真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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生存権を脅かすアメリカの残酷な経済制裁

2023年09月24日 | 国際・政治

 先日、ウクライナのゼレンスキー大統領が国連で演説しました。でもその内容は、ウクライナ戦争のすべての責任をロシアに押しつける、一方的でひどいものだったと思います。プーチン大統領が主張しているNATOとウクライナの、ロシアに対する脅威の拡大に関する内容や、ヤヌコビッチ政権の転覆を受け入れないドンバス住民の問題、世界中の人たちが望んでいる停戦のきっかけを模索するような内容は全くありませんでした。
 だから私は、民主主義者を装っても、衣の下から鎧が見える演説だったと思います。
 ロシアを降伏させ、プーチン政権を顚覆しようとする覇権国家アメリカの戦略にもとづく内容だったと思うのです。
 また、対面の演説であったにもかかわらず、当初のような熱烈な支持や拍手はなかったように思います。それは、アメリカのウクライナ支援の裏側が少しずつ明らかになり、多くの国の人たちがウクライナ戦争の真実を知り始めているからではないかと思いました。

 莫大な金額にのぼる武器を供与しウクライナ支援を続けてきたアメリカのバイデン大統領が、射程の長い地対地ミサイル「ATACMS」を供与するとゼレンスキー大統領に伝えたとの報道が、昨日ありました。非人道兵器とされているクラスター弾を使うタイプを提供する方向ということですが、そうした武器供与を中心とするアメリカのウクライナ支援の目的や意味が、徐々にわかってきたのではないかと思うのです。 

 下記は、「キューバは今」後藤優子(神奈川大学評論ブックレット17お茶の水書房)からの抜萃ですが、敵対する国に対するアメリカの制裁が、どんなに残酷で恐ろしいものであるかが、よくわかります。
 かつてキューバのゲリラ指導者、チェ・ゲバラが、”祖国か、死か”と語った言葉を思い出します。アメリカに逆らうということは、それほど厳しい覚悟を必要としたのだということです。
 だから、そのことを踏まえて国際情勢を捉える必要があると思います。

 2022年3月の国連緊急特別会合では、日米など96カ国が、”「ロシアによるウクライナ侵攻に最も強い言葉で遺憾の意を表す」として、ロシアに対し「軍の即時かつ無条件の撤退」を求めたうえで、ウクライナ東部の親ロシア派支配地域の「独立承認の撤回」も要請する決議を共同提案し、141カ国の賛成多数で採択しました。その時の報道では、ロシア、ベラルーシ、シリア、北朝鮮、エリトリアの5カ国が反対し、中国やインドなど35カ国は棄権したとのことでした。多数決ではロシアの敗北です。
 でもその採決結果には、大きな力が働いていたと思われることを見逃してはならないと思います。すなわち、アメリカの制裁を恐れて、賛成せざるを得なかった国が含まれていただろうということです。
 また、アメリカを中心とするNATO諸国の、ロシアに対する挑発的・攻撃的活動が、明らかになっていなかったということや、西側諸国の、日常的なプロパガンダの影響も踏まえる必要があると思います。

 日本を含む西側諸国では、日々、アメリカの戦略に基づくプロパガンダが流されています。
 例えば、9月22日の朝日新聞「世界発 2023」には、”インフレ率数百% 700万人脱出 独裁政権続くベネズエラ”という見出しの記事が出ていました。
 でも、ベネズエラのマドゥロ大統領は、アメリカの搾取や収奪を断固として拒否し「貧者の救済」を掲げて、1998年のベネズエラ大統領選挙で選出されたチャベス大統領の後継者であり、ベネズエラ統一社会党の出身です。
 チャベス大統領死去後、チャベス政権の継承を掲げて大統領選挙で正式に後任の大統領に選出されているのです。 
 ただ、南米の資源大国なので、アメリカの厳しい切り崩しに対応せざるを得ず、政治的には行き過ぎた問題もいろいろあるだろうとは思います。でも、命がけでアメリカに抵抗するマドゥロ政権独裁政権と断定し、否定することは間違っていると思います。
 また、中国の台頭に合わせるように、徐々にアメリカ離れが進んでいることもきちんと受け止めるべきだと思います。

 先だって、ベネズエラ外務省は、中国とベネズエラの両国首脳会談で、ベネズエラのBRICS加盟、「一帯一路」など各種協力事業の推進に合意したことを発表しました。
 また、両国が日本のALPS処理水放出に反対する旨を共同声明に盛り込んだといわれています。
 
 第三次世界大戦の危険を回避するためにも、圧倒的な軍事力と経済力を背景としたアメリカの世界支配を終わらせ、民主的な国際社会を実現するために行動すべき時期がきているのではないかと思います。
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                    「国民を路頭に迷わせない」

 キューバでは、共産党大会は原則として五年ごとに開かれる。前回の第三回大会は1986年に開かれており、したがって第四回大会は91年に開催が予定されていた。そのため、本格的な経済危機対策はその時まで待つこととし、当面は緊急対策でしのぐことになった。
 この間に取られた政策はいかにもキューバらしいものであった。学校給食など無料サービスの有料化や配給品の値上げは避けられなかったものの、不足する物資を次々と配給に組み込んでいったのである。「金のある者、力のある者だけが豊かな生活を享受するのであってはならない」という理念にもとづくものであり、たとえば、ほとんど輸入に頼っていたために最も不足の激しかったミルクは、乳幼児と高齢者と病人だけに配給切符が配られた。
 一方、原料も部品も燃料もなければ工場は動かせない。しかし、工場を閉鎖したり操業短縮すれば多くの失業者を出し、国民を路頭に迷わせることになる。そこで政府は91年10月に余剰労働力に関する政令を出し、リストラ労働者は転職させるか、または職業訓練を施し、その間、6ヶ月は元の職場と同じ賃金を支払うことにした。しかし、次々と企業が閉鎖に追い込まれているときに、転職の可能性があるはずはなく、結局、雇用の確保のために赤字企業に財政補填を行ない、維持する以外になかった。
 こうして91年10月の第四回共産党大会を迎える。キューバでは何か大きな問題が起きると「全国民的討論」が繰り広げられる。このときにも党大会を前に90年3月から、いかなる政策をとるべきかについて、共産党の下部組織だけではなく、労働組合、女性団体、青年団体、住民組織などで「全国民的討論」が行われてきた。だが、党大会直前には経済状況は予想以上のスピードで悪化しており、ソ連の解体すら予想される事態になっていた。これは大会の議論にも影響を与え、指導部も相当の危機意識をもって臨んだ。カストロ第一書記の基調報告も刻々と変化する情勢を前にして、即興の演説となった。
 もしもソ連解体という事態になれば世界での孤立は避けられない。米国はカストロ政権追放の好機とみなし、経済封鎖をさらに強化してくるであろう。キューバにとって非常に厳しい事態であったといえる。
 第四回党大会ではさまざまな決議が出され、さまざまな経済危機対策が打ち出されているが、ソ連消滅が避けられない以上、取るべき基本的政策は決まっている。結局、「経済決議」で打ち出されているように、(一)世界のあらゆる国々と経済関係を打ち立てる。(二)外貨収入確保のため新たな砂糖輸出市場を確保し、さらに非伝統的輸出品を開発する。(三)輸入に頼らない自給的経済体制を打ち立てる、ということになるが、ソ連消滅によって米国の一極支配体制ができれば、これも非常に厳しい。
 米国の対キューバ制裁法、つまりクリントン大統領が96年に署名して成立したヘルムズ・バートン法(「1996年キューバの自由と民主主義連帯法」)は、ブッシュ政権が制定したいわゆるトリチェリ法(正式には「1992年キューバ民主主義法」)が効果を上げていないとして制裁をさらに強化したものであるため、非常に厳しいものとなっている。世界のどこの国で作られたものであれ、キューバ産物資を含む物品の輸入は禁止され、キューバに立ち寄った船舶は六ヶ月間、米国の港に入ることができない。大型の貨物船は各地の港を回っていくから、これは第三国に対する対キューバ貿易の禁止を意味する。しかもキューバと取引した国や企業も制裁され、またキューバを援助した国は米国の援助が停止されるため、とくに、累積対外債務をかかえる近隣のラテンアメリカ諸国には大変な脅威である。
 経済回復はいうまでもなく、砂糖輸出の増加にかかっている。しかし、国際市場での取引はほとんどが二国間協定になっておりキューバが食い込むのは難しい。そのため、自由市場で売らざるを得ないが、砂糖の国際価格は「ゴミ価格」といわれるほどに低迷している。砂糖に将来性がないとすれば、輸出できるものは全て輸出し、生き残りを図らなければならない。その中で新たな外貨収入源として観光開発に力が注がれたことは有名だが、この他、いかにもキューバらしいものとしては、医薬品の輸出やスポーツコーチの派遣がある。いずれも革命後、医学の発展やスポーツの振興に力を注いできた成果である。医薬品では脳髄炎ワクチンがよく知られており、スポーツについては野球やバレーボールなど、ラテンアメリカ諸国を中心にコーチを「輸出」し、外貨を稼いでいる。そのために、パンアメリカン・スポーツ大会などはそれまではキューバと米国の争いの場という感があったが、他のラテンアメリカ諸国は強力な相手として台頭しており、ジレンマでもある。
 外資の積極的導入も打ち出された。やはりホテルの建設や経営が中心だが、スペイン、カナダなど多くの企業が進出した。ハバナや世界的な有名な保養地であるバラデロ海岸などはホテル建設ラッシュとなっているが、それでもホテルの客室数はまだ足りないという。外国人観光客はすでに年間百万人を超え、外貨収入も砂糖のそれを上回り、全体の50%を超えた。観光客が多いのはスペイン、イタリア、ドイツ、フランス、カナダ、それにアルゼンチンなどのラテンアメリカ諸国といったところである。

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くり返される内政干渉と武力介入

2023年09月20日 | 国際・政治

 先日、朝日新聞の「天声人語」を読んで、少々驚きました。私は勝手に、「天声人語」は、社説と異なり、アメリカのプロパガンダとは無縁だろうと思っていたからです。でも、先日の 天声人語は 、
ヒラリー・クリントン氏が米国務長官だったとき、2011年のことだ。「アラブの春」と呼ばれた中東の民主化の動きを受け、42年に及んだリビアのカダフィ政権の独裁は崩壊した。直後に軍用機で首都トリポリ入りした彼女はその体験を、感慨深く回想録に記している。彼女に強い印象を与えたのは、民主国家を目指す若者の「思慮深さと決意」だった。「言論の自由を根づかせるために、どのような段階を踏めばいいと思いますか」何人もの学生が真摯な質問をぶつけてきたという。彼女は何と答えたかは回想録に記述がない。おそらく民主化が容易でないと、分かっていたからだろう。「国の将来を形作るのは民兵の兵器だろうか、それとも人々の切望だろうか」。そんな感想だけが書かれている。…”
などと、アメリカの表向きの情勢認識や考え方で書かれていたのです。
 独裁者とはいったいどういう人物をいうのでしょうか。「カダフィ政権の独裁は崩壊した」と断言する根拠は何でしょうか。
 私は、カダフィが独裁者とされているのは、彼が強い反米主義の姿勢を貫いていたからだと思っています。カダフィ政権の時代、欧米の搾取や収奪を断固として拒否し続けたリビアは、豊かであり強い経済力を持っていたといいます。だから、地域での立場は強かったということです。また、「外国では、リビアという国を知らなくても『カダフィ』を知る人は非常に多かった。行く先々で尊敬の念をもって迎えられた」などと、カダフィ政権時代を懐かしむ人もいるということです。

 前回「キューバ 超大国を屈服させたラテンの魂」伊藤千尋(高文研)から抜粋した文章の中に、
1998年のベネズエラ大統領選挙で勝ったのは、「貧者の救済」を掲げたウゴ・チャベスだ。元軍人で、陸軍中佐の時にクーデターを起こして失敗し投獄されたが、国民の赦免運動で釈放された。このあたりの経歴は、キューバのカストロに似ている。彼は99年に大統領に就任すると、この国の唯一の収入源の石油から得られた利益を貧しい人々の生活支援に向けた。学校や診療所を建て、貧しい人が無料で治療を受け、学べるようにした。これもキューバ革命と同じだ。
 これはまずいと見た米国は2002年手を出した。CIAがおぜん立てをしてベネズエラの軍部にクーデターを起こさせたのだ。蜂起した軍が大統領官邸を占拠してチャアベス拉致し、経済界の代表が新大統領に就任したことをテレビで宣言した。チャベスは米国が差し回した飛行機で亡命させられるはずだった。
 これまでの中南米なら、これで片が付いたが、この時は違った。ベネズエラの多数の市民が大統領官邸を囲んで抗議行動を起こし、チャベスを支持する軍人が出動してクーデター派を官邸から追い出した。一時は死を覚悟したチャベスは救出され、大統領に返り咲いた。
 とありましたが、カダフィカストロチャベスと同じように、断固として欧米の搾取や収奪を拒否し、国の利益や富は国民に返す指導者であったと思います。だから、アメリカから独裁者呼ばわりされ、敵視され続けたのだと思います。それを無視して、アメリカと同じように、カダフィを独裁者とすることは、アメリカのプロパガンダを広げ深めることであると思います。
 「カダフィ政権崩壊」の経緯、とくにアメリカの介入が無視されてはならないと思います。
 
 カダフィは、1980年代には、反米テロを支援したと疑われました。そのため、アメリカのレーガン大統領は1986年にリビアへの経済制裁を発動したのみならず、リビアを空爆しました。その空爆は「独裁者カダフィ」の殺害が目的であったといわれています。
 だから、いつ政権転覆工作が実施されるか、また、いつカダフィ暗殺計画が実行されるかわからないリビアでは、欧米のような自由は望めないのだと思います。そこが大事なところであり、そこを無視すると、カダフィは酷い独裁者に見えるのだろうと思います。アメリカの巧みな内政干渉に目をつぶると、善悪が逆様に見えるということです。

 2010年末にアラブ世界で始まった民主化要求の波に影響され、リビアでも民主化要求の声が高まります。そしてそれが、反政府デモに発展し、どんどん拡大して、首都トリポリが混乱に陥ります。当然、その拡大にはアメリカの介入があったと思います。
 だから、カダフィ大佐の次男が記者会見で、デモには徹底的に対抗することを宣言したのだと思います。

 その後トリポリで、「政府軍の戦闘機やヘリコプターが、反政府デモに対して上空から攻撃を加えた」との報道がなされるのです。その結果、国連のパン・ギムン事務総長、アメリカのクリントン国務長官EUなどが、それぞれ、市民への攻撃を非難し、攻撃中止を求める声明を発表するに至ります。「民衆に対する武力弾圧」の報道は、カダフィ政権を揺るがし、閣僚が辞任したり、軍幹部が反政府勢力に合流したりすることになるのです。そして反政府勢力は「国民評議会」を結成するに至り、リビアは内戦状態に陥るのです。そのリビア内戦に至るプロセスにアメリカが介入していたことを見逃してはならないと思います。

 また、リビア内戦に関わる「国連安保理決議1973」も、ウクライナ戦争における決議同様、アメリカ主導によるもので問題があったと思います。だから、軍事介入を懸念した中国・ロシア・インド・ブラジルに加えドイツも棄権しています。

 さらに、この時、リビアの反政府勢力に武器を売却することをやめるように、ヒラリークリントン国務長官に訴える声があったことも忘れることができません。その後、ヒラリークリントン国務長官が武器密売に関わっているとの報道さえありました。真実は知りませんが、大量のアメリカ製武器が、反政府勢力にわたっていた事実は見逃してはならないことだと思います。
 「国連決議1973」に基づく、多国籍軍のリビア爆撃、アメリカを中心とする西側諸国の反政府勢力に対する武器提供財政支援がなければ、カダフィ政権が崩壊することはなかったと思います。
 リビアの問題は、法的に解決すべき問題であり、法的に解決できた問題であったと思います。政府と反政府勢力の争いに他国が介入することは、基本的に内政干渉であり、仲裁ならいざ知らず、武力介入など許されることではない、と私は思います。また、「武力介入」が「人道的介入」などと言い換えられてはならないと思います。

キューバ 超大国を屈服させたラテンの魂」伊藤千尋(高文研)から抜粋した下記の文章には、 
メキシコゲリラは、それに対して声をあげ武器を取った。彼らのスローガンは「ヤ・バスタ(もう、たくさんだ)」だ。米国の思うままに搾り取られるのはごめんだという叫びが、この一言に含まれている。
 とありました。
 搾取・収奪によって、世界最大の軍事力や経済力を持つに到ったアメリカのやりたい放題を止めることが求められていると思います。
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                 Ⅰ章 キューバを取り巻く新しい世界

                 2米国はなぜ国交回復に踏み切ったのか

                      米州の形成逆転
 蜂起したメキシコのゲリラ
 米国は中南米を巻き込み米州全体にまたがる自由貿易地域を築こうとした。1994年、その先駆けとして北米地域でつくったのが北米自由貿易協定(NAFTA)である。米国、カナダ、メキシコという北米にある三つの国で関税を撤廃するものだ。あからさまに言えばカナダとメキシコを米国経済の支配下に取り込もうとするものである。1994年1月1日に発効した。
 まさにその日、メキシコで蜂起したのがサパティスタ民族解放軍(EZNL)だ。ピラミッドや暦で名高い高度な文明を築いたマヤ民族の血を引く先住民が主体となった左翼ゲリラである。蜂起した理由はまさに、米国との自由貿易協定の拒絶だった。米国との協定がメキシコ人、とりわけ農業で生活する先住民の命を奪うことにつながるという思いからである。
 なぜ自由貿易が農民の生活を破壊するのか。
 メキシコ人の主食はトウモロコシだ。日本人がお米を炊いて御飯にして食べるように、彼らはトウモロコシを粉にしてパンのように焼いたトルティージャを日ごろ食べる。だからメキシコの農民の多くがこのトウモロコシを栽培する。米国との自由貿易によって、それが壊滅的な打撃を受けた。米国産の安いトウモロコシがメキシコに流れ込み、市場からメキシコ産のトウモロコシを排除してしまったのだ。
 自由貿易の反対が保護主義だ。それを精神に沿って、米国は協定を結ぶ相手の国に対して、国内の産業に対する保護をやめるように強要した。例えばTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)で米国は日本に対し米農家への補助金を撤廃するように迫った。同じように米国はメキシコに対して、自国のトウモロコシ農民への保護政策を実施しないように迫った。
 このように他国に対しては保護を止めろと言いながら、米国政府は自国の農民は保護しているのだ。産物を他国に輸出するトウモロコシ農家に米国は多額の補助金を出している。このため、米国産のトウモロコシの価格は安くなる。それが他国の市場に流れ込むと、その国の人々は安い米国産を買う。このためにメキシコで生産されたトウモロコシが売れなくなりトウモロコシ農家が廃業に追い込まれた。そうやって他国の農業を破壊したうえで、こんどはトウモロコシの値段をつり上げるのだ。
 米国政府は狡猾だ。彼らは二枚舌を使う。自由貿易で両国ともに利益を得ようといいながら、自分だけがもうかるような仕組みを作る。相手の国は文句を言いそうだが、米国の政府と結びついて、自分の懐を肥やす政治家たちは、自分の国や国民はどうなってもいいと考える。こうして長年つちかってきた経済や文化が破壊される。
 メキシコゲリラは、それに対して声をあげ武器を取った。彼らのスローガンは「ヤ・バスタ(もう、たくさんだ)」だ。米国の思うままに搾り取られるのはごめんだという叫びが、この一言に含まれている。

 米国に対抗する経済同盟
 南米ではこの1994年、大国ブラジルとアルゼンチンが主体となり、四つの国が一緒になって独自の経済共同体を作り上げた。一つの国では米国にのみ込まれるので、共同で米国に対抗しようという戦略だ。南米南部共同市場という。スペイン語の頭文字MERCOSURからメルコスールと呼ばれる。域内では関税を撤廃し、域外の国に対しては共通関税を実施することになった。域外の国とは、米国を頭に置いたものだ。
 発足を進めたのはブラジルとアルゼンチンの官僚だった。この隣り合った両国はそれまでことあるごとに対立してきた。協調のきっかけは両国ともに軍事政権から抜け出したことだ。民主化を進めるために通信、エネルギー政策など、途上国が単独で進めるには難しい政策を協力して行った。これで信頼関係が生まれ、経済の共同体に話が進んだのだ。
 それは戦後の欧州に発足した欧州経済共同体の流れと同じだ。欧州ではドイツとフランスという犬猿の仲の二つの国が競い合って何度も戦争を起こし、そのために両国とも荒廃した。第二次大戦後、フランスの周シューマン外相が提案して両国が主体となって欧州石炭鉄鋼共同体が結成され、まもなく欧州経済共同体につながった。さらに経済から政治の統合をめざし、現在の欧州連合を生んだ。
 メルコスールには、ブラジルとアルゼンチンに挟まれたウルグアイとパラグアイも同調した。翌1995年に正式に発足した。2012年にはベネズエラも加盟した。チリやボリビアなどのアンデス諸国も準加盟した。これが欧州と同様、経済の共同体が政治の共同体を作る動きにつながった。2004年、南米首脳会議は欧州連合並みの南米国家共同体を創設することを宣言した。中でも反米の姿勢を鮮明にしたベネズエラのチャベス政権は2001年、米州ボリバル代替構想(ALBA)という新たな中南米統合の枠組みを提案した。米国による中南米支配の具となった米州機構にとって替わろうとするものだ。だから「代替」なのだ。ボルトはかつて中南米を植民地支配したスペインから中南米を解放した将軍シモン・ボリバルの名に由来する。2010年にはキューバとベネズエラが共同声明で正式に提起し、2009年には米州ボリバル同盟と名を変えた。ボリビア、エクアドル、ニカラグアやカリブ諸国など8カ国が加盟した。

 キューバの孤立から米国の孤立へ
 米国とカナダで構成する北米と中南米を合わせて米州と呼ぶ。アメリカ大陸だ。そこにある35の国がいっしょになって第二大戦後の1951年に創った米州機構(OAS)という国際組織がある。地域の国々の連携を強め、平和や安全保障、紛争の平和解決を目指した。とはいえ。実態は、冷戦の中で米国が身近な国々を自分の陣営に固めるために作った反共同盟である。キューバは1962年に除名された。 米国の権威が続いたのは1994年までだ。その3年前にソ連が崩壊したあと、キューバの崩壊も間近だと考えられた。米国は北米自由貿易協定を発効させた1994年、勝ち誇ったように米州全体の首脳を米国のマイアミに集めた。当時のクリントン大統領が主導した第一回米州首脳会議で彼は勢いに乗り、キューバを除く米州すべてを網羅する米州自由貿易地域(FTAA)の創設を打ち上げた。2015年までにこれを実現しようとした。
 ところが、中南米諸国はいっせいに反発した。 
 それは政治の組織である米州機構に如実に現れた。中南米の国々は経済だけでなく政治でも自立をめざし、米州機構から除名されていたキューバを復帰させようという声が高まった。米国はキューバの復帰を阻止するため、2001年の第31回総会で「加盟国を民主主義国に限定する」という規則を盛り込むことを提案した。キューバは民主主義ではないとして排除できるからだ。しかし、この提案は採択されなかった。これが米国の最初のつまずきである。
 2002年のベネズエラのクーデター騒ぎのさいには、米州機構として米国に敵対するチャベス政権の正当性を認めた。2005年には事務総長選挙で革命が起きた。米国はエルサルバドルの前大統領を事務総長にしようとした。米州で唯一の国としてイラク戦争に派兵した彼への論功行賞だった。しかし、南米諸国は反発してチリのインスルサ元内相を推した。米国の推す候補は出馬を辞退した。その結果、インスルサ氏が就任した。それまでの米州機構の事務総長は、すべて米国が提案した米国べったりの政治家が就任していた。史上初めて米国が支持しない候補が機構のトップに選ばれたのだ。
 

 2009年の総会では、キューバを追放した1962年の決定を無効と決議し、ついにキューバの復帰を認めた。これに対してキューバは「米州機構はごみ溜めであり、消え去る命にある」と冷ややかに述べ、復帰を拒否した。この年に就任したオバマ米大統領は、米朝首脳会議に「米国は中南米諸国と対等な関係にある」と語った。米州に君臨していた米国が、少なくとも対等な関係まで降りたと認めざるを得なくなったのだ。
 米州首脳会議の第6回会議が開かれた2012年、ALBA諸国がキューバも参加させないのはおかしいと主張し、会議をボイコットした。そして、2014年の第7回会議準備会合では、翌年の会議にキューバを招待することを承認した。排除されてきたキューバは、丁寧に招かれることになったのである。
 この間、2011年にはベネズエラの呼びかけにより、中南米諸国すべてえの33カ国を網羅した中南米カリブ海諸国共同体(CELAC)が発足した。これまでとは反対に、キューバを受け入れ米国を排除するものである。2014年に開かれたその第2回首脳会議は、キューバのハバナで開催された。
 ラウル・カストロ国家評議会議長は開会演説で米国によるキューバへのスパイ活動を国際法違反だと批判するとともに、中南米すべての国が戦争を放棄する「平和地帯宣言」を行うことを提案し、そのとうりに採択された。「武力の行使をおよび武力による威嚇を永久に放棄することをまざし、紛争を平和的に解決する」という、日本人にはなじみの深い文句が宣言に入った。
 こうした背景を受けて2015年の米州首脳会議で、キューバは初めて参加した。その場でラウル・カストロ国家評議会議長とオバマ米大統領は握手し、歴史的な首脳会談に臨んだのだ。オバマ大統領は、米国とキューバとの関係が中南米地域全体の転換点になると演説で語った。
 それは米国にとって、中南米支配の終焉を意味した。直後に登壇したカストロ議長は「相互に尊重した対話と共存」を強調した。キューバにとっては長年の孤立に耐えた勝利宣言である。
 このような流れの結果、米国はキューバを認めざるをえなくなったのだ。米国とキューバの国交回復交渉が再開したのは、この文脈を知って初めて納得できる。 

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プロパガンダの政治論、想像から妄想へ

2023年09月16日 | 日記

 「キューバ 超大国を屈服させたラテンの魂」伊藤千尋(高文研)のような本を読めば、アメリカという国がどういう国であるかが分かるように思います。
 極論すれば、アメリカは、圧倒的な軍事力や経済力を背景に、世界中の国々を、アメリカの影響下に置き、利益を吸い上げてきたということです。また、従わない国や抵抗する国は、武力を行使してつぶしてきたということです。
 だから、ロシアに対してもさまざまな工作や攻撃をしてきたことは間違いないと思います。
 現に、ロシアの主張を無視してNATOを拡大させ、ウクライナの政権を転覆して武器を配備し、合同軍事演習をくり返したのみならず、ノルドストリームの問題では、ウクライナ戦争のずっと前から、ロシア側に制裁を科していました。 

 ところが、驚くことに、メディアに登場する専門家と言われる人たちの多くは、そうした現実を無視し、ウクライナ戦争を主導するアメリカの存在を消し去って、ウクライナ戦争を論じているのです。
 それは、現実を直視し、ウクライナ戦争の経緯を踏まえて、ウクライナ戦争の分析や考察をすると、覇権や利益を失いつつあるアメリカの問題に帰着せざるを得ないからだと思います。

 例えば、ハーバード大学ウクライナ研究所長の歴史家のセルヒー・プロヒー教授は、ウクライナ戦争は「プーチンの戦争」などと言っています。
 そして、 
 「プーチンは明らかに、ソ連崩壊と、超大国の地位とその権威の失墜、ロシアが自領だと考える領土の喪失などに大いに不満を抱いてきた。これは『古典的なポスト・インペリアリズム・シンドローム』であり、プーチン本人がその象徴になったのです。ですから、ロシアの戦争はある程度、『プーチンの戦争』と言い換えることができるわけです
 とか、
こうした外国の中に自国を作り出すロシアの行動パターンには、「事態を激化させ、さらに強欲になっていく」傾向があるという。そして、そのプロセスが作用するには、「プーチン大統領」という個人的な要因が大きい。
 というのです。そして、ウクライナ戦争が、ロシアの大国回帰への欲望の結果であるかのようにいうのです。
 
 プーチン大統領個人の心の中を想像してウクライナ戦争を論じるのは、アメリカのプロパガンダに欠かせないことだからだろうと思います。そして、プーチン大統領を悪魔のような独裁者とするから、ロシアの人たちは恐くて逆らうことができないのだろうと、さらに想像が膨らみ、プーチン率いるロシアはつぶさなければならないということになるのだろうと思います。
 それは、極論すればプーチン個人の心の中の想像から、ロシアという国を理解する、妄想ともいうべき受け止め方だと思います。
 日本を含む西側諸国政府から停戦・和解の話が出て来ないのは、妄想の世界に入り込んでいるからではないかと思うのです。

 ウクライナ戦争の解説に登場する学者や研究者も、”プーチン大統領は、ウクライナがほしかったのです”などと、セルヒー・プロヒー教授と同じようなのようなことを語っていたことを忘れることができません。現実の諸問題から国民の意識を遠ざけ、想像や妄想の意識を共有すること、それが、アメリカの影響下にある日本の学者や研究者の務めになっているような気がします。

 下記は、「キューバ 超大国を屈服させたラテンの魂」伊藤千尋(高文研)からの抜萃ですが、なかに
モラレス(この国で初めての先住民出身の大統領)はボリビアのコカ生産組合の組合長でもあった。コカは麻薬であるコカインの原料にもなるが、もともとは日本茶と同じようなコカ茶の原料だ。ボリビアの人々は、日本人が日本茶を飲むように普段コカ茶を飲む。ところが、米国でコカインが流行すると、米国は茶畑を焼き払うように、ボリビア政府に要求した。米国べったりだったボリビア政府は軍を動員してコカ茶畑を火炎放射器で焼いたが、畑が広すぎて撲滅できない。すると米軍は畑の上空から枯葉剤をまいた。

 怒ったのがボリビアの人々だ。…”
 というような見逃せない記述があります。こういう過去を無かったことにしてはいけないと思います。

 先日朝日新聞は、松野官房長官が関東大震災当時の朝鮮人虐殺の記録は政府内に「見当たらない」と発言をしたことを、史実の歪曲として批判する記事を掲載しました。当然のことだと思います。

 だから私は、同じようにアメリカの戦争犯罪や国際法違反も、無かったことにしないでほしいと思うのです。
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                   Ⅰ章 キューバを取り巻く新しい世界

                  2 米国はなぜ国交回復に踏み切ったのか

                       米州の形勢逆転

 ベネズエラのチャベス
 こうした中で、最初に反米の旗を掲げたのが南米のベネズエラであった。
 1998年のベネズエラ大統領選挙で勝ったのは、「貧者の救済」を掲げたウゴ・チャベスだ。元軍人で、陸軍中佐の時にクーデターを起こして失敗し投獄されたが、国民の赦免運動で釈放された。このあたりの経歴は、キューバのカストロに似ている。彼は99年に大統領に就任すると、この国の唯一の収入源の石油から得られた利益を貧しい人々の生活支援に向けた。学校や診療所を建て、貧しい人が無料で治療を受け、学べるようにした。これもキューバ革命と同じだ。
 これはまずいと見た米国は2002年手を出した。CIAがおぜん立てをしてベネズエラの軍部にクーデターを起こさせたのだ。蜂起した軍が大統領官邸を占拠してチャアベス拉致し、経済界の代表が新大統領に就任したことをテレビで宣言した。チャベスは米国が差し回した飛行機で亡命させられるはずだった。
 これまでの中南米なら、これで片が付いたが、この時は違った。ベネズエラの多数の市民が大統領官邸を囲んで抗議行動を起こし、チャベスを支持する軍人が出動してクーデター派を官邸から追い出した。一時は死を覚悟したチャベスは救出され、大統領に返り咲いた。
 このとき、私は朝日新聞のロサンゼルス支局長をしていた。ベネズエラに取材に入ったとき、すでにクーデターは失敗していた。始まりから失敗までわずか30時間だ。クーデターを阻止したベネズエラ市民の力に驚嘆したが、それ以上に印象的だったのはCIAの実力の低下だ。
 過去の歴史でCIAが失敗したのは、キューバに反革命軍を侵攻させたピッグス湾事件くらいである。キューバの場合は革命政権が組織的に動いて反革命を撃退したが、ベネズエラでは市民が自発的に大衆行動を繰り広げて米国政府の謀略を阻止した。中南米の歴史上、画期的な事件である。
 これを機にチャベスはあからさまな反米、親キューバ路線に舵を切った。それは中南米が「反米大陸」になる先触れでもあった。

 反米政権ラッシュ
 この時期の中南米に生まれた大統領はいずれも個性的で、人間的にも面白い人たちだらけだ。
 チャベス政権転覆のクーデターが失敗した2002年、南米で最大の大国ブラジルの大統領に左翼労働党のルーラが当選し、翌2003年に就任した。彼は貧しい農家に生まれて7歳から靴磨きをし、小学校を中退して日系人のクリーニング店に住み込んで働いた苦労人である。
 労働組合運動で頭角を現し、軍政時代には地下活動しながらゼネスト指導した「お尋ね者」が大統領になったのだ。就任すると農地改革を進めた。ブラジルではかつてのキューバのような大土地所有制が続いていたが、貧しい農民が土地を手にした。同じ年、南米の大国アルゼンチンで左派のキルチネルが政権に就いた。貧しい大衆の味方として名高いエピータことエバ・ペロンの夫が率いたペロン党の代表である。 
 2004年には中米パナマでマルティン・トリホスが大統領に当選した。彼の父オマール・トリホスは民族主義者で、米国からパナマ運河を返還させる条約を結ぶことに成功したパナマの英雄だ。謎の飛行機事故で亡くなったが、この事故もCIAが黒幕にいるというわさが流れた。イギリスの小説家のグレアム・グリーンが『トリホス将軍の死』で書いている。
 同じ年、南米のウルグアイでは左派のバスケスが大統領に当選した。貧しい家庭の生まれで、少年時代は日雇いの肉体労働で家計を助けた。南米のスイスと呼ばれるほど豊かなこの国で、貧困層出身の初めての大統領だ。
 2005年には南米の中央部にあるボリビアで、明確に反米を掲げる社会主義運動党の党首、エボ・モラレスが大統領に当選した。この国で初めての先住民出身の大統領だ。彼は就任式のさい、こぶしを突き上げて「この闘いは、チェ・ゲバラに続くものだ」と叫んだ。ボリビアで戦死したゲバラの遺志を受け継ぐ意味を込めたのだ。
 モラレスはボリビアのコカ生産組合の組合長でもあった。コカは麻薬であるコカインの原料にもなるが、もともとは日本茶と同じようなコカ茶の原料だ。ボリビアの人々は、日本人が日本茶を飲むように普段コカ茶を飲む。ところが、米国でコカインが流行すると、米国は茶畑を焼き払うように、ボリビア政府に要求した。米国べったりだったボリビア政府は軍を動員してコカ茶畑を火炎放射器で焼いたが、畑が広すぎて撲滅できない。すると米軍は畑の上空から枯葉剤をまいた。
 怒ったのがボリビアの人々だ。それはそうだろう。たとえば日本の静岡や宇治の茶畑の上空に米軍が枯葉剤をまいたら日本人は怒るだろう。最も強く怒ったのがコカ茶を生産する農民だ。反対運動の先頭に立ったのがコカ茶生産組合で、その先頭にいたのが組合長のモラレスだ。
 なぜ米国のためにボリビアの伝統産業をつぶすのか、と彼は国民に訴えた。悪いのはコカを麻薬にするマフィアと、それを買う米国の消費者であり、コカ茶やコカを飲む人々に罪はない。米国のために国民を犠牲にするような政治ではなく、ボリビア国民のためになる政治に変えよう、と訴えて大統領選挙で勝ったのだ。
 2006年には南米三番目の大国チリで社会党のバチェレが当選した。チリで初の女性大統領だ。この国では1973年に軍部がクーデターを起こした。そのさいバチェレは逮捕、拷問され、のちに亡命を強いられた。彼女の父親は当時、空軍の司令官だったがクーデターに反対したため逮捕され、獄中の拷問で殺された人である。このクーデターを画策したのが米CIAだった。同じ年、南米ペルーでは中道左派、アメリカ革命人民同盟のガルシアが当選した。彼は1985年にも大統領となり、最も貧しい人々の政府となる」と宣言した。米国主導の国際通貨基金(IMF)に反発して債務の返済を拒否した人だ。

 左翼ゲリラが選挙で大統領に
 この年は中南米の国で大統領選が相次いだ。中米のニカラグアで勝利したのは左翼サンディニスタ民族解放戦線のオルテガだ。サンディニスタとは1920年代に米海兵隊のニカラグア駐留に反対してゲリラ戦を展開したサンディーノ将軍から生まれた名である。1979年の革命で政権を取ったさいに大統領に就任したのが、このオルテガだ。内戦が終了後は中道や右派が政権を握っていたが、オルテガは16年ぶりに政権に返り咲いた。
 同じ2006年にペルーの隣の。エクアドルでは反米左派のコレアが当選した。前の政権で経済相だったが米国との自由貿易協定に反対したため大臣を罷免され、かえって国民の人気を得た。コレアはやがてベネズエラのチャベスやボリビアのモラレスと共に反米の急先鋒となった。この年の国連総会でチャベスは当時のブッシュ米大統領を「悪魔」と呼んだが、コレアは「間抜けなブッシュと比べるなんて、悪魔に失礼だ」と言った。
 2007年には中米グアテマラで中道左派のコロンが当選した。この国は36年間にわたって内戦が続き、その後は米国の言うなりに動いていた元軍人ら右派勢力が三代続けて政権を握った。そこに社会民主主義を掲げる大統領が当選したのだ。2008年には南米パラグアイで中道左派連盟のルゴが当選した。それまでの61年間、「世界最長」と言われるほど長く保守政党が政権を握ってきた国は画期的な変化をした。ルゴは「貧者の司教」と呼ばれるカトリックの「解放の神学」派の神父だった。土地を持たない貧しい農民のために反政府デモをし、司教の地位を捨てて政治の世界に飛び込んだ人だ。
 2009年には中米エルサルバドルで内戦時代に左翼ゲリラだったファラブンド・マルティ民族解放戦線のフネスが当選した。武力革命は成功しえなかったゲリラが選挙で政権をとったのだ。同じ年、ウルグアイでムヒカが当選した。5年前に政権を握った左派が連続で当選したのだ。ムヒカも左翼ゲリラの出身である。キューバ革命の影響を受けて都市ゲリラに加わり、武装闘争の資金稼ぎのため強盗したこともある。国会議員時代にはヨレヨレのジーンズにオートバイで国会乗り付け、入るのを警備員に拒否されたこともある。大統領の給与の大半は貧しい人に寄付することを約束し、「世界でも最も貧しい大統領」を自認した。
 2011年には。ブラジルでルーラの後継者として女性のルセフが当選した。彼女も左翼ゲリラの出身である。軍事政権化で武力革命を主張し、資金稼ぎの銀行強盗を指揮した。逮捕、拷問され、国家反逆罪で3年投獄された人である。同年南米ペルーでは先住民の出身で、左派民族主義者のウマラが当選した。新自由主義からの転換を主張し、経済発展から取り残された人々のため、「貧困のないペルーを作る」と宣言した。
 こうした流れはその後も続き、2013年にはベネズエラでチャベスの後継者マドゥーロが当選した。

 新自由主義への反発
 なぜ中南米が左派や中道左派に変わったのだろうか。大きな原因は、米国に生まれ世界に広まった新自由主義の経済に対する反発だ。
 新自由主義とは簡単に言えば、すべての規制をなくして市場のなすがままにしようということだ。政治の経済への介入をなくして、金と欲望の赴くまま市場のなすに任せれば社会は反映するという考え方である。アダム・スミス以来の自由競争絵に描いたような原始的な資本主義だが、それでうまくいかなかったから、その後の世界はケインズ経済などさまざまな修正を重ねてきた。こうした歴史を忘れて、野獣のような戦国時代に戻ろうというのだ。金持ちがより金持ちになり、貧乏人を支配するのに都合のいい考え方である。
 それは国営企業の民営化、自由貿易という政策となって現れる。日本でも小泉首相の時代に郵政の民営化を進めたが、米国のおひざ元で自由主義が暴走した中南米では、郵政どころかあらゆる面で民営化が進んだ。
 典型的なのがボリビアだ。水道事業まで民営化した。「水道局」を競売にかけたらカネを持っている企業が落札し、水道料金が一挙に3倍になった。市民のためでなく企業がもうかればいいという考えだから、こうなる。国民は怒った。水は飲むだけでなく、洗濯にも洗面にも使う。水が「なければ生きていけない。「日本人よりよりおとなしい」と言われるボリビア国民が反政府行動に立ち上がった。
 全国で民営化に反対するデモや集会が起きた。放って置けば暴動に発展すると見た政府は、あわててまた国営化した。これで国民が気づいた。自分達が何もしなければ政治は変わらないが、行動すれば社会を変えることができるのだと。このときの市民の動きが激しかったことから、この現象は「水戦争」と呼ばれた。
 先に述べた。コカ茶をめぐる反政府運動の動きは「コカ戦争」と呼ばれた。その直後の大統領選挙で立候補したモラレスが米国や大企業のためでなく本当に国民のためになる政府にしようと訴えると、有権者はすんなり納得したのだ

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民主主義が攻撃されている? 

2023年09月12日 | 国際・政治

 しばらく前、朝日新聞の「日曜に想う」という欄に、沢村亙論説主幹代理が「歴史はいかに転換するのか」と題する文章を書いていました。その中で、ドイツのショルツ首相が、「ロシアのウクライナ侵攻」開始を受けて議会演説でくり返した「ツァイテンベンデ(時代の転換点)」という言葉を、ドイツで生まれ、日本で暮らす3人に投げかけ、それぞれの「ツァイテンベンデ(時代の転換点)」に関する思いを聞いていました。
 まったく立場の異なる3人なので、「ツァイテンベンデ 」について、読者に いろいろ考えさせようという意図が窺えました。

 だからこの文章では、ウクライナ戦争の捉え方が極めて重要なわけですが、ウクライナ戦争をより深く理解させ、停戦や和解のきっかけにしようとする意図はまるでなく、「でも、だれもプーチン大統領は止められなかった。楽観は消え、私のツァイテンベンデは終わった」とか、「ナチスの台頭を許したのは市民の傍観でした。民主主義が攻撃されているときに、傍観者ではいられない」とか、冷戦終結は、たとえ敵対国でも関与し、経済の相互依存を深めれば友好的、民主的になるという営為の結実だった。「その成功体験が、ロシアの侵攻で崩れ去った」というような「ツァイテンベンデ(時代の転換点) 」の理解へ、読者を誘うのです。それは、「ツァイテンベンデ(時代の転換点) 」という言葉を利用して、ロシアは悪であり、プーチンは悪魔であるというような捉え方へ、読者を巧みに誘導するものだと思いました。
 考えるべきことは、こういう「反ロ思想」からは、停戦・和解の話は出て来ないということです。
 それは、ウクライナ戦争によってロシアを孤立化させ、弱体化させようとするアメリカの戦略であり、戦術なのだと思います。
 だから私は、アメリカを中心とする西側諸国の、”ウクライナ戦争は、プーチンの野望で始まった”というようなプロパガンダが、そのまま朝日新聞を含む西側諸国の主要メディアのスタンスになってしまっているのだろうと察するのです。
 でも最近、そういう主要メディアのスタンスは、徐々に窮地に立たされつつあるように思います。
 

 9月10日の朝日新聞のトップ記事は、”G20、初日に首脳宣言採択、「戦争非難」文言なし”という見出しでした。
 そして、
主要20か国・地域首脳会議(G20サミット)が9日、インドのニューデリーで始まり、首脳宣言が採択された。先進諸国とロシアが鋭く対立していたウクライナ侵攻に関して、昨年の首脳宣言にはあった「戦争を強く非難する」という言及がなくなるなど、後退を印象づける内容になっている。
とありました。
 この文章にも、私はとても問題があると思いました。停戦・和解を考えれば、先日の首脳宣言は、少しも後退ではないと思います。私は、G20が中立的な立場に立つようになって、停戦・和解に一歩近づいたという意味で、むしろ前進だと受け止めています。

 ウクライナ戦争を画策したアメリカの戦略に従えば、上記の文章は、「戦争を強く非難する」ではなく、「ロシアを強く非難する」という言葉が、適切だろうと思います。でも、「戦争を強く非難する」という言葉を使うのは、アメリカの戦略に対する反対を許さないための、巧みな誤魔化しだと思います。
 本当に「戦争を強く非難する」ということであれば、即、停戦・和解の話し合いに進めるはずですが、現実的には、停戦・和解には結びつかない考え方、すなわち、ロシアは交渉相手たり得ない悪の国であるというプロパガンダを行きわたらせているために、反対することが許されない「戦争を強く非難する」という言葉を使うのだろうということです。


 下記は、「キューバ 超大国を屈服させたラテンの魂」伊藤千尋(高文研)からの抜萃ですが、なかに、

米国に逆らう国は武力でつぶそうとするのが、今も昔も変わらぬ米国の政策だ。当時は今よりもあからさまだった。三ヶ月後、アメリカに亡命していたキューバ人約1500人が武器を手に、キューバ南部のコチノス湾(英語名ピッグズ湾)のプラヤ・ヒロン(ヒロン湾)に上陸した。作戦を計画し、資金や武器を提供したのは米国政府の情報機関、米中央状況情報局(CIA)だ。
 とあります。アメリカの対外政策や外交政策をふり返れば、こういうことがくり返されてきたことがわかります。
 だから、ウクライナにおけるヤヌコビッチ政権の顚覆に、アメリカが深く関わり、ウクライナを利用して、ロシアを孤立化させ、弱体化させようとして、ロシアの特別軍事作戦(ウクライナ侵攻)をもたらしたことは、否定できないと思います。ノルドストリームの問題をはじめとして、いろいろ取り上げてきましたが、数々の証拠が、それを物語っていると思います。
 アメリカに逆らうロシアを、ウクライナを利用して、武力でつぶそうとしているというのが、ウクライナ戦争の現実だということです。
  
 昨年、

プーチン氏は血液のがん”である”とか、”ロシアのプーチン大統領が病気を抱えているとの見方が相次いでいる

というような報道が何度かありました。
 また、
ウクライナ国防省の情報機関「情報総局」トップのキリル・ブダノフ局長は14日放映の英民放スカイ・ニュースのインタビューで、プーチン氏に関し「心理的にも肉体的にも非常に状態が悪い」と指摘し、「がんやその他の病気を患っている」との分析を明かした。
 との報道もありました。
 さらに、
ウクライナで苦戦が続いているため、露国内では政権転覆を図る「クーデター計画が進行している」とも主張し、「止められない動きだ」と語った。情報戦の一環として「プーチン氏重病説」を流しているとの見方については否定した。
 との報道もありました。

 米誌「ニュー・ラインズ」は、
プーチン政権に近いオリガルヒ(新興財閥)の発言として、プーチン氏が2月24日のウクライナ侵攻開始前にがんの手術を受けたと伝えた。
 とか、
プーチン氏の健康状態を巡っては、甲状腺の病気や、パーキンソン病を疑う報道も続いている。
 との報道もありました。

 私は、こうした報道があった時、もしかしたら、アメリカが、現実にロシアにおけるクーデターを画策したり、プーチン大統領を殺害する計画を進めていたのではないかと、「キューバ 超大国を屈服させたラテンの魂」伊藤千尋(高文研)その他を読んで、想像させられるのです。殺害しても、病死で片付けることができるからです。あり得る話だと思っています。
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                   Ⅰ キューバを取り巻く新しい世界

                      1 国交回復の衝撃

 米国によるキューバへの干渉
 そもそも、なぜ国交が断絶したのだろうか。断絶後のキューバとアメリカはどんな関係にあったのだろうか。
 国交断絶を一方的に通告したのは米国だ。キューバ革命から二年後の冷戦時代のさなか、1961年にアイゼンハワー大統領が行った。
その前年から両国の関係は険悪だった。生まれたばかりのカストロ政権を米国は承認しなかった。不和に輪をかけたのが農地改革だ。
 キューバの革命政府は大土地所有制度を廃止し、大農園を接収して、貧しい人々に農地を分けた。第二次大戦後の日本でマッカーサー連合国軍最高司令官が行ったのと同じような農地改革をしたのだ。接収された大土地の多くが、米国人の地主や米国の大企業の土地だった。接収といっても没収したのではなく買い取ったのだ。しかし、革命政府にはカネがなかった。革命で倒された独裁者、バディスタが国庫のカネを持ち逃げしたからだ。
 土地や資産を接収された米国の地主や企業は怒った。彼らの訴えを受けた米国の政府は、キューバに対する制裁を始めた。キューバから毎年か買い付けていた砂糖の買い上げを拒否し、キューバへの石油の供給も止めた。当時のキューバ経済は完全にアメリカに頼っていたから、こうすればアメリカの言うことを聞くだろうと思ったのだ。
 ここで顔を出したのがソ連である。当時は冷戦のさなかで、ベルリンをめぐる危機など米ソの対立が急速に高まった時期だ。ソ連は米国から迫害されたキューバを味方に引き入れようとした。アメリカが拒否した砂糖をそっくりソ連が引き受け、アメリカが送らなかった石油をソ連が供給すると申し出た。キューバ政府は飛び付いた。しかし、ソ連からキューバに送られた原油は生成しなければ使えない。キューバにあった製油所はほとんどが米国の企業で、ソ連製原油の精製を拒否した。このためキューバ革命政府は米国の石油製油所を国有化した。米国はキューバ向け商品の部分的禁輸を命令した。キューバに物資不足起こして国民の不満を高まらせ革命をつぶそうとしたのだ。両者の対立はエスカレートした。
 米国は1961年1月、キューバに対して国交の断絶を通告した。
 米国に逆らう国は武力でつぶそうとするのが、今も昔も変わらぬ米国の政策だ。当時は今よりもあからさまだった。三ヶ月後、アメリカに亡命していたキューバ人約1500人が武器を手に、キューバ南部のコチノス湾(英語名ピッグズ湾)のプラヤ・ヒロン(ヒロン湾)に上陸した。作戦を計画し、資金や武器を提供したのは米国政府の情報機関、米中央情報局(CIA)だ。

 キューバの革命軍は迎え撃った。カストロ自身も戦車で戦った。侵攻はわずか72時間で撃退された。これでキューバと米国の対立は決定的となった。翌1962年には米国は全面禁輸の経済制裁に踏み切った。
 米国政府がキューバをテロ支援国家に指定したのは1982年だ。タカ派だったレーガン大統領の時代である。当時、爆弾テロを繰り返していたスペインの「バスク祖国と自由」(FTA)や南米コロンビアの左翼ゲリラ、コロンビア革命軍(FARC)のメンバーをキューバ国内にかくまったとして、キューバに対する武器の輸出・販売や経済支援を禁じる制裁を科した。キューバ側は、彼らは立ち寄っただけだと反論した。
 キューバの後ろ盾になっていたソ連が1991年に消滅すると、米国の議会はキューバに対する経済制裁を強め、一気にキューバをつぶそうとした。92年には提案した議員の名からトリチェリ法と呼ばれる「キューバ民主化法」が成立した。キューバへの送金の禁止、キューバへの渡航の禁止、キューバ国内の民主化勢力の支援などを織り込んだ。96年にはヘルムズ・バートン法と呼ばれる「キューバ自由民主主義連帯法」が発効した。キューバを国際金融機関から排除したほか、キューバ産がわずかでも含まれた物資は米国に輸入できず、キューバに寄港した船は180日間、米国に入港できないようにした。 
 米国自身による制裁のほか、周辺のカナダや中南米諸国も動員してキューバを孤立させようとした。1962年には西半球のすべの国を網羅する米州機構(OAS)からキューバを除名した。94年にクリントン大統領の時に始まり、西半球のすべての国の代表が集まる米州首脳会議からも、キューバは排除された。当時の中南米は「米国の裏庭」と呼ばれ、米国の植民地のような状況だった。米国はキューバを孤立させて革命政権をつぶそうとしたのだ。
 しかしつぶせなかった。 
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                 2 米国はなぜ国交正常化に踏み切ったのか

 米国の対キューバ政策を変えたのはオバマ大統領だが、オバマ大統領の個人的な考えから政策が一変したのではない。大統領がオバマでなくても、米国はキューバへの姿勢を変えるはずだった。
 それには大きく2つの理由がある。
 まず米国の内部の事情だ。米国の中で反カストロや反共を掲げ、対キューバ封じ込めの先頭に立っていたキューバ系米国人社会の変化だ。キューバに武力侵攻してカストロ体制を覆そうとしたタカ派が世を去り、社会主義キューバの存在を認めつつ、和解を進めようとする考えが主流になった。対立解消の足を引っ張る人々がいなくなったのだ。
 それどころか、キューバをきちんと認めた方が利益になると考え、正式に付き合おうという勢力が増した。農産物業界を中心とする経済界である。同じ社会主義の中国とも貿易しているではないか。だったらキューバを貿易相手にして金もうけをしよう、と考えるビジネスマンたちが全米規模で急速に増えた。彼らは地域の政治家、ワシントンの議会やホワイトハウスにもロビー活動をし、キューバとの正式な外交、経済関係を結ぼうと積極的に工作した。
 

 

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アメリカの内政干渉と台湾政策

2023年09月07日 | 国際・政治

 過去をふり返れば、アメリカの対外政策や外交政策は、基本的にアメリカの覇権と利益のための利己的なものであったと思います。したがって、状況が変ればその政策も変化し、法や道義・道徳に基づくような一貫したものではなかったと思うのです。

 それは、アメリカの台湾政策によく現れていると思います。
 第二次世界大戦後、アメリカのトルーマン政権は、アジアでの共産主義勢力の拡大を恐れ、国共内戦(中国国民党と中国共産党による内戦)における共産側の台湾征服を阻止するため、第7艦隊台湾海峡に派遣しました。だから、共産側による台湾征服はかないませんでした。
 他国が、内戦の一方の側を支援したり、一方の側に加担したりすることは内政干渉だと思います。だから、第7艦隊の台湾海峡派遣は、法や道義・道徳に反するものであったと思います。
 でも、アメリカは圧倒的な軍事力や経済力を背景に、どこの誰にも邪魔させず、そうした内政干渉を押し通してきたと思います。

 国共内戦における共産側の台湾征服を阻止した後、アメリカは、台湾と「米華相互防衛条約」を締結しました(1954年)が、本来、それ自体が大問題だと思います。そしてそれは、アメリカと台湾国民党(蔣介石政権)の間の軍事条約であり、日米安全保障条約や米比相互防衛条約などとともに、対共産圏包囲網の一環であったと言われているのです。
 言い換えれば、米華相互防衛条約は、共産党政権の中華人民共和国を仮想敵国とする軍事同盟であったのです。
 アメリカは国共内戦以来、国民党の蔣介石政権を支持し、蒋介石政権が台湾に逃れ、本省人を排除して独裁的な政治をやっているのに、その独裁政治には目をつぶり、軍事その他の支援を続けました。それらもすべて中国内部の戦いに介入する内政干渉だったと思います。

 当時、台湾を支援するアメリカの国務長官ダレスは、「もし台湾が攻撃されれば大陸を攻撃する」と表明したとのことですが、それは、内政干渉を公言したものだと思います。また、米華相互防衛条約では台湾の範囲として澎湖島とともに大陸に近い金門島、馬祖島なども含めていたということです。アメリカは当初、蒋介石の主張をそのまま受け入れていたのだと思います。

 蒋介石が金門・馬祖に大陸への反攻のための基地を設置すると、中国政府は、金門・馬祖に砲撃を加えるに至ります。
 1958年8月23日、中国の人民解放軍による金門・馬祖への砲撃は激しく、44日間に及んだということです。それ以降、台湾海峡は中国軍と台湾・アメリカ軍がにらみ合う緊張が続きました。アイゼンハウアー大統領が台北に滞在中には、中国の金門・馬祖砲撃が一段と激しさを増したということです。

 ところが、驚くべきことに、1970年代に、それまで東アジアにおける共産政権としての中華人民共和国を敵視する政策を続けていたアメリカが、突然大きく方針を転換したのです。
 米中国交回復の動きは、ベトナム戦争の行きづまりを打開しようとしたニクソン政権で、キッシンジャー国家安全保障問題担当大統領補佐官によって極秘裏に着手されたといわれています。
 そして、1971年7月15日に、”来年2月のアメリカ大統領ニクソンの中国訪問”が発表されたのです。世界中が驚愕する発表でした。
 その後、ニクソン大統領の訪中は、発表通り1972年2月21日に行われました。
 大統領は毛沢東と会見し、米中共同声明(上海コミュニケ)で、平和共存五原則に基づく国交正常化を明らかにしたのです。

 この時、アメリカは、”中華人民共和国政府を中国の唯一の合法政府であることを承認し,中国はただ一つであり,台湾は中国の一部であるとの中国の立場”を受け入れたことを忘れてはならないと思います。

 そして、その結果アメリカは台湾政府(中華民国)と断交し、1980年に米華相互防衛条約失効することになったのです。台湾(中華民国)にとっては、衝撃であったと思います。
 アメリカが、中華人民共和国の「一つの中国」の考え方を受け入れたために、台湾の中華民国政府は国際連合の「中国」代表権を失い、国連から追放されることになりました。

 また、アメリカは、1979年に国内法として「台湾関係法」を制定しましたが、それも利己的な内容で、台湾を「政治的な実体」と認め、実質的な関係を維持し、台湾の防衛に必要な武器を有償で提供し続けるというようなものでした。
 そのアメリカの「台湾関係法」は、台湾(中華民国)の範囲を台湾と澎湖島だけに限定(台湾海峡上の金門・馬祖などは含まない)しています。米華相互防衛条約の内容とは異なっているのです。

 また、アメリカは、中国との国交正常化にあたって、中華人民共和国を唯一正当の政府として認め、台湾の地位は未定であることは今後表明しないとか、台湾独立を支持しない日本が台湾へ進出することがないようにする台湾問題を平和的に解決して台湾の大陸への武力奪還を支持しない中華人民共和国との関係正常化を求めるとして台湾から段階的に撤退することを約束したということです。

 それらはすべて、当時のアメリカに都合の良い話ばかりであり、一方的な方針転換であり、それまでのアメリカの主張や政策と矛盾した一貫性がないものだったと思います。

 そして、現在アメリカは、再び中国を敵視する方針にもどり、”台湾は中国の一部である”と公式に認めたにもかかわらず、台湾にくり返し武器を売り、要人を派遣し、緊張を高めているのです。国際社会がそれを黙認していることも見逃すことができません。

 日本でも、GHQの「逆コース」といわれる方針転換があり、公職を追放された戦犯や戦争指導層を復活させる公職追放解除があったことを思い出します。法や道義・道徳に基づいて、その方針転換を正当化できる人がいるでしょうか。
 それが、圧倒的な軍事力や経済力を背景に、覇権と利益を追求するアメリカの対外政策や外交政策であることを見逃してはならないと思います。
 
 先日朝日新聞に掲載された、峯陽一国際協力機構緒方貞子平和開発研究所長の”変わる秩序「南ア化」する世界”という文章の中に、下記のような一節がありました。

歴史意識として、グローバルサウスの多くに植民地として支配された記憶が残っています。欧米はアフリカとアジアで主権侵害を繰り返してきた。普遍的価値を語っても偽善だと受け止められがちです。
 一方で、グローバルサウスが「反西洋」の価値観で一色になったわけではない。むしろ西洋と反西洋の両方の意見を聴きながら、自らが納得できる主張を打ち出そうとしているように見えます
 グローバルサウスの価値観の基礎には、55年のアジア・アフリカ会議(バンドン会議)があります。そこでは国連憲章と人権の尊重、内政不干渉、紛争の平和的解決など普遍的な主張がかかげられました。

 グローバルサウスが自立しつつあり、圧倒的な軍事力と経済力を背景としたアメリカを中心とする国際秩序が、少しずつ変わり始めていることを示しているのではないかと思います。
  
 
 
 

 

 

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重大な事実に目をつぶる「情報戦」論

2023年08月31日 | 日記

 毎日のテレビや新聞の報道に苛立ちを感じています。それは、日本のメディアが、アメリカの主張(戦略や戦術)に疑問を呈したり、異論を唱えたりすることが許されていないということからきているように思います。

 アメリカの影響下にある日本の学者や専門家と呼ばれる人、また、主要メディアの記者が語ったり書いたりしているウクライナ戦争に関わる内容は、かならずといっていいほど、注目すべき大事な事実に目をつぶり、的をはずした内容になっていると思います。

 先日、朝日新聞の「記者解説」に、「情報戦、カギ握る市民」と題して、オピニオン編集部の小田村義之氏が、「情報戦」に関する記事を書いていました。
 彼は、現代の戦争は、1、偽情報などを流して優位に立とうとする「情報戦」の要素が強まる、2、民主主義社会が情報戦に対応するには、政治体制への市民の信頼が支えとなる、3、日本は事実を重視し、平和国家のイメージを崩さない発信を心がけるべきだ、というような要点を示して、情報戦に関してあれこれ書いているのですが、いくつか指摘しなければなりません。

 まず、戦争を終わらせようとする視点がないということがあります。停戦のための見通しを立てることなく、ロシア敵視の姿勢で「情報戦」を語ることは、読者を、ウクライナ戦争に巻き込む側面があると思いました。
 また、ウクライナ戦争で、「情報戦」やプロパガンダを必要としたのはどちら側であるかという考察もまったくありませんでした。
 私は、オリンピックからロシア選手を排除するだけでなく、あらゆる団体や組織からロシアを排除し、重要な役割を担っているロシア人個人さえ、国際的な団体や組織から排除したのは、アメリカを中心とした西側諸国であったことを見逃すことができません。それは、「情報戦」やプロパガンダを必要としたのが、アメリカであり、ウクライナであったということだと思います。それは、プーチン大統領が、オリンピックからロシア選手を排除する動きがあったとき、”なぜアスリートを政治に巻き込むのか”、と不満を述べたことでもわかると思います。
 豊かな交流があれば、「偽情報」やプロパガンダは、広がりにくいと思いますが、豊かな交流をさせないようにしたのは、「情報戦」に長けたアメリカだろうと想像しました。
 次に、小田村義之氏は、”平和国家のイメージを崩さない発信”というようなことを書いているのですが、ロシアと戦うウクライナを支援し、ロシアに制裁を加え、ウクライナ戦争を主導するアメリカの同盟国として、ロシアを敵とするウクライナ戦争に加担している日本が、”平和国家のイメージを崩さない発信”、などする資格があるのかと思いました。

 決定的なのは、過去の戦争で、どのような情報(偽情報)が、どのような意味をもったのか、ということをふり返ることがまったくなされていないことでした。

 ベトナム戦争では、北ベトナム沖のトンキン湾で、北ベトナム軍の哨戒艇がアメリカ海軍駆逐艦に魚雷を発射したとの報道が大々的になされました。この事件をきっかけに、アメリカは北爆を開始することになりました。この事件の報道によって、アメリカは北爆に反対する勢力の声を気にせず、ベトナム戦争に本格的に介入するに至ったという意味で、忘れてはならない事件だと思います。
 でもその後、『ニューヨーク・タイムズ』が、いわゆる「ペンタゴン・ペーパーズ」を入手し、この事件は、アメリカが仕組んだものだったことを暴露しました。
 アメリカはトンキン湾事件をでっち上げ、「偽情報」でベトナム戦争を正当化し、絨毯爆撃をくり返したので、数え切れない人びとが亡くなりました。

 また、湾岸戦争では、「ナイラ証言」が「偽情報」として大きな影響力をもちました。イラクによるクウェート侵攻の後、「ナイラ」を名乗る少女が、
私は12人の女性とともにアッ=ラダン病院でボランティアをしていました。私が最年少のボランティアで他の女性達は20-30歳でした。イラク軍兵士が銃を持って、病院内に押し入るのを目にしました。保育器から新生児を取り出し保育器を奪うと、冷たい床に新生児を放り出し死なせてしまいました。怖かったです
などと泣きながら証言したのです。(関わる動画:https://twitter.com/i/status/1659370450030575617)。
 でも、「ナイラ」という少女は存在せず、実は、クウェート駐米大使の娘が、クウェート・アメリカ政府の意を受けた反イラク扇動キャンペーンの一環で、演じた証言だったのです。
 Wikipediaには、
ナイラ証言が広く喧伝されると、集会の様子を撮影したヒル・アンド・ノウルトンは、全米に約700のテレビ局を擁するメディアリンクへビデオを配給。当日夜、証言の一部がABC及びNBCのニュース番組で放映され、数千万人のアメリカ国民が視聴したという。また、上院議員7名が武力行使を支持する演説の中でナイラ証言を引用している。ブッシュ大統領もその後数週間のうちに少なくとも10回は証言を繰り返した。暴虐の証言は湾岸戦争参戦に対する国民の支持を取り付ける切っ掛けとなった
 とあります。この「偽情報」が、いかに大きな意味をもったかがわかります。この「偽情報」がなければ、「クラーク法廷」でとりあげられたような湾岸戦争における甚大な被害はなかったと思います。

 さらに、イラク戦争では、「大量破壊兵器保持における武装解除進展義務違反」を理由に、アメリカを中心としてイギリス、オーストラリア、ポーランドなどで構成する有志連合が、圧倒的に優位な立場でイラクに侵攻し、猛烈な爆撃をくり返しました。でも、それは「偽情報」に基づくもので、現実には大量破壊兵器は存在しませんでした。だから、アメリカは「偽情報」を使って強硬姿勢を通す戦略であったといわれています。
 この「偽情報」に基づく戦争に、日本が加担したことは忘れてはならないと思います。小泉政権時代、日本は戦後初めてPKO活動外での自衛隊派遣を行い、有志連合の一員としてイラク戦争に参加したのです。

 そうした「偽情報」が大きな意味をもった過去の戦争をふり返えることなく語られる「情報戦」の話に、どれほどの意味があるのか、と私は思いました。

 また、そうした「偽情報」に基づく過去の戦争をふり返えば、ウクライナ戦争において、世界各国のウクライナ支援を決定づけた「ブチャの虐殺」情報が、実は、アメリカ・ウクライナによる秘密工作に基づくものではないかという疑いを、私は持たざるを得ませんでした。そして、Kla.tvその他の情報で、「ブチャの虐殺」の情報には、陰謀論で片付けることのできない不自然な点が、いくつもあることを知りました。

 だから、私は、こうした「偽情報」に基づく戦争を回避するシステムや国際法が必要だと思います。

 でも、小村田義之氏は、そうしたことは少しも語らず
情報戦を重視するのはロシアだけではない。米国はロシアがウクライナに侵攻する可能性をリークし続けた。機密情報でもあえて漏らすことで、ロシアに再考を促す「開示による抑止」と言われる新たな手法である。
 などとも書いていました。あきれました。
 だからそれは、アメリカの戦略に基づいて、ロシアを悪者とするための情報戦の話であり、明るい未来を見通すことのできる話ではないと思いました。

 日本でも、「偽情報」が、日本の針路を変えてしまうようなことあったと思います。 
 私は、アメリカ軍占領下で発生した下山事件、三鷹事件、松川事件は、いずれも松本清張氏が徹底的な調査と多くの資料に基づいて「日本の黒い霧」で考察したように、米軍の謀略によるものだと思っています。
 中国大陸における国共内戦は中国共産党軍の勝利が決定的となっていたこと、また、朝鮮半島でも「朝鮮人民共和国」の建国を宣言し、統一朝鮮の独立を意図した人たちの力が強かったこと、日本でも、日本共産党が飛躍的に議席を増やし(4議席から35議席)躍進していたこと、さらに、全日本産業別労働組合会議や国鉄労働組合が、アメリカの意を汲む政府の人員整理に強く抵抗する姿勢を示し、吉田内閣の打倒のみならず、人民政府樹立さえ叫ぶようになっていたことなどは、すべて反共国家アメリカにとって好ましくないことであったと思います。その状況を反転させ、日本を反共国家として、しっかりアメリカの影響下に置く意図をもって実行された秘密工作が、上記の国鉄三大事件その他の事件だと思います。それらの事件の「偽情報」によって、アメリカは、共産主義者や労働組合の指導者は恐ろしいという戦前の治安維持法の捉え方を、日本で復活させることに成功したのではないかと思います。
 だから、「国鉄三大ミステリー事件」その他の事件は、GHQの政策の「逆コース」といわれる方針転換や戦犯の公職追放解除による戦争指導層の復帰促進、レッドパージなどと一体のものだと思います。
 アメリカがくり返してきた「偽情報」に基づく戦争政権転覆内政干渉をなくす方法を論じることが、メディアに課せられた責任ではないかと思いました。

 スパイ活動を是認するような「開示による抑止」論など、馬鹿げた話だと思います。「平和国家日本」は、日本国憲法の定めに従うことから生まれるものであり、単なるイメージであってはいけないと思います。

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BRICS 拡大の背景と平和

2023年08月27日 | 国際・政治

 先日朝日新聞に、同志社大学大学院准教授の国際政治学者、三牧聖子氏の「声をあげるのに中傷覚悟という不当」と題する文章が掲載されました。見出しに関する内容については、基本的には同意できるのですが、そのなかに、下記のような記述があり、問題があると思いました。

米国で初めて誕生したZ世代の下院議員マクスウェル・フロスト氏は、銃規制運動のオーガナイザーをつとめ、「人生の半分を社会運動に捧げてきた」と自負しています。フロスト氏ら若者が銃規制運動にアクティブに関与するのは、多発する学校での銃乱射事件などを最もリアルに感じているからです。高校生たちが銃規制を求める運動を展開した際、多くの大学が支持を打ち出し、高校から懲戒処分を受けても進学に影響しないと表明する大学もありました。自分たちの権利が脅かされているという危機感があること、マイノリティーが闘争を通じて権利を獲得してきた米国の歴史的伝統が根付いているためでしょう。
 いまの日本には、米国のような大規模な抗議運動は起こっていません。日本の現実が米国よりましだからなのでしょうか。でも「生活が苦しくなっている」など、真綿で首を絞められているように感じている人は多いはず。政治を変えるには声を上げる必要があります。
 たとえ自分と意見が異なる人であっても、それが平和的な抗議行動である限り、声を上げる権利だけは全力で守る。それが民主主義国としての矜持だと思います。民主主義や人権を踏みにじるロシアに対抗する中で、改めて自国の民主主義や人権の現状を批判的に見つめ直したいところです。”

 私は、アメリカ国内の民主主義に関わる歴史的変化だけに着目して、”マイノリティーが闘争を通じて権利を獲得してきた米国の歴史的伝統”などというかたちで、アメリカの民主主義を高く評価し、かつ、”民主主義や人権を踏みにじるロシアに対抗する中で…”、とロシアに批判的な文脈のなかで、アメリカの民主主義を論じてはいけないと思ったのです。木を見て森を見ない見解であり、読者の客観的認識を誤まらせるものではないかということです。
 ウクライナ戦争が続く現在、考えなければいけないことは、”マイノリティーの権利獲得の闘争”というような国内的な枠をこえた、対外政策や外交政策におけるアメリカの民主主義であり、アメリカが法や道義・道徳を無視し、武力行使を続けてきた現実だと思います。

 さらに言えば、民主主義は、組織の重要な意思決定を、その組織の構成員である国民(民衆、大衆、人民)が行う、制度だと思います。でも、ウクライナ戦争を「民主主義」と「専制主義」の戦いだと主張したバイデン大統領のアメリカを中心とする西側諸国は、本当に構成員である国民が、真実に基づき、客観的事実を踏まえて意思決定を行っている民主主義国家でしょうか。
 西側諸国の国民は、アメリカがウクライナの民主化に60応ドルを費やしたという事実(ビクトリア・ヌーランドの発言)や、アメリカがウクライナのマイダン革命に深く関与した事実、アメリカがウクライナ戦争が始まる前から、ロシアに経済制裁を課していた事実その他を踏まえて、客観的にウクライナ戦争を捉え、ウクライナに対する武器の供与やその他の支援を支持しているのでしょうか。
 また、ウクライナの人たちは、ほんとうにウクライナ戦争の経緯や実態を知って、ゼレンスキー大統領が言うように、”クリミアを取り戻すまでロシアと戦う”と、決心をしたのでしょうか。

 選挙制度があり、議員を選ぶ自由が構成員に平等に与えられ、政権に反対の声を上げる権利が保障されていることは、確かに西側諸国の現実だと思いますが、だからといって、西側諸国は民主主義国家の集まりなのだといえるでしょうか。
 日本を含め、西側諸国の人たちの多くが、善悪をさかさまに見せる主要メディアのプロパガンダに依拠して、世界を見ているのが現状ではないでしょうか。
 また、CIAの秘密工作に代表されるような、表に出ない交渉や活動が、現実的に世界を動かしている側面があるのではないでしょうか。
 上記の三牧聖子教授が、そうしたことをどのように考えられているのか疑問に思い、再び「グアテマラ現代史 苦悩するマヤの国」近藤敦子(彩流社)から、グアテマラに対する、アメリカの関わり方が問われる部分を抜萃しました。特に見逃せないのは、下記のような記述です。

もともとアメリカとグアテマラの間には相互に利益を分かち合う外交政策が存在したが、とりわけ独裁政権下のグアテマラは、アメリカからの軍事援助を得るためにワシントンと親密な関係を保ちたかった。遠くはエストラダ・カブレラ然り、ホルヘ・ウビコ然り、である。また1954年にアルベンス政権を崩壊させるにあたっても、カスティージョ・アルマス大佐率いる反革命軍は、アメリカCIAの後ろ盾を得てホンジュラスから侵攻することができた。アメリカもグアテマラをホンジュラスと共に中米の「民主主義国」「親米国家」のサンプルと見做し、ニカラグア、エルサルバドルで台頭する共産主義浸透の阻止の砦となることを期待していた。”

 アメリカが、多くの国の独裁者と手を結んだり、軍事政権を支援したりしてきた歴史を直視し、国際社会の現実を見る必要があると思います。
 
 先日、中国、ロシア、インド、ブラジル、南アフリカの5か国でつくるブリックス(BRICS)の首脳会議が、南アフリカのヨハネスブルクで開かれ、来年1月からアルゼンチン、エジプト、エチオピア、イラン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)の6カ国が、新たに加盟することになったとの発表がありました。そして、40を超える国々が、ブリックス加入の意向を表明しているといいます。プラウダは下記のような国々をあげています。アルジェリア、バングラディッシュ、バーレイン、ベラルーシ、ボリビア、ベネズエラ、ベトナム、ホンジュラス、インドネシア、カザフスタン、キューバ、クウェート、モロッコ、ナイジェリア、パレスチナ、セネガル、タイ。

More than 40 countries expressed their intention to joins BRICS in 2023. Twenty-three of them sent official applications for membership. It goes about such candidates as: Algeria, Bangladesh, Bahrain, Belarus, Bolivia, Venezuela, Vietnam, Honduras, Indonesia, Kazakhstan, Cuba, Kuwait, Morocco, Nigeria, Palestine, Senegal and Thailand.(https://english.pravda.ru/world/157517-brics_west/)

 それらの国の多くが、かつてアメリカを中心とする西側諸国の植民地支配や武力行使に苦しんだり、搾取・収奪に苦しんだりしてきた国であることを、私は見逃すことができません。そういう国々が、西側諸国の影響下から脱しつつあるということではないか、と私は思います。
                                                      
 メキシコの先住民革命地下委員会、サパティスタ民族解放軍総司令部が、クリントン大統領に宛てた手紙の中に、下記のような訴えがあったことを思い出します。

北アメリカ人民および政府は、メヒコ(メキシコ)連邦政府に対して援助を供与することによって、自らの手を先住民の血で汚しているのです。われわれが求めているのは、世界中の全ての人民が求めているものと同じく、真の自由と民主主義です。この希望のためなら、われわれは自らの生命を賭する用意さえできています。あなたがたがメヒコ政府の共犯者となって、その手をわれわれの血で汚すことのないよう希望するものです。” 

 もはやそういう西側諸国の力の行使が通用しない国際社会になりつつあるのではないかと思います。そうした国際社会の大きな動きを冷静に受け止め、針路をあやまらないようにするべきだと思います。
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                  第二部 軍部独裁政治──見えざる恐怖

                     人権侵害県外と国際的孤立

 全国に広がった死への恐怖
 三代にわたる軍事政権によって弾圧はこの国の風土と化し、半ば社会に染み付いてしまった。グアテマラには政治犯というものが存在しない。あるのは死体と行方不明者だけであった。1960年代の初めにゲリラ組織が出現してからロメオ・ルーカス・ガルシア政権の1980年代頃までに、約12万人の民衆が殺害され、4万6千人が行方不明になったと推定されている。動詞desaparecer(消息不明になる、姿を消す)、の過去分子desaparecido が行方不明者の意味に使われたのはグアテマラが最初であった。
 ルーカス・ガルシア政権の1979年、反対派の有力な2人の指導者が殺害された。前グアテマラ市長マヌエル・C・アルゲタと社会民主党創設者であり、メンデス・モンテネグロ政権の外務大臣でもあったFUR党(革命連合戦線)リーダー、アルベルト・フエンテス・モールである。この2人の死によって軍事政権に反対するものはすべて抹殺されることが証明され、国民を震撼させた。同時に国際社会には、グアテマラは許しがたい人権侵害の行われている国という暗黒の印象を与えた。ルーカス・ガルシア政権下の反対派に対する弾圧は言語を絶しており大統領自ら政府高官とともに大統領府ナショナルパレス別館での会議で拷問、拉致、殺害の標的を直接決定したという。
 そのため、1978年から80年にかけて大衆運動はほとんど壊滅し、ゲリラ撲滅のための殺戮の恐怖は高地(アルティプラーノ)の先住民にまで及んだ。ゲリラに組するものは勿論、ゲリラと接触しただけでも命の保証はなかった。

 アメリカの対グアテマラ政策の変化
 1974年アメリカでカーター政権が出現すると、人権外交が重要な対外政策として浮上してきた。アメリカの対外援助額は、被援助国における人権侵害の記録によって決定され、ラテンアメリカについてはとりわけその査定が厳しかった。
 グアテマラの人権侵害は当然ワシントンの不興を買った。しかもアメリカ政府はグアテマラが何らかの形で詫びを入れ、相互に納得が得られるような折衷案を提示してくるものと思っていた。しかし、ナショナリズムが高揚し民族主義に凝り固まった当時のグアテマラは、人権弾圧停止と引き換えにアメリカの援助を受けることを潔しとせず、自らこれを断った。
 もともとアメリカとグアテマラの間には相互に利益を分かち合う外交政策が存在したが、とりわけ独裁政権下のグアテマラは、アメリカからの軍事援助を得るためにワシントンと親密な関係を保ちたかった。遠くはエストラダ・カブレラ然り、ホルヘ・ウビコ然り、である。また1954年にアルベンス政権を崩壊させるにあたっても、カスティージョ・アルマス大佐率いる反革命軍は、アメリカCIAの後ろ盾を得てホンジュラスから侵攻することができた。アメリカもグアテマラをホンジュラスと共に中米の「民主主義国」「親米国家」のサンプルと見做し、ニカラグア、エルサルバドルで台頭する共産主義浸透の阻止の砦となることを期待していた。
 ところが、カーター政権の出現とともに「民主主義国」の仮面は剥がされ、国内で繰り返し行われている凄まじい人権侵害の事実を理由としてワシントンの対グアテマラ感情は一気に悪化した。そして1977年から1983年にかけてアメリカの対グアテマラ援助額は極端に減少し、武器輸出も表向きは停止された。そのためゲリラ壊滅作戦に躍起となっていたグアテマラ軍事政府はイスラエル、アルゼンチン、台湾など他の国から武器を購入しなければならなかった。
 レーガン政権の発足と共に、グアテマラ・アメリカ関係は徐々に修復されに リオス・モントがクーデターによって政権についた1982年あたりから対グアテマラ軍事援助は僅かながら回復の兆しがみえてきた。1983年、レーガン大統領は議会に対しグアテマラ新軍事援助計画の承認を求めたが、著しい人権侵害が行われている国際的に評判のよくない国への援助に対する議会の承認が得られなかった。公式に軍事援助がグアテマラに再開されはじめたのは1986年になってからのことであった。

 住民の分断と監視のための「民間自衛パトロール隊」
 1970年代後半、軍は高地(アルティプラーノ)に住む先住民すべてにゲリラ、またはゲリラのシンパという疑いを抱いた。軍はまず先住民村落や部落を分断し、先住民を軍の統制に従わせることを計画した。そのため数百の村が取り壊され、数万の先住民が殺害され、数万人が強制移住させられた。スペインによる制服以来500年にわたって固有の文化を守り、地域社会の特性を失わずに生きてきたグアテマラの先住民はともすれば現代社会の進歩に反抗してかたくなに生きているという印象を与えがちであり、しかもその先住民がマージナルなプアー・マジョリティーであり、心情的にゲリラに与しているということが、軍を怯えさせ、弾圧の引き金となった。

 度重なる軍の弾圧にもかかわらずゲリラはその勢力を増してきた。軍事政権は「グアテマラは何処も同じ」というナショナルアイデンティティのもとに、地域共同体平和計画を立案し、先住民村落を掌握してゲリラのサポート基地を根絶しようとした。そのために結成された住民監視組織の一つが「民間自衛パトロール隊」である。
 民間自衛パトロール隊はアルタ・ベラパス州で1976年初めて結成され、ルーカス・ガルシア政権の1981年には、各地方に広がり、続くリオス・モント政権下では、ゲリラ壊滅戦略の重要な柱となった。民間自衛バトル制度は、1980年代前半に最も普及し、その後下火となったが依然として闘争地域では、軍の対反乱分子壊滅の重要な作戦となっている。
 もともとこの制度は植民地時代、スペイン人の地主が土地を守るため、先住民の民兵を組織したことにはじまる。それら民兵は地主のために収穫を取り立て、農民を監視する無報酬の私兵であった。
 民間自衛パトロール隊員は1986年には約100万人いったと推定され、その90%は高地のマヤ先住民の男性であった。14歳から60歳までの無報酬のパトロール隊員は週に数日、木製の銃か第二次世界大戦中の旧式の武器を携え、グアテマラ国旗をかざして村のパトロールに当たる。パトロールは強制労働で参加しないものはゲリラの烙印を押され投獄され、あるいは地方の軍基地で拷問を受ける。村の出入り口にはパトロール隊員の歩哨が立ち、村民や訪問者の出入りを監視している。彼らまたゲリラに接触したり、ゲリラ思想に汚染されているという疑いのある村民を強制移住させたり、ゲリラ・シンパを炙り出して逮捕、軍に引き渡す。
 高地の村で、パトロール隊員としては同じ階級の小学生の子供と、白髪の増えた年配の隊員が共に隊列を組んで、足を引き摺り、おどおどしながらパトロールの任務についているのは目を背けたくなる光景であった。
 このパトロール制度には、国の内外の人権団体、宗教界から激しい非難の声が上がったが、軍や右派政治家はパトロールの拡大を支持し、地方のみならず都市部にもパトロール制度の導入を主張した。なぜなら、ゲリラは地方のみならず、都市でも新しい戦術で破壊活動を開始したから、というのがその理由であった。
 1988年、サンタ・クルス・デル・キチェにおいてルヌヘル・フナム民族共同体委員会が発足し、初めて民間自衛パトロール隊員の徴募に反対した。ルヌヘル・フナムとはキチェの言葉で、「我々はすべて平等である」という意味で、その創設者はラディーノの小学校教師、アミカル・メンデス・ウリサルであった。かれは生命への脅迫を顧みずゲリラと手を携えて、「すべては平等」のスローガンのもとに屈辱的な民間自衛パトロール制度に反対して戦った。ルヌヘル・フナム民族共同体委員会が発足して、この地方の25人のマヤ族が殺害され、もしくは軍か疑似軍隊によって拉致され行方不明となった。かれらはこのパトロール制度がいかに不法であるかを憲法に照らして異議を申し立てていた。1992年においてもまだ約50万人のパトロール隊員が存在した。

 スペイン大使館援助事件
 1980年1月31日、首都グアテマラ・シティでデモが行われ、労働者、農民、聖職者、学生たちが軍事政府の弾圧に激しく抗議した。とりわけエル・キチェ州のチャフル、コツアル、ネバフの先住民たちは、かれらが受けた弾圧の事実を国際社会に知ってもらおうとデモに参加した。
 エル・キチェ州の農民たちは抗議デモ参加者と共にどこか外国の大使館に陳情し、かれらに対する軍事政府の弾圧の事実を知らしめ、グアテマラの現実を世界に訴えようとした。マスコミは軍の報復を恐れ真実の報道をしてくれなかったからである。そして農民統一委員会(CUC)のメンバーを含む抗議者代表がスペイン大使館へ乱入したのである。愚かしい行動であった。
 ただちに国家安全保障軍が出動し、乱入者鎮圧を名目にスペイン大使館に放火、炎上させた。駐グアテマラ・スペイン大使は大火傷を負って病院に収容され、乱入した抗議者(28名)を含む39名が死亡した。農民統一委員会のリーダーの一人、ビセンテ・メンチュはこの事件で死亡、たった一人重傷を負って生き残ったグレゴリオ・ユハは収容された病院から拉致されて殺害された。
 スペイン大使館に放火を指示したのは、ルーカス・ガルシア大統領自身といわれているが、真相は不明である。この事件により、スペイン政府はグアテマラとの国交を断絶、また、グアテマラで行われていた弾圧についてほとんど無知であったヨーロッパ各国も中米のこの国に目を向けることとなった。

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アメリカに不都合な指摘は、すべて陰謀論で・・・

2023年08月24日 | 国際・政治

 しばらく前、朝日新聞の社説に、国際社説担当・村上太輝夫氏の「言論統制のパラドックス」と題する文章が掲載されました。中国の言論統制の厳しさを指摘し、17世紀英国の詩人ミルトンの「我々の願う自由は国に何の不平もないことではありません」「不平が自由に聞かれ、考慮され、すみやかに改められるとき、このとき賢明な人々が求める最大の自由があります」という言葉で、締めくくっていました。
 でも私は、村上氏が大事なことを考慮されていないと思いました。
 それは、くり返し他国のクーデターや政権転覆を実行し、関与してきたアメリカが、その対外政策や外交政策を反省し、再び同じ過ちをくり返さないという約束をしない限り、アメリカに敵視されている国は、言論を統制し、守りを固めざるを得ないのではないかということです。
 「グアテマラ現代史 苦悩するマヤの国」近藤敦子(彩流社)から抜粋した下記の文章に、

アメリカ政府は既にアルベンス打倒の意を決していたが、まずグアテマラ側でアルベンス政権を崩壊に導く陰謀を成功させるのに頼りになる人物を捜さねばならなかった。グアテマラ革命当時アルベンスに退けられ、不遇をかこつ旧軍人の中から、アメリカ政府はカスティージョ・アルマスを選んだ。アメリカが望んだのは親米的軍人で、権力志向の強いウビコ・タイプの独裁者であった

 とあります。しっかり言論を統制し、守りを固めないと、倒され、搾取・収奪される国に陥るということです。
 ラテンアメリカでは、さまざまな国で軍事クーデターや政権転覆がありましたが、アメリカは共産主義的傾向や社会主義的傾向を持つ政権、あるいはアメリカの搾取・収奪を受けつけない政権を倒すために(グアテマラではアルベンス政権)、周到な計画を立て、実行してきたのです。そしてそれは、ラテンアメリカだけではないのです。

 同書には、下記のような記述もあり、単なる想像ではないことがわかります。

そしてアルマスの補佐官タラセナ・デ・ラ・セダの回想によれば、その数日後CIAはアルベンス打倒軍の総司令官にカスティージョ・アルマスを選んだ、とある。同年10月15日アルマスはニカラグアのソモサの息子タチートへの書簡の中で、「『北の友人』との計画は我が方に凱歌があがった。間もなく非常に具体的側面に突入するはずである。そして必ずや我々すべてが望む勝利を手中にするだろう」と歓喜に満ち溢れて述べている。そして事が決行された場合には、ソモサ一族がアルマスに対してあたたかい支持を与えてくれるよう期待して手紙は終わっている。
 1953年10月、新駐グアテマラ・アメリカ大使ジョン・ピューリフォイが着任した。アルベンス政権を崩壊させるのがそのディプロマティック・ミッションの一つであった。そしてCIAグアテマラ支部も動きはじめた。ピューリフォイ新大使がグアテマラ着任前に既にCIAとの直接の秘密のチャンネルができていた。大使は大使館のスタッフにもアルベンス打倒の計画に就いては話さなかった。すべては大使とCIAグアテマラ支部の間で隠密に進行していった。” 

 そして、ツイッター(https://twitter.com/Ultrafrog17/status/1675916699428876288
には、ゼレンスキー大統領がアメリカのCIAとともに、現在ロシア領となっているクリミアを取り戻すまで、ウクライナ戦争を続けることで合意しているという、下記のような文章があるのです。

Zelensky is now straight up admitting to directly working with the CIA.
He just told CNN that there will be no victory in Ukraine until they retake Crimea, that he and the United States CIA withhold no secrets together, and there is no situation where there can be peace unless they retake Crimea!

 早期に停戦すると、アメリカの目的が達成できないので、クリミアを取り戻すまで、ウクライナの勝利はないなどということにしたのだと思います。ウクライナ戦争を主導しているのが、アメリカであることを物語っているように思います。ウクライナの多くの人たちは、クリミアを取り戻すまでウクライナ戦争を続けることなど望んではいないと思います。 

2024年大統領選の民主党指名候補争いへの出馬を表明したロバート・ケネディ・ジュニア氏(ジョン・F・ケネディ元大統領のおい)は、アメリカがウクライナ戦争やコロナのパンデミックに関わって、さまざまな秘密工作を実行していると指摘しています。
 だからメディアは、アメリカのプロパガンダや中国、ロシアの悪口のような報道ばかりではなく、アメリカの主張や政策の問題点、秘密工作の現実なども指摘し、きちんと本質をとらえて、平和が実現されるような報道に徹してほしいと思います。そうしないと台湾海峡でも軍事衝突が発生するのではないかと思います。 

 下記は、「グアテマラ現代史 苦悩するマヤの国」近藤敦子(彩流社)から、とびとびに「アルペンスの農地改革──農地改革第900法」、「急ぎすぎた改革」、「民主主義の終焉」のなかの「かたくななアメリカの中米政策」を選んで抜萃しました。
 アメリカという国の対外政策や外交政策の現実が、よくわかるのではないかと思うからです。
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                   第一部 独裁から”束の間の春”へ

                    アルペンス政府と農地改革

 アアルペンスの農地改革──農地改革第900法
 アルペンスは大統領に就任するとかれの政府の最重要政策として財政の安定と経済発展をかかげ、半封建的、半植民地的現状を脱却するため「ともに働き、より多くの富を得て、持たざる者(かれらはグアテマラ国民の大多数を占めるものたちだった)に配分しなければならない。そのためには農地改革が不可欠である」と宣言した。
 アルペンスはアレバロにもまして熱烈なナショナリストで、外国資本に依存することを嫌った。しかし当時グアテマラに投資していたのはアメリカの民間資本だけで、世界銀行も既にアレバロの時代にあまりにも巨額なローンを驚き、融資を拒否していた。アルペンスは農地改革によってまず増産を図り、国の資源を開発し、よって公共事業に着手し、グアテマラのインフラストラクチャーの近代化を推進しようとした。これは大事業でありアルベンスの在任期間という短い時間で達成できるものではない。
 しかしアレバロに比べ、より実践的で精神主義に拘らないアッルベンスは、ただちに農地改革法案を作成、呆気にとらえられている議会にこれを提出し、1952年6月17日、農地改革第900法は承認された。
 この法律の趣旨はきわめて明快で民主的なものである。
 まず、672エーカー以上の個人所有未開墾地は没収され、224以上672エーカー未満の未開墾地に関しては、その三分の二が耕作されていない限り没収される。224エーカー未満の個人所有地は所有が許された。
 一方国有農場はすべて解放され農民に配分される。個人所有者から没収された未開墾地は個人農民に配分され終身保有が許され、その死後は受益者の家族が土地の保有を継承することができる。解放された国有農場に関しては受益者一代のみの保有が許される。個人所有地の受益者は25年毎に年間生産価格の3パーセントを元の土地所有者へ補償として支払い、一代受益者は5パーセントを政府に支払う、というものであった。
 国有地の分配は1952年8月に始まった。そしてそれから1年6カ月のうち改革は急速に進行していった。
 アメリカ政府は当初アルベンスの大統領就任を好意的に見ていた。元エリート軍人でリアリストの理論家アルベンスならアレバロよりもっと巧妙に制服組の前任者たちの路線を継承するであろうと思っていた。アルベンスの農地改革についても、はじめはその影響を過小評価していた嫌いがある。しかもアメリカ政府自身第二次世界大戦終了後、日本で画期的な農地改革を遂行した実績があった。  しかし中米の他の国々はこの農地改革を憂慮していた。グアテマラの農地改革が成功すれば、いずれも土地配分の著しく不公平な中米各国の大地主階級にとって、杞憂に終わる問題ではない。とりわけニカラグアのアナスタシオ・ソモサは、もしグアテマラでこの改革が成功すれば、その影響は早晩ニカラグアにも波及するものとして警戒を強めた。メキシコの見方は異なっていた。メキシコは自己の農地改革の体験に基づき、グアテマラが農地改革を立案、実施したことを評価した。没収の対象となった個人所有未開墾地には、アメリカのユナイテッド・フルーツ社のバナナ・プランテーション予定地も含まれていた。これが後にアルベンス政権の命取りになった。

 急ぎすぎた改革
 大土地所有者やUFCOなどアメリカ企業からの土地の没収、インフラストラクチャー建設のためのナショナル・プロジェクト、労働組合育成保護などの政策を、アメリカ政府はすぐさま東西対立の図式にあてはめ、共産主義の影響、アルベンス政権の左傾化ととらえたが、アルベンスは資本主義的経済成長を推進し、それに国家管理を加えただけで、マルキシズムの教義にのっとった革命を目指したものではなかった。1944年から1954年までのたった十年間ではあったが民主主義の時代、とりわけアルベンスの政権下、グアテマラ社会は民主主義に向かって推移し、社会経済改革が遂行されただけのことである。一つの社会階級の滅亡の上に新しい支配階級が出現するという社会主義的改革は行われなかった。
 アルベンスの改革に反対したのは大土地所有者だけで、はじめは軍もナショナリズムを鼓舞する改革には賛成であった。というよりも、多くが中産階級の出自である軍人は、農地改革には直接の利害関係がなく、むしろ無関心であった。しかし土地の分配を受けてはじめて個人小地主となった農民にとって、農地改革は神の恩寵の具現であり、突然降って湧いてきた恵に有頂天になった。
 しかし、アルベンスはかれの敵たるものの脅威の大きさを無視していたのか、それとも過小評価していたのか、この改革はいかにも急ぎ過ぎであった。

 アメリカ政府とカスティージョ・アルマス
 アメリカ政府は既にアルベンス打倒の意を決していたが、まずグアテマラ側でアルベンス政権を崩壊に導く陰謀を成功させるのに頼りになる人物を捜さねばならなかった。グアテマラ革命当時アルベンスに退けられ、不遇をかこつ旧軍人の中から、アメリカ政府はカスティージョ・アルマスを選んだ。アメリカが望んだのは親米的軍人で、権力志向の強いウビコ・タイプの独裁者であった。
 1953年9月20日、カスティージョ・アルマスは亡命先のホンジュラスの首都テグシガルパからニカラグアのソモサに手紙を送り、「北の政府(アメリカ)が我々に計画を進展させよと友人を介して通知してきた。この決定の重大さに鑑み、私は直接確認するべく直ちに機密文書を送ったがまだ返答を受け取っていない。しかしわたしは前述の事項が確認されたものと了解している」と述べている(『威嚇されるグアテマラ民主主義』アルマスの手紙)。
 そしてアルマスの補佐官タラセナ・デ・ラ・セダの回想によれば、その数日後CIAはアルベンス打倒軍の総司令官にカスティージョ・アルマスを選んだ、とある。同年10月15日アルマスはニカラグアのソモサの息子タチートへの書簡の中で、「『北の友人』との計画は我が方に凱歌があがった。間もなく非常に具体的側面に突入するはずである。そして必ずや我々すべてが望む勝利を手中にするだろう」と歓喜に満ち溢れて述べている。そして事が決行れた場合には、ソモサ一族がアルマスに対してあたたかい支持を与えてくれるよう期待して手紙は終わっている。
 1953年10月、新駐グアテマラ・アメリカ大使ジョン・ピューリフォイが着任した。アルベンス政権を崩壊させるのがそのディプロマティック・ミッションの一つであった。そしてCIAグアテマラ支部も動きはじめた。ピューリフォイ新大使がグアテマラ着任前に既にCIAとの直接の秘密のチャンネルができていた。大使は大使館のスタッフにもアルベンス打倒の計画に就いては話さなかった。すべては大使とCIAグアテマラ支部の間で隠密に進行していった。
 1953年12月16日アルベンスとピューリフォイ大使は夕食をともにし、数時間に亘って話し合った。このとき、アルベンスの妻マリアが通訳の任に当った。彼女の回想によればアルベンスはかなり英語が理解できた。しかしアルベンスに考える時間を与えるには通訳が入った方が好都合であった。
 すでにアメリカ大使とグアテマラ政府の関係は修復できないほど冷却していたので2人の会談は儀礼的域を出るものではなかった。そして会食の雰囲気はとうてい和やかなものとはいえなかった。2日後、大使は国務長官ジョン・フォスター・ダレスにアルベンスについてのリポートを送り、アルベンスは共産主義者ではない旨述べている(1953年12月18日ピューリフォイ、国務省への書簡No522)。

                       民主主義の終焉

 かたくななアメリカの中米政策
 それにしてもアルベンス政権は、なぜこのような敗北で終焉を迎えねばならなかったのだろうか。アレバロからアルベンスへ引き継がれたグアテマラの改革と民主主義の芽生えは、アメリカの時の大統領アイゼンハワーによってことごとく摘み取られてしまった。事実アイゼンハワー政府の対グアテマラ政策は常軌を逸していた。ワシントンのこうしたグアテマラに対する異常な態度は、駐グアテマラ大使ピューリフォイの誣告(ブコク)によるものでも、UFCOの要求によるものでもなく、ましてや当時吹き荒れていたとされるマッカーシー旋風によるものでは勿論なかった。それは民主党、共和党を問わずアメリカに深く根差した中米及びカリブ諸国に君臨するという、かたくななヘゲモニーの伝統の発露であった。 
 アメリカの中米政策の非妥協性は一時1930年代の後半にフランクリン・D・ルーズベルトの善隣外交によって緩和されたものの、その後もトルーマン、アイゼンハワー両政府によって継承された。そしてトルーマンもアイゼンハワーもグアテマラとの関係を「本国と植民地」という概念でしかとらえていなかった。
 トルーマン政府はアレバロを嫌悪していた。しかしアレバロの時代アメリカは、グアテマラにそれほどの関心を払ってはいなかった。その後アルベンスが登場した。そしてアルベンスの犯した「罪」はアメリカにとってアレバロの比ではなかった。アメリカのジャーナリストたちは頻繁にグアテマラを取材し、グアテマラにおける反米共産主義の浸透、革命政権によるアメリカ企業への迫害について書き立てた。「鉄のカーテンがグアテマラを覆った」、「ソ連に管理された中米の独裁政権」などの見出しが当時のアメリカの新聞を飾ったが、ジャーナリストたちの多くは無知で、自国中心主義で、東西冷戦構造のパラノイア(偏執病)に犯されていた。それがまたアルベンスにとって不運でもあった。

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独裁者の末路とゼレンスキー大統領

2023年08月21日 | 国際・政治

 アメリカは約45カ国に、500を超える軍事基地を持っているといいます。日本には、三沢、横田、横須賀、岩国、佐世保、沖縄など81か所に、米軍専用基地を持っているということです。
 それらの軍事基地は、表向きは「世界平和」のためということですが、内実はアメリカの「覇権と利益」のために存在するのだと思います。それはアメリカが、砂川事件の東京地裁判決「アメリカ軍の駐留は憲法に違反する」(伊達判決)を受け入れず、司法介入によって覆したことでわかるような気がします。
 本来、世界平和のために、アメリカが他国の領土に軍事基地を持つということ自体、おかしなことだと思います。矛盾していると思います。だから、それはアメリカの覇権と利益のためなのだろうということです。そして、その捉え方が間違っていないことは、アメリカの対外政策や外交政策をふり返ればわかると思います。

 アメリカは、あちこちで多くの国の独裁者と手を結び、搾取や収奪をくり返してきました。グアテマラでも、独裁者ポルヘ・ウビコと手を結び、特権的な権利を手にして、利益を得るシステムを構築したために、ウビコの後を継いだアバレロが支持を失ったとき、活路を見出すことができなかったのだと思います。それは、「グアテマラ現代史 苦悩するマヤの国」近藤敦子(彩流社)の、下記の記述でわかります。

トルーマン政府は1948年ごろから徐々に態度を変え、民主的に選ばれた大統領よりも独裁者のほうが友好的で、かつ防共手段としてははるかに有益であるとして、ウビコの時代にノスタルジーを感じる始末であった。アバレロの悲劇は、かれの政策がアメリカ企業や大都市所有者に、前任の独裁者ウビコのグアテマラが一つのモデルとして定着し、それの懐古主義的な基準で判断されることだった”

 アメリカは、”民主的に選ばれた大統領よりも独裁者”のほうが好きなのだと思います。特権的な権利を得て搾取や収奪をすることが可能であり、また、相手国の人々の反発や抵抗を恐れる必要がないからです。そして、手を結ぶ相手国の独裁者が、国民の反発や抵抗によって、政権を維持することが難しくなったら、その独裁者を見限り、使い捨てにすることができるからです。
 私が見逃すことのできないことは、アメリカと手を結んだ独裁者の末路です。”1944年10月20日、政権を維持できなかったポンセは辞任し、同月24日ウビコはアメリカのニューオリンズに亡命した”とあるように、ウビコも、最終的に自国に留まることができず、アメリカに亡命しているのです。李承晩やマルコスと同じように。

 被害の拡大や増え続ける犠牲者のことを考えれば、ウクライナ戦争は一日も早く停戦すべきだと思いますが、この戦争は、ロシアの孤立化、弱体化を意図するアメリカが主導しているために、停戦の交渉が進まないのだと思います。だから、ウクライナ戦争が、いつ、どのような結末を迎えるかはわかりませんが、私は、ゼレンスキー大統領の末路も、アメリカと手を結んだ独裁者ホルヘ・ウビコと似たようなことになるのではないかと想像します。なぜなら、ウウライナの人々の多くは、ロシアと戦争などやりたくはなかったと思うからです。
 ヤヌコビッチ政権を顚覆し、NATOに加盟して、自らの活路を見出そうとしたのは、アメリカと手を結んだごく一部の政治家や西側諸国と接点の多い親欧米派オリガルヒなのだろうと想像します。

 ウクライナはかつてソビエト連邦を構成した国です。ロシア人も少なくなく、ロシアからの情報も途絶えることはないだろうと想像します。だから、いつまでも西側諸国のプロパガンダが通用することはないと思います。ウクライナの一般市民は、長く続く戦いの日常を自問し、きっと戦争に至る経緯やウクライナ戦争を主導するアメリカの好戦的な関与を知るようになって、戦争をはじめた政権に対する反発や抵抗を強めていくだろうと思うのです。

 現在、ウクライナと似たような状況にあるのが台湾だと思います。  
 先だって、台湾を訪問した自民党の麻生副総裁は、中国を念頭に「戦う覚悟を持つことが抑止力になる」などと訴えたといいます。アメリカの思いや意図を、アメリカに代わって訴えたのではないかと思いました。
 でも、世論調査では台湾の多くの人々が、現状維持を望んでいるといいます。中国との戦争を覚悟して、台湾の独立を成し遂げようなどと考えているのは、ウウライナの場合と同じように、アメリカと手を結んでいる一部の政治家や西側諸国と接点の多い親欧米派の富裕層だろうと思います。そうした人たちには、中国を孤立化させ、弱体化させようと意図するアメリカとの関係が深く、いろいろな支援もあるのではないかと思います。

 ユネスコ憲章には、”戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない”とありますが、アメリカと一体となっている麻生副総裁は、そういう意味では、すでに中国と戦争をはじめているように感じます。
 アメリカとの同盟関係の強化は、日本の一般国民にとっては、まったくプラスにならないと思います。同盟国に軍拡を求めるバイデン政権の「統合抑止戦略」は、実は、抑止ではなく、緊張を激化させ、中国を挑発して、限定的な軍事衝突をもたらし、その軍事衝突を根拠に、中国を孤立化させ、弱体化させようというアメリカの戦略を正当化する言葉だろうと思います。やっていることは、すべて戦争の準備なので、日本は、憲法を盾に、アメリカと距離を置くべきだと思います。

 下記は、「グアテマラ現代史 苦悩するマヤの国」近藤敦子(彩流社)から、「ウビコ独裁の終焉」と「作られた”共産主義の影響”」と題された文章を抜萃しました。
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                   第一部 独裁から”束の間の春”へ

                      独裁者ポルヘ・ウビコ 

 ウビコ独裁の終焉
 強大な独裁者も使い捨てられるものである。アメリカにとって役に立つ男もグアテマラ国民にとっては憎悪の的となっていた。しかもウビコ自身は国民の幅広い層で憎悪が蓄積され、それが迸(ホトバシ)り出るまで気が付かなかった。
 1940年代に入ると、経済危機は一応回避されたが、カリブ諸国では独裁者の支配権力が揺るぎはじめた。ニカラグアのアナスタシオ・ソモサの支配が脅かされ、ドミニカではラファエル・トルヒーヨが困難な局面に立たされていた。キューバのフルヘンシオ・パチスタは選挙で敗北した。
 ウビコ打倒の胎動が始まったのはグアテマラの最高学府サン・カルロス大学のキャンパスからである。1676年ドミニコ会の聖職者によって創設されたこの大学は、中米で最も古い大学で、ラテンアメリカの権威ある最高学府の一つとの評価を得ていた。サン・カルロス大学は常に大衆運動の先駆けであり、世論のバロメーターでもあったので、当然のことながら真っ先に政府の弾圧を受けていた。学生たちは政治問題を避け、アカデミックな研究の自由を求めて議論を重ねていたが、その水面下ではウビコ独裁政権を打倒しようという強い意思が高まっていた。
 アメリカの外交筋でもウビコが三期目の大統領(1943~1949)就任するのはかなり困難であろうと判断していた。(FBI調書「今日のグアテマラ」1942年6月)。
 独裁者打倒のために立ち上がった学生たちに、進歩的大学教授、教師、労働者たちが呼応した。1944年6月なかば、研究会という名目の学生の集会に、教師達が合流してウビコ打倒の決意は固まった。中産階級はウビコを嫌悪し、上流階級ももはやこの傲慢な独裁者を必要としなくなっていた。サン・カルロス大学で学生たちがはじめて明白に政治問題を討論しはじめたとき、独裁政府の態度は優柔不断で、これに参加した数名の学生が短期間拘留されたり、教師たちが職を失った程度で、国民の政府に対する恐怖感は消え失せていった。
 6月30日は、グアテマラの祝日「教師の日」である。この日、教師たちは軍隊に先導されて、重い国旗を掲げ、整然とパレードを行う習わしになっていた。だが、1944年の場合は、その数日前に予行練習が行われたとき、多くの教師たちが参加したものの、突然かれらは練習をボイコットした。間もなく多数の市民が加わり、学生や教師の要求を支持した。しかし、市民たちはこの段階でウビコ辞任までは要求していなかった。
 6月22日、ウビコは憲法で保障された基本的人権の一時停止措置でこの動きを封じ込めようとした。かれの政権化においてこの措置がとられたことがなかったので、この事実だけを見てもウビコの独裁政権がすでに最後の段階に達していたことがわかる。
 6月24日、311名の署名人の署名を集めた憲法停止措置解除の請願書を携えて、2人の勇敢な代表者が大統領府へ赴いた。独裁者に対して、これほどの大胆不敵な行動がとられたことはかつてなかった。同じ日、ウビコ政権下ではじめて群衆が首都に集まり、反政府デモを行った。また。僅かではあったが、はじめてウビコ辞任を要求する声があがった。最初、学生の小さなグループから起こった反政府運動は、知識人、労働者、普通の勤め人を巻き込んでグアテマラ市の市民全体が独裁者に挑戦したのである。
 その後数日間、軍も警察も鳴りをひそめていたが、もう市民は彼らを問題にしなかった。ウビコの権力は衰えて、軍はウビコに忠誠を誓ってはいたが、本気でこの老独裁者を護衛する気がないことをグアテマラ市民は敏感に感じとっていた。
 1944年7月1日、ウビコは自ら辞任した。もし独裁者が戦いを挑み、もう一度国民を抑圧したら勝っていたかもしれない。アメリカもウビコに退陣を要求したりはしなかった。アメリカ国務省は、ウビコから反政府勢力との調停を依頼されたが。駐グアテマラ大使へは斡旋はほどほどにしておくようにと指令した。アメリカはウビコをアナクロニズムと見做し、見切りをつけていた。アメリカにとっては、ウビコに代わるべき、役に立つような後継者が実現すればそれでよかったのである。
 では何故ウビコは辞任したのだろうか。側近の追従ばかりを信じて、国民の信頼を失っていたことに気が付き絶望したのか。アメリカの支持を失って不安を感じた結果なのか。駐グアテマラ・アメリカ大使ログにウビコは「大多数の国民が反対したこと、とりわけ絶対の忠誠を誓っていた多くの著名人の名を、311名の憲法停止措置解除の請願リストの中に見い出したことに憤り、失望した」旨を報告している(Revista de Ia Revolucion 1945年1月))。当時かれは健康状態に不安を感じていたので、しばらく大統領職を辞し、再起を期すつもりだったとも言われているが、ウビコ自身は何も語っていない。

 1944年7月1日。ウビコは辞表を提出した後、副官に命じて彼の後継者となる3人の候補者を選ばせた。選ばれた3人はフェデリコ・ポンセ、エドワルド・ビジャグラン・アリサ、及びブエナベントウーラ・ピネダで、いづれもあまり知名度の高くない将軍達であった。かれらは軍事3人評議会(軍最高幹部3人で構成された国の暫定統治機関)を結成するよう要請された。
 7月4日、この軍事評議会で最も野心家のポンセ将軍が議会を説得してかれの大統領就任を承認させた。ポンセは暫定大統領に就任すると、政党、労働組合の結成を許可し、自由選挙の実施を確約した。しかし、学生や教師たちはポンセを信じなかった。ウビコに挑戦し、独裁者を辞任に追い込んだ大衆は、もう軍事政権を恐れなかった。
 1944年10月20日、政権を維持できなかったポンセは辞任し、同月24日ウビコはアメリカのニューオリンズに亡命した。これがグアテマラ革命、或は10月革命のはじまりである。ウビコはアメリカ政府に彼の資産引き渡しの交渉を執拗に依頼したが、かれの資産はすでにグアテマラ政府に没収されていた。1946年、ウビコは亡命地で没した。

 作られた”共産主義の影響”
 東西冷戦が深刻になってゆくなかで、共産主義の脅威は実態を上回る影をグアテマラ、アメリカ関係に投げ掛けはじめた。当時コスタリカを除く中米四カ国(エルサルバドル、グアテマラ、ホンジュラス、ニカラグア)では共産党は非合法化され、アメリカは騒ぎ立てるほどの脅威は存在しなかった。1948年、駐グアテマラアメリカ大使はエドウィン・カイルからリチャード・パターソンに替わり対アバレロ政府感情も、好意的で礼儀正しかった善人のカイル大使の時代とは様変わりした。
 それまでアメリカ政府はアバレロ大統領とは概ね良好な関係を保ってきたし、インテリジェンス・レポートなどから判断してもソビエト共産主義の中米に対する影響については杞憂とみていた。しかし、パターソン大使はUFCOの申し立てを全面的に受け入れ、労働法成立の影には共産主義の疑惑ありとした。UFCOはさらに同社の労働組合幹部に左翼先鋭分子がいると報告した。しかし、実情は大部分の労働者は読み書きができず、左翼分子といってもマルクスもレーニンも知らず、理論闘争など不可能な彼らの脅威がどの程度のものであったか疑わしい。しかしながら、労働法は組合活動の大きな後盾となり、大土地所有者やUFCOに打撃を与えたのは事実である。
 アメリカ政府も独裁よりも民主主義の実現を推進してきたが、トルーマン政府は1948年ごろから徐々に態度を変え、民主的に選ばれた大統領よりも独裁者のほうが友好的で、かつ防共手段としてははるかに有益であるとして、ウビコの時代にノスタルジーを感じる始末であった。アバレロの悲劇は、かれの政策がアメリカ企業や大都市所有者に、前任の独裁者ウビコのグアテマラが一つのモデルとして定着し、それの懐古主義的な基準で判断されることだった。
 トルーマン政府は信頼したのは、長くグアテマラに在住する有力なアメリカ人からの情報であった。とりわけUFCOグアテマラ総支配人ウィリアム・テイロン、IRCA社長トーマス・ブラッドショウの2人の民間人と、カイル、パターソン両大使に仕えた外交官ミルトン・ウエルズによる情報は、アメリカのその後の対グアテマラ戦略に微妙な変化をもたらした。
 かれらのかなり偏見に満ちた情報のために、進歩的意見を持つもの、中道的左翼思想を持つものは一括して共産主義者の範疇に入れられ、1949年頃になると、トルーマン政府はグアテマラを共産主義汚染された不愉快なの国と見なすようになった。

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ゼレンスキー大統領とグアテマラの独裁者ポルヘ・ウビコ

2023年08月17日 | 国際・政治

 戦後の国際社会は、世界最大の軍事力と世界最大の経済力を誇るアメリカの対外政策や外交政策を抜きに語ることはできないと思います。
 そして、下記「グアテマラ現代史 苦悩するマヤの国」近藤敦子(彩流社)を読めば、アメリカの対外政策や外交政策が、どんなものであるのかがわかると思います。
 アメリカの対外政策や外交政策は、基本的に、法や道義・道徳の外にあるのです。
 だから、ウクライナ戦争も、そうしたアメリカの歴史を踏まえて捉える必要があると思います。

 でも、日本を含む西側諸国のメディアは、ウクライナ戦争をロシアの一方的侵略としています。そして、戦争前からロシアに制裁を課し、マイダン革命以来、ロシアの孤立化・弱体化を意図して、ウクライナ戦争を準備してきたアメリカの戦略を巧みに隠して、アメリカは単なる武器支援国家の一つであるかのように扱ってきたと思います。

 ウクライナのゼレンスキー大統領は先日(7月1日)、ロシアとの停戦について、”ウクライナ軍が本来のロシア国境まで達した時に外交交渉の前提が整う”と述べたといいます。”2014年にロシアが併合した南部クリミア半島や実効支配下に置いた東部ドンバス地域も含め、全土奪還””するまで、停戦はしないということだと思います。

 ウクライナ戦争の経緯を調べると、ゼレンスキー大統領のこの主張は、決して一貫したものではないことがわかります。だからこの主張は、ヨーロッパ諸国からロシアを切り離し、アメリカの覇権と利益を維持しようとするアメリカの戦略に基づく主張だと思います。アメリカに完全に取り込まれてしまったゼレンスキー大統領が、アメリカの戦略を語るようになったのだと思います。停戦によって、ヨーロッパ諸国とロシアの関係が復活し、ロシアの影響力が再びヨーロッパ諸国に及ぶようになれば、困るのはアメリカだからです。

 15日、NATOのストルテンベルグ事務総長の側近イェンセン氏は、ノルウェーでの討論会で、”ロシアの侵攻を受けるウクライナが占領された領土の一部を諦めれば、NATOに加盟できる可能性がある”と述べ、”領土放棄が唯一の選択肢ではないとした上で(終戦への)解決策としては考えられる”と主張したのですが、強い抗議を受けて、翌日には、”NATOに加盟できる可能性があるとした15日の自身の発言は「間違いだった」”と、撤回しています。
 「終戦」を考慮した主張であり、撤回などする必要のない主張だったと思います。
 でもその主張は、マイダン革命以後、ウクライナの政治に深くかかわるアメリカと一体となったゼレンスキー大統領の方針に反するものであったのだと思います。

 ウクライナの人たちは、アメリカが深くかかわっているために、停戦によって平和を回復させるか、領土を奪還するまで戦うか、の選択さえできない状況になっているのだと思います。

 だから私は、私利私欲のためにアメリカと手を結んだグアテマラの独裁者、ポルヘ・ウビコと、ウクライナのゼレンスキー大統領が重なって見えるのです。
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                 第一部 独裁から”束の間の春”へ

                    独裁者ポルヘ・ウビコ 

 1990年代に入り エルサルバドルとニカラグアでの内戦が終り、両国で選挙による民主政権が樹立され、中米の地に一応の平和が訪れた。しかし全人口の50%以上をマヤ先住民が占める グアテマラでは、おもてだった激しい戦乱こそなかったものの、常に陰湿な抗争が繰り返されていた。ひとびとはこの抗争を「ゲラ・ラテンテ」(表面には現れない戦争)と呼び、そこに見え隠れする軍の権力に恐怖を抱いていた。

 カウディジョ(偉大なる頭領)の時代
 1929年に起こった世界大恐慌は グアテマラ 経済にも深刻な打撃を与え、失業者があふれ労働者間に不穏な空気が漂いはじめた。コーヒー・オルガルキー(広大なコーヒー農園を所有する極めて少数の支配階級)をはじめとするグアテマラ有産階級は、こうした国際的な風潮とグアテマラの社会環境の衰退にいたく憂慮して、強力なカウディジョ的リーダーシップを持つ為政者の出現を期待した。そこに登場したのがポルヘ・ウビコである。ウビコは1931年の大統領選に当選し(といってもかれが唯一の候補者で、対立候補はいなかった)大統領に就任した。ウビコの在任期間(1931~1944)は、世界大恐慌に続く30年代の経済不況と、第二次世界大戦の時期に一致する。
 上流階級出身の職業軍人であったウビコは頑迷な保守主義者で、政治家としての見識に欠け、その世界観は狭隘で、その独裁ぶりはその後のグアテマラに大きな影響を与えた。
 1944年のアメリカの諜報関係リポートによれば、「ウビコは自分で決定した地価で土地を購入し、大統領就任後グアテマラにおける最大の個人土地所有者となった」。 グアテマラはかれの所有する「領土」であり、ウビコは正しくカウディジョの感覚で、グアテマラをあたかも「村長」が村を治めるように統治した。かれは己の給料や役得をふやすべく、その財源を官僚の給料の大幅削減に求めた。この独裁者の機嫌を損じたものは厳しく処罰された。あるアメリカのリポート(FBI 調書「グアテマラ警察と刑罰」19343年12月)は「今や秘密警察はグアテマラゲシュタポという 忌まわしい名称を得た」と述べている。スパイ網は縦横に張り巡らされ、あらゆ階級の社会に密告者がいた。その国の風土病ともいえる恐怖、嫌疑、パラノイア(偏執病)はウビコの時代にグアテマラ国民の心の奥に刻み付けられた深い傷跡である。
 大統領就任当初、統治者としてのウビコは有能で、財政の拡大に力を注いだ。そのため外国からの投資には精一杯便宜を図り、低廉な先住民労働力を最大限に利用した。一方、彼は残酷であった。反対するものに対しては見境なく弾圧を加え、治安妨害という名目で、ときには文民政治家、かれと意見を異にする軍人、学生、労働運動のリーダーなどを一度に100人以上処刑した。
 アメリカ一辺倒のウビコは、アメリカをメキシコに対する頼もしい盾と見做していた。ウビコやかれと同じ階級に属するグアテマラ人にとって、メキシコは19世紀にグアテマラの要求を退けて広大な地域を併合した憎き隣人であり、しかも共産主義を培養してその感染を企てているおぞましい大国であった。当時のメキシコ大統領ラサロ・アルデナスの進歩的政策はグアテマラ流解釈によれば、政府の転覆と国の破滅をもたらす危険この上ないものであった。しかも最も頼りとするアメリカ政府の対 共産主義政策は非常に寛大(少なくともウビコの目にはそう見えた)で、それだけがウビコには歯がゆかった。かれはルーズベルト大統領の共産主義や労働組合に対する悠揚迫らぬ態度に疑問を抱き、 アメリカの外交官にアメリカ国内における共産主義運動、多発するストライキに警告を発した。因みにウビコの尊敬する政治家はルーズベルト大統領ではなく、スペインのフランコであり、イタリアのムッソリーニであったが、独裁者は尊敬することによって、アメリカ政府の機嫌は損ねないようにする配慮だけは 怠らなかった。
 ともあれウビコはアメリカにとっては優等生で、アメリカの官僚、外交官、ビジネスマンには礼を尽くし、アメリカの投資家たちを優遇した。第二次世界大戦が勃発するとウビコはいち早く連合国側に味方し、真珠湾攻撃の翌日には日本に戦線を布告した。
 アメリカ政府の要請によりウビコはグアテマラのドイツ人コミュニティをも摘発した。当時グアテマラ在住のドイツ人は、推定 5000乃至6000人で、ほとんどはドイツ系グアテマラ人であった。かれらはかなりの経済力を持ち 政権を支持していた。ウビコもこれらのドイツ人になんら敵意は持っていなかった。しかし大戦の末期、ウビコ数百名のドイツ系グアテマラ人をFBIに委ね、アメリカへ連行させた。そしてドイツ人コミュニティ所有のコーヒー農場は没収された。

 ウビコ政権時代にグアテマラの政治は著しく中央集権化され、巨大な官僚組織が出現した。軍もまた大きな変化をとげた。まずエクスクエラ・ポリテクニカの軍事教育プログラムは刷新され、アメリカ軍の士官が校長に任命された。エクスクエラ・ポリテクニカは、士官養成のための権威ある軍事専門学校(士官学校)で、卒業すると尉官に任官する。ウビコがアメリカ士官を校長に任命した目的は、アメリカのウエスト・ポイントの軍事教育を踏襲し、ウエスト・ポイントに匹敵する士官学校をつくりあげ、若い優秀な青年を政治から引き離し、軍人として養成することにあった また、1941年には最新設備の武器の専門技術を習得するためのエクスクエラ・デ・アプリカシオン(軍事職業学校)が
設立されグアテマラ社会に軍人の優位を印象づけた。
 だが、一方では軍人としての高度の教育を受けた若い士官の軍団が、80名にものぼる無能な将軍(かれらのほとんどは出身階級も低く、教養もなかった) の配下に従属させられるという矛盾をはらみ、この若い士官たちの不満が鬱積し、やがて1944年のウビコ罷免のグアテマラ革命の一つの要因となった。

 1930年代、グアテマラでも中産階級が台頭しはじめ、とりわけ首都グアテマラ・シティでは国政の幅広い参加を要求した。ウビコは産業の発展を好まなかった。工場労働者からプロレタリアートが発生し、共産主義者が出現するというのがその理由である。
 しかしウビコは社会基盤の整備を重視し、幹線道路、橋梁など公共設備の建設には力を注いだ。道路建設には 先住民労働力を利用し、道路通行税の代償という昔の「慣例」を持ち出して労働者に賃金を支払わなかった。ウビコはまた公共の建物を建設した。ここでも昔の「慣例」は適用され、警官が定期的に貧民地区を巡回し、酔っ払いの労働者などを建築現場で働かせるために拉致して行くのである。そして賃金は支払われなかった。
 ウビコは古典的な経済政策を採用、金融を引き締め、思い切った財政削減措置をとった。公務員の給与は大幅にカットされ、ある年など約40%も削減された。それどころか緊縮財政のため、彼らの多くは解雇された。ウビコの時代、いわゆる「誠実法」が導入され、公職に就くものは就任時と退任時に自己の資産と負債を申告しなければならなかった。
 ウビコの吝嗇(リンショク)は特に有名で、グアテマラの経済状態を考慮すれば、公務員に対する賃金カットも当然であったが、ウブコは士官にも厚遇を与えなかった。士官たちは薄給で厳しい訓練に耐えなければならなかった 彼らの軍務といえばひとりの独裁者に仕え、その独裁者のために大衆に恐怖感を吹き込むことだった。 しかも彼ら自身も軍隊という狭い世界に閉じ込められた囚人で、恐怖の中に生きていた。外国への留学は禁止されていた。危険思想にかぶれないようにとのウビコの懸念からである。従って 軍人の多くは世界情勢に疎かった。軍の掟は厳しく、軍法に背くと時には死が待っていた。猜疑心の強いウビコは選りすぐりの士官のみをグアルディア・デ・オノール(名誉護衛隊)のメンバーに抜擢し、アメリカから供与をされた武器を与えて、大統領府の護衛に当たらせた。
 独裁者に対する忠誠心はたたきああげの将校にも要求された。かれらは中流以下のラディーノ(主としてスペイン系白人と先住民との混血)で、かれらにとって士官というのはこたえられない職業であり、また自己の出身階級から抜け出す数少ない機会でもあった。一方、エスクエラ・ポリテクニカ 出身の将校は中流階級の子弟であったが、かれらとて1930年代の経済危機がなければ大学へ行っていた筈である。何故ならば、当時の軍隊は将軍や大佐が過剰で、軍人としての昇進の可能性が少なかったからである。
 ウビコ時代のグアテルマ軍は軍隊としての装備は貧弱であったが、それでも中米のほかの国のぼろを纒った軍隊に比べると格段の差があった。警察も軍に呼応して厳しく治安を取り締まったので、グアテマラ国内は1944年ウビコ独裁政権が崩壊するまで平穏であった。また、ラテンアメリカのカウディジョの例に漏れずウビコも共産主義を嫌悪していた。彼にとって共産主義者はとりもなおさず犯罪者であり、その犯罪者を作り出す知識階級に我慢ならなかった。知識階級は読書する。したがって 危険思想の書籍即ち共産主義関係の本も読む。ウビコは危険思想の書籍が一冊たりともグアテマラに入ってこないようにした。
 かれは徐々に側近のアドバイスも聞き入れなくなり、政府の高官をも嫌うようになった。あるアメリカの官僚はすでに1923年にウビコのこうした傾向に気付いていた。私が一時間半ばかり将軍(ウビコ)と過ごしたが、その時かれがアングロサクソンのように率直であることに感銘を受けた。しかしウビコ将軍の大統領就任は独裁者の誕生となろう。かれは自分がナポレオンの生まれ変わりであると思っていた。事実、ウビコはその容貌がナポレオンに恐ろしくよく似ていた。かれの心理状態は彼の執務室に入るとはっきりとわかった。目立つ場所にナポレオンの胸像が置かれており、その上部にウビコ自身の大きな写真が飾られていた。」(インテリジェンス・リポート「ホルヘ・ウビコ将軍との会見」1923年12月17日)

 アメリカ企業の進出と権益拡大
 ウビコとアメリカとの蜜月関係はかれの独裁政権が終わるまで続いた。かれはアメリカのグアテマラ 進出企業に最大の特典を与え、柔軟な考え方のできない男としては模範的態度を示した。
 20世紀初頭、マヌエル・エストラダ・カブレラ政権(1898~1920)時代、アメリカのユナイテッド・フルーツ社(UFCO)はグアテマラでバナナの栽培を始め、数年のうちにバナナ産業を独占し、港湾、鉄道、通信網を整備しこれらを掌握した。UFCOはグアテマラの地の利の良さからここを中米進出の拠点に選び、広大なバナナ・プランテーションの建設を目指した。当時の為政者エストラダ・カブレラは、最初は前任者の国内産業発展の政策を踏襲していたが、先住民労働力と外国からの投資が不可欠と固く信じて、次第に買弁的になり情緒不安定な独裁者になった。先住民共同居住地を没収し、これをアメリカ企業に先住民の労働力付きで売却し、アメリカ企業は、こうした土地にバナナ・プランテーションを建設したのである。
 UFCOは、ウビコの大統領就任以前の1930年に、7年以内に太平洋岸に港湾を建設する約束と引き換えに、グアテマラ政府と太平洋岸ティキサテの20ヘクタールの土地を譲り受ける契約を締結した。グアテマラのコーヒー農場経営者にとってこれは大きなメリットであった。当時太平洋館で栽培されるコーヒーは、太西洋岸のプエルト・バリオスに運ばなければ輸出できず、その輸送費は莫大な額であったからである。
 しかし太平洋岸に港が建設されれば輸送コストは削減されるが、一方輸送を担当する中米国際鉄道 (IRCA)にとっては大きな損失となる。IRCAはUFCOの子会社で、当時すでにグアテマラ国内で鉄道路線ネットワークを張り巡らし、近隣諸国へも進出、1930年までには総路線距離は1400キロに達していた。そこでウビコを入れた話し合いの結果、1936年UFCOとIRCAニ社は、UFCOがIRCA株式保有高を42.68パーセントと大幅に増加し、IRCAはUFCOの輸送価格を50パーセント以下に下げることで合意に達し、UFCOの太平洋岸の港湾建設は取り止めとなった。その結果ティキサテ産のバナナもコーヒー豆同様プエルトバリオスまでIRCAで輸送 しなければならないこととなった IRCAは独裁者の裁定と忍耐のお陰で大きな利益を上げることができ、グアテマラ政府は1936年3月、経済危機を理由にUFCOに港湾。建設の義務を免除した。

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