真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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『ラーベの日記』 No2

2015年11月20日 | 国際・政治

                        「南京の人口20万人」について No2

 ここでは、南京市の人口が20万人、という下記のような主張の二つ目の問題を、『ラーベの日記』の記述をもとに考えたいと思います。

 ”南京市の人口は、日本軍の南京への攻撃開始前に約20万人でした。20万人しかいない所で、どうやって30万人を殺せるでしょう。しかも日本軍の南京占領後、南京市民の多くは平和が回復した南京に戻ってきて、1ヶ月後に人口は約25万人に増えているのです。もし「虐殺」があったのなら、人々が戻ってきたりするでしょうか。

  ”12月18日には、南京国際委員会(南京の住民が集まっていた安全区を管轄する委員会)が人口「20万人」と発表しています。

 でも、『南京安全区国際委員会』は「南京の人口」を「20万人」などと発表はしていません。『ラーベの日記』でも、問題にしているのは安全区の「難民」です。ラーベが委員長をつとめる南京安全区国際委員会の 12月18日の「日本大使館宛公信(第7号文書)」には


拝啓 陳者貴国軍隊は難民区内にて引続き狼藉を働き全く安かならず20万難民は苦痛に呻吟致し居り候 当委員会は貴大使館を通じ貴国軍事当局に対し迅速且有効なる行動を採り不幸なる事態を阻止せられんことを御伝達相成様要請せざるを得ざる次第に候
とか、
6日貴国軍隊が司法部大楼より数百名を虜にし又警察官50名を虜と致し候 この程局勢を若し明澄にせざれば難民区内20万の市民の生命は絶対に保障無之候


とあるのです。「難民区内」という言葉を見落としたのか、意図的に「難民区内20万の市民」を「南京の人口」に読みかえたのかはわかりませんが、南京安全区国際委員会は「難民」を保護の対象として、様々な取り組みをしたのであり、ラーベも、常に「難民」のことを考えていたことは、日記でも明らかです。

 ラーベは、下記のように「11月28日」に「警察庁長王固盤は、南京には中国人がまだ20万人住んでいるとくりかえした」と書いていますが、これは12月6日の「なぜ、金持ちを、約80万人という恵まれた市民を逃がしたんだ」という文章や「ここに残った人は、家族を連れて逃げたくでも金がなかったのだ」などという文章と考え合わせると、もとから南京城内に住んでいたが、逃げられかった貧しい人たちの数であると思います。それを確かめるため、12月1日に、「南京に残っている住民」について、「残っている住民の数を南京の中国の新聞代理店に片端から問い合わせてみることにしよう」と書いているのだと思います。
 城外から避難してきた難民ではなく、もとから城内に住んでいた住民がどれくらい残っているのか、その数が定かではなかった、ということではないでしょうか。
 12月2日には、「我々は安全区を組織的に管理しており、すでに難民の流入が始まったことをご報告いたします」と日本からの電報をもたらしたフランス人、ジャノキ神父宛の電報に書いています。12月2日は南京陥落前です。「始まった」ということは、その後も流入が続いたとうことだと思います。12月4日には、「難民は徐々に安全区に移りはじめた」と書いています。南京安全区国際委員会が保護すべき難民の数が増えているということだと思います。12月7日には「城門のちかくでは家が焼かれており、そこの住民は安全区に逃げるように指示されている」とあります。中国軍の清野作戦で家を焼かれた人も安全区に入ってくることになったのだと思います。
 特に見逃すことができないのは、12月8日の文章に、「何千人もの難民が四方八方から安全区に詰めかけ、通りはかつての平和な時よりも活気を帯びている」とあり、「城壁の外はぐるりと焼きはらわれ、焼け出された人たちがつぎつぎと送られてくる」とも書いることです。城壁の外からも安全区に人が入ってきたのです。
 したがって、南京安全区に避難してきた難民の数が予想を超えたことは、『南京の真実 The Diary of John Rabe』ジョン・ラーベ著:エルバン・ヴィッケルト編/平野卿子訳(講談社)に収録されているラーベの「ヒトラーへの上申書」の「難民の収容」と題された部分に書かれています。下記の文章です。


その二、難民の収容。その間にも難民はぞくぞくと安全区に流れ込んできました。私たちはまず城壁にポスターを貼り、安全区の友人の家においてもらうよう、それからじゅうぶんな夜具と食料をもってくるように指示しました。つぎに、もっと貧しい人のために、いまやほうぼうにある空き家や入居前の新築の建物を明け渡し、さいごに極貧の人々、いわゆる「老百姓(ラオパイシン)」に、アメリカ伝道団の学校や大学などの大きな建物を開放しました。そのおかげで、恐れていた「ラッシュ」、つまり難民の殺到を避けることができたのです。このように、安全区は何日にもわたってすこしずつふさがっていったのですが、それでも、一家そろって野宿しなければならなかった難民が後を絶ちませんでした。おいそれとはてごろな宿が見つからなかったのです。私たちはすべての通りに難民誘導員をおきました。ついに安全区がいっぱいになったとき、私たちはなんと25万人の難民という「人間の蜂の巣」に住むことになりました。最悪の場合として想定した数より、さらに五万人も多かったのです。なかでも一番貧しい人たち、食べる物さえない6万5千人を、25の収容所に収容しましたが、この人たちには、一日米千6百袋、つまり生米で一人カップ一杯しか与えてやれませんでした。かれらはそれで生きのびなければならなかったのです。
 事態がいよいよ深刻さをましてきたうえに、安全区の保護を要請した私の手紙に対する日本当局からの返事がなかったので、総統閣下にあてて(11月25日に)私はつぎのような電報を打ちました。(電報の内容は『ラーベの日記』No1の11月25日)”

 また、同じヒトラーへの上申書の中で、ラーベは南京の人口に触れ、下記のように書いています。
”青島から先は順調で、済南経由の列車で南京に向かい、9月7日に到着しました。
 私が7月に発ったときには、南京の人口は135万人でした。その後8月なかばの爆撃の後に、何十万もの市民が避難しました。けれども各国の大使館員やドイツ人軍人顧問はまだ全員残っていました。

 以上のようなラーベの文章から、ラーベがヒトラー総統宛てに打ったという電報の中の、「目前に迫った南京をめぐる戦闘で、20万以上の生命が危機にさらされることになります」という文章の「20万」という数字を根拠に、あたかも「南京の人口が20万人」であったかのような主張にをすることには疑問が残ります。
 ラーベの文章の中の数字を単純に計算すると、もともと南京の人口は「135万人」であり、そのうち「約80万人という恵まれた市民」が避難したのですから、当時の南京の人口は55万人になり、難民として国際安全区に入った人が25万人ということになるのではないかと思います。
 ラーベは、それらの数字の意味や根拠は示していませんので、当時の南京の人口が「20万人」であったというためには、『ラーベの日記』や『南京安全区国際委員会』の文書も含め、様々な資料をもとに、きちんと検証することが欠かせないと思うのです。

 そうした避難民に関する記述とともに、ラーベが中国軍の考え方や南京の行政に強い不満をもっていたことも見逃してはいけないことだ思います。
下記は、『南京の真実 The Diary of John Rabe』ジョン・ラーベ著:エルバン・ヴィッケルト編/平野卿子訳(講談社)からの抜粋です。
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 ・・・
11月28日
 昨日、蒋介石と話し合った結果についてのローゼンの報告。
”防衛は、この町の外側だけか、それとも内側でも戦うのか」という質問に対して、「われわれは両方の場合にそなえている」という答が返ってきた。
 次ぎにもしも最悪の事態になった場合、だれが秩序を守るのか、つまりだれが行政官として残り、警察力を行使して暴徒が不法行為を行わないようにするのか」という質問に対する蒋介石もしくは唐の返事は、「そのときは日本人がすればよい」というものだった。
 言いかえれば、役人はだれひとりここには残らないということだ。何十万もの国民のために、だれも身をささげないとは……。さすが、賢明なお考えだ!
 神よ、ヒトラー総統さえ力をお貸しくだされば! 本格的な攻撃が始まったら、どんな悲惨なことになるだろうか。想像もつかない。
 ・・・
 ミルズがいった。客観的にみて、南京の防衛など馬鹿げている。それより穏やかに明け渡した方がよいのではないか。できるだけ早いうちに中国の最高権力者である蒋介石と唐将軍にそのことを伝えるべきではなかろうか。だが、杭立武の意見はちがう。今はその時期ではないというのだ。結局、日本政府から承認されるまで待とうということになった。
 ・・・
 会議で、中国語で印刷された大きな紙をもらった。中国兵に襲われないよう、ドアに貼れというのだ。今日、ドイツ人顧問の家が兵士に押し入られたそうだ。もっともこれはすぐに解決した。
 寧海路五号の新居に、今日、表札とドイツ国旗を取り付けてもらった。ここには表向きだけ住んでいることにするつもりだ。うちの庭ではいま、三番目の防空壕作りが急ピッチで進んでいる。
 二番目のほうは、あきらめざるをえなくなった。水浸しになってしまったからだ。警察庁長王固盤は、南京には中国人がまだ20万人住んでいるとくりかえした。ここにとどまるのかと尋ねると、予想通りの答が返ってきた。「できるだけ長く」
 つまりずらかるということだな!

12月1日 
 ・・・
 18時 会議。南京に残っている住民たちに安全区に移るようにすすめたあとで日本から拒絶されるようなことになったら、われわれの責任は重大だ。それについては大多数の委員が、こちらから先に行動を起こそうという意見だった。安全区に移るようすすめる文面は、ひじょうに慎重でなければならない。いちど、残っている住民の数を南京の中国の新聞代理店に片端から問い合わせてみることにしよう。つまり中国人がどんな様子か聞いてみるのだ。
 ・・・
12月2日 
 フランス人神父ジャノキを通じ、我々は日本から次のような電報を受け取った。ジャノキは上海に安全区をつくった人だ。

 電報 1937年12月1日 南京大使館(南京のアメリカ大使館)より
 11月30日の貴殿の電報の件
 以下は南京安全区委員会にあてられたものです。
 「日本国政府は、安全区設置の申請を受けましたが、遺憾ながら同意できません。中国の軍隊が国民、あるいはさらにその財産に対して過ちを犯そうと、当局はいささかの責を負う意思はありません。ただ、軍事上必要な措置に反しないかぎりにおいては、当該地区を尊重するよう、努力する所存です」

 ラジオによれば、イギリスはこれをはっきりした拒絶とみなしている。だが、我々の意見は違う。これは非常に微妙な言い方をしており、言質をとられないよう用心してはいるが、基本的には好意的だ。そもそもこちらは、日本に「中国軍の過ち」の責任をとってもらおうなどとは考えてはいない。結びの一文「当該地区を尊重するよう、努力する……云々」は、ひじょうに満足のいくものだ。

 アメリカ大使館を介して、我々はつぎのような返信を打った。

 「南京の安全区国際委員会の報告をジャノキ神父に転送してくださるようお願いします。
 「ご尽力、心より感謝いたします。軍事上必要な措置に反しないかぎり安全区を尊重する旨日本政府が確約してくれたとのこと、一同感謝をもってうけとめております。中国からは全面的に承認され、当初の要求は受け入れられております。我々は安全区を組織的に管理しており、すでに難民の流入が始まったことをご報告いたします。しかるべき折、相応の調査をおえた暁には、安全区の設置を中国と日本の両国に公式に通知いたします。

 日本当局と再三友好的に連絡をとってくださるようお願い申し上げます。また、当局が安全を保証する旨を直接委員会に通知してくだされば、難民の不安を和らげるであろうこと、さらにまた速やかにその件について公示していただけるよう心から願っていることも、日本側にお知らせいただくようお願いいたします。
                             ジョン・ラーベ   代表」
 ・・・

12月3日
 ・・・ 
 …ローゼンは私に電報を見せてくれた。これは本当は大使あてなのだが、つぎのような内容だった。
  ドイツ大使館南京分室  漢口発 37年12月2日 南京着 12月3日
  東京12月2日
日本政府は、都市をはじめ、国民政府、生命、財産、外国人及び無抵抗の中国人民をできるだけ寛大に扱う考えをもっております。また、国民政府がその権力を行使することによって、首都を戦争の惨禍から救うよう期しております。軍事上の理由により、南京の城塞地域の特別保護区を、認めるわけにはいきません。日本政府はこの件に関して、公的な声明を出す予定です。
ザウケン
 ・・・
 防衛軍の責任者である唐が軍関係者や軍事施設をすべて撤退させると約束した。それなのに、安全区の3ヶ所に新たに塹壕や高射砲台を配置する配置する場が設けられている。私は唐の使者に、「もしただちに中止しなければ、私は辞任し、委員会も解散する」といっておどしてやった。するとこちらの要望どおりすべて撤退させると文書で言ってきたが、実行には少々時間がかかるというただし書きがついていた。

12月4日
 どうにかして安全区から中国軍を立ち退かせようとするのだが、うまくいかない。唐将軍が約束したにもかかわらず、兵士たちは引き揚げるどころか、新たな塹壕を掘り、軍関係の電話をひいている有様だ。今日、米を運んでくることになっていた8台のトラックのうち、半分しか着かなかった。またまた空襲だ。何時間も続いた。用事で飛行場にいたクレーガーは、あやうく命を落とすところだった。百メートルくらいしか離れていないところにいくつもの爆弾が落ちたのだ。
 難民は徐々に安全区に移りはじめた。ある地方紙は「外国人」による難民区などへ行かないようと、繰り返し書き立てている。この赤新聞は、「空襲にともなうかもしれない危険に身をさらすことは全中国人民の義務である」などとほざいているのだ。

12月5日
 ・・・
 アメリカ大使館の仲介で、ついに、安全区についての東京からの公式回答を受け取った。やや詳しかっただけで、ジャノキ神父によって先日電報で送られてきたものと大筋はかわらない。つまり、日本政府はまた
拒否してきたものの、できるだけ配慮しようと約束してくれたのだ。
 ベイツ、シュペアリングといっしょに、唐司令官を訪ねた。なんとしても、軍人と軍の施設をすぐに安全区から残らず引き揚げる約束をとりつけなければならない。それにしてもやつの返事を聞いたときのわれわれの驚きをいったいどう言えばいいのだろう!
 「とうてい無理だ。どんなに早くても2週間後になる。」だと? そんなばかなことがあるか!それでは、中国人兵士を入れないという条件が満たせないではないか。そうなったら当面、「安全区」の名をつけることなど考えられない。せいぜい「難民区」だ。委員会のメンバーでとことん話し合った結果、新聞にのせる文句を決めた。なにもかも水の泡にならないようにするためには、本当のことを知らせるわけにはいかない…。

・・・

 ローゼンはかんかんになっている。中国軍が安全区のなかに隠れているというのだ。ドイツの旗がある空き家がたくさんあり、その近くにいる方がずっと安全だと思っているからだという。そのとおりだと言い切る自信はない。しかし、今日、唐司令長官と会った家も安全区のなかだったというのはたしかである。

12月6日
 ここに残っていたアメリカ人の半分以上は、今日アメリカの軍艦に乗りこんだ。残りの人々もいつでも乗りこめるように準備している。われわれの仲間だけが拒否した。これは絶対に内緒だが、といってローゼンが教えてくれたところによると、トラウトマン大使の和平案が蒋介石に受け入れられたそうだ。南京が占領される前に平和がくるといい、ローゼンはそういっていた。

 黄上校との話し合いは忘れることができない。黄は安全区に大反対だ。そんなものをつくったら、軍紀が乱れるというのだ。
 「日本に征服された土地は、その土のひとかけらまでわれら中国人の血を吸う定めなのだ。最後の一人が倒れるまで、防衛せねばならん。いいですか。あなたがたが安全区を設けさえしなかったら、いまそこに逃げこもうとしている連中をわが兵士たちの役に立てることができたのですぞ!」
 
 これほどまでに言語道断な台詞があるだろうか。二の句がつげない! しかもこいつは蒋介石委員長側近の高官ときている! ここに残った人は、家族を連れて逃げたくでも金がなかったのだ。おまえら軍人が犯した過ちを、こういう一番気の毒な人民の命で償わせようというのか! なぜ、金持ちを、約80万人という恵まれた市民を逃がしたんだ? 首になわをつけても残せばよかったじゃないか? どうしていつもいつも、一番貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ?

 ・・・

12月7日
 昨夜はさかんに車の音がしていた。そして今朝早く、だいたい5時ころ、飛行機が何機もわが家の屋根すれすれに飛んでいった。それが「蒋介石委員長の別れの挨拶だった。昨日の午後に会った黄もいなくなった。しかも、委員長の命令で!
 あとに残されたのは貧しい人たちだけ。それから、その人たちとともに残ろうと心に決めた我々わずかなヨーロッパ人とアメリカ人だ。

 そこらじゅうから、人々が家財道具や夜具をかかえて逃げこんでくる。といってもこの人たちですら、最下層の貧民ではない。いわば先発隊で、いくらか金があり、それと引き換えにここの友人知人にかくまってもらえるような人たちなのだ。
 これから文字通り無一文の連中がやってくる。そういう人たちのために、学校や大学を開放しなければならない。みな共同宿舎で寝泊まりし、大きな公営給食所で食べ物をもらうことになるだろう。約束の食糧のうち、ここに運び入れることができたのはたった四分の一だ。なにしろ車がなかったので、いいように軍隊に挑発されてしまった。
 ・・・
 城門のちかくでは家が焼かれており、そこの住民は安全区に逃げるように指示されている。安全区は、ひそかに人の認めるところになっていたのだ。… 
 ・・・
 
12月8日
 ・・・
 2年ほど前、トラウトマン大使が北戴河で開かれたティーパーティーの席で私にこういって挨拶したことがあった。「やあ、南京の市長が来た!」そのころ私は党の地方支部長代理をしていたのだが、いくらか気を悪くした。ところが、いま瓢箪から駒が出た。といったからといって、ヨーロッパ人が中国の町の市長になどなれないのはわかりきっている。しかし、このところずっと行動をともにしてきた馬市長が昨日いなくなり、われわれ委員会が難民区の行政上の問題や業務をなにからなにまでやらざるをえなくなったいま、私は事実上「市長代理」のようなものになったわけだ。まったくなんてことだ。

 何千人もの難民が四方八方から安全区に詰めかけ、通りはかつての平和な時よりも活気を帯びている。貧しい人たちが街をさまよう様子を見ていると泣けてくる。まだ泊まるところがみつからない家族が、日が暮れていくなか、この寒空に、家の陰や路上で横になっている。われわれは全力を挙げて安全区を拡張しているが、何度も何度も中国軍がくちばしをいれてくる。いまだに引き揚げないだけではない。それを急いでいるようにもみえないのだ。城壁の外はぐるりと焼きはらわれ、焼け出された人たちがつぎつぎと送られてくる。われわれはさぞまぬけに思われていることだろう。なぜなら、大々的に救援活動をしていながら、少しも実が挙がらないからだ。 

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南京事件 『ラーベの日記』 No1 

2015年11月12日 | 国際・政治

                         「南京の人口20万人」について No1

 2015年10月14日 自民党は『南京事件』資料のユネスコ記憶遺産登録に関し「中国が申請した『南京事件』資料のユネスコ記憶遺産登録に関する決議」を発表しました。また、政府は外務省と専門家の意見書をユネスコ側に提出したといいます。ところが、その意見書に対し、疑問の声が上がったとの報道がありました。それは意見書に南京事件否定派とみられている学者の著書が引用されるなどしたためです。かえって日本の印象を悪くして逆効果になった恐れがあるとのことです。

 ふり返ると、2015年5月には、 米国をはじめとする海外の著名な日本研究者ら187名が、連名で「日本の歴史家を支持する声明」を発表したとの報道がありました。 日本政府の歴史修正主義的姿勢に懸念を示すこうした声明があってもなお、ネット上には
南京市の人口は、日本軍の南京への攻撃開始前に約20万人でした。20万人しかいない所で、どうやって30万人を殺せるでしょう。しかも日本軍の南京占領後、南京市民の多くは平和が回復した南京に戻ってきて、1ヶ月後に人口は約25万人に増えているのです。もし「虐殺」があったのなら、人々が戻ってきたりするでしょうか
というような主張が、相変わらず散見されます。歴史を学ぼうとする日本の若者を惑わす主張であり、国際社会の信頼を損ねる主張であると思います。なぜなら、「20万」という数字について
”…12月18日には、南京国際委員会(南京の住民が集まっていた安全区を管轄する委員会)が人口「20万人」と発表しています。
と書いています。「30万人」の虐殺を否定するために、「20万」という数字が、根拠ある数字であることを示すために、南京安全区国際委員会の発表を利用したのだと思われますが、この「20万」という数字の利用には、三つの大きな問題があると考えます。

 まず第一に、確かに南京安全区国際委員会の代表ラーベも、繰り返し20万という数字を使ってはいますが、下記の日記抜粋文に明らかなように、その数字は、南京安全区国際委員会が保護しようとする「非戦闘員」であり、避難民の数であって、ラーベは「南京の人口」を語っているのではありません。
 日本軍が一般市民も多数虐殺したことは、数々の証言で明らかだと思いますが、特に、南京攻略戦前後に、「捕虜」とした中国兵、武器を捨て、抵抗の意志を放棄して逃げる「敗走兵」や「敗残兵」、さらには白旗をあげて日本軍の前に出て来た「投降兵」などを国際法に反し、計画的に集団虐殺したことを忘れてはならないと思います。ラーベのいう「20万」という数は、「非戦闘員」という言葉が示すように、計画的に集団虐殺された中国兵は、「便衣兵狩り」などで避難民の中から引っ張り出された一部を除き、含んでいないのです。

 ラーベが南京残留を決心した状況とともに、ラーベが「毒ガスにそなえて、酢にひたしたマスクも用意するつもりだ」と書いていることも忘れてはならないと思います。日本は中国で、国際法に反して密かに毒ガス戦を展開していた、という事実を示すものだと思うからです。


 下記は 『南京の真実 The Diary of John Rabe』ジョン・ラーベ著:エルバン・ヴィッケルト編/平野卿子訳(講談社)からの抜粋です。
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1937年9月21日
 裕福な中国人たちはとうに船で漢口へ避難しはじめていた。農場という農場、庭という庭、さらに公共の広場や通りには大車輪で防空壕が作られた。とはいっても、19、20日と、続けて四度の空襲にみまわれるまでは、ごく平穏な毎日が続いた。

 アメリカ人やドイツ人の多くがすでに南京を去っていた。これからいったいどうなるのか。昨晩、じっくり考えてみた。安全な北戴河からわざわざここへ戻ってきたのは、なにも冒険心からなどではない。まず財産を守るため、それからジーメンスの業務のためだ。むろん、社のために命を差し出せなどといわれてもいないし、いうはずもない。第一、私自身、会社や財産のために命をかける気などこれっぽっちもないのだ。だが、伝統あるハンブルグ商人である私にとってどうしても目をそむけることのできない道義的な問題がある。それは中国人の使用人や従業員のことだ。かれらにとって、いや、30人はいるその家族にとっても、頼みの綱は「ご主人(マスター)」、つまり私しかいないのだ。私が残れば、かれらは最後まで忠実に踏みとどまるだろう。以前、北部の戦争で私はそれを見届けている。逃げれば、会社も家も荒れ果てる。それどころか略奪にあうだろう。それはともかく、たとえどんなにつらいことになろうとも、やはりかれらの信頼を裏切る気にはなれない。こんなときでなければさっさとお払い箱にしたいような役立たずの連中すら、いちずに私に信頼をよせているのをみると思わずほろりとする。

 アシスタントの韓湘林が給料の前払いを頼みにきた。妻子を済南へ避難させたいという。韓はきっぱりといった。
 「所長がおられる所に私もとどまります。よそへ行かれるのなら、私も参ります!」
 うちの使用人も大半がやはり北部の出身だが、貧しく、逃げようにも行く所がない。せめて妻子だけは安全な所へと思い、旅費を出そうといったが、かれらはどうしていいかわからず、おろおろするばかりだ。むろん、みな故郷へ帰りたい気はある。だが、帰ったところでそこも戦いのさなかなのだ。── というわけで、口々に、ここに、私のそばにいる方がいいという。
 こういう人たちを見捨てることができるか? そんなことが許されるだろうか? いや、私はそうは思わない! 一度でいい、ふるえている中国人の子どもを両手に抱え、何時間も防空壕で過ごしたことのある人なら、私の気持ちが分かるだろう。

 それに結局のところ、私の心の奥底にはここに残り、ここで耐えぬくべきだ、という強い思いがある。私はナチ党の党員だ。しかも、支部長代理さえつとめたことがあるのだ。わが社の得意先は中国の役所だが、仕事で訪れるたびに、ドイツという国、それからナチ党や政府について尋ねたれた。そういうとき、私はいつもこう答えてきた。

  いいですか……
  ひとつ、我々は労働者のために闘います
  ひとつ、我々は労働者のための政府です
  ひとつ、我々は労働者の友です  
我々は労働者を、貧しき者を、見捨てはしません!

 私はナチ党員だ。だから、私がいう労働者とは、ドイツの労働者のことであって中国のではない。だが、かれらはそれをどう解釈するだろうか? この国は30年という長い年月、私を手厚くもてなしてくれた。いま、その国がひどい苦難にあっているのだ。金持ちは逃げられる。だが貧乏人は残るほかない。行くあてがないのだ。資金もない。虐殺されはしないだろうか? かれらを救わなくていいのか? せめてその幾人かでも? しかも、それがほかでもない自分と関わりのある人間、使用人だったら?

 私はついに肚を決めた。そして留守に使用人たちが掘った陥没寸前の汚い防空壕を作り直し、頑丈なものにした。
 そこへわが家の薬箱をそっくり持ち込んだ。とっくに閉校になった学校からも運んできた毒ガスにそなえて、酢にひたしたマスクも用意するつもりだ。飲食物は篭と魔法瓶につめた。

9月22日
 爆撃終了を告げる長いサイレンが鳴ったあと、車で市内をまわってみる。日本軍がまっさきにねらったのは中国国民党の支部だ。ここには中央放送局のセンターとスタジオがあるからだ。

 本日をもって私の戦争日記の始まりとする。19、20日と続いたすさまじい爆撃の間、私は自分で作った防空壕に中国人たちと一緒に潜んでいた。爆弾が落ちても大丈夫というわけではないが、榴散弾の炎や散弾っからは守られる。庭には縦横6×3メートルの大きさの帆が広げてある。これにみなでハーケンクロイツの旗を描いたのだ(写真5ー略)。

 政府が考え出した合図は実によくできている。空襲のおよそ20分前から30分前、けたたましい警報が鳴る。ついで幾分短い警報。これで通りから通行人が排除される。交通もすべて停止。歩行者は通りの脇に作られた防空壕にもぐりこむ、という寸法だ。

 建物の後ろ、市の外壁のローム層に、中国国民党をねらった最後の爆弾のあとが見える。
 そばの防空壕に直撃弾が落ち、8人死んだ。なかから顔を出してあたりを見まわしていた婦人の頭は吹き飛ばされ、どこにも見当たらない。ただひとり、10歳くらいの少女だけが奇跡的に無事だった。その子は、人々の集まっている所へ行っては、「どうして助かったのか、自分でもわからない。とてもこわかった」とくりかえしていた。広場は兵士によって封鎖された。ちょうど最後の棺の前で紙銭(紙幣を模して作ったもの。棺の前で燃やして死者を弔った)が燃やされたところだった。

11月25日
 ・・・
 ラジオによると、非戦闘員の安全区に対して、日本はこれまでのところ最終的な回答をよこしていない。上海ドイツ総領事館を通じて、おなじく上海にいるラーマン党地方支部長に頼んでヒトラー総統とクリーベル総領事に電報を打とうと決心した。今日、つぎのような電報を打つつもりだ。
   在上海総領事館。
   党支部長ラーマン殿。つぎの電報をどうか転送してくださるようお願いします。
 総統閣下
 末尾に署名しております私ことナチ党南京支部員、当地の国際委員会代表は、総統閣下に対し、非戦闘員の中立区域設置の件に関する日本政府への好意あるお取りなしをいただくよう、衷心よりお願いいたすものです。さもなければ、目前に迫った南京をめぐる戦闘で、20万以上の生命が危機にさらされることになります。
     ナチス式敬礼をもって。             ジーメンス・南京、ラーベ

 クリーベル総領事殿
 本日私が総統へお願いいたしました日本政府に対する非戦闘員安全区設置に関するお取りなしについて、貴殿の尽力を心よりお願いする次第です。さもないと、目前に迫った戦闘での恐るべき流血が避けられません。
     ハイル・ヒトラ-!  ジーメンス・南京および国際委員会代表 ラーベ
※ヘルマン・クリーベルは1923年のヒトラーによる反乱に加わり、ヒトラーと共に禁固刑を受けた。だがこの頃にはヒトラーへの進言など、とうていできない立場にあった。

 電報代を考えてラーメン氏は後込みをするかもしれない。そう思ったので、費用は私が持つからとりあえずジーメンスに請求してください。と付け加えた

 今日は路線バスがない。全部漢口へいってしまったという。これで街はいくらか静かになるだろう。まだ20万人をこす非戦闘員がいるというけれども、ここらでもういいかげんに安全区がつくれるといいが。ヒトラー総統が力をお貸しくださるようにと、神に祈った。

 たったいま杭立武さんが、安全区の件で中国政府から了解を得る必要はないと教えてくれた。蒋介石が個人的に承諾してくれたというのだ。
 渉外担当が決まった。南京YMCAのフィッチ。あとは日本側の賛意を待つのみ。

 上海の中国本社からドイツ大使館に私あての電報が届いていた。
「ジーメンス・南京へ。ジーメンス上海より告ぐ。南京を発ってよし。身の危険を避けるため、漢口へ移るように勧める。そちらの予定を電報で告げよ」

 私は大使館を通じて返事をした。
「ジーメンス・上海へ。ラーベより。11月25日の電報、ありがたく拝受。しかしながら当方南京残留を決意。20万人をこす非戦闘員の保護のため、国際委員会の代表を引き受けました

 

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”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801)

 

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『陸軍80年』憲兵隊司令官・大谷敬二郎 南京の記述

2015年11月02日 | 国際・政治

 『陸軍80年』(図書出版社)の著者・大谷敬二郎氏は、「第11章、日中戦争」のなかで、南京大虐殺に関して、

そこでは30万ないし50万の中国人が虐殺されたといわれた。だが、それは、戦犯裁判対策上の著しい虚構と思われる。昭和12年12月10日前後の時点において、南京の全人口30万、ここの防衛軍5万ないし10万、合計35万ないし40万人と推定されるのに、50万虐殺といえば、おつりがくるし、30万虐殺といえばそのほとんどが殺されたことになる。あまりにも誇大なる告発であった

と書いている(資料2)。この昭和12年12月10日前後の時点において、「南京の全人口30万」は何を根拠にした数字なのかはわからない。ただ、南京大虐殺を否定する人たちが、こうした言い方をすることが多いので、「南京の全人口30万」という数字の根拠を知りたいと思う。
 
  南京大虐殺を否定する人のなかには、「ラーベの日記」の「在上海ドイツ総領事館宛」電報に関する記述(1937年11月25日)の中に

党支部長ラーマン殿。つぎの電報をどうか転送してくださるようお願いします。
 総統閣下
 末尾に署名しております私ことナチ党南京支部員、当地の国際委員会代表は、総統閣下に対し、非戦闘員の中立区域設置の件に関する日本政府への好意あるお取りなしをいただくよう、衷心よりお願いいたすものです。さもなければ、目前に迫った南京をめぐる戦闘で、20万以上の生命が危機にさらされることになります。
     ナチス式敬礼をもって。             ジーメンス・南京、ラーベ

とあることなどを根拠に、「南京の当時の人口が20万であるのに、30万の虐殺などあり得ない」などと、主張している人さえいる。しかし、この「20万」という数字は、明らかに難民区で保護しよとする中国人非戦闘員の、それも11月25日時点の概数で、南京の人口ではない。
 また、日本軍は難民区から多くの中国兵と思われる人たちや疑わしい市民を引っ張り出し虐殺したが、それはごく一部で、虐殺された中国人の大部分が、武器を捨て敗走する中国兵や一緒に逃げる一般市民であり、また、日本軍が南京攻略にいたる過程で捕らえた敗残兵や投降兵であることを忘れてはならないと思う。南京大虐殺に関する研究でよく知られた洞富雄氏によれば、当時南京周辺で南京防衛に当たっていた中国の南京防衛軍はおよそ15万に達するという。

 さらに、南京特別市は南京城区(市部)と広大な近郊区(県部)からなっており、南京城区だけで虐殺の問題を論じることはできないということも踏まえなければならない。
 1937年11月23日に、南京市政府(馬超俊市長)は、国民政府軍事委員会後方勤務部に、現在南京城区の人口は50余万と報告しているという。
 したがって、洞氏は、流動的ではあったが、南京攻略戦が開始されたとき、南京城区にいた市民、難民はおよそ40万から50万、それに中国軍の兵(戦闘兵、後方兵、雑兵、軍夫など含め)15万を加えてカウントすべきだという。広大な近郊区(県部)を除外しても、55万から65万の数になるのである。
 したがって、きわめて流動的であった当時の南京の人口の根拠を示すことなく、「南京の当時の人口が20万であるのに、30万の虐殺などあり得ない」などと言って大虐殺を否定する議論は、南京で何があったのかという事実に正しく向き合おうとしない議論であると思う。

 当時の南京の人口をもとに南京大虐殺を否定する人たちの中には、大谷敬二郎氏の記述をヒントにした人もいるのではないかと思われるが、かつて憲兵隊司令官であった大谷敬二郎氏は、同書の「あとがき」(下記資料1)に、戦時中の日本軍について、”すでにこの国の国民と断絶していたのだ。いわば、それは「国民の軍隊」ではなかったのだと言いたい”と書いていることも見逃してはならないと思う。こうした日本軍の実態を語る関係者の記述こそ、忘れることなく受け継ぐべきだと思う。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

                       あとがき


 …日中戦争といえば、そのさなかの昭和14年頃 私は要務のために中国に旅行したことがある。その帰途は上海から長崎への船によって長崎に着いたが、ここでは、埠頭から長崎駅まで還送される傷病兵士を迎えいたわる婦人たちの姿を身近にみた。そしてこの国民の帰還傷病兵士への、心からなる手厚い歓待とその心遣いにに、ふかく感動したことがある。

 しかし、この敗戦の場における国民は、戦い疲れて帰還した兵士たちには、意外に冷たくきびしく、あたかも異国の人に接するように疎外していた。もちろん、敗戦の傷跡はこの国民にも大きく、かつ深かった。人々はその日暮らしにも難渋していたし、その上進駐軍の目は光っており、MPはどこにもMいた。こうした国内ではあったが、それにしても、これら復員兵士たちのみじめさと、国民の之を迎える、温かい心のカケラさえ見ることができなかったのには、わたしは、心の随に徹するほどかなしい思いであったことを、今にしてなお忘れられないのである。敗れたとはいえ、よく戦いよく困難に堪え、いく度かの死線を乗り越えて、やっと夢に見た祖国にたどりついた戦士、これをこのように扱う故国、いやそのような国民が、世界のどこにあったであろうかと。

 そして、わたしはいま、30年後の今日、ひとり首をかしげる。なぜに国民は復員軍人に、かくまでつめたかったのかと。そのわけは山ほどあろう。だがこれを端的にいえば、軍が横暴をはたらき、政治を独占し、こんなムチャな戦争をして、国民を悲惨のどん底におとしいれ、この国をこんなに荒廃せしめたからだ、と人々は言うだろう。だが、それは戦った軍人軍隊のの罪だけではないと思う。いわゆる軍閥とけなされる軍指導者の一群のいたすところが大であろう。

 しかしわたしはなお考える。この国民から冷遇をうけた、かつての帝国軍人、いや、そこでの軍隊にも大きな責任がある。その軍隊はすでにこの国の国民と断絶していたのだ。いわば、それは「国民の軍隊」ではなかったのだと言いたい。もし、これが国民と軍隊との間に血の通った、真の「国民の軍隊」であるならば、たとえ、敗れたりとはいえ、あたたかく迎えられその労はねぎらわれるはずだ。いかにそこに進駐軍の目が光っていたとしても、また、苦しい生活にあえいでいた国民であったとしても。
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 また、大谷敬二郎氏は同書の”南京「大虐殺」”(資料2)のなかで、下記のように書いていることも忘れてはならないと思う。
 ”昭和13年1月はじめ、南京を訪問した陸軍省人事局長阿南少将が中島中将に会ったとき、「支那人なんかいくらでも殺してしまうんだ」とたいへんな気炎をあげていたとも伝えられていたが、この司令官のもとでは、殺人、掠奪、強姦も占領軍の特権のように横行したであろう。
 中島中将は、南京攻略戦に参加した第十六師団の師団長であり、日記に
一、本日正午高山剣士来着ス
   捕虜7名アリ直ニ試斬ヲ為サシム
   時恰モ小生ノ刀モ亦此時彼ヲシテ試斬セシメ頸二ツヲ見事斬リタリ
と書いている軍人である。〔437 捕虜(俘虜)「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」 日本軍 NO1参照〕


資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー                                             南京大虐殺
南京「大虐殺」
 さて、これらの戦績はいつも日本軍の勝利に帰し、そこでの日本軍は常に中国軍一師団に対しわずかに一個大隊といった兵力比の戦いであった。もちろん、中国軍は、中央軍、地方軍、雑軍といった軍隊で、その精強さにおいては雑多なるものがあり、概して日本軍に比べて劣弱であったといえよう。ことに、その地方軍などは、兵力温存の立場から、いちはやく退却するという具合で、この中国戦場では殲滅線といったものはなかった。
 したがって、ここでの戦場では、日本軍はよく戦い、つねに城頭高く日の丸をあげるいわゆる「一番のり」を競ったが、すでに、そのときは、有力軍は遁走したあとということになる。たとえ、日本軍が完全に包囲したとしても、そこには必ず隙間がある。この隙間を縫って中国軍は遁走する。しかもその退却にしても大部隊が隊伍もって退却するのではなく、例えば蜘蛛の子を散らすように四方八方に散って後退し、のち安全な場所でふたたび集結して陣容を建て直すといった退却戦法であるから、日本軍はとうてい、敵の大軍を捕捉殲滅をすることはあ不可能であった。ここから、占領後の市街粛清が絶対必要となり、入市に先だって市内の掃討作戦が行なわれた。 

 かの南京における大虐殺は、今日におよんでも、日本の非道残虐が告発されているが、たしかに、そこでは、玉石混交、一般市民に対する殺害が行われたが、一城を占領したあとは、中国戦場では大なり小なり、こうした無辜の住民がそばづえをくって戦禍をうけたのも、一般的には、こうした事情によるものと思われる。
 だが、それにしても、南京における事態は、”皇軍”の出師をいちじるしく傷つけたもので、わが対外戦史の一大汚点であろう。

 南京大虐殺は、それは戦後の東京裁判で暴露されすべての国民を驚かしたが、そこでは30万ないし50万の中国人が虐殺されたといわれた。だが、それは、戦犯裁判対策上の著しい虚構と思われる。昭和12年12月10日前後の時点において、南京の全人口30万、ここの防衛軍5万ないし10万、合計35万ないし40万人と推定されるのに、50万虐殺といえば、おつりがくるし、30万虐殺といえばそのほとんどが殺されたことになる。あまりにも誇大なる告発であった。だが、事実、そこではいく多の不幸な事態があった。東京裁判に証人として出廷した南京大学教授べーツ博士はこう証言している。
 「城内だけでも、1万2千におよぶ中国非戦闘員が虐殺され、ある中国軍の一群は城外で武装解除去れ、揚子江のほとりで射殺された。われわれはこの死体を埋葬したが、その数は3万人をこえていた。そのほか揚子江に投げこまれた死体は数えきれない。
 南京大学の構内にいた3万人の避難民のうち数百人の婦人は暴行された。占領後一ヶ月間に2万人におよぶ、こうした事件が国際委員会に報告された」
 ここで、とくに問題とされたのは、右にある中国兵捕虜の虐殺である。日本軍に捕らえられた捕虜1万5千(実数は7、8千といわれている)が、日本軍の機関銃によってメッタ撃ちされ、ために揚子江はまっ赤に染められたというのである。

 最近南京大虐殺といわれたこの日本軍の蛮行について、克明な実証をとげられた、評論家鈴木明氏の数々の労作、「南京、昭和12年12月」「まぽろしの南京大虐殺」などによって、それが伝えられるような残忍酷薄な意図的なものではなく、右の揚子江河畔の虐殺もまったく偶発的な要素が重なったものであり、その被害者も「大虐殺」といわれるにはあまりにもその数は少なかったが、後に政治的な意味できわめて拡大されたことが立証されている。だが、こうした事態の究明によってもここでの日本軍の暴虐が免罪されるものではない。南京入城式が松井司令官統裁の下に行われたのは、12月17日、その前後、市内の掃蕩、粛清間に行われた殺害、掠奪、婦女強姦の数々は、おびただしいものがあった。戦後、南京事件法廷で当時の第六師団長・谷寿夫中将は、このためにさばかれ、雨花台で銃殺され、その屍体は群衆にはずかしめられたが、占領後の南京警備司令官は第十六師団中島今朝吾中将であったのだ。

 中島は2・26事件後の憲兵司令官を勤めた人、さきに書いた宇垣組閣阻止に動いた張本人、そのあと第十六師団長となった。憲兵司令官当時、しばしば常軌を逸することがあり、部下たちを困らせていた。いささか異常性格と思わせる節がないでもなかった。この師団長が南京市の警備責任者であったのだ。昭和13年1月はじめ、南京を訪問した陸軍省人事局長阿南少将が中島中将に会ったとき、「支那人なんかいくらでも殺してしまうんだ」とたいへんな気炎をああげていたとも伝えられていたが、この司令官のもとでは、殺人、掠奪、強姦も占領軍の特権のように横行したであろう。現に彼は、のち満州の第四軍司令官当時、蒋介石の私財を持ち出し師団偕行社に送っていたことがばれて予備役に編入されている。

 当時、東京にはこの師団の非道さは、かなり伝えられていた。こんな話がある。松井兵団に配属された野戦憲兵長は、宮崎憲兵少佐であったが、あまりの軍隊の暴虐にいかり、現行犯を発見せば、将校といえども直ちに逮捕し、いささかも仮借するな、と厳命した。ために、強姦や掠奪の現行犯で、将校にして手錠をかけられ憲兵隊に連行されるといった状況がつづいた。だが、これに対し、つよく抗議したのが中島中将であった。このかんの事情がどうであったか、くわしくは覚えないが、当の宮崎少佐は、まもなく内地憲兵隊に転任される羽目となった。これでは、戦場における軍の紀律はたもてない。高級指揮官が、掠奪など占領軍の当然の権利のように考えていたからだ。すでに、軍はその質を失っていた。

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