真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

戦争に関わる歴史の真実は・・・ http://hide20.web.fc2.com に記事にリンクの一覧表


孝明天皇毒殺説

2018年07月15日 | 国際・政治

 幕末から明治のはじめ、尊皇攘夷をかかげる過激な人達によって、多くの幕府関係者や公武合体を主張する公卿などが暗殺されました。また、「神州を汚す」として、当時日本にいた外国人を斬り捨てるいわゆる「異人切り」も後を絶ちませんでした。したがって、それらを取り締まる幕府側も、報復的に尊王攘夷派の人達を斬り捨てるということが、そのころ繰り返されたのではないかと思います。

 だから、妹の「和宮」を降嫁させていたこともあって、討幕を受け入れず、公武合体を望んだ孝明天皇も、荒れ狂うテロの渦中に巻き込まれ、毒殺されたのではないか、と私は考えます。

 狂信的な尊皇攘夷の思想が、数々の暗殺事件のみならず、二度にわたる幕長戦争や薩英戦争、下関戦争、また、戊辰戦争などの原因にもなったのではないかと思います。したがって、尊皇攘夷をかかげた討幕派の人たちが、策謀によって幕府を倒し、天皇を神聖視する国家をつくりあげたことが、必然的に朝鮮王宮襲撃事件や日清戦争、日露戦争、日中戦争、第二次世界大戦へと突き進んでいく結果をもたらすことになった、と思うのです。
 そしてそれは、「五か条の御誓文」発表時に公表された「朕…みづから四方を経営し、汝億兆を安撫し、遂には万里の波濤を開拓し、国威を四方に宣布し、天下を富獄の安きに置かんことを欲す。…」という天皇の「宸翰」に暗示されているように思います。

 私が、討幕派の志士を美化し、明治の時代を明るく描いたり、「文化の日」を「明治の日」にかえて、「日本国が近代化するにあたり、わが民族が示した力強い歩みを後世に伝え、明治天皇と一体となり国つくりを進めた、明治の時代を追憶するための祝日」にしようという考え方を受け入れ難い理由は、そこにあります。
 また、「テロリスト」ともいえるような人たちを「明治の元勲」と呼び、いろいろな歴史的事実を伏せて、明治の時代を近代化の側面を中心にとらえるような歴史は、見直される必要があると思います。「勝てば官軍 負ければ賊軍」という考え方に基づくような歴史は、乗り越える必要があると思うのです。

 2015年05月、世界の日本研究者ら187名が、日本における歴史修正主義の跋扈や歴史的事実を主張する者の社会的排除、そして、それらを支えるような政府の歴史修正主義的な姿勢を懸念して、「日本の歴史家を支持する声明」を発表しましたが、不都合な事実はなかったことにする政権の歴史修正主義的な姿勢は、明治の時代から受け継がれてきており、今後も受け継いでいこうとしているのだと思います。

 下記は「天皇家の歴史(下)」ねずまさし(三一書房)から抜粋しました。そこには、孝明天皇の死後”ただちに毒殺の世評おこる”と題して
このように順調に快方に向かっていたにもかかわらず、天皇は突然世を去った。典医の報告は重要な日誌を欠いているため疑惑を一層深めるが、これと符節を合わせたように、毒殺説が早くも数日後廷臣の間にあらわれた。
と書かれています。
 そして、当時日本にいた外交官アーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新(上)」に、孝明天皇の毒殺について触れられた文章があり、伊藤博文を殺害して処刑された安重根も、「伊藤さんは、42年前に、現日本皇帝の御父君に当たられる御方(孝明天皇)を害しました。そのことはみな、韓国民が知っております」といって、伊藤博文殺害理由の一つにあげていたにもかかわらず、そうした世評があったことさえ伏せられている現状には問題を感じます。

 しばらく前、官邸の関わる公文書改ざん問題が毎日のように報道されていました。そして、ウソにウソを重ねた関係者の証言の矛盾点が既に暴かれているにもかかわらず、野党の要求する人物は、求めに応じて事情を説明することをせず、ひたすら忘れ去られる時を待つかのような姿勢を貫いています。そうした姿勢が、明治以来一貫しているのではないかと思うのです。  
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                       第二十八章 孝明天皇の毒殺

     一 典医の報告でも毒殺を暗示する

朝廷では慶應二年十二月二十九日に、天皇(三十六歳)が二十五日に痘瘡のために崩御した、と公表し、今日にいたるまで、宮内省と文部省はこれを確信し、国民に信じこませてきた。宮内省編さんの『孝明天皇記』は病死説の根拠として『非蔵人日記』、『二条家記』、『御痘瘡之記』、『中山忠能日記』、『土山武宗日記』などを引用し、全く疑惑のおこらないように説明している。これをもとにして、文部省維新史料編さん会の『概観維新史』や『維新史』(第四巻)もまた病死説を記している。こうして病死説は、明治以来の天皇国家の公式の意見であって、もし毒殺説を主張するものがあれば、不敬として処分されたにちがいない。

 それにもかかわらず、国民の間においては、ひそひそと天皇の毒殺説が語られ、ほとんど全国にわたってささやかれてきた。これを公然と発表した文書は、英人外交官サトウの『日本における外交官』であったが、うわさの程度を出なかった。それにしても、サトウは「その間の内幕によく通じている一日本人によって、私は帝が毒殺されたのだ、ということを信ずるようになった」とのべ、このうわさの出所が信頼できるものであることを、ほのめかしている。しかし塩尻氏の訳書では、この項をけずっている。国民はうわささえ、しらされなかったのである。

 ところが昭和十五年七月といえば、太平洋戦争のおこる前年で、言論にたいする圧迫のきびしい最中である。大坂の学士会クラブで開かれた日本医史学会関西支部大会に陳列された孝明の典医の一人伊良子光尊の日記を、医史学の大家佐伯理一郎博士が検討し、「孝明天皇の症状が二十二、二十三日(十二月)頃順調な経過をとっているというところで、記事が中絶している」のをみて、ただちに「天皇が痘瘡にかかられた機会をとらえて、岩倉具視が女官に出ている姪をして、天皇に一服毒を盛らしたのである。…伊良子氏の資料に於て、肝腎のところで、筆が絶たれているのは、わざと誌すのを憚ったのか、嵌(カン)口令によって筆を折ったのか、この一大事にしめ出しを食って、他の一、二の典医だけしか関与しなかったので、詳細を知らなかったために、日記が欠けたのか、理由はわからないが、岩倉の天皇毒殺を裏書きする一つの貴重な傍証であると思う」と遠慮するところなく、論断した。列席者は時が時だけに驚いたが、同時に博士の学問を追及する熱意と勇気に感激したという。これは特殊の学会でもあり、列席者のなかに憲兵隊なり、警察に密告する人もいなかったため、博士は弾圧をうけることもなかった。日本人が、とにかく公開の席上で毒殺説を発表した最初の機会として、注目に値する。

 しかしこの講演のことが、文字として記録されたのは、中野操博士が敗戦後になって発表した時にすぎないから、結局毒殺説が文字として記述されることは未だかつてなかったといって差支えない。このように毒殺説は、民間や外人にさえも、口伝えにひろがっていたにもかかわらず、禁断の木の実であった。

 そこで、私は『孝明天皇記』が引用している典医の病症日記(典医の武家伝奏にたいする報告。これが天皇の死後加筆されたか、削除された部分があるかどうかは不明である。宮内省の刊本であるかぎり、この点には問題があろう)そのものを検討してみることにする。勿論この『孝明天皇記』は敗戦までは、帝国大学などでも貴重図書の扱いをうけ、みだりに引用することはむずかしかったし、批判を加えることは許されなかった。
天皇は十二月二十一日に内侍所でおこなわれた臨時御神楽に出席した。しかし、風邪ぎみなので、医師がとめたにもかかわらず、出席した。しかし行水はおこなわなかった。この時典医の高階典薬少允が診察し、発汗剤をのませた。しかしその後も熱は下がらず、汗も出ず、睡眠もできず、食事もとれず、高熱のために、ウワ言をいって苦しんだ。そして十四日なって山本典薬大允が診察して、痘瘡であることが判明し、十五日に手に吹出物(水泡)があらわれた。そして下剤がきいて通じがあり、熱も下がりはじめ、まず順当な経過と診断された。かくて十六日に朝廷では、公式に痘瘡であることを発表、七社七寺に全快の祈りをおこなわせた。この日に吹出物が顔にあらわれ、十七日には皮膚がはれ、食欲もおこり、通じも順調となり「ますます御機嫌よくなってきた」と報告された。症状報告には高階、藤木、山本、河原、伊良子、西尾、福井、大町、久野、三角ら十五人の医師が署名しているので、一応十五人の意見の一致した公式のものと認められるから、『中山日記』に伝えられるように、高階一人が痘瘡をあまり手がけなかった医師だったとしても、全医師団の誤診とか、調薬ちがいを引起す程の影響はなかったと思われる。その上種痘のない当時では、痘瘡の経過とか、処置については医師は相当に習練していたわけであるから、一人の医師が未熟だとしても、全医師団を誤診にみちびくことはないと考えられる。十八日以来ますます経過はよく、真言宗の誓願寺大雲院の上乗坊と天台宗の護浄院(一名清師荒神、上京区荒神口通 寺町)の権僧正湛(タン)海が招かれて加持祈とうを
おこない、加持のききめが早くもあらわれたと喜ばれた。

 その夜痘(モガキ)は紫色になり、安眠もでき、便通も食事も順調となった。当局は極秘にしており、ひそかに目病(ヤミ)地蔵へ鳥飼という者を祈とうにつかわしたが、早くも町人が知ったということで、廷臣たちは大いに驚いた。十九日の症状も順調と記録され、食事は大いに進み、中山慶子も「さてさて有がたき御事」と喜んでいる。二十一日には慶喜らが見舞に参内し、膿が水疱から出はじめ、ますます順調に全快に向かっていると報告された。二十三日には膿もおわりとなり、二十四日には収靨(メン)になり(つまり痂(カ)皮ーーかさぶたーーができた)、総体において、相応の回復状況と診断された。
 この病気の症状を医書などで調べてみると、潜伏期が十二日程あってから、高熱を発する。十一日に風邪と思われたのは、実は潜伏期がすぎて発熱期に入った時であった。十三日の不眠、高熱、食欲不振、ウワ言などは、前駆期(ゼンクキ)にあたる症状であって、翌日に山本典医が痘瘡と診断し、全医師団はそれにしたがって、診察や投薬をした。当時宮中には痘瘡患者がでており、側近のもので、全快して勤仕した者もあって、天皇はこれらの患者から伝染したようだ。現神といわれる天皇も病菌には勝てないのであって、まさにここにこそ、彼が神でなく、人間であるという証拠がある。

 前駆期から熱は四十度にも達し、頭痛や吐気が加わり、便秘し、食欲はなく、ウワ言をいい、顔がはれ、結膜は充血する。そしてその第一日か、第二日に麻疹様の鮮紅色の発疹がでる。第四日に吹出物、つまり丘疹期(キュウシンキ)がはじまり、顔、頭、四肢などに小紅疹があらわれる。これが出はじめると、熱が下がりはじめる。天皇は十七日から便通があり、食欲もおこり熱も下がり、悪化へ向かう症状はなくなった。悪化へ向う場合は(融合性痘瘡など前駆期の高熱が少しも減退しないままで、水疱や膿疱があらわれ、口腔や咽頭にも発疹し、呼吸が困難となり、吐気があり、昏睡し、ウワ言がつづき、ついに心臓麻痺をおこして、死にいたる。しかし天皇の症状は十五日から前駆期が終わり、快方へ向っている。十七日から安眠もでき、十八日に水疱がはれてきて、膿をもち、膿疱期に入った。そして二十一日から灌膿、すなわち膿をふきだし、医師は「御機嫌よく」とか、「御静謐(セイヒツ)(安静)」とか、「何の申し分もあらせられず」と報告している。
 熱も下がり、これから膿疱は褐色の痂皮を結んで、乾燥することになる。二十三日に膿のふきだしがおさまって、乾燥して収靨しはじめた。
 医師の報告のほか、十八日から毎日加持に参内していた湛海権僧正の日記も、病状が順調に快方に向かっていることを報告している。

 ここで湛海権僧正の日記発見のいきさつについて、少しわき道にそれるが、かいておきたい。戦前の昭和十七年四月七日頃、京都府史蹟名勝天然記念物調査委員の赤松俊秀氏(現在京都大学名誉教授)は、寺宝調査のため、もとの立命館大学奈良本辰也、京都府嘱託田井啓吾(戦後死亡)、奈良学芸大学教授岩城隆利諸氏とともに、真言宗の誓願寺をたずね、その塔中(タッチュウ)の大雲院において、当時天皇の加持祈とうに招かれた上乗坊の日記を発見した。十二月二十五日の条に「天皇の顔には紫の斑点があらわれて虫の息で、血をはき、また脱血」云々という記事がかかれており、赤松氏ら一同は非常に驚き、天皇の死が尋常のものでない、という強い印象をうけた。しかしこの寺はまもなく経営難におちいり解散してしまい、古文書は紙くず屋に売られて、今日では入手できない有様となった。ところでこの時赤松氏らは護浄院調査にまでは着手できなかった。この間の事情について御教示をたまわった赤松教授には深く御礼を申したい。
そして残るところは護浄院である。戦時戦後の食糧難や寺院に加えられた種々の束縛のため、大抵の寺が古文書を売却している京都において、著者は不安を胸にいだきながら昭和二十八年十一月京都を訪れ、奈良本教授とともに、七日に護浄院をたずね、古文書の調査を申しでた。ところが、わずかにすぎないが、示された文書のなかに湛海から江戸の輪王寺宮へだした「孝明天皇崩御」にかんする、うすい報告書がでてきた。この報告書は正本の写しであるが、そのなかに当時の日記が引用されている。くわしい報告は「歴史学研究」に発表したので、参照されたい。この調査について、種々の助言や協力をおしまれなかった奈良本辰也教授にたいして、あつく御礼を申しあげる次第である。

 湛海の日記は十八日からはじまる。十八日の症状は相当に悪く、「御上り物御薬など御返し(嘔吐)……御吹出物御膿ぬるぬるあらせられ……御障子一ト間御切明け、それより竜顔を奉拝、御加持申上候」とある。また『孝明天皇紀』引用の『土山武宗日記』には「僧正は御末口から常御殿の庭に廻り、御祈とうをした」と報告されている。ところが十九日から前述のように(僧正は「法験あらわれ」と誇っているが)、天皇は食欲が出はじめ、翌日は「叡感斜めならず」(気分がよくなった)というので、彼は三十両を与えられた。それ以後は典医の公報同様に「順症」となって、快方へ進み、皇后(准后)らも安心した。そこで二十四日は加持も七日目で満願となり、一応打切った。しかし准后からはなお当分加持にくるよう依頼された。
 ところが二十五日朝、急に使者がきて参内するように命令され、僧正はいそいで参内した。
 典医の二十五日の報告によれば、二十四日の夜から嘔吐がはげしくなり、下痢もはじまり、二十五日の朝には嘔吐も少しへったけれども、「微煩の模様」があり、これは「今一段と御内伏の御余毒御発洩遊ばされかね候の御事と診(ミ)奉候」とある。ところが『孝明天皇記』は、同日一昼夜および二十六日の症状はのせていない。
 この両日こそ、もっとも重大な容態であるから、医師の報告がなくてはならない。それを故意にのせないのは、前述の佐伯博士のいう通り、嵌口令が数十年後のここでも守られている証拠である。そこで『中山日記』をみると、下痢と嘔吐がはげしく、食欲はなくなり、天運つき、側近の者は落涙した。そして午後十一時頃、ついに事きれた。
「玉体は、見上げるのも恐れいる程の有様で、当局は天皇の死をまだ極秘として発表していない」という慶子の手紙をのせ、二十八日の項には、慶子から極秘の文書が父の忠能のもとに送られ、それが引用されている。
 それによると、「二十四、五日頃は何の仰せもあらせられず、両三度大典侍大典侍と召され候へども、その折りに御側におられず、ただただと当惑するばかり致しおられ、二十五日後は御九穴より御脱血……」とあって、この二十五日の重態の時に、側近にはだれもいなかったことが報告されている。ただ祈とうによばれた僧正が祈とうを繰返した。その時彼が見た天皇の様子は「胸先へ御差込み容易ならぬ」もので、盛んに苦しんだ有様が語られている。

 ここで著者は中山慶子の手紙のうち、「御九穴より御脱血……」という部分に、傍点をつけた。毒殺に砒(ヒ)素を使うことは、中国や日本でも古くからおこなわれたようである。中国の明時代の小説『金瓶梅』の第五話をみると、「淫婦が武太郎に毒を盛ること」のなかに、武太郎の妻が、砒霜を胸痛薬といって、胸痛にくるしむ夫にのませ、殺す状景がかいてある。呑んだ武大は、「おいら息がつまるよ」と叫んだ。その「肺臓心臓は油で煎られ、肝臓はらわた火に焼け焦げる。胸は刺される氷の刃、腹はぐりぐり鋼(ハガネ)の刀、からだ全体氷と冷えて、七つの穴から血は流れ出る。歯はがちがちとかみ合って、魂はおもむく横死城、喉はごろごろ干からびて、霊は落ちゆく望郷台、地獄にゃふえる服毒亡者」……「女が蒲団を持ち上げてみると、武大は歯を食いしばり、七つの穴から血が流れている」というように、むごたらしい砒霜の毒死の状況がかかれている(小野忍・千田九一訳、平凡社、昭和四十七年刊、上、五十八頁)。全く同じ死の状況である。
 医師もいろいろ手をつくしたが、どうにもならず、この上は加持以外にないというわけで、僧正は一層「丹誠をこめて」祈った。すると不思議にも痰がきれて、やや持直した。僧正は別室にさがって一休みしたが、再び招かれて、「玉体側まで相進んで」加持を加えたが、その最中に「御大事に及ぼされ、何とも申しあげようもなく」なったのである。とにかく『孝明天皇紀』にも当日の容態が発表されていない以上、この僧正の記録と『中山日記』とは、最も重要な史料といって差支えない。今後とも典医諸家の日記の調査に期待をもつ次第である。

 史料編さん所の吉田常吉氏は『孝明天皇紀』所引の史料や『中山日記』などによって、戦後「孝明天皇崩御をめぐっての疑惑」を発表され、大体において病死説をとられている。しかし「白とも黒とも断言できない」旨をも附記されている。とにかく従来の毒殺の伝説とか、蜷川新博士の『天皇』(光文社刊)と、大宅壮一氏の『実録天皇記』にかかれた噂の程度の毒殺説では、吉田氏の病死説に対抗することはできないように思われる。

     二 ただちに毒殺の世評おこる

 このように順調に快方に向かっていたにもかかわらず、天皇は突然世を去った。典医の報告は重要な日誌を欠いているため疑惑を一層深めるが、これと符節を合わせたように、毒殺説が早くも数日後廷臣の間にあらわれた。『中山日記』の翌年一月四日にのせた老女浜浦の手紙によると、「誰かが痘毒を天皇にのませたので天皇が罹病した。その証拠には容体をかくし、内儀の者さえも少しも容体を知らず、二十五日の姉敏(トキ)宮の見舞いも廷臣がとめようとしたことがあって、このようなことが陰謀をかくす証拠だとうわさされている。こんな話はとるにたりないが、油断がならない」ということがかかれ、また七日の彼女の手紙には「当局は黙秘しているが、世間では案外よく知っている。十六日の病名決定以後の症状を発表しないために、うわさが起るので、発表せられたいというので、いよいよ公表することとなった」というのである。これによって典医の報告が前記の形で公表されたわけであろう。以上の様子からみると、早くも毒殺のうわさがたっていたことがわかる。
 その上、次代の天皇として践祚した祐(スケノ)宮は、毎夜のように前帝の亡霊に苦しめられ、その亡霊は鍾馗(ショウキ)のような姿をし、剣をもっている(『朝彦日記』、下巻 慶応三・正・五。同十二)。そこで朝彦は怨霊退散のため、長福寺の僧に加持を依頼した。その消息は、岩倉の親友の千種有文も岩倉へつたえている。まさに『ハムレット』というところである。孝明の異常な死に方を知っていればこそ、新帝の心にこのような不安な動揺がおこったのである。古来天皇家の歴史において、非業な最期をとげた皇族は多く、迷信深い宮廷はその怨霊のたたりを非常に恐れた。新帝がこの悪夢になやまされたことは、毒殺を信頼させる一つの証拠となる。

 毒殺の世評は、このように朝廷内からおこった。二十四、五日の両日に大典侍らが側近にいなかったことも、不審といえば不審である。毒殺ということになると、病状日記をみても、犯人は二十四日に一服もったことになる。この犯人を「誰」と明示した史料は恐らくあるまい。もしあったとしても明治になってからは犯人側が政権を握ったのであるから、焼きすてられてしまったに相違ない。これについて前記の佐伯博士がこう語っている。「天皇が痘瘡にかかられた機会をとらえて、岩倉具視が、女官に出ている姪(?)をして、天皇に一服毒を盛らしたのである」と岩倉をはっきり指名している。前にもいった通り、国家の言論圧迫のきびしいこの頃に、公然と公開の席上で、明治の元勲を犯人として指名するのであるから、博士には十分な確信があったものと思われる。すなわち博士は言葉をついで、「自分は或る事情で、洛東鹿ヶ谷の霊鑑寺(比丘尼御所)の尼僧となった当の女性から直接その真相をきいたから、間違いない」と断言している。
 この岩倉の姪という女性はだれであろうか。具視はもと堀河康親の二男であって、岩倉家に養子に入った人物である。その姪といえば、兄の堀河親賀か、弟の納親の娘でなくてはならないが、『堀河家譜』には、これにあたる婦人はいない。ところが具視とその異母妹の右衛門掌侍堀河紀子とは、和宮降嫁以来「天皇にチン毒を献じて」暗殺しようと非難され、尊攘派から暗殺されかけたため、天皇も公卿も彼にたいする態度を硬化して、彼らを処分したことは、すでに第二十五章において述べた通りである。いわば両人は天皇暗殺未遂の前科者である。したがって後世から容疑をうけるのも理由のないことではない。こういうわけで、天皇が幕府のロボットとなり、討幕派の邪魔者となった今日、岩倉が再びテロルに訴えようとしたことは、不自然ではない。したがって紀子や藤宰相は再び岩倉の指令のもとに暗躍し始めた(第二十七章 ニ、尊攘派の御所襲撃、スパイにかこまれる天皇)。また具視の孫の具定は、幼児から児(チゴ)として天皇の側近につかえ、当時は十六歳で、近臣として勤仕していることも、一考を促す材料である。天皇はあくまでも幕府と結んで、征長役を勅許して、討幕派に対抗する以上、このようなテロルが計画されるのは、宮廷の必然的なりゆきであって、天皇は討幕派の闘争の血祭りにあげられたといってよい。

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孝明天皇 毒殺?

2018年07月09日 | 日記

 幕末から明治のはじめのころの歴史に関する本にはよく、”テロの嵐”や”攘夷の嵐”などという言葉が出てきます。

 井伊直弼が、1860年、桜田門外で水戸の浪士に暗殺されて以降、長州を中心とするいわゆる”憂国の志士”たちが京都に集まり、公卿の一派と提携して、尊王攘夷をかかげ、天誅と称して要人暗殺を繰り返しました。
 そのなかには、「人斬り新兵衛」、「人斬り彦斎(ゲンサイ)」、「人斬り以蔵」、「人斬り半次郎」などと呼ばれ、「幕末の四大人斬り」として名を知られるようになった人もいるようです。外国との新たな関係を模索し、修好通商条約締結に踏み切った幕府関係者や公武合体派の公卿が暗殺の対象で、時には生首が晒されることもあったため、都の人々を震撼させたといいます。
 司馬遼太郎の「幕末」(文春文庫)という本も、そうした時代の暗殺者を主人公とした十二篇の短編からなっていましたが、ほんとうに野蛮な時代だったと思います。そして、”テロの嵐”や”攘夷の嵐”の””という言葉が、その野蛮性を表現しているように思います。

 でも、明治新政府を主導した長州を中心とする急進的な尊王攘夷派の人びとは、自分たちが政権に就くと、攘夷を実行することなく、開国に転じます。”テロの嵐”や”攘夷の嵐”はいったい何だったのか、と思います。岩瀬肥後守が、堀田閣老によって招集された諸大名の前で、条約締結の必要性六点をあげて論じたとき、諸大名が何の反論もできなかったことにもあらわれているように、当時の攘夷の思想は、討幕のための”偏狭なナショナリズム”に基づくもので、時代の流れに沿うものではなかったということだと思います。

 また、「尊王攘夷」の思想の、”尊王”についても、言葉だけのような気がします。資料1は「一外交官の見た明治維新(上)」アーネスト・サトウ:坂田精一訳(岩波文庫 青425-1)から抜粋したものですが、天皇の崩御に関する見逃すことの出来ない文章です。
 アーネスト・サトウは、父親がスウェーデン人で母親がイギリス人ということで、「サトウ」とはいっても、二世でも三世でもないようですが、日本語に堪能で、日本の文書なども読むことが出来る数少ない外国人だったということで、幕末から明治維新にかけて、極東政策の指導的外交官として、日本で活躍したということです。
 彼は、自身で
”… 私は、日本語を正確に話せる外国人として日本人の間に知られはじめていた。知友の範囲も急に広くなった。自分の国に対する外国の政策を知るため、または単に好奇心のために、人々がよく江戸から話にやってきた。私の名前は、日本人のありふれた名字(訳註 佐藤)と同じいので、他から他へと容易につたわり、一面識もない人々の口にまでのぼった。両刀を帯した連中は、葡萄酒や、リキュールや、外国煙草をいつも大喜びで口にし、また議論をとても好んだ。彼らは、論題が自分の興味のあるものなら、よく何時間でも腰をすえた。政治問題が、われわれの議論の主要な材料であった。時として、ずいぶん激論することもあった。私は常に、日本の現在の制度の弊害を攻撃した。諸君には大いに好感をもつが、専制制度はきらいだと、よく言ったものだ。訪問客の多くは、大名の家来だった。私は彼らの話から、外国人は大君(タイクーン)を日本の元首と見るべきでなく、早晩天皇(ミカド)と直接の関係を結ぶようにしなければならぬ、という確信を日ごとに強くした。これらの人々を通じて入手した公文書の写しからみても、大君(タイクーン)自身が自分を単に天皇(ミカド)の第一の臣下以上の何者でもないと考えていることがわかった。
と書いています。アーネスト・サトウから様々な情報を得ようと、彼のもとに人々が集まり、また、彼はそういう人々から様々な情報を得ていたことが分かります。それだけに、
”噂によれば、天皇(ミカド)は天然痘にかかって死んだということだが、数年後に、その間の消息に通じている一日本人が私に確言したところによると、毒殺されたのだという。
という内容には驚きます。
 そういえば、伊藤博文を殺害して処刑された安重根が裁判で、殺害理由として「伊藤博文の罪状15ヶ条」を列挙したなかに、「第14、伊藤さんは、42年前に、現日本皇帝の御父君に当たられる御方を害しました。そのことはみな、韓国民が知っております」と孝明天皇が殺されたことに触れていたことを思い出します。
 
 資料2は、「戊辰戦争」佐々木克(中公新書)から抜粋したのですが、天皇毒殺について触れています。もちろん、毒殺を認める本人の証言があるわけではありませんが、天皇毒殺の根拠が、当時の主治医の日記であるということ、またそのことを明らかにしたのは、主治医の子孫である医師伊良子光孝氏であるということには考えさせられます。また、当時天皇のまわりにいた関係者の日記などにも、毒殺を疑わせるものがいくつかあるようです。

 さらに、下記の「非義の勅命」の問題や、すでに取り上げた「偽勅」の問題、そして、「偽錦旗」の問題などもあり、天皇を囲い込んで政治的に利用しようと画策する動きと考え合わせると、「毒殺」の可能性は極めて高いような気がします。
 したがって、長州を中心とする尊王攘夷急進派の思想は、「攘夷」だけではなく、「尊王」という面でも、その内容が疑われます。自分たちに都合の悪い勅命は「非義の勅命」であるから従う必要はないと主張し、また、自分たちの都合で「偽勅」を発し、天皇から受け取ったものではない「錦旗」を自ら作って利用し、さらには、天皇を毒殺したのではないか、と考えられている人たちの「尊王」というのは、いったい何だったのか、ということです。
 大久保利通は「非義の勅命」について
謝罪した長州を討つのは、武家たる者のなすべき正義の行動ではない。また長州征討の戦争は、内乱となる危険性が高い。内乱が国家を傾けることは清国の例で明らかで、諸藩も長州征討に反対している。それなのになぜ天皇・朝廷は勅許をするのか
と主張していたようですが、その主張にもとづけば、慶喜が大政を奉還し、恭順の姿勢を示していた上に、外圧に備える必要のあった時期の戊辰戦争を正当化できるでしょうか。妹「和宮」を降嫁させていたために、孝明天皇は討幕を認めず、公武一和を強く望んでおられた、といいます。
 尊王攘夷をかかげ、様々な策謀・謀略によって権力を手中にした人たちがスタートさせた明治の時代は、決して明るいものではなく、その野蛮性は、その後朝鮮や清国を舞台として発展していったのではないかと、私には思えるのです。

 資料3は「幕末の天皇・明治の天皇」佐々木克(講談社学術文庫)から「非義の勅命」その他関係部分を抜粋しました。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                         第十六章 最初の大坂訪問

私は、プリンセス・ロイヤル号の甲板で日本の貿易商人数名に会ったが、彼らは近迫した兵庫の開港に大いに関心をもち、外国人の居留地として適当な場所について大いに意見を吐いていた。また、彼らは、天皇(ミカド(訳註 孝明天皇)の崩御を知らせてくれ、それは、たった今公表されたばかりだと言った。噂によれば、天皇(ミカド)は天然痘にかかって死んだということだが、数年後に、その間の消息に通じている一日本人が私に確言したところによると、毒殺されたのだという。この天皇(ミカド)は、外国人に対していかなる譲歩をすることにも、断固として反対してきた。そのために、きたるべき幕府の崩壊によって、否が応でも朝廷が西洋諸国との関係に当面しなければならなくなるのを予見した一部の人々に殺されたというのだ。この保守的な天皇(ミカド)をもってしては、戦争をもたらす紛議以外の何ものも、おそらく期待できなかったであろう。重要な人物の死因を毒殺にもとめるのは、東洋諸国ではごくありふれたことである。前将軍(訳註 家茂)の死去の場合も、一橋のために毒殺されたという説が流れた。しかし、当時は、天皇(ミカド)についてそんな噂があることを何も聞かなかった。天皇(ミカド)が、ようやく十五、六歳になったばかりの少年を後継者に残して、政治の舞台から姿を消したということが、こういう噂の発生にきわめて役立ったことは否定し得ないであろう。
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                            Ⅰ 幕府の倒壊
 勝利か敗北か
 突然の砲弾と吶喊の声に驚いた馬が、鳥羽街道を狂奔した。馬は街道上に縦隊となっていた幕府の
兵を蹴散らしながら、もときた淀に向かって馳け去った。
 幕府軍の隊列は乱れ大混乱となった。後方では敵の姿も見ずに逃げる将兵さえいた。馬は、薩摩藩の軍監椎原小弥太と山口仲吾に入京のため通行を求めて交渉談判をしていた、幕府大目付滝川具挙の乗馬であった。薩摩藩兵の銃砲弾が、逃げる幕府軍兵士に雨のごとく降りかかった。
 慶応四年(明治元年1868年)正月三日、こうして鳥羽・伏見戦争が始まった。
 ・・・
 薩軍の総大将に万一のことがあっては、今後の指揮に支障をきたすから、危険な前線に出てはいけないと、西郷は大久保にいい含められていたのであろう。だが思いがけない初戦の大勝の報告にたまりかねて、彼は伏見口の戦場まで戦況を見に行ったのである。
 初戦で勝ったといっても、それで徳川幕府が壊滅したわけではない。翌日も依然として鳥羽と伏見にとどまって薩長軍に応戦している。軍事的には確かに幕府軍は大分旗色が悪いが、薩長軍の圧倒的勝利というほどのこともない。しかし政治的にみれば、薩長軍の完全な勝利であった。初戦の三日夜の段階で、早くも「錦旗」を押立てた「追討将軍」の派遣が実行に移されつつあり、これは<天皇>を完全に薩長が手の内に入れたことを意味していた。そして薩長軍は天皇の正義の軍隊=「官軍」となり、徳川慶喜をはじめ幕府軍は「朝敵」の運命がここで決したのであった。
 この日大久保は、なかなか腰の定まらない有栖川熾仁(総裁)、三条実美(議定)、岩倉具視(議定)らの公卿に、断乎として徳川勢と決戦し打ち破らねばならないと、必死の形相で説きまわり、参殿して戦局の対策を協議していた。同日の大久保利通の日記には「追々官軍勝利 賊退散之注進有之候事、今夜徹夜」と結んでいる。
 官と賊との明暗が、はっきりと意識されている。しかし戦争が始まるまでは、どっちにころぶか大きな賭であり、大久保らにとっても内心大いに不安であった。前日、岩倉、大久保、西郷、そして長州の広沢真臣らが集まったとき、そこでは戦争に負けた場合の対策が協議された。
 それは、
一、天皇に三条実美、中山忠能を従え、薩長二藩兵が護衛して、芸州・備前のあいだに移し、討賊の詔を四方に下すこと 
二、岩倉と有栖川宮は京都にとどまって奮戦し、支えきれなくなったら、天皇は叡山に遷幸したと偽ること
三、その間に仁和寺宮、知恩院宮を東北諸国に派遣し、令旨を領ち、勤王の兵を招集して江戸城を衝かせること。
というのである。しかも三日当日、幕府勢が大挙して鳥羽・伏見に結集しだすと、戦端がひらかれたら「一発直様(スグサマ)玉(ぎょく=天皇)を移」すことまで考えていた。背水の陣である。
 この計画は大久保あたりから出たらしい。天皇を危険な戦場近くから安全な所まで避難させようという心配りからのものではない。天皇が幕府側の手に渡ったら困るという、それがもっとも重要な理由なのである。それにしても彼らは天皇を物体かなにかのごとく、意のままにどこへでも移そうと計画している。いや移せると確信しているのである。天皇はそれほど軽いものなのだろうか。

 前の天皇である孝明天皇は慶応二年(1866)十二月に死亡した。天皇の死因については、表面上疱瘡(ホウソウ)で病死ということになっているが、毒殺の疑いもあり、長いあいだ維新史上の謎とされてきた。しかし近年、当時天皇の主治医であった伊良子光順の残した日記が一部公にされ、光順の子孫である医師伊良子光孝氏によって、孝明天皇の死は、光順日記で見るかぎり明らかに「急性毒物中毒の症状である」と断定された。やはり毒殺であった。
 犯人について伊良子氏はなにも言及していない。しかし、当時の政治状況を考えれば、自然と犯人の姿は浮び上ってくる。洛北に幽居中ながら、王政復古の実現を熱望して策謀をめぐらしている岩倉にとって、もっとも邪魔に思える、眼の前にふさがっている厚い壁は、京都守護会津藩主松平容保を深く信認し、佐幕的朝廷体制をあくまで維持しようとする、親幕派の頂点孝明天皇その人であったはずである。岩倉自身は洛北の岩倉村に住んでおり、行動が不自由で朝廷には近づけなかった。しかし岩倉と固くラインを組み、民間にあって自由に行動し策動しえた大久保利通がいる。大久保は大原重徳や中御門経之ら公卿のあいだにもくい込み、朝廷につながるルートを持っていた。孝明天皇の周辺には、第二第三の岩倉や大久保の影がうごめいていたのである。直接手をくださずとも、孝明天皇暗殺の黒幕がだれであったか、もはや明らかであろう。
 岩倉や大久保にとって、天皇の存在は自らの意志で自由にできる「玉」であり、場合によっては「石」にも変わりうる、それほど軽いものだったのだ。
 それにしても、この頃の大久保には悲壮感さえ漂っていた。正月三日朝、大久保は岩倉に呈した意見書で、朝廷はすでに二大失策をおかし、いままた三つめの大事を失おうとしており、このままでは「皇国の事凡て瓦解土崩、大御変革も尽く水疱画餅」となるであろうと述べ、勤王無二の藩が、戦争を期して一致協力、非常の尽力をしなくてはならないと焦慮していた。
 三大事のひとつは、徳川氏の処置=辞官・納地問題と会津・桑名藩帰国命令が、越前、土佐の論に左右され、尾張、越前の周旋にまかされたため、当初の予定のごとく確断と出されなかったことである。第二は徳川慶喜や会津・桑名藩が大坂に滞留し朝廷も圧倒されるほどの幕府勢割拠の情勢を作り出したのを黙認してしまったこと。そして目前の三つめの大事は、慶喜の上京参内を許し、しかも要職の議定に任命しようとしていることである。慶喜-幕府の復権であり、これでは、なんのための王政復古クーデターだったのかわからなくなる。そればかりではない。大久保ら薩長討幕派が逆に窮地に追い込まれそうになってきた。なんとしてもここで慶喜をたたいておかねばならなかった。十二月九日の王政復古クーデターは討幕派の大勝利であったが、いまや最大の危機を迎えていたのであった。
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                           第六章 朝廷政治の終焉
非議の勅命
 ・・・
 たとえば長州征討勅許と条約勅許を見てみよう。前者は「(将軍)言上の趣、聞こし食され…(征討が済んだら)…上京の事、兼ねて被仰出候」という文言であり、後者は「条約の義、御許容あらせられ候間、至当の処置可致事」となっているように、同じ形式ではない。
 勅許とは勅命によって許可することであるが、天皇が直接口頭で伝えるのではなく、文書で伝えるためこのように間接形になる。とはいえ御前会議を経ているから天皇の真意をつたえるものであって、偽勅ではないことは周知のこととなっている。
 にもかかわらず、この勅(長州征討勅許)は勅命として認めないと言い放った者がいた。大久保利通である。「非義勅命は勅命に有らず」と、西郷隆盛にあてた手紙(慶応元年九月二十三日付)の中で、正義でない(非義)勅命は、真の勅命ではないから、したがわなくてもよいと述べていたのである。なぜ非義の勅命なのか。
 謝罪した長州を討つのは、武家たる者のなすべき正義の行動ではない。また長州征討の戦争は、内乱となる危険性が高い。内乱が国家を傾けることは清国の例で明らかで、諸藩も長州征討に反対している。それなのになぜ天皇・朝廷は勅許をするのか。万人が正しく尤もだといって承服するのが正義の真の勅命ではないか。この勅命は正義に反している。大久保はこのように述べて、長州征討の勅命は無視してよい。勅命にはしたがわないことを薩摩藩の方針としたい、と西郷に提言していたのであった。この時西郷は大坂にいる。京都の大久保が大坂の西郷に、なぜ朝議の模様などを細々と記した四千字にもおよぶ長文の手紙を書いたのか。それは西郷がこの手紙を鹿児島に運んで、久光をはじめ藩の首脳部に披露して評議する、そのための報告書として書かれたものだったからである」(『大久保利通文書』)

 また、この手紙(主張)で注目すべき点は、非義の勅命と断言することによって、天皇・朝廷をはっきりと批判していたことであった。また朝彦親王と二条関白の発言と行動に対しては、その無策無能ぶりを「くどくどと言い訳する」などと、嫌悪感さえくわえて指摘していた。そして同時に、この勅命を、なかば脅迫してださせた幕府・慶喜にたいする、強烈な反感反発であった。

 ・・・

 先に久光が朝彦親王に呈した天皇・公家の意識改革を含んだ朝政改革の意見書や、元治国是会議の際における公家・朝議の模様などを検討した際に、久光・薩摩藩首脳が朝廷に失望感を抱いたことを指摘した。しかしここにいたり、失望ぐらいではとどまらない。大久保は勅許が正式に発表された二十二日に朝彦親王邸に行き「朝廷これかぎり」との言葉を投げつけていた。朝廷の前途はあやういが、もはや薩摩藩は手をかさずに朝廷とは縁を切る、そのような覚悟だと告げていたのである。

薩長盟約と新国家
この大久保の手紙は、幕末政治の流れを変える契機になったので、もう少しその点についてふれておきたい。この「非義の勅命」の手紙は、坂本龍馬が使いとなって、その写しが長州藩に届けられていた。西郷と龍馬は、九月二十六日に一緒の船で兵庫を発ち、西郷は鹿児島に向かい、龍馬は途中で下船して十月四日に、三田尻で長州藩重役広沢藤右衛門に会って、この手紙(写し)を手渡した。大久保と西郷は何を考えていたのだろう。
 これより先、この年七月に薩摩藩は、長州藩のために薩摩藩名義で長崎のイギリス商人グラバーを通じて銃七千三百挺を買い、龍馬が薩摩藩の船に積んで、下関に運んだ。これにたいして長州藩主毛利敬親(タカチカ)・広封(ヒロアツ)父子は、九月初めに薩摩藩主島津茂久(モチヒサ)と久光に親書を送って礼を述べるとともに、これまで薩摩藩にいだいていた不信は「万端氷解」したと記し、薩長両藩は大きく歩み寄っていた。
 ・・・
 翌年一月二十二日に薩長盟約が結ばれた。龍馬は薩長盟約のスタートとゴールの、両方における証人だったのである。
 薩長盟約は、倒幕のための軍事同盟であったとする説があるが、そのようなものではない。幕府は自滅することが見えている。倒そうとしなくても自ら倒れてゆくのである。盟約が目標としたものは、幕府が倒れた後のこと、すなわち新国家の建設をめざしたのであった。そして、現実に、二年にも満たない内に、慶喜は大政を奉還し将軍職を辞退して、自ら倒れていったのである。
 薩長盟約で目標としたものは、薩長両藩に越前、土佐、名古屋、芸州等の有力諸藩が協力して、幕府の廃絶と、朝廷の政治組織を廃止した上で樹立した王政復古政府となって実現したのである。幕末の歴史を、倒幕運動や権力闘争の歴史として描くのは、あまりにも視野がせまいというべきであろう。

 二十二卿の列参と天皇の怒り
 征長戦争を続行しようとしたのは慶喜の失政であったことはいうまでもないが、それを認めた天皇・朝議にも責任があったというべきであろう。公家の有志から批判の声があがったのは八月三十日であった。
 この日、大原重徳、中御門経之はじめ二十二人の公家が連なって参内し、天皇、朝彦・晃両親王、二条関白らが列座した席で、大原が代表してつぎのように言上した。①諸大名の招集を朝廷の主導で行う②文久二年、三年、元治元年の三カ度で処分を受けた公家を赦免されたい③朝廷政治を改革されたい。
 いわゆる二十二卿の列参といわれるものであるが、これは慶喜の緩急自在な政治的手腕に操られているような二条関白と朝彦親王にたいする、抗議運動でもあることがわかっていたから、関白と親王は九月四日、辞職を申し出た。天皇は却下したが、両人は責任を負って参内を辞した。
 天皇の怒りが強かったことは、大原重徳を「暴人」と呼び、大原と中御門経之そして彼らに加担したとして正親町三条実愛、この三名に閉門を命じたことで明らかである。孝明天皇はけっして暴君ではなかったが、朝廷の秩序を乱す異端分子を許さない、強い意志を持った帝であったといえよう。
 この公家の列参は、洛北岩倉村に隠棲中の岩倉具視が、中御門経之を動かして実行したものである。岩倉は朝廷が国政施行の根本の府となり、幕府と諸藩が朝廷を支える体制、すなわち「王政復古」を実現する、まさに「天下一新」の機会が到来したと主張していた(岩倉具視意見書「天下一新策」。注意しておくべきことは、幕府をひておいするものではないことである)。そして岩倉は、これまで処分を受けた公家の赦免を行って、朝政に復帰させ、朝政改革を断行して、彼の考える「王政復古」を実現しようと構想していたのである。もちろん自分も赦免され、政治の場に復帰するのである。
 ・・・
 …天皇の意思がはっきりしていたのは、処分した公家を赦免することは「毛頭無之」と、この時断言していたことである。

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岩瀬肥後守の攘夷批判と討幕の密勅

2018年06月18日 | 国際・政治

 江戸時代末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が自ら政権返上を明治天皇に奏上し、翌日、天皇がその奏上を勅許したという政治的出来事が、いわゆる「大政奉還」ですが、大政奉還後、なぜ平和的に、新しい時代に移行しなかったのか、と私は疑問に思います。
 慶喜の「大政奉還上表文」には

臣慶喜謹テ皇国時運之改革ヲ考候ニ、昔王綱紐(コウチュウ)ヲ解テ相家(ショウカ)権ヲ執リ、保平之乱政権武門ニ移テヨリ、祖宗ニ至リ更ニ寵眷(チョウケン)ヲ蒙リ、二百余年子孫相受、臣其職ヲ奉スト雖モ、政刑当ヲ失フコト少ナカラズ、今日ノ形勢ニ至リ候モ畢竟(ヒッキョウ)薄徳ノ致ス所 慚懼(ザンク)ニ堪ズ候、況ヤ当今外国ノ交際日ニ盛ナルニヨリ、愈(イヨイヨ)朝権一途ニ出申サズ候テハ、綱紀立チ難ク候間、従来ノ旧習ヲ改メ、政権ヲ朝廷ニ帰シ奉り、広ク天下ノ公儀ヲ尽(ツク)シ、聖断ヲ仰キ、同心協力、共ニ皇国ヲ保護仕リ候得ハ、必ス海外万国ト並ビ立ツベク候、臣慶喜国家ニ尽ス所、是ニ過ギザルト存ジ奉リ候、乍去(サリナガラ)猶(ナオ)見込ノ儀モ之アリ候得ハ、申シ聞クベク旨諸侯ヘ相達シ置キ候、之ニヨリ此段謹ンデ奏聞仕リ候以上

 とあるのです。幕政を顧みて、素直に「従来ノ旧習ヲ改メ」、「広ク天下ノ公儀ヲ尽(ツク)シ」て、「同心協力」を呼びかけているにもかかわらず、下記のように、「賊臣徳川慶喜ヲ殄戮(テンリク)セヨ」と慶喜殺害を命じる「討幕の密勅」が下されたのはなぜでしょうか。

詔す。源慶喜、累世(ルイセイ)ノ威ヲ籍(カ)り、闔族(カフゾク)ノ強(キョウ)ヲ恃(タノ)ミ、妄(ミダリ)ニ忠良ヲ賊害(ゾクガイ)シ、数(シバシバ)王命ヲ棄絶シ、遂ニハ先帝ノ詔ヲ矯(タ)メテ懼(オソ)レズ、万民ヲ溝壑(コウガク)ニ擠(オト)シ顧ミズ、罪悪ノ至ル所、神州将(マサ)ニ傾覆(ケイフク)セントス。 朕、今、民ノ父母タリ、コノ賊ニシテ討タズンバ、何ヲ以テ、上ハ先帝ノ霊ニ謝シ、下ハ万民ノ深讐(シンシウ)ニ報イムヤ。コレ、朕ノ憂憤(イウフン)ノ在ル所、諒闇(リョウアン)ヲ顧ミザルハ、萬(バン)已(ヤ)ムベカラザレバ也(ナリ)。汝(ナンジ)、宜シク朕ノ心ヲ体シテ、賊臣慶喜ヲ殄戮(テンリク)シ、以テ速ヤカニ回天ノ偉勲ヲ奏シ、而シテ、生霊(セイレイ)ヲ山嶽ノ安キニ措(オ)クベシ。此レ朕ノ願ナレバ、敢ヘテ或(マド)ヒ懈(オコタ)ルコト無カレ

 この「討幕の密勅」の内容は、徳川慶喜を全く理解しようとしていない上に、極めて冷酷で攻撃的です。
 この「討幕の密勅」は、岩倉具視を中心とする討幕派による「偽勅」であったという説がありますが、私も間違いなく「偽勅」だろうと思います。なぜなら、孝明天皇がなくなった大変な時期に、即位して一年も経ていないまだ14歳の明治天皇が、あたかも長期にわたって天皇の位にあって物事を考えてきたかのような、こうした内容の勅許を下すとは考えにくい上に、勅許には、摂政二条斉敬の名がなく、花押も御名もなかったということだからです。

 また、「幕末政治家」福地源一郎(平凡社)の「岩瀬肥後守」には、岩瀬肥後守が、堀田閣老によって招集された諸大名の前で、条約締結の必要性六点をあげて論じた内容が記されています。「一身の禍害を顧」みずなされた「岩瀬肥後守」の主張は、どれも充分考え抜かれたものであり、間違っていないと思います。そして、立派ではないかと思います。
 「岩瀬肥後守」の主張を聞いた諸大名については
諸大名は内心その条約には不服の向もありしかど、岩瀬の才弁に説伏せられては、目のあたり一語の異議を提出すること能はずして、皆謹聴し敢て反対の詞を発する者も無かりけり
 とあります。当時の攘夷の思想では、何の反論もできなかった、ということではないかと思います。 下記に抜粋した文章で、岩瀬肥後守を中心とする幕府の役人が、幕末、日本を取り巻く情勢をかなり正確にとらえ、懸命に対応しようとしていたことがわかるのではないかと思います。
 
 だから、徳川慶喜殺害を命令するような「偽勅」によって権力奪取を画策し、力づくで政権移行を成し遂げた人たちによる明治の時代を明るいものとして描き、「文化の日」を「明治の日」に変えたり、明治150年を記念して様々な事業を展開しようとする計画には、賛成できません。
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                            岩瀬肥後守

 岩瀬肥後守は昌平学校の出身にして、一躍御目付に挙られ、重職中にて尤も壮年の士なりき。識見卓絶して才機奇警、実に政治家たるの資格を備へたる人なり。阿部内閣の時には、未だ十分に其技倆を現はすに至らざりけるが、堀田内閣の時に至り、米国ハルリスが下田に渡来し、和親貿易の条約訂結を請求せるに際し、応接委員と為りてハルリスと折衝し、親しく其説く所を聴き、大いに悟りて益々其開国説を主張し、遂に堀田閣老をしてハルリスを許して参府せしめ、将軍家に拝謁して国書を親呈せしめ、堀田と外交談判に渉らしめたるは、主として岩瀬の力なりき。当時幕府を挙て皆鎖国攘夷の説に執拗し開国和親を喜ばず、阿部内閣の後を請て、姑く外国の請求に応じ、「薪水の供給若くは漂着難船の救助を諾するに止めて、以て切迫の機を緩くし、其間に我軍備を整へて外交を謝絶すべし」と云ふが幕府一体の政策にて、開国和親は固より其好まざる所なりけるに、独り岩瀬は、初より少しく蘭書をも読みて、聊か外国の事情を知れりとは云ひながら、此非開国の群議の間に立ちて、断然世界の通義をを主張し、「和親貿易の条約は欧米諸国の望に応じて之を訂結せざる可からず。然らざれば日本は孤立して国運も終に危し」と公言し、以て閣議を動かしたるは、岩瀬なり。世間或は井伊大老を以て開国政治家の主動者の如くに云ふものは其実を知らざるの説なり。当時幕吏中にて初よりして毫も鎖国攘夷の臭気を帯びざりしは、岩瀬一人にして堀田閣老をして、其所信を決断せしめたるも、岩瀬に外ならざりしこと事実にして明白なり。

 既にしてハルリスは出府して大に開国の議を以て堀田内閣に説き、永井川路の諸人も之に同意を為して幕議は条約訂結と決したるが、当時鎖攘の気焔は、水戸の導火線に由て熾に世上に唱えられ、列藩諸候の如きも大抵は開国説に傾きたりければ、幕閣は頗る之に関して難色ありしに、岩瀬は堀田を勧めて諸大名を招集せしめ、己れ自から其中に進み出で、開鎖の利害を堂々と弁じ、幕府が条約を結ぶを以て国家の大利益を謀るの趣意を説きたり。諸大名は内心その条約には不服の向もありしかど、岩瀬の才弁に説伏せられては、目のあたり一語の異議を提出すること能はずして、皆謹聴し敢て反対の詞を発する者も無かりけり。

・・・

 されども、岩瀬は当時藩主の内命を帯びて出京せる越前の橋本左内と窃に結托し、青蓮院宮を始め奉り、三条公、其外の公卿を説くに、鎖攘の利害を以てし、開国の必要を論ぜしめ、己れも亦公卿に面会する毎に、其機を外さず論弁したれども、其効を奏するを得ずして、空しく堀田に先ちて東帰したり。
”当時京都の公卿が外国の事情に疎かりしは、実に予想の外に出でたり。橋本左内の報告に「三条実万公は政治に関して利害得失を聞分け玉ひ、実に非常の御方なれども外国の事情に至りては、一向に御分り無く恰も別人の如き状にておはします」と云へるを以て、其状況を知り、岩瀬が其才を展すこと能はざりしを察すべきなり。

 条約調印の勅許は未だ之を得るに至らず、而して英仏両国が戦捷の余威を以て、全権を日本に派遣するの時期は、方に目前に迫りたれば、「此上は勅許を俟たずして日米条約に調印し、対外政策の基礎を定むること急務なり」とは、当時外国掛の議にして、岩瀬は尤も其主張者なり。群議の交々之を不可なりとせるを排し、閣老松平伊賀守の果断を利用し、以て幕閣をして調印を独断せしめたるは、実に岩瀬の力なりき。


 水野筑後守(其時は田安殿御家老)は元来条約勅許論者の一人でありければ、此議論の際に、岩瀬に面会して曰く「幕府已に条約調印に関して勅許を京都に請へる以上は、米国全権へ対しては如何ようにも言延し、以て其勅許を俟つの外に方策あるべからず。然るを目下幕府の独断にて調印せば、他日不測の大患あらんこと必定なり。是足下の独断説は大に余が反対せる所なり」。岩瀬冷笑して曰く、「京都公卿には、宇内の大勢を弁別して国家の利害を悟り、条約勅許に同意を表すもの一人も無し是を知りながら、徒に勅許々々と勅許を恃み、其為に時期を失ひ、英仏全権等が新捷の余威に乗じて我国に来るを待たんは、実に無智の至りなり。斯る蟠根錯節の場合に遭際しては、快刀直截の外は有る可からず。国内不測の大患は、我素より覚悟する所なり。我は唯々国外より不測の大患を被らん事を恐るゝなり」と云々(是は水野筑州の直話)。当時また幕府の有識中にも、岩瀬が勅許を俟たずして調印するの議を主張せるを危ぶみて、頻りに岩瀬を難詰したるに、岩瀬は憤然として答へて曰く、「彼の日米条約の草案は、第一にハルリスが両国の利益を重んじ、及ぶ程の功夫を竭して立案し、次に不肖なれども、我輩が畢生の才智の揮ひて、論難数回を重ね、及ばずながらも日本の利益を保護して、漸く議定したる条約なり。今日の場合にては、仮令誰か全権に成りて談判しても、日本が富国強兵の実を挙げざる限りは、是より優等の条約を議定すること、尤も難しかるべし。是一ツ。次には此条約の調印を遷延し其中に英仏全権が十数艘の軍艦を率て品川沖に乗込み、和親貿易の条約を議定すべしと要求するに至らば、其要求は今日の日米条約よりは、遥に我国に不利益なる条款を多く議定する事に成らんは必定なり、寧ろハルリスが申す如く、早く今日の条約に調印して其関門を設け置くの安全なるに若かず、是二ツ。次には今日の条約に勅許なき程なれば、英仏の条約とても勅許なきは勿論なり。或は行掛りの上にて、英仏全権等が直に大阪に乗込み、勅許の大権ある京都へ談判すべしとて、江戸湾を去り西上せんこと、決して其必無を保し難し。斯ては忽に戦争の端を開きて、日本の禍を招くの恐あり、是三ツ。次には、「春秋城下の盟を恥づ」などゝ迂遠なる論を唱へ、勝敗に拘らず一戦を試みたる上にて、和親貿易を開くべしと主張する輩あり。一戦して頑固者輩に迷夢を醒さするは宜しけれども、其為に取返しの成らざる禍根を日本に残すは最も恐るべき事なり。故に今日の長計は早く日米和親条約に調印し、諸外国に対しては、戦わずして和するに若かず、是四ツ。次には勅許を俟たずして条約に調印する事より、議論沸騰して、益々朝廷の震怒を招き、徳川氏をして遂に不臣の名を得せしむに至る事もあらんが、畢竟朝廷にて、一途に攘夷と思召し給ふは、宇内の形勢を知食されぬ故なり。されば今日勅許を俟たざるは、不臣に似て実は決して不臣に非ざるなり、是五ツ。次には、此調印の為に不測の禍を惹起して、或は徳川氏の安危に係はる程の大変にも至るべきが、甚だ口外し難き事なれども、国家の大政に預る重職は、此場合に臨みては、社稷(シャショク)を重しとする決心あらざる可からず、是六ツ。此六ツの理由あるを以て、僕は断然調印の議を主張し、敢て一身の禍害を顧ざるなり」と云々(是は井上信濃守の直話)。

 条約調印に関しては、岩瀬辛くして其目的を達したれども、儲君議に関しては全く失敗して、井伊大老、幕閣に首座し、紀州殿御養君と定まり、復動かす可からざる事となれり。然れども岩瀬が越前候土州候およびおよび橋本左内等の諸士と謀りたるは、外にしては外国の交通を開き、内にしては政治を釐革(リカク)するの目的なれば、「此目的を達するには、年長賢明」の将軍家を戴かざる可からず。其事行はれずば、暫く一歩譲りて、一橋殿を御意見に立てゝ、大権を摂せしめ奉り、越前候及び有名の人々を政務の総裁と成し以て大に計る所あらん」と密議したり。然るに其事漏れ聞えたりけん、岩瀬は有志の諸大名および有司諸人と倶に、一網に打撃せられて初め閑散の地位に左遷せられ、尋で安政六年に厳責を被りて官職を褫奪(チダツ)せられたり(その後数年ならずして憂鬱の為に病みて卒去せり)。

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ペリー提督とアメリカ大統領国書他

2018年06月15日 | 国際・政治

 下記は、ペリー提督が来航したとき持参した大統領の国書と信任状、およびペリー提督自身による皇帝への手紙です。この国書やペリー提督の手紙を読めば、これを受け入れ、アメリカとの通商を開始し、鎖国政策を変更することは当然のことだったと思います。

 ペリーが「…必要とあらばより強力な艦隊を率いて来春、エドに戻ってくる用意がある」といっている上に、日本との貿易を許されていたオランダの国王ウィレム二世が、日本に長文の親書を送り開国を勧告していたことも見逃せません。オランダ国王の勧告は、清国における阿片戦争やアロー戦争で露わになっていたように、イギリスが自国工業生産品の販路拡大を中心とする利益追求のため、他国との衝突も辞さない動きをしていることを踏まえた勧告であって、もはや鎖国を維持すべき時代ではないということだったと思います。したがって、幕府はそうした情勢に対応するため、開国政策を進める一方で、苦しい財政状況のなかで西洋式軍備を整え、オランダから艦船を輸入するなど対応にあたっていたのだと思います。 

 にもかかわらず、いわゆる「ペリーの黒船来航」依頼、日本各地で尊王攘夷運動が活発化し、尊王攘夷急進派による幕府側関係者の暗殺が日常的に起きるようになっていきます。また、薩摩藩は生麦事件をきっかけとして、攘夷実行を名目とする薩英戦争を単独で戦って敗北し、長州藩も攘夷実行のためとして、馬関海峡を封鎖し、航行中のアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して無通告で砲撃を加えるという無謀な下関戦争を単独で戦って敗北しています。薩摩も長州も、情勢を的確に把握していなかったことは否定しようがないのではないかと思います。そして、いずれも多額の賠償金を幕府に押しつけ、以後、海外から知識や技術を積極的に導入し、軍備軍制を西洋式に近代化して、攘夷を放棄したかのような方向に歩みを変えています。だから誠実な指導者であれば、こうしたときに自らの攘夷の誤りを認め、幕府と一体となって、日本の近代化に取り組む方向に歩みを変えるのではないかと思います。
 でも、倒幕運動は続いたのです。だから、幕末の倒幕運動は、いったい何のための倒幕運動なのか、単なる権力奪取が目的の野蛮な倒幕運動ではないか、と考えざるを得ないのです。

 下記は、「ペリー提督日本遠征記」井口孝監修・三方洋子訳(NTT出版)から抜粋しました。
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                   第十三章 浦賀の役人との交渉・大統領国書を呈上

 アメリカ合衆国大統領 ミラード・フィルモアから日本国皇帝へ

 偉大なる良き友よ
 私はこの手紙を合衆国海軍の最高位士官にして、陛下の領地をいま訪問中のマシュー・C・ペリー提督に託す。
 私はペリー提督に、あなたの臣民および役人に対して、私が親愛の念を抱いていることと、合衆国と日本が友好のうちに暮らし、通商条約を結ぶという提案を示すよう、託した。
 議会および合衆国国法は、他国に宗教的・政治的な干渉を行うことを禁じており、私はペリー提督に、貴皇帝の領土の平穏を乱しかねないいっさいの行動を控えるように命令してある。アメリカ合衆国は大西洋から太平洋まで広がり、そしてオレゴン州とカリフォルニア州は、貴帝国と向かいあっている。我が蒸気船は十八日間で、カリフォルニアから日本まで到達できる。
 わがカリフォルニアは毎年、金を六千万ドル産出し、そのほかに銀や水銀、貴石など貴重なものを産出する。日本もまた豊かで肥沃な国であり、多くの貴重品を産する。そして皇帝の民もまたいろいろな技術に優れた職人でもある。日本とアメリカ双方の利益のために二つの国が交易することを私は希望する。
 皇帝家の祖法が、中国とオランダ以外の外国との貿易を禁じていることを私たちも知っている。だが世界の情勢がこのように変化し、新しい国家もできている以上、時機に合わせて新しい法を編み出していくのが賢明だと私たちは考える。あなたがたの祖法が作られたときも、それはそのときの時機に合わせて作られたのである。
 新世界と呼ばれるアメリカは、貴国の祖法が作られたのとほぼ同じころ、ヨーロッパ人が発見し入植した。長いこと、人口は少なく、みんな貧しかった。それが大人口になり、通商は盛んになっている。もし皇帝が、自由な交易をできるように祖法を変えるなら、両国にとって、大変利益のあることになろう。
 外国との交易を禁じる祖法を廃止することが安全でないと皇帝がお考えになるなら、五年か十年、実験期間をおいてもいい。期待されたほどの利益があがらなかったなら、祖法にもどせばいいのだ。アメリカはこれまでも他国との条約を数年に限って、期限になったら更新するか廃棄するかを任せてきた。
 皇帝に伝えるよう、私がペリー提督に命令したことはもう一つある。わが国の漁船はカリフォルニアと中国の間で越年し、日本の近海で捕鯨を行っている。そこで嵐のときなど、貴国の海岸に難破船が打ち上げられたりするかもしれない。そのようなときには、我々が救助船を派遣するまで、哀れな乗組員を親切に扱い、彼らの財産を保護していただきたい。このことを切にお願いする次第である。

 ペリー提督は、貴国に石炭や食糧が豊富にあることを我々が知っていることも伝えるであろう。太洋を渡る我が国の蒸気船は大量の石炭を燃やすが、そのすべてを母国から積み込んでいくことは不都合である。そこで蒸気船およびその他の船が貴国に寄って、石炭や食糧、水を補給できるよう我々は願っている。もちろんそれに対して、現金もしくは貴政府が定めるところの対価を支払う。そこでこの目的のために貴国の南部に、都合の良い港を指定していただきたいのである。このことを非常に熱望している。

 私が強力な艦隊とペリー提督を派遣したのは、貴国の帝都エドを訪問する目的のためである。友好と通商、石炭と食糧の補給、難破船の乗組員の保護を求めて。
 ペリー提督にささやかなる贈り物を持たせてある。大した価値のあるものではないが、中にはアメリカの工業製品の見本となるものもあろう。我々の誠実にして尊敬の念を失わない友好のしるしとして、ご嘉納されたい。
 主のご加護が、皇帝の上にあらんことを!
 その証左として、アメリカの大印を押し、我サインを付す。
 アメリカ、ワシントン、大統領執務室にて
 1852年11月13日
    親しき友   ミラード・フィルモア  
       大統領の命により
    国務長官   エドワード・エベレット
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ペリー提督より皇帝へ
    日本沖合、アメリカ海軍サスケハナ号にて    1853年7月7日 
 本状の署名者である、東インドおよび中国、日本海域駐留のアメリカ海軍艦隊の提督は、自国政府によって友好目的のために日本に派遣された。アメリカ大統領の国書に示されたようなーーその写しは署名者の信任状とともに英語、オランダ語、中国語に訳されているーー事柄を交渉するために十分な兵力を伴って。
 大統領国書の原本および信任状は、日本の皇帝の高い地位にふさわしく整えられおり、署名者自らが、会見に定められた時日にお渡しするであろう。
 署名者は日本に対して大統領がとても友好的な気持ちをもっていること、しかしながら、海を越えて貴国領にはいったアメリカ国民が仇敵のように取り扱われていることに驚き、悲しみの念をもっていることを伝えるように命令されている。
 署名者はアメリカ船モリソン号、ラゴタ号、ローレンス号のことに言及しているのである。
 ほかのすべてのキリスト教国同様、アメリカ人にとっては、国籍はどうあれ難破した者を優しく扱い、援助し守るのが、神聖な義務と考えられている。難破した日本人に対して、アメリカ人はそのように接しているはずである。
 アメリカ政府は、今後、船の難破により日本海岸に漂着した者、あるいは天候の具合で日本の港に逃げ込んだ者に対し、日本政府が人道に基づく積極的な態度をとることを要求する。
 アメリカがヨーロッパのいかなる国とも提携しておらず、またその国法は自国民の宗教に干渉するものでなく、いわんや他国民の宗教に干渉するものでないことを伝えるよう、署名者は命令を受けている。
 アメリカは日本とヨーロッパの間に位置する大国であり、日本に初めてヨーロッパ人が訪れたのとほぼ同じ頃、ヨーロッパのさる国がアメリカを発見した。ヨーロッパに近いアメリカ大陸の一部にヨーロッパの移民が植民し、それ以後人口は分散して太平洋岸にまで達した。いまでは大都市も増え、蒸気船で日本まで十八日から二十日で到達するようになった。この地域の通商は急速に増えており、日本近海は間もなくわが国の船で埋まるであろう。
 このように日本とアメリカは日々距離を縮めている。アメリカ大統領は、貴国と、平和と友好裡に過ごすことを希望しているが、日本が敵対行動をとり続ける限りはその友好も長続きしないであろう。
 貴国の政策は、そもそも賢明なものであったかもしれないが、両国間の往来がこのようにたやすく迅速なるものとなった以上、もはや賢明とも実際的とも言えない。
 署名者は、日本政府が非友好的な衝突を回避する必要を理解して、この好意ある申し出を受け入れられんことを希望して、一連の提言を行うものである。
 日本を訪問すべく予定された軍艦の大多数はまだ到着していないが、近々に到着するであろう。
 いま署名者は友好的意思の表れとして小艦四隻しか率いていないが、必要とあらばより強力な艦隊を率いて来春、エドに戻ってくる用意がある。
 だが貴国政府が、大統領国書に示された、非常に合理的にして平和的な提言をただちに受け入れて、そのような再度の訪問を不必要なものとされんことを期待する。なお大統領の提言については、適当な機会が設けられ次第、署名者が説明する。
   皇帝陛下に深い敬意を表し、永のご健康と多幸を祈念しつつ
   M・C・ペリー  東インドおよび中国、日本海海域におけるアメリカ海軍総提督
日本国皇帝陛下
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ペリー提督より皇帝陛下に
   アメリカ蒸気艦サスケハナ号にて
   エド湾、ウラガにて、  1853年7月14日
 私を通じて日本政府に渡された提言は、非常に重要にしてかつ緊要な問題を含むため、これを討議し諸問題を決定するには、かなりの時間がかかるであろうということが署名者に言い渡された。そのことを勘案したうえで署名者は、来春のエド再訪まで返事を待つことを宣言する。そのときには必ずや問題が友好裡に決着し、両国が満足がいくであろうことを確信するものである。
   心からの敬意をもってM・C・ペリー  
    東インドおよび中国、日本海海域におけるアメリカ海軍総提督
日本国皇帝陛下
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ペリー提督への信任状
 アメリア合衆国大統領ミラード・フィルモアより日本国皇帝陛下に
 合衆国海軍大佐マシュー・C・ペリーの高潔さ、慎重さ、有能さに全幅の信頼をおいて、私は以下の全権を委任した。合衆国の名において、貴国側の同等の権威を委任された一人もしくは複数の人物と会見協議し、その人物(たち)との交渉によって、両国の友好と通商および航行に関する、あるいはそれに関連して両国の利益となる事柄に関して単数または複数の協定、条約を結んでそれに署名すること。ただしそれには合衆国大統領の最終的認可と上院の賛同および批准を要する。
 これを証するため、アメリカ大統領の印を押印する。
 ワシントン市にて、1852年11月13日、独立第七十七回記念日に
   ミラード・フィルモア  
   国務大臣 エドワード・エベレット

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ペリー来航と幕府の対応 倒幕の目的

2018年05月29日 | 国際・政治

 江戸時代、オランダは長くヨーロッパ唯一の貿易国でしたが、幕府はオランダ船が入港するたびに様々な海外情報を得ていたといいます。それは、「オランダ風説書」や「別段風説書」として残されているようですが、「オランダ風説書と近世日本」松方冬子(東京大学出版会)によると、幕府は鎖国中にもかなり詳細な海外情報を得て、それなりの対応をしていたようです。例えば、1842(天保13)年、幕府が「異国船打払令」を撤回して「薪水給与令」を発令したのは、阿片戦争後イギリスが日本に艦隊を派遣して開港を迫る可能性が報告されたからであるといいます。

 また、オランダの国王ウィレム二世は、1844(天保15)年、日本に長文の親書を送り、薪水給与令では充分でないとして、開国を勧告したといいます。その親書で国王は、イギリスが産業革命後、自国工業生産品の販路拡大のため、他国との衝突も辞さない動きをしていることを伝え、
幸福な日本が戦争により荒廃せぬため、外国人に対する法律を緩和されよ。我々は(将軍に)この提案を純粋な目的で、政治的利己主義とは全く離れて行う。日本政府の賢明さが、友好関係によってのみ平和が守られ、これ(友好関係)は貿易によってのみ生まれることを洞察されることを希望する。

と述べ、
”将軍が日本にとって極めて重要な問題に関し、さらに良く知ることを要求するならば、われわれは(国王)陛下直筆の書簡にしたがい、ある人物を日本に派遣する準備がある。その人物は(中略)その詳細のすべてを将軍に明らかにできる。”
と提案したといいます。
 また、ペリー艦隊の来航も事前に予告されていたといいます。

 そうした情報をもとに、外国との新たな関係を模索し、条約締結の政策を進めていた幕府に対し、長州を中心とする勢力が、尊王攘夷を掲げて倒幕のために様々な手段を行使したため、多くの犠牲者を出しました。でも、幕府が攘夷の思想に凝り固まっていたので倒されたということであれば、理解はたやすいのですが、話は逆で、幕府は、尊皇攘夷をかかげた長州を中心とする勢力によって倒されたのです。にもかかわらず、倒幕後、長州を中心とする勢力によってつくられた明治新政府は、攘夷を貫くことなく開国に転じ、脱亜入欧と呼ばれるような政策を展開しました。だから、いわゆる「明治維新」と呼ばれるものが、いったい何であったのか、権力奪取が目的の倒幕ではなかったのか、と考えてしまうのです。そして、権力を奪取した討幕派が、昭和の敗戦に至る日本の骨格をつくったのではないか、と思うのです。

 日本の初代内閣総理大臣伊藤博文は、松下村塾に学んだ長州藩士だった人ですが、1871(明治4)年に、岩倉使節団の副使として渡米し、サンフランシスコで、「日の丸演説」といわれる演説をしています。その中で、
わが国の大名たちは自主的に版籍奉還を行い、その任意的行為は新政府に容れられるところとなり、数百年来強固に継続してきた封建制度は一個の弾丸を放たず、一滴の血を流さないで、一年以内に廃棄させられました。
 このような驚くべき結果は政府と国民との協調により成就させられましたが、今やそれぞれ一致して進歩に向った平和的道程を進みつつあります。中世において戦争を経ずして封建制度を打破しえた国がどこかにあったでしょうか。
というようなことを言ったといいます。
 でも、伊藤博文は、幕末に塙保己一の息子で国学者の塙忠宝(次郎)を暗殺し、御殿山で建設中の英国公使館を焼き討ちするなど徹底した倒幕・攘夷の活動を遂行した人物です。そうした自らの過去や、明治新政府樹立にいたるまでの尊王攘夷の運動による多くの犠牲についてはどのように考えていたのか、と疑問に思います。

 「ペリー提督日本遠征記」を読むと、幕府が開港に向けてかなり準備をしていただろうことが想像されます。そうでなければ、下記の文章に見られるような対応はできなかったのではないでしょうか。浦賀奉行所の与力・香山栄左衛門はペリー提督一行に高く評価されています。
 だから、「ペリー提督日本遠征記」を読んで、またしても幕末の倒幕運動はいったい何であったのかと思うと同時に、明治新政府が脱亜入欧を基本政策とし、大陸膨張政策をとったことが、後の日本を決定づけたのではないか、とあらためて思いました。

 なお、著者は「歴史家の仕事 まえがきに代えて」で、”米国の政治家や外交官は記録を残す際に、専門の歴史家・伝記作家を雇い、できるだけ詳しく、(一見する限り)正確を期した記述を展開させるようだ。”と書いていますが、確かに、同書の記述は一人の人間ではとても不可能と思われるくらい、詳細で多岐に渡る内容を含んでいます。
 下記は、 「ペリー提督日本遠征記」井口孝監修・三方洋子訳(NTT出版)から 「第十三章 浦賀の役人との交渉・大統領国書を呈上」の一部を抜粋しました。
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                   第十三章 浦賀の役人との交渉・大統領国書を呈上

 ・・・
 エドから正式な返書が届くという日(7月12日)、午前9時半にウラガから三隻の船がやってきて、サスケハナ号に横付けした。いつもの幕府の舟とは違い、ヨーロッパの船を模して造られた船のようだった。漕ぎ手はおっかなびっくりの様子であったが、いつもの和船のように脇に立ったりしゃがんだりしているのではなく、櫓の横にすわっている。船の造りは見た目にもしっかりしていて、型も美しかった。マスト、帆、索具は日本の伝統的なものだった。乗組員の数は多く、一番大きい船では三十人、ほかの二隻は十三人が乗っていた。彼らは日焼けした体に、いつも青に白い縞のゆっくりした服を着ていた。
 先頭の船は広い帆に、幕府の印である黒い横縞のほかに、高位の役人が乗っていることを示す黒と白の旗を掲げていた。船が近づくと、絹の衣をまとったカヤマ・ヤザエモン(香山 栄左衛門)が甲板に敷かれたマットにすわり、通訳や従者に取り囲まれているのが見えた。
 二隻は少し距離を置いたところに止まり、先頭の一隻だけがサスケハナ号に近づいてきた。主任通訳ホリ・タツノスケ(堀達之助)、副通訳ハツヒコ・トクシマを伴って、カヤマはすぐに乗艦を許され、形式通りブキャナン艦長とアダムス中佐のところに案内された。
 奉行の到着前に提督は、皇帝にあてて次のような手紙を書いていた。

 アメリカ蒸気艦サスケハナ号にて
 ウラガ 1853年7月12日
  条約を協議する全権を賦与された、この海域における米国海軍の提督である私は、皇帝の最高位 の家臣と協議することを望んでいる。それは、米国大統領から皇帝にあてた国書および信任状の原 本を奉呈するためである。
その会見のために、できるだけ早い日時が設定されることを望む。

 日本国皇帝殿

 奉行はまず、国書の原本を受け取る前に翻訳が渡されるということについて誤解があったと述べた。
提督はそんな行き違いがなかったことはよくわかっていたが、さんざん協議したあと、午後二回目の協議で、次のことに同意した。翻訳と原本および提督から皇帝への手紙を同時に渡すこと、それについては皇帝がそれを受け取るにふさわしい役人を任命することを条件とした。さらに提督は、最高位の役人にしか渡さないこと、繰り返し強調した。そこで奉行は、提督と従者のためにいま海岸に施設を建築中であり、皇帝に任命された高位の役人がそこで受け取ることになる、しかし返事はエド湾で渡せない、ナガサキでオランダ語か中国語の通訳を通じて渡されるどろう、と言った。提督は次のようなメモを書いてオランダ語の通訳に渡し、よく奉行に説明してやるように伝えた。
「提督はナガサキには行かないし、オランダ語や中国語の通訳から受け取ることもしない。提督は、米国大統領から日本の皇帝または外務大臣にあてた国書を携えており、それ以外の者には原本を渡すことはしない。この国書が受け取られなかったり、返書がなされなかった場合には、米国が侮蔑されたものと考え、以後の事態に責任を負わない。数日中に返書が得られることを期待するが、それはこの近海以外では受け取らない」
 奉行はこれが伝えられると、彼は上の人と協議すべくすぐに艦をおりた。ウラガには、この成りゆきに指示を下す、何人かの幕府の役人がいるはずである。会見は三時間以上続き、奉行が下艦したのは午後一時前だった。会見は、友好的な雰囲気と通常の礼儀が保たれ、穏やかに行われた。海岸も静かで、砦にもなんの動きもなかった。ただ沿岸にはたくさんの幕府の舟があったが。
 去り際の約束どおり、奉行は午後になると、いつものように通訳と従者を連れて戻ってきた。だが、舟は午前のようなヨーロッパ型のではなく日本独特の型のでやってきた。ブキャナン、アダムス両中佐が一行を迎え、同じ形式と作法に則って協議を再開した。提督は相変わらず自室にいて、ほかの者を通して日本人と接触していた。以下に、その会話の逐語記録を掲げる。
 出席者 ブキャナン艦長
     アダムス中佐
     副官コンテ大尉
     ウラガ奉行ヤザエモンおよび通訳
ヤザエモン まず国書の写しと信任状を、それから原本を渡されるというのでは、上に上げるのに大      変時間がかかるので、高位の役人が来たときには、両方を一緒にお渡しいただきたい。      奉行と役人は総力をあげて提督にふさわしいお迎えをします。 
ブキャナン 提督の目的はそんなことではない。書面の中に、提督自身から皇帝にあてた手紙もある      ので、それを写しと一緒にエドへ送ってほしいのです。大統領の国書への返事は、いま      は大した問題ではない。提督の手紙への返事がほしいのです。
ヤザエモン 国書の原本を渡してくれれば、できるだけ早く返事をしましょう。我々はいま、大統領      から皇帝への国書を受け取るために来ているのに、あなたがたは提督の手紙のことを問      題にしている。
 ・・・以下会話略

 協議は終わった。
 カヤマ・ヤザエモンとその一行はたいへん上機嫌で、サスケハナ号の士官たちの申し出たもてなしを喜んで受け、とても洗練されたマナーで振る舞った。もてなしの場で彼らはくつろぎ、ご馳走、なかでも特にウイスキーとブランデーが気に入ったようだった。さらに奉行はリキュール、それも砂糖のはいったものを好んで、最後の一滴まで飲み干した。通訳は宴会の陽気さを楽しみ、上役の酒癖をからかい、ヤザエモンが飲み過ぎるので「もう顔が真っ赤になっている」とも注意していた。
 日本の役人たちは、育ちのよさを示すかのように、紳士的冷静さと節度のあるマナーを終始崩すことはなかったが、とても社交的で、自由に陽気に会話を楽しんだ。彼らのもつ知識や情報も、洗練されたマナーや人なつこい気質に劣らなかった。育ちがいいばかりでなく、教育程度も高かった。オランダ語、中国語、そして日本語に長け、世界地理や科学の一般知識にも通じていた。地球儀が運ばれ
てくると、彼らは合衆国の位置に目をつけ、ワシントンとニューヨークを即座に指さした。まるで、一方が首都で一方が商業の中心であることを知っているかのようだった。同じ正確さで、彼らは英国、フランス、デンマークなどヨーロッパの国も指さした。合衆国についての質問からも、彼らがわが国の物質文明の進歩について無知ではないことがわかった。合衆国では道路が山を貫いて走っているのか、と彼らが聞いたのは、たぶんトンネルか鉄道のことをさして言ったのだろう。船のエンジンを見たときに通訳が、これはサイズは小さいけれど、アメリカの道を旅行するのに使われるのと同じ機械か、と質問してきたことから、この推測が正しいことがわかった。また地峡を横切る運河はもうできたのか、と聞いてきたのは、当時建設中だったパナマ運河のことだろう。二つの大洋をつなぐ仕事が行われている、ということを彼らは知って、それを実際に見たことのある運河という名前で表現したのだろう。キャビンで飲みながら会話をしたあと、ヤザエモンと通訳は艦内見学に招かれて、礼儀正しく応じた。彼らが甲板に上がると、そこには、ふだん日本人にはほとんど接することのない士官や乗組員が好奇心かを抑えきれずに密集していた。しかし彼らはちっともあわてず平静で、礼儀正しさを一瞬たりとも失わなかった。艦内のいろいろな設備に知的興味を示し、大砲を見ると「ペーザン型(「訳註 弾体が爆裂する榴弾を発射するカーン砲。当時の最新型であった)」とその名を正しく言い、完璧な蒸気船のすばらしい技術とメカニズムを初めて見た人なら示すであろう驚きはみせなかった。機関部はたしかに彼らの大いなる興味の対象だったが、通訳は、まったくその原理を知らないという様子ではなかった。こういった冷静でしかも注意深い態度は、念入りに計算されたものであったかもしれない。しかし、日本人は実用科学の面で遅れていたにしても、教育程度の高い者たちは、ほかの文明国の進歩についてきちんと情報を得ていることは疑いの余地がない。
 船室を出るとき、役人は刀を置いていった。刀は、日本である程度の位についている者がいつも身につけているものだ。そこで、主に好奇心からこれら権威の象徴を調べてみると、それは実用よりは見た目本位のものだということがわかった。刃は鋼も焼きもすばらしく、よく手入れされているが、刀身と柄の形から言うと、実用には不向きだった。外装は純金、さやは鮫皮で、凝った細工のものだった。
 奉行の訪問は夕方まで長引き、退艦は午後七時になった。奉行と通訳は去るにあたって、いつものとおり礼儀正しく、階段一段ごとにお辞儀を繰り返し、威厳は失わないまま、人なつこい微笑みをふりまいていった。我々のもてなしと、見学したものすべてに感銘を受けたに違いない。我々との協議の場で見せるあのものものしい礼儀正しさも、その場だけに演出されたものではないようだ。こうしてくだけた場でも、彼らは同じように礼儀正しいのだから。それは、ヤザエモンと通訳が幕府の舟に戻ってすぐに、まるで初対面の人同士のように、待っていた役人たちと挨拶をかわしたことからもわかるだろう。こういった場面が演じられている間にも、提督の命を受けたボートは一日中忙しく測量を続けていた。
 翌日は13日水曜日。約束どおりなら、朝早く奉行がやってくるはずだった。しかし午前中に奉行がやってくる気配はなく、なにもかも静かな期待のなかにあった。だが近くの陸地の様子から察すると、幕府のほうにはなにか動きがあったらしい。対岸から兵士を乗せたたくさんの船がウラガ湾を横切り、また幕府の旗と印をつけた大きなジャンクが港にはいっていった。ウラガ港の商売はいつもどおりの活況を呈し、大小さまざまな日本の舟が行ったり来たりしていた。湾を取り巻く村や町はここで生活物資を交換し、大都会エドの心臓の鼓動に合わせて余剰物資をエドに送り込んでいるのだ。数えただけで一日六十七隻のジャンクが湾を通っていった。
 気温は30度に達していたが、海風で暑さがだいぶやわらいでいた。日本の海岸部に特有といわれるもやで、ときどき景色はぼやけた。しかし艦隊の経験からいうと、ここまでのところ上天気といってよく、湾にやってきてから、この日が一番もやの出た日であった。偉大なランドマーク、フジも頂上しか見えなかった。フジはいつもなら昼間より夕方、特に日没には深紅の光を浴びて輝いて見える。
 午後4時ごろついに奉行がやってきた。カヤマ・ヤザエモンがいつものように、第一・第二通訳を連れてきて、エドから高位の役人がたったいま着いたところなので、もっと早く来られなかったと、何千回もお詫びを言った。そのお詫びがやっと終わると、奉行は、提督と会見すべく任命された役人に対しての皇帝の命令書を出した。皇帝の文書は短いもので、大きな花押で証明されていた。その文書はびろうどで包まれた百檀の箱に入れられ、奉行は大切に扱ってほかの者には手を触れさせなかった。オランダ語の写しとその文書の正当性を示す証書、それと押された花押の正当性を示す文書は、奉行カヤマ・ヤザエモンの署名付きで渡された。以下にその翻訳を示す。

 日本国皇帝より伊豆守トダに与えられた信任状の翻訳
合衆国大統領より余にあてた国書を受け取るために、ウラガに派遣する。その国書とは、近ごろ提督がウラガに携えてきたものであり、受け取りしだい、エドにもどって、余に届けるように。
(将軍印)
1853年第六月

 ウラガ奉行カヤマ・ヤザエモンが皇帝の文書と印の正当性を保証する文書の翻訳
日本国皇帝みずから任命した役人、またエドからウラガへ国書原本および翻訳を受け取るべくやってきた役人は、間違うことなくたいへん高位の者で、提督と同等の位であります。
私が保証します。
カヤマ・ヤザエモン

 協議の間奉行は、皇帝に任命された役人は国書を受け取って皇帝に届けるという権限を与えられた者であり、交渉にはいる権限はいっさいもっていないということを繰り返し、強調した。また国書受領の場所を変更することを申し出たが、すでに適当な建物が建設されており、変更は適当でないということになった、とも伝えた。提督はこの答えも予想していた。なんらかの悪だくみが計画されているのかもしれないが、できる限りそれに備えようと決めていた。そこで受領のための施設が建てられている岬に調査班を派遣してあった。この仕事を任命された士官はすばやく任務を果たし、そこを射程は範囲とするところまで艦を進めることは可能であること、また多くの人間がその建設や家具の運搬、準備のために働いていると報告した。
 奉行は会合の場所まで舟で同行しようと申し出たが、これは拒絶された。さらに、提督が長い距離を小さな舟で移動するのは権威にかかわるので不都合であること、そこで会合の予定地に近いところまで艦隊が移動することが、奉行に通告された。そして翌木曜日8時から9時の間に提督と一行は下艦することが決まった。日本側は、日中の暑さを避けるためにもっと早い時間を希望したが。
 ・・・以下略 

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「大東亜共栄圏」と「宇内混同秘策」 

2018年05月18日 | 国際・政治

 戦時中、佐藤信淵は、大東亜攻略を述べた人物として大いに称揚され、軍人を中心に多くの人が、その著書『宇内混同秘策』(うだいこんどうひさく)を読んだといいます。その内容は、昭和17年2月発行の「宇内混同秘策・劍懲 皇国精神講座第三輯」小林一郎講述(平凡社)で、詳細な解説を参考にしながら読むことができます。下記は、その「宇内混同秘策」全体の概論ともいえる「宇内混同大論」を抜粋したものです。 

 佐藤信淵は江戸時代後期の思想家で、儒学や国学、神道、本草学、蘭学などを、当時を代表する学者から学び、「宇内混同秘策」は1823年(文政6年)に著したといいます。封建制度を基盤とする幕藩体制のもとで、大政奉還の40年以上も前に、来たるべき統一国家としての日本の姿を想定し、日本の領土的拡張を志向する考え方をしていたことに驚きます。まさに、明治政府の政策を先取りしたような内容です。

 「宇内混同大論」の冒頭には、「皇大御国(スメラオオミクニ)は大地の最初に成(ナ)れる国にして世界万国の根本なり。故に能く根本を経緯するときは、則ち全世界悉く郡県と為すべく、万国の君長皆臣僕と為すべし」とありますが、復古神道(古道学)の大成者といわれる、平田篤胤の教えを受けた影響が窺われます。そして、それは明治政府の「皇国史観」と結びついた侵略主義的領土拡張政策へと発展し、第二次世界大戦の敗戦に至るまで、変わることがなかったのではないかと思います。
 佐藤信淵は江戸時代末期の学者ですが、昭和17年の「皇国精神講座」「宇内混同秘策」が取り上げられていることは、注目すべきことではないかと思います。

 司馬遼太郎が晩年に執筆した『この国のかたち』の中で、
昭和ヒトケタから同二十年の敗戦までの十数年は、ながい日本史のなかでもとくに非連続の時代だった
とか、
日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦に至る四十年間は、日本史の連続性から切断された「異胎」”の時代
とか、
明治の状況では、日露戦争は祖国防衛戦争だったといえるでしょう。
とか書いていますが、やはり違う、とあらためて思います。

宇内混同秘策」には
凡そ他邦を経略するの法は、弱くして取り易き處より始るを道とす。今に当て世界万国の中に於て、皇国よりして攻取り易き土地は、支那国の満州より取り易きはなし。
とあります。また、
支那既に版図に入るの上は、その他西域、暹羅(シャム)、印度亜(インデイア)の国、佚漓鴃舌(シュリゲキゼツ)、衣冠詭異(イカンキイ)の徒、漸々に徳を慕ひ威を畏れ、稽顙匍匐(ケイソウホフク)して臣僕に隷(レイ)せざることを得ん哉。故に皇国より世界万国を混同することは難事に非ざるなり。”
とか、
大泊府の兵は琉球よりして台湾を取り、直に浙江の地方に至り、台州(タイシュウ)寧波等の諸州を経略すべし。
という記述もあります。
 佐藤信淵の記述通り、明治政府は侵略主義的な領土拡張政策をとって日清戦争を戦い、”支那既に版図に入るの上は…”というような意図も持っていたがためにロシアとぶつかり、日露戦争に至ったということではないでしょうか。

 また、「宇内混同秘策・劍懲 皇国精神講座第三輯」の著者、小林一郎は、同書の中で、
佐藤信淵について、”佐藤信淵は徳川時代の末期に生まれた、最も勝れた学者の一人で「二宮尊徳と一対の人物」であると書いています。

そして

”但し、尊徳の方は主として各地方に於ける農業の振興を図るといふことがその一代の主張の大体でありまして、日本の国の力を外に伸ばすといふやうなことに就いては、餘り研究もして居らず、また特に説いて居る所もありませぬ。ところが佐藤信淵の方は二宮尊徳より餘ほど積極的でありまして、無論国力を盛んにしなければならぬのは言ふまでもないのであるけれども、日本が永く日本にのみ限られてはいない、日本は東洋地方の各国民を指導すべき天職を持って居るのだといふやうな確信を持って其の説を立てて居ります。それですから、此の二人の大家に就いて必ずしも優劣を論ずる必要はないのでありますが、各々其の特色があるといふことを認めなければならぬので、尊徳のやうに此の国の内容を充実せしめることに力を尽して行くに就ての意見も尊重すべきでありますが、また信淵のやうに外に全力を伸ばすといふ大理想を以て国内を整頓するといふ考へも、実に卓見と謂はなければならぬのでありまして、此の二人は徳川時代の末期に於ける学者の中に於て、最も大なる光輝を放つて居る人と申して差支へないと思はれます
と評価しています。皇国史観と一体となった領土拡張政策は、明治以来先の大戦における敗戦に至るまで一貫しているということではないでしょうか。
 だから私は、明治維新150年の記念事業に現を抜かし、「文化の日」を「明治の日」に変えようとすることには、とても問題があると思うのです。
 (旧字体や旧仮名遣いは一部はあらため、一部はそのままにしました。)
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                           宇内混同秘策

  宇内混同大論
 皇大御国(スメラオオミクニ)は大地の最初に成(ナ)れる国にして、世界万国の根本なり。故に能(ヨ)く其根本を経緯(ケイイ)するときは即全世界悉く郡県(グンケン)と為(ナ)すべく、万国の君長(クンチョウ)皆臣僕(シンボク)と為すべし。謹んで神代の古典を稽(カンガフ)るに、青海原潮之八百重(アオウナバラシオノヤホヘヲ)知所也(シラストコロナリ)とは、皇祖伊邪那岐大神(コウソイザナギノオオカミ)の速須佐之男命(ハヤスサノヲノミコト)に事依(コトヨサ)し賜(タマ)ふ所なり。然(シカ)れば、則(スナハ)ち産霊(ムスビ)の神教(シンケウ)を明(アキラカ)に靏して以て世界万国の蒼生(ソウセイ)を安(ヤスン)ずるは、最初より皇国に主たる者の要務たるを知る。曾(カツ)て予(ヨ)が著したる経済大典及び天刑要録等は悉く産霊(ムスビ)の神教(シンケウ)を講究(コウキュウ)したる書にして、即ち全世界を安集(アンジフ)するの法なり。蓋し世界万国の蒼生(ソウセイ)を済救(サイキュウ)するは極めて広大の事業なれば、先づ能く万国の地理形勢を明弁(メイベン)し、其の形勢に従て天意(テンイ)の自然に妙合(ミョウゴウ)するの処置なければ、産霊(ムスビ)の法教(ホウケウ)も得て施すべからざるなり。故に地理学も亦明にせずんばあるべからず。

今夫万国の地理を詳にして、我日本全国の形勢を察するに、赤道の北三十度より起て四十五度に至り、気候温和、土壌肥沃、万種の物産悉く満溢せざること無く、四辺皆大洋に臨み、海舶の運漕(ウンソウ)其便利なること万国無雙、地霊に人傑にして勇決他邦に殊絶し、宇内を鞭撻すべきの実徴(ジッチョウ)全備せり。其形勝の勢自ら八表に堂々として、此神州の雄威を以て蠢爾(シュンジ)たる蠻夷を征せば、世界を混同し万国を統一せんこと何の難きことあらん哉。嗟乎(アア)造物主の皇大御国を寵愛し給ふこと至れり尽せり。蓋し皇大御国も天孫の天降以後は、人君太古神世の法教に敬遵(ケイジュン)従事せずして、遊惰放埒に数多の年所を送り、美女を愛し烈婦を嫌て其天年を傷(ヤブ)り、経済の要務を蔑如(ベツジョ)して無益の経営に奢靡を逞うし、夫妻和せず家政齊(トトノ)はず、兄弟相争ひ親戚相殺して其国家を堕落し、遂に君不君臣不臣(キミキミタラズシンシンタラズ)の風俗と為れり。故に大名持少彦名(オオナモチスクナヒコナ)の規模頽敗して、国体の衰微せしこと既に久し。故に邪魔浮屠等(ジャマフトトウ)の説盛に行はれ、世に真教を知れる者の有ること無きに至れり。故に澆季(ゲウキ)の愚俗(グソク)は、支那、天竺等其国の広大なるを聞き、且皇国の土地小に気勢の弱きを見て、予が混同大論を聞くと雖、或は捧腹(ホウフク)して其の量を知らざる者とし、実に皇国に万国を使令すべき天理のあることを覚ること無し。即ち是下士は道を聞て大に笑ふの諺の如く、所謂笑はざれば道とするに足らざる者是なり。若夫れ斯の如くにして其儘に捨置ものならば、恐くは邪魔に溺るゝ者を永久に救ふべきの期なく、太古神聖の法教も或は世に断絶せんこと嘆ずべきの至りなり。勤めて古道を講明せずんばあるべかあらず。然り而して今の世に当て此道を講明せん者を求んに、予を措て誰ぞや。是経済大典、天刑要録及び此書の作の止むことを得ざる所以なり。然れども世挙て皆悪俗に沈みて予を知る者なし。苦思慷慨(クシコウガイ)すると雖、誰か能く信ずる者あらんや。必や明君出づること有て而して後に用ゐられん者なり。

 抑(ソモソモ)世界の地理を寧(ツマビラ)かにするに、万国は皇国を以て根本とし、皇国は信(マコト)に万国の根本なり。其子細を論ぜん。抑皇国より外国を征するには其勢ひ順にして易く、他国より皇国に寇(アダ)するにはその勢ひ逆にして難し。其皇国より易くして他国より難しと云ふ所以は、今世に当て万国の中に於て土地最も広大に物産最も豊穣、兵威最も強盛なる者を撰ぶときは、支那国に如くものあらんや。而して支那は皇国に隣接密邇(ミツジ)なりと雖、支那全国の力を尽して経略するとも皇国を害すべきの策あることなし。若し、暴戻の主ありて、強て大衆を出して寇を為すこと胡元の忽必烈(クビライ)が如く、盡国(ジンコク)の衆を起すと雖も、皇国に於ては少しも恐るゝに足らずして、彼国に於ては莫大の損失あり。故に一度は来ると雖も、再三すること能はざるは論を俟ざることなり。又皇国より支那を征伐するには、節制さへ宜きを得れば五七年に過ぎずして彼国必土崩瓦解(カノクニカナラズドホウガカイ)するに至る可し。何となれば皇国にては兵を出すの軍費甚少なしと雖も、彼国に於ては散財極て広大なるを以て此に堪(タフ)ること能はず。且其国人奔命(ソノクニニンボンメイ)に疲労するを奈(イカ)んともすること無し。故に皇国より他邦を開くには、必ず先づ支那国を呑併するより肇(ハジマ)る事なり。既に上に云へる如く、支那の強大を以て猶ほ皇国に敵すること能はず、況(イワン)や其他の夷狄(イテキ)をや。是れ皇国には天然に世界を混同すべき形勝あるが故なり。故に此書は先づ支那国を取るべきの方略を詳にす。支那既に版図に入るの上は、その他西域、暹羅(シャム)、印度亜(インデイア)の国、佚漓鴃舌(シュリゲキゼツ)、衣冠詭異(イカンキイ)の徒、漸々に徳を慕ひ威を畏れ、稽顙匍匐(ケイソウホフク)して臣僕に隷(レイ)せざることを得ん哉。故に皇国より世界万国を混同することは難事に非ざるなり。

 然れども将に疆外(キョウガイ)に事有んとするには、先づ能く内地を経綸すべし。其根底の堅固ならずして枝葉の繁衍(ハンエン)する者は、或は本傾くの患(ウレヒ)を発することあり。故に日本全国の地理を講明し、山海の形勢を弁論すべし。凡四海を治るには先づ王都を建てずんばある可らず。王都は天下の根本なるを以て、形勝第一の地を撰ぶべし。浪華は四海の枢軸にして万物輻輳の要津(ヨウシン)なり。然れども分内狭く人民極て多く、土地より生ずる所の米穀、或は居民を食(ヤシナ)ふに足らず。故に此地に大都を建てば、皇居は深く慮(オモンバカル)るべき所あり。然れば王都を建つべきの地は江戸に如くものあることなし。関東は土地広平にして沃野千里、且相模、武蔵、安房、上総、下総の五洲を以て内洋を包み、斗禰(トネ)及び秩父、鬼怒、多摩の四大河内洋に注ぐを以て、水路能く通流し百穀百果其他諸国の産物運送甚便なり。万貨豊穣、人民飢餓の患あること鮮(スクナ)く、殊に峩々たる崇山三方を圍繞(イジョウ)し、以て他鎮と境界を分ち、只東方一面大洋に濱(ヒン)し、進では以て他国を制すべく、退ては以て自ら守るに餘(アマリ)りあり。郊野曠廣にして馬強健、人民衆多(シウタ)にして勇壮、実に形勢天下に雄たり。凡そ重に居て軽を馭(ギョ)し、強を以て弱を征する永静の基礎を立るに宜し。故に王都を建の土地は江戸を以て第一とす。王都を此地に定て永く移動すること無るべし。浪華も亦天然の大都会なれば此を西京(セイキョウ)として別都と為すべし。其他駿河の府中、尾張の名護屋、近江の膳所、土佐の高知、大隅の大泊、肥後熊本、筑前博多、長門萩、出雲松江、加賀金澤、越後の沼垂、奥州の青森及び仙台、南部、以上十四所には省府を建て、節度大使を置き、以て各部内の政事を統理せしむべし。

 上に説たる如く東西両京並立て、且別に四海を分て十四の省を置き、仁義を篤行つて律令を厳密にするに非ざれば、日本全国を我手足の如く自由にすること能はず。若夫れ自国の運動猶癱瘓(タンタン)するが如きは、豈他邦を征するに遑あらん哉。東西両京既に立ち、十四省府も既に設け、経済大典の法教既に行はれ、総国の人民既に安く、物産盛に開け貨財多く貯へ、兵糧満溢れ武器鋭利に、船舶既に裕足し、軍卒既に精錬し、而して後に肇て海外に事あるべし。且又日本の土地の妙なることには、南方には敵国あること鮮(スクナ)し。故に意を専らにして北方を開くことを得べし。若し南海に寇(アダ)あるに及では防禦すること甚難く、動(ヤヤ)もすれば皇居も騒擾して忽ち困窮を受るに至る。故に海外に事ありと雖も、東西二京は勿論のこと、駿府名古屋のニ省も、亦大衆を動すこと勿れ。高知省と雖も妄に衆を動さずして、唯五六千人の軍卒と五六十の軍船を出して、南海中の無人島を開き、漸々其南に在る諸島を開発して皇国の郡県と為し、其地の産物を採り集て本邦に輸(イタ)し、以て国家の入用に供すべし。此南海の諸島を比利皮那(ヒリピナ)の諸島と名く。大小七八百ありて、東西千里、南北八百里許(バカリ)の海中に散在す。大抵無人島にして人の居住するは少なし。然れども此諸島は何れも気候炎熱に、土地肥沃なるを以て、丁字(チョウジ)、肉桂(ニクケイ)、サフラン、胡椒、甘松、木香、檳榔子(ビンラウジ)、大黄、縮沙(チシャ)、椰子、良姜(リヤウキヤウ)、黒檀、タガヤサン、及び鮫甲(サメノカフ)、真珠等、種々貴重なる薬品香料の産物出す。廃置(ステオク)べきに非るなり。是れ啻(タダ)に物産を開くのみならず、東京の為に海上を守るなり。国家を経営する者は、察せずんばあるべからざるなり。

 凡そ他邦を経略するの法は、弱くして取り易き處より始るを道とす。今に当て世界万国の中に於て、皇国よりして攻取り易き土地は、支那国の満州より取り易きはなし。何となれば満州の地、我日本の山陰及び北陸、奥羽、松前等の地と海水を隔て相対するもの凡そ八百餘里、其勢ひ固(モト)より擾(ミダ)し易きことを知るべし。事を擾(ミダ)し騒すにも亦当(マサ)に備(ソナヘ)なきの處を以て始めとし、西に備るときは東を乱妨し、東に備るときは西を騒擾せば、彼れ必ず奔走して之を救ふべし。彼が奔走するの間には、以て其虚実強弱を知るべし。而して後に実する處を避て虚なる處を侵し、強を避て弱を攻め、必ずしも大軍を用るにも及ばず、暫くの間は先づ軽兵を以て之を騒擾すべし。満州の人は躁急にして謀(ハカリゴト)に乏(トボシ)く、支那人は懦怯(ダケフ)にして懼(オソ)れ易し。少しく警(イマシ)めあるも必ず大衆を以て之を救はん。大衆度々(タビタビ)動くときは、人力疲弊して財用歇乏(ザイヨウケツバフ)すべきこと論ずるに及ばず。況や支那の王都北京より満州海岸に往復するには、沙漠遼遠にして山谷極て険難なるをや。然るに皇国より之を征するには、僅か百六七十里の海上なれば、順風に帆を挙るときは一日一夜に彼が南岸に至る。其西すべきも東すべきも舟行(シウカウ)甚だ自在なり。若又支那人大衆を以て防守せずして、何れの處も空虚ならば、我国の軍士以て虚に乗じて之を取るべし。此(カク)の如くなれば黒龍江の地方は、将に悉く我が有と為らんとす。既に黒龍江の諸地を得るときは、益産霊(マスマスムスビ)の法教をを行ひ、大(オホイ)に恩徳を北方の夷人に施して之を撫納帰化(ブナフキカ)せしめ、彼の夷狄(イテキ)を用ひて皇国の法を行ひ、能く撫御統轄(ブギョトウカツ)して漸々西に向はしめば、混同江の地方も亦取易きなり。既に吉林城を得るときは、即ち支那韃靼(ダッタン)の諸部必ず風を望(ノゾミ)て内附すべし。若其稽首(ケイシュ)して到らざる者は、兵を移して之を討んに此れも亦便宜に従ふべし。韃靼既に定らば則ち盛京(セイキャウ:今の瀋陽)も亦其勢ひ危く、支那全国まさに震動すべし。故に皇国より満州を征するには、之を得るの早晩は知るべからずと雖ども、終には皇国の有と為らんことは必定にして疑なき者なり。夫啻に満州を得るのみならず、支那全国の衰微も亦此れより始ることにして、既に韃靼を取得るの上は、朝鮮も支那も次で而て図るべきなり。

 茲に其子細を詳らかにするに、満州の極北境に黒龍江と名(ナヅク)る大河あり。此大河の海に注ぐ處は、我蝦夷の唐太島(カラフトトウ)と僅十餘里の海水を隔(ヘダツ)るのみ。此處(ココ)は支那の王都北京城より七百里程離れたる地にて、飛脚を走らしむるにも凡そ八九十日かゝらざれば達すること能はず。然れども要樞(ヨウスウ)の地なるを以て、斎々哈爾(シシカル=チチハル)と云處(イフトコロ)に城を構へ、支那の北京より一人将軍を遣(ツカハ)して軍卒を置て此地を鎮護せしむ。故に唐太島の北辺には、支那人居住する者恒(ツネ)に少なからず。総て此辺は北極出地五十五度の外に在るを以て、気候寒冷にして穀物を生ぜず、土人は魚類鳥獣草根木皮等を食物とし、我蝦夷人と異なること無し。又軍士の食糧は遥に支那の本国より輸送するを以て、常に五穀の乏きに困(クルシ)む。故に此地にて米穀を悦ぶこと金玉よりも甚し。然るに我奥羽及び古志等の諸州米穀を生ずること夥くして、恒に食餘の腐朽するを憂ふ。有餘を移して不膽(フゼン)を救ふは即ち産霊(ムスビ)の法教なり。今此北州の餘米(ヨマイ)を運送して蝦夷国の諸港に積蓄(ツミタクワ)へ、青森省と仙台省より軍船と人数を出し、蝦夷の諸島に於て水軍の戦法を操練し、且此人を以て漸々唐太島の北境を開き、此地に越年せしめて能く寒地の風土に馴習はし、別に清官及び怜悧なる商官等を遣はし、彼国の土人と交易を通ぜしめ、厚く酒食等を施して土地の夷狄を悦ばし、産霊(ムスビ)の法教を説示して益(マスマス)土人を教化帰服せしめ、次に黒龍江に近寄て大に恩徳を施し、利を与へ物を恵で多くの米穀を輸送し、交易と云ふと雖ども利分に拘はることなく、醇酒(ジュンシュ)と美食とを贈て彼土の居人撫すべし。凡そ血気ある者は恩を悦んで徳に帰せざること無し。況や人類に於てをや。彼等是まで草根木皮を食とせしを、之に代はるに皇国の糧米を以てし、馬湩(バトウ)を飲て宴楽せしを、之に代るに醇良の美酒を以てせば、誰か歓喜して信服せざる者あらんや。三年を過ぎずして四方風動せん。

 支那人、夷狄の皇国の法教に靡くを探り得ば、必ず痛く皇国の通津(ツウシン)を禁ずべし。夫れ経済の大典は、掛(カケ)まくも畏き産霊(ムスビ)の神教にして、世界万国の蒼生を救済すべきの法なり。然るに之を拒むに至ては即ち天地の罪人なり。惟(コレ)皇上帝降衷于下民(オホイナルジョウテイチュウヲカミンニクダス) 。若有恒性(ツネノセイアルニシタガヒ)。克綏厥猷惟后(ヨクソノイフヲヤスンゼシムルハコレキミナリ)とは、支那国にても皆人の知る所なり。満州の夷人古来食物に艱(ナヤ)む。懋(ツトメ)て有無を遷し之れに粒食せしむるは天道なり。然るに支那国王其猷(イウ)を綏(ヤスン)じて其民を贍救(センキュウ)し、之を救済して粒食(リュウショク)せしむること能はず、草根木皮を食料とし牛馬の湩(トウ)を飲料とす。夫れ食草ひハ馬湩(バトウ)飲むは 、此豈人恒生ならんや。人類は悉く天地の子也。人類にして粒食に艱(ナヤ)むを愍恤(ビンジュツ) せざるベけん乎。故に皇国の有餘を遷して彼土の不足を救ふ、固(モト)より天意を奉行するなり。然るに支那人之を拒む、何の暴虐か此より大なるもの有ん哉。惟天恵民(コレテンタミヲムグム)、惟辟奉天(コレキミテンヲホウズ)と。天意を奉りて万国の無道を正すは、草昧(ソウマイ)より皇国の専務たり。於是乎軍(ココニオイテカグン)を出し黒龍江を攻伐(コウバツ)して天罰を行ひ、以て蒼生の悪俗に沈むを救ふべし。

 而して其軍を出すの次第は、先づ第一に青森府、第二に仙台府、此二府の兵は以前より唐太島(カラフトトウ)を開発して彼地に越年し、寒地の風土に馴たる者共なれば先陣に進み、黒龍江より西南コメル河、センケレ河、エレ河、ヨセ河、ヤラン河等の地方に軍船を駕寄(ノリヨセ) て、或は上陸して土人に穀類、美酒等施して夷狄を撫納し、或は處々(ショショ)戍兵(ジュヘイ)あるの営塞等を焼払て敵の軍卒を打取り、或は防守の厳重なる場所は、上陸せずして船より大筒火箭等を打掛けて海岸を騒擾し、或は備なくんば次第に進み、駕込(ノリコ)んで
或は戦い、或は食物を施して夷人を撫すべし。第三に沼垂府、第四金澤府此二府の兵も軍船数十隻ばかりを一手として、朝鮮国の東なる満州の華林河、ヤラン河、クリエン河、ナルキン河等の辺りに至り、青森仙台の兵と同じく處々にて種々の計策をを行ひ、敵国を悩煩(トウハン)せしむるを主とし、右四府の兵七八千を以て満州八百里の海岸を周旋し、透間を伺ひ上陸し、各(オノオノ)思付たる働を為すべし。如斯(カクノゴトクすること四五年及ばゞ、支那人大に困窮して、終(ツイ)には満州を守ることを得ずして黒龍江の諸部は悉く我が有となるべし。其れより漸々混同江を征伐して吉林城を攻落し、夷狄を撫納駕御して盛京攻(セム)べし。、第五には松江府、第六に萩府、此二府は数多の軍船に火器車筒等を積載て朝鮮の東海に至り、咸鏡、江原、慶尚三道を経略すべし。

 第七には博多府の兵は数多の軍船を出して朝鮮国の南海に至り、忠淸道の諸州を襲ふべし。朝鮮既に我が松江と萩府の強兵に攻られ、東方一円に寇(アダ)に困(クルシ)むの上は、南方諸州は或は空虚なる處あるべし。直に進で之を攻め、大銃火箭(オオヅツカヤ)の妙法を尽さば、諸城皆風を望で奔潰(ホウカイ)すべし。乃(スナハ)ち其数城を取て皇国の郡県と為し、淸官(セイクワン)及び六府の官人を置き産霊(ムスビ)の法教を施し、厚く其民を撫育(ブイク)して教化に帰服せしめ、此處(ココ)より又軍船を出して時々兵を渤海辺に輝かし、登州萊州の(トウシュウライシュウ)の濱海諸邑(ヒンカイショイフ)を擾(ミダ)さしむべし。又青森仙台沼垂金澤四府の兵、各其本省より人数を増し加へ、大衆を以て盛京を攻べく、且韃靼(ダッタン)諸部の夷狄等も皇国の恩徳に心服せば、此も亦大衆を会して支那を攻むべければ、盛京も守ることを得べからず。況や我火述の妙を以て之を攻るに至ては、如何なる堅城も防禦することを得べからざること論ずるにも及ばず。盛京既に守らざるに至ては、北京も亦守ることを得べからずして、淸主必ず陝西(センセイ)に走るべし。或は走らずして北京を防守すと雖ども、皇国の雄兵既に満州を席巻して盛京(セイケイ)を攻落し、別師は朝鮮国を統平して鴨緑江を渡り、七府の大兵悉く遼陽に会し、連勝の利に乗じ進で山海関に到達せば、智者も守るべきの策なく、勇者も戦ふべきの勢ひなからん。

 第八には大泊府の兵は琉球よりして台湾を取り、直に浙江の地方に至り、台州(タイシュウ)
寧波等の諸州を経略すべし。支那人既に迫近(ハクキン)の強敵に困(クルシ)むに至ては、遠近の難を救ふことを得べからず。諸城皆争て欵を請ふにあらざれば必ず城を棄てて奔潰(ホウクァイ)すべし。況や我火攻法の防ぐべきの述なきをや。唯其人を殺すことを憐れむが為に、三銃の偉器(イキ)を用ひずして撫諭して降らしむるを要とすべし。故に何れの府よりも兵を出すの大将には、必ず教化台の小師か亜師を用るものは、壇殺(センサツ)の禁を厳にするが故なり。能々(ヨクヨク)土人を憐れみ愛して、篤く恩徳を施して之を撫諭すべし。然りと雖ども迷いを執て天朝に帰服せず、痛く天兵を拒みて防戦する者に至ては、悉く殺して許すこと勿れ(ナカ)れ天罰を行ふなり。是即ち天罰を行ふなり。

 第九には親征(シンセイ)なり。供奉(クブ)には必ず熊本府の兵を従ふ。親征するには先づ諸方の皇師(=皇軍)の形様を校(ウカガ)ひ、支那国王所謂淸主なる者の既に困苦するを探得て而して後に渡海すべし。先陣の兵は直に江南の地方を衝(ツ)き、早く南京應天府を取り、之を仮皇居と為すべし。乃ち支那人の文才ある者を登用して、淸主の邪魔左道を崇信して天地の神意を蔑如(ナイガシロ)にし、痛く皇国の法教を拒み、人類の難食憐まず、罪を皇天に得たるを以て、天罰を行て蒼生を救ふの趣の大誥を作らしめ、周(アマネ)く天下に檄し、新附の支那人を憐み、其材あるものは悉く之を選用して官にあらしめ、且又明室の子孫たる朱子を立て上公に封じ、其先祖の祭祀を祗祀(キシ)せしめ大に慈徳を施して篤く支那人を撫育すべし。信(マコト)に能く此策を用ひば、十数年の間に支那全国悉く平定すべし。既に韃靼と支那とを統一するの上は、益々産霊(ムスビ)の法教を明にし、万民の疾苦(シック)を除き、處々に神社を造営して皇祖の諸大神を祭り、学校を興立(コウリフ)し十科の人材を起し、日夜勉強して長く怠ることなく、子孫永久能く祖業を拡充し、天意を奉行して間断(カンダン)することなければ、全世界皆皇国の郡県と為り、万国の君長も亦悉く臣僕に隷せんこと論を俟たずして自ら明なり。

 然りと雖ども経済大典を憲章(ケンショウ)せざれば、自国も安集すること能はず。産霊(ムスビ)の法教を行ふと雖も、天刑要録の兵制なければ、勍敵(ケイテキ)をして奪魄(ダツハク) せしむること能はず。三台六府の政教も、三銃妙用の武備も共に完しと雖ども、世界万国の地理を講明して、其形勢の便宜に従て節度処置の妙を尽さゞれば、宇内混同の大業を成就すること能はず。混同の業に従事する者は、心を尽さゞる可けん乎。予深く上天喣育(ジョウテンクイク)の大恩に感じ、竊(ヒソカ)に六合を括囊(カツナフ)するの意あり。然れども奈(イカ)んせん家貧にして年の老いたることを。於是乎(ココニオイテカ)此書を筆記し、題して混同秘策(コンドウヒサク)と名け、聊か以て晩遠の鬱憤を写し固封して児孫に遺す。嗟乎(アア)後来の英主宇内を鞭撻するの志ある者は、先づ此編を熟読せば、思ひ半ばに過ぎん者なり。

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「大東亜共栄圏」と「宇内混同秘策」 

2018年05月18日 | 国際・政治

 戦時中、佐藤信淵は、大東亜攻略を述べた人物として大いに称揚され、軍人を中心に多くの人が、その著書『宇内混同秘策』(うだいこんどうひさく)を読んだといいます。その内容は、昭和17年2月発行の「宇内混同秘策・劍懲 皇国精神講座第三輯」小林一郎講述(平凡社)で、詳細な解説を参考にしながら読むことができます。下記は、その「宇内混同秘策」全体の概論ともいえる「宇内混同大論」を抜粋したものです。 

 佐藤信淵は江戸時代後期の思想家で、儒学や国学、神道、本草学、蘭学などを、当時を代表する学者から学んでおり、「宇内混同秘策」は1823年(文政6年)に著したといいます。封建制度を基盤とする幕藩体制のもとで、大政奉還の40年以上も前に、来たるべき統一国家としての日本の姿を想定し、日本の領土的拡張を志向する考え方をしていたことに驚きます。まさに、明治政府の政策を先取りしたような内容です。

 「宇内混同大論」の冒頭には、「皇大御国(スメラオオミクニ)は大地の最初に成(ナ)れる国にして世界万国の根本なり。故に能く根本を経緯するときは、則ち全世界悉く郡県と為すべく、万国の君長皆臣僕と為すべし」とありますが、復古神道(古道学)の大成者といわれる、平田篤胤の教えを受けた影響が窺われます。そして、それは明治政府の「皇国史観」と結びついた侵略主義的領土拡張政策へと、第二次世界大戦の敗戦に至るまで、変わることがなかったのではないかと思います。
 佐藤信淵は江戸時代末期の学者ですが、昭和17年に「皇国精神講座第三輯」として1823年(文政6年)に著わされた佐藤信淵の「宇内混同秘策」が取り上げられていることは、注目すべきことではないかと思います。

 司馬遼太郎が晩年に執筆した『この国のかたち』の中で、
昭和ヒトケタから同二十年の敗戦までの十数年は、ながい日本史のなかでもとくに非連続の時代だった
とか、
日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦に至る四十年間は、日本史の連続性から切断された「異胎」”の時代
とか、
明治の状況では、日露戦争は祖国防衛戦争だったといえるでしょう。
とか書いていますが、やはり違う、とあらためて思います。

宇内混同秘策」には
凡そ他邦を経略するの法は、弱くして取り易き處より始るを道とす。今に当て世界万国の中に於て、皇国よりして攻取り易き土地は、支那国の満州より取り易きはなし。
とあります。また、
支那既に版図に入るの上は、その他西域、暹羅(シャム)、印度亜(インデイア)の国、佚漓鴃舌(シュリゲキゼツ)、衣冠詭異(イカンキイ)の徒、漸々に徳を慕ひ威を畏れ、稽顙匍匐(ケイソウホフク)して臣僕に隷(レイ)せざることを得ん哉。故に皇国より世界万国を混同することは難事に非ざるなり。”
とか、
大泊府の兵は琉球よりして台湾を取り、直に浙江の地方に至り、台州(タイシュウ)寧波等の諸州を経略すべし。
という記述もあります。
 佐藤信淵の記述通り、明治政府は侵略主義的な領土拡張政策をとって日清戦争を戦い、”支那既に版図に入るの上は…”というような意図も持っていたがためにロシアとぶつかり、日露戦争に至ったということではないでしょうか。

 また、「宇内混同秘策・劍懲 皇国精神講座第三輯」の著者、小林一郎は、同書の中で、
佐藤信淵について、
佐藤信淵は徳川時代の末期に生まれた、最も勝れた学者の一人」で「二宮尊徳と一対の人物」であると著者は書いています。但し、「尊徳の方は主として各地方に於ける農業の振興を図るといふことがその一代の主張の大体でありまして、日本の国の力を外に伸ばすといふやうなことに就いては、餘り研究もして居らず、また特に説いて居る所もありませぬ。ところが佐藤信淵の方は二宮尊徳より餘ほど積極的でありまして、無論国力を盛んにしなければならぬのは言ふまでもないのであるけれども、日本が永く日本にのみ限られてはいない、日本は東洋地方の各国民を指導すべき天職を持って居るのだといふやうな確信を持って其の説を立てて居ります。それですから、此の二人の大家に就いて必ずしも優劣を論ずる必要はないのでありますが、各々其の特色があるといふことを認めなければならぬので、尊徳のやうに此の国の内容を充実せしめることに力を尽して行くに就ての意見も尊重すべきでありますが、また信淵のやうに外に全力を伸ばすといふ大理想を以て国内を整頓するといふ考へも、実に卓見と謂はなければならぬのでありまして、此の二人は徳川時代の末期に於ける学者の中に於て、最も大なる光輝を放つて居る人と申して差支へないと思はれます
と評価しています。皇国史観と一体となった領土拡張政策は、明治以来一貫しているのではないでしょうか。
 だから私は、明治維新150年の記念事業に現を抜かし、「文化の日」を「明治の日」に変えようとすることが受け入れ難いのです。
 (旧字体や旧仮名遣いは一部はあらため、一部はそのままにしました。)
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                           宇内混同秘策

  宇内混同大論
 皇大御国(スメラオオミクニ)は大地の最初に成(ナ)れる国にして、世界万国の根本なり。故に能(ヨ)く其根本を経緯(ケイイ)するときは即全世界悉く郡県(グンケン)と為(ナ)すべく、万国の君長(クンチョウ)皆臣僕(シンボク)と為すべし。謹んで神代の古典を稽(カンガフ)るに、青海原潮之八百重(アオウナバラシオノヤホヘヲ)知所也(シラストコロナリ)とは、皇祖伊邪那岐大神(コウソイザナギノオオカミ)の速須佐之男命(ハヤスサノヲノミコト)に事依(コトヨサ)し賜(タマ)ふ所なり。然(シカ)れば、則(スナハ)ち産霊(ムスビ)の神教(シンケウ)を明(アキラカ)に靏して以て世界万国の蒼生(ソウセイ)を安(ヤスン)ずるは、最初より皇国に主たる者の要務たるを知る。曾(カツ)て予(ヨ)が著したる経済大典及び天刑要録等は悉く産霊(ムスビ)の神教(シンケウ)を講究(コウキュウ)したる書にして、即ち全世界を安集(アンジフ)するの法なり。蓋し世界万国の蒼生(ソウセイ)を済救(サイキュウ)するは極めて広大の事業なれば、先づ能く万国の地理形勢を明弁(メイベン)し、其の形勢に従て天意(テンイ)の自然に妙合(ミョウゴウ)するの処置なければ、産霊(ムスビ)の法教(ホウケウ)も得て施すべからざるなり。故に地理学も亦明にせずんばあるべからず。

今夫万国の地理を詳にして、我日本全国の形勢を察するに、赤道の北三十度より起て四十五度に至り、気候温和、土壌肥沃、万種の物産悉く満溢せざること無く、四辺皆大洋に臨み、海舶の運漕(ウンソウ)其便利なること万国無雙、地霊に人傑にして勇決他邦に殊絶し、宇内を鞭撻すべきの実徴(ジッチョウ)全備せり。其形勝の勢自ら八表に堂々として、此神州の雄威を以て蠢爾(シュンジ)たる蠻夷を征せば、世界を混同し万国を統一せんこと何の難きことあらん哉。嗟乎(アア)造物主の皇大御国を寵愛し給ふこと至れり尽せり。蓋し皇大御国も天孫の天降以後は、人君太古神世の法教に敬遵(ケイジュン)従事せずして、遊惰放埒に数多の年所を送り、美女を愛し烈婦を嫌て其天年を傷(ヤブ)り、経済の要務を蔑如(ベツジョ)して無益の経営に奢靡を逞うし、夫妻和せず家政齊(トトノ)はず、兄弟相争ひ親戚相殺して其国家を堕落し、遂に君不君臣不臣(キミキミタラズシンシンタラズ)の風俗と為れり。故に大名持少彦名(オオナモチスクナヒコナ)の規模頽敗して、国体の衰微せしこと既に久し。故に邪魔浮屠等(ジャマフトトウ)の説盛に行はれ、世に真教を知れる者の有ること無きに至れり。故に澆季(ゲウキ)の愚俗(グソク)は、支那、天竺等其国の広大なるを聞き、且皇国の土地小に気勢の弱きを見て、予が混同大論を聞くと雖、或は捧腹(ホウフク)して其の量を知らざる者とし、実に皇国に万国を使令すべき天理のあることを覚ること無し。即ち是下士は道を聞て大に笑ふの諺の如く、所謂笑はざれば道とするに足らざる者是なり。若夫れ斯の如くにして其儘に捨置ものならば、恐くは邪魔に溺るゝ者を永久に救ふべきの期なく、太古神聖の法教も或は世に断絶せんこと嘆ずべきの至りなり。勤めて古道を講明せずんばあるべかあらず。然り而して今の世に当て此道を講明せん者を求んに、予を措て誰ぞや。是経済大典、天刑要録及び此書の作の止むことを得ざる所以なり。然れども世挙て皆悪俗に沈みて予を知る者なし。苦思慷慨(クシコウガイ)すると雖、誰か能く信ずる者あらんや。必や明君出づること有て而して後に用ゐられん者なり。

 抑(ソモソモ)世界の地理を寧(ツマビラ)かにするに、万国は皇国を以て根本とし、皇国は信(マコト)に万国の根本なり。其子細を論ぜん。抑皇国より外国を征するには其勢ひ順にして易く、他国より皇国に寇(アダ)するにはその勢ひ逆にして難し。其皇国より易くして他国より難しと云ふ所以は、今世に当て万国の中に於て土地最も広大に物産最も豊穣、兵威最も強盛なる者を撰ぶときは、支那国に如くものあらんや。而して支那は皇国に隣接密邇(ミツジ)なりと雖、支那全国の力を尽して経略するとも皇国を害すべきの策あることなし。若し、暴戻の主ありて、強て大衆を出して寇を為すこと胡元の忽必烈(クビライ)が如く、盡国(ジンコク)の衆を起すと雖も、皇国に於ては少しも恐るゝに足らずして、彼国に於ては莫大の損失あり。故に一度は来ると雖も、再三すること能はざるは論を俟ざることなり。又皇国より支那を征伐するには、節制さへ宜きを得れば五七年に過ぎずして彼国必土崩瓦解(カノクニカナラズドホウガカイ)するに至る可し。何となれば皇国にては兵を出すの軍費甚少なしと雖も、彼国に於ては散財極て広大なるを以て此に堪(タフ)ること能はず。且其国人奔命(ソノクニニンボンメイ)に疲労するを奈(イカ)んともすること無し。故に皇国より他邦を開くには、必ず先づ支那国を呑併するより肇(ハジマ)る事なり。既に上に云へる如く、支那の強大を以て猶ほ皇国に敵すること能はず、況(イワン)や其他の夷狄(イテキ)をや。是れ皇国には天然に世界を混同すべき形勝あるが故なり。故に此書は先づ支那国を取るべきの方略を詳にす。支那既に版図に入るの上は、その他西域、暹羅(シャム)、印度亜(インデイア)の国、佚漓鴃舌(シュリゲキゼツ)、衣冠詭異(イカンキイ)の徒、漸々に徳を慕ひ威を畏れ、稽顙匍匐(ケイソウホフク)して臣僕に隷(レイ)せざることを得ん哉。故に皇国より世界万国を混同することは難事に非ざるなり。

 然れども将に疆外(キョウガイ)に事有んとするには、先づ能く内地を経綸すべし。其根底の堅固ならずして枝葉の繁衍(ハンエン)する者は、或は本傾くの患(ウレヒ)を発することあり。故に日本全国の地理を講明し、山海の形勢を弁論すべし。凡四海を治るには先づ王都を建てずんばある可らず。王都は天下の根本なるを以て、形勝第一の地を撰ぶべし。浪華は四海の枢軸にして万物輻輳の要津(ヨウシン)なり。然れども分内狭く人民極て多く、土地より生ずる所の米穀、或は居民を食(ヤシナ)ふに足らず。故に此地に大都を建てば、皇居は深く慮(オモンバカル)るべき所あり。然れば王都を建つべきの地は江戸に如くものあることなし。関東は土地広平にして沃野千里、且相模、武蔵、安房、上総、下総の五洲を以て内洋を包み、斗禰(トネ)及び秩父、鬼怒、多摩の四大河内洋に注ぐを以て、水路能く通流し百穀百果其他諸国の産物運送甚便なり。万貨豊穣、人民飢餓の患あること鮮(スクナ)く、殊に峩々たる崇山三方を圍繞(イジョウ)し、以て他鎮と境界を分ち、只東方一面大洋に濱(ヒン)し、進では以て他国を制すべく、退ては以て自ら守るに餘(アマリ)りあり。郊野曠廣にして馬強健、人民衆多(シウタ)にして勇壮、実に形勢天下に雄たり。凡そ重に居て軽を馭(ギョ)し、強を以て弱を征する永静の基礎を立るに宜し。故に王都を建の土地は江戸を以て第一とす。王都を此地に定て永く移動すること無るべし。浪華も亦天然の大都会なれば此を西京(セイキョウ)として別都と為すべし。其他駿河の府中、尾張の名護屋、近江の膳所、土佐の高知、大隅の大泊、肥後熊本、筑前博多、長門萩、出雲松江、加賀金澤、越後の沼垂、奥州の青森及び仙台、南部、以上十四所には省府を建て、節度大使を置き、以て各部内の政事を統理せしむべし。

 上に説たる如く東西両京並立て、且別に四海を分て十四の省を置き、仁義を篤行つて律令を厳密にするに非ざれば、日本全国を我手足の如く自由にすること能はず。若夫れ自国の運動猶癱瘓(タンタン)するが如きは、豈他邦を征するに遑あらん哉。東西両京既に立ち、十四省府も既に設け、経済大典の法教既に行はれ、総国の人民既に安く、物産盛に開け貨財多く貯へ、兵糧満溢れ武器鋭利に、船舶既に裕足し、軍卒既に精錬し、而して後に肇て海外に事あるべし。且又日本の土地の妙なることには、南方には敵国あること鮮(スクナ)し。故に意を専らにして北方を開くことを得べし。若し南海に寇(アダ)あるに及では防禦すること甚難く、動(ヤヤ)もすれば皇居も騒擾して忽ち困窮を受るに至る。故に海外に事ありと雖も、東西二京は勿論のこと、駿府名古屋のニ省も、亦大衆を動すこと勿れ。高知省と雖も妄に衆を動さずして、唯五六千人の軍卒と五六十の軍船を出して、南海中の無人島を開き、漸々其南に在る諸島を開発して皇国の郡県と為し、其地の産物を採り集て本邦に輸(イタ)し、以て国家の入用に供すべし。此南海の諸島を比利皮那(ヒリピナ)の諸島と名く。大小七八百ありて、東西千里、南北八百里許(バカリ)の海中に散在す。大抵無人島にして人の居住するは少なし。然れども此諸島は何れも気候炎熱に、土地肥沃なるを以て、丁字(チョウジ)、肉桂(ニクケイ)、サフラン、胡椒、甘松、木香、檳榔子(ビンラウジ)、大黄、縮沙(チシャ)、椰子、良姜(リヤウキヤウ)、黒檀、タガヤサン、及び鮫甲(サメノカフ)、真珠等、種々貴重なる薬品香料の産物出す。廃置(ステオク)べきに非るなり。是れ啻(タダ)に物産を開くのみならず、東京の為に海上を守るなり。国家を経営する者は、察せずんばあるべからざるなり。

 凡そ他邦を経略するの法は、弱くして取り易き處より始るを道とす。今に当て世界万国の中に於て、皇国よりして攻取り易き土地は、支那国の満州より取り易きはなし。何となれば満州の地、我日本の山陰及び北陸、奥羽、松前等の地と海水を隔て相対するもの凡そ八百餘里、其勢ひ固(モト)より擾(ミダ)し易きことを知るべし。事を擾(ミダ)し騒すにも亦当(マサ)に備(ソナヘ)なきの處を以て始めとし、西に備るときは東を乱妨し、東に備るときは西を騒擾せば、彼れ必ず奔走して之を救ふべし。彼が奔走するの間には、以て其虚実強弱を知るべし。而して後に実する處を避て虚なる處を侵し、強を避て弱を攻め、必ずしも大軍を用るにも及ばず、暫くの間は先づ軽兵を以て之を騒擾すべし。満州の人は躁急にして謀(ハカリゴト)に乏(トボシ)く、支那人は懦怯(ダケフ)にして懼(オソ)れ易し。少しく警(イマシ)めあるも必ず大衆を以て之を救はん。大衆度々(タビタビ)動くときは、人力疲弊して財用歇乏(ザイヨウケツバフ)すべきこと論ずるに及ばず。況や支那の王都北京より満州海岸に往復するには、沙漠遼遠にして山谷極て険難なるをや。然るに皇国より之を征するには、僅か百六七十里の海上なれば、順風に帆を挙るときは一日一夜に彼が南岸に至る。其西すべきも東すべきも舟行(シウカウ)甚だ自在なり。若又支那人大衆を以て防守せずして、何れの處も空虚ならば、我国の軍士以て虚に乗じて之を取るべし。此(カク)の如くなれば黒龍江の地方は、将に悉く我が有と為らんとす。既に黒龍江の諸地を得るときは、益産霊(マスマスムスビ)の法教をを行ひ、大(オホイ)に恩徳を北方の夷人に施して之を撫納帰化(ブナフキカ)せしめ、彼の夷狄(イテキ)を用ひて皇国の法を行ひ、能く撫御統轄(ブギョトウカツ)して漸々西に向はしめば、混同江の地方も亦取易きなり。既に吉林城を得るときは、即ち支那韃靼(ダッタン)の諸部必ず風を望(ノゾミ)て内附すべし。若其稽首(ケイシュ)して到らざる者は、兵を移して之を討んに此れも亦便宜に従ふべし。韃靼既に定らば則ち盛京(セイキャウ:今の瀋陽)も亦其勢ひ危く、支那全国まさに震動すべし。故に皇国より満州を征するには、之を得るの早晩は知るべからずと雖ども、終には皇国の有と為らんことは必定にして疑なき者なり。夫啻に満州を得るのみならず、支那全国の衰微も亦此れより始ることにして、既に韃靼を取得るの上は、朝鮮も支那も次で而て図るべきなり。

 茲に其子細を詳らかにするに、満州の極北境に黒龍江と名(ナヅク)る大河あり。此大河の海に注ぐ處は、我蝦夷の唐太島(カラフトトウ)と僅十餘里の海水を隔(ヘダツ)るのみ。此處(ココ)は支那の王都北京城より七百里程離れたる地にて、飛脚を走らしむるにも凡そ八九十日かゝらざれば達すること能はず。然れども要樞(ヨウスウ)の地なるを以て、斎々哈爾(シシカル=チチハル)と云處(イフトコロ)に城を構へ、支那の北京より一人将軍を遣(ツカハ)して軍卒を置て此地を鎮護せしむ。故に唐太島の北辺には、支那人居住する者恒(ツネ)に少なからず。総て此辺は北極出地五十五度の外に在るを以て、気候寒冷にして穀物を生ぜず、土人は魚類鳥獣草根木皮等を食物とし、我蝦夷人と異なること無し。又軍士の食糧は遥に支那の本国より輸送するを以て、常に五穀の乏きに困(クルシ)む。故に此地にて米穀を悦ぶこと金玉よりも甚し。然るに我奥羽及び古志等の諸州米穀を生ずること夥くして、恒に食餘の腐朽するを憂ふ。有餘を移して不膽(フゼン)を救ふは即ち産霊(ムスビ)の法教なり。今此北州の餘米(ヨマイ)を運送して蝦夷国の諸港に積蓄(ツミタクワ)へ、青森省と仙台省より軍船と人数を出し、蝦夷の諸島に於て水軍の戦法を操練し、且此人を以て漸々唐太島の北境を開き、此地に越年せしめて能く寒地の風土に馴習はし、別に清官及び怜悧なる商官等を遣はし、彼国の土人と交易を通ぜしめ、厚く酒食等を施して土地の夷狄を悦ばし、産霊(ムスビ)の法教を説示して益(マスマス)土人を教化帰服せしめ、次に黒龍江に近寄て大に恩徳を施し、利を与へ物を恵で多くの米穀を輸送し、交易と云ふと雖ども利分に拘はることなく、醇酒(ジュンシュ)と美食とを贈て彼土の居人撫すべし。凡そ血気ある者は恩を悦んで徳に帰せざること無し。況や人類に於てをや。彼等是まで草根木皮を食とせしを、之に代はるに皇国の糧米を以てし、馬湩(バトウ)を飲て宴楽せしを、之に代るに醇良の美酒を以てせば、誰か歓喜して信服せざる者あらんや。三年を過ぎずして四方風動せん。

 支那人、夷狄の皇国の法教に靡くを探り得ば、必ず痛く皇国の通津(ツウシン)を禁ずべし。夫れ経済の大典は、掛(カケ)まくも畏き産霊(ムスビ)の神教にして、世界万国の蒼生を救済すべきの法なり。然るに之を拒むに至ては即ち天地の罪人なり。惟(コレ)皇上帝降衷于下民(オホイナルジョウテイチュウヲカミンニクダス) 。若有恒性(ツネノセイアルニシタガヒ)。克綏厥猷惟后(ヨクソノイフヲヤスンゼシムルハコレキミナリ)とは、支那国にても皆人の知る所なり。満州の夷人古来食物に艱(ナヤ)む。懋(ツトメ)て有無を遷し之れに粒食せしむるは天道なり。然るに支那国王其猷(イウ)を綏(ヤスン)じて其民を贍救(センキュウ)し、之を救済して粒食(リュウショク)せしむること能はず、草根木皮を食料とし牛馬の湩(トウ)を飲料とす。夫れ食草ひハ馬湩(バトウ)飲むは 、此豈人恒生ならんや。人類は悉く天地の子也。人類にして粒食に艱(ナヤ)むを愍恤(ビンジュツ) せざるベけん乎。故に皇国の有餘を遷して彼土の不足を救ふ、固(モト)より天意を奉行するなり。然るに支那人之を拒む、何の暴虐か此より大なるもの有ん哉。惟天恵民(コレテンタミヲムグム)、惟辟奉天(コレキミテンヲホウズ)と。天意を奉りて万国の無道を正すは、草昧(ソウマイ)より皇国の専務たり。於是乎軍(ココニオイテカグン)を出し黒龍江を攻伐(コウバツ)して天罰を行ひ、以て蒼生の悪俗に沈むを救ふべし。

 而して其軍を出すの次第は、先づ第一に青森府、第二に仙台府、此二府の兵は以前より唐太島(カラフトトウ)を開発して彼地に越年し、寒地の風土に馴たる者共なれば先陣に進み、黒龍江より西南コメル河、センケレ河、エレ河、ヨセ河、ヤラン河等の地方に軍船を駕寄(ノリヨセ) て、或は上陸して土人に穀類、美酒等施して夷狄を撫納し、或は處々(ショショ)戍兵(ジュヘイ)あるの営塞等を焼払て敵の軍卒を打取り、或は防守の厳重なる場所は、上陸せずして船より大筒火箭等を打掛けて海岸を騒擾し、或は備なくんば次第に進み、駕込(ノリコ)んで
或は戦い、或は食物を施して夷人を撫すべし。第三に沼垂府、第四金澤府此二府の兵も軍船数十隻ばかりを一手として、朝鮮国の東なる満州の華林河、ヤラン河、クリエン河、ナルキン河等の辺りに至り、青森仙台の兵と同じく處々にて種々の計策をを行ひ、敵国を悩煩(トウハン)せしむるを主とし、右四府の兵七八千を以て満州八百里の海岸を周旋し、透間を伺ひ上陸し、各(オノオノ)思付たる働を為すべし。如斯(カクノゴトクすること四五年及ばゞ、支那人大に困窮して、終(ツイ)には満州を守ることを得ずして黒龍江の諸部は悉く我が有となるべし。其れより漸々混同江を征伐して吉林城を攻落し、夷狄を撫納駕御して盛京攻(セム)べし。、第五には松江府、第六に萩府、此二府は数多の軍船に火器車筒等を積載て朝鮮の東海に至り、咸鏡、江原、慶尚三道を経略すべし。

 第七には博多府の兵は数多の軍船を出して朝鮮国の南海に至り、忠淸道の諸州を襲ふべし。朝鮮既に我が松江と萩府の強兵に攻られ、東方一円に寇(アダ)に困(クルシ)むの上は、南方諸州は或は空虚なる處あるべし。直に進で之を攻め、大銃火箭(オオヅツカヤ)の妙法を尽さば、諸城皆風を望で奔潰(ホウカイ)すべし。乃(スナハ)ち其数城を取て皇国の郡県と為し、淸官(セイクワン)及び六府の官人を置き産霊(ムスビ)の法教を施し、厚く其民を撫育(ブイク)して教化に帰服せしめ、此處(ココ)より又軍船を出して時々兵を渤海辺に輝かし、登州萊州の(トウシュウライシュウ)の濱海諸邑(ヒンカイショイフ)を擾(ミダ)さしむべし。又青森仙台沼垂金澤四府の兵、各其本省より人数を増し加へ、大衆を以て盛京を攻べく、且韃靼(ダッタン)諸部の夷狄等も皇国の恩徳に心服せば、此も亦大衆を会して支那を攻むべければ、盛京も守ることを得べからず。況や我火述の妙を以て之を攻るに至ては、如何なる堅城も防禦することを得べからざること論ずるにも及ばず。盛京既に守らざるに至ては、北京も亦守ることを得べからずして、淸主必ず陝西(センセイ)に走るべし。或は走らずして北京を防守すと雖ども、皇国の雄兵既に満州を席巻して盛京(セイケイ)を攻落し、別師は朝鮮国を統平して鴨緑江を渡り、七府の大兵悉く遼陽に会し、連勝の利に乗じ進で山海関に到達せば、智者も守るべきの策なく、勇者も戦ふべきの勢ひなからん。

 第八には大泊府の兵は琉球よりして台湾を取り、直に浙江の地方に至り、台州(タイシュウ)
寧波等の諸州を経略すべし。支那人既に迫近(ハクキン)の強敵に困(クルシ)むに至ては、遠近の難を救ふことを得べからず。諸城皆争て欵を請ふにあらざれば必ず城を棄てて奔潰(ホウクァイ)すべし。況や我火攻法の防ぐべきの述なきをや。唯其人を殺すことを憐れむが為に、三銃の偉器(イキ)を用ひずして撫諭して降らしむるを要とすべし。故に何れの府よりも兵を出すの大将には、必ず教化台の小師か亜師を用るものは、壇殺(センサツ)の禁を厳にするが故なり。能々(ヨクヨク)土人を憐れみ愛して、篤く恩徳を施して之を撫諭すべし。然りと雖ども迷いを執て天朝に帰服せず、痛く天兵を拒みて防戦する者に至ては、悉く殺して許すこと勿れ(ナカ)れ天罰を行ふなり。是即ち天罰を行ふなり。

 第九には親征(シンセイ)なり。供奉(クブ)には必ず熊本府の兵を従ふ。親征するには先づ諸方の皇師(=皇軍)の形様を校(ウカガ)ひ、支那国王所謂淸主なる者の既に困苦するを探得て而して後に渡海すべし。先陣の兵は直に江南の地方を衝(ツ)き、早く南京應天府を取り、之を仮皇居と為すべし。乃ち支那人の文才ある者を登用して、淸主の邪魔左道を崇信して天地の神意を蔑如(ナイガシロ)にし、痛く皇国の法教を拒み、人類の難食憐まず、罪を皇天に得たるを以て、天罰を行て蒼生を救ふの趣の大誥を作らしめ、周(アマネ)く天下に檄し、新附の支那人を憐み、其材あるものは悉く之を選用して官にあらしめ、且又明室の子孫たる朱子を立て上公に封じ、其先祖の祭祀を祗祀(キシ)せしめ大に慈徳を施して篤く支那人を撫育すべし。信(マコト)に能く此策を用ひば、十数年の間に支那全国悉く平定すべし。既に韃靼と支那とを統一するの上は、益々産霊(ムスビ)の法教を明にし、万民の疾苦(シック)を除き、處々に神社を造営して皇祖の諸大神を祭り、学校を興立(コウリフ)し十科の人材を起し、日夜勉強して長く怠ることなく、子孫永久能く祖業を拡充し、天意を奉行して間断(カンダン)することなければ、全世界皆皇国の郡県と為り、万国の君長も亦悉く臣僕に隷せんこと論を俟たずして自ら明なり。

 然りと雖ども経済大典を憲章(ケンショウ)せざれば、自国も安集すること能はず。産霊(ムスビ)の法教を行ふと雖も、天刑要録の兵制なければ、勍敵(ケイテキ)をして奪魄(ダツハク) せしむること能はず。三台六府の政教も、三銃妙用の武備も共に完しと雖ども、世界万国の地理を講明して、其形勢の便宜に従て節度処置の妙を尽さゞれば、宇内混同の大業を成就すること能はず。混同の業に従事する者は、心を尽さゞる可けん乎。予深く上天喣育(ジョウテンクイク)の大恩に感じ、竊(ヒソカ)に六合を括囊(カツナフ)するの意あり。然れども奈(イカ)んせん家貧にして年の老いたることを。於是乎(ココニオイテカ)此書を筆記し、題して混同秘策(コンドウヒサク)と名け、聊か以て晩遠の鬱憤を写し固封して児孫に遺す。嗟乎(アア)後来の英主宇内を鞭撻するの志ある者は、先づ此編を熟読せば、思ひ半ばに過ぎん者なり。

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福沢諭吉 日清戦争と時事新報

2018年05月04日 | 国際・政治

 福沢諭吉は、儒教を中心とする東洋の旧習に執着し、西洋文明を拒む者を批判し続けました。しかしながら、日本には西洋の文明をそのまま持ち込むことが難しい独自の文明があり、欧米とは異なる現実があるため、それらと折り合いをつけつつ、社会状況や政治状況にあわせて書いた福沢諭吉の文章が、時によって変化し、結果的に矛盾を孕む一貫性のないものになってしまったことは否定できないと思います。また、時の政権と距離をおいた時期があり、近い時期があったことも、いろいろな面で影響したのではないかと推察します。

 だから、福沢諭吉の思想の本質がいったいどこにあるのかをつかむことは、私にはできませんが、日清戦争当時の彼の言動が、現代に至る日本の歴史にとって、二つの点で極めて重要な意味をもつのではないかと思っています。

  一つは、自ら創刊した時事新報の社説に、”日清の戦争は文野の戦争なり”と掲載し、侵略戦争である日清戦争を煽るとともに、政府と対立する議会を批判し、戦費の募金運動を展開したり戦費募金組織「報国会」を結成したりして、日清戦争を支えた事実です。

 もう一つは、侵略戦争を煽ったのみならず、文明と野蛮の戦争だとして、くり返し中国や朝鮮を非難・酷評し、多くの日本人に”蔑視感情”を広げ、深めたという側面です。それは、日清戦争の勝利によって、日本人の当たり前の感情となり、その後の戦争にも影響して、現在に至っているのではないでしょうか。
 最近、いろいろな場面で、「嫌韓」や「嫌中」というような言葉を耳にし、また目にしますが、福沢諭吉の「脱亜論」にあるようなアジア認識と共通するものがあるように思います。 
 
 私は、福沢諭吉の様々な政治的主張が、欧米おけるような近代市民社会の確立のためではなく、明治政府よって進められた皇国史観に基づく専制主義的な政治を支えるためになされたことをきちんと見る必要があると思います。”我帝室の一系萬世にして、今日の人民が之に依て以て社會の安寧を維持する所以のものは、明に之を了解して疑はざるものなり”という文章などが、そのことを示しているのではないかと思います。したがって、福沢諭吉の一般的評価には、疑問を感じます。

 資料1は「福沢諭吉 思想と政治との関連」遠山茂樹(東京大学出版会)から抜粋したのですが、王政復古前後の福沢諭吉の言動として記憶しておきたいと思いました。
 資料2は、「文明論之概略」の一部で、西洋文明に関する考え方をよく示していると思います。
 資料3は、「福沢諭吉全集第五巻」(慶應義塾編纂・岩波書店刊行)から、「帝室論」と「時事小言」のごく一部を抜粋しました。「帝室論」では、”我帝室は日本人民の精神を収攬するの中心なり。其功徳至大なりと云ふ可し”と書いています。その意味するところはどうあれ、結果的に「天皇制絶対主義」ともいわれる明治の政権を支える内容だと思います。
 また、「時事小言」では、”我輩は権道に従ふ者なり”と、弱肉強食の世における生き方を書いています。”一旦事あるに臨みては財産も生命も又栄誉をも挙て之に奉ずるこそ真の日本人なれ”の記述は、教育勅語を思い起こさせます。
 第二編の「政権之事」では、明治政府を後押しするかのように、”第一政務の権力を強大にして護国の基礎を立ること、第二にこの大義を実際に施行するが為めに国庫を豊にすること、第三に全国資力の源を深くするが為に農工商を奨励保護して殖産の道を便ならしむること、以上三項は今日我輩の所見に於て至急の急とする所のものなり”と書いています。自由民権運動を抑え込むような考え方をしていたのだと思います。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                          Ⅱ 幕臣としての進退
1 藩・幕府との関係

 慶応二(1866)年の第二回長州征伐の際、福沢諭吉は、外国の兵を借りても、長州藩を征服せよという建白書を書いて幕府の要路に提出した。このことは、福沢の性格と思想とを知る者にとって、おどろくべき言動だといわなければならない。彼は、わが国の独立をはかるを終生の目的とし、外にたいし国権を張るためには、内の争いを停止せよと主張した。それが彼の思想の核心だと考えられているからである。
 ・・・

 ・・・
 また同じ自伝で「私は幕府の用をして居るけれども、如何なこと幕府を佐けなければならぬと云ふような事を考えたことがない」といい、幕府の門閥・圧制・鎖国主義は嫌いでこれに力をつくす気はなく、さればとて勤王家は、幕府よりいっそうはなはだしい攘夷家で、こんな乱暴者を助ける気はもとよりなかったとのべた。戊辰戦争のときも、彼は「官軍」にも「賊軍」にも偏せず党せず、上野の戦争の最中にも慶應義塾での講義をやめず、「此塾のあらん限り大日本は世界の文明国である、世間に頓着するなと申して、大勢の少年を励げましたことがあります」と誇らしげに語っている。この「政治に関係しない顛末」の強調は、たびたびの勧誘をしりぞけ明治政府に仕えず、独立自尊をモットー
に、在野の立場に終始し、現実の政治的対立をこえた、より高所からの政治の批判者、明日の建設のための教育者という学者の任務を説いた福沢の言にふさわしいものとして受けとられている。
 ・・・
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                           文明論之概略 巻之六
第十章 自国の独立を論ず

 前の第八章第九章に於て、西洋諸国と日本との文明の由来を論じ、その全体の有様を察してこれを比較すれば、日本の文明は西洋の文明よりも後(オク)れたるものといわざるを得ず。文明に前後あれば、前なる者は後(アト)なる者を制し、後なる者は前なる者に制せらるるの理なり。昔、鎖国の時にありては、我人民は固(モト)より西洋諸国なるものを知らざりしことなれども、今に至(イタ)りては既にその国あるを知り、またその文明の有様を知り、その有様を我に比較して前後の別あるを知り、我文明の以て彼に及ばざるを知り、文明の後るる者は先だつ者に制せらるるの理をも知るとき、その人民の心に先ず感ずる所のものは、自国の独立如何(イカン)の一事にあらざるを得ず。

資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
帝室論
 ・・・
 我輩は赤面ながら不学にして、神代の歴史を知らず又舊記に暗しと雖ども、我帝室の一系萬世にして、今日の人民が之に依て以て社會の安寧を維持する所以のものは、明に之を了解して疑はざるものなり。この一點は皇学者と同説なるを信ず。是即ち我輩が今日国会の将に開んとするに当て、特に帝室の独立を祈り、遥に政治の上に立て下界に降臨し、偏なく党なく、以て其尊厳神聖を無窮に傳へんことを願ふ由縁なり。
 ・・・
 此人心を収攪するに、専制の政府に於ては君主の恩徳と武威とを以てして、恩に服せざるものは威を以て嚇し、恩威竝行はれて天下太平なりし事なれども、人智漸く開て政治の思想を催ふし、人民参政の権を欲して将さに国会を開んとする今日に至ては、復た専制政府の旧套を学ぶ可らず。如何となれば国会爰に開設するも、其国会なる者は民選議員の集る處にして、其議員が国民に対しては恩徳もなく又武威もなし。国法を議決して其白文を民間に頒布すればとて、国会議員の恩威竝行はる可きとも思はれず、又行はる可き事理に非ざればなり。国会は直に兵権を執るものに非ず、人民を威伏するに足らず。国会は唯国法を議定して之を国民に頒布するものなり。人民を心服するに足らず。殊に我日本国民の如きは、数百千年来君臣情宜の空気中に生々したる者なれば、精神道徳の部分は、唯この情宜の一点に依頼するに非ざれば、国の安寧を維持するの方略ある可らず。即ち帝室の大切にして至尊至重なる由縁なり。況や社会治乱の原因は常に形態に在らずして精神より生ずるもの多きに於てをや。我帝室は日本人民の精神を収攬するの中心なり。其功徳至大なりと云ふ可し。国会の政府は二様の政党相争ふて、火の如く水の如く、盛夏の如く厳冬の如くならんと雖も、帝室は独り万年の春にして、人民これを仰げば悠然として和気を催ふす可し。国会の政府より頒布する法令は、その冷なること水の如く、其情の薄きこと紙の如くなりと雖も、帝室の恩徳は其甘きこと飴の如くして、人民これを仰げば以て其慍(イカリ)を解く可し。何れも皆政治社外に在るに非ざれば行はる可らざる事なり。西洋の一学士、帝王の尊厳威力を論じて之を一国の緩和力と評したるものあり。意味深遠なるが如し。我国の皇学者流も又民権者流もよく此意味を解し得るや否や。我輩は此流の人が反復推究して、自から心に発明せんことを祈る者なり。
 ・・・
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時事小言
 ・・・
 …余曾て伝へることあり。金と兵とは有る道理を保護するの物に非ずして、無き道理を造るの器械なりと。蓋し本文の意なり。危険も亦甚しからずや。彼の正論は坐して無戦の日を待つことならんと雖も、我輩の所見に於ては、西洋各国戦争の術は今日漸く卒業して今後益盛んなることとこそ思へ。近年各国にて次第に新奇の武器を工夫し、又常備の兵員を増すことも日一日より多し。誠に無益の事にして誠に愚なりと雖も、他人愚を働けば我も亦愚を以て之に応ぜざるを得ず。他人暴なれば我亦暴なり。他人権謀術数を用いれば我亦これを用ゆ。愚なり暴なり又権謀術数なり、力を尽くして之を行ひ、復た正論を顧るに遑あらず。蓋し編首に云へる人為の国権論は権道なりとは是の謂にして、我輩は権道に従ふ者なり。
 ・・・
 西洋諸国に物産工業の盛なるは決して偶然に非ず。陰陽五行論の中に教育せられたる我東洋人の未だ及ぶ可らざるや明なり。其業盛なれば其製造は巧にして其価は必ず廉なり。又其物品の運転売買の法に於ても専ら学問上に基き、大体を論ずるには経済学あり、実際に於ては銀行の法あり、保険の法あり、会社の法、簿記の法、些細の事に至るまでも自ら一課学の体裁を成して之を教へ之を習ふて然る後に実地に施す其趣は、恰も師を出すに平生軍法を研究して進退自ら定則ある者に異ならず。之を彼の人々個々の手練を以て商業に従事する者に比すれば固より同日の論に非ず。今この諸国に敵対して工商鋒を競はんとするは実に容易ならざることと知る可し。加之(シカノミナラズ)各国交際の定法、又商売の性質に於て利を争はざる者なし。先方に如何なる不利あるも何等の不都合なるも誰か之を顧る者あらんや。利益を貪り尽して其極度に止まる可きのみ。而して其これを争ひ之を貪るの法一様ならず。或は学者の私論を以てすることあり。英国の如き人力の製造品多くして世界中に輸出を利とするものは、其国の学者大概皆自由貿易の説を主張し、亜米利加(アメリカ)合衆国の如き天然の産物に富て製造未だ盛なるの極に至らざる者は保護の主義を唱え、議論百出止むときなしと雖も、結局自国の利を謀るより外ならず。此れは是れ学者論客の事として、此外に又貿易商売を助ける一大器械あり。即ち軍艦大砲兵備是なり。各国の人民相互に貿易するには各貿易の条約ありて、其取扱に就ては双方派遣の公使・領事等に智愚もあらん。又其人民の商業に巧拙もあらんと雖ども、結局の底を叩て吐露すれば、貿易の損益も亦其国の兵力如何に在て存するものと云て可ならん。
方今合衆国にては諸外国より輸入の製造品に非常なる重税を課すれども、世界中の列国これに嘴(クチバシ)を容(イ)るゝ者あるを聞かず。又英人は阿片を名る毒薬を支那に輸入して、支那人は金を失ひ人命を害し、年々歳々国力の幾分を損すれども之を咎むる者なき其際に、支那の人民が亜米利加に行き節倹勉強して僅に資産を作る者あれば、亜米利加はこれに驚き我国財を失ふとて支那人を放逐せんとするの議あり。現に英領「オースタラリア」州にては、支那人の渡来して同州の金山に働かんとする者あれば、其人別に五「ポンド」の関税を課して恰も節倹勉強者の侵入を防ぐと云ふ。今試に東洋の一国をして亜米利加の例に效(ナラッ)て頓に非常の海関税を課することあらしめなば如何。支那人と英亜人と地位を易へて其事を行はしめなば如何。列国の政府も人民も異口同音、否と云はんのみ。其然る由縁は何ぞや。様々に口実を唱る者はある可しと雖も、我輩は其事の底を叩て、単に国の強弱に由るものなりと明言せざるを得ず。
 又貿易上に恐る可きものは、兵力の外に金力なるものあり。西洋諸国の人民は資産に富む者多くして、凡そ世界中富豪の大半は欧羅巴亜米利加に在りと云て可なり。
 ・・・

 ・・・
 …外国の交際易からずと雖ども、苟も日本人の名ある者は、直接に間接に之を負担せざる可らず。無事の日に之を忘れざるは勿論、一旦事あるに臨みては財産も生命も又栄誉をも挙て之に奉ずるこそ真の日本人なれ。結局この擔任は日本人の名尽きて止むものと知る可し。
 ・・・

 ・・・
 …外の艱難を知て内の安寧を維持し、内に安寧にして外に競争す。内安外競、我輩の主義、唯この四字に在るのみ。内既に安し、然ば則ち消極を去て積極に向ひ、外に競争する所以の用意なかる可らず。
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第二編 政権之事
 
 前編に内安ければ則ち外に競ふの用意なかる可らずと云へり。其目甚だ多しと雖ども先づ一、二を挙れば、第一政務の権力を強大にして護国の基礎を立ること、第二にこの大義を実際に施行するが為めに国庫を豊にすること、第三に全国資力の源を深くするが為に農工商を奨励保護して殖産の道を便ならしむること、以上三項は今日我輩の所見に於て至急の急とする所のものなり。譬へば国に政府あるは、猶家に主人あるが如く、会社に頭取支配人あるが如く、又邸地に居宅あるが如し。其家を見るに主人に権なく、其会社に於ては頭取支配人の差図に従ふ者なく、又某邸地を見るに地坪は幾万坪にして主人の居宅は則ち一小茅屋、以て此屋鋪は此家に属し此家を以て此屋鋪を支配すると云ふも、実際不釣合にして屋鋪中を支配することも難く、隣屋鋪と竝立して交際も叶はぬことならん。何れも皆事物の権衡を失ふものなり。左れば一国あれば其大小貧富に準じて一政府を立て、政府と国と至当の釣合あるものなるに、今我日本国と日本政府との大小は果して其釣合を得たるものと云ふ可らず。是れ我輩が前の三項を以て急とする由縁なれども、読者は果たして之に異議なき歟。我輩竊(ヒソカ)に思ふ。今の学者論客に於ては必ず少しく之に異議ある可しと。如何となれば、学者論客は近年に至て漸く民権なることを唱へ出し、今の政府の行政上に向て攻撃を試み、政府の一挙一動、これも非なり其れも不都合なりとて、演説に新聞に、其目的とする所は結局政務の権力を縮めて民人の権力を伸さんと欲する者なればなり。譬へば長さ一尺の権力を官民の間に争ひ、一寸にても政府の権を縮むれば、其縮まりたる長さは人民に帰するものと思ひ、只管(ヒタスラ)政府の退縮を熱望する者の如し。固より彼の少年血気の輩が巡査と大議論して曲直を争ふが如きは、深く咎るに足らずとして之を擱くも、或は天下の与論を写出すなどゝ自ら称して自得する学者論客に至るまでも、其実は熱心煩悶して方向を分たざる此時に当て、政務の権力を強大にする云々と説来たらば、未だ其説の半をも聞かずして先づ否と云ふことならん。我輩其情を知らざるに非ずと雖ども、試みに其人の為に惑を解かざるを得ず。蓋し世の学者論客は其思想に混雑する所のもの有て、明に躬から其企望を訴ること能はず。或は之を訴るも、其これを訴る所以の原由を明にするを得ず。之譬へば朴訥不文なる田舎漢(イナカモノ)が、病に罹り其医療を希ふて、躬から容体を訴ること能はず者の如し。我輩試に代て容体を述べん。若し其所述のもの果して患者に敵中しるあらば、同病相憐むの情を以て今後共に方向與にす可きなり。

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福沢諭吉「脱亜論」と歴史の修正

2018年04月18日 | 日記

 日本人として、日本を誇りたい、また、日本の歴史を誇りたい、という気持ちはよく分かります。でも、だからといって、不都合な歴史的事実に眼を閉ざし、歴史を客観的にとらえようとすることなく、日本でしか通用しない歴史を語ることは許されないと思います。

 資料1は「えがかれた日清戦争 文学と歴史学のはざまで」小笠原幹夫(星雲社)の中の「福沢諭吉と帝国主義」の一部を抜粋したものですが、見逃すことの出来ない記述がありました。日清戦争を侵略戦争としてではなく、近代化を進めるために不可避の戦争であったとして、肯定的に受け止めるためでしょうが、
日清戦争の十年前にフランスは、インドシナ半島の完全植民地化をめざし安南(ヴェトナム)を攻略した。清国は宗主権を主張してゆずらず、その結果清仏戦争が起こった。清国は敗退し、フランスが安南を保護国化することを認めた。直接に植民地獲得をめざした軍事行動として、日清戦争よりも権益拡大の意図は明瞭だが、フランス側にはこれを侵略戦争と断じた見解はない。朝鮮が独立国であることを江華条約で明言した日本が、清国の宗主権を否定する行動をとったとしても、国際法上これを制裁する根拠はなかった。
 と書いています。
 ”フランス側にはこれを侵略戦争と断じた見解はない。”ということで、日清戦争も侵略戦争ではなかったと言いたいのでしょうが、それはあまりにも勝手な解釈、勝手な主張だと思います。”見解はない”という事実認識に問題があると思いますし、何より、ハーグ陸戦条約や赤十字条約、不戦条約その他の国際条約成立の経緯を無視するものではないかと思います。
 私は、他国に軍隊を送り戦争をすることは、当時欧米を中心とする先進国においてすでに確立していた市民社会の法と矛盾する側面が多々あり、いろいろなところで多くの犠牲を出してきたこともあって、それらの条約が徐々に成立していったのではないかと思います。また、フランスにたいする安南(ヴェトナム)民衆の激しい反抗は、フランスのヴェトナム攻略が正当なものであったかどうかという判断では、無視されてはならないと思います。
 現在の国際法が相互主義を原則にしていることを踏まえると、植民地化された側はもちろん、関係国や国際世論などの判断抜きに、”フランス側にはこれを侵略戦争と断じた見解はない。”などと根拠を示さず断定し、だから、日清戦争も侵略戦争ではなかったというのはいかがなものかと思います。「己の欲せざる所、人に施す勿れ」は、中国,春秋時代の言葉だといいますが、これに類する考え方は、洋の東西を問わず存在するわけで、こうした考え方に基づいて様々な法が整備されてきたを経緯を無視して、侵略する側の判断だけで、侵略戦争を正当化してはならないと思うのです。

 ”制裁する根拠”がなかったから、日清戦争は侵略戦争ではなかったといえるでしょうか。残念ながら、国際法は現在もなお、ほとんど制裁規定はないのではないでしょうか。さらに、
あらたな植民地の獲得は、第一次世界大戦の国際条約によって初めて禁止されたが、それ以前は合法であった。
 というのもいかがなものかと思います。植民地獲得禁止の国際法が整っていなかっただけで、”合法”などといえるものではなかったと思います。当時すでに、欧米を中心とする先進国の市民社会は、ハーグ陸戦条約や赤十字条約、不戦条約などの国際法に結びつく国内法を持っていたこと、そしてそれが、一国が他国の領土を武力によって占有することを禁じる現在の国際法に発展したことを無視してはならないと思います。一国が他国の領土を武力によって占有することを認める国際法が存在したことはなかったと思います。したがって、”合法”とは言えないのではないでしょうか。

 さらに言えば、朝鮮が独立国であることを江華条約で明言した日本が、朝鮮の主権を侵すような政策を進めたために、李氏朝鮮は日本ではなく、清国やロシアに頼り、国際社会にも訴えたのではないかと思います。「侵略か否か」の判断では、そうした側面も無視されてはならないと思います。

 また、”反日歴史家たちは”以下の文章には驚きました。「慰安婦」の問題を論じることが、”珍妙な攻撃材料”であるというのは、どういうことでしょうか。「慰安婦」の問題など論じる必要はないということでしょうか。私は、大学で若者を指導する小笠原幹夫氏が、自ら歴史修正主義者であることを宣言されているように感じ、残念に思いました。こうした文章は、学者や研究者の文章ではないと思います。

 福沢諭吉の「脱亜論」に関しては、『福沢諭吉の朝鮮 日朝清関係のなかの「脱亜」』月脚達彦(講談社選書メチエ)に重要な記述が取り上げられていましたので、こちらから抜粋しました(資料2)。福沢諭吉が矛盾したことをいろいろ書いていることはよく知られていますが、それは、福沢諭吉自身の
「天然の自由民権」論は「正道」であるが、しかし「近年各国において次第に新奇の武器を工夫し、又常備の兵員を増すことも日一日より多」いという無益で愚かな軍備拡張が横行する状況では、敢えて「人為の国権論」という「権道(ケンドウ)」に与(クミ)しなければならない
と書いていることを踏まえて読めば、かなり理解できるように思います。また、福沢諭吉は、日清戦争前後は、明治政府の政策を追認するかたちで、”「権道(ケンドウ)」に与(クミ)”する記事を書き続けたことも忘れてはならないと思います。その時々の状況に合わせて、明治政府を代弁するかのような文章を多く書いているため、一貫した思想の表現にはなっていないのだと思います。また、”止むを得ざるの場合においては、力を以て其進歩を脅迫するも可なり。”と侵略戦争さえ肯定する考え方を「脱亜論」で示していることは、見逃してはならないと思います。

 資料3は同書の「脱亜論」の部分です。著者が三つの部分に分けて解説しているものを、解説抜きで抜粋しました。
 福沢諭吉は当初、日本は”アジアの盟主たれ”と主張していたのですが、「脱亜」にきりかえたのは、明治政府の政策との関係があったのではないかと思います。また、
進歩の道に横たはるに古風老大の政府なるものありて、之を如何ともす可らず。政府を保存せん歟(カ)、文明は決して入る可らず。如何となれば近時の文明は日本の旧套と両立す可らずして、旧套を脱すれば同時に政府も亦廃滅す可ければなり。
とありますが、明治維新を成し遂げた薩長は尊王攘夷を主張して、開国政策を進めていた幕府を倒したのですから、そこには矛盾がありますが、薩長が開国に転じたので、倒幕の理由など問う必要はない、ということなのでしょうか。
 第三の部分は、「アジアの盟主論」では、明治政府と一体となって近代化を進めることが難しいため、朝鮮や中国を徹底的に貶し”悪友”とであるとして、”西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ。”と、植民地化することも容認する主張をしているのではないかと思います。だから、中国・朝鮮を蔑視する「自尊他卑」の考え方で、”国民の戦意を煽った”という批判を、否定することはできないと思います。 
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                        福沢諭吉と帝国主義

 ・・・
 たとえば日清戦争についてみれば、清国の朝鮮との間の宗主・朝貢関係は、万国公法上の植民地ないしは保護国の要件をみたしていなかったが、欧米列強は事実上これを黙認していた。したがって清国に既得権があったともいえるが、第三国が清国と朝貢国との間にはいり込んで、権益拡大を企てた場合には、万国公法にはこれを制御する規定はなかった。じじつ、フランスのコーチシナ進出、ロシアのイリ地方への領土拡大、イギリスのビルマ併合などはすべて合法的とみなされていた。とりわけ、日清戦争の十年前にフランスは、インドシナ半島の完全植民地化をめざし安南(ヴェトナム)を攻略した。清国は宗主権を主張してゆずらず、その結果清仏戦争が起こった。清国は敗退し、フランスが安南を保護国化することを認めた。直接に植民地獲得をめざした軍事行動として、日清戦争よりも権益拡大の意図は明瞭だが、フランス側にはこれを侵略戦争と断じた見解はない。朝鮮が独立国であることを江華条約で明言した日本が、清国の宗主権を否定する行動をとったとしても、国際法上これを制裁する根拠はなかった。
 日清戦争の開戦時には、イギリスとロシアは戦争に干渉する姿勢を示すが、それは日本の行為が国際法違反だからではなく、自国の利害がそこにからんでいると考えたからである。したがって、朝鮮半島およびその周辺で日本が自国の権益を伸長するために起こした軍事行動は十分に容認しうるものであり、清国領土への進攻も含めて、現在の国際常識に照らして、侵略と判断するとしたら、それは明らかな時代錯誤というものである。「他がみんなやっているからといって免罪されない」という主張は道徳の話としては聞いてもいいが(小学生の道徳ではあるが)、法の運用の話になるとまったく別である。
 あらたな植民地の獲得は、第一次世界大戦の国際条約によって初めて禁止されたが、それ以前は合法であった。(日韓併合ののちも、フランスはモロッコを、イギリスはアフリカのリビアを保護国としている。)既得の植民地の放棄、すなわち民族自決権が事実として否定できなくなるのは第二次大戦後である。
 十九世紀の後半からニ十世紀の初頭にかけては帝国主義の花ざかりで、平たくいえば、植民地を奪取するくらいの国力がなければ国家として一人前ではないという時代であった。かつて銀幕を彩った『モロッコ』『外人部隊』『アフリカの王女』『地の果てを行く』といった作品は、植民地拡大をめぐるナショナリズムの高揚を背景にしていた。過去における対外進出・膨張政策を”悪”とするのは、一部日本人の勝手な思い込みであって、けっして世界普遍の心情ではない。むしろ過去に植民地を持った国のほとんどは、誇りある来歴として、かつての栄光を子孫に語っている。

 福沢諭吉の『脱亜論』は、明治十八年三月十六日の「時事新報」に発表された。読み切りの片々たる小論で、発表当時はさして話題にならなかった。内容があまりにも当たり前すぎるので、反論の余地がなかったのであろう。
 ところがこの『脱亜論』なるものが、富田正文氏が、

 第二次世界大戦の終わったあとで、私は電話で、福沢諭吉に「脱亜論」という論説があるそうだが、それは『全集』のどこに載っているかと尋ねられたことがある。いまその質問者の名を思い出せないが、「脱亜論」の名が俄(ニワカ)に高くなったのは、そのころから後のことである。

 と指摘しているように、近年、反国家の思想を持つひとびとによって槍玉にげられている。批判の理由は、福沢は、アジアをばかにしている、自国独善主義である、「入欧」一辺倒主義である、すなわち明治後の”権力悪”を象徴している、というのである。とんでもない話で、福沢の「脱亜論」がどういう意味をもっていたのか、原文を一読すればそういう誤解が牽強付会であることは分かるはずである。反日歴史家たちは、柄のないところに柄をすげて、革命を起こすためなら、大恩人の福沢先生さえ引きずりおろす、というわけだ。もっとも日本がいまだに絶対主義王政だと信じている人たちは、福沢諭吉にさほど恩を感じていないのかもしれないがーー。ちなみに、最近ではこの革命幻想がなくなったため、反日行動が無目的・愉快犯的になり、自制心がきかなくなって、かえって過激・悪質化している。(「慰安婦」などという珍妙な攻撃材料がでてきたのもそのためであろう。)

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       序章 福沢諭吉の朝鮮論をどう読むか

 福沢のアジア盟主論

 初めて朝鮮人と出会った1880年の年末から、福沢は『時事小言』の執筆に取りかかる。この著作は福沢がある意味で転向を宣言したものだった。福沢は同書の第一編「内安外競之事」の冒頭で、「天然の自由民権」論は「正道」であるが、しかし「近年各国において次第に新奇の武器を工夫し、又常備の兵員を増すことも日一日より多」いという無益で愚かな軍備拡張が横行する状況では、敢えて「人為の国権論」という「権道(ケンドウ)」に与(クミ)しなければならないとして、次のように宣言する。

他人愚を働けば我も亦(マタ)愚を以て之(コレ)に応ぜざるを得ず。他人暴なれば我亦暴なり。他人権謀術数(ケンボウジュツスウ)を用いれば我亦これを用ゆ。愚なり暴なり又権謀術数なり、力を尽くして之を行ひ、復(マ)た正論を顧るに遑(イトマ)あらず。蓋(ケダ)し編首に云へる人為の国権論は権道なりとは是の謂(イイ)いにして、我輩は権道に従ふ者なり。

仮令(タト)ひ我一家を石室にするも、近隣合壁に木造板屋の粗なるものあるときは、決して安心す可(バカ)らず。故にか火災の防禦を堅固にせんと欲すれば、我家を防ぐに兼て又近隣の為に其予防を設け、万一の時に応援するは勿論、無事の日に其主人に談じて我家に等しき石室を造らしむこと緊要なり。或(アルイ)は時宜に由り強(シイ)て之を造らしむも可なり。又或は事情切迫に及ぶときは、無遠慮に其地面を押領して、我手を以て新築するも可なり。蓋し真実隣家を愛するに非ず。又悪(ニク)むに非ず、唯自家の類焼を恐るればなり。

今西洋の諸国が威勢を以て東洋に迫る其有様は火の蔓延するものに異ならず。然るに東洋諸国殊(コト)に我近隣なる支那朝鮮等の遅鈍にして其勢に当ること能はざるは、木造板屋の火に堪へざるものに等し。故に我日本の武力を以て之に応援するは、単に他の為に非(アラ)ずして自ら為にするものと知る可(ベ)し。武以て之を保護し、文以て之を誘導し、速に我例に傚(ナライ)て近時の文明に入らしめざる可らず。或は止むを得ざるの場合においては、力を以て其進歩を脅迫するも可なり。
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       「アジア主義」の成立と福沢諭吉
社説「脱亜論」の内容
『時事新報』1885年3月16日社説「脱亜論」第一の部分
世界交通の道、便にして、西洋文明の風、東に漸し、到る処、草も木も此風に靡かざるはなし。蓋し西洋の人物、古今に大に異るに非ずと雖(イエ)ども、其挙動の古(イニシエ)に遅鈍にして今に活発なるは、唯交通の利便を利用して勢に乗ずるが故のみ。故に方今東洋に国するものゝ為(タメ)に謀るに、此文明東漸の勢いに激して之を防ぎ了(オワ)る可きの覚悟あれば則ち可なりと雖ども、苟(イヤシク)も世界中の現状を視察して事実に不可なるを知らん者は、世と推し移りて共に文明の海に浮沈し、共に文明の波を揚げて共に文明の苦楽を与(トモ)にするの外ある可らざるなり。文明は猶麻疹の流行の如し。目下東京の麻疹は西国長崎の地方より東漸して、春暖と共に次第に蔓延する者の如し。此時に当り此流行病の害を悪(ニクミ)て之を防がんとするも、果して其手段ある可きや。我輩断じてその術なきを証す。有害一編の流行病にても尚且(ナオカツ)其勢には激す可らず。況(イワン)や利害相伴(アイトモノ)ふて常に利益多き文明に於てをや。啻(タダ)に之を防がざるのみならず、力(ツト)めて其蔓延を助け、国民をして早く其気風の欲せしむるは智者の事なる可し。

第二の部分
西洋近時の文明が我日本に入りたるは嘉永の開国を発端として、国民漸(ヨウヤ)く其採る可きを知り、漸次に活潑の気風を催(モヨ)ふしたれども、進歩の道に横たはるに古風老大の政府なるものありて、之を如何ともす可らず。政府を保存せん歟(カ)、文明は決して入る可らず。如何となれば近時の文明は日本の旧套と両立す可らずして、旧套を脱すれば同時に政府も亦廃滅す可ければなり。然(シカラ)らば則ち文明を防ぎて其侵入を止めん歟、日本国は独立す可らず。如何となれば世界文明の喧嘩繁劇は東洋孤島の独睡を許さゞればなり。是(ココ)に於てか我日本の士人は国を重しとし政府を軽しとするの大義に基づき、又幸に帝室の神聖尊厳に依頼して、断じて旧政府を倒して新政府を立て、国中朝野の別なく一再万事西洋近時の文明を採り、独(ヒト)り日本の旧套を脱したるのみならず、亜細亜全洲の中に在て新に一機軸を出し、主義とする所は唯脱亜の二字に在るのみ。

第三の部分(前半)
我日本の国土は亜細亜の東辺に在りと雖も、其国民の精神は既に亜細亜の固陋(コロウ)を脱して西洋の文明に移りたり。然るに爰(ココ)に不幸なるは近隣に国あり、一を支那と云ひ、一を朝鮮と云ふ。此二国の人民も古来亜細亜流の政教風俗に養はるゝこと、我日本に異ならずと雖も、其人種の由来を殊(コト)にするか、但(タダ)しは同様の政教風俗中に居ながらも遺伝教育の旨に同じからざる所のものある歟、日支韓三国相対し、支と韓と相似るの状は支韓の日に於けるよりも近くして、此二国の者共は一身に就き又一国に関して改進の道を知らず、交通至便の世の中に文明の事物を聞見せざるに非ざれども、耳目の聞見は以て心を動かすに足らずして、其古風旧慣に恋々(レンレン)するの情は百千年の古に異ならず。此文明日新の活劇場に教育の事を論ずれば儒教主義と云ひ、学校の教旨は仁義礼智と称し、一より十に至るまで外見の虚飾のみを事として、其実際に於ては真理原則の知見なきのみか、道徳さへ地を払(ハロ)ふて残刻不廉恥を極め、尚傲然(ゴウゼン)として自省の念なき者の如し。我輩を以て此二国を視れば、今の文明東漸の風潮に際し、迚(トテ)も其独立を維持するの道ある可らず。幸にして、其国中に志士の出現して、先づ国事開進の手始めとして、大(オオ)いに其政府を改革すること我維新の如き大挙を企て、先づ政治を改めて共に人心を一新するが如き活動あらば格別なれども、若(モ)しも然らざるに於ては、今より数年を出(イ)でずして亡国と為(ナ)り、其国土は世界文明諸国の分割に帰す可きこと一点の疑(ウタガイ)あることなし。如何(イカン)となれば麻疹に等しき文明開化の流行に遭ひながら、支韓両国は其伝染の天然に背き、無理に之を避けんとして一室内に閉居し、空気の流通を絶て窒塞(チッソク)するものなればなり。 
 
第三の部分(後半)
輔車脣歯(ホシャシンシ)とは隣国相助くるの喩(タトエ)なれども、今の支那朝鮮は我日本のために一毫(イチゴウ)の援助と為らざるのみならず、西洋文明人の眼を以てすれば、三国の地利相接するが為に、時に或は之を同一視し、支韓を評するの価(アタイ)を以て我日本に命ずるの意味なきに非ず。例へば支那朝鮮の政府が古風の専制にして法律の恃(タノ)む可きものあらざれば、西洋の人は日本も亦無法律の国かと疑ひ支那朝鮮の士人が惑溺(ワクデキ)深くして歌学の何ものたるを知らざれば、西洋の学者は日本も亦引用五行(インヨウゴギョウ)の国かと思ひ、支那人が卑屈にして恥を知らざれば、日本人の義侠も之がために掩(オオ)はれ、朝鮮国に人を刑するの惨酷なるあれば、日本人も亦共に無情なるかと推量せらるゝが如き、是等の事例を計(ハカ)れば枚挙に遑(イトマ)あらず。之を喩(タト)へば比隣(ヒリン)軒を並べたる一村一町内の者共が、愚にして無法にして然も残忍無情なるときは、稀に其町村内の一家人が正当の人事に注意するも、他の醜に掩(オオ)はれ湮没(インボツ)するものに異ならず。其影響の事実に現はれて、間接に我外交上の故障を成すことは実に少々ならず、我日本国の一大不幸と云ふ可し。左(サ)れば今日の謀(ハカリゴト)為(ナ)すに、我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず、寧(ムシ)ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ。悪友を親しむ者には共に悪名を免かる可らず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。 

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福沢諭吉と朝鮮 時事新報社説記事 NO4

2018年04月11日 | 国際・政治

 引き続き、「福沢諭吉と朝鮮 時事新報社説を中心に」杵淵信雄(彩流社)から、当時の時事新報の気になる社説記事を抜粋しました。当時の状況や記事の背景について、著者は分析や考察を加えながら記事を引いているのですが、今まで同様それらをすべてはぶき、私自身が気になったことや感想を、私なりにまとめました。また、今回は「朝鮮奥地紀行2」イザベラ・バード/朴尚得訳(平凡社)東洋文庫573から、日本人による朝鮮王宮乱入、閔妃暗殺事件直後の状況に関する文章の一部も抜粋し、加えました。

21の 「事の真相を明にす可し」の記事は、乙未事変(イツビジヘン)と呼ばれ、李氏朝鮮の国王・高宗の王妃であった明成皇后(閔妃)が、朝鮮駐在公使、三浦梧楼らの計画に基づき王宮に乱入した日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(大陸浪人)その他によって暗殺された事件に関する記事です。
京城在留の日本人中多少関係したるものあるは疑ひなき如し。他国人の身で斯る企てに加担するは実に怪しからぬ次第にして、我輩の赤面に堪へざるなれど、今の日本の国情から時として斯(カカ)る乱暴人の出づるも止むを得ざる事情あり。
とありますが、この記事は、福沢自身が他の報道を批判して、”針小を棒大に、或は大事を後に細事を先にしたるものもあり”という以上に問題があると思います。事の真相を意図的に隠し、歪めて報道しているのではないか、と疑われる記事だと思います。
日本人中多少関係したるものある”の”多少”という根拠はなんだというのでしょうか。
他国人の身で斯る企てに加担する”の”加担”という根拠はなんだというのでしょうか。
日本の国情から時として斯(カカ)る乱暴人の出づるも止むを得ざる事情あり”とありますが、王宮に乱入した朝鮮駐在公使三浦梧楼をはじめとする日本人の集団が”乱暴人”所謂壮士と称し、身に常識なく無聊に苦しむ者共”だったというのでしょうか。
 私には、この「時事新報」の記事は、事の真相を隠し歪曲して、王妃暗殺という大事件を矮小化する意図をもって書かれたとしか考えられません。
 また、日本政府は対応を迫られたためか、三浦梧楼ら関係者48名を謀殺罪等で広島監獄に収監したものの、”首謀と殺害に関して証拠不十分”として、免訴し釈放していることを見逃すことができません。李氏朝鮮明成皇后(閔妃)を、王宮に乱入して殺害した日本人の犯罪が、日本において日本人によって裁かれ、免訴され釈放されたという事実も考えさせられます。
 「時事新報」は”他国の宮中に闖入して乱暴を働くが如き、言語道断、決して恕(ユル)す可らず”と主張し、”関係者の厳罰を望むなり”と書いていたのに、その後、彼等が免訴し釈放されてたことを問題にしないのはなぜでしょうか。
 
22の「二十八日の京城事変」の記事は、「事の真相を明にす可し」の記事から二ヶ月足らず経過した後に書かれた記事ですが、”他国の宮中に闖入して乱暴を働くが如き、言語道断、決して恕(ユル)す可らず”と主張し、”関係者の厳罰を望むなり”と書いていたのに、”一歩進めて朝鮮の政情を穿つときは、諸外国人の乱暴無法も、さまで深く咎むるに足らざる如し”と変わってしまいます。”されば先の王城乱入も今回の乱暴も、咎むべきは咎む可きなれど、朝鮮の国情を察すれば、野外の遊興、無益の殺傷と視る可きのみ。”と、ここでもまた朝鮮の国情を問題として、やむを得ない事件だったかのように書いています。おかしな論理だと思います。宮中に乱入し、明成皇后(閔妃)を殺害した犯人が朝鮮人であったのなら、わからなくもないのですが、犯人は”文明国”を自認する日本の公使を中心とした日本人の集団であったことを、あえて無視しているように思います。
 犯人が文明国の日本人であれば、たとえ朝鮮の国情がそれほど酷いということであっても、”他国の宮中に闖入して乱暴を働くが如き、言語道断、決して恕(ユル)す可らず”や”関係者の厳罰を望むなり”を取り下げる理由にはならないと思います。
 逆に、きちんと法や道義に基づいた対応をして、広く朝鮮社会に模範を示すことが大事なのではないかとさえ思います。”先の事変の罪を問ふなら、この事変も宜しく看過すべ可らず”などと、他国の問題をとり上げるのも、恥ずかしいことだと思います。

23の「京城事変」の記事では、なぜか、”国王・世子はロシア公使館にて新内閣を組織、現内閣員を罷免せり”の理由を正しく理解しようとしていないように思います。そして、
先年十一月二十八日の事件も某公使館に逃れたる輩と宮中が気脈を通じたるものにして、その一派が露国の力に頼り、水平上陸を幸に目的を達したるは、金弘集の一派が日本公使館の後援を得て十月の政変を行ひたると同等なり。”
と国王派と金弘集の一派の争いに過ぎないかのように書いています。日本の強引な朝鮮政策が引き起こしたといえる争いであるにもかかわらず、その問題点を明らかにしようとはしていないと思います。

24の「朝鮮政府の転覆」も、意図的に問題の本質を隠しているような気がします。日本人による犯罪は、”気の毒なれど”と同情はしても、”自業自得”などと言って追及しようとせず、”去年十月の事変に王妃の不幸を見て、外国人の中には変後の新政府は至当と認めずなどの話もあれど、本来国内の騒動にして、外国人の名誉利益には毫厘(ゴウリン)の影響非ず。王妃の最後は正理人道に許す可らずなどと云はんなれど、正邪曲直は朝鮮人の自ら判断する所にして、他より云々することに非ず。”などというのは、日本人による犯罪だからなのでしょうが、こうした記事を掲載していた「時事新報」が、日本の顔として一万円札の肖像になっている福沢諭吉の創刊であることにはほんとうに驚きます。

25は、事件当時、朝鮮を旅行して歩いた旅行家で探検家で紀行作家でもあるという英国のイザベラ・バードの「第二十三章 朝鮮史の暗黒期」の文章の一部を「朝鮮奥地紀行2」イザベラ・バード/朴尚得訳(平凡社)東洋文庫573から抜粋しました。
 ”世界中で日本ほど婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと信じている”と日本を高く評価したイザベラ・バードは、日本人による朝鮮王宮に乱入、閔妃暗殺事件の本質を明らかにし、「時事新報」の記事の問題点をあぶり出しているように思います。
21-------------ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー----------------------------
              「事の真相を明にす可し」(明治二十八年十月十五日)

 今回朝鮮事変の報道は、日本人より出でたるもの、外国人より達したるものあれど、事実甚だ明白ならず。針小を棒大に、或は大事を後に細事を先にしたるものもあり、急遽の際、通信の前後混雑は免れず、詳報の到着を待つ外なけれど、京城在留の日本人中多少関係したるものあるは疑ひなき如し。他国人の身で斯る企てに加担するは実に怪しからぬ次第にして、我輩の赤面に堪へざるなれど、今の日本の国情から時として斯(カカ)る乱暴人の出づるも止むを得ざる事情あり。維新革命の前後より一種の政治思想を養成し、政治狂有様を呈し、政治の為めに人を殺すの殺伐を演じて怪しまず。大臣暗殺、外国人への凶暴は毎度のことなり。先年の露国皇太子、本年の李鴻章(リーホンチャン)事件は著しき事例なり。日本人に一種殺伐の思想あるは事実にして、朝鮮に対して年来の関係から、是(コレ)ら妄想家が妄想を逞うして事を誤る掛念少なからず。昨年の戦争後、政府は特に留意して内国人の漫の渡航を禁じ、居留民を厳に取締り、用心一方ならざれど、所謂壮士と称し、身に常識なく無聊に苦しむ者共、居留民中に多く、今回の事変に進んで参加したる者あるべし。この点より日本人関係すの報道を疑わざる者なり。ただ願ふ所は事実を有りの侭に表白し、根底より罪を糺し、前後の始末を明白ならしむ一事なり。無知無識の輩とは云へ、他国の宮中に闖入して乱暴を働くが如き、言語道断、決して恕(ユル)す可らず。日本は乱暴国なりと、暴徒の為めに汚名を蒙るに至らば、迷惑至極、容易ならざる次第なれば、関係者の厳罰を望むなり。

22ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                「二十八日の京城事変」(明治二十八年十二月七日)

 先の事変に日本人も与りたりと朝鮮政府に迫り、日本公使に談じたる某外国公使の配下より同様の乱暴人を出したるは、近来の奇談なれ。先の事変の罪を問ふなら、この事変も宜しく看過すべ可らず。外国の交際法、内国の治罪法に然かる可きなれど、一歩進めて朝鮮の政情を穿つときは、諸外国人の乱暴無法も、さまで深く咎むるに足らざる如し。紳士の間の無作法も車夫馬丁の仲間では普通の事なり。市中の放歌裸体は禁制なれど、野外では醜体をも座興とす。今の朝鮮、政府に威厳なく、三、五十人の壮士あれば、政権も王城の乗取りも思ふがままにして、今日の政府明日の政府に非ず、昨日の政令今日取消し、今日取消したる法律明日復活し、罪人も罪人に非ず、功臣も功臣に非ず。已に亡国に等しく八道は暴政の古戦場にして茫々たる原野なり。外国人の無作法の挙動を喩へれば、野外散歩の少年が放歌高声、無益の殺傷に鬱を散ずる如し。されば先の王城乱入も今回の乱暴も、咎むべきは咎む可きなれど、朝鮮の国情を察すれば、野外の遊興、無益の殺傷と視る可きのみ。亡国の実を具へて亡びず、既に例外なれば、例外の変乱深く怪しむに足らず。
23ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                  「京城の事変」(明治二十九年二月十四日)

 京城からの電報によれば露国兵士百二十人京城に入り、翌暁国王・世子はロシア公使館にて新内閣を組織、現内閣員を罷免せり。総理金弘集が殺戮され、その他は僅かに逃れたり。事は露国に関する如くなれど、我輩の所見では、今回の政変は国王自身の発意に出でたるものなり。国王深く王妃の不幸を悲しみ、義和宮(ウィファグン)の外遊の際も、此の怨は晴らさず可らず、頼むは某国なれば、最後は某国に止まるべしと諭したり。内閣大臣に対して汝ら三年同窓の学友を終身忘れざる情あらん、余は王妃と三十年起臥を共にせりと、屡々(シバシバ)怨言を漏らせり。先年十一月二十八日の事件も某公使館に逃れたる輩と宮中が気脈を通じたるものにして、その一派が露国の力に頼り、水平上陸を幸に目的を達したるは、金弘集の一派が日本公使館の後援を得て十月の政変を行ひたると同等なり。されば朝鮮の政府には大事件なれど、日本と露国の交際にはこの為めに一点の曇を見ず。ただ今後の成行に注目す。
24ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                「朝鮮政府の転覆」(明治二十九年二月十五日 時事)

 今回の政府転覆は気の毒なれど、我輩の所見を以てすれば、当局者の自業自得なり。去年十月の事変に王妃の不幸を見て、外国人の中には変後の新政府は至当と認めずなどの話もあれど、本来国内の騒動にして、外国人の名誉利益には毫厘(ゴウリン)の影響非ず。王妃の最後は正理人道に許す可らずなどと云はんなれど、正邪曲直は朝鮮人の自ら判断する所にして、他より云々することに非ず。王妃の不幸云々(ウンヌン)と云へど、外国に政治上の革命は毎度のことなり。国王大統領を殺したる例さへ少なからず。国内に事変あるも社会の秩序を維持し、外国人の名利を損ぜざる限り顧みる所ある可らず。されば新政府は彼らが正当の政府と認めざるも、着々新政を行ひ政権を維持するときは、内外の物議も消滅すべし。十月の政変に閣僚以下、関係の遠近はあれど、一人の異議を唱ふる者なかりしは明白なる事実なり。彼の一挙を仮に悪事と見なすとき、正犯従犯の別こそあれ、与に罪人なれば、同志結束して進むべきに、朝鮮人の常として、自身の安全を謀らんとする結果、次第に離れて孤立し、自ら倒るる成行なり。我輩の予想に違はず、外国人云々より動揺し、内閣員は責を大院君に帰し、大院君更に責任者を求めて罰せんとし、まず王宮占拠に参加せる禹範善を放逐し、次いで趙義淵、権濚鎮を黜(シリゾ)け、遂に罪を李周会(イジュフェ)に帰して死刑に処するに至る。自ら同志を擠排(セイハイ)して羽翼を殺ぎたる結果、政府自ら孤立して一夜の間に最後を遂げたるは、返す返すも失策なり。
25------ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー-----------------------------------
                     第二十三章 朝鮮史の暗黒期
 ・・・
 宮殿での事件の三日後、国王と一般民衆が王妃は生きていると信じていた時に、獣のような野蛮な王妃暗殺よりもずっと恥ずべき非道である、いわゆる王の布告〔詔勅〕が官報で公布された。署名を求められて、国王は拒絶し、むしろ両手を斬り落とした方がよい、と言ったという。しかしそれは、国王の布告として世に出た。宮内府大臣は、首相および内閣の六人の大臣が署名した。

     詔勅

 朕が即位して三十二年、治化は、まだ広く行き渡っていない。王后閔氏は、親党を引き入れ、左右に置いておき、朕の聡明を塞ぎ、蔽った。人命を害し、朕の政令を乱し、官爵を売り、残虐なことをして天にまで蔓延した。盗賊が四方で起き、宗社は危うく、朝夕を保全できない。
 朕がその悪の極まったのを知っても罰を下せなかったのは、ただ、朕が不明であったばかりでなく、その与党を恐れてそうしたのである。
 それで、朕は、昨年十二月、宗廟に誓って告げた。『后嬪宗戚は政治に関与できない』と。もしかして閔氏が悟り、改めることがあるよう願ってのことである。閔氏は、旧悪を悔い改めなかった。大勢の小人たちをひそかに引き入れ、朕の動静を窺っていた。およそ、朕が国務大臣を引接すると、おおむね、みな、防ぎ止める。朕の命令と偽り称して朕の国兵を解散させ、変乱を急激に起こした。事変が出来するや、朕を避け、独りで逃げた。壬午〔高宗十九年 1882年〕の往事を踏襲した。訪ね求めた時、とうとう出現しなかった。これは、どうして、王后の爵徳を称せられないのに止まるだけで済むことであろうか。
 その罪悪は、実に満ち渡っていて、先王宗廟を承ることはできない。故に、謹んで我が家の故事に依り、王后閔氏を廃して庶人にする。
        開国五百四年八月十二日奉勅
                                              宮内府大臣     李戴冕  
                                              内閣総理大臣    金引集
                                              外部大臣      金允植
                                              内部大臣      朴定陽
                                              度支部大臣     沈相薫
                                              軍部大臣      趙羲淵
                                              法部大臣      徐光範
                                              学部大臣臨時署理  徐光範
                                              農商工部大臣署理  鄭秉夏
                                          〔黄玹『梅泉野録』(朴尚得訳、国書刊行会)ニ四六頁参照

 その日、詐欺のようなこの恥ずべき詔勅の発布に続いて、もう一件の布告が出された。その布告で、王子を哀れみ、王太子が国王に深い愛情を寄せているのに配慮して、国王は王妃を「第一位の内妻」の身分に「高めた」のである。
 外交官たちは悩み、心配し、事態を討議するために絶え間なく会合していた。もちろんその極端な緊張状態は、ただ単に朝鮮での「出来事」とその局地的帰結によってのみ惹き起こされたのではない。この手際よくし遂げられた陰謀、無防備な女性を残忍にも殺害した事件の背後に、恐ろしい嫌疑が懸けられていた。その訝(イカブ)りは、悲劇後数日間に、時々刻々と確実なものに強まっていった。人びとは、兆しだけによる暗号解読の鍵として次のように言っていた。朝鮮人よりも他国人の頭脳が陰謀を企み、朝鮮人の手よいりも外国人の手が生命を奪い、暗殺行為中、国王の部屋を護衛していた哨兵たちは、朝鮮の制服よりも別の国の制服を着てしでかした。朝鮮の銃剣よりも他国の銃剣が宮殿の壁の陰できらりと光っていたようだ、と。
 人びとは、その訝りを用心深く語っていた。けれどもダイ将軍とサバティン氏の証言が、間違いなく一つの方角を指し示していた。事件後早ばやと持ち上がった疑問は「子爵三浦将軍は犯罪に関係していたのか」という事であった。この疑問に就いて詳しく述べる必要は無い。宮殿での悲劇の十日後日本政府は、事件のいかなる共犯とも潔白である、と釈明していたが、三浦子爵、杉村と朝鮮軍事顧問岡本を召還して逮捕した。彼らは数か月後、他の四十五名の者どもと共に広島で日本の第一審裁判の審理に懸けられた。そして「どの被告も、元来彼らがもくろんだ犯罪だが、それを実際に犯した事を立証する証拠は不十分」である、との法律上の技術的な理由で無罪になった〔1896年1月20日、広島地方裁判所「朝鮮事件予審終結決定書」参照〕。この犯罪は、私の判断によると、二人の被告が犯したものである。「三浦の唆しで、王妃殺害が決定された、そして、共犯者どもを集める事で次の段階にと進んだ…この二名の者に指揮された他の十名以上の者が、王妃を亡き人にした」
 三浦子爵は、有能な外交官小村〔寿太郎〕氏と交替した。その後暫くして井上伯爵が、日本天皇の不幸な朝鮮国王への弔辞を携えて到着した。この事件によって日本の信望と東洋での文明開化の指導者としての日本の地位は強打を被り、この際私たち外国人の同情を受け続ける政府たり得なかった。というのは日本政府が行った事件関与否認は忘れられ、暗殺の陰謀が日本公使館で整えられた事、民間人の服装をして刀とピストルで武装した日本人が宮殿で、直接非道に従事していた事、ある者は朝鮮政府の顧問であったし、また雇用されていた事、他の者ども--日本正規軍は除いて、壮士(ソウシ)として知られている者を含む全六十名は、日本公使館と関係がある日本人警備隊であった、という事が、常に思い出されていたからである。
 一代表を例外にして外国代表たちは、朝鮮の内閣に告げた。暗殺者どもを裁判に懸ける処置が執られるまで、訓練隊が宮殿から移動させられるまで、非道に責任がある内閣に最近、参入した者たちが糾弾されるか、少なくてもその官職を解任されるまで、朝鮮政府のどのような行為も認めるわけにはいかない、或は、朝鮮国王の名義で発布されるいかなる布告も認証されたものとして受け入れるのは断る、と。この慎重な方針は後に、上辺だけのものとなった。
 十月十五日、官報の号外で、「王の命令によって」王妃の地位は、一日たりとも空けておく訳にはいかないから、花嫁選択の手続き〔国婚揀択(カンタク)の節〕が直ちに始められなくてはならない、と発表された! これは、監禁されている国王に加えられた、積まれて山を成した数多くの侮辱の内の単に一つのものに過ぎなかった。
 十月の残りの日々と十一月中、事態はなんら改善されなかった。暗がりが深くなって陰惨幽暗の様相を呈していた。王室の歓迎会と接待の代わりに、恐怖や毒殺か暗殺の不安に絶えず震えている国王は、自分自身の宮殿の粗末な一室で息の詰まるような捕虜にされていた。事実上、国王の看守になっている反乱兵の手先であった男どもが主になって作り上げた内閣の手中にある国王は、ひどく嫌った布告に自分の印章を押すように強要されていた。殺害した王妃の血でまみれている男どもの道具は、とても拭われそうも無かった。国王と王太子が置かれている境遇よりも哀れなのは、この世にまたと有り得ないものであった。どちらかが自分の目の前で殺されるかも知れない、という恐怖、宮殿で準備される食べ物にはどれも敢えて食べられない恐怖、ニ、三分間にせよ別々に隔離される恐れ、信頼できる味方のいない不安、そして熟考すべき問題である果てしない戦慄に関する最近の記憶などに王と王太子はさいなまれていた。

 

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