に教え込むということになるのです。これは絶対に許しがたいことです。そして何よりも、もし慰安婦問題を糾弾している人たちが、売春自体が悪徳だという観点で問題にしているとすれば、過去の悪徳はさておき、今、現在進行中の悪徳を先ず以て阻止しなければならないはずで、新宿・歌舞伎町あたりに真っ先にデモをかけるべきでしょう。ところが、そういうことは一向にしないのです。
日本においてだけでなく、どこの国においても売春が盛大に行われていることは、ほとんどだれもが知っている公然の秘密です。そういうことは糾弾せずに、過去の日本軍の慰安施設だけを問題にするということは、売春そのものに反対しているのではなく、日本の国家とか日本の軍隊を糾弾することが真の動機だということを暴露しています。”
「従軍慰安婦」の問題は、「売春婦」の問題とは別の問題です。理由はいろいろでしょうが、売春婦や娼婦と呼ばれた人たちは、報酬を得ることを目的に、性交渉に応じる人たちです。それはそれで、大きな問題があるため、1956(昭和31)年、「売春防止法」が公布されたのだと思います。
でも、多くの「従軍慰安婦」は、体を売ったのではなく、性交渉を強制されたのです。性交渉を拒否したために、日本兵に殴られたという証言があります。なかには斬りつけられたという証言もあります。慰安所経営者からひどい仕打ちを受けたという証言もあります。「従軍慰安婦」は、売春婦ではないのです。
1995年10月25日発行のアジア女性基金パンフレットは、政府の調査結果に基づいて、「従軍慰安婦」問題について、下記のようにまとめています。下記の文章が、でっち上げられた話でないことは、元「従軍慰安婦」の証言はもちろん、元日本兵の証言や、当時の政府が発した要請文書によって関係機関から集められた公文書、また、その後歴史家や研究者が、さまざまなところから見つけ出した諸文書によって明らかだと思います。
だから、藤岡氏が「従軍慰安婦」五つの問題点の第三にあげられた話は、筋違いだと思うのです。
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「従軍慰安婦」にさせられた人々
─1995年 10月25日発行 アジア女性基金パンフレットより─
「従軍慰安婦」とは、かつての戦争の時代に、日本軍の慰安所で将兵に性的な奉仕を強いられた女性のことです。
慰安所の開設が、日本軍当局の要請によってはじめておこなわれたのは、中国での戦争の過程でのことです。1931年(昭和6年)満州事変がはじまると、翌年には戦火は上海に拡大されます。この第1次上海事変によって派遣された日本の陸海軍が、最初の慰安所を上海に開設させました。慰安所の数は、1937年(昭和12年)の日中戦争開始以後、戦線の拡大とともに大きく増加します。
当時の軍の当局は、占領地で頻発した日本軍人による中国人女性レイプ事件によって、中国人の反日感情がさらに強まることをおそれて、防止策をとることを考えました。また、将兵が性病にかかり、兵力が低下することをも防止しようと考えました。中国人の女性との接触から軍の機密がもれることもおそれられました。
岡部直三郎北支那方面軍参謀長は1938年(昭和13年)6月に出した通牒で、次のように述べています。
「諸情報ニヨルニ、………強烈ナル反日意識ヲ激成セシメシ原因ハ………日本軍人ノ強姦事件カ全般ニ伝播シ………深刻ナル反日感情ヲ醸成セルニ在リト謂フ」「軍人個人ノ行為ヲ厳重ニ取締ルト共ニ、一面成ルヘク速ニ性的慰安ノ設備ヲ整ヘ、設備ノナキタメ不本意乍ラ禁ヲ侵ス者無カラシムルヲ緊要トス」
このような判断に立って、当時の軍は慰安所の設置を要請したのです。
慰安所の多くは民間の業者によって経営されましたが、軍が直接経営したケースもありました。民間業者が経営する場合でも、日本軍は慰安所の設置や管理、女性の募集について関与し、「統制」を行いました。日本国内からの女性の募集について、1938年3月4日に出された中央の陸軍省副官の通牒には次のようにあります。
「支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為、内地ニ於テ之ガ従業婦等ヲ募集スルニ当リ、故ニ軍部諒解等ノ名義ヲ利用シ、為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ、且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ、或ハ………募集方法誘拐ニ類シ、警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等、注意ヲ要スルモノ少ナカラザルニ就テハ、将来是等ノ募集ニ当タリテハ、派遣軍ニ於テ統制シ、之ニ任ズル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ、其ノ実施ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連繋ヲ密ニシ、以テ軍ノ威信保持上、並ニ社会問題上、遺漏ナキ様配慮相成度依命通牒ス」
最初は日本国内から集められた女性が多かったのですが、やがて当時日本が植民地として支配していた朝鮮半島から集められた女性がふえました。その人たちの多くは、16、7歳の少女もふくまれる若い女性たちで、性的奉仕をさせられるということを知らされずに、集められた人でした。
1941年(昭和16年)12月8日、日本は米英オランダに宣戦布告し、(太平洋戦争)、戦線は東南アジアに広がりました。それとともに慰安所も中国から東南アジア全域に拡大しました。そのほとんどの地域に朝鮮半島、さらには中国、台湾からも、多くの女性が送られました。旧日本軍は彼女たちに特別軍属に準じた扱いをおこない、渡航申請に許可をあたえ、日本政府は身分証明書の発給をおこなうなどしました。それと同時にフィリピン、インドネシアなど占領地の女性やオランダ女性が慰安所に集められました。この場合軍人が強制的手段をふくめ、直接関与したケースも認められます。
慰安所では、女性たちは多数の将兵に性的な奉仕をさせられ、人間としての尊厳をふみにじられました。さらに、戦況の悪化とともに、生活はますます悲惨の度をくわえました。戦地では常時、軍とともに行動させられ、まったく自由のない生活でした。
日本軍が東南アジアで敗走しはじめると、慰安所の女性たちは現地に置き去りされるか、敗走する軍と運命をともにすることになりました。
一体どれほどの数の女性たちが日本軍の慰安所に集められたのか、今日でも事実調査は十分に「はできていません。1939年(昭和14年)広東周辺に駐屯していた第23軍司令部の報告では、警備隊長と憲兵隊監督のもとにつくられた慰安所にいる「従業婦女ノ数ハ概ネ千名内外ニシテ軍ノ統制セルモノ約850名、各部隊郷土ヨリ呼ビタルモノ約150名ト推定ス」とあります。第23軍だけで一千人だというのですから、日本軍全体では相当多数の女性がこの制度の犠牲者となったことはまちがいないでしょう。現在研究者の間では、5万人とか、20万人とかの推計がだされています。
1945年(昭和20年)8月15日戦争が終わりました。だが、平和がきても、生き残った被害者たちにはやすらぎは訪れませんでした。ある人々は自分の境遇を恥じて、帰国することをあきらめ、異郷に漂い、そこで生涯を終えました。帰国した人々も傷ついた身体と残酷な過去の記憶をかかえ、苦しい生活を送りました。多くの人が結婚もできず、自分の子供を生むことも考えられませんでした。家庭ができても、自分の過去をかくさねばならず、心の中の苦しみを他人に訴えることができないということが、この人々の身体と精神をもっとも痛めつけたことでした。
軍の慰安所で過ごした数年の経験の苦しみにおとらない苦しみの中に、この人々の戦後の半世紀を生きてきたのです。
現在韓国では、政府に届けでた犠牲者は162名とのことです。フィリピン、インドネシア、台湾、オランダ、朝鮮民主主義共和国、中国などの国や地域からも名乗りでている方々がいます。しかし、いずれにしても多くの人がこの世を去ったか、名乗りでることをのぞんでおられないのです。このことも忘れてはならないでしょう。
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先日、 名古屋市の河村たかし市長が、愛知県の大村秀章知事の辞職勧告決議を求める請願を県議会事務局に提出したといいます。その理由の一つが「あいちトリエンナーレ2019」企画展「表現の不自由展・その後」の展示内容だということです。
「平和の少女像」などを展示した国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」内の企画展『表現の不自由展・その後』が、開催から三日間で中止に追い込まれたことは、記憶に新しいと思います。”ガソリン携行缶を持ってお邪魔する”という脅迫があったという事実は忘れられません。「従軍慰安婦」の問題について考える事を許さない雰囲気や、展示内容が不愉快だからということで、表現の自由を認めようとしない雰囲気が広がっていることは恐ろしいことだと思います。河村名古屋市長には、表現の自由を尊重してもらいたいと思います。
国際連合人権委員会特別報告者による「従軍慰安婦」に関するクマラスワミ報告書やマクドゥーガル報告書の記述を無視してはならないと思います。「従軍慰安婦」が売春婦だったという議論は、世界では通用しないのです。