真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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竹島領有権問題その4(安龍福の証言ほか…)

2010年02月23日 | 国際・政治
 現在は竹島の領有権が問題になているが、歴史的には対馬藩が、鬱陵島(かつて日本人はこの島を竹島と呼んだ)の領有権を得るために画策したこともあったし、日本人が知って知らずか、約束を破って鬱陵島に侵入することが、たびたびあったようである。下記は、そうしたことに関する「史的解明 独島(竹島)」愼鏞廈<著>韓誠<訳>からの抜粋である。
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第5章 鬱陵島(ウルルンド)、独島(トクト)領土論争と安龍福(アンヨンボク)

1 17世紀末の日本による鬱陵島、独島侵奪の試み

 朝鮮の東海(日本海)と南海沿岸の漁民たちは、鬱陵島にこっそり行っては漁労や造船に励んだ。一方、徳川府は1618年、大谷と村川の両家に”鬱陵島渡海免許”を与えていたので両国の漁民は時々衝突した。
 1693年(粛宗19年)の春には、鬱陵島で魚をとっていた東萊(トンネ)、蔚山(ウルサン)の漁民40名と、鬱陵島に漁業にやってきた日本人漁民たちの間で衝突事件が発生した。
 数的に優勢であった日本人漁民たちが、朝鮮の蔚山(ウルサン)のボス格である
安龍福(アンヨンボク)・朴於屯(パクオドン)らにゆっくり話し合おうと、うまく持ちかけて隠岐島へ連行した。
 安龍福は隠岐島主に鬱陵島は朝鮮の領土であることを訴えた。そして”朝鮮人が自分の国の地に入っただけなのに何故に拉致したのか”と抗議した。隠岐島主は上司である伯藩の藩主に安龍福を引き渡した。そこでも安龍福は堂々と朝鮮領土であることを主張した。そして日本は日本人漁民が国境を越えて出漁するのを取締まるべきだと要求した。
 当時の伯耆藩の藩主は鬱陵島が朝鮮の領土であることを知っていたので、安龍福を江戸幕府に引き渡した。
 江戸幕府は審問した結果、彼の主張に一貫性があり、事実を述べていることを認め、”鬱陵島は日本の領土ではない”(鬱陵島非日本界)という外交文書を伯耆藩の藩主に書かせ、安龍福らを江戸から長崎、対馬を経て朝鮮に送り返そうとした。
 しかし安龍福らが長崎に着くと、対馬島主は彼らを再び捕縛し、対馬へ連行し、そこで鬱陵島は日本の領土ではないと書いてある外交文書を奪い、彼を、日本領土である鬱陵島を侵犯した罪人あつかいに、朝鮮の東萊府で朝鮮側に不法な要求をつきつけて彼を釈放した。
 要するに、対馬島主は安龍福を事件を逆に利用して幕府の全権大使のように振舞いながら、橘真重を使節に任命し、人の住まない鬱陵島を対馬藩所属の島にしようと画策したのである。

 対馬島主は1693年11月に安龍福らを送り返す時に、橘真重を派遣し、東萊府使を通じて朝鮮側に書状を送りつけた。 
 その書状では東海に鬱陵島ではなく竹島という日本領土が存在するかのような表現法を使い、”これからは日本領土である竹島に朝鮮の船が入るのを絶対に許さないので、朝鮮側も竹島での漁労を厳しく取り締まってほしい”というとんでもない要求をつきつけてきた。

 対馬島主は、鬱陵島がすなわち竹島であることを知りながも、朝鮮政府から竹島が日本領土であることを認める公文書を手に入れた後、鬱陵島=竹島を領土紛争地として争い、最終的には対馬島に帰属させよう、という戦略があったに違いない。

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 下記は日本側の「竹島での漁労を厳しく取り締まってほしい」との要求に対する回答であるが、竹島が鬱陵島であるということを知りながら、知らないふりをし、竹島が鬱陵島とは別の島であることにして回答したものであるという。
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2 朝鮮政府の穏健派による対応

 ・・・
……つまり、朝鮮政府は鬱陵島が朝の領土であることだけを明確にして、日本側の書状に書かれてある竹島が鬱陵島であるとしりながら、知らないふりをして竹島での朝鮮漁民の出漁を禁じる次のような返事の書状を橘真重から対馬島主に伝えさせた。

 「わが国の東海沿岸の漁民に外洋に出るのを禁じたのは、たとえわが領地の鬱陵島とはいえ遠方の故、勝手に行ったり来たりするの許していないのであるが、いわんやそれ以上の遠方においては。この度、わが国の漁船が貴国の境地である竹島に入り込んだため領送(送還)という手間をとらせ、また書状まで持たせてくれて本当に隣国同士の親善の交誼に感謝するものである。」

 ・・・ 
 東萊倭館(トンネウェグァン)で待機していた橘真重は”貴国の境地である竹島……”と書いてある回答文で半分、目的を達成したのも同然であったが、”わが国の境地である鬱陵島”という字句が、鬱陵島の侵奪の妨げになると考え、”書状に竹島という名だけで済むことなのに、鬱陵島という名があるのはどういうことか”と抗議し、鬱陵島の名を削除することを要求した。

 橘真重は回答文の受け取りを15日間、拒否し続けたが、結局断念してそのまま回答文を携えて対馬に帰国した。その時、もし朝鮮政府が”わが国の境地である鬱陵島”という字句を削除していたら、日本は鬱陵島を竹島の名で自国の領土に組み入れられる朝鮮政府の書状を手に入れることができたというものである。
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3 強硬派の執権と日本の侵略企図撃退

 対馬からの使者・橘真重が、朝廷からの回答文に不満を抱き、相当ごねた挙げ句、帰国したという噂が朝鮮朝廷に伝わると、穏健派に対する批判と糾弾の声が一挙に高まった。
 そして、ついに穏健派は退陣し、南九万(ナムグマン)らの強硬派が執権するに至った。


 ・・・
 粛宗国王も領議政・南九万(ナムグマン)の意見を取り入れ、前回の回答書(上記)を取り戻すように命じた。
 ・・・
 ……そこ、南九万(ナムグマン)領議政は前回の回答書を取り消し、新しい回答書の作成に取りかかった。その要旨は鬱陵島がまさに竹島であり、朝鮮の領土であると明確にしたことであった。
 また日本人が鬱陵島に入り込み、安龍福らを日本に連行したことは、朝鮮領土への侵入であり干渉である(侵渉)とした。
 また朝鮮人を朝鮮の領土から連行(拘執)したのは重大な過ちであると指摘し、このことを江戸幕府に伝え、二度と日本人が鬱陵島に入り込まないように対策を講じてほしいと要求した。
 対馬の使節は、この修正された回答書を受け取り、”侵渉”と”拘執”を他の表現に直すことを要請し、また対馬島主の2回目の書状に対する返書を要求したが、これらすべてを朝鮮朝廷は拒絶した。
 朝鮮朝廷は三陟僉使(サムチョクチョムサ)(従三品の武官)・張漢相(チャンハンサン)を1694年9月から10月にかけて鬱陵島に派遣し、そこを調査させた。張漢相の報告を受けた領議政・南九万は移住政策を実施するより、1年から2年に一度ずつ島に対する探査をするのが賢明であると進言し、王から許しを受けた。之によって1694年以降は、朝鮮朝廷の定期的な探査(捜討)政策が実施された。

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4 徳川幕府の将軍による鬱陵島、独島の朝鮮領土再確認

 ・・・
 1696年(粛宗22年、元禄9年)1月に(対馬島主宗義真が)将軍に対面した時、伯耆藩藩主ら4名が居並ぶ中、将軍から鬱陵島問題について宗義真に質問があびせられた。
 
将軍以下、幕府の協議を重ねて検討した結果、鬱陵島を朝鮮の領土と認めざるを得ない結論に達し、日本人の鬱陵島出漁を以後一切禁止することに決定した。
 その時の質疑応答と将軍が最終的に下した結論と、対馬島主に命じた事柄の要旨は次のようなものである。


① 鬱陵島は日本の島根県から160里の距離であるのに対し、朝鮮からは40里
  ほどの距離で朝鮮に近いことから、朝鮮の領土とみなす方が自然であること
② 日本人の鬱陵島への渡航を禁止すること

③ このような内容を対馬の島主が朝鮮に伝えること
④ 対馬島主は対馬に戻れば、刑部大輔(裁判官)を朝鮮に派遣し、この決定を朝
  鮮に知らせた後、その結果について将軍することであった。
 
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5 安龍福の活動

 ・・・
 《粛宗実録》によると、安龍福は1696年(粛宗22年)の春に万全の準備をして蔚山に行き、そこで鬱陵島に行けば海産物がどっさり手にはいると宣伝し、順天の松慶寺の商僧・雷憲と李仁成、劉日夫(船頭)、劉奉石、金吉成、金順立ら16名とともに鬱陵島に船を向た。
 鬱陵島には、すでに日本の船がたくさん停泊していた。そこで安龍福が彼らに怒鳴りつけた。


 ”鬱陵島はもともとわれわれの島であるのに、日本人がなぜ国境を越えて入ってくるのか。お前たちは皆、捕らえられるべきだ”と
 日本人がこう答えた。
 ”われわれはもともと松島(于山島・独島)に住む者だが、たまたま魚を追ってここに来たのであって、すぐ帰るつもりだ。”
 安龍福はこれに対して
 
”松島は于山島で、やはりわれわれの島だ。どうして松島に住んでいるのか”(松島即于山島比亦我国地汝敢住比島)と言い返した。
 そして次の日、于山島に行ってみると、昨日の漁夫たちが釜で魚を煮ていたので棒切れで追っ払ったところ、皆、船に乗って日本へ帰って行った。


 安龍福らは彼らを追って日本の隠岐島に上陸した。隠岐島主が安龍福に渡航理由を尋ねると彼は大声で怒鳴った。
 ”何年か前、私が日本に来た時、鬱陵島、于山島などの島は朝鮮の領土の境界に決まり、将軍の書状まで頂いたのに、日本は分別もなく我が領土を踏みにじるのか”
 (傾年吾人来比処以鬱陵島・于山島等島定以朝鮮地界至有関白書契而本国不有定式今又侵犯我境是何道理云爾)

 これに対し、隠岐島主は彼の抗議の内容を伯耆藩主に必ず伝えると約束した。しかしいくら待っても何の消息もなかった。
 安龍福はこれに憤慨し、船で伯耆(島根県)に向かった。


 ・・・
 
 伯耆藩主はこれを承諾したので、安龍福は李仁成をして上訴文を書かせて将軍に手渡すよう求めた。
 この時ちょうど対馬島主の父親が伯耆藩主を訪れて、”もしこの上訴文が将軍のもとに届けば私の息子は必ず処罰され、死を免れないので絶対にこの上訴文を受け取らないでほしい”と要請したのである。そのため、安龍福の上訴文は将軍のもとに届かなかった。
 しかし
伯耆藩主は、鬱陵島に侵入した漁民たちを15名を捕らえ、処断した上でこう約束した。
 ”2つの島はすでに朝鮮の領土なのだから、今後、国境を越え、侵入する者があったり、また対馬島主が不法に侵奪しようとした時は、朝鮮側が国書を携えて訳官(通訳)をめて日本に派遣したらよろしい。そうすれば必ず厳罰をもってのぞむつもりである”

 (両島既属爾国之後或有更為犯越者島主如或横侵竝作国書定訳官入送則党為重処)


 ここで注目すべきは、安龍福の談判でもって1696年に伯耆藩主が”2つの島、つまり(鬱陵島と于山島・竹島と松島)はすでに朝鮮の領土である”とはっきり認めていることである。
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6 17世紀末に鬱陵島、独島領有権論争は集結した

 韓国側と日本側の資料の日付が正確であれば、安龍福と伯耆藩主との談判は、江戸幕府が鬱陵島問題対して、鬱陵島が朝鮮の領土であることを認め、日本人漁民の鬱陵島への渡航を禁じた1696年1月以降の何ヶ月間の間にあったものと考えられる。
 この時点で日本側は独島を鬱陵島の付属島とみなし、将軍の1696年1月の鬱陵島問題に対する決定と命令は、鬱陵島と付属島の独島を含めてのことであり、安龍福の活動によって文書化されている。つまり”2つの島(鬱陵島と独島)はすでに朝鮮の領土である”という記録が残されている。

 ・・・(以下略) 
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7 徳川幕府の古地図には鬱陵島、独島が朝鮮領土と表示してある

 ・・・
 ここで注目すべきこは、江戸時代の代表的地図(三国接壌地図と総絵図)が鬱陵島と独島を朝鮮の領土であると明記し、それも”朝鮮ノ島”とせず、朝鮮ノ持ニと記したことである。これは17世紀末の朝鮮と日本との”鬱陵島、独島論争”が解決し、”朝鮮の島に”確定したという徳川幕府の、1696年1月の最終決着がこれらの地図に反映したものとみることができる。
 ・・・(以下略)

 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。読み仮名は半角カタカナの括弧書きにしました。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。

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韓国中学校教科書の竹島(独島)記述(竹島領有権問題13)

2010年02月20日 | 国際・政治
 下記は、国立公文書館内閣文庫所蔵「外務省記録」「竹島考證」の末尾に「参考史料」として取り上げられている「韓国の学校でどのよ うに教えているか、実際の韓国教科書で独島(竹島)の記述部分を翻訳して掲載した。参考にして頂ければ幸いである」とあるページの転載である。
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独島と間島

 日本は、わが国を侵略する際、独島を強奪し、間島を清に渡した。
 その後、粛宗の時に鬱陵島へ行った安龍福は不法に侵犯した日本漁師を退け、日本に渡ってわが国の領土であることを確認させたこともあった。
 しかし、日本の漁民は密かに鬱陵島の木材を伐採したり魚をとったりするなど、ここを頻繁に侵犯した。そこで鬱陵島の巡察に当たったわが国の官吏たちはこうした事実を知り、朝鮮政府は日本に抗議した。その後、政府は鬱陵島への移住を奨励し、官庁を置いて独島も管轄した。しかし、日本は日露戦争の時、強制的に独島を日本の領土へ編入してしまった。
 その後、日本は満州の侵略のため南満州鉄道に対する利権と交換する条件で、間島を清に渡す間島条約を締結した(1909)。

参考教科書
国史 中学校 下
1990年3月1日、初版発行1993年3月1日発売。
著作権者・教育部。
編纂者・国史編纂委員会、1種図書研究開発委員会。
発行人・ソウル特別市瑞草区草洞1361-5
大韓教科書株式会社、印刷所・大韓教科書株式会社

【注】日本名竹島。島根県に属する。江戸時代以来の係争地。1905年1月28日、日本政府は閣議決定により「本邦所属」とし、島根県は同年2月22日告示第40号によりこの島を竹島とした。



 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。青字が書名や抜粋部分です。

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川島健三「安竜福 供述虚言・虚構論」(竹島領有権問題12)

2010年02月08日 | 国際・政治
 竹島領有権論争において、江戸時代に2度来日した「安竜福(アンヨンボク)」(川上健三の著に従い竜の字を使う)の供述が重要であることは誰しも認めるところである。日本の竹島領有権の主張をリードした川上健三は、安竜福の供述の主要部分が虚言であり虚構であると「竹島の歴史地理学的研究」の中で繰り返し書いている(資料1)。しかしながら、川上健三の虚言説を根底から揺るがす重要文書、「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」が、2005年5月16日に島根県隠岐郡海士町村上助九郎邸宅で発見された。それには

「一 安龍福申候ハ 竹嶋ヲ竹ノ嶋と申 朝鮮国江原道東莱府ノ内ニ欝陵嶋と申嶋御
   座候 是ヲ竹ノ嶋と申由申候 則八道ノ図ニ記之所持仕候
 一 松嶋ハ右同道之内 子山と申嶋御座候 是ヲ松嶋と申由 是も八道之図ニ記申
   候」
(http://www.viswiki.com/ja/村上家古文書) 

と記録されていたのである。安竜福の供述の疑問点がすべて判明したわけではないし、確かに官名を詐称し虚勢を張ることがあったようであるが、韓国側が主張する安竜福の供述の最も重要な部分が、日本側の記録によって裏付けられることとなった。彼は、「朝鮮之八道図」を持参し、鬱陵島だけではなく、「子山」(安竜福のいう子山は独島・現竹島のことであり、当時の日本人は松島と呼んだ)の領有権も主張していたのである。
 また、川上健三が安竜福の虚言のなかで、「そのうちでも最も決定的、かつ、明白な虚言は、彼が僧雷憲等を語らって鬱陵島におもむいたところ、同島には『倭船亦多来泊』と述べている点である。しかしこの年元禄9年(1696年)には、大谷・村川両家は、いずれも鬱陵島には渡航していないのである。」と言っている部分についても、そうではないことが、この文書からわかるという(資料2)。
 安竜福の来日の時点では、未だ渡海禁止令は伝達されていなかったというのである。資料2は「史的検証 竹島 独島」内藤正中・金柄烈(岩波 書店)から抜粋の抜粋であるが、他は「竹島の歴史地理学的研究」川上健三(古今書院)からの抜粋である。  
資料1-------------------------------
第3節 竹島一件

2 鬱陵島の所属をめぐる日鮮交渉

 鬱陵島が完全な空島と化し、朝鮮国政府によって事実上放棄されるや、同島への日本人の出漁はようやく繁きを加え、文禄役後約百年にわたって日本人の完全な魚採地と化すようになった。これに伴い、江戸時代初期以来同島の所属をめぐって日鮮両国の間で交渉が行われることとなった。その交渉の時期は必ずしも明らかでないが、慶長9年(光海君6年=1614年)7月、朝鮮国東萊府使尹守謙はわが対州藩主宗対馬守義智に書を致し、さきに宗氏が磯竹島の日本領有を主張したことに反駁して、次の通り主張した。


 ・・・

 すなわち、尹はその書において、磯竹島は来使のいうところによれば、慶尚江原両道の洋中に在るとのことであるが、それはわが国のいわゆる鬱陵島であり、載せてわが輿図にあると断ずるとともに、日鮮両国は古くからその境界には区別があり、往来あるときはただ一路をもって門戸としており、そのほかはみな海賊をもって論断すべきを警告するところがあった。
 しかし、宗氏は磯竹島が碇泊に便なることを述べて、重ねてその開放を求めた。これに対して同年9月、尹守謙に代わった新任の東萊府使朴慶業は、重ねて前府使の主張をくり返すとともに、前日の書この大概をつくしているにもかかわらず、またその船を泊し纜をとくの便をもって重ねて鬱陵島の開放を求めるは、わが朝廷をかろんじ、道理に眛いといわざるをえない、との相当強い語調をもってこれを反駁
した。
 しかしながら、この時の交渉は、この応酬以上には発展することなくして終わった模様である。
……
 その後80年近くは、別に朝鮮との間に問題を生ずることなく、大谷・村川両家による竹島(鬱陵島)出漁が平穏のうちに続けられていたところ、元禄5年(粛宗18年=1692年)に至って、同年渡海の順番に当たっていた村川の者は、多数の朝鮮人が鬱陵島に出漁しているのに遭遇した。……

 ・・・

 右の顛末は直ちに藩庁に報告されたが、藩丁はまた事の重大なるを慮ってこれを幕府に報告し、その指示を仰いだ。しかし、この度は特に日鮮間に問題をひき起こしたわけではなく、幕府としては、朝鮮人も船の修理ができ次第鬱陵島より早々に退去したものと判断し、取り立ててこれを問題とはしないことに決した。

 ・・・

 さて、翌元禄6年(1693年)には、前年の村川家に代わり大谷の手代等が、3月17日に鬱陵島に渡航したところ、すでに多数の朝鮮人が来島して魚猟に従事しているのを発見した。大谷家の漁夫たちは、そのままに捨ておくときは、ついにこの所務の地を彼等によって奪われることをおそれて、漁猟をせずに専らその動静を探り、安龍福、朴於屯の両名を質としてとらえ、18日に鬱陵島を退去、4月27日には米子に帰着した。

 ・・・

 米子の家老荒尾修理より報告に接した藩丁は、とりあえず事の趣を江戸に報じてその指示を仰ぐとともに、その指示あるまで安龍福等2名の朝鮮人は米子の大谷九右衛門勝房方にとどめ、大和組のうちより作廻人を申し付け、足軽両名を附添わせて警固に当たらせた。

 ・・・

 5月29日に至り、江戸より飛脚が到着、両名を長崎に護送するように指示があったので、陸路これを送る手筈を定め、5月29日に米子を発足、6月1日には鳥府に到着した。同日米子城主荒尾大和の別宅に一泊、翌日からは本町二丁目の会所に移された。次いで6月7日、山田兵衛門、平井甚右衛門を護送役として鳥府を出発、6月30日に長崎に到着し、翌7月1日には無事長崎奉行所に両名を引き渡した。
 長崎奉行所に引き渡された安龍福および朴於屯の両名は、対馬藩留守居役浜田源兵衛に預けられ、同地で取調を受けた後、8月14日対馬よりの使者一宮助左衛門に引き渡され、9月3日対州に到着、府中「御使者屋}に宿泊した。続いて、以下述べる竹島一件の交渉の使者正官多田与左衛門の一行に帯同されて釜山着朝鮮側に引き渡された。
 
(2) 元禄6年以降の交渉

 今回の事件について、幕府は安龍福、朴於屯の両名を、朝鮮に送還するとともに、自今朝鮮漁民の竹島(鬱陵島)渡海禁制を朝鮮政府に要求することとし、対馬藩主宗義倫に対してその交渉を命じた。宗氏はこの命を領し、多田与左衛門を正使として釜山に派してその交渉を開始せしめた。


 ・・・

 すなわち、前年来朝鮮漁民は日本側の制止を聞かずに竹島に入漁したので、そのうち2名を捕らえて一時の証としたことを告げ、今後は朝鮮政府においてこれを制禁にすべきことを求めた。
 この宗氏の書契に述べられている竹島が鬱陵島を指していることは明白であったが、朝鮮側は、議政府左議政睦来善、右議政閔黯黯の意見に基づき、鬱陵島はもと朝鮮の版図ではあるが、事実上放棄されている現状であり、かかる空島の問題で日本と隙を生ずることは長計ではないとして、日本領たる竹島には出漁を禁ずる旨の返書を発することに決した。


 ・・・

 すなわち、この書契では、一応竹島と鬱陵島とを区別して、漁民の「貴界竹島」に入るのを禁ぜんといい、表面上は宗氏の要求を容れたようであるが、他方「敝境之鬱陵島」と雖もまた遼遠の故を以て任意性を許さず、況んや其外をや、との一句で鬱陵島が朝鮮領土であることを暗示し、あたかも日本領竹島と朝鮮領鬱陵島とが別にあるかのごとくに故意にみせかける苦肉の策をとったのである。
 多田与左衛門は、これを不満として強硬にその刪改を求めたが、朝鮮側はこれに応ぜず、交渉は蔚4ヶ月に及び、ついに解決をみないままに与左衛門は帰国した。


 ・・・(以下略) 

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3 安竜福問題

(1) 安竜福の因伯渡航

 しかるに、多田与左衛門に伴われて元禄6年(1693年)に朝鮮に送還された安竜福は、同9年(1696年)初夏に至り、母を省せんがため蔚山におもむき、たまたま行き逢った僧雷憲等に頃年往来した鬱陵島の海産豊富なことを告げて、彼等を誘って同島に渡り、次いで隠岐を経由して伯耆国に渡来した。
 『因府年表』、『御在府日記』、『竹島紀事』等の日本側資料によれば、安竜福等の一行は、この年5月20日隠岐国に突如現れた。代官後藤角右衛門は、その手代中瀬弾右衛門、山本清右衛門等をして渡来の仔細を尋ねしめたところ、この度朝鮮の船32隻が竹島に渡海し、そのうちの1隻が伯耆国に訴訟のため渡来したとのことであった。


 ・・・

 安竜福等の因幡渡来の報を受けた対馬藩は、通詞派遣の命によって、鈴木権平、阿比留惣兵衛、通詞諸岡助左衛門等を因幡に派遣することとしたが、宗氏としては、他方この年の1月に、幕府の方針として竹島渡海禁止を決定したことについて朝鮮側にまだ通告していないことが憂慮された。すなわち、朝鮮側でこの竹島渡海禁止を安竜福の訴訟の結果、幕府が聴許したとみなすことともなれば、将来重大な禍根を残すこととなるのはもちろん、日鮮間の交渉は一切対馬を経由して行うとの従来のしきたりを破ることとなるおそれももあった。このため、宗義真は急使賀嶋権八を江戸に派して、大久保加賀守、阿部豊後守に対して対馬の立場を説明するとともに、意見を具申するところがあった。ここにおいて幕閣では評議の結果、朝鮮人を長崎に回送せしめ、その訴えるところを調査せしめようとしていた当初の方針を改めて、直ちに帰国せしめることに決し、この旨を7月24日付をもって、松平伯耆守に通達した。

・・・

 かくて安竜福の一行は8月29日に帰鮮し、江原道襄陽県に到着しとらえられた。江原道監司の報告に接した政府は、事、辺情に関するのみならず、またみだりに日本に渡海したというので京獄に拿致し、備辺司において事情を査問せしめた。……

(2) 安竜福の供述に関する検討

 さて、韓国政府は、前掲の『粛宗実録』および『増補文献備考』の安竜福の言動に関する記事を引用して、彼は「朝鮮の版図の不可分の一部である鬱陵島及び独島(今日の竹島)の水域を日本国民が侵犯しないように護った。」と称し、また、「前記の一連の事件の後当時の日本政府は、古来から于山国の領土として韓国に属していた鬱陵島及び于山島(日本人は松島と呼んでいる。)に対する韓国の領有権を固く確認した」と断じているのである

 しかしながら、その論拠となっている備辺司の取調べに対する安竜福の供述について検討するに、はなはだしく虚構と誇張に満ちている。そのうちでも最も決定的、かつ、明白な虚言は、彼が僧雷憲等を語らって鬱陵島におもむいたところ、同島には「倭船亦多来泊」と述べている点である。しかしこの年元禄9年(1696年)には、大谷・村川両家は、いずれも鬱陵島には渡航していないのである。

 ・・・

 さらに元禄9年(1696年)には、正月28日付奉書をもって竹島(鬱陵島)渡海禁制が在府中の松平伯耆守に達せられ、大谷・村川両家はもとより、他の漁民竹島には全然出漁していない。


 ・・・

 一体、安竜福としては、彼の鬱陵島渡航がそれ程重大問題となることは予想もしていなかったが、彼の送還を契機として対馬藩と朝鮮政府との間に竹島(鬱陵島)の領有をめぐって交渉が開始され、当時の朝鮮政府としてその処理に苦悩していることを帰国後初めて知ったわけである。ここにおいて彼は、さきの元禄6年の来日の際の知見や今次の体験等真偽をおりまぜて、自己の再渡航の非をつくろうとともに、政府に迎合するような作為をした供述を行ったのである。……
 次に彼はその供述の中で、鬱陵島から玉岐島(隠岐島)を経由して因州に渡航した旨述べているが、これについては、わが方のの記録とも一致している。しかしながら、続いて彼は、隠岐島主に対して先年入来の節、鬱陵于山等島をもって朝鮮地界と定め、それについて関白の書契を受けたにもかかわらず、さらにまたわが境を侵犯したことについて難詰した、と陳述しているのは、なんら根拠のあるものではない。

 ・・・

 その関白書契自体が安竜福の作為である以上、彼が鳥府において島主(伯耆太守)と庁上に対座して島主の問に答えて、さきの関白書契を先年来日の際に対馬の島主によって奪取されたので、今回対馬の罪状を関白に上疏しようとするものであると述べたところ、島主(伯耆太守)はこれを許したが、対馬島主の父が懇請したので目的を達することができなかった、しかし日本側は、さきに朝鮮の国境を犯した日本人15名を処罰した、と供述していることは、すべて虚構であることは明白である。

 ・・・(以下略)

 なお韓国政府は、「この朝鮮人は、朝鮮の版図の不可分の一部である鬱陵島及び独島の水域を日本国民が侵犯しないように護ったものである」と主張して、あたかも元禄9年の安竜福の来日によって幕府が日本人の竹島(鬱陵島)渡海禁止を決定したかのごとくに述べているが、一行の来日の5ヶ月も以前にすでにその措置がとられていたことは、さきに指摘したとおりである。 

 ・・・

 以上検討してきたとおり、安竜福の備辺司に対する供述のうちで、彼が鬱陵島から隠岐を経由して因伯に渡航したこと、および加路から鳥取に行く際に轎に乗り、その他のものが馬に乗ったことだけは日本側の記録と一致しているが、他はいずれも彼の作為にかかる全くの虚言にすぎないことが了解される。
 ・・・(以下略)
資料2-------------------------------
第2部 独島の歴史

3 安龍福のための解明

2 元禄9年の調査記録(「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」のことである)で確認された内容


 また、この文書は、1969年の鬱陵島における安龍福(「史的検証 竹島 独島」は龍の字をつかっている)らと日本人漁夫の遭遇の真偽についても明らかにしてくれる。1696年1月28日付で鬱陵島への渡海が禁止された。その日から日本人は鬱陵島に渡海していない、それなのに安龍福は鬱陵島で日本の漁夫に会い、彼等を懲らしめたという、だから安龍福の話は全くの虚構だ、というのが日本の学者の主張である。しかしこの文書はよく見てみると、それが妥当性を欠いた主張であることがわかる。幕府の奉書は確かに1月28日付のものだが、禁止令が鳥取藩に伝達され、大谷・村川両人が請書を提出したのは8月1日であった。したがって、禁止令のために、1696年には日本人は一人も鬱陵島に渡海していなかったとする説は成立しないのである。当然に安龍福らが隠岐に来た5月には、そうした禁止令がだされていることは代官役人は誰も知っていなかったのである。もし隠岐島にも渡海禁止を知らせる奉書が伝達されていたら、取調べの報告書に「安龍福らが竹島と松島を朝鮮の地だと言っています。それで、これらの島はすでに1月28日付の奉書をもって渡海が禁止されていたので、そのような事実を教えてやりました云々」といったくらいの記述が入るのが自然ではなかったろうか。
 ・・・(以下略)
----------------------------------
 資料2について付け加えるならば、もし、安龍福の言うとおり日本人が鬱陵島に渡航していたら、渡海禁止令に違反していることになり、渡海した者は処罰の対象となる。しかしながら、安龍福の証言にかかわらず、取り調べ後も安龍福が鬱両島で遭遇したという日本人漁夫の処罰のことが問題にされた様子はない。したがって、安龍福が自ら来日した時点では、代官役人はもちろん、大谷・村川両家も渡海禁止について知らされておらず、出漁をくり返していたと考えるのが自然であろうと思う。「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」の発見は、安龍福の証言が虚言でないことを裏付けるものになったようである。


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川上健三の著書には?(竹島領有権問題11)

2010年02月05日 | 国際・政治
 川島健三は、韓国との竹島領有権論争の当初において、日本側を代表する学者であった。彼の著書「竹島の歴史地理学的研究」で、彼が竹島領有権に関わるあらゆる文献にあたっていることがよく分かる。しかしながらその内容に入る前に「竹島の歴史地理学的研究」を手にとって気になることが2つあったことに触れておきたい。
 一つは彼の経歴である。京都帝国大学文学部史学科卒、台湾で一時教職。その後、「参謀本部、大東亜省へ勤務」とある。そして戦後、外務省条約局参事官などとして、日本の竹島領有権主張をリードしたのである。彼は先の大戦における日本軍の戦争行動をどのようにふり返り、外務省条約局参事官の仕事をしたのだろういという疑問を持ったのである。
 二つめは、その彼が同書の「はしがき」で、ノモンハンやポートモレスビー、ガダルカナルその他で、作戦参謀などとして無謀な作戦指導を強要し、多くの犠牲者を出したとされている陸軍大佐「辻正信」(当時衆議院議員)とともに、海上保安庁の巡視船「ながら」で竹島を視察したことに触れていることである。彼の立場は、竹島の領有権について研究する以前に決まっていて、都合のよい資料を使い、都合のよいように解釈したのではないかと思ったのである。
 日本の竹島領有権を主張する川島健三の主な論点の一つは、資料1に代表されるような日本人による竹島(独島)認知と、「(竹島は)本朝西海のはて也」や「隠岐の松島(現竹島)」というような表現の中にある領有意識の存在の証明である。
 二つめは資料2のような「鬱陵島=于山島」の一島説で、韓国側の主張する「古来より于山島は鬱陵島の附属島として認められてきた」という二島説の否定、すなわち、朝鮮人の竹島(独島)認知と領有意識の否定である。
 三つ目は、安龍福の備辺司に対する供述は、基本的に罪を逃れるための彼の作為に基づく虚構であるというものであるが、安龍福に関わる部分は(竹島領有権問題12)とし、後で取り上げたい。「竹島の歴史地理学的研究」川上健三(古今書院)からの抜粋である。
資料1-------------------------------
第1章 歴史的背景

第2節 竹島に関する知見とその経営

1 日本人の竹島認知

(1) 文献に現れた松島・竹島


 ・・・
 また、享和元年(1801年)の大社の矢田高当の著『長生竹島記』にも、次のような一節がある。この書物は、元禄年中隠州から竹島(鬱陵島)に渡海した竹島丸の水主から伝え聞いた大社仮宮漁師椿儀左衛門の話をとりまとめたものであり、当時竹島丸の鬱陵島渡航に際しては、松島(今日の竹島)を途中の寄港地として常に利用していた様子を知ることができる。これでもまた松島をもって「本朝西海のはて也」としているのである。

 されば隠岐島後より松島は方角申酉の沖に当たる卯方より吹出す風2日2夜・り 道法36丁1里として海上行程170里程の考なり 山なり嶮岨形りと云 土地の里数5里3里にあらんと云ふ 古語のことく18公の粧ひ万里に影を移し風景他に何らす 乍去如何なる故歟炎天の刻用水不自由なるとかや 竹島渡海之砌竹島丸往き通ひにはかならす此島江津掛りをなしたると云 当時も千石余の廻船夷そ松前行に不量大風に被吹出し時はこれそ聞伝ふ松島哉と遠見す 本朝西海のはて也」
 なお 文政11年(1828年)の自序のある因府江石梁編述の『竹島考』には、「松島ハ隠岐国ト竹島トノ間ニ有小嶼ナリ 其島一条ノ海水ヲ隔テテ二ツ連レリ 此瀬戸ノ長サ弐町幅五拾間程アリト云 此島ノ広サ竪八拾間横弐拾間余アリト或図ニ見エタリ 両島ノ大サハ均シキニヤ 未ソノ精証ヲ得ス」


とあって、島の描写は一層詳しくなっている。松島の2島間の狭少な水道を、長さ弐町、幅50間としているのも実際に近い。さらに、天保7年(1836年)の竹島密貿易事件の主謀者たる石州八右衛門の聴取書にも、次のように述べられている。松島におもむくのに、隠岐から北に向かって航行したようにいっているのは若干思い違いであるとしても、松島付近に達してから西寄りに航路を転じて竹島に到ったと述べているところや、望見した島の様子の描写などからみて、これは明らかに実際にこの付近を航行したものの陳述である。

 ・・・

 このように、諸文献からみて、わが国では元禄9年(1696年)の竹島渡海禁止令以前はもちろん、その後においても、松島・竹島の名称のみならず、両島に関する正しい地理的知識も相当後年に至るまで継承されていたことが知られるのである

(2) 地図に現れた松島・竹島

 略

(3)松島・竹島の経営
  
 (ロ)竹島渡海免許  このような日本人の鬱陵島開発に一時期を画することとなったのが、元和4年(1618年)の竹島渡海免許である。この年、伯耆国米子町人大谷甚吉、村川市兵衛は、藩主松平新太郎を通じて幕府から竹島(鬱陵島)渡海の免許を受け、爾来連年同島に渡海して、あわびの採取、みち(あしか)の猟獲、檀木や竹の伐採等に従事し、その漁獲したあわびは串あわびとして、将軍家および幕閣に献ずる例となった

 大谷九右衛門の『竹島渡海由来記抜書控』『大谷家由緒実記』その他の大谷家文書によれば、米子で廻船業を営んでいた大谷甚吉は、元和3年(1617年)越後から帰帆の途次難風に遭って竹島(鬱陵島)に漂着し、同島を踏査したところ、無人の孤島で天与の宝庫であることが判明した。
 あたかもこの年7月、それまで米子城主であった加藤左近大夫偵泰は、伊予国大州に転封となり、松平新太郎光政があらたに因幡伯耆両国をあわせ32万石を賜り、国替の際であったので、阿部四郎五郎正之が幕府からの監使として米子城に在番中であった。このため甚吉は、阿部四郎五郎に対して同人と懇意であった村川市兵衛とともに竹島の状況を上申するとともに、同島への渡海免許を賜るようその斡旋を依頼したが、その尽力によってあらたに領主となった池田新太郎光政を通じて、大谷、村川両名に対して、幕府から竹島渡海免許の奉書が下された。


 従伯耆国米子竹島江先年船相渡之由に候 然者如其今度致渡海度之段米子町人村川市兵衛大屋甚吉申上付而達上聞候之処不可有異儀之旨
被仰出候間被得其意渡海之儀可被仰付候 恐々謹言  
                                       永井信濃守
                                       井上主計守
                                       土井大炊頭
                                       酒井雅楽頭

   松平新太郎殿
 
 かくて日本人による竹島(鬱陵島)の開発は、幕府公認の下に本格化することとなるが、この竹島への渡航の道筋に当たっていたのが、当時松島の名で呼ばれていた今日の竹島で、同島が竹島往復の途次の船がかりの地として、またあしかやあわびの魚採地として利用されるようになったのは、当然のなりゆきであった。
 (ハ) 松島渡海免許 この松島に対しても、竹島の場合と同じく大谷・村川両家が幕府から渡海免許を受けたことは、先に掲げた延宝9年の大谷九右衛門勝信の請書元文5年および寛保元年の大谷九右衛門勝房の文書等からも明らかである
。……
 ・・・(以下略)     
---------------------------------
 川上健三は、日本人の竹島(独島)認知が正確であったことを、「隠岐州視聴合記」や松平伯耆守綱清が「竹島の所属」に関して幕府の問い合わせに答えた回答書なども取り上げて詳しく解説している。たしかに、竹島(独島)認知に関してだけを考えれば、朝鮮人よりは日本人の認知が正確であったかも知れないと思う。また、上記「長生竹島記」「本朝西海のはて也」という言葉があることや、「竹島図説」などに「隠岐の松島」と呼ばれていたことが記録されていることなども明らかにしている。しかしながら、それらをもって日本の竹島(独島)領有権の根拠にするには無理があると思われる。なぜなら、鳥取藩の幕府にたいする回答書には、「竹島は因幡伯耆の附属ではありません」という文言があり、わざわざ、「竹島松島其外両国の附属の島はない」と言い切っているのである。そして、それが幕府の渡海禁止令に至ったことを考えれば、竹島(独島)を認知していた日本人が、「本朝西海のはて也」と表現したり、「隠岐の松島」と表現したとしても、それは私的な意識を表現したものと考えざるを得ず、領有権に関わる判断では、幕府の決定が重いと考える。1837年(天保8年)の2回目の渡海禁止令には「…以来は可成たけ遠い沖乗り致さざる様乗り廻り申すべく候…」とあり、竹島渡海を禁じるのみならず、 遠い沖乗りも禁じている。これは、上記の「竹島松島其外両国の附属の島はない」から考えて、当然松島付近を含むと考えるのが自然であると思う。竹島は渡海禁止になったが、松島渡海は禁じていないと解釈することには無理があろうと思う。

 川島健三は、大谷・村川両家の渡海免許が「幕府から官許を得たというよりは、むしろ公務として命ぜられたというべきものであった。鳥取藩としては、その経営には直接参加しておらず、したがって、両人の参府拝謁のことも、藩を経由せずに寺社奉行の手を経て行われていた。……
 
・・・
 この故に鳥取藩としては、竹島については次のように述べて、それが同藩の所属でないとしているのも、けだし当然であった。
……と、いかにも苦しい説明をしている。また、「(2)地図に現れた松島・竹島」では、いくつかの地図をもとに、日本人の竹島(独島)認知が正確であったことを印象づけているが、鬱陵島と竹島(独島)を朝鮮領土に色づけした地図は問題にしていない。
資料2-------------------------------
2 朝鮮側古文献にみる今日の竹島

 ・・・
 以上通覧してきたように、鬱陵島は李太祖の時代までは、芋陵、羽陵、蔚陵、武陵等種々に呼ばれていたが、その使用の文字のいかんにかかわらず、もっぱら一島名として伝えられ、その国名としては、「于山」として知られていた。しかし太宗時代になってそれが島名に転用されて、于山島なる呼称が行われるようになるとともに、于山武陵(茂陵)と重ねて呼ばれることになった。この場合于山の漢字音が武陵、茂陵、鬱陵等のそれと異なっていたところからそれが地理的知識の欠乏と相俟ち、やがて『世宗実録地理史』にあるような2島説を生むことになったものと思われる。

 ・・・

 これを要するに、前掲の崔南善氏の論文にもあるとおり、鬱陵島については「最初は、国名として于山、島名として欝陵が『三国史記』に載録されただけであったところが、降って高麗時代に至り、同一の原語に対する異形の対字と雅称とが種々に使用され、武陵、羽陵、陵、・陵、蔚陵等の別名があるようになった。」のである。一方国名として呼ばれていた于山も、李朝太宗時代に至って島名に転用されるようになり、ここに2島説が生まれる素地を作ることとなったのである。

 ・・・

 なお最後に『新増東国輿地勝覧』中に載せられている「八道総図」や「江原道の図」について一言するに、これらの地図には、于山・鬱陵両島がえがかれている。しかし、両島の大きさはほぼ同じで、しかも、于山島が鬱陵島よりも朝鮮半島寄りに位置しており、実際の位置関係とは逆になっている。このことは、地理的知識に最も具体的に表現している地図をみても、当時の于山・鬱陵二島説がまったくの観念的なもので、なんら実際の知識に基づいたものでないことを端的に示しているものといえよう。さらに、これより時代が降って哲宗12年(1861年)には、朝鮮人自身の手に成る代表的な地図として知られる金正浩の「大東輿地図」が刊行されたが、この最も権威ある朝鮮地図などには、鬱陵島のみがえがかれていて、竹島に当たる島名の記載はない。
 ・・・(以下略)
---------------------------------
 川上健三は、上記のように1島2名説をとり、朝鮮人は竹島(独島)を認知していなかったとしている。確かに「竹島の歴史地理学的研究」を読むと、様々な混乱や間違いがあったことが分かる。しかし、鬱陵島と竹島(独島)の2島説のすべてが間違いであり、竹島(独島)は認知されていなかったとすることもまた無理と言わざるを得ない。
 韓国側は、『世宗実録』に「于山及び武陵の両島は、本県の正東方向の海中にあり、かつ、両島の距離は距たること遠くなく、故に晴天には互いに望見し得る」とあり、『新増東国輿地勝覧』に「于山島及び鬱陵島……この両島は本郡の正東方の海中に位置する……」とあることなどを根拠に、竹島(独島)は鬱陵島の附属島として認知されていたと主張しているが、川上健三のこの部分に関する反論もまた極めて苦しいものである。
 難しい計算式をもとに、竹島(独島)から鬱陵島は見えるが、鬱陵島から竹島(独島)は見えないというのである。そして、計算式に基づけば、竹島(独島)を島として認め得るのは、鬱陵島(最高部聖人峰985メートル)で200メートル以上のぼる必要があるが、かつて鬱陵島は密林におおわれ、高所にのぼることが困難であった上に、視界がひらけていたかどうかも疑わしいというのである。『世宗実録』「于山及び武陵の両島は、本県の正東方向の海中にあり、かつ、両島の距離は距たること遠くなく、故に晴天には互いに望見し得る」を否定するには、あまりにもその根拠が薄弱である。「竹島(独島)を見るのには困難があったから、見ていないはずである」という憶測で2島説を否定できるものかどうか…、と思う。また、「……鬱陵島を基地として竹島に行く場合は、隠岐から竹島に行くよりも40マイル近いが、朝鮮本土で最も近い蔚珍附近から竹島に直航するとなれば、隠岐よりも約30マイル遠いことになる。この場合、実際に航行するには、航行技術が幼稚な時代にあっては、その距離の遠近だけでなく、特に目標物がみえるかどうかが重大な関係がある。」という説明にも引っかかるものがある。朝鮮本土からと比較するなら、隠岐島からではなく、日本本土からでなくてはならないはずである。「純然たる歴史地理学的立場から書いた」ことを完全否定するものではないが、結論が先にあったことが疑われる論理であり、社会科学的研究とは言い難い面があると思う。

http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。読み仮名は半角カタカナの括弧書きにしました(一部省略)。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。  

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