真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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小野組転籍事件 槇村正直と京都裁判所 

2018年10月13日 | 国際・政治

 この小野組転籍事件も、明治新政府がどのようなものであったのかを窺い知ることのできる事件だと思います。山県有朋の山城屋和助事件や三谷三九郎事件、井上馨の尾去沢鉱山事件や藤田組贋札事件、黒田清隆の北海道開拓使庁事件や妻殺害事件などと同様に、この小野組転籍事件でも、政府の要職にある人たちが法や道義を蔑ろにして、自分たちがやりたいようにやるという姿勢が見られるように思うのです。

 尊王攘夷を掲げて、開国政策を進める幕府関係者を次々に暗殺し、日本に入った外国人を「神州を汚す」として突然襲撃するいわゆる「異人斬り」を頻発させた人たちが、相楽総三を隊長とする赤報隊なども利用して狡賢い方法で幕府を倒し、新政府をスタートさせました。そして、明治維新前後の野蛮な行為を何ら反省することなく、政府の要職を固め、手のひらを返したように欧化政策を進めました。だから私は、”テロの嵐が吹き荒れた”と表現されるような幕末の野蛮な暗殺や異人斬り、また幕府軍に対する北海道箱館までの追撃はいった何のためだったのか、と思うのです。

 そういうことを考えながら、「明治秘史 疑獄難獄」尾佐竹猛(一元社版)を読むと、著者 が書いている下記の文章に頷かざるを得ません。明治という時代は、西洋に学んで、民主的な市民社会をつくり上げた時代ではなかったということです。

明治四年に創設せられ、当時行政部、軍部等は薩長人士の占有する所となり、他藩の人材はその驥足(キソク)を伸ばすに由なかりしが、偶々(タマタマ)司法省の創設に際し、土、肥を始めとして諸藩の俊秀、こゝに集まり人材一粒選りの称があつた。而して其掌る所は法律であつて、攻城野戦、馬上天下を取つたと自負する豪傑連をして煙たがらしめたのである”

 スタート当初は、民権を重視する司法省が力をもち”豪傑連をして煙たがらしめた”ようですが、武力倒幕に勝利した薩長を中心とする人たちが新政府の要職を固め、司法省や民権を重視する人たちを抑え込んでいったために、日本の近代化は、西洋に学びながらも、民権を蔑ろにする近代化になってしまったのだと思います。
 小野組転籍事件で京都府庁の参事槇村正直(元長州藩士)が拘留されると、”長州閥の大元勲木戸孝允”が”上書”を提出し、裁判所と対立する京都府庁側を擁護したばかりでなく、”突如天外より左の命令が下つた”として、著者は下記をとり上げています(抜粋文では省略しています)。

京都府参事槇村正直儀拘留相解くべき旨特命を以て被仰出候に付此旨相達候事
     明治六年十月二十六日           右 大 臣 岩 倉 具 視
裁判所で拘留したものを、裁判所外から釈放の命令が出たのである。

 明治維新前後のあの野蛮な暗殺や異人斬り、そして、明治新政府の要職にあった人たちの汚職事件その他の内容を踏まえると、”昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年は、ながい日本史のなかでも非連続の時代だった”とか、昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年が”異胎の時代だった”というような無理な考え方をする必要はないと思います。小野組転籍事件でも、尊王攘夷急進派の中心的人物だった木戸孝允や岩倉具視が重要な働きをしている上に、「三井の番頭さん」と呼ばれた井上馨が、三井組の利を図るために、槇村に転籍阻止を指示したと噂されていたのです。だから、”昭和ヒトケタから昭和二十年まで”のあの野蛮で馬鹿げた戦争の端緒は、明治維新だったのではないかと思うのです。

 下記は、「明治秘史 疑獄難獄」尾佐竹猛(一元社版)から「小野組転籍事件」の前半部分を抜粋したものです。(ただし、漢字の旧字体の一部は、新字体にかえました。現在あまり使われていない漢字には、カタカナのふり仮名を括弧書きしました。)
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                     五 小野組転籍事件(明治六年)

明治初年に於ける小野組転籍事件は財界に於ては三井組と小野組の暗闘であり表面に現はれては司法と行政との衝突となり、遂に中央政界の大問題となり、波乱重疊(ハランチョウジョウ)、幾変転の後、我国最初の陪審たる参座制を敷き漸く其局を結びし大事件である。即ち財政上、政治上、法律上の各方面に渉り非常に興味あり又注目すべき事件であるが、従来餘りその顛末が明らかとなつて居なかったから茲に其大要を略述する。

明治の劈頭に於ける小野組の活動は人目を聳動(ショウドウ)した、維新の始め各富豪が新政府の基礎を疑ひ、躊躇せる際、率先して巨額の献金を為したる功に依り各官省の為替取扱の請負を為し実業家としての利け者であつた。
事件の発端は明治六年である、此年四月六日に
              東都府上京二十八区衣棚通二条下ル上妙覚寺町 小野助次郎
は摂津八辺郡神戸第一区八幡町第三十八番地へ転籍。同月八日に
                     同府同区烏丸通二条下ル秋野町 小野善助          
                     所              小野善右衛門
は、東京府第一大区小十四区田所町へ転籍の旨、各町戸長に申出て、戸長は区長を経由して京都府庁の証明を求めたのであった。その理由としては、大蔵省の内規では、用達商が新に金銭取扱を開始せんとする場合には、その都度営業主の戸籍謄本を要するのであるが、小野組は主たる支店を東京に置き横浜神戸等にも支店或は出張所を設けある為め、一々営業主たる善助の本籍地京都の戸籍謄本を求めて居っては急場の間に合わぬからといふのであつた。が其実は京都府庁から屡公納金を課せられるので負担に堪へなかったからであるとの噂があつた。此頃の行政官の権威は旧幕大名が御用金を課したのと同じく公租以外に臨時に巨額の負担を命じて怪しまなかったのであるから噂の様な事情もあつたであらう。其始め朝廷へ献金したときは至誠純忠の致す處で御嘉納ありしときは子孫末代迄の名誉と喜んだのであるが、行政官の数回の誅求には仏の顔も日に三度で散々迷惑に感じたのであつたらう、一族三人同時の転籍であるから、世評の起るのも無理からぬので近頃でも脱税の為め郡部へ転籍するものも無いでは無い。

 府庁では京都の主なる富豪が転籍しては市の盛衰にも関し、財政にも影響するのみならず府庁の面目にも関するから之は許可すべきものでは無いとし、用達事務の清算なきを理由に容易に其手続を運ばなかつた。これも一応理由のあることであるがさうなるとまた京童が囀(サエズ)る、これは当時の大蔵大輔たる井上馨が三井組の利を図り参事槇村正直に旨を伝へて阻止せしめたとの噂が専らになつた。

 当時の京都府知事は華族の長谷信篤で、槇村は其下に参事を勤めて全権を振つて居つた。府県参事といへば今の内務部長位であるが、官権万能の其頃の事とて威権赫赫たるものであつた。当時の知事は今日の地方官と異り旧大名の後継者で、司法権、行政権は固より財権、兵権の一部をも掌握し素砂らしい権力を有して居り、特に京都府は沿革上、東京府の上に在つたので県官はなかなかたいしたものであつた。

槇村は長藩出身で半九郎といひ、晩年には行政裁判所長官、男爵で納つて居つたが、此頃は背後に維新の元勲木戸孝允あり先輩には井上馨ありて深く結ぶ處があつた。所謂長閥の悍吏といはれた男であつた。

扨て府庁は容易に転籍の許可をしないのみならず善助を呼出し、代つて出頭したる善右衛門を白洲に呼入れ、荒蓆に坐せしめて転籍の理由を尋問し其中止を勧告否命令した。今から考ふれば転籍がそんなに面倒で行政庁がそんなに横暴なものとは想像もつかぬが、当時はこんなことは当り前であつた。

善右衛門は翌日槇村を其私邸に訪ふて懇請したが、槇村は断然許さぬと計り一喝して席を蹴つて起つたから、善右衛門は帰宅の上一同を集めて評議した。其時旧会津藩士波多野央は大に憤慨し司法省第五十六号布達に基づいて出訴すべしと勧め小野は訴訟を京都裁判所に提出した。

こゝでその五十六号布達のことを説明しなくてはならぬが、司法省はこれより先き、明治四年に創設せられ、当時行政部、軍部等は薩長人士の占有する所となり、他藩の人材はその驥足(キソク)を伸ばすに由なかりしが、偶々(タマタマ)司法省の創設に際し、土、肥を始めとして諸藩の俊秀、こゝに集まり人材一粒選りの称があつた。而して其掌る所は法律であつて、攻城野戦、馬上天下を取つたと自負する豪傑連をして煙たがらしめたのである。先づ明法寮を置き現今の法制局の事務の一部を為し、警保寮を置きて警察事務を掌り、裁判所を設置して各府県の聴訟(民事)断獄(刑事)の権を収め更に司法省達第五十六号を以て

一、地方官及ビ其戸長等ニテ太政官ノ御布告及ビ諸省ノ布達ニ悖リ規則ヲ立テ或ル処置ヲ為ス時ハ各人民ヨリ其地方裁判所ヘ訴訟シ又は司法省裁判所ヘ訴訟苦シ カラザル事
一、地方官及ビ其戸長等ニシテ各人民ヨリ願伺届等ニ付之ヲ雍閉スル時ハ各人民ヨリ其地方裁判所ヘ訴訟シ亦ハ司法省裁判所ヘ訴訟苦シカラザル事
一、各人民此地ヨリ彼地ヘ移住シ或ハ此地ヨリ彼地ヘ往来スルヲ地方官之ヲ抑制スル等人民ノ権利ヲ妨ル時ハ各人民ヨリ其地方ノ裁判所亦ハ司法省裁判所ヘ訴訟苦シカラザル事
一、太政官ノ御布告及ビ諸省ノ布達ヲ地方官ニテ其隣県ノ地方掲示ノ日ヨリ十日ヲ過グルモ猶遅帯布達セザル時ハ各人民ヨリ其地方ノ裁判所ヘ訴訟シ亦ハ司法省裁判所ヘ訴訟苦シカラザル事
一、 太政官ノ御布告及ビ諸省ノ布達ニ付地方官ニテ誤解等ノ故ヲ以テ右御布告布達ノ旨ニ悖ル説得書等ヲ頒布スル時ハ各人民ヨリ其地方ノ裁判所ヘ訴訟シ亦ハ司法省裁判所ヘ訴訟苦シカラザル事
一、各人民ニハ地方裁判所及ビ地方官ノ裁判ニ服セザル時ハ司法裁判所ヘ訴訟苦シカラザル事

と布達し民権擁護の為め行政官の横暴を矯正せんとするにあつて行政裁判以上の一般行政監督ともいふべき権力を有し、しかも其執行に為には警察権、裁判権をも行使できるのである。小野組はこれに拠って右の訴訟を提起したのである。昨日は白洲の荒蓆に座らされた町人が今日は御公卿様で殿様である上役人を相手取って訴訟を起したのである。時勢とはいいながら斯ふ迄行くには非常な決心であつたのである。その訴状は

      以書附御訴訟奉申上候
        難渋御訴訟                               上京二十八区烏丸通二條下ル
                                                    訴訟人 小野善助 
                                            右同区同町

                                                    同   小野善右衛門
右訴訟人善助善右衛門奉申上候、私共儀年来諸国為替金取引并陸羽信上州辺生糸其外荷為替専業罷在且又善助儀京都御府御用達被 仰付御扶持方頂戴仕冥加至極難有仕合奉存相勤来候処前件商業取引向専ら東京横浜表多端に相成遠隔之地に本籍在候ては諸事差支殆困却之廉不尠而巳成兼而御覧典之御趣旨に基き商法盛大之ため東京第一大区小十四区田所町におひて従前私共出店御座候に付同所へ転籍一廉勉強仕度仍而両人共送籍之儀去四月八日別紙甲印の願書を以て居町戸長谷田孫兵衛送籍方相願候処承知之上戸長添書被致京都府へ被相伺候由之儘何等之御沙汰無之候に付区長戸長へ再応伺出候得者情実書面可差出と之差図に付五月二日別紙乙印之書面差出申候本日総区長詰所へ可罷出旨被達越候に付善助名代相兼善右衛門罷出候処豈図ん御官員様御出席に而尚転籍之事実御聞糺しに付願意之次第縷々詳密御答仕尤善助善助住居は親族小野又次郎へ相譲り善右衛門儀は倅へ相続為致御当地住居絶跡仕候儀には決而無之段申上候得共今一応戸長迄書面可差出旨御申聞に付別紙丙印之願書戸長へ差出尚又善助御用達御免之願書共名代善右衛門御府へ直に願上置候得共今以御聞届之御沙汰無之右は何等の事故に而候哉兎角願意貫徹致し兼実に難渋之次第苦慮罷在候然るに東京出店先より一刻も早く移籍可致候様頻り申越其情実商売之倣ひにて不可謂之懸引も御座候而当節柄取引百端一日千秋の思ひにて相促し越候素より当然の儀旁難渋之余り先般御布達も有之候儀に付恐多候得共無余儀御訴訟申上候何卒出格御憐感を以速に送籍御聞届相成候様伏而奉願上候 以上
                            明治六年五月二十七日
                                                    右  小 野 善 助
                                                      病気ニ付名代兼
                                                       小野善右衛門
                                                    右町
                                                    戸長 谷田孫兵衛
                                                    右同区(押印を断りたる為捺印なし
                                                    烏丸通御池上ル二條殿町
                                                     差出人親類惣代    尾崎弥三兵衛
    京都裁判所長  

         北 畠 少 判 事 殿

 といふので、小野助治郎の分も同文句である。人民に出訴の権ありといはれながら、矢ツ張り哀訴嘆願の形式を採つて居るのを見るも当時の社会相を想像するに足るのである、さるにてもこれが我国
最初の行政訴訟であることを思へば忽諸(コッショ)に付すべからざる史料である。
扨(サ)て一面裁判所の方面の意向はどうであつたかといふと、前述の如く大権力を有する司法省は民権を擁護し、罪悪を糾弾し、綱紀を粛正するの任務は懸つて我双肩にありとし、先づ遊女解放令から公娼廃止を断行し、山城屋和助事件には長閥軍人の肝胆を寒からしめ、三谷三九郎事件には藩閥を周章せしめ、尾去沢銅山事件には井上馨を処罰し、又岩崎弥太郎が証人喚問に応ぜざりしとて白昼妓楼より拘引したるが如き目覚しき活動を為して居つた際に起つたのがこの小野組事件である。
それからまた明治五年十月始めて京都に裁判所を設置するや、京都府庁は事務の引継を喜ばなかつた。これが抑(ソモソ)も衝突の始めである。これは敢て京都ばかりに限つたことで無く何処の行政庁も喜ばなかつたといふのは行政官大威張りの根本たる断獄(刑事)聴訟(民事)の権限を取られるのだがら大反対で、司法省当初の難件はこれであつた。特に京都府の如きは「抑地方の官として人民の訴を聴くこと能はず、人民の獄を断ずること能はず、何を以て人民を教育し治方を施し可申哉」と上書したのである。以て当時の地方官の思想を見るべきである。しかし既に法令を以て司法省の権限に属したる以上は渋々ながら引継ぎはしたものの、何にかにつけ妨害する傾向があり、裁判所と府庁は反目しつつあつたのである。
是に於て司法省は新に少判事北畠治房を京都裁判所長に任じ赴任せしめた。北畠は前名平岡鳩平といひ大和天誅組の志士で、後年改進党創立の際は其創設者の一人となりて幹部であり、後再び任官して大阪控訴院長男爵となり、大正九年に物故した一人物である。
北畠赴任後府庁との間に、随心院門跡事件を始めとし、岸喜左衛門等魚代金請求事件、上田小太郎等拘留事件、吉田亀次郎等窃盗事件、亀井八十吉賭博事件、小沢徳兵衛窃盗事件、重吉死亡事件等幾多権限争議を生じたが、その最も大なるはこの小野組事件である。
京都裁判所は目安糺(受理の決定)を為し、然る後、京都府庁に対し出訴の通知を為し答弁書の提出を促した。府庁からは七等出仕谷口起孝を遣はし、「府庁に於ては善助外二名の転籍を差止めたのでは無い。転籍の理由を聞糺した為め時日を要したのであるから訴訟は却下して貰いたい。」と北畠所長に述べたのであるが、北畠は

 苟も法律に基づいて受理したものを理由無くして棄却する訳には行かぬ、府庁としては答弁書を出して争ふべきである、一体地方庁が人民の希望を妨害するのは怪しからん

と説破したのである。斯ふなつては府庁と裁判所とは公然火蓋を切つたので問題は無事に納まりようがない。
府庁からは答弁書が出たが、裁判所では書式が違つて居るからとて突き返した、更に答弁書がでたから、六月十五日法廷を開き左の言渡を為した。

                                               京都府知事   長 谷 信 篤
                                               同  参事   槇 村 正 直
 其府管下、上京廿八区烏丸通二條下ル秋野々町小野善助、同小野善右衛門、同区上妙覚寺町小野助次郎、転籍出願ノ処、其府ニ於テ送籍ノ運ビ速ヤカナラザルニヨリ自然格留ノ疑惑ヲ懐キ訴出ルニ付、過日及訊問ノ末、答弁有之、仍テ尚審理候処、原告三人ノ者共ヘ情願ヲ得セシメ候方至当ニシテ善助用達ノ事故ヲ以テ送籍可滞筋無之、仍テ原告可為素願通旨、及裁判候條、至急送籍可有之、此段相達候也
              明治六年酉六月十五日                                京都府裁判所

これに対し府庁からは
 小野善助送籍願の事に付ては最前、谷口七等出仕を以て御談に及置候処、其義に反する裁判には承 服難致候、依て執行に及ばず候
と返牒して来た。これにより双方の論難往復となり、府庁では、送籍の許容は行政の権内に在り、司法の干與すべき限りにあらずと主張し、裁判所は遂に六月二十三日を以て、『裁判に不服あらば宜しく上告すべく、然らざれば請書を差出すべし』と通告し事件の経過を司法大輔福岡孝弟に報告した。
 然るに府庁よりは、請書を呈出せず又上告をも為さず漫然徒過したので、これ裁判言渡を拒む違式令の罪であるといふ声は司法部内に高まり、問題は一転して中央政界に移り、また行政裁判より刑事裁判となつたのである。
ここにいふ違式令の罪とは違制の罪、違式の罪といふので、凡て法令に違反する罪を総称したのである。いはゞ法廷侮蔑罪である。
平素法律を無視したる、否寧ろ法律知識無き府庁には不安を感じ、七月五日に善助代善右衛門召仕佐七、小野助次郎并に戸長孫長谷口孫兵衛、細川喜助等を白洲に呼出し、庶務課長典事関屋生三は一旦は送籍を許したが、更に之を取上げ、裁判所へ対し中途擁蔽云々といつたのが怪しからんとか、願意不貫徹云々と述べたのが不都合だとかいつて脅したが、何が扨て、町人が府知事と訴訟して勝つたのだから、なかなか腰が強い、裁判のお達に戻るとは如何と逆襲して降らない、その中に恐入ると云つた言葉尻を捉へて詰問すると、これは役所を敬する口癖であつて御尋ねに恐入るの意味では無いと抗弁する。はては裁判所へ伺出た上ならでは答弁はせないと頑張る、それでは出頭の区戸長は証人となれと宜して其日は要領を得ずに終つた。これを聞いた裁判所は、同月十三日関屋を呼出し詰問したるに、これは知参事の指図であるといつたから、それでは取調の都合があるからとて、関屋を裁判所留とし、区戸長の答弁も曖昧だとて、長尾小兵衛、山口仙之助を拘留した。府庁では大いに驚き、公務上出頭せしものを留置くとは如何なる訳か、と抗議したが、裁判所では、公私の別無く留置は勿論時宜によりては入牢も申付くる、とて益強硬に刎ねつけた。
一面司法省では七月八日事件が勅奏任官に関係するを以て司法大輔より太政大臣に稟申(リンシン)した。
太政官でも処置に困りなかなか指令が出ないから、司法省からは督促しても容易に決せない、そこで七月十二日、司法省六等出仕早川勇、太政官に出頭して
現行犯罪であるから各人民ならば即時に処分が出来るが、勅奏任官に係ることであるから奏請した以上は口述を用ひず直ちに処置しても宜しきや、又法律に依り一応推問を経て、口供結案(自白)を以て罪を科すべきや。
と述べた。此時は江藤新平は参議であつたから、其議に基づき、太政官では
 口供結案を待つに及ばず各人民現行犯罪の例を以て立所に罪を科すべし
と指令したから、検事澄川拙三が擬律(ギリツ)し上奏裁可を得、其旨京都裁判所に通達した。そこで裁判所は府庁側へ呼出状を発した。
事爰に至つては府庁側は狼狽せざるを得ぬ、司法省の作つた法律により司法省の手にて裁判せられんとするのである。相手は理屈と権力を以て迫り来るのである。大名然として傲然威張りつゝあつた府庁は、自己の職務に付き斯く迄追求せられようとは思ひ設けなかつたのである。
 そこで府庁では、事件の経過を述べ、裁判所が行政の内部に干渉する様では到底職務を執ることが出来ぬから宜しく裁断を仰ぐとの陳情書を認め、属官を上京せしめて太政官に提出した。
一方裁判所は知事参事に対し召喚状を発したが、知事参事は『此事件は目下伺中に属し未だ指令無く、また我等は勅任官だから上局の許可なくては猥りに法廷に出ることが出来ぬ』とて喚問に応じなかつたが、裁判所は七月二十九日府知事の執事を呼出し

                                               京都府知事   長 谷 信 篤
 其方儀、小野善助外二人転籍ノ儀ニ付、先般裁判ニ及ブ処、裁判上不服ノ事アレバ控告ノ法ニ拠り検事ヲ経テ上告スベキノ処、其儀ナク、徒ニ技蔓事ヲ生ジ、裁判受書ヲ出サゞル科、違令律條例違式重ニ擬シ懲役二十日ノ処官吏私罪贖例ニ照シ贖罪金(ショクザイキン)八円申付ル
但贖罪金ハ五日以内ニ差出セ

八月五日には参事の執事を呼出し、同様贖罪金六円に処した。
府庁側は裁判所に先手々々と打たれ、行政裁判の被告が刑事裁判の被告と為つて処刑を受くるたちばとなつたのである。八月二日知事は右言渡しに対しては控訴すべきに依り贖罪金を納付せずといひ、翌三日には推問を受けて承服せざるものを言渡すは不当なりと申出で、裁判所は、御裁可に依つて言渡したのである彼是言ふべき限りにあらずと回答した。槇村は始めより旅行中とて出頭せず、また執事にも故障ありとて彼是言ひ、漸く五日に右の如く判決したのであるが、同日、右裁判は了解し難くまた伺中に付き請書提出し難し、と申出で丹波地方へ出張に托して旅行した。
北畠所長は大に怒り、其事情を具して司法大輔へ上申したが、その一節に

正直(槇村)ノ法権ヲ侮辱スル更ニ之ヨリ甚シキハナシ、則チ朝憲何ノ立トコロアラン。治房此処ニ於テ実二切歯扼腕ニ堪ヘザルナリ。依テ請フ信篤正直等ヲ当断廷ニ呼出シ審詳糺問、若シ其実ヲ陳セス答弁上、若、倨傲(キョゴウ)悔慢ニ渉り候義有之ニ於テハ、直ニ之ヲ監倉ニ拘留スルヲ得ルノ権ヲ当裁判所ヘ暫く御委任有之度此段懇願仕候也。

といふのである。憤激の情、睹(ノ)るが如しである。同じく澄川検事よりも
 京都裁判所ニ吟味ヲマカセラルゝヤ、一日モ早ク司法裁判ヲ開クベキカ。
と上申した。
そこで司法省よりも
          京都府官員断ノ儀ニ付伺
 京都府知事長谷信篤同府槇村正直同府下小野善助送籍一件ニ付適律処断御裁可之上同裁判所ニ於テ処分申附候処右申渡ヲ抗拒致シ候顛末北畠少判事並澄川権中検事ヨリ別紙之通申出候元来法律ハ国家ノ大典ニシテ罪名一度ニ定レハ臣民タルモノ誰カ之ニ背戻(ハイレイ)スル事ヲ得ン況此ノ一條ハ勅奏官ニ係ルヲ以テ奏請シテ旨ヲ奉スルモノナリ彼信篤正直何者ニシテ朝憲蔑スル如此ヤ或ハ裁判所ヲ認テ朝庭ノモノニ非ストス狂妾ノ甚シキ大不敬ト云フ可シ然ルヲ其儘猶予スルトキハ司法御委任ノ権不相立即チ
朝憲不相立ナリ依テ速ニ捕縛セシメ狂妄ノ罪ヲ糺弾セシムヘク候間今日中御裁可相成度此段御即決ヲ仰キ候也
     明治六年八月十日                                        司法大輔 福 岡 孝 弟
       三 条 太 政 大臣殿

と上申した。これも随分激烈である。
これには太政官も困り、八月三十日となつて漸く
 裁判請書ノ次第一応推問之上猶不都合之儀有之候ハゝ糺弾之儀可為伺之通事
   但捕縛ノ儀ハ可見合事
と指令し、捕縛はどうしても許されない。
一面槇村は八月十四日
 小野善助等転籍之儀に付去五日京都裁判所より罪状御達書御渡相成候処元来右一件に就ては裁判所の処分於府庁難了解伺中に付如何共難致尚又伺出之上何等可応御指揮段裁判所へ申出置候右は最初よりの次第篤と御聞取被成下候はば自然事情当否判然可致其伺出未御指揮無之中罪状書致御請候て意味相違候ては不都合と相考右様申出候依て別紙相添此段奉伺候何分御指揮可被成下候
以上

との出京願を差出したるに、太政官は翌十五日附けを以て、
 伺之趣処刑を不受段不都合候條書面差戻候事

と指令した、これには流石の槇村も驚き、八月十七日、言渡の請書、及び、贖罪金を納付したるが、その言草に、太政官へ伺中ではあるが、御朱書とは何か、その事を弁明せなければ依然拒刑の罪は免れ難き旨、覆牒したが、これより、またまた論難となり。此間に於て八月十八日、前の府庁よりの陳情書に対し、太政官
 上申の趣送籍一件委曲之情実陳述候儀に相関候得共審判之条理は裁判所の処置至当に付速に申達可取計処其儀無之は甚だ不都合の次第に有之尤裁判に於て総区長を捕縛し官吏を留置候儀等自余了解致し難き件には審判の上の当否に関係無之候間別段申立可然事に有之候此旨可相心得事

と指令し、また前に、長谷より上京願出でたる件に付ても、
 処刑申渡を受けず出京上奏願出候段不都合に付之伺之趣難聞届候事

と指令があつた。

・・・以下略

 

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黒田清隆 北海道開拓使庁事件と妻殺害事件

2018年09月09日 | 国際・政治

 私は、日本の歴史の暗部といえるような部分ばかりを調べているような気がして、時々悲しくなります。なぜ、こういうことを続けているのだろうと悩ましく思うこともあります。しかしながら、世界にあまり例のない日本の戦争の野蛮性は、尊王攘夷をかかげて、武力で幕府を倒した長州や薩摩を中心とする尊王攘夷急進派による明治維新に源があり、それが今なお、きちんとらえられていないと思われ、確認しないわけにはいかないのです。

 日本の第二代内閣総理大臣、黒田清隆には、”北海道開拓使庁事件”といわれる汚職の問題がありました。
 この事件がきっかけで、”將ニ明治二十三年ヲ期シ、議員ヲ召シ、國會ヲ開キ、以テ朕カ初志ヲ成サントス”という国会開設の勅諭が出されることになる大問題でした。
 また、黒田清隆には、妻を斬り殺したり、当時海賊避けのため武装していた商船から、面白半分に大砲を発射し、誤って住民を殺害した問題もありました。それらの殺人や汚職を、仲間の犯罪であるが故に不問に付す藩閥政治は、尊王攘夷急進派が幕末に幕府関係者や幕府を支える人たちを片っ端から暗殺したり、また、異人斬りといわれる外国人殺害をくり返した野蛮性をそのまま、引き継いでいた証ではないかと思います。
 黒田清隆による妻の斬殺を、自らの工作でなかったことにした大久保利通は、紀尾井坂で、島田一郎ら不平士族に襲われて、滅多斬りにされたということですが、その斬奸状には、有司専制の罪として、以下の五つがあったといわれています。

 その一、議会を開かず、民権を抑圧し、政治を専制独裁した罪。
 その二、法令を乱用し、私利私欲を横行させた罪。
 その三、不急の工事、無用な修飾により、国財を浪費した罪。
 その四、忠節、憂国の士を排斥し、内乱を起こした罪。
 その五、外交を誤り、国威を失墜させた罪。

 明治維新以後、要職に就いた長州や薩摩出身の政治家よる汚職事件が続発しますが、それは、斬奸状が指摘するように、彼らが権力を私物化し、私利私欲を優先させて動いていたということだと思います。そして、そうした汚職事件を様々な工作によって闇に葬りつつ、明治政府は、さらに大きな利権を求めて朝鮮や中国に向かっていった側面があるのではないかと思うのです。
 明治時代の近代化に目を奪われて、背景にある日本の政治の野蛮性を見失ってはならないと思います。戦争に向かう必然性が、そこにあったのではないかと思うからです。 

 下記は、資料1は「日本疑獄史」森川哲郎(三一書房)から抜粋しました。
 ただ、黒田清隆が妻を斬殺したという部分については、『「団団珍聞(マルマルチンブン)」「驥尾団子(キビダンゴ)」がゆく』木本至(白水社)に、異なる証言が出ていましたので、抜粋しました。資料2です。殺害の場面を直接見ていたわけではないので、異なる証言があるのではないかと想像しますが、身近にいた人物の証言であり、黒田清隆が妻を殺したという事実については、否定しようがないと思います。  
 資料3は、「団団珍聞」が、政府に真相解明をせまる「茶説」の一文です。文章の中に” 後来其政府ノ大難事ヲ引出スノ端緒タラン乎”とありますが、こうした大問題を隠蔽し放置する政府は、後に”大難事を引き出す”というのは、鋭い指摘だと思います。著者はその”大難事”をどのようなものと考えていたのかはわかりませんが、私は、その”大難事”が、戦争であると考えます。

資料1--------------------------ーーーーーーーーーーーーーーーーーー----------------
                        北海道開拓使庁事件
                             ーー全官有物を十万円で払下げーー

 サイのお化け

 明治十一年三月の夜。
 黒田清隆は、泥のように酔って家に帰った。彼は酒乱である。酔うと殺気立ち、暴れ出して、手がつけられなくなる癖がある。その夜、妻はその気配を悟ったのか、なかなか出迎えに現れなかった。
どなっているうちに黒田は逆上した。彼は部屋に入ると日本刀をもって待ちうけた。妻のせいが現れると、いきなり真向上段から斬り下げたのである。妻は、血に染まって倒れた。即死であった。
 ・・・
 しかし、悪事千里、病死ということで、ひそかに死体を埋葬してしまったこの事件が、どこからともなくもれて、当時の新聞『団々珍聞』が、デカデカと一頁大風刺画を掲げて、暴露したので、たちまち騒然と噂の種になった。

 ・・・
 世間の噂はごうごうとうずまいて、さすがの黒田も、たまりかねて辞表を出して、家にひきこもってしまった。
 この時、政府部内でも、世論を抑えるためには、黒田を処断する以外にないと、大隈重信が、大久保利通に黒田の逮捕、処断を迫ったという。黒田は維新の功臣としては、序列はかなり上で、薩摩としては、西郷・大久保の次位にあった。
 しかも、大久保としては、西南戦争がようやく終わった直後である。その前には佐賀の乱、秋月、神風連、思案橋の変と続発し、全国不平士族の蠢動は、まだ到底おさまりそうもない形勢の時である。
 西郷を倒したところで、政府に対する信用は低く、全国に憎悪の感情がみなぎっている。そこへ、黒田がとんだ不始末をしでかしてくれた。世論のいうまま、黒田の妻殺しを認めたのでは、政府の威信は甚だしく地に落ちる。これは何としてでも、もみ消さなければならない。
 権謀術策を事とし、目的のためには、どんな手段も辞さずに行ってきた大久保である。
 「黒田は、榎本武揚の処刑をただ一人だけ反対して、命を救ったほどの元来情の厚い男だ。そのようなことをするわけはない。俺が保証する」
 と、はねつけ、すぐ大警視川路利良を呼びよせて、何事か秘策をさずけた。
 
 川路は、長州閥の贋札事件をアバこうとして消された疑いがあるが、また、一方で大久保の権謀政策の右腕をつとめた男で、西南の役の動火点になった西郷暗殺計画も、大久保と川路で企んだといわれている。
 川路は医者も立ち合わせて、黒田の妻のせいの墓をほり起し、棺の蓋をあけさせ、近よって中をのぞきこみ、周囲の者をふり返って、
「どうだ。まるで他殺の形跡など見られないじゃないか」
 といった。これには、みな一言もなく、ただ黙々としていたという。
 検視は、これで終わった。
 大久保は、これで一件を強引に落着する腹を決め、即日黒田を呼びよせ、辞職を思い止まらせた。
 しかし、数日後、大久保利通は紀尾井坂で、参内の途中、石川県士族島田一郎らに襲われて、滅多斬りにされて、見るも無残な最期をとげた。
 その斬奸状の中には、黒田清隆の妻殺しの一件が、斬奸趣意の理由の一つとして書き連ねられていた。
「第二、法律ヲ科スル…黒田清隆酩酊ノ余リ、暴怒ニ乗ジ其妻ヲ殺ス。タマタマ川路利良座ニ在リト。シカシテ政府コレヲ不問ニ置キ、利良マタ知ラズト為シテ止ム。アア、人ヲ殴殺スルハ罪大刑ニ当ル」
 又、奸魁の斬るべき者として
「曰ク木戸孝允、大久保利通、岩倉具視、是レ其巨魁タル者、大隈重信、伊藤博文、黒田清隆、川路利良ノ如キ、亦許ス可カラザル者」
 として、大久保、黒田、川路の名を書き連ねてある。
 いかに、当時の人心が、大久保、川路、黒田の謀略、権謀を嫌ったかが、如実に見られるものといえよう。
 黒田のその後めとった新しい妻が、不貞の噂高く、ついに出入りの呉服商人と通じて離別された事件も有名である。サイのお化けの祟りでもあろうか?

藩閥のボス黒田 ・・・略


 甘い汁を吸える北海道使庁 

 北海道開拓使庁が、札幌に設けられたのは、明治二年であった。初代長官は、鍋島直正、二代目は東久世通禧だった。大名と公卿である。
 表面の目的は、北海道全道の開拓であったが、新政府が、最も恐れてひそかに与えていた使命は、対ロシアへの防備であった。ロシア帝国には、宗谷海峡一つ隔てて隣接しているのだ。
 しかし、当時の日本としては、これは公にいえないことだった。そこで北海道開拓ということで役所をおいたのである。
 二代長官東久世通禧が、明治四年に職を辞すると、三代目長官をだれにするかという問題が、太政官で真剣に討議された。新政府の重要人物は、だれもそのような辺地には行きたがらない。しかし、その使命の重要性からはかると、二流、三流人物を送るわけにも行かない。
 北辺防備の重要性は、年々増している。ロシア帝国は、虎視眈々と、南下の機会をねらっている。ことに薩摩の西郷は、ロシアの野心を恐れていた。いったん北辺に事があれば、自分は、一将として一箇大隊の兵をひきいて、ロシア軍に当たるというのが、西郷の口ぐせであった。西郷としても、北海道警備には、薩摩主体で当たりたかったようである。
 黒田は、五稜郭を陥したときに、幕府の榎本武揚らが、死刑になるところを助けて、いまだに北海道に生存している幕軍の残党に、かなりの人気を得ていた。
 西郷の意志をうけて、北辺防備には、熱意をもっている。そのために、当時すでに、開拓使次官でもあり、陸軍中将でもあった。
 太政官の会議では、圧倒的に、黒田清隆を長官に…という声が強かった。しかし、それは、あくまでも表面の理由であった。内実は、黒田は、太政官の要路者たちに敬遠されていたのである。
 当時、黒田は、太政官内閣参議という新政府内の中で、トップクラスの要人だった。当時の参議のメンバーは、西郷隆盛、木戸孝允、を筆頭に、大久保利通、板垣退助、江藤新平、大隈重信、副島種臣、後藤象二郎、大木喬任に黒田を加えた十名だった。もちろん、薩長土肥出身者ばかりである。
 維新に際し、抜群の功労のあった四つの藩の最高指導者が、選抜され、悪くいえば、結託して、少数の人間で、国政を動かすといういわゆる藩閥政治である。
 黒田は、西郷や大久保には頭が上らなかったが、天性荒々しい気性で、前述のようにその意見に反対されると暴力をふるっても通そうという兇暴な面があったので、他の参議たちも、もてあましていたのである。東久世辞任問題をこれ幸いと各参議は、後任長官に黒田をおした。西郷にとっても、薩摩の自分の子分の手に、北辺防備の使命をにぎらせるのだから、無条件で賛成した。
 ところが黒田は、意外に悦んで、この追い出しドラマを受け入れた。彼は、対露作戦基地として、近い将来北海道が、時代の焦点になるであろうと考えていたからである。

 就任と同時に、黒田は、意欲的に政策をおし進めた。屯田兵をつくり、農学校を設立し、その校長に、アメリカからクラーク博士を招いた。農場、ニシン、タラ、ラッコ、オットセイの漁場、牧場をどしどし増加し、鉄鋼所を造り、倉庫を造り、船舶を補給し、葡萄園を開き、ビール醸造所を造った。もちろん、黒田は、それほど知性的な、経済や工業に明るい男ではなかったが、下僚に優秀な事務屋、技術者がそろっていて、黒田の大まかな性格が、かえってその手腕を発揮させるのにプラスしたようである。

 しかし、彼はこのために、巨額な予算をはしから使いつくした。明治五年十ヵ年計画が立てられ、新政府は、毎年約百万円の予算を黒田に与えたのである。そのために、黒田の任期満了の期限明治十四年には、北海道使庁は、日本一富有な財源をもつ役所に成長していた。
 右に上げた物件のほか、各地に広大な官有地を持ち、永代橋際に建てたレンガ建ての東京出張所を含めると、当時の時価で、三千万円以上の財産といわれた。
 もちろん、この豪傑は、西郷隆盛のように清潔一方の宗教的人物ではない。この間に、多くの利権屋が、彼の周辺に蝟集し、そのふところも、十分あたたまっていたようだ。
 他の男なら、この辺で、中央で政権をとる足場を固めたがるはずなのに、黒田は、中央政界復帰を願わずに、もう一期十年の留任をのぞんだのである。


 大蔵卿をピストルで脅す

 黒田清隆に、中央に帰ってこられては面倒だと思ったのは、伊藤、井上ら長州閥の政治家ばかりではなかった。黒田の後任で北海道に行きたい大物もいない。
「黒田が、あと十年留任を望むなら、やってもらおう」
 という空気が圧倒的に強かった。そのためには、もちろん第二期十年計画に入ることを認め、黒田の要求する予算をわたさなければならない。それにも目をつむろうということで、閣議は、ほとんどこれを支持する方向に動いていた。 
 ところが、意外にも、平生寡黙で、地味な性格で通っていた大蔵卿の佐野常民が、断乎として反対した。反対するだけでなく、
「この際北海道開拓使庁は、継続を打ち切り、廃止すべきだ」
 と主張するのである。佐野は、佐賀の出身で、井上、山県と対立した江藤新平や大隈重信、副島種臣などの同僚であった。長州閥と対立して、自ら墓穴を掘り、憤死させられた江藤新平の例もある。西郷、大久保の亡き後、薩摩閥の頭目格である黒田と事をかまえないようにと忠告する者もあったが、佐野は意にも介さなかった。江藤と同様の頑固者で、理を曲げようとしない。彼は、頭から黒田に反対して闘った。
「いままで、北海道使庁には、千四百九万六千四百四十二円という金をつぎこんできている。北海道の開拓も北辺の防備も重要事には違いない。そう信じたからいままでは、各省を遥かに上廻る予算も大目に見てきた。しかし、今の政府は、財政的にも危機に瀕している。ことに西南の役以後、紙幣整理も断行しなければならないし、国債償還のこともあり、極度の節約をしなければならないときだ。第二期十年計画には、前を上回る四百万円以上の予算を要求されているが、いまの政府には、そのような金はない。ことに、明治初年と異りいまの日本には、国家としてなさねばならぬ事業が多数ある。それに厖大な支出を要求されるときに、そのような巨費を政府が不要の使庁に用うることはできない」
 というのである。不用な使庁といわれて、黒田は激怒した。自分が国家のために絶対必要だと考えて、勢いこんで、予算の分どりに上京してきただけに、その鼻先に開拓使庁廃止と宣言されて、根が逆上症的な血の気の多い男である。かっとなって、大蔵省に馬車を走らせ、大蔵卿の室に、ずかずかあと大股でのりうこむと、佐野常民のテーブルの上に、いきなりピストルを抜き出しておいた。
「おはん。北海道開拓使庁を廃止するといっちょるそうじゃが、おいどんは、北海道に骨を埋めるつもりじゃ。廃止するなら、まずこのピストルで、おいどんを射ち殺してからにしろ」
 大声で一喝すると、佐野を大きな鋭い眼でにらみつけた。佐野は、少しも動じない。
「あんたが、なんと申されても、予算が許しません。脅迫などおよしなさい」
「脅迫ではなか。おはんが射たなければ、おいどんがおはんを射ち申すぞ」
「お好きなようにしなさい。そんなものが恐いようでは、国家の予算は組めません」
 佐野は、もちろん、黒田が、かつて逆上して夫人を斬殺した有名な話を知っている。この男は、激怒すると前後の見さかいがなくなって、何をするかわからない。下手をすると命を失うくらいのことは感じていたに違いない。しかし、佐野は、頑として藩閥の頭目黒田の脅迫に屈しなかった。
 では、北海道使庁を廃止して、未完成の北海道開拓はどうするのか? 佐野はどういう代案をもっていたのか? 佐野の主張はこうであった。
 明治初年と違い、現在は、政府が巨額の費用を支出して、産業を振興する。その産業を官営にして管理する時代は、過ぎ去った。いまは、開拓使庁の管理する官有物を、適正な価格で民間に払い下げ、民力による自由競争をもとに産業の振興をはかる時代だ。その方が、はるかに開拓が早く進むというのである。
 この間、内閣要人たちは、手をつくして佐野に圧力をかけてきたが、佐野はみなはね返して、軟化しなかった。閣議は、多数決では決済できない。ことに大蔵卿の反対とあっては、黒田案は、暗礁にのり上げるほかなかった。内閣はこの問題で大ゆれにゆれた。


 官有物をタダ同様に乗っ取る陰謀

 ちょうど、このころ大坂から五代友厚が、中野悟一を帯同して、上京してきた。
 二人は、黒田の官邸に、馬車をのりつけた。五代は、薩摩出身の豪商であり、中野は、長州閥の豪商である。この二人の提携も異様なら、二人が、この時期に、肩を並べて問題の人物黒田清隆を訪問することも異様である。
 五代友厚は、はじめ才助と称して、薩摩藩切っての俊才であった。文久三年、薩英戦争に藩から選抜されて、談判に行き、そのまま連行されて、ロンドンに行き、二年学び、帰国して維新にも功をあらわし、先覚者といわれた利者(キケモノ)である。
 明治政府ができたときは、外交事務係判事に任命され、伊藤、後藤、陸奥、中井(桜州)、吉井(友実)などとともに、外交担当の高官として活躍した。泉州堺浦で、土佐藩士が、フランス兵士を殺傷したとき、その結着をつけたのは五代であった。その後、大阪府判事、会計官などを歴任した。
 が、幕末に、商社を創立したほどの男である。これからの時代は、商業であると見通しをつけ、官を辞して、野に下り、実業家に転身した。
 もちろん、藩閥と密着して御用商人となり、盛んに貿易も行ってのし上り、またたくまに巨財をつくり上げたのである。大阪中之島に、宏壮な屋敷を構えていた。後にこの屋敷あとに日本銀行支店が建てられたことから見ても、いかに宏大なものであったかが分かる。二町四方あったという。泉州堺に紡績会社も創立していた。
 東京に馬車鉄道をつくるとき、多数の実業家が集まって運動したが、なかなかできなかった。発起人の一人である谷元道之が、五代の後輩であったので、五代に相談したところ、五代は、
「俺が上京するまで、運動はやめろ」
 と釘をさし、まもなく上京して、馬車で二日ほどかけ歩いた結果、あっというまに成立させてしまったという。それだけの実力を持っていた。ということは裏を返せば、藩閥政府内に、彼の後輩や同僚が多く、また、五代も相当に、彼らのふところをうるおしていたということであろう。
 大阪の商業会議所をはじめ大阪高等商業学校、銀行、航海、鉄道、銀行などの諸事業を最初に大阪で創りあげたのも彼である。大阪の実業界における彼の声望は、当時並ぶ者のないほどであった。
 五代は、幕末から明治初期にかけて、薩摩では、西郷、大久保につぐ地位であったから、黒田は、その下風にたっていた。また、薩摩時代、五代は、軽輩の黒田を「了助、了助」と呼びすてにしていた。明治になってからも、そのまま呼びすてにされて、どうにも頭が上らなかった。黒田には、知性的な面が欠如している。五代は、語学もたんのうで、その当時切っての新知識であり、知性豊かである。そんなところからも、どうしても五代には頭が上らなかった。その五代が、いきなりやってきて、
「了助…お前などが、あと十年北海道の開拓をしたところで、できるものではない。あとは俺がやってやる」
 と、頭ごなしにやっつけられた。
「そのかわり、北海道にある官有物は、すべて、俺に払い下げてしまえ。その上で、みごとに開拓の実績をあげてやる。お前の志を果してやるのだ。お前の銅像は、北海道開拓の恩人として、俺が札幌の中央に建ててやる。お前の名は、それで不滅になるのだ」
 と煽り立てた。
「大体、民間人に開拓をまかせるというのは佐野の案だ。これなら佐野にも否やはあるまい。お前の損の行かないようにしてやるよ」
 と、すでにでき上っている官有物払下げの願書をつきつけた。
「これに、同意の判をおせ!」
 というのである。黒田が、その内容を見ると、なんと北海道全道の官有物の価格を三十万円に見積もっている。しかも、それを三十年賦、無利息で払い下げろという内容である。時価三千万円以上はする国有財産をその百分の一に勝手に計算している。これでは、無料(タダ)同然で、奪い去ろうというものだ。払い下げではなく、もらい下げといった方がよい内容である。その上、現金十四万円を諸事業の運転資金として十五年間貸し下げてほしい。開拓使収税品の取扱いについては、十年間委任を受けた上、六パーセントの手数料をくれ、等々あまりにも虫のいい条件を並べてあった。
 内心黒田も驚いたが、五代には手も足も出ない。それに五代の手にわたすなら、将来、自分も十分その恩恵に浴せる。藩閥政府としても好都合だ。
「おいどんは、これでよかと思っちょる。しかし、書記官どもが、どういうか分かりもはん」
「書記官もよべ。おれがいって聞かせてやる」
 鈴木大亮、今井信之、安田定則、折田平内ら書記官が料亭”売茶亭”に呼び出され、五代のさわやかな説明を聞かされて、願書の裏書きを求められた。書記官は、みな同意して、黒田とともに裏書きした。五代の当時の実力と手腕がどのようなものであったか、充分想像のつく話である。もっとも四人とも、関西貿易会社の重役や高級社員で迎えるという餌で釣りあげられたという。いまも役人はこの手によわい。停年後よい条件で行ける会社を探すからである。
 この願書は、黒田の手を経て、内閣へ廻された。ここで、五代が、中野を連れてきた理由が判明する。中野は、帰化長州人といわれるほど長州閥につながりが深い。山口県令もしたことのある人物である。
 当時の政府を抑えていたのは、薩長土肥といっても、実際は、薩長二藩である。薩摩は五代の実力と声望でどうにでもなる。だが、万一長州閥が反対した場合、難行するおそれがあるので、伊藤、井上、山県らと関係の深い中野を用いて説得させればいい。二人ともそれまでに政府部内に、かなり金をまきちらしている、いまをときめく大実業家である。二人で、政府を抑えればよいと協議して、この破天荒な国有財産乗っ取り計画をたずさえて上京してきたのである。
 この作戦は、みごとに成功した。これだけ非常識な内容なのだから、閣議で、猛烈な反対があって当然であるのに、ほとんど異論なしに通過する形勢であった。
 ところが、ただ一人これに反対した者があった。大隈参議である。佐野は、あまりのことに呆然としていたが、同じ佐賀出身の大隈が反対にたちあがったのだから勢いづいた。二人は断乎として、払い下げに反対説を展開した。
 黒田は、またまた激怒した。毎日酒をあおって酔眼をすえて内閣にどなりこんでくる。大隈は、参議だが、内閣に何の力も持ち合わせていなかった。内閣は薩長二派で牛耳られている。大隈の職は、内閣の参議というだけで、閑職に等しかった。
 当時の参議の顔ぶれを見ると、
 薩摩閥  西郷従道、寺島宗則、黒田清隆、河村純義
 長州閥  山県有朋、井上 馨、伊藤博文、山田顕義
 肥州   大隈重信、大木喬任 
 という十人だけである。土佐の板垣、後藤は下野して、自由民権論で、政府に対抗している時代だ。
 八対二で、肥州出身者は、全て薩長から無視されていた。
 大隈にとっては、この体制は、無念でしかたがない。まして、今度のような強奪に等しい払い下げ案を薩長のお手盛りで通そうというやり方には、一泡吹かせてやりたい。むしろこの機会を利用して、薩長藩閥に致命的な打撃を与える工夫はないものかとと考えて、ついに妙案を思いついた。


 新聞を利用して対抗した大隈

 大隈の思いついたことは、新聞の利用である。そこが、大隈らしい着眼力であり、彼の新しさであると同時に、狡猾ともいえる 老獪さでもあった。彼は、つねに、ただのねずみではないのである。
 当時の新聞は、現在ほどには普及していず、強い力があったわけではないが、知識階級に対してはかなり浸透し、影響力を持ちはじめていた。
 もちろん現代のような大新聞はなく、群雄割拠の時代だった。中でも、反政府的論陣で鋭いものに、大隈は目をつけた。
 東京日日新聞には、福地源一郎が、自ら論説を書きまくって人気があった。横浜毎日新聞には、沼間守一がいて革新的な論陣をはっている。郵便報知新聞にも、矢野文雄や藤田茂吉が、活発な筆力で書きまくっている。
 まず、彼らを味方につけ、火の手をあげれば、他の新聞も驚いて騒ぎ出すであろう。それが、全国に燃えひろがって行くことも夢ではない。
 最初の吹こみ方だ。大隈は、大風呂敷といわれたほど、弁舌は冴えている。彼は、まず福地と沼間を招き、
「参議大隈が、職を賭して天下の一大事を打ち明けるのだ。ぜひ、君らの力を貸してもらいたい」
 ともちかけた。二人は、顔を見合わせて、疑わしげに大隈を見る。が、日ごろから大隈には密接な関係にあり、大隈の援助も受けていた。
「いったい、なにごとです。記事になるのですか」
「記事になるどころではない。明治政府はじまって以来の大疑獄だ」
 疑獄と聞いて、二人の顔色が、さっと変わった。ジャーナリストなら、とびつくネタだ。大隈は、人払いをし、声をひそめて、二人に一切を打ち明けた。
「北海道全土の官有物というと、まずどんなものがありますか」
「札幌には、開拓使庁舎がある。函館には、船場の官有物がある。根室には広大な牧畜場があり、札幌にもある。七重に勧業試験場、室蘭に製鋼所、大野に養蚕所、その他ビール製造所、葡萄園と葡萄酒製造所、各種カン詰製造所、また製毛所もある。それに、ラッコ・オットセイの猟場、ニシン・タラなどの漁場、それに加えて、汽船・帆船約三十隻、その工作所、ドック等々がある。また東京永代橋のレンガ造りの出張所とその倉庫、及び物産取扱い所、大阪と敦賀にも倉庫がある。その他屯田兵の調練所、宿舎、各地にある開拓使出張所等々、どんなに安く見積もっても、時価三千万円以上の価格だ。これを三十万円、しかも三十年賦無利息で払い下げろという五代、中野の願書に、黒田も書記官も裏書きをし、内閣参議はこぞって支持し、勅許を得るばかりになっている。当然、薩長のやからは五代から将来にわたって、莫大な見返りをもらうつもりだということは、はっきりしている。これが大々疑獄でなくて何だ」
 と大隈は、まくし立てた。二人の目はみるみるうちに充血してきた。
「よし、やりましょう。薩長を叩き伏せるいい機会です」
 二人は、軍資金まで大隈からもらって、とんで帰った。

 まず、福地の東京日日新聞が、攻撃の火の手をあげた。つづいて郵便報知新聞、横浜毎日新聞が、筆をそろえて、政府攻撃、大疑獄のバクロ記事を発表した。朝野新聞、曙新聞も、歩調をそろえた。
 火はいっせいに燃えひろがったのである。
 大隈は、一方で、福沢諭吉と緊密な連絡をとっていた。二人は、反藩閥という点で深く結びついていた。福沢は、門下生を地方新聞に派遣したり、寄稿させたりして、政府攻撃の論陣をひろげた。福沢につながる報知新聞記者たちは、よろこんでこれにとびつき書きまくった。毎日新聞も呼応した。
 こうなると、地方新聞も黙してはいない。全国津々浦々の新聞が、こぞってこの一大汚職事件を攻撃しはじめた。
 この形勢を見て、よろんだんのは、板垣、後藤らの自由民権派である。彼らは、百万の見方を得たように勢いづいて、政府攻撃の演説をぶって廻った。彼らは、これを国会開設要求に利用し、結びつけた。


 大隈追放ドラマ

 このころたまたま、明治天皇は、奥州から北海道へ約二ヶ月の巡幸を決定した。明治十四年七月二十九日、宮城を出発した。有栖川の宮、黒田、大隈両参議もこれに従った。この形勢を見て、五代らと払い下げ支持の参議たちは、狼狽した。
 策師の大隈のことである。必ず天皇に、北海道の厖大な諸官有物を見せ、これをタダ同然に民間に払い下げすることの不当を非難し、払い下げを阻止してしまうであろうと考えたのである。
 そこで、二人の参議が、天皇の車駕が小休止していた千住の北三丁目中田屋にかけつけ、払い下げの勅許を強引に受けてしまった。
 岩倉はここまで見送って引き返し、八月一日、これを公布した。
 新聞はまた、いっせいに憤激して、攻撃に移ったが、北海道から代表者が上京してきて、政府に陳情した。
「北海道の官有物を払い下げるなら、ぜひ地元の有志に払い下げてもらいたい。価格は政府のいい値にしたがう。支払いも利子つきで、十年間で完納する」
 というのである。しかし、すでに五代らに内定しているので、どうすることもできなかった。もちろん、政府参議は、いんぎん無礼にあしらって、これを追い帰した。
 それどころか参議たちは、大隈のいない間に、大隈弾劾案を出し、参議免官を決議していた。一種のクーデターである。理由は、内閣の極秘事項を新聞に流し、これを扇動して、政府を攻撃させ、内閣の不統一を招いたというのである。
 ・・・
 大隈はこの巡幸中に宮に対して、得意の長広舌を展開して、薩長藩閥を痛罵し、厖大な国有財産がただ同然に奪われようとしていると事件の全貌をバクロした。
 有栖川の宮は
「事は重大であるので、陛下の御還幸まで一切この件に関して、批評をしてはならない。解決は御還幸を待って後する。それまでは自分があずかりおく」
 といって、大隈を抑え、問題を保留した。明治天皇にも宮か大隈が耳に入れたらしい。予定の巡幸を終って、十月十一日還幸したのだが、千住の行在所に着いたとき、また岩倉具視が迎えに出て、留守中の政情を奏上した。この中で、明治十四年の政変、いいかえれば、大隈免官の内定を報告すると、天皇は、大変不機嫌になって、「速やかに御前会議を開け」と命令した。
 御前会議直前、伊藤博文は、大隈追放ドラマの陰謀を正当化するために、大隈を訪問した。辞職勧告である。西郷従道が、伊藤についてきた。明治十四年十月十一日の夜半午前一時ごろであった。
 大隈の回顧談によると、ただ単純な言葉で、
「容易ならざることだから、どうか辞表を出してくれ」
 と伊藤はくり返したという。その直前に内閣会議で、正式に大隈追放は決定したのである。大隈は怒った。
「よし、明日、わが輩が内閣に出る。辞表は、陛下に拝謁してから出す」
 と答えると、二人は当惑した表情をした。が、そのままあたふたと帰って行った。翌日、大隈が宮中に行くと、門衛が厳重にさえぎって入れない。それならと馬車を有栖川の宮家に走らせると、ここでも固く門をとざして、門衛が、大隈を入れようとしない。天皇も宮家も、昨日までとは打って変わった拒絶の冷たい態度だ。
 大隈は、首席参議の身から一転して、罪人あつかいの身分に変わっていた。これは、完全なクーデターで、大隈を謀反人の主犯に見立てて、追放した政変ドラマであった。
 その証拠には、当日の東京は、戒厳令発布と同様の状態であった。政府には、ものものしい警戒網が布かれ、東京鎮台司令官野津道貫に対しては、命令一過即刻出兵し得る態勢をとるよう指示されてあった。
 警視総監樺山資紀は、警部巡査をひきいて、先頭に立って指揮しながら、東京市内を警戒していた。誰の目にも、いまにも内乱でも起りそうな殺気立った空気であった。大隈も福沢も逮捕されるという風説が乱れとんだ。
 ・・・
 政府は、あわてて北海道開拓使庁払い下げを中止した。世論が、薩長藩閥の国有財産掠奪計画を粉砕したのである。その上、政府は、明治二十三年から国会を開設すると発表して、辛うじて国民の憤激をやわらげることができた。
 大隈は、内閣から追放されたが、実質上の勝負に勝ったといえる。しかも、皮肉なことに日本の憲法は、この大疑獄がきっかけになって生まれたのである。国会開設がこの汚職のバクロで早まったことは否定できない。それだけでも、北海道開拓使庁払い下げ事件は、歴史に消えない爪痕を残した。
 御前会議で天皇が、官有物払い下げ問題にふれて、
「あれで三十万円か?」
 と参議たちの顔を見廻し、
「払い下げを取り消せ!」
 といったということが伝えられている。とすると、大隈の有栖川の宮説得工作が成功したともいえる。
 五代友厚は、地団太踏んで口惜しがったが、彼はこの計画で巨財をつかみ、三井、三菱に並ぶ五代財閥をつくり上げるつもりだったという。
 ・・・以下略

資料2------------------------ーーーーーーーーーーーーーーーーーー-----------------ーーーー
                   第二部 団珍・驥尾は時代をどう風刺したか

 2 標的にされた黒田清隆

 夫人怪死事件

   〇大久保公(十七)
     ▲友誼に篤き公(一)       千坂高雅氏談

 ▲友情あつき公 今いふ通り大久保(注=利通)は公平無私な男であったが,又情誼には極めて厚かった。大久保が内務卿で居た頃開拓長官の黒田が女房を蹴ころしたといふ有名な事件があった、此の事件は天下の疑問となったもので、今でもまだ疑問に付せられて居るが、おれはその真相をちゃんと知って居る。此真相を知って居るものは、松平正直とおれと二人ぐらゐのものだが、あの天下を騒がした大疑問事件を大久保はタッタ一言で以てピーンと鎮めてしまった。これといふのが皆大久保の友情から出たものだ、事件の起りは黒田清隆が、夜半に女房を蹴ころしたのだ、何も蹴殺す気はなかったのだらうが、誤ってさういふ事になったのさ、おれの娘の光子といふのが、その殺された女房の妹と親友で、丁度年も同じだし、始終遊びに行ったり来たりして居た、その女房の妹が、その晩の夜半におれのとこへ泣込んで来たので、何事かと聞くと、

 

▲黒田が女房を殺した、といふのだ、泣きじゃくって居て、話が分からぬので直ぐ黒田の邸へかけつけて見ると万事分明になった、まったく蹴殺したものには間違ひが無い、何しろ黒田はヒドイ放蕩家で夜分なぞは殆んど毎晩のやうに出てあるいて、夜半でなければ帰って来ない、開拓使長官ではあったし、金にも不自由はしなかったものだから、新橋あたりに可愛い奴が沢山あった、始終酒と遊びに浸って居たのさ、そこへ持って来てお神の腹は大きくなって居るので、猶ほ更ら其頃は遊びは激しかったに違いない、それで黒田の帰ったのを見て何とか言ったのだらう、黒田は何をいふんだ位で寝て居たところへ、お神が蒼蠅(ツルサ)く云ふから大きな声で叱ったのをこりずまたクドクドとお神が何か言ったので、黒田は酒気に任して何だと怒鳴ったかと思うと、ドタンバタンと音がして女房はギャッと言って倒れた。

 

▲黒田青くなる 倒れたッきり女房は黙って居るから起して見ると、血を吐いて死んで居るので、黒田は青くなってしまった、此の細かしい始末はその黒田の女房の妹が、すっかりおれに話したから、おれが一番よく知って居る、おれが行って見ると、黒田は真ッ青になって居て、女房は蒲団の上で血を吐いて死んで居る、早速医者を呼びにやったが、すでに縡(コト)きれて居て手のつけやうがない、それから友人達を呼びにやって、後の始末を相談する事になった

 

   〇大久保公(十八)
     ▲友誼に篤き公(二)
 ▲世間の物議 そこで吉井友実が来る、外にも友人が来て、ともかくも始末をしなければ不可(イケナ)いといふので、医者を呼んで吐血して死んだといふ鑑定にさして診断書を書かした、そしてすぐそれを埋葬してしまった、大久保はその時留守であったが、騒ぎを聞いて帰って来た、黒田の家は麻布にあったが隣りや界隈の家に遠くない為に、この夜の騒ぎは近いところへすぐ知れる、それからそれと噂が広まって、大した騒ぎになった、天下の大臣が酒を飲み女を買って乱れ、剰(アマツ)さへ妻女を蹴殺すとは怪しからんといふので世間も八釜しい

 

▲遂に内閣会議 おれなどは盛に憤慨した連中で、遂には廟堂の内にも之れを不審としていろいろ議する人もある、そこで遂に内閣会議を開く事に決した、其時分は内閣の主な相談は大抵岩倉公の屋敷でしたもので、あそこは大臣参議連中に寄合所のやうになって居た、その日もやはり岩倉の邸で会議を開いた、議長の役目は三条公さ、そこで皆が盛んに黒田の非を譏(ソシ)った、今の大隈さんも来て居たさ、伊藤も居た、伊藤などは盛んに憤慨した連中の一人で、是非とも黒田の女房の死骸を発掘して事の真相を糺さなければ不可(イケナ)いといふのだ、おれなどもその説ではあったが、会議に列せられぬから、岩倉の邸に行って、会議の隣座敷から偸(ヌス)み聞きして居たものだ、松平正直と二人さ

 

▲司法大木は非認 スルと其の頃司法卿をして居た大木喬任は此の憤慨説に反対し、苟くも大臣の行動を法に照して訐(アバ)くといふはよくない、若し悪いと思ったら、自ら会って忠告するか、但しは友人が個人として取りしらべ、実際非行のあったものなら辞職させるなりなんなりしたらよかろう、大臣を捉へて私行を内閣で裁判するやうな先例を作ってはこまる、況んや大臣の妻女の屍骸を発掘するなどは政府の威信に関するといふ説だ、すると伊藤などは非常に激昂して喋る、随分烈しい議論が初まって却々(ナカナカ)結末がつかない

 

▲大久保の一言 ところが大久保は唯だ黙って居る、始めから居るか居らぬか分らぬ様だった、すると三条公は皆さんの意見は承はったが、内務卿は如何です、黙って居られるやうだが、御意見は如何ですと聞いたら、大久保は漸やく口を開いて『世間では大変八釜しいさうだが、私には疑がない、女房を殺した形跡は更にない、どういふ證據からおしらべなさる、私は全然不同意であるのみならず黒田は私と同郷のもので且つ親友ですから私は自分の身に引き受けて、そんな事のない事を保證します、此の大久保をお信じ下さるなら黒田をもお信じ下されたい』と、ピーンと一言やった、おれなどは憤慨党の一人で、どう大久保がいふかと実は内々拳を握って待って居たが、冷っとした、そして『ア、これはもう駄目だ』と思った。

 

▲群議慴服(ショウフク) 今まで猛り立って居た参議連中も今の大久保さんの一言で一遍に黙ってしまった、議論屋の伊藤もすっかり黙ってしまった、大久保が斯う出ては万事駄目さ、そこで三条公は『皆さん今の内務卿のお言葉に御疑惑は有ませんか』と言はれたが、ハゝゝゝ、皆が君疑惑は有りませんと言って頭を下げたよ、偉いもんだね、夫から自然と世の中の黒田に対する議論が鎮圧されてしまった、斯ういふことは善い事か悪い事かはおれは知らん、けれども大久保の友誼に厚かった事と、威望の大きかった事は分るだらう(つづく) 

資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

其事既ニ人口膾炙(カイシャ)シテ掩(オホ)フ可ラザル勢有ルニ至ッテハ 縦(タト)ヒ無根ノ風説ナルモ尚尚能(ヨ)ク其実際ヲ弾劾シテ其浮言流伝タルコトヲ世ニ証明シ 如(モ)シ果シテ其実アラシメバ直ニ之ヲ律ニ照シ刑ニ処シ政府ハ苟モ至公至正ニシテ人ノ為ニ法ヲ枉(マ)ゲザルコトヲ公示シ 以テ世ノ疑団ヲ解クベシ 豈隠秘シテ其朝ノ恥辱ヲ蔽フガ如キ拙劣アルベケンヤ 然ルヲ此ノ如キ大事ヲシテ其儘ニ置ク時ハ自然ニ人民ノ望ミヲ失ナヒ 後来其政府ノ大難事ヲ引出スノ端緒タラン乎 チト他人ノ疝気(センキ)ヲ憂フルニ似タレドモ当路ノ人夫レ之レヲ思ヘト生意気ニモ吾□色ヲ正フシテ云フ

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井上馨 藤田組贋札事件と相つぐ変死事件

2018年09月02日 | 国際・政治

 尾去沢鉱山事件や予算問題などで、当時の司法卿江藤新平との争いに敗れ大蔵省を去った井上馨が、藤田組贋札事件にも関わりがあるという話に驚きます。

 井上馨は、幕末に浪士・宇野東桜の斬殺に加担していますが、司馬遼太郎の暗殺者を主人公とする短編集 「幕末」(文春文庫)の「死んでも死なぬ」と題された文章の中に、公使館焼打ち事件に関わって、下記のような一節がありました。

当時、品川御殿山の景勝の地に、幕府は巨費をもって各国公使館を建築し、ほとんど竣工しようとしていた。
「あれを焼いてしまえ」
 と仲間に提唱したのは、長州攘夷派の領袖高杉晋作である。目的は、水戸藩、薩摩藩の過激分子と攘夷競争をしていた長州藩高杉一派が、競争諸藩の鼻をあかすことと、幕府を狼狽させ、その威信を失墜させるためのものだ。むろん、こういう挑(ハ)ねっかえりの若者は、この当時、長州藩でもまだ高杉以下十七、八人という小人数しかいない。この連中が、維新までの六年間、正気とは思えぬほどの暴走につぐ暴走をやってのけ、途中そのほとんどが死に、生き残った者が気づいたときには、維新回天の事業ができていた。
 聞多と俊輔は、こういう時代から、この仲間に入っていた。

 聞多(井上馨)も俊輔(伊藤博文)も、かつて ”正気とは思えぬほどの暴走につぐ暴走をやってのけ”た仲間です。
そうした暴走をくり返した尊王攘夷急進派の面々が、最終的に武力で幕府を倒して政権を手にしたため、彼らの暴走(蛮行)は何ら咎められることがなかったばかりでなく、彼らが明治新政府の要職を固め、活躍することになりました。それが、その後の日本をあやまらせることにつながったのだろう、と私は思っています。
 権力を手にすれば、過去がどうであろうと、自分たちのやりたい大きなことができるという井上らの成功体験が、尾去沢鉱山事件や藤田組贋札事件をはじめ、様々なその後の事件や戦争にも影響しているのではないかと思うのです。

 藤田組贋札事件は、関係者による隠蔽工作の結果でしょうが、多くの謎が残っています。でも、当時の人々は、感覚的に事件の核心を見抜いていたのではないかと思います。だから、きちんと疑いを晴らすことができなかったのではないかと思います。謎が残ったままであることが、事件の真実性を語っているのではないか、とさえ思います。

 事件の関係者はもちろんですが、誰もが受け入れ難い贋札事件の犯人として、明治の元勲、井上馨の名前が出てきては困る人たちも、隠蔽に加担したり、あるいは、ありもしない事実を勝手に想像して語ったりすることがあったでしょうし、今なお、あるのではないかと思います。したがって、事件に関わる事実については、慎重に判断して受け止める必要があると思います。
 
 藤田組贋札事件を摘発し、藤田伝三郎をはじめ、井上馨と関係の深い中野悟一を逮捕、投獄して、きびしい取調べをした大警視・川路利良は、”急死”ではなく、”病死である”という情報も、その出どころや状況がはっきりわからなければ、信用することができません。

 明治政府は、太政官札や藩札を新紙幣に統一するにあたって、はじめはドイツの印刷業者に紙幣の印刷を依頼し、その後ドイツから印刷設備一式と原版を輸入し、日本で印刷するようになったといいます。そうした新紙幣のニセ札が、真贋の鑑定が難しいほど精巧であったということですが、紙幣印刷の専門家ではない医師・熊坂長庵にそうしたニセ札の印刷が可能であったとは思えません。また、関西から九州一帯にかけて、二円紙幣のニセ札が大量に発見されたということも、個人の犯罪としては考えにくいと思います。あり得ないといっても過言ではないと思います。さらに、川路大警視がベルリンで精巧な紙幣贋造印刷機を発見したと報道された後に急死していることも、そのころベルリンを行き来していた井上馨の策謀を疑わせます。

 下記は「日本疑獄史」森川哲郎(三一書房)から抜粋しましたが、明治という時代をよりよく理解するためには、こうした犯罪的な汚職の事実も見逃してはならないと思います。不都合な事実をなかったことにすることは許されないと思います。 

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                       藤田組贋札事件
                           ーー相つぐ変死事件ー

 川路大警視は藩閥に消された?

 井上は、…尾去沢事件発生直後、例の大蔵省予算問題で江藤に敗れて、野に下ったが、それだけ汚職の黒い噂につつまれている中で、鉄面皮にも、大阪に出て、堂島で大きな買占め事件を起した。
 また、やはり大阪で、先収会社というものを創立開業して、大もうけをしている。これは子分の藤田伝三郎、木村正幹、富永冬樹、吉富簡一らを使って、大阪鎮台の請負をやらせたのである。井上の藩閥のボスとしての顔を大いに用いたのである。

 井上はやがて元老院議員に返り咲いたが、この時、会社は解散して、藤田組と改名した。やはり長州出身の藤田伝三郎と旧幕臣中野悟一が経営したのである。しかも、井上が黒幕で、背後からあやつって大もうけをしていた。
 たとえば、西南戦争のときなどは、井上のあっせんで、軍需品を政府に納入して、死の商人として、巨利を占めている。
 ところが、この悪のグループは、ついに尻尾を出した。これが贋札事件である。当時の社会をゆり動かした大事件である。連日、新聞に書き立てられた。主犯は、井上につながる藤田伝三郎で、大量のにせ札を作って、バラまいていた。その機械は、某国から仕入れたものとまで指摘して、疑いようのない事件として報道されたのである。

 それほど、当時の藤田組の繁昌ぶりは、目につくものがあり、単なる商取引だけの利潤かどうか、かげで何をしているのか、疑われたのである。
 ところが、ここに世にも不思議なことが起った。肝腎の事件追及の中心人物川路に突然洋行の命令が発せられたのである。しかも、川路は、その帰国の途中原因のわからないなぞの死をとげたのである。
 昔から、政治上の汚職事件のカギを握る人物が、事件追及中突如変死したり、急死したり、自殺と言われる死をとげたりすることは、いまと少しも変わりはない。
 山城屋事件も、山県につながる野村和助の切腹、三谷屋事件では、三谷三九郎の義兄の急死がある。この男が三井の返り証文を持っていたのだが、その行方は、この急死によって永久に不明になり、三谷屋の厖大な土地は、永久に三井のものになってしまった。
 今度は、藤田組贋札事件の鍵をにぎる川路大警視が、原因不明の急死をとげたのである。
 白昼の怪談は、政治権力者の黒い事件とともに続くのである。
 しかも、変死者は、川路大警視だけでなく、やはり事件の黒い鍵をにぎる中野悟一も、数年後猟銃自殺したと発表されたのである。
しかも、事件の結末は、藤田伝三郎は贋札犯人ではないということになっておさまってしまった。しかも、大正年間、藤田は男爵に進み巨財を作って、山県有朋の晩年、目白の椿山荘を買い取って、豪奢な暮らしは、世間の目を驚かせた。
 川路の急死は、いまでは藩閥と金権と密着したもみ消し工作に屈服しなかったための犠牲と見られている。

 

死の商人藤田・中野と長州閥のゆ着

 藤田伝三郎は、長州萩の豪商の息子であった。士族ではないが、幕末、高杉晋作の組織した奇兵隊に入隊した。
 明治維新後、三谷家にいたことがあるが、その後幕末の縁故をたよりに、長州閥のらつ腕家・木戸や井上馨に密着して、陸軍御用達になった。もちろん山県とも深い関係があったのである。だから、後に山県の椿山荘を買いとることになったのであろう。
 彼が、山県を利用して行ったことは、軍靴の一手納入であった。これは、実に巨大なもうけを伝三郎にもたらせた。数年で、大阪の高麗橋に宏壮な店をかまえる身分になった。後に軍服や糧食まで、陸軍に納入するようになった。
中野悟一は、藤田伝三郎と違って、旧幕臣である。剣の達人であったという。
 かつて伝三郎が眼病を患って失明しかけたとき、有馬温泉で湯治していたが、そのとき出あって同情し、ヘボン博士を紹介してくれたのが、中野であった。
 ヘボンが手術をして、藤田の目はなおったが、中野に感謝して、長州閥のボス木戸孝允や井上に引きあわせた。
 中野は、長州閥になりきるために、長州に籍を移し、山口県令にのし上がった。これで、彼は、名実ともに長州人になりきり、山口県令をやめた後、藤田とともに、井上の先収会社の経営者の一人となり、後は、その後身の藤田組の重役となって、巨利をむさぼった。
 井上が、堂島で、凄絶な米相場をはったとき、藤田、中野も加わっていたという。
 西南戦争の勃発は、彼らに死の商人として、巨利を与える絶好のチャンスになった。ことに都合のよいことは、山県有朋が、征討軍の軍監になったことである。
 山県は、一時、大阪の藤田軍を本拠として軍務を見たという一事からも、藤田組が、長州閥を足場にして、いかに深く陸軍に食い入っていたかが分かる。
 政府軍は、大阪を軍需品の調達基地にした。もちろん、藤田・中野に特権をあたえたのである。
 この戦役でのもうけ頭は、藤田組よりも規模が大きく、兵器だけでなく兵員輸送もおこなった三菱の岩崎弥太郎であったが、二位は藤田組で、そのもうけは、当時の金で数百万円といわれた。現在では、数百億円に当たろう。


 ニセ札事件の発覚

 しかし、それと同時に、ニセ札事件が発生したのである。事実藤田組のやったことなら、井上・山県らと組んでやったことであろうが、悪質この上ない事件である。
 西南戦争が終わらないうちに、関西から九州一帯にかけて、二円紙幣のニセ札が大量に発見されたのである。
 幕末からニセ札は、かなりの回数で出まわっていた。しかし、今度のは、それまでと違って、精巧きわまるもので、五百倍の顕微鏡で拡大しなければ分からないものであった。
 ことに、藤田組が、このニセ札を作った主犯と見られたのは、元藤田組支配人が告発したからである。木村真三郎という男で、西南戦争当時支配人をしていた男だから、当時の組の事情には、最も精通しているはずである。
 かれは、手記を書き上げ、実地録と名づけ、大阪府の判事補桑野札行へ訴え出たのである。
 その手記の中には、驚くべきことが書かれていた。それによると、ニセ札の犯人一味は、井上馨と藤田伝三郎、中野悟一らになっている。ニセ札は、独仏両国で作り、これを井上参議御用物として日本に送らせていた。木村自身輸入の函(ハコ)や反物の中に、青い紙幣様のものを見たというのだ。
 また、木村が長崎出張中、まだ世間に通用していない新紙幣数万円をとりあつかったことがある。
ところが、伝三郎の甥辰之助と手代の新山陽治から秘密を聞かされ他言しないようにと脅迫されて、誓約書を書かされたというのだ。この手記を眉つばだと現在もいう人がいるが、これだけ現実に即した詳細な手記を単なるフィクションでものにできるものだろうか?
 とにかく、これだけ精巧な技術は、当時の日本としては、望み得ベくもなかった。また、外国で製造してもちこむ場合、最も発見されないで流布できる確率は、取引のさかんな会社、いわば金銭の出入りの激しい店で使うことである。
 この告発にもとづき、明治十二年九月十五日未明、藤田邸は、三十数名の警官に急襲された。社長藤田伝三郎、重役中野悟一らは、もちろん逮捕拘引された。と、同時に徹底的に家宅捜索が行われた。
 これを聞いた山県、井上は激怒した。明確な証拠もあがらない段階で、名誉ある階級の人々を逮捕することは警視局の越権行為だとというのだ。
 ちょうど、このころ、外遊中の川路大警視が、ベルリンで精巧な紙幣贋造印刷機を発見したという報道が伝えられてきた。川路は、この事件追及に、突如警察制度とり調べのため外遊を命ぜられていたのである。しかし、川路は屈せずに、この機会を利用して独自の捜査を進めていたようである。


 疑われる井上の動き

 井上馨は、なぜかこれより少し前に、ベルリンにおもむき、帰国している。ニセ札取引の連絡に行ったのか、事件が日本で発覚したので、処理に行き、口封じをしてきたのか、証拠隠滅に行ったものか、いろいろな推測がされるが、いまもなぞの残る行為である。
 ところが、その川路大警視が、帰国の船中で急死したのである。当然、井上、藤田などの手がまわって、船中で毒殺されたのだという噂がひろまって、疑惑は、井上らの身辺に集中した。
 しかし、その後の追及では、すでに証拠が隠滅されていたのか、警視局に強力な圧力がかかったのか、三か月後に、藤田、中野ら全員は、証拠不十分で釈放されてしまった。
 と、同時に、告発者の木村は、偽証罪で告発された。しかも、川路の腹心で、川路が同事件を徹底的に追及せよと命じたという安藤中警視と佐藤権大警部は、上司の許可を得ないで、大阪に出張したことは不届きであるという理由で、馘首された。贋札事件もみ消しのための弾圧事件であり、復讐でもある。

 ・・・

 

 いけにえか? ニセ札犯人とされた男

 しかし、権力側も、このままで終わらせたのでは、あれだけ騒がれたニセ札事件を完全に葬ることはできない。
 ニセ札が大量に出まわったことは事実で消しようがない。そこで、この男がニセ札を作った真犯人だと一人の男を検挙した。
 医者である。神奈川県愛甲郡中津村に住む熊坂長庵という三十八歳の男であった。彼が、二千八百枚にもおよぶ、精巧きわまるニセ札を作ったというのだ。
 ニセ札作りは、古代から極刑である。彼も無期懲役の宣告を受けて、投獄された。
 当時まだ、鉄道も開通していない時代に、関西から九州にかけて、一時に流布された大量のニセ札を、この男は一人で作り、一人で使って歩いたのか、これも、世にもふしぎな白昼の怪談である。
 しかし、ニセ札問題での大騒ぎで、世人の目は、藤田組と山県・井上・伊藤らとの密着による不断の汚職に対する追及をごま化されてしまった。
 これは、現代もいえることなので、真犯人は誰か、真の黒幕は誰か、そして、事件の真の根元はどこにあるのかを常に追及する姿勢を我々は失ってはならないと思う。

 ・・・

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井上馨 尾去沢鉱山事件 

2018年08月28日 | 国際・政治

 古代中国に、戦略が成功する三条件として、「天時不如地利。地利不如人和(天ノ時ハ地ノ利ニ如カズ 地ノ利ハ人ノ和ニ如カズ)」という言葉があるといいます。いわゆる「天の時・地の利・人の和」です。

 大政奉還直前、将軍・徳川慶喜は、その言葉を引いて、「この三つはつねに相関関係があって、ひとつなくなると他のふたつもなくなるものだな」と苦笑した、と「大政奉還 と徳川慶喜の2000日」童門冬二(NHK出版)にありました。「天の時、すなわち運はすでに去った。地の利、すなわち条件もいま非常に厳しくなっている。人の和、すなわちよい補佐役や部下もどんどん減り、次第に孤立している」ということです。その、”補佐役や部下もどんどん減り”に関して、慶喜は黒川嘉兵衛に次のように語っています。

終始一貫してよくわたしを支えてくれた。多くの者が殺されてしまったが、おまえだけは生き残った。それだけに肩の荷が重かろう。が、もうしばらく助けてほしい
 黒川嘉兵衛が返した言葉は
お側にお仕えしておりました中根長十郎殿、平岡円四郎殿、原市之進殿がすべて兇剣に倒れたのちも、わたくしひとりおめおめと生き残っております。これはおそらく上様のお役に立たないために、生命を長らえていることかと存じます。かえって足手まといだと存じますが、このうえは嘉兵衛身命をなげうって最後までお側にいさせていただくつもりでおりますので、なにとぞお気を強くお持ちの上国難の収拾方をお願い申し上げます

 長州を中心とする尊王攘夷急進派のテロがいかに凄まじいものであったかがわかります。江戸攪乱工作では、幕府を助ける商人や諸藩の浪人、また尊王攘夷の活動の妨げになる幕府役人や学者、唐物を扱う商人その他も殺されたといいます。尊王攘夷をかかげて多くの人を殺害した討幕派は、政権を手にするとすぐ攘夷をすてて、開国政策を進めています。いったい何のための討幕であり、人殺しだったのでしょうか。
 下記の「尾去沢鉱山”官没”事件」は、「日本疑獄史」坂本藤良(中央経済社)から抜粋したものですが、野蛮な殺人をくりかえした人たちの集団が政権を手にした結果、起こるべくして起こった事件のように思えます。

 外遊から帰国とすると同時に、外遊中の山県の汚職(山城屋和助事件)や井上の汚職(尾去沢鉱山事件)のもみ消しに奔走し、山県や井上を政界に復活させた大久保や木戸、また、西郷を遣韓大使として派遣するという閣議決定を無視する意見を天皇に上奏し、勅許を得て、西郷や江藤など、長州閥に歯止めをかける立場の人たちをことごとく下野させた岩倉などが、明治の元勲として評価されていることは、問題ではないかと思います。その後の日本の暴走は、こうしたことの結果ではないかと思うからです。

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                        一 明治前期

2 尾去沢鉱山”官没”事件

 おかしな大蔵省の処置

 ・・・
 尾去沢事件は、こうした政治状況のなかでおこったのである。
 新政府は外国とのトラブルを極端に恐れた。条約改正にひびくからである。そこで外人に対する負債は政府が肩代わりをして支払うこととし、そのかわり、藩所有の債権を政府のものとして取り立てることにした。
 新政府が南部藩の文書を調べていると、藩はイギリス商人オールトから十一万五千二百八十六ドルを借りており、その金は村井茂兵衛が運用していたように見える証文があらわれた。そこで、新政府は村井にその返済を要求した。
 しかし、実際は、村井は藩に債務があるわけではなかったのである。
 南部藩が官軍に敗れて、七十万両を朝廷に献金するように新政府から要求されたとき、藩はその調達に苦しみ、村井に相談した。村井は、オールトら外国商人との取引があったので、外債を募ることをあっせんし、契約とりつけに成功した。ただし、この外債は、もし違約したときは二万五千両の違約金を払う、という条件つきであった。
 ところが、藩は、どたん場になって、外国商人から借りることをためらい、ついに拒絶の決定をするにいたった。困ったのは、あいだに立って斡旋した村井である。違約金二万五千両を一時立てかえてオールトに支払った。後になって、南部藩はこの金を村井に返済した。その返済のときの書付けにつぎのように記されていた。

「一金 二万五千両 奉内借候(ナイシャクタテマツリソウロウ)
                   村井茂兵衛」

 南部藩の慣習で、藩から商人に下げ渡した金には、つねに「奉内借」と書くのがきまりであった。これを、新政府(大蔵省)は、村井の藩に対する債務とかんちがいしたのである。
 それだけではなかった。大蔵省は、幕末に南部藩が村井に鉱山の採掘権を与えたその特権に対する上納金が未だ藩に納められていないではないか、と言い、村井に上納を迫った。
 『世外井上公伝』(「世外」というのは井上馨の号である)第二巻によると、大蔵省は、結局、村井から藩に上納すべき債務残高が四千六百両余、特権に対する分限金が三万一千四百両、と査定し、これを村井から徴収しようとしたのである。
 『世外井上公伝』は、井上馨の立場から書かれているので、そのまま信用はできないが、これが大蔵省の主張であった、ということはわかる。
 村井は、当時経営不振のため、このような巨額な上納金要求には応じられないと、大蔵省の査定に抗弁した。そこで、政府は村井の家産一切を差押えた。窮地に立った村井は、鉱山および付属の設備等の原価での買上げを懇願した。しかし大蔵省はこれを認めなかった。そこで村井は、せめて年賦上納させてほしい、その間、鉱山採掘をつづけさせてほしいと、返済計画書をつくって懇願した。大蔵省はそれも許可しなかった。
 そして、岡田平蔵という男が五万五千余円でこの鉱山の引き請けを願い出ると、さっさとこれを許可した。そのために村井から鉱山を返上させ、それとひきかえに村井に対する差押えを解除した、というのである。
 村井はふんだりけったりのあげく、鉱山を強引にとりあげられてしまったのである。
 鉱山をかわりに経営することになったのが、”鼻欠けの平蔵”こと岡田平蔵。

 鼻欠けの平蔵

 村井は泣く泣く酒田の裁判所に訴えた。だが、あえなく敗訴してしまった。
 地方の裁判所はまだ江藤ら司法省の直接支配下になく、各府県知事の管轄下にあった。したがって、当然、井上らの圧力がかかった、と見てよい。
 裁判まで政治の派閥に左右され、不法がまかりとおるのであった。もはや中央政府に訴えるしかない。村井は、堀松之助を代言人として、中央の司法省に訴えた。それは、江藤新平が辞表を出して却下された明治六年二月のことであった。
 それは、司法権の独立を主張する江藤と、財源難を理由にこれを押さえようとする井上との、激烈な闘争のまっ最中であった。
 村井の訴えを調べて、江藤は、おどろいた。
 井上、山県ら、長州派の政治家は、西郷、板垣、江藤らに比較すると、利権漁りに巧みであった。三井組、山城屋、三谷家、藤田組といった豪商、政商と結びついて、彼らに利権を与えるかわりに、甘い汁を吸っていた。西郷、板垣、江藤らは、井上、山県に比較すると、クリーンであった。
 何とかして、井上らの尻尾をつかまえてやろう、と司法をにぎる江藤は虎視眈々と狙っていたにちがいない。その機会が向こうからやってきた。
 尾去沢鉱山の払下げを受けた岡田平蔵とは、井上の子分である。こんなひどい汚職はない。
 平蔵は梅毒のせいか鼻が欠けていたため”鼻欠けの平蔵”などと呼ばれていたが、きわめて有能な商人だった。横浜での外国貿易で大儲けをした。また井上が造幣頭(ゾウヘイノカミ)を兼務している時、造幣寮に古金銀を分析して納入する仕事を、五代友厚とともにやって儲けた。益田孝(三井物産の初代社長)を井上に紹介したのも、この岡田である。生きながらえたら、相当な財閥をつくったであろう。

 後の話になるが、井上が江藤との争いに敗れ、辞表を出して大蔵大輔をやめたときは、岡田が出資して「岡田組」という会社をつくり、井上を総裁、益田孝を頭取にした。しかし、二ヶ月後、岡田が急死したので、井上自身が社長になり、「先収会社」として再出発した。これがのちに三井物産になるのである。だから、三井物産は、井上、岡田、益田と、そして三井の大番頭、三野村利左衛門と、この四人の合作と言ってもいい。井上と岡田とは、そういう親密な間柄なのであった。
 
 話を戻すと、村井から尾去沢鉱山を没収した(つまり”官没”した)直接の担当者は、大蔵省の川村選(セン)であった。判理局の十等出仕の役人である。
 川村は、村井から”官没”しておいて、他方で、岡田への払下げの稟議書を書いた。

 「岡田平蔵、尾去沢鉱山引受願ノ儀ニ付見取調伺」

 というのである。岡田に二十年年賦で払下げようという案である。それはただちに承認され、尾去沢銅山は岡田のものとなった。
 承認の印を押したのは、大蔵大輔・井上馨であった。

 罪状明白
 ここで、ひとりの硬骨漢が登場する。島本仲道という男である。
 司法大丞(タイジョウ)兼大検事警保頭(ケイホノカミ)というポストがあった。江藤は島本の硬骨ぶりにほれこんでいた。そこで、尾去沢鉱山をめぐる井上の汚職の疑いを徹底して調べろと命令する。
 その報告書が提出された。要旨つぎのようである。

一、盛岡藩大属(ダイゾク)の川井某が、廃藩置県のときに、藩の財産を大蔵省にひき渡すにあたって、村井が提出した受取証に「奉内借」とあるのを、貸付金であると虚偽の申し立てをして、取り立てようとした。ところが、村井の証明によって、それが虚偽であることが明白になったにもかかわらず、大蔵省は、その事実を見て見ぬふりして依然として村井に返納をせまっている。

二、村井が五万五千円の責任があるというが、村井が借入れた金銭などというものは全く存在しない。それにもかかわらず村井の財産を差押えるのは全くの圧制によるものである。大蔵省は盛岡藩の財産をうけついだが、同藩には有名な大森林がある。そのほかの財産も少くなくない。それに手をつければ、藩の債務は解決できるのに、村井の財産を差押えるなどとは全く不当である。

三、大蔵省はこうして不当に没収した鉱山を、全く公売の手続きもせず、山口県人(長州人)岡田某に払下げている。この岡田という人物は、大蔵大輔・井上馨の近親者である。村井が申し出た五ヵ年年賦をとりあげずに、岡田には二十年年賦を許したのは、全く私交私情から出たもので、両者の間に醜関係が存在することは明らかである。

 もはや大蔵大輔・井上馨の罪状は明白であった。

 指揮権発動

 江藤はこれだけの事実がそろえば、たとえ大蔵大輔といえども拘引できる、と思った。
 しかも、前述のように、大物は外遊中である。チャンスである。
 だが、太政官会議にはかると、「井上は維新の功労者のひとりであるから」というのでなかなか拘引を承認しようとしない。太政大臣三条実美には、そういうところがあった。
 江藤は切歯扼腕(セッシヤクワン)した。
 そのうちに、予算問題はますますこじれた。大勢は江藤の側にかたむいた。井上とその部下の渋沢栄一は辞表を提出すると同時に、連名で「建白書」を提出した。この「建白書」は秘密文書だったが、『曙新聞』に全文掲載された。マスコミのスクープだったが、このことから、政府部内の井上、渋沢への批判は強まった。
 かくて明治六年五月二十三日、ついに井上、渋沢の辞表は受付けられ、依願免官の辞令が下った。
二人はそろって大蔵省を去った。

 同時に、江藤は告発により尾去沢事件は、司法裁判所の手にうつった。
 江藤は事件の担当者として、これも敏腕で知られた河野敏鎌、小畑美稲、大島貞敏を任命し、思い切ってびしびしと取り調べをすすめさせた。
 井上は表面上は平気であった。野に下ると、岡田のつくった岡田組の大親分格として岡田平蔵、益田孝、馬越恭平をひきつれて、明治六年八月二十九日、こともあろうに尾去沢鉱山を視察し、江藤らに明らさまに挑戦したのであった。
 鉱山の入り口には、自ら筆をとって、
「従四位井上馨所有」
という高札を立てた(のちに、井上は法廷で、自分が立替たことは否定している。もし井上の証言が事実だとすれば、岡田がデモンストレーションの目的で書いたのかもしれない)
 他方江藤は執念を燃やして汚職をあばこうとしていた。井上の政治生命は風前の灯火であった。
 そこへ、事情を知って、外遊中の巨頭、大久保、木戸が急拠帰国する。
 彼ら文人派は、留守中に、西郷が約束をやぶって江藤を司法卿に起用したことに激怒する。
 とくに、大久保は、かつて自分が眼をかけた江藤が、裏切って西郷に組したばかりでなく、井上や山県を苦境に追い込み、ついに辞任させ、さらに汚職事件で追及していこうとしていることに激怒した。
 大久保、木戸らは、一種の指揮権を発動して井上に対する取調べを停止させ、他方、高度に政治的な手をつぎつぎに打っていく。
 明治六年十月、大隈重信を大蔵卿に任じ、大久保自身が内務卿になり、留守中に跋扈した武人派をおさえる強力な陣容をととのえたのである。

 征韓論の対立

 大久保、木戸は、帰国と同時に、留守中の山県の汚職(山城屋和助事件)、井上の汚職(尾去沢鉱山事件)のもみ消しに奔走した。そしてこのとき、彼らにとってまことに幸いなことに、汚職問題の影を薄れさせる、大問題が発生したのである。
 それは征韓論をめぐる政界の対立であった。
 木戸は、豹変した。かれはかつて積極的な征韓論者だった。それが帰国後は積極的なアンチ征韓論に変わり、大久保とともに、西郷、板垣ら武人派を追いつめていったのである。
 征韓論。それはすでに幕末におこっていた議論である。欧米列強に対抗する外交政策として、吉田松陰、橋本左内、勝海舟らが主張していた。維新後は、木戸孝允が中央集権の強化をねらって主張していた。木戸は、それによって士族らの不満をそらし、政治を一大改革するきっかけにしようとしたのであった。
 ところが、岩倉、大久保、木戸らの外遊中に、事態が進行した。同じ征韓論でも、板垣と西郷は少しちがっていた。板垣は盛んに朝鮮出兵を主張した。それをおさえるために西郷は、自ら使節の役を買ってでた。自分の政治生命を遣韓大使として問題を解決することに見出したのである。
 太政大臣・三条実美もこれに賛成し、明治六年八月十七日の閣議でそれが決定した。
 そこへ、大久保、木戸らが帰ってきた。もし、この案が成功せれば、西郷の声望が高まり、大久保、木戸の出る幕はなくなる。ここにいたって、外遊派は結束し、西郷の派遣阻止に全力を傾けた。木戸も180度意見を変えて、岩倉、大久保の側についた。大久保、木戸は、いまは国力を培養し、内治を整備するときである。外に対して武力など振うべきではない、と主張した。
 西郷は、閣議決定を早く天皇に上奏していただきたいと、三条太政大臣にせきたてた。他方、大久保はらは、もしそうしたら、自分は辞職し位階も返上すると三条に圧力をかけた。
 三条実美は、どうしていいかわからなくなり、錯乱して病気になってしまった。
 大久保は太政大臣の職務代行に岩倉が任命されるように工作し、成功した。岩倉は閣議決定を無視して、自分は征韓に反対であり、西郷の使節にも反対であるという意見を天皇に奏上した。天皇は、岩倉の意見を容れて勅許を下した。
 
 逆転敗北した征韓論者は、岩倉に対して不満を持ち、これに抗議して一斉に辞表を出し、野に下った。明治六年十月であった。
 西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣の五参議。
 陸軍部内で山県の汚職摘発に活躍した陸軍少将・桐野利秋、篠原国幹たち。
 司法省内で井上の汚職摘発に敏腕を振った島本仲道、河野敏鎌、小畑美稲たち。
 彼らはすべて辞任したのである。
 こうして政権は、完全に文治派(今は外遊派でもある)の掌握するところとなった。
 今にして思えば、帰国した木戸が、本来の政務をほったらかして汚職のもみ消しにとびまわっただけでなく、反征韓論者へと180度転換した真の理由は、長州派の救済にあったのかもしれない。征韓論の対立そのものが、汚職から世人の眼をそらし、さらに、あわよくば粛正派=武人派を政界から追放するための、意識的な高等政治戦略であったともみられるのである。
 汚職事件は、しばしば政治構造そのものを変える起爆剤となるものだが、山城屋事件、尾去沢事件もまたその役割を果たしたのであった。

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コメント

山県有朋 山城屋和助事件と三谷三九郎事件

2018年08月20日 | 国際・政治

 今は亡き私の父母は、先の大戦で塗炭の苦しみを味わい、事あるごとに、「戦争だけはやってはいけない」とくり返しておりました。また、戦争を体験した人の同じ様な言葉を何度も耳にしてきました。だから、その戦争がどういうものであったのかを理解しようと、いろいろ学んでいるうちに、日本軍には、あきれるばかりの人命軽視や人権無視があったこと、また、現在の常識では考えられないほど理不尽で、不当な作戦や命令があったことを知りました。満州、731部隊、南京、従軍慰安婦、…。そして、なぜ、あれほど酷い戦争が行われることになったのか、と疑問に思いながら学んでいるうちに、少しずつ歴史を遡るかたちで、幕末や明治の歴史に関する書籍も読むようになりました。そして、先の大戦における人命軽視や人権無視は、そのころからのものではないかと考えさせられています。

 徳川慶喜が大政を奉還した日に、薩摩藩と長州藩に「討幕の密勅」が下されていますが、理解できません。当時徳川慶喜は、幕藩体制の行き詰まりを認識し、海外の情報をもとに、公議政体を想定して大政を奉還したといいます。にもかかわらず、「討幕」というのは、どういうことなのか、と思うのです。「討幕の密勅」は「偽勅」であると考えられる理由がいろいろあるようですが、私も、総合的に考えると、岩倉具視などの公卿の一部や長州の尊王攘夷急進派などによって画策された「偽勅」だろうと思います。
 そして、日本が一致して幕政を改革し、外圧に備えるべき時に、討幕という権力奪取の戦いに注力したのは、日本の将来を考えたからではなく、権力を私しようとしたからではないかと思うのです。

 長州藩は、攘夷を実行するとして、文久3年5月10日(1863年6月25日)に単独でイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国の艦隊を砲撃していますが、オランダは鎖国時代から江戸幕府との長い友好関係があり、長崎奉行の許可証も受領していました。
 そのオランダ艦隊も砲撃をした長州藩。
 国際世論に耳を傾けず、国際法に違反するかたちで真珠湾を奇襲攻撃した日本軍。
 手痛い報復を受け、はじめてその力の差に気づき、ほぼすべての要求を受け入れた長州藩。
 工業力の差はおよそ二十倍、石油生産量や航空機製造能力は、それを上回るといわれた国力差を無視して真珠湾を攻撃し、日本滅亡が現実のものになるかもしれないところまで戦った日本軍。以後、不当なアメリカの要求を拒否しない日本の政府。
 同質ではないかと思います。
 だから私は、尊王攘夷急進派が討幕によって政権を手にした結果、こうした支持や合意のない無謀な戦争を、一方的に始める日本になったのではないかと考えてしまいます。そして、その戦争が何をもたらすのかは、ほとんど考えていなかったのではないかと思います。歴史を偽ったり、不都合な事実を隠蔽する体質も、明治維新以来続いてきたのではないかと思います。

 尊王攘夷を掲げた野蛮な暗殺や「異人斬り」の問題、「孝明天皇毒殺」や討幕のための「偽勅」、戊辰戦争時の「偽錦旗」の問題、さらには、幕府を挑発するため相楽総三に江戸攪乱を命じておきながら、都合が悪くなると、相楽たち赤報隊は官軍の名を利用して略奪行為を行った 「偽官軍」であるとして処刑するに至った問題、また、上記の無謀な長州藩単独の四国艦隊砲撃事件とその後の極端な方針転換、そして方針転換と矛盾する「討幕」の戦いなどが、今に通じる歴史の事実ではないかと思っているのですが、それらに加えるべき事実が、「江藤新平と明治維新」鈴木鶴子氏(朝日新聞社)に書かれていました。
 「日本軍閥の祖」といわれ、「元老中の元老」として、日本の政官界に大きな影響力をもったという山県有朋(長州藩士)の公金流用に関する問題です。薩長を中心とする
明治新政府の体質を物語る事件ではないかと思います。

 「江藤新平と明治維新」鈴木鶴子氏(朝日新聞社)のあとがきには、下記のような一節がありました。
”・・・
 書き進むにつれて、戦後の民主主義の時代にもかかわらず、薩長藩閥政府によって歪められた維新の歴史が、そのまま今日も史家の間に踏襲されているのではないか、という疑問がいよいよ深まった。一例をあげれば、薩長とくに長州出身者によるひどい汚職などには言及することなく、司法卿として、それを摘発した新平を、逆に非難している論述が多く見られる。権力を握った政治家の汚職は、傷にはならないというのだろうか。これには裏になにかがある、と思わざるを得なかった
 ・・・”

  私も、明治維新以後の日本が、歴史の事実をきちんと明らかにせず、不都合な事実を隠蔽して、歴史を創作してきたきた問題があり、それが現在も続いているように思います。

 平成28年11月4日、政府は、
明治150年をきっかけとして、明治以降の歩みを次世代に遺すことや、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは、大変重要なことです。
 このため、「明治150年」に向けた関連施策を推進することとなりました。
と発表し、以後様々な施策を推進しているようです。やはり、”薩長藩閥政府によって歪められた維新の歴史が…”まさに「正論」として語られ、現政権に引き継がれているからだと思います。

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                       四章 民権を守る政治家

 山県の公金流用を摘発

 ・・・
 岩倉使節団一行を横浜まで見送った留守内閣の送別の宴で、西郷が井上に「三井の番頭さん、一杯」と盃をつきつけたのは有名な話である。それほどまでに井上馨と財閥との癒着は、目に余るものがあった。

 岩倉使節団の監視の役を帯びて、大久保、伊藤とともにアメリカ経由で、イギリス駐在大弁務使として着任した外務大輔寺島宗則から、副島外務卿のもとに届いた一通の手紙が、ことの発端であった。
「日本の紳士にして野村三千三なるもの、多く世人の知らざる所なるに、当地に於ける豪遊は目覚ましきものなり。有名な巴里の旅館に宿泊し、屢ば(シバシバ)劇場に遊んで一流の女優に戯れ、又競馬に万金を一擲して破れ、近日は巴里一富豪の金髪美人と婚約を結ぶとの噂あり。彼が巴里に来着してより、費消したる金額すでに数十万円に達せるは事実なり」
 巴里在住の公使館中弁務使鮫島尚信も、同様の手紙を日本の友人に寄せていた。

野村三千三はそのとき山城屋和助と称する陸軍省の御用商人で、長州の出身、奇兵隊の隊長をつとめたことがあり山県陸軍大輔とは古くからの友人であった。戊辰の役では北越に転職して軍功があったが、維新後、商人となり山城屋和助と名乗り、横浜に店を持った。そのとき山県は兵部大輔であったので、同郷のよしみで兵部省の御用商人となることができた。山城屋は兵器の輸入とともに、文明開化に伴う百貨を輸入し、そのみかえりとして国産の生糸を輸出することを考えた。そして山県にそのための資金を兵部省から出資することを依頼した。山県は、兵部省会計局長木梨精一郎と相談し、山城屋の言うままに五十万円の大金を貸し与えた。それほどに長州閥に属する兵部省には金があったのだろう。

 一躍巨額の大資本を持つようになった山城屋は、商店を拡張し、あらゆる軍需品を兵部省に納め、それだけでも巨万の利益を得るようになった。一方潤沢な資本をもって各県の生糸を買い集め、諸外国の商館と取引契約を結んで盛んに輸出した。兵部省の長州系の官吏は、山城屋が巨額の官金を借りていることをよいことに、山城屋から無証文で金を借り出しては遊興にふける者もあるといったありさまで、山城屋がそのために支出した金額も少なくなかった。

 ところが、ヨーロッパでは普仏戦争の影響から生糸が暴落した。その間の、野村の兵部省からの借金は六十四万九千円(一説では八十万円)になっていた。この金額がいかに多額であったかは、明治四年十月から五年十一月までの十四ケ月間の政府の経常歳入が二千四百四十二万円であり、明治四年の陸軍費八百万円、海軍費五十万円、臨時軍事費二十五万円というのと比べてもわかる。
 山城屋はこの失敗を取りかえすため、自らが海外へ行って直接商取引をする、と横浜を出帆してヨーロッパに向かった。そのあげくの巴里での豪遊であった。金はせべて兵部省、そのときは陸、海二省にわかれていたから、陸軍省から出ていたのである。

 陸軍省の会計局長木梨精一郎の下にいた、陸軍少佐種田政明という薩摩出身の会計官が、それを調べあげて、同郷の陸軍少将、桐野利秋に詳細に告げた。薩摩隼人気質を代表したような桐野はそれに怒り、兵を出して山城屋商店を包囲しようという騒ぎになった。
 外務卿副島から、山城屋こと野村三千三が出途不明の大金を蕩尽していることを聞き、山城屋の商況と陸軍省との連携について調べを進めていた新平は、桐野が兵を出そうとしているのを聞くと「司法権を無視し、軍人の職権を乱用するもの」として、西郷参議のもとに使者をはしらせて阻止したうえで、司法大丞島本仲道に公然と陸軍省の会計の調査を命じたのである。
 山県は山城屋を急ぎ呼びもどして、融通した官金の返納を迫った。山城屋は、ただちに返金することは出来ないが、ヨーロッパで取引した商品が着けば、必ず返金するから、と一時を糊塗するために空手形を出した。山県は木梨と相談した上で、これを承諾し、薩摩隼人の追及に対しては「返納済みなり」と答えたので、商取引に無知な軍人たちはなすことなく引きさがった。しかし司法省は破産に瀕している山城屋がそのような大金を返済することができるはずがない、と調べを進めると、空手形であることが忽ち露見した。そこで新平は司法卿の職権をもって、陸軍省の会計全部の調査を決定した。
 山県からの急使によってそれを知った山城屋は、かねての覚悟によって事件に関する帳簿と、長州派軍人への貸金の証文類一切を焼き捨て、陸軍省の応接室で切腹自殺をとげた。
 薩摩派の軍人はそれに飽き足らず、山県をはじめとする長州派を非難攻撃し、山県は辞表を出すという事態に発展した。そのころ陸軍大将である西郷隆盛は、明治天皇の西日本(伊勢、関西、九州)御巡幸に供奉して鹿児島に帰っていた。

 
 天皇御巡幸の目的は、廃藩を行ったばかりの政府の威光を内外に示し、天皇の権威と仁徳を国民に印象づけるためであったが、一方では、鹿児島に引きこもって政府の召命に応じようとしない薩摩藩主の父島津久光を慰撫するためでもあった。久光の態度は保守派の反政府運動の拠り所ともなりかねないため、旧臣の西郷や大久保の悩みの種となっていた。
 六月二十二日、各地の訪問を終えて鹿児島に着いた天皇は、早速久光と会見した。ところが久光は政府の開化政策を猛烈に非難攻撃し、西郷や大久保の免職まで直言するありさまであった。そこへ三条太政大臣から山県の辞職、近衛兵の騒ぎが報じられ、西郷は急遽帰京することになった。

 西郷はもともと政界と財閥の癒着をにがにがしく思ってはいたが、天皇が保守的な鹿児島におられる時ではあり、みずから山県にかわって近衛都督の職につき、桐野利秋以下薩摩出身の近衛士官の山県攻撃を中止させた。
 山県は、明治二年に渡欧し、兵制を調査研究し、三年八月に帰国すると大村益次郎没後の軍政を担当し、兵制をフランス式に統一するなど、軍政の長官としては、他の追随を許さない能力を持っていたからである。
 西郷の配慮によって事なきを得たので、以来山県は西郷隆盛に深く恩義を感じた。西郷が西南戦争で死亡したのち、元勲となった山県が、西郷の遺族に伯爵を授与することを決定したのも、それがためである。

 当時の山県と陸軍省御用商人との醜関係は、山城屋だけではなかった。山城屋についで起こった陸軍御用の三谷三九郎の破産事件にも、山県は深い関係を持っていたのである。
 三谷は十二代を数えた江戸の富豪で、代々両替商として金銀のみを取り扱う家柄であった。慶応年間に、長州から預かっていた三千三百両を、幕府の長州征伐のときに取りあげられたことがある。戊辰三月、東征軍が江戸にはいると、そのことを咎められて斬首になるところを、長州藩士である野村三千三(山城屋和助)の手引きで、あやうく逃亡することができた。そののち三千三百両を返納し、そのうえに五千両の献金、三万両の御用金の献金などによって大総督府の御用達となり、引き続き陸軍省の用達となることができたのである。
 三谷は、山城屋同様に巨額の金を陸軍省から借り出し、その勢いは三井、小野をも凌ぐほどであった。三谷はその金を自邸に置かず和田倉門内の旧会津邸にある金蔵に納め、鍵は三谷の手代が持っていて、陸軍省監督長である船越衛の監督のもとに開閉していた。
 山城屋事件が起こり、船越が金蔵の現在高を調べると三十万円の大金が不足していた。これは鍵を預かっていた三谷の手代渡辺弥七らが、油の相場に失敗し、金蔵の金を使い込んでいたのであった。三谷は驚いて、横浜の外国商人から十万円を借りて一時の急をつくろったが、遂に東京市中にある五十余カ所の三谷家の地所を抵当として陸軍省に提出し、破産のやむなきに至った。

 奇怪なことに、新平が翌六年司法省を去り大木喬任が後任になると、陸軍省では山県、船越が、大蔵省においては井上、渋沢が謀議し、三谷所有の地所五十カ所の代金として五万円を三井が支払い、三井が代わって陸軍御用商となると、大蔵省より三十万円、陸軍省より三十万円合わせて六十万円を十ヵ年無利息で三井に下げ渡したのである。

 井上と三井との関係は、西郷をして「三井の番頭さん」といわしめたほどであって、明治四年末から五年にかけて、政府は内国公債として大蔵省証券六百八十万円と北海道開拓使兌換証券二百五十万円を発行したが、このとき発行業務をすべて三井組に請け負わせ、井上は総額の二割、すなわち二百万円以上の公債を三井組に与えた。そのことに非難の声があがると、井上は三井組に与えた公債の代金を大蔵省に納めさせ、そのかわりとして高い利子を払うことにした。この種の三井に対する特典は、井上大蔵大輔とその片腕である渋沢栄一によって、以前から行われていた。当然何らかの見かえりがあってのことであろう。
 後年、三谷家の奥で娘分の扱いであった”まさ”からの聞き書きによると、三谷の破産の裏には、山県をはじめ陸軍の士官が、砂糖にたかる蟻のようにむらがって食い荒らした事実があることが、はしなくも描かれている。
 三谷の今戸の寮は、陸軍省御用のために建てられた料亭のような大構えで、五十畳敷きの座敷には絨毯が敷きつめられているといった贅沢な建物であったという。そこへ毎週土曜から日曜日にかけて山県は子分を引き連れて泊りがけで豪遊する、堀の芸妓衆はみな寮のお客の相手をさせられた。山県はひいきの芸妓の一人から百五十円を無心されると「よしよし、三谷から借りよ」と鶴の一声で、もちろん貸し下されだった。

 山県卿の奥方と木戸卿の奥方ーー京の芸者幾松あらため松子夫人ーーが来たときには、当時評判の田之助一座を寮に招いて芝居をさせた。歌舞伎の名優田之助は脱疽にかかって、両脚をヘボン博士の手術で切断したが、その後は、狂言作者黙阿弥にせがんで、座ってでもできる狂言を作ってもらい、出演したのが『国性爺』の錦祥女であった。両脚切断というショッキングな出来事のあと、再び舞台へ出たというので大評判となり、大入り、大当たりとなっていた。その舞台を、そっくり三谷の今戸の寮に移して、田之助に錦祥女をさせ、堀の芸者多数が花をそえて、二人の奥方に観劇させたのである。
 花柳界で遊べば人目にたつが、御用商人に大金を貸し出し、陰で官金を湯水の如く使っていたのであった。山城屋はともかくとして、十二代も続いた三谷は破産に追いこまれ、あげくのはてに、三井に取って替わられたのである。
 
 司法省は、三谷の破産事件に対しても陸軍省の不正貸付の疑いをもって調査を始めた。その追及に、陸軍省会計監督長の船越が、山県の身代わりに山城屋、三谷への公金貸付の責任を負って辞職し、閉門九十八日の処罰を受けた。罪を免れた山県は、船越が代わって罪を引き受けてくれたことを恩にきて、次女を船越の長男と結婚させている。翌年新平が明治六年政変で政府を去ると、大久保利通は新設した内務省の戸籍権頭に船越を抜擢し、その後船越は各県知事を歴任したのち、男爵、貴族院議員、宮中顧問官へと出世したのは山県の引きたてであった。その反面、山県の不正を告発した種田は熊本鎮台に左遷され、九年の神風連の乱で非業の死を遂げた。
 
 心ならずも山県の不正事件を収拾した西郷には、ちょうどその時期が天皇巡幸と重なったこと、近衛兵(薩、長、土出身の士族軍隊)を無疵で全員復員させたいという考えがその底にあった。西郷を士族のリーダーとして保守反動と見る考えもあるが、このときの西郷は徴兵制に賛成し、士族の秩禄処分(それまで政府が藩庁から肩がわりしていた家禄を買い上げて消却させること)の遂行に熱心であった。大久保にあてた五年二月十五日付の手紙に、秩禄処分の資本にするためにアメリカで三千万円の外債の募集案をたて、大蔵少輔吉田清成を派遣したと報告し、「此の機会を失うべからず、両全の良法」と自信をもってしたためている。

 一方これまで徴兵制の実施は、山県の功績とみられていて、長州藩の奇兵隊の体験から国民皆兵を主導したとされているが、山県ら陸軍省首脳は、実は士族中心の軍隊を計画していた。彼らは新しい国軍の計画書である「四民論」と題する文書を正院に提出した。それによると徴兵の対象を戸主以外の士族と卒、手作りの地主と上層の自作農の次、三男と限定し、それ以外の階層からは代人料として金銭を徴収するという意見であった。
 それに反対したのは左院であった。江藤副議長が去ったあとも、新平が残した法治的理想主義、民権尊重の精神が漲っていた。左院は、陸軍省の、身分によって服役に差を設ける案は四民平等の精神に反すると反対し、「一朝軽易ニ之ヲ議定スベキニ非ズ」と慎重審議を要求した。
 山城屋和助事件によって、薩摩、土佐系の士官から追いつめられていた山県にその余裕はない。一刻も早く近衛兵を解隊させて、反長州派の勢力を打ち砕くためには、早急な徴兵制施行以外に道はなく、山県は士族中心の軍隊の構想を放棄したのである。
 徴兵の「詔」に「苟(イヤシク)も国あれば則(スナワ)ち兵備あり、兵備あれば則ち人々其役に就かざるを得ず……全国四民男児二十歳に至るものは尽(コトゴト)く兵籍に編入し、以て緩急の用に備ふべし」との国民皆兵の原則が、政府の告諭として発令された。明治五年十一月二十八日である。その翌日に山城屋は陸軍省の応接室で自殺した。「詔」、「告諭」と同時に発令すべき「徴兵令」は、翌六年一月十日に出された。当時の状況は、徴兵制によって安価にして大量の軍事力を動員する必要などなかったし、財政的にも無理があったにもかかわらず、これほど急いで決定した裏には、山城屋事件とのかかわりも考えざるを得ない。

 明治五年十一月二十八日、司法省から「司法省達第四十六号」が発布された。それは奇しくも国民皆兵の詔、告諭が出されたのと同じ日であった。
 此の達こそ、新平の人権擁護の精神から発せられた画期的な法律であった。その内容は、「地方官の専横や怠慢によって、人民の権利が侵害されたとき、人民は裁判所に出訴して救済を求めることができる」という思い切ったもので、それは全六箇条、簡明にして具体的なものである。
(一)地方官及び戸長等が太政官布告、諸省布達に違背して規則を立て処置をなすとき
(二)地方官、戸長が人民の願、伺、届等を壅閉する(にぎり潰す)とき
(三)地方官が人民の移住来住を抑制するなど人民の権利を妨げるとき
(四)地方官が太政官布告、諸省布達をその隣県における掲示の日から十日を過ぎても布達しないとき
(五)地方官が誤解などにより太政官布告、諸省布達の趣旨に違背する説明書を頒布するとき
(六)地方裁判所や地方官の裁判に不服なとき、は司法省裁判所へ出訴してよいと定めた。司法裁判所は、今日の最高裁判所に相当する。

 この「司法省達第四十六号」は、廃藩置県後、新しい支配者となった知事をはじめとする地方官にとって、実ににがにがしい限りであった。彼らは薩長藩閥系の下級武士から成り上がったものが多く、任地においては封建領主きどりで人民に君臨し、あるものは江戸幕府時代以上に人民の権利を侵していた。
 伊藤博文が『憲法義解』(明治二十二年)にその時のありさまを「明治五年、司法省達第四十六号(により)……地方官吏を訟うる文書法廷に蝟集し、俄に司法官、行政を牽制する弊端を見るに至れり」と記しているところを見ると、この達には大きな効果があったようだ。
 中でも新平が薩長藩閥を向こうにまわし民権擁護の施政を貫いたのが、翌六年の尾去沢鉱山事件と京都府事件となってあらわれた。

 

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コメント

異人斬り NO4 「堺事件」ほか

2018年08月15日 | 国際・政治

 薩摩藩は薩英戦争、長州藩は下関戦争を契機に、事実上攘夷を放棄し、海外から武器を輸入したり、知識や技術を積極的に導入する方針に転じました。しかしながら、武士の攘夷感情にもとづく外国人殺傷事件は、両藩の方針転換後も続きました。それは、薩摩藩や長州藩が方針転換したことや、その理由を明らかにせず、むしろ、幕末に盛り上がった尊王攘夷の勢いを利用して、開国政策をとる幕府を倒そうとしたからではないかと、私は思います。両藩の方針転換後の幕府との戦いが、日本の近代化を掲げての戦いでなかったことは、歴史的事実としてしっかりと踏まえておく必要がある、と私は思っています。もちろん幕政にもいろいろな問題があったでしょうし、制度的にも行き詰まっていたということがあるかも知れません。でも、薩長を中心とする討幕派の権力奪取の戦いを、あたかも日本の近代化のために欠かせない戦いであったかのようにいうことは、誤りではないかと私は思います。そして、明治維新を美化するそうしたとらえ方は、その後の歴史認識を歪めることになると思うのです。

 幕末に盛り上がった尊王攘夷は、外国を夷狄(イテキ)とし、「異人(外国人)は神州を汚す」存在としてを蔑視するものであったため、武士(浪人)のいわゆる「異人斬り」が続発することになったのでしょうが、薩長が攘夷を放棄して以降、下記に抜粋した諸事件で、殺傷事件関係者の多くが、列強の要求に応じて処刑されています(切腹)。薩英戦争や下関戦争前には考えられないことです。    
 かつての藩方針に従って行動したといえる武士を、列強の要求に応じて切腹させるということが、平然と行われたことに問題を感じます。処刑(切腹)の数年前には、明治の元勲といわれる伊藤博文や井上馨が、攘夷をかかげてイギリス公使館焼打ち事件に加わったり、佐幕派と思われる人物を暗殺したりしていたにもかかわらず、神戸事件堺事件の当事者は切腹させられているのです。そうした一貫性のない対応を平然と行う人たちが、武力で幕府を倒し、権力を奪取して、その後の日本をかたちづくったところに、日本の悲劇があるのではないか、と思うのです。
 木戸孝允(長州藩士・別名桂小五郎)の日記の明治元年十二月十四日に書かれている文は、見逃すことができません。木戸孝允が岩倉具視に会って話したことを書いているのです。
”「速やかに天下の方向を一定し、使節を朝鮮に遣わし、彼(朝鮮国)の無礼を問い、彼もし服さざるときは、罪を鳴らして其の士を攻撃し、大いに神州(日本国)の威を伸長せんことを願う」、そうすれば「天下の陋習たちまち一変して、遠く海外へ目的を定め、したがって百芸器械など実事に相進み、おのおの内部を窺い、人の短を誹り、人の罪を責め、各自顧みらざるの悪弊、一洗に至る、必ず国地の大益いうべからざるものあらん」と論じた旨が記されている。”「明治維新の再発見」毛利敏彦(吉川弘文館)
 木戸孝允は、すでに明治元年に、欲深く次の狙いを定めていたということではないかと思います。日清戦争へと発展する朝鮮王宮占領事件や閔妃殺害事件は、その流れの中にあるのではないでしょうか。
 下記は、引き続き「幕末異人殺傷録」宮永孝(角川書店)から抜粋しました。
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                        第二部 攘夷への報復
                    暴走する「攘夷」ーー頻発する殺傷事件

 井戸ケ谷村でフランス士官を暗殺
 ・・・
 文久三年九月二日(1863・10・14)の午後、アフリカ猟騎兵第三大隊に所属するアンリ・J・J・カミュー少尉(フランス人)は、武蔵国久良岐郡井戸ケ谷村(現在の横浜市南区井戸ヶ谷)を一人で騎行中、浪士体の者三人に襲われ殺害された。凶行の現場は井戸ケ谷村の名主市右衛門宅から数百メートルほど離れた所である。犯人と思われる三人の侍のうち二人は雪駄(裏に皮を張った草履)を、もう一人は福草履(上質の藁で編んだもの)をはき、いずれも茶色の袴を着用していた。カミューは乗馬中のところをいきなり切りつけられたようであり、その斬殺死体は眼を覆いたくなるほど惨たらしいもので、
一 その右腕は、手綱を握ったままで、胴体から五、六間(約10メートル)離れた所で発見された。
一 顔・鼻・顎などに切り傷。喉笛に刺し傷。脊柱は完全に斬り割られる。
一 左腕は皮一枚残して切断。
一 胸の左脇は、心臓のあたりまで切り込まれていた。
一 右の肩先より左の下腹まで切り傷。
という状態で、恐らく手綱を握ったカミュー少尉は、まず利き腕の右手を斬られ、次いで左手、体の各所を寄ってたかって斬られたものであろう。喉笛に刺し傷があるのは、落馬したとき、とどめをさされたのであろう。犯人たちはカミューを殺めたのち、そのまま逃亡した。井戸ヶ谷の異変は、役人により運上所に届けられ、さらにそこからフランス公使館へ伝えられた。午後四時頃恐るべき日本刀によってフランス士官が殺されたというニュースが、またたく間に居留地内に広まると、外国人社会は恐怖におそわれた。… 
 ・・・ 

 鎌倉でイギリス士官二名を暗殺
 元治元年(1864)十月二十一日(1864・11・20)の朝、横浜に駐屯しているイギリス陸軍第二十連隊第二大隊に所属するジョージ・ウォルター・ボールドウィン少佐(Major George Walter
Baldwin)とロバート・ニコラス・バード中尉(Lieutenant Robert Nicholas Bird)は、鎌倉見物に出かけるために馬で横浜を出発した。江の島や長谷の大仏を見たのち、鎌倉八幡宮の大門先(鎌倉郡大町村)の街道までやって来たとき、松並木の陰に身をひそめていた侍体の者二名が飛び出すと、やにわにボールドウィンとバードに切りつけた。同日の午後三時頃のことである。ボールドウィンは、
左頬と左腕をひどく斬られ、さらに一刀で背部を斬り下げられ、腹部に達する創傷で、これが致命傷となった。バードは頸部(首)右肩甲部、左前膊部(腕の肘から手首まで)の内側、右前胯(ゼンコ)の下後部などを斬られたが、とくに頸部の切傷が命取りとなった。しかし、数時間ほどは息があった。検死の結果、両人は背後から襲われたことが明らかであった。犯人は被害者が落馬すると、そのまま行方をくらました。
 両人は襲われたとき、無抵抗のままだったのか、それとも加害者から身を守ろうとしたのか。ボールドウィンの拳銃は、腰のケースに収まったままであったから、かれはほとんど抵抗する間すらなかったものと考えられる。しかし、バードの死体のそばに拳銃が置かれており、弾丸が一発発射されていたから、何らかの抵抗を示したものであろう。駐屯隊の外国人が斬られた、という報告に接するとブラウン大佐、ウッド中尉、外科医のハイド、イギリス領事館通訳ラックラン・フレッチャー及び砲兵二十五名が、馬で救援のため鎌倉に急行した。しかしときすでに遅くかれらが現場で見たものは、寺の門(仁王門)から100ヤード(約94メートル)ほど離れた、掛茶屋の前の松の木の根元に筵をかけて横たわっている二人の無惨な死骸であった。
 ・・・

 イギリス人水夫二名、長崎丸山で暗殺
  長崎に住む英米人から「領事館の丘」として親しまれている東山手居留地に、イギリス領事館がある。慶応三年七月七日(1867・8・6)の明け六ツ(午前六時)のことである。領事館に勤務する警官トーマス・アンダーウッドの所に、奉行所の役人(定役)がやって来て、「山(丸山ーー長崎市内の旧歓楽街)で外国人が二人殺されたが、どこの国の者かわからない」といった。アンダーウッド巡査は、この変事を聞くと直ちに奉行所に出向きいろいろ問いただした後、死体が置かれている丸山の茶屋(寄合町の引田屋政之丞方)に赴いた。死体は店の門の奥に横たわっており、そのそばに水兵の帽子が転がっていた。帽子の内側には”Icarus(イカルス)”という艦名が付いていた。また青い綿ネルと日本人が用いる懐紙が落ちていた。被害者の身元が判明したので、アンダーウッド巡査は停泊中のイカルス号を訪ね、乗組員が不慮の死をとげたことを知らせた。
 日本側の資料には、殺されたイカルス号の二人のイギリス人水夫の名前は出てこないが、長崎のイギリス領事館の報告書には氏名が明記されている。犠牲者は
 ロバ-ト・フォウド Robert Foad(二十八歳)…火夫
 ジョン・ハッチングス John Hutchings (二十三歳)…大工
である。
 この二人は誰の手にかかり、どのような殺され方をしたのか、開港後、下松川(大浦川)の河畔に外国人用の酒場ができる前、外国船の乗組員の大半は、昔からある長崎の歓楽街(丸山)へ出かけ、たのしむのが一般的だった。フォウドとハッチングスもご多分にもれず泥酔したあげく、茶屋の前の通りで寝込んでしまい、そのとき通りすがりの何者かによって斬られたものである。
 …イカルス号の軍医ヒューストン・マックスウェルの検死報告は、これよりもややくわしい。その大要を記すと、
 ロバート・フォウド…左のわき下より胸部の左側にかけて創傷。左の鎖骨(胸部と肩をつなぐ骨)は関節のあたりで切断。創傷はさらに右の鎖骨の軟体部分にまで達している。この傷は、のど笛や食道および首の右側の大動脈や血管を切断し、脊柱にまで深く食い込んでいる。
 ジョン・ハッチングス…右肩の継ぎ目よりのど笛まで、長さ八インチ(約20センチ)の創傷。三角筋、上腕骨、鎖骨を切断。
とある。
 軍医のマックスウェルは、両人の死体を検分した結果、「何か鋭い武器、おそらく日本刀か何かによって」殺されたものと推断した。また傷口や死体の情態から、斬殺されたのは、おそらく午後九時から十時にかけての間である、と考えた。そして死因審問の結論を次のようにだした。

 イギリス艦イカルス号の死亡した二人の水夫、すなわちロバート・フォウドとジョン・ハッチングスは、本月五日の夜から六日の朝にかけて、山と呼ばれる日本人街の一部にある茶屋の前で、惨殺死体で発見された。検死陪審の意見では、二人が死に至った傷は、どこのだれとも知れぬ一人または複数の人間の日本刀によって加えられたものである。同時に、陪審団は、武器を持った日本人が、広く外国人に対して犯す、たび重なる残虐なる殺人事件に嫌悪と不快の念を覚える、といいたい。長崎ではこの種の犯罪が増加しつつあるので、陪審団としては、条約港の遊歩区域では、政府の役人が武器を携帯できるのは勤務中にかぎるといった措置をとることを勧める。
    (署名)マーカス・フラワーズ
           (領事代理、検死陪審員)
    (署名)サミュエル・モルトビィ
    (署名)M・R・グリフィス
            (海軍中尉)
    (署名)B・レインボウ 
 ・・・
 慶応四年九月七日(1868・10・22)立山役所において、大隈八太郎・楠本平之允(正隆、当時長崎裁判所権判事)・吉井源馬・林亀吉(土佐藩大目付)らが参会し、犯人捜索について相談し、その後八方に手を回して犯人逮捕の糸口を得ようとしたが思わしくなかった。しかし、ふとしたことから事件解決の端緒が開けた。林亀吉は長崎に来てから書生を雇っていたが、その者が「加害者を知っています。何でも筑前藩の者です」といったことから、その旨を長崎府知事沢宣嘉(ノブヨシ)(1835~73、幕末・維新期の公卿)に申し出た。かくして沢知事は筑前藩の聞役(キキヤク)(外敵などの急を知らせる役)栗田貢を呼び出し、取り調べを命じた。栗田は突然の話に狼狽し、藩庁に報告すると、藩としても隠すことができず、ついに同藩の金子才吉(筑前藩、犯行当時伝習生)という者の仕業であることを明かした。そして、金子はすでに切腹して果てたので、この一件い関しては連係者が自首するということにし、ひとまず落着した。
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 神戸事件と堺事件
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 慶応四年一月十一日(2・4)の午後一時過ぎ、備前岡山藩(藩主池田伊勢守茂政=慶喜の弟)の家老日置忠尚(ヒキタダヒサ)(のち帯刀)が指揮する先発隊150名ほどが、朝廷より西宮警備の命を受け、神戸の街に入ってきた。行列が三宮神社前あたりに差しかかったとき、外国兵と衝突し、外国兵を負傷させるという事件が発生し、のち事件を起こした当事者は責任をとって切腹した。この事件(「神戸事件」とも「三宮事件」とも呼ばれる)は、生麦事件ほどは知られていないが、当時の武士が持っていた攘夷感情が爆発した攘夷殺傷事件のひとつと見なされている。
 この日岡山藩の先陣が、三宮神社の前あたりまで来たとき、日本人は当時の習慣で土下座して行列が通過するのを待っていたが、アメリカ兵コリンズがお辞儀をしなかったので、藩兵の銃口で壁に圧しつけられた。しかし、コリンズは居留地に逃げ込んだらしい。次いで二人のフランス陸戦隊員マルタンとフォルタンは、行列の先頭が近づいて来るのを見ると藩兵らが険悪な顔つきで見ているように思った。折から同じ陸戦隊員のキャリエール兵曹長は、ミニャールの店で煙草を買ったのち、行列の右側を並行して歩いていたが、行列を横切ってマルタンとフォルタンと合流しようとした。このとき砲術隊長の滝善三郎は、これを許そうとせず、キャリエールの左腕のあたりを手槍で突いたので、キャリエールはたおれ、それをマルタンかフォルタンのいずれかが助け起こし、一緒に近くの家の中に逃げ込んだ。このため滝が「鉄砲!鉄砲!」と叫んだのを、藩兵らは発砲命令を出したものと感違いし、フランス人たちに向かって射撃を開始した。
 この神戸事件の発端や原因や経緯については諸説紛々としていてはっきりせず、不明確な部分を多く残している。
 ともあれこの手槍の一撃が、岡山藩士とフランス兵らの銃撃戦の一因となったことは確かなようで、折から港に停泊中のイギリス・フランス・アメリカの各艦からも海兵隊が上陸すると、岡山藩兵を追撃し、生田川の堤のあたりで、双方撃ち合った。やがて徒士頭浜田弥左衛門の進言を容れた家老の日置忠尚は、発砲中止を命じると、全軍を摩耶山麓の方面へ引き揚げさせたという。この事件に対し列強は、報復として神戸を軍事統制下に置き、停泊中の日本の汽船を抑留し、さらに強硬な抗議文を新政府に突き付けた。これに対し、新政府は、一月十五日(2・8)に参与兼外国事務取調掛東久世通禧(ミチトミ)を勅使として神戸に派遣し、各国代表と会見し、王政復古の告書を伝達した。そして、その際、対外条約の遵守を保証し、外国人の安全を誓約した。その後、各国は協議し、日本政府への要求として、発砲を命じた士官の極刑と関係諸国への陳謝の二つを決め、翌日東久世に伝えた。当時新政府は、旧幕府勢力との対抗上、外国側の支持を得る必要があり、この要求をのむこととした。その結果、事件の発砲を命じたとされる張本人を死刑にし、謝罪することでこの事件は一応収まるのである。が、二月九日(3・2)の夜、砲兵隊長の滝善三郎は責任を一身に負い、神戸の永福寺(戦災で焼失)において、列強の代表の面前で切腹した。

 この神戸事件の余韻がまだ完全に消えない慶応四年二月十五日(3・8)の夕刻、こんどは堺においてフランス人水兵16名が同港警備の土佐藩兵に殺傷されるといった大事件が起こった。いわゆる「堺事件」(妙国寺事件」)の突発である。神戸事件では、外国人の犠牲者は一名(?)ほどにすぎず、日本人一名が切腹して一件落着したが、堺事件ではフランス側の被害者は十六名と多く、また加害者として責任を問われて屠腹(切腹)したものは十一名にも上ったため、この事件は当時、世間の耳目を驚かせ攘夷事件の中でも特異のケースとして長く記憶された。森鴎外はこの事件を基にし、歴史短編小説『堺事件』(「新小説」第19年第二巻、大正3・2)を発表し、また、作家大岡昇平が新史料による『堺攘夷始末』(中央公論社、昭和64・12)を著し、翻訳ではプティ・トゥアール著『フランス艦長の見た堺事件』(新人物往来社、平成5・8)が刊行されている。
 慶応四年正月三日(1868・1・27)鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)が始まって一週間後には大坂城も官軍の手に陥ち、ここにおいて天下の形勢は一変した。堺は幕府の直轄地であり、慶応三年までは堺奉行が支配する所であったが、鳥羽・伏見の戦いで幕軍が敗北すると、この地の幕吏はいち早く逃げ出し、市中はたちまち無秩序化した。また堺は幕府の敗残兵が、江戸に帰る際の通過点でもあった。かれらはすでに規律のない烏合の衆と化し、放火、略奪、暴行をほしいままにしていた。新政府は、幕軍と開戦し約一週間後の正月十日(2・4)、早くも征討府の命をもって土佐の藩兵に堺を鎮守させることにした。土佐藩は大監察杉紀平太、小監察生駒静次及び属吏を何名か派遣し、櫛屋町の元総会所に本陣を設け「軍監府」と称し、堺の民政に当たった。
 慶応四年二月十五日(1868・3・8)の明け方のことである。糸屋町の土佐藩兵の陣に、軍監府より急使が来て、両隊長はすみやかに出頭せよとの命を伝えた。何事かと思って六番隊長の箕浦猪之吉(元章)と八番隊長の西村左平次(氏同)が直ちに出頭すると、大監察杉紀平太より、今フランスの兵士らが大坂より陸路をとり当地を訪れようとしている旨の連絡があった。堺は条約にない土地であり、まだ外国事務係(宇和島藩主)から何の連絡もないので通行を差し止め、大和橋まで兵を率いて出向くよう、命じられた。しばらくすると、堺見物のフランス人が四、五名(神戸の副領事ヴィヨーとコルヴェット艦ヴェヌス号のロワ艦長を含む)と宇和島藩吏数名と通弁一名が、陸路堺に入ろうとして大和橋に差しかかったので、両隊長が進み出、通弁に向かい、堺は外人遊歩の区域外であること、当地に入るには外国事務係の証明書が必要であることを伝えると、通弁は何やらフランス人たちと私語を交わし、やがて一行は大坂に向けて引き返して行った。
 これだけなら何の事件ともいえないが、同日の午後四時頃になって、フランスのコルヴェット艦デュプレックス号が堺沖に姿を見せた。やがて同艦の乗組員二十数名は、二隻の蒸気ランチ艇に分乗し、港内に入り、うち一隻は新湊(北の湊?)に廻航し、岸壁に横付けし、もう一隻も旭館前(大浜通り一丁目)の岸に横付けすると、上陸して善法寺竜神堂付近をうろついた。このとき堺に外国人が来た、ということで町中大騒ぎとなり、たちまち野次馬が港に殺到し、大きな人ごみができた。異人がやって来たという知らせが本陣にも伝わると、六番隊長箕浦猪之吉、八番隊長西村左平次は、50名ほどの藩兵(黒服)と鳶の者10名ほどを引き連れ、「のいたのいた」と叫びながら現場に急行した。フランス人が水陸両方面から堺にやって来たのは、オイエ提督の命令で大坂・堺間の沿岸測量と大和橋まできた同胞の出迎えが目的であったらしいが、その事情を知らぬ鎮守の土佐藩兵がたびたびのフランス兵の来堺に疑念を抱いたのは無理からぬことであった。
 蒸気ランチ艇の乗員は、見習士官ギヨン、上等水兵長ルムール、二等機関長デュレルら計十二名、もう一隻のランチ艇には、海軍中尉パリス、医官トリパリストら七名が乗っていた。ランチ艇の水兵らは周辺の計測を開始し、一、二時間ほど経ったとき、ルムールとデュレルが防波堤の上を散歩し始めた。このとき土佐兵一名から何やらいわれたが言葉が通じず、やがて二人は大勢の土佐藩兵に腕をとられ、街の中に連れて行かれようとした。このときルムールだけは、すきに乗じて土佐兵の手を振り切ると、港の方に逃げ出し、その途中、往来にたててある軍隊旗を引き抜き走ったが、早足の江戸の鳶梅吉という者に追いつかれ旗を奪われたルムールはなおも走り続け、ランチ艇に飛び込むと内燃係りの水夫に急ぎ蒸気を起こさせ、艇を発進させようとしたが、ときすでに遅く、二人と船艇めがけて土佐兵の銃撃が開始され、両人は即死し、その他の十一名も海中に飛び込んだりして難を避けようとしたが、たちまち殺傷された。新湊のほうに行っていたもう一隻の小艇の乗組員は、この有様を見て、直ちに救援を求めて本艦のデュプレックス号へ急いだ。 
 この銃撃によるフランス側の死者は、次の十一名である。
(1)M・ギヨン・シャルル・ピエール・アンドレ(第一級見習士官、二十二歳)
(2)ルムール・ガブリエル・マリ(一等水兵、二十八歳)
(3)グリュナンベルジュ・ヴィクトル(三等水兵、二十四歳)
(4)ランジェネ・オーギュスト・ルイ(三等水兵、二十二歳)
(5)ボベス・ラザル・マルク(三等水兵、二十二歳)
(6)モデスト・ピエル・マリ(二等水兵、二十七歳)
(7)ユメ・アルセーヌ・フロミロン(三等水兵、二十三歳)
(8)ヌアール・ジャン・マチュラン(三等水兵、二十二歳)
(9)ラヴィ・ジャック(三等水兵、ニ十歳)
(10)ブラール・ヴァンサン(三等水兵、ニ十歳)
(11)コンデット・フランソワ・デジレ(徴募兵、二十三歳)
 死亡者は皆二十代の若者であり、このうちブラールとコンデットの両人は、銃撃の翌日死亡した。死体の中には、脳天や眼、胸や腕、背中や脇腹などを撃ち抜かれた者、また溺死した者などもいた。
 この事件が大監察杉紀平太の耳に達すると、かれは直ちに現場に駆けつけ、射撃を止めさせ、両隊長とその部下を本陣に引き上げさせた。この大虐殺のニュースが、同日の夜大坂にいるフランス公使レオン・ロッシュに伝えられると、かれは愕然とし、直ちに外国事務係に明日十六日(3・19)の午後四時まで水兵の遺体を引き渡すことを要求した。そこですぐに東久世通禧(外国事務総督)と五代才助(のち友厚、外国事務係)が堺に急行し、直ちに事件の究明に着手した。五代はまた漁師らを呼び寄せ、フランス兵の死体を引き揚げよ、一体に引き揚げれば懸賞金(数十両)を与える、と約束し、ようやくすべての死体を収容すると、それをフランス艦に送り届けることができた。フランスの葬儀は二月二十八日(3・11)神戸で行われ、小野浜墓地(神戸市中央区浜辺通り付近)に埋葬され、記念碑が建てられた。
 ・・・
 葬儀の翌十九日(3・12)フランス公使レオン・ロッシュは敏速かつ決然と行動し、まず各国公使らと協議の末、新政府に厳重なる抗議を申し込み、次の五カ条の要求を提出した。
(一)今回の虐殺の関係者全員(土佐藩兵約二十名、鳶口を持った町民二十名)の死刑を執行すること。
(二)土佐藩主(山内豊範)は、被害者の家族に賠償金15万ドルを支払うこと。
(三)外国事務総督は、大坂に来て陳謝すること。
(四)土佐藩主は、須崎(土佐の港)に停泊しているフランス軍艦に赴き陳謝すること。
(五)武装した土佐藩兵を全員、開港場から追放すること。
 これらの要求はすべて各国代表の同意を得たもので、ロッシュは三日以内に満足すべき回答が得られぬ場合には、強硬手段を採る、と威嚇した。この要求はあまりにも苛酷であったため、新政府は苦境に陥り、小松帯刀と五代才助をイギリス公使パークスのもとに遣り調停を依頼したが、同人もフランス側の要求の妥当性を主張したので、つい要求を承諾することとし、二十二日(3・15)その旨フランス公使に回答した。
 一方、銃撃に加わった土佐藩兵らは、事件の翌々日十七日(3・10)大坂藩邸に引き移り、取り調べを受けた結果、六番隊と八番隊の兵合わせて二十五名が発砲したと申し出、これに両隊長と小頭二名が加わり、計二十九名の処罰者が決定した。が、さらにこの中から減刑者も出て、最終的には両隊長と兵十八名が切腹と決まった。慶応四年二月二十三日(3・16)死刑囚二十名は、肥後・安芸両藩士に警護されて大坂より堺に赴き、割腹の場所である妙国寺(堺市材木町東四丁)に入った。検死として外国事務局の判事・土佐藩重役をはじめ、デュプレックス艦長デュプティ=トゥアールと多数のフランス人将校と水夫が立ち会った。切腹は午後四時頃から始まり十一人目の処刑がすみ、十二人目に入ろうとするとき、フランス人の間で動揺が起こり、日本側の役人と何やらささやきはじめ、やがてその後の切腹は中止になった。なぜ処刑が中止になったのか、その理由はあきらかでないが、すでに日暮れになっていたことと、悲壮な切腹の光景を見続けることに耐えられなくなったためらしい。
 この日割腹して果てたのは次の十一名である。
(1)箕浦猪之吉(六番隊隊長 二十五歳)
(2)西村左平次(八番隊隊長 二十四歳)
(3)池上弥三吉(六番隊小頭 三十八歳)
(4)大石良信(八番隊小頭 三十八歳)
(5)杉本義長(六番隊肝煎 三十四歳)
(6)勝賀瀬三六(八番隊 二十八歳)
(7)山本利雄(六番隊 二十八歳)
(8)森本重政(八番隊 三十八歳)
(9)北代堅助(六番隊 三十六歳)
(10)稲田楯成(八番隊 二十八歳)
(11)柳瀬常七(六番隊 二十六歳)
妙国寺で自刃したこれらの土佐藩士の遺骸は、同寺院に葬るつもりであったが、罪人を葬ることはできぬ、といった寺側の反対にあって頓挫した。しかし、近くの宝珠院が引き受けたので、同地に埋葬された。なお、助命処分を受けた九名の土佐侍は、その後帰国のうえ、流罪に処せられた。またこの事件の最終処理として、土佐藩主山内豊範と外国事務局督の山階宮親王がそれぞれフランス軍艦に出向き謝罪の意を表し、償金も土佐藩より支払われるに及んで一件落着した。
 神戸事件、堺事件とも発足間もない新政府の最初の外交的危機であったが、事件への敏速な対応・処理が行われた。このことは、列強諸国へ新政府の国内権力基盤の安定を示すとともに、対外友好関係を望む新政府の姿勢を強く印象付けることとなった。

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異人斬り NO3 生麦事件・イギリス公使館焼打ち事件

2018年08月12日 | 国際・政治

 「生麦事件」は、外国人を突然背後から襲って斬ったいわゆる「異人斬り」や公使館の夜襲事件とはちょっと趣を異にします。でも、「尊王攘夷」と無縁ではありません。薩摩藩のイギリス人リチャードソン殺害の主張は、国際社会で通用するものではなく、結局この時亡くなったリチャードソンの遺族に対して賠償金を支払うことになりました。そして、薩摩藩が幕府より賠償金を借りて支払い解決した、といいます。その額は二万五千ポンド(洋銀10万ドル、邦貨にして約六万三百三十三両)という莫大な金額だったようですが、これを立て替えて払った幕府の負担は大きく、苦しかったのではないかと想像します。にもかかわらず、その返還がうやむやになってしまった、ということはどういうことなのか、と疑問に思います。

 また、生麦事件で、イギリス人殺害に関わった鉄砲組の久木村利休(当時、19歳、のち東京憲兵隊勤務、陸軍少佐で退役)が、のちに、「その時分は異国人を誰もが切って見たいと焦っていて仕様がなかった」と証言していることも、見逃せません。
 さらに、五十年経ったのちに「しかしこれっきりで別に戦端でもひらけたという事もなく、無事にその場は済んだが、イヤもう当時はすこぶるこれが痛快で溜飲が下ったような気持ちがしたものであった。回顧すればもう五十年になるが、全く今からこれを思うと夢のようじゃ」と鹿児島新聞の記者に語っています。討幕後、尊王攘夷急進派が中心となって明治新政府を発足させ、明治の時代をかたちづくっていった関係で、五十年が経過して大正時代に入ってもなお、幕末の外国人蔑視、人命軽視の思想は変わらず、反省されることはなかった、ということではないかと思います。

 さらに、 薩摩藩が、薩英戦争後に攘夷から開国の方針に転じ、和親条約締結や軍艦・兵器購入の交渉を始めたり、留学生派遣の依頼も行ったというところに、注目しないわけにはいきません。尊王攘夷という討幕の根拠は、この時失われたと考えるからです。

 事件直後、幕府は、薩摩藩の江戸家老島津登と留守居役西築右衛門を召し出し、犯人を差し出すように伝えましたが、薩摩藩は命令に従わず、”行列を犯した者を討つのは古来の国風であり、強いて差し出せというなら、われわれ一同を出頭させよ”などと言って抵抗したということです。もちろんイギリス政府のたびかさなる抗議があっても、犯人を差し出すことはありませんでした。そして、もし、イギリス艦隊が攻め込んでくれば迎え撃つことに決め、薩摩藩家臣に”蛮夷の誅殺に粉骨砕身尽くして欲しい”という訓示を伝えて、迎え撃つ準備を整えたといいます。
 また、イギリス艦隊の来航は薩摩藩にとって一大事であり、国難であると悟った生麦事件の当人(リチャードソンを最初に斬った供頭・奈良原喜左衛門)は、「一国の大事到来の責任はわれにあり」と考え、島津久光に切腹を願い出たということですが、「斬ったのは国法である。汝の罪にあらず」と切腹を認めなかったといいます。
 ところが、薩英戦争後のイギリスとの交渉のなかでは、”犯人を逮捕次第イギリス士官の前で死刑に処する”と言明しました。薩摩藩は、その時点で尊王攘夷の方針を放棄したということではないかと思います。したがって、薩英戦争後は、討幕の根拠は失われている、と思うのです。討幕が尊王攘夷のためではなく、権力奪取目的でなされたと考える所以です。

 さらに言えば、薩摩藩はイギリスとの交流を深める一方で、討幕のために、できもしない「年貢半減」を宣伝しながら、「世直し一揆」などで民衆を巻き込んだ挑発活動をするよう相楽総三に指示しています。そして驚くべきことに、その役目を果たした相楽総三をはじめとする赤報隊の隊士の多くが、赤報隊結成を支援し、作戦を指示した人たちによって「にせ官軍」の汚名を着せられ、処刑されています。「年貢半減などできないからです。こうしたことも、当時盛り上がっていた尊皇攘夷の勢いを利用して幕府を倒し、権力を奪取することが目的であったことを示しているのではないかと思うのです。

 「御殿山イギリス公使館焼打ち事件」も、忘れてはならない歴史的事件であると思います。
 公使館警備の日本人番人を殺し、公使館を焼き打ちするなどということは、どこの国でも、いつの時代でも許されない犯罪行為だと思います。にもかかわらず、錚々たるメンバーが関係しています。
 高杉晋作久坂玄瑞は、当時尊王攘夷の運動を主導した長州藩の急進的武士なので、あり得ることだ、と思いますが、明治時代に大活躍する初代総理大臣伊藤博文や初代外務大臣井上馨なども加わっていることには驚きます。
 御殿山イギリス公使館焼打ち事件の後にも、長州藩は下関で、攘夷をつらぬくためイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国の艦隊を砲撃しています。そして、手痛い報復を受けて、以後、薩摩藩同様、海外から武器を輸入し、新知識や技術を積極的に導入するようになりました。したがって、下関戦争敗北後、決定的な政策転換をしたといえるのではないかと思います。
 にもかかわらず、開国政策をすすめる幕府とは戦いを続けます。尊王攘夷を掲げての討幕は理解できます。でも、攘夷をすててなお続けられた討幕の戦いの根拠は何でしょうか。やはり権力奪取が目的だとしか考えられないのです。
 尊王攘夷を掲げて行われた、この長州藩による四国艦隊砲撃の莫大な賠償金300万ドルも、幕府が支払ったということです。もし幕府が何の対応しなければ、どういう事態に陥ったかわかりません。だから、近代化のために討幕が必要だったというのは、討幕を正当化するためのいわゆる「薩長史観」の考え方ではないかと、私は思います。
 下記は、「幕末異人殺傷録」宮永孝(角川書店)から抜粋しました。
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                        第二部 攘夷への報復

              攘夷論から開国論へ
 薩摩藩士の攘夷観
 ・・・
 このように薩摩藩ではそのころ外国人の横行に対してきわめて鼻息が荒かった。かくして日雇い人足を加えると千数百名にもなる行列は、品川・川崎の宿を経て、生麦村に達し、今まさにそこをも通り過ぎようとしていた。
 この日、横浜居留地に住むウィリアム・マーシャル(横浜在住絹輸出商)、ウッドスロープ・チャールズ・クラーク(「オーガスティン・ハード商会」の店員。絹の検査員)、チャールズ・レノックス・リチャードソン(上海の商人。帰英の途次、観光のため横浜に来る。居留地の101番館に滞在)、ボロデール夫人(香港在留の商人の妻。ウィリアム・マーシャルの従姉妹)の女性を含む英国人四名は、日曜日でもあったので川崎方面まで遊覧に出かけようとしていた。
 当日四人は、六郷川畔の川崎大師(真義真言宗智山派の寺)を見学するのが主な目的であったらしく、あらかじめ馬丁(バテイ)に馬を神奈川の宮之河岸(渡船場)に廻させて、自分たちはオーガスティン・ハード商会のボートで湾内を横切り、神奈川に出、そこで馬を受けとり、午後二時半頃馬で神奈川を出発し、川崎方面へと向かった。
 四名は、神奈川の宿より一里(四町ほど、約4.11キロ)川崎よりの地点で、まず少数の武士団と(七、八名、じつは島津久光の行列の一部)と出会ったが、さして気にもとめずそのまま進んだ。そしてどんな危機が待ち受けているかも知らず、さらに進んだとき、道路いっぱいに進み来る大行列と遭遇したのである。
 この時外国人らは馬足を緩めた。久光の二列行進の前駆(行列の先導者)はかれらの側を通過した。次いで本行列が道路の全幅を覆うように進んで来たので、四人は路の左側に避けて止まった。そのとき四人の位置は、リチャードソンとボロデール夫人は、マーシャルやクラークよりも約10ヤード(約9メートル)ほど先行しており、行列に向かってリチャードソンは内側に、同夫人は外側に馬首を並べていた。内側にいたリチャードソンの馬は、大行列にやや驚いたのか、ボロデール夫人の馬を押したので、夫人の馬は片脚を道路側の溝に踏みはずした。そのため彼女は馬を道路に戻そうとし、前に少し進め列中に入ってしまった。このとき久光の乗物との距離は十数間(約20メートル)であり、駕籠廻りの若党(中小姓)の行列が二人によって乱されてしまった。久光の乗物の右側後方に従っていた供頭奈良原喜左衛門は、この様子を見咎めると、外国人の前に駆け出して来て、何やら右手で手まねきをした。おそらく、引き返せ、といったものであろう。
 その有様を後方で見ていたクラークは、「引き返せ」と叫び、またマーシャルも「並行するな!」と叫んだ。そこでリチャードソンとボロデール夫人は、事が容易ならぬことになったのに気づき、馬首を返そうとしたが、思うようにゆかず、かえって馬首を行列の中に入れる破目に陥った。そのため列は一時立往生してしまった。これを見た奈良原は、無礼もの、とばかり、やにわに刀を抜くと、馬上のリチャードソンの左肩下より斜めに腹部にかけて切りさげた。するとたちまちかれの左腹から血潮があふれ出、その創口を左手で押さえ、右手に手綱を取って馬首を立て直すと、一町(約100メートル)ほど逃げのびたが、こんどは、行列の中から躍り出た鉄砲組の久木村利休(当時、19歳、のち東京憲兵隊勤務、陸軍少佐で退役)が再び斬りつけた。リチャードソンは懸命に馬を駆って約10町ほど逃げ、生麦村字並木(字松原)に達したとき、ついに落馬した。
 このときから五十年後の明治四十五年(1912)七月、鹿児島新聞の記者東孤竹が同紙に連載中の「五十年前鹿児島湾の劇戦」の取材のために、国分村浜の市(鹿児島湾北岸)で余世を送っていた久木村老人(当時70歳)を訪ねた折、同人は記憶に生々しい事件当時の様子を語った。久木村によると、安政三年(1856)十五歳のときから久光に仕え、江戸表に勤めていた。十八歳のとき三年ぶりで国元に帰り、文久二年(1862)十九歳のとき再び久光のお供をして江戸に出たという。やがて同年八月二十一日久光に従って帰国の途につくのであるが、このとき生麦事件が起こるのである。久木村はこのとき鉄砲組に属していた。初秋の晴れ渡った日の午の刻(午前十一時から午後一時までの間)、横浜のほうから砂を蹴立てて、四人の異国人がやって来たという。血気盛りの久木村は「その時分は異国人を誰もが切って見たいと焦っていて仕様がなかった。『切ってみたいもんじゃナァ』、とは思ったが、無闇に切る訳にも行かない。指をくわえて遣り過ごして行くとたちまち後列の方で、がやがやと騒々しい物音がする。ハッとし、咄嗟に『やったな』と思い刀の柄に手をかけて振向くと、一人の英人(リチャードソンーー引用者)が片腹を押えて懸命に駆けて来る」という状況の中で、このときとばかりはやる心を押えながら、切ってやろう、と思ったようである。馬上の英人がちょうど近づくのを待ちかまえ、抜討ちに切ったのである。『たしかに手応えはあった。見るとやはり左の片腹をやったので、まっかなきずぐちから血の塊(腸の一部か?--引用者)がコロコロと草の上に落ちた。何でも奴の心臓(腸の見誤り?--引用者)らしかった。今一太刀と追い駆けたが先方は馬、わしは徒歩だからとても追い着かない。振返ってみるとまた一人駆けて来る。雑作はない。例の抜討ちの手じゃ。またやった。今度は右の片腹じゃ。こいつも追い駆けたが、とうとう追い着かなかった。死んだ英人『チャールス、レノックス、リチャードソンというのはわしが先に切ったので、後に切ったのは『ウィリアム、マーシャル』でこれは重傷」(『鹿児島新聞』明治45・7・3付)
 久木村のこの追憶談によると、かれは一度ならず二度までもイギリス人(リチャードソン、、マーシャル両名)を斬ったことになる。このときかれはどのような気持ちで人を斬ったのであろうか。かれは人をあやめた後、良心に恥じたり、後ろめたさや後悔にさいなまれるどころか、「しかしこれっきりで別に戦端でもひらけたという事もなく、無事にその場は済んだが、イヤもう当時はすこぶるこれが痛快で溜飲が下ったような気持ちがしたものであった。回顧すればもう五十年になるが、全く今からこれを思うと夢のようじゃ」とさえいっている。

 イギリス艦隊鹿児島へ
 ・・・
 薩摩藩は生麦事件を引き起こしたにもかかわらず、幕府やイギリス政府のたび重なる抗議に対して犯人を差し出そうとはしなかったばかりか、何ら反省も示さなかった。かれらはこちこちの攘夷論者ではなかったにしても、勇武の国柄であったから、もしイギリス艦隊が攻め込んで来るようなことになったら、敢然とそれを迎え撃つ決意でいた。ことに島津久光は文久三年三月三日(1863・4・20)藩兵七百余人を率いて上京の際、伏見に到着したとき、イギリス側の抗議に接したが、このとき随従の家臣に小松帯刀の名で、

 イギリス艦隊が横浜に到着し、昨年秋の生麦の一件でいろいろ申し立てているようである。外国人の情態と狂暴はじつに忌まわしく、もしイギリスとの間で戦端が開かれた場合、諸士は天下国家のため、他藩にぬきんでて、蛮夷の誅伐に粉骨砕身尽くして欲しい(3・14付)といった訓示を与えた。

 なおこの訓示が鹿児島に達すると、藩主島津忠義(1840~97、のち公爵)は、同年四月二日(5・19)付で告諭を家臣に示した。
 ・・・
 薩摩藩史上、イギリス艦隊の来航は、未曽有の大事件であり、まさに国難であった。生麦事件の当人、奈良原喜左衛門は、「一国の大事到来の責任はわれにあり」と考え、自分さえ責を負えば、国難を免れると思い、何度か久光に切腹を願い出たらしいが、「斬ったのは国法である。汝の罪にあらず」とのことで、許されなかった。このことばに感奮興起した奈良原は、他日久光のために忠死の決意を固めたという(五十年前鹿児島湾の激戦『鹿児島新聞』明治45・6・16付)。

 薩英戦争とその余派
 七月一日(8・14)の午前九時頃、藩の使者(伊地知ら二名)がやって来たとき、回答は不満足なものであると考えられるから、もはや一戦を交えたあとでなければ交渉に応じられぬ、と告げた。イギリス側の作戦行動については薩摩藩では把握しようもなかったが、イギリス側は湾内に停泊中の薩摩藩の外国製汽船数隻を拿捕するといった報復に出れば、薩摩人は前回持って来たものよりも満足すべき回答を提示するものと考えた。この日は午後から天候が悪化し、夜来の東風は次第に強くなった。湾内の波浪は高く、どのイギリス艦もメインマストをことごとくおろし、荒天に備えていた。旗艦ユアライアルス号では各艦の指揮官との打ち合わせが行われ、明二日(8・15)払暁戦闘行為に入るべく準備が命じられた。一方、薩摩藩側でも開戦はもはや避けえないことがわかっていたので、この日、久光・忠義らは千眼寺(西田常盤山麓)に移り、ここを本営とし、そこから命令を出すことにし、家族は城外の玉里屋敷(草牟田村)に難を避けた。また市中も騒然とし、避難者たちでごった返した。夜に入ると風雨はさらに勢いを増した。イギリス艦隊は六月二十九日(8・13)の夕刻から翌日にかけて、桜島の小池袴腰沖に停泊していた。
 七月二日は朝から暴風雨であり、海上煙霧の間にイギリス艦が望見できた。早朝、クーパー提督は泊地のパール、アーガス、レースホース、コケット、ハヴォックの五艦に湾内重富沖に停泊している薩摩の三汽船の拿捕を命じた。
 ・・・
 午前十時前にイギリス艦隊の拿捕行為が千眼寺の本営に報告され、直ちに軍議が開かれ、撃攘に一決し、開戦の命令は各砲台に伝えられた。砂場(天保山)の砲台へ急使が開戦の命を伝えるとすぐ発砲を開始した。これが引き金となって各砲台とも一斉に砲撃をはじめた。正午頃のことである。これに対してクーパー提督も直ちに交戦の命令を下し、また拿捕船を焼却せよの信号をアーガス、レースホース、コケット号に発した。…

 薩摩藩はイギリス艦隊の退去後もその再来に備えつつあったが来襲はなく、また再び戦端を開くのは得策ではないとの判断から、支藩の佐土原藩の斡旋により、代理公使ニールと交渉を開始することに決した。そこで薩摩藩からは重野厚之丞(安繹、1827~1910、幕末明治期の史家・漢学者、のち東大教授)が代表となり、岩下佐次右衛門(方平、1827~1900、のち子爵)ほか二名を補佐役とし、さらに外国方調役・徒士目付・訳官(通詞)ら四名ほどが応接員に任じられ、幕吏と共に横浜のイギリス公使館に出かけニールと交渉を始め、文久三年九月二十八日(1863・10・5)から談判を開始した。薩摩側は、犯人を逮捕次第イギリス士官の面前で死刑に処するつもりであると、言明し、さらに将来イギリスと和親条約を結びたいので、ついては軍艦、鉄砲等の購入の周旋を頼みたい、と伝えた。イギリス側はこれに対して、この斡旋をなすが、まずリチャードソンの遺族に対する賠償が先決問題であるとした。これまで膠着状態にあった生麦事件の最難関の扶養料の件は、十月二十六日(12・12)に、薩摩藩が幕府より金を借りて支払うことによりついに解決した。が、その額は二万五千ポンド(洋銀10万ドル、邦貨にして約六万三百三十三両)に上った。かくして薩摩藩は、幕府に償金を立て替えてもらってしはらうことによって、ようやく生麦の一件を解決できたが、肝心な犯人の捕縛とその処分及び借用金の返還は、その後うやむやになってしまった。
 …薩摩藩では事件発生後、イギリスとの武力衝突を当然予期し、砲台や武器等の整備に力を尽くし、艦隊の来襲に備えたが、砲火を交えてみて初めてイギリス側の兵器・兵備・戦術に一日の長があることを知り、さらに攘夷は無謀であり、外国軍と戦ってもとても勝算のないことを痛感した。同藩はこの戦争の結果、攘夷より開国論に転じ、イギリスとの平和を回復し、軍艦や兵器購入、留学生派遣の依頼なども行い、やがて朝廷に開国論に導く端緒を開いた。
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 未遂に終わった金沢(横浜)事件
 ・・・
 このような情況下、長州藩では、参政長井雅楽(ウタ)(1819~63)の「航海遠略論」(独自の開国論)を国是とし、攘夷の勅命を奉じ、公武合体の実を挙げようと努めていたが、攘夷報国の念に燃えた有志を多数かかえていた。かれらは、高杉晋作や久坂玄瑞を中心とする「御楯組(ミタテグミ)」と称する勤王志士の一団である。この急進党(血盟団)は夷狄(イテキ)を誅殺することによって勅意に報いようと、まず「血盟書」を作り、それに十一名が花押血判した。次いでその実行の方法について協議した結果、横浜の各国公使館を襲撃することに決し、文久二年十一月十三日(1863・1・2)高杉や久坂ら十一名は藩邸を脱し、横浜へ向かった。土佐勤王党の広瀬建太(?~1863)ほか二十三名もこの件に関係していたが、勤王倒幕の計画が進んでいる最中に、このような暴挙に出ることはまずいとの判断から、土佐の同志武市瑞山がこの襲撃計画に水を差し、藩主山内容堂(豊信)にこの計画を告げた。容堂は直ちに使者をもって長州藩邸に伝えると、夜中にかかわず、毛利世子定広は藩士を引きつれ、馬を飛ばして高杉らの一行を追った。やがて夜が白々と明ける頃、定広の一行は大森の梅屋敷に着いた。
家臣にいろいろ調べさせると、昨夜神奈川の下田屋という旅籠に高杉らが宿泊したことがわかり、その後一同を梅屋敷に召し寄せ、懇々と説諭して暴挙を思いとどまらせた。これがいわゆる金沢(横浜)事件である。

 攘夷の決断迫る焼き討ち
 横浜における外国公館の襲撃は未遂に終わったが、御楯組の領袖格高杉らの気持ちはそれでもなかなか収まらず、前回の失敗を償う意味で第二の計画をめぐらした。幕府は攘夷の勅命を奉じながら煮えきらず、その実を挙げていない。そのうえ御殿山に外国公使館を建てるような矛盾した態度に出ている。攘夷の先駆けとしてすべてこれを焼き払おう、という案が浮上し、再び同志の糾合を得て、これを実行することになった。この計画に荷担したものは、高杉晋作、(1839~67)、久坂玄瑞(1840~64、禁門の変で自刃)、大和弥八郎、長嶺内蔵太、志道聞多(1835~1925、のちの井上馨、元老)、松島剛蔵(1825~64、禁門の変のあと処刑)、寺島忠三郎(1843~64、禁門の変で自刃)、有吉熊次郎(1842~64、禁門の変で自刃)、赤禰(ネ)幹之丞、山尾庸造、品川弥二郎(1843~1900、のち枢密顧問官)ら御楯組の十一名に加えて、伊藤俊輔(1841~1909、のちの伊藤博文、総理大臣)、白井小助、堀真五郎、福原乙之進(オトノシン)(信冬?~1863、自刃)、松木某(実際の襲撃には参加せず?)ら五名が加わり、合わせて十五、六名がイギリス公使館の襲撃(焼打ち)を画策した。
 ・・・
 幕府が大金を投じて造った御殿山のイギリス公使館が、文久二年十二月十三日(1863・2・1)の午前二時、高杉ら攘夷派の志士の手にかかり、一夜にしてことごとく灰燼に帰したことは日本の建築史のうえからも惜しまれることだが、この事件は少なからず幕府の威信を傷つけることになり、やがて放火犯の捜索も次第に厳重になってきた。

 日本人犠牲者、佐助
 御殿山のイギリス公使館焼打ち事件は、単に建物に放火するだけにとどまったのか、それともこの事件の裏に何らかの殺傷事件もあったのか。この点に関してわが国で書かれたものの多くは、火災だけを問題にしているが、外国側の史料はこの事件に先立って起こった殺傷事件をも重視している。それは放火事件が起こる約一週間前に公使館警備の日本人番人(佐助)が殺されたことである。
 ・・・

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”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI

          

 

 

 

 

 

  

 
 

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尊王攘夷と「異人斬り」 NO2

2018年08月06日 | 国際・政治

 幕末、イギリスが公使館を置いていた東禅寺は、尊王攘夷を掲げる武士(浪士)に、二度も襲われています。 イギリス公使オールコックが、その書簡の中で、この事件について”西欧列強が代表を派遣した国の、政府が置かれている首都で、このような極悪非道な行為が行われたことについては、何ら贅言(ゼイゲン)を要しない”と書いています。こうした襲撃は、当時すでに国際社会では、時代遅れで非常識な犯罪行為だったのだと思います。

 また、東禅寺の襲撃は、いずれも「夜襲」です。尊王攘夷のためには”寝込みを襲う”という野蛮な行為も正当化されるということだったのではないかと思います。

 この時、武士(浪士)・有賀半弥の懐中書に
私儀草莽浪士・微賤(ビセン)の身(わたしは在野の身分の低い人間ーー引用者)なれども、神国(日本)が夷狄に汚されるを見るに忍びず、尊攘の大義に基づき、身命をなげうち、くくの微衷(ビチュウ)(わずかな真心)を以ていささか国恩の万一に報いんとす。もしこの一挙が他日外人掃攘(放逐)の端緒ともなり叡慮(天子の考え)を始め奉り、台慮(タイリョ)(政府?)をも安んじ得れば、無上の光栄である
とあったといいます。幕末期、国際社会の常識や国際情勢をほとんど何も知らなかった若者の一途な思いに同情すべき点はあるかもしれません。しかし、尊王攘夷の思想が” 神国が夷狄に汚されるを見るに忍びず”というような狂信的なものであったことは、見逃してはならないことだと思います。
 
 なぜなら、尊王攘夷急進派を中心に構成された明治新政府は、憲法で”大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス ”として、「神国日本」を明文化したからです。開国開市政策を進める幕閣や幕府の関係者の多くを暗殺し、いわゆる「異人斬り」をくり返した武士(浪士)の尊王攘夷の思想は、かたちを変えて明治の時代に受け継がれていったのだと思います。それが、その後の日本の野蛮性に発展していったのではないかと考えます。

 また、尊王攘夷派のこうした無謀で野蛮な犯罪行為の後始末や対応に追わて、幕府が追い詰められていった側面も見逃してはならないことだと思います。

 下記は、「幕末異人殺傷録」宮永孝(角川書店)から抜粋しました。
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                   攘夷派への圧力の中でーーイギリス公使館を夜襲
 
 第一次東禅寺事件
 文久元年五月二十八日(1861・7・5)の午後十一時から十二時にかけてのことである。イギリス公使オールコックは、いつものように枕の下にピストルを置いて床についた。疲れてぐっすり眠っていると、一人の若い通訳見習い生が暗い提灯をもって、オールコックのベッドのそばにやって来ると、寝ているかれを起こした。急を知らせに来たその見習い生は、公使館が襲撃され、暴徒が門内に闖入した、と伝えた。
 ・・・
 オールコックはピストルを持って、その現場に行くつもりで、入口の方に何歩か歩いていくと、突如血だらけのローレンス・オリファント(一等書記官、1861年6月着任)が姿を見せたのでびっくりした。かれは頭部と腕関節を斬られており、腕の傷口はぱっくりと開いていた。オリファントの部屋は建物の裏側、庭に面していたが、かれもオールコック同様、館内の騒ぎは召使いたちの喧嘩ぐらいに思っていた。
 ・・・
 オリファントは本国を出発するとき、友人からサーベルや鎖かたびらを贈られ、また自衛のためにピストルを求め来日した。が、突然の襲撃に度を失ったものか、防禦手段としては狩猟用むちだけで満足せねばならなかった。かれは急いで通訳見習い生のラッセルを起こし、物音が聞こえてくる方向に突き進んで行こうとしたとき、腕を上げて刀を構えた闖入者(浪士)が自分たちの方に向かって来るのを見たのである。オリファントは、むちの太く重い先端を相手に打ちながら、無我夢中で闘った。ピストルを持っていないことに腹立たしさや後悔を覚えながら必死に闘っているうちに、何度も殺されると思った。そして、この乱闘の中、かれは頭部と腕関節にけがをした。もうだめだ、と死を観念したとき、突然、ピストルの閃光が目に入り、かれは撃たれたと思った。しかし、その一発に救われたのである。その弾丸は、暴漢の一人を射殺したジョージ・S・モリソン(長崎駐箚イギリス領事)のピストルから発射されたものであった。モリソンも額に受けた刀傷ために血をしたたらせていたが、この発砲の混乱に乗じて負傷した人々は奥のオールコックの部屋に集まって来たのである
 ・・・
 オリファントの出血はひどく、意識を失いつつあった。オールコックはピストルを置くと、直ちに自分のハンカチでその腕の傷をしばらねばならなかった。切傷は骨に達し、伸筋の腱を三つ切断した。その他、右鎖骨の上から頸静脈にかけて切傷や右腕の上に刀の打ち傷などがあり、左手の掌骨(手のひらを形づくる骨)に打撲を受けていた。のち同人はこれらの傷がもとで程なく帰国した。オールコックが外科的手腕を発揮している間、となりの部屋(食堂)では、ひとしきり食器棚のガラスを割るような音が聞こえた。暴徒のうちの何人かは庭に面しているガラス戸を破って押し入った者のようだ。かれらはこの食堂の中で護衛兵らとしばらくの間斬り合いをし、二名ほどが討たれるのであるが、もしここで斬り合うことがなかったら、襖の陰にいたオールコックらは凶徒に発見され、斬殺されていたかも知れないのである。

 オールコックの部屋に集まったオリファント、モリソン、ラウダーらは、生の望みを棄て、一人でも多くの暴徒を殺して死ぬ覚悟をきめた。暴徒らは暗い部屋の中の柱や襖を斬りつけ、器物を破損させ、傍若無人にふるまったのだが、東禅寺には大勢日本の衛士がいるにもかかわらず、だれ一人として直ぐにオールコックらの救援に来るものはいなかった。
 ・・・
 乱闘が終わったのち、オールコックやオリファントらが食堂の中に足を踏み入れたとき、愕然として色を失った。かれらがその部屋で見たものは、身の毛がよだつような光景であった。まずオリファントは血の海の中で足をすべらせた。人間の胴体が食堂の中央あたりにころがっている。首は付いておらず、それは食器棚のそばにころがっている。オリファントは襲撃が起ったとき、寝巻姿ではだしのまま飛び出したのであった。かれは素足の下に「カキのような感触」があったので、それをよく見たところ「人間の眼球」であった。またある死体は、見るも無残な姿であり、顔面の部分は手斧でたたき切られたかのように切りそがれており、後頭部だけが原形をとどめていた。これは屋内で打ち取られた者の死体の有様だが、屋外で護衛兵と戦っているうちに落命した凶徒もあった。当時、外国方の役人として東禅寺詰であった福地源一郎(1841~1906、明治期のジャーナリスト)によれば、別手組の某などは、血刀をたずさえ、血のしたたる生首を持って外国方の詰所(中門内の右側にある塔中、目付方も同所で宿直する)へやって来るなり、「敵を打ち取ったり、一番首の高名御記し下さるべし」といい、詰所の縁側にそれを置いて行ったという。
 ・・・

 事件後発せられたオールコックの書簡
 公使館の襲撃があった翌朝、まだ朝が明けきらぬうちに、オールコックは横浜沖に停泊中の郵船リングダブ号のクレーギー艦長宛ての急送公文書を二名の騎馬の役人に持たせ、事件発生の状況を伝え、緊急援助を要請した。その文面は、次のようなものである。

   イギリス公使館
   1861年7月6日午前2時江戸にて
 拝啓
 真夜中になるちょっと前、暗殺者の一団が四カ所から公使館の中に押し入り、居住者を捜し求めて邸内に散開しました。私たち館員はみなベッドに入っておりました。オリファント氏は急に起きると、廊下で凶徒の何人かと遭遇し、手首や首の部分に刀傷を受けました。モリソン氏も自分の部屋を出たとき同じように敵と遭い、負傷いたしました。役人たちの遅まきの助けを借りて、凶徒を撃退することができました。しかし、夜が明けるまで、まして今後も安全だという保障はありません。
 したがってお願いせねばならないのは、直ちにリングダブ号で江戸に来ていただきたく、そして集められるだけの屈強な水兵の護衛隊を上陸させて欲しいのです。また、士官は、どのような方針を採るのが得策か、私が決断するまで艦にいてもよろしいかと思います。かくお願いするのは公使館の安全と、条約にある権利を守るためなのです。敬具
                 ラザフォード・オールコック
  イギリス海軍リングダブ号
   クレーギー大佐殿

 この要請に対して、クレーギー大佐は、自ら十分に武装した二十名の海兵隊員を率きつれて東禅寺にやって来た。また驚いたことに、イギリスの海兵隊と共に、フランス公使ド・ベルクールも、輸送艦ドルトーニュ号から引き抜いたフランス水兵の一団を連れてやって来た。ベルクールがクレーギ大佐の一隊と行動を共にしたのは、危険をいっしょに甘受しよう、といった騎士道精神(義侠)から出たことであった。フランス公使がオールコックらの危機を知り、迅速な行動をとったのは、次のようなオールコックからの火急の知らせを受けとったからであろう。
     
  1861年7月6日 江戸にて
 拝啓
 昨晩十一時から十二時にかけて、イギリス公使館は突然攻撃を受けました。浪人とも呼ばれる武装した日本人の群れや水戸公の家来などによって同時に戸口を破られました。公使館のオリファント、モリソン両氏とは廊下で会いましたが、二人とも怪我をしておりました。遺憾ながらオリファント氏はひどい手傷を負っておりました。モリソン氏が撃ったピストルの弾はそれたのですが、敵を追い払うのに効果があったようです。すぐに役人や大名の護衛兵らが現場にやって来たようで、凶徒らは私の部屋を除く、ほとんどすべての部屋に押し入り、ベッドや家具などをずたずたに切ってから、ようやく館内から追い払われました。あちこちに血痕があり、公使館に通じる道や並木道で警備の士官や兵といつまでも戦闘が続きました。
 西欧列強が代表を派遣した国の、政府が置かれている首都で、このような極悪非道な行為が行われたことについては、何ら贅言(ゼイゲン)を要しないのです。ご参考と情報がてら、仲間の皆さんに以下の事柄をお知らせ申し上げておくのが私の義務と考えます。すなわち一時的措置としてイギリス海軍の「リングダブ」号を出動させ、護衛兵を上陸させることにしたことです。江戸にある当公使館及び他の公使館が将来にわたって安全を保つためには、どのような方策を採るのが得策なのか、またかくもひどく踏みにじられた国際的に認められた権利と特権をどう維持してゆくか重要問題となっています。差し迫った問題の重要性を見逃すわけにはまいりません。しかしながら、もしご意見を私に寄せたい気持ちがおありなら、この件について貴殿ならびに仲間の皆さんとよろこんでご連絡をとりたく思います。
                                         敬具
                             ラザフォード・オールコック

 これと同一内容の手紙は、アメリカ公使ハリス、オランダ総領事デ・ウィットら二人にも送られ、のちにオールコックは返書を得た。
 ・・・
 (もちろん、イギリス外務省「ラッセル外相」にも長文の急送公文書を送っているが略)

 尊攘の大義に身命をなげうつ
 ・・・
 この事件が起こったとき、各国外交団は水戸藩主が浪士らをけしかけて行わせたのではないかといった疑惑を抱いたが、浪士・有賀半弥(討死)の懐中書に「私儀草莽浪士・微賤(ビセン)の身(わたしは在野の身分の低い人間ーー引用者)なれども、神国(日本)が夷狄に汚されるを見るに忍びず、尊攘の大義に基づき、身命をなげうち、くくの微衷(ビチュウ)(わずかな真心)を以ていささか国恩の万一に報いんとす。もしこの一挙が他日外人掃攘(放逐)の端緒ともなり叡慮(天子の考え)を始め奉り、台慮(タイリョ)(政府?)をも安んじ得れば、無上の光栄である」とあった文面の翻訳(イギリス公使館のマイバーグ医師やフランス公使館のブレックマンらが訳したもの)を読み、また同書簡に明記されている襲撃者(有賀、岡見、前木、森、榊、木村、イシカワ(石井?)・キンシロー、矢沢、渡辺、古川、山崎、中村、小堀、カラサワ・ゴロ)の名前を知ると、公使館への討ち入りは鎖港(鎖国)の旧習に基づく一事象と理解し、また幕府も迅速に下手人の追捕に努め、品川の妓楼虎屋に再び寄った浪士四名(うち三人は自殺)を捕らえたので、ヒュースケンの殺害事件のときのように、英仏公使は江戸を退去するようなことはなかった。

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 第二次東禅寺事件
 東禅寺が襲撃されてから一周年にあたる文久二年五月二十九日(1862・6・26)の深夜、第二の事件がまたもや公使館内で起こった。イギリス公使オールコックは同年二月に休暇を得て本国に帰国し、四月には代理公使として陸軍中佐エドワ-ド・セント・ジョン・ニール(?~1866)が清国より来日し、しばらく横浜で暮らしたのち、五月十五日(6・12)館員やイギリス軍艦レナード号の海兵隊員三十名と共に東禅寺に入った。当時イギリス公使館の護衛の任にあたったのは、幕府別手組のほか戸田采女正・松平丹波守・岡部筑前守らの家臣535名である。ニールによると、五月十五日の晩から事件が起こった同月二十九日(6・26)にかけて、何ら危険な徴候は見られなかったという。
 文久二年五月二十九日の十二時半頃、館員らはすべて床についた。起きているのは建物の周囲に間隔を置いて警備についているレナード号の見張り(歩哨)数名だけである。ニールはベッドの中に入ってはいたが、まだ眠ってはいなかった。すると突然、かれの寝室に隣接する縁側の見張りが誰何(スイカ)するのを耳にした。返事の合いことばは、間違いのないものであったが、その見張りは縁側から降りて近づいて来る者の方に三、四歩進んだ。ニールは何か異様な感じがしたので、ベッドの上で身を起こすと、成り行きを見守った。突如、ひじょうな苦痛の叫びがし、次いで何かに切りつけるような音がしたが、そのつど苦悶の叫びが上がった。一瞬沈黙が支配し、そのあと高台(寺院の裏手の丘陵)の方で太鼓を打つ音がしたかと思ったら、日本人の衛士らが集まって来た。ニールはベッドから飛び起きると、居間と食堂を横切り、護衛兵の部屋に入った。見張り(チャールズ・スイート)はその部屋の床に横たわり、今にも死にそうな様子だった。体には無数の刀傷や槍傷がみられた。館員と護衛兵全員が起こされ、寺院内のいちばん大きな部屋に集まると、襲撃者に備えた。
 しばらくすると、海兵隊のクリンプス伍長の姿が見えないことがわかったので、アプリン大尉が部下を何名か連れて探しに出かけたところ、クリンプスがニールの寝室に接している縁側の戸口の所でたおれて死んでいるのがわかった。かれは刀傷や槍傷を無数に受けていたが、ピストルを一発発射していた。
 見張りのチャールズ・スウィートの手当てをした公使館付のジェンキンズとウィリスの両医師は、虫の息のスウィート(翌朝死亡)から聞き出したところでは、大きな池の上に渡してある丸木橋を通って誰かが近づいて来るようだったので、誰何すると、合いことばを返してよこした。暗闇のため、相手の姿がよく見えなかったので、スウィートはその者のほうに進み寄った。そのとき橋のはずれの所に四つんばいになっていた別の男が急に躍り出ると、槍で突きかけられ、さらに刀でマスケット銃をもっていた手を切られた。かれはクリンプス伍長がその場にやって来るまで無数の傷を受けた。
 クリンプスはニ十歩ほど離れた芝生のはしの縁側の所にいたのだが、スウィートの救助にやって来たところ、襲われた。ピストルを一発撃っただけで斬りたおされた。襲撃者は一人だったのか、複数であったのか定かでないが、戦っているうちにニール中佐の部屋に通じる階段の所あたりまで来たとき、槍傷を受けた。このことから縁側の下にもう一人別な襲撃者がいたのではないかと疑われた。日本の衛士は何の役にも立たず、スウィートが襲われたとき、すぐに逃げ出したという。
 ともあれ、この深夜の襲撃で、見張りについていた
  チャールズ・スウィート Charles Sweet (レナード号水夫、年齢不詳)
  リチャード・クリンプス Richard Crimps (レナード号伍長、年齢不詳)
の二名は死亡した。スウィートはロンドンのオルダースゲートに母を一人残し、またクリンプスはデヴォン州ダートマス(港町)に両親を、さらに妻グレース(住所不明)を残して逝った(ジェンキンズ医師のメモによる)。
 ・・・
 この事件は偶発的なものではなく計画的なものであったことは、公使館側もうすうすわかっていたようである。第一補助官兼会計官のアベル・A・J・ガウアは、襲撃の翌日、信頼すべき日本人から聞いた話として、伊東軍兵衛は昨年東禅寺を襲撃中に亡くなった仲間の仇討をするつもりであること、その血祭として公使を殺すつもりである、と語っていたという話を伝えている。フランス公使のベルクールが個人的にある日本人から聞いた話では、事件当夜、高台のほうから四、五名下りて来る者がいたということである。またガウアとフォン・シーボルト(特別通訳官)は、事件当夜の九時頃、公館の側から天空にのろしがあがるのを目撃している。事件の数日前から、日本人の召使いらは館内で休むことを嫌がり、中には襲撃を恐れている者もいたということである。
  ニールがこれらの事実やうわさに接した感触では、日本人の護衛兵のすべてがこの事件に関与していないにしても、襲撃のことは知っていたはずだ、とするものであった。 

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尊王攘夷と「異人斬り」 NO1

2018年08月03日 | 国際・政治

 幕末期、外国船が繰り返し来航し、開港開市などを要求して圧力をかけてくる状況や、オランダの勧告などを考慮すると、拒否し続けることには無理があると判断した幕府は、開港開市政策を進めますが、長州を中心とする尊王攘夷派は、そうした情勢を無視し、開港開市政策の当否を議論することなく、尊王攘夷を掲げて討幕に動きます。その討幕の根拠となった攘夷の思想は、極論すると、いわゆる「異人斬り」に象徴されるように、「異人は神州を汚す」存在であり、したがって、開港開市は許されないというものだと思います。

 日本近海に外国船が頻繁に出没し、幕府の政策によって、江戸や横浜で外国人を見ることが多くなるにしたがって、尊王攘夷の思想は急速に広まっていったようですが、それが「異人は神州を汚す」という狂信的とも言える思想にもとどくものであったために、尊王攘夷派の人たちによる、いわゆる「異人斬り」が続発すことになったということは、見逃してはならない、幕末期の歴史的事実だと思います。
 また、狙った「異人」を背後から突然襲うという野蛮性も、その後の日本の歴史を考えると、見逃すことができません。


 ところが、討幕後の明治新政府は、主として尊王攘夷急進派の人たちによって構成されたために、そうした尊王攘夷の思想の問題点や「異人斬り」という野蛮な殺人行為も、ほとんどふり返られることなく、等閑視されたように思います。そして、明治の時代は、討幕のために掲げた攘夷を、朝鮮や中国を支配しようとする「異国支配」の政策に、巧みに変えて突き進んで行ったのではないかと思うのです。

 したがって、尊王攘夷の思想の狂信性や「異人斬り」の野蛮性は、明治の時代に克服されることなく、その後の日本で、かたちを変えて引き継がれていくことになったのではないか、ということです。朝鮮王宮占領事件や日清戦争時における旅順虐殺事件は、そうした流れのなかにあると考えます。

 長州を中心とする尊王攘夷派の討幕は、日本の近代化のために避けられなかったというような考え方は事実に反し、歴史認識を歪めるもので、「勝てば官軍」とか「薩長史観」ということばは、そうした考え方を批判的に表現するためにつかわれてきたのではないかと思います。  


 そうした意味で、いわゆる「異人斬り」は、日本の歴史にとって極めて重要な問題であると思い、「幕末異人殺傷録」宮永孝(角川書店)から、その一部を抜粋しました。宮永教授は様々な資料を発掘しており、また、丁寧に調べ上げています。歴史を学ぶ上で、貴重な一冊だと思いました。
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                          第一部 攘夷の凶行

                  攘夷思想の高まり -- ロシア士官と水夫を横浜に誅殺

 高まる攘夷熱 日本刀による凶行
 幕府は、安政五年(1858)六月に勅許を得ないまま調印(7・1)をもってアメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダの五カ国に対して、箱館・神奈川(横浜)・長崎の開港と江戸・大坂の開市、外交官(領事・公使)の駐在などを許すことを実行することになった。
 かくして各国の外交団は、江戸や横浜に居住し、とくに江戸に近い横浜村には外国人居留地が設けられた。開港場となった横浜は、もと旗本の知行地であり、半農半漁の一寒村にすぎなかった。開港前の横浜村と新田(居留地の周りの地)の戸数は、わずか100ほどであった。(「横浜村井近傍之図」)
 開港場の建設は、約十万両を投じて安政六年春から急遽進められ、同年六月の開港時には大小の波止場、外国人居留地および日本人のための移住地が完成し、七月に入ると早くもイギリス人や清国人が商いを始めるようになった。
 幕府は横浜村を開港場とするに際して、近傍の野地を削り、沼を埋め、川を通し、運河で取りまきわずかに橋をニ、三架け、その両端に番小屋を設け、人の出入りを監視した。幕府当局の考えでは、横浜村に外国人をすべて閉じ込め、ちょうど長崎の出島のようにそこを陸上の”監獄”とする肚(ハラ)であったようだ。開港場が完成しても初めのうち進んでそこで貿易をやろうという者はおらず、幕府は大商人を勧誘し、むしろ強制的に店を出させ、また外国人の居住や営業活動を容易にするために家屋を設け、さらに運上所(税関の旧称)を設置した。
 一方、開市開港後の江戸や横浜で外国人を見る日本人、ことに攘夷思想を持つ武士にとって、外国人は神州日本を汚す”夷狄(イテキ)”(野蛮人)であり、悲憤慷慨の種であった。外国の使臣(公使・領事などの外交官)は、尊大な態度で江戸にやって来て、壮大な寺院に公使館を置き、閣老(老中の異称)と対等な地位に立ち、はばかるところなく勝手な議論や恫喝を行い、幕府有司(役人)はびくびくしながらそれに耳を傾けている。開港場の外国人商人にしても、大きな家を建て、大勢の召使いを抱え、有司や武士・町人に対しても敬意を払わず、わが神州の農工商を見下し、荒稼ぎしている。攘夷熱は、一部の武士(役人・藩士・浪士)のみにとどまらず、一般の町人や浮浪の徒の間にも広まり、不逞の浪士の中には、機会があれば外国人を攘夷の血祭りにあげようとうかがい、江戸や横浜近辺をさまよう者もいた。かれらは外国人を殺せば、幕府は攘夷を断行するものと考えた。
 安政六年七月二十七日(1859・8・25)の夜六ツ半(日没)頃のことである。運上所の泊番由比太左衛門のもとに、町役人らがやって来て、横浜町三丁目において異人(外国人)に対する殺傷事件が起こったことを注進した。開港後、外国人に対して罵詈雑言をあびせたり、投石したり、体当たりしたり、ときには抜刀などによって脅かしたりする事件があとをたたなかったが、死人が出たといった知らせにこの宿直は愕然とし、直ちに上役(組頭、若菜三男三郎)にその旨報告した。
 これは開港後、外国人に対して行われた最初の殺傷事件であった。事件の顛末は次のようなものである。
 
 七月二十七日(8・25)の夜八時頃、おりから来日中の西シベリア総督ムラビエフ・アム-ルスキー
伯のロシア艦隊に属するアスコルド号の乗組員、士官・水兵四名が、食糧品(野菜や鳥肉など)購入のために横浜に上陸し、横浜町三丁目の青物屋徳三郎で買物をし、店を出たのち、中居屋重兵衛の店の前あたりまで来たとき、突然背後より暴徒に襲われた。被害者は
(水夫)イワン・ソコロフ Ivan Sokoloff ・・・即死
 phet ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・重傷、のち死亡
であり、もう一人の士官は小型帆船に戻っていて助かり、ほかの水夫一名(ポポフ提督の給仕、氏名不詳)は負傷したが、一命は助かった。この給仕は、青物屋を出て、ニ十歩も行かぬとき、「殺(ヤ)られた、逃げろ!」といった少尉の言葉を聞いたように思った。給仕は何事かとうしろを振り返ると、モフェト少尉と水夫ソコロフが日本人と争っていた。さらにその日本人の刀は、こんどは自分目がけて振り降ろされようとしたので、給仕は手で頭を守ろうとした。相手の一撃は頭をそれはしたが、帽子を飛ばし左腕に喰い込んだ。そして第二の刃が打ち降ろされようとしたので、近くの店に飛び込んだ。幸いそこの主人が機転をきかし、すぐに戸を閉めたので難を避けることができた。給仕は、はじめ俵物のうしろに身を隠し、のち店の裏手に隠れた。手傷を負ったこの給仕の証言によると、襲ったのは六~八名の日本人ではなかったかという。

 水夫ソコロフの死体は凄惨をきわめるもので、頭は真っ二つに割られ、刃痕は鼻孔まで達していた。頭蓋骨からは脳髄がはみ出ていた。右肩も背中のうしろまで深く切られ、ひじの関節も切断され、大腿部の刃痕は骨まで達していた。また腕や手の肉も何カ所か削ぎ取られていた。犯人はそれだけで満足せず、刃で体を突き刺した。検死の所見では、おそらく即死、ということであった。
 士官モフェトもソコロフと同じように頭を割られそこから脳髄がはみ出ていた。肩甲骨を深く切られ、刃の先は肺にまで達し、その内部までのぞかせていた。その外にも外傷が見られたが、いずれも致命的なものではなかった。仲間の評判もよかったこの若い士官の場合は、即死ではなく、二時頃に亡くなった。しかし、意識が混濁する中で、襲われたときの模様について語ることはなかった。
 折から横浜には、台風によって難破したアメリカの測量船フェニモア・クーパー号(艦長ジョン・マーサー・ブルック、95トンのスクーナー船)が滞舶(タイハク)しており、急を聞きつけてやって来た
同船の艦長や乗組員の手で水夫ソコロフの死骸と瀕死・重傷の士官モフェトを仮宿舎へと運んだ。フェニモア・クーパー号の外科医は、モフェトの状態を一目見るなり、命は助からぬと思い、包帯をするだけにとどめ、必要な手術を施すことを断念した。手術をすれば、さらに苦痛を与えることが火を見るより明らかであったからである。
 アムールスキー伯が率いる艦隊は、コルヴェット艦隊リンダ・同グディン、砲艦オプリッチニク号など全部で七隻からなるのであるが、艦隊が極東に向かう途次ブレスト港(フランス北西部、パリの西590キロ)からリンダ号に乗り組んだイギリス人にヘンリー・アーサー・ティレーがいる。彼はどのような人物で、またいかなる資格で、何ゆえに同艦に乗ったものかあきらかでないが、二カ年間(1858~60)の航海を経たのち、紀行記『日本、アムール、太平洋』(1861年)をロンドンで出版した。この中でヘンリーは、事件についての貴重な見聞を記しているが、かれによると、「ずっしりとした、カミソリのように鋭利」な日本刀は、当時、西洋人から非常に恐れられていたという。
 現場には、六、七インチ(約18センチ)ほどの刀身の先が折れたもの、麻割羽織(家紋はない)一つ、犠牲者の軍服の切れはし、ぞうり片足(鼻緒は青)のほか、一分銀が一つ、100文銭10枚ほどが、遺留品として残されていた。が、犯人の手掛かりは皆目わからなかった。

 後手に回る神奈川奉行所
 そもそもロシア艦隊は、前年江戸において調印した日露修好通商条約の批准書交換とカラフト境界の画定を目的に来航したもので、江戸到着後、ロシア使節一行は芝の大中寺を旅宿とし、七月二十三日(8・21)に同寺院で交換を行った。折からロシア箱館領事ゴシケヴィッチ(1814~75)もこの交換のために出府していた。かれはロシア士官および水夫に対する殺傷事件が起こった翌二十八日、早くも幕府に対し、犯人を捕らえ、法に照らして処罰することを要求した。横浜におけるこの事件は、ある意味では起こるべくして起こったもので、じつは事件の前触れとして、随行の士官や水兵が江戸市中において侮蔑を受けるといった小事件もあり、アムールスキー伯がその犯人逮捕を当局に強硬に申し入れたために警護の武士の何人かは免職処分を受けた。これでもうロシア人に対して何事も起こらぬであろう、と高を括っていた矢先の事件であった。

 事件の詳細が伝わるや居留地に住む外国人らは度を失い、恐怖にかられ、ピストルを携帯するようになった。また江戸湾のロシア艦隊へもこの非常な出来事が直ちに伝えられると、被害者を引き取るために兵士を派遣した。当時、神奈川奉行であったのは水野筑後守(安政五・七~同六・八在任、前職田安家家老)であり、外国奉行も兼務していた。安政六年に横浜が開港場になると、神奈川奉行所は、その庁(役所)と共に戸部(現在の戸部町)に置かれ、ここで行政上の事務を処理し、貿易上のことは横浜の運上所において取り扱った。ところが、水野は、横浜における異変を耳にしても、直ちに凶行現場には行かず、戸部の役所で鎮座したままであった。ただ属吏を派遣し、凶徒逮捕の手配を指揮していた。
 しかし神奈川の各寺院に領事館を設けた米・英・蘭三カ国の領事らは翌二十八日(8・26)の未明には、日本人役人らによってたたき起こされ、横浜の変事についての説明を受けた。イギリス領事官は、青木町の浄滝寺に仮の庁を置き、文久三年(1863)に居留地の155番に移転するのだが、この頃はまだ神奈川にあった。当時、イギリス領事代理として神奈川に駐在していたF・マーティン・カウアンが、江戸のイギリス仮公館(東禅寺)にいる特命全権公使R・オールコックに送った急送公文書(1859・8・27付)には、二十五日(陽暦26日の誤り)の午前四時頃、日本人役人がどやどややって来たので、眠りから起こされ、「ロシア士官らが街中で日本人に襲われ、一人が死んだ」と告げられたこと、また役人らは奉行の命を受けて、各国領事館にも変事を伝えに来たものだが、この事件の処理方法についての意見を聞きたい、との伝言もあったことが記されている。…
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 捜査の限界
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 神奈川奉行は、犯人逮捕の手配を命じ、その行方を探索させはしたが、犯人を捕らえることはできなかった。犯行は水戸浪士、または攘夷党の一味の仕業であろうと、みな推測した。その後数年を経て、慶応元年(1865)の初めに、武田耕雲斎(水戸藩家老、尊皇攘夷を唱えて筑波山に挙兵した)が率いる天狗党の一味を訊問した際、その中にいた小林幸八が、この事件の犯人であることが判明し、同年五月、横浜において梟首(さらし首)されたという。

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 歪んだ「異人」観ーーフランス領事館の清国人ボーイを斬る
 居留地のヨーロッパ商人らを震撼させたロシア人殺傷事件のほとぼりがまださめぬうちに、第二の外国人殺傷事件がまたしても起こった。安政六年十月十一日(1859・11・13)の午後六時半頃、神奈川駐在フランス領事代理ホセ・ロウレイロの清国人召使いが、横浜弁天通りで二人の武士に背後から襲われ重傷を負ったのち、死亡した。犯行現場は港崎町わきの外国人御貸長屋通り(イギリス人W・ケズウィックの家の近く)である。
 この清国人の名前はあきらかでないが、物静かで、まじめな人物であったらしく、人から憾みを買うような人間ではなかった。たまたま主人の用事で横浜に来て災難にあったもので、事件当日には、洋服を着、ブーツをはき、フェルト帽をかぶっていた。死にぎわの苦痛の中で、同人が語ったところによると、跡をつけて来たサムライが二人いて、そのうちの一人が、いきなり提灯を眼の前につき出したので、「何か御用ですか」と尋ねたところ、背後からもう一人のサムライに斬られたという。刀きずは、左肩下から右腰にかけて長さ九寸五分(役29センチ)深さ約三寸(約9センチ)ほどもあった。召使いは程なく日米双方の医師の手当てを受けるのであるが、深手であったためにかれらもさじを投げてしまった。
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 水戸浪士小林忠雄の「異人」観
 この事件は迷宮入りともなりかねなかったが、六年後の慶応元年(1865)夏、ついに水戸浪士小林忠雄が犯人として挙げられた。ベルクール仏総領事がフランス外務省に送った外交文書の中に「水戸公に仕えた元サムライの小林忠雄に対する判決文」(1865・7・30付)があり、この中に小林が自ら罪状を白状した口書(コウショ)(口述の筆記)が引用されている。それによると、小林は小八郎・竹三郎という者たちと横浜に買物に来たとき、ロシア人としか思えぬ者(ロウレイロの召使い)と出会った。その者から乗馬鞭のようなもので肩を打たれたという。二本差しの武士が、外国人から体を打たれるということは恥辱と思われた。二人の連れも同意見であった。小林はこの無礼な外国人を切ってはじをそそごうと決心し、ついに背後から肩を切りさげた。
 
 清国人を切った後、小林は遁走し、その後山田イチロウ、アサクラ、イジュチラ(?)という者たちと近国近在の村々を訪ね、刀に物をいわせて、富裕な者から軍用金と称して金をまき上げた。ゆすり同然に集めた金は3,000両ほどになった。その後、小林は天狗党の乱(元治元年=1864年、水戸藩尊攘派藤田小四郎・武田耕雲斎らが挙兵した事件)に加わり、大平山(栃木市と下都賀郡大平町との境にある山、345メートル)に立てこもり、次いで筑波山に移ったが、幕府と水戸藩の追討軍に攻められた結果、党を離脱し、町人に変装し、各地を逃げ回った。しかし、京都で逮捕され、訊問を受けたとき、言葉の端から、横浜の清国人殺害の下手人でないかと疑われ、江戸に送られ、ついに罪状を認めた。
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                   異文化を体験した男ーーイギリス公使館の通弁伝吉を刺殺

 「イギリス臣民」伝吉殺害の真相
 安政七年正月七日(1860・1・29)こんどは外国帰りの日本人が攘夷志士のテロに遭って刺殺された。犠牲者は、イギリス公使館(品川高輪の東禅寺)付通弁の伝吉(英名=Dan-KicheまたはDan-Kutciなどのと綴る)である。
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 安政七年正月七日(1860・1・29)の午後のことである。駐日英公使ラザフォード・オールコック(1809-97、59-64在任)は、アメリカ公使ハリスを見舞ったのち、公使館が置かれている東禅寺に戻り、自室にいると、部屋の外でだれかが急いでやって来る足音を聞いた。障子を開けて入って来たのは、たまたま公使館に泊まっていた英艦ローバック号の艦長マーテン大佐であった。かれは「早く来てください。あなたの通訳(伝吉)が重傷を負って運ばれてきます」と、せき込むようにいった。伝吉は戸板にのせられていた。かれは短刀で背中を柄のところまで突き刺され、その先端は右胸の上に出るほどの深手であった。オールコックが声をかけると、目をすこし動かしたが、意識はほとんどないようだった。ときどきくちびるを震わすが、ひとこともしゃべらない。傷口を調べるために洋服の一部をぬがしている間、一、二度けいれんを起こし、その痛みのためか全身を震わすとほどなく苦悶することなく息を引きとった、という。
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                  治安維持の限界--オランダ人船長二人を横浜で斬殺

 動機不明の残忍なテロ行為
 イギリス公使館通弁伝吉が刺殺されて一ヶ月も経たぬうちに、再び横浜において惨劇が起った。安政七年二月五日(1860・2・26)の午後七時頃、横浜本町の四丁目と五丁目の間で、オランダのブリッグ船クリスティアン・ルイ号の船長ウェセル・ド・フォスとスクーネル船ヘンリエット・ルイサ号の船長ナニング・デッカーら二人は、太刀を帯びた日本人によってずたずたに切られた。両人は本町通りで買物中に背後から襲われたのであるが、あたりは血の海と化した。事件当夜、被害者の悲鳴を聞いたのち、むごたらしい現場に駆けつけた目撃者がいる。
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 またこの日、オールコックと老中脇坂中務大輔安宅(安政4・8~万延元年・11在任、のち再任)との間で殺伐とした情勢をめぐっての会談が行われた。オールコックは、これまでに外国人が六名を殺害されているにもかかわらず、犯人は一人も挙げられていないこと、とりわけ横浜居留地に住む外国人は恐慌状態に陥っていること、関門の設置や酔っ払いを取り締まるよう申し入れておいたが、未だ対策が講じられていないことなどについて、幕府側に強く抗議した。

 江戸市中でのフランス公使館員負傷事件
 横浜においてオランダ人二名が殺害されてからというもの、取り締まりも強化され、久しく同地において異変も起こらず、街も平穏な様子を呈しているかのように思えた。が、江戸においてはイギリス公使館通弁伝吉の刺殺事件が起こって約八ヶ月後に、こんどはフランス公使館(三田の済海寺)の館員ナタール(Natar イタリア人)が、麻上下や羽織を着用した侍四、五名のうちの一人と口論のあげく刀で切られるといった傷害事件が起こった。殺人事件には至らず、幸い同人の命に別条はなかった。
 ナタールの職掌は、公使館の旗番(gardian de pavillon)であった。事件は万延元年九月十七日(1860・10・30)の夕方六時頃、宿舎となっている済海寺の門前で起こったのである。ナタールの被創(刀きず)は、幸い大事に至らなかったが、江戸に駐箚する公使館員に加えられただけに幕府の外国公使館に対する万全の措置の不備と無力さを再びあらわにした。この傷害事件の彼我の報告書を読み比べると、当時、幕府がいかにこの事件を捻じ曲げ、もみ消そうと努めているかがよくわかる。
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                   流浪の果てにーーアメリカ公使館通訳ヒュースケンの暗殺

 「あわれな冒険者」の末路
 万延元年十二月五日(1861・1・15)の深夜のことである。オールコック公使のもとへ、善福寺のアメリカ公使ハリスから、ヒュースイケンが切られたので、大至急医師を寄こして欲しい旨のメモが届けられた。オールコックは早速、マイバーグ(医師)を善福寺に遣った。が、同人はイギリス公使館に戻ると、ヒュースケンが死んだ、と報告した。ヒュースケンは、日本駐箚アメリカ総領事(のち公使)タウンゼント・ハリス(1855~62在任)の秘書兼通訳として来日した者である。
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 ヒュースケンには三名の騎馬の役人がついていた。一人はかれの前に、他の二人は後につき、さらに大君の紋章の付いた提灯をもった徒士(従僕)が四名、馬丁が二名そばに随行した。ところが、一行が麻布薪河岸(芝新堀端芝南新門前代地通り)にさしかかったとき、突如、両側より不逞な一団に襲われたのである。刺客らは二組に分かれ、ヒュースケンを待ち受けていたのである。かれらのうち三名は、提灯を持った役人の馬に刀の峰打ちをくわせ、これを押し止め、役人をうしろへ引張って行った。しかし、役人は不思議なことに、この行為に対して何の抵抗も示さず、ましてや相手を捕らえようともしなかったのである。この間に四名の侍は、供の者の提灯をまず切り落とすと、次いで馬の前足を切り、ヒュースケンに躍りかかって、これを斬りつけた。襲撃は瞬時にして行われたので、かれはピストルを抜くひまもなく、両脇腹に傷を負った。そして馬に拍車を加えて200ヤード(約180メートル)ほど走ったところで、落馬した。警護役の騎馬役人三名ばかりか、徒士・馬丁らもとっくに逃げてしまっており、かれは懸命に従僕の名を呼んだ。しかし、しばらくの間、誰一人かれを助けには来なかった。一方、ヒュースケンを斬りつけ、手応えありとみた刺客らは、難なく暗やみの中に姿を消した。
 ヒュースケンを襲った刺客の数は、日本側の報告では「武家方侍四、五人」(「米国書記官ヒューケン遭害一件」)とあり、ハリスが国務省へ送ったそれには「七名」とある。襲われたのは、午後九時前後のことか。かれは落馬して15分ばかり路上で呻吟していた。やがて役人らは戸板を見つけ、その上にヒュースケンを乗せ、九時半頃善福寺に運び込んだ。血だらけのヒュースケンの姿を見たハリスは愕然とし、声もなかったが、気を取り戻すと、直ちにプロシアとイギリス両代表部へ外科医の応援を求めたのである。早速、プロシア公使館からはフォン・ルチウス医師が、イギリス公使館からはマイバーグ医師が、ヒュースイケンの治療に駆けつけたことはすでに述べた。
 ヒュースケンが戸板でかつぎ込まれたのは仮のアメリカ公使館が置かれている善福寺の一坊(善行寺)である。かれが刺客に斬られたのち宿坊に運び込まれ、その後の模様を如実に伝えているのは、ハリスが国務省に送った報告書(1861・1・22付江戸発)である。
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 駆けつけた人々は、二人の医師とフランス公使館のジラール神父(メルメ・カションの後任の通訳官)を残して一時それぞれの宿舎へと帰った。十二時頃ヒュースケンは再びワインが飲みたいとといったので与えた。何口か飲んだあと眼をつむり、ジラール神父より終油秘跡を与えられ、静かに死んで行った。万延元年十二月六日(1861・1・16)の午前零時三十分のことである。享年二十九歳であった。

 

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孝明天皇毒殺説

2018年07月15日 | 国際・政治

 幕末から明治のはじめ、尊皇攘夷をかかげる過激な人達によって、多くの幕府関係者や公武合体を主張する公卿などが暗殺されました。また、「神州を汚す」として、当時日本にいた外国人を斬り捨てるいわゆる「異人切り」も後を絶ちませんでした。したがって、それらを取り締まる幕府側も、報復的に尊王攘夷派の人達を斬り捨てるということが、そのころ繰り返されたのではないかと思います。

 だから、妹の「和宮」を降嫁させていたこともあって、討幕を受け入れず、公武合体を望んだ孝明天皇も、荒れ狂うテロの渦中に巻き込まれ、毒殺されたのではないか、と私は考えます。

 狂信的な尊皇攘夷の思想が、数々の暗殺事件のみならず、二度にわたる幕長戦争や薩英戦争、下関戦争、また、戊辰戦争などの原因にもなったのではないかと思います。したがって、尊皇攘夷をかかげた討幕派の人たちが、策謀によって幕府を倒し、天皇を神聖視する国家をつくりあげたことが、必然的に朝鮮王宮襲撃事件や日清戦争、日露戦争、日中戦争、第二次世界大戦へと突き進んでいく結果をもたらすことになった、と思うのです。
 そしてそれは、「五か条の御誓文」発表時に公表された「朕…みづから四方を経営し、汝億兆を安撫し、遂には万里の波濤を開拓し、国威を四方に宣布し、天下を富獄の安きに置かんことを欲す。…」という天皇の「宸翰」に暗示されているように思います。

 私が、討幕派の志士を美化し、明治の時代を明るく描いたり、「文化の日」を「明治の日」にかえて、「日本国が近代化するにあたり、わが民族が示した力強い歩みを後世に伝え、明治天皇と一体となり国つくりを進めた、明治の時代を追憶するための祝日」にしようという考え方を受け入れ難い理由は、そこにあります。
 また、「テロリスト」ともいえるような人たちを「明治の元勲」と呼び、いろいろな歴史的事実を伏せて、明治の時代を近代化の側面を中心にとらえるような歴史は、見直される必要があると思います。「勝てば官軍 負ければ賊軍」という考え方に基づくような歴史は、乗り越える必要があると思うのです。

 2015年05月、世界の日本研究者ら187名が、日本における歴史修正主義の跋扈や歴史的事実を主張する者の社会的排除、そして、それらを支えるような政府の歴史修正主義的な姿勢を懸念して、「日本の歴史家を支持する声明」を発表しましたが、不都合な事実はなかったことにする政権の歴史修正主義的な姿勢は、明治の時代から受け継がれてきており、今後も受け継いでいこうとしているのだと思います。

 下記は「天皇家の歴史(下)」ねずまさし(三一書房)から抜粋しました。そこには、孝明天皇の死後”ただちに毒殺の世評おこる”と題して
このように順調に快方に向かっていたにもかかわらず、天皇は突然世を去った。典医の報告は重要な日誌を欠いているため疑惑を一層深めるが、これと符節を合わせたように、毒殺説が早くも数日後廷臣の間にあらわれた。
と書かれています。
 そして、当時日本にいた外交官アーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新(上)」に、孝明天皇の毒殺について触れられた文章があり、伊藤博文を殺害して処刑された安重根も、「伊藤さんは、42年前に、現日本皇帝の御父君に当たられる御方(孝明天皇)を害しました。そのことはみな、韓国民が知っております」といって、伊藤博文殺害理由の一つにあげていたにもかかわらず、そうした世評があったことさえ伏せられている現状には問題を感じます。

 しばらく前、官邸の関わる公文書改ざん問題が毎日のように報道されていました。そして、ウソにウソを重ねた関係者の証言の矛盾点が既に暴かれているにもかかわらず、野党の要求する人物は、求めに応じて事情を説明することをせず、ひたすら忘れ去られる時を待つかのような姿勢を貫いています。そうした姿勢が、明治以来一貫しているのではないかと思うのです。  
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                       第二十八章 孝明天皇の毒殺

     一 典医の報告でも毒殺を暗示する

朝廷では慶應二年十二月二十九日に、天皇(三十六歳)が二十五日に痘瘡のために崩御した、と公表し、今日にいたるまで、宮内省と文部省はこれを確信し、国民に信じこませてきた。宮内省編さんの『孝明天皇記』は病死説の根拠として『非蔵人日記』、『二条家記』、『御痘瘡之記』、『中山忠能日記』、『土山武宗日記』などを引用し、全く疑惑のおこらないように説明している。これをもとにして、文部省維新史料編さん会の『概観維新史』や『維新史』(第四巻)もまた病死説を記している。こうして病死説は、明治以来の天皇国家の公式の意見であって、もし毒殺説を主張するものがあれば、不敬として処分されたにちがいない。

 それにもかかわらず、国民の間においては、ひそひそと天皇の毒殺説が語られ、ほとんど全国にわたってささやかれてきた。これを公然と発表した文書は、英人外交官サトウの『日本における外交官』であったが、うわさの程度を出なかった。それにしても、サトウは「その間の内幕によく通じている一日本人によって、私は帝が毒殺されたのだ、ということを信ずるようになった」とのべ、このうわさの出所が信頼できるものであることを、ほのめかしている。しかし塩尻氏の訳書では、この項をけずっている。国民はうわささえ、しらされなかったのである。

 ところが昭和十五年七月といえば、太平洋戦争のおこる前年で、言論にたいする圧迫のきびしい最中である。大坂の学士会クラブで開かれた日本医史学会関西支部大会に陳列された孝明の典医の一人伊良子光尊の日記を、医史学の大家佐伯理一郎博士が検討し、「孝明天皇の症状が二十二、二十三日(十二月)頃順調な経過をとっているというところで、記事が中絶している」のをみて、ただちに「天皇が痘瘡にかかられた機会をとらえて、岩倉具視が女官に出ている姪をして、天皇に一服毒を盛らしたのである。…伊良子氏の資料に於て、肝腎のところで、筆が絶たれているのは、わざと誌すのを憚ったのか、嵌(カン)口令によって筆を折ったのか、この一大事にしめ出しを食って、他の一、二の典医だけしか関与しなかったので、詳細を知らなかったために、日記が欠けたのか、理由はわからないが、岩倉の天皇毒殺を裏書きする一つの貴重な傍証であると思う」と遠慮するところなく、論断した。列席者は時が時だけに驚いたが、同時に博士の学問を追及する熱意と勇気に感激したという。これは特殊の学会でもあり、列席者のなかに憲兵隊なり、警察に密告する人もいなかったため、博士は弾圧をうけることもなかった。日本人が、とにかく公開の席上で毒殺説を発表した最初の機会として、注目に値する。

 しかしこの講演のことが、文字として記録されたのは、中野操博士が敗戦後になって発表した時にすぎないから、結局毒殺説が文字として記述されることは未だかつてなかったといって差支えない。このように毒殺説は、民間や外人にさえも、口伝えにひろがっていたにもかかわらず、禁断の木の実であった。

 そこで、私は『孝明天皇記』が引用している典医の病症日記(典医の武家伝奏にたいする報告。これが天皇の死後加筆されたか、削除された部分があるかどうかは不明である。宮内省の刊本であるかぎり、この点には問題があろう)そのものを検討してみることにする。勿論この『孝明天皇記』は敗戦までは、帝国大学などでも貴重図書の扱いをうけ、みだりに引用することはむずかしかったし、批判を加えることは許されなかった。
天皇は十二月二十一日に内侍所でおこなわれた臨時御神楽に出席した。しかし、風邪ぎみなので、医師がとめたにもかかわらず、出席した。しかし行水はおこなわなかった。この時典医の高階典薬少允が診察し、発汗剤をのませた。しかしその後も熱は下がらず、汗も出ず、睡眠もできず、食事もとれず、高熱のために、ウワ言をいって苦しんだ。そして十四日なって山本典薬大允が診察して、痘瘡であることが判明し、十五日に手に吹出物(水泡)があらわれた。そして下剤がきいて通じがあり、熱も下がりはじめ、まず順当な経過と診断された。かくて十六日に朝廷では、公式に痘瘡であることを発表、七社七寺に全快の祈りをおこなわせた。この日に吹出物が顔にあらわれ、十七日には皮膚がはれ、食欲もおこり、通じも順調となり「ますます御機嫌よくなってきた」と報告された。症状報告には高階、藤木、山本、河原、伊良子、西尾、福井、大町、久野、三角ら十五人の医師が署名しているので、一応十五人の意見の一致した公式のものと認められるから、『中山日記』に伝えられるように、高階一人が痘瘡をあまり手がけなかった医師だったとしても、全医師団の誤診とか、調薬ちがいを引起す程の影響はなかったと思われる。その上種痘のない当時では、痘瘡の経過とか、処置については医師は相当に習練していたわけであるから、一人の医師が未熟だとしても、全医師団を誤診にみちびくことはないと考えられる。十八日以来ますます経過はよく、真言宗の誓願寺大雲院の上乗坊と天台宗の護浄院(一名清師荒神、上京区荒神口通 寺町)の権僧正湛(タン)海が招かれて加持祈とうを
おこない、加持のききめが早くもあらわれたと喜ばれた。

 その夜痘(モガキ)は紫色になり、安眠もでき、便通も食事も順調となった。当局は極秘にしており、ひそかに目病(ヤミ)地蔵へ鳥飼という者を祈とうにつかわしたが、早くも町人が知ったということで、廷臣たちは大いに驚いた。十九日の症状も順調と記録され、食事は大いに進み、中山慶子も「さてさて有がたき御事」と喜んでいる。二十一日には慶喜らが見舞に参内し、膿が水疱から出はじめ、ますます順調に全快に向かっていると報告された。二十三日には膿もおわりとなり、二十四日には収靨(メン)になり(つまり痂(カ)皮ーーかさぶたーーができた)、総体において、相応の回復状況と診断された。
 この病気の症状を医書などで調べてみると、潜伏期が十二日程あってから、高熱を発する。十一日に風邪と思われたのは、実は潜伏期がすぎて発熱期に入った時であった。十三日の不眠、高熱、食欲不振、ウワ言などは、前駆期(ゼンクキ)にあたる症状であって、翌日に山本典医が痘瘡と診断し、全医師団はそれにしたがって、診察や投薬をした。当時宮中には痘瘡患者がでており、側近のもので、全快して勤仕した者もあって、天皇はこれらの患者から伝染したようだ。現神といわれる天皇も病菌には勝てないのであって、まさにここにこそ、彼が神でなく、人間であるという証拠がある。

 前駆期から熱は四十度にも達し、頭痛や吐気が加わり、便秘し、食欲はなく、ウワ言をいい、顔がはれ、結膜は充血する。そしてその第一日か、第二日に麻疹様の鮮紅色の発疹がでる。第四日に吹出物、つまり丘疹期(キュウシンキ)がはじまり、顔、頭、四肢などに小紅疹があらわれる。これが出はじめると、熱が下がりはじめる。天皇は十七日から便通があり、食欲もおこり熱も下がり、悪化へ向かう症状はなくなった。悪化へ向う場合は(融合性痘瘡など前駆期の高熱が少しも減退しないままで、水疱や膿疱があらわれ、口腔や咽頭にも発疹し、呼吸が困難となり、吐気があり、昏睡し、ウワ言がつづき、ついに心臓麻痺をおこして、死にいたる。しかし天皇の症状は十五日から前駆期が終わり、快方へ向っている。十七日から安眠もでき、十八日に水疱がはれてきて、膿をもち、膿疱期に入った。そして二十一日から灌膿、すなわち膿をふきだし、医師は「御機嫌よく」とか、「御静謐(セイヒツ)(安静)」とか、「何の申し分もあらせられず」と報告している。
 熱も下がり、これから膿疱は褐色の痂皮を結んで、乾燥することになる。二十三日に膿のふきだしがおさまって、乾燥して収靨しはじめた。
 医師の報告のほか、十八日から毎日加持に参内していた湛海権僧正の日記も、病状が順調に快方に向かっていることを報告している。

 ここで湛海権僧正の日記発見のいきさつについて、少しわき道にそれるが、かいておきたい。戦前の昭和十七年四月七日頃、京都府史蹟名勝天然記念物調査委員の赤松俊秀氏(現在京都大学名誉教授)は、寺宝調査のため、もとの立命館大学奈良本辰也、京都府嘱託田井啓吾(戦後死亡)、奈良学芸大学教授岩城隆利諸氏とともに、真言宗の誓願寺をたずね、その塔中(タッチュウ)の大雲院において、当時天皇の加持祈とうに招かれた上乗坊の日記を発見した。十二月二十五日の条に「天皇の顔には紫の斑点があらわれて虫の息で、血をはき、また脱血」云々という記事がかかれており、赤松氏ら一同は非常に驚き、天皇の死が尋常のものでない、という強い印象をうけた。しかしこの寺はまもなく経営難におちいり解散してしまい、古文書は紙くず屋に売られて、今日では入手できない有様となった。ところでこの時赤松氏らは護浄院調査にまでは着手できなかった。この間の事情について御教示をたまわった赤松教授には深く御礼を申したい。
そして残るところは護浄院である。戦時戦後の食糧難や寺院に加えられた種々の束縛のため、大抵の寺が古文書を売却している京都において、著者は不安を胸にいだきながら昭和二十八年十一月京都を訪れ、奈良本教授とともに、七日に護浄院をたずね、古文書の調査を申しでた。ところが、わずかにすぎないが、示された文書のなかに湛海から江戸の輪王寺宮へだした「孝明天皇崩御」にかんする、うすい報告書がでてきた。この報告書は正本の写しであるが、そのなかに当時の日記が引用されている。くわしい報告は「歴史学研究」に発表したので、参照されたい。この調査について、種々の助言や協力をおしまれなかった奈良本辰也教授にたいして、あつく御礼を申しあげる次第である。

 湛海の日記は十八日からはじまる。十八日の症状は相当に悪く、「御上り物御薬など御返し(嘔吐)……御吹出物御膿ぬるぬるあらせられ……御障子一ト間御切明け、それより竜顔を奉拝、御加持申上候」とある。また『孝明天皇紀』引用の『土山武宗日記』には「僧正は御末口から常御殿の庭に廻り、御祈とうをした」と報告されている。ところが十九日から前述のように(僧正は「法験あらわれ」と誇っているが)、天皇は食欲が出はじめ、翌日は「叡感斜めならず」(気分がよくなった)というので、彼は三十両を与えられた。それ以後は典医の公報同様に「順症」となって、快方へ進み、皇后(准后)らも安心した。そこで二十四日は加持も七日目で満願となり、一応打切った。しかし准后からはなお当分加持にくるよう依頼された。
 ところが二十五日朝、急に使者がきて参内するように命令され、僧正はいそいで参内した。
 典医の二十五日の報告によれば、二十四日の夜から嘔吐がはげしくなり、下痢もはじまり、二十五日の朝には嘔吐も少しへったけれども、「微煩の模様」があり、これは「今一段と御内伏の御余毒御発洩遊ばされかね候の御事と診(ミ)奉候」とある。ところが『孝明天皇記』は、同日一昼夜および二十六日の症状はのせていない。
 この両日こそ、もっとも重大な容態であるから、医師の報告がなくてはならない。それを故意にのせないのは、前述の佐伯博士のいう通り、嵌口令が数十年後のここでも守られている証拠である。そこで『中山日記』をみると、下痢と嘔吐がはげしく、食欲はなくなり、天運つき、側近の者は落涙した。そして午後十一時頃、ついに事きれた。
「玉体は、見上げるのも恐れいる程の有様で、当局は天皇の死をまだ極秘として発表していない」という慶子の手紙をのせ、二十八日の項には、慶子から極秘の文書が父の忠能のもとに送られ、それが引用されている。
 それによると、「二十四、五日頃は何の仰せもあらせられず、両三度大典侍大典侍と召され候へども、その折りに御側におられず、ただただと当惑するばかり致しおられ、二十五日後は御九穴より御脱血……」とあって、この二十五日の重態の時に、側近にはだれもいなかったことが報告されている。ただ祈とうによばれた僧正が祈とうを繰返した。その時彼が見た天皇の様子は「胸先へ御差込み容易ならぬ」もので、盛んに苦しんだ有様が語られている。

 ここで著者は中山慶子の手紙のうち、「御九穴より御脱血……」という部分に、傍点をつけた。毒殺に砒(ヒ)素を使うことは、中国や日本でも古くからおこなわれたようである。中国の明時代の小説『金瓶梅』の第五話をみると、「淫婦が武太郎に毒を盛ること」のなかに、武太郎の妻が、砒霜を胸痛薬といって、胸痛にくるしむ夫にのませ、殺す状景がかいてある。呑んだ武大は、「おいら息がつまるよ」と叫んだ。その「肺臓心臓は油で煎られ、肝臓はらわた火に焼け焦げる。胸は刺される氷の刃、腹はぐりぐり鋼(ハガネ)の刀、からだ全体氷と冷えて、七つの穴から血は流れ出る。歯はがちがちとかみ合って、魂はおもむく横死城、喉はごろごろ干からびて、霊は落ちゆく望郷台、地獄にゃふえる服毒亡者」……「女が蒲団を持ち上げてみると、武大は歯を食いしばり、七つの穴から血が流れている」というように、むごたらしい砒霜の毒死の状況がかかれている(小野忍・千田九一訳、平凡社、昭和四十七年刊、上、五十八頁)。全く同じ死の状況である。
 医師もいろいろ手をつくしたが、どうにもならず、この上は加持以外にないというわけで、僧正は一層「丹誠をこめて」祈った。すると不思議にも痰がきれて、やや持直した。僧正は別室にさがって一休みしたが、再び招かれて、「玉体側まで相進んで」加持を加えたが、その最中に「御大事に及ぼされ、何とも申しあげようもなく」なったのである。とにかく『孝明天皇紀』にも当日の容態が発表されていない以上、この僧正の記録と『中山日記』とは、最も重要な史料といって差支えない。今後とも典医諸家の日記の調査に期待をもつ次第である。

 史料編さん所の吉田常吉氏は『孝明天皇紀』所引の史料や『中山日記』などによって、戦後「孝明天皇崩御をめぐっての疑惑」を発表され、大体において病死説をとられている。しかし「白とも黒とも断言できない」旨をも附記されている。とにかく従来の毒殺の伝説とか、蜷川新博士の『天皇』(光文社刊)と、大宅壮一氏の『実録天皇記』にかかれた噂の程度の毒殺説では、吉田氏の病死説に対抗することはできないように思われる。

     二 ただちに毒殺の世評おこる

 このように順調に快方に向かっていたにもかかわらず、天皇は突然世を去った。典医の報告は重要な日誌を欠いているため疑惑を一層深めるが、これと符節を合わせたように、毒殺説が早くも数日後廷臣の間にあらわれた。『中山日記』の翌年一月四日にのせた老女浜浦の手紙によると、「誰かが痘毒を天皇にのませたので天皇が罹病した。その証拠には容体をかくし、内儀の者さえも少しも容体を知らず、二十五日の姉敏(トキ)宮の見舞いも廷臣がとめようとしたことがあって、このようなことが陰謀をかくす証拠だとうわさされている。こんな話はとるにたりないが、油断がならない」ということがかかれ、また七日の彼女の手紙には「当局は黙秘しているが、世間では案外よく知っている。十六日の病名決定以後の症状を発表しないために、うわさが起るので、発表せられたいというので、いよいよ公表することとなった」というのである。これによって典医の報告が前記の形で公表されたわけであろう。以上の様子からみると、早くも毒殺のうわさがたっていたことがわかる。
 その上、次代の天皇として践祚した祐(スケノ)宮は、毎夜のように前帝の亡霊に苦しめられ、その亡霊は鍾馗(ショウキ)のような姿をし、剣をもっている(『朝彦日記』、下巻 慶応三・正・五。同十二)。そこで朝彦は怨霊退散のため、長福寺の僧に加持を依頼した。その消息は、岩倉の親友の千種有文も岩倉へつたえている。まさに『ハムレット』というところである。孝明の異常な死に方を知っていればこそ、新帝の心にこのような不安な動揺がおこったのである。古来天皇家の歴史において、非業な最期をとげた皇族は多く、迷信深い宮廷はその怨霊のたたりを非常に恐れた。新帝がこの悪夢になやまされたことは、毒殺を信頼させる一つの証拠となる。

 毒殺の世評は、このように朝廷内からおこった。二十四、五日の両日に大典侍らが側近にいなかったことも、不審といえば不審である。毒殺ということになると、病状日記をみても、犯人は二十四日に一服もったことになる。この犯人を「誰」と明示した史料は恐らくあるまい。もしあったとしても明治になってからは犯人側が政権を握ったのであるから、焼きすてられてしまったに相違ない。これについて前記の佐伯博士がこう語っている。「天皇が痘瘡にかかられた機会をとらえて、岩倉具視が、女官に出ている姪(?)をして、天皇に一服毒を盛らしたのである」と岩倉をはっきり指名している。前にもいった通り、国家の言論圧迫のきびしいこの頃に、公然と公開の席上で、明治の元勲を犯人として指名するのであるから、博士には十分な確信があったものと思われる。すなわち博士は言葉をついで、「自分は或る事情で、洛東鹿ヶ谷の霊鑑寺(比丘尼御所)の尼僧となった当の女性から直接その真相をきいたから、間違いない」と断言している。
 この岩倉の姪という女性はだれであろうか。具視はもと堀河康親の二男であって、岩倉家に養子に入った人物である。その姪といえば、兄の堀河親賀か、弟の納親の娘でなくてはならないが、『堀河家譜』には、これにあたる婦人はいない。ところが具視とその異母妹の右衛門掌侍堀河紀子とは、和宮降嫁以来「天皇にチン毒を献じて」暗殺しようと非難され、尊攘派から暗殺されかけたため、天皇も公卿も彼にたいする態度を硬化して、彼らを処分したことは、すでに第二十五章において述べた通りである。いわば両人は天皇暗殺未遂の前科者である。したがって後世から容疑をうけるのも理由のないことではない。こういうわけで、天皇が幕府のロボットとなり、討幕派の邪魔者となった今日、岩倉が再びテロルに訴えようとしたことは、不自然ではない。したがって紀子や藤宰相は再び岩倉の指令のもとに暗躍し始めた(第二十七章 ニ、尊攘派の御所襲撃、スパイにかこまれる天皇)。また具視の孫の具定は、幼児から児(チゴ)として天皇の側近につかえ、当時は十六歳で、近臣として勤仕していることも、一考を促す材料である。天皇はあくまでも幕府と結んで、征長役を勅許して、討幕派に対抗する以上、このようなテロルが計画されるのは、宮廷の必然的なりゆきであって、天皇は討幕派の闘争の血祭りにあげられたといってよい。

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