真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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731兄弟部隊 波8604部隊 岡9420部隊

2008年06月29日 | 国際・政治
 「高校生が追うネズミ村と731部隊」によると、731部隊には4つの細菌戦兄弟部隊があり、それぞれの部隊員から細菌戦実行に関わる様々な証言を得ているという。ここで取り上げるのは、広州の中山大学に本部を置いた波8604部隊とシンガポールの岡9420部隊である。
波8604部隊
 「高校生が追うネズミ村と731部隊」の著者、埼玉県立庄和高校地理歴史研究部の生徒達と遠藤光司教諭は、波8604部隊第1課細菌研究班に所属していた丸山茂さんからも大量の資料を受け取るとともに証言を得ている。丸山さんの証言は8604部隊の大量殺戮事件が中心であるが、ラット50万匹飼育の証言もあったという。下記はその一部である。下段は第4課病理班に所属し病理解剖を任務としていたが、後にノミの生産係になっという井上睦夫さんの証言である。
丸山茂さんの証言-------------------------
 大量殺戮事件のあらすじはこうである。1942年、日本軍が香港攻略をしたとき、香港は中国からの難民で溢れ、人口は200万人を超えていた。日本軍はその避難民を強制的に香港から追い出し、香港の人口を半分にした。ここに膨大な香港避難民が誕生した。殺戮にあったのは、この難民のうち、水路で広州に向かった人々である。
 難民は広州市に入れなかった。広州手前にある南石頭の難民収容所に強制収容される。丸山さんの同僚の的場守嘉が、東京の陸軍軍医学校からサルモネラ菌を取り寄せ、それをお粥に混ぜ難民全員に飲ませた。毎日運びきれないほどの難民が死に、その数は2000人に及んだ。サルモネラ菌という聞き慣れない細菌は、8604部隊長佐藤俊二の得意分野で、佐藤は石井四郎と連名で、この細菌が原因の中毒事件についての論文を発表している。約3年間収容所にいた馮奇さんは「あのとき香港難民がたくさん船で来た。みんな嘔吐や下痢で死んだが原因不明だった」と言う。当時収容所ではこんな歌が流行った。「篭の鳥は高く飛べない。味付け粥を食わなきゃすきっ腹。食えば食ったで腹痛み。病気になっても薬はない。死んだら最後、骨まで溶かす池に放り込まれる。」
 死んだ難民は化骨池(かこついけ)に放り込まれる。収容所には横20メートル、縦と高さが5メートルのコンクリート製の池が二つ並んでいた。死体はその化骨池に運ばれ科学剤により溶かされた。多いときには毎日50人以上が処理される。化骨池は死体を効率よく処理するための8604部隊の発明だったが、このときはそれでも処理しきれず埋められるものもあった。現在は広州製紙工場となった同地から、1200体を超える人骨が出ている。


・・・

 この大量殺戮を実行したのは丸山さんの友人の的場守嘉だった。丸山さんはたまたま、的場が作った難民への細菌投与を示すグラフを覗いたのがきっかけで、的場からすべてを聞くことになる。的場は丸山さんに「部隊長に知れたら、おもえも無事にすむまい。一生口外するな」と念を押した。事実この後、的場だけがニューギニアの激戦地に送られ、死亡している。「部隊長による口封じだった」と丸山さんは語る。この部隊長の佐藤俊二は戦後ハバロフスク裁判にかけられる。佐藤は石井四郎の犯罪には言及したが、香港難民殺戮と化骨池については黙っていた。証言をして丸山さんは「的場の遺言ををみんなに伝えることができた」と語る。
 丸山さんの証言を機にこの事件の調査が始まり、中国では沙東迅が『日本軍の広東における細菌戦調査報告書』をまとめた
。……
井上睦夫さんの証言-------------------------
 井上さんの任務は死体の病理解剖だった。軍医の助手として、毎日一,二体を解剖した。死体は一日に四,五体来た。解剖が追いつかず冷蔵庫に保管した。解剖は一体に3時間かかり、1日に三体がやっとだった。
 井上さんの担当は頭部だった。軍医は内臓を取り出した。舌の根元を引っ張ると
……

・・・

 1944年、井上さんはペストノミ生産の係となり、温度調節を担当した。着任するとすぐ増産命令が出され部隊は活気づいた。ペストノミ10キロ必要というなら15キロ作ってやろうという勢いだった。米軍が中国南海岸に上陸したら、このペストノミ作戦が威力を発揮するだろう、と信じていた。仕事は大きくノミとネズミに分かれる。日本人の担当は20人近くに増員、他に中国人クーリーを50人雇った。クーリーはネズミの世話だけで、ノミの飼育室には入れなかった。
 中山歯科大学と東門のあいだに巨大なネズミ飼育場があった。コンクリート2階建ての、長さ30間(約50メートル)もある学校のような建物が5棟並んでいた。これがすべてラットの飼育場だった。その棟の中には棚が10段あり、すべての棚に80センチほどの金網の飼育箱がギッシリ積まれていた。飼育中のネズミはちょっとした病気でも報告し、大切にされていた。「50万匹は多すぎる。1桁違うのでは」と思っていた私は、この話を聞き「これは本当かも」と身を乗り出した。
 ネズミはすべてラットで白ネズミだった。1943年井上さんが部隊に配属されたころ、ネズミは内地から送られてきた。港の近くの荷物省へ大量のラットが輸送された。それ以前からも送られていたという話だったが、1944年に制空権、制海権を失うと来なくなった。「それがなければずっと来ていただろう」と井上さんは語る。そのネズミもおそらく埼玉のネズミだろう。だがこの部隊については、埼玉のネズミがなくても、すでに自給による生産体制が確立していたようだ。

 ネズミ飼育場の一角にペストノミの培養室があった。レンガ造りの培養室は、奇妙な建物だ。入るとまわりはすべて棚で、そこに100個以上の石油缶が並んでいる。そのなかでペストノミが生産された。床には一面に水が引かれ、中央のストーブで50センチ先も見えないほど、湯気が上がっている。危険な作業にもかかわらず、井上さんは雨合羽に長靴、軍手2枚をしただけで作業をした。
 石油缶の中におが屑を敷く。そこに小さな篭に入れられた、身動きのできないラットを入れる。そしてラットの上にスポイトからノミを振りかける。ノミがネズミにたかるように、ネズミには乾燥血液を振りかけておく。ラットは1週間ほどでミイラ状になり、次のと取り替えた。石油缶の横には12個の大きなビンがあった。これは石油缶を洗うとき、一時的にノミを保存する容器である。ノミに刺されたら最後なので、石油缶はホルマリンをかけてから、慎重に洗った。湿気の中でノミはどんどん繁殖し、最終的には月10キログラムの生産量に達した。ここでは、ネズミにペスト菌を注射する「毒化作業」はとくになく、ペストは飼育過程で自然に伝染していくものとされている。

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岡9420部隊
 この部隊はシンガポール近郊の、マレー半島南端ジョホールバルの北東約13キロのタンポイにある精神病院「プルマイ病院」にあり、ノミの養殖場を始め、ネズミの飼育施設などもほとんど当時のまま残っているという。以下9420部隊に配属され、『ノミと鼠とペスト菌を見てきた話』を自費出版したという竹花香逸氏の証言を中心とする部分を「高校生が追うネズミ村と731部隊」埼玉県立庄和高校地理歴史研究部+遠藤光司(教育史料出版会)から抜粋する。
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・・・
 ……9420部隊は1942年、五つの細菌戦部隊の最後に編成された。前章で紹介した『真田日記』では、各部隊のノミの分担比率 を「満州53%、南方14%、南支5%、北支3%、中支1.5%、内地12%」としてある。ここでは、50万匹のネズミを有していた南支(8604部隊)の5%より、この南方(9420部隊)の「14%」のほうが大きな数字になっている。9420部隊にも大量のネズミがいただろうと推測される。
 高島氏を現地調査に踏み切らせるきっかけとなったもう1人の証言者がいる。『ノミと鼠とペスト菌を見てきた話』を自費出版した竹花香逸氏である。竹花氏は1943年6月、9420部隊に配属、敗戦までペストノミの生産に従事する。著書はその体験をまとめたものだが、9420部隊でのネズミとノミの飼育状況を語る、私たちにとっても興味深い証言だった。この本で、竹花氏はこう書いている。
 「中安部隊はノミの養殖と、それらに関わる研究と仕事をする部隊である。ノミの飼育方法は、日光の直射をさけ、病棟のもとより舗装してある地面上に、どこから集めたのかと思われる細かいゴミを、農家の籾乾しの形そのままに、幅1メートル余り、長さ5メートルほどの飼育床が数条続いている。その飼育床の適当な位置に、鼠とり器に収められた鼠がノミの飼料として配置されている。(中略)簡単な用件が終わると中安中尉は『竹花、今日はめずらしいものを見せてやる、来い』と小さな頑丈な建物の中に誘った。室に入ると中尉はその中の18リットル缶のガラスの蓋をとった。と、缶の表面近くまで詰まったノミが互いに光を嫌って中へ中へともぐりこもうとしてうごめき、一つの大きな玉となっている。私は息をこらしていたと思う。中安中尉は『どうだ、驚いたか』といいたげな顔をしていた。あの大量のノミがその後どう処理されたか知る由もない。しかし実験に使用されたことはまずあり得ない。ノミの寝床の大量の細かいゴミとノミを区分する事は難儀のように思われるであろうが、ノミの光を嫌う性質を利用した器具で、比較的容易に分離する事ができた。」

 「江本部隊の特徴は、細菌取扱の経歴の多い技術者が多く(中略)、部隊の仕事はペスト菌株の保持、菌の殖培、毒化作業、少量のワクチンの製造、免疫に関わる研究等広範囲のようであった。この隊の重要な作業は『毒化作業』である。鼠にペスト菌を注射し、発病した鼠にノミををたからせ、ノミの胃袋にペスト菌が吸入されておれば即ち細菌兵器となる。かかる作業を毒化作業と称していた。ちなみにペスト病は鼠と人間だけが罹病する。とにかく江本部隊は梅岡部隊の中枢的な存在である」
  

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731兄弟部隊 甲1855部隊 栄1644部隊

2008年06月28日 | 国際・政治
 「高校生が追うネズミ村と731部隊」によると、731部隊には4つの細菌戦兄弟部隊があり、それぞれの部隊員から細菌戦実行に関わる様々な証言を得ているという。

甲1855部隊
 先ず、甲1855部隊である。北京には1855部隊の施設が三つあった。
 一つは1939年、天壇行園の南西に設置された西村英二陸軍軍医大佐を隊長とする本部および司令部で、13もの出張所を持っていたという。ネズミの飼育舎は4列の舎屋があり、70室余りの部屋があった。そして、どの部屋でも数百匹から千匹ものネズミの飼育が可能であったというから大変な規模である。731部隊と同じように、内地(日本)からネズミを調達し、ペストノミを大量生産していたというのである。
 二つ目は静生生物調査所。ここは中国最大の生物研究機関だったが、1941年1855部隊によって占拠され、第2分遣隊が置かれた。ここではノミの大量生産をやっていた。
 三つめは北京協和病院。ここも接収され第一分遣隊が置かれた。ここでは人体実験が行われていたという。
 「高校生が追うネズミ村と731部隊」埼玉県立庄和高校地理歴史研究部+遠藤光司(教育資料出版会)には1855部隊で働いたという伊藤影明さんの証言が紹介されているので、証言を含めたその一部を抜粋する。
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                 1855部隊員の証言 

 伊藤さんは、この部隊でノミの飼育をしていた。「ノミを飼育するためにネズミを飼う。フンドシ一つになってネズミに餌をやる仕事をしていた。馬鹿だってできるよ」と語る。19室800個近い石油缶を担当した。ノミに血を吸わせるためにネズミを入れる毎日。「人間習うより慣れろでしだいにノミに愛着を感じるようになった。44年から急に増産が叫ばれ、5人だった飼育係が50人になる。一時は将校までも裸になって飼育に当たったほどだ」。その中には、ペスト感染してしまった伊藤さんの同期生もいた。埼玉でも急速なネズミ増産が始まるころである。

 1945年2月、伊藤さんは「マルタ」を見た。静生生物調査所の3階が留置所として使われ、伊藤さんはその留置所を覗き穴から盗み見た。覗いたとき「マルタ」と目があった。目だけがギョロッとしていて、いかにもうらめしそうだった。1855部隊では、静生生物調査所(第二分遣隊)で「マルタ」にペスト菌を打ち、北京協和病院(第一分遣隊)で生体解剖した。伊藤さんが見たのは、すでにペスト菌を打たれ、北京協和病院へ運ばれる直前の「マルタ」だった。「その形相が忘れられない」と伊藤さんは苦しむ。この証言からは、1855部隊も大量のネズミを消費し、ペストノミを生産し、人体実験をしていたことが分かる。 
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栄1644部隊
 南京城内にあった栄1644部隊は「多摩部隊」とも呼ばれ、731部隊とともに細菌戦実行部隊として知られているが、「高校生が追うネズミ村と731部隊」の著者の埼玉県立庄和高校地理歴史研究部の生徒達と遠藤光司教諭は、その部隊員であったという小沢武雄さんと小沢さんの同期生だったEさんの証言を得て、その内容を紹介している。下記はその一部である。
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・・・
 ……その後衛生兵教育に入ると、小沢さんは細菌戦攻撃を2回命令される。
 1回目は、その年の8月頃だった。5人ずつ選抜され、2機のの飛行機に分乗した。1機は離陸に失敗、小沢さんら5人だけが南京から南西方面に40里(約150キロメートル)ほど飛んだ。飛行機は敵地の飛行場に着陸した。すでに日本軍の砲撃で、敵は陣地から撤退していた。戻ってくる敵兵を狙って、敵陣にペストノミをばらまくのが5人の任務だった。

 ペストノミはサイダービンに入れコルクで蓋をした。ビンはノミでいっぱいだった。小沢さんはそのビンを腰に15本ぶらさげ、さらに手に抱えられるだけ持ち、敵地に乗り込んだ。足にゲートルを巻いているものの、特別な装備はなく、手袋は軍手だった。予防接種もしていない。ノミに食われれば自分も死ぬ。ビンの蓋を開け、軒下にノミをばらまいた。無我夢中だった。作業を終えると、空きビンを土中に埋め、5人は集結した。行きは飛行機だが、帰りは歩いて戻る計画だ。陣地に戻った中国の斥候兵に見つかり、機銃を浴びた。九死に一生をを得、南京に向かって炎天下を10日間歩いた。途中で病気になったが、別部隊に救われた。
 2回目の命令はその1ヶ月後だった。チャンチューカメ(紹興酒の甕)にコレラ、ペスト菌液を詰める。1ビンに1斗ぐらい入る。それを15個トラックに積み、南京城外の村々の井戸に甕ごと投げ込む。1つの井戸に1ビンずつだった。作業は秘密なので小隊長と小沢さん、それにもう1人の3人で行った。細菌戦の典型的な謀略活動である。 

・・・

 小沢さんの同期生だった1644部隊員Eさんが、同じ埼玉県の加須市に住んでいる。Eさんも1943年、北支など他の細菌戦部隊と「マラリア工作隊」という特殊部隊に所属しパラオ島に向かった経験がある。電話取材だけだったが、Eさんは、1644部隊のネズミ飼育班に属していた。1942年ネズミの「増殖実験」を担当し、120匹ほどのラットを飼育する。ネズミそのものを増やすのが目的で、トウモロコシとコウリャンが餌だった。部隊全体でラットが何匹いたかは分からない。ラットは1644部隊の資材調達官が直接内地に行き、飛行機で運んできた。それを「動物受領」と言っており、モルモットなども運んだ。月1回くらいのペースだった。……
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731部隊 ”ペストノミ”と”白鼠”飼育農家

2008年06月25日 | 国際・政治
 新妻ファイルの中の一つ「田中淳雄少佐尋問録」には「蚤ノ生産ニハ絶対ニ白鼠ヲ必要トス 白鼠ハ北満ニテハ如何ニスルモ自活不可能デ内地ヨリノ補給ヲ必要トス 白鼠ノ固鼠器内ノ生命ハ約1週間ナル故 1ヶ月ニ4回取換ヲ要ス」という一文がある。ペストノミ増産のために、ネズミ不足に陥ったという記録である。まさにその時、内地(日本)でネズミの生産を飛躍的に拡大していたところがあった。埼玉県の春日部と庄和を中心とするネズミ生産地である。ペストノミ増産のために、「絶対ニ白鼠ヲ必要トス」というのであるが、「白鼠ハ北満ニテハ如何ニスルモ自活不可能」ということで、ネズミ生産地が増産体制に入ったのである。そのネズミ生産地の飼育農家を中心に聞き取り調査を行い、731部隊との関係を明らかにしたのが、埼玉県立庄和高校地理歴史研究部の生徒達と遠藤光司教諭である。「高校生が追うネズミ村と731部隊」<教育史料出版会>から、ところどころ何カ所か抜粋したい。
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          高校生が追うネズミ村と731部隊   
             埼玉県立庄和高校地理歴史研究部+遠藤光司(同校教諭)
・・・
 ところで、増産計画の中心は埼玉県の春日部、庄和などの古くからのネズミ生産地だった。ネズミは内地から満州へ空輸されていたのだ。私たちの町では戦時中、どこの家でもネズミを飼っていた。私の父も、生徒の家族も飼育者だった。飼育のノウハウを知っている地域でなければ、この急場は凌げなかった。731部隊の「ネズミ不足」に応えて、私たちの町のネズミ生産は、爆発的に拡大する。それは、満州がネズミ取りに明け暮れたのと同時期のできごとだった。

・・・


 ネズミ飼育は特殊な産業で、生産地は埼玉と岐阜くらい。戦時期には埼玉が全国の7割を占めていた。ミカン箱程度の飼育箱にオス一匹、メス五匹を入れ繁殖させる。「ネズミ算式」に増える子ネズミを、「ネズミ屋」と呼ばれる仲買人が買いにくる。貧しい小作人の多かったこの地域では、ネズミ飼育は副業として歓迎された。
 
・・・


 飼育箱は、昭和初期まではミカン箱だったが、専門に作る箱職人が現れた。50センチほどの木箱で、側面の一つだけが編張りになっている。飼育の規模は、5箱程度が普通。1軒1箱の家から、軒下すべてを使い100箱飼った家まで千差万別だ。なかには、専業になり500箱飼った家もある。「100箱飼えば蔵が建つ」と言われたが、実際はそれほど儲からなかった。
 飼育はおもに年寄りの仕事だった。戦後50年がたち、飼育経験者が亡くなっている場合が多かった。子どもがペット代わりに飼う例もある。子ども同士でネズミが売買され、なかにはネズミ屋とつるんで儲ける子どももいた。ネズミを売った金を貯めて自転車を買った子どもまでいたという。しかしそういう子どもは例外で、収入は小遣い程度だったという人がほとんどである。戦時中でラットが1円、マウスが10銭ぐらい。副業として特別割がよいわけではない。
 餌はコザキを与える。コザキとは実らなかった屑米である。農家にとってはただだ同然のもので、餌代はかからなかった。コザキ以外には野菜の屑を入れておけば十分だった。床どこにはワラを敷き、ネズミはそのワラで巣を作った。ネズミは尿が濃い生物で、ワラを変えるときの臭さがこの副業のつらいところである。

・・・


 病気も悩みの種だった。ネズミはすぐ風邪をひく。病気が流行るとあっというまに全滅した。ネズミのようすに注意するのが大変だった。餌をあげないと子ネズミは食べられてしまう。ネズミ同士の「いじめ」もあった。夏は暑さで死に、冬は寒さで死んだ。油断しているあいだに逃げられた(庄和町には、野生化した白ネズミが生息している)。……


 国立国会図書館憲政資料室には、アメリカから返還された膨大なGHQ文書がマイクロフィルムになっている。当時は軍需工場の調査が目的で、1944年夏、私はここに通っていた。18歳未満お断り、といういかがわしい場所と同じ入場制限があるため、生徒は入れないのだ。すでに埼玉県が目録を作っているので、それに従い県関係のGHQ文書をピックアップしていくその過程で、GHQによるネズミ生産者の調査報告書を偶然発見したのである。
 この文書には、飼育農家が6000軒もあったこと、集荷ルートから中間業者の利益、生産量から納入先まで詳しく書かれていた。地域のネズミ生産の概略がつかめる内容である。  

・・・

 本書で骨格をなす情報は、そのほとんどがネズミ屋によるものである。農民アンケートはたしかに膨大な量に達したが、基本的には意識調査だった。飼育農家が知っているのは近隣のようすだけで、ネズミ生産全体のシステムについては知らなかった。飼育農家が直接会うにはネズミ屋だけで、ネズミがその先どうなるのかについては興味もなかった。
 ネズミ屋は違った。毎日飼育農家をまわる彼らは、飼育状況を把握していた。また、集荷したネズミはネズミ屋が直接、軍や研究所に納めた。当然、軍や研究所の人々と知り合いになり、そこでさまざまな情報を得た。内容は飼育方法や値段にとどまらず、今後の実験動物がどう進み、何が要求されるのか、将来の展望にも及んだ。ネズミの量と質を高めるため、軍や研究所はネズミ屋に情報を与える必要があった。彼らは頻繁に会い、強いつながりを形成していった。

・・・


 ネズミ屋の小規模な世界を一変させたのが、田中一郎の登場である。田中は短期間にほとんどのネズミ屋を傘下に組み込み、戦時期にはほぼ独占状態を形成した。田中の組織化により、この地域のネズミの生産は飛躍的に増大。満州で731部隊が大量のネズミを「消費」していたとき、埼玉では田中がネズミ産業の活況を演出していた。

 当時の新聞にこんな記事がある(『埼玉新聞』1943年12月10日付)
 「粕壁(春日部)で小動物増産協議会
 陸軍軍医学校特定埼玉県農会指定の医科学実験動物生産実行組合主催の小動物増産協議会は、9日午後1時より粕壁町東武座において開会、国民儀礼後、田中一郎組合長の挨拶に続いて協議に移り
小動物増産が決戦下重要使命を帯ぶる為、これが増産に関する協議をなし、県官軍側来賓の訓示並に講演あり、終わって小動物増産に邁進しつつある組合員に対する慰労会に移り、講談浪花節漫才等の余興を開催した

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 様々な苦難に直面しつつも調査を続け成長していく高校生の姿が随所に記録されている。

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ハバロフスク裁判 川島清 軍医少将の証言

2008年06月24日 | 国際・政治
 1941年6月、731部隊の石井部隊長は、第2部長太田大佐にペストノミを充填した石井式陶器製爆弾の実験を命じた。川島軍医少将(第四部細菌製造部長)はその実験に立ち会った。そして、その時の様子を、ハバロフスク裁判で下記のように陳述しているのである。「消えた細菌戦部隊」常石敬一(海鳴社)よりの抜粋である。また、下段はペストノミの生産についての陳述である。
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 コノ実験ニ使用サレタ15名ノ被験者ハ部隊構内ノ監獄カラ届ケラレ、実験ガ行ワレテイタ地域デ特別ニ地中ニ埋メタ柱ニ縛リツケラレテイマシタ。……平房駅カラ特別飛行機ガ飛来シマシタ。飛行機ハ実験場地域上空ヲ飛行シ、実験場ノ上空ニキタ時20個バカリノ爆弾ヲ投下シマシタガ、爆弾ハ地上100乃至200米ノ所ニ達セヌ内ニ炸裂シ、中カラ爆弾ニ充填サレテイタペスト蚤ガ飛出シマシタ。此等ノペスト蚤ハ全地域ニ蔓延シマシタ
 爆弾投下ガ行ワレタ後、蚤ガ蔓延シ、被実験者ヲ被実験者ヲ感染サセルコトガ出来ル為、相当ノ時間待チマシタ。其ノ後コレラノ人間ヲ消毒シテ、飛行機デ平房駅ノ部隊構内監獄ニ送リ、ソコデコレラノ人間ガペストニ感染シタカドウカヲ明ラカニスルタメ彼等に監視ガツケラレマシタ。
 ……実験ハ好結果ヲ生マズ、是レハ高温、即チ非常ナ暑サニ起因スルモノデ、ソノ為蚤ノ作用ガ非常ニ弱カッタトイウコトデアリマス。


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 蚤ノ大量繁殖ノ為、第2部ニハ特別室ガ4ツアリマシタ。室温ハ一定温度、即チ摂氏30度ニ保持サレテイマシタ。蚤ノ繁殖ニハ高サ30センチ、幅50センチノ金属製ノ罐ガ使用サレ、蚤ノ居場所トシテ、此ノ罐ニモミガラヲ撒キマシタ。此ノ様ナ準備ガ終リマスト、先ズ罐ニ若干ノ蚤ヲ入レ、飼料トシテ白鼠ヲ入レ、此ノ白鼠ハ蚤ニ危害ヲ加エナイ用に様ニ縛リ付ケラレテイマシタ。罐ノ中ハ常ニ30度ノ温度ガ保持サレテイマシタ。


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731部隊 戦後の極秘文書 「北野中将へ連絡事項」

2008年06月23日 | 国際・政治
 下記は、アメリカ軍の尋問を受ける可能性のある、北野中将その他の関係者に、「北野中将へ連絡事項」というかたちで、口裏合わせを目的として配られたと考えられる極秘文書である。新妻中佐からこれらの文書を受け取った太田昌克氏は、「『(連絡事項は)80枚ほど作られた。(個人的な文書では)ない』──。新妻中佐は逝去半年前の96年12月15日、最後の取材でこう話している」と「731免責の系譜」太田昌克 (日本評論社)に記している。新妻中佐は「公文書なのか」の問には肯定も否定もしなかったというが、内容を読むと「公文書」として日時や発信元を記すことができるようなものではなく、やはり口裏合わせのための極秘(公)文書であると考えられる。敗戦時、731部隊には53人の博士クラスの人間がいたということで、それらの部隊幹部の他に、一部陸軍関係者や有末機関幹部などにも配るために80枚ほど複製が必要であったと考えられるのである。「1」はマルタと呼ばれた人たちの人体実験やペストノミなどを利用した細菌攻撃のことを秘匿せよという指示であり、したがって、マルタを収容した七、八棟は中央倉庫、ペストノミを増産した田中班はペスト研究班、枯草作戦担当の矢木沢班は自営農場担当班と偽証することを指示確認しているのである
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              「北野中将へ連絡事項」

   北野中将へ連絡事項 

1、○及「保作」ハ絶対ニ出サズ
2、関防給ハ石井隊長以下尚在満シアリ
3、増田大佐ハ万難ヲ排シテ単独帰還シ「マ」司令部ヘ出頭セリ
4、関防給ハ総務部長兼第四部長大田、第一部長菊池、第二部長碇、第三部長兼資材部長増田大佐トナリ其他ハ転出又ハ解隊シアリ
5、第一部研究、第二部防疫実施並ニ指導 第三部給水実施並ニ指導及資材修理 第四部製造 資材部資材保管補給ヲ担任シアリ
6,七,八棟ー中央倉庫、田中班ーP研究、矢木沢班ー自営農場ニ使用シアリ
7、「保研」ニ関シテハ石井隊長、増田大佐以外ハ総合的ニ知レルモノナシ
  研究ハ細分シテ常ニ人ヲ代ヘテ之ニ当タラシメアルヲ以テ他ノ者ハ部分的ニ
  之ヲ知レルノミナリ 而モ其ノ目的ハ知得シアラザルナラン
8、北野中将在職中「保研」ハ前任者ノ実験ヲ若干追試セル外 積極的ニ研究セ
  ズ中止ノ状態ナリ
9、「保研」ハ上司ノ指示ニアラズ 防御研究ノ必要上一部ノモノガ研究セルモノナ
  リ
10、北野中将ハ在職中専ラ流行性出血熱ノ研究ニ没頭セリ 



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731部隊 新妻清一中佐宛 増田知貞大佐書簡

2008年06月23日 | 国際・政治
 下記は、「田中淳雄少佐尋問録」読んだ増田知貞大佐の新妻清一中佐宛書簡である。攻撃用細菌兵器、すなわち「Px」(ペストノミ)の予算を秘匿しなければ、真実が暴露されてしまうという不安を伝えている。「731免責の系譜」太田昌克(日本評論社)からその一部を抜粋する。読み仮名のある古めかしい表現の一部は括弧書きにした。(Sはサンダース中佐)
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      「増田知貞大佐書簡」(1945年11月9日、書き下ろし文)

   新妻中佐殿                        11月9日1900
                                       於秋元村
                                           増田大佐
拝復
唯今伝書使来着 貴翰拝見仕候
京都に於て田中少佐Sに面会致候由、会見録も拝見仕候 xヲ出せしは余り面白からずと愚考致候得共
(そうらえども) 軈て(やがて)ハ少しづつ覆面が落ちてゆくのではないかと心配致居候、新人への面会は必ず何事かが暴露してゆく結果と可相成候(あいなるべくそうろう)
但 田中少佐ハ東京小生宅にて小生等の会見録のノートを取らせし男に候間 これ位にて済みたるものと存申候
  尚内藤中佐の意見ハ○タと○ホ(同書では○の中にタと○の中にホ)以外ハ一切を積極的に開陳すべし と云ふ持論に有之候間 御参考迄に申上置候
(さて) 御尋の攻撃防御の予算関係に有之候へども、予算方面ハ実ハ小生甚(はなはだ)研究不充分にて 特に最近のものは 全く手をつけ居不申(をりもうさず)、多分未(まだ)御地に大田大佐滞在致居候事と存じ 何卒 具体的数字ハ同大佐宛御下問被下(くだされ)候様願上(ねがいあげ)
(大田大佐住所 略)
尚 原則論としてハ、日本軍ハ攻撃を企図せし事無之故 予算に於いても攻撃用として予算を組し事ハ無之候筈に御座候はずや。唯々攻撃研究として予算を組みし事ハ可有之(これあるべく)候はんも、これハ731部隊の使用範囲内に止り 部隊令達研究費予算内の極一少部分に過ぎず と云ふ事に可相成候(小生等の説明を基礎として論ず)
実際問題として、731にて攻撃として使用仕候予算の大部分は Px 関係にて、之ハ事実上の数字ハ秘匿して置かざれば、当方の攻撃意図が暴露致候事と可相成候
右甚不満足なる御回答より出来不申 申訳御座無候得共 予算関係に触居不申(ふれをりもうさず)候故を以て御容謝(ママ)被下度願上候(尚 大田大佐、若(もし)不在ならば、同様石山宅に留守部付佐藤主計少佐居るかも不知(しれず) 御参考迄に)

以下略

  http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。

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731部隊 新妻ファイル「田中淳雄少佐尋問録」

2008年06月22日 | 国際・政治
 下記は、増田知貞軍医大佐をして「xを出せしはあまり面白からず……」と言わしめた田中少佐の尋問録である。「x」は言うまでもなく731部隊ではノミのことを示す隠語である。田中少佐の尋問録には「x」ばかりではなく、「Px」すなわちペストノミやネズミの増産などについてもかなり具体的に記録されており、増田大佐は「……軈(やがて)ハ少しづつ、覆面が落ちてゆくのではないかと心配致居候」と事実を知られ、戦犯として訴追される不安を隠せなかったのである。しかしながら、ペストノミ増産の中核であった田中班の責任者である田中少佐でさえ、大事なところでは事実を秘匿しようとしていることが、赤字にした部分の証言などから読み取れるように思う。「731免責の系譜」太田昌克(日本評論社)からの一部抜粋である。(Sはサンダース中佐、Nは新妻中佐、Tは田中少佐である。ヰはイに統一した)
-------------------------------
          「田中淳雄少佐尋問録」1945年10月30日)

 T・S問答要旨

昭和20年10月30日 16:00ー18:00
於京都 都ホテル(前半S私室 後半ロビー)
参列者  S中佐 Y中尉(ヤング)
       N中佐 T少佐

 N、Tヲ連レテ来マシタ
 S、御苦労デス 先ヅ話ノ初メニ当リコレハ戦争犯罪ヲ云々スルモノデ無ク飽ク
   迄科学者トシテ話シ度イ
 N、茲ニ昨夜T少佐ガ作業シタ記録ガアル故コレニヨリ話ヲススメ度イ コレハ何
   レ英文翻訳ノ上オ渡シスル
 S、ソノヤウニオ願ヒシ度イ
 T、話ノ順序ハ(一)経歴(二)今回ノ脱出経路(三)部隊ニ於ケル仕事(1)ペスト防
   疫実施(2)ペスト防疫予備工作トシテノ満州国内各地ノ鼠及鼠蚤ノ調査(3)昆
   虫駆除剤ノ研究(4)蚤ノ増殖法ニ就テ 説明スル

(一)経歴
  
(一部略)
  1937、4月 京大農学部卒業〔昆虫学専攻)
  1941、4月 京大医学部卒業 軍医中尉任官
  1942、1月 石井部隊附ニ命課 哈爾浜に到着
  1942、3月以降 第2部(防疫の実施)ニテ主トシテ「ペスト」防疫ニ従事ス

(二)今回ノ脱出経路
  

  (略)

(三)部隊ニ於ケル仕事
 部隊ノ仕事ハ秘密主義デ防諜ガ喧シイノデ自分ノ仕事ダケシカ知ラヌ 全般ノ事ハ部隊長ト増田大佐ダケガ承知デ我々下ノモノハ自分ノ与エラレタル任務 受持ノ僅カノ部分シカ知ラナイ
 尚各資料モ皆部隊ニ残シタノデ詳細ハ不明デアルガ私ノ覚エテ居ル事ハ何デモ答ヘル
 私ハ昆虫ノ媒介スル疾病ノ防疫ヲ命ゼラレ発疹「チフス」ノ虱、「マラリア」ノ蚊、流行性出血熱ノ「ダニ」等ノ駆除ヲ命ゼラレタガ主ナルモノハ「ペスト」防疫デアッタ
(1)ペスト防疫実施
 満州ニハ従来「ペスト」常在地アリ 毎年数十乃至数百ノ患者ノ発生ヲ見ル 該
 ペストノ軍隊ヘノ侵入防止ノ為地方機関ト協力 ペスト防疫ニ従事セリ ソノ実施
 要領ハ
 (イ)、捕鼠殺鼠ノ励行 各戸ヨリ強制的ニ鼠ノ供出並買上実施(1944年2千万
     頭供出)
 (ロ)、防鼠工事ノ実施並指導 防鼠溝 清潔整頓
 (ハ)、予防接種、「ペスト」常在地附近部隊ニ5月6月2回実施
     「ペストインムノーゲン」(倉内)生菌ワクチン(春日)
 (ニ)、「ペスト」発生時ハ現地ニ出張シ右3方法ヲ強化スルト共ニ交通遮断、検
     疫、検診、時ニハ家屋ノ焼却、被服類ノ消毒等ヲ実施
     ス
(2)「ペスト」防疫ノ予備工作トシテ満州国内鼠及鼠蚤ノ分布並ニ其ノ季節的消長調  査
 (イ)齧歯類、約25種類生棲スルモ ソノ中「ペスト」ニ関係深キハ
    溝鼠 最モ多ク82%ニシテ全満ニ広ク分布ス
        繁殖期 4月5月
    家鼠 新京以南ノ南満地方ニ多シ
    「ハタリス」 内蒙古砂漠地方ニ多シ
    「タルバカン」「ホロンバイル」地方 現在ハ少数
 (ロ)付着蚤 約42種類アルモ其ノ中「ペスト」ト関係深キモノ左ノ如シ
    「ケオプス」 P常在地ニ特ニ多ク国境附近ニハ全ク見ラレナイ、P常在地域
    内ノ町村ノ「ケオプス」指数は大体1.0ナリ(例ヘバ
    白城子1.5 通遼3.0 鄭家屯3.2 農安2.5 新京1.9等)
    「ケオプス」ハ冬期少ナク4月ヨリ漸増シ8月最高トナリ11月以降ニハ殆ンド
    見ラレズ ソノ消長ハP流行ト一致スル
    「ヤマト」
    「ヨーロッパ」 共ニ北満ニ多ク耐寒性強キ種類
    「ビデンタ」 絹毛鼠特有蚤
    「テスクオールム」「ハタリス」特有蚤
    「セランティビー」「タルバカン」特有蚤
    自然状態ニ於テハ「ケオプス」以外ノ種類ノ蚤ニP菌ヲ保菌セルヲ認メザリ
    キ
    従ッテP防疫ニハ特ニ「ケオプス」ノ撲滅ニ重点ヲ指向セリ
(3) 昆虫ノ駆除剤ノ研究
  種々実施セルモ除虫菊「ピレトリン」等以外ニ最近有効ナルモノトシテ白樺ノ樹
  皮ヨリ有効成分ノ抽出ニ成功シ白樺油、白樺油クリー ム製セリ 白樺油ナレバ
  30分間 白樺油クリームナレバ2~3時間有効ナリ 但シ悪臭ノ為余リ喜バレ
  ズ   
(4) 蚤ノ増殖法ノ研究
  1943年(昭和18年)P防疫ノ余暇ニ「ケオプス」ノ増殖ヲ命ゼラレタリ
(イ)、蚤増殖方法
   アブデルハルゼン氏法(1931年)ニ倣ッテ実施(原著ヲ供覧ス)其ノ中改良
   セル点ハ(一)硝子瓶ノ代リニ石油缶(二)金 網式固鼠器(三)蚤床ニ砂、穀
   物モ用フルコト可能「フスマ」ヲ混ズレバ可(四)、蚤床量ハ一缶一立
 (ロ)、蚤飼育至適温湿度
    各種文献記載ノ如ク25ー30度、70-80%
 (ハ)、集蚤 反趨光性ノ利用 西洋バス利用
 (ニ)、給血源 白鼠ヲ最良トス 廿日鼠、「モルモット」、犬、猫、山羊、デハ失敗セ
    リ
 (ホ)、隘路
   蚤ノ生産ニハ絶対ニ白鼠ヲ必要トス 白鼠ハ北満ニテハ如何ニスルモ自活
   不可能デ内地ヨリノ補給ヲ必要トス 白鼠ノ固鼠器内ノ生命ハ約1週間ナル
   故 1ヶ月ニ4回取換ヲ要ス
   而モ1ヶ月後ニ於ケル1缶ヨリノ獲得量ハ最良条件ニテ僅ニ0.5瓦
   (1cc 約1000匹)ニシテ大東亜戦下空襲等ニヨリ内地ヨリノ白鼠ノ輸送極メ
   テ困難且ツ長時日ヲ要シ 他面食糧不足ニヨリ輸送間ノ損耗約50%ナリ 
   従ッテ10瓦ノ蚤生産ニ内地ヨリノ白    鼠160頭
      100瓦ノ蚤生産ニ内地ヨリノ白    1600頭
   ヲ要スル状況ニシテ蚤ノ大量生産ヲ命ゼラレタルモ到底不可能ナル事デアッ
   タ

 S、何故ニ「ケオプス」の増殖ヲ命ゼラレタカ ソノ目的ハ

 T、コレハ命ゼラレタ、ソノ目的ハ上司ヨリ話サレナカッタガ自分ハ科学者トシテ
   大体ソノ目的ヲ想像シテ居タ

   
(略)

 S、生産シタ蚤ハドウシタカ
 M、
1週間モスレバ全部死ンデシマッタ
 S、P菌ヲ食ハセタ事ハナイカ

 M、ソレハ既ニ印度P調査委員会ヤ米国エスケー等ガ実施シテイル所デ出来ル
   自信ハモッテイルガ自分ハ専門外デアルカラヤラナカッタ


   (略)

 S、Pノ攻撃方法ハドンナノガアルカ
 M、蚤ノ大量生産ニ成功シナカッタノデ攻撃ノ方法ハ実際ヤル迄ニハ到ラナカッ
   タ

 S、「イデー」トシテハ
 M、次ノヤウナ方法ガ考ヘラレル(一)スパイニ依ル手撒キ(二)飛行機ニヨル撒
   布(三)「ウジ」弾ニ依ル運用(四)鼠ニ蚤ヲ附ケテ投下 等
 S、「ウジ」弾ヲ知ッテイルカ
 M、「ウジ」弾ヲ知ッテイルガ
ソノ他ノ弾ハ知ラヌ
 S、弾及其他ノ野外実験ニ就テ

 M、弾ニヨル試験ハ部隊附近デ飛行機ガ飛ビ弾ヲ投下シテ爆音ヲ聞クノデヤッテ
   イル事ハ知ッテイルガソノ結果ハ知ラナイ

 S、菌液ノ撒布ハ
 M、飛行機ノ音ノミデ爆発音ガ聞エヌカラ室内ニ居ル我々ハ何モ知ラナイ

   (以下略)

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731部隊 新妻ファイル「増田知貞大佐尋問録」

2008年06月21日 | 国際・政治
 下記は、731部隊の最高幹部で石井四郎の右腕と言われた増田知貞の尋問録である。これも「731免責の系譜」で、大田昌克氏が公表したいわゆる「新妻ファイル」の中の一つである。大本営陸軍参謀であり、陸軍省軍務局軍事課課員であった新妻中佐の尋問録とは違って、直接731部隊に関わった増田大佐の尋問録には、かなりつっこんだやり取りが記録されているが、あくまで防御や研究のためであったという姿勢がはっきり読み取れる。その一部を「731免責の系譜」大田昌克(日本評論社)から抜粋する。(Mが増田大佐、Sはサンダース中佐、Nは新妻中佐である。BKは部隊内の隠語で細菌兵器の研究・開発を含む細菌攻撃や生物兵器を利用した戦争を意味する。また、Tは腸チフス菌、PAはパラチフス菌A型、PBはパラチフス菌B型、Dは赤痢菌、Cはコレラ菌、Mは炭疽菌、Pはペスト菌、<TBには触れていないが結核菌と思われる>)
----------------------------------
       「増田知貞大佐尋問録」(1945年10月9日、11日、16日)

 M、S、問答要旨

第1回(10月9日1400)於第1相互ビル「マ」司令部
   参列者M大佐 N中佐、通訳亀井貫一郎
      S中佐 途中より バブコック軍医中佐参加

 N、先日話シタM大佐ヲ連レテ来マシタ何デモ聞イテ下サイ
 S、病気ダッタソウダガモウ体ハ良イノカ
 M、モウ治ッタ
 S、フォワーネームハ何ト云フカ
 M、(知貞増田ト書イテ見セル)
 S、ドウ云フ経歴ノ人カ(N中佐ニ)
 N、経歴ヲスッカリ話スヨウニ(M大佐ニ)
 M、陸軍出身以来ノ経歴デ良キヤ
 S、結構ダ

(経歴一部略)
 M、1929年~1931年迄 京都帝大微生物教室研究
   1934年~1936年迄 ドイツ、フランスニ留学
   1937年夏~1939年迄 関東軍防疫給水部
   1942年~1943年 軍医学校教官
   此ノ間モ関東軍防疫給水部ノBK関係ノ業務ニハ関与シテイタ
   1943年~1944年 ビルマニテ「マラリヤ」予防ニ従事
   1945年関東軍防疫給水部
   関東軍防疫給水部デハ第3部長ト資材部長トヲヤッテ居ッタガ前ニハ研究ノ
   関係モヤッテ居ッタ、何ノ部ノ業務モ承知シテイル

 
   (略)

 S、関東軍防疫給水部ニ就テ聞キ度イ ソレハ三部カラ成ッテ居ルダロウ
 M、イヤ違フ 四部カラ出来テオル

 S、各部ノ任務ヲ述ベヨ
 M、第一部ハ研究、第二部ハ防疫ノ実施、第三部ハ給水、第四部ハ製造デアル
 S、第一部ノ研究トハ何ノ研究ナリヤ
 M、防疫全般ニ関スル基礎研究デアル
 S、基礎研究デハワカラナイ 具体的ニ如何ナルコトヲ研究セリヤ
 M、(紙にT、PA、PB、D、C、TB、M、P、リケッチャ ヴィールス ト書イテ見セ)
   コンナコトヲ研究シテオッタ
 S、BKの研究ハシテオラナカッタカ
 M、ヤッテ居タ
 S、ソノ細菌戦争ノ研究ニ就テ話シテ貰イ度イ
 M、BKノコトハ知ッテ居ルカラ喜ンデ話スガ其ノ前ニ一言コトワッテ置キ度イコト
   ハ之カラ話スコトハ自分ノ私見デアルカラ承知シテ置イテ貰イ度イ
 S、ソレデ結構ダ
 M、今一ツ頼ンデ置キ度イノハ、此ノ問題ヲ政治的ニ利用サレナイヨウオ願ヒス
   ル、ソレニ就テ昨日N中佐ニ話サレタ貴方ノ「ステートメント」ヲ承知シタガ自
   分ハソレデ大イニ安心シテ知ッテ居ルコトヲ全部オ話スルコトガ出来ルト思フ
   (注 N中佐ニ話セル「ステートメント」ハコノ調査ハ大統領ニ出ストコロノ秘密
   報告ノ資料ヲ作ルノデ公表スベキモノデハナイ寧ロ各国ノ間ニBKニ関スル問
   題ノ起キタトキニアメリカガソレヲ知ッテ居ルト日本ニ対シ有利ニ処理シテヤ
   ルコトガ出来ル、戦争犯罪者ノ摘発ト云フコトトハ別箇ノ問題ダカラ安心シテ
   話シテ貰イ度イト云フコトヲMニ伝ヘヨノ意味ナリト記憶ス)
 S、同感ダ
 M、関防給ガBKノ研究ヲ始メルニハ一ツノ動機ガアル、満州事変ノ直後ヨリ「ソ」
   連ノ「スパイ」ヲ逮捕シテ所持品ヲ調ベタラ時々「アンプレ」ヤ瓶等ニ細菌ノ菌
   液ヲ充填シテ持参シテ居ルト云フコトヲ発見シタ、ソノ内容物ハ憲兵隊カラ部
   隊ニ検索ヲ依頼サレテ、ソレヨリD、C、M、等ヲ証明シテオル
 S、ソレハ一体何時頃ノコトデアルカ
 M、昭和8年頃カラ昭和13年位迄ノ間ノ事実デアル 

   
(略)

 M、……コノ現物ハ最近迄関防給デ証拠物件トシテ持ッテ居タガ今度全部焼キ
   ステテシマッタ
   関東軍防疫給水部ハ自隊ノ業務遂行ノ必要上「ソ」連ノ搬入セル細菌デ人為
   的ノ伝染病流行ガ出来ルカドウカト云フコトヲ研究スル
   必要ヲ感ジタ、ソレガ部隊ニ於ケルトコロノBK研究ノ動機デアル
 S、ソノ研究ヲ始メタノハ何時頃カ
 M、昭和12年(1937年)デアル
 S、誰ガ研究ヲ主催シタカ
 M、研究ノ主催ハ石井隊長デアル、自分ハ最初カラ研究ノ全般ニ亘ッテ石井隊
   長ヲ補佐シ研究ノ実施ニモ関与シタ
 S、研究ハ何部デヤッテ居タカ
 M、BK研究ノ為ニ特別ノ部ハナイ、研究事項ハ細分シテ部下ノ研究者ニ割当テ
   ソレヲ秘密ノ裡ニ統合シテ居タ 故ニBK研究ノ全般ニ就テ知ッテ居ルノハ石
   井隊長ト自分ダケデアル 
   他ノ人ハ自分ノ研究範囲カラ推測シテ話ヲスルコトガ出来ルカモ知レナイガ
   之ハ飽迄推測デアッテ事実ハ自分以外ニハ知ラナイ筈ダト思フ
 S、自分モBKニ就テハ非常ニ大キナ興味ヲモッテオルノデ是非ソノBK研究ノ状
   況ヲ知リ度イモノデアル
 M、BK研究ト云ッテモ漠然トシテ居ルガ今日ハ軍事課ヨリノ要求ニ依ッテ砲弾ト
   爆弾ノコトニ関シて若干ノ準備ヲシテ来タカラ ソレニ就テ話シテモ良イカ
 S、大変結構ダ
 M、(「ロ」弾、「ハ」弾、「ウジ」弾ノ断面図ヲ大型ノ「セクションペーパー」ニ鉛筆ニ
   テ書ケルモノト「イ」「ロ」「ハ」「ニ」「ウ」「ウジ」旧型、五〇型、一〇〇型「ガ」弾
   頭九種類ノ細菌弾ノ諸元表ヲ同様ノ「セクションペーパー」ニ書イタモノトヲ広
   ゲテ説明セリ)
   「イ」弾、蛋頭円筒弾ニシテ弾体ハ鉄ヨリ成リ長サ 500mm 直径 100mm 弾 
   体ノ前部ニ炸薬ヲ充填シ弾腔ニ二立ノ菌液ヲ容レル、薬室ト弾腔トノ隔壁ガ
   瓦斯圧ニ対シテ弱キ壁ヨリナル、尾部ノ「リベット」ハ構造弱ク爆圧ニヨリハズ
   レ易クナッテオル 全備重量ハ20㎏装薬ハ黒色火薬デアッテ信管ハ着発信
   管ヲ使ッタ コノ爆弾ノ静止破裂ニ於ケル撒飛界ハ風速5米ノ際10ー15米×
   200-300米デアル

   
(略)

 S、オ前ノ実験デ一番ウマク行ッタノハ「ウジ」弾カ
 M、然リ
 S、「ウジ」弾ヲ対「ソ」作戦ニ準備スル事ヲ日本軍当局ニ意見具申スル意図アリ
   タルヤ
 M、前ニ何回モ述ベタ様ニ未ダ欠点ガ多クテ実用ニ適シナイト思ッタカラ其ノ様
   ナ進言ヲスル意図ハ無カッタ


   (略)

 S、貴官ハ住民地に於テ粟、麦、綿片等ニタイシテ液ヲ(飛行機のマーク)ヨリ投
   下シタ経験ハナイカ
 M、自分ハ御質問ト非常ニヨク似タ事ヲ「アメリカ」ノ新聞デハ見た事ガアル
   「アメリカ」ノ新聞デハコレヲ以テ日本ガBKヲヤッタト書イテアッタ様ニ思ふガ
   我々ニハ何等覚エノ無イ事デアル
   由来BKト云フ様ナ人ノ注意ヲヒク問題ハ兎角 ghost story ヲ伴ヒ易イモノデ
   アルガ オ話ノ件モコノ「ゴースト・ストリー」ノ適例デアルト思フ

   
 以下略

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731部隊 新妻ファイル「新妻清一中佐尋問録」

2008年06月20日 | 国際・政治
 下記は、「731免責の系譜」で、大田昌克氏が公表したいわゆる「新妻ファイル」の中の一つである。新妻清一中佐は陸軍省軍務局軍事課課員で、あらゆる陸軍兵器の研究・開発を所管する軍事課の技術将校であった。新妻中佐は、阿南惟幾陸軍大臣に直接決裁を求める要職にあったという。
 日本の生物兵器や細菌戦について調査するためキャンプ・デトリック(現フォート・デトリック)から派遣されてきた細菌戦の専門家サンダース軍医中佐は、陸軍軍医学校の関係では調査に行き詰まり、陸軍参謀本部へ矛先を向け新妻中佐の出頭を求めたという。昭和天皇の玉音放送前に、国内外の関係部所に「特殊研究」の証拠隠滅を指示した新妻中佐である。サンダースの尋問でも、その姿勢を貫いていることが、下記の尋問録でよく分かる。「731免責の系譜」太田昌克(日本評論社)から「新妻清一中佐尋問録」の一部を抜粋する。(文中のヰはイに統一)
---------------------------------
        「新妻清一中佐尋問録」(1945年10月1日)

一 立会人 Niizuma   N
        Sander    S
        通訳      内藤

二 N アナタノ任務ハ何ンデアルカ
   S 自分達ハ科学的援助者デ コンプトン博士
                      モーラント博士
                      サンダー博士
    ノ3人デ「モーラント」博士ガ長デアル
    自分達ハ「ワシントン」カラノ直接ノ指令ヲモッテイル
  S 我々ノ目的ハ日本ヲ助ケルコトデアル
  S 私ハ日本陸軍ノ細菌兵器準備ニツイテ知リタイ
    戦争犯罪ト無関係ニ純科学的 ニ調査ヲスル
    私ハ前大戦後全テノ国家ガ細菌兵器ニ興味ノアッタコトヲ知ッテイル
    若シ何処カノ国ガ(アナタノ国トイフ国デナク)細菌兵器ヲ使ッタトイフ証拠ガ
    ルナラバ、ソレハ公開セラレ研究セラルベキ門題(ママ)デアル
  S 防衛ノ研究ニ関シテ教ヘテモラッタコトハ感謝スルガ攻撃ノ研究ニ如何ナル
    コトヲヤラレタカトイフコトヲ知レバ感謝スル
  S 私ハ日本陸軍ノ公式ノ表ノ証拠ヲモッテイル
    1番ヨリ7番マデノ爆弾ノコトヲ書イテアル
    コノ7番ノ爆弾ノコトト一般細菌ノ活動ト細菌弾ニツイテ知ルコトガ出来レバ
    幸デアル
  N 番号ヲツケタ爆弾ハナイ
  S 御前ハ細菌弾ニ就テハ何モ知ラナイト話スノカ
  N 日本ニハ細菌弾ハナイ
  S 日本ノ海軍ノ細菌弾ニツイテ知ッテイルカ
  N 知ラナイ
  S 日本ノ陸軍ハ細菌弾ヲモッタコトカ実験ヲシタコトガナイノハ確カデアルカ
  N 確カデアル

  ・・・

  S 日本の参謀本部ハ細菌兵器ヲ武器トシテ考ヘタカ
  N 使フ意志ガナカッタカラ武器トシテ考ヘナカッタ。
  S 石井部隊ノ研究ガ独立シテ行ハレルトイフコトガ可能デアルカ
  N 意味ガヨク解ラナイ
  S 関東軍ハ大本営カラ独立シテソウイフ研究ヲヤルコトガ可能デアルカ
  N 陸軍省ハ毎年指示ヲシテイル。一般指示ノ中ニハ細菌兵器ノコトハ含マレ
    テイナイ。
  S 予算表ヲ見ルコトガ出来マスカ
  N 8月14日ニ焼イタ
  S 日本参謀本部ガ焼イタノカ
  N ソウデアル

 
     http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
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731部隊 戦後の密約 鎌倉会議

2008年06月18日 | 国際・政治
 731部隊で石井四郎の身のまわりの世話をしていたという「渡邊あき」の長男周一氏から、石井四郎直筆の大学ノート2冊を受け取り、その事実や内容を初めて公にした青木冨貴子氏は、また、アメリカのメリーランド州国立公文書館で「亀井貫一郎」のファイルから文書番号57327Secretとある文書を見つけ出し、「731」青木冨貴子(新潮社)で731部隊の戦後の密約に関わる部分を明らかにしている。
この文書ついては、下記のような説明がなされている。
---------------------------------
・・・
 いちばん目を引いたのは、1950(昭和25)年4月6日付の「亀井貫一郎に関する尋問記録」と題する秘密文書だった。
 「この尋問記録は、石井四郎元中将を尋問した後、エージェントHが用意した尋問記録である」
 と注が付いている。つまり石井を尋問してきたエージェントが石井本人に代わってエージェントHの質問に応答するというスタイルの調書である。内容は石井本人の尋問と考えて良いように、出来上がった調書を石井に見せ、記載された応答が正しいか確認を取り、末尾に本人の署名を求めている。

---------------------------------
 以下はその尋問記録の一部抜粋である。
---------------------------------
 「1947年3月から5月、亀井は細菌戦についての事実を確認するため懸命に努力し、米国から来たフェル博士、二世の通訳である吉橋太郎、マックフェール中佐や日本の細菌戦担当者などとともに働いた。はじめ亀井は長い時間をかけて増田大佐に細菌戦研究の結果をフェル博士に話すように説得した。次に彼は大田大佐と人体実験を担当した約20名の部下の研究者を鎌倉に呼び寄せ、正確で非常に貴重な詳細に及ぶ報告書を用意させた。また、石井隊長にはフェル博士の要望により、非常に重要な概要を東京で執筆してもらった。
 報告書を用意させるために、亀井は報告書を書く者の安全を保障し、彼らの協力を得るために、米国の意思と思われる以下の条件を提示した。」

------------------------------
 そして、「石井部隊の研究者たちは、以下の九項目の条件をのんで、執筆にかかったことになる」というのである。また、下記の「九ヵ条の密約」が交わされたのが「鎌倉会議」であり、細菌戦実験を担当した20名が鎌倉で記した報告が、現在所在不明の60ページに及ぶ英文の「19人の医者による(人体実験)リポート」だということなのである。
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1.この秘密の調査報告はフェル博士、マックフェール中佐、および吉橋通訳とGHQのアメリカ人、そして石井と約20名の研究者のみに限定されている。
2.日本人研究者は戦犯の訴追から絶対的な保護を受けることになる。
.報告はロシア人に対しては全く秘密にされ、アメリカ人にのみ提供される。
4.ソ連の訴追及びそのような(戦犯を問う)行動に対しては、絶対的な保護を受けるものである。
.報告書は一般に公表されない。
.研究者はアメリカ合衆国の保護下にあるという事実が明らかにされないよう注意が払われる。
.主要な研究者は米国へ行くことを許可される。
.細菌戦実験室が作られ、必要な経費が支給される。しかし、アメリカ人実験室長の下に行われる日本人研究者との共同研究はさらに考慮される。研究に基づく特別実験が予定される。
.アメリカ人だけによる全面的な共同研究は日本の問題に良い影響を与える。
  アメリカ人とこれらの条件を決定するに当たり、8以外はすべてアメリカ人の一般的意図に基づく。

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 亀井貫一郎は、東京帝国大学法学部卒で外交官として数年間アメリカで過ごした。サンダースが増田知貞大佐の尋問をしたとき通訳を務めている 。社会民衆党の衆議院議員として活躍したこともあったようであるが、戦時中は大政翼賛会の東亜部長を引き受けたり、東条首相の同意を得て「財団法人聖戦技術協会」を設立したりしたという。

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731部隊 石井四郎 直筆ノート

2008年06月17日 | 国際・政治

 「731」(新潮社)の著者である青木冨貴子氏は、2003年に「渡邊あき」を訪ねたとき、長男周一氏から、石井四郎直筆の大学ノート2冊 の存在を知らされたという。「渡邊あき」は石井四郎の薦めで渡邊吉蔵と結婚し、夫婦で石井部隊に勤め、ハルビンに住んでいたときも平房に引っ越してからも石井四郎の身のまわりの世話をしていたという人である。石井四郎直筆の大学ノートは、青木氏が公にするまでは全く知られていなかった「1945-8-16終戦当時メモ」と「終戦メモ1946-1-11」である。それを受け取ったときの感動を、青木氏は下記のように書いている。「731」青木冨貴子(新潮社)からの抜粋である。
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 A5判の黄ばんだ大学ノートで、1946年のノートには表紙に「石井四郎」と本人が名前を記している。開いてみると、鉛筆で、旧漢字を使った独特の崩し文字で書かれている。判読できない文字や数字が並んでいる。表題にメモとあるように、その日の出来事や用件を綴った覚書であり、いわゆる備忘録である。丹念に読みはじめるうち、行間から石井の息遣いが次第に伝わってくるようで、わたしの手はふるえた。
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 青木氏は、重要部分の一行一行をその意味するところを考察しながら書き進めているが、直筆メモの部分のみを、いくつか選んで抜粋する。(一部順不同)
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<新京に軍司令官当地訪問>
徹底的爆破焼却決定す
<1.工兵爆破 2.焼却 3.搬出積込 4.隊長 植村中尉を訪問 5.柴野隊出発 6.第**来訪 7.永山、江口、南棟整理>
<1)新京停車場貴賓室に徹夜>
<2)作業案を碇や況と共に作りて草地参謀と相談 指示を受けて>
<明朝早く安東に飛び、鈴木・柴野梯団を推進せしむ>
<安東へ石井部隊、東郷部隊、25201部隊を第1番に平壌へ向う様に山形参謀から大尉以下8名に厳命ずみなり>
<菊池隊154着釜 貨物汽車 ロスイキ甲は通化の停車>
資材は全部終結して、内地に隠匿すること
<処置、濾水キ用心 トラック、燃料運べ>
<内地へ出来る限り多く輸送する方針 丸太ーPXを先にす>
<帰帆船ならば人員、器材が輸送できる見込み>
<方針 一.婦女子、病者、及び
高度機密作業者は万難を排して内地に能う限り速やかに内地へ帰還せしむ
26/8
<1.医務局 予備 復員 資材は附近の陸病へ
 2.高山、中山 復員案 一部は東一院附 明日退 研究抽出
 3.河辺、民族防御賛成 科学進攻賛成、科学の負け、犬死にをやめよ、予備帰農賛成。
 4.梅津、民族防御賛成 科学進攻賛成、静かに時を待て。多年ご苦労を謝す。
 5.荒尾、予備賛成、説明は誰でもできる。他人の方が可。民族防御賛成、基礎科学をしっかりやること。誠心誠意、最後まで後始末を堂々。豚箱に入る約一年の期間あらん>  

<一.支線不通 暴動のため本線一日一本>
<三.昨夜、3、000朝鮮人 牡丹江終結>
<六.松村参謀は内地から平壌へ>
<皇帝は汽車で平壌迄、飛行機で東京へ>
<疎開支部を作れ><安東、平壌、京城、釜山><私服とせよ、地方人の>
<1.鈴木列車を釜山へ直行 2.野口列車も同様 3.柴野列車も同様 4.草味列車も同様>

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731部隊 新妻ファイル「特殊研究処理要領」

2008年06月14日 | 国際・政治
 下記は、陸軍省軍務局軍事課課員、技術政策担当の新妻清一中佐の覚書である。あらゆる陸軍兵器の研究・開発を所管する軍事課の技術将校として、連合国側に知られてはまずい生物兵器の研究や開発に関わる関係部署に証拠隠滅を命じた証拠の極秘文書である。「731免責の系譜」太田昌克(日本評論社)によると新妻中佐は、阿南惟幾陸軍大臣に直接決裁を求める要職にあったという。太田昌克氏は何回も世田谷に住む新妻邸を訪れ取材するとともに、覚書や備忘録など様々な資料を入手しているというが、下記はその一つである。
---------------------------------
                特殊研究処理要領
                                      20・8・15
                                        軍事課
一、方針
  敵ニ証拠ヲ得ラルル事ヲ不利トスル特殊研究ハ全テ証拠ヲ陰(ママ)滅スル如ク至急処置ス

二、実施要領
1、ふ号、及登戸関係ハ兵本草刈中佐ニ要旨ヲ伝達直ニ処置ス(15日8時30分)
2、関東軍、731部隊及100部隊ノ件関東軍藤井参謀ニ電話ニテ連絡処置ス(本川参謀不在)
3、糧秣本廠1号ハ衣糧課主任(渡辺大尉)ニ連絡処理セシム。(15日9時30分)
4、医事関係主任者ヲ招置直ニ要旨ヲ伝達処置、小野寺少佐及小出中佐ニ連絡ス(9、30分)
5、獣医関係、関係主任ヲ招置、直ニ要旨ヲ伝達ス、出江中佐ニ連絡済(内地ハ書類ノミ)10時

(注)B5版の便箋の表と裏に鉛筆で記されている。記録者は新妻清一中佐

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 の「ふ号」とは陸軍内の秘匿名で風船爆弾のことである。開発を進めていたのは陸軍第9技術研究所で、登戸研究所と呼ばれ、風船爆弾以外にも中国の偽造紙幣を製造したり毒物や細菌の謀略的使用を研究、秘密戦・謀略戦を中心に非合法領域も扱う特殊機関であった。
 はいうまでもなく、3000人ともいわれる人間を人体実験や生体解剖で殺し、ノモンハンや中国の何カ所かで細菌戦を展開した組織である。
 は新妻中佐の証言によると種子島にあった陸軍糧秣本廠で、黒穂菌の研究をしており「ふ」号に積むことを画策していたということである。本来、陸軍糧秣本廠は軍内の食糧や馬の飼料などの調達・補給を任務とするが、敵の食糧を攻撃するため、麦類の花穂を枯らす病原菌の極秘研究をしていたというのである。 
 は2とも関わり、あらゆるところで国際法に反するような研究がなされたり、情報交換がなされていたことを物語っていると思われる。知られるとまずいことがあり、証拠の隠滅が必要だったのである。

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731部隊”細菌戦について”牧軍医中佐講演記録

2008年06月12日 | 国際・政治

 下記は、「<悪魔の飽食>ノート」森村誠一(晩聲社)の資料に入っている「細菌戦ニ就テ」という牧軍医中佐の講演記録(「満州帝国軍医団雑誌」に掲載されたという)のはじめの部分である。731部隊の取り組みの事実が漏れることを恐れていることがよく分かる。
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        細菌戦ニ就テー康徳9年3月6日於治安部会議室
                                    関東軍=牧軍医中佐
御紹介ヲ受ケマシタ牧軍医中佐デアリマス
命ニ依リマシテ、只今カラ約2時間ニ亘リ、細菌戦ト云フコトニ就テ御話ヲ致スコトニ致シマス。コレニツイテ御話ヲ致シマスコトハ自分ガ有ッテヰル考ヘ、例へバ日本軍若シクハ国軍ガ有ッテヰル考ヘヲ或程度一般ニ発表シマスコトニナルノデアリマス、従ッテ従来ハコノ細菌戦ト云フ字スラ何レノ国モ軍当事者ニ於テ内密ニ使用シテ他ノ適宜ノ字句ヲ代用シテ居ツタ訳デアリマス。換言スレバ細菌戦ト云フヤウナ題目ヲ以テ御話スルト云フコトハナカッタノデアリマス近頃ニ各国ガ戦時下ニコノコトヲ云ヒ出シマスシ、又日本軍並ニ国軍ニ於テモコノ問題ガ俄ニ重要性ヲ増加シテ来マシタノデ、極ク最近カラ大キナ顔ヲシテ細菌戦ト云フ字句ヲ出シタ訳デアリマス。ソレデ私ガ申スコトノ中デ奥歯ニ物ノ挟マツタヤウナトコロデ打切ル事項ハ、特別ニ研究ヲ要スル事項カ、若シクハ一般ニ御話スルコトガ具合ガ悪イト云フ事項デアリマス。従ッテ若干不明瞭ナ所ガ出来ルカモシレマセンガ此点予メ御断リ致シマス。

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 このように断った後、下記のようにいくつかの点で細菌戦の有効なことを語っている。
----------------------------
・・・
従ツテ斯ウ云フモノヲ兵器トシテ使フノニ、平時デアッテモ戦時デアッテモ、何時デモ使ヘル、斯ウ云フヤウニ眼ニ見エナイモノデスカラ戦時ニ使フト云フコトニナレバ一向訳ナク使ヘルト云フトコロカラ、戦サヲヤッテヰル者ニモ大砲ヤ小銃ヲ作ッテヰル所デモ使ヘル。又後方ノ所謂兵站地ト云フ所ニ於テモ使フコトガ出来ルト云フヤウナコトガアリマス。
又コノ細菌ハ、今申上ゲマシタヤウニ、眼デ見ルコトガ出来マセンカラシテ、或程度人ニ気附カレズシテ、思ヒ切ッテ使フコトガ出来マス。一ツノ弾丸ニシタラ、ソノ弾丸ダケノ効力デ終ル。爆弾デアレバ爆弾ソレダケノ効力デ終ルノガ普通デアリマスガ恰度焼夷弾ガ火災ヲ惹起スト云フ以上ニ、一回ノ細菌ノ攻撃ヲシタ後ハソレニ依ツテ続イテ、伝染病ガ流行ツテ来ル。一ツ起レバソレニ続イテ、影響ガ起ツテ来ル。斯ウ云フコトガ一般兵器ト非常ニ違フノデアリマス。又或時ニナルト、サウ云フ病気ガ何時マデ経ツテモ除キ切レナイ。従ッテソレカラ長ク伝染病ノ病原ガ続クト云フコトガ此ノ戦争ニハアル訳デアリマス。従ッて戦ヲ起コシテイル交戦国ガ御互ニ原動力デアル国民ノ日常生活ヲ脅カシテ、イロイロ精神的ニモ脅威ヲ与ヘルト云フコトガ所謂細菌戦ノ特長デアリマス。尚コレハ何故斯ウ云フ風ニ伝染病ガ起ッタカ、コレノ攻撃ヲ受ケテカラ、ドウ云フ風ニ防イダライイカト云フコトガ非常ニ処置ガシ難イノガ特長デアリマス。

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731部隊 パウエル論文

2008年06月09日 | 国際・政治
 下記は「<悪魔の飽食>ノート」森村誠一(晩聲社)に資料として入っている「歴史に隠された一章」と題されたいわゆる「パウエル論文」の一部抜粋である。森村誠一氏が下里正樹氏の協力を得ながら、多数の元隊員の取材を重ね731部隊の全貌にせまっていた同じ時期、ジョン・W・パウエルは731部隊とアメリカの裏取引の実態を明らかにしていたというのである。彼は、米軍が朝鮮戦争で731部隊が開発したものと酷似した細菌兵器を使い北朝鮮を攻撃したことや、その攻撃に日本の専門家を使ったことを暴露して国家反逆罪に問われた。「731」の著者青木冨貴子氏によると、その裁判が打ち切られたのはロバート・ケネディが司法長官になってからのことであるという。「731」青木冨貴子(新潮社)には次のような一節もある。
 「……ドナハイの帰国が近づいて頃、モロウはクリーグ燈の照りつける法廷に初めて立った。7月22日、「中国(満州をのぞく)に対する軍事的侵略」に関する立証の冒頭陳述からはじめた。そのなかにはいわゆる「南京虐殺」も含まれた。彼は中国人4人を含む6人の検察側証人を召喚した。そのうちのひとりが8月6日に証言台に立ったジョン・B・パウエルである。パウエルは35年後の1981年、情報公開法によって入手した極秘文書に基づく論文を発表、初めて米国と石井部隊の取引を実証したジョン・W・パウエル2世の父である。父パウエルは1917年から上海を拠点に中国で活動したアメリカ人ジャーナリストだった。1942年、日本軍の捕虜になるまで日中戦争をつぶさに目撃した歴史の証人である。……」
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                歴史の隠された一章
                           ジョン・W・パウエル 森村誠一訳
●──アメリカ人の捕虜もいた
私は、このほど米国情報公開法にもとづき永久保存の秘密文書を入手した。これによって太平洋戦争のもっとも醜悪な一面が詳細に判明した。すなわち、日本が、中国・ソ連に対して仕掛けた細菌戦争の全容がそれである。日米両国政府は、戦後の長期にわたって細菌戦争の事実を隠しとおしていたのである。
日本政府が、細菌戦の試みを隠したいと望むのは理解できる。だが、アメリカ政府もその隠蔽に関わっていたのだ。細菌を「死の兵器」に転用する日本の技術を、ワシントンが独占したいと望んだためである。
米国は、細菌戦の研究にたずさわった日本人の戦争犯罪告発を免罪し、日本人側はその代わりに自分たちの研究記録をキャンプ・デトリック──今日のフォート・デトリック──の米代表に手渡したのである。
日本側の研究記録によれば、1930年代末期には、日本の細菌作戦計画は実験実行の段階に到達していた。細菌戦は中国の軍と民間人に対して実行に移され、一定の成果をあげた。また、結果は不明であるが、ロシア人に対しても細菌戦がおこわれた。
日本は1945年までに、細菌と菌媒介動物、それらの伝播手段を、どんな国もおよばないほど大量に蓄えていた。
日本が他国を断然引きはなしていた最大の理由は、細菌研究にたずさわった科学者たちが、人間をモルモット代わりに使ったからである。少なくとも3000人の人間が細菌戦実験施設で殺された。施設の暗号名は第731部隊と呼ばれ、ハルビン南方数マイルの地点にあった。
被実験体となった人間は、実験中に死亡するかあるいは肉体的障害を受け、実験材料に適さなくなり、殺された。731部隊で殺された死者の正確な総数はわからない。が、少なくともハルビン南方以外に、二つの細菌戦用施設があった。
長春(旧新京)近くの第100部隊と南京にあったタマ分遣隊の施設がそれである。(2つの施設では)731同様の生体実験がおこなわれていたことが知られている。
こうした話は、ここ数年来明らかにされていたことである。だが、人間モルモットの中に、戦争初期に日本軍捕虜となり、満州の捕虜収容所に監禁されていた人数不明のアメリカ兵がいたことは、ごく最近まで知られていなかった。
終戦直後、ワシントンはこの事実を知っていながら、731隊員の告発をしない旨、決定を下したのである。このほど私が入手したアメリカ政府の公式内部文書は、そのことを暴露している。
公開されたトップ・シークレット(最高機密)文書の存在は、この間の詳細を明らかにし、当時、第731隊員の戦争犯罪追求を免罪する決定を下した米国政府高官多数の果たした役割について、大きな疑惑を生じさせるものである。

●──東京発ワシントン宛秘密電報(略)
●──格安な買い物だった(略)
●──石井を免罪し資料を入手せよ(略)

 

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731部隊 内藤良一とサンダース 戦犯免責

2008年06月07日 | 国際・政治

 下記は、陸軍軍医学校の教官であり、「防疫研究室」の実質的責任者であった軍医大佐内藤良一(「石井の番頭」と公言して憚らなかったという)の「マレー・サンダース中佐への秘密ドキュメント、1945年9月」の一部抜粋である。内藤良一は戦犯訴追を免れるために、一部ではあるが真実を明らかにせざるを得なかったのである。これは、「731」青木冨貴子(新潮社)によると、『週刊ポスト』誌米国駐在員安田弘道「マレー・サンダース医学博士取材報告」に続いて掲載されたものであるという。(赤字は抜粋者、BWはbiologicalwarfareの略)
------------------------------
 「あなたがBWに関する調査をはじめて以来、大本営参謀本部高級将校の間では、大変な狼狽が起き、長時間に渡って、真実を答えるべきかどうかの議論がありました。
 多数意見は、敵を攻撃するようなBWは持っていないのだから、真実を話すべきだというもの。しかし、少数ながら、科学的実験がないから隠そうという意見もあった。
 後者である軍務局長、参謀本部副官は、
日本が攻撃的なBWのための研究所を持っていた事実が判明すると天皇の命運にかかわることを懸念している。
 日本陸軍が防御用のためだけでなく攻撃用のBWのための組織を持っていたのは事実です
 多くの研究者が動員され、それぞれが特別のテーマを与えられました。実験結果は、秘密を守るためということで、公表されません 。又研究者は他の研究員がなにをやっているかわからず、各研究所の責任者は常に入れ替わっています。これに加え、ロシア軍の突然の侵略と同時に、研究結果は焼かれており、ハルビンの実験報告を入手するのは不可能と思います。
 こうした情報が参謀本部スタッフへ反するものであることを心配しています。あなたが読んだ後で焼却するように頼みたい。私はこの情報に生命を賭けている。
私が情報提供したことがわかれば、殺される……
------------------------------
 内藤良一が上記の「マレー・サンダース中佐への秘密ドキュメント、1945年9月」を提出するに至る経過について「731」青木冨貴子(新潮社)には、下記のような朝日新聞ニューヨーク支局小林泰宏特派員のマレー・サンダースへのインタビュー内容が取り上げられている。
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 サンダース博士は戦後はコロンビア大学教授(細菌学)などを務め、退職後は、フロリダ州ボカラトンに医学研究所を設立、研究・治療にあたっている。大戦中は、化学戦部隊に配属され1945年夏フィリピンでマッカーサー総司令官から『731』の調査を命ぜられ、日本に上陸、調査を開始した。インタビューは、同博士のオフィスで行った。同博士の記憶ははっきりしていた。
────事前情報は、どの程度あったのか。
 終戦の数ヶ月前から、満州の平房で『防疫給水部』の偽名で細菌化学兵器を開発している部隊があり、
そのトップがイシイという名前であること、中国人を実験台にし、中国領土で細菌をまいたことがあることなどを知っていた。
───隊員との最初の接触は。
 調査開始後、通訳として、ドクター・ナイトウがやってきた。私は最初、ナイトウが731部隊幹部とは知らなかった。今から考えると、だれが彼をよこしたのか不思議だ。ドクター・ナイトウは、その後、ミドリ十字の社長になった。彼とは、その後も非常に親しく付き合った。
───調査はどう進んだか

 最初、名前を知っていたミヤガワ、キムラといった京大教授たちに会った。だが、彼らは内部情報は何も知らなかった。
 そのうち奇妙な事態が続いた。深夜、ナイトウのいない時を狙って、731の幹部から若い兵士たちまで、こっそり私に会いに来た。細菌爆弾の設計図を渡しに来た者もいた。みんな、そのかわりに自分だけは戦犯を見逃してくれと私に頼んだ。

────内藤氏は?
 あまり協力しないで逆に私をためそうとした。1ヶ月ほどしたころ、
私は『これでは厳しい尋問をする人間に任せざるを得ない』と通告した。すると、その夜、彼は徹夜をして報告書を書き、持ってきた。それにより、私は初めて全体像をつかめ、リストにより次々と幹部を尋問することが可能になった。」
-------------------------------
 また、安田弘道の「マレー・サンダース医学博士取材報告」の中の、インタビュー内容も引用されている。下記のようなもので、上記インタビューの内容とほぼ同じである。
-------------------------------
───当時与えられた任務は?
 サンダース(以下S)日本のBW(細菌戦)の実態について調べることだったが、その時私に与えられていたのは、ほんの数人の名簿だけ。この名簿に基づき、最初に会ったのがミヤガワ・ヨネジ東大医学部教授。(略)なにかの手掛かりがつかめるのではないかというのでリストアップされていたのだが、彼は何も知らないとのこと。ガッカリしたのを覚えている。それから会ったのが、日本軍の軍務局長・次官・軍医関係高級将校などで上林(神林のこと)、イズキ(出月のこと)なども含まれていたが、全員”細菌兵器の開発などやっていなかった”と百%否定。最初の十日間で調査は行き詰まってしまった。

───細菌兵器の開発は行っていないという証言を信用したのか?
S  いや信用しない。というのは、私たちは1944年の早い時期から、陸海軍情報部の報告を受け取っており、日本軍が研究していることは知っていた。
 行き詰まった時、私は内藤氏にこう語った
。”このままでは、私は本国に戻り、彼らは調査を拒否していると報告せざるを得ない。この場合、どんな事態が起こるかわからない。
 そこで、彼らがもし真実を語るならば、その秘密を守り、戦争犯罪として追及しないようにするが……”

 内藤氏が応えた。”24時間待ってもらえないだろうか。どうかその間に本国へ戻るというような決心はしないで欲しい”
──なぜ、戦争犯罪にしないと約束したのか?
S 彼らが恐れているのは、戦争犯罪の点であることはわかっていたし、私の任務は、犯罪追及ではなく、全貌を知ることにあったからだ」

-------------------------------
 そして内藤良一は上記の「マレー・サンダース中佐への秘密ドキュメント、1945年9月」を提出したというのである。

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