真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

戦争に関わる歴史の真実は・・・ http://hide20.web.fc2.com に記事にリンクの一覧表


労務係の強制労働の証言と対韓外交 NO1

2020年02月20日 | 国際・政治

 日本が安全保障上の理由を上げて、韓国に対してレジストや高純度フッ化水素、フッ化ポリイミドの3品目の輸出規制を強化すると発表して以降、日韓関係は急速に悪化しました。
 韓国の主力産業である半導体産業を支える素材の輸出規制は、韓国経済を苦境に追い込むことが分かっているのに、なぜ規制に踏み切ったのか。韓国政府が厳しい状況に立たされ、態度を硬化させることは分かっていたのではないでしょうか。 
 輸出規制によって韓国では反日感情が高まり、日本製品の不買運動が起こりました。特に日本のビールや酒などの嗜好品の類は大きな影響を受け、また、観光分野のダメージもとても大きいといいます。政府はなぜ強引に、そうした事態が予想されるのに輸出規制に踏み切ったのか、と疑問に思います。
 政府は、”韓国から兵器に転用できる3品目を含む戦略物資が密輸出された案件が明らかになったからだ”というような安全保障上の理由を上げましたが、突然の発表であり、詳細はよく分かりません。本当でしょうか。密輸出の情報があれば、輸出規制をする前に、何かすることや、できることがあったのではないでしょうか。
 韓国が、対抗措置として防衛協力協定である「軍事情報包括保護協定・GSOMIA(日韓秘密軍事情報保護協定)」を破棄すれば、かえって安全保障上深刻な問題をかかえることになるということは考えなかったのでしょうか。
 そんな疑問は、さらに、日本政府の輸出規制のほんとうの狙いは、安全保障上の問題ではなく、輸出規制によって韓国経済を苦境に追い込み、文在寅政権に対する批判や反発の声を大きくすることだったのではないのか、と膨らみます。そして、文在寅政権に対する批判や反発の声を利用して、文在寅政権との間の歴史認識問題や防衛問題を巡る対立その他を有利に進めようとする安倍政権の意図を疑うのです。

 疑わざるを得ないのは、安倍政権の法や道義・道徳を蔑ろにした政権運営があまりにも目立つからです。学校法人「森友学園」問題や、首相の長年の友人である加計孝太郎氏の学校法人「加計学園」の問題、また、「桜を見る会」の問題などをめぐる数々の疑惑に、安倍首相は何ら説明責任を果たすことなく、平然と政権運営を続け、独裁的ともいえる体制を固めつつあるように思います。だから、安倍政権を律するのは、法や道義・道徳ではないのだと、私は思います。

 安倍政権の疑惑がほとんど明らかにされないのは、第2次安倍内閣によって、2014年に「内閣人事局」が創設されて以降、人事権を握られた官僚側に、安倍政権を忖度する姿勢が強くなったからだといわれています。嘘をつかざるを得ない官僚がかわいそうだという声もあるようですが、安倍政権に批判的では、官僚の仕事は勤まらなくなっているのではないかと思います。
 だから、
”安倍政権下では首相に対する官僚の「忖度」の度合いがどんどん強まり、霞が関全体に蔓延しつつある”などといわれているのだと思います。 

 安倍政権のそうした傾向は「内閣人事局」が創設さる前からあったのではないかと思います。たとえば、安倍首相の「お友だち」が多数送り込まれているといわれたNHKの経営委員会が、松本正之会長の後任に安倍首相に近い籾井勝人氏を決めました。
 その籾井氏は、NHK会長就任直後に理事全員に「日付のない辞表」を提出させ、人事権の掌握強化を行ったという趣旨の報道があり驚きました。
 また、竹島問題・尖閣諸島問題について”日本の立場を国際放送で明確に発信していく、国際放送とはそういうもの。政府が「右」と言っているのに我々が「左」と言うわけにはいかない”とか、NHKの放送内容について”日本政府と懸け離れたものであってはならない”というような政府寄りの発言も報道されました。
 その後も、NHKの経営委員は安倍首相と近い人物が選ばれているといいます。放送法に規定されている「不偏不党」や公共放送 に求められる「中立性」から、安倍政権前には、政治色の濃い人事は控えられてきた経営委員に、首相と距離の近い人物が揃い、異例であるといいます。

 特に見逃すことのできない人事が、2013年の「内閣法制局長官の人事」です。”霞が関が驚愕するサプライズ人事”だと言われました。
 なぜなら、前例を覆し、内閣法制局に一度も在籍したことのない外務省OBの小松一郎駐フランス大使を長官に抜擢したからです。考えられない人事だったようです。当時、「集団的自衛権」の行使容認を実現したい安倍首相が、行使容認積極派の小松氏を起用して、これまで「法制局が違憲としてきた憲法解釈」を見直させるためだったといいます。あまりに強引な人事です。
 その思惑通り、小松氏は集団的自衛権の行使容認への道筋をつけたといいます。そしてその後、「法の番人」といわれる内閣法制局も、しっかり安倍政権を支え、「法の番人」から「内閣の番犬」となり、あらゆる内閣の方針にお墨付きを与え続けているというのです。
 小松長官の意思を継いだ後任の横畠長官は、解釈改憲により集団的自衛権の行使を容認しました。そして、「法の番人」ではなく、「内閣の番犬」的発言を続け、”身体の隅々まで安倍首相の意向が染み渡っていることは疑いようもない”などと言われました。

 さらに安倍政権は、つい最近、「検察庁法と国家公務員法の関係」について政府解釈を変えて、「黒川弘務・東京高検検事長の定年延長」を閣議決定しました。野党や法曹経験者らの反発が相次いだといいます。またしても、過去の国会審議で示された政府見解が、安倍内閣の解釈で変更されることになり、”法治国家が崩された異常事態”などの声が出ているようです。

 こうした安倍政権の政治姿勢から、私は、輸出規制のほんとうの狙いが、実は安全保障上の問題ではなく、輸出規制によって韓国経済を苦境に追い込み、文在寅政権に対する批判や反発の声を大きくして、自らの思いを通そうとする政治的思惑を疑うのです。

 私は、安倍政権のように法や道義道徳を蔑ろにし、独裁体制を固めて、不都合な事実を隠蔽するような姿勢では、日韓関係の改善はできないと思います。また、両国の間に横たわる深刻な問題を、政治力や経済力や軍事力を背景に決着させようとする姿勢では、韓国のみならず、中国その他の近隣諸国の信頼を得ることもできないと思います。
 「消された朝鮮人強制連行の記録 関釜連絡船と火床の抗夫たち」林えいだい(明石書店)には、下記の他にも、60人を超える人たちの証言が取り上げられていますが、本来、強制連行された人たちや強制労働させられた人たちの補償にかかわるこうした聞き取り調査は、国が率先して行うべきことだと、私は思います。国が誠意を持ってこうした聞き取り調査を行い、実態を明らかにするだけでも、韓国の受け止め方はずい分変わるだろうと思います。
 でも、残念ながら戦後の日本でも、こうした聞き取り調査を続ける人が、賞賛されるのではなく、逆に脅されることがあるというのが、現状です。
 戦前・戦中同様、不都合な事実を隠蔽する姿勢を続けていては、将来世代が近隣諸国との関係に苦しみ続けることになるのではないかと私は思っています。だから、過去に何があったのか、下記のような証言から事実を学ぶことが大事だと、私は思うのです。

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                      第五章 同胞管理
2 労務は嫌だ
                                          元豊州炭鉱古長鉱業所労務係 
                                              田川市在住 安元錫
(1) 募集ブローカー
 1939年5月。強制連行が始まる直前、自由渡航で日本へやってきた。朝鮮にいた時は百姓をしていたが、米のご飯は11月頃二、三日食べるだけだった。
 米は全部供出したので、後は粟を買って食べた。二年続けて兇作で、とてもじゃないが生活が苦しくて生きて行くのがやっとでね。日本はいい。金儲かるいう噂を聞いて、じっとしておれなくなった。最初は二、三年働いてから帰国しようと気楽に考えていた。それがそもそもの間違いだった。
 渡航して一年半経った頃、田川市伊田で彦山川の堤防工事の土方人夫をしていた。休日に伊田の町をぶらついていると、募集ブローカーから声をかけられて。
 「お前、炭鉱で働かんか。給料はいいし、飯は腹いっぱい食わせるぞ。土方と違って、坑内は雨降りでも仕事が出来るぞ、だからいいじゃないか」
 土方をしていて、風雨にはさんざん泣かされて来とるから、それを聞いてすぐ炭鉱に行く気になった。それでとうとう川崎町の豊州炭鉱に志願しました。半年後、祖国から強制連行の第一期生がやって来ました。
 大場労務課長が私のところに来て、
 「安君、お前は今度朝鮮から来た者の先輩じゃないか。彼らの言葉が分かる労務がうちの炭鉱におらんから、一つ坑内へ連れて下がってくれないか。これから先、毎年増えるだろうから頼むぞ」
 といわれた。
 労務課長の頼みは、私としては嫌とはいえんからね。
 それから約一ヶ月、寮生を坑内へ連れて下がったが、とてもじゃないが気苦労があって、もう死んでも行くまいと思った。
 寮生は朝鮮から来たばかりで、炭鉱の経験がないので、簡単に土方作業ぐらいにしか考えておらん。炭鉱の恐ろしさを知らないから、見ているこっちのほうがはらはらする。
 日本人の抗夫が嫌がるような、一番危険な切羽(採炭現場)にわざと行かせて採炭させたから、私はもう完全にノイローゼだよ。
 「炭鉱は私の性に合わんから止めさせてくれ」
 と、労務課長にいうたとです。
 彼は私の顔をじっと見て、
 「お前には坑内の採炭は向かんかも知れんねえ」
 といった。
 今度は、捲き揚げする気缶場の釜焚きですたい。それでほっとして生命拾いをしました。
 私の仕事が重労働だと知っとるので、女房は朝飯の残りを全部弁当に詰めてくれた。子供と女房の顔を見るとかわいそうになって、弁当をわざと忘れて来ることもあった。
 坑内の採炭に比べて、坑外の釜場の賃金はぐっと安かった。女房は少しでも稼ごうと、寮生の布団縫いのアルバイトね。夫婦で働いたが、食べるのがやっとの毎日でした。
 石炭を釜に投げ込む仕事はとっても熱く、体中の水分が一度に蒸発しそうで、息が出来んように苦しい。坑内とは全く違ったきつさでね。あまりの苦しさに、とうとう一週間休んだ。
 すると労務課長が家にやって来た。私は大納屋の抗夫と違って、ビタ一文も肩入金をもろうてないから、文句をいわれる筋合いはない。
 私はかなり脅されると覚悟していた。
 「やっぱりお前がおらんと労務が困る。何とか出勤してくれんか」
 と、逆に説得されました。
 再び嫌な労務に引き戻されて、振り出しに戻ってしまったよ。
坑内に入ることは嫌だといったが、別に通訳がいないから絶対に受けつけてもらえんやった。
 労務は人から恨まれる損な仕事だよ。朝鮮人の同胞を殴ったり、逃亡した者を探すことが主な仕事でした。外の炭鉱とか土方飯場まで追いかけて行ったからね。
 「川崎の豊州炭鉱から迎えに来た」
 そういうだけで、相手は黙って引き渡してくれた。それほど豊州炭鉱といえば怖れられた存在だった。

 (2)大声を上げて叩くふりを
 捕まえて帰ると、必ずみんなの目の前でみせしめリンチをしなければならない。気の弱い私は、これが苦痛で殴るふりをして軽く叩いた。
 「貴様、ここを何処と思うとるか! 豊州炭鉱ちいうことを忘れたとか」
 声だけは、それはもう力いっぱい大きく張り上げてね。すると日本人労務が、私の叩く動作を見て分かるのね。叩く音で判断するわけ、
 「安、お前がそんなことじゃ駄目だ。あれらは、朝鮮人のお前から叩かれるのが一番こたえるはずだ。もっと気合いを入れて叩け。ちょっと俺に木刀を貸してみろ、叩くとはこういうことだ。よう見ておれ」
 桜の木刀を私の手から取り上げると、無抵抗の同胞をばしばし殴りつけました。模範を示したつもりでしょう。私は五十回殴るところを、半分の二十五回くらいで止めて、日本人労務がいない時は注意するだけにした。同じ朝鮮人を、たとえ労務の仕事とはいえ、とても殴れるものではありません。
 私は思いあまって、労務課長のところに行きました。
 「もう、労務だけはどうしても勤まりません。これ以上やらせるのだったら炭鉱を止めます」
 そういって二週間無断欠勤しました。すると今度は炭鉱側は、通訳する人間がいなくなって困ってしまったらしい。
 「仕方があるまい。何んとか考えよう」
 と再び釜場に戻った。
 故郷を離れて、強制されて炭鉱に連れて来られた彼らがかわいそうでね。私のように、希望して自由渡航したのとは性格が違います。
 どうしてあれほど虐待しないといかんのか、半殺しにしてまで強制労働させたのか。これも戦争のせいでしょうか。
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                     3 一億総火の玉

                                               元豊州炭鉱古長鉱業所元労務課長

                                             川崎町在住 大場重治


(1) 大隊長
 朝鮮人寮は、古長も上田も橋川政市が大隊長をしとった。私は橋川にはたまに指図しましたが、彼が解決出来ん場合はこちらでやりました。
 出炭成績を上げるためには、一人でも多く入坑させないと困るからね。
 昔の納屋制度の圧制が、そのまま朝鮮人の寮制度に生かされたから。炭鉱にはそこの炭鉱の習慣というものがある。
 大納屋になると三十五円の肩入金(支度金)を払っているから、仕事をしないうちに逃亡すると炭鉱は丸損になる。だから、労務係は抗夫が逃亡しないように監視した。
 昭和十四年頃、朝鮮人は四十人程度で、それは全部所帯持ちが多く、小納屋(所帯持ち)暮らしで炭住に住まわせたからね。その翌年から独身の朝鮮人が来たので、自然と合宿所的な朝鮮人寮をつくった。いわば大納屋(独身者)ですよ。
 朝鮮募集が始まると、オンドル入りの親和寮と協和寮、それは売店のすぐ横につくりました。
 高いところに一望のもとに見える刑務所のような監視所があって、そこに労務係が詰めとった。不満があると、直接、採炭に影響があるから、週に一回休日にクラブに集めて、みんなの不満や意見を聞きました。 
 橋川には、古長と上田の両方の朝鮮人寮の労務管理を任せたし、朝鮮募集の時には一人についていくらと請負わせました。炭鉱に連れて来ても、一日一人入坑させるとまとめて橋川に手数料を払った。さらに出炭成績で計算するから、朝鮮人の中でも余計もらう者もおるし、少ない人も当然出て来る。その上まえをピンはねすることになるから、少々体がきついといっても大隊長は無理して部下を入坑させるわけだ。
 朝鮮人寮には監視を兼ねて労務を詰めさせ、それは指導員と呼ばせました。逃亡したりサボる者があると、指導員が徹底してヤキを入れるから、同胞の中で圧制の要素がありました。
 当時は増産増産で、古長鉱業所は月産一万トンも出していましたから、朝鮮人は相当の戦力ですよ。
 一人減ると一人分だけ生産が落ちるから、労務係も必死になりますよ。力で圧制するから反発もあるわけで、当然逃亡は続きました。
 七人が集団を組んで、タオルに石炭を包んで労務の前を堂々と出ようとしてね。それを止めようと労務と乱闘になって、結局は七人とも捕えました。これはひどい目に遭わせんと癖になるから、労務事務所で一日中殴らせました。それは他の朝鮮人の手前もあるから放っておけない。
 「もうそれくらいで止めとけ」
 叩くのを止めさせて、私は何故逃亡したのかを聞きました。取り調べ中に七人のうちの一人に召集令状が来て、朝鮮までの旅費を出して帰らせもした。
 朝鮮人は肉体労働には適しているが、知能的な技術に関しては全くないんですね。教育を全くといっていいほど受けていないから。
 坑内は非常に単純労働だから、三、四ヶ月もするとすぐ慣れました。朝鮮人は採炭などの労働に一番適していたのではないでしょうか。坑内にはコンベアという機械があるし、発破をかけて石炭を掘りさえすればよかったから。それは素人でもすぐ出来るわけ。
 朝鮮募集がだんだん難しくなって、月産一万トンを割るようになった。募集するために郡長とか関係者に賄賂を贈らないと集まらない。遠くへ募集に行くほど釜山に戻るまでの経費が高くなり、募集期間が倍以上かかった。一人百円の募集費は、彼らの前借金として毎月の給料から差し引いたからね。本人が働いて返済するわけだから、炭鉱が負担する必要はなく立替えたに過ぎないんだ。
 炭鉱は石炭増産の使命があるから、政府から米とか酒の特配を受けた。贅沢ではなかったが、朝鮮人寮は一般よりも特別によかったことは確かだよ。炭鉱で真面目に働けば、食う物に困るということはなかった。
 メチルアルコールを飲んで一人が死亡したことがあるが、夜伽(ヨトギ)に行った朝鮮人が残りを飲んで二人が死んで大騒動した。
 ある日、坑内で自然発火があって密閉したところ、それを朝鮮人の誰かが小倉憲兵隊に投書して、中にいる抗夫を何故殺したのかと油を絞られました。

(2) 圧制の要素
 圧制の要素というのは、いっぱいありましたからね。橋川は入坑させるだけ自分の収入になるので、指導員を使ってかなり脅していましたよ。彼は翼賛会と協和会の県の幹部で”一億総火の玉”と朝鮮人にハッパをかけていました。
 寮の構造は中央に通路があって、両端に部屋があるから、中の行動が手に取るように分かった。
 陰に隠れて賭博をやる朝鮮人もいたので、すぐに止めさせたですよ。賭博のやり過ぎは、翌日の採炭に支障をきたすからね。
 実際、橋川に全部の管理を任せたが、頭に乗って私を通り越して抗長などと、直接話をすることがあった。
 「おい、橋川。俺には後にも目があることを忘れるな」
 と、どやしつけたことがあります。休んでいる抗夫まで入坑したように報告して、その分を猫ババしたわけでね。それを指摘されると、自分のやっていることが全部バレてしまうから私だけには一目置いて恐れとった。同胞を食いものにしたことだけは確かだね。

コメント (2)

戦時中の朝鮮人労働者募集に関わる証言と日本の人権無視の体質

2020年02月14日 | 国際・政治

 戦時中、徴兵による労働者不足で、日本のあちこちの炭鉱や工事現場から、大勢の関係者が働き手を求めて朝鮮に行ったようですが、その実態が、下記の「朝鮮人狩り」の文章で分かります。「募集」という言葉が使われていますが、特に大戦末期は、事実上人権を無視した強制連行であったと思います。

 長田氏は、自分は強制連行していないというようなことを、「朝鮮人狩り」の文章の最後に書いていますが、下記は、強制の圧力がかかっていたことを物語っているように思います。  
ある面に行くと、どうしても集まらないと募集係が泣きそうな顔をしていた。その募集係を読んで事情を聞くと、割り当ての人数を供出するには、強制的にならざるをえない。もし、自分の兄弟とか身内を外すと、他の者から文句が出る。身内のものを決めると、親戚のくせに思いやりがないと今度は責められる。無理に連れて行くと、一生恨まれてこの面におれなくなる。いっそのこと、自分を日本に連れて行ってくれないかと哀願されたこともある。
 
 また、「消された朝鮮人強制連行の記録 関釜連絡船と火床の抗夫たち」林えいだい(明石書店)には、元日炭遠賀鉱業所高松炭鉱第一抗労務係長・野村勇氏の証言なども取り上げられていますが、その中には、
募集業務というのは、炭鉱側が是非とも労働者が欲しい熱意と、郡役所の募集担当、面長、面の募集係、それに面巡査の協力がないと絶対に集まらなかった。大東亜戦争になると、もう朝鮮の現地では労働者は底をついている時代で、以前のように日本に行くことを希望している連中は一人もいない。それだけに十分対策を立てなければならない。何処の炭鉱でも大っぴらに賄賂を使うとか、関係者に飲ませ食わせしました。それが一つの習慣となって、最後の清算がつかなくなってしまうんです。
とか、
募集を通じて一番痛切に感じたのは、面事務所とか面巡査との人間関係がうまく出来るかどうかにかかっています。来ましたからお願いしますじゃ、とても集まるものじゃありません。農村にとって、働き手を持って行かれると困るから、どうしても嫌がることになる。
というような証言もあります。
 
 こうした証言から、戦時中の朝鮮人労働者募集は、まさに相手の立場を考慮しない人権無視の強制であったと思います。そして、こうした人権を考慮しない日本人の考え方が、戦後の日本に、いろいろなかたちで残っているのではないかと思います。

 私は、最近の若い人たちに、人権意識の高まりを感じることもありますが、政権中枢やいろいろな分野で大きな力を持つ人たちには、戦前・戦中と同じような人権無視の姿勢が受け継がれているように思います。
 それが、すでに触れた、「人質司法」の問題や「外国人技能実習生」の問題、入管収容施設の問題等に現れているのではないかと思うのです。
 いろいろなスポーツ団体や学校の部活動における体罰や暴力、パワハラなどの問題についても、その背景に「陸軍現役将校学校配属令」に基づき配属された現役将校の軍事教練・学校教練などの軍国主義的教育があるとする説や、戦後、軍隊経験者が学校やスポーツ団体の活動に関わり軍隊の行動様式を持ち込んだとする説などもあるようですが、そうした戦前・戦中の人権意識の欠如を引き継いでいるからこその日本独特の現象である側面があると思います。


 最近、「ブラック校則」などといわれる丸刈りや黒髪を強制する校則なども、そうした流れと無縁ではないように思います。
 そういう意味で、過去の人権無視や人命軽視の事実をきちんとふり返ることは大事であると思うのですが、安倍自民党政権の戦前回帰の動きに合わせて、むしろ人権無視や人命軽視の考え方が復活しつつあるように思います。
 明治維新以来、先の大戦における敗戦に至るまでの軍国日本(皇国日本)の人権無視や人命軽視の体質は、いまだ乗り越えられていないばかりでなく、根本的なところで復活しつつあるように思われるのです。

 下記は、「消された朝鮮人強制連行の記録 関釜連絡船と火床の抗夫たち」林えいだい(明石書店)から抜粋しました。
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                    第十二章 朝鮮人狩り        

                     1 鉱業報国会
                                   元福岡鉱山監督局・元日炭遠賀鉱業所福利課

                                            北九州市在住 長田信俊

(1)鉱業報国会
 明治42年、私は門司の大里で生まれた。
 昭和9年、早稲田大学卒業後、商工省に入って、翌10年、福岡鉱山監督局に転勤した。鉱政課の監督官として、鉱業出願、労務登録を担当した。その当時は柏原局長で、炭鉱事故が発生すると労務担当と技術担当の監督官が調査にいった。私の仕事は鉱山監督行政で、その権限は絶大なものがあった。
 日中戦争が勃発すると、石炭増産が急務となって、その体制づくりで各鉱山と炭鉱を指導して回った。
 「長田君、ちょっと来てくれ・話がある」
 ある日、榎本勝造鉱政課長から呼ばれた。
 「実は、戦局がこんな状態で、石炭掘れ掘れと炭鉱にハッパをかけるばかりじゃ駄目だ。
 その基本となる精神運動を、各炭鉱で盛り上げたいが…」
 「私にそれを企画しろというのですか?」
 それから二人で構想を練って、運動のやり方として、”鉱業報国運動”をやることに決まった。二人だけで計画を立てるよりも、福岡鉱山監督局全体が協力して旗振りしないと、各炭鉱は動かないぞということになった。立山方(タモツ)、佐久洋の二人をスタッフに加えて、運動としてどう波及、広めて行くかを研究して素案をづくりをした。
 日中戦争になるとそれまで激しかった労働運動は、急に影をひそめました。
 社会大衆党が労働問題に介入してくると、炭鉱側の鼻息のほうが強くて、「お前たちが交渉に入ったら、金を払ってよらないぞ!」と、逆にはねつけることもあった。
 鉱業報国運動の基本は、労使一体となって石炭を増産、国のために尽くそうではないかということだった。戦争遂行のために裸になって石炭を掘り、労働運動なんかをして利己的に考える時代ではない。資本家も石炭を掘らせて、儲けることだけを考えるなと、戦時体制へ向けての精神運動にすることにした。
 ・・・


(2)医者連れの募集・・・略


(3)虎の鳴き声
 ・・・
 昭和16年でしたが、そう簡単に労働者は集まらない。最初は医者を連れて行ってサービスをしたからとたかをくくっていたが、都市部と田舎では全く違っていた。面の中では、誰でも若い働き手をすべて募集できるわけではない。一家の主もおるし、炭鉱という危険性もあって嫌われる。二年契約ということで、長期間家を空ける不安がある。途中で一回も帰さないので、先祖の法事などが出来ないと思い込んでしまっている。
 ある面に行くと、どうしても集まらないと募集係が泣きそうな顔をしていた。その募集係を読んで事情を聞くと、割り当ての人数を供出するには、強制的にならざるをえない。もし、自分の兄弟とか身内を外すと、他の者から文句が出る。身内のものを決めると、親戚のくせに思いやりがないと今度は責められる。無理に連れて行くと、一生恨まれてこの面におれなくなる。いっそのこと、自分を日本に連れて行ってくれないかと哀願されたこともある。
 小さい面になるといろんな人間関係があって、送り出す側にも深刻な問題があることを知って驚いた。
 募集状況を知りたいので、慰労を兼ねて郡役所の幹部と郡の警察関係者を沃州の町の料理屋へ招待した。募集係の説明によると、二十人の予定をまだ十人しか集めていないところがあった。朝鮮巡査をしていた池田が酔い始め、宴の席がたけなわになると、じわじわとからみ始めた、朝鮮時代はこの地方の警部補で、警察署長は昔の部下だといった。出席していた郡長も、池田には頭が上らないほどの顔だった。朝鮮の内情に詳しいし、風俗習慣や住民の心情も知り尽くしている。第一、朝鮮語を自由に話せるということで、日産化学工業が特別採用で労務係にした男だった。その顔を利用して、募集係の一員に入れていた。
 「大体、お前たちは誠意をもって募集しているのか。お土産はただで持って来たんじゃないぞ。募集を頼むからこそ頭を下げているんだ。もし予定の募集人員に達せんやったら俺にも考えがある」
 「いえ、私たちは悪意じゃありません。毎年、毎年いろいろなところからの募集が続いて、あなたが要求するような該当者が非常に少なく、ほんとに申し訳なく思っています」と、郡長はいいわけをした。
 「何をほざいているか! 医者を連れて、何のために朝鮮くんだりまで来るかっ。田圃や畑にゃ若い者がいっぱい仕事をしとるじゃないか。お前たちは俺の顔を潰す気か!」
 いきなり立って、テーブルを倒してしまった。
 「池田君、止めんか!」
 私は池田の肩を押さえてもう一度座らせた。
 せっかくの酒席は、そのことで目茶目茶に壊れた。一時はきまずい空気が流れた。
 「お前たちはもう一度それぞれの面に催促して集め直せ! そして二日以内に確実に集めて俺に報告しろ。もし不足したら承知せんからな」そういう池田は、怒って席を立った。
 私は池田の無礼を彼らに詫びた。私にも割当て人数を募集する責任があるから、是非協力して欲しいと彼らに頼み直した。炭鉱にしても、これから先、沃州地方で募集のことでお世話になる。もし郡長や警察を怒らせると、それ以後の募集は絶対に集まらない。それから場所を変えて、別な料亭に席を移し、芸者を上げて大騒ぎした。
 第二陣百人は沃州に集まり、四十日目に釜山から関釜連絡船に乗った。
 私は福利係の仕事で、炭鉱の配給所の関係の仕事も担当していたので、特配などの物資を各訓練所(朝鮮人寮)に渡したので、労務管理については直接タッチしていない。

(4)首吊り
 ある日、訓練所の外勤労務係の池田が、福利係の私のところに顔色を変えてやって来た。二百人強制連行して来た者の一部が、逃亡していなくなったから、探してくれといった。私は朝鮮から帰ると、時々訓練所に遊びに行って、彼らと卓球などして親しくなっていた。
 「お前、探してくれといっても、どの訓練所で何時逃亡したのか、それを話さんと分からんじゃないか」
 訓練所に入ってから、まだ10日しか経っていなかった。
 「芦屋の飛行場の飯場におるらしいです。あそこは軍関係の飯場なので、長田さんしか行く人はありません」
 叔父が予備役の志岐中将で、私も福利係で兵事関係をしているので軍関係者には知り合いが多い。  
 「芦屋に行っても追い返されます。一歩も踏み込めんとです」
 「そんな馬鹿なことがあるか。暑い夏を四十日もかけて朝鮮から連れて来て、それは困るよ」
 津守先生と一緒に、山の中を歩き回った苦労を思い出した。当時、飛行場や軍の工事場の飯場に逃げ込んだら、そこに確かにいると分かっても、民間人は一切手出しが出来なかった。軍関係の仕事にお前たちはケチをつけるか、そんな人間はいないといわれるとそれまで。あげくの果てには、軍の工事を妨害したから憲兵隊にわたすぞとすごまれる。
 炭鉱のトラックを出して、池田を乗せて憲兵隊芦屋分遣隊に行くと、知り合いの隊長に事情を話して許可をもらった。
 飛行隊の本部で司令官に会うと、そんな朝鮮人は一人として軍で使用していないから帰ってくれと突っぱねられた。憲兵隊長の許可をもらっていることを話すと副官を呼んだ。
 「ここの飛行場の飯場におる証拠でもあるのか?」
 すると池田が、「はい、逃げたうちの一人がうちの訓練所の朝鮮人を誘いに来て、それらを捕えてやきを入れると、ここの飯場に五人ほど逃げ込んでいることを白状しました」
 司令官は嫌な顔をしたが、副官に命令して私たちを飯場に案内するようにいった。土砂をモッコで運んでいる者、避難用の地下壕を掘っている者を片っ端から探して回った。私にはそこで働く朝鮮人はみんな同じ顔に見え、誰が訓練所から逃亡して来ているのか見分けがつかなかった。
 四、五百人働いている中から、池田は二人を見つけた。その二人を連れ出すと、芦屋警察署の留置場へ放り込んだ。逃げないように池田が一人ひとり両手を結び、それを首にかけて窓の鉄格子に止めた。残った三人を探して帰って来ると、一人が苦しそうにもがいていた。もう一人は頭をぐったりと垂れて、鼻水を垂らして意識を失っていた。私たちはあわてて縄を解くと、二人を床に降ろした。逃げようともがいているうちに、縄が二人の首を縛めてしまったらしい。ちょうど首を吊った状態であった。仮死状態なので、カツを入れると息を吹き返した。
 「池田、早う医者を呼べ!」
 医者が来て診察を始めると、二人は狂ったように暴れ出して訓練所に帰るのは嫌だといった。「哀号! 哀号!」と泣いて助けを求めた」
 「池田、この五人は俺が軍からもらい下げた朝鮮人やから、訓練所に連れて帰ってリンチなんか手荒なことをしたら承知せんぞ」
 彼らは訓練所から逃亡しているので、労務係から報復されることを極端に恐れていた。
 「それは分かっています。長田さんのお陰で探し出したのですから」
 それを聞くと五人は、私に手を合わせて拝んだ。
 何処の炭鉱でも逃亡には手を焼いた。私の持論として、逃亡者を捕まえてひどい目に遭わせることは反対でした。叩けば労務係の気はすむだろうが、体を痛めて働けないようにしたら、それだけ炭鉱にとってはマイナスになる。ただ飯を食わせるためにわざわざ朝鮮から連れて来たわけではなく、働かせるために連れて来たのだからね。そうかといって彼らの自由にさせるわけにはいかない。逃亡させないように労務係が監視するし、捕まえると当然見せしめの仕置きをする。そうしないと、朝鮮人の労務管理は出来ないからね。
 日産コンツェルンの鮎川義介が三好鉱業を買収して、日炭になって近代的な労務管理に切り替えたが、以前の高松炭鉱の労務係の残党がいて圧制の伝統は残っていた。高松炭鉱時代の労務係は、ピストルをと仕込杖を持ち歩いていた。高松キナコとか、サガリグモなどのリンチは有名だった。
 昭和18年頃でも、まだ暴力的な名残りがあって、朝鮮人抗夫を虐待した。古賀訓練所に行くと、寮生の一人が反抗したといって、労務係のSが労務の詰所のコンクリートの上に正座させていた。バリカンで頭を十字狩りにして、「おいちょっとこっちに来い」と水道の蛇口のところに連れて行った。頭の上から水をかけて、鉄製のブラシで頭をごしごし洗った。
 「お前の頭はフケが多いか、石鹸をつけたほうがよかろう」というと、石鹸をつけてさらに鉄ブラシで洗った。 
 「哀号! 哀号!。先生こらえてくださ」と、ひーひー泣き叫んだ。石鹸の泡が血だらけになっても、Sは何時までも鉄製ブラシで洗い続けた。
  朝鮮人抗夫は、不真面目で全部逃亡したりするわけではなく、日本人抗夫の模範になるような抗夫もいた。ドイツの鉄十字章にちなんで、福岡鉱山監督局は優良抗夫に黒十字章を与えた。昭和18年には、朝鮮人抗夫の一人が選ばれた。七、八千人の中から選ばれるので、抗夫代表として神前に玉串を捧げましたから。黒十字章が二つになると、商工大臣から表彰された。
 強制連行というけど、私なんか現地で強制的に連れて来たのではない。炭鉱の知らないうちに、郡役所や面事務所が強制的にやったのなら別ですがね。向こうでは日本の内地にきたがっているのを連れて来るという、そんな感じでしたからね。彼らがこちらに来るためには募集費用をかけているので、逃亡されたりすぐ止められては炭鉱としては困る。炭鉱に慣れて真面目な者は故郷に送金して、結構楽しくやっていた。
 強制連行といえば、日本人だって勤労報国隊とか徴用工には、徴用令を適用して強制的で同じこと。静岡とか、富山からどっと徴用されて合宿所に入れられたからね。
   

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「朝鮮人内地移入斡旋要綱」と「大日本労務報国会要覧」

2020年02月09日 | 国際・政治

 前回「地図にないアリラン峠 強制連行の足跡をたどる旅」林えいだい(明石書店)から抜粋した沈在煥の証言の中に、
炭鉱じゃ働いても郵便貯金をしているといって、決して現金を渡さんやったから、故郷に金を送るどころか、送ってもらったぐらいだ。現金を渡すとお前たちはすぐ脱走するというんだ
という話がありました。それが、沈在煥の働いた炭鉱だけの話ではなく、国家的な対応であったことが、下記の資料1「朝鮮人内地移入斡旋要綱」の「隊ノ編成及指導」の中に”賃金ハ、生活費ニ必要ナル額以外ハ貯蓄スベキコト”とあることでわかります。
 また、通則の三には”斡旋シタル朝鮮人労務者ノ処遇ニ付テハ、出来得ル限リ内地人労務者トノ間ニ差別ナカラシムルモノトス”と、朝鮮人差別に関する記述があります。私はこの記述が、当時差別があったことを示していると思います。そして、”出来得ル限り”という表現が、当時あった差別を一定程度容認するものとして受け止められるように思います。だから、酷い差別も黙認されることになったのだと思います。
 さらに、「斡旋」といいながら、日本の都合で強制的に朝鮮人労務者が集められていたことが、”職業紹介所及府邑面ハ、常ニ管内ノ労働事情ノ推移ニ留意精通シ、供出可能労務ノ所在及供出時期ノ緩急ヲ考慮シ、警察官憲、朝鮮労務協会、国民総力団体其ノ他関係機関ト密接ナル連絡ヲ持シ、労務補導員ト協力ノ上、割当労務者ノ選定ヲ了スルモノトス”などとあることから推察できると思います。

 資料2は、日本軍”慰安婦”強制連行の話で有名な、吉田清治の「謝罪の碑」という文章の中にある「大日本労務報国会要覧」を抜粋したものです。吉田証言に偽りがあるとしても、この要覧に偽りはないと思います。皇室神話に基づく軍国日本の精神をよくあらわしているのではないかと思います。当時の日本は、この精神から外れることを許さなかったことを忘れてはならないと思います。
 元朝鮮人徴用工や日本軍”慰安婦”だった人たちの証言と、こうした資料を合わせ読むと、より深く当時の実態が理解できるような気がします。
 下記資料1および資料2は、「消された朝鮮人強制連行の記録 関釜連絡船と火床の抗夫たち」林えいだい(明石書店)から抜粋しました。
          
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
[資料]
                   昭和17年2月20日 朝鮮総督府 

                    朝鮮人内地移入斡旋要綱
 労務動員実施計画ニ依ル、朝鮮人労務者ノ斡旋ニ依ル内地移入ニ関シテハ、別ニ定ムルモノヲ除クノ外、本要綱ニ基キ之ヲ実施ス。

第一 通則
 一、本要綱ニ依リ、内地ニ移入セラルベキ朝鮮人労務者ハ、総テ之ヲ労務動員産業ニ従事セシムルモノトス。
 二、本要綱ニ依リ、内地ニ移入セシムベキ朝鮮人労務者ノ数ハ、毎年度労務動員ノ実施計画ニ示サルル数ヲ限度トスルモノトス。
 朝鮮人労務者ニシテ、出動期間ヲ満了シ帰郷シタルモノノ補充ニ付テハ、爾後同数ヲ本要綱ニ依ル方法ニ依リ、移入セシメ得ルモノトス
 三、本要綱ニ依リ、斡旋シタル朝鮮人労務者ノ処遇ニ付テハ、出来得ル限リ内地人労務者トノ間ニ差別ナカラシムルモノトス
 四、本要綱ニ依リ、斡旋スル朝鮮人労務者ノ出動期間ハ、原則トシテ二カ年トスルモノトス。

第二 斡旋ノ申込及処理
 一、朝鮮人労務者移入雇傭ニ付、道府県ノ承認ヲ得タル事業主ニシテ、本要綱ニ依リ朝鮮人労務者ノ斡旋ヲ受ケントスル者ハ、下記ノ書類ヲ朝鮮総督府ニ提出スルモノトス。
 (イ)朝鮮人労務者斡旋申請書(別紙第1号様式)正副二通
 (ロ)道府県朝鮮人労務者移入雇傭承認書写


 二、必要アルトキハ、事業主ノ所属タル関係産業団体ノ職員ヲ朝鮮ニ駐在セシメ、前項ノ手続ノ代行其他労務者ノ斡旋ニ関シ、事業主ヲ代理シ朝鮮総督府、及関係各道トノ連絡ニ当ラシムルコトヲ得ルモノトス 
 前項ノ代行、又ハ代理ヲ為ス場合ニアリテハ、之ヲ証スルニ足ルベキ書面ヲ朝鮮総督府ニ提出スルモノトス。


 三、朝鮮総督府第二次ノ申請書ヲ受理シタルトキハ、道府県ヨリ朝鮮人労務者移入雇傭承認通報アリタルモノニ付テハ、之ガ内容ヲ審査ノ上要員充足ノ緊要度従来ノ縁故及地盤、又ハ、鮮内労務調査等ノ関係ヲ考慮シ選出、道別斡旋人員及斡旋期間ヲ決定シ、別紙第二号様式ニ依リ、関係道ニ通牒スルモノトス。


 四、各道朝鮮総督府ヨリ、前項ノ割当ヲ受ケタルトキハ、従来ノ縁故、地盤関係ヲ考慮シ、五日以内ニ府郡島別選出人員ヲ決定シ、直ニ別紙第三号様式ニ依リ、之ヲ当該職業紹介所、又ハ府郡島ニ通牒スルト共ニ、別紙第四号様式及第五号様式ニ依り、朝鮮総督府及事業主ニ報告(通知)スルコト。

 五、職業紹介所及郡島道ヨリ、前項ノ割当通牒ヲ受ケタルトキハ、五日以内ニ更ニ邑面別選出人員ヲ決定シ、直ニ別紙第六号様式依リ、邑面ニ通牒スルト共ニ、別紙第七号様式ニ依リ道ニ報告スルモノトス。

 六、職業紹介所及府邑面ハ、常ニ管内ノ労働事情ノ推移ニ留意精通シ、供出可能労務ノ所在及供出時期ノ緩急ヲ考慮シ、警察官憲、朝鮮労務協会、国民総力団体其ノ他関係機関ト密接ナル連絡ヲ持シ、労務補導員ト協力ノ上、割当労務者ノ選定ヲ了スルモノトス。

 七、職業紹介所及府郡島邑面ハ、割当労務者ノ取纏ヲ完了シタルトキハ、割当官庁ニ其ノ旨直ニ報告スルモノトス。
 八、道前項ノ報告ヲ受ケタルトキハ、直ニ其ノ旨及引継地ヲ事業主ニ通知スルモノトス。
 九、事業主第四項、及第八項ノ通知ヲ受ケタルトキハ、其ノ指定セラレタル時期、又ハ必要ト認ムル時期ニ本人、又代理者ヲシテ関係道職業紹介所、又ハ府郡島ニ出頭セシメ、指揮ヲ受ケシムルモノトス。
 
   第三 隊ノ編成及指導
 一、勤労組織ノ編成
(イ)本要綱ニ依リ、出動セシムル朝鮮人労務者ノ勤労組織ハ「隊組織」トスルモノトス。五班内外ヲ以テ一隊ヲ組織スルモノトス。
(ロ)一組ハ五名乃至十名トシ、二組乃至四組ヲ以テ一班トシ、五班内外ヲ以テ一隊ヲ組織スルモノトス。
(ハ)隊ハ成ルベク府郡島毎ニ、班ハ邑又ハ面毎ニ編成スルモノトス。
(ニ)各事業場ニ対スル配置ハ、原則トシテ編成当時ノ隊組織ヲ存置スルコトトシ、職場組織ニ付テモ成ベク之ヲ活用スルモノトス。
(ホ)職業紹介所及府郡島ハ予メ関係者ト協議シ、成ルベク当該郡島所在地ニ於テ隊ノ編成ヲ為スモノトス。
(ヘ)隊ノ名称ニハ成ルベク府郡島名ヲ冠シ、何々勤労出動隊トスルモノトス。
(ト)隊ノ編成ヲ了シタルトキハ、別紙第八号様式ニ依リ、出動隊ニハ名簿五通ヲ作制スルモノトス。
(チ)邑面ハ自己ノ選出シタル労務者ノ名簿ヲ別紙第八号様式ニ準ジ作製ノ上、之ヲ保管スルモノトス。

 二、隊幹部及隊員ノ銓衡
(イ)隊員ノ選定ハ、職業紹介所及府郡島ニ於テ、次ノ条件ヲ具備スルモノノ内ヨリ之ヲ行フモノトス。
 1 思想堅実、身元確実、身体強健ナルモノナルコト。
 2 成ル可ク国語ヲ解スルモノナルコト。
(ロ)隊長ハ前号ノ条件ヲ具備スルノ外、更ニ次ノ条件ヲ有スルモノノ内ヨリ、職業紹介所、又ハ府郡島ニ於テ任命スルモノトス。
 1 人望アリ指導力ノアルモノタルコト。
 2 成ルベク国民学校終了程度以上ノ学力ヲ有スルモノタルコト。
 3 成ルベク年齢三十年以上ノモノタルコト。
(ハ)班長ハ隊長ノ具備条件ニ応ジテ之ヲ銓衡シ、職業紹介所又ハ府郡島ニ於テ任命スルモノトス。
(ニ)組長ハ隊員中ヨリ資質良好ナルモノヲ選ビ、職業紹介所又ハ府郡島ニ於テ任命スルモノトス。

 三、隊及事業主ノ指導
(イ)道、府郡島、職業紹介所及朝鮮労務協会ハ、予メ隊員ニ対シ隊組織ニ依ル出動ノ趣旨ヲ徹底セシメ、国家的使命ヲ認識セシメテ、職責重大ナルコトヲ自覚セシムルト共ニ、特ニ下記ノ各項ヲ承知セシメ置クモノトス。
 1 時局産業ニ従事シ、勤労ヲ以テ国家ニ貢献セントスルモノナルコト。
 2 内地渡航後ハ、六ヶ月間訓練ヲ受クベキコト。
 3 内地渡航後ノ勤労方法、生活環境等ニ付予メ予備知識ヲ与ヘ、到着後ニ於テハ速ニ内地ノ生活風習ニ順応スル様、了得セシムルコト。
 4 従業条件ヲ特ニ徹底セシムルコト。殊ニ賃金統制令ノ趣旨ヲ了知セシムルト共ニ、各個人別ノ収入ニ付テ、能力ニ依リ当然差異アルベキモノナルコトヲ了得セシムルコト。
 5 労務調整令ノ趣旨ヲ徹底セシメ、就業場ノ移動ハ濫ニ為サザルコト。
 6 協和会ニ加入シ、其ノ会員章ヲ所持スベキコト。
 7 賃金ハ、生活費ニ必要ナル額以外ハ貯蓄スベキコト。
 8 困苦欠乏ニ耐ヘ、公休日以外ハ濫ニ休業セザルコト。
 9 国民職業指導所職員、警察官、協和会職員ノ指導ニ服ス可キコト。
(ロ)職業紹介所、府郡島及朝鮮労務協会、隊出動前出来得ル限リ之ニ対シ、規律アル団体訓練ヲ施スモノトス。
(ハ)事業主ハ、朝鮮人労務管理上必要ナル事項ヲ考究実施スルモノトシ、特ニ次ノ各項ハ至急実施スルモノトス。
 1 指導組織ノ充実ヲ期スルコト。各隊ニハ指導員ヲ置クコト。指導員ハ、隊長ヲ指導シ、隊員ニハ作業及生活各般ニ亘リ、指導誘掖並ニ連絡ニ当ルコト。指導員ノ任命ニ当タリテハ、適任者ヲ厳選スルコト。
 2 訓練施設ヲ設クルコト。
 3 朝鮮人労務者ノ熟練化ヲ図リ、特ニ優良隊員ニ対シ技術教育ヲ施スコト。
 4 技術優秀ナル者ヲ役付ニ昇進セシムルコト。
 5 期間中ハ、成ルベク特定ノ場所ニ於テ、規律アル生活訓練ヲ行ウコト。
 6 適切ナル慰安娯楽施設ヲ設クルコト。
 7 隊長、班長及組長ノ処置ニ付テハ特ニ考慮スルコト。

 第四 労務補導員
 一、事業主ハ、次ノ割合ヲ以テ、朝鮮ニ於ケル官庁ノ労務者供出斡旋ニ協力セシムル為、適当ナル者ヲ選出スルモノトス。
 朝鮮人労務者斡旋申請人百人ニ付二人トシ、百人ヲ増大毎ニ一人ヲ加フルコト。但シ五百人以上ハ三百人ヲ増大毎ニ一人ヲ加フルコト。
 二、道知事ハ前項ノ協力者ニ対シ、労務者供出ニ関スル事務ヲ嘱託(無給)シ、之ニ労務補導員ノ名称ヲ付スルモノトス。
 此ノ場合内地所轄警察署長ニ対シ、其ノ身元其ノ他ニ付支障ノ有無ヲ調査スルモノトス。
 三、労務補導員ハ、事業主若ハ事業主ノ雇傭スル職員、又ハ関係産業団体ノ職員ニシテ、身元確実ナル者トス。
 四 労務補導員ハ、官庁ノ指導監督ヲ承ケ、鋭意労務者ノ選定ニ協力スベキモノトス。
 五 労務補導員ニ要スル経費一切ハ、事業主ノ負担ナルモノトス。

 第五 引継及引率
一、職業紹介所、府郡島ハ、其ノ編成シタル隊ヲ出発地ニ於テ之ヲ事業主、又ハ代理者ニ引継グモノトス。
 出発地ハ、概ネ府郡所在地トスルモノトス。
 上記引継ノ場合、職業紹介所、又ハ府郡島ハ、別紙第九号様式ノ引継書正副三通ヲ作成シ、正本ハ職業紹介所、又ハ府郡島ニ、副本ハ道及事業主ニ於テ之ヲ保有スルモノトス。
 上記引継書ニハ、隊員名簿ヲ添附スルモノトス。
 職業紹介所、及府郡島ハ、隊編成地所轄警察署長ノ奥書紹介状ヲ受ケタル隊員名簿二通ヲ、事業主ニ交付スルモノトス。
 二、隊ノ引継ヲ了シタルトキハ、職業紹介所、又ハ府郡島ハ引継書副本ヲ添ヘ、其ノ状況ヲ直ニ報告スルモノトス。
 三、道割当ヲ受ケタル労務者ノ引継完了セルトキハ、直ニ其旨朝鮮総督府ニ報告スルモノトス。
 四、隊引継後ノ鮮内輸送及離鮮地ヨリノ引継輸送ニ付テハ、朝鮮労務協会ハ之ニ協力スルモノトス。
 五、事業主ハ、隊ノ引継ヲ受ケ之ヲ引率輸送スルニ当リテハ、下記ノ事項ニ留意スルモノトス。
 1 事業主、又ハ責任アル代理者之ガ引率ニ当ルコト。
 2 引率者ハ、少ナクトモ労務者五十人ニ付一人以上ヲ附スルコト。
 3 引率者ハ、就業地所轄国民職業指導所ノ発行スル引率証明書ヲ携帯スルコト。
 4 引率者ハ、乗船地所轄警察署長ニ対シ隊員名簿ヲ提出シ、所定ノ奥書査証ヲ受クルコト。 

 第六 到着後ノ処置
一、事業主ハ、移入朝鮮人労務者ノ災害、紛擾(フンジョウ)其ノ他重大ナル事件発生シタルトキハ、遅滞ナク朝鮮総督府、及関係道ニ報告ヲ為スモノトス。
 二、事業主ハ、移入朝鮮人労務状況ヲ、毎年6月末、及12月末ヲ以テ朝鮮総督府ニ報告ヲ為スモノトス。
 三、内地移入後隊長、班長、組長ニシテ、不適当ト認ムルニ至リタルトキハ、事業主ニ於テ他ノ適任者ニ之ヲ変更スルコトヲ得ルモノトス。
 四、隊長等ニハ、必要ニ依リ協和会ノ役職員ヲ嘱託スルコトヲ得ルモノトス。

第七 移動ニ対スル措置
 一、出動期間満了後、尚引続キ従業セシムル必要アルトキハ、希望アルモノニ限リ其ノ出動期間ノ延長ヲ認メ得ルモノトス。
   出動期間満了後、同一事業主其ノ経営ニ係ル同種ノ他ノ事業場ニ引継ギ従業セシムル必要アルトキ、又同様ニ取扱ヒ得ルモノトス。
 二、出動期間満了前、事業ノ縮小廃止、又ハ終了ノ場合ハ、同一事業主ノ経営ニ係ル、同種ノ他ノ事業場ニ従事セシムル必要アルトキ希望アルモノニ限リ、継続従業ヲ認ムルコトヲ得ルモノトス。
 三、出動期間満了ノ場合、若ハ出動期間満了前事業ノ縮小廃止終了ノ場合、事業主ノ変更アルモ、同一事業場ニテ引続キ従業セシムル必要アルトキ、希望アルモノニ限リ之ヲ認ムルコトヲ得ルモノトス。
 四、前各項ノ場合、道府県ハ其ノ承認後朝鮮総督府、及関係道ニ其ノ旨通報スルモノトス。
   土木建築事業ニ於テ、出動期間満了後尚引続従業セシムル必要アルトキハ、道府県ハ予メ朝鮮総督府ニ協議スルモノトス。
 五、出動期間の満了後、又ハ事業の縮小廃止終了ニ依リ、出動期間満了前同種ノ事業ニ属スル他ノ事業主ノ事業場ニ従事セシムル必要アルトキ、希望アル者ニ限リ道府県ハ予メ朝鮮総督府ニ協議ノ上、之ヲ認ムルコトヲ得ルモノトス。
 六、帰郷者確定シタルトキハ、所轄道府県ニ於テ、事業主別ニ帰郷スベキ労務者ノ出身地、氏名、朝鮮ニ於ケル下船地、帰郷予定年月日、及斡旋ヲ受ケタル年月日ヲ、遅滞無く朝鮮総督府、及関係道ニ通報スルモノトス。
 七、労務者出動期間(事業縮小廃止終了ノ場合ヲ含ム)ニ依リ帰郷シタルトキハ、事業主、又ハ其ノ代理者ハ、帰郷労務者ノ氏名、帰郷年月日ヲ遅滞ナク関係府郡島ニ報告スルモノトス。

   第八 其他
 一、事業主、又ハ財団法人職業協会ハ、斡旋ニ要スル宣伝費、隊ノ編成費、引率輸送費(職員旅費)及雑費等ノ経費ヲ、朝鮮労務協会ニ前納スルモノトス。
 二、隊事業場ニ到達シタルトキハ、事業主ハ遅滞ナク其旨ヲ朝鮮総督府及関係道ニ報告スルモノトス。
    第九 附則
 本要綱ハ、昭和17年2月20日ヨリ之ヲ実施スルモノトス。
(別紙様式略) 

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                     第十六章 はるかなる海峡
                       7 謝罪の碑
                                                   吉田清治
                      大日本労務報国会要覧
 綱領
一、我等ハ皇国臣民タル光栄ヲ体シ、克ク忠ニ克ク孝ニ醇厚(ジュンコウ)俗ヲナシ以テ皇恩ニ報イ奉ランコトヲ期ス
一、我等ハ皇国産業ノ使命ヲ体シ、力ヲ公益世務ニ竭(ツク)シ以テ愈々国本ヲ固クシ皇猷(コウユウ)ヲ恢弘(カイコウ)センコトヲ期ス
一、我等ハ本会創立ノ趣旨ニ体シ、各々其ノ業務ニ淬励(サイレイ)シ協戮邁往以テ此ノ世局ニ処シ時艱(ジカン)ヲ克服センコトヲ期ス

 創立宣言
 肇国以来悠久二千六百余年。我ガ皇国ハ八紘一宇ノ大理想ノ下、生生発展窮(キワマリ)リ無ク、今ヤ又新ニ世界ノ大転期ニ際会シテ大東亜共栄圏ノ洪謨(コウボ)ヲ立ツ。
 曩(サキ)ニ米英撃滅ノ大詔ヲ奉戴スルヤ、皇軍ノ威武忽チ万国ヲ震撼セリ。然レドモ敵亦侮ルベキニ非ズ。益々国民総力ヲ結集シテ、戦力ノ増強ニ努ムベキ秋ナリ
 各種重要産業ノ基礎的部面ヲ担当スル我等同志愛ニ見ルトコロアリ。新ニ大日本労務報国会ヲ創立シ、渾然偕和シテ報国精神ヲ昂揚シ、勤労能力ヲ最高度ニ発揮シ、国民動員ノ完遂ニ協力シ、以テ国家ノ負託ニ応ヘントス。
 凡ソ勤労ハ皇国民ノ責任ニシテ又栄誉ナリ。
 一人ノ安逸ヲ容サズ。一日ノ懈怠アルベカラズ。素ヨリ業ニ貴賤ノ別ナク、職ニ高下ノ差アルナシ。只管国家ノ要請スルトコロニ応ジ、欣然事ニ当ランノミ。
 我等ハ先ヅ従来ノ因襲ヲ蝉脱(センダツ)シ、私利ヲ離レ、私慾ヲ捨テ生活ヲ刷新シ、日々ノ責務ニ励精シ、以テ職分奉公ノ実ヲ挙ゲンコトヲ誓フ
 神明ノ感応恐ラクハ我等ガ上ニ在ラン。我等ノ前途ハ今ヤ光明ニ満チタリ。重責双肩ニ懸ツテ志気愈々高シ。イザ万障ヲ排シテ一路勤労報国ニ邁進セン。
  右宣言ス
                                                 昭和18年6月2日 

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戦時中の炭鉱における虐待や報復と人質司法

2020年02月02日 | 国際・政治

 戦時中の日本の炭鉱で、朝鮮人労務が、同胞である朝鮮人坑夫を、死者が出るほど虐待するということがくり返され、逆に敗戦前後には朝鮮人坑夫が、虐待され、仲間を殺された報復として、朝鮮人労務を叩き殺し、その家族をも殺すという悲劇が起きたことが、下記の沈在煥の証言で分かります。
 「地図にないアリラン峠 強制連行の足跡をたどる旅」林えいだい(明石書店)によると、朝鮮人労務を叩き殺して報復した朝鮮人抗夫の一人、沈在煥は、その後、朝鮮から徴用されてくる時に日本語を話せるというだけで労務係に採用された朝鮮人が、日本人に増産を強要され、労務の仕事を遂行するために、上の命令に従わざるを得なかったことに思い至り、朝鮮人労務は加害者である一面、自分たちと同じ被害者でもあることに気付いたといいます。
 だから、私はこうした野蛮で深刻な殺し合いをもたらすことになった徴用工の問題は、日本から韓国に対して,無償3億ドル,有償2億ドルの経済協力を定めた日韓請求権協定で「完全かつ最終的に解決」などというような簡単なものではないだろうと思います。
 また、明治維新以来の日本の人命軽視や人権無視が、戦後の日本国憲法によって否定はされましたが、戦時中責任ある立場にいた人たちが裁かれることなく、その後の日本で再び活躍したために、今なお、そこここに人命軽視や人権無視の問題を残しているように思います。

 そういう意味で、ゴーン容疑者の海外逃亡で注目された日本の「人質司法」といわれる司法のあり方も気になるのです。
 ゴーン容疑者は当初、自らの報酬を過少に申告した疑い、すなわち金融商品取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)で逮捕されました。でも、その後「虚偽記載」とされたのは、実はゴーン容疑者が、日産から「実際に受領した報酬」ではなく、退任後に別の名目で支払うことを「約束した金額」だという、驚くような報道がありました。有価証券報告書の虚偽記載罪というのは、有価証券報告書の重要な事項に虚偽の記載をした場合に成立するもので、退任後に「支払の約束」をした役員報酬は、記載義務があるかどうか疑問だといいます。だから、検察の逮捕容疑となった「役員報酬額の虚偽記載」が、まだ現実に支払われてもいない退任後の「支払の約束」だったとすると、「虚偽記載」を根拠とする逮捕には疑問があるということです。虚偽記載は、契約書を確認できれば事実は明白になり、検察の捜査によらなければ明らかにできないような話ではないというのです。
 そればかりではなく、東京地検特捜部は、その後、ゴーン容疑者が自身や第三者の利益を図って日産に損害を与えていたとして、「会社法違反(特別背任)」容疑で再逮捕しました。まさに、長期拘留によって、自白させる「人質司法」を裏づけるものではないかと、私は思います。証拠が得られていないので、取り調べで得られる供述で立証するために、自白を得ることを目的として再逮捕するというやり方です。
 さらに、妻のキャロルさんとの長期にわたる接触禁止も問題だと思います。検察は、ゴーン容疑者の指示で妻のキャロルさんが事件関係者と接触し、証拠隠滅を図る可能性を指摘しましたが、それはとりもなおさず、いまだ有罪を立証する証拠を掴んではいないということではないかと思います。弁護団が「接触禁止は大きな人権侵害。ゴーン被告とキャロルさんは精神的に弱っている」と話したことが伝えられましたが、長期の接見禁止も、取り調べで得られる供述で立証するために、精神的に追い詰めて自白を得ることを目的としているのではないかと疑われます。
 だから、私は、多くの海外のメディアが、日本における容疑者の長期身柄拘束や長時間の取り調べ、取り調べに弁護人の立ち会いが認められていないことなどを取り上げ、人権侵害であると批判していることにきちんと向き合って対応すべきではないかと思います。日本国内でも、別件による再逮捕などで被疑者を長期間拘束し、密室で自白を促すやり方が、数々の冤罪を生んできたとの指摘がくり返されてきました。
 日本も、国際人権規約14条にある
刑事上の罪に問われているすべての者は、法律に基づいて有罪とされるまでは、無罪と推定される権利を有する。”
という条文を尊重し、”日本には「推定無罪」という法治国家の原則が欠如している”などといわれないようにすべきだと思います。 
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                       第二章 死神
(2)同胞管理
 父親のかわりに
 江原道溟川郡江東面出身の沈在煥は、1943(昭和18)年10月に長崎県北松浦郡の炭鉱に徴用されてきた。西彼杵郡高島町の高台にあるアパートで独り暮らし、週に数回長崎市内の病院に、腰骨折治療のために通院している。
 長男だった沈在煥は、面の普通学校へ入学した。すると日本人教師は、朝鮮語をしゃべる子供たちに、日本語で話せと強要し殴りつけた。毎日学校から泣いて帰る姿を父親が見て、勉強どころでなく殺されると怒って、かれを退学させてしまった。
 太平洋戦争が勃発すると、面の若者たちが次々と強制連行された。半農半漁の暮らしなので漁師になった。漁に出て獲った魚は、遠くの漁港へ水揚げして、殆ど家に寄りつかなかった。帰ればすぐ徴用されることは分かっていた。それも危険になって、こんどは山の中に逃げ込んだ。長男の彼が日本へ強制連行されると、両親と弟二人の生活の面倒が見られなくなるからだった。
 面書記は毎日のように家にやってきて、息子を出せと父親に迫った。
 「息子が行かないなら、その代わりにお前が行け!」
 六十過ぎの父親が強制連行されるという知らせがあり、沈在煥は逃亡生活に見切りをつけて家に帰ってきた。江東面には炭鉱から労務係がニ、三人きていた。
 「賃金は一日五円だ。一週間に一日は必ず休ませるし、米飯は食い放題だ。どうだ、いいところじゃないか」
  沈在煥と父親を前にして、うまいことをいって勧誘した。しかし、同じ面の者が何人も事故死して、炭鉱は危険であることをよく知っていた。そうかといって父親をやるわけにはいかない。
 溟川郡で二百人が集まると、列車で釜山まで行き旅館に宿泊した。その夜、二階の屋根から数人が飛び降りて逃走した。翌朝、関釜連絡船の崑崙丸(コンロンマル)で下関港に着いた。 
 下関駅から列車に乗ると、長崎まではシャッターを降ろして、外の風景が見えないようにした。その翌朝、下関まで乗船した崑崙丸が、アメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈んだことを知った。
 潜龍炭鉱の隣にある、ダンゲツ炭鉱(当時そういう事業所は見当たらない、本人の記憶違いかも)に着いた。バラック建ての朝鮮人寮の一部屋に十人入れられた。二交代制で、半数が入坑すると、在室の者が空いた布団に寝て、帰ってくると交代で入坑した。
 労務係が、募集の条件として五円だといったことは全くの偽りで半分の二円五十銭だった。
 「芋ばかりで、たまに雑炊があるが、手を突っ込んんでも指先より大きいものはない。どんぶりの底に米粒が僅かやった」
 入坑する時の弁当箱には、芋の蒸かしたものが数個はいっていた。
 お汁は海水を汲んできて、カボチャとか大根の葉が浮いていた。沈在煥たちは、入坑した日から、お腹が空いて死ぬほどの苦しみを味わった。
 言葉が分からないので叩かれた。坑内ではすべての朝鮮人に通訳がつくとは限らない。坑内係や先山たちから命令されても、ぽかんと立っていることがある。
「こらっ、 貴様! 成木(ナルキ)をとれというのが分からんのか!」
 日本人の先山がいきなり坑木で殴りつけることがあった。叩かれて命令されるうちに、一ヶ月が経つ頃には、相手が何を要求しているかを理解できるようになった。
 掘進とか採炭作業は、炭鉱に慣れない彼らにとっては危険だった。目の前で落盤事故があって死んでも、ボタと一緒に炭車に積んで運び出すので、後はどうしたのかも知らされなかった。
 「朝鮮人にとっては毎日が地獄やったよ」
 沈在煥がしみじみと語るが、落盤、ガス爆発、出水、炭車の暴走事故があって、朝鮮人は毎日のように死んでいった。十人事故死すれば十人、朝鮮から強制連行してきて補充した。
 飛行機の燃料が不足するといって、山の松油を取るようになり、勤務明けの日には山に動員された。そのために体を休めることができず、実質的には連続労働となった。
 ある日、沈在煥と話していると面白いことをいい出した。
 「何処の国も松の木が枯れたら国は滅亡する前兆なんだと」
 「どうして松と国の滅亡とが関係あるんですか?」
 私は思わず問い返した。
 「松と人間の命は同じだと。松は一回切れば絶対に芽を出さないんだ。人間も首を切れば死んでしまう。普通の木は切られても、必ずそこから新芽を出すんだ。松だけはそうじゃなか」
 何処でも松が枯れたら国が滅亡すると、とてもうがった見方をしていると思った。朝鮮には、昔からそんないい伝えがあるといった。実際に松油を長く取ると松が枯れて、山の中に茶色の部分が増えた。日本は戦争に負けると予測していたのだ。

 逆さ吊り
 石炭増産命令が出て、各炭鉱が軍需工場に指定されると憲兵が派遣され、労務管理にも口を出すようになった。食事は脱脂大豆が中心となり、中にコーリャンが混じった。
 脱脂大豆の腐ったものをたべると、消化不良を起こして毎日下痢が続いた。栄養失調のところを長時間労働が続き、昇坑すると病人のように倒れた。翌日は疲労で起きられずにいると「朝鮮人はわざと生産妨害ののサボタージュをしている。怠けるな!」と、その場で木刀で叩いた。
 病気で寝ている者を殴りつけ無理に入坑させた。
 沈在煥が病気で休んでいると労務係がやってきた。
 「とても体がきつくて働けません。休ませてください」と、拝むように労務係にいった。
 「貴様、ケ病を使うつもりか、よし労務までこい!」
 労務詰所に呼ばれるとそこで何が起こるか、朝鮮人抗夫なら誰でもよく分かっていた。アイゴー、アイゴーの悲鳴が朝鮮人寮に一日中聞え、その翌日には冷たくなった人間が、車力で運び出されるのを何人も見てきた。それを知っているだけに、労務詰所に連れていかれて命が助かろうとか甘い考えは捨て、死ぬ覚悟で行かなければならなかった。
 労務詰所に入ると、外勤の朝鮮人労務がいきなり沈在煥を木刀で叩いた。何故休みたいのかとたずねることはなかった。十数回木刀で叩かれると、座ることもできずに倒れた。そこを数人で体を押さえて、足をロープで結ぶと、天上の梁にぶら下げた。頭を下にされて人間が逆さになると、それだけで意識が朦朧となる。そこをニ、三人で交代して鶴嘴の柄で叩き始めた。三十数回叩かれるうちは痛みを感じるが、それを過ぎると麻痺して感覚がなくなる。筋肉がかちかちに固くなり、叩く音だけが耳に聞こえた。
「朝鮮人の労務はひどかったねえ。それはもう親の仇打ちをするように殴りつけた。何故、同じ朝鮮人をあれほど虐待するのか、わしにはその気持ちが分からんやった」
 沈在煥は、その労務係の顔の特徴を忘れなかった。いつかは彼らに報復しようと腹に決めた。
 逆さ吊りを一週間続けられると精神状態がおかしくなる。若さがあるからそれに耐えられたが、病弱な者はひとたまりもなく死んでしまった。
 労務係の仕置きが終ると、部屋の仲間が迎えにきて、肩に担いで寮まで連れて帰った。飯になっても起きられず、ただ水を飲むだけだった。その頃、寮には一週間に一回だけ合成酒の配給があった。沈在煥は悲観のあまり、酒を一気に飲んで自殺しようと考えた。
 空腹で働けないので故郷に手紙を出して、食べ物を送ってくれるように頼んだ。親は心配して現金や朝鮮アメ、餅などを送ってよこした。品物が届くと全部労務係たちが小包をこっそり開け、金は自分たちで料理屋へ行って女を抱いて遊んでしまう。それを知っていても、抗議することさえできなかった。
 ある日、起きると隣に寝ていた同胞の一人が冷たくなって死んでいた。風邪をこじらせて肺炎を起こし、高熱が続いて前の晩まで呻いていた。労務係は肺炎で苦しんでいても、決して休んでよろしいとはいわなかった。入坑させるほど自分の成績が上がり、炭鉱からは受け持ちの抗夫の稼働率が高いという評価を受けた。そのために各寮ごとの生産競争となって、その成績を廊下に張り出し償金を出した。そうした生産競争が、圧制の一つの要素になった。
 その制度のことを”半島表彰”といった。
 沈在煥の目の前でも拷問が行われ、二人の同胞が血を吐きながら絶命した。数日前に寮から脱走して捕まえられ、全員を集めた前で見せしめのために殴り殺されたのだった。

 決死の脱走
 事故で死ぬか、拷問で死ぬか、いずれ死ぬのなら脱走しようではないかと、沈在煥たち同じ部屋の三人は相談した。
 朝鮮人寮から脱走すると、写真をつけた手配書が、県内の各警察署に配られた。炭鉱側は、交通の要所に見張り人を出張させていた。駅員なども怪しい朝鮮人の姿を見ると、すぐ警察へ連絡した。土地勘がない上に、現金を持たないので彼らはすぐ捕まった。
 沈在煥は、一度捕まった同胞から、失敗した原因をいろいろ聞いて研究した。町に出ると捕まるので山中を逃げ、お腹が減ると民家のところまで降りてきて、畑の野菜を盗んで再び山へ引き返した。三人で集団行動をとると、人目について危険だった。話し合って単独行動をとることにした。三人はそこで別れると、沈在煥は山の中を北へ夜だけ歩き続け大志佐に出た。チマ・チョゴリ姿を見て再び山へ戻り、夜になるとこっそりその家を訪ねて事情を話した。するとそこの主人が同情して、すぐ近くの朝鮮人が経営する土方飯場を紹介してくれた。そこの飯場は朝鮮人が三十人いて、みんな炭鉱から脱走した者ばかりだった。
 大志佐の仕事が終わると、親方と一緒に崎戸炭鉱へと一緒に移り、飯場の親方は坑外の土木現場を請け負った。
 ”一に高島、二に端島、三で崎戸の鬼ヶ島”といわれるほど、崎戸炭鉱の圧制振りは天下にとどろいていた。三千人以上の朝鮮人が強制連行され、その悲惨な姿を見るとタンゲツ炭鉱のことを思い出した。飯場の親方はそれを見て、坑内に入れられたら大変だと、工事が終わるとすぐ大村の飛行場へと移った。
 軍工事は炭鉱からの脱走者にとってはいわば安全地帯だった。労務係が探しにきても、軍関係の工事に文句をつけるのかと兵隊が追い返した。海軍関係の工事だけに、どうしたわけか白米飯を腹一杯食べることができた。ところが飯場の親方たちは、彼らが脱走してきたという弱みを握っているので、働いた賃金は一銭も沈在煥たちには支払わなかった。みんなで抗議すると、親方はやっと一日に二円五十銭支払うようになった。
 「私たちは怪我をしても病気をしても、誰も助けてくれる者はいない。怪我せんように病気せんようにと、そんなことばかり考えて、もう人間として生きた気持ちはせんやったですよ。これから私たちはどうやって生きていくのかと。
 炭鉱じゃ働いても郵便貯金をしているといって、決して現金を渡さんやったから、故郷に金を送るどころか、送ってもらったぐらいだ。現金を渡すとお前たちはすぐ脱走するというんだ」
 大村飛行場は敗戦近くなると毎日のように敵機の爆撃を受け、空襲警報のサイレンが鳴ると、艦載機のグラマンはもう上空にきて爆弾を投下して、激しい機銃掃射を繰り返した。防空壕から出て、滑走路を修理していると、すぐ空襲警報で作業を中止した。

 報復
 8月9日の長崎原爆投下以後、飛行場の工事は一時中止になった。防空壕の中では、炭鉱から脱走した朝鮮人が集まって話し合いをした。もう日本の敗戦を肌で感じとって、前に働いていた炭鉱へ行き、労務係に報復しようと相談をした。彼らの殆どの者が、一度や二度それ以上に労務係から死ぬほど虐待された経験を持っていた。報復をしないと気持ちが治まらなかったのだ。
 8・15の解放を迎えると、軍工事だけに仕事は午後から中止となった。沈在煥は仲間と相談してタンゲツ炭鉱へその日のうちに行った。
 先ず朝鮮人寮に行くと、昔の仲間たちと会った。
 約半数が脱走していたが、十数人が捕まって労務係から虐殺されたことを知った。その中には同じ部落の人で、沈在煥と一緒に強制連行された仲間もいた。
 「労務係の奴を生かしておくな。みんなで仇討ちに行くぞ!」
 五、六百人が、どっと労務詰所を取り囲んだ。
 日本人労務係は、報復を恐れて、解放の日に姿を消していたが、朝鮮人労務係は職員社宅にそのまま住んでいた。
 日頃からみんなが受けた恨みを晴らそうと集団で襲うから、群集心理で狂暴になってくる。
 「助けて下さい、命だけは─」
 朝鮮人労務係たちは、みんなの前で土下座すると、泣きながら命乞いをした。
 「やってしまえ!」
 家族が見ている前で叩き殺した。
 「種を残さないように、みんな殺してしまえ!」
 誰かが叫ぶと、逃げようとする家族に襲いかかって皆殺しにした。
 一人で殺すとなると、ある種の良心とためらいがあるが、集団で殺せば恐くはなかったと沈在煥は語るが、怒り狂っている時は人間は見境がつかなくなる。戦争というのはそういうものであって、人間を狂喜にしてしまう。
 朝鮮人労務係の報復が終ると、今度は日本人労務係に目を向けた。
 9月になると、全国的に朝鮮人聯盟が各地に発足して、北松浦郡内に各支部が結成された。そこへ労務係と坑内係を呼び出すと、今度は彼らがやったと同じ方法で拷問を加えた。沈在煥自身、もし逃走して捕まえられたら、必ず虐殺されていたと思った。そうなると炭鉱全体が恐怖のどん底に落ちて、石炭生産はストップした。 
 戦後復興に石炭が必要なこともあって、炭鉱経営者は佐世保進駐の米軍に泣きついて派遣してもらい警備するようになった。炭鉱側からは警察が立ち合いのもとで謝罪させてくれと申し込みがあり、朝鮮人連盟はそれを認めた。
 沈在煥は彼らに報復をして、炭鉱時代の恨みを晴らし、戦前の結着をつけるつもりだった。 
 「しかし、今になって冷静に考えると、彼らも可哀そうな人たちなんだ。朝鮮人労務係もある意味で犠牲者なんだ」
 報復した直後と今とでは、相手に対する思いはずい分違っている。
 朝鮮から徴用されてくる時に、日本語を話せるというだけで、労務係に採用された者が多い。自分の意志とは別に、命令されると拒否できない時代である。職務上増産を強要されるので労務の仕事を遂行するために、上の命令を忠実に守ったわけだ。もし可哀そうだといって同胞を助けたりすると、自分の命さえ危険にさらされる。
 沈在煥は、もし自分がそういう立場になったとしたら、果たして拒否できたであろうかと、やっと近頃になってそのことに気付いたという。
 そうした朝鮮人労務係をいちがいに責めることのできない事情もある。彼らは加害者の一面を持つと同時に、被害者でもあったのだ。沈在煥がそういう思いまで到達するには、やはり長い時間がかかったようだ。
 戦後、沈在煥は帰国するため、北松浦郡内の中小炭鉱で必死になって働いた。長男であるし、帰国するには少しお金を持って帰らなければならない。平戸から密航船が出ることを知って、仲間数人と帰国を相談した。すると済州島や対馬近海で海賊が出没して、品物や現金を奪い取り、海に投げ捨てるという噂が広がって、危険を感じて遂に帰国を諦めた。そのうち一度故郷に帰って、闇船でUターンしてくる同胞たちが、朝鮮の生活は苦しいから帰国しないほうがいいと彼に話したからだった。
 沈在煥は、唯一の帰国のチャンスをそれで逃してしまった。北松浦郡の炭鉱で働いている時、同胞の女性と結婚して子供を設けた。故郷のことを思うと、やけっぱちになって焼酎を飲んで家庭内で暴れて女房を殴りつけた。日本酒なら三升(一升は1.8リットル)、焼酎なら一升を一気に飲んだというからかなりの酒豪である。家庭内暴力に耐えかねて、女房は乳呑児を連れて家出した。

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「地図にないアリラン峠」の話と日本の人権問題

2020年01月27日 | 国際・政治

「地図にないアリラン峠 強制連行の足跡をたどる旅」(明石書店)の著者・林えいだい氏は長く強制連行された朝鮮人の証言を取り続けて、様々な事実を明らかにされていますが、同書の「第一章 筑豊と私」の「(4)地図にないアリラン峠」の中で、子どもの頃に自分自身が目撃した、下記のような衝撃的な事実も書いています。
「これから病院に連れて行ってもどうせ助かるまい、早うそこらに穴を掘って埋めておけ!」
義兄は持っているピッケルで坑口近くの辺りを指した。二人の朝鮮人坑夫は、まだ生きているのに病院で治療も受けさせず、坑口付近に掘られた穴に生き埋めされてしまった。

 また、朝鮮人だといって差別せず、戦時下、逃亡してきた朝鮮人抗夫に手を差し伸べた両親の強い影響を受け、朝鮮人強制連行の問題に取り組むようになったとして、両親に手を貸した事実の一端を書いていますが、それは、戦争だから仕方がなかったなどと言って済ますことのできない差別的で野蛮な犯罪的仕打ちに対する命がけの抵抗だったのではないかと思います。
 さらに、私が見逃すことができないのは、こうした戦時中の犯罪的事実を明らかにしようとするジャーナリストや研究者、歴史家などを脅す人たちが、戦後の日本に多数存在することです。林えいだい氏も脅迫されたことを書いていますが(下記に抜粋)、本人はもちろん、家族にまで危害を加えるというような脅しはほんとうに卑劣だと思います。実際に家を焼かれてしまったという人の話も聞いたことがありますが、それは、明らかにされた事実が嘘ではないことの証だと思います。
 またそうした脅しがくり返されるのは、戦前・戦中、指導的な立場にあった人たちが、責任を追及されることなく、戦後の日本でも大きな影響力を持ったからだと思います。
 だから、日本はいまだに戦前・戦中の差別性や野蛮性をきちんと克服できていないので、「人権後進国」などと言われたリするのではないかと思います。

 例えば、ゴーン容疑者の逃亡によって、「人質司法」といわれる被疑者の長期拘留の問題が注目を集めました。特に被疑事実を否認した場合、別件逮捕などを交えて長期間身柄を拘束される問題は、以前から指摘はされていましたが、改善されていないと思います。また、被疑者の取り調べに弁護士の立ち会いが認められていないことも、主要先進国の中では異例だといいます。「密室」の取調べでは、捜査側による強引な取り調べや誘導がなされ、冤罪を招くとの指摘も、以前からくり返されてきました。こうした弊害を防ぐため取り調べの録音・録画が導入されましたが、その対象はいまだ一部に限られています。
 さらに、被疑事実を否認したり、黙秘したりする被疑者には、弁護人以外の接見が認められないことが多いのも、日本の刑事司法の異常な側面の一つだといわれます。ゴーン容疑者もそのことを訴えたようですが、家族(妻)との接見が許されなかったようです。家族を通じて証拠を隠滅する可能性があるということが優先され、被疑者の人権は後回しにされる傾向が強いのだと思います。
 こうした被疑者の取扱いは、世界人権宣言の理念を現実化するため1966年、国連総会で採択された人権に関する規約、すなわち、「国際人権規約」に反するのではないかと思います。

 国際人権規約B規約14条2項に
刑事上の罪に問われているすべての者は、法律に基づいて有罪とされるまでは、無罪と推定される権利を有する。
 とあるのです。これは、「仮定無罪の原則」とか「無罪の推定」とか、「推定無罪」とかいわれるようですが、日本では無視される傾向が強いのではないかと思います。警察に逮捕された瞬間、被疑者が「推定有罪」の扱い受ける日本の刑事司法は、非人道的でこわいと思います。特定の個人を意図的に犯罪者にしてしまうことも可能ではないかと思われるからです。そういう意味で、日本の警察や検察は、戦後も「疑わしきは罰せず」とか「疑わしきは被告人の利益に」という考え方にはなっていないように思います。
 
 また、日本の入国管理局の人権無視もくり返し指摘されています。国連の規約人権委員会の総括所見や、国連の拷問禁止委員会の総括所見で、日本の入国管理手続や入国管理局の収容施設の処遇について懸念や勧告が出され、国際人権機関から批判されているのです。難民申請者をあたかも犯罪者のように扱う日本の入国管理局の人権無視の一因は、その組織の歴史的経緯によるということを聞いたことがあります。
 戦前・戦中、日本の入国管理は、警視庁や各都道府県の特別高等警察(特高)と同様に内務省が所管しており、警察行政の一環として入国管理が行われていたということですが、大日本帝国での市民だった朝鮮人、また外国籍の人たちや共産主義者らを取り締まっていた役人たちの多くが公職追放を免れ、戦後の初期から出入国管理業務に携わったために、日本国憲法の精神に基づく人権意識が希薄で、入管業務対象者に対して、戦前・戦中同様、公安的な発想で接してきたというわけです。
 上記の拷問禁止委員会は、日本の入管施設内における「多数の暴行の疑い、送還時の拘束具の違法使用、虐待、性的いやがらせ、適切な医療へのアクセス欠如といった上陸防止施設及び入国管理局の収容センターでの処遇」について懸念を表明し、さらに、「入国管理収容センター及び上陸防止施設を独立して監視するメカニズムの欠如、特に被収容者が入国管理局職員による暴行容疑について申立てできる独立した機関の欠如」への懸念も表明し、「処遇に関する不服申立を審査する独立した機関の設置」を勧告したといいます。収容されている人たちの人権が守られる体制になっていないということです。
 そうした実態を裏づけるような記事が、先日の朝日新聞「ひと」欄に出ていました。茨城県牛久市の東日本入国管理センターを望む高台からメガホンで「ハロー。また来たよ。みんな愛してるよ」と呼びかけるナイジェリアの少数民族出身女性が紹介されていたのです。その女性は、今は「仮放免」の身ですが、彼女自身がかつて”劣悪な環境に閉じ込められ、適切な医療が受けられず、職員による暴力的な制圧を目撃したため、毎日のように入管施設に通い、仲間を励ましているのだということです。そういえば、昨年、長期間収容されていることに抗議して、ハンガーストライキを行っていた中年のナイジェリア人男性が死亡したという事件があったことを思い出します。 

 さらに私が気になっているのは、外国人技能実習生の問題です。外国人技能実習生の労働条件について、法令違反が後を絶たないのはなぜでしょうか。日本で働くことが「薄給で奴隷のようにこき使われること」という認識が世界中に広まってもいいのでしょうか。日本の高度な技術を学びたいと、アジア諸国から技能実習生として来日した若者が、差別や偏見や過酷な労働環境に苦しみ失踪したり、自殺したりするというようなことがあっていいのでしょうか。法務省の「聴取票に係る技能実習生の失踪事案に関する調査結果」には、技能実習実施機関の”最低賃金違反、契約賃金違反 賃金からの不適当な控除、時間外労働等に対する割増賃金の不払い、暴行・脅迫・監禁、違約金・強制預金、旅券・在留カード・預金通帳等の取上げ、帰国の強制、不当な外出制限”等が報告されています。また、平成24年から平成29年までの6年間で、171人もの技能実習生が死亡しているという調査結果には驚きます(平成24年24件、平成25年23件、平成26年29件、平成27年35件、平成28年25件、平成29年35件)。
 28万人に満たない技能実習生の若者たちのうち、171人が日本の各地で死亡するのは異常だと思います。自殺や実習中の事故死はもちろんですが、病死もその多くが劣悪な労働環境や差別が影響していると思われるからです。技能実習制度は、「現代の奴隷制度」だと指摘する声もあるようですが、まさに戦中の徴用工問題と変わらない側面があると思います。戦後レジームからの脱却を唱える現政権のもとで、こうした人権無視や人命軽視が、見逃されているのではないでしょうか。
 だから、徴用工問題は「解決済み」、韓国最高裁の判決は「国際法違反」という日本政府の主張は、日本の人権無視・人命軽視の傾向に拍車をかけるものだろうと思います。

 下記は、「地図にないアリラン峠 強制連行の足跡をたどる旅」(明石書店)から抜粋しました。
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                    第一章 筑豊と私

                (4) 地図にないアリラン峠           
 地獄谷
 筑豊の炭鉱地帯には、いくつもの地獄谷と呼ばれるところがある。そうした地獄谷には、きまってアリラン部落がある。大正時代に集中的に渡航して、炭鉱の周辺に住みついたものか、あるいは解放後に炭鉱から追い出されて、帰国もできずにいた朝鮮人が集まりスラム化したものである。
 私が住む福岡県田川郡香春町のすぐ隣の田川市にも地獄谷と呼ばれるところがあり、アリラン部落とその近くにアリラン峠がある。もちろん約二十八か所のアリラン峠は、筑豊の地図には載ってはいない。
 近くに三井田川鉱業所第六坑のボタ山が三つ聳え立って、セイタカアワダチソウがおい茂っている。よく見ないとボタ山だと分からないほどの荒れ果てようである。その第六抗の前身は、私の姉の嫁ぎ先で当時系飛炭鉱といった。
 四、五歳の頃、母と一緒に角銅家によく遊びに行った。満州事変以後、石炭景気が上向き始めて、兄一家は豪勢な生活を送っていた。
 昼食をとっていると突然慌ただしい足音がして、労務係が二人顔色を変えて入って来た。
「大将! 非常や! 早うきてくだっせ!」
「何や、非常か! 誰じゃそいつらは!」非常やとは、方城大非常のような坑内爆発事故(667人死亡)のことで、炭鉱にとって非常事態である。
「落盤事故で半島が…」
 事故の連絡にきた労務係は「半島」といった。半島とは朝鮮半島出身の朝鮮人の通称で、当時の筑豊では工夫として大勢働いていた。近くの地獄谷にも、系飛炭鉱の半島納屋があった。
 私は義兄の後を追って坑口へと走って行った。坑口には事故を知った坑夫の家族が黒山のように集まって、担架の上でのた打ち回っている二人を見つめていた。側で見ると一人は眼球がたれ下がり、もう一人は腸が飛び出していた。
 口髭を生やした男が、義兄のところに近づいた。
「大将、半島はまだ生きちょりますばい。どうしまっしょうか?」
「これから病院に連れて行ってもどうせ助かるまい、早うそこらに穴を掘って埋めておけ!」
義兄は持っているピッケルで坑口近くの辺りを指した。二人の朝鮮人坑夫は、まだ生きているのに病院で治療も受けさせず、坑口付近に掘られた穴に生き埋めされてしまった。
 私はそれを見て子供心になんとひどいことをするのかと、義兄の顔をにらみつけたことを覚えてい、る。半島という言葉が、いまも私の脳裡に焼きついているのも、こうした体験があったからである。
 炭鉱事業のためなら人を殺しても平気な義兄のやり方に抗議して、姉はそののち離婚し、子供を連れて家に帰ってきた。
 
 逃走した朝鮮人
 私の父は林寅治といった。明治の社会主義者堺利彦やプロレタリア文学者の葉山嘉樹を生んだ豊津中学(現7・豊津高校)出身で、校内で教師排斥のストライキをやり退学になった男である。1918年(大7)8月のシベリア出兵で、第十二師団北方連隊の一兵士として行き、コミンテルンの反戦ビラを読んで感激したそうである。
 そのビラには「日本の兵士よ、お前たちは何のために誰と戦うのか」と書かれていたと、私に何度も教えてくれた。兵士たちに反戦を扇動したことで重営倉にぶち込まれ、除隊後は主義者なみに就職はできなかったという。
 たまたま家が奈良時代から続いた神主で、それを隠れミノにロシア語を独学した。二階の書斎にはマルクス・エンゲルスの『共産党宣言』もあった。まさに父は非合法時代を生きてきた。
 日中戦争から太平洋戦争にかけて、私の住んでいる村からは、多くの若者たちが出征して行った。神前では武運長久を祈るために、村長はじめ国防婦人会のたすきをかけた婦人、国民学校の児童たちが集まって祈願祭をした。
 父は神前で祝詞を奏上すると出征兵士に対して「絶対に死んではならない。絶対に家族のもとに帰ってこい」と挨拶した。天皇のために死んでこい、とは一言もいわなかった。それが原因で後藤寺警察署の特高に逮捕され、一週間後に釈放されて家に帰ってきた。左手の指先は紫色に腫れ上がり、拷問の跡が生々しかった。そのうち指二本の爪が落ちた。傷のことは私には話さなかったが、母はその理由を知っていたようで。

 1942(昭和17)年頃、釈放後少し身体の弱った父を助けて、私は毎朝、神前に供える御供米を持って参道を登った。
 その頃、福智山脈を越えて、炭鉱から朝鮮人が逃げてきていた。村役場から回ってくる隣組の回覧板には、「不審な半島を見つけたら、すぐに村の駐在所へ知らせるように」と書いてあった。
 ある日、拝殿の床の下で変な物音がするので、父が私に対して誰かおるのか見てこいと命じた。私は恐る恐る床の下に潜ると、そこにはあきらかに朝鮮人と思われる五、六人の若者が震えていた。
 「みんな出てきなさい。父ちゃんが呼んどるばい」
 と呼びかけた。 
 床の下から出てきた彼らの服は破れ、足は素足で血まみれだった。顔は恐怖でおののいていた。山を越えた向う側は筑豊の炭鉱地帯で、大手炭鉱の三井田川鉱業所、三菱方城炭鉱、明治赤池炭鉱、古河大峰炭鉱をはじめ、中小炭鉱など約350坑が群集していた。
 食糧不足、強制労働、自由を拘束された寮生活に耐えかねて、彼らは危険を冒して脱走してきたのだった。土地勘がないのに、最初に日本に着いた下関を目指した。北へ行けば下関へ行けると思い込み、山岳地帯を駆け登って、私の村へと降りてきたのだった。
 それまでに脱走した者が村人たちの密告で駐在所の巡査に捕まり、炭鉱へ送り返されて、みせしめのためにみんなの前で拷問される姿を見てきている。拷問で殺された同胞は数知れないのだった。
 「心配するな、俺のところでよかった。お前たちは何処の炭鉱からきたのか?」
 父は、彼らの恐怖心を解きほぐそうと、笑いながら話しかけた。何処の炭鉱から逃走してきたのかを恐る恐る説明した。シベリア出兵の時、現地の朝鮮人から朝鮮語を習っていたので、彼らのいうことは理解できた。
 「お前、早う帰って井戸の水をバケツに一杯と、今朝炊いた麦飯をお母さんにいうてから、握り飯にしてお宮まですぐ持ってこい」
 私はいわれるままに、水と握飯を持って参道を登った。彼らはごくごくと水を飲み、あっというまに握り飯を平らげた。母は備えつけの薬品箱と富山の薬売りの薬袋を抱えて登ってくると、タオルにオキシフルをひたして消毒し、赤チンを傷口に塗ってやった。言葉の分からない彼らは、両手を合わせて両親を拝んだ。
 早くなんとかしなければ、神主といえども村人に知られるとまずいことになる。父には前科があるだけに、こんど逮捕されると刑務所送りになることは確実だった。脱走した朝鮮人をかくまったとなると国賊とか非国民だといわれかねない時代である。
 「お前、石灰山の杉坂のおいちゃんを呼んできてくれ。何も説明せんでもよか、父さんがよんでいると」
 石灰山の杉坂のおいちゃんとは、香春岳の三ノ岳で、石灰石の原石を採って、石灰をつくる石灰工場の経営者だった。原石山では、働き盛りの人夫が出征して人手がなく、村の女が大勢働いていた。体力のある朝鮮人が一人でも欲しかったのである。まもなく四人の朝鮮人は、杉坂のおいちゃんに引取られて行った。彼らが引き取られて住んでいた飯場は、今でも線路の側に残っている。
 残った二人は、家族が病気なので、どうしても朝鮮へ帰りたいと必死になって父に哀願した。父は二人を家に連れて帰ると二階に案内して、仕事着を与えて着替えさせ、数日間かくまっていた。
 当時の小倉鉄道は(現・日田彦山線)は、戦時中のことで切符制限があって、いつでも自由に乗車することはできない。駅長と交渉して、やっと東小倉までの切符を手に入れた。貧乏神主なのに、その切符代をどう工面したか私は知らない。
 下関に着くと、父の友人の駅員に頼んで関釜連絡船の切符を手に入れた。下関駅からは高くて長い桟橋を歩いた。途中でサーベルを腰にした下関水上警察署の巡査と、鳥打帽を被った巡査らしき男に呼び止められた。
 「この朝鮮人は、自分のところの作男に使っていた者で、国に帰りたいというから見送りにきました。
 「巡査の前で父は二人の朝鮮人のことを説明した。友人の駅員と側に小学生の私がいたので安心したのか、それ以上の追及はされず無事にその場を通過した。
 1943(昭和18)年以後、山越えをして炭鉱から脱走してくる朝鮮人が急に多くなった。だが、食糧不足もあって彼らに握り飯もつくってやれなくなった。村の信用できる友人に手配して彼らを作男につかってもらったり、山の中の炭焼小屋で働かせた。他の者は下関までの道順を教えたり、大阪など遠方に行く者は日本語を話せる者に限って行かせ、父はそれなりの苦労をしていたようだ。
 下関駅の父の友人が軍隊に出征してからは、関釜連絡船で帰せなくなったが、それまでに私は四、五回見送りに行った記憶がある。
 帰国後、彼らがどういう人生を送ったのか、いっさい知ることはできないが、再び日本へ強制連行されたものと思われる。帰国させたことが彼らにとって幸せであったかどうか、それを考えるといまでも胸が痛む。
 1944年5月、父が心臓麻痺で急死すると、私たち母子だけではどうすることもできず、助けを求められても水を与え、傷口を手当てしてやることしか方法はなかった。
 捕まえられるのではないかと床の下で脅え、空腹を訴える彼らの姿は永久に忘れられない。私の心の中に刻み込まれた、そうした幼いときの原体験が、こんにちの朝鮮人強制連行記録の取り組みになっていると思う。それは一つには、朝鮮人だといって差別せず、あの戦時下に手を差し伸べた両親の強い影響を受けたからであろうか。

  忘れた日本語
 ・・・
 あれは過去のことだ、戦時中だったから仕方がないとか、朝鮮半島は日本国であったとか、日本人も同じように徴用されたと、いいわけをして責任を逃れようとする 
 昨夜も一昨夜も真夜中の二時、三時に脅迫電話がかかってきた。
 「お前は日本人か、日本人なら朝鮮人強制連行のことをやるな」
 「そんなに韓国人のことが好きなら、韓国へ行ってしまえ」
 「お前は国賊だ。殺してしまうぞ」
 「強制連行を天皇の責任にするな、これ以上朝鮮人にかかわるなら、家を焼いてしまうぞ」
 といってたぐいのものである。手紙の脅迫もあり、カミソリを一枚入れて、これで自決しろというものもあった。
 ・・・
 これらの日本人の根底にあるものは、やはり朝鮮人に対する差別意識と偏見があるからである。と同時に彼らは、戦前・戦中から戦後と、一貫して考えがひとつも変わっていないことの証明でもある。日本人の中のたとえ一部ではあっても、そうした意識が根強く残っていることは否定できない。
 ・・・
 
 
 


 

 

 

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徴用工問題 実態と証言

2020年01月23日 | 国際・政治

 戦時中、連行されて来た徴用工を含む多くの朝鮮人が、様々な差別を受けながら、劣悪な労働環境の鉱山や土木工事現場などで長時間強制的に働かされたことはよく知られていると思います。

 だから、朝鮮人労働者の事故死が少なくなかったことは、下記の洪象寛(ホンサングァン)氏の文章からわかります。また、金蓬洙氏の文章からは、事故死や病死だけではなく、多くの自殺者があったこともわかります。特に下記は、当時の朝鮮人の生活状況がいかなるものであったかを考えさせる文章ではないかと思います。

時間的制約から残念にも書き取っては来られなかったが、多くの朝鮮人同胞の赤児の死に私は涙せずにはいられなかったのだ。私が書き取って来た成人同胞41名に対し、その書類中に確認した同胞幼児の死亡は実に80の多数であった。この小さな鉱山町神岡にて、1940年から45年の間に朝鮮人の子供達が少なくとも80人死んだのだ。

 こうした過酷な状況を考えると、朝鮮人の労働現場からの逃亡や強制連行されてきた人たちによる暴動も当然だろうと思います。

 でも、現在の日韓外交をみると、日本の多くの政治家が、こうした過去の事実を踏まえているとは思えません。それどころか、今なお、当時の差別を引き継いでいるようにさえ思います。

 安倍総理は、元徴用工への賠償を日本企業に命じた韓国最高裁の判決に対し、
今般の判決は、国際法に照らせばあり得ない判断であります。日本政府としては国際裁判も含め、あらゆる選択肢を視野に入れて、毅然として対応していく考えでございます。

などと発言したことがありましたが、法に基づく正当な国際裁判がなされるならば、日本は恥ずかしい思いをすることになると思います。
 なぜなら、人間が人間らしく生きていくために必要な基本的な権利、すなわち思想の自由・信教の自由、表現の自由などの自由権、また、そうした自由権を現実に保障するための政治的基本権(選挙権,請願権など)や生存権などの社会経済的基本権などが「基本的人権」として認められている社会では、国家といえども個人の権利をむやみに制限したり、ましてや同意なく消滅させたりはできないはずだからです。
 戦後の国際社会では、元徴用工個人の請求権を国家が勝手に消滅させることはできないわけで、当時の日韓請求権協定で放棄したのは、国家の外交保護権なのです。それを無視して、「解決済み」ということこそ、国際法違反なのだと思います。
 さらに、韓国最高裁の判決に対し、韓国政府に圧力を加えるという政治的姿勢は、三権分立を否定するものであり、安倍一強の日本では通用しても、国際社会では受け入れられないのではないかと思います。
 私は、日本政府がきちんと過去の事実を踏まえて元徴用工に対することなく、日韓の政治家同士で相互に利益がらみの交渉をして、経済協力だけで、無理矢理「解決済み」にするというようなことはあってはならない野蛮なことだと思います。
 下記の文章でも明らかですが、当時の労働者に対する日当の差別、食べ物の差別、労働内容の差別は否定しようがない事実だと思います。だから、日韓友好のために、野蛮で差別的であった戦前・戦中の日本のあやまちを認め、誠意をもって過去の事実を明らかにし、元徴用工やその家族を含めた交渉によって真の解決をめざすべきだと思います。
 戦前・戦中の日本の人命軽視や人権無視や差別は、きちんと乗り越えなければならない大きな問題であるにもかかわらず、安倍自民党政権は朝鮮人徴用工の問題の本質には眼を向けず、「戦後レジームからの脱却」をかかげて、逆に戦前回帰の政策を進め、再び人命を軽視し、人権を無視する新しい「皇国日本」をつくりあげようとしているように見えます。
 麻生副総理兼財務大臣の「…2000年の長きにわたって一つの国で、一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝、126代の長きにわたって一つの王朝が続いているなんていう国はここしかありませんから。いい国なんだなと。そんな国は他にない。…」というような発言も、「戦後レジームからの脱却」の方向性を示す発言ではないかと思います。
 私にはそれが、「尊王攘夷」を掲げ、嘘と脅しとテロによって幕府を倒した薩長および討幕派公家による明治維新とダブって見えるのです。 
 明治政府は、皇室神話を背景に、国民による批判を許さない体制を整えて膨張政策をとり、琉球を強制併合した後、台湾出兵、江華島事件、朝鮮王宮占領、日清戦争、日露戦争、韓国併合、山東出兵…、など領土拡張のために武力衝突をくり返しました。そして、そうした姿勢が、日本の敗戦に至るまで変わることがなかったことを忘れてはならないと思います。

 徴用工の問題は、単なる未払い賃金の問題ではなく、戦時中の日本の人命軽視や人権無視や差別の問題でもあり、日韓請求権協定による経済協力によって「解決済み」にはできない問題を含んでいると思います。日本の針路に関わる問題なのだと思います。
 
 下記は、いずれも「朝鮮人強制連行論文集成」朴慶植・山田昭次監修:梁泰昊編(明石書店)から抜粋しました。
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(長野)
           戦前・戦時下の下伊那における朝鮮人労働者の実態の掘り起し
                                              原 英章
   洪象寛(ホンサングァン)氏からの聞き取り調査(1986年8月)
 洪象寛氏は、1921年生まれ、現在65歳。高森町で焼肉屋を経営している。出身は済州島、朝鮮では一番暖かい所だ。
  象寛の子供の頃は、今のブタよりもひどい生活だったという。学校なんか全然行けない。私たちの年代が一番学校へ行っていない人が多いのではないか。兄弟のうち長男だけを学校へやった人もいる。植民地だったからやりにくかったこともあるが、親の考え方もよくなかったのではないか。60軒ある部落のうちで、学校へ行ったのは9人だけだった。当時の学校は、校長は全部日本人で、警察も部長級以上は全員日本人であった。私は学校へ行けなかったが、冬になると村の人が四ヶ月くらい夜学をやってくれたので、なんとか字だけは読めるようになった(当時の学校では日本語を教えていた)。
 当時、50~60軒あった部落の半分くらいが日本へ渡って来た。まず一人が先に働きに来て、家族を呼んだりするのが多かった。とにかく、収入より支出が多くて朝鮮ではやっていけなくなってしまっていた。募集で日本へ来る人が多かったが、連れて来られた人もいた(強制連行)。南部の人たちは日本へ多く来たが、北部の人は満州へ行った人が多かった。満州へ行った朝鮮人は100万人を越えるといわれている。北部から来た人は現在の在日朝鮮人・韓国人70万人のうちの一割足らずだ。樺太にも朝鮮人が7万人もいる。
  象寛は兄が東京にいたので、15、6歳の頃兄を頼って日本へ来た。東京から名古屋へ行き、3年ほどいた後、昭和19年(1944)に木沢(現在の南信濃村)へ来た。隧道(ズイドウ:トンネル)の工事をやっており朝鮮人が100人くらいいた。日本人は現場の監督とかコンプレッサーの見回り役程度で、ほとんどいなかった。その頃はどんな工事でも朝鮮人がいなければできない状態であった。昭和19年の2月か3月頃、木沢の掘割の工事場でうしろの山がくずれてきて、休んでいた4、5人の朝鮮人が生き埋めになって死んだ。
 飯島の発電所から木沢の堰堤(エンテイ)までの隧道は朝鮮人がみな工事した。和田の前の隧道を私らがやった。今考えてみると危険な仕事であった。が、あの頃は一人や二人死んでも当たり前というくらいの感覚だった。
 穴を掘ったり、ダイナマイトをかける仕事。私ら(自由労働者)は一日の日当が5円だったが、連れて来られた人は賃金が安く、日当は3円ぐらいだった。5円の日当でも、お金が残るということはなかった。朝7時に仕事に就くと夜の7時までの12時間労働で昼夜二交代制だった。一週間して交代する時には、朝の7時から翌朝7時まで働いて2日休むというやり方だった。
 木沢でも逃げ出す人がいた。しかし、地理がわからないので逃げ切る人は少なくてつかまることが多かった。つかまえてきて、飯場頭(朝鮮人)に制裁されるのを一年足らずの間に何回も見た。逃げ出すのは仕事がきついというより、朝鮮で募集した時と話がちがうので逃げる人が多かったのだと思う。日本人の中にはいい人がいて、握り飯を作って逃げ道を教えて応援してくれた人もいたそうだ。
 和田、平岡の工事場では、朝鮮人が同胞をいじめる奴が多かった。自分が日本人によく見られたいために。そんなこともあって終戦後に朝鮮に帰る船の中で、もとの飯場頭の兄弟が海中へ投こまれたという話を聞いたこともある。
 昭和20年(1945)5月に平岡に来た。8月までの3ヶ月間居た。その頃は平岡ダムの工事が一時中止になって、遠山の発電所(飯島発電所)を早く完成させて電気を起こすという時期であった。中国人もいたが朝鮮人の方が多く。1000人くらいいたように思う。  
 食べ物が、朝鮮人、中国人、捕虜と三段階に分かれていた。朝鮮人は配給でくれた。中国人はパン食。捕虜はいちばんみじめだった。米ぬかやフスマのお粥だけで生きていける訳がない。200人近くいたアメリカ人捕虜のうち、生き残った人は20~30人いたかいないかぐらいだった。捕虜はセメントかつぎやレールかつぎなど一番えらい仕事をさせられていた。可哀相に思って、余ったご飯をそっと捕虜にやったのを日本人の監督に見つかり、ひどくおこられたこともあった。
 終戦後2~3日以内にアメリカ軍が、飛行機で食料や物資を運んできた。
 私らより北海道のタコ部屋へ連れていかれた人たちは可哀相なものだったようだ。大島(松川町)にいた、2~3年前に亡くなった洪覚文(ホンカクムン)という人はタコ部屋から逃げ出してきた人だった。
 飯田線の工事の話を聞くと大変だったらしい。80歳のおじさんの話では、飯田線の木材会社の所に飯場があって、朝鮮人を70~80人収容し石を積んで逃げ出せないように庭をこしらえてあったそうだ。
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(岐阜)
                     神岡にて
                                        金蓬洙(キム・ボンス)  
 ・・・
 夜、私は朝鮮総聯飛騨支部の副委員長氏の案内で神岡町内に住む同胞の家を訪れた。
 金茂竜氏は相当高齢で別にこれといった病名はないが、ずっと寝たきりの日々である人だった。
 老人は解放前神岡鉱山で働いていた人だった。
 老人は私の来意を聞くと、部屋の真ん中に敷かれた布団の中に寝たまま苦しげに口を開いた。
「ある夜、わしらが寝ている所へ、表の戸をたたく音で起こされ、はき物もはかず戸の所へ行って表の様子を伺うと、尚もしつこく戸をたたくので誰だと声を掛けると、いきなり朝鮮語で『サルリョヂュショ』とはね返って来た。わしはすぐ募集人が逃亡を計ったな、外の若い衆はまた、戸をたたきながら、『助けて下さい。戸をあけて入れてください』と、ずっと朝鮮語でたのみこんだんだよ。それでもわしは黙っていると、『チョソンサラムの家だと知ってきました。助けてください』と、言うから、まったく困ってしまったさ。その若い衆を助けてやってばれたら、わしもただではすまん。もし、南方にでも送られたらな、家族のことなんかも考えると、口惜しいが助けてやれなかった。それでわしも朝鮮語でたのんだよ。助けてやりたいのは山山だが、それがばれたらわしも困る。お願いだから早く行ってくれ、と。若い衆はだんだん切羽つまった泣き声で、強く戸を打ちながら、『サルリョヂュショ』とやるし、わしはわしで考えると情けなくて、ついわしも泣きながら『たのむから早く遠くへ逃げてくれ。夜中にそんなにさわぐと隣近所が起き出すと大変になるから、早く逃げてくれ』と、しまいにはこちらがお願いしたさ。結局、その若い衆はあきらめて立ち去ってくれたが。ああ情けない話だ。恥ずかしい話だ。現在でもその晩のことを想うと、胸が詰まって死にそうだ。恥ずかしいことをしたと、顔があかくなる。けどあの時はああせんかったら、わしもどうなったやら」
 老人は一気に話すと、天上を見すえて黙りこくった。私も、副委員長氏も言葉をさしはさまず重苦しい一時の狭間に沈み込んだ。
 私達の思いを断ち切るかのように、老人はまた話を続けてくれた。
 「坑内に入って仕事をする者達は弁当を持って坑に入るんだが、若い連中は腹がへってしようがなくて、昼飯時までしんぼうができずに、坑に入るが早いか、トロッコのかげなんかにしゃがみ込んで弁当を喰っちまって、昼飯は抜きで仕事をするんだから、夕方になると腹がへって力がでなくなってしまうわさ─。それを見てウェノムの監督がなぐる、けるしやがって!アイゴーおぞましい奴らだった」
 ここで老人は起き上がりたいと言ったので、私達も手を貸して彼をふとんの上に座らせた。チャプ(嫁)に手掛けられたチャンチャンコに包まれるようにして、老人の語気は次第に熱っぽくなるのだった。
「そんなだったから、暴動が起きてしまったんだよ。その時わしは、仕事を終って社宅の山へ登ってみると募集人(彼は強制連行された人達をそう呼んでいた。呼ばされたというべきだろう)達が暴動を起こして、それぞれに鍬やら、のこぎりやらを振りかざして、事務所はもう壊してしまってありもせんかったし、舎監達はどいつもこいつも逃げてしまって、ものすごかったな。事務所をたたっこわす時は、まず電話器からからぶっこわしたんだそうだ。あれこれしておる内に、いくらもせんうちにスンサノム(巡査奴)が来るし、憲兵隊まで来てから、びくともできんように押さえつけてしまいよった。とにかく社宅三棟を空けて巡査がいっぱい入ったんだよ。そんな時は岐阜県中の巡査がみんなここへ集まったみたいだった。この時逃げた人も多勢だったし、殺された人も多かった。逃げる途中に捕まった人はみんな南方へ連れていかれて、みんなそこで死んでしまったんだろうな……。わしが直接見たんじゃないが、しばらくしたらそんなうわさで持ちきりだったな。
 その暴動の後からは、それまで一個ずつだった握り飯が二個ずつもらえるようになったよ。けど、これをいくらももらって喰わんうちに、以前よりもっと飯が悪くなってしまったから、人間がどうして暮らすかね。それだから、真実腹がへって動くこともできんから、事務所の前にへたり込んでしまって『飯くれ! 飯さえくわせたら働くじゃないか!』と言うわけよ。それを監督共はトーントーンなぐるし、足でけっとばしやがって、アイゴー!身にふるえがくる話だよ。
 同胞老人の話を聞いて、私は重苦しい気持ちでおいとまをした。
 翌日の朝一番に若田氏から紹介を受けた、共産党の神岡町議会員の吉田秀次郎氏の家を訪れた。顔の浅黒い吉田氏は非常に気さくな感じの人で、私が玄関先で来意を告げると、まだ役場へ行くには早過ぎるからと、私を応接間に招じ入れ、小一時間にわたって、神岡における現政治情勢を話してくれた。中でも、多数の鉱山労働者達が選挙において共産党や社会党にではなく、保守党に投票する現実を慨嘆されたのが印象に残った。
 そこそこの時間になって吉田氏は神岡町役場まで私を伴ってくれた。そして、係りの吏員に私が見たいという書類を見せてやってくれと声をかけてくれたのである。 
 私はまず役場の吏員に、朝鮮人強制連行に関する記録はないかと、実にばかげた愚問をしてみた。もちろん即座に、そういうものはありません。かつてはあったでしょうが、とっくに処分されてしまったでしょうからね。との返答が返ってきた。仕方がないので、では1940年頃から、45年までの埋火葬許可受付簿を見せてくれるようにたのんだ。まだ若い吏員は、あるかないかわかりませんが、捜して来ますからと、広い役場の執務室の一角に椅子を一つあてがってくれて、奥の方へ姿を消した。
 たくさん机が並んでいて、それぞれに男女役人達が位置について事務をとっている。そんな中に折りたたみ椅子を置いて座っている様は、はた目にばかみたいな光景だろうが、それでも私は気恥しさなどは覚えなかった。そもそも、そんな事には慣れているから。外国人登録証の書替えのつど、ここよりよほど広い市役所の市民課の一角にぽつねんと座らされ、その時には犯罪者のように指紋まで取られるんだから。いいかげんばかばかしさにも慣れてくるものだ、などと思っている内に、さき程の吏員が見るからに古ぼけた書類をかかげるようにして来た。
 彼はその辺の空いている机を探すと、ここで見て下さいと大部の書類をおろしてくれた。
 黒っぽい程に黄ばんだ紙表紙に毛筆で「船津町埋火葬認許願綴」とある書類をめくってゆくと、多くの日本人に混じって、すぐにそれと分かる名前が、多分ガラスペンで書かれたであろう、硬い文字の形で私の眼を射抜いた。
 金 伊 女 大正2年4月18日生 職業日雇 本籍 慶尚南道成陽郡席卜面熊谷里 現住所 船津町東町 死因変死(入水) 死亡場所 船津町内高原川流域 死亡日時 昭和15年5月16日午後10時
 なんということだ! 朝鮮の婦は自殺などしないと聞かされ、また、私自身もかたくそう思って来たのに。この大部の書類をめぐって最初にこんなことを見るなんて、ばかな、私はいささか面喰い、そして心のうずきを押さえ切れなかった。
 5月16日の夜の高原川。月が川面を照らしていただろうか。彼女に残された子供はいなかっただろうか。何が彼女を死に追いやったんだろう。
 しかし私は限られた時間内で独り感傷にふけってばかりも居られないので、思い巡る心を押さえ込む様にせっせと書類をめくり、朝鮮人の名前を見つけては、メモ用紙に書き取る作業に励んだ。
 私はこの作業を涙なくやり通せなかった。右手にペンを持ち、左手にタオルを持って時にはすぐまわりに居る役場の職員達を意識しながら、額の汗をぬぐうかのように目頭を何度もぬぐう羽目になってしまったのだった。
 時間的制約から残念にも書き取っては来られなかったが、多くの朝鮮人同胞の赤児の死に私は涙せずにはいられなかったのだ。私が書き取って来た成人同胞41名に対し、その書類中に確認した同胞幼児の死亡は実に80の多数であった。この小さな鉱山町神岡にて、1940年から45年の間に朝鮮人の子供達が少なくとも80人死んだのだ。私は1943年生まれだから、それらの子供達はつまり私と同世代の者達である。子供達はほとんどが零歳、若しくは一歳の年月で物心がつき、アボジ、オモニと呼ぶでもなく、チョーセンジンとさげすまれることさえもなく、それはあまりにも生命を育くまれないままの一生である。私は現に生きて同世代の累々たる死を一冊の記録の中に見ているのだ。私は生きているのだ。彼等のように死んでしまったのじゃない。
 「どうぞ」と、若い女子職員がお茶まで持ってきてくれた。私はあわててタオルで顔を包みながら礼を言った。それはなぜか甘い茶でった。砂糖の甘さとは違う甘さだった。どうしてこのお茶は甘いのか聞いてみる余裕はなかったのである。
 生きていればこその被差別の痛みもあれば、甘いお茶の甘みもあるのだ。
 私は初めから終わりまで乱れながら半日がかりの作業を終え、逃げるように町役場を出ると、真っすぐに高原川へ向かった。
 高原橋に立たずんで見下ろすと、流れは前日同様澄んでいた。まるで過去の出来事なぞ素知らぬ風にゆったりと美しく流れていた。
 趙東植   男 溺死 高原橋下流約50間
 金海容熙  男 鉱山坑外運搬夫 変死 溺死
 三井原杓  男 鉱山坑外雑夫  変死 溺死
 亀村点岩千 男 鉱山選鉱雑夫  溺死 高原川
 私は叫びたい衝動でいっぱいだった。
 高原川よ! 真実を語れ、知っているのなら教えてくれ。この人々が自ら君の所へ飛び込んだのか? それとも酒によって足踏みはずしたのか? 君は水。流れ去ってしまったのか。岩達も矢張り黙り込んでしまうのか。ああ! 高原川。

 以下に提出する朝鮮人犠牲者名は1965年8月、神岡町役場に残存した、旧船津町、旧阿曽布村埋火葬認許願綴から書き写したものである。複写機などという文明の利器も出まわっていなかった頃の事で、同胞幼児や、連合軍捕虜までは書き写せなかったのが残念であるが、わずかに知り得ている同胞犠牲者を明らかにして、チョル(礼)に替えたい。
 記載にあたっては、姓名、生年月日、職業、本籍地、現住所、死亡原因、死亡年月日、死亡場所の順にする。
 江本鐘安 1908年9月9日生 鉱山坑内運搬夫 全羅北道錦山郡富利面冠川里 船津町東茂住「変死 墜落死」1945年5月17日午後5時(推定) 富山県上新川郡福沃村長棟字タレゴ割松尾
 金光容錫 1908年7月10日生 鉱山坑外雑夫 全羅北道淳昌郡仁渓面雙岩里 船津町東町「自殺・溺死」1945年6月1日午前6時30分(推定)鹿間

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朝鮮人労働者の証言と麻生発言

2020年01月17日 | 日記

 再び閣僚の重大な問題発言がありました。麻生副総理兼財務大臣が、福岡県直方市で開かれた会合で、「…2000年の長きにわたって一つの国で、一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝、126代の長きにわたって一つの王朝が続いているなんていう国はここしかありませんから。いい国なんだなと。これに勝る証明があったら教えてくれと。ヨーロッパ人の人に言って誰一人反論する人はいません。そんな国は他にない。…」と言ったのです。

 私は、この発言を二つの点で受け入れることができません。
 その一つは、報道でも明らかなように、この発言がアイヌ民族の存在を無視するものであるということです。この発言は、アイヌ民族を「先住民族」と明記し、”アイヌの人々が民族としての誇りを持って生活することができ、及びその誇りが尊重される社会の実現”をめざすとした「アイヌ施策推進法」に反します。
 現在、アイヌ民族が北海道・樺太・千島などに先住し、固有の文化を発展させていたことを否定する人はいないと思います。
 そのアイヌの人たちが先住していた「蝦夷」と呼ばれた地域は、明治政府によって「北海道」と改称され、本格的な開拓が開始されて、大勢の和人(アイヌ以外の日本人)が本州から移り住みました。移り住んだだけではなく、当時の政府がアイヌ語やアイヌの生活習慣を禁止し、アイヌの人たちが伝統的な方法で利用してきた土地を取り上げたり、サケ漁や鹿猟を禁止したりした事実は忘れられてはならないことだと思います。こうした明治政府の同化政策の結果、アイヌの人々は、その後長く貧窮を余儀なくされ、差別され続けることになったのです。

 現在を生きる私たちが、そうした事実を正しく受け止め、継承していこうとすることなく、「…2000年の長きにわたって一つの国で、一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝、126代の長きにわたって一つの王朝が続いているなんていう国はここしかありませんから。いい国なんだなと。…」などと、あたかも現在の日本が「単一民族国家」であるかのように言うことは、事実に反するのみならず、法的にも道義的にも許されないことではないかと思います。

 もう一つは、この発言が明治政府によってつくられた「皇国日本」、すなわち大日本帝国憲法や教育勅語、軍人勅諭等の考え方を受け継ぐものではないかということです。先の大戦で、日本を滅亡の淵に追い込んだ「皇国日本」の”あやまち”を、無かったことにするような考え方ではないかと思うのです。かつて他民族を抑圧し支配した貪欲で差別的だった日本をきちんと認め、反省することなく、ただ長く続いているから”いい国”などと言うことは、私は許されないと思います。また、「皇国日本」では、天皇が「現人神」とされたが故に、様々な不幸の源となったのではないかと思います。そうした天皇家が126代続いていることを日本の誇りにしようとする考え方は、まさに「皇国日本」の考え方であり、日本を特別な国とするものではないかと思います。
 そういう意味では、同様の発言が過去もあったことが看過できません。
 かつて中曽根元総理は、「知的水準」発言で、アメリカから猛烈な反発を受けたとき、その言い訳に日本が「単一民族国家」であると主張したことがありました。それが私が記憶する「単一民族国家」発言の最初です。
 中曽根元総理は、アメリカには黒人や中南米・カリブ海地域などからの移民が多数混在しているため、平均的な知的水準は日本の方が高いと発言し、米下院に中曽根批判決議が提出される事態を招きました。そして、中曽根総理の公式謝罪と発言の撤回を求める激しい動きがあり、アメリカの黒人やヒスパニック系諸団体が、アメリカの有力新聞各紙に全面広告を出したりして、中曽根批判を行ったことがあったのです。
 その謝罪会見の際に、中曽根元総理は、米国は「複合民族国家」なので、教育など手の届かないところもあろうが、日本は「単一民族国家」だから手が届きやすいのだ、というような言い訳をしたのです。それが、今度は日本国内で、北海道ウタリ協会などの反発を招いたのです。
 同じ政党に属し、80歳近くになる麻生副総理兼財務大臣が、大きな問題となったそうした事実を知らないはずはないと、私は思います。だから、私は「皇国日本」復活の意図を感じ、受け入れることができないのです。

 戦前の「皇国日本」は、韓国を併合し、朝鮮人を抑圧し差別しつつ、アイヌに対するのと同じように同化政策を展開しました。
 そうした事実の一端は、下記のような朝鮮人労働者の実態の掘り起しや朝鮮人労働者の証言で明らかだと思います。多くの朝鮮人を強制的に連行し、タコ部屋と呼ばれるようなところに住まわせ、奴隷のように酷使した歴史の事実をきちんと踏まえれば、麻生発言はありえないと思います。

 下記は、「朝鮮人強制連行論文集成」朴慶植・山田昭次監修:梁泰昊編(明石書店)から抜粋しました。
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(長野)
            戦前・戦時下の下伊那における朝鮮人労働者の実態の掘り起し

   はじめに
 戦前から戦時下にかけて、飯田・下伊那地方においても、かなりの数の朝鮮人労働者が鉄道工事やダム工事に従事していた。しかし当時の記録はほとんど残っておらず、また当時労働に携わった人々も老齢を迎え、このままでは、朝鮮人労働者の苛酷な労働の実態はいつしか歴史上から消えてしまう恐れがある。
 当時、日本の男たちが兵士として召集され、また満洲へ「開拓移民」として流出したため、不足した国内労働力を安く補うために、多数の朝鮮人労働者が補填(ホテン)された。これらの朝鮮人労働者の実態を掘りおこすことは、次のような意味をもっている。
 第一に、当時の日本帝国主義の他民族侵略・抑圧・支配の忘れてはならない事実を、身近に再確認できること。もう一つは「在日朝鮮人・韓国人がなぜ多いのか」という、戦後世代の素朴な疑問を解きあかし、在日朝鮮人・韓国人に対する偏見や差別をなくし、両民族の理解と連帯の礎(イシヅエ)にもなると思う。
 以下、このような立場から、私たちが二年ほどとりくんできた聞きとり調査をまとめたささやかな報告である。

   史料による朝鮮人労働者の実態
 戦前、戦時下における長野県下の在留朝鮮人労働者についての史料は、県や特高警察の史料の他はまだほとんどなく、今後民間での史料の掘りおこしが急務である。県や特高警察関係の史料は「長野県史 近代史料編第八巻社会運動・社会政策」に掲載されている。その中の「昭和十年、知事事務引継書」によると、長野県下の在留朝鮮人の人数は次の通りである。
 昭和二年(1927)末   2697人
 昭和五年(1930)末   3873人
 昭和八年(1933)末   4209人
 昭和九年(1934)末   5700人余
 昭和十五年(1940)   8381人
(注)昭和十五年の人数は「長野県史」掲載の「長野県特高警察概況書」による。
 このように年を追って増加している背景には「募集」に応じて自分の意志で渡来した人の他、太平洋戦争の末期には日本国内の労働力補給政策によって「徴用」の名のもとに強制的に日本に連行された人も数多くあった。そして、その多くは炭鉱や鉱山での労働に従事し、県下では水力発電所工事や、鉄道工事など土工が主であった。
 下伊那地方においても、三信鉄道(現在の飯田線)敷設工事や、矢作(ヤハギ)水力発電工事(現在の泰阜ダム、平岡ダム)が行われ、多くの朝鮮人労働者が従事していた。その数は「長野県特高警察概況書」によると次の通りである。
  飯田署管内   321人
  富草署      93人 
  和田署     191人
                                  (以上昭和15年)
また、同書の「昭和7~10年泰早村門島発電所工事争議についての県特高警察調」によると、使用労働者数は「内地人700人、鮮人2、300人、計3000人」とあり、泰阜ダム工事の時には、2000人をこえる朝鮮人労働者が働いていたことがわかる。これは、後出の朴氏の証言「泰阜ダム工事には2000人~3000人の朝鮮人がいた」と一致している。
 当時、朝鮮は日本の植民地下にあり、在日朝鮮人の賃金は低く、苛酷な労働条件のもとでの生活は悲惨なものであった。事故や病気で亡くなった者も数多くいたはずである。県や特高関係の史料では、それらの実情については明らかでない。そこで私たちはさまざまなつながりをたよって、在日朝鮮人・韓国人の方々や日本人で当時ともに働いた方などから聞きとり調査をすることにした。

  朴斗権(パク・トゥグォン)氏からの聞きとり調査(1968年1月)
在日朝鮮人・韓国人で当時の様子を知っている人はいないかと調べていくうちに、平岡に長く在住していた朴斗権氏の名前が出てきた。ところが、朴氏は現在は平岡を離れ、松本市郊外に移り住んでいた。
 朴氏は1910年生まれ、現在75歳。50年以上も平岡に在住していた。朴氏は快く、若い時からの苦労のようすを淡々と語ってくれた。
 朴斗権氏は「日韓併合」が強行された1910年、朝鮮慶尚北道慶山郡の農家の末っ子として生まれた。父は1歳半の時に亡くなった。 斗権が20歳のころ、朝鮮の耕地の七割がたは「土地調査令」によって、日本人のものとなっていた。昔、朝鮮では「一年豊作になれば、二年は何もしなくてもよい」といわれるほど豊かだったが、日本の植民地になってからは、税金もはらえなくなった人々が多くいた。
 家が貧しく、学校へ行くこともできなかった斗権は、20歳の時に先に来ていた兄を頼って日本へ渡った。栃木県─茨城県─三河川合へ来て、三信鉄道(現在の飯田線)の工事に従事した。
 三河川合には、当時600~700人の朝鮮人労働者がおり、一日につきⅠ円50銭の日当だったが、三ヶ月も賃金をくれなかった。8月にストライキが起きて、斗権も警察に検束され、岡崎へ連行されて拷問を受けた。敷居の上に正座させられ、膝の裏に竹の棒を入れさせられたり、手の指の股に棒を挟ませて、指を絞めつけられた。結局、賃金は一割引きで支給された。当時、日当が1円50銭で、飯代は70銭であった。雨の日は収入がないので借金がふえていく仕組みだった。
 昭和8年(1933)泰阜の門島発電所工事へ来た。門島には、2000~3000人の朝鮮人がいた。日本人は主に世話役や監督で、工夫として働いている者は一割もいなかった。労働組合もあり、地下にもぐって活動している人もいて、夜に日本語の学習会もあって、若い人で勉強している人たちもいたが、疲れてしまって出ることはできなかった。眠ったと思えば朝、そんな毎日だった。
 朝鮮人のほとんどは、ボス(日本人)によって強制的に連れて来られた人たちだった。ボスは朝鮮に行き、警察に頼んで人を集める。朝鮮の警察や役場は、協力しなければならないようになっていた。
門島では一日、2円80銭の日当、80銭の飯代で酒を飲むこともできなかった。しかし、朝鮮におれば日当はもっと安かった。当時、日本人の日当は工夫で7~10円、世話役で15円ぐらいであった。朝鮮人は三分の一の賃金しかもらえなくとも、仕事は倍もしなければならなかった。
 昭和10年に平岡に移った。道造りや鉄くず買いをしているうちに昭和14年(1939)からダムの段取り工事が始まった。仕事はモッコかつぎとトロッコ。トロッコではなかされたものだった。朝四時半起床。朝食のあと六時前に出かけて、徹夜組と交代する。昼夜二交代制で夕方は六時まで働く。昼も夜も、人でいっぱいであった。夜も飯場から自由に外出できない。日本人の見張りが一晩中いた。食物は米二合配給。一日に一升三合くらい食べなくては力がでないのに、二合きりでは腹がへって仕事ができない。千切りの大根の入っているみそ汁も半分は塩の味がした。漬物(ナンバ)や、時にはマスがついたこともあった。他に欲しければ自分の金で買う。卵や酒を買えば赤字になって、朝鮮への仕送りができなくなってしまう。
 死んだ朝鮮人も多くいた。病気の人もいたが、多くはけがで死んだ。トロッコから落ちるとか、トンネル工事をきりっぱなし(木の防禦枠)をしないで作業をやったりして。死者をかついでいくのは何十回、何百回も見た。温田(ヌクタ)のトロッコの作業中、スコップの柄があたって死んだのを直接見たことがある。死ぬと親方によっては、酒代として15~20円くれたが、知らんふりしている親方もいた。死体は自分たちで焼いたが、木がなくて一人焼くにもえらかった。遺骨は飯場頭がいい人ならばお寺へ納骨されたが、なかなかそんな余裕はなかった。死んだ人の家族に知らせてやりたくとも、住所や名前のはっきりわからない人が多くいた。(逃げてきた人が多いから、わからない)中国人捕虜の三倍も死んだと思う。全体の人数もニ倍以上多かったし、期間も長かったから。
 逃げ出す者もあとを絶たなかった。逃げ出してつかまると警察に連行され、一週間くらい置かれて、親方から制裁を受けた。
 平岡には昭和17年(1942)に、アメリカ、イギリスなど連合国の捕虜が、続いて昭和19年(1944)には中国人の捕虜が送りこまれてきた。中国人の捕虜が一番苦労していた。連合国軍の捕虜は、今の天竜中学のグランドにあった建物に収容され、窓にはガラスが入っていた。中国人・朝鮮人はうすい板をはりつけただけの建物だった。食物を与えずに仕事をやれ、といったって無理だ。焼いたパンみたいな物を三コ、おかずは生のニンニクだけだった。これで力が出る訳がない。
 世話役たちがステッキみたいな棒を持っていて、たたいたりしていばってしようがない者もいた。捕虜たちはなかなかいうことをきかなかった。冬、川ばたに線路をひくのに、玉石を片づけるのを素手でやっていた。玉石は持つと水より冷たい。一つやっては手をこすっていた。死者が出た時は毎日死んだ。全部で八十数人死んだそうだ。中国人は袋にするような(麻袋か?)荒い目で風がみな通ってしまうようのものを着ていた人もいた。
 終戦。「戦争に負けたので、日本人はヤケクソになっているから気をつけるように」「仇を返すようなことをすると、いつまでもあとが切れない。一般国民には罪はない。警察や官庁の者がいばったら知らせてほしい」という連絡が連盟から来たように思う。だから平岡には暴動のようなことはなかった。
 その後、兄家族は朝鮮へ帰ったが、斗権は帰らなかった。先に帰った兄たちからも「帰ってこい」とはいってこなかったし、今から思うと帰らなくてよかったと思う。

 

 

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朝鮮人徴用工の証言 タコ部屋での労働と生活

2020年01月07日 | 国際・政治

 私は、最近の日韓関係の悪化は、日本側に責任があるのではないかと思います。日本政府は、韓国最高裁判決の”国際法違反”をくり返し、韓国側に責任があるように言っていますが、徴用工問題に関する日本政府の見解にはおかしなところがあると思からです。日本側の見解は、概ね下記のようなものではないかと思います。

 二次世界大戦中、韓国人労働者は、国民総動員下で日本に渡航・就労し“徴用工”といわた。戦後、その徴用工が受け取っていなかった賃金などの支払いを求め訴訟を起こしたが、日韓の裁判所はどちらも、「問題は国交正常化の際の日韓請求権並びに経済協力協定で終わっている」とし、個人の補償要求は認めなかった。ところが今回、韓国の最高裁が「個人の日本企業への補償請求権はある」として補償裁判のやり直しを命じた。それは、国際法的には解決している問題を、国内裁判で覆したもので、国際法違反である。

 しかしながら、個人の補償請求権について、日本政府はかつて、”両国間の請求権の問題は最終的かつ完全に解決した”けれど、”いわゆる個人の財産・請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたものではない”と主張していました。
 そうした見解に至るきっかけは、サンフランシスコ平和条約に”連合国及びその国民に対する日本国及びその国民のすべての請求権を放棄し…”という条項があるため、広島の原爆被爆者が日本国に対して補償請求の訴訟を起こしたり、シベリア抑留被害者が日本政府に補償を要求したからです。その時、日本政府が放棄したのは、”外交保護権”であって、個人の請求権は放棄していないから、日本政府は補償することはないということだったのです。”外交保護権”に関する日本政府の主張は、その時その時の事情によって変わっているといえるのではないかと思います。

 また、そうした法律的な問題以前に、日本政府の徴用工問題や日本軍”慰安婦”問題に関する姿勢そのものに、私は誠意が感じられません。きちんとした調査や関係者の聞き取りをしたわけでもないのに、安倍首相はかつて、日本軍”慰安婦”の問題に関し、”狭義の強制性を証明する証言やそれを裏付けるものはなかった”というような発言をし、日本側の強制性を否定しています。朝鮮人徴用工の問題に関しても同様に、徴用はあったが、”強制連行や強制労働の記録はない”というようなことを言って、政治家同士では謝罪めいたことを言っても、直接被害者に謝罪しようとはしません。歴史家や研究者が資料を基に明らかにした事実、また、被害者の証言などによって明らかになった事実を無視していると思います。安倍首相は、被害者の手記や証言集、今回抜粋した”聞き書き” などもほとんど読んではいないのだろうと思います。そうした被害者の証言をあたかも虚偽であるかのように扱い、被害者に直接向き合うことをしない話し合いでは、両国政治家同士の相互の利益を考慮して政治決着がはかれても、根本的な解決にはならず、したがって、日韓の真の友好関係は築けないだろうと思います。

 現在は強制労働は法律で禁止されています。日本の労働基準法5条には
使用者は、暴行、脅迫、監禁その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段によって、労働者の意思に反して労働を強制してはならない。
とあります。
 また、労働基準法第17条には、
使用者は、前借金その他労働することを条件とする前貸の債権と賃金を相殺してはならない。
とあります。
 こうした法律は、戦後、国際労働機関(ILO)が提案し、1930年に採択された『強制労働ニ関スル条約(第29号)』(1932年に日本も批准しています)に基づくものであると思います。
 この条約の第一条は、
”1 本条約ヲ批准スル国際労働機関ノ各締盟国ハ能フ限リ最短キ期間内ニ一切ノ形式ニ於ケル強制労働ノ使用ヲ廃止スルコトヲ約ス
 とあり、また、第二条には、
”1 本条約ニ於テ「強制労働」ト称スルハ或者ガ処罰ノ脅威ノ下ニ強要セラレ且右ノ者ガ自ラ任意ニ申出デタルニ非ザル一切ノ労務ヲ謂フ
とあります。

 朝鮮人徴用工の問題が、こうした国際労働機関(ILO)が提案した『強制労働ニ関スル条約(第29号)』の精神に全く反するものであったことは、下記のような証言で明らかだと思います。単なる賃金”未払い”の問題ではなく、奴隷労働ともいえる”強制労働”の問題です。
 だから、きちんと被害者に向きあい、謝罪と補償をすることなく、日本の韓国に対する経済協力によって、”完全かつ最終的な解決” などできるわけはないと思います。

 誠意をもって対応し、関係改善をすべきだと思います。

 下記は、「朝鮮人強制連行論文集成」朴慶植・山田昭次監修:梁泰昊編(明石書店)から、「いまも忘れぬタコ部屋での労働と生活」(聞き取り:平林久枝)と題された文章の、「飯場の一日」を中心に抜粋しました。
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                         三 聞き書き(地域別)
(北海道)
           いまも忘れぬタコ部屋での労働と生活
  はじめに
 ・・・
李さんは現在54歳になり、タコ部屋生活のときからすでに38年の歳月が経っているのであるが、現在でもまだ当時の恐ろしかった生活が夢に現れて、苦痛にゆがんだ同胞の顔や人間の声とも思えぬような暗いうめき声におびやかされるという。わたしはタコ部屋についてはほとんど何もしらなかった。李さんはわたしの幼稚な質問にもていねいに答えてくれた。以下は李さんの語ったところをまとめたものである。

  故郷のこと
 私の故郷は全羅南道 和順郡 清豊面 車里である。車里は道庁所在地の光州を南下して宝域市と結ぶ鉄道のだいたい中間地点で山の中の村だった。村の戸数は400戸ぐらいで村民は水田と畑をやっていたが、どこの家も貧しくて、米をたべている家は少なかった。
 ・・・
しかし家に帰っても仕事がなかったから、またすぐ京城に出てきた。京城の街角にはあちらこちらに「産業戦士募集」という大きな看板がたっていて人目をひいていた。そこでわたしもその看板につられて、指示されている職業紹介所へ行ってみた。わたしのような若者が二日間で93人集まった。ほとんどがニ十歳前後だった。
 ・・・

 帯広の飯場
 帯広は飛行場の街だった。航空隊の宿舎があり、飛行機を守っていた。ほかに陸軍もいた。「熊」部隊といっていたような気がする。わたしたちのつれていかれた飯場はその近くにあった。1棟百人くらいが入る飯場のバラックが5棟あった。わたしたちがついたとき、すでに働かされていたものがある。飯場は大倉組のものだった。
 ついた日、反抗的なものや、ちょっとなまいきなやつだとにらまれたものは組のものに徹底的になぐられた。「やきをいれる」といわれた。それは二度と反抗する気を起させないようにするための見せしめ的なものだった。はじめてこんな情景をみたものは、一様におそろしいところにつれこまれてしまったことを知って畏縮した。そのあとで、ここからは絶対に逃げ出せない。いまは戦争中だから、この戦争に勝つためには、どんな苦労にも耐えて目標の作業を必ずやりとげなければならぬというお説教をされた。それから、自分の名前はなくなってしまった。その日から名前のかわりにわたしは「13番」と呼ばれた。くにから持ってきた本や金銭はとりあげられてしまった。
 わたしはここにきてはじめておそろしい「タコ部屋」の存在を知った。(古川善盛氏によるとタコ部屋とは、北海道および樺太─現在のサハリンに特徴的な、監獄部屋とも呼ばれた土工部屋のことである。北海道鉄道敷設法施行(1869)や拓殖計画の実施<1901>により、北海道の土木工事とそれに伴う土工夫の需要は、1900年代から急速に拡大されていったが、遠い「エゾの奥地」の土工夫確保は容易ではなく、あいだに周旋屋が介在、活動し、その結果前借金でしばりつける飯場、タコ部屋制度がうまれた。

  タコ部屋の組織
 わたしのいた大倉組の「タコ部屋」の組織はこんなものだった。(図略、但し分団長とタコの部分には横にも数列:組長─分団長─週番─棒頭─飯台主─タコ)
 この組織はあとでつれて行かれた三菱の美唄炭鉱でもだいたいおなじようだった。分団長が大倉組の下請けでタコ部屋をつくるのである。…
 週番は棒頭の中から成績のよいものがえらばれてなる。…
 棒頭は十人いた。現場で指揮をとったり監視したりするタコの見張り役である。タコは棒頭のことを幹部さんと呼んでいた。朝鮮人が一人いて通訳をかねていた。

  飯場の一日
 帯広の大倉組の飯場の現場は飛行機の滑走路をふやし飛行場を拡張することだった。わたしたちは、その工事を早く仕上げるための応援隊だった。私たちの仕事は滑走路を雪が降る前にニ面つくることだった。
 飯場の一日は、すべてが命令、号令の指揮ですすめられた。命令、号令は週番がかける。
 「起床」朝四時すぎると大声の号令で起こされる。夏でもまだうす明るいだけである。すぐ起きて、ふとんをたたみ、歯をみがき顔を洗う。まごまごしていると怒鳴られる。起きてから十分ぐらいでやってしまう。
 「めし」の号令で土間に並んだ細長い木のテーブルの前に並ぶ。「めし」は木の弁当箱に、米、ジャガイモ、キントキ豆(大豆の一種)の混じった御飯が一合五勺弱と生みそが少々、それにみそ汁。といっても、汁の実(ミ)はなくてお椀になまみそをといたお湯が一杯。昼飯も同様の弁当箱と他に水が一合つくだけで汁はなし。夕飯は朝飯と同じ。一年中この「めし」に変わりはない。「めし」の量が少なくて質の悪いことはいうまでもないが、それ以上にみんなが苦しめられたのは、水が自由に飲めないことだった。水は朝、昼、夜茶碗に一杯(約一合)きりくれなかった。飯場には井戸がなくて遠くの川から汲みあげてくる貴重品だったのだ。朝飯がすむと土間に向かって、タタミのふちに腰をかけて、夜があけるのを待った。
 「出発」の号令で全員宿舎の外に出る。現場で使う道具などを持って整列する。点呼をとってから現場に向かう。
 飯場から現場まで約2キロメートルある。その間往復には軍歌をうたわされた。「勝ってくるぞと勇ましく」が多かった。歌わなかったり、声が小さく元気がないと「元気を出せ」となぐられた。朝の往き道はまあ歌えたが、帰りにはくたびれて声も渇れてしまったので、なぐられる者が多かった。
 滑走路をつくる仕事といっても、当時は現在のような大型の土木機械は何もなく、ほとんどが人夫の腕の力一つに頼られていた。道具といってはスコップと掘った泥土を運ぶ車だけだった。
 作業はまず土を掘ることである。滑走路にする場所をまず六尺(二メートル)掘る。そこへ一番下に隈笹を敷く。次に砂を八分目入れてからバラスをまいて、その上にコンクリートを打つのである。
 仕事は毎日ちがう相手と二人ずつに組まされて、ばらばらに散らばると勝手に各組が好きな場所(滑走路予定地)を掘った。そしてその堀った土を泥車に積みこんで一キロメートルほど離れた場所に捨てに行くのである。この泥運搬車の大きさはタタミ一畳分くらいである。土を掘ってそれに積む。まずタタミ三畳の広さを二尺の深さに掘って、それによってでた土を車に積めるだけ積んで運ぶのだからものすごく重い。車に入れる土の量が少ないと「盛がわるいぞ」と打たれた。また土を運ぶときは往復かけ足でなければならない。掘った土を運び終わるとまた三畳分を二尺の深さに掘る。これのくり返しである。運搬する道筋のところどころに、むちを持った棒頭が見張っていて、のろのろしていれば「それ走れ、それ走れ」と、持っているむちや棒で、タコの背中や腰をどやしつけた。棒頭も走っていて追いまくる。牛馬よりひどい扱いである。二人で土を掘り、積んで走り、土をあけては走った。これを一日最低60回やらされた。見張りはむちを持って追いまわす棒頭のほかに高い櫓を組んでその上から見張っているのもいた。ここからは現場の全体が見渡せたから、脱走や事故にそなえた。そのほかにもいつも軍隊が見回っていて、何か起こると鎮圧にのり出してきた。しかし毎日異なる相手と組んであとはバラバラで追いたてられていたから、何か相談したり、暴動を起こすことなどはまったくできなかった。
 仕事のつらさに、指が使えなければ休めるだろうと、自分の指を泥運搬車の下においてひきつぶしてしまった者がいたが、そんな事ぐらいで仕事は休めなかった。けがや事故はたるんでいるからだと打たれた。またスピードの出たはずみで泥車の車輪がはずれて積んだ泥をぶちまけてしまったりすると、死ぬほどむちでたたかれた。
 「昼飯」の号令がかかる。昼飯は十二時から三十分間である。朝の弁当と同じものに一合の水。この水が一合きりというのが実につらかった。汗をかき、息がきれるからどうしても水が飲みたかった。もちろん腹もすいたが、それ以上に水が飲みたくて、めしと水をとりかえる者さえいた。水は反場から四斗樽を二人でかついで川に降りて運んでくるのだから貴重品なのである。昼飯のほかに三時に、立ったままたばこを一服吸うだけの休みが一回あった。それは文字通り一服の時間、五分もなかった。
 タコはいつも空腹だったから、口に入れるものがあれば何でも食べた。現場に生えているタンポポの白い根、からすの実と呼んでいた草の実など、これは毒があるといわれたがみんなかまわず食べた。玉ねぎの皮などが落ちていれば争って拾った。棒頭にみつかるとまたなぐられた。こうした粗食と重労働、体罰のくり返しでみんなたちまちのうちにやせこけてしまった。ニ十歳前後の若者が骸骨のようで、骨の上に皮をはりつけただけになり、目もくぼんで老人のようなしわが顔中にでき、息をふきかけただけでも倒れてしまいそうに衰弱していった。
 仕事場での服装は往復着ていた服はぬいでしまい、ふんどし一つにわらじばきである。わたしは後になって写真でみたのだが、ナチスの収容所で虐殺される寸前のユダヤ人と当時のわたしたちがそっくりだと思った。みないつも心の奥に脱走への願望をかくしていた。作業をしているところからずっと遠くに雪をかぶった十勝岳がみえた。その雪の山をみると、あの山の下にはきっと冷たい水が流れているだろう。あの山の下に行けば水が腹一杯飲めるだろうと水を飲みたい一心で脱走するものがいた。しかしみんな失敗した。原野でかくれるところがないからだ。脱走者が出ると櫓の上で見張っている棒頭が「飛びっちょうだあ」と大声でわめく。すると軍用犬(大きなセパード)や自動車に乗ったもの、馬に乗ったものなどがどこまでもどこまでも追って行ってつかまえるのである。たいてい一キロメートルも逃げないうちにつかまってしまった。脱走者がつかまってくると、その場ですごいリンチをうけた。また夜飯場にもどってから連帯責任だといって他のみんながなぐられたが、だれもうらみごとなどいわなかった。
 わたしも水が飲みたい一心で脱走して失敗した。朝飯をたべて現場へ行く途中でやった。現場では櫓の見張りにみつかってしまうと思ったから。帯広についてから一ヶ月くらい経った六月の中ごろだった。少し暑くなっていた。故郷の近い6番と38番がいっしょに脱走した。十勝岳をめざして夢中で走ったが四、五百メートルさえ逃げないうちにつかまってしまった。あと四、五百メートル行けば背の高い草のはえているあたりにもぐりこめたのだが、その手前でつかまってしまった。わたしと38番はつれもどされたが、6番は帰ってこなかった。しかし6番はとても弱っていたのでつかまらないはずはないから、つかまった場所で殺されてしまったのではないかと思う。わたしたちも、つかまった場所でまずさんざんなぐられて息もたえだえにさせられたから。それから現場までひきずるようにしてつれてこられ、梁瀬と言う見習士官に刀のさやでなぐられた。よろよろしながら、それでも仕事をさせられ、夜飯場に帰ってきてからまた食卓のそばの土間に引きずりだされて帯剣バンドでめちゃくちゃになぐられた。まず帯剣バンドで背中の皮が割けて背中じゅうが血だらけになるまでなぐられる。すると、体を裏返しにして胸や腹をやられる。そのうちに口から血が流れ、次に肛門からも血がしたたる。咳をすると耳や鼻からもかたまった血が飛び散った。意識不明になると水を頭からざぶざぶかけられた。最初は痛くても、やがて感覚がなくなって痛みもその当座は大して感じなくなってしまう。しかし、寝床へつれもどされると、ひと晩中痛みで眠れなかった。うめき声をころして一夜明けると次の日は同じように作業に行かされた。動けなくても引きずりだされて現場まで何としてでも連れ出される。他のたとえば病人などでも、決して飯場に休ませて寝かしておくということはしなかった。どんな場合でも現場まで引っ張り出され、病人などは現場にすわって作業をみていなければならなかった。寒い日には、そのことは働く以上につらいことにもなった。
 仕事の終了時間は六時ときめられていたが、暗くなるまでやらされた。みな運搬を60回から62回はやっていた。帰りは道具を持ち軍歌を歌いながら帰った。どんなにつかれていても声をふりしぼって歌った。歌わないとなぐられたから。
 七時頃飯場にもどると、晩の食事である。朝飯とまったく同じものを食べる。
 「入浴用意」風呂場の湯舟は四畳半ぐらいあった。五人ずつ並んで、「入れ」「交代」の号令がかかる。号令に従って、手拭いを以て湯につかる。入る順番があとになれば、まっくろいどろどろの湯になってしまう。上がり湯などない。その湯で顔をひとなでして首筋でもこすればもう交代である。そのきたない湯さえ飲むものがいる。しかしみつかれば又なぐられた。どろと汗とでしょっぱい湯。出てみれば体にどろの縞がついていることもある。わらじが足の指のまたに食いこんで、ただれて血を流すものもいた。でも薬などない。ふろから出ると順番に便所に行く、風呂に入るのも順番で、棒頭などが入ったあとに、タコが順番に。今日は一斑が早く、明日は二班が早くというように入った。
 「寝具の用意」八時になると寝る仕度をする号令がかかる。土間をはさんで両側に長く続いたタタミの上にふとんを敷いて寝る仕度をする。自分の衣類をまるめて枕にする。飯場で使っていたふとんは帯広の町から軍隊が没収してきたものだったから、最初のうちはきれいだったが、たちまちのうちにぼろぼろになってしまった。寝る仕度がすむと、ふとんの上にあぐらをかいて二列に並んで坐る。
「点呼」の号令がかかる。はじから「一、二、三、四、…」と番号をいってゆくが、日本語になれない者がもたついていえなかったりするとまたなぐられる。隣のものがそっと教えてやる。それがわかればまたどなられる。それから説教がある。きょうは能率が悪かったとか、戦争を続けるために一日でも早く滑走路の完成を急がなければならぬとか、脱走などがあったときには、そのことについて延々と聞かされた。
「就寝」で床に入る。たいていのものは昼間の疲れで何を考える間もなく眠ってしまう。それでも中に何人かがひそひそと隣同士でしゃべっているのがきこえれば「雑談するな」とどなられる。話し声はしなくなる。しかし声を殺したすすり泣きやうめき声がどこからともなく起こる。元気なさかりのはずの若者が百人もいるというのにすこやかな眠りはない。みんな故郷のことを考えると、それからそれへといろんな事が考えられて悲しさがこみあげてくるのだ。わたしはまず国のお母さんのことを思った。思ったというより自然にこころに浮かんでくるのだ。お母さんの顔が。それから国をうらんだ。何でこんなことになってしまったんだ。日本を憎むより自分の国をうらむ気持ちがつよかった。犬の遠吠えのように気味の悪いひくいうめき声が「アイゴー、アイゴー」ときこえてくる。それはだれかが怖ろしい夢の中でうなされている声なのか、考えごとをしながら思わずもらしたさめているものの声なのかわからなかった。しかし、そのたまらなくいやな声は今でも耳の底にくっついて離れない。こんなことが毎晩だった。
 帯広の仕事は約五ヶ月かかって終わった。その間休みは一日もなかった。報酬ももらわなかった。一銭ももらわなかった。送金したといわれたが、返事もこなかったし、結局、故郷にも送金しなかったと思う。滑走路作業が終わったとき、みんなを集めて週番が話した。
「おまえたちをこれからとてもいいところへ連れて行く。北海道は寒いが、あったかいところだ」あったかいというのは炭鉱の坑内のことだった。帯広駅からまた監視つきで汽車にのった。たいした所持品もなく体一つで移動した。一緒に出発したのは60人ぐらいだった。引率して行ったのは高橋五郎という名前だったが朝鮮人である。

  三菱美唄炭鉱 (以下略)  

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日本軍の私的制裁の種類や理由

2019年12月28日 | 国際・政治

 明治維新を成し遂げた薩摩・長州(薩長)が、自らに都合よく解釈した歴史観は、「薩長史観」と呼ばれます。そして、それは薩長が勝者として歴史を創作しているという批判的意味で使われているように思いますが、大事なことは、明治以来の日本の歴史教育は、概ねこの薩長史観に基づいて行われてきたという事実ではないかと思います。

 戦後の歴史教育も戦前と変わらず、「薩長=官軍=開明派」「旧幕府=賊軍=守旧派」という単純な図式で色分けされ、開明的な薩長だからこそ、新しい日本をつくりあげることができた、というように描かれていると思います。
 でも、もともと尊王攘夷をかかげて幕府を倒した薩長が、その後一転、領土拡張(大陸侵略)政策をとったこと、神話に基づく天皇支配の正当性を国民に押し付け皇国日本をつくって、天皇の軍隊である日本軍兵士に降伏を許さなかったこと、したがって、捕虜となることも許さなかったことなどは、日本にとってきわめて重大な過ちだったのではないかと思います。
 先の大戦で、日本軍が多数の中国人捕虜を虐殺したり、情報を得るために一般住民まで拷問したりしたということは、そこに源泉があるように思うのです。

日本軍閥の祖」といわれる山縣有朋は、日清戦争当時、すでに、
敵国側の俘虜の扱いは極めて残忍の性を有す。決して敵の生擒(セイキン)する所となる可からず。寧ろ潔く一死を遂げ、以て日本男児の気象を示し、日本男児の名誉を全うせよ
と、後の「戦陣訓」を先取りしたようなことを言っています。

 その戦陣訓には、「第三 軍紀」に
皇軍軍紀の神髄は、畏(カシコク)くも大元帥陛下に対し奉る絶対随順の崇高なる精神に存す。
 上下斉(ヒト)しく統帥の尊厳なる所以を感銘し、上は大権の承行を謹厳にし、下は謹んで服従の至誠を致すべし。尽忠の赤誠相結び、脈絡一貫、全軍一令の下に寸毫紊るるなきは、是戦捷必須の要件にして、又実に治安確保の要道たり。特に戦陣は、服従の精神実践の極地を発揮すき處とす。死生困苦の間に處し、命令一下欣然として死地に投じ、黙々として獻身服行の実を挙ぐるもの、実に我が軍人精神の精華なり
とあり、「第八 名を惜しむ」に、あの有名な
恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈愈(イヨイヨ)奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ
という一節があります。

 また、何度も取り上げていますが、1882年(明治15年)に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜したという「軍人勅諭」は、徳目として「忠節」、「礼儀」、「武勇」、「信義」、「質素」の五つをあげ、その「忠節」に関して、下記のように記しています。
一 軍人は忠節を盡すを本分とすへし凡(オヨソ)生を我國に稟(ウ)くるもの誰かは國に報ゆるの心なかるへき况(マ)して軍人たらん者は此心の固(カタ)からては物の用に立ち得へしとも思はれす軍人にして報國の心堅固(ケンコ)ならさるは如何程(イカホド)技藝に熟し學術に長するも猶偶人(グウジン)にひとしかるへし其隊伍も整ひ節制も正くとも忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合の衆に同(オナジ)かるへし抑(ソモソモ)國家を保護し國權を維持するは兵力に在れは兵力の消長(セウチョウ)は是國運の盛衰なることを辨(ワキマ)へ世論(セイロン)に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽(サンガク)よりも重く死は鴻毛(コウモウ)よりも輕しと覺悟せよ其操(ミサヲ)を破りて不覺を取り汚名を受くるなかれ

 日本軍の大部分の兵士は、こうした考え方によって、自らの行動はもちろん、自らの生死さえ自ら決めることができない異常な精神状態に追い込まれていたということではないかと思います。
 だから日本軍は、厳正さを維持するために、軍規を犯した者を厳罰に処するしかなかっのではないでしょうか。

 日本の陸海軍は、1929年にジュネーヴで締結された「俘虜の待遇に関する条約」、いわゆるジュネーヴ条約の批准に反対しました。吉田裕教授によると、海軍は、
本条約の俘虜に関する処罰の規定は帝国軍人以上に俘虜を優遇しあるを以て海軍懲罰令、海軍刑法、海軍軍法会議法、海軍監獄令等諸法規の改正を要することとなるも右は軍紀維持を目的とする各法規の主旨に徴し不可なり”(「極東国際軍事裁判速記録」第261号
という理由をあげたといいます。軍紀維持のために、ジュネーヴ条約の批准は受け入れられないというわけです。だから、日本の軍隊は、軍紀が厳しくなければもたない軍隊だったということではないかと思います。それが、日本軍の内務班で広く行われたという私的制裁とも深く関わっていたのではないでしょうか。

 俘虜の処遇や俘虜の考え方に、日本軍の人命軽視、人権無視の体質が象徴的にあらわれているように思うのですが、それが、下記に抜粋したような日本軍の私的制裁とも深くつながっていたのだろうと、私は思うのです。

 先日、日本大学アメリカンフットボール部反則タックル問題で警視庁に告訴された監督とコーチが、選手への指示が認められなかったとして「嫌疑不十分」により不起訴処分となったことが報じられました。反則行為をした選手本人が、以前、会見で深々と頭を下げて謝罪したにもかかわらずです。あの謝罪が偽りであったとは私には思えません。真実はわかりませんが、何か戦前から受け継いでいる悪弊がいまだに残っているような気がしてなりません。いろいろなスポーツの団体や組織で、パワハラや体罰が報道されたびに、そんな気がするのです。

 下記は「日本陸軍 兵営の生活」藤田昌雄(光人社)から抜粋しました。
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④内務班の問題
 内務班での教育は「内務班長」と「二年兵」たちが、新兵である「初年兵」に対して教育を行うことになっているが、実際の場合は洗濯や装具手入れなどをはじめとして「二年兵」の身辺の世話を「初年兵」が行うことになるため、「初年兵」自身の自己の時間が欠如することから、結果として自己の被服の洗濯ができなかったり、毎日の入浴が不可能なケースも多く、また「教育」や「学科」の名称での理不尽な私的制裁も多々行われた。
 このほかにも内務班内で物品を紛失した時に、物品の定数を合わせるために他の内務班より盗んできて定数を合わせる、いわゆる「員数合わせ」が一般的に兵営内で行われていた。

⑤私的制裁
 陸軍では私的制裁は禁止されていたが、多くの内務班で教育・指導の名目で初年兵は二年兵より公然と私的制裁を受けるケースがほとんどであった。
 私的制裁の種類には「ビンタ」「花魁(オイラン)」「魚の絵」「チャンチュー」「安全装置」「自転車」「せみ」「鶯の谷渡」「洗矢(アライヤ)見習士官」「三八歩兵銃殿」「カンカン踊り」「最敬礼」「整頓崩し」等があるほか、班全体で「無視」を行うなどの精神的な制裁もあった。
 これらの制裁は各部隊によって大小の差異はあるが、P139表に代表的な私的制裁のスタイルを列記する。(表をもとに、下記に書き出しました)

 私的制裁一覧
〇ビンタ
 一番スタンダードな私的制裁の方法であり、平手で頬を殴るのが一般的であるが、時として拳を用いる「鉄拳制裁」や、エスカレートすると「帯革」や「上靴」を用いるケースもある。
 また、初年兵同士を向かい合わせて、お互いにビンタを行わせる「対抗ビンタ」もあり、二列横隊に並んだ初年兵に対して「前列一歩前へ、回れ右。後列足を開け。奥歯をかみしめろ。前列。前の者を殴れ」等の号令がかけられ、対抗ビンタが行われた。

〇花魁
 内務班の銃架から小銃を1~2挺外した個所を遊郭の飾り窓と見立てて、罰を受ける初年兵が遊女役となり、廊下を通る二年兵を客と見立てて「兵隊さん、寄ってらっしゃい」等と声をかけさせる制裁

〇魚の絵
 枕覆(枕カバー)が汚れている場合に、汚れを落とす洗濯と、魚が水をもとめることをかけて枕覆にチョークで魚(金魚)の絵が描かれることがあり、落とすのに苦労するほか、この枕覆を頭部に被ったり胸に懸けたりして他の内務班に挨拶に行かされる場合もある。

〇チャンチュー
 右手の人差指で鼻の頭をはじく制裁であり、一気に飲むと鼻にくるアルコール度数が高い「チャンチュー」と呼ばれている「支那酒」に由来している。

〇安全装置
 小銃の安全装置を動かす要領で、安全装置に見立てた相手の鼻の頭に右手の掌を強く押しつけて左右に動かす制裁。

〇自転車
 並べた机の間に腕で身体を支えて、自転車をこぐ動作をさせる制裁であり、二年兵からは「上り坂」「下り坂」等の注文が付けられ、自転車をこぐ速度が指示される。
 時として片手での敬礼や、手放し運転等の理不尽な注文をつけられることもある。

〇蝉
 初年兵を蝉に見立てて、内務班の柱に登らせて「ミーン、ミーン」等と蝉の鳴き声を出させる制裁。

〇鶯の谷渡り
 並べた寝台の下を初年兵に潜らせて、最後の寝台から顔を出させて「ホーホケキョ」と鶯の鳴き声を出させる制裁

〇洗矢見習士官
 小銃手入れ用の「洗矢」を軍服上着の剣釣に引っ掛けて、帯剣した見習士官の真似をさせて、各内務班を練り歩かせる制裁

〇三八式歩兵銃殿
 小銃の手入れが不十分な場合に行われる制裁であり、小銃に対して詫びを入れさせながら長時間にわたり捧銃(ササゲツツ)を行なわせる。

〇カンカン踊り
 炊事場で行われる制裁であり、返納した食器類が汚い場合に飯櫃(メシビツ)や汁桶を頭に被らせてカンカン踊りを行わせる。

〇最敬礼
 同じく炊事場で行われる制裁であり、返納した食器類が汚い場合に、調理のために切り落とした魚の頭などに最敬礼を行わせる。

〇整頓崩し
 内務班の初年兵の装具類の整理・整頓が悪い場合に、積んである被服・装備類を崩して内務班中にまき散らす制裁
 その惨状から「台風」「台風通過」等とよばれる場合もある。

 

 私的制裁の原因の多くは「二年兵が初年兵に対して義憤を感じて行なう」ケースが多く、このほかに「自分が過去に加えられたため」「二年兵ぶって行う」「叱責を受けた場合」「進級に遅れたため」「他人の制裁に同調する場合」等がある。
 私的制裁の行われやすい時間は、「夕食後等、班長が自室に戻った後」「日夕点呼後」「消灯後」が多く、行われやすい場所は「内務班」を筆頭に「倉庫の裏」「洗濯場」「物干」「炊事場」「中隊の自習室や空室」「教練実施中」等であり、多くの内務班では「私的制裁」を「学科」等の呼称で呼んでいた。
 これら私的制裁の原因と詳しい内容をまとめると右表のようになる。(表をもとに、下記に書き出しました)

私的制裁原因一覧
二年兵が初年兵に対して義憤を感じて行なう
〇初年兵が二年兵に礼儀を失した場合   ・敬礼を忘れる     
                    ・物の言い方が乱暴な場合                           
                    ・態度が不遜な場合
                    ・二年兵の注意を聴かない場合


〇初年兵が自己の任務を完全に遂行しない ・怠慢に失する場合
 場合                 ・横暴な場合           
                    ・上官の注意を守らない場合               
                    ・内務の実行が不確実な場合
                    ・武器・被服・装具の手入れが不十分な場合                   
                    ・諸規定の実施が不確実な場合


〇自分が過去に加えられたため      ・自分が初年兵の時に制裁を受けたために、自分やらなければ損であるという考えから私的制裁を行うケース


〇二年兵ぶって行う           ・ただ単に二年兵ぶって、漫然と初年兵に私的制裁を加えるケース


〇叱責を受けた場合           ・上官より叱責された場合に、腹立ちまぎれに初年兵に当たり散らすケース
                    ・上官より叱責された原因を、初年兵のために怒られたと曲解して私的制裁を加えるケース


〇進級に遅れたため           ・進級に遅れた私憤を初年兵に持っていくケース


〇他人の制裁に同調する場合       ・他人の制裁を見て、自分も参加するケース
          

コメント

日本軍の「私刑」と「殺人教育」

2019年12月24日 | 国際・政治

 皇軍といわれた日本の軍隊は、いろいろな面で特異な軍隊でした。でも、今はその特異性が忘れられつつあるように思います。だから、今回は「天皇の軍隊」本多勝一・長沼節夫(朝日文庫)から、日本軍の内部で広く組織的に行われた「私刑」すなわち私的制裁(リンチ)と「殺人教育」についての部分を抜粋しました。日本軍の人権無視や人命軽視の体質は、日本の戦争や皇国日本の実態を考える上で、無視されてはならないことだと思うからです。

 「第七章 私刑」では、殴る、蹴るについての制裁部分のみを抜粋しましたが、「ウグイスの谷わたり」や「セミ」、また「自転車乗り」などと名づけられた制裁についても、証言に基づいて、取り上げています。こうした日本軍の野蛮な側面は忘れられてはならないことではないかと思います。
 また、「第十一章 殺人教育」についてでは、下記の文中に”殺人は初年兵に最初からさせるというより、初めは先輩兵が「お手本」を示してみせるケースが多かった。”とありますが、見せるだけではなく、命令したこともあったことを見逃すことができません。

 陸軍第五十九師団師団長陸軍中将藤田茂筆供述書に「俘虜殺害の教育指示」というのがあります。部下全員を集めて、次の如く談話し、教育したというものです。
 「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此の機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」
「此には銃殺より刺殺が効果的である

 次々に初年兵が送られてくるために、こうした考え方に基づいて、国際法違反の捕虜の殺害が常態化していったのではないかと思います。当時初年兵として実際に中国人の捕虜刺突を命ぜられた土屋芳雄氏の証言が、「聞き書きある憲兵の記録」朝日新聞山形支局(朝日文庫)に出ていました。

昭和7年(1932年)1月のある日だった。入営して二ヶ月にもならない。兵舎から200メートルほど離れた射撃場からさらに100メートルの所に、ロシア人墓地があった。その墓地に三中隊の60人の初年兵が集められた。大隊長や中隊長ら幹部がずらりと来ていた。「何があるのか」と、初年兵がざわついているところに、6人の中国の農民姿の男たちが連れてこられた。全員後ろ手に縛られていた。上官は「度胸をつける教育をする。じっくり見学するように」と指示した
 ・・・
その中尉の一人が、後ろ手に縛られ、ひざを折った姿勢の中国人に近づくと、刀を抜き、一瞬のうちに首をはねた。土屋には「スパーッ」と聞こえた。もう一人の中尉も、別の一人を斬った。その場に来ていた二中隊の将校も、刀を振るった。後で知ったが、首というのは、案外簡単に斬れる。斬れ過ぎて自分の足まで傷つけることがあるから、左足を引いて刀を振りおろすのだという。三人のつわものたちは、このコツを心得ていた。もう何人もこうして中国人を斬ってきたのだろう。
 首を斬られた農民姿の中国人の首からは、血が、3,4メートルも噴き上げた。「軍隊とはこんなことをするのか」と、土屋は思った。顔から血の気が引き、小刻みに震えているのがわかった。そこへ、「土屋!」と、上官の大声が浴びせられた。上官は「今度は、お前が突き殺せ!」と命じた。
 ・・・
ワアーッ」。頭の中が空っぽになるほどの大声を上げて、その中国人に突き進んだ。両わきをしっかりしめて、といった刺突の基本など忘れていた。多分へっぴり腰だったろう。農民服姿、汚れた帽子をかぶったその中国人は、目隠しもしていなかった。三十五、六歳。殺される恐怖心どころか、怒りに燃えた目だった。それが土屋をにらんでいた。…”

 こうした証言には、受けた衝撃の大きさから、多少の誇張が含まれている部分もあるかも知れないと思いますが、似たような証言は多々あり、大筋間違いのないことだと思います。

 また、初年兵教育とは別ですが、多くの捕虜の殺害に関して、「宇都宮百十四師団の第六十六連隊第一大隊戦闘詳報」には、

〔13日午後2時〕連隊長より左の命令を受く。
旅団(歩兵第127旅団)命令により捕虜は全部殺すべし。その方法は十数名を捕縛し逐次銃殺してはいかん。
 〔13日夕方〕各中隊長を集め捕虜処分につき意見の交換をなさしめたる結果、各中隊に等分に配分し、監禁室より50名宛連れだし、第一中隊は路営地南方谷地、第三中隊は路営地西南方凹地、第四中隊は路営地東南谷地付近において刺殺せしむることとせり。
(中略)各隊ともに午後5時準備終わり刺殺を開始し、おおむね午後7時30分刺殺を終わり、連隊に報告す。第一中隊は当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして失敗せり。
 捕虜は観念し恐れず軍刀の前に首をさし伸ぶるもの、銃剣の前に乗り出し従容としおるものありたるも、中には泣き喚き救助を嘆願せるものあり。特に隊長巡視のさいは各所にその声おこれり。”(『南京戦史資料集』678頁
 などという記録も残されています。日本軍の人命軽視、国際法違反は否定しようがないことだと思います。 

 下記は、「天皇の軍隊」本多勝一・長沼節夫(朝日文庫)から抜粋しました。
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                           第七章 私刑
 下級兵士から上級の兵・下士官の将校に対する反抗を「対上官犯」と呼ぶなら、反対に上位の者から下位者に対して行われる暴行は、私的制裁または私刑(リンチ)と呼ばれる行為である。日常化したリンチが、「天皇の軍隊」の秩序維持にとってどれだけ必要なものであったかを、さらに「衣」師団の諸氏が証言する。
 天皇の軍隊は私的制裁(私刑=リンチ)を禁じていた。あらゆる規律違反は天皇の名のもとに厳然としていたはずであり、規律の乱れについては、やはり天皇の名において軍法会議以下幾種もの処分決定機関がある。1942(昭和17)年12月にも陸軍省名で「私的制裁の根絶」を通牒している。しかし
私的制裁は連綿と絶えることがなかった。皇軍内部におけるリンチは、将校と初年兵、下士官と初年兵など階級差があまりに大きい者同士の間では起こりにくかった。むしろ古年兵から初年兵に、下士官から上級兵に対してというふうに接近した階級間でより残酷に現れる。直接の下手人はその上位者の暗黙の了解または教唆のもとに行われ、それは自己保身と出世にとってむしろ必要なものと考えられていた。米国における黒人へのリンチも、下手人の役目は下層白人階層によって担われていたことのアナロジーである。膨大な差別の体系は、近代では法律や規範のみで禁止することはむずかしい。法的には許されなくとも、差別構造の不安定な部分を補強するために、リンチは”立派な”存在意義をもっていた。天皇絶対制と私的制裁とは切っても切れない関係にあったといえよう。
 別の例でいえば、ベトナムの末端での犯罪「ソンミ事件」は、合衆国のたてまえとして、また法的にも許されぬことになっているが、ニクソン大統領は事実上これをすべて無罪とし、ソンミはニクソンと切っても切れない関係にあった。天皇とリンチの関係、天皇と中国人虐殺との関係も全く同様である。ここでは皇軍内部のリンチの証言だけを幾つか記すことにする。
「衣」第四十二大隊第四中隊の小林栄治氏は、館陶事件より少し前の一等兵時代に、兵営内で自分の同期兵がやられた例をあげた。この場合は加害者も被害者も同じ一等兵だが、一方は二年先輩であった。二年以上軍隊にいておなじ一等兵に留まっているのは、かなり出世が遅い部類にはいる。
 小林氏の友人U一等兵は、古参兵一等兵二、三人に囲まれて、むりやりダルマストーブの前に坐らせられていた。石炭がどんどん投げ込まれたストーブの前に、U氏はパンツ一枚で正座したままの姿勢で「お説」教される。お前はふだんの動作がなまいきだ、誰それの銃をよく手入れしない、誰それ古参兵殿の衣服の洗濯をサボっていた、などと色々理由をつけられていた。一時間後にはU一等兵のヒザがしら全体が大きな水ぶくれとなったが、なおしばらく私刑は続いた。U一等兵が元の元気な身体に戻るまでには一ヶ月以上かかった。しかし彼はまだ幸運なほうだったといえるかもしれない。リンチで殺された場合に較べれば
 リンチで殺された者はまったくの犬死である。しかし、事件を公にせずにしかも鮮やかに処理するやり方があった。次の証言は「衣」第五十四旅団第四十五大隊砲兵中隊の坂倉清兵長(1942年当時)による。
 独立混成第十旅団(「衣」師団の前身)第四十五大隊第一中隊の本部は、かつて大汶口(ダイモンコウ)西方地区にあった。中隊のひとりに山下一等兵という古参兵がいた。酒好きで、中隊のもてあまし者だったという。ある日、人事係のT曹長が酒に酔った山下一等兵を連れてきて、中隊本部前に掘ってあった壕の中にほうりこんでしまった。さらにT曹長が彼に縄をかけようとしたとき、山下一等兵は抵抗したようだ。T曹長は直ちに山下一等兵を射殺してしまった。
「徂徠山付近に敵兵現わる」として非常招集が懸けられたのは、その晩のことだった。 兵士たちは夜中に叩き起こされ、何のことやらさっぱりわからぬままに軍装備をほどこし、中隊本部からほど遠からぬ山のふもとまで行った。だが結局何事もなく基地に引き返した。戦闘があろうはずがなかった。単なる偽装行動に過ぎなかったからだ。戦闘行動が成立するためには、中隊から大隊本部へ向けて電報を一本打つだけで事足りた。「徂徠山方面に敵兵あり」と。そして、翌日には下士官が「陣中日誌」か「戦闘詳報」を書いてただ一行をつけ加えればよかった。
「同地ニオイテ、陸軍一等兵山下某、壮烈ナル戦死ヲ遂グ」
 この様にしてリンチで虐殺された兵隊もまた、もちろん靖国神社に「英霊」としてまつられているはずだ。この話は坂倉氏が「衣」師団に移る前の1940(昭和15)年春、新兵教育を受けている間に、その年の一月にあったことだとして古参兵から教えられた話である。その先輩兵士はこうも言った。── 「だから、へたに上の者にさからったら、えらいことになるかも知れんからな」
 すると他の古参兵がそのコトバを解説するように付け加えた。──「まあ言ってみりゃあ、処罰は何も軍法会議とか営倉入りとかいったもんだけじゃないっちゅうわけだ。上官には刀というものがあるからなあ」「軍隊じゃ、お前たち一人くらいなくなっても構わんということだ。また一銭五厘(召集令状の葉書代)で新しいのを連れてくりゃあいいっちゅうことになる」
 これらの話はどれも、皇軍では少しでも上官にとがめられるようのことでもあれば命さえ保障されない、ということをたとえ話として解説入りで説明したものだった。「教育的配慮」ともいえるかもしれない。古参兵たちが語ったように、山下一等兵が果たして本当に飲んだくれで、部隊のもて余し者だったものか、それとも山下氏がただT曹長から嫌われていたに過ぎないのか、本当のところは坂倉氏も知らない。本当の飲んだくれだったとしても、だからリンチで殺してよいことにはもちろんならないが、そんな正論が「天皇の軍隊」に通じることはあり得ない。

 何んといっても最もありふれた制裁は殴ることだ。殴る理由は何でもよい。命令に絶対服従しなければ殴られるのに勿論十分な理由となるが、そうでなくとも顔つきが気に食わなかったり、洗濯物のボタンがひとつとれかかっていたり、朝くつがちょっとばかり汚れていたリ、あらゆる一挙一動について上級兵は下級兵を殴る理由を見つけるのにこと欠かなかった。読者がもし若い人であれば、こうした情況については1932~1933年(昭和7~8年)以前に生まれた男たちの、とくに旧制中学に少しでもいたことのある人にきいてみることだ。軍隊のこの野蛮性は中学にまでもちこまれて、上級生による下級生へのリンチは片田舎にいたるまで日常化していた(実はこれは、戦後も一部の反動的右翼大学の体育系クラブ活動の中にみられ、あるいは、赤軍派事件のような形でもみられる。)
 こういう有様だから、元「衣」師団の兵士たちに向かって、「あなたは皇軍兵士になってからの一年間に何回くらい殴られた経験があると思いますか。大体でよいのですが」とか、「入隊して初めて殴られた経験なら思い出せるのでは?」とか「どんな理由で殴られることがいちばん多いのでしょう」などと聞いてみても、満足のいく答は得られそうにない。「そりゃ数え切れんくらいと言うしかないですよ」とか、「さあ毎日殴られるほどですから思い出せません。入隊してその日に自分の名を呼ばれる。外の社会でやったように普通の大きさで『ハイ』と返事をしたら、もうパンチがとんでくるんですわ。凄い大声で返事をせんけりゃいかんというわけです」という具合である。後者の例は
「衣」第四十五大隊第一中隊の石神好平上等兵(1942年当時)の返事だが、これが彼自身の場合だったのか、それとも他人の場合であって一般的にそういう場合が最も多い、という意味なのか、本人でさえ正確に思い出せないほどなのだ。この事実を坂倉氏は「殴られるのはほとんど毎晩ですから、そのことを”総まとめ”で覚えているだけ」と表現し、鈴木氏は「理由が一切ないのが皇軍です」と述べている。
 元「衣」兵士・石神上等兵((53)は、千葉県千葉郡豊臣村字古和釜823番地(現・船橋市小和釜)の小作農民出身、当時の米の収穫量は反当り6俵が相場(71年度産米は玄米ベース7.6俵=農林省調べ)だが、そのうち地主に4俵を納めると手元に2俵しか残らなかった。──「当時貧農には悪い田んぼしか借りられなかったなあ。女は乳まで泥につかるような田んぼで収穫も反当り5・6俵、それでも4俵納めんけりゃならなんだですよ。そんな田を3反借りてました」
 応召した1940(昭和15)年の5月には父親が胃ガンで死んだが、それでも母親と石神氏の四人の兄弟妹、それに石神氏の妻と子ひとりが食えなかった。12月4日の入隊の前日に親戚へのあいさつ回りを済ませると当日の朝までにイモ掘りと小麦の種まきをすませて東京・上野の集合場所に駆けつける有様だった。一週間後には鈴木・坂倉氏らと同じ船で中国・青島(チンタオ)に送られていた。とたんに、リンチに明け暮れる初年兵の日常が始まる。
「最近の初年兵はたるんどるな」
 小隊長か中隊長または週番下士官が、分隊長か専任兵長(含分隊長各)にわざと聞こえよがしにそんなひとりごとを言った場合は、初年兵たちはその晩たっぷり殴られることを覚悟しなければならなかった。そしてそんなセリフは演習が終ったあとだけでなく、点呼に遅刻する者が出たり馬の世話が少し足りなくても、部隊内に病人が出ても、食事中誰かのハシの上げおろしが気に食わなくても、ポツリと言われるのである。
 将校とか下士官が直接手を下すことはほとんどなかった。殴り役は専任兵長とか年期のはいった上等兵や一等兵の担当する場合が多い。また初年兵同士二列に向かい合わせに並んで、互いに思い切り殴り合う方法も行われた。「対抗ビンタ」というのがそれだ。その場合兵長らは直接手を下さないが、もし誰か殴り方に手加減をしたと見られれば、上官から直接制裁を受けることになる。今からみれば狂気のサディスト大集団であった。
 殴り方はボクシングでいう顔面フックのように拳を固めてやるか、平手打ちが普通だが、平手のほうが殴る側も殴られる側もより痛みが強い。しかし拳打ちか平手打ちでやられているうちはまだ大けがをせずに済むだけ救いがあるほうかも知れない。
 初年兵教育で「教える側」に立つ教官、助教らは、手に標悍(ヒョウカン)を短くしたものを常に持ち歩いていた。標悍とは、射撃の標的やその目安にするために地面に立てるポールで、鉄パイプでできている。鉄かぶと(ヘルメット)をかぶった兵隊を、頭上から標悍で打ちすえると、やがて鉄かぶとの下から鮮血がタラタラと流れ落ちることがある。初年兵がそれを拭うことは「反抗心あり」とみなされた。また殴られることになる。そんなときこの鉄パイプのほうも曲がることがある。殴りどころが悪いと目をはらすこともあり、これは殴った側も「下手クソ」だと笑われることになった。といってもこれはあくまでも「下手だ」といわれるだけであって、決して「けしからん」と非難されるほどのことではなかった。
 前頭部をあまりに強く殴られたために、1943(昭和18)年夏のある日、北海道出身のある兵隊の両眼がとび出してしまうという事件が、この「衣」師団で起きた。さすがにこのときは殴った上官も重営倉入りを命じられたりしているが、この件についてはあらためて別の機会に触れることになろう。
 また「にぎり」とよばれる木銃も若手兵士を殴る道具によく使われた。木銃は銃剣術等の初歩的訓練をするために鉄砲の形に造った木型のこと。さすがにこれで顔面を殴ることは滅多になく、下級兵士を寝台へ腹ばいにさせておいて、その尻を殴る例が多い。
 携帯天幕も、内務班内では最も手近にあるリンチの”小道具”としてよく使われた。皇軍兵士は軍装備をするとき、携帯天幕を背嚢のいちばん上部に縛りつけて運んでいる。野営する場合には、このおよそタタミ二畳敷き(3.3平方メートル)の天幕にカシ(樫)の棒の支柱を立てて使用する。それらを折りたたむと、カシの棒の上部に固く天幕をまきつけて縛った形になる。布がまいてあるとはいっても、シン棒は固い。ヘルメットなしのとき頭を殴られると、裂傷ができて血が額を伝わるほどの威力があった。
 また上靴(スリッパ)とか編上靴(ヘンジョウカ・軍靴)・帯革(タイカク・革バンド)で顔面を殴りつけることもあった。だからリンチの数多く行われる部隊では顔面に靴底のビョウが走った傷跡をもつ兵士が多かったり、革バンドの巻きついた跡が首筋や額に残っている兵士をよく見かけたものだ。
「要するにリンチの道具には何でも使うんですが、銃剣はまず使いませんでしたね」と坂倉氏は言う。「これは日本人同士の場合には危険が大きいという理由もありますが、中国人民に対しては銃剣に血のりをつけるとあとで武器の手入れがいやだからです。さびやすくなって。それでついスキ・クワなどの農機具やコン棒などを使って虐殺したんです」
 皇軍兵士にとって中国人の生命は、自分の銃剣のサビほども重んじられるものではなかったことになる。

 このように何が何でも下級兵を殴ることが普通である「天皇の軍隊」にあっては、殴らないリーダーはその上級者からかえってにらまれ、制裁をうけることにもなる。鈴木丑之助氏の話はその一例だ。──「私自身は初年兵教育の期間中あまり殴らなかったせいですかねえ、同年兵が殴られてるの
を見るのがいやだったし、いざ自分が教える側に回っても殴るのはいやでした。もう殴らんでも物がわかる年齢ですから」
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 「教育」が始まって二ヶ月ほどたったある晩のこと、教官である納冨少尉(佐賀県出身)の当番兵が、「教官殿がお呼びですから教官室へ来て下さい」と彼を呼びに来た。何の用件かわからず、もしかしたら明日のカリキュラムについての打ち合わせかなというぐらいに考えながら将校の部屋に行ってみた。青年将校(納冨氏は当時25、6歳)がうす笑いを浮かべていた。鈴木氏は当時22歳ぐらいである。
教官「鈴木、お前は初年兵の殴り方を知らないのか」
助手「はい、知っております」
教官「知っていてなぜ殴らん。本当は知らんだろうが。ひとつおれが見本を見せてやろう」と言うと腰を上げ、直立不動の姿勢の鈴木助手の前に立ちはだかった。六尺豊かの大男で、一段と威圧的に見えた。将校に呼び出された理由がやっと分かった。
教官「さあ、ちゃんと歯を食いしばっておれ。足も踏んばれ」と準備姿勢をとらせた。これは握りこぶしで相手にパンチを食らわせるときの、もっとも普通の合図でもある。…
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                           第十一章 殺人教育
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 精神教育は「天皇の軍隊」の重要な部分である。第二中隊の須藤中隊長がまた、とくに精神教育が得意だった。ときには、「お前たちの母親から俺の所に手紙が来た」といってそれを初年兵たちに見せながら、「息子の命は中隊長殿に差し上げます。どうか天皇陛下様に恥ずかしくない子供にしてください」という文面を読み上げる。そしてシンミリと故郷を思い出させるので、これら二十歳になったばかりの青年たちは涙を浮かべて話に聞き入るのだった。またあるときは、自分の手柄話だといって武勇伝を聞かせる。「俺はその反日分子である支那人を誘って酒をくみかわした。そのあとでスキを見つけてそいつをズドンと一発で殺したのだ。これみな天皇陛下のおん為である」という調子だ。そんなとき須藤中隊長は、弾痕のついた野戦刀をなでながら、自分の話に自分で酔っているように見えた。その刀の傷も彼が野戦で中国軍に切り込んでいく途中、中国側の狙撃で受けた傷だという。その男自身私生活はずいぶんでたらめなものだということを2、3年兵は陰口していたが、当時は結構初年兵の尊敬の的であった。
 しかし、基礎訓練といい精神教育といい、その目的は中国をいかに侵略・支配するかに尽きるのだから、中国人民をいかに殺すかは極めて重要な「実地訓練」とならざるをえなかった。つまり初期の教育はいかにスムーズに殺人ができるかを習得する機関だといって言い過ぎではない。殺人は初年兵に最初からさせるというより、初めは先輩兵が「お手本」を示してみせるケースが多かった。「天皇の軍隊」は、成長すると自主的に中国人殺しに参加するようになる。つまり殺人とは、「天皇の軍隊」にとってあまりにも日常的な事柄となっていくので、「殺した側」の兵士たちがその殺人体験をひとつひとつ記憶してはいないことが多い。しかし人生で初めて自分が目撃したり下手人となった殺人は忘れ難いものになる。
 第二中隊の初年兵たちには、初年兵の基礎教育期間の終わりに近い1941(昭和15)年6月、初めてその「お手本」が示された。実験台に供されたのは三人の中国農民だった。いずれも30代の男だ。木綿の綿入れズボンと上着姿で布靴をはいた三人が、大隊本部のはずれにある広場に連れて来られた。三人とも両手を前にして麻縄で縛られていた。大隊本部は全体が鉄条網で囲まれているだけなので、外側からも営庭の中が見えるのだが、西側の一隅だけは高さ2メ-トルくらいの土塀で三方から囲まれているため、一般中国人はのぞきこめないようになっている。
 第二中隊の古年兵たち十人ほどに連れられた中国人と、六十人の新兵とが向かい合う形で営庭に立った。その間の地面にはすでに円形の穴が掘られている。直径2メートル、深さ2.5メートルくらいの穴だ。中国人たちも初年兵たちも、これから間もなくここで起こることを予想してただならぬ空気だった。突然、古年兵たちの陰に隠されていた軍用犬が5、6匹とびだしてくるなり、三人の中国人に飛びかかった。軍用犬はそのように訓練されていたとみえて、人間にとびかかると首筋を狙ってかみついて行った。中国人たちはそれを、いったんはたくましい腕で払いのける。しかし一匹のイヌが相手の背中にかみつき、それをふり払おうとした農民が両手を背中に回そうとした瞬間に、もう一匹のイヌが男の首筋にくらいつくという”分業”をやってのけるのだ。5、6分もそんな虐待が続いただろうか。三人の農民の衣服はほとんどひき裂かれ、身体は至る所に裂傷ができて、肉がムキ出しになった箇所でいっぱいとなった。抵抗をあきらめることなく頑張っていた農民は、皇軍兵がいったん軍用犬を引き離すと、力尽きたようにばったりと倒れた。次に古年兵たちはその倒れた男たちを引き起こして、今度は穴の前へ引っ張って行き、坐らせようとした。一人の男が懸命に力をふりしぼって、古年兵の足にタックルするようにしがみついて大声で何か中国語で叫んだ。
 「自分は炊事係でも何でもして働くからどうか殺さないで使ってほしい、といっています」と、通訳係の兵士が無表情で伝える。足を抱えられた下士官は、その農民をふり払うように、持っていた銃剣を農民の背中に突き立てた。そうされながら、這うようにして穴の近くまで追いたてられていったとき、衛生兵・広金軍曹の日本刀が農民の首の後部から全部にかけて思い切りふりおろされた。切り口から血しぶきが50センチ以上もドッと噴き上げた。
 「イヌをけしかけられて心臓が躍っているからあんなに血が噴き上がるんだ。いきなり切りつけたらあんなに出んのだが」──ひとりの古参兵が恐ろしく冷然と、初年兵たちに聞こえよがしに分析してみせた。広金軍曹がふた太刀目を振り下ろすと、男はドーッと穴の中に落ちこんだ。初年兵たちが息をのんで穴の中をのぞきこんでみると、農民はまっさかさまに穴に落ちたのに、彼の頭部は皮一枚残した形で反転して、穴の上部をすごい様相でにらみつけていた。
「やっぱり官製品の刀はもうひとつ切れ味が悪いわい」と、広金軍曹が、”寄り目”の表情を引きつらせながら笑ってみせた。二人目の男も必死で抵抗を試みたが、穴の中で天をにらんでいる友人をのぞき込んだ瞬間、たちまち首を切られてしまった。初年兵たちは、人間は日本刀で切られると、その部分の筋肉が切断されるため、その部分で皮が反転して裏返しになるものだ、ということを教わった。
 三人目の中国人は、すでに皇軍の”首切り人”たちから逃れられないということを悟っていた。彼は、前の二人のような抵抗をあきらめ、自分で穴を前にして坐り込んだ。そして大声で叫んだ。
「中国共産党万歳!」
 その一瞬ののち男の首は宙に飛んでいた。「やっぱりパーロ(八路軍)だったんだ」と誰かがつぶやいた。
 若者たちは故郷・房総を出発して半年にして「殺人教育」をいま終えた。誰の顔もまっ青だった。しかし彼らは、さもショックは受けなかったように平静さを保つよう努力していた。これまでに彼らが受けた皇軍「教育」からすると、兵士はこのような惨劇を見ても決して動じてはならないはずだ。向かい合って立っている古参兵たちが、自分たちの表情を見守っていることがよくわかった。「なんでえ、思ったほど大したことじゃあねえじゃねえか。そうだっぺ」と誰かがお国なまりでわざとらしくつぶやいているのが聞こえた。しかしそれから二、三日は食事をしていても何か喉につまるような気がしてうまくなかった。
 最後の殺人劇のあと、「やっぱりパーロだったんだな」と言う言葉に誰でも納得した。しかし後になってふり返ってみれば、あの農民たちが八路軍の一員であった証拠なぞどこを捜してもなかったであろう。事実は次のようであることを、若い皇軍兵士たちは徐々に学ぶようになる。つまり殺人の”実験台”にしようと思えば、その中国人を”パーロ”と呼ぶことにすればそれでこと足りるのだ、ということを。したがって三人目の農民は、自分の「立派な最期」の証(アカシ)しとして「中国共産党万歳!」と叫んだこともありえた。あるいは死の寸前に「やはり八路軍のいう通りだった」「八路軍こそ正義だ」と悟った場合もあろう。
 しかし、国民党軍の兵士たちを殺人の”モルモット”に使う際には、まさか”パーロ”呼ばわりするわけにはいかなかった。たとえば逆井氏が単なる目撃者としてではなく、その年の末に下手人となることを命令されたとき、相手は国民党軍の中佐であった。
 

 

 

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