真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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天皇の戦争指導

2010年07月25日 | 国際・政治
 天皇がどのように先の戦争に関わっていたのか、こうした書籍を手に取るまで、よくは知らなかった。実は、深く深く関わっていたようである。下記に一部抜粋した部分からだけでも、そのことはよく分かると思う。したがって、天皇が戦後東京裁判で裁かれなかっただけではなく、証人としてさえ出廷しなかった事実は、不可解といわざるを得ない。

 支那事変(日中戦争)の最中、「事変」でも大本営を設置可能にする「大本営令(昭和12年軍令第1号)」が制定され、1937年11月20日大本営が設置された。大本営は天皇を中心とする最高統帥機関であり、大本営陸軍部と大本営海軍部および侍従武官府によって構成される。大本営の発する命令は、大陸命(天皇が発する陸軍への命令)か大海令(天皇が発する海軍への命令)のいずれかであり、侵略戦争といわれる日本の戦争は、この大陸命と大海令によって進められた。いずれも天皇の名において下される、いわゆる「大命」であるので、事前に天皇の允裁(命令発令の許可)を得なければならない。陸軍の参謀総長と海軍の軍令部総長は、命令の発令者ではなく、作戦の立案・上奏・伝達が任務であるという。参謀総長や軍令部総長といえども、大本営命令を発する権限はなかったのである。

「大元帥 昭和天皇」山田朗(新日本出版社)によれば、1937年11月22日に大陸命第1号が発せられてから1945年9月1日の大海令の発令に至るまで、大陸命が852通、大海令が57通、合計909通が発せられたという。そして、その全てにおいて統帥部は「命令案」とその命令が必要な理由を記した「御説明」を作成して天皇に上奏し、允裁を仰いだということである。統帥部が天皇の納得を得ようとする努力は尋常なものではなかったらしい。戦争指導・作戦指導に関する重要な方針の決定に際しては、「方針案」とその方針をとる理由の「御説明」を文書で作成・提出するだけでなく、さらに、天皇の質問に統帥部幕僚長(参謀総長・軍令部総長)が円滑に回答できるように、重要な上奏に際しては詳細な「御下問奉答資料」が作成されたという。陸軍の場合には、この「御下問奉答資料」とはすなわち想定問答集のことであり、作戦課の起案者が天皇の質問を予想して遺漏がないように課内で質疑応答をおこなって原案を作成し、他の課員の連帯印をうけ作戦課長、作戦部長・次長の決裁をへて完成するというのである。

「大元帥 昭和天皇」山田朗(新日本出版社)から、天皇が主体的に戦争に関与したとされる作戦や方針を列記した部分、および杉山参謀総長と永野軍令部総長が列立して上奏した際、天皇が厳しい言葉を返しているやりとりの部分を抜粋する。
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あとがき───昭和戦争史に果たした天皇の役割とその戦争責任

 戦争への天皇の主体的関与───天皇の戦争指導

 天皇は「御下問」「御言葉」を通じて戦争指導・作戦指導に深くかかわった。天皇は作戦について、統帥部の方針や作戦の進め方を無条件で認めていたわけではない。とりわけ、次の事例において大元帥・昭和天皇の発言は、作戦計画あるいは具体的な作戦内容を左右する大きな影響を与えた。
  ① 熱河作戦の一時差し止め(1933年)
  ② 2・26事件における反乱軍の武力鎮圧方針決定(1936年)
  ③ 日中戦争初期の兵力増強、戦略爆撃実施方針の決定(1937年)
  ④ 張鼓峰事件における武力行使方針の一時差し止め(1938年)
  ⑤ 「昭和14年度帝国海軍作戦計画」の修正(1939年)
  ⑥ 宣昌再確保への作戦転換(1940年)[[
  ⑦ フィリピン・バターン要塞への早期攻撃の実現(1942年)
  ⑧ 重慶攻略の方針の決定と取りやめ(同年)
  ⑨ ガダルカナルをめぐる攻防戦における陸軍航空隊の進出(同年)
  ⑩ ガダルカナル撤退後におけるニューギニアでの新たな攻勢の実施(1943
    年)
  ⑪ 統帥部内の中部ソロモン放棄論の棚上げ(同年)
  ⑫ アッツ島「玉砕」後における海上決戦の度重なる要求と海軍の消極的姿勢
    への厳しい叱責による統帥部ひきしめ(同年)
  ⑬ 陸軍のニューギニアでの航空戦への没入(同年)
  ⑭ 「絶対国防圏」設定後の攻勢防御の実施(ブラウン奇襲攻撃後の軍令部の
    指示など 1943年~1944年)
  ⑮ サイパン奪回計画の立案(1944年)
  ⑯ 沖縄戦における攻勢作戦実施(1945年)
  ⑰ 朝鮮軍の関東軍への編入とりやめ(同年)
 昭和天皇は、軍事に素人などでは決してなかった。天皇は大元帥としての責任感、軍人としての資質・素養は、アジア太平洋戦争において大いに示された。開戦後、緒戦において、あるいはミッドウェー海戦敗北に際しても、天皇は泰然としているかに見えたが、それは総司令官はいかなる時も泰然自若として部下将兵の士気高揚をはからなければならないという、昭和天皇が東郷平八郎から直接・間接に学んだ帝王学・軍人哲学を実践したものであった。しかしガダルカナル攻防戦における統帥部の不手際を目の当たりにして天皇は、次第に作戦内容への介入の度を深める。天皇は並々ならぬ意欲で作戦指導にあたったが、日露戦争の戦訓を引き合いに出して作戦当局に注意を与えたり、目先の一作戦拘泥せずニューギニアでの新たな攻勢を要求したりするなど、軍人としての素養を大いに示した。


 昭和天皇はあくまでも政戦略の統合者として世界情勢と戦況を検討し、統帥大権を有する大元帥として統帥部をある時には激励、ある時には叱責して指導しようとした。また、前戦将兵の士気沈滞をつねに憂慮し、みずから勅語を出すタイミングに気を配っていた。1943年5月にアッツ島が「玉砕」すると、戦争の将来に漠然とした不安を抱いていた天皇は、統帥部に執拗に「決戦」をせまり、その期待に応えられない永野軍令部総長は信頼を失っていく。…(以下略)
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第3章 アジア太平洋戦争における天皇の戦争指導

 永野軍令部総長へ風当たり強く

 杉山参謀総長と永野軍令部総長が列立して上奏した際、天皇の下問は永野に対してことのほか厳しかった。8月24日、ラバウルの確保を心配した天皇は、両総長との間に次のようなやりとりをした。ここでも明らかに永野への風当たりは強い。


  陛下 来年の春迄[ラバウルを]持つと云ふが持てるか
  杉山 第1の通り回答[「御下問奉答資料」の番号と推定される]
  陛下 後ろの線に退ると云ふが、後ろの線之が重点だね。
  杉山 左様で御座居ます 後ろの線が重点で御座居ます 数千粁の正面の防
      備 これは来春迄には概成しか出来ません。それ迄の間前方は持たな
      ければなりません
  永野 「ラバウル」が無くなると聯合艦隊の居所は無くなり、為に有為なる戦略
      態勢が崩れます。「ラバウル」には出来る丈永く居たいと存じます
  陛下 それはお前の希望であろうが、あそこに兵を置いても補給は充分出来る
      のか それならしつかり「ラバウル」に補給できる様にせねばいけない 
      それから其所へ敵が来たら海上で敵を叩きつけることが出来るならば良
      いが、それがどうも少しも出来て居ない
  永野 以前は航空が充分働かなかったが、最近は大分良くなりました
  陛下 この間陸軍の大発を護衛して行つた駆逐艦4隻が逃げたと云ふではな
      いか[8月17日の第1次ベラベラ沖海戦のことを指している]
  永野 魚雷を撃ちつくして退避しました
  天皇 魚雷だけでは駄目、もっと近寄て大砲ででも敵を撃てないのか 後ろの
      線に退つて今後特別のことを考へて居るか
  永野 駆逐艦も増加するし、魚雷も増えます。
  天皇 電波関係はどうか 「ビルマ」、「アンダマン」、「スマトラ」はどうするか
  奉答 同時に研究しまして具体的には何れ更に研究の上申し上げます(『大本
      営海軍部・聯合艦隊(4)』428頁)

 (陛下であったり天皇であったり、句読点がついていたり省略されたり、いろいろであるが、前掲書のままである)
  
 天皇と杉山は、「後ろの線が重要だね」、「左様で御座居ます」と比較的息のあったところを見せているが、天皇は永野の言うことにはいちいち批判めいたコメントを加えている。永野がラバウルを確保したいと言えば、補給はできるのか、海上で決戦をしないではないかと切り返し、あげくの果てに陸軍の上陸部隊を護衛していた駆逐艦が逃げたではないかとまで言っている。永野が魚雷をうち尽くした、と言えば、もっと近寄って大砲ででもやれ、と徹底的に海軍の姿勢を批判している。天皇の眼には、ラバウルに固執するわりにはいっこうに決戦を挑まない姿勢が、士気に乏しく極めて消極的、無為無策に映ったのである。

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沖縄の基地問題は天皇の沖縄メッセージから

2010年07月20日 | 国際・政治
 沖縄の基地の問題をポツダム宣言にまで遡って、子どもにも理解できるように、きちんと説明できるだろうか。ポツダム宣言の第12条には「前記諸目的ガ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ」とある(東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室『世界と日本』国際関係データベースより)。にもかかわらず、戦後65年を経た今も米軍基地が日本に存在する根拠は何なのか。自衛隊が組織され、防衛庁が防衛省になってもなお、莫大な予算が駐留米軍のために支出され続けている理由は何なのか。そして、さらにその米軍専用施設面積の約75%が沖縄に存在するのはどうしてなのか。「昭和天皇五つの決断」秦郁彦(文藝春秋)から、子どもには説明のできないような政治的駆け引きによって、事態が進んだことを示す部分、すなわち、昭和天皇の「沖縄メッセージ」に関連する部分を抜粋する。数え切れない「皇軍兵士」が、「鬼畜米英を撃滅すべく」命を投げ出して戦ったのではなかったのか、との思いがこみ上げてくる。
 後半部分は、「昭和天皇独白録ー寺崎英成御用掛日記」(文藝春秋)から、昭和22年9月19日(金)に、御用掛の寺崎が、天皇のメッセージを総司令部政治顧問シーボルトに伝えたことに関する<注>の抜粋である。
 また、資料として寺崎英成が訪ねたシーボルトのワシントン国務長官宛てと連合国最高司令官総司令部のマッカーサー宛ての文書を添付する。
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第5章 裕仁天皇退位せず
       ────このあとに何が起こるか予見できない
 天皇メッセ-ジと沖縄


 ・・・
 
 そのなかで、天皇も政府も前年から伝えられていた対日早期講和の動きに不安を高めていた。講和が成立して米軍が撤退すれば、非武装日本の安全は誰が保障するのか。第9条を盛りこんだ新憲法草案が審議されていた段階で想定されていた国際連合への「バラ色の期待」は、すでに米ソ冷戦の進行で色あせていた。
 22年9月、片山内閣の芦田均外相は、特別協定を結んで、日本の安全保障をアメリカへ依存する代わりに、駐留米軍へ基地を提供し、日本も警察力を増強するという、のちの日米安保条約に近い方式を考案して、一時帰国する第8軍司令官アイケルバーガー中将に託した(前掲『日本再軍備』)。
 第9条の生みの親を自任していたマッカーサーは、とても受けつけてくれる気配がないので、反ソ・反共論者のアイケルバーガーを通じて、ワシントンへ訴える形をとったのである。


 前後して、宮内府御用掛の寺崎が、総司令部外交局に「沖縄の将来に関する天皇の考えを伝えるため」として、シーボルトを訪ね「天皇は、アメリカが沖縄をふくむ琉球の他の島々を、軍事占領しつづけることを希望している。天皇の意見によると、その占領はアメリカの利益になるし、日本を護ることになる……」
 と語ったのち、軍事占領の具体的形態として天皇が考えているのは、「日本に主権を残す形で、25年から50年あるいはそれ以上にわたる長期の貸与(リース)という擬制」であり、「この方式は、アメリカが琉球列島に恒久的意図を持たないことを日本国民に納得させるだろう」と説明した。

 寺崎はさらに、私見として軍事基地権の獲得は、日米二国間条約で処理されるべきだ、と付け加えたが、シーボルトはすぐにこの会談の要旨をマッカーサーに報告し、本国に伝えている(昭和22年9月22日付シーボルト発マーシャル国務長官宛)。
添付資料

 さて芦田メモと天皇メッセージはどう関連しあっていたのだろうか。
 両者を比較してみると、軍事基地提供という基本的性格は変わらないが、前者が日本全土を想定しているのに対し、後者は長期貸与ながら、対象を沖縄に限定しているから、相互補完というよりも、次元を異にした発想と見た方が妥当だろう。
 社会党政権の時代だったことを思いあわせれば、天皇は芦田メモの構想に不満で、独自の提案を別ルートで試みた可能性が高い。
 では米側は、2つの提案のいずれに感応したのか。ざっと比較すると、芦田メモの方が米側に有利な条件と見えるが、実は進藤栄一が指摘するように、天皇メッセージは「はるかにワシントンの動向と波長の合うもの」(「分割された領土」 『世界』昭和54年4月号)だった。


 この頃、アメリカの外交・軍事当局は、対ソ戦略の観点から日本の新たな位置づけを検討しつつあり、沖縄はアメリカを施政権者とする戦略的信託統治下に置く方針へ傾いていた。
 沖縄について何も触れていない芦田メモに比べると、天皇の提案はストレートに米側の要請を満たすものであり、しかも潜在主権は、信託統治よりもさらに有利な条件であった。


 逆に天皇メッセージは、日本本土の軍事基地化について触れていないだけに、非武装中立論に固執するマッカーサーの支持を得られやすかった。実際にマッカーサーは、翌年3月に来日したケナン国務省政策企画部長に、沖縄の基地を開発して有力な空軍を常駐させ、その傘で日本を防衛する構想を語り、朝鮮戦争が起こるまで、くり返しこの持論を説くようになる。

 昭和23年10月、国家安全保障会議(NSC)は対日政策の全面的転換を打ちだしたNSC13/2を採択した。骨子はケナン報告を基調としたもので、対日講和条約は無期延期され、米軍は少なくともその時点まで日本に駐留することになった。
 NSCー13/2の副産物のひとつは、沖縄の長期保有と基地開発を規定した第5項であった。それまで沖縄は少数の米陸軍が駐留するだけで、ほとんど見捨てられていた形であったが、これを契機に息を吹き返すことになり、翌年から巨額の工事予算を投じた基地拡張が開始され、今もアメリカのアジアにおける最大の軍事基地として不動の地位を占めつづけている。


 天皇の提案は、本土の代わりに沖縄を犠牲にしたという一面を免れないが、それから20数年後に沖縄は全面的に日本へ返還されることになった。軍事基地だけは実質的に長期リースの形態を残して。

 ・・・

 シーボルトは寺崎の言い出した大胆な提言をもう一度かみしめながら、要は中国本土を放棄して、新たな外郭防衛戦でソ連の侵攻と浸透を強力に阻止せよという示唆だな、と理解した。
 寺崎が帰ると、会談内容はすぐにタイプされ、ワシントンの国務長官あてに発信されたが、最後にシーボルトの解釈が付け加えられている。
 「寺崎は個人的見解だと念を押したが、以上は天皇を含む宮中高官の見解だと信ずべき理由がある。更に、この意見には日本の利己的立場──すなわち占領が長引いてもよいからアメリカが日本をソ連から守ってもらいたいという強い要請、更に隣国の中国が日本に強い態度をとれないような弱体のまま推移するのを望むという──が反映しているかもしれない」


 おそらく寺崎と天皇の合作と思われる、この外郭防衛戦戦略がワシントンに受け入れられなかったのは、その後の歴史をみると明白である。
 それから2年近くのち、25年1月12日、アチソン米国務長官は、「アチソン声明」として知られる有名な演説の中で、極東におけるアメリカ外郭防衛戦に触れ、南朝鮮と台湾が除外されていることを公表した。それが共産陣営の誤解を招き、半年後の朝鮮戦争を誘発したというのは、今や外交史学界の定説となっており、アメリカ国務省の研修で、外交官のおかしてはならぬ失策の好例として引用されている
と聞く。
 23年早々という早い時点で、アメリカのアジア戦略の動向を正確に探知して、適切な情勢判断を示した天皇の洞察力には脱帽のほかないが、一面から言えば、それは日中戦争と太平洋戦争で日本が血で購(あがな)って得た教訓でもあった。

----------------------------------
                寺崎英成御用掛日記

9月19日(金)
  <注>22年9月、芦田均外相は特別協定を結んで、日本の安全保障をアメリカに依存するかわりに、米軍へ日本本土のどこかに基地を提供し、日本も警察力を増強するという案を、一時帰国する第8軍司令官アイケルバーガー中将に託した。マッカーサーがこれを受けつけてくれる気配がないので、反ソ・反共の中将を通してワシントンへの直訴を試みたのである。
 
 ところがこの日、寺崎は重要な天皇の意見をシーボルトに伝えている。それは9月22日付のマーシャル国務長官あての手紙として残されている。
(添付資料)
「天皇は、アメリカが沖縄をふくむ琉球列島を軍事占領しつづけることを希望している。天皇の意見によると、その占領はアメリカの利益になるし、日本を守ることになる」
 つまり、具体的な軍事占領の形態として天皇が考えているのは、日本に主権を残す形で、沖縄の利用をやむなく許すということである。「この方式は、アメリカが琉球列島に恒久的な占領意図をもたないことで、日本国民を納得させることができよう」


 これが、寺崎日記の内容であると思われる。軍事基地提供という点は同じとしても、芦田の日本本土を想定しているのにたいして、天皇は対象を沖縄に限定する。結果論的になるが、アメリカは沖縄限定策のほうに動いた。天皇の卓抜な政略観にびっくりさせられる。

資料-------------------------------
"Emperor of Japan's Opinion Concerning the Future of the Ryukyu Islands"
Tokyo, September 22, 1947


UNITED STATES POLITICAL ADVISER FOR JAPAN

Tokyo, September 22, 1947.

Subject: Emperor of Japan's Opinion Concerning the Future of the Ryukyu Islands.

The Honorable, The Secretary of State, Washington.

Sir:

I have the honor to enclose copy of a self-explanatory memorandum for GeneralMacArthur, September 20, 1947, containing the gist of a conversation withMr. Hidenari Terasaki, an adviser to the Emperor, who called at this Officeat his own request.

It will be noted that the Emperor of Japan hopes that the United Stateswill continue the military occupation of Okinawa and other islands of theRyukyus, a hope which undoubtedly is largely based upon self-interest.The Emperor also envisages a continuation of United States military occupationof these islands through the medium of a long-term lease. In his opinion,the Japanese people would thereby be convinced that the United States hasno ulterior motives and would welcome United States occupation for militarypurposes.

Respectfully yours,

W. J. Sebald


Counselor of Mission
---------------------------------
Enclosure to Dispatch No. 1293 dated September 22, 1947, from the UnitedStates Political Adviser for Japan, Tokyo, on the subject "Emperorof Japan's Opinion Concerning the Future of the Ryukyu Islands"

General Headquarters, Supreme Commander for the Allied Powers

Diplomatic Section

20 September, 1947

Memorandum For: General MacArthur

Mr. Hidenari Terasaki, an adviser to the Emperor, called by appointmentfor the purpose of conveying to me the Emperor's ideas concerning the futureof Okinawa.


Mr. Terasaki stated that the Emperor hopes that the United States willcontinue the military occupation of Okinawa and other islands of the Ryukyus.In the Emperor's opinion, such occupation would benefit the United Statesand a1so provide protection for Japan. The Emperor feels that such a movewould meet with widespread approval among the Japanese people who fearnot only the menace of Russia, but after the Occupation has ended, thegrowth of rightist and leftist groups which might give rise to an "incident"which Russia could use as a basis for interfering internally in Japan.

The Emperor further feels that United States military occupation of Okinawa(and such other islands as may be required) should be based upon the fictionof a long-term lease -- 25 to 50 years or more -- with sovereignty retainedin Japan. According to the Emperor, this method of occupation would convincethe Japanese people that the United States has no permanent designs onthe Ryukyu Islands, and other nations, particularly Soviet Russia and China,would thereby be stopped from demanding similar rights.


As to procedure, Mr. Terasaki felt that the acquisition of "militarybase rights" (of Okinawa and other islands in the Ryukyus) shouldbe by bilateral treaty between the United States and Japan rather thanform part of the Allied peace treaty with Japan. The latter method, accordingto Mr. Terasaki, would savor too much of a dictated peace and might inthe future endanger the sympathetic understanding of the Japanese people.

W. J. Sebald
(http://hakusanjin.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/201011-60c4.htmlより)

 
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皇民化政策と創氏改名の法令・通牒

2010年07月11日 | 国際・政治
 創氏改名の問題は、ただ単に朝鮮人の名前を日本式に変えるという名前の日本化の問題としてだけではなく、それが同時に朝鮮の家族制度を日本化する「皇民化政策」の一つとしてとらえなければならないと思う。新たに「氏」を創る「創氏」によって、朝鮮の家族制度における3大鉄則といわれるもの、すなわち「姓不変」(人の姓は一生変わらない)、「同姓不婚」(同族の者同士は婚姻しない)、「異姓不養」(同族でない者は養子にしない)などは、通用しない社会に変えられることとなった。そして、「内地社会と同じ氏を持ち、古来より伝統の氏の理念に生き、天皇中心の家庭建設に邁進する朝鮮、そこに内鮮一体は無言の裡に成就する」(南総督)と日本の家族制度が持ちこまれたのである。命をかけた反対や抗議も頷ける。「創氏改名」宮田節子・金英達・梁泰昊(明石書店)からの抜粋である。
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                 第1部 研究・創氏改名
 第1章 創氏改名の時代
 「皇国臣民」とは?
 さて冒頭でも述べたが、日中戦争を直接の契機として、朝鮮では「内鮮一体」が唱えられた。「内鮮一体」とは提唱者であった南総督自身の定義によれば、「半島人ヲシテ忠良ナル皇国臣民タラシメル」という一語につきる。そして朝鮮人を「皇国臣民タラシメル」ためのすべての政策が、一般に皇民化政策と呼ばれている。


 ・・・ 

 このように学生時代から筋金入りの皇道主義者であった塩原(学務局長塩原時三郎)によって造語された「皇国臣民」とは、具体的にどのような人間像を意味するのだろうか。
 塩原が会長だった朝鮮教育会が描く「皇国臣民」とは、次のような人間像である。


 「天皇を中心とし奉り、天皇に絶対従順する道である。絶対従順とは我を捨て私を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。この忠の道を行ずることが我等国民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である。されば天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなく、小我を捨てて大いなる御陵威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である」

 つまりは己を無にして、天皇のために「笑って殉ずる人間」ということであろう。
 それはとりもなおさず、日本軍兵士の理想像でもあった。すなわち皇軍建軍の基礎は「天壌と共に窮りなき我国運を身命を捧げて扶養し奉る心こそ、取りも直さず我が皇国兵役の根本義」であるからである(朝鮮軍事普及協会編纂『朝鮮徴兵準備読本』1942年)。
 「皇国臣民」とは、同時に「天皇親率の神兵」たるにふさわしい「皇軍兵士」ということであった。


 皇民化政策の構造

 朝鮮人を「皇国臣民」化するために、皇民化政策が展開された。
 まず精神教化のために、神社参拝が強制され、一つの面に一つの神社を設置する計画が進められた。
 37年10月には、塩原が作ったとされる「皇国臣民の誓詞」が制定された。これには児童用と大人用があり、その本質を明確に表している児童用は

一、私共ハ大日本帝国ノ臣民デアリマス。
二、私共ハ心ヲ合セテ、天皇陛下ニ忠義ヲ尽シマス。
三、私共ハ忍苦鍛錬シテ、立派ナ強イ国民トナリマス。

というものであった。学校では毎朝朝礼でこれを斉唱し、官公署や職場でも”国民儀礼”として、斉唱が義務づけられた。

 さらに毎朝の宮城礼拝、国旗掲揚、君が代の普及、志願兵制度の実施、教育令の改正、創氏改名等々が行われた。
 これらはすべて朝鮮人を、より完全な皇国臣民にするために行われたものである。しかしこれらの政策は、単に羅列的、並行的ではなく、政策相互に緊密な関連を持ち、しかもその柱となる政策があった。 
 38年2月に公布された陸軍特別志願兵令と同じ年の3月に改正された第3次朝鮮教育令と40年2月から実施された創氏改名は、三本の柱ともいうべきものであった。

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                   第3部 資料・創氏改名
1 法令・通牒
(1)制令第19号
「朝鮮民事令中改正の件」
 昭和14年11月10日
                                   朝鮮総督 南 次郎
朝鮮民事令中左ノ通改正ス
第11条第1項中「但シ」ノ下ニ「氏」ヲ、「認知、」ノ下ニ「裁判上ノ離縁、婿養子縁組
 ノ場合ニ於テ婚姻又ハ縁組カ無効ナルトキ又ハ取消サレタルトキニ於ケル縁組
 又ハ婚姻ノ取消」ヲ加ヘ同条ニ左ノ1項ヲ加フ
 氏ハ戸主(法定代理人アルトキハ法定代理人)之ヲ定ム
第11条ノ2ヲ第11条ノ3トシ以下第11条ノ8迄順次1条宛繰下グ
第11条ノ2 
朝鮮人ノ養子縁組ニ在リテ養子ハ養親ト姓ヲ同シクスルコトヲ要セス
 但シ死後養子ノ場合ニ於テハ此ノ限ニ在ラス
 婿養子縁組ハ養子縁組ノ届出ト同時ニ婚姻ノ届出ヲ為スニ因リテ其ノ効力ヲ生
 ス
 
婿養子ハ妻ノ家ニ入ル
 婿養子離縁又ハ縁組ノ取消ニ因リテ其ノ家ヲ去ルモ家女ノ直系卑属ハ其ノ家ヲ
 去ルコトナク胎児生レタルトキハ其ノ家ニ入ル
第11条ノ9ヲ第11条ノ10トシ同条中「第11条ノ3及第11条ノ4」ヲ「第11条ノ4及第11条ノ5」ニ改ム
  附則
本令施行ノ期日ハ朝鮮総督之ヲ定ム
朝鮮人戸主(法定代理人アルトキハ法定代理人)ハ本令施行後6月以内ニ新ニ氏ヲ定メ之ヲ府尹又ハ邑面長ニ届出ヅルコトヲ要ス
前項ノ規定ニ依ル届出ヲ為サザルトキ本令施行ノ際ニオケル戸主ノ姓ヲ以テ氏トス但シ一家ヲ創立シタルニ非ザル女戸主ナルトキ又ハ戸主
相続人分明ナラザルトキハ前男戸主ノ姓ヲ以テ氏トス


2)制令第20号
 「朝鮮人ノ氏名ニ関スル件」
  昭和14年11月10日 
                                    朝鮮総督 南 次郎
第1条 御歴代御諱又ハ御名ハ之ヲ氏又ハ名ニ用フルコトヲ得ズ
 自己ノ姓以外ノ姓ハ氏トシテ之ヲ用フルコトヲ得ズ
 但シ一家創立ノ場合ニ於テハ此ノ限ニ在ラズ
第2条 氏名ハ之ヲ変更スルコトヲ得ズ但シ正当ノ事由アル場合ニ於テ朝鮮総督
 ノ定ムル所ニ依リ許可ヲ受ケタルトキハ此ノ限
 ニ在ラズ


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