真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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アメリカの謀略やプロパガンダに踊らされて・・・

2023年04月30日 | 国際・政治

 朝鮮の南北分断を意図したアメリカは、ソ連ブロック6カ国が欠席する国連小総会で、「・・・臨時朝鮮委員会が立ち入りうる部分で選挙を実施すべきである」というようなアメリカ決議案を強引に通し、南朝鮮における単独選挙実施を主導しました。その決議案は、ソ連と北朝鮮人民委員会の拒絶を前提にしていたといいます。
 だから、カナダやオーストラリアは、アメリカ決議案に反対したようです。
 文京洙教授によると、その反対理由の一つは、南朝鮮の政治的状況が、権力による思想の弾圧、あるいは警察や右翼団体による政敵の暗殺や公然たる殺害などにみられるように、きわめて非民主的であるということでした。また、もう一つの理由は、南朝鮮単独選挙実施は、南北分断の現状をさらに悪化させ、制度化させてしまうということでした。
 さらに、カナダ代表は、「単独選挙が朝鮮の統一を阻害するものであれば、国連の臨時朝鮮委員会には、選挙を強行する権利はない」(「朝鮮戦争 38度線の誕生と米ソ冷戦」孫栄健)と主張したともいいます。国連小総会で、カナダ代表の主張が尊重されなかったアメリカ決議案の承認は、アメリカの圧力の結果でしょうが、それは、南朝鮮の状況や朝鮮の人たちの主権を無視した不当なものであったように思います。

 でも、アメリカは、「選挙の施行が朝鮮の恒久的分割を意味するのではなく、真の自由選挙によって選出されたもののみが朝鮮人民の真の代表である」などと欺瞞的な主張をくり返し、投票を呼びかけて、1948年5月10日、南朝鮮単独選挙強行したのです。その結果が、朝鮮の恒久的分割につながったという事実を見逃してはならないと思います。

 そして、その南朝鮮単独選挙は、左派と民族主義右派のボイコットのなかで実施され、李承晩率いる大韓独立促成会56、韓国民主党29、大同青年団13,民族青年団6、民族統一党その他少数政党10、無所属83という結果だったといいます。その後、無所属議員が漸次、非公式にいずれかの党に加入したので、最終的には、大韓独立促成会65、韓国民主党84、大同青年団32、その他無所属少数派17ということになったといいます。

 大事なことは、左派と民族主義右派がボイコットするのなかで実施された選挙であったにもかかわらず、李承晩率いる大韓独立促成会は十分な支持を得られず、国会が、駐韓米軍撤退や反民族行為特別調査委員会(反民特委)による親日派の断罪を求め、さらに統一問題などでも、李承晩と鋭く対立することになったことです。
 アメリカ軍政庁の方針によって、新政府の行政や法曹、警察などに、日本の植民地時代の下級官吏7万人余りが再登用され、政府の要職には、反民特委の告発対象である高級官僚30人余りが含まれていたということなので、李承晩政権と国会の対立は、当然のことであったろうと思います。

 見逃せないことは、国会と対立し、追い詰められた李承晩が、”反民族行為特別調査委員会(反民特委)のなかにアカがいる”などと主張して、ソウル市警に反民特委を襲撃させたり、事件をでっち上げたりして、政敵追い落しをくり返したということです。また、韓国独立党党首の金九暗殺事件も、李承晩の指図によるものであったとされているということです。

 さらに、李承晩は、日本の「治安維持法」にあたる「国家保安法」を制定し、反共の名の下に、政敵を合法的に追い落とす制度も整えました。だから、南朝鮮の人たちの多くは、日本による植民地支配が、アメリカによる植民地支配に変った、と受け止めていたといいます。

 李承晩と右派勢力、および選挙に当選した国会議員たちは、国連の臨時朝鮮委員会が、まだ認定していないにもかかわらず、「議員」として「国会」を設置し、「憲法」を制定したうえ、李承晩を大統領に選出するという既成事実をつくったこと、そしてアメリカ政府が、これを「国会」として認め、そこから生まれた「政府」だから、第二回国連総会決議文が要求した「全朝鮮の国民政府」であると主張し、これを「承認する」と宣言したことなども、重大な問題だったと思います。 
 だから、李承晩と手を結んだアメリカの韓国支配が、いかに朝鮮の人たちの思いを踏みにじるものであったかがわかると思います。

 そうしたことを踏まえて、朝鮮戦争をふり返れば、北朝鮮軍の約十万の大部隊が、窮地に陥った際、国連軍部隊の眼前から消え去ってしまった、ということに関する「日本の黒い霧」松本清張(文春文庫)の、下記の指摘が、間違っていないことがよくわかると思います。
このようなことは土地の住民の北朝鮮軍に対する好意がなくては出来ないのだ。好意とは、即ち、北朝鮮軍兵士が信念として持っている革命への共感であり、同情である。十万の兵士がさしたる損害も受けずに、無事に北朝鮮へ向かって「集合」したのは、一に南朝鮮住民の支持があったからである。それは李承晩政権への反感と云うよりも、同胞を殺しに来るアメリカ軍への憎悪からであったに違いない。
  
 だから私は、アメリカ軍が、日本や韓国に基地を置き、戦時ではないのに撤退しないのは不当だと思うのです。
 日本では、アメリカは最高裁判所長官や外務大臣に働きかけ、日本の司法に介入して、伊達判決を覆し、永続的な軍の駐留を可能にしました。
 そうしたことが、韓国や日本における米軍の駐留が、韓国や日本を守るためではなく、実は、アメリカの覇権と利益の維持・拡大のためであることを示していると思います。

 今アメリカは、台湾に大量の武器を売り込みつつ、政府や軍の要人が、蔡英総統と接触をくり返しているようですが、危険な徴候だと思います。
 再び、何らかの謀略に基づく、軍事的衝突が起きるのではないか、と私は心配です。ロシアや中国を敵視するアメリカのプロパガンダに踊らされて、日本の自衛隊員が中国と戦火を交え、命を落とすようなことにならないように、客観的事実や真実の報道を願うばかりです。
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                       謀略朝鮮戦争
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 ・・・
 国連軍の猛攻によってソウルも遂に落ちた。一方、国連軍の仁川上陸によって洛東江戦線から北朝鮮軍は一斉に大退却を開始した。米韓軍が南方からこれを追い、その先鋒第八軍の第一騎兵師団は、これと呼応して仁川・ソウル地区から南下した第十軍団と水原付近で連絡が成り、ここに南部方面の北朝鮮軍を挟撃する形勢となった。
 それでは、南北の国連軍に挟まれた大部隊の北朝鮮軍は捕捉され、殲滅できたのであろうか。決してそうではなかった。それは米軍の眼前から煙のように消え去ってしまったのである。
「南部戦線の北朝鮮軍がどうして国連軍の追撃から免れたのかは、戦局の一つの謎である。彼らは煙のように消え失せたようだ。彼らは殆ど一夜にして姿を消しはじめ、米軍探索機も道路上における北朝鮮軍大部隊の移動をまだ発見していない。また、北朝鮮軍が大部隊を北部戦線に送っている動きもない。大きな問題は、「装備を付けたこれらの北朝鮮軍がどうしたかということでる」(AP・ホワイトヘッド記者)
「米軍情報将校は、30日夜、北朝鮮軍はどこに居るか、という非常な難問題に対する解答を見出そうと躍起になっている。ここ4日間、北朝鮮軍の大部分約十万は、少なくとも国連軍部隊の眼前から消え去ってしまった」(ロイター・バレンタイン記者)
 十万の大軍が敵前で掻き消えた──これまでの戦史にも無いことである。が、この謎の解答は、実はこういうことだった。
 十万という兵は撤退というより解体に近かった。例えば、歩兵部隊は、1ヶ月先とか40日先とかの非常に長期に亙る集合日時と集合地点を指示される。小銃その他の小火器は全身に厚くグリースが塗られ、それぞれの工夫で隠され埋められる。その場所についても、埋めた者自身か、せいぜい、彼のほかには彼が最も信頼する市民一人かが知っているだけである。その市民は、のちにこれをパルチザン闘争に使うことができよう。こうして武装を解いた兵士たちは、それぞれ、彼等特有の驚くべき耐久力と不屈の意志を持って、山から山へ、集合地点に向かい、不眠不休、飲まず食わずの彷徨をはじめるのである。まさしくこれは撤退よりも解体に近い。しかも、それが解体に至らなかったところに資本主義国の軍隊との相違がある。辿り着けなかった者は、行き着いた山でゲリラとなったであろう。行軍半ばにして仆れた者もあったろう。いずれにせよ、このような様相の撤退は、住民の完全な精神的支持と、兵士各自の頑強な政治意識の二つがあって、はめて可能なことである。  
 また、歩兵部隊のような消滅と異なり、重砲兵や重戦車の撤退はいかにしておこなわれたか、それは未だ謎である。ただ一つ明らかなことは、米軍が遂にこれを捕捉できなかったという事実だけである。(前掲『アメリカ破れたり』)
 兵隊は民家に飛び込み、そこで軍服を脱ぎ、白衣に着替える。こうすると、付近の住民と全く変わらないことになる。そして、彼らは白衣のまま、いわゆる便衣隊となって、山野の北へ北へと向かって走りつづけたであろう。いずれにしても、このようなことは土地の住民の北朝鮮軍に対する好意がなくては出来ないのだ。好意とは、即ち、北朝鮮軍兵士が信念として持っている革命への共感であり、同情である。十万の兵士がさしたる損害も受けずに、無事に北朝鮮へ向かって「集合」したのは、一に南朝鮮住民の支持があったからである。それは李承晩政権への反感と云うよりも、同胞を殺しに来るアメリカ軍への憎悪からであったに違いない。
 

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アメリカの謀略による日本支配や朝鮮支配

2023年04月27日 | 国際・政治

 事件や戦争、あるいは事実を歪曲したプロパガンダで、巧みに他国を支配下に置いてきたアメリカの戦略は、戦後の日本や朝鮮で、アメリカが何をしたかをふり返ればよくわかると思います。

 日本では、当初、連合国軍最高司令官総司令部の民政局(Government Section、通称:GS)が日本の非軍事化・民主化を進めていました。しかしながら、共産主義的勢力圏が極東で拡大することを恐れたチャールズ・ウィロビー 率いる参謀第2部が、その後GHQ内で主導権を握り、戦前復帰ともいえるいわゆる「逆コース」の政策を進めるようになりました。
 それは、1947年(昭和22年)、日本共産党主導の二・一ゼネストに対し、GHQが中止命令を出したのがきっかけだといいます。その「逆コース」の政策の象徴的ものは、戦犯の公職追放解除や、レッド・パージですが、そうした政策を正当化するために、アメリカは、戦後三大事件と言われる下山事件、三鷹事件、松川事件その他の事件を起し、無実の労働組合員や共産党員に罪を着せるという「謀略」を実行したのだと思います。大事なことは、日本を共産主義の防波堤(防共の砦)にしようとする「逆コース」へのアメリカの対日方針の転換は、「謀略」なしでは成し得なかっただろうということです。特に、公職追放解除で、かつて鬼畜米英を日本国民に強いた軍人や政治家のみならず、特高警察官などまで復帰させたことによって、戦後の日本が、本質的な部分で、戦前とかわらない日本になってしまったと思います。
 したがってアメリカは、謀略で日本の非軍事化・民主化を阻止し、公職追放を解除して復帰した戦争指導層と手を結ぶことによって、日本を支配下に置くことに成功したといえると思います。その結果、日本はいまだに主権国家ではなく、真の民主主義国家でもないといえるように思います。

 またアメリカは、朝鮮の人たちが、日本の降伏後直ちに準備を進め、南北合一の「朝鮮民主共和国」を成立させていたにも拘らず、朝鮮半島を一方的に38度線で分断する案を、戦後処理の「一般命令第一号」に盛り込み、関係国に通告しました。国連その他の国際会議で話し合って、38度線で分断することを決めたのではないのです。
 おまけに、発令者が日本国大本営とするかたちで、38度線での分断を現実のものにしました。
 それは、隷下日本軍各部隊に対して、現地連合軍司令官への降伏を指令する形をとり、
満洲、北緯38度線以北の朝鮮および樺太にある日本軍は、ソ連極東軍司令官に降伏すべし
とし、
北緯38度線以南の朝鮮にある日本軍は、合衆国朝鮮派遣軍司令官に降伏すべし
 としたのです。その結果、すべてが38度線で分断されることになってしまったのです。実に狡賢い策略だと思います。
 当然、南北合一の「朝鮮民主共和国」で合意していた朝鮮の人たちは、左右を問わず、この分断を中心とするアメリカの朝鮮政策に強く反対しました。だから、アメリカ軍政庁は、反共主義者の李承晩と手を結んで、南北合一の「朝鮮民主共和国」を潰し、韓国を支配下に置くために、多くの関係者や左派的な人たちを殺害し、弾圧したのだと思います。
 「日本の黒い霧」松本清張(文春文庫)の下記の文章が、”朝鮮戦争は、北朝鮮軍が38度線を越え、韓国に侵略戦争を仕掛けたので始まった”というような単純なものではないことを明かにしていると思います。著者の松本清張が、「謀略」という言葉を添えて「朝鮮戦争」を論じていることは、そのことを示していると思います。「謀略」がなければ、朝鮮戦争はなく、したがって、朝鮮が分断されることもなく、アメリカが朝鮮を事実上支配下に置くような現実もなかったと思います。

 だから、アメリカが主導するウクライナ戦争も、”ロシアの一方的な侵略によって始まった”というような単純なものではないことを、考えるべきだと思います。諸情報を総合的に考えると、ウクライナ戦争も間違いなく「謀略」がらみだと思います。

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                        謀略朝鮮戦争

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 マッカーサーは、韓国軍の38度線の防衛が脆くも破れたことについて、のちに証言している。「韓国軍は北朝鮮軍には全然抵抗できませんでした。そして、韓国軍の補給力の配備が途方もなく貧弱だったのです。韓国軍は、その物資や装備を38度線のすぐ傍に置いていました。彼らは縦深陣地を造っていなかったのです。38度線と京城の至る所が韓国軍の物資集積地域だったのです」
 要するに、これで見ると、韓国軍は敗走の際、兵器や軍事物資(多分、それはアメリカ製や日本製であったであろう)を集積したまま敗走したので、あとに入り込んだ北朝鮮軍がそれを自分の武器に使ったということになる。これだと、戦闘初期に北朝鮮軍の主力が38度線から遥かに遠い所に配置されていたにも拘らず、緒戦の際の勝利の説明がつくのだ。
 資料の潤沢なせいか、南朝鮮側の戦争勃発の予見は、恰も地震計のように頻繁に記録されている。50年5月に入ってから、38度線付近に北朝鮮軍の大部隊が集中していることが韓国側によって伝えられている。即ち、申性模国防長官は、5月10日、外人記者団との特別会見を行ない、「10日以内に、全面的な内戦が勃発しそうである」と語り、李大統領は、同じく12日に、「5、6月は危険な時で、何事が起るかしれない」と言明している。また、蔡参謀長も、「北朝鮮側は、5月20日の韓国総選挙を機会に、大規模な攻勢を展開するおそれがあり、韓国軍は兵力を配備して警戒している」との談話を発表している。
 しかし、南朝鮮側がこれらの警告を公然と訴えたのは、なぜか、これが最後になった。
「何故、その日から沈黙を守ったのであろうか? それからというものは、京城で何の声明も発表されず、東京から官辺の意向を反映した新聞電報も打たれず、米国議会での演説もなかった」(I・E・ストーン)
 ところが、この頃、アメリカ国防長官ジョンソン、元アメリカ参謀総長ブラッドレー、国務省顧問ダレスが極東を訪問して、塹壕に入って視察したのである。ダレスは何のために前線を視察したのか。「彼は塹壕に入ってスミレを摘んだのではあるまい」とソ連外相のヴィシンスキーが皮肉るところだ。そこでまたダレスは韓国国会で演説して、アメリカは共産主義と戦う南朝鮮に必要な精神的・物質的援助を与える用意がある、と言明した。また、戦争勃発の5日前、ダレスは李承晩に書簡を送って、「私は貴国が今度の大ドラマで演じうる大きな役割に非常に期待をかけている」とも書いている。
 李承晩政府の元内務長官金考錫は北朝鮮側に捕われて、その「告白」で書いているが、それによると、1950年1月、ロバーツ将軍が李承晩閣僚に訓令して「北伐計画はすでに決定済である。たとえ、「われわれが攻撃を始めるにしても、やはり正当と見られる口実を作る必要がある。このため、まず大事なのは、国連委員会の報告だ。国連委員会がアメリカに都合のいい報告を出すのは当然であるが、それと同時に、諸君もこの問題に注意を払い国連委員会の同情を買うように努めなければならない、と通告した」と云っている。北朝鮮側の捕虜の「自白」だから相当割引くとしても、このような訓示があったかもしれないという可能性は考えられるのである。
 このような資料からみると、南朝鮮側が38度線で先に火蓋を切った、という強い印象は免れない。しかし、もう一度繰返すが、南朝鮮側に比して北朝鮮側の資料は極めて手薄である。比重は南朝鮮側に遥かに重い。従って、この資料からは韓国やアメリカ側に歩の悪い結論の引出しとなった。もし、同量くらいの資料が北朝鮮側から発表されていたら、この比較はもっと明瞭になり、公平になるだろう。何故なら、南朝鮮が、「侵入」するや、北朝鮮側は忽ち「追い返した」だけでなく、破竹の勢いで京城を葬り、大田(テジョン)北方に進出し、別働隊はまた日本海側の江原道(カンウォンド)を快走で進撃した事実を知っているし、開戦数日にして、韓国軍に代わったアメリカ軍を相手にしてそれを南朝鮮の一隅に追い込んだ実力にわれわれは驚歎しているからである。
 もとより、それは北朝鮮側が云うように、アメリカ占領地の民族解放に燃えた熱意や、「38度線より遥かに離れた後方」で受けた訓練の成果もモノを云ったに違いないが、優秀な近代的作戦の起源も知りたいからである。
 率直に云えば、38度線をどちらが先に越したかということは、時間の問題であったように思う。李承晩は「北伐」を叫んでしたし、金日成もまた南朝鮮側の「解放」を呼号し、南朝鮮側の民衆に向ってその以前からたびたび呼びかけを行っていたからだ。李承晩は全朝鮮が自分の「領土」だと心得ていたし、金日成も同じように李政権をカイライ政権として、南朝鮮側はアメリカ軍の侵略地帯だと思っていた。つまり、両者とも、38度線という境界線をひいた二つの国は存在しなかったのである。戦争勃発前に、この境界線に沿って千回もの小戦闘が起こっていたのは、そのことを証明する。
 さて、戦争ははじまった。
「国際連合視察員たちは、6月24日に帰って(38度線視察)報告を提出した。その晩、彼らの居ないところで戦争が始まった。李承晩は、それが北朝鮮による挑発されざる侵略によって始まった、と発表した。これに反し北朝鮮政府は、韓国軍が3ケ所で38度線を越境して撃退されたのち北朝鮮軍が攻撃に移ったのだ、と報告した」(I・F・ストーン)

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 朝鮮戦争の経過を略述する前に、何故それが起らねばならなかったかを当時の国際情勢について眼を走らせてみる。
 世界大戦は終ったが、実際の平和は到来せず、米・ソ両国の冷たい戦争が始まった。47年3月のトルーマ声明、6月のマーシャル・プラン などでアメリカの政策は表面化し、49年4月の北大西洋条約(NATO)の調印でアメリカの対ソ包囲体制が完了した。ソ連を在外軍事基地の網で包囲するという、いわゆる「封じ込め」が一応出来上ったのである。この背後には、アメリカが原子爆弾を独占したという軍事技術上の優位があった。
 当時、アメリカは原爆の所蔵を自負していて、ソ連は今後15年以上は保有できぬ、という見通しがあった。これを運搬するB36、B50などの長距離無着陸爆撃機があり、これもソ連は技術的に及ばぬと思っていた。この戦略から、46年3月に戦略空軍(SAC)が大統領命令によって編成された。
 この戦略の目的は、破壊力の時間的集中と攻撃力の組織的集中、並びに戦闘力の地域手的集中である。つまりB29が延べ3万2000機で14ヶ月をもって日本を破壊したと同じ効果が、原爆によればタダの8発で、しかも最小の人員でまとめて出来ること、各機には予め攻撃する場所が分かっていて、普段からその状況下に訓練を積み、命令が出てから攻撃するのではなく、最初から攻撃目標を決めていること、さらに、このような態勢から戦略爆撃機1500をしてソ連を包囲する。この爆撃機は150乃至160の基地に置き、ソ連を目標に円の照準の中に入れる。こうして、いざという場合一挙にソ連を叩くことが出来る戦略態勢整えた。47年9月には空軍省が独立して、この対ソ戦略は完成した。
 NATOの成立がこの直後であったことを思い合わせると、アメリカの計画がよく分かるのである。
 しかし、事態は変った。中国は赤軍によって完全に制圧され、ソ連はまた原爆保有を声明した。49年11月の革命記念日には、アメリカが原爆奇襲攻撃を行なえば、ソ連も原子兵器で報復することが出来る、というマカレンコフ声明となった。封じ込め作戦は、この新しい情勢のために完全に破綻したのである。アメリカは焦燥にかり立てられた。このままだとジリ貧は免れない。世界にばらまいた膨大な資本はどうなる。アメリカが次にとる手段は、朝鮮を足がかりにして、ソ連と中国との分断作戦以外には取る途は無かったといっていい。
 なお、アメリカが朝鮮作戦を遂行する都合のよかったことは、この前年の10月からソ連が中共の国連加盟を主張して容れられず、国連をボイコットしていたことだ。  
 もしソ連が国連に出席していたら、アメリカの主張する「国連軍の介入」は、ソ連の拒否権に遇って成立しなかったであろう。朝鮮における国連軍の構成は、もちろんアメリカが主力であり、その統帥権からいってもアメリカ軍単独であった。このことから、朝鮮への介入にはソ連の国連ボイコットはアメリカにとって極めて都合が好かったのだ。
 ストーンは書いている。「実際、攻撃開始に選ばれた時期は、北朝鮮側の見地からいって非常に不適当な時期のように思われた。ソ連は、その年の1月、中共の国連加盟不承認に抗議して国連をボイコットを開始して以来、安全保障理事会に出席していなかった。安全保障理事会のもう一つの『東欧』側の椅子は、ソ連と意見が合わないユーゴによって占められていた。国連の北朝鮮反対に動員する試みが行われるとしたら、拒否権でそれを葬り去る友邦が安全保障理事会内に一国も居ないわけだった」

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 この国際情勢を背景とした戦争前の朝鮮の情勢をざっと振返ってみよう。
 1945年8月15日、日本軍が降伏して、3週間後の9月8日、ホッジ中将の率いるアメリカ第十四軍団が沖縄から仁川(インチョン)に上陸した。空から撒かれたアメリカ軍の最初の声は南朝鮮に軍政を施行すること、曾ての日本の各種機関および職員を存続させること、治安を乱し占領軍に反抗する者は厳罰に処すること、公用語は英語をもってすることなどをうたったマッカーサーの布告第一号であった。この日、韓国民主党が結成された。アメリカ軍政はこの系列の者によって9名の諮問機関を構成した。李承晩がアメリカから帰国して右翼の頭領となった。10月17日、ホッジ中将は軍政府は南朝鮮の唯一の政府である、と言明して、南朝鮮各地に組織された各人民委員会を弾圧し始めた。朝鮮問題の具体的な解決案は、1945年12月の米・英・ソ三国外相によるモスクワ会議で決定されることになった。
 だが、その要旨は、朝鮮民主主義臨時政府を樹立して、長期に亙る日本帝国主義の有害な結果を急速に取除く条件を作る。この臨時政府の組織に関する法案は米・ソ共同委員会を組織して作成すること、委員会は朝鮮の民主的諸政党と協議すること、さらに共同委員会は朝鮮臨時政府を国家的独立に導くため、その援助に四カ国(米・ソ・英・中)による後見制を実施することなどを決定した。この決定は、間もなくアメリカ自身がボイコットすることになる。
 李承晩と金性洙(韓国民主党党首)などは、モスクワ会議の決定を信託統治だといって反対運動を起した。一部の民族主義者がこれに同調した。ホッジは「反対の自由」を宣言して彼らを援助し、その集団(民主議員)を中核とした臨時政府の樹立を図り、三国外相決定の路線を骨抜きにしようとした。臨時政府樹立のための協議対象に「多数」を登場させるため無数の団体が創作され、119を数えたほどだった。
 ソヴェトはこれに反対し、二回に亙る共同委員会は、遂に、意見の一致を見出せないままに終った。
 南朝鮮では、アメリカ軍政の諮問機関として「立法議員」の選挙が行われた。90名の議員のうち45名は、アメリカの軍政の任命による官選議員であった。これは南朝鮮独立政府への原型だった。
 47年9月、アメリカは朝鮮問題の審議を第二回国連総会に持込み、北朝鮮に進駐しているソ連との話合いを一切拒否した。国連側はソ連の反対を無視して、「国連調整委員団」を派遣し、その監視下に総選挙を行うというアメリカ案を可決させた。
 47年9月、アメリカは朝鮮問題の審議を第2回国連総会に持込み、北朝鮮に進駐しているソ連との話合いを一切拒否した。国連側はソ連の反対を無視して、「国連調整委員会団」を派遣し、その監視下に総選挙を行なうというアメリカ案を可決させた。
 一方北朝鮮にでは、朝鮮労働党中央局が全朝鮮の平和的統一を具現するための組織的な主体となった。党の中央は、南朝鮮の特殊な条件に照らして北朝鮮に置かれた。さらに、これは他の人民委員会を集めて「北朝鮮臨時人民委員会」となり金日成が委員長に就任した。48年2月には、北朝鮮人民会議は人民軍の創設を決定した。
 南朝鮮では、一切の批判、一切の抵抗は許されなかった。46年10月、大邱を中心として南朝鮮全域に巻き起こった大規模な人民抗争は、200万余りの人員が抗議に参加し、アメリカ空軍、機動部隊がこの弾圧に動員された、この時、殺された者300名、行方不明3600、逮捕、投獄されたもの1万5000名に及んだ。
 46年12月に、李承晩はアメリカに渡り、南朝鮮における単独政府樹立の打合せをした。この時も、アメリカ軍政に反対する団体は大量に検挙され、南朝鮮刑務所に収監された受刑者は26400名に達した。
 48年8月15日、ソウルでは李承晩を大統領とする「大韓民国」の建国式典が行なわれマッカーサーがこれに出席した。その前の4月には、国連調整委員会が南朝鮮の単独選挙の監視を決定した。この単独選挙に反対して激しい人民抵抗が行なわれ、2月7日には、南朝鮮の全産別労働者のゼネストが断行され、200万もの大規模な闘争が3日間つづいた。3月20日から有権者の登録は開始されたが、それを拒否する者に対して警察とテロリストの殴り込みが行なわれ、リンチ、放火などの事件が繰り返された。済州島では弾圧に抵抗して2万島民の蜂起が起り、人民武装隊によって15ケ所の警察署のうち14ケ所が襲撃された。「南朝鮮の丘という丘、峰という峰にはパルチザンの活動が始まり、夜ごとに狼煙(ノロシ)のデモが行われた」。8月24日、韓米暫定的軍事協定が結ばれ、10月1日に更に調印された韓米財政協定の実質は、日米行政協定と同じものだった。内容は、アメリカは韓国軍の指導権を持ち、米軍は不必要と認めるまで駐留する、共同防衛上必要と思われる全地域を利用する、というものだった。
 李承晩政府は、国家保安法を48年11月に制定した。日本の治安維持法に当るもので、それを上回るほど苛酷なものだった。一方、「暴動」は相変わらず熄(ヤ)まず、済州島鎮圧を指令された第十四連隊の軍隊は麗水(ヨス)、順天(スンチョン)方面で叛乱を起し、山岳地帯を中心にパルチザンの活動を拡大した。その範囲は、49年3月に、南朝鮮の8道12市131郡のうち8道3市78郡に及んだ。
 1950年5月30日に第二次選挙が行なわれたが、李承晩は反李承晩派の66名の立候補者を辞退させ、
その選挙員220名を国家保安法によって検挙した。 しかし、それにも拘らず、議員数210名のうち李承晩派の当選者は48名にすぎなかった。李承晩独裁によるその政権の危機は、決定的な運命に直面した。間もなく38度線に戦争が起った。「彼らは戦争の挑発によって延命を図ったのである」(『朝鮮の歴史』朴慶植・姜在彦著)
 この南朝鮮側の記録に対して北朝鮮側は、着々と金日成の指導によって基礎が固まり、工業生産力の建設となった。これは北朝鮮の記録にはもっと讃美的な修辞で書かれているが、公平を考えてあまり間違いはないように思える。何となれば、北朝鮮では南朝鮮のようなストライキや暴動や暗殺などが見られなかったからである。重工業建設のために一般の農民の「不平」が宣伝されているくらいなもので、南朝鮮側のような暗黒的な印象は、北朝鮮側からは受けないのだ。
 以上は、紙数の関係で、南朝鮮の状態をざっと走り書きしたにすぎないが、要するに、朝鮮戦争が勃発する直前の李承晩政府は壁の前に行詰っていて、何か奇蹟的な活路を求めなければならない状態だったことは否めないのである。

 

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過去の事実が、謀略に基づく台湾有事を想像させる

2023年04月22日 | 国際・政治

 停戦の気配のないウクライナ戦争 、着々と進む台湾有事の準備。一日も早く、何とかしてほしいと思うのですが、そのためにはやはり、アメリカの対外政策や外交政策の現実を知らなければいけないと思います。
 私は、ブチャの虐殺は、ロシアを弱体化させたいアメリカが、ウクライナと組んで実行した謀略であると思います。その根拠は、しばらく前、kla.tvの報道をもとに、”疑問だらけ、「ブチャの虐殺」ロシア軍犯行説”にまとめました。
 また、アメリカの対外政策や外交政策の現実をふり返れば、「ブチャの虐殺」が、アメリカの謀略であることに、何の違和感もないと思います。
 戦後の日本では、松本清張が「日本の黒い霧」で論証したように、当時の左翼勢力の台頭をおさえる目的で、アメリカは、下山事件三鷹事件松川事件その他の事件を起しているのです。
 また、戦犯の公職追放を解除し、アメリカが、日本のかつての戦争指導層を復活させて、意のままに動かし、日本を属国のような国にしたことも、否定できない事実だと思います。アメリカが、日本の司法に介入し、日本の主権を侵害して、米軍駐留を合法化させた事実は、その一例だと思います。

 また、戦後のソ連の影響力拡大を恐れて、アメリカは朝鮮を38度線で南北に分断し、南北合一の朝鮮独立を悲願とする人たち思いを潰しました。アメリカが、南北合一の「朝鮮民主共和国」を受け入れることなく、軍政下に置いたことは大問題だと思います。そして、強い反共主義者李承晩と手を結び、南朝鮮単独の大韓民国を樹立させてしまったのです。同時に、戦前・戦中、日本官憲の手先として、朝鮮の人たちを苦しめた役人や軍人、警察官を復活させ、左翼的組織や人物のみならず、李承晩政権に反発する人たちをも弾圧させました。そのため多くの人たちが犠牲になりました。南朝鮮の済州島では、島民が反発して蜂起したため、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島の李承晩支持者などによる島民虐殺事件(済州道事件)が発生しました。 

 日本はもちろん、西側のメディアの多くが、重大な事実がまるでなかったかのような報道をしているので、くり返すのですが、ベトナム戦争では、トンキン湾事件における事実の捏造が明らかにされています。それが北爆を正当化するための捏造であったことを忘れてはならないと思います。
 また、虚偽の「ナイラ証言」が、湾岸戦争の引き金になったと言われていることも忘れてはならないと思います。
 さらに、イラク戦争が、大量破壊兵器の存在に関わる偽造文書によって始められたことも、忘れてはならないと思います。
 だからアメリカは、自国の覇権と利益のためには、事実を捏造してでも、戦争をする国であると考えるのです。

 下記は、「朝鮮戦争 38度線の誕生と米ソ冷戦」孫栄健(総和社)から、アメリカによって南北に分断された南朝鮮、大韓民国の実態に関する部分を抜萃したものです。アメリカ軍政下の韓国が、どんな理不尽で不当な支配を受けたかが分かります。そうした過去を踏まえて、現在を理解することが大事だろうと思います。

 最近、私は新聞を読んだり、テレビのニュース番組を見たりするたびに、ああ、日本のメディアは、こうやって国民を洗脳し、アメリカの世界戦略に基いて、反ロ・反中の政治意識を持たせるのか、と考えさせられています。

 新聞開くと、毎日必ず、反ロ・反中の意識を持たせるような見出しや記事が目に飛び込んできます。
 例えば、ロシアに対しては、”「プーチンおじさん」礼讃毎日歌わされ「洗脳」”などという見出しで、ロシア軍に連れ去られたという子どもの証言が取り上げられています。”連れ去られ、安否も所在もたどれない”などという見出しの同情すべき記事も目にしましたが、客観情勢は何もわかりません。
 また、”ロシアの反政権活動家に禁固25年、体調懸念「状況的に死刑判決」、強まる弾圧 米欧「不当な拘束」”などと題された記事もありました。その反政権活動家がどんな活動をしていたのかはもちろん、禁固25年としたロシア側の主張は何も分かりません。

 中国に対しても、”在外中国人を監視 世界に拠点か、米で無届「警察署」運営、50カ国に設置・秋葉原にも、人権NGO調査、ホテル最上階「立入禁止」、トロント近郊コンビニの片隅”などというような内容が、くり返し取り上げられました。何か恐ろしいことがなされているというような感じの記事ですが、どんな違法行為があるのか、詳しいことはわかりません。法的に対処しようとする姿勢も感じられません。

 
 逆に、機密文書流出によって、アメリカがロシアや中国だけでなく、同盟国の韓国やイスラエル、また、国連なども盗聴の対象にしていたという重大なアメリカの違法行為に関する報道は、ほとんどありません。

 そうした事実をふまえて、今、考えなければならないのは、ロシアや中国の影響力拡大が、アメリカの覇権と利益を損なうということで、ロシアや中国を弱体化する意図をもって、アメリカがやっていることを客観的にとらえることだと思います。そして、アメリカがロシアと戦うウクライナ軍を支え、台湾に働きかけて、台湾有事を画策していることを念頭に、アメリカの戦略にどのように対処するかを考えることだと思います。
 アメリカが、武器を売却したり、供与したり、共同軍事訓練をしたり、制裁を課したりして挑発しなければ、明るい見通しのあるロシアや中国が、わざわざそれを台無しにするような戦争をすることはないと思います。戦争を欲しているのは、アメリカだと私は思います。
 アメリカが、相手国と話し合ったり、法的に争うことなく、経済制裁や武力を行使してきた過去を踏まえて、厳しく対応しなければいけないと思います。
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                 第4省 南北政権の樹立と一般情勢

 (ニ) 韓国社会経済の混乱
 一方、アメリカ軍政庁の南朝鮮も、大韓民国樹立以後の韓国も、経済的には混乱と停滞が続いていた。これは、本来朝鮮半島が経済地理的にも南北補完構造に組み立てられており、北朝鮮の鉱工業と動力資源、南朝鮮の農業と軽工業とが一体となってはじめて単一の自足的な経済圏を構成できるものであったのだが、1945年夏から秋の米ソ両軍の南北朝鮮分割と、さらに38度線封鎖による南北経済の人為的分断によって、この朝鮮半島の南北一体経済の経済構造を破壊したからであった。
 また48年5月、毎月平均5、6万キロと南朝鮮電力需要の8、9割を占めていた北朝鮮からの送電が停止されたことは、南朝鮮経済復興に破壊的な打撃を与えた。
 すなわち、解放後の物資の不足、南北交易、あるいは海外貿易の不可能による原材料・資材の欠乏、資金難、技術の低下と買弁利権集団による経済撹乱、人員が急増された行政官庁や警察などの官吏・要員の無能ならびに汚職的行為、権力乱用行為が頻発し、新国家の前途は容易ならざるものがあった。また、アメリカが経済物資の名目で送り込んだ小麦、繊維製品、日常雑貨などの物資は、本来脆弱な体質で国際的競争力がない韓国軽工業会を一層の衰退に追い込む結果となっていた。さらに47年、アメリカ軍政庁が行った「農地改革」も、北朝鮮での土地改革に対抗するための表面的なものでしかなく、結果として地主を保護し、旧小作人をさらに苦しめるだけの実効のないものでしかなかった。
 このような社会的困窮のうちに、48年8月に大韓民国は樹立された訳である。すなわち、独立後の韓国社会の苦難も運命づけられていたようなものであった。
 そして政治的には、48年5月10日の南朝鮮単独総選挙が右翼政党のみで行われたにもかかわらず、李承晩大統領以下の政府と韓国民主党を中心とする国会との対立抗争が繰り返された。また、新設された政府各部内あるいは地方行政庁などにおいても、行政官吏・職員急増の必要のために能力の無い人物、あるいは右翼勢力を支持していた人物などが縁故などで就任する場合が多く、汚職事件が日常的に頻発し、早くもその腐敗無能振りが露呈される結果となっていた。
 しかし、そのような政権に対する反発や、韓国の国内経済の停滞、社会的不安の増大、さらには送電停止による経済破壊やゲリラ部隊潜入のような北朝鮮政権による韓国への社会・治安撹乱工作の結果として新生韓国社会の不安感はますます深刻化した。また、それに対抗する韓国軍の苛酷な弾圧や警察・右翼青年団のテロ、拷問虐殺などの越軌行為により、国内治安は悪化の一途をたどった。
 一方、アメリカ軍政時代から、北朝鮮から侵入したゲリラ部隊や南朝鮮左翼勢力の反米独立派地下工作や武装蜂起は各地で起こっていたが、このような社会不安や反政府勢力の存在、反体制勢力の行動はすべて共産主義集団とソ連の陰謀の結果であるとして、李承晩大統領は「国家安全法」を制定したのであった。李政権はこの思想犯弾圧法を、共産党を非合法化するためのみでなくその後は、同法を、政権に批判的な言動をするあらゆる団体と個人を抹殺する権力維持の法的武器として活用した。これは左派、中道あるいは右派を問わず、すべての政権批判勢力に対して「アカ」あるいは「反国家的とのレッテルづけを可能にするものであり、特定集団による独裁体制の基礎となるものとなる。

 このように、新生したばかりの韓国社会は、その根本的社会矛盾が清算されず、逆に、既得権益層、既存組織と制度が温存されるような展開の結果として、より強圧独裁政策をとる政権が形成され、それが逆に戦後世界における米ソ対立の冷戦理論を、すなわち親米反共のスローガンを、その政権維持あるいは新権益の取得の方便として活用し、反共主義を標榜するような側面すらも生じさせる結果となったのである。

 (三)反民法と政府・軍・警察
 こうして、新生韓国政情は、その根本的な内部矛盾を抱えたまま、政界的には大統領および政府と国会がつねに対立するという形で出発することになった。そのため行政府と国会の紛糾が絶えなかった。
 一方、新政権発足早々の48年9月7日、韓国国会を通過して、22日に公布された反民族行為処断法は、とくに憲法にも一条項をもってとりあげられた対日協力者の処罰、公民権の剥奪、公職からの追放に関する根本法規であった。だが、制定後実施の面では積極化されないまま残されてきた。ところが、ようやく同法に基く実行機関が任命されついに49年1月8日、財界の巨頭朴興植を逮捕したのをはじめ、反民族行為特別調査委員会は相ついで該当者を検挙、収容するにいたった。その対象者でも、とくに警察関係者に対する調査が、ここで問題となった。

 他方、李大統領はかねてからこの反民法の厳格な実施には反対の意向を表明してきていた。そして、この49年1月8日、とくに談話を発表し、同法の精神が処罰よりも善導にあることを強調した。
 また、特別調査委員会は政府に対し、反民法該当者を一切の公職から追放するよう要求する書簡を送っていたが、政府側では該当官吏の調査を中止し、さらに国会議員が調査官としてその推進力となっている特別調査委員会と対立する態度を示すに至っていた。この傾向は2月15日、李承晩大統領が、特別調査委員会に付属して該当者の逮捕にあたっていた特別警察(普通の警察機構とは別個に組織されたもの)の廃止を命令するに及んで、いよいよ明確となってきた。国会は政府側のこのような態度について、反民法の運営を故意に妨害するものと非難した。さらに、政府が提出していた反民法の緩和をはかる修正法案を廃棄してしまった。李大統領が反民法の厳格な実施に反対する理由としては、現在の治安維持のため、該当者の裁判、処罰は後日に延期し、とくに警察技術者としての該当者を利用して、地下工作、陰謀、反乱の発生を防止すべきであると考えられたからだとみられた.

 すなわち、この時期の韓国政府官僚、地方官吏、警察、軍隊内には、1945年以前の日本統治時代に、総督府、総督府警察の雇員として同民族弾圧の手先として働いていた者が 多かった。日本降伏時に、朝鮮における警察力は南北全体で23000人であったとも推定されているが、そのうちの40%にあたる9000人が朝鮮人警官であり、それらは下級警察官あるいは警察補助員として日帝警察の朝鮮人取締業務の手先となっていた。
 だが、朝鮮における日本の憲兵・警察の活動が極めて残虐で非人道的なものであったが、その末端で朝鮮市民と接触する朝鮮人警官あるいは補助員の行動は、一般朝鮮市民の深刻な憎悪の的であった。そのため、1945年8月の日本降伏後には、それらの朝鮮人警官たちの殆どが、その所属警察署あるいは駐在所のあった地域から、地域住民の報復を恐れて逃亡する状況であった。ところが、南朝鮮を占領し軍政下においたアメリカ軍の方針が、旧体制の行政機構とともに警察機構をも存続させる展開となり、旧日帝警察の朝鮮人警官のうち85%が呼び戻され、現職にとどめられた。
 これらの旧日本時代に、朝鮮総督府の末端組織に於て下級警官あるいは警察補助員として雇用され、朝鮮人取締りにあたっていた朝鮮人警官たちは、今度は、場合によっては警察高級幹部として昇進して、アメリカ軍政庁警察部に復帰することになったのである。
 そして、アメリカ軍政庁の方針により、1946年初頭までに日本人警官は免職になり送還されて、1万500人の朝鮮人警官がこれに代わったが、対ソ政策下での治安に神経をとがらせるアメリカ軍政庁方針により、旧日帝警察の下級警官であった朝鮮人警官を登用し増員した結果、警察権力はきわめて強化される結果となった。
 1947年7月には、南朝鮮の警官総数は25000人を数え、事実上1948年末まで、この警官隊が南朝鮮における治安のみならず38度線沿いの安全確保にも従事し、また警察は全国規模の穀物徴収計画あるいは、その格農家への割当額の決定も行う様相であった。しかし、アメリカ軍政庁においても、その警察的手法は、旧日本警察の一般市民に対する弾圧取締、拷問捜査を常套手段とする方式を継承したものであり、逆に、日本警察時代のアメとムチ政策に基づく転向政策が喪失されて、弾圧手段のみが存続したという経緯もあった。これは日本の警察機構がGHQ指令により、徹底的に改編され、改革されたのと比較して、逆説的な結果であった。また、教育水準が低く、訓練されていない右翼青年団員などを急遽、警官として採用する状況の結果、その日常茶飯事的な権力乱用と汚職多発の結果、すなわち、当時の南朝鮮あるいは樹立後の韓国において警察と一般市民の感情の間には、深刻な敵視関係が生じていた側面もあった。
 
 だが、一般に警察あるいは軍隊組織は強固な結束の核をもち、他種の組織と比べて組織的団結と強度がつよい傾向がつねにあるようである。強固な結束力と組織をもつ警察組織は、どの時代もつねに政権と体制の武器であり、早くも1946年末には、南朝鮮警察は アメリカ軍政支配の重要な機構となっていたが、韓国政府樹立以後は、李承晩大統領と新韓国政府の政治的武器となっていたのである。だが、これは政府と対立する国会にとっては、いささか削減すべき勢力でもあった。また、国会は警察の内部のかつての旧日本時代の朝鮮人警官の存在に対する国民的反感をも承知していた。したがって、この警察内部の旧民族反逆者に対する処分は、つねに韓国警察が左派弾圧の先兵となり、右派擁護の武器となっていただけに、微妙な問題であった。これは政府内、あるいは韓国軍隊内における旧日本時代の朝鮮人雇員であった人物に対する場合も同様であり、反民法の厳密な適用は政府、警察、軍隊の組織に重大な影響をおよぼす恐れがあったのである。 

 (四) 少壮派議員団の逮捕
 そこで、反民法が政府部内、警察、軍隊内の該当者におよぼす不安と、それによる行政の混乱、左翼勢力の台頭を考慮すれば、まず、その適用を緩和することによって現政府の組織維持がまず優先されたようだ。
 また、対日協力者の処罰よりも、当面緊急の課題である共産主義者取締と、現秩序と体制の安定を維持することの方が重要であるということにあった。しかし、特別調査委員会は同49年3月7日までの2か月間に、54名を逮捕し、その後も引き続き該当者追求の手をゆるめなかった。

 また、韓国国会にはその発足からことごとに政府の施策を批判する先鋒に立ち、議事を操縦してきた少数のグループがあった。この、1948年12月10日、締結の米韓経済援助協定に反対し、米占領軍の撤退要請決議案を提出し、国家保安法の制定に反対し、憲法改正運動を行ない、反民族的行為特別調査委員会を動かしてきたこれらの議員は、在野独立運動家の金九(1949年6月26日、李承晩派陸軍少尉安斗熙により暗殺)の流れを汲むといわれ、とくに少壮派と呼ばれていた。そのうち李文源および李泰奎は同5月18日に、李亀洙は同20日に、いずれも国家保安法違反のかどで警察に検挙された。これは、政府内にあった反民法対象となる旧親日派の反撃とみられた。
 国会では同5月24日、88名の議員の署名をもってこれら3名の釈放要求が提出された。また、それをめぐってはげしい論戦が行われたが、結局否決されてしまった。だが、ソウル市では31日、これら88名の議員を共産党と非難する弾劾民衆大会が開かれ、弁明に立った議員柳聖甲が群衆に殴打されるという事件が起った。これを右翼の国会圧迫工作とみる国会側は、政府のこれまでの責任を追求し、両者間の対立は一層深まった。

 (五) 大統領と議会の対立
 国会と政府間の軋轢の要因となったものは、それだけにとどまらなかった。道知事以下の地方行政機関を公選によろうとする国会の態度にもかかわらず、李大統領はすでに2回にわたり、時期尚早を理由として、これに拒否権を行使した。また、農地改革法、帰属財産臨時措置法も国会の前会期で通過したにもかかわらず、大統領はこれに異議を付して国会に送り返し、再審を要求した。国会が夏季穀物の強制収奪を否決したのに対し、政府側はそれを強行する構えを示した。これよりさき、曺奉岩農林部長は同49年2月21日、穀物収買資金の不正流用を監視委員から摘発されて辞職した。さらに、任永信商工部長官も、その財政上の不法行為を監察委員会から指摘されて、罷免を要求された。李大統領は任長官の事件について、監察委員会の越権行為を非難し、その間の斡旋に努力した。だが、任長官その他の関係者は遂に5月28日、背任、横領のかどで正式に起訴されるに至った。これらはいずれも、政府に対する国会の批判の材料となったものである。
 ・・・

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南北合一の「朝鮮人民共和国」を潰したアメリカの軍政

2023年04月19日 | 国際・政治

 中国が急成長を遂げ、アメリカに対抗し得る力を持ちつつあるからではないかと思いますが、世界のあちこちの国が、アメリカから離れ、また、アメリカを名指しして非難したり、批判したりするようになってきたと思います。

 例えば、フランスのマクロン大統領が、習近平国家主席との首脳会談を終えた後のインタビューで、「欧州が米国の課題や中国の過剰反応に追随してしまうのは最悪だ」というようなことを語ったことが、波紋を広げているといいます。
 「欧州が直面している最大のリスクは、自分たちのものではない危機に巻き込まれて、戦略的自律性を発揮できなくなってしまう事態だ。困ったことに、パニックに陥って、欧州自身が『われわれは単なる米国の追随者』と信じ込んでしまっている。台湾危機はわれわれの利益なのか。答えはノーだ」などとも語ったというのですが、この主張は間違っていないと思います。
 アメリカの共和党議員が、この主張に対し、「フランスは脅威に真正面から目を向けねばならない」などと怒りの声をあげたようですが、「脅威」を感じているのは、中国の影響力拡大によって、自らの覇権と利益が失われるアメリカあって、それを”台湾危機はわれわれの利益ではない”と言っているフランスも”共有しろ”というところに、私は、他国を思い通り動かしてきたアメリカの傲慢な姿勢があらわれていると思います。

 また、関連して、クロアチアの政治評論家が、”ヨーロッパは、決してアメリカの召し使いになってはならない。生き残るためには、自立的でなければならない。アメリカに依存することは、ヨーロッパ諸国の経済的発展につながらない。”というようなことを言った、と新華社通信が伝えています(下記)。この主張は、アメリカが自らの国の覇権と利益のために、ヨーロッパ諸国に強い圧力をかけてきたことを証明していると思います。
(ZAGREB, April 17 (Xinhua) -- Europe must be independent in terms of its foreign policy and security and must by no means become a vassal of the United States, Croatian experts said on Monday.
"Europe must be independent because that is the only way that it will survive. Though an ally of the United States, Europe must by no means become a U.S. vassal under the terms dictated by Washington," Drago Poldrugac, a Croatian political analyst, said in an interview with Xinhua.・・・)

 さらに、ブラジルのルラ大統領は中国・北京を訪問の際、ウクライナでの戦争終結に向けた進展が見られないとして米国を批判し、「米国は戦争を促進するのをやめ、平和について話し始めることが重要だ」と語ったことも伝えられています。そして、そのことに関し、米国家安全保障会議(NSC)のジョン・カービー戦略広報調整官が、「ブラジルは事実も見ずにロシアと中国のプロパガンダを繰り返している」と非難したため、ヴィエイラ外相は、「いいえ、私はそう思わない。そんなことはない。彼がなぜそのような結論に至ったのかはわからない。しかし、私はまったく納得できない」と、大統領を弁護したそうです。ブラジル大統領や外相の主張も当然で、正しいと思います。ウクライナ戦争は、アメリカが、ウクライナ軍支援の方針で圧力をかけなければ、すぐに停戦できると思います。

 先だって、メキシコ大統領が遺伝子組み換えトウモロコシの押し付けに抗議して、アメリカを痛烈に批判したことを取り上げました。
 だから、現在の国際社会で一番問題なのは、自らの覇権と利益のために、他国に不当な圧力をかけるアメリカであって、ロシアや中国ではないということです。

 このところの世界各国の発言は、今まで、アメリカの圧力によって抑え込まれ、声をあげることができなかった国々が、中国やブリックス(BRICS)の影響力拡大で、声を上げることができるようになったきたことを示しているように思うのです。

 私は、もっともらしいアメリカの主張を鵜呑みにせず、しっかり自分の眼で世界の動きを見つめるべきだと思います。また、日本は日本の立場で世界の動きを見るべきで、アメリカの立場で世界の動きを見るようなことをしてはならないと思います。先ず、日本の政治家や主要メディアが自立しなければ、日本人の苦難はさけられないように思います。
 アメリカの主張を、鵜呑みにしてはならないということは、アメリカが戦後の日本や朝鮮に、何をしたかをふり返れば、明らかだと思います。

 1945年8月15日正午、ポツダム宣言受諾を告げる天皇の無条件降伏放送がソウルの市街にも流れたといいます。この放送は、朝鮮の人たちにとっては、36年に及ぶ日本の苛酷な朝鮮民族支配の終焉と、朝鮮民族の解放を意味するものでした。だから、この日、夜半遅くまで「マンセー」の歓声が、ソウル市街や全国にどよめいたということです。
 大事なことは、それが朝鮮の人たちにとって、朝鮮という国の「即時独立」を意味するものであったということです。

 だから、当時の政務総監遠藤柳作から、戦後の治安維持に関し、声をかけられた呂運亨は、その日のうちに自宅に何人かの指導的人物を集め、「建国準備委員会」を組織することを決定しています。
 そして、翌16日、建国準備委員会は、ラジオを通じて具体的な建国方針を朝鮮市民に訴えました。この呼びかけに応じて、朝鮮各地では続々と各地の準備委員会が組織され、会社・工場・学校・新聞社・警察署などを接収して、急速に朝鮮市民自身による自治、自主管理が推進され、解放から何日も経たないうちに、朝鮮全土の道、府、市、郡、面から洞・里(部落)にいたるまで、民衆の手で建国準備委員会の下部組織保安隊が作られたというのです。
 また、その動きを加速したのは、朝鮮のすべての刑務所から膨大な数にのぼる政治犯、思想犯、独立運動の闘士たちが一斉に釈放され、活動を始めたことだといいます。
 
 だから、建国準備委員会は、アメリカ軍先遣隊が上陸する以前に、全国の南北各界各層を網羅した代表一千数百名の中心的人物をソウルに召集して、全国人民代表社会を開催し、南北朝鮮を合一して「朝鮮人民共和国」を国号とする国家の創建と、新朝鮮国民政府の樹立を決議しているのです。
 そして、9月14日には、共和国政府の組閣を完了しているのです。これには南北朝鮮、左右両派、内外の有力な人材の名を連ねており、主席には当時アメリカに滞在中の李承晩、副主席呂運亨、国務総理許憲、内政部長金九、外交部長金奎植、軍事部長金元鳳、財政部長曺晩植、保安部長崔容達、文教部長金性洙、宣伝部長李観述、その他司法、経済、農林、保健、逓信、交通、労働の各部長を決定し、書紀長には李康国が就任することになっていたといいます。

 でも、その政府を見守り、支援すべきアメリカが、自らの覇権と利益のために、軍政によって、その南北朝鮮を合一した「朝鮮人民共和国」を潰し、朝鮮を38度線で分断して、南朝鮮に大韓民国を樹立させるのです。それが、再び、朝鮮に大変な悲劇をもたらすことになりました。
 下記は、「朝鮮戦争 38度線の誕生と米ソ冷戦」孫栄健(総和社)から「第五節 朝鮮戦争直前の韓国情勢」の「(一) 揺れ動く南北社会」抜萃したものですが、アメリカの軍政がどんなものであったかということの一端が分かります。
 アメリカ軍政は 日本の支配下で、長く朝鮮の人たちを苦しめた、戦前の既得権益層や朝鮮総督府等に雇用されていた朝鮮人官吏、朝鮮人警官等を、復活させているのです。
 日本で、公職追放を解除し、戦犯(戦争指導層)を復活させて、意のままに操ったことと通底することだと思います。
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                 第五節 朝鮮戦争直前の韓国情勢

(一) 揺れ動く南北社会
 1945年8月15日に南朝鮮地域(ほぼ現在の韓国領域)に樹立されて、同年12月12日の国連総会決議により国際的承認をうけた韓国政府とその社会は、しかし、その政府樹立当初から深刻な社会的矛盾を激化させ続けていた。
 すなわち、1945年9月に上陸を行い南朝鮮を占領下においたアメリカ軍は、直接軍政を施行し、その軍政統治を48年8月、新共和国が組織され大韓民国政府に行政権を委譲返還するまでの3年間、
アメリカ外交政策の主旨と利害のもとこれを継続した。
 この間、アメリカ軍は日本の戦争経済強行による収奪で疲弊し切った南朝鮮にある程度の経済・物資援助を与えたが、一方では、上陸早々から38度線警戒線の設置、港湾、飛行場、軍用道路、兵舎などの軍事施設を拡張新設し、南朝鮮青年を米式火器により訓練武装させ、軍事的地歩を打ち立てた。また政治的にも、旧朝鮮人統治機構である朝鮮総督府組織の行政・警察機構をその制度と人員ともに継続利用して軍政統治の道具として活用した。また南朝鮮総資産額の80%に達するともいわれた旧敵性資産(日本が収奪した資産)を1946年1月の軍政庁命令によって接収し、それをアメリカ政策の下で運用・配分した。また日本植民地政策の先兵として日本の朝鮮収奪のための国策会社であった東洋拓殖会社は「新韓公社」と名を改めて存続させ、かつての日本に代わる形で、アメリカの強制的支配権が南朝鮮に施行される結果となっていた。

 その結果、旧体制の既得権益層、あるいは旧日本植民地時代に朝鮮総督府等に雇用されていた朝鮮人官吏、朝鮮人警官等が、解放後社会においても公然と復活して社会的主導権を握る経緯となった。また、旧時代以来の、地主階級が貧農・小作人を厳しい雇用・小作条件で働かせるという土地所有、社会階級関係の近代化もなされなかった。そのいわば、旧体制(アンシャンレジ-ム)勢力は、李承晩、金九のような国外逃亡から帰還した民族主義運動家をリーダーに祭り上げることによって、アメリカ軍政の与党的立場を確保しながら、右翼勢力として新しく再編される展開となっていた。そして、それは48年8月の大韓民国樹立によって、新国家での右派勢力のみで構成された新政府の支持勢力として、ここで韓国社会における実権を公然と掌握する結果となったのである。

 すなわち、1945年8月15日の時点において、南北を問わず全朝鮮市民が願望していたのは、旧日本統治時代の社会的不正の是正、あるいは不労地主と貧窮小作人のような土地所有関係に代表される封建的残滓の清算であり、ある意味では新生民族国家としての社会の抜本的改革であったとされた。
 だが、南朝鮮のちの韓国においてはアメリカ軍政の後ろ盾により、旧体制勢力がその基本的制度とともに依然として継続される結果となった。一方、北朝鮮においては、旧体制の清算と土地改革を含む旧社会の抜本的改革は為されたが、それがソ連勢力の濃密な影響下において共産主義勢力単独の権力掌握と反対勢力の排除という形で為されたのである。しかし、経済原理において、共産主義的経済理論での中央集権的な計画経済の手法は、農業的社会から工業的社会への移行を望む段階の初期的な後進諸国にはきわめて有効であり、解放後北朝鮮社会は、南朝鮮社会あるいは48年以後の韓国社会と比較して、着々と社会改革と経済復興が進捗していた

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アメリカの謀略、日本の戦後三大事件とアメリカの戦争

2023年04月14日 | 国際・政治

 ウクライナ戦争が続き、台湾有事が心配される現在、私は、下山事件帝銀事件、その他の事件を細部にわたって調査し、精密に論証した「日本の黒い霧」松本清張(文春文庫)は、極めて示唆に富むものであると思います。
 特に、
 ”一つの大きな政策の転換は、それ自身だけでは容易に成し遂げられるものではない。それにはどうしてもそれにふさわしい雰囲気をあらかじめ作っておかなければならぬ。この雰囲気を作るための工作が、さまざまな一連の不思議な事件となって現れたのだと私は思う。
 という指摘は見逃すことができません。
 アメリカは、戦後日本の事件のみならず、いろいろな戦争で、この”雰囲気を作るための工作”をしてきたと思います。
 ベトナム戦争では、ペンタゴン・ペーパーズの暴露で、トンキン湾事件の捏造が明らかになり、湾岸戦争では虚偽の「ナイラ証言」が、反イラク感情を高めるために利用され、イラク戦争では、大量破壊兵器の存在に関わる文書が捏造されたものであったことが明らかになっています。これらは、アメリカの戦争を正当化するための ”雰囲気を作る”工作であったと思います。
 そして、下記に抜萃したように、朝鮮戦争でも、「北朝鮮軍による、不意打ち的な38度線突破の侵略」を印象づける報道が、世界中に流布され、”雰囲気を作る”ために利用されたと思います。

 でも、「日本の黒い霧」松本清張(文春文庫)に対し、これは”反米的な意図で書かれた”のではないか、とか、こういう書き方は「固有の意味の文学でもなければ単なる報告や評論でもない、何かその中間物めいた”ヌエ的”なしろもの」というような非難があったといいます。
 私は そうした非難は、アメリカと何らかの関わりがある人か、あるいは、当時の日本が直面していた重要問題を理解しない人の非難だと思います。
 なぜなら、米ソ冷戦が厳しさを増していたこの時期、 日本国内でも、二・一ゼネストが計画され、革新勢力による民主人民政府の樹立を目指すような大きなうねりがあったことを見逃していると思うからです。
 当時、GHQの主導権も民政局(GS)から参謀第2部(G2)に移って、いわゆる「逆コース」が始まり、日本という国の針路が、GHQによって大きく「右方向」に変えられつつあったことをしっかり見る必要があると思うのです。

 下山事件をはじめとする、戦後三大事件や、それに類する数々の事件によって、日本の民主化は頓挫し、日本に再び、治安維持法下の、”共産主義者(赤)を恐ろしい犯罪者”とするような空気が漂うことになってしまったように思います。そしてそれこそが、GHQのねらいだったのだと思います。
 それを松本清張は、”下山事件が起こってから、この闘争(国鉄労組の闘争)は台風の眼の中に原子爆弾を打ち込んだように衰弱し、雲散霧消してしまった”と表現しています。そうした変化は、真実を知るために見逃してはならないことだと思います。
 GHQは謀略事件によって、日本の民主化の歩みを停止させ、アメリカ傘下の右翼的な国家に引き戻すことに成功したということができると思います。

 また、松本清張は、”私は自分のやり方を、あたかも歴史家が資料をもって時代の姿を復元しようとしている仕事をまねた”と書いていることも、見逃すことのできない大事なことだと思います。
 ”史家は、信用にたる資料、いわゆる彼らのいう「一等資料」を収集し、それを秩序立て、綜合判断して「歴史」を組み立てる。だが、当然、少ない資料では客観的な復原は困難である。残された資料よりも失われた部分が多いからだ。この脱落した部分を、残っている資料と資料とを基にして推理してゆくのが史家の「史眼」であろう。従って、私のこのシリーズにおけるやり方は、この史家の方法を踏襲したつもりだし、また、その意図で書いてきた
 というのです。したがって、その姿勢を考慮しない非難は、的外れだと思います。
 
 さらに、警察には、スタンドプレーではなく地道に歩いて聞き込みを続け、証拠を積み重ねて犯人を見つけ出せ、という犯罪捜査の鉄則があるといわれていますが、松本清張は、まさにその鉄則通り、さまざまな調査をもとに、同書を書いていることも見逃してはならないと思います。

 だから、簡単に非難できるような内容ではなく、同書のどこがどう”反米”であり”ヌエ的”なのかの具体的な指摘なしには、成立しない非難だ、と私は思います。
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                     謀略朝鮮戦争
    2
 朝鮮戦争の端緒についてよく云われる「南北のどちら側が先に攻撃を仕掛けたか」という問題は、今日でも興味のある謎である。アメリカ国務省の発表では、「北朝鮮軍が、1950年6月25日日曜日の夜明け直前(朝鮮時間)38度線を越えて、大韓民国に対し、全力をあげての攻撃を開始した、という最初の公式報告は、朝鮮に駐在する米国大使ジョン・J・ムチオから受取った。同大使の報告を国務省で受取ったのは土曜日の夜、即ち、6月24日の東部日光節約時間午後9時26分であった。北朝鮮の共産政権が大韓民国に対して開始した奇襲こそは、世界の平和への狂暴な攻撃であった。この奇襲は、人民自らによって選ばれ、国際連合の協力を得て樹立され、世界における自由な諸国家の大多数によって承認された一独立政府の治政下にある、平和に満ちた人民に対し向けられたものであった」(『朝鮮白書』)とあって、北朝鮮側の侵入と断じている、ところで、この日は丁度日曜日であったため、奇襲が真珠湾の攻撃と同じ性質だと見るむきもあった。
 ジョン・ガンサーは書いている。「(1950年)6月25日日曜日朝早く、私は妻と共に京都から東京へ帰って来た。そして、そのまま日光へ旅行に出かけた。発車の間際になって、ホイットニー少将は私たちを見送りながら、日光へは同行できなくなった、と云った。マッカーサーに云われて、丁度この日曜日総司令部へ出る必要ができた、とのことだった。しかし、これは何か変なことでもあったためとは思われなかった。総司令部の幹部どころは、大抵、日曜日にも呼び出されることになっていたからである。時間は「午前8時20分だったが、丁度そのころ朝鮮で起った事件については、総司令部ではまだ誰も知らなかったと思う。日光に着いて、世界で最も華麗な見物の一つである寺院を見物して、丁度昼食を取ろうとしていた時、この高官の一人が思いがけなく電話に呼び出された。彼は私たちの所へ戻ってくると、低い声で『大ニュースですよ。韓国軍が北朝鮮へ攻撃を開始したんです』と云った」(『マッカーサーの謎』)

 ガンサーのこの文章は、いろいろの本によく引用されている。確かにこの時は、韓国軍が北朝鮮へ攻撃を開始した、と高官は囁いたというのである。ガンサーはつづけて、「このニュースは、どちらが侵略を始めたかという点については、とんでもなく間違ってはいたが」とあっさり主客の位置を変更している。つまりその高官は昂奮のあまり、間違えてしまったというのだ。
 ガンサーはつづけて云う。「東京の総司令部は云わずもがな、韓国駐在のアメリカ人たちも、完全に不意を衝かれたかたちであった。いずれも、まるで太陽が突然に消え失せでもしたかのようなひどい愕き方だった。北朝鮮側としては戦術上の完全な奇襲に成功したわけで、それはまた戦略上の奇襲でさえもあった。まことに真珠湾以上の醜態だった。われわれは眼をつむっていたばかりでなく、われわれの脚までがぐっすり睡っていたのである」
 
 この記事は、そのまま日本国民の印象でもあった。当時の日本の各新聞の第一報は、いずれも「北鮮軍、38度線を侵入」と大きく書き立てている。だから日本国民の大多数は今でも、北朝鮮軍が南朝鮮軍に仕掛けた、と信じている。
 ガンサーによると、6月25日朝、北朝鮮軍は、正規軍四個師団および警察隊三個旅団という大部隊を繰り出して攻撃し、戦線には7万人の将兵が投入され、約70台の戦車が四カ所の違った地点で同時に行動を起した。このような軍隊を集めて、武器と装備を与え、予定の日に広い戦線に亙って一斉に予定の攻撃にすべり出すには、最少限、一か月の準備が必要であったに相違ない、という意味を云っている。もし、そうだとすると、この38度線の動きをワシントンの国防総省(ペンタゴン)は何も知らなかったのであろうか。38度線の両側は、それまで何百回となく小戦闘を繰返し、極度の緊張にあった。現に、国務省顧問ジョン・フォスター・ダレスは、戦争の勃発する2日前、38度線の最前線の塹壕の中に入って視察し、東京に帰っている。もし、アメリカ情報網が北側の「不意打ち」の動きを全く「眼を閉じ、両脚さえもぐっすり睡り込んでいた」なら、随分、だらしない話である。
 ワシントンの新聞記者たちは、これを確かめようとして中央情報局長官ロスコ・H・ヒレンケッター海軍少将に質問したが、彼は、「朝鮮では、今週、または来週ごろ、侵略が始まるかも知れない状況だった」し、米国の諜報機関はこれを知っていた、と言明した。また、同少将は、次の日、上院歳出委員会の非公開会議に出席して、「米国諜報網が虚を衝かれたのではない」ことを共和党議員に納得させながら、一方では、「北朝鮮軍は南朝鮮侵略の能力を一年以前から持っていたが、実際に進撃して来るかどうか、また進撃して来るとすればどんな予定表になるか、を予見するのは不可能であった」と語った。これは彼の前言と喰い違っているが、次の日、上院委員会に呼び出された同少将は、秘密会でさらに説明を行った。この時、聴聞会室から出て来た委員たちは、ヒレンケッター少将の証言が前のアイマイな声明とは全然違ったもので、諜報機関の報告の綴じ込みを取出したりして、自分が虚を突かれたのではないことを証明したので、委員たちは「中央情報局がよくやっていた」ことを納得したそうである。(I・F・ストーン『秘史朝鮮戦争』)
 さて、東京のマッカーサーの司令部はどうであったか。
「しかし、マッカーサーは朝鮮にあまり注意を払っていなかった。かれは動乱が勃発するまで僅かに一度しか朝鮮を訪問していない。それもたった一日だけで、それは1948年8月の韓国独立式典に列席するためだった。そのまた韓国が独立した8月15日以後は、朝鮮に対しては政治的にも軍事的にも、かれには何の責任もなかったのである。元帥のほうには何ら非はなかったのである。朝鮮はかれの管轄ではなかった」とガンサーはマッカーサーのために弁護している。しかし、さすがに、これではいかにも困ると思ったのか、つづけて、「しかし、その半面、かれはアメリカの極東軍最高司令官として、朝鮮の事態にはもっと深く注意していて然るべきであったろう」と柔らかくたしなめている。朝鮮がマッカーサーの管轄外であったということは、同時に朝鮮が極東軍司令部の管轄外であったということになる。これは誰が聞いてもおかしな話で、ただ三百代言的な強弁としか取れない。朝鮮にはホッジ中将が司令官として駐在していたが、無論、極東軍最高司令官としてのマッカーサーとつねに連絡があったことは云うまでもないことだ。
 それにマッカーサーの最高情報長官ウイロビーG2部長は、ワシントンと同様に北朝鮮軍の侵入を事前にしらなかったのであろうか。

 これに対して、戦争の勃発した6月25日早朝の平壌放送は、内務省の報道を伝えた。「今6月25日払暁、南朝鮮カイライ軍は、38度線全域に亙り、38度線以北地域に不意の進攻を開始した。不意の進攻を開始した敵は、海州方面西方からと、金川方面と、鉄原方面から38度線以北地域に向かって1キロ乃至2キロまで侵入した。
 朝鮮民主主義人民共和国内務省は、38度線以北地域に侵入した敵を撃退するようにと、共和国警備隊に命令を下した。警備隊は進攻する敵を迎え撃って苛酷な防衛戦を展開している。共和国警備隊は、襄陽(ヤンヤン)方面から38度線以北に侵入した敵を撃退した」
 いろいろな資料から見て、南朝鮮側では、戦争勃発を予見したさまざまな準備処置が講じられていたことがうかがえる。しかし、北朝鮮軍側に、この「処置」があったかどうかを知ることは出来ない。これは、その資料が乏しいためか、それとも、その「処置」が「皆無」だったか、どちらかである。しかし、全く皆無だったとは常識的に思われない。何故なら、38度線ではそれまで千回以上の小戦闘が繰返されていたし、また、のちに触れるような南朝鮮側の臨戦態勢の情報がキャッチされなかったとは思われないからである。だから南朝鮮側の「侵入」を受けるや、直ちにこれを受けて軽く斥け、さらにあれだけの猛追を行ったのは、当時、ただ防衛的な態勢で、手薄な警備隊のみが配置されていとは考えられないのだ。この辺は、ガンサーの云う北朝鮮の態勢や、アメリカ切っての軍事記者ハンスン・ボールドウィンが書いたような、「北朝鮮軍四個師団の主要部分および警察軍旅団と報告されている部隊二つが38度線に配置されておりおそらく日本製と思われる軽戦車および中型戦車、ソ連式122ミリ野砲約30問その他の重装備が前線に配置され、部隊の集結が目に着くようになってきた」
という報告は、その数字をどの程度信用するかは別として、防禦から大攻撃へ直ぐに移れるだけの兵力の配備はあったように考えられる。
 このことに関してだが、退役後のマッカーサー自身の証言がある。戦闘以前の北朝鮮軍の配備について、彼は次のように云った。「双方とも、軽装備と呼びうるものを組織しました。南朝鮮の国境警備隊は正規の警察よりはいくらか強力で、当然、国境を警備していましたが、正規軍には比較すべくもありませんでした。私の記憶によれば、北朝鮮軍の保安隊は、彼らの云う四個旅団に組織されていました。そして、この旅団は、その強さに於ては北朝鮮の正規軍と同じくらいでした。しかし、北朝鮮側が38度線に沿って配置した保安隊の背後では、新しい軍隊が組織されていました。この軍隊は慎重に組織され、おそらく鴨緑江(アムノツカム)の北方で──多分、満洲で慎重に訓練されていました。要するに、北朝鮮軍は38度線から遥かに離れた遠い所に配置されていたのです。それは防衛のための配置であって、攻撃のための配置ではありませんでした」
 これは不思議な証言である。北朝鮮軍は攻撃のための配置をしていなかった、とマッカーサーは証言する。これは彼が罷免になってからの言葉だが、アメリカが国連に持出した際に説明した北朝鮮の侵略は、この言葉でどう説明できるのであろうか。ストーンもこのことについて「何故、北朝鮮側は完全に準備が出来てから侵略を始めなかったのか。その理由は、おそらくウイロビー少将が説明してくれるだろう」と書いている。
 それは、それから1年後になってウイロビーが「いわゆる北朝鮮軍全軍は、数週間に亙り待機の態勢にあり、38度線に沿っていつでも行動に出られる準備を整えていた」と述べたことに照応する。また、アチソンが米国諜報機関の能力について上院議員に質問されたとき、「私は諜報上の失敗があったとは思われない」と述べ、6月25日以前に提出された北朝鮮軍の企図に関する諜報の実例とした二つの報告は、これまでかなり言及されている。その一つは、米極東軍司令官の綜合週間情報で、それは、1950年3月10日に、「北朝鮮人民軍は1960年6月に南朝鮮を侵略開始の予定、との報告に接した」と云っている。米極東軍司令官とは、もちろんマッカーサーである。また、韓国が北朝鮮と戦った場合、米国はどこまで支持してくれるかという問題について、米上院外交委員長コナリーがワシントンの有力な週刊誌に与えたインタビューは、東京の英字紙『日本タイムス』に5月3日転載されたが、その見出しは「コナリー、共産軍が米軍を南朝鮮から追い出すと予言」と大きく掲げている。
 マッカーサーがどのような言葉を隠していても、南朝鮮が北朝鮮に仕掛けるかもしれない警報は、頻々と米側に補足されていたのである。「米情報機関はよくやった」と賞められたヒレンケッター海軍少将は、CIAの二代目の親分だったが(この年10月、彼は更迭されている。その後に有名なアレン・ダレスが就任した)、まさにワシントンの情報機関は知っていたのである。もちろん、東京のG2もこれを知っていた。ワシントンよりも東京の情報機関が朝鮮により多くの情報網を置いていたことは、その地理的関係からいっても、現地軍の直接影響からいっても、想像に難くない。朝鮮における情報が直接ワシントンに行った場合もあったに違いないが、それよりも多くの場合、東京からの情報が中継されたと考えるのは妥当であろう。公式、非公式の各種記録が示すように、G2は比類なき情報網を持ち、謀略機関としては第一級を誇っていた。その中には、CICや、独立したキャノン機関や、Y機関などと呼ばれるものが存在し、専門に、中国、北朝鮮、ソ連情報に数十億円の巨費とあらゆる機能を投入して接触していたし、各種の暗号や通信書簡までも極秘裏に捕捉していた。
 しかも、これほどの態勢にあり、「不意打ち」を喰らった印象を与え、アメリカ本国でも上院外交委員会が騒いだのは何故であろうか。また、ガンサーが日曜日に日光に見物に行くほどGHQの空気がのんびりしていたのは何故であろうか。ここで、一つの犯罪を企む犯人はつねにアリバイを工作することを、何んとなく連想するのである。アメリカ軍が韓国軍を38度線の前面に置いて、あくまでも一方的な防衛態勢で、北朝鮮軍の攻撃を予知できなかったと主張することが、この場合アリバイなのである。
 国連の現地視察員が、「韓国軍が侵略を目的とする作戦は不可能である」旨の報告書を国連安全保障理事会に書いたのが、戦闘開始の前日6月24日で、これはアメリカにとっても極めて好都合なアリバイとなった。

 

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帝銀事件と米軍(GHQ)と731部隊

2023年04月10日 | 国際・政治

 帝銀事件は、1948年に東京都豊島区の帝国銀行(現在の三井住友銀行)椎名町支店で、行員ら12名が毒殺され現金と小切手が奪われた銀行強盗殺人事件ですが、「日本の黒い霧」(文春文庫)の著者松本清張は、膨大な資料を集め、緻密な分析を重ねて、その恐るべき真実を暴いています。

 私は、日本人が忘れてはならない、戦後日本の重大事件の一つだと思います。 
 下記は、同書の一部抜粋です。
 「8」は当時の捜査当局が、全国の警察署にあてた「帝銀事件捜査要綱」で、「9」は、捜査の過程で、それに追加されたものです。犯人が旧軍関係者、特に石井部隊(731部隊)の関係者である可能性があることを考慮していたことが分かります。
 だから、捜査当局の手が、石井部隊関係者を抱きこんで進めているアメリカの最高秘密作戦に及ぶことを恐れ、GHQが手を回し、その回避のために動いたということです。捜査当局が全国の警察署にあてた「帝銀事件捜査要綱」に基づく全国的捜査で、警視庁は、犯人に迫っていたのです。だからGHQは、「帝銀事件捜査要綱」に基く捜査の打切りに動き、毒殺に使われたと思われる「ニトリール」のニの字も知らない平沢貞通画伯が犯人されてしまったのだと思います。
 こういう犯罪は、関係者が謝罪や反省をしない限り、現在につながる犯罪であり、忘れられてはならないと思います。だから、こうした犯罪を踏まえて、ウクライナ戦争や台湾有事をとらえる必要があると思うのです。

  先日(4月6日)アメリカのブリンケン国務長官が、独メディアのインタビューで、”一部の人にとって、停戦というアイデアは魅力的に見えるかもしれない。私もそれを理解している。だが、もしそれが、ロシアがウクライナの領土の大部分を掌握するということを事実上認めるのと同然となるのであれば、それは公正で永続的な平和とはいえないだろう”などと述べたことが、報道されました。
 同時に、国家安全保障会議(NSC)のジョン・カービー戦略広報調整官もまた、ウクライナ危機を現時点で停戦に持ち込むことはロシアによる新たな領土の獲得を確定することとなり、国連憲章の違反につながるということで、アメリカは、”現時点での停戦に反対する”と表明したことも伝えられました。
 さらに、ゼレンスキー大統領は、G20のサミットで、”「ミンスク3」(新たな停戦合意)はありえない”と、コメントしたといいます。
 こうした主張は、誰が戦争を欲しているかを示していると思います。


 最も大事なのは、領土ではなく人命であり、先ず、殺し合いを止めることなのに、停戦・和解の話が進まないのは、それが、アメリカの覇権や利益の維持ではなく、逆に、喪失につながるからだ、と私は思います。アメリカは、覇権や利益の維持や拡大のためには、人命が失われることを厭わないのです。
 日本の主要メディアは、毎日のようにウクライナの人たちの悲劇的な様子や、ウクライナの人たちに対する同情をさそうような報道を続けていますが、それが、停戦・和解の話に向かう様子はありません。アメリカの戦略に沿うかたちで、悪いのはロシアだという方向に向かっていると思います。

 帝銀事件は、戦後三大ミステリ事件といわれる「下山事件」や「松川事件」、「三鷹事件」などと少し趣を異にしますが、アメリカの謀略であることは間違いないと思います。

 だから、無実の平沢貞通が罪に陥れられた事実は、忘れられてはならない、と私は思います。
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                        帝銀事件の謎
    8
 ここで、私は捜査当局が、全国の警察署にあてた「帝銀事件捜査要綱」を書いておくことにする。これを読むと、捜査当局が考えていた、最初の帝銀犯人のイメージがどのようなものであったか、はっきりすると思う。

   刑捜一第153号の6。昭和23年2月7日。
                                 刑事部長」
「帝銀毒殺事件捜査要綱一括指示の件
 帝銀毒殺事件については、数次の指示に基き、鋭意捜査中のことと信ずるも、更に認識を深め、捜査の徹底を期するため、左に捜査要綱を一括し一部を付加した。
一、都庁、区役所の衛生課、防疫課(係)、各保健所、病院、医師、薬剤師、その他医療、防疫関係者で、松井蔚または山口二郎の名刺を受けた者がいないかを調査すること。
ニ、次の者から更に似寄人相者を物色すること。
① 医師、歯科医師、獣医師、生命保険会社保険医師、薬剤師、または各種医学、化学、薬学研究所研究員及び学校の先生、生徒、薬品製造人、または販売会社、もしくは薬品のブローカーに従事し、またはその経験のある者。
② 進駐軍の通訳、事務員、雑役などに従事し、またはその前歴のある者。
③ 銀行員、またはその経験のある者。
④ 水害地の防疫に従事したる者。
⑤ 引揚者、または帰還将兵中、医療の心得のある者
⑥ 病院、医院、薬局等より青酸塩類を入手し、またはせんとしたる者、または職務上これらを扱う者、並びにこれらの工場、製作所に出入りする者」
 これらの捜査要綱や指針はたびたび出されているが、更に捜査当局はこれらの事件を検討して、その「共通点」を発見している。それは、次のような通告である。
「右三件を検討すると、左の諸点と一致し、同一犯人の所為と推断された。
一、犯行の場所。  三件とも都心を離れた焼け残りの住宅、または商店街にある小規模の銀行である。
ニ、犯罪の日時。第1回は火曜日、2回、3回は月曜日を選んだ。月曜日は、前日が休日の関係から銀行取引が多いので、犯人はそこを狙ったのではないかと考えられる。時は、いずれも閉店後の残務整理中で、これは一般人の出入りもないし、現金も比較的多い時で、犯行の好機であった。
三、犯人の扮装。  表面丸出しであるが、いずれも左腕に、東京都防疫班、消毒班等と毛筆で達筆に墨書し、東京都マーク、または角印を捺した白布腕章を付け、相手を信じさせようと図った。
四、職権を肩書した名刺の使用。 前述の厚生省技官の肩書がある松井蔚及び山口二郎の名刺を使用し、相手を信じさせた。
五、犯人の言動の一致点。  (A)自分は水害地の防疫から帰って来た。。 (B)銀行付近に集団赤痢が発生した。 (C)進駐軍に報告され、パーカー、マーカー、ホーネット、コートレー中尉の命により消毒班が自動車で来た。 (D)患者を調べると、同家の者が今日、この銀行に金を持って来たことが分かった。(E)それゆえ、この銀行の一切のものを消毒せねばならぬ。(F)消毒班がやってくるから、すべてのものはそのままにしておくように。(G)今日、現送があったか。(H)消毒班が来る前にみな予防薬を飲んでもらわねばならぬ。(I)薬は二種類を、最初飲んでから一分後に第二を飲まねばならぬ。(J)薬が歯に触れると琺瑯質を害するから、こうして飲むのだ。(K)犯人が各自の茶碗を集めさせて、スポイト様のもので、所持の薬瓶から薬液を注ぎ、犯人自身その一つを取り範を示した」
 ところが、帝銀事件が起って犠牲者の57日目を迎え、巷間には、この捜査の迷宮入りが伝えられて来たのである。捜査当局は「資料潤沢」のこの事件にその懸念はないと、本部や各署を督励している。そして、この頃から「軍関係」が見えてくるのだ。

   9
  「刑捜一第154号の9 昭和23年3月22日。
                               刑事部長」
「帝銀毒殺事件については、全国官民の絶大なる協援を得て、57日間に亙る継続捜査を推進して来たが、未だ犯人に対する決定的資料を掴む域に達しない。巷間伝うるところによれば、本捜査はすでに行詰りに達し、係員岐路に迷う、の説をなす者あるやに聞くが、およそ本件の如くに資料潤沢にして滋味豊かな事案に対し、僅か数旬の捜査をもって悲観的観測を下すが如きは、断じて首肯しえない」
 と鼓舞し、捜査要綱を新たに左のように加えた。
「(一)、薬学、または理科学系学歴、もしくは職歴、知識、技能、経験のある者より容疑者を物色すること。
(ニ)軍関係薬品取扱特殊学校、同研究所及びこれに付随する教導隊、または防疫給水隊、もしくは憲兵、特務機関に従属する前歴を有する者(主として将校級)より容疑者の物色」
 これが6月25日になると、捜査はいよいよ追込状態となった。…
 ・・・
 ところが、この6月25日付の指示から二月半ほどした9月14日付の刑捜一第887号は、「平沢貞通に対する捜査資料蒐集についての指示」となり、局面は平沢画伯の登場となるのだ。
 即ち、平沢に対する逮捕状が出たのが8月10日で、平沢が北海道の小樽で逮捕されて東京に着いたのが、帝銀事件が発生して210日目であった。

    17 
 ジープといえば帝銀椎名町支店の近所にある相田小太郎方に来ていたジープも、もっと研究する必要があるのではないか。このジープは、相田宅に疑似発疹チフスが起って、その消毒に都の衛星課員が進駐軍軍人と来たものだが、そのチフスは集団発生ではなかった。平沢がこのジープを見たという自供は時間的に合わないという弁護人側の主張は別にしても、ただ一軒に伝染病が発生したからといって、わざわざ進駐軍の軍人が来るものだろうか。そんなことは都の衛星課員に任してよかったのではないか。しかも、それに同乗して来たのは、アーレンという軍曹だった。
 それが、例えば、上野の地下道に浮浪者が屯(タムロ)していてDDTを撒布する、といった大仕掛けの消毒ならともかく、一個人の家に発生したというだけで、進駐軍の軍曹がわざわざやって来たという事実は、もっと考究されてよいと思う。
 更に、犯人が口にしたというパーカーとコーネットの両中尉は、帝銀捜査が旧軍人関係に指向されていた頃、帰国転属になっているのだ。前にも述べたように、犯人は、偶然にこの両中尉の名前を口にしたとは思えない。犯人と、この防疫係の両中尉とは、それが直接的でないにせよ、何等かの関係はあったと思う。だから、両中尉の周辺から洗ってゆけば、或は真犯人に到達する可能性はあったかも知れない。ところが、何ゆえか、防疫担当のこの両中尉は転属を命ぜられて、日本から去ってしまった。
 帰国と云えば、平沢のアリバイに関係のあるエリーと云う軍人も同じように転属になっている。
 当時平沢の次女は、このエリーと親密であったが、1月26日(帝銀事件の日)、エリーは中野の平沢宅に遊びに来ていたが、ボストンバックにタドンを入れた平沢の帰宅をその日の夕方迎えている。このことが証言されると、平沢が帝銀に行く筈のないアリバイが証明されるのだが。
 エリーの勤務表を調べてみると、1月26日は、確かに公休になっていた。だから、エリーが遊びに来たのは、日付に思い違いはないのである。ところが、このエリーも、平沢が逮捕されてからすぐに、本国へ転勤となっている。エリーの証言を日本で得る機会は、それで無くなってしまった。
 そこで、弁護人側は、アメリカにいるエリーの国際公証を申請したのだが、裁判所は、これを却下している。このエリーの帰国も、前に述べたパ-カー、コーネット両中尉の転属と、どこか同じような狙いが感じられるのである。
 それなら、私の想像による犯人は、GHQのどのようなところに所属していたであろうか。
 それは、三つの仮説がたてられる。
 ① 犯人は、現役のG3(作戦部)所属機関の極秘石井グループの正式メンバーであった。
 ② 関係は皆無とは云えないが、上級グループではなく、また、戦後の秘密作業(細菌戦術)の進行には直接タッチしていなかった。
 ③ 曾ての第731部隊(関東軍防疫給水部、石井部隊)か、または第100部隊(関東軍軍馬防疫廠)に所属した中堅メンバーであり、ニトリールのような毒物の存在を知り、かつ、それを使用しうる立場にあったが、戦後の秘密作業は知っていたものの、関係は公的にはなかった。
 という三つの仮説である。
 その内、実際に考えられやすいのは、第三のケースだが、この方面の警視庁の洗いに対し、GHQやG2のCIC、またはPSD(CIEの世論・社会調査課)が、日本側にある種のサジェスチョンを行った、という想像は空想ではないと思う。
 実際、警視庁は、最初の捜査要綱に基いて、本格的に軍関係方面にむかって捜査を行っていたのだし、事実、警視庁本来の実力をもってすれば、遠からず真犯人の身辺近いところに進み得たであろう。しかし、この犯人が分かることは、同時に、現在進行中のG3直属の秘密作業を日本側に知らせることになるので、この捜査方針の切換えの必要を米側は切実に感じたであろう。そこで、捜査要綱に基く本筋捜査の打切りにGHQが大きく動き出した、というのが想像に泛ぶ状況である。
 当時、日本の北や南の涯、或は日本海の沿岸の、しがない開業医や、また医者をしていた者でもその前歴者には、警察機関の内偵が進んでいたのである。
 GHQが、犯人の身辺に捜査の手を伸ばしてもらいたくない理由は、GHQのセクション(作戦参謀部)の、最高44444秘密作戦の一つであるCBR計画のC項(細菌)における石井作業の完全秘匿にあったと思う。この作業内容が日本警察の捜査によって暴露すると、甚だ困ったことになるからだ。
 もし、その存在が少しでも漏れたら、忽ちそれは新聞、報道関係、特に東京駐在のUPやAPなどによって世界に打電される危険があった。実際、その頃、GHQとしては、前代未聞のこの残虐行為を早く解決すべしという慫慂ではあったが、実の肝は、捜査の手が軍部に伸びない前に、何でもよいから早く「犯人」が検挙されることを望んでいたのではあるまいか。
 恰も、そこに、警視庁主流派からは冷眼視されていた居木井名刺班が、北海道から平沢忠通を捕まえて来たのである。もともと、コルサコフ氏病にかかって精神に錯乱を来していた気味の彼は、検事の取調べに対して、それでも30日間の抵抗を試みたが、遂に半分発狂状態になって落ちてしまった。GHQとしては、最も望むべき事態に解決が向かったのである。
 更にGHQに幸いしたことは、この平沢貞通に日本堂詐欺事件の過去があって、そのために、人権問題まで起していた平沢に対する世間の同情が急激に黒説の印象に変わったことであろう。ここで再度云う。詐欺と殺人とは全く異った犯罪質なのである。それを犯罪前歴者という概念のもとに状況が作られ、平沢貞通は敗北したのであった。

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覇権や利益の維持・拡大目的で謀略をくり返すアメリカ、下山事件

2023年04月07日 | 国際・政治

 「日本の黒い霧」(文春文庫)の著者松本清張は、同書で、下山事件に関して集めた様々な情報を基に、下山国鉄総裁が、GHQの組織、参謀第二部(G2)の謀略によって殺害されたことを論証しています。
 GHQ民政局(GS)の民主化政策で、”強大となった日本の急進労働運動もなんとかして食い止めなければならない”ということで、G2が下山総裁を拉致し殺害した上、その死体を線路上に横たえたという事実を、さまざまな証拠をあげて明らかにしているのです。
 下記に抜萃したのは、「下山国鉄総裁謀殺論」で、下山事件の背景や殺害の動機を中心に論じている部分です。
 下山総裁が行方不明になった経緯、轢死体や身に着けていたものの状況、また、列車の運行状況、下山事件の不自然な捜査の打ち切りなどを、下記のような背景や動機と考え合わせると、下山事件がG2による謀略であったことは間違いないと思います。
 そして、下山事件を契機に、”三鷹事件、横浜人民電車事件、平事件、松川事件などが相次いで”起って、民政局(GS)による日本の民主化は頓挫し、「逆コース」が始まったということです。
 その結果日本は、今もなお、アメリカの属国のような状態にあると言えるように思います。
  
 だから私は、アメリカという国が自国の覇権と利益のためにこういう謀略をくり返してきたことを踏まえて、ウクライナ戦争を理解し、台湾有事の可能性を考える必要があると思うのです。
 現在をよりよく理解するために、歴史を学ぶのだと思います。下山事件からも学ぶべきことがあると思うのです。

 でも、日本の主要メディアは、アメリカによる国外はもちろん、国内の謀略の数々にさえ目をつぶり、現在もなお、アメリカからの情報を何の検証もなく報じていることを見逃すことができません。

 現在アメリカは、自国の覇権と利益を維持するために、ロシアや中国を弱体化しなければならない状況にあるのだと思います。台湾の人たちの多くが、現状維持を望んでいるのに、アメリカはく繰り返し台湾に武器を売却し、政府や軍の要人が蔡英文総裁などに接触して、中国を挑発しているように思います。あたかも、台湾が中国によって武力統一されるかのような報道は、いかがなものかと思います。アメリカが台湾に武器を売却したりして、台湾独立を支援するような挑発をしなければ、中国は台湾を武力統一することなどないと思います。

 陸自のヘリが、宮古島沖で消息不明となり、機体の一部など発見されたという報道が続いていますが、私は、近々アメリカが日本の自衛隊機を撃墜するなどして、中国軍機が撃墜したというような偽情報を流すのではないか、というような不安さえ覚えるのです。
 kla.tvなどの情報から、ウクライナおける「ブチャの虐殺」も、ロシアを陥れるためのアメリカとウクライナの「謀略」の可能性があると思っています。
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                   下山国鉄総裁謀殺論

     5
 ・・・
 占領軍が日本を支配して以来いちばん心を砕いたのは共産党勢力であった。日本におけるGHQの歴史はこの対共産党の治安工作にかかっていると云っても過言でない。マッカーサーが日本に上陸して以来最初に手を着けたのは、日本に温存されているところの旧軍閥系、右翼系統、右翼的財閥の潜勢力を徹底的に破壊することであった。そして、これらを一掃した後アメリカ的な統治の仕方を敷こうというのが狙いだった。これら国家主義を日本から一掃するために民主化という美しい名前で戦前の秩序体制を破壊し始めて、活動したのがGSである。
 周知のように、GSの局長代理ケージスは絶大な権力をふるって旧秩序を崩壊させ、共産党の勢力を利用しようとした。そのため、終戦まで非合法政党であり、幹部は地下にもぐらざるを得なかった日本共産党が俄かに台頭して、1949年には国会に35名の共産党代議士を送るという進出振りとなった。この頃は共産党勢力の全盛期であって、”革命近し”の声が叫ばれたのである。
 ところが、このGSの政策に対して猛烈に反撃したのがG2で、その先頭にたったのが局長ウィロビー少将である。
 下山事件の起る昭和24年の初め頃から次第に劣勢であったG2はGSに巻き返しを行い、ケージスやダイクの追放を謀略によって図るようになった。このことをもっと詳しく述べたいが、ここには余裕がない。ただ、GHQの中にあるG2とGSとの主導権をめぐる激しい闘いが、下山事件の或る背景となっていると云いたい。 
 G2にしてもGSにしても、それぞれの諜報機関、或は情報機関を日本側行政部の各層にばら撒いていたらしい。警視庁がケージスのスキャンダル摘発のため、彼の行動を尾行させ、ケージスにねじ込まれると、斎藤昇は苦しい言い訳をして糊塗したが、その誤魔化しを、後で一々ケージスに指摘されて、参った話は彼の回想録に書いてある。そして、これによっても警視庁内部に、G2側とGS側との派閥争いがあり、それぞれの筋に忠誠を尽くす一方、互いに追い落としを策し合っていたことは日本官僚の特性としてさして驚くに当らない。
 とにかくこのような情勢の中で初めて国鉄総裁が選ばれなければならなかった。初めこの総裁候補としては、鉄道大臣であった村上義一に交渉がなされた。しかし、白書にもある通り、同人はこれを断った。GHQの意向としては、初代総裁には特別な任務を付さなければならないと考えていたが、その任務とは、日本における最大の労働組合である国鉄労組と対決して大量の首切りを完成させるということであった。従ってその選ばれた初代総裁全く政治的立場を取らない白紙の人間が好ましかったに違いない。数人の候補者が挙げられた。そのいずれもがいわゆる札付きであったり、紐つきであったりして、G2及びGSともこれらに難色があった。従って技術畑出身であり政治的立場の無い運輸次官である下山定則が総裁に選ばれる結果となったのである。
 困難な初代総裁の立場を考えるなら、下山はGHQに、或は、吉田内閣に相当な条件を付さなければ
ならなかった。また実際その条件を出そうという気配が下山にあったのである。ところが「白書」にもある通り、彼は遂に条件を出さなかった。国警長官斎藤昇が長官就任にあたって条件を提出した事情と比較するならば、政治的事情に疎い、或は正直者である下山はまことに就任時からうかつであったと云わねばならない。これが遠い原因となって、自ら破滅を招いたのである。
 ここでその総裁選考の事実上の裁定官であった輸送担当のシャグノンについて少しく書いてみたい。
 シャグノンは確かに教養の低い男であった。しかし、この米国における地方の一鉄道会社の社員は、GHQに在ると絶対の権力をふるった。もちろんシャグノンはCTSの担当官にすぎないので、彼がそのような権力を持つのは不思議だが、実は彼のバックにG2局長のウィロビー少将が控えていたのである。
 シャグノンは初めGSのホイットニー側であったと考えられるフシがある。しかし、どういうわけか途中でG2の方に彼はついたのである。シャグノンがG2の味方であったということから考えると、下山事件も半分は判ってくるような気がする。
 シャグノンとしては二つの任務があった。一つはG2の意向に従っての対ソ戦時輸送の計画であり、一つは、国鉄労組における急進分子の追放であった。いわば外には社会主義国との対決と、国内的には、共産党関係との対決であった。この後者の場合は、GHQが占領直後に自ら蒔いた種を、自ら刈る結果と云ってもおかしくない。なんとなれば、日本支配以来、軍国主義の払拭に、方便として用いた共産党育成方針が思わぬ成果を上げ、日本のあらゆる分野において共産党、またはその同調者が急増したからである。各産業方面においても急進的な労働組合が多くなり、2・1スト以来、彼等の云う「革命」も、あながち夢ではないと思われるくらいの情勢になった。殊に、従来比較的穏健と云われた国鉄労組が急激に尖鋭化しつつあったのである。
 この思わぬ「成果」にGHQ自身が愕然となった。わが手で創ったものが意外な魔性に変わろうとしている。今のうちに何とかせねばならぬ。ここで、マッカーサーの政策は社会主義国(ソ連・中国)
との対決には、G2の線に一本化されねばならないと変わるようになった。既に強大となった日本の急進労働運動もなんとかして食い止めなければならない。更に日本のあらゆる機関を一朝有事の態勢に持って行かねばならない。そのためには、自分の手で育成した日本の民主的な空気を至急方向転換させる必要がある。それには、日本国民の前に赤を恐れるような衝撃的な事件を誘発して見せる、或は創造する必要があった。マッカーサーの支持を得たGHQの参謀第二部はそう考えたであろう。
 7月5日の下山事件を契機として、三鷹事件、横浜人民電車事件、平事件、松川事件などが相次いで起ってのち、G2がGSとの闘争に勝ち、GSの実力者ケージスが本国に送り返され、GHQがその全機能をあげて右旋回に一本化した事実を思い合わせると、G2部長ウィロビーの考えが分かってくるのである。
 従ってこのような考えを持ち実行に移すにはここに謀略が必要であった。G2にはCIC(対敵諜報部隊:Counter Intelligence Corps)という強力な情報機関がある。ウィロビーはこれを全国的に動かしたに違いない。従ってシャグノンもこのCIC関係を利用し、決戦の迫りつつあった対国鉄労組の作戦に利用したと思われる。
 日本各地のCIC機関はこのG2キャップの線に沿って活動した。その情報は事細かにウィロビーに報告されたであろう。情報は只単に日本政府の高官や幹部官僚の個人的な動静のみならず、自国人のGHQ要人にまで及んでいたのである。シャグノンもまた、このCICの情報ネットの中に身を縛られていたのである。
 従ってシャグノンは下山が国鉄総裁候補になると、情報機関から下山がどのような経歴を持ち、どのような友人を持ち、どのような政党と関係があるか、或は後援者は誰であるかを悉く知らされていたに違いない。そして初めて下山の総裁就任をOKしたのであった。

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ウクライナ軍支援は、人殺し支援

2023年04月04日 | 国際・政治

 昨年4月、南太平洋のソロモンが中国と安全保障協定を結んだことが発表されました。アメリカは、すぐに反応し、その安全保障協定は「深刻なリスク」であるとして、日米豪ニュージーランドなどに、懸念の共有を促しつつ、ソロモン諸島に政府要人や軍の高官をくり返し送り込んで、圧力をかけたようでした。
 でもソロモン政府は協定に関して、「中国が軍事基地を建設すること」を認めたわけではないとして、「深刻なリスク」にはならないと語り、中国との関係強化の方針を変えませんでした。

 それを受けて、バイデン政権は、中国による南太平洋への浸透に対し、「インド太平洋戦略」で同地域への関与を強化する方針を鮮明にし、ソロモンには米大使館を開設する計画を発表しました。
 でも先月、こんどは中米のホンジュラスが、中国と国交を樹立し、80年以上続いていた台湾との断交が発表されました。
 2017年にはパナマ、2019年にはキリバスが台湾と断交し、中国と国交を樹立しています。どんどんアメリカ離れが進んでいるということだと思います。なぜなのか、考えるべきだと思います。

 また、南米のアルゼンチンや中東のイランが、ブラジル(Brazil)、ロシア(Russia)、インド(India)、中国(China)、南アフリカ(South Africa)の5カ国で構成するブリックス(BRICS)に加盟を申請するということも発表されています。
 さらに先日、サウジアラビアが、中国の仲介で、最近まで深刻な対立を続けてきたイランとの国交を再開したことも、国際社会の大きな変化を意味するものとして見逃せないと思います。

 そして昨日、石油輸出国機構(OPEC)とロシアなど非加盟産油国で構成する「OPECプラス」が、”日量約116万バレルの追加減産を行うと発表した”と、ロイター発のニュースが伝えました。減産は、エネルギー不足に悩む西側諸国にとって大きな打撃であり、アメリカの国家安全保障会議の報道官が、早速、”市場の不透明感を踏まえると、現時点で減産は望ましくないと考えており、われわれはそのことを明確にしている”などと、暗に取り消しを要求しています。
 でも、世界最大の軍事力をもち、世界最大の経済力を誇るアメリカでさえ、いままでのようなわけにはいかないことを示しているのだろうと思います。
 最近、中国の成長が著しく、反米・非米の国々が、中国を中心に結束を強めているために、アメリカの戦略が通用しなくなってきているのではないかと思います

 だから私は、分断支配を続けてきたアメリカの覇権体制が崩れ、世界が大きく変わり始めているように思います。そしてそれは、私には、かつて植民地支配をした国とされた国、かつて武力介入をした国とされた国、かつて搾取や収奪をした国とされた国などに二分され、力関係が逆転していく過程のようにも見えます。多くの国が長く欧米の支配、また、欧米の搾取や収奪に苦しめられてきた結果のように思います。

 そして、見逃してはならないと思うのは、主要な産油国や天然ガス産出国が、中国やロシア、あるいは反米的ないし非米的なブリックスや上海協力機構との結束を強めていることです。
 逆に 深刻なエネルギー不足に直面している西側諸国は、ウクライナ戦争の停戦・和解ではなく、相変わらずウクライナ軍支援を続けていますが、さまざまな国内問題が噴出し、結束が崩れつつあるのではないかと思います。


 日本も、アメリカとの同盟関係の強化にばかり力を入れて、軍事費を増額させ、中国やロシア敵視を続ければ、働く人たちの給与が上がらないにもかかわらず、物価がどんどん上がり、国民が一層窮乏化することは目に見えていると思います。
 先日、会計検査院が、新型コロナウィルスの接種事業に関し、8億8200万回分のワクチンが購入され、その内使用されたのは3億8308万回であるということで、莫大な税金が無駄になりかねないことを指摘しました。それは、このワクチンが、アメリカの会社のものであったからだと、私は思います。他の国からの輸入であれば、何兆円も無駄にするような購入は決してしなかったと思います。 
 日本の富は、あらゆる領域で、また、さまざまかたちで、どんどんアメリカに流れるシステムになっているように思うのです。

 だから、ウクライナ軍支援も、中露敵視も、アメリカの覇権や利益維持のための戦略であることを踏まえ対処すべきだと思います。
 停戦・和解ではなく、ウクライナ軍を支援して、戦争を継続させることは、人命軽視であり、人権無視であると思います。日本国憲法や国連憲章、ユネスコ憲章の精神にも反することだと思います。ウクライナ軍支援は、人殺し支援であり、やってはいけないことだと思います。
 法や道義・道徳を尊重するという意味でも、また、国民生活を維持向上させるという実利的な意味でも、中露敵視、アメリカ追随は誤りだと思います。ウクライナ軍支援は断り、とにかく停戦に尽力するべきだ思います。その後、和解の話し合いをすればよいのです。
 そして日本も、できるだけ早く、残酷な戦争をくり返してきたアメリカの影響下から脱することを考えるべきだと思います。ソロモンやホンジュラスに学んで。

 

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日本の戦後三大事件が示すアメリカの野蛮

2023年04月02日 | 国際・政治

 日本の戦後三大事件は、日本に転機をもたらした重大な謀略事件だと思います。
 戦後の日本が、事実上アメリカの植民地のごとき状況に置かれことになったのは、アメリカの占領政策の転換、いわゆる「
逆コース」の結果であることを、私は、いろいろな著書で学んでいますが、今回取り上げるのは、「松川事件・真実の証明」高田光子(八朔社)のなかの、「第七章 真犯人を追う」です。

 著者は、「
はじめに」で、”戦後50年、敗戦から曲折をへて現代へ…。いま、私たちはこの松川事件の闘いの足跡から、人間の真実と正義の叫びを多くの若者に引き継いでいくべきではないだろうか”と書いています。
 戦後三大事件といわれる
下山事件、三鷹事件、松川事件(その他にもいくつかの事件があったようですが)は、日本の戦争指導層を抱き込んだアメリカが、日本を共産主義の防波堤「反共の砦」にするために画策した事件であったということを、忘れてはならないというです。 

 戦後、日本を占領したGHQは、決して一枚岩ではなく、占領初期から二つの勢力が対立していたといいます。その一つは、日本を民主国家に再生させようとする勢力で、その中心は占領政策を担当したケーディス大佐を中心とする
民政局(GS)です。彼らは戦争指導層を一掃し、日本を民主化するために公職追放などの政策を進めたのです。

 でも、ソ連をはじめとする社会主義勢力の拡大を恐れる
参謀部(G2)は、民政局の非軍事化・民主化政策が日本を弱体化させ、ソ連の介入を招くとして反対していたといいます。そして、戦後の日本を左右する重大な決断が下され、結局、アメリカは占領政策を転換し、「公職追放を解除」して「逆コース」といわれる政策を進めたのです。
 でも、「
逆コース」の政策を進めるのは簡単ではなく、そのために必要だったのが、戦後三大事件をはじめとする、残虐事件だったということです。
 それは、下記の抜粋文に出てくるいろいろな事実が示していると思います。

 先月末、アメリカの
バイデン大統領は、およそ120の国や地域の首脳を招いて「民主主義サミット」を開き、結束を呼びかけました。でも、それは、中国やロシアを専制主義として敵視するもので、民主主義の基本である「話し合い」を呼びかけるものではありませんでした。
 だから、国際社会におけるアメリカの政策は、いつもアメリカの覇権と利益を守るためのものであり、敵対的であって、民主的でないことを知る必要があると思います。実態は「 非民主主義サミット」と言ってもいいのではないかと思います。
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                      第七章 真犯人を追う

1 その夜口笛を聞いた──平田福太郎老人

 作家の松本清張は、真犯人追及の大胆な推論を『文藝春秋』(昭和3510月号)に発表した。この推論のなかで「松川事件関係者は、単なる想像が裁判に悪い影響を与えてはならないという用心深さから、そのことを云っても単にアメリカ軍関係者を暗示する程度に表現している」と、第三者としての率直な意見を投げかけた。

 最高裁は差戻しの判決なのだから、真犯人の追及はまぬがれない。真犯人はどこかにいる……。そのとき、松本清張は世評を先どりするかたちで推論を投げかけたのであろう。

 私は調査のとき法政大学大原社会問題研究所で次の資料をみつけた。もう一度、ここで昭和24817日午前39分(当時夏時間によるもの、実際は29分)金谷川~松川間で機関車が脱線転覆し、続く数車輛も脱線し機関士石田正三ほか機関助手2名が惨死したという、あの松川事件の発端となった、あの日のときにタイム・スリップしてみよう。

 事件当夜より13日後に『朝日新聞』は、次のような証言を報じている。

口笛を聞けども姿は見ず”

 物乞い老人から情報を提供──

「東北線事件(註 当時はこう呼んでいた)の捜査は持久態勢に入り基本的調査の範囲を出ないが、27日犯人の足取りを裏づける有力な情報提供があり、捜査本部でもこれを確認した。提供者は現場近く金谷川村薬師堂に住む物ごいの老人平田福太郎(72)。

 その話では、事件当夜用便に外へ出ると薬師堂から30メートルぐらい下の線路近くで鋭い口笛の音を二回聞いた。間もなく412列車が通りすぎ尾燈を見送っているうち、突然大きな音と地響きを感じ、ランプが見えなくなった。おかしいと思ったが、その後何の音もしなかったので寝てしまった。口笛は夜遊びの青年たちと思って気にもしなかったが、あとで考えると仲間を呼ぶときとか注意するときの合図のような感じだった。足音も聞かず姿も見なかった。なお犯人の足取りを追っている捜査官は平田の情報より先に捜査はのびていないと語っている」(『朝日新聞』1949830日付)

 このことは、二人の巡査、倉持敏雄、三村秀雄巡査によって捜査復命書がより詳しく報告されていた。

 それによると「その口笛は村の若い連中が夜遊びに行ってニ、三人で帰るところで遅れた者でも呼ぶような感じがしたが、別に不思議にも思わなかったです。……その口笛を聞いてから約10分か15分位して上りの列車が来たのです。……この前の細道は山を越えて松川の裏道に出るのですが、この辺に畑を作っている農家の人以外は誰も通らないところです。橋を渡って右に行くと踏切りより松川町の方へ約百メートル行った籠屋(金谷川村大字浅川字辻、石川政蔵)の前に出るが、その口笛を吹いた人はその道を行ったか、鉄道の沿線にそって踏切の方へ出たかは見たのではないからわかりません。

 さらに石川政蔵外四、五軒も捜査したが、いづれも半鐘によって事件を知ったので、人が通ったかどうかは全然わかりません」(筆者要約)

 と報告している。(吉原公一郎著『松川事件の真犯人ジョージ・クレーと九人の男』)

 

 その後、薬師堂は昼間の火事で焼失。その後平田老人は阿武隈川河畔の笹小屋に住んでいたが、1951年(昭和26年)9月に郡山養老院に入り、1953年(昭和28年)に死亡した、と書かれている。

 作家の吉原公一郎は、鋭い口笛について、占領軍が親指と人さし指で輪をつくり、口にくわえて鳴らす鋭い口笛をよく見かけたものだ。口笛の音はまさにそんな音であったという。それは真犯人たちが転覆確認、引揚げの合図に鳴らしたものであったかもしれない、と結んでいる。

 この推論はうなづける。

 一人、または二人、三人ぐらいの破壊工作人であったら、口笛の必要はなかった。口笛を二回聞いたのは確かなのだから、それからすると数名の人たちがしらばって作業をしていたのではないか、と素人なりの推理はできる。また鋭い口笛が二回、ということは、通過する列車時刻が迫っているため、”さあ引揚げるぞ、もたもたするな!”の心理的なあせりがあったかもしれない。平田老人は口笛の音を遅れた人を呼ぶような感じがした、と証言している。いずれにせよ、真夜中の口笛だけが老人の耳に残された確かな証拠なのであった。

 平田老人は、これ以上のことは何も残していない。

事件よりはや50年になるいま、改めてそこから話が展開するとしたら、それは、真犯人の証言にゆだねることになるだろう。

 松川事件の陰の疑惑は、さらに深まる。

 もう一つの巷のうわさ、松川在(安達郡渋川村──現安達町)の斎藤金作は、松川事件の線路破壊を目撃した、と英文怪文書が各方面におくられ大きな話題をまいたのである。

 

   2 英文書「MUDER WILL OUT(殺人はばれる)」

 

1) 第一の英文書──1人寝の恐怖ドア─の陰の声 斎藤金作

「お手紙によりますと、あなたはK君の溺死について、それが過失だろうか、自殺だろうか、自殺ならば、それが何に原因しているだろう……と様々に思い悩んでいられるようであります……。」という書き出しで、K君の死因を、彼の日頃の言動と、死の時間を暦によって推し測りながら解説してゆくという風の短編を、若くして逝った梶井基次郎は残している。

 哀れなるかな、イカルスが幾人も来ては落っこちる そのような失敗を幾回となく繰り返したのち、ついに或る満月の夜、月の光にあふれた浜辺を、自分の足にまつわりつく影を追いながらさまよって歩き、月光の流れにさからいつつ、目指す月の方向へ昇って消えた『K君の昇天』のことである。

  (「 」は作家、梶井基次郎著「K君の昇天」『檸檬』──引用者熊谷達雄)

 

 この梶井基次郎は1925年(大正141月、小説『檸檬』を発表した若き作家であったが、この作家の作品のひとつを熊谷達雄は彼の著作「消えた人」(広津和郎編『松川事件のうちとそと』)の冒頭にもってきている。それはなぜだろうか。

 松川事件の裁判の闘争中に、福島県松川在の斎藤金作なる男の溺死体が横浜のクリーク(入江の支流)に浮いているのがみつかった。……上京して2ヶ月後、行方がわからなくなって、40日後に見つかったのである。検屍の結果、「心臓麻痺」と弟は聞かされた。……果たして、そうだったのだろうか。「この溺死は、過失か、自殺か、それとも他殺なのか、自殺ならばその原因は? 他殺ならばその要因は?」と、恐ろしい疑問をくりかえさなければならないことがおこった。

 すなわち、梶井基次郎の小説にあるような一人の男の死が、救援活動家の熊谷達雄の傍らにおきていたからであった。それは……

 1952年(昭和27611日消印、東京京橋局発送の英文タイプ三枚の文書が、東京都内の有識者、新聞社、主要な労働組合に配達されたときから始まった。(英文タイプの原文は、今や福島大学資料室にもなく松川事件対策委員会発行の『世にも不思議な松川事件』の小パンフレットに写真入りで載っているだけである。)

 

 そこで私は、この英文の概要を熊谷達雄の「消えた人」より引いてみることにする。

 この英文の大要によって、戦後日本の社会に起った数々の事件をあからさまに知ることができるからである。今より50年前のこと、戦争と占領の傷口が深くえぐられていた時代があったこと、その歴史的事件の陰にどす黒い陰謀があったことも、今を生きる人々は、その事実を知っておく必要があると思う。

 その意味で、ここにあえて英文の概要を載せることにした。

 それは、次の文章より始められている 

 

平沢貞通は帝国銀行椎名町支店の銀行員に伝染病予防ワクチンと称して得体のしれない毒薬をのませ、これを殺害した疑によって現在裁判に付されている。しかしこの事件の捜査にあたっていた警官、および高木検事や当時事件の報道に従事していた新聞記者の多くはこの兇悪な犯罪が、あるアメリカ人によって行われたことを知っている。

 銀行員中の唯一人の生存者田村マサ子は、最初、犯人が苦しみもがいている犠牲者の頭をこづきながら「ノ・スピーキング」といっているのを見たと証言した。

 警視庁は検屍の後、ある種の細菌がこの殺人に用いられたことを知り、軍医中将石井四郎が組織した有名な「細菌部隊」の全スタッフの捜査に乗り出した。この捜査が完了しないまま、突然中止されたけれども、細菌学者である一米軍中尉が真犯人であることがわかった。この中尉は犯行後ただちに本国に帰った。

 唯一の生存者田村マサ子は多額の「口止め料」をもらい、この事件を追及していた読売新聞の一記者と大急ぎで結婚した。

 元国鉄総裁下山氏の未亡人および子息は、下山氏がアメリカの手にかかって殺されたと確信している。(中略)……さらにまた他殺の事実を確証した法医学権威者の発表に対処するため、警察は小宮博士をはるばる名古屋からよんで、国鉄総裁の死は自殺によると発表せしめた。

 世人の頭はこれらの矛盾した発表によってまったく混乱に陥ち入った。アメリカ当局が日本の警察に向って捜査を打切るように命じたため、その後はなんらの本腰の捜査は行なわれなかった。

 さらにまた一般に松川事件と呼ばれている有名な列車顚覆事件についてもアメリカ人が責任者であることは疑うべくもない。

 これには目撃者が一人いた。彼はたまたま脱線の現場付近を通りかかったとき、約12人程の米兵が枕木からレールをはずしているのを見た。彼はそれを見て、一体何をしているのだろうかとちょっと不審を抱いたが、多分レールの検査か修理をやっているのだろうと自ら納得し、大して驚きもしなかった。

 ところが、この仲間に加わっていた一人の日本人が彼の跡をつけて来て、わが家の戸を開けようとするところを、うしろから日本語で呼びとめた。

 この男は彼に向ってその夜見たことを他人に口外しないように告げた。「口外するとアメリカの軍事裁判にかけられる」とその男は警告した。もちろん彼はそれが何のことだかまったく理由がわからなかったが、ただ「言いません」と答えた。

 翌朝になって始めてわかった。彼はこの顚覆事件について不安を感じ、胸がしずまらなかった。とくに、労働組合の指導者が嫌疑をかけられていることを新聞で読んだときますます怖くなった。

 それから5日後、一人の見知らぬ男がやってきて、彼に福島市のCICの事務所の位置を示した地図をみせ、「明日此処へ出頭して下さい。話したいことがあるそうですから」と告げた。

 この目撃者の名は渋川村の斎藤金作といった。彼は本能的に投獄されるかも知れないと感じ、その恐怖はさらに増した。そこで彼は自分の家を逃げ出し、横浜で三輪車の運転をやっている弟のもとへ身を寄せた。そして彼自身も三輪車の運転手となった。

 しかし、彼が三輪車の運転手になって2ヶ月後、1950112日彼の行方はわからなくなった。彼が姿を消してから5日後、三輪車を見つけた警官が弟のヒロシのもとに三輪車をとどけて来た。車体にペンキで描かれた住所によってわかったのであった。失踪して40日あまりの後、3月になって、ヒロシは彼の兄の死体が入江に浮いているのが見つかったと聞かされた。ヒロシと金作の家族は屍体を確かめに行ったが、そのときはすでに火葬されていた。金作の家族は検死の結果を次のように知らされた。「傷を負ってはいなかった。右手は手袋をはめずに外套のポケットに突っ込んでいた。胃の中にはアルコール飲料が残っていた。腕時計をはめていた。金は持っていなかった」と。また、泥棒に襲われたのではないかだろう。死ぬときは大してもがいていないことが検屍の結果でわかる。「多分酒に酔って、入江に落ち込み、心臓麻痺で死んだのだろう」と、このように彼らは聞かされた。彼の死体が発見された場所は三輪車が発見された位置からはるか遠く隔たっていた。検屍はクリークに40日浮かんでいた場合にあり得る状態とはまったく相違する状態を告げている。

 数日後、見知らぬ男がヒロシを訪ねて、名前も言わずに金十万円を置いていった。彼はただ一言「兄さんの御不幸については何も言わない方がいいですよ」と告げた。

 ヒロシは悩み苦しんだ。何者かに追われるように、横浜市磯子区森町から同市南区中村町に引越し、やがておしまいには故郷の田舎に帰ってしまった。彼は現在そこで暮らしているのだが、不安と恐怖にせめられて悪夢のような日々を送っている。

(熊谷達雄「消えた人」広津和郎編『松川事件のうちそと』所収)

 

 

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