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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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日本軍政下 ベトナム"200万人"餓死 5

2014年07月22日 | 国際・政治
 日本軍政下におけるベトナムで、”200万人”の餓死者が出たという話は、ベトナム独立同盟(ベトミン)が、8月の一斉蜂起で独立を果たし、ベトナム民主共和国を成立させたその日(1945年9月2日)、独立式典でホー・チ・ミンが読み上げた「独立宣言」の中に出てくる。下記の一節である。

・・・1940年秋、日本ファシストが連合国攻撃のための基地を拡大しようとインドシナに侵略すると、フランス植民地主義者は膝を屈して降伏し、わが国の門戸を開いて日本を引き入れた。このときから、わが人民はフランスと日本の二重のくびきのもとに置かれた。このときから、わが人民はますます苦しくなり、貧窮化した。その結果、昨年末から今年はじめにかけて、クアンチからバックボにいたるまで200万人以上の同胞が餓死した。・・・”

この「独立宣言」の内容に関して、

ハノイ人民幹部が「政治宣伝だった」と認めた

として、当時の日本軍に責任はないとしたり、またその責任を過小評価したりするような主張が、いろいろなところでなされている。しかし、「日本軍政下ベトナム"200万人"餓死」の1~4ですでに取り上げたように、日本人自身による多くの餓死者の目撃証言や、日本軍のコメ(モミ)の強制買い付けの問題、黄麻強制栽培の問題その他を具体的に検証すれば、それほど簡単に責任逃れができる問題ではないことがわかる。

「ベトナム”200万人”餓死の記録 1945年日本軍政下で」早乙女勝元(大月書店)にも、一部が引用されているが、「証言する民 十年後のベトナム戦争」大石芳野(講談社)の、下記のような、地元住民に対する聞き取りによって集められた証言も無視することはできない。”ハノイ人民幹部が「政治宣伝だった」と認めた”として、名前も役職名も経歴も分からない「ハノイ人民幹部」の一言で、数々の証言をすべてをひっくり返せるものかどうか、冷静に考える必要があると思う。
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                第8章 「北」の人々

           ── 旧日本軍・抗仏・北爆の四十年 ──

恐怖の旧日本軍「麻作戦」

 東南アジアの国々を旅すると、どこでも人なつこい笑顔で歓迎される。だが、親しくなるにつれて「日本軍に父が……親類が……故郷の人が……」、といった話になる。
 ハノイの南東にあるタイビン省へ行った時に、人民委員会の副議長ブバン・ハンさんに日本軍の話をぶつけてみた。彼は初めいささか驚いたような表情をして私をじっと見つめていたが、深く吸い込んだ息をゆっくりと吐いて、40年前のことを思い出すように話し始めた。


「当時、省の人口は約100万人のほぼ三分の一弱にあたる28万人が日本軍の『作戦』によって命を落としました。最大の理由は、収穫寸前の稲を引き抜かせて麻を植えさせられたことにあったのです。小作農はもちろんのこと、地主にとっても、収穫直前の米蔵は空っぽでした。10日待ってくれれば、収穫を終え、田を耕し直して麻を植えることもできたのです。私たち農民は日本軍に懇願しました。けれど、聞き入れてもらえず、強制的に刈り取らされたのです。その結果、貯えのなかった小作農たちから先に飢えて倒れていきました。水害も加わり、弱った体に伝染病がみるみる広がっていったのです。全滅した家族もたくさんありました。亡くなった家族、友人の遺体を埋めながら、次は自分だ、自分は誰が埋めてくれるのだろうか……そんな想いでした。まだ元気のあった人が、馬車で遺体を集めてはまとめて空き地に埋めました。小さな家に子どもたちが飢えて泣いていたけれど、その子たちも翌朝には息たえていました。冷たくなった母親の乳房に吸いついたきりの赤ん坊……。着る物、調度品は次々に売って食べ物に換えていったのでとうとう裸同然で歩いていました。私の長女は5歳だったけれど、米ヌカでやっと生き残りました。でも、赤ん坊は死んでしまいました」

 タンホー村へ行ったとき、農婦ブー・ティ・クイットさん(59歳)の家を訪ねた。彼女の家はレンガ建てだ。きれいに掃除された庭の隅に井戸が掘ってあり、炊事場のレンガの小屋には食器、鍋などがきちんと並べられてあった。73年に草葺屋根の家から立て直した。クイットさんのこの庭を囲むようにして、すぐ横に3人の息子がそれぞれの家を建てた。彼女は若い人たちに農業技術の指導をしている。最近では1ヘクタールにつき11トンの米が収穫できるようになったという。
 彼女に日本軍のことを尋ねると、やはり少しとまどっていたが、こう話した。
「日本軍は村人の倉庫から残り少ない米を港に集めて出荷したんですよ。何でも南方の仲間に送るんだそうでした。一度に運び切れないで残った米から芽が出はじめて。飢えた子供が、手づかみでとろうとしてひどく殴られましたね。
 痩せた土地が多い北部では収穫もぎりぎりなんですよ。生きるための米をとりあげられ、実る前の稲穂を刈られて、これじゃ死ね、ということですよ」


 同じタンホー村の農夫グエン・ヒ・トゥさん(69歳)は、貧しい農民だった。そこに突如「麻作戦」がとられてトゥさん一家はどん底へ追いやられた。
 「『共産主義者はどこだといって乱暴しましたよ。私は違いましたがこの村にいて救われる道はないと思い、弟を連れてハノイから70キロの高地バクヤンに働きに出ました。その直後、飢えた家族が次々に死んで全滅したことを知りました。が、私と弟は帰るに帰れませんでした。46年にフランスとの戦いが勃発したので急いで村へ帰り、民兵となったのです』
 彼は44歳でやっと結婚ができるゆとりができた。だが、一人息子が4歳の時、妻に病死されてしまい、そのまま再婚もしないで今日に至っている。
「妻のことが忘れられなかったのと、息子のことを考えても母親を覚えさせておきたかった。幼かったから、生みの親より育ての親の記憶がはっきりしてしまうと思いましたから」
と、トゥさんはいった。ベトナムでは、男性も女性も再婚しない人が多い。そのことを表したことわざがある。
「雄の鶏が雛を育てる」
それほど男ヤモメは多いのだという。


 日本軍に、「共産主義者」と名指しされて捜索されたという一人ドーバン・クーさん(72歳)に会うことができた。クーさんはベトナム人としてはやや大柄で、健康そうに見える。穏やかな笑顔を浮かべながら、部屋に案内してくれた。2つのベッドにはゴザが敷いてあり、テーブルと椅子がきちんと置いてあった。ベッドの後ろの壁には竹製スダレに描かれた花柄の絵が飾ってあった。
「村人の知らせですぐ逃げました。しばらくして戻ってみると、村長の家に日本兵がいて彼らは大声でどなっていました。日本軍には通訳がいなかったため、手まねで『豚を食べたい』とか、共産主義のマークを示して『連れて来い』とか、『麻を植えろ』などと命令してました。思うようにならないと『家に火をつけるぞ』と脅迫し乱暴を加えていました。郡長は日本軍に○○ドノといって、ペコペコでしたね。
『決められた面積に麻を植えなければ、村全体を焼き打ちにする』、といわれたので、仕方なく稲を抜いて全体の三分の一を麻畑にしました。でもその結果、タンホー村だけでも飢えで少なくとも1300人が亡くなりました」
と、クーさんは話した。そこへ妻のリンさん(73歳)が茹でたての黄色いトウモロコシを大ざるに盛って持ってきてくれた。香ばしさに誘われて1本とって丸かじりした。クーさんはニコニコしながら
「あなたは横笛を吹きましたね」
といった。トウモロコシを横にして食べる姿は、ちょうど笛を吹いているようだ、と人びとは詩的に表現している。
 別れ際にクーさんは私の手をとりながら、
「この村にきた日本軍の兵士も、普通の平民だったのでしょう。それが兵士としてベトナムに送り込まれて野蛮な行動をとらされた。これは日本軍国主義者がそうさせたので、一般の人びとはお互いに兄弟です。これが私たちの本当の気持ちですよ」
と、柔らかい眼差しでいった。


 ベンフン村のグエン・ティ・メンさん(60歳)は幼い孫の相手をしながら、
「あのころのことは忘れましたよ」
といって、話そうとしなかった。けれど、
「この前、村に養蚕のことで数人の日本男性が来ました。その時、子供たちは『日本軍と同じようにひどいことをするかもしれないね』と、話していたんですよ。夫は驚いて、子供たちに『あれは日本の軍国主義者のしたことで、一般の日本人はそんなことはしないよ』と教えていましたね」
とだけいった。

 ベトナムが日本軍に占領されたのは45年の5ヶ月間だったが、駐留は5年間にも及んでいた。日本軍はほかの東南アジアや南洋諸島の地域にいる仲間の食糧を補うために、ベトナムが収穫した米を運び出した。そのため村人は飢えた。しかも、日本軍を狙った連合軍の攻撃が激しくなり、南部からの米が北部へ送れなくなっていった。そこに悪天候による不作。さらに追い打ちをかけたのが、「麻作戦」だった。



http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は省略をあらわします。

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日本軍政下 ベトナム「200万人」餓死 4

2014年07月18日 | 国際・政治
 安倍首相の独裁的ともいえる集団的自衛権の閣議決定その他を受け、内外で、その背景にある歴史修正主義的な考え方を含めて、今まで以上に、日本の政権に対する批判の声が高まっている。周辺国の政権関係者も日本に対して「歴史修正主義」と言う言葉を公然と使うようになった。
 そして、私自信も、戦争体験者の減少に合わせるように、「歴史修正主義」的な考え方が、日本国内で広がり、深まっていることを、いろいろな場面で感じるようになった。

 日本軍政下におけるベトナムの200万人餓死をめぐる問題でも、事実を正しく検証することなく、日本の軍政を正当化しようとする主張が目立つ。確かに”200万”という数字は概数で、正確なものではない。また、それが日本軍だけの責任でないということも事実であろう。
 しかし、、「当時ベトナムにいた1万人の日本兵が、200万人分の米を食べらわけがない、ベトミンンの政治的な宣伝である」とか「日本軍が配置したのは一個師団、約2万5000人です。2万5000人増加した為、200万人の人々が餓死するということはありません」などといって、責任逃れのできるような問題でないことも確かであると思う。

 タイビン省では、1944年におよそ103万人だった人口が、独立後には75万人に減っていたということや、下記に抜粋したような個別の事実を、総合的に考えると、日本軍政下で、200万人近い餓死者が出たことを否定することは難しい。

 「ベトナム”200万人”餓死の記録 1945年日本軍政下で」(大月書店)の著者、早乙女勝元氏も、200万人餓死の原因として、①天候不順による凶作 ②南からのコメの輸送停止、③ジュートなどへの転作の強要、④日本とフランスによるコメの強制買い付け、の4つをあげ、それらが複合的に影響しあったため、多数の餓死者を出すことになったといっているのである。

 さらに言えば、当時ベトナム北部に駐留していた元日本兵の「その頃、師団は決戦に備えて2年分の食糧を確保していたそうです」というような証言があり、また、ベトナム女性の「日本軍は村人の倉庫から残り少ない米を港に集めて出荷したんですよ。何でも南方の仲間に送るんだそうでした。… 痩せた土地が多い北部では収穫もぎりぎりなんですよ。生きるための米をとりあげられ、実る前の稲穂を刈られて、これじゃ死ね、ということですよ」との証言もある。これらの証言を無視したり”虚言”として切って捨てるのではなく、下記のような事実やその他の資料と合わせて考える必要があると思う。
 
 まず、日本とベトナム(南ベトナム・ゴ・ディン・ジェム政権)との間の賠償協定締結(1959年5月13日)に関わって、国会に提出された政府提案理由の中に「……ヴェトナム領域における特殊な様相は、常時8万前後のわが軍の存在及び南方地域に対する割当20万人の兵站補給基地としての役割から生じた。すなわち、交通輸送機関の全面的徴発、主として米軍の爆撃による鉄道路線の寸断等の原因から国内経済流通が極度に乱れ、加うるに、諸物資の大量徴発のため昭和20年に入ってからは餓死者のみで推定30万が出た」とある。早乙女勝元氏も取り上げているが(『私たちの中のアジアの戦争 仏領インドシナの「日本人」』吉沢 南(朝日選書314)に取り上げられていることはすでに紹介した)、「餓死者のみで推定30万」はさておいて、「常時8万前後のわが軍の存在及び南方地域に対する割当20万人の兵站補給基地」という指摘を見逃してはならないと思う。

 また、早乙女勝元氏は『日本戦争経済の崩壊─戦略爆撃の日本戦争経済に及ぼせる諸効果』(正木千冬訳)に、当時日本は大量のトウモロコシやコメ(モミ)をインドシナから輸入していた事実が記録されている、と明らかにしている。下記にはベトミンによる日本軍のモミ貯蔵庫やコメ倉庫襲撃の話もでてくるが、日本の企業(三井物産)が確保したにもかかわらず、輸送の見通しが立たず、日本国内へ搬入できなかったコメ(モミ)がベトナム現地に大量に残されていたという事実も明らかにされている。

 したがって、ベトナムの200万人餓死をめぐる問題は、当時ベトナムを軍政下においた第21師団の日本兵(兵員数約2万5000人)が、200万人分の米を食べられるかどうか、というような問題ではないのである。

 数え切れない餓死者が出た事実と、それに日本軍が深く関わった事実を真摯に受け止めるべきではないかと思う。

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               第5章 内外の証言記録から

餓死者の数

 大飢饉のリアルな実態から、支配管理者だった日本軍の姿をあきらかにしてきたが、次に飢餓についてのベトナム側の調査と研究のうちから、これはと思う統計を「日本とベトナム」紙より引用したい。
 ベトナム北部からやや南よりのゲアン省(現在のケディン省の一部)は、ホー・チ・ミン主席の故郷で知られる。当時は飛行場や鉄道車輌工場、港湾施設がととのっていたために、日本軍が最大時1万人もの軍を駐屯させたところである。軍事施設の拡張工事は、多くのベトナム人を苦力(クーリー)として動員し、食糧、物資の徴発もひどく、人びとの生活は極度に貧しく追い詰められていた。稲田をつぶしてジュートへの転作も、ラム河川敷で広くおこなわれたという。そこへ悪天候が重なったために、たちまちにして大飢饉となった。同省での飢饉関係調査は、1964年に実施されている。(表2-略)全県を網羅したものではなく、もっとも被害が大きかったとされる8県、263村を対象にして、調査対象期間を44年末より45年初頭の3ヶ月間とした。それ以後の被害は含まれていない。 
  

 したがって限られた範囲内の重点的な調査でしかないのだが、それでも全滅した家族は次頁の表(略)のとおり2250戸を数え、餓死者は4万2630人となる。この死亡者数は、その後ゲアン省での30年にもおよぶ抗仏・抗米戦争による犠牲者数よりも、あきらかに多い数字となろう。
 紅河デルタの南端にあるニンビン省でも、62年にやはり飢饉の被害調査が重点的に行われ、同省のなかでわりと豊かな地域のはずのキムソン・イエンカイ両県だけで、3万7936人の餓死者を出した。
 そのうちキムソン県の内訳を見ていくと、餓死者は6116家族の、2万2908人に達した。うち1571家族の7008人は、家族全滅というもっとも悲惨な結末となった。
 また、この時期に流民となって、村を離れていった行方不明者が3814人いる。かれらが、その後どのような運命をたどったかはわからないが、おそらく大半が行き倒れになったものと思われる。行方不明者も加えると、キムソン県の死亡者は2万7000人近くなる。

 紅河デルタのタイビン省となりの、ハノイ寄りにハイゾォン省がある。同省のフォンタイ村を1964年に訪れた作家の山岸一章氏の『ベトナム-詩と竹と英雄の国』によれば、同村は5620戸、人口3075人の村だが、大飢饉で「この村では2500人(当時の人口)のうち890人が餓死したというのです。アンザクというは、557人のうち411人が餓死したというのです」と記している。
 「いま、豊かな田園風景のなかで、広い水田に田植えがはじまっていました。それを目で見ながら、20年前に、同じ水田地帯のまんなかの農村で、10人に4人、アンザクでは、10人に8人が餓死していったようすを、どうしても想像することができませんでした。わたしは子どものころ、義父が失業して、2日も3日も味噌汁と塩湯で過ごした記憶があって、飢えることの苦しさを知っています。日本の軍国主義者が、”大東亜共栄圏”の美しいことばで宣伝しながら、そのかげで、実際におこなった罪悪の大きさと恐ろしさに、からだがふるえてくるのを止められませんでした。」


 また、大石芳野さんの『証言する民──10年後のベトナム戦争』には、タイビン省で、日本軍が収穫寸前の稲を引き抜かせてジュートに替えさせられた例が出てくる。せめて10日待ってくれの農民たちの懇願さえも日本軍はききいれず、稲を強制的に刈り取られてしまった結果、貯えのなかった小作農たちから先に倒れて死んだ。亡くなった家族や、友人の遺体を埋めながら、次は自分の番だ、誰が自分を埋めてくれるだろうか……という人民委員会某氏のコメントがある。
 同省のタンホー村では、次のように語る人がいた。「『決められた面積に麻を植えなければ、村全体を焼き打ちにする』といわれたので、仕方なく稲を抜いて全体の三分の一を麻畑にしました。でもその結果、タンホー村だけでも飢えで少なくとも1300人が亡くなりました」


 そのタイビン省を1972年に取材した本多勝一氏の『北ベトナム』にも、同省のドンフン県ドンフォン村での餓死者の数が記されている。
 「かくて、ドンフォン村の餓死者は、1944年に137人、翌年に155人、計292人に達した。ほかに出稼ぎで離村したまま行方不明の137人も、どこか他郷で餓死したとみられているから、合計は429人になる。この村は当時より人口がふえたという現在でも約2600人だから、これはおそるべき高率だ。
 こうした中で、ベトミン(ベトナム独立同盟)は『敵のモミの倉庫を破壊して人民を救おう』という運動を展開した。日本軍が集めたモミが倉庫にある。ベトミンは死を賭した民衆を率いて、鎌や包丁をふりかざししてこれを襲った。警備のスキをついて急襲すると、倉庫を守る兵隊など2、3人だから、何千人という怒り狂った群衆にはほどこす術もなかったという。このときの群衆は、片手に包丁、片手にモミを入れるカゴという姿が普通だった。」


 それまでは、歩いていく道になにか落ちていないかと、いつもうつむいてとぼとぼと足を運んでいた人びとが、「片手に包丁、片手にモミを入れるカゴ」姿の大群衆と化したのである。ベトミンは、その先頭に立った。

 先のニンビン省における2つの村の餓死者の調査数を書いたが、同省のニュークアン県には、日本軍が支配者になると同時に、いちはやくベトミンによる大規模なモミ倉庫襲撃が組織されたクインリュー地区がある。同地区で、省初めての革命権力=人民委員会が成立したのは45年4月4日だったというから、日本軍の「明号作戦」から一ヶ月も経過していなかった。すぐに日本軍保安隊が弾圧に出動した。運動の中心だったルーフォン村で銃撃戦となり、省人民委員会の責任者だったチャン・キエン氏が、不幸にも日本軍の銃弾に倒れた。まさに命をかけてのたたかいだったのである。

 すでに前年12月末、ベトミン武装解放宣伝隊が、後の名将ボー・グエン・ザップの指揮のもと、北部カオバン省でたった36人の兵から組織されていたが、飢餓が深まるにつれて人びとの支持を得、爆発的に勢力を拡大していった。


 ベトミンはいたるところで、「日本ファシストから米を奪え」「汗と涙で育て上げたモミを取り返せ」と農民たちを組織していく。日本軍のモミ貯蔵庫や、コメ倉庫がつぎつぎと襲撃されていった。日本軍は、これを暴力で弾圧し、指導者たちを銃殺したり、負傷させたりしたが、深夜でもたいまつを手に手に殺到してくる何百人何千人という大群衆を前にしては、もはやどうすることもできなかった。

 1945年3月9日の直後、ベトミン戦線は、抗日救国運動を促進するよう、全国の同胞に呼びかける「アピール」を発した。アピールの中には次のような一節があった。


  ……国民同胞諸君
 わが民族の運命はか細い髪の毛にぶら下がっている。しかし、千歳一遇の機会
 が来つつある!
 十分な衣食を欲するならば
 家と国を守りたいならば
 兵役、夫役を免れたいならば
 被爆、被弾の難を逃れたいならば
 民族が世界に対して胸を張ることを願うならば
 さあ、立ちあがろう、富める者も貧しき者も
 男も女も、老いも若きも、幾百万人が一つになって!
 刀をとれ、銃を構えよ、
 賊を殺し、裏切り者を駆除せよ。
 強大で、自由な、そして独立した国ベトナムをうちたてよう。
 痛苦と怨恨を注ぎこみ、敵を流し去る滝としよう。国土を守り犠牲となった民族の英雄たちに背かぬよう断じて誓おう。
 同胞諸君!

 抗日救国の時は来た。急いでベトミンの金星紅旗に続け!

 ドク・ラップ(独立)の叫びは、こうしてなだれのように村や町から、民族の一大エネルギーとなって「八月革命」へと突き進んでいく。やっと飢餓神を振りきったやせ細って裸同然の人びとは、勇気以外になにも失うものはなかった。そうした飢えに苦しむ民族の心を心にした者のみが、ベトナムの新しい時代「自由と独立の国家」(ベトナム民主共和国独立宣言による)を築いたのだといえよう。


 
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。

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日本軍政下 ベトナム"200万人"餓死 3

2014年07月17日 | 国際・政治
 大戦末期の日本軍政下における、ベトナム"200万人"餓死に関しては、「当時ベトナムにいた1万人の日本兵が、200万人分の米を食べらわけがない、ベトミンンの政治的な宣伝である」、と200万人の餓死そのものに疑問を投げかけつつ、当時の日本軍の責任を否定する人たちがいる。現在ネット上では、そうした考え方をとる人たちが主流のようでさえある。

 しかし、「ベトナム”200万人”餓死の記録 1945年日本軍政下で」(大月書店)の著者、早乙女勝元氏によると、「1万人の日本兵」ということ自体が事実ではないようである。「仏印」駐屯日本軍は第38軍(司令官土橋勇逸中将)だが、「明号作戦」のために増強された兵力は、隷下部隊に第21師団、第37師団、独立混成第34旅団、独立混成第70師団、指揮下の部隊には第2師団、第22師団、第4師団の一部などが含まれ、その総兵力8万2000人のうち北部に2万5000人が配置されていたというのが、どうやらほんとうらしいというのである。また、すで「日本軍政下ベトナム"200万人"餓死 1」で紹介したが、戦後南ベトナム(ゴ・ディン・ジェム政権)との賠償協定に関わって、政府が国会に提出した賠償提案の理由の中に、「当時8万前後のわが軍」と明記されていて、それが45年に入っての通常兵力だったと解釈できるというのである。

 さらにいえば、「1万人が200万人分のコメを食えるはずがない」というのは確かであろうが、”そのとき貯めこんでいたコメの物量を忘れてはならない”という指摘も重要であると思う。また、同文書には「南方領域に対する割当20万人の兵站補給基地としての役割」などという言葉もあり、当時日本軍が確保していたコメと同時にベトナムから持ち出されたコメについても考慮する必要があると思う。軽々しく「当時ベトナムにいた1万人の日本兵が、200万人分の米を食べらわけがない」などということはできないと思うのである。下段の「飢餓四つの原因」も、忘れてはならない指摘であると思う。

 下記は「ベトナム”200万人”餓死の記録 1945年日本軍政下で」早乙女勝元(大月書店)からの抜粋である。
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                第6章 だれに責任が?

強制買い付け

 当時の食糧事情を、ベトナム側からあきらかにした資料がある。
『1945年の200万人餓死の真実』は、私も二度ほどお会いしたことのあるベトナム歴史研究所所長バン・タオ教授が監修し、ゲウン・カック・ダム氏が編集した一冊で、4年ほど前に日本ベトナム友好協会に送られてきた。その結論部分が『日本とベトナム』紙に3回にわたり分載されている。

 これは、書名からも察しがつくように、問題の「200万人餓死」を解明する上で、ベトナム側のもっとも権威のある、しかも新しい研究書とみることができる。また、こんにちの時点までに入手したベトナム側あるいはフランスなど西側の統計資料が豊富に引用されているのにも、特色がある。
 その内容を損なうことなく紹介するには、ちょっと力不足だが、できるだけわかりやすく次にまとめてみることにしよう。


 ──フランス側の資料によると、1942年にベトナム北部で161万7000トンのモミを生産したのに対して、食べるほうの人口は800万5000人だった。
 大人と子どもを平均して、一人の人間が一年間に消費するモミを210キロ(この量は少し多いように思えるが、モミ計算であるうえに、副食物が極端にとぼしく、味噌、塩、ニョクマム(魚醤)くらいしかなかったため、その分をコメで補う生活だったと考えられる)とすると、800万5000人に169万トンのモミが必要となる。すると、この年に生産したモミ総量は、8万トン前後の不足分があったということになる。
 1943年には、同じ北部で151万3000トンのモミを生産したのに対し、人口は1000万人に増えていた。したがって、この年の不足分は61万トンあまりとなる。その分はどうしていたのか。南部のコメを運んでくることで補っていた。南北の交通が正常だった41年には、18万6000トンの南部米が北部に搬入されている。


 ところが1944年~45年ともなると、重慶、桂林などからの連合軍の日本軍事目標爆撃により交通手段は悪化の一途をたどり、南部米の移送があちこちで分断されてしまう。44年には、わずか6800トンの南部米が運ばれたにすぎない。もはや南部米はアテにできないとあって、これを現地で解決すべく、フランスは農地を細分化し、1マウ(北部で3600平方メートル)単位で、モミの買い上げを強制した。農民は1マウあたり200~250キロものモミを売らねばならなくなったのである。

 強制買い付け制度によるモミは、こうして年毎に増加して、42年が1万9000トン、43年が13万トン、44年が18万6000トンとふくれ上がっていく。農民のなかには、規定量のモミを売ったら食用分がなくなってしまい、はるかに高い金でモミを買わねばならない者が続出してきた。
 その買い付け価格であるが、43年に100キロのコメが市場で57ドンだったのに対して、当局の買い上げ価格は26ドン。ざっと半値だった。ところが44年には市場価格は400ドンに達したにもかかわらず、買い上げ価格は53ドンだった。八分の一である。食用米が不足すれば、当局が支払ってくれる価格の8~10倍もの高いコメを逆に市場で入手しなければ生きていけなくなったのだ。
 こうして農村はたちまちにして窮乏化し、例年貯えていたところの非常用の保有米まで失うほどの、かつてない危機的事態となった。


 都市部はどうか。日本軍とその関係企業、フランス政庁(共同管理は45年3月9日までだが)と接触していた人々にだけ、コメは配給制になっていた。しかし、43年なかばまで一人あたり毎月15キロのコメが、44年には10キロ、45年には7キロになってしまった。不足分は買い足さなければならず、すさまじいインフレで、都市人民もまた急速に餓民なっていった。

 もう一つ、忘れてはならない大きな問題がある。たとえ自然災害によって食用米が不足しても、これまでの農民たちは、トウモロコシなどの雑穀にたよることができた。しかし、戦争が激化すると、日本とフランスはコメのみならずトウモロコシを買い占める一方で、繊維性・油性作物の栽培を奨励し、強要した。ジュート、チョマ、綿、ヒマ、落花生、胡麻などの栽培面積は、北部だけで44年に4万5000ヘクタールとなり、40年とくらべて9倍に達した。もしも40年度の5000へクタールのままだったとすれば、のこりの4000万ヘクタールで、モミ6万40000トンが、さつま芋かトウモロコシ9万トンを収穫できたはずである。


 北部の飢餓状態は、44年の末になると、いっそう深刻さを増してきた。同年10月と11月に台風と大雨が何度も重なり、やがて冷害も加わって、秋作米収穫に大きな被害が出た。これを統計によって、次にみていくことにする。

 38年から43年まで、北部における10月秋作米(春作米を除く)の平均収穫量は、モミで109万トンだった。しかし、44年の10月米収穫は、やっと100万トンに達しただけだった。このほかに、北部の人たちは8万トンあまりの雑穀を生産していたので、食糧生産量は合計108万トンになる。
 ところが、前述のように、この年フランスは18万6000トンのモミを強制的に買い付けた。その三分の二が秋作米で、12万5000トンである。このうちの一部をフランスは都市部のごく限られた人びとに配給した。その総量5万トンという数字は疑わしいが、仮にそうだとして7万5000トンがフランスと日本に残されたことになる。さらに農民が次の植え付けの種モミとして保有しておかなければならないモミが、5万5000トンあまりあった。これを差し引くと食用として残された分は95万トンになる。
 それが、北部人民に食用として残されたモミで、44年11月から45年5月の春作米収穫期まで、約7ヶ月分となる。


 北部の人口は、約1000万人。一人あたり年間210キロの穀物が必要だったとすれば、1ヶ月に18キロ。7ヶ月ならば126キロになる。しかし、総計95万トンのモミで7ヶ月を食いつなぐためには、750万人分しかない。残りの250万人がはみ出してしまう!

 以上は、非常に単純な計算によるものであって、95万トンからの食用分が、残されたすべての人たちに平等に配分されていたならばまだしも、実際は決してそうではなかった。フランスが買い付けを委ねていた大地主や権力者、ならびに各種商人たちが、インフレを見越していちはやくごっそりとおさえこんでしまった。買い占めと売り惜しみである。そのため、あるところにはあったが、実際に一般の手にまわった分は、もっとずっと少なかったのである。
 同書のまとめは、次のような文章で結ばれている。

 「数知れぬ人々が、このような籾・雑穀の不足状態の中で、バナナとか山イモとか木の葉、あるいは金持ちたちが捨てたゴミなどを食糧にして食いつながざるをえなくなった。しかし、このような物は飢餓の解消には、あまり大きな貢献にはなりえなかったのである。
 したがって、1945年初頭に北部で200万人の人が餓死したという、ベトナムの新聞が公表している数字は、けして誇張されたものではなく真実であり、これを誇張とするのは、日本帝国主義とフランス植民地主義の責任を故意に軽減しようとする人の議論なのである。」


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飢餓四つの原因

 パン・ダオ教授監修による『1945年の200万人餓死の真実』と、来日したタオ教授から直接細部のくわしい説明を受け、またさらに多くの資料を照合していくところ、深刻な飢餓の原因は決して単純なものではなく、大きく分けて次のような理由が考えられる。


①天候不順による凶作
②南からのコメの輸送停止
③ジュートなどへの転作の強要
④日本とフランスによるコメの強制買い付け

 というわけで、いくつものマイナス要因が、同時期に重なったことの複合汚染ならぬ複合飢餓だったと考えられなくもないが、しかし、以上の理由のうちの、もっとも主要な要因ははたしてどれなのか。

 ①の自然災害だったという指摘には、すでに同地域における歴史に残る飢饉を紹介したが、これまでどんなひどい不作でも、200人余りの犠牲者が出た例(1915年)があっただけである。
 1944年に超大型の台風と洪水とに襲われたトンキンデルタが、かなりの面積にわたって水没したのは事実だったとしても、秋作米は約100万トンの収穫があって、43年度の109万トンに比べ、約1割ほどの減収でしかない。もともと消費量の追いつかぬ収穫しかない人口密集地域だから、1割減っても影響は深刻だが、それが決定的な要因になったとは考えにくい。不作になったのはもちろんのことだが、しかし、冷害による被害もまた意外に大きかったのではあるまいか。
 ハノイの温度は夏に30度以上の酷暑になることもあるが、12月から1月の平均気温は17度前後である。それが、この年は4度以下までさがり、時には薄氷さえ張ることがあったという。日本兵士たちはすべて外套を着用したといわれる。すでに長期におよぶドン底生活で、衣食住すべてにわたりぎりぎり最低だった人びとには、耐え難い寒波だったことだろう。身のまわりのものはみな売りつくし、裸同然となって食物を求めてさまよう人たちは、もはや肉体的な抵抗力がなく、コレラ、チフスなどの疫病も広がり、さらに凍死も多かったのではないかと思われる。


 ②の南からのコメの移送が遮断されたのも、小さくない要因である。ベトナムのコメどころは、今も昔も圧倒的に南のメコンデルタで収穫される南部米(サイゴン米)である。
 1938年~39年度の統計によれば、インドシナ全域でのコメの収穫高は年間630万トンで、その内訳はベトナム北部で25%、中部で16%に対し、南部で40%を占めた。カンボジアは12%ラオスは7%にしか過ぎなかった。したがって、インドシナ全体のコメの収穫量の半分近くが南部で生産されるサイゴン米である。

 人口が多いわりに食糧生産に追いつかぬ北部は、南からのコメと引き替えに石炭などの地下資源を送っていたものだが、戦争が激化するにつれて、その均衡がくずれた。41年には18万6000トンの南部米が北部に運ばれてきたのに、44年はわずか6800トン。例年の二十分の一では、どうしようもない。
 南部では余ったモミを石炭がわりにして、機関車を走らせたというエピソードがあるくらいだが、コメの流通に当たっていた日本企業と華僑は、北へのコメ移送にきわめて消極的だった。この時期には、連合軍の爆撃によって、南北のルートは水路陸路ともに各所で分断されていた。大がかりな米の輸送は次の爆撃目標になりやすく、危険度と収入高からしてもリスクが大きすぎる。
 牛車や小型ギャンクなどでコメを運ぶのに努力したという日本企業員だった人の声もきくが、個人的な善意は認めるにしても、日本軍に北部の飢民を救おうという方針もなく、なんの措置もとらなかった。飢饉に苦しむ人びとは異国からの支配者に見捨てられたのである。


 ③日本とフランスによるジュート(黄麻)など繊維性・油性作物栽培の転作は、最初は奨励程度だったものが、やがて強要に近い圧力をともなってくる。コメとトウモロコシを除けば、インドシナの特用農産物の目玉はなんといってもジュートだった。農産物や鉱産物の麻袋としての利用度が高かったからである。
 先のベトナム側資料によれば、1941年に5000ヘクタールの栽培面積だったジュートは3年後には9倍の4万5000ヘクタールに拡大したとある。42年9月に、日本政府は三菱商事、三井物産、大同貿易、日本綿花の4社をトンキンデルタに送り込み、次いで台湾拓殖、又一商会、大南公司、江商、台南製麻、東洋綿花、三興、大丸興業などを加えて、大がかりなジュートの栽培と輸出にあてた。

 栽培の適地は主として河川敷だが、それでは足りずに水田をつぶし、コメの二期作のうちの一期作をジュートに変えたところもあった。そして、台湾人農業指導員を多くあてている。農民たちの不満や苦情が、直接日本軍や企業までは届かない巧妙な手口が、実は日本がねらったところの「仏印」支配機構だった。
 先の資料には、ジュートなどへの面積がもしも41年度の5000ヘクタールのままだったとすれば、残る4万ヘクタールでモミ6万4000トン、もしくはさつま芋かトウモロコシ9万トンが収穫できたはずだという。生きるか死ぬかのぎりぎりの瀬戸際に、6万トンのモミ、あるいは9万トンの農産物があるかないかでは、事態は大きく変化する。ジュートへの転作も又、決して見落とすことのできない飢餓の一要因といえるだろう。


 ④日本とフランスのモミの強制買い付けが最後に挙げられるが、これはどうか。
 問題の1944年の秋作米から、フランスは12万5000トンのモミを買い付けたとされている。そのうちのどれだけが日本軍ならびに日本企業へきたかは不明だが、45年3月10日以降は、フランス軍がいないのだから、その分も含め、日本の特別倉庫には相当量のモミとコメが蓄蔵されていたはずである。
 それは「少なくとも、現地軍が2カ年食べ得る備蓄量が目標だった」と小山内宏氏は『ヴェトナム戦争・このおそるべき真実』に書いている。ハノイの「第21師団は決戦に備えて2年分の食糧を確保していた」とは、第3章に紹介した元軍曹武田澄晴氏の手紙の一節である。
 北部駐屯日本軍が、2年分もの食糧を確保していたのだとすれば、フランスが買い付けた44年の秋作米12万5000トンのうち、せめて10万トンでも、北中部の一般人民に平等に放出することはできなかったのか。
 しかし、日本もフランスも、それをしなかった。ベトミン組織の予備軍ともいうべき農民や貧民が、飢えれば飢えるほどに体力も気力も失い、自分たちの支配に対する抵抗力が衰弱するとでも思ったのだろう。フランスは日本軍よりも、足元を揺すぶる地鳴りのようなベトミン運動の高揚を恐れていた。この点では、日本もフランスも支配者としての共通の危機感と連帯感があったようである。侵略国ならではのこの支配思想こそが、当然するべき救援活動も怠り他人事に終始したのであって、以上4つの原因のうちの最大の要因だった、と私には思えてならない。


 ・・・(以下略)

 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です

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日本軍政下 ベトナム"200万人"餓死

2014年07月08日 | 国際・政治
 1945年3月10日は、「東京大空襲」のあった日である。その前日の1945年3月9日は、大本営の「仏印処理ニ伴フ声明」に基づいて、フランス軍を壊滅させるべく、日本軍の「明号作戦」が仏印全域にわたって発動された日である。

 「ベトナム”200万人”餓死の記録 1945年日本軍政下で」早乙女勝元(大月書店)に、「東京大空襲」が、この日本軍の「明号作戦」発動に対する報復であるという、当時、陸軍所属の学徒兵(金矢義雄氏)の証言が出ている。連合国は、日本軍が仏印全域を軍事支配化に置く準備に入ったときから、繰り返し警告していたという。”日本軍が仏印において武装行動に移る場合には、その報復として首都東京に対し、空前の大爆撃を加える”と。その事実関係を明らかにする確たる文書資料はないようであるが、”なるほど”と考えさせられる。

 その連合国の「報復」の話とともに、日本軍の「明号作戦」発動によってもたらされたといえる、「ベトナム”200万人”餓死」の話には、驚くほかない。同書の著者、早乙女勝元氏は、ベトナム戦争末期、アメリカ軍による北爆の被害状況を確認し記録するためベトナムに入り、そこで、日本軍政下の”200万人”餓死、に出会う。、それから、「ベトナム”200万人”餓死」の調査や聴き取りを始めたようである。下記は、同書に取り上げられている、元日本軍兵士のベトナムの”餓死”に関わる証言である。

 下記は「ベトナム”200万人”餓死の記録 1945年日本軍政下で」早乙女勝元(大月書店)からの抜粋である。
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           第3章 北爆の惨禍と飢餓の記憶

元兵士の勇気ある証言


 ・・・

 しかし、そうした批難の手紙とは別に、同じ兵士として、自分の目撃した深刻な状況を克明に知らせてくださった方もいる。広島市在住の武田澄晴氏の手紙は、当時のベトナム北部の惨状を伝える貴重な一証言と見ることができよう。

 「私は昭和18年1月より21年3月までベトナム各地を転々として、20年3月9日夜”明”号作戦と称する戦闘で負傷し、入院しました。当時私は第21師団(師団長三国直福中将)の独立野戦高射砲第62中隊で、ハノイ市外のジャラム飛行場に対空陣地を敷いていました。私は軍曹で分隊長をしていました。
 ハノイ市内のフランス女学校を接収した陸軍病院に約1ヶ月入院している時、見舞いに来てくれる戦友たちが、『市内には餓死者がゴロゴロしているよ、おどろくなよ』と言うのです。
 退院の日、私はジャラムからルージュ河(紅河)畔に移動していた中隊に帰る時堤防の上にずらりと並んでいる餓死者を見たのです。愕かずには居れませんでした。迎えのトラックの上から果てしなく続くその、まるでイリコを干してあるような光景は、ショックでした。胸がしめつけられる思いでした。しかし同乗の友は平気になっているのです。もう見馴れたからでしょう。『早く収容するなりしてかたづければよいのに……』と言うと、『なに、毎晩かたづけられているのだが、次の日はまたこの状態だよ』とのことでした。


 やがて私は、外出できるようになりました。(高射砲隊は昼間防空任務につき、夕方から外出するのです。)いやでもその堤防を通らなければ市内に入れないのです。生まれて初めて見る餓死者、その寸前の者……地獄でした。ほとんどが子どもと、老人でした。
 ムシロがかぶせてあるので、死んでいるのかと思って見ると、大きな眼を開いたうつろな表情、ものを言う気力もすでになく、じっと見つめているガイ骨のような顔々々……。もうそうなっては食べものを与えても食べる力がないのです。

 むすびを持ったまま死んでいる者、幼い兄弟が抱き合ってミイラのようになっている者、(性別は全然わかりません。)いくらかの小銭を与えられ手にしたまま死んでいたり──私も初めのうちは食物や銭を与えたりしていましたが、キリがないのです。そして人間というものは、そんな地獄の環境にも見馴れてくると平気になるものでした。屍体をよけたりまたいだりして、市内の軍酒保に行くのです。そこにはあり余る山海のご馳走が、安く飲食できるようになっていました。(その頃、師団は決戦に備えて2年分の食糧を確保していたそうです。)


 酔ってふらふら賑やかな町の中を歩いていた時、私はハッとして立ち止まりました。街角の歩道の上に、たった今捨てられたと思われる色の白いかわいい、生後4、5ヶ月かと見える幼児がちょこんと坐っていて、キョロキョロめずらしそうに人の通りを見ているではありませんか。そしてその前には、たぶん子を捨てた親の最後の贈り物であろう白い御飯が、バナナの葉の上に盛られて置いてあるのです。
 私はその頃25歳、結婚もしていませんでしたが、捨てた親の気持ちを思うと、胸が熱くなってきました。3日か4日後には、もうムシロの下で、骨と皮なるのだと思うと、哀れで哀れでなりませんでした。許されるものなら、部隊につれて抱いて帰って育ててやりたい気持ちで一杯でした。


 それからやがて夏がきて、私たちはヅーメル橋(ロンビエン橋)の防空に当たっていました。野戦倉庫の兵隊が、現地人の曳く米の麻袋を満載した荷車につきそっていくと、家陰からナイフを持った少年がさっと飛び出してきて、麻袋を切り裂くのです。すると、そこから白い米がサラサラとこぼれ、アスファルトに白い細い帯を敷いたように落ちてゆく。それを、難民の女性がホウキとチリ取りとを持って奪っていくのです。私たちはこの少年を「斬り込み隊」と呼んでいましたが、警備についている兵隊の中には、大眼に見いていたものもおりました。

 やがて越南独立同盟=ベトミンの暗躍が活発になってきました。そして敗戦。独立を絶叫して泣く越盟の闘士たち、湧きにわくハノイの街、ホー・チ・ミン主席の独立宣言をとりまく大群衆──その中で、我々はヤケ酒でうさ晴らしをしていたのです。


 いつでしたか、新聞で日本がベトナムに与えた損害のことで『鶏3羽くらいだ』と元将官が語ったのを読み、私は唖然としました。あの頃でさえ餓死者の数は、ハノイ周辺でも50万人から100万人だということがささやかれていたのです。それらをすべて天災のせいにするのでしょうか!以上、実情を見たまま聞いたままを書いてみました。乱筆御容赦ください。」

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               第5章 内外の証言記録から

学者兵士と特派員の目

 ベトナム関係の文献には、かならずといっていいほど、1945年初めの大飢饉についての記述がある。それはほんの数行であったり、かなりのページを費やしているものなどさまざまだが、ベトナム現代史にとって、あまりにも苛酷な抵抗戦争を別にすれば、欠かすことのできない大惨事だったからだろう。
 飢餓問題について、それだけをテーマにして書かれた一冊は、残念ながら日本側ではまだ見当たらないが、ここでは数多くの資料のなかより、日本とベトナム双方の記述を見比べながら、その実態はどんなものであったのかをあきらかにしてみたいと思う。


 まず当時、ベトナム北部にいた日本人の記録である。”現場の人”といえば、もっとも多かったはずの該当者は日本軍兵士だが、私あてにきた元軍曹武田澄晴氏のヒューマンな証言は第3章で紹介した。しかし、兵士というなら、まだほかにもいる。
 陸軍二等兵だった小林昇氏である。氏は福島大学教授から召集された経済学者で、1945年4月、サイゴンからユエ(フエのこと)を経て、ハノイに到着した。『私のなかのヴェトナム』は、60年代後半に出たエッセーふうの本だが、ベトナム飢餓問題を私が最初に知った貴重な一冊である。氏は44年11月に南方へ送られる途中、南シナ海で遭難した。敵の魚雷攻撃で船を沈められたのである。
 かろうじて一命を取りとめて、ベトナムの地を踏み、南方軍司令部に配属されることになる。そして北部の第21師団第62連帯へと急ぐことになったが、もうその頃は連合軍の爆撃で、鉄道はかなりの被害を受けていた。中国を基地にした連合軍の爆撃は日本軍を目標にしたが、ベトナム人民は巻きぞえとなり、とんだ災難にあったわけである。サイゴンからハノイまで、汽車を乗り継ぎながらなんと10日を要したという。


 「ソンコイのデルタの南端にあるナムディンの町は、トンキンではハノイ、ハイフォンにつぐ都会である。わたしはサイゴンからここまでたどりついたとき、猛烈な飢饉の惨状にいきなり出くわした。四方から流れついた農民の家族たちが、文字どおり骨と皮だけになって、街路に斃死してゆくのである。それは栄養失調の死ではなくて絶食の死であった。息をとめた夫の躰にすがって妻や子の哭いている歩道を、幾時間かしてまたもどってくると、妻のほうももう生命のしるしがかすかになっているというような、やがていたるところで接しなければならなくなる光景に、わたしははじめて接したのであった。市の大八車が、路上のそういう死者たちを積み上げて、屍臭をふりまきながら焼場へ運んでゆく。その車には、まだたしかに息のかよっていると思われる躰も積み込まれていた。

 まだ息のある者さえ、死者といっしょくたにされて運ばれていく光景は凄惨そのものである。あまりにも多くの死体処理で、作業者たちは一体ずつ個別に尊重するゆとりがなかったのだろう。
 やがて雨が降りつづくようになり、水路はすべて濁流にまみれ、たまに霧の晴れた日に近くの山に登って見ると、ソンコイ川(紅河)は中流で決壊して、平野は一面水びたしになっている。洪水はトンキン平野のほとんどを覆いつくして、稲の収穫が重大な影響を受けたのはまちがいないと見られた。


 そして、気温が上昇していくにつれて、炎熱下の洪水がコレラを蔓延させた。疫病もまた、容易ならざる事態だったことがわかる。兵営には、ベトナムの母や娘たちが、莚一枚を抱えた身で近づいてきては、日本軍の残飯や小銭をめあてに体で取引きしようとする。なんともやりきれぬ事実である。日本軍は「金と食糧を持っていたために、ヴェトナムの民衆に対しては経済上の優越者であった」と記されている。

 戦後20年ほどしてから、小林氏は自分が生きのびたベトナムをもう一度確かめてみたいという思いから、横浜港より海路の旅に出た。その同じ船で、サイゴンの孤児院に籍を持つというカトリックの神父と親しくなる。
 神父はオランダ人だったが、1945年当時はハノイの孤児院にいたということで、たまたま大飢饉の話になった。一体どれだけの人が死んだと思うか、の問いかけに、「ほぼ200万人でしょう」と氏が答えると、「そのとおりです。ああ、当時のことを知っている人がいようとは……」と、神父は掌に顔を埋めて絶句した。おそらく神父にとっても、一生のうちの忘れがたい思い出だったのだろう。
 
 小林氏は当時の惨状を回想して、次のように書かざるをえなかった。
 「この大飢饉が太平洋戦争の間接の結果にほかならず、したがってこのときの200万という膨大な数の死者に対する責任を日本人が負うべきだということを、われわれのなかの幾人が知っているだろうか」



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