真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

戦争に関わる歴史の真実は・・・ http://hide20.web.fc2.com に記事にリンクの一覧表


霧社事件(台湾山地原住民の抗日蜂起)の真相

2010年12月22日 | 国際・政治
 「戦争を語り継ぐ」のMLで「日本人は負け戦の悔いはあっても、反省がない」という主張や「戦争の後始末をきちんとすることは、平和と民主主義を掲げる国の基本である」という主張があることを知った。さまざまな戦後処理を「パンドラの箱」と扱う限り戦後は終わらない、という。その通りだと思う。そうしたことと同じような意味で、「霧社事件」の真相もしっかりとらえ直さなければいけないのではないかと思う。

 下記は「昭和5年台湾蕃地 霧社事件史」(台湾軍司令部編刊)から「第1節 事件ノ原因」の部分を抜粋したものである。その大部分が「蕃地ハ剽悍ニシテ闘争ヲ好ミ…」とか「馘首闘争ヲ敢テスル奇怪ナル習癖…」とか「世ヲ呪ヘル数名ノ不良蕃…」、「労役ヲ好マサル傾向…」、「性質不良ノ為…」、「性兇悪ニシテ酒ヲ好ミ……」、「素行常ニ治マラス…」、「兇行ノ本能的衝動ニ燃エ…」、「昔日ノ放肆ナル生活ニ憧憬シ…」等々、山地原住民の習癖や個人的性格、個人的事情に事件の原因があったかのように考えていたことが読み取れる。
 事件につながった日本側の問題としてあげているのは、木材の運搬にあたっては、引き摺ってはいけない、と命令をしたこと、賃銀支払が遅れたこと、また、事件の中心的人物「モーナルダオ」の妹と結婚した巡査が妻を捨てて行方不明になったことの3つと、吉村巡査殴打事件に絡む問題を合わせて4つである。しかしながら、「証言 霧社事件 台湾山地人の抗日蜂起 アウイヘッパハ」解説-許介鱗(草風館)を読むと、真実はかなり異なるものであったことが分かる。そして、そのとらえ方の違いの中に、当時の日本人関係者の台湾山地原住民に対する差別意識や人権無視の実態が透けて見える。台湾軍司令部の文書の中にはない「事件の原因」の主なものを、アウイヘバハの証言の中から拾うと、下記の通りである。

1 銃の押収と貸与制度
 狩猟と農業を生業とする山地人にとって「銃は男の魂であった」という。台湾総督
 府は、山地人からその銃を押収し、官による貸与制度を実施したのである。しか
 も、貸与するか否かの決定権は巡査の手に握られた。巡査は容易には銃を貸し
 てくれなかったという。今まで狩猟によって得られたもので日用必需品を手にして
 きたが、それが出来なくなって生活が行き詰まったというのである。そして、巡査
 の任意の決定権が、様々な問題を発生させたようである。

2 出迎えの強制
 駐在所に警察の上級の偉い人が巡視に来るたびに、山地人は呼び出され、整
 列させられ、出迎えをさせられたという。どんなに忙しいときにも呼び出され、自
 分の仕事ができなかったというのである。また、接待のご馳走のために、山地部
 落のニワトリなどが持って行かれたともいう。大切な財産を取られても、我慢する
 しかなかったというのである。

3 山地女性の差別的利用
 台湾総督府は通訳の必要性と理蕃政策推進のために、警察官吏に山地女性と
 結婚させる政策をとり「蕃婦関係」を官の政策の一環に組み入れた。しかし、それ
 は正式な「婚姻関係」とはみなされないので「蕃婦関係」と称されたようである。そ
 して、多くの山地人女性が捨てられた。同書には、山地人女性を捨てた何人か
 の巡査の実名があげられている。また、籍をいれてもらうことができなかったた
 めに、生まれた子は法律の適用を受けることができなかったという。それだけで
 はなく、巡査の強姦や強姦まがいの行為によって生まれた私生児が、山地のあ
 ちこちにいたともいう。

4 巡査の暴力
 巡査は短気で手がはやく、ちょっとしたことでも鼻血が出るまでぶったという。吉
 村巡査殴打事件では、「酩酊セル頭目ノ長男”ダダオモーナ”ハ旧知ノ間柄ナル
 ニ依リ来リテ執拗ニ酒ヲ奨メタルカ”ダダオ”ノ手ハ豚ノ血ニ塗レ不潔ナリシヲ以
 テ之ヲ断リシコトヨリ遂ニ父子3名ニテ同巡査ヲ地上ニ捻チ伏セ殴打セル事件ナ
 リ」とあるが、事実は、タダオモーナが血のついた手で差し出したドブ酒と手掴み
 の豚肉の饗応を、吉村巡査が所持するステッキでたたき落としたために、その好
 意と尊厳が傷つけられたタダオモーナが殴りかかったという。(この事実は「台湾
 の霧社事件-真相と背景-」森田俊介著(台湾の霧社事件刊行会)
「樺沢巡
 査部長の陳述要旨」に
も記述されている)

5 義務出役と無賃労働
 下記には、山地人は賃銀支払いの遅延に不満をもったとあるが、駐在所の建築
 や道路の補修などでは、各戸順番の割り当てがあり、義務出役、無賃労働が多
 かったという。おまけに大事なときにも自分の仕事を後回しにせざるを得ず、困っ
 たようである。また、巡査による賃金のピンハネや意図的な支払い操作があり、
 支払われる賃銀に差がつけられたりもしたという。さらには、巡査の妻も家事を手
 伝わせることがあったという。

 下記は、事件の背景にあるこうした事実に触れていない。そこに、日本の「理蕃政策」の問題や台湾統治の問題があるのだと思う。
---------------------------------
                   第3章 出兵ノ経緯

第1節 事件ノ原因(附図第2参照)

蕃地ハ剽悍ニシテ闘争ヲ好ミ且伝来ノ迷信ニ依リ吉凶禍福等極メテ簡単ナル日常ノ事象ニ関シテモ馘首闘争ヲ敢テスル奇怪ナル習癖ヲ有シ一度其性癖勃発シ更ニ群集心理ノ之ニ雷同スルヤ意外ノ結果ヲ惹起ス又蕃人ノ生活状態ハ今尚原始的ナル血族団体ヲ基調トシ彼等カ自社以外ノ者ニ対スル関係ハ普通ノ個人的関係ヨリモ、寧ロ直ニ蕃社全体トシテノ問題タルコト多シ今回ノ事件ノ如キモ其惨害比較的甚大ナリシハ右ノ理由ニ基クモノトス
事件ノ直接原因トナリシモノハ予テ官憲ニ快トセス且世ヲ呪ヘル数名ノ不良蕃丁等カ謂ハハ出草(首狩り)ノ道連トシテ当時小学校宿舎用木材運搬ノ苦痛カ各社蕃人ヲ通シ相当不満ノ因トナレルヲ巧ニ利用シタルコトカ頑迷ニシテ反抗心ニ燃エタル「マヘポ」社頭目「モーナルダオ」ノ意志ニ合シ突発的ニ犯行ノ挙に出タルモノニシテ短時日ノ間ニ談議実行セラレタルモノノ如ク其主ナルモノヲ挙クレハ左ノ如シ
一、建築材料運搬ノ苦痛並賃銀支払遅延ニ対スル不平
  兇行ノ原因トシテ出役ノ苦痛ハ各蕃人ノ共ニ愬フル所ニシテ最近一年間ニ約
  九件ノ出役工事アリ就中最近ニ於ケル小学校宿舎用木材ノ運搬ハ端ナクモ彼
  等ニ兇行ノ動機ヲ与ヘタルモノノ如シ蕃人ハ元来勇猛ヲ以テ誇トナシ労役ヲ好
  マサル傾向アルト工事ノ関係上彼等ノ生業 繁閑ヲノミ顧ミルコト能ハサリシ事
  情アリ加フルニ木材運搬ニ際シテ蕃人ハ之ヲ引摺ル習慣ナルニ拘ラス材料ノ
  損傷ヲ慮リ担送ヲ命令シタルコトアリ又賃銀支払モ遅延勝ナリシヲ以テ蕃人ノ
  間ニ漸次不平ノ念ヲ抱カシムルニ至レリ

二、「ピホサッポ」及「ピホワリス」等ノ画策
  「ホーゴー」社蕃丁「ピホワリス」(推定20歳)ハ少年ノ頃ヨリ性質狡猾ニシテ官
  命ニ従順ナラス嘗テ其従兄「ピホナウイ」カ家庭ノ不和ヨリ萬大社蕃童ヲ馘首セ
  ル廉ニ依リ極刑ニ処セラレタルヲ憤リ常ニ反官的態度ヲ示シ長スルニ従ヒ益々
  兇暴ヲ振舞ヒ大正14年3月萬大社蕃人ノ出草セルニ加ハリタル廉ニ依リ労役
  30日ニ処セラレ又昭和3年自ラ出草ヲ企テ露見シテ処罰セラレタルコトアリシ
  カ数年前萬大社蕃婦ト入夫婚姻シ既ニ5歳ノ長子アルニ拘ラス性質不良ノ為
  其妻トノ折合思ワシカラス同社ニ居堪ラス事件2日前「ホーゴー」社ニ帰リ悲観
  懊悩ノ日ヲ送リツツアリタリ又「ホーゴー」社蕃丁「ピホワリス」(推定31歳)ハ前
  記「ピホナウイ」ノ従兄ニシテ性兇悪ニシテ酒ヲ好ミ其一家ハ明治44年頃官ニ
  抗シタル廉ニ依リ全部極刑ニ処セラレタルモ当時彼ハ麟家ニ在リテ処分ヲ免レ
  タルモノニシテ成長スルニ及ヒ官憲ヲ恨ムコト甚シク機会アラハ内地人ヲ鏖殺
  (オウサツ)セント豪語シ居レル模様ナリ而モ素行常ニ治マラス家庭不和ニシテ妻
  ハ之カ為縊死スルニ至リ社衆ノ信用ヲ失フコト甚シク自棄的態度トナレリ(蕃人
  ハ女性ノ信頼ヲ繋キ得サルカ如キハ最大ノ恥辱トス)    
  此等失意ノ蕃人ハ兇行ニ依リ其鬱憤ヲ晴ラスヲ常トシ最モ警戒ヲ要スヘキモノ
  ニシテ事件勃発前両名ハ極度ノ精神的苦悩ニ堪ヘス兇行ノ本能的衝動ニ燃エ
  居リシハ蔽フヘカラサル所ナリ尚「ホーゴー」社ニハ右両名ノ外数名ノ不良蕃
  丁アリ何レモ労働ヲ厭ヒ木材運搬等ニ就貴不平不満ヲ漏シ10月24日後述ノ
  如ク「ピホサッポ」ノ家ニ落合ヒ酒興ニ委セテ慷慨中血気ニ逸リ兇行決行ノ議ヲ
  進メテ遂ニ「マヘボ」社頭目「モーナルダオ」ヲシテ事ヲ擧ケシムルニ至リシモノ
  ナリ


三、「マヘボ」社頭目「モーナルダオ」ノ反抗心
   「マヘボ」社頭目「モーナルダオ」(推定48歳)ハ兇行ノ総指揮官ニシテ性兇
  暴傲岸ニシテ争闘ヲ好ミ17,8歳ノ頃ヨリ剽悍ヲ以テ附近ニ名アリ父「ルーダオ
  パイ」ノ死後頭目ヲ継承シテヨリ勢力隆々トシテ霧社蕃中之ニ比肩スル者ナシ
  明治44年内地ヲ観光セルモ頑迷ニシテ時勢ヲ解セス昔日ノ放肆ナル生活ニ
  憧憬シ内地人ヲ駆逐シ官憲ノ覇絆ヲ脱セント企図シ居リシモノノ如ク大正9年
  及同14年ノ両度自ラ主謀者トナリテ反抗ヲ企テタルモ事前ニ発覚シ事ナキヲ
  得タリ又其妹ハ曩ニ巡査某ノ妻トナリシカ其後同人カ妻ヲ捨テテ行衛不明トナ
  リシ事等ノ関係ニ就キテモ反感ヲ抱キ居リシ模様ナリ更ニ「モーナルダオ」ノ決
  ヲ速ナラシメタルモノハ吉村巡査殴打事件ニシテ彼ハ其非ヲ悟リ酒一瓶ヲ駐在
  所ニ贈リテ謝罪ノ意ヲ表シタルモ聴カレヅ今後如何ナル処罰ヲ受クルヤモ計ラ
  レスト私ニ危惧シ居リシモノノ如シ


 附記 吉村巡査殴打事件トハ事件約20日同巡査カ小学校宿舎木材製材所ニ向フ途次「マヘボ」社ヲ通過スルヤ時恰モ同社ニ於テハ一蕃丁ノ結婚式ニテ蕃人約40名集合シ酒宴中ニシテ酩酊セル頭目ノ長男「ダダオモーナ」ハ旧知ノ間柄ナルニ依リ来リテ執拗ニ酒ヲ奨メタルカ「ダダオ」ノ手ハ豚ノ血ニ塗レ不潔ナリシヲ以テ之ヲ断リシコトヨリ遂ニ父子3名ニテ同巡査ヲ地上ニ捻チ伏セ殴打セル事件ナリ

而シテ既ニ述ヘタルカ如ク「マヘボ」社ハ製材地ノ入口ニ当リ出入蕃人ハ悉ク同社ヲ通過シ木材運搬ノ苦痛ヲ訴フルヲ目撃シ一層反抗心ヲ昂メ此ノ如クニシテ「モーナルダオ」一家カ懊悩焦心ノ状態ニ在リタル際「ホーゴー」社蕃丁「ピホサッポ」「ピホワリス」等ノ運動会ヲ機会ニ内地人ヲ殺戮セントスルハ謀議ヲ受ケ機乗スルヘシト為シテ之ニ同意シ大事ヲ惹起スルニ至レルカ如シ
 


 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。 

コメント

霧社事件(台湾山地原住民の抗日蜂起)

2010年12月17日 | 国際・政治
 霧社事件とは、日本統治時代の台湾における山地原住民の「抗日蜂起」といえる事件である。それは台湾統治も日本の植民地政策の成功例ではなかったことを示している。いや、むしろ日本のアジア諸国に対する差別的植民地支配を象徴する事件であると思う。

 1930年(昭和5年)10月27日、日本人児童が通う霧社尋常小学校と地元民児童が通う霧社公学校および蕃童教育所の連合運動会に参集した数百名に、山地原住民が襲いかかり、日本人を狙って136名を殺害したのである。その中に、日本人の装いをしていたためにあやまって殺された4歳の子どもと、山地原住民に暴行を加えた四ツ倉商店の店員の2人の漢民族が含まれていたが、大勢の人たちが逃げまどう大混乱の情況の中で誤殺は事実上たった一人であったわけである。極めて計画的で組織的な抗日蜂起であったことが分かる。

 下記は、「昭和5年 台湾蕃地 霧社事件史」(台湾軍司令部編刊)よりの抜粋である。日本人だけを狙ったことに触れていない点や「…蕃人壮丁約300名突如トシテ暴動ヲ起シ…」とか「兇蕃…」などの表現が気になるところであるが、霧社事件の事実経過は簡潔にまとめられていると思う。
---------------------------------
            昭和5年 台湾蕃地 霧社事件史

 第1章 概説(附図第1第5参照)

事件勃発ノ地タル霧社ハ台中州能高郡下ノ蕃界ニシテ有名ナル日月潭ノ東北ニ位シ附近ハ海抜数千尺ニ達スル所謂能高ノ高山地帯ナリ

霧社蕃ハ本島蕃界中蕃童教育ノ最モ進歩セル所ノ一ニシテ他蕃ニ於テハ僅ニ蕃童教育所ト称スル不完全ナル教育機関ヲ有スルニ過ザルモ同地ニ於テハ本島公学校令ニ依ル霧社公学校ヲ設ケ孜々児童ノ教化ニ努メ来タリ特ニ毎年一回慣例的ニ学芸会及運動会ヲ盛大ニ催スヲ例トセリ

事件勃発ノ当時10月26、7ノ両日ハ恰モ学芸会及運動会ノ開催日ニシテ能高郡ヨリ群守以下視学等前日ヨリ出張滞在シアリ26日無事学芸会ヲ修了シ27日ハ運動会ノ当日トテ早朝ヨリ附近在住ノ内台人ハ勿論各蕃社ノ蕃人等老幼男女数百名参集シ学校及霧社警察分室職員等ハ午前8時開会ノ予定ヲ以テ之カ準備ヲ整ヘアリシカ軈(ヤガ)テ定刻ニ至リ開会セシ刹那「マヘボ」「ボアルン」「ホーゴー」「ロードフ」「タロワン」「スーク」ノ6社ノ蕃人壮丁約300名突如トシテ暴動ヲ起シ「マヘボ」頭目「モーナルダオ」之ヲ指揮シ会場内ニ闖入シ(兇行蕃人ノ多クハ当初ヨリ参観シアラス)居合ハセタル内地人官民並学童ノ大部分ヲ銃器、蕃刀又ハ竹槍ヲ以テ虐殺シ同時ニ霧社警察分室ヲ始メ学校、郵便局並各職員宿舎及民家ヲ襲ヒ職員、家族ヲ殺戮スルト共ニ分室ニ在リシ銃器、弾薬、糧食、家具、衣類等全部ヲ掠
奪セリ此間兇蕃ノ一部ハ附近ノ通信機関及橋梁ヲ破壊シテ外部トノ連絡ヲ遮断シ同日未明ヨリ午後ニ亘リ霧社附近13箇所ノ駐在所ヲ襲ヒ其大部ヲ焼却シテ霧社同様ノ暴虐ヲ恣ニシ世人ヲシテ近代未聞ノ惨劇ニ驚愕惜ク能ハサラシメタリ

此報一度伝ハルヤ時ヲ移サス州下警官隊先ツ埔里ニ応急出動シ同時ニ軍司令官ハ州知事及総督ヨリ出兵ノ要求アリシニ依リ警察官憲支援ノ目的ヲ以テ直ニ台中大隊ヨリ歩兵1中隊ヲ埔里ニ派遣スルト共ニ飛行隊ヲシテ霧社附近ノ状況ノ捜索ヲ命シ更ニ花蓮港ノ歩兵1中隊ヲ能高峠確保ノタメ急行セシメタリ然ルニ其後状況漸次判明シ兇蕃ノ兵力意外ニ優勢ニシテ霧社一帯ノ内地人悉ク惨殺セラレ多数ノ兵器、弾薬モ亦其手ニ帰シメタリトノ情報ニ接シタルヲ以テ将来討伐ノ必要ヲ顧慮シ翌28日更ニ山砲1中隊(1小隊欠)、歩兵通信班ヲ出動シ埔里ニ増遣セリ

29日警官隊及支援歩兵中隊相踵テ霧社ニ到達ス而シテ軍ハ此日夕遂ニ台中大隊ノ主力ヲ出動セシムルト共ニ守備隊司令官ヲシテ此等諸部隊(台中大隊[1中隊欠]、花蓮港ノ歩兵1中隊、歩兵通信班、山砲中隊[1小隊欠]、及出動飛行隊)ノ指揮ニ任セシメタルモ尚飽クマテ警察官憲支援ノ関係ヲ保持シ翌30日ニ至リ守備隊司令官埔里ニ到達スル頃軍司令官ハ全般ノ状況ヲ通観シ断然兵力ヲ以テ反徒平定スルニ決シ総督ノ同意ヲ求メ同日夜ニ入リテ此旨ヲ守備隊司令官ニ電命セリ

爾来軍ハ幾多特殊困難ニ遭遇シツツ断乎トシテ武力平定ヲ敢行シ軍隊ノ勇敢ナル攻撃ハ出動数日ニシテ敵蕃ヲ悉ク「マヘボ」渓谷内ニ壓迫シ更ニ異常ナル苦心ト努力トヲ以テ之ヲ掃蕩シ遂ニ克ク兇徒ヲ膺懲シテ復タ起ツ能ハサルニ至ラシメ是ニ軍ハ出動ノ目的ヲ達成シ一部隊ヲ同地ニ残置シテ警官隊ノ支援タラシメ主力ハ11月30日ヲ最後トシ原駐地ニ撤退セリ

幸ニシテ今次ノ暴動ハ霧社蕃族ノ一部ニ限ラレ爾餘ノ蕃界ニ波及スルコトナカリシヲ以テ島内各地ノ蕃情ハ一般ニ平穏ニ経過セリ


 ・・・以下略

 
 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。 

コメント

牡丹社事件(宮古島民台湾遭難事件)と台湾出兵

2010年12月11日 | 国際・政治
 「宮古島民台湾遭難事件ー宮古島歴史物語」宮國文雄著(那覇出版社)には、牡丹社事件のかなり詳しい顛末が記されている。
 その事件は、1871年秋に発生した。宮古、八重山の春立船4隻(宮古船2隻、八重山船2隻)が首里王府に年貢を納め終え帰途についた時のことである。4隻とも12端帆の当時としてはかなり大きな船であったようであるが、台風に遭遇し、まるで木の葉のように波にもて遊ばれ離ればなれになって、宮古船の1隻だけが宮古島にたどり着いたという。八重山船の1隻は行方不明のままであり、結局、残り2隻は漂流の後、台湾に漂着したのである。八重山船は西海岸に漂着したため、すぐに台湾府に保護されたが、宮古船は、台湾の南端、八瑤湾(ハチョウワン)に漂着し、言葉の通じない「牡丹社」というパイワン族の村落に迷い込んで、54名もの人たちが殺害されることになったのである。
 
 八瑤湾(ハチョウワン)に漂着した宮古船には、頭職仲宗根玄安を含む19人の役人と、従内と称する士族の随行者11名、供と称する平民の随行者21名及び船頭を含む乗組員18名の合計69人が乗っていたが、まだ波荒く危険な状況の中、我先に伝馬船に飛び乗り上陸しようとしたため、3人が波にさらわれ、溺死することになったようである。

 無事に上陸を果たした66人は、何という島かも分からないまま彷徨い、2人の男に出会っている。そして、言葉が通じないために、意思疎通がうまくできないながらも、彼等を案内人としてしばらくついていったようである。しかしながら、持ち物を略奪されるなどしたため、途中で案内を断っている。そして、その2人が「西の方に行くと耳の大きな人が住んでいて人の頭を切り取る風習がある。だから南のほうに行く方が良い」と指摘していたにもかかわらず西の方へ向い、野宿をしながら進んでいる。

 たどり着いた村は、当時の蕃社の一つで、『高士沸(クスクス)』(現牡丹郷高士)といわれる首狩りの風習が残るところであったという。ここで食事を与えられ救助されたものと思っていると、まもなく持ち物をほとんど奪われる。異常な様子の村人や蕃刀を持つ男の挙動に不信をいだいた漂着者たちは再び逃げ出す。そして「凌老生(リョウロウセイ)」という言葉の通じる老人に出会い保護されるが、追ってきた高
士沸社と牡丹社の人々は凌老生に引き渡しを迫まる。凌老生は命がけで漂着者達をかばったようであるが、蕃社の人々は、次々に漂着者達を連れ出し殺害したようである。異常な事態に気づいた漂着者達は再び四散して逃げた。そこでも、凌老生は素早く9人をかくまっている。蕃社の人々の首切りは、凌老生が2樽の酒を出せなかったために始まったという。酒に代わるものをいろいろ提示して哀願したが次々に連れ出され殺害されたというのである。

 逃げ出した漂着者のうちの3人が、「鄧天保」という人の家に逃げ込み助けられている。鄧天保は3人から事の次第を聞き、すぐに生存者の捜索に当たり6人を保護している。そして、統捕に急行し、通事の「林阿九」に事の次第を話し保護を求めたのである。林阿九は早速救助にかかり、保力庄の総頭「楊友旺」に事件の報告をして保護を求めた。楊友旺は、9人を保護するとともに、残る人々の捜索に出かけて 、さらに2人を救助したのである。また、宮古人が蕃社の人に捕らえられ留置されているという情報を得て楊友旺はすぐに駆けつけ、私財を投じて救出したという。その後12名の人々を自宅に40日間保護し、衰弱している体力の回復を図る一方で、台湾府城へ送り届ける準備を進めたのである。

 その後遭難者達12名は、楊友旺の長男に付き添われて保力庄を出発、車城に至り、車城からは海路楓港に向かい、楓港からはまた陸路で鳳山県に向かったのである。鳳山県の役人に引き渡すまで漂流者達を世話した楊友旺は、大変な負担を引き受けたことになる。漂流者達は鳳山県を出発した後は、途中で一泊して台湾府城に到着しているが、ここで、台湾の西海岸に漂着し、季成忠という人に救助された八重山船の一行と合流している。そして、その後琉球館の保護を受け、約7ヶ月半後の明治5年6月2日福州を出発して6月7日那覇に戻ったという。

 この牡丹社事件(宮古島民台湾遭難事件)の報告を受けた鹿児島県参事官大山綱良は、すぐ明治政府に事件の詳細を報告するとともに、台湾の生蕃を征伐したいと申し出ているが認められていない。さらに、54名もの人々が殺害された琉球藩からは、できるだけ穏やかに事件の処理をしてほしいとの嘆願書が出されていた。にもかかわらず、日本は2年以上が経過した1874年に台湾に出兵(征討軍3000名)するのである。まさに帝国主義的領土拡張の口実に利用されたとしか考えられない。「宮古島民台湾遭難事件ー宮古島歴史物語」宮國文雄著(那覇出版社)より、そのへんの事情を考察した部分を抜粋する。
---------------------------------
                 第2章 台湾征伐
 第3節 征韓に代わるもの

 西郷などが征韓論に敗れ、政府の主導権争いから下野して後に政府の頭痛の種は不平士族の問題であった。その解決策の一つとして、外征に依る下級武士の救済が必要欠くべからざる事となっていた。外征に依って下級武士を軍人として雇用することに依り彼等の経済的窮状を救うことが出来るのである。加えて農民や職人及び商人等の不満の目をそこに向けさせ、その間に政府の足腰を鍛えておき権力基盤の確立を図る。そのための外征が必要であった。政府がここで着目したのが台湾征伐である。


 明治4年11月の宮古島島民遭難事件に端を発して、早くも明治5年には大山綱良等旧薩摩藩士や長州藩士、土佐藩士等の間に台湾征伐論が台頭してきた。特に鹿児島県の士族達の間には征台について熱心な者が多く、大山綱良に至っては自ら兵を率いて台湾征伐をしたいと政府に申し出る有様で、実に好戦的でさえあった。鹿児島県参事たる大山綱良にとっては一つには鹿児島県内の下級武士の救済がその目的であり、琉球藩民は鹿児島県から見れば彼等の支配下にある者達である。それを54名も殺されて黙っている訳にはいかないと言う訳である。

 ところが、琉球藩は、清国との交流が長く続いており、親しい間柄であるため、清国に対する配慮からことを穏やかに納めたいという思いがあった。琉球藩からは鹿児島県に対して又日本政府に対しても『生存者達は清国政府関係者によって厚遇された上に送りかえされて来たのだから、出来るだけ穏やかに事件の処理をしてほしい』という嘆願書が出されていた。政府は琉球の特殊事情を知っており、加えて清国との国交関係の悪化を恐れて、大山等に対し出兵を許可しなかった。しかし、この際、琉球の帰属ついては政府は断固たる意思表示をしなければならない時期でもあった。清国に対して早晩その事についてはっきりさせなければならないということは政府の基本方針となっていた。

 従来、琉球国は日清両属の国であった。すなわち慶長14年、薩摩の琉球国に対する武力侵略以来約300年間、琉球は薩摩の植民地的支配の属国となっており、国政全般に亘って薩摩の監督下に置かれていた。薩摩は侵略直後に検地を行い、琉球国全体の総石数を算定してそれをもとに課税し、毎年膨大な年貢を薩摩に納めさせていた。一方、薩摩の侵略はるか以前から代々中国との交易を行い、琉球国王は清国皇帝に依って代々冊封を受けて来た。そのため清国は琉球国にとっては親国的な存在であった。

 薩摩は侵略後も琉球と清国との関係はそのまま維持させ、その交易に依る収入を全て吸い上げるという寄生虫的支配を行って来た。もっとも薩摩の琉球侵略の目的の第1が、この清琉貿易の利益の略奪であった。寄生虫どころか強盗にも等しい所業に依って琉球住民を吐炭(塗炭?)の苦しみに追いやっていた訳である。

明治政府は、そうした諸々の事情から琉球は日本の領土であるとして維新後は琉球国を吸収合併するための諸々の施策を講じてきた。明治5年には琉球国を琉球藩と強制的に改めさせ、琉球国王尚泰を琉球藩王と改めさせた。
 こうして琉球国はその帰属をだんだん日本側に移されて行き、明治12年には一方的に琉球処分を行い、琉球藩をして沖縄県となし、正式に日本の一部として併合した。


 明治5年に大山綱良に依って提出された上陳書によって日本政府は琉球宮古島民の台湾遭難事件を知った。しかし、当時の日本国内は諸々の国内情勢に依り征台の挙に出ることは出来なかった。しかし、明治6年になると、下級武士達の処遇の問題や、国内の不平不満民衆の宣撫の為にも何等かの手を打って国民の目を国外にそらす必要に迫られていた。その他、対清国との外交問題が続出し、清国との交渉等で苦慮していた。政府は、ここで弱腰をみせる訳にはいかぬと腹を決め、強気の外交に転ずることになる。琉球藩民殺害事件は、まさしく良い口実を与えることになる。政府は清国に対し、この事件に関する問罪の師を派遣することを決議した。

 明治6年3月9日、明治天皇は副島種臣に勅語を賜り、問罪の為の全権大使として清国に派遣し、その審理をを行わしめた。……

 ・・・(以下略)

http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。  

コメント

台湾出兵と琉球処分、そして尖閣領有、台湾併合へ

2010年12月01日 | 国際・政治
 1874年の日本の台湾出兵については、当然のことながら清国の抗議があった(下段資料1)。しかしながら7月7日の閣議は台湾駐兵の続行を決めた。そして、領土相互不侵越を約束した「日清修好条規」(下段資料2)が結ばれていたにもかかわらず、下記の「宣戦発令順序条目」を定めて、和戦両様のかまえで清国にのぞんだのである。
 また、琉球処分断行にあたった松田処分官には、警官隊160余人、熊本鎮台分遣隊約400人の兵士が同行している。明らかに力ずくの琉球処分-琉球藩の廃止であった。そしてそれらが日本の帝国主義的領土拡張政策によるものであったことを示す関係者の言葉が残されている。したがって、尖閣諸島領有も、そうした歴史的流れの中で理解するべきではないかと思う。「アジア侵略の100年-日清戦争からPKO派兵まで」木元茂夫(社会評論社)の抜粋である。
----------------------------------
              第1章 日清戦争への道

3 台湾出兵と西郷従道


・・・
 明治政府が成立してまもなく、日本は「日清修好条規」を結んだ。1871年のことである。清国との間には正式な外交関係が結ばれた時、明治政府の首脳が考えたのは、日清両属の形であいまいになっている琉球をどうするかであった。最も強硬であったのは、長州出身で伊藤博文とともにロンドンに留学した経験をもつ、大蔵大輔井上馨である。井上は1872年5月に、次のような建議を行っている。

 「……従前曖昧の陋轍(ロウテツ)を一掃して、改て
皇国の規模御拡張の御措置有之度(アリタク)……彼の酋長を近く闕下(ケッカ)に招致し、其不臣の罪を譴責……速に版籍を収め明に我所属に帰し……」

 「彼の酋長」とは琉球国の国王をさし、「闕下」とは朝廷の意味である。つまり井上は、国王を呼びつけて、明治政府への忠誠を誓わせろと主張したのである。この井上の主張は、朝鮮についての木戸孝允の主張とうり二つである。木戸は「神州の威を振」いと言い、井上は「皇国の規模御拡張」と言った。明治政府の指導者、とりわけ長州閥の面々は、かくも侵略的であった。

 明治政府が実際に行ったのは、井上の建議のような過激な方法ではなく、琉球国の国王・尚泰を上京させて、天皇の前で、「藩主」に命じ、華族の一員に列することであった。1872年9月のことである。同時に琉球国の外交権を外務省に移管した。まさに「皇国の規模御拡張」の第1歩が記されたのである。
---------------------------------
・・・
 しかし、7月7日の閣議は、台湾出兵続行と大久保利通を全権大使として清国に派遣することを決定した。和戦両様のかまえで清国にのぞんだのである。日清開戦の場合に備え「宣戦発令順序条目」を決定している。これは、その後の日本の戦争指導の基本となったものなので、重要な事項だけに紹介しておく。

宣戦発令順序条目
 一、宣戦に決したる時はその趣旨判然と詔書をもって布告すべき事[中略]
 一、天皇陛下大元帥とならせられ六師を統率し大阪へ本営を設けられるべきこと
    [中略]
 一、戦略は大参謀の籌図にするはもちろんたりといえども、その枢軸は、内閣と
    協議を為すべきこと[以下略]


 清国に派遣された大久保利通は、交渉の結果、賠償金50万両(約75万円)を獲得し、日本軍は12月ようやく撤兵することになった。しかし、清国の北洋大臣威李鴻章は、この台湾出兵を契機として、日本を仮想敵国とする北洋海軍の創設に着手していく。日清の対立は台湾出兵をもって始まり、朝鮮半島の権益をめぐって、激化していったのである。
 台湾蕃地事務局長官であった大隈重信は、台湾出兵の意義を、のちにこう記している。


「征台の役に日本の費やすところ780万円なりしかば、得失相償わざるの感ありといえども、清国は間接に、琉球人が日本の臣民にして、したがいて琉球群島は日本の領土たることを認めたるのみならず、各外国は我が兵力の有効なることを認めたる結果として、英仏二国は、幕末の外人迫害以来、横浜に駐在せしめたる兵を徹したるにより、明治外交の上に受けたる間接の利益は、はなはだ大なりき」(『開国の大勢史』)

 台湾出兵が決着を見ると、日本政府はすぐさま琉球処分に取りかかっていく。この年、琉球関係の事務は外務省から内務省の管轄に移され、那覇の出張所も内務省の所管となった。西郷従道が台湾から長崎に向かっていた12月24日、大久保利通は、琉球と清国の関係を断ち切るよう説得するため琉球藩の首脳に上京を命じている。

 ・・・

 こうした経過の後、自由民権派のテロリストに刺殺された大久保利通の後を継いで内務卿となった伊藤博文は、処分断行を決定し松田を琉球に派遣する。松田は警官隊160余人、熊本鎮台分遣隊約400人の兵士を率いて琉球におもむき、首里城で処分断行を言い渡した。1879年4月4日のことである。ここに数百年の独自の歴史を持つ琉球国は、日本に併合されるのである。のちに大隈重信は、この琉球処分を「明治時代における帝国膨張の第一程となす」と記した。

 台湾出兵と琉球処分は「皇国の大陵威(オオミイツ)」「国体と国権」にかかわるものとして強行された。そして台湾出兵の戦死者は、陸軍中将西郷従道が祭主を務めた招魂式によって、初の”対外戦争”の戦死者として東京招魂社(現靖国神社)に合祀されたのであった。……
---------------------------------
 「戦争と新聞」鈴木健二(毎日新聞社)に、台湾出兵に同行した従軍記者の戦地報道の一部が紹介されているが、台湾出兵が単に琉球人殺害にたいする処置ではなく、領土(皇国の版図)の拡張にあったという捉え方をしている事実は見逃せないと思う。
---------------------------------
                第1部 軍国の形成

 第1章 新聞は戦争で育った

 台湾出兵

 ・・・
 「まず丈夫では居るけれどもなかなか苦しい。大概のところではこれ程の苦しみはあるまい。食う物はなし、食えば高し、うまくはなし、あついあつい、ああ苦しい」 これは台湾出兵に同行した日本初の従軍記者、岸田吟香の戦地報道である。

 …「まず支那領の堺より南なる地に手を下し、これを略取して植民地となし、それよりまた北支那領の堺より南の地に兵を置きて、漸々にこれを開拓し、大木を伐り荊棘を焼き、土蕃を教え導きて、以て
わが皇国の版図を広めんとなしたもうの思召しなるべし」(同5月15日)と岸田は書いている。

 ・・・(以下略)

資料1「台湾出兵ー大日本帝国の開幕劇」毛利俊彦著(中公新書)------

 日本の遠征軍主力が長崎を発航したのは5月2日(1874年)であったが、9日後の5月11日、清朝総署大臣恭親王らは、台湾は「中国の版図」内であるから日本が出兵するとは信じ難いが、もし実行するのであればなぜ事前に清側に「議及」しないのかとの抗議的照会を発し、6月4日、総署雇用イギリス人ケーンが日本外務省に持参した。
 また、西郷都督が廈門領事に赴任する福島九成に託した出兵通告書を受け取った閩浙総督李鶴年も、同じ5月11日付けで、琉球も台湾も清国に属しているし台湾への出兵は領土相互不侵越を約束した日清修好条規違反であるから撤兵されたいとの回答を西郷に送った。
 清政府の態度は、日本政府の予想以上に強硬であった。6月24日、清皇帝は、日本の出兵は修好条規違反だから即時撤兵要求せよ、従わない場合は罪を明示して討伐せよ、と李鶴年らに勅命をくだした。


資料2「日中国交文献集」竹内実+21世紀中国総研編(蒼蒼社刊)-----

   大日本国と大清国は古来友誼敦厚なるを以今般一同旧好を修め益(マスマス)
   邦交を固くせんと欲し、
   大日本国欽差全権大臣従二位大蔵卿           伊達
   大清国欽差全権大臣辨理通商事務太子太保協辨大学士
        兵部尚書直隷総督部堂一等粛毅伯   李
   各(オノオノ)奉じたる上諭(ジョウユ)の旨に遵(シタガ)い、公同会議して修好条規
   を定め、以て双方信守し久遠替らざる事を期す。
   その議定せし各条左の如し。

第1条 此後大日本国と大清国は弥(イヨイヨ)和誼(ワギ)を敦(アツ)うし、天地と共に
   窮(キワ)まり無(ナカ)るべし。又両国に属したる邦土も、各(オノオノ)礼を以て相
   待ち、聊(イササカ)侵越する事なく永久安全を得せしむべし。
第2条 両国好(ヨシミ)を通ぜし上は、必ず相関切(アイカンセツ)す。若し他国より不公
   及び軽藐(ケイバク)する事有る時、其知らせを為さば、何れも互いに相助け、
   或は中に入り、程克く取扱い、友誼を敦くすべし。
第3条 両国の政事各異なれば、其政事は、己国(ココク)自主の権に任ずべし。彼
   此(ヒシ)に於て何れも代謀干預(ダイボウカンヨ)して禁じたる事を、取り行わんと
   請い願うことを得ず。其禁令は互いに相助け、各其商民に諭(サト)土人を誘惑
   し、聊違反あるを許さず。

 ・・・(以下略)

 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。

コメント (2)