真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

戦争に関わる歴史の真実は・・・ http://hide20.web.fc2.com に記事にリンクの一覧表

神社参拝の強要と終戦時朝鮮における昇神式

2021年07月21日 | 国際・政治

 1945年(昭和20年)8月15日正午に玉音放送があり、前日に決定されたポツダム宣言受諾及び日本の降伏が国民に公表されて、帝国政府が軍に武装放棄と連合軍への投降命令を発した直後、朝鮮では神社がまっ先に昇神し、人民に先んじて引揚を行ったといいます。
 その素早さに驚きますが、下記の抜粋文によって、その理由がわかるような気がします。

 朝鮮における神社の昇神と引揚に関する竹島朝鮮神宮権宮司や総督府祭務官高松忠清氏の、下記抜粋文にあるようなことばは、朝鮮における神社信仰が、本来あってはならない強要に基づくもので、朝鮮人の信仰心に基づくものではなかったことを物語っているのだと思います。特に、”神社は朝鮮の土地・住民に即した神を祀ったものではなく、日本内地から神霊をお移ししたものであったこと”を、自ら昇神の理由の一つに挙げていることは、見逃せません。
 また、”神の尊厳維持は国家の至上命令であり、その責任はあくまで国家にあった。神職は、官の命により神社を守るものであった。しかも神社を護持する信仰団体が朝鮮民間に結成されていなかったために、昇神式挙行の命を出さざるを得なかった”との説明も、やはり朝鮮における神社信仰に無理があったことを物語っているように思います。

 下記の、
” 八月十五日の夜、平壌神社が放火されたのをはじめとし、相ついで各地の神社・神祠が破壊・放火された。さきにあげた総督府の統計によると、八月十六日から八日間に、神祠・奉安殿に対する破壊・放火は136件におよんでいる。これは警察官署に対する襲撃・占拠・接収・要求など149件にほぼ匹敵する数字で、行政官庁に対する暴行件数よりも多い。
 という文章は、そうした実態を裏づけるものではないかと思います。多くの朝鮮人が、強いられた神社参拝に不満を抱きながら、我慢を続けていた証しなのだろうと思うのです。
 だから、神社の破壊や放火に関して、著者・森田芳夫氏が
神社が朝鮮人にとって今後利用価値のない施設であると考えられたからでもあろうが、根本的な原因は神社参拝が朝鮮人にとっては民族弾圧と考えられ、その不満が神社や奉安殿に向けられた点もあったといえよう。
 と認めていることは、重大であり、われわれ日本人が忘れてはならないことの一つだと思います。

 下記は、「朝鮮終戦の記録 米ソ両軍の進駐と日本人の引揚」森田芳夫著(厳南堂書店)の「第三章 終戦時の朝鮮」から「四 神宮・神社の昇神式」を抜粋しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
              第三章 終戦時の朝鮮

              四 神宮・神社の昇神式

1 朝鮮における神宮・神社
 終戦によって、朝鮮が混乱におちいったときに、総督府当局がもっとも心を配ったことの一つに、天皇皇后両陛下のお写真と神社がある。朝鮮統治は、その究極の理想として、朝鮮民族の「同化」「皇民化」を掲げた。したがって天皇皇后両陛下のお写真と神社の尊崇は絶対的であり、とくに戦争中の行事に、その儀式が尊重された。終戦の年に、全朝鮮に官幣社2(朝鮮神宮・扶余神宮[扶余神宮は造営中であった])国幣小社8(京城・全州・光州・大邱・龍頭山[釜山]・平壌・江原[春川]・咸興)一般神社69、神祠1062を数えていた(表略)。朝鮮神宮参拝者は、日華事変以後急増して年間二百万名を越え、十七年の参拝者数264万8365名、一日平均の参拝者数は7千名を越えた。
 八月十五日の夜、平壌神社が放火されたのをはじめとし、相ついで各地の神社・神祠が破壊・放火された。さきにあげた総督府の統計によると、八月十六日から八日間に、神祠・奉安殿に対する破壊・放火は136件におよんでいる。これは警察官署に対する襲撃・占拠・接収・要求など149件にほぼ匹敵する数字で、行政官庁に対する暴行件数よりも多い。
 過去に幾度か朝鮮内に起こった民族運動において、学校や警察署に放火されることはあっても、神社が焼かれたことはなかった。終戦とともに神社が焼かれたことは、学校や警察署とは異なって、神社が朝鮮人にとって今後利用価値のない施設であると考えられたからでもあろうが、根本的な原因は神社参拝が朝鮮人にとっては民族弾圧と考えられ、その不満が神社や奉安殿に向けられた点もあったといえよう。しかし、そのことの日本人に与えた精神的衝撃は大きかった。

 2 朝鮮神宮の昇神式
 八月十六日の午前、朝鮮神宮の額賀宮司・竹島権宮司、京城神社の仲宮司は、総督府の本多地方課長のもとに集まり、神宮・神社の件について協議した結果、全朝鮮の神宮・神社の昇神式を行なうことを決定し、その日の午後から十七日にかけて、警務局の電話によって各道庁にその旨を通達した。咸鏡北道(ハムギョンプクド)だけは電話が通じなかった。神祠には、神職もいないので、そのままにしていた。
 昇神式とは、おまつりしている神霊にお帰りを願う儀式で、日本神道はじまって以来の行事である。朝鮮神宮において、行なわれた昇神式について、権宮司竹島栄雄氏の報告の一節を転記する。

   終戦に伴う前後措置に関する報告
 御神儀
  終戦によって生ずべき事態の変化に対処し、御神儀の御措置に関し、左の二方法が考えられたり。
 (一) 神霊の御昇神を奉仕する儀
 (二) 内地奉遷を奉仕するの儀
  而して、(一)の儀に関し、御霊代の措置に関し、左の四つの場合を考えたり。
(1)境内の一角を選びて土中申し上ぐるの儀
(2)海中に沈め奉るの儀
(3)御焼却申し上ぐるの儀
(4)宮中に御返納申し上ぐるの儀
 右の二案につき、二十年八月十五日、社内にて慎重審議をかさね、第一案第四項の儀、すなわち御昇神を乞い奉り、御霊代を宮中に奉遷致すをもって至当との結論を得たるも、ことの重大なるにかんがみ、翌十六日早朝、宮司出て、朝鮮総督の指示を仰ぐこととなし、総督・総監・地方課長・祭務官・宮司協議の結果、第一案第四項により、御措置申し上ぐることに決せり。すなわち、御鎮祭の儀を拝するに、御霊代は、宮中よりの御奉納にかかり、御正殿に御奉安の上、勅使御祭文を奏して、御鎮祭申し上げたるその先例により、これが逆の方途を講ずるをもって至当となしたる所以なり。
 右、祭儀を昭和二十年八月十六日午後五時斎行、宮司以下全員奉仕、朝鮮総督府官房地方課長本多武夫、朝鮮総督代理として、朝鮮総督府祭務官高松忠清を伴いて参列、無事終了、御鎮座二十年にしてここに御神儀の御遷座を乞い奉りたり。而して御霊代は、八月二十四日、京城飛行場発、飛行機にて宮内省式部次長坊城俊良に託し、宮中へ奉遷申し上げたり。
  御神霊御宝物
御鎮祭当初、大正天皇の特別のおぼしめしをもって、明治天皇御佩用太刀(銘正恒)一振を御宝物として御奉納、由来神庫に格納中なありしも、これまた宮中に御返納申し上ぐることとなし、八月十六日、京城飛行場発、飛行機をもって、陸軍中央通信調査部勤務陸軍大尉仙石正文に託し、宮中へ御返納申し上げたり。
 御神宝ならびに御宝物・御祭文・御調度等は、いっさい焼却し奉ることとなし、夜中を待ち、八月十九日より、焼却、八月二十五日をもって完了せり。

 御正殿ならびに儲殿の解体・焼却のことについては、のちにのべる。
 日本人にとって、神社は信仰の中心であり、「日本人のいるところ、かならず神社あり」といわれたものである。神社参拝は、国家・民族を越えた宗教的なものとして朝鮮人にも強要され、朝鮮人側にもごく少数であったが、純真な信者があった。しかるに、戦争が終わり、日本の武力放棄と同時に、神社がまっ先に昇神し、人民に先んじて引揚を行ったのは何故であったろうか。満洲や華中における神社が、居留民の最後に引揚まで奉祀された例とくらべて、考えさせられるが、その点について、当時の竹島朝鮮神宮権宮司は、第一に、暴行に対して神の純潔性を保とうとしたこと、第二に、満州や華中の居留民の神と異なり、朝鮮の主要神社は、官幣社・国幣社として国家的社格を持っていたこと、第三に、神社は宗教であるが、立場は一般宗教と異なり国家神道であったこと、第四に、神社は朝鮮の土地・住民に即した神を祀ったものではなく、日本内地から神霊をお移ししたものであったこと、第五に、天照大神の性格に国魂神としての性格はあったが、祭祀にあたっては、あくまで皇祖神としてお祀りっしていたことをあげ、当時の総督府祭務官高松忠清氏は、
「神の尊厳維持は国家の至上命令であり、その責任はあくまで国家にあった。神職は、官の命により神社を守るものであった。しかも神社を護持する信仰団体が朝鮮民間に結成されていなかったために、昇神式挙行の命を出さざるを得なかった」 
と説明した。

 3 各地の神社の昇神式
 総督府からの指示にもとづき京城神社は八月十六日午後三時に昇神式を行った。元山神社は十六日午後八時、江原神社は十七日午前五時、仁川神社は十七日、大邱神社は十八日夜、金北の裡里・全州・南原・大場・金堤神社は十八日、全南の順天神社は十七日、莞島神社は十八日、黄海道の海州神社は十七日、沙里院神社もそのころ、平南の鎮南浦神社は十七日、平北の江界神社は十九日、江原道の長箭神祠は十八日、それぞれ昇神式を行った。平北の満浦神社は八月十八日に昇神式を行い、神体を焼却した。馬山神社は九月四日、密陽神社は十月五日に昇神式を行った。
 ソ連軍が進攻した羅南では、八月十五日午前三時に、小沢芳邦宮司が羅南護国神社の神体を奉じて、羅南から十二キロ山奥の檜郷洞の山中に避難し、朝夕、戦勝祈願祭を奉仕したが、十八日夜、三洞嶺に深さ五尺の穴を掘り、御神体を収めた。その後、小沢宮司はさらに山奥に避難し、そのまま逃避行がつづいたので、神体を迎える機を失した。
 龍頭山神社(釜山)、仁川神社の神宝は、海中に沈めた。全州神社は、十八日の昇神式の際に、仮の焼却をして神宝を焼いたが、神体を裏の山中に移して奉仕を続け、十一月八日引揚の際に、米軍の許可を得て二等車に神体を奉じて、日本に持ち帰った。
朝鮮人の手によって焼かれたものとして、十五日夜に平壌神社、十六日に定州神社・安岳神社・温井里神祠、十七日に安州神社・朔州神社・寧辺神社・川内里神祠・載寧神祠、十八日に兼二浦神社・宣川神社・博川神社・小鹿島神社、二十一日に龍川神社、二十二日に熙川神社、新幕神社もそのころであった。新幕神社の神体は十七日ごろ氏子総代の手で焼却された。八月末に安東神社(慶尚北道)、九月二日に江界神社、九月七日に海州神社などの焼かれた報告がある。長淵神社は八月二十日ごろ在住民と日本軍の手により焼却し、夢金浦神祠・苔灘神祠は朝鮮人によりこわされた。満浦神社の奉斎殿は、十九日夜朝鮮人によって焼かれた。
 浦項神社は鳥居をたきものにされ社殿をこわされ、慶州神社社殿の鍵をこわされ、放火の形跡があり、通川神祠は焼かれ、枰城神祠は祠殿破壊、恵山神社・南原神社は暴行にあい略奪された。亀城神社は、十七日に住民の手でこわされたが、神体は郵便局長宅に持ち帰られた。清津神社は、ソ連軍の兵火にあい全焼して宮司は焼死した。城津神社はソ連軍の軍用施設になった。以上、暴行放火をうけた報告は、北朝鮮の地に多い。

コメント

終戦時朝鮮の治安対策の混乱

2021年07月20日 | 国際・政治

 しばらく前までは、特に文化的な面を中心にして、日韓関係は良好だったと思います。多くの人が観光で行き来していましたし、いろいろな分野の交流が盛んに行われていたからです。日本では、韓流ブームがありました。K-POPが好きな日本の若者もずい分増えていたのではないかと思います。逆に、韓国でも、日本のアニメやマンガ、音楽その他の日本文化に興味を持つ若者がずい分増えたと聞いています。
 にもかかわらず、このところの日韓関係は最悪です。竹島問題、慰安婦問題、徴用工問題、貿易問題その他の政治的対立が連日マスコミを賑わすようになり、先日は、韓国メディアが東京五輪の選手村における横断幕の撤去要請を猛批判し、新たな垂れ幕も登場するに至ってます。そして、オリンピックに出場予定の選手たちも、そうした政治的な問題と無関係ではいられない立場に追い込まれてきているように思います。
 それは、日本の安倍・菅政権が、韓国の文在寅政権とは、過去の歴史認識や政治姿勢がまるで違っており、関係改善が望めないと判断して攻勢を強めている結果ではないかと、私は想像します。

 だからこそ、日韓の歴史をきちんとふり返り、歩み寄る努力が欠かせないと思うのですが、現在の日本には、残念ながら、ふり返ることすら受けつけない雰囲気が広がっているように思います。
 私は、現在の日韓の諸問題は、日本側がかつての「村山談話」の姿勢を堅持して話し合いにのぞめば、必ず解決できると思っています。
 「平和の少女像」をめぐり対立が深まっている”日本軍「慰安婦」”の問題も、元日本軍「慰安婦」であった人たちの尊厳の問題として受け止め対応すれば、根本的解決も可能だと思います。でも、安倍政権による「日韓合意」は、「最終的かつ不可逆的な解決」などという言葉をつかっていますが、尊厳の回復を求めている当事者を脇に置いた政治決着であり、問題を複雑にしただけで、「最終的解決」に「不可逆的解決」にもならないものだったと思います。
 言い方を変えれば、安倍・菅政権による日韓合意は、戦時中の日本人の尊厳を守るために、元日本軍「慰安婦」の尊厳の回復は認めない内容であったということです。

 それは、極論すれば、”元日本軍「慰安婦」は売春婦であったのか、それとも、日本人によって「慰安婦」にさせられたのか”という問題であり、その歴史認識を共有することが欠かせないと思いますが、それをしようとしない安倍・菅政権では、日韓の関係改善は難しいと、私は思うのです。

 そういう意味で、下記のような終戦時の記録も、歴史認識に関わり、頭の隅に置いておくべきだろうと、私は思います。
 終戦時の朝鮮における日本の治安対策は混乱しています。当時の朝鮮における治安の責任者、西広警務局長が、”終戦決定と同時に、第一に政治犯・経済犯を釈放すること、第二に朝鮮人側の手によって治安維持をさせることを考え”たこと、そして、”この時局をにない治安維持をなしうる人材として、呂運亨(ヨウニョン)・安在鴻(アン・ジェホン)・宋鎮禹(ソン・ジヌ)氏”などの独立運動家を思いうかべ、日本の韓国併合に抵抗した独立運動家に頼る方法をとったことは、前回とりあげました。
 遠藤政務総監も、呂運亨氏招いて、”…あらかじめ刑務所の思想犯や政治犯を釈放したい。連合国軍が入るまで、治安の維持は総督府があたるが、側面から協力を御願いしたい”と依頼していました。

 でも、軍はそれを認めず、下記抜粋文にあるように、朝鮮軍管区報道部長、長屋少将は、”…朝鮮軍は厳として健在である”として、武力をもって治安維持にあたることを宣言したのです。
 また、井原参謀長は”…絶対に軍隊を一個小隊以下にするな”と全軍に命を下し、また、兵隊のひとり歩きを厳禁したといいます。京城の部隊では、”町を歩くときは、かならず三人以上”と厳命されたとのことです。
 そうしたことも、日本の朝鮮支配がどういうものであったかを物語っていると、私は思います。
 下記は、「朝鮮終戦の記録 米ソ両軍の進駐と日本人の引揚」森田芳夫著(厳南堂書店)から、「第三章 終戦時の朝鮮」の「三 日本軍の終戦対策」を抜粋しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
             第三章 終戦時の朝鮮

             三 日本軍の終戦対策

  3 治安対策
 八月十五日に終戦後の治安維持のために、各地で警備召集が行なわれた。一方軍隊にあるもののうち、召集前に警察官であった約四千名が、十五日の夕刻に除隊になり現職に復帰した。また、朝鮮人兵は全員、除隊になった。
 十六日、朝鮮建国準備委員会が活躍を開始して、京城が騒然としたときに、はじめて軍は遠藤政務総監と呂運亨氏との間に交渉があったことを知った。若い参謀たちは、この工作について軍に事前相談をしなかったことを怒り、総督府に抗議して、今後は軍が治安の指導力をもつことを主張し、総督府側の承諾をとるとともに、両者間で「政治運動取締要領」を策定した。
 その日に、朝鮮軍管区司令部は「管内一般民衆に告ぐ」と題する布告を発して、「人心を撹乱し、いやしくも治安を害するごときことあらば、軍は断固たる処置をとるのやむなきに至るべし」と警告した。十八日に、朝鮮軍管区報道部長長屋少将はラジオ放送を行い、
「一党一派、目前の野望に走り、ただただ社会秩序をみだし、何ごとか私の利を獲得せんとしてか、東亜のこの悲劇を奇貨とし、あるいは、食糧を龍断し、交通通信機関の破壊または略奪・横領をくわだて、治安を害せんとする匪賊的行為に出ずるものがある。朝鮮軍は厳として健在である。今にしてその非を悟らずんば、ところと場所を問わず、断固武力を行使するのやむなきは、先日の軍当局の発表によっても明瞭である」
と述べた。日本軍は日本人保護に必要な地点に出動した。京城では二十日に京城師管区司令官菰田康一(コモダコウイチ)中将が、京城警備司令官に任命され、隷下部隊のほか、在京城第120師団をあわせ指揮した。兵力はおよそ歩兵約二個連隊で、一般治安のほか、とくに食糧の収集に努力した。
 西南海岸にあって、米軍の上陸をまちかまえていた部隊の一部が戦車や装甲自動車をつらねて主要都市に集結した。いなかで迫害になやんでいた日本人は、軍隊に助けられながら都市に避難してきた。また、軍隊の力で警察や官庁や新聞社の接収をとりもどした。
 井原参謀長は全軍に命を下し、「武力の発動は最悪の事態に限る」「絶対に軍隊を一個小隊以下にするな」と伝え、兵隊のひとり歩きを厳禁した。京城の部隊はでは、「町を歩くときは、かならず三人以上」と厳命された。それは民心の激動期に朝鮮人民衆と軍隊との摩擦を少なくし、あくまで流血を防ごうとするにあった。軍の出動にもかかわらず流血騒ぎが少なかったのは、この首脳部の指令よろしきを得た結果といえよう。
 また、軍としては、きたるべき日本軍の武装解除にそなえて、九千名の軍人を警察官に転属させ「特別警察隊」を編成し、銃剣をもたせ、警察官の服装をあたえて赴任させた。
 しかし、この軍の出動は、朝鮮人側、ことに発足当初の意気さかんな朝鮮建国準備委員会の人々にとって、このましいものではなかった。日本軍への感情が悪化し、一部には衝突のおそれさえ予想された。十八日夜、当時の京城師管区参謀貝出茂之少佐は、平服で単身、鍾路の長安ビル内にあった同会の保安隊本部を訪れて、事態収拾について保安隊幹部と話合いを行なった。これについて、朝鮮人側の記録には、
「異論百出、だが長年の旧怨をすてて、切迫した事態を円満に解決しようという点では意見が一致した。この混乱期にかれが保安隊と日本軍との中にたって調整の労をとったことは、事態を円満に解決するのに陰に陽によい結果をもたらした」
と述べている。また、総督府は軍の強硬な要請により、二十日に朝鮮人団体の責任者を鍾路警察署に召集し、同日午後五時かぎり朝鮮人側の政治または治安維持団体はその看板をおろし、即時解散することを命じた。しかし、これに対して、二十一日に、建国準備委員会総務部長崔謹愚氏は朴錫胤氏とともに遠藤政務総監をたずねて、軍の強硬な態度は約束に違うと抗議した。政務総監は、井原参謀長に直接あって解決するようにといったので、崔・朴両氏は井原参謀長をたずねて、神崎大佐らと会談した。席上相互のきびしい応酬ののちに、建国準備委員会だけはその看板をおろさず、治安に協力することになったという。
 軍は、日ごろ朝鮮人に接していないために、政治的感覚がにぶく、その工作はつたなかった。ために、かえって混乱をひきおこしたところも少なくなかった。
 全羅北道裡里にいた護鮮兵団長(第160師団長)は、八月二十日に告辞をラジオで発表したが、その中に「軍は総督府と協議の上、警察・憲兵の後盾となり、治安維持に任ずるとともに、要救護物件・住民の保護に任ず」といい、
(一)宗主権委譲せらるるまでは、朝鮮は皇土にして、朝鮮人民は皇民なり。よろしく聖旨を奉戴し、皇国臣民の誓いを朗唱し、平静事に従うべし。内鮮人相互絶対に相剋すべからず。
(一)独立運動は、いっさいこれを認めず。……韓国国旗の掲揚は厳禁す。
(一)治安維持のための団体結成を認めず。ただし軍・官憲に協力するものも申出に対して軍において統制す。
と述べている。
 忠清北道では、小林地区司令官が、八月十五日・十七日の二回にわたり警備召集(在郷軍人の召集)を行なおうとしたのに対し、坪井警察部長は知事の意見により、これを阻止することにつとめ、さらに警察官をつかって令状を配布するのをとめる一方、警察部が朝鮮人保安隊の後援者になることを発表した。しかし、軍は八月二十三日に、その保安隊に解散命令を下して、警察部の工作に反撃した。軍から編成替えした四百名の特別警察隊員が、八月二十五日から九月一日の間に三回にわたり忠清北道に派遣されてきたが、道警察部が「援助を必要としない」と述べて、総督府と連絡の上、隊員をその自由意思に任せて家に帰らせた。その際、四名だけが、自由意思で警察に残ったという。軍が警察側の工作を理解せず双方対立的になったところはほかにもみられたが、忠清北道がもっとも甚だしかった。
 全羅南道では、道知事が許可した九月九日の朝鮮人側の祝賀行進を師管区司令部が反対し、八木知事はその説得に苦労して、ついに行なわせることができた。
 江原道陵で八月二十九日に、慶尚南道河東で八月二十日に、統営で九月二十九日に、特別警察隊員による発砲事件が起こり、いずれの地でも、対日本人感情が急に悪くなり、河東と統営では、朝鮮人の死亡者がでて、関係の日本人の拘留をみた。
 軍は、一般日本人に「治安維持は軍が責任をおう。軍は最後にひきあげる」と宣言したが、北朝鮮では軍がまっ先にソ連軍から武装解除をうけえて抑留され、南朝鮮では軍がまっ先に米軍から引揚を命ぜられた。一般日本人は、従来の観念から軍に頼ろうとしていたため、とくに北朝鮮ではその悲劇を大きくした。軍が米ソ両軍に行なった交渉については次章で述べる。

 なお、血気にはやる青年将校の中には、終戦を痛憤して、自決するものもいた。平壌では、八月二十五日、第五空軍の飛行将校六名が重爆撃機にのり、思いきり飛んだのちに平壌飛行場内で自爆した。これは一説にあまりに低空飛行したために、地上の建物と接触して墜落したともいう。済州島でも、終戦後、第五十八軍管下の砲兵隊の見習士官が割腹自殺したことが報ぜられている。羅南では、八月十八日に武装解除の準備を行なっている間に、下士官および上等兵一名が手榴弾で自殺を計った。

コメント

八月十五日の朝鮮と「日本国紀」

2021年07月14日 | 国際・政治

 『「日本国紀」の副読本』百田尚樹・有本香(産経セレクト)の百田氏と有本氏の対談の中で、百田氏は、藤尾文相の”韓国併合は合意の上に形成されたもので、日本だけではなく韓国側にも責任がある”との発言を引き、”藤尾文相の言っていることは正しい。”と断言しています。
 でも、日本にとって不都合な多くの歴史的事実を無視したそういう歴史認識は、国際社会では通用しないと思います。私は、以前「日韓併合小史」山辺健太郎(岩波新書)や「外交文書で語る-日韓併合」金膺龍(合同出版)その他から、閔妃殺害事件ハーグ密使事件などに関わる文章を抜萃しつつ、韓国併合に至る経緯を辿ったことがありますが、それらの事件は、当時の関係者の多くが認めていることであることを知りました。

 また、有本氏は、日本軍「慰安婦」について、

”いまだに「一方、朝鮮・台湾の若い女性のなかには、戦地におくられた人たちがいた」と当時の事情を無視して書いている神経もすごい。「戦地に送られた」と書いていますが、「送った」のは誰かをあえてボカしています。しかし、日本軍でも日本政府でもありません。業者ですね。しかし「この女性たちは、日本軍とともに移動させられ、自分の意思で行動することはできなかった」と「日本軍」という単語を書くことで、日本が若い女性を戦地に送ったかのように印象操作しています。
 などと、根拠を示さず語っていますが、明らかに事実に反します。『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成(財)女性のためのアジア平和国民基金編』は、日本政府による日本軍「慰安婦」の調査結果をまとめたものですが、日本軍「慰安婦」に関わる公文書が数多く掲載されています。河野談話で語らざるを得なかったように、軍や政府の関わりを否定することはできないのです。また、「従軍慰安婦資料集」吉見義明編(大月書店)には、”軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件”というような軍の文書や、軍の定めた慰安所規定、また、日本軍「慰安婦」派遣に関する軍の電報のやり取りなども取り上げられています。そうした数々の資料や多くの証言を無視し、逆に”いまだに「一方、朝鮮・台湾の若い女性のなかには、戦地におくられた人たちがいた」と当時の事情を無視して書いている神経もすごい。”などという有本氏の主張は、いかがなものかと思います。日本軍「慰安婦」に関わる教科書の文章は、”印象操作”などとはまったく無縁で、関係機関の文書や関係者の証言に基づいたものです。だから、”当時の事情を無視して”いるのは有本氏の方です。
 日本政府が、国際機関(国際法律家委員会や国連人権委員会)から勧告を受けている事実や、日本軍「慰安婦」として性交渉を強いられた女性の存在する国々の国会決議などを踏まえれば、こうした何の根拠も示さない主張は、国際社会の信頼を損ない、日本の将来を危うくするものだと、私は思います。そして何より、日本の若者を惑わせる主張だと思います。こうした主張が、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の展示を中止に追い込み、さらに「表現の不自由展・その後」の開催を、再び難しくする要因の一つになっているのではないかと思います。政権の姿勢を反映してか、行政や警察も簡単に脅しに屈し、表現の自由を守ろうとしてはいないように、私は思います。

 また、百田氏の

「三・一独立運動」(1919年3月1日)は単なる暴動なんですよ。韓国では「偉大な独立運動」として3月1日を国民の記念日にしていますが、本当に「独立運動」だったかは大いに疑問です。初期のデモを別にすると、後の暴動は単なる騒擾事件ですよ。逮捕された者たちは首謀者も含め非常に軽い罪でした。

 というような主張も、事実に反し、見逃すことはできません。

 三月一日の早朝、韓国では、東大門と南大門などの主要地域に、下記のような壁新聞が張り出されたといいます。

 ああ、わが同胞よ! 君主の仇をうち、国権を回復する機会が到来した。
こぞって呼応して、大事をともにすることを要請する
   隆煕13年正月                           国民大会

 それは当時、殉死を覚悟して韓国の主権守護にあらゆる手を尽くしていた高宗前皇帝が、突然死をとげたからであるといいます。韓国の人々は、いくつかの理由で、高宗前皇帝の突然の死が、日本人による毒殺であると受け止め、不満を爆発させて起ち上がったということなのです。
 また、「三・一独立宣言文」には、”威力の時代は去り道義の時代がきた”という言葉があります。さらに下記のような約束事も書かれています。
一、今日われわれのこの挙は、正義、人道、生存、尊栄のためにする民族的要求すなわち自由の精神を発揮するものであって、決して排他的感情に逸走してはならない。
一、最後の一人まで、最後の一刻まで、民族の正当なる意思を快く発表せよ。
一、一切の行動はもっとも秩序を尊重し、われわれえの主張と態度をしてあくまで光明正大にせよ。

 道義・道徳を尊重するように呼びかけているのです。
  ”国権を回復する機会が到来した”と呼びかける壁新聞を張り出し、上記のような約束事を明記した独立宣言文を発表し、上海に臨時政府を設立した運動が”単なる暴動”でしょうか。

 さらに、総督府はこの独立運動を弾圧するために、軍隊や憲兵はもちろん、警察、鉄道援護隊、在郷軍人、消防隊まで動員し、運動が終息するまで武力による弾圧を続けて、多くの死傷者出すことになりました。にもかかわらず、”逮捕された者たちは首謀者も含め非常に軽い罪でした。”というのは、事実に反すると思います。
 以前にも取り上げたことがありますが、「朝鮮独立運動の血史1」朴殷植著・姜徳相訳注(平凡社)には、二百を超える韓国全土の府郡で呼びかけに応えて、独立運動が起こったとあります。また、義兵として加わった人民は200万を超え、死亡者は7,509人であったとあります。 
 三・一独立運動の発祥地で知られるタプゴル公園には、現在、独立宣言文を読み上げている柳寛順(ユガンスン)のレリーフがありますが、彼女は拷問をうけ獄死したと言われています。そして、韓国には、日本が使用した拷問のための様々な道具や拷問が行なわれた部屋などが、今も残さているのです。

 下記は、「朝鮮終戦の記録 米ソ両軍の進駐と日本人の引揚」森田芳夫著(厳南堂書店)から抜萃しましたが、日本のポツダム宣言受諾を知った朝鮮総督府の阿部信行総督は、総督府職員一同を会議室に集め、終戦の詔勅のラジオ放送を一緒に聞いた後、「諭告」を読み上げたといいます。その諭告の中に、 ”我等臣子 肇国ノ神勅ニ徴シ 神州不滅ノ確信ノ下 子々孫々 万古天皇ヲ仰ギテ将来ノ文化建設ト道義確定ニ依リ 世界ニ示範スベキ精神的理想国家完成ノ一途ニ堂々邁進スルノ決意アルヲ要ス”とあります。神話的国体観に基づく決意の重要性を語り、”疆内官民克ク之ヲ励メヨ。”と呼びかけているのです。朝鮮の地において、日本の神話に基づく国体観による強引な政治が行なわれていた証しだと思います。

 また、当時、朝鮮治安の責任者西広警務局長は、”終戦決定と同時に、第一に政治犯・経済犯を釈放すること、第二に朝鮮人側の手によって治安維持をさせることを考えていた。”という事実が、日本の支配が武力に基づくものであったことを物語っていると思います。

 また、西広警務局長は、”この時局をにない治安維持をなしうる人材として、呂運亨(ヨウニョン)・安在鴻(アン・ジェホン)・宋鎮禹(ソン・ジヌ)氏”を思いうかべたとのことですが、武力行使が出来なくなった日本人では、治安維持が難しいので、日本の韓国併合に抵抗した独立運動家に頼るしかなかったということだと思います。
 さらに、阿部総督が諭告を読み上げた直後から、早速”総督府をはじめおもな官庁で、重要書類の整理焼却がはじまった。”というような記述も見逃すことができません。なぜ、まず最初に、”重要書類の整理焼却”をしたのか、国際法を順守していれば、必要のないことではないかと思います。重要書類の焼却処分は、敗戦前後、日本国内でも徹底して行われたことはよく知られていますが、不都合な事実は隠蔽するという姿勢が、今に続いているように思います。
 百田氏や有本氏は、こういう朝鮮終戦の記録が、日本人の手によって残されていることを無視してはいけないと思います。

 同書の著者森田芳夫氏は、京城日本人世話会で活躍し、厚生省引揚援護庁や外務省引揚調査室などに席を置いた人だといいます。そして、厚生省事務次官太宰博邦氏や外務省アジア局長後宮虎郎氏、中央日韓協会副会長・元京城日本人世話会会長穂積真六郎氏が文を寄せています。終戦時の朝鮮を知ることの出来る貴重な本だと思います。私は、日韓関係を語る人には、ぜひこうした本の存在を知ってほしいと思うのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
             第三章 終戦時の朝鮮

        一 総督府の終戦対策と朝鮮建国準備委員会

1 遠藤・呂運亨会談
 日本のポツダム宣言受諾は、朝鮮民族解放の受諾でもあった。ポツダム宣言には「カイロ宣言の条項は履行せらるべく」と明記され、カイロ宣言には「やがて朝鮮を自由かつ独立のものたらしむる決意を有す」と述べられている。
 朝鮮総督府警務局は短波放送をきいて、日本が国体護持の条件付でポツダム宣言を受諾したことを八月十日には知っていた。しかし東京の政府からは何の通知もなかった。終戦になれば、連合国が進駐し、日本軍は武装解除され、日本の主権は失われる。現在清津(チョンジン=朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道の道都)に上陸しているソ連軍が汽車で南下すれば、京城までは二十時間で達し得る状況にある。当局としては、ソ連軍がただちに刑務所の朝鮮人政治犯を釈放し、赤色政権を樹立するであろうこと、また、その際かならず起こるであろう略奪・暴行およびそれに雷同する一般民衆の動きも考えねばならなかった。
 朝鮮治安の責任者、西広警務局長はこの対策として、終戦決定と同時に、第一に政治犯・経済犯を釈放すること、第二に朝鮮人側の手によって治安維持をさせることを考えていた。西広局長の頭の中には、この時局をにない治安維持をなしうる人材として、呂運亨(ヨウニョン)・安在鴻(アン・ジェホン)・宋鎮禹(ソン・ジヌ)氏らがうかんだ。
 ・・・
 これよりさき、十四日夜、遠藤政務総監は、京城保護観察所長・長崎祐三氏に電話をかけて、明十五日午前六時に、呂運亨氏とともに、政務総監官邸に来るようにと通知した。 呂運亨に対し治安時維持の協力を依頼することについて、政務総監と警務局長とは、かねてから話し合っていたものと見られる。長崎保護観察署長に通知したのは、呂運亨氏が思想犯前歴者として保護観察の対象にあったからである。
 八月十五日午前六時半ごろ、長崎保護観察所長は呂運亨氏およびその通訳の京城地方法院の白允和検事をつれて、大和町の総監官邸を訪ねた。呂運亨氏は日本語ができるが、うまくないので通訳を必要としたのである。
 遠藤総監は、呂運亨氏を第二面会室に通し、
「今日十二時、ポツダム宣言受諾の詔勅が下る。すくなくとも十七日の午後二時ごろまでには、ソ連軍が京城に入るであろう。ソ連軍はまず日本軍の武装解除をする。そして刑務所にいる政治犯を釈放するであろう。そのときに、朝鮮民衆は付和雷同して暴動を起こし、両民族が衝突するおそれがある。このような不祥事を防止するために、あらかじめ刑務所の思想犯や政治犯を釈放したい。連合軍が入るまで、治安の維持は総督府にあるために、あらかじめ刑務所の思想犯や政治犯を釈放したい。連合国軍が入るまで、治安の維持は総督府があたるが、側面から協力を御願いしたい」
と述べた。これに対し、呂運亨氏は、「ご期待にそうよう努力する」と答えた。
 そのとき室にはいってきた西広局長も加わって、釈放を前に思想犯・政治犯に妄動しないようあらかじめ話してほしいことと、民衆の中で、とくに青年・学生が暴動の中心となるおそれがあるので、かれらに冷静を持するよう説得してほしいことを呂運亨氏に依頼した。なお遠藤政務総監は、呂運亨氏から安在鴻氏に対して「ともに治安維持に協力するよう」伝言を依頼して席を辞した。
 それから西広局長は呂運亨氏に「治安維持協力に必要なら、朝鮮人警察官を貴方の下に移してもよい」といった。呂運亨氏からの食糧問題についての質問に対して、西広局長は「十月までは大丈夫である」と答えた。また「治安維持法に問われて警察署・憲兵隊に留置されているものを釈放してもらいたい」との要求に、「それはもちろんである。刑務所にいるものさえ釈放するのだから」と答えた。「集会の禁止をといてほしい」という呂運亨氏の言に、西広局長は集会の自由を約束した。なお、呂運亨氏は「釈放者に対して、まじめに建国に努力するよう、自分から一言のべたい」と希望した。
 ・・・

 2 八月十五日の京城
  八月十五日の午前中には、京城府内の要所要所に「本日正午重大放送、一億国民必聴」の掲示が大きく出された。民衆は「終戦」という予感と、「対ソ宣戦布告」の二とおりの解釈をもち、事態の重大感に緊張していた。正午のラジオ放送は雑音が多くて聞きとりにくかったが、だいたいの内容はわかり、つづく解説とともに、京城府内にはり出された新聞社の掲示によって、一般は日本の無条件降伏の実相と連合国が朝鮮の独立を約束していることを知った。
 総督府では、正午、職員一同を第一会議室に集めて、終戦の詔勅のラジオを聴取したのち、阿部総督の諭告があった。

     諭告
本日畏クモ停戦ニ関スル詔書ヲ拝シ、臣子トシテ 恐懼慚愧 九腸寸断ノ思ヒニ堪ヘズ
顧ミルニ 皇国ノ自存自衛ト道義ニ基ク大東亜民族ノ運命開拓トヲ目的トスル聖戦ニ於テ 開戦以来幾多ノ将兵ハ万里異境ニ勇戦敢闘シテ 屍ヲ陸海空ニ曝スモノ其ノ数ヲ知ラズ 大ニ皇軍ノ精強ヲ世界ニ周知セシメ 銃後ノ国民亦 無防備都市ニ爆焼ヲ蒙リ 無辜ノ非戦闘員ニ犠牲甚大ナリシニ拘ラズ 一億団結 能ク職域ニ奉公シ 戦争ノ完遂ニ協力セリ 
我ガ半島ニ於テモ 此ノ間 軍官民協同一致 内鮮一体鉄桶(テットウ)ノ団結下ニ 戦力ヲ増強シ 戦線ニ在りリテハ 幾多ノ特攻勇士ヲ輩出シ 又多数ノ志願応召ニ依リ 皇軍ノ有力ナル一翼ヲ形成シ 銃後ニ在テハ連年ノ気象不順ニ拘ラズ 食糧ノ増産供出ニ国策ヲ奉行シ 工場 鉱山 将又 運輸 通信ノ各部門 何レモ其ノ使命トスル職能ヲ発揮シテ戦力増強ニ寄与シ 殊ニ家郷遠キ内地其ノ他ノ異域ニ赴キ 軍事産業ニ従事セル多数ノ勤労者アルヲ想フトキ 感慨切ナルモノアルヲ禁ズル能ハズ 蓋シ内鮮間ニ於ケル古来ノ血縁的文化的深縁ニ加フルニ 併合施政以来三十有余年 皇沢(コウタク=天皇ノめぐみ)浴ネクシテ民生化育シ 融合一体 能ク今次聖戦ノ大義ヲ共感把握シ 之ニ殉ズルノ志向熾ナリシニ由ラズンバアラズ  
然ルニ 皇国官民 四カ年ニ近キ必死敢闘ニ拘ラズ 竟(ツイ)ニ敵側ヨリ未曾有ノ破壊力ヲ有シ人類ヲ滅亡セシメ文化滅尽スルノ作用ヲ備フル新爆弾ノ使用ヲ見ルニ及ビ 茲ニ 臣民ノ康寧ト世界ノ平和ヲ冀ハセ給フ 聖上陛下ノ大御心ニ依リ 詔書渙発アラセラルルニ至レリ 一億臣民 万斛(バンコク)ノ熱涙ニ咽ビ 異郷ノ万骨 為ニ哭スルモノアラム 
開戦依頼 国民ハ戦争完勝ノ一途ニ生活ノ努力ヲ集結シ来リタルガ 今ヤ其ノ目的消失シ 民生之ガ為ニ秩序ヲ弛緩セシメ 国民ノ志気亦沮喪セムコトヲ惧ル 是ニ於テカ 我等臣子 肇国ノ神勅ニ徴シ 神州不滅ノ確信ノ下 子々孫々 万古天皇ヲ仰ギテ将来ノ文化建設ト道義確定ニ依リ 世界ニ示範スベキ精神的理想国家完成ノ一途ニ堂々邁進スルノ決意アルヲ要ス 時局ノ急転ニ際シ 民生ノ苦難因ヨリ想察スルニ余リアリ 疆内(キョウナイ)官民 徒ニ坊間ノ流言ニ怯ヘ 疑心暗鬼 自ラ動揺混乱ニ陥リ 同胞相剋スルガ如キ軽挙ヲ戒メ 親和敬譲(ケイジョウ)社会ノ紐帯ヲ鞏(カタ)クスベシ
殊ニ官吏ハ 冷静沈着事ヲ判ジ 泰山前ニ崩ルルト雖モ動カザルノ真勇ヲ以テ時勢ニ当リ 全知全能ヲ尽シテ 其ノ職任ヲ最後迄 完遂スルヲ要ス
 凡ソ非常ノ時機ニ際会シ 毅然トシテ其ノ本分ヲ尽ス者コソ 大丈夫ノ名ヲ辱ズカシメザルニ値シ 此ノ気概アリテコソ克ク不滅ノ国体ヲ護持シ得ルモノト謂フベシ 意思アル所必ラズ道アリ 精神一到何事カ成ラアザラム 一難万勇ヲ生ジ 敢然トシテ之ヲ完破スル所 所謂大死ノ一番 大活現成ノ境地ナルヲ知リ 

    昭和二十年八月十五日
                                                       朝鮮総督 阿 部 信 行

 総督は、涙で声をつまらせながら諭告をよみ、全員粛然として悲痛につつまれて式は終った。
 その直後には、総督府をはじめおもな官庁で、重要書類の整理焼却がはじまった。もう京城府内には、国民服やモンペをやめて白衣をきた多くの朝鮮人が、町に出てゆうゆうと歩いていた。
 この日、政務総監から内務次官あてに「停戦の大詔を拝せるが、朝鮮内の諸般事項につき、中央より何分指示あるものと思料するも念のため」と打電したが、なんの回答もなかった。ラジオ放送では、一般官民の妄動をいましめ、職責の完遂を期すると同時に、日本人・朝鮮人ともに冷静沈着ことに処し、きたるべき新段階に秩序ある準備を心がけるよう強調した。
 また、非常事態の警備に任ずるために、警備召集令状が発せられた。「戦争が終って召集とは」といぶかりつつも、応召者は軍隊の門をくぐり、銃をになって深夜に京城府内の警備についた。
 なお、その日に李鍝公の陸軍葬が行われた。李鍝公は、李太王の第二子李堈公の次男である。当時三十四歳、陸軍中佐で、広島にあった西部軍管区司令部の高級参謀でああった。八月七日、乗馬で出勤の途中、原子爆弾にあい七日死去、御遺骸は軍用機で京城に運ばれた。その葬儀に天皇の御名代として参列する宮内省式部次長坊城俊良氏は、飛行機で十四日深夜に京城についた。葬儀は十五日午後一時から葬儀委員長井原第十七方面軍参謀長、祭主額賀朝鮮神宮宮司によって京城運動場で行われた。軍司令官・総督・政務総監が参列し、京城神社をはじめ、京城にいる神職がほとんど出て奉仕し、葬儀は厳粛に終了した。

コメント

「日本国起」と「過去を見る眼」

2021年07月07日 | 国際・政治

  前稿で取り上げたベルンハイムに基づけば、「日本国紀」は、歴史の最も原初的な「物語風歴史」にあたり、”歴史的知識が科学となる”ずっと前のものであると思います。それは現在では、娯楽の対象としては認められても、社会科学の一分野としての歴史としては、認められないものだと思います。
 ”その国に生まれたことを誇りに思う。そして自分たちの父祖に対して尊敬の念を持つ。私たちに誇りを持つ。そのような歴史教育”を意図して、日本の歴史的事実を取捨選択し、並べ立てる歴史は、社会科学の一分野としての歴史ではないのです。
 かつて日本が、日本人に”自分たちの父祖に対して尊敬の念”を持たせる神話的国体観(皇国史観)によって、戦争に突き進み、滅亡の瀬戸際に立ったことを忘れてはならないと思います。
 GHQの膨大な資料の中に、「PWC-115」([PWC=Postwar Programs Committee=戦後計画委員会)「JAPAN:FREEDOM OF WORSHIP(信仰の自由)」という文書があり、それには、「National Shinto(国家神道)」、「the nationalistic Cult(国家主義カルト)」、「danger to the peace(平和への脅威)」というような文言が並んでいるといいます<「靖国 知られざる占領下の攻防」中村直文・NHK取材班(NHK出版)>
 それで思い出すのが、天皇の「人間宣言」といわれる「官報號外 昭和21年1月1日」の 「詔書」です。その中には、下記のようにありました。
天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念
 戦前の日本が、こうしたまさに「国家主義カルト」ともいえる観念をもって、世界を相手にするような戦争に突き進み、滅亡の瀬戸際に至ったことは、否定できない事実だと思います。

 したがって、「日本の国は、非常に特殊で、一つの”王朝”が、二千年を超えて続いているわけですから。…」などといって、再び、神話に基づく”架空ナル観念”を復活させるような有本氏の考え方はいかがなものかと思います。そうした考え方では、近隣諸国はもちろん、国際社会の信頼を得ることも難しいと思います。また、歴史が、諸外国とのトラブルの原因になったり、トラブルの有利な解決のために利用されるようなことがあってはならないと思います。

 「歴史は、現在と過去との対話である」 と言ったのは、歴史家、E・H・カーですが、彼の著書
歴史とは何か」E・H・カー著:清水幾太郎訳(岩波新書)の「はしがき」で、訳者の清水幾太郎は、
過去は、過去のゆえに問題となるのではなく、私たちが生きる現在にとっての意味ゆえに問題となるのであり、他方現在というものの意味は、孤立した現在においてではなく、過去との関係を通じてあきらかになるものである。したがって、時々刻刻、現在が未来に食い込むにつれて、過去はその姿を新しくし、その意味を変じて行く。われわれの周囲では、誰も彼も、現代の新しさを語っている。「戦後」「原子力時代」「二十世紀後半」…しかし、遺憾ながら、現代の新しさを雄弁に説く人々の、過去を見る眼が新しくなっていることは極めて稀である。過去を見る眼が新しくならない限り、現代の新しさは本当に掴めないであろう。E・H・カーの歴史哲学は、私たちを遠い過去へ連れ戻すのではなく、過去を語りながら、現在が未来に食い込んで行く、その尖端に私たちを立たせる。…”
 と書いています。適確な解説ではないかと思います。私は、歴史を語る人は、「過去を見る眼」が、最新のものであってほしいと思います。

 また、同書の「Ⅲ 歴史と科学と道徳」の「歴史は科学であること」の中で、E・H・カーは、
十八世紀末といえば、世界に関する人間の知識と人間自身の生理的性質に関する人間の知識との双方に対して科学が堂々たる貢献をした時期ですが、この時期に、科学は社会に関する人間の知識をも進め得るものか否か、という問題が提起され始めたのであります。社会科学の見方、また社会科学の一つとしての歴史の見方は、十九世紀を通じて次第に発展して参りました。科学が自然の世界を研究する場合の方法が人間現象の研究に適用されることになりました。この時代の前半はニュートン的伝統が力を振っておりました。自然の世界と同じように、社会もメカニズムと考えられていました。… 次いで、ダーウィンがもう一つの科学的革命を行い、社会科学者たちは生物学からヒントを得て、社会を一つの有機体と考え始めました。けれども、ダーウィン革命の本当の重要性は、ダーウィンが歴史を科学たらしめて、ライエルが既に地質学で始めていた仕事を完成したという点にあったのです。科学はもう静的なもの、無時間的なものを取扱うのではなく、変化および発展の過程を取り扱うものとなりました。科学における進化が歴史における進歩を確かめ且つ補ったのでした。
 と書いています。そういう時代に、再び「歴史は物語である」などというのは、時代錯誤ではないかと思います。

 個々の人間社会の歴史的事実の因果関係を考察したり、個々の歴史的事実を進化する諸発展全体のなかで考察したり、また逆に全体の諸発展から個々の事実を考察したりという科学的作業を行うことなしに、下記のような個人的な思いをもって歴史を語ることは、歴史学の基本を無視するものであると、私は思います。したがって、「日本国紀」は、娯楽の対象としては認められても、学校における歴史教育の対象にはなり得ないと思うのです。

 下記は、『「日本国紀」の副読本』百田尚樹・有本香(産経セレクト)から、特に問題を感じた部分を、ところどころ抜萃しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
            序章 なぜいま「日本国記」か

 …ケントギルバートさんとの対談”ふとケントさんに「アメリカの歴史教育はどうなっていますか」と聞いたのです。すると、ケントさんが「アメリカの歴史教育は、それを学ぶと、子供たちの誰もがアメリカが好きになります。あめりかに生まれたことを誇りに思う、喜びに思う、そういう歴史教育です」と言われた。
 それを聞いたとき、「なんと素晴らしいことか!」と思ったのです。その国に生まれたことを誇りに思う。そして自分たちの父祖に対して尊敬の念を持つ。私たちに誇りを持つ。そのような歴史教育であるべきだと思ったわけです。
 しかし、日本にはそんな歴史教育も教科書もない。それがすごく残念だとおもったのですが「そうか、なければ教科書のような本を自分が書いたらいいんだ」と考えたのです。…

            第一章 歴史教育とGHQの申し子
 局地戦と民族の物語
有本 
 ・・・やはり歴史とは「壮大な民族の物語」です。でも、いまある教科書や歴史の本はそれを物語として捉えていない。教科書は仕方ない部分もあるかもしれませんが、重要な何かが欠けていると思います。
 慰安婦問題や南京問題では近隣諸国から日本はたびたび攻撃されますね。その都度、個々の問題に専門家の先生方が反論、反証され、ずいぶん日本も変わってきました。でも、向こうから仕掛けられた局地戦に対応するだけでは、歴史は取り戻せない。日本人の中に、自分たちの物語がないことが致命的ではないかと思うのです。相手は捏造も辞さず、はなから歴史を政治の道具にしようというわけですからね。

            第二章 歴史は「物語」である
 年表は歴史ではない
百田 私は小説家ですから、今回、歴史ではあっても「物語」を書きたいと思いました。そして通史を書くにあたって、いくつかの歴史教科書を読みました。またそれよりも詳しく書かれたものも読みました。それらの本を読んで気付いたことは、歴史教科書は物語ではなく、歴史の年表の解説本だったということです。
 
百田 歴史の本を読んでみても、表にこそなっていないけれど、結局、年表なんですよ。何年にこんなことがあった、と細かく書いてあって、また何年にあんなことがあったと書いてある。日本の歴史教育も歴史家もそうなのですが、できるだけそこに主観を交えずに、淡々と事実だけを書こうとするから、余計にそうなるのでしょう。
 でも本来は「主観」が大事といいますか、別の言い方をすると、視点が大事なのです。これは誰が書いているのか、誰がこの事実を見ているのか、ということが大事です。
 私は小説家ですから、物語はそれがないと書けないことを知っています。これは誰が見ているのか、つまり一人称なのか、三人称なのか、あるいはこれは神の視点なのか、というように、まず視点がどこにあるかがすごく重要なのです。
 ・・・
学者は怖がって「I(アイ)」を消す
百田 私はしばしばこの物語の中で断定的に書いています。見方に付いて、どこかから文句が出ても闘おうという意志があるからです。私の視点、私の主観で書いているわけで、いくつかの事実を見てこれは私はこう思うという物語なんですね。ところが編集者が、私が断定しているのに「と言われる」なんて直そうとするから、その部分をまた消したりもしました。

百田 『日本国紀』の中には、「私はこう思う」だけではなく、私の感情が随所に入っています。
百田 「怒りを感じる」と書いたところもあります。そういう意味でも前代未聞の歴史の本です。
 本来、歴史を物語らなければならないのに、日本の歴史書はいつの間にか「客観がすべて」と、自己をださない、主語がない、そういう学術論文の書き下し的な本ばかりになってしまっているように思います。それだとおもしろくなるわけがない。歴史のダイナミズムを失ってしまっているのです。
 繰り返しになりますが、歴史はストーリーです。いまの多くの歴史家はストーリーであることを忘れてしまっています。

 通史は小説家の仕事だと思う
百田 日本は「言霊の国」で、言葉を非常に大事にするので、古今、素晴らしい作家が生まれています。ところが通史を書いた小説家はほとんどいないんですね。

百田 …ところが、残念ながら日本の通史を書くのは、学者に限られているのです。さらにひどいのは、これは教科書を見たらわかりますが、著者が十人も二十人もいたりする。なんですか、これ、と。平安時代は誰が書いた、鎌倉時代はこの人が書いた、江戸時代はこの人、とそんなことでは一つの流れにならないですよ。

 寄せ集めでは物語にならない
有本 それはもちろん、それぞれの専門分野を分担されて大変なお仕事をされてとは言えるんですが、でも日本の国は、非常に特殊で、一つの”王朝”が、二千年を超えて続いているわけですから。その一つの流れということを考えると、百田さんが言われるように、一人の筆で書く必要があると思いますね。
百田 教科書が、実際どういうふうにしてできているかという細かい作業はしりません。でも、別の言い方をすると、たとえば船を設計してつくるとしますね。そのとき、最初のフォルムを作る人がいなければ駄目なのですよ。マスとは誰それが作った、スクリューはこういう人が作った、というふうにそれぞれ専門家はわかれますが、でも全体の設計図を描いた人がいないと船はできません。
 家もそうですよね。外装はあなたに頼む、内装はこの人に頼むというのがあっても、最初は建築士が設計して大きな枠組みを作りますよね。
 ところが、どうも日本の歴史書は、そういう大きな一本の流れをドンと誰かが作ったという形跡があまりないんですね。最初から寄せ集めなんです。

 ハルキストとナオキスト
 ・・・
 たとえば、村上春樹さんの作品の登場人物を見ていると、「あれ? この人、どこの国の人間?」「どうしたら、こんな考え方ができる人間がうまれるの?」「この主人公は、どんな両親の元で、どういう育てられ方をしたらこんなふうになるの?」と思うでしょう。でも村上さん本人にとっては「いや、それがコスモポリタン」ということなんでしょうが。 

 いまの日本史には怒りも悲しみも喜びもない
百田 ・・・
 モンゴルの元寇がありましたよね。モンゴルは日本に「服従せよ」と言ってきたわけですが、そのとき当時の日本人は「誰が服従するか!」と思ったんですよ。「なんだ、無礼な!」「屈辱的な外交などできるか!」と怒ったんです。その怒りを、私たちが物語を書くときには、伝えなければ駄目なんですよ。

              第三章 消された歴史
 なぜ敗戦がたった一行なのか
百田 …
 「ポツダム宣言を受諾して戦争が終った」という一文からは、民族の屈辱、怒り、悲しみ、絶望が、まったく伝わってきません。
有本 ポツダム宣言受諾に至るまでの苦悩も伝わってきませんね。ひょっとしたら国体が壊されるかもしれないという、とてつもない大きな不安が伝わらない。

自分を奴隷として売った愛国者
 百田 知られていない人物も取り上げましたね。たとえば講演などで『日本国記』執筆中に、その内容を話したりしたのですが、びっくりするのが大伴部博麻という人物を、誰も知らないことですよ。「大伴部博麻を知っている人、いますか?」と600人くらいの会場で訊くと、一人か二人が手を挙げるくらいです。こんな凄い人物がこれほど知られていないのかと逆に驚きますね。
 ・・・
有本 実在をはっきりさせられない、とかいう理由で、体よく消されたんでしょうねえ。

 ばらばらの歴史では流れが見えない
百田 … 
 大東亜戦争に至るまでには、第一次世界大戦からの国際状況やアメリカとの関係を見なければならないし、さらに言えば、日露戦争も大きく影響しています。そして実はペリーの黒船が来る前からの大きな流れがあるのです。大東亜戦争はそういう百年近い単位で見なければ本質が見えてこないのです。
 有本 大東亜戦争はその最終局面だったわけですよね。

          第五章 日本人はなぜ歴史に学べないのか 
 『日本国紀』の隠しテーマ
百田 …
 なかでも朝鮮半島に関する歴史教科書の記述は本当にひどい。読んでいると「これは韓国の教科書?」と思われるようなものがあります。

 韓国を助けるとろくなことにならない
 有本 いま見てきたように、日韓関係は古代から一貫した原則があるのです。それは「韓国を助けるとろくなことにならない」ということです。問題はなぜ、日本はこの歴史に学ばないのかということです。 

         第六章 「負の歴史」を強調する教科書
 徴用工と慰安婦問題が
 有本 いまだに「一方、朝鮮・台湾の若い女性のなかには、戦地におくられた人たちがいた」と当時の事情を無視して書いている神経もすごい。「戦地に送られた」と書いていますが、「送った」のは誰かをあえてボカしています。しかし、日本軍でも日本政府でもありません。業者ですね。しかし「この女性たちは、日本軍とともに移動させられ、自分の意思で行動することはできなかった」と「日本軍」という単語を書くことで、日本が若い女性を戦地に送ったかのように印象操作しています。

 独立マンセー
百田 ご丁寧に「3~4月に独立運動が起こった所」という無数の点を打った地図まで載っている。「三・一独立運動」(1919年3月1日)は単なる暴動なんですよ。韓国では「偉大な独立運動」として3月1日を国民の記念日にしていますが、本当に「独立運動」だったかは大いに疑問です。初期のデモを別にすると、後の暴動は単なる騒擾事件ですよ。逮捕された者たちは首謀者も含め非常に軽い罪でした。

             第七章 ベストセラー作家の秘密
 歴史の重要性
有本 …亡命政権の人たちと仲よくなったりして、あるものを見つけたのです。
 中国がチベットの歴史を書き換えようと、プロパガンダのためにつくった豪華本です。「チベットの歴史をすべて振り変えることのできる事典」という触れ込みの立派な本を中国が出版したわけです。『西蔵歴史檔案薈粹』(A  collection of historical archives of Tibet)というタイトルで、大判の箱入り、箔貼りの豪華なハードカバーですよ。光沢厚地の上等な紙に、写真もふんだんに掲載したオールカラーの印刷です。
「チベットは古代から中国の一部だった」と宣伝するための本なので、昔の文献や進物の類を100ほど掲載していた。中国は「チベットは中国の一部」だということを既成事実化するために、この本をあちこちに配っていたのです。

有本 …それに対してチベット亡命政権は「このままでは自分たちの歴史が書き換えられてしまう」と、反論するための本をつくろうとしました。ただし、彼らにはお金がない。そこで、わら半紙みたいな紙に刷って、中国の豪華本に対する反証本を出したのです。それに私は感動しました。その本を日本語に翻訳し、石平さんに推薦の言葉と帯の言葉をかいてもらって日本で出版しました。
 そのとき私は、チベット人のしていることを日本人はなぜしないのか、できないのかと思ったのです。当時すでに慰安婦問題があり、国際社会で日本の姿は歪められていました。だけど日本人はそれに唯々諾々としていた。…
 だから国を取られてしまったチベット人が、こんなに一生懸命に、自分たちの歴史だけは絶対に渡さないという覚悟で闘っているのに、豊かな日本人が歴史を奪われて平気でいるなんて、私は一体何をしているんだろうと思ったんですね。

 民族の歴史を守る
有本 また、去年(平成29年)イスラエルに行ってきたのですが、ここでも違う角度から歴史の重要性を実感しました。国と民族には歴史が何よりも重要なのだということです。
 イスラエルは戦後に建てられた新しい国だとも言えますが、ユダヤ人の中には古代まで遡る建国物語がある。チベットとは状況が違うけれど、イスラエルが懸命に守ろうとしているのも民族の歴史なのです。もちろん反発もありますが。

百田  …
 イギリスもフランスも、連続性という意味で日本と比べたら歴史が浅いのです。つい最近できたような新しい店みたいなもの。日本は何代もさかのぼれる老舗みたいなものなのです。そのすごさを実は日本人が知らない。
有本 これは単純な日本人礼賛ではありませんし、良き歴史を眺めていい思いをしたいという娯楽ではありません。あえて個人に置き換えると、強い部分も弱い部分も含めて自分を知らない人間は、グローバル化が進む世界で勝ち抜ける人材などになれるわけがないと私は思っています。最近ではグローバル人材を育てるという、よくわからない学部や学科が全国の大学にありますが、自分が日本人であること、自分自身すらよく知らないのに、どうやって世界の人と渡り合うんですかと言いたい。
 

コメント

日本の歴史修正主義と「歴史とは何ぞや」(ベルンハイム)

2021年07月05日 | 国際・政治

 安倍前首相がオリンピック開催に関し、”歴史認識などで一部から反日的ではないかと批判されている人たちが、今回の開催に強く反対している”と語ったことが報道されました。いわゆるネット右翼と一体となったようなこうした発言が、オリンピック開催に否定的な医療従事者や感染症の専門家に対する脅しに近い主張や、現実の脅しを生み出しているのではないかと思います。
 そして、そうした安倍前首相の言動の影響は、強引なオリンピック開催のみならず、あらゆる領域・分野で深刻な状態にあると、私は思います。
 先だって、大村愛知県知事のリコール署名偽造事件で事務局長らが逮捕されましたが、それらも、安倍前首相をはじめとする自民党政権の、いわゆる従軍「慰安婦」問題に対する姿勢に影響されていると思います。現状は、従軍「慰安婦」問題について話し合ったり、議論しようとすることはもちろん、戦地の実態をふり返ることさえ、脅しの対象になっているように思います。
 「表現の不自由展」で展示された「平和の少女像」は、日本では右翼の抗議が起こる恐れがあるという理由で、公共の場所での展示が難しくなっています。表現の機会を奪う事態が相次ぎ、由々しき事態だと思います。
 でも、「表現の自由」が保障された日本で、堂々と表現の機会を奪うようなことができるのは、安倍前首相をはじめとする自民党政権中枢が、戦後の日本を受け入れず、かつての戦争指導層の思想を受け継いで、歴史を修正しつつあるからだと思います。

 その歴史の修正を代表するような百田尚樹氏の「日本国紀」については、すでに二回取り上げ、”「日本国紀」は「歴史書」すなわち「The History of Japan 」ではなく、百田尚樹氏の思いを込めた受け止め方によって歴史をとらえ、創作された日本の歴史「物語」すなわち「The Historical tale of Japan」であると思うのです。”と、私は結論づけました。
 その「日本国紀」に関連して、『「日本国紀」の副読本』百田尚樹・有本香(産経セレクト)という本が出されていますが、その中で、百田氏と有本氏は、「日本国紀」が、予約段階で、何日間もアマゾンの本全体のランキングトップを記録したことを、誇らし気に語り合っています。影響力の大きさを示しているのではないかと思います。
 すでに、何人かの著書をとり上げてきましたが、日本の知識人の多くも、何かといえば、「自虐史観」や「東京裁判史観」という言葉を口にして、戦後の日本を批判し、歴史の修正に加担していると思います。戦後の日本を否定し、歴史を修正するような本の出版も相次いでいます。

 だから私は、基本的なことを確認すべく、「歴史とは何ぞや」ベルン・ハイム著・坂口昴・小野鉄二訳(岩波文庫)の重要部分を抜萃することにしました。同書の中に、
この階段において初めて、歴史的知識は真に一個の科学となった。
とあり、
訳者の「緒言」に、下記のようにあるからです。
”この書の内容価値は、ただにドイツばかりでなく、他の欧米諸国からも、ひろく認められている。およそ初学者の史学に入ろうとするものを導き、かねて一般知識階級の歴史的教養に資する書物で、これほど簡にして要をつくし、親切にして繫縟(ハンジョク)でないものは、いまだ他に見当たらない。ことに理論となく実際となく、いやしくも歴史に関するほとんどすべての方面を網羅し、それらの各部門に入るの道を啓示して、青年学徒をして進路を誤らしめないのは、本書独得の使命として、もっとも推賞に値する。
 翻訳文独特のわかりづらさがありますが、「歴史」に関してきわめて重要なことが書かれていると思います。

 現在、「歴史」が、社会科学(日本では人文科学に分類されることが多いようですが…)の一分野に位置づけされていることや、歴史学の発達過程に関する国際社会の常識を無視するような日本における歴史の修正は、日本の将来を危うくし、若者をトラブルに巻込んで不幸に陥れることになると、私は思います。歴史に関する記述は、きちんと歴史学の基本を踏まえ、客観的な事実に基づいていなければならないと思います。
 再び、日本を野蛮国に転落させるような、ネトウヨの跋扈や神話を史実とするような歴史を許してはならないと思うのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
            第一章 史学の本質および職能

              第一節 史観の発達
 ・・・
 歴史的知識とそれに相応する叙述法との発展には、三つの主要階段を分ち得る。これらの階段は本質的にはただいま示した一切の知識の発達における階進に相当するものである。すなわち物語りしあるいは数え上げる階段と、教訓的あるいは実用的階段と、発展的あるいは発生的階段と、この三つがそれである。
一、物語風歴史(erzahlende Gesch.) 
 この階段では、その事に関心を有する範囲で、歴史的素材をその所と時との順序で物語りあるいは数えあぐるをもって満足する。素材に対する関心はさまざまな方向に向けられ得、かつそれに応じて種々の再現の形式が生ずる。もっとも古いのは、顕著数奇な人の運命や冒険に対する美的興味であろう。これに応じてかのなかば伝説的なかば歴史的な歌謡や史詩がある。これは民族史の初めに逢着するもので、たとえばランゴバルドを始めその他のゲルマン部民の移動伝説や国王伝説のごときである。聴く者の知識程度にとっては、よしやそれがホーマーの史詩、ニーベルゲンの伝説、Cid 譚のような作品であっても、歌になった歴史にほかならない。また、名聞欲や重要と思う人物、所行、事件を記憶に存したいという願望が、他の記述を生ぜしめる。アッシリア人やエジプト人のかの最古の歴史はそうしてできたものである。主権者の栄えある功業を数えあげている。東方諸国、ギリシャ、ローマにおいて金石または木材に刻んだ条約、戦勝、法律の記録もまたそうしてできた。かようなものはすでに、一層冷静で実際的な関心と相触れるところがある。ここに実際的関心とは、宗教、祭祀、政治上の目的のため、ある事項を確保しこれを安全に後世に伝えようとすること次の諸表におけるがごときをいう、── 種々の国王表、官吏表、氏族表、中世の諸暦、教会監督、律院庵主表。

 民族が違えば、歴史に対する感じや歴史的素材再現の才能の発達もはなはだ相違する。高度の文明を有するにかかわらず原始的形式の階段に立ち止まり、実に形式さえ不充分に発達させたに止まる国民も多い。たとえばインド人のごときこれである。しかるに他の諸国民は、物語風歴史を発展させ、その形式をいっそう豊富完全にしていっそう高い階段へ移る道を拓いた。ギリシャ人やローマ人は第一にこれである。すでにHerodotos はギリシャ人とペルシア人との戦争を紀元前440年頃に叙述して物語風歴史の模範的な作品を創ったので 、「歴史の父」と称せられたのはもっともなことである。また官吏の表や表のようになった心覚えから、初めはギリシャ人、次にローマ人の間に詳しい年代記や時代記が発展し、着眼や関心がますます事件の内的関連や動機に向けられるようになった。

二、教訓的あるいは実用的歴史(lehrhafte od. Pragmatische Gesch.)
 この見方を最初に意識的、模範的に代表したのは、アテネの人 Thukydides (前460頃─400頃)のペロポネサス戦史である。彼の明言するところによれば、その著作の役立つべき点は、過去の事物について明確な観念を与えること、したがってまた人事の進行にともなって同様にまたは類似して起るかもしれない事物について明確な観念を与えることにある。ゆえに彼は、昔に似た政治上の形勢に対しては過去の知識から実用的な教訓が汲まれんことを欲し、かつすべての人間の本性と行為とは一般に類似しているから、右は可能であるし理由もることだと説いている。これで彼はこの教訓的階段の特性を示すこと特徴的である。「プラグマティッシュ」なる用語はPolybios(前210頃──127頃)から採ったもので、彼はその世界史において同じ立場をとっている。もっとも彼は「実用的歴史」なる用語で自分の立場を言い表してはいず、彼の叙述が国事(・・・ギリシャ文字)に関するかぎりにおいてそう名づけているのである。この階段の歴史認識は、その実用的傾向に従い、事件を決定する心理的衝動すなわち個人が一般に抱く人間的な動機や目的に向けられ、行動する人物の情欲や思慮から一切のものを解釈しようと試みる。実にこの歴史認識の叙述は右の点を強くめだたしていることしばしばで、その特徴は、人物の動機や目的に関する熟考、著作者が現在に対してそれを応用すること、および判断に道徳論や政治論がはいる点にある。かく素材の内的原因や条件を深く究めることによって、まったく本質的な一進歩が起こったにしても、なおこの実用的歴史はわれわれにとっては明白な大欠点をもっている。すなわちこのものは心理的動機の観察に偏し、研究叙述者が人間のこれら動機について有する観照によって直接左右され、また彼の教示する目的に依存するが、この目的はとかく道徳的、政治的、ことに愛国的傾向をとりやすい。また一切を個人の衝動から解釈しようと望むため、ややもすれば偶然かつ主要ならぬ動機を過重するに至り、かくてついに君主や民族の運命さえ一人の奥女中の陰謀に制約されるように思われてくる。しかして実用的歴史は、ある文化民族のうちに個人的意識すなわち主観性が勃興する場合に現れるのが常である。それはまずギリシャに栄えた。すなわち前の階段の既存の形式たる年代記や時代記を利用し、さらに伝記や回想録のような新形式で表された。ついでローマにおいてアウグスツス時代以後とくに行われ、その模範的代表たる Tacitus (後55頃──117頃)の諸著作を出した。その後衰えてゆく古代文化のうちにあっても実用的歴史は勢力を有し、部分的には前述の弱点を示している。中世になっては、一部は物語風、備忘録的歴史という最低階段に沈降し、一部はローマの編史のすでに形成されたものをとり、しかもこれに新しいキリスト教の観照が入り込んでいる。この観照が入り込んだことは、すぐあとで説明しなければならないように、発生的歴史認識の最初の力強い萌芽を意味する。ついで、実用的歴史は、独特の新鮮さを見せて栄える。それはヨーロッパの諸民族が自覚を高めてその国民的特性を完成し始め、母国語を文学上に用いて親しく体験した事柄を直接表白した時代である。個人の権力や勝手気儘が政治上運命において決定的に有力なため、歴史上事件の経過が事実上個人の動機や目的によって制約されるように思われる時代なり所なりには、実用的歴史がきわめて繁昌するものである。まずフランス人にあっては第十三──十七世紀の回想録や回想録風の時代記となり、次に第十四世紀以後イタリア人にあっては小僭主(センシュ=血筋によらず実力により君主の座を簒奪し、身分を超えて君主となった者)たちの朝廷と党争で四分五裂の自由国との時代記となり、最後にドイツではとくに第十七、八世紀の小国分立状態の下に、実用的歴史が盛んなのはすなわちそれである。こういう場合には歴史は端的に事件の知識であると定義され、この知識から、政治生活において何が有用かまた有害か、いったい何が善い幸福な暮しに役だつかを学ぶものだと考えられている。しかもこれとならんで、いっそう高く広い歴史把捉に達する先行条件が、次第次第に成立しかつ有力となった。しかしてついに第十八、九世紀の交に当り、右の把捉が出現したのである。

三、発展的あるいは発生的歴史( entwickelnde od. Genetische Gesch)
 この階段において初めて、歴史的知識は真に一個の科学となった。何となればここに初めて、特性的に因果関連する諸事実の特殊な領域としての素材の純粋な認識が目標とされたからである。すなわちそれぞれの歴史現象はどういうふうに生成してその時代にそういうものになったか、またそれがさらにいかに作用したかということを知ろうと思うのである。〔発展〕というのは、かく作用が相関連するという中立的な意味である。
 この階段にこうも遅くなってやっと到達したことは、不思議に思われるかもしれないが、しかし容易に説明されることである。そもそも発展の概念は今日われわれにはかくまで自明と思われるが、人の精神に生得のものではけっしてない。人事を発展の産物として、すなわち内外諸原因が一体になって作用する関連においてこれを把捉するには、精神文化総体がことに高度であることが必要であり、そのためにまず発達していなければならない精神上の先決条件は一に止まらない。まず人の本性の単一なことに関する観照が存しなければならない。何となれば、相関連して発展すると考え得るのは、一体として観られたものに限るからである。いかにも古代でもその文化の頂上にあっては、人類は一体であるという観念が欠けてはいなかった。しかしその観念は充分内面的かつ深刻でなかったため、人類の文化共同体という効果ある表象には到達しなかった。しかるにキリスト教が、神の子としての全人類の連帯という生気ある思想を初めてもたらした。けだし神の子としての人類は、堕落、贖罪、最終世界審判という共通の運命によって結ばれあっていると考えるのである。中世の史観はこの思想を終始顧慮していたから、それが古代の史観にくらべて観念上進歩したことは認めてよい。しかしもちろん観念上傾向においてだけである、というのは、右の宗教的思想は超俗的事物に関心をもつという強力な標準を立てているから、その前へ出ては有為転変の俗界の存在は萎縮して空となりほとんど注意するだけの価値もないものになるからである。実にたとえばローマ人とゲルマン人と、どちらが歴史の舞台を占めようとかまわない、ただ神の国の拡張と栄えとを図るために、帝国が存続さえしてゆけばよいと思われた。それだけに中世が第二の観照に到達するのはなおさら容易ではなかった。この観照は発生的考察法にとって一個の先決条件であるが、古代にも不充分にしかなかったものである。すなわち人間の一切の関係においてつねに継続的変化が行われているというのもこれである。中世の人々がこの事をしばしば看過していたのは、われわれの立場から見れば実にほとんど解し得ないことである。したがって当時の人々は、諸時代やそれぞれの文化が相異なることについて、まったく何ら確乎たる観念がなかった。たとえばフランク人をトロヤ人の後裔と考え〔ドイツの名族〕ウェルフ家〔Welfen、ラテン語ではCatuli〕をローマのカトー家(Catones)より出づとなし、きわめてかけ離れた諸時代の制度や法律をカール大帝のものに帰し、ドイツ国王の帝国僧職叙任権(Investitur)の根拠は古イスラエル王権の権能に発すと考えさえした。かようなことは他にも多くある。第十八世紀にもなおこういう多くの時代錯誤に逢着する。第三に人の種々の関係や活動が、相互の内的因果関連および交互作用の裡に立っているという洞察も、ようやくはなはだ徐々に発達した。この洞察はまた、政治上事件が経済状態や社会状態に影響すること、逆に宗教や芸術、科学が相互に、また国家、社会の他の諸事情と活発な関係があること、国土の気候や地勢が諸民族の性格や生業に影響することを認識するものである。古代でも最大の歴史家は、現実生活を活眼をもって見たから、すくなくとももっとも明白な作用影響はいかにも見誤らなかったが、中世ではこれを見る眼がほとんどまったくなくなり、これらの影響にようやく着眼するのは、近代に残された仕事になった。右の作用影響に注意し、これに基づいて初めて比較言語学、人種学などのような比較科学が可能となったこと、また人類地理学のような知識分科全体および広範な文化史がこうして初めて成立し得たことを考慮すれば、かかる新しい洞察をするようになったことが何を意味するかを、明らかに思い浮かべ得るのである。
 中世が終って以来、人の歴史の広範深刻な把捉に必要な一切の先決条件は、きわめてさまざまな方向から、精神文化および科学の一般的進歩と関連して次第に満たされた。こうして発生的把捉が勃興し来ったのは、第十八世紀の後半以来のことで、第十九世紀以来学界を風靡するようになった。この把捉法は当代の精神的根本観照とはなはだ密接に関連していたため、自然観察の領域へも応用され、いたるところその効果豊かな作用を及ぼして科学的研究を活発ならしめた。これと相伴って作業手段が拡大されて多くの影響を及ぼし、また作業方法(研究法)が発達してきた。これらのものは、のちに詳しく見るであろうように、総観照のそれぞれの階段に依存する。何となれば総観照、関心の需めるところや目標とするところが、本質的に人心を導いて必要な手段、方法に到達させるからで、他面新しい手段、方法の偶然の発遣さえ、その利用を心得ている総観照が現存している場合にかぎり、何らかの結果をもたらすわけである、近ごろ表現派的傾向と関連して、「総合」と個別研究とを対立せしめるがごときは、はなはだしく不合理である。なお参照すべきは、第二章末の文献記録と

コメント

機密戦争日誌8月9日から15日 NO2

2021年06月27日 | 国際・政治

 先日、最高裁大法廷が、 ”夫婦別々の姓(名字)での婚姻は認められない、夫婦同姓を定めた民法などの規定は、憲法24条の「婚姻の自由」に違反しない”との判断を示しました。裁判官15人のうち11人が、夫婦同姓を定めた民法を「合憲」とし、4人が「違憲」としたとのことです。日本の裁判官の多くも、自民党政権中枢と同じように、個人の尊厳を基本原理とする国際社会の民主主義の歩みと逆方向を向いているのを感じました。

 どう考えても、夫婦同姓を義務づけることは、「法の下の平等」を保障する憲法14条や「婚姻の自由」を定めた24条に反するばかりではなく、国際連合憲章などに基づき、あらゆる男女差別を禁じた国際条約、「女子差別撤廃条約」や「国際人権規約」にも反すると、私は思います。

 「女子差別撤廃条約4部第16条の(g)には、守るべき権利の一つとして、”夫及び妻の同一の個人的権利(姓及び職業を選択する権利を含む。)”とあります。それらが法的に認められていないので、国連女性差別撤廃委員会は、日本政府に対し、選択的夫婦別姓を認めるように勧告しているのだと思います。夫婦同姓を義務づけている国が、他にないことも見逃せません。

 また、国際人権規約の第一条【人民の自決の権利】に”すべての人民は、自決の権利を有する。この権利に基づき、すべての人民は、 その政治的地位を自由に決定し並びにその経済的、社会的及び文化的発展を自由に追求する。”とあります。だから、自らの「姓」を決定することは、自決権の行使だと、私は思います。

 でも、日本ではいまだに、結婚したら女性が姓を変えることが当たり前であり、性別による役割分担意識が強く、”夫は外で働き,妻は家庭を守るべきである”という考え方に基づくさまざまな制約が、女性に多くあると思います。だから、女性の社会的地位や、政治的・公的分野における参画率も低く、「経済」「政治」「教育」「健康」の4つの分野のデータから作成された世界経済フォーラムのジェンダーギャップ指数でも、日本は156か国中120位という結果だったのだと思います。

 また、しばしば、「人権後進国」ともいわれたりします。

 

 でも、なぜ大日本帝国憲法を一新し、他国の憲法に比べて人権規定が多いといわれる「日本国憲法」のもと、著しい経済成長を遂げた戦後の日本が、いまだに、そういう状態にあるのでしょうか。

 私は、それを知る手掛かりの一端が、「神道政治連盟」の「綱領」にあると思います。『ウィキペディア(Wikipedia』によると、神道政治連盟設立時(1969年)の綱領は、以下の5項目だといいます。

1、神道の精神を以て、日本国国政の基礎を確立せんことを期す。

2、神意を奉じて経済繁栄、社会公共福祉の発展をはかり、安国の建設を期す。

3、日本国固有の文化伝統を護持し、海外文化との交流を盛んにし、雄渾なる日本文化の創造発展に  

  つとめ、もつて健全なる国民教育の確立を期す。

4、世界列国との友好親善を深めると共に、時代の幣風を一洗し、自主独立の民族意識の昂揚を期す。

5、建国の精神を以て、無秩序なる社会的混乱の克服を期す。

 そして、安倍前総理が会長を務める「神道政治連盟国会議員懇談会」には、圧倒的多数の自民党国会議員や閣僚が所属しているのです。

 上記のような綱領をもって、選択的夫婦別姓制度の導入に反対しつつ、日本を戦前の「神話的国体観」に基づく国に戻そうと、大勢の人々が日々活動しているのですから、ジェンダーギャップ指数の低迷も不思議ではないと、私は思います。

 

 自民党の「日本国憲法改正草案 Q&A」の「5 国民の権利及び義務」に、下記のようにあります。”権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたものです。したがって、人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要だと考えます。現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました。

 この内容は、神道政治連盟の綱領をやさしく言い換えたようなものだと、私は思います。

 そしてそれは、1945年8月、ポツダム宣言受諾を拒否することによって、日本の降伏を阻止しようと軍事クーデターを企図した陸軍省軍務局軍事課の若い将校達(稲葉中佐、井田中佐、竹下中佐、椎崎中佐、畑中少佐等)が堅く信じていた「神話的国体観」の延長線上にあると、私は思います。当時、「教育勅語」や「軍人勅諭」の教えを深く学んだ若い将校達には、「国体護持」のために、ポツダム宣言受諾派の要人を殺害することも、戦地で日本兵が亡くなることも、原爆や空襲で一般国民が亡くなることも、やむを得ないことだったのだと思います。井田中佐、竹下中佐、畑中少佐は、皇国史観の教祖と言われた平泉澄の直門であったと聞いています。

 下記にあるような、”仮令(タトヘ)逆臣トナリテモ、永遠ノ国体護持ノ為、断乎明日午前、之ヲ(軍事クーデター)決行セムコトヲ…”というような考え方は、骨の髄まで「神話的国体観」が沁み込んでいた証しだと、私は思います。

 私は、そうした「神話的国体観」が、いまだに日本で隠然と生き続けており、当時の若い将校を含む戦争指導層の思い受け継いでいる自民党政権中枢の政治家や、自民党政権中枢で活動したい政治家は、そうした「神話的国体観」を切り捨てることができないのだろうと思います。したがって、自民党政権中枢に関わる政治家にとっては、GHQの指導によって生まれた戦後の民主主義の日本が、受け入れ難いということであり、選択的夫婦別姓導入の問題も、単なる法律論ではなく、「神話的国体観」に基づく「家族国家」存亡の問題なのだと思います。

 神政連のホームページには、「神政連が目指す国づくり」の一つとして、”日本を守るために尊い命を捧げられた、靖國神社に祀られる英霊に対する国家儀礼の確立をめざします。”とあります。将来的には、GHQの神道指令を覆し、東京裁判で裁かれた戦犯の、名誉の回復を目指しているのだろうと思います。

 下記は、「大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌 下」軍事史学会編(錦正社)のなかの、813日から15日の部分を抜萃したものですが、阿南陸相の自決の様は、「神話的国体観」がどのようなものであるか、ということをよく示していると、私は思います。(一部数字を漢数字や算用数字に変更しています)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

     機密作戦日誌 (自 昭和二十年八月九日 至 昭和二十年八月十五日)

                           軍務課内政班班長 竹下正彦中佐

 

   八月十三日 火[月]曜

一、朝、菅波三郎氏ト共ニ、大臣ヲ官邸ニ訪問。特ニ大臣ハ内大臣邸ニ行キ不在ナリ。帰来ヲ待チ、最高戦争指導会議出  席前小時ヲ、自動車側ニテ立話シス。三笠宮殿下、木戸[幸一]、共ニ動カズ。三笠宮殿下ハ、大臣ニ対シテモ、相当強ク云ハレシ模様ナリ。サレド大臣ハ、コノ憂愁ニ拘ラズ、予ヲ見ルヤイツモノ微笑ヲ以テ迎ヘ、予ヲ麾(サシマネ)キテ簡単ニ立話セラレタリ。

二、吾等少壮組ハ、情勢ノ悪化ヲ痛感シ、地下防空壕ニ参集、真剣ニクーデターヲ計画ス。竹下、椎崎、畑中、田島、稲葉、南[清志]、水原[治雄]、中山安[安正]、中山平[平八郎]、島貫[重節]、浦[茂]、国武[輝人]、原等、二、三課、軍務課ノ面々ナリ。竹下ヨリ大綱ヲ示シ、手分ケシテ細部計画ヲ進メ、更ニ秘密ノ厳守ヲ要求ス。

今ヤ吾人ハ、御聖断ト国体護持ノ関係ニ附、深刻ナル問題ニ逢着セリ。計画ニ於テハ要人ヲ保護シ、オ上ヲ擁シ聖慮ノ変更ヲ待ツモノニシテ、此ノ間国政ハ戒厳ニ依リテ運営セムトス。

三、此ノ日、吉本重章大佐、軍務課長ニ補セラレ著[着]任。恰モ前課長永井[八津次]少将モ本日帰京。急ニ頭ガ揃ヒタリ。吉本大佐ハ詔書必謹、山田成利大佐ハ態度明瞭ナラザリシモ、課長著[着]任スルヤ詔書必謹トナル。

四、夕方米紙ニューヨークタイムス及ヘラルドトリビューン両紙ノ、日本皇室ニ関スル論説放送アリ。皇室ハ廃止セラレルベシトノ露骨ナルモノナリシヲ以テ、大イニ喜ビ急遽印刷ノ上、閣議席上ノ大臣ニ届ケタレドモ──山田大佐持参──迫水、閣議中配布セザリシ由ナリ。

五、三笠宮殿下、吉本課長ト山田大佐ヲ呼ビ、例ノ調子ニテ陸軍ヲ責メ、特ニ陸軍大臣ノ態度ハ聖旨ニ反シ不適当ナリト云ハレシ様ナリ。

課長ハ陸軍ノ自粛等諒承セルモ、陸軍ノ主張ハ真ニ国体ヲ思フ切々ノ至情ニ出ヅル点、御諒承願ヒ度旨申上ゲテ帰ル。

六、夜、竹下ハ稲葉、荒尾大佐ト共ニ、「クーデター」ニ関シ、大臣ニ説明セント企図シアリシ所、20:00頃閣議ヨリ帰邸セル大臣ヨリ招致セラレ、椎崎、井田ト共ニ、仮令(タトヘ)逆臣トナリテモ、永遠ノ国体護持ノ為、断乎明日午前(始メノ計画ハ今夜十二時ナリシモ、大臣ノ帰邸遅キ為不可能トナル)、之ヲ決行セムコトヲ具申スル所アリ。大臣ハ容易ニ同ズル色ナカリシモ、「西郷南州ノ心境ガヨク分ル」、「自分ノ命ハ君等ニ差シ上ゲル」等ノ言アリ。時々瞑目之ヲ久シウセラル。十時半頃散会トシ、一時間熟考ノ上、夜十二時登庁、荒尾大佐ニ決心ヲ示シ、所要ノ指示ヲセラレ度旨述ベ、三々五々帰ヘル。

予ハ最后ニ残リ、大臣一人ノ時、賛否ヲ尋ネシニ、人ガ多キ故アノ場デハ言フヲ憚リタリト答ヘ、暗ニ同意ナルヲ示サル。尚、皆帰ヘル時、今日頃ハ君等ニ手ガ廻リ、逮捕セラレルヤモ知レザルヲ以テ、用心シ給ヘ、トノ注意アリキ。他ヨリ入手セル情報ニ基クモノノ如シ。

七、皆、役所ニ帰ヘリ、夫ヨリ更ニ計画ヲ練ル。予ハ特ニ左ヲ提案シ、全員ノ一致賛同ヲ得タリ。

  明朝ノコトハ、天下ノ大事ニシテ、且、国軍一致蹶起ヲ必須トス。苟モ友軍相撃ニ陥ラザルコトニ就テハ、特ニ戒ムルノ要アリ。依テ明朝、大臣、総長先ヅ協議シ、意見ノ一致ヲ見タル上、七時ヨリ東部軍管区司令官、近衛師団長ヲ招致シ、其ノ意向ヲ正シ、四者完全ナル意見ノ一致ヲ見タル上立ツベク、若シ一人ニテモ不同意ナレバ、潔ク決行ヲ中止スルコト。

決行ノ時刻ハ十時トスルコト。

等ナリ。

近衛師団長ノ進退イ就テハ、昨日ヨリ問題トナリアリ。軍事課島貫中佐ハ、彼レハ大命ニ非ル限リ、仮令大臣ノ命ナリトモ、絶対ニ立ツコトナシ。二、三日マエ、訪問シテソノ心境ヲ知リアリト述ベ、若シ然ル場合ノ措置トシテ、師団長ヲ大臣室ニ招致シ、聴カザレバ監禁セントスルモノ、大臣ガ呼ンデモ来ルコトナカルベシ、然ル場合ハ師団ニ行キ師団長ヲ斬リテ、水谷[一生]参謀長ニヨリテ事ヲ行ハムトスベシトノコトトナル。

 

   八月十四日 水[火]曜

一、七時、大臣、総長前後シテ登庁、大臣ハ荒尾大佐ト共ニ総長室ニ至リ、決行同意ヲ求ム。然ルニ総長ハ、先ヅ宮城内ニ兵ヲ動カスコトヲ難ジ(計画ハ本日十時ヨリノ御前会議ノ際、隣室迄押シカケ、オ上ヲ侍従武官ヲシテ御居間ニ案内セシメ、他ヲ監禁セントスルノ案ナリ)、次デ全面的ニ同意ヲ表セズ。茲ニ於テ計画崩レ万事去ル。

二、大臣ハ自室ニ帰レバ、東部軍[管区]司令官田中[静壱]大将、参謀長高島[辰彦]少将アリテ待ツ。大臣ハ一般的ニ治安警備ヲ厳ニスベキ旨指示サレタルニ対シ、参謀長ヨリ降服受諾ノ結果トナラザルコトニ関シ、縷々具申シ、継戦トナレバ治安ヲ維持スルコト可能ナルモ、降服トナリテハ請ケ合ヒ兼ヌル旨述ベ、且、仮令御聖断アルモ詔書ニ副書セザレバ、効力発生セズトノ意見等述ベ、又治安出兵ノ為ニハ、筆記命令ヲ貰ヒ度旨述ベタリ。

三、一方、此ノ日、畑[俊六]元帥広島ヨリ到着、次官之ヲ迎ヘ、此ノ頃陸軍省ニ出頭セラル。白石[通教]参謀随行。原子爆弾ノ威力大シタアコトニ非ラザル旨語ルヲ以テ、元帥会議ノ際、是非其ノ旨、上聞ニ達セラレ度頼ム。

四、茲ニ一ヶノ挿話アリ。即、大臣、総長室ヲ出、自室ニ帰ヘリ、東部軍管区司令官ト面会終リシ頃、井田中佐、大臣室ニ来リ、総長が[ガ]先程上奏ニ出ラレシモ、二課、総務課ニ訊(トヒタダ)スモ、上奏案件ナク、今ノ大臣ノ計画ヲ暴露ニ行カレシニアラズヤ、且、総長ハ昨日鈴木、東郷、迫水ト会シアリ、本日ノ御前会議ニ於テハ、和平論ヲ唱フルコトトナリシ風説アリトノコトヲ述ブ。真逆トハ思ヘドモ、今日ノ計画ガ計画丈ケニ棄テ置カレズ、サリトモ処置モナシ。大臣ハソンナコトハナイ、二課ヲヨク調ベヨトノコトニテ、井田ハ退出セルモ、再ヒ来リテ、二課ニテハ本日上奏案件ナシト云フ、参内ハ確実ナリト云フ。サレド大臣ハ、ソンナコトハナイヲ繰リ返ヘセラレタリ。

五、昨日ヨリノ計画ニテ、8:10ニハ省内高級部員以上集合シアリ。大臣ハ不決行ト決マリシヲ以テ、訓示内容ヲ変更シ、本日ハ重大時期ナルコト全省ノ一致結束ヲ説カレタルニ止マル。

六、本日午前ニ予定サレアリシ御前会議ハ、13:30ニ延期セラレ、午前ハ閣議ノミトナル。

然ルニ、閣議参集ノ閣僚、及平沼、両総長、最高戦争指導会議幹事ニ対シ、突如10:30ヨリ、宮中ニ御召シ遊バサレ、歴史的御前会議ハ突如開カレ、世記[紀]ノ御聖断ハ下ルコトトナリタリ。

陸軍ノ昨夜ノ計画ト思ヒ合ハセ、此ノ御前会議ノ変更過程ハ、何等カノ関連ヲ予想セラレ、即、部内ニ政府ト通ズルモノナキヤヲ思ハシムルニ十分ナリ。

七、竹下ハ万事ノ去リタルヲ知リ、自席ニ戻リシガ、黒崎[貞明]中佐、佐藤大佐等相踵(アイツ)イデ来リ、次ノ手段ヲ考フベキヲ説キ、特ニ椎崎、畑中ニ動カサル。

次デ、総長ガ決心ヲ固メ、大臣ト共ニ最后迄ヤル旨述ヘタリトノ報アリ。

細田[熙]、松田[正雄]、原等ノ具申ニ依ルモノノ如シ。

茲ニ於テ「兵力使用第二案」ヲ急遽起案ス。要旨左ノ如ッシ。

(一)、近衛師団ヲ以テ、宮城ヲ其ノ外周ニ対シ、警戒シ、外部トノ交通通信ヲ遮断ス。

(二)、東部軍ヲ以テ、部内各要点ニ兵力ヲ配置シ、要人ヲ保護シ、放送局等ヲ抑ヘ。

(三)、仮令聖断下ルモ、右態勢ヲ堅持シテ、謹ミテ、聖慮ノ変更ヲ待チ奉ル。

(四)、右実現ノ為ニハ、大臣、総長、東部軍[管区]司令官、近衛師団長ノ、積極的意見ノ一致ヲ前提トス。

    此頃ニ於テ、吾等ハ大臣ハ閣議中ニテ、御前会議ハ午后ナリト思ヒ込ミアリタリ。

八、竹下、右計画ヲ持参シテ宮内省ニ至リ、此処ニテ最高戦争指導会議メンバー及閣僚全部ガ御召シニヨリ、参集中ナルヲ知リタリ。

十二時頃終了、大臣ノ跡ヲ追ヒテ総理官邸閣議室ニ到リ、御前会議ノ模様ヲ承ハル。陸相、両総長ノミニ発言ヲ許サレ、其ノ後、御聖断アリシ由、細部第九項。

大臣は[ハ]沈痛ナリ。予ハ閣議室ヲ眺メ硯箱ノ用意ヲ見テ、大臣ニ辞職シテ副書[署]ヲ拒ミテハ如何ト申セシ所、意大イニ動キ林秘書官ニ対シ、辞表ノ用意ヲ命ジタルモ、辞職セバ陸軍大臣欠席ノ儘、詔書渙発(カンパツ)必至ナリ。且、又、最早御前ニモ出ラレナクナル、ト呟キ取止メラル。

予ハ此ノ時、兵力使用第二案ヲ出シ、詔書発布迄ニ断行セムコトヲ求ム。之ニ対シ、大臣ハ意少ナカラズ動レシ様ナリ。閣議迄ノ間、一度本省ニ帰ヘル旨伝ハレシニヨリ、次官ト相談ノ上、決意セラレ度旨述ベタリ。

之ヨリ先、総長ガアレヨリ朝ノ案ニ同意セラレタリト述ベタルニ対シ、「ソウカホントカ」トテ、兵力使用第二案ニ意動カレシヲ察セリ。

九、午后一時ヨリ三時迄閣議アリ、其ノ後大臣ハ課員以上全員ヲ、第一会議室ニ集メ、左ノ趣旨ノ訓示ヲ為セリ。本日午前、最高戦争指導会議構成員、及閣僚ヲ御召シ遊バサレ、御聖断ニ依リ、ポツダム宣言内容ノ大要ヲ受諾スルコトトセラル。其ノ時、御上ニハ此ノ上戦争遂行ノ見込ナキコトヲ述ベラレ、無辜ノ民ヲ苦シメルニ忍ビズ、明治天皇ノ三国干渉ノ時ノ心境ヲ以テ、和平ニ御決心遊バサレ、一時如何ナル屈辱ヲ忍ビテモ、将来皇国護持スルノ確信アリ、忠勇ナル軍隊ノ武装解除ハ堪ヘ難シ、然レ共為サザルヲ得ズト云ハレ、特ニ陸軍大臣ノ方ニ向ハレ、陸軍ハ勅語ヲ起草シ、朕ノ心ヲ軍隊ニ伝ヘヨト宣(ノタマ)ハセラル。又、武官長ハ侍従武官ヲ陸軍省ニ派遣スル由。

御聖断ニ基キ、又重ナル有リ難キ御取リ扱ヒヲ受ケ、最早陸軍ノ進ムベキ道ハ唯一筋ニ、大御心ヲ奉戴実践スルノミナリ。

皇国保持ノ確信ニ就テハ、本日モ、「確信アリ」ト云ハレ、又元帥会議ニ際シテモ、元帥ニ対シ、朕ハ「確証ヲ有ス」ト仰セラレアリ、三長官、元帥会合ノ上、皇軍ハ御親裁ノ下ニ進ムコトト決定致シタリ。

今後、皇国ノ苦難ハ愈々加重セベキモ、諸官ニ於テハ過早ノ玉砕ハ、任務ヲ解決スル途ニ非ラザルコトヲ思ヒ、泥ヲ喰ヒ野ニ臥テモ、最後迄、皇国護持ノ為奮闘セラレ度。

十、次デ、軍務局長ヨリ、本日御前会議ニ於ケル御言葉ヲ伝達ス。要旨左ノ如シ。

自分ノ此ノ非常ノ決意ハ変リハナイ。

内外ノ動静国内ノ状況、彼我戦力ノ問題等、此等ノ比較ニ附テモ軽々ニ判断シタモノデハナイ。

此ノ度ノ処置ハ、国体ノ破壊トナルカ、否(シカ)ラズ、敵ハ国体ヲ認メルト思フ。之ニ附テハ不安ハ毛頭ナイ。唯反対ノ意見(陸相、両総長、ノ意見ヲ指ス)ニ附テハ、字句ノ問題ト思フ。一部反対ノ者ノ意見ノ様ニ、敵ニ我国土ヲ保障占領セラレタ後ニドウナルカ、之ニ附テ不安ハアル。然シ戦争ヲ継続スレバ、国体モ何モ皆ナクナッテシマヒ、玉砕ノミダ。今、此ノ処置ヲスレバ、多少ナリトモ力ハ残ル。コレガ将来発展ノ種ニナルモノト思フ。

──以下御涙ト共ニ──

忠勇ナル日本ノ軍隊ヲ、武装解除スルコトハ堪ラレヌコトダ。然シ国家ノ為ニハ、之モ実行セネバナラヌ。明治天皇ノ、三国干渉ノ時ノ御心境ヲ心トシテヤルノダ。

ドウカ賛成ヲシテ呉レ。

之ガ為ニハ、国民ニ詔書ヲ出シテ呉レ。陸海軍ノ統制ノ困難ナコトモ知ッテ居ル。之ニモヨク気持チヲ伝ヘル為、詔書ヲ出シテ呉レ。ラヂオ放送モシテヨイ。如何ナル方法モ採ルカラ。

十一、閣議ハ午后七時二十分ヨリ八時半迄開カレ、更ニ九時ヨリ十一時三十分迄開カレタリ。此ノ間、詔書案分議セラル。閣僚署名アリ。

 

十ニ、竹下ハ、連日不眠ヲ医スル為、駿河台渋井別館ニ帰ヘリ、白井、浴両中佐ト語リタル後、二十三時頃就寝シタル所、二十四時半頃、畑中来訪シ、「近歩二連隊長芳賀[豊次郎]大佐ハ、本日近歩二ガ守衛上番ナルヲ機トシ、更ニ一ヶ大隊ヲ赴援シ、軍旗ヲ捧ジテ蹶起スルノ決心ヲ固メ、本夜二時ヲ期シ、宮城ヲ固ムルノ処置ヲ採ルニ決ス。近衛師団中ニハ、別ニ四ヶ大隊蹶起ニ同意セシメタリ。自分ハ今ヨリ近衛師団長ノ許ニ至リ、之ヲ説得スルモ、若シ聴カザル時ハ之ヲ許[斬]リテモ実行ス。石原[貞吉]、古賀[秀正]、ノ両参謀ハ同意シアリ」ト述ベ、予ニ対シ、大臣ノ許ニ至リ、本朝来ノ計画ニ基キ、近衛師団ノ蹶起ヲ機トシ、全軍蹶起ニ至ラシメラレ度依頼ス。竹下ハ東部軍ガ立タズシテハ問題トナラズ、近衛師団長モ難シカルベク、東部軍ハ今トナリテハ恐ラク同意セザルベク、成功ノ算少キヲ以テ、計画中止ヲ静ニススメタルモ、畑中ノ決心牢固タルモノアリ。且、予ハ嘗テ予自ラ捧持セシ軍旗ガ動キ、大臣ニ取リテハ之亦嘗之ヲ仰ギタル軍旗ガ動クコトハ、天意カモ知レズト大イニ心動キタルヲ以テ、畑中ニ対シ、大臣ノ許ニ至ルヲ約ス。但、昨日来ノ決心ト同ジク、近衛師団長、東部軍司令官ノ同意ヲ先決トシ、近衛師団長ハ斬リテ代理者ニ依リテ動クナラ兎モ角、東部軍官区司令官ガ立タザル時ハ、大臣命令ノ発動ハ要求セズ、若シ両者策応蹶起セバ、大臣ニ対シ力ノ限リ

蹶起ヲススムベシト約シ同車出発、畑中ハ一寸役所ニヨリ、軍事課ノ諸士ニ東部軍ヘノ工作ヲ依頼シ、直チニ予ヲ大臣官邸ニ送リ、自ラハ近衛師団ニ向ヒタリ。

十三、十四日夜、即十五日一時半、竹下、大臣官邸着。案内ヲ乞ヒタル所、大臣ハ自室ニ在リ、「何シニ来タカ 」ト、一寸咎メル如キ語調ナリシモ、軈(ヤガ)テ、ヨク来タトテ室ニ請(ショウ)ズ。 室内ニハ床ヲ展ベ、白キ蚊帳ヲ吊リアリ、ソノ奥ニテ書物ヲセラレアリシ如ク感ズ、──遺書ナリ──机上ニハ膳ヲ置キ、一酌始マラントシアリシ模様ナリキ。大臣ハ予ニ対シ、本夜予(カネ)テノ覚悟ニ基キ、自刃スル旨述ベラル。之ニ対シ予ハ、覚悟尤(モットモ)ニシテ、其ノ時機モ本夜カ明夜カ位ノ所ト思フニ附、敢テ御止メセズト述ベタル所、大臣ハ大イニ喜ビ、君ガ来タノデ妨ゲラルルカト思ヒシガ、夫レナライイ却(カエッ)テヨイ処ニ来テ呉レタトテ、盃ヲ差シ頗(スコブ)ル上機嫌トナリ、本夜ハ十分ニ飲ミ、且、語ラムトテ、夫レヨリ五時頃迄語ル、其ノ要旨左ノ如シ。

 

( 室内図・・・略)

 

予ハ平素ニ似ズ飲マルルヲ以テ、アマリ飲ミ過ギテハ、仕損ズルト悪シ、ト云ヒシ所、飲メバ酒ガ廻リ血ノ巡リモヨク、出血十分ニテ致死確実ナリト、予ハ剣道五段ニテ腕ハ確カト笑ハレタリ。

問答要旨、前後不同。

一、若シバタバタセル時ニハ君ガ、仕末シテ呉レ。然シソノ心配ハナカラム。

一、遺書ハ、「一死ヲ以テ大罪ヲ謝シ奉ル、昭和二十年八月十四日夜、陸軍大臣阿南惟幾」ト、既ニ書キアルヲ示サレシガ、裏ニ、更ニ「神州不滅ヲ確信シツツ」ト書キ足サレタリ。

辞世「大君ノ深キ恵ミニ浴(アミ)シ身ハ言ヒ残スベキ片言モナシ、八月十四日夜、陸軍大臣阿南惟幾」ハ、コレハ戦地ニ出ル時ノ、イツモノ心境ナリト云ハル。

一、短刀デヤルガ、卑怯ノツモリハナイ。

一、畳ノ上ハ、武人ノ死ニ場所デハナイ。外デハ見張リニ妨ゲラレルノデ、縁側デヤル、向キハ、皇居ノ方向デアル。

一、大臣ハ夜、風呂ニ入リアリ、自決ノ時ハ侍従武官時代、拝領セシ下着ヲ身ニ附ケラル。コレハオ上ガオ肌ニ附ケラレタルモノデアル。コレヲ着用シテ逝クノダト。

一、本夜、畑中等ノ件ニ附テハ、蹶起時刻タル二時迄ハ触レザリシモ(事前ニ、知レバ、大臣トシテ中止ヲ命ズルノ責モ生ズベキヲ考慮シタルモノナリ)、二時過ギ説明シタル処、東部軍ハ立タヌダラウト言ハレタリ。其ノ後、三時頃窪田[兼三]少佐来訪。竹下ノミ面会シ、同少佐ヨリ森[赳]師団長ハ肯(ガヘ)ゼザリシ為、畑中少佐之ヲ拳銃ニテ射撃シ、窪田少佐軍刀ニテ斬リタル由、又、居合ハセタル白石参謀(第二軍)ハ制止セル為、之又、窪田少佐斬殺セル由。窪田少佐ハ報告ニ来リ、今ヨリ守衛隊本部ニ行ク由ヲ聞キ取リ、東部軍ノコトハ分ラヌ由モ聞キ、少佐ノ帰リタル后、大臣ニ報告セル所、森師団長ヲ斬ッタカ、本夜ノオ詫ビモ一緒ニスルト洩ラサレタリ。四時頃、井田中佐来訪、大臣ニ会ヒ、東部軍ハ立タヌ、万事去ツタ由ヲ大臣ニ対シ述ベタリ。

之ヨリ先、大臣ハ十三日、大臣室ニ於テ、井田中佐が[ガ]「大臣ハ変節サレタノカ、ソノ理由ヲ承リ度」ト云ヒシコトニ附、アノ際ノ返答ハ井田ヲ後ニ残シタカッタノダト云ハレ、井田中佐ニヨロシク伝ヘテ呉レト云ハレ居リシガ、井田来訪スルニ及ビ、相擁シテ語ラレタリ。

一、井田中佐帰リタル後、大城戸[三治]憲兵司令官来邸、近衛師団ノ変ヲ報告ニ来ラル。大臣ハ夜ガ明ケルカラ始メル、司令官ニハ、オ前会ヘトテ、竹下ヲ応接間ニ出シ、其ノ後ニテ自刃セラレタリ。

林秘書官、此ノ頃、近衛師団ノ件ニテ来訪、応接間ニテ竹下ニ会ヒ、大臣ノ登庁ヲ要スト云ハレシガ、大臣室ニ至リ自刃中ナルヲ知リ、竹下ニソノ旨伝ヘラル。

一、細田大佐ニヨロシク。

一、安井国務大臣ニ御世話ニナッタ。

一、林秘書官ニ礼ヲ云フテ呉レ、ヨイ秘書官ダッタ。

一、総長ニ長イ間御世話ニナリマシタ、書キ遺シマセンガ、閣下ニハ御世話ニナリマシタ。国家ハ閣下ガ指導シテ下サイ。

一、竹下ノ婿トシテ、阿南家ノ陸軍大将トシテ、堂々ト死ンデユク、笑ッテ逝ク。

一、アア六十年ノ生涯、顧ミテ満足ダッタ。ハハハハ。

一、惟敬ニ対シ、アア云フ性格ダカラ、過早ニ死ナヌ様、呉々伝ヘテ呉レ。

一、惟晟ハ、ヨイ時死ンデ呉レタ。惟晟ト一緒ニ死ンデ逝ク。

 大臣ハ三時頃、例ノ下着ヲ着換ヘ、ソノ上ニ一度、勲章ヲ全部佩用(ハイヨウ)シテ軍服ヲ着シ、竹下ニ対シ、ドウダ堂々タルモノダロウト伝ハレ、此時両人相擁セリ。軈(ヤガ)テ服ヲ脱イデ床ノ間ニ残置サレ、終ッタラ体ノ上ニカケテ呉レト頼マレシガ、ソノ際両袖ノ間ニ、惟晟ノ写真ヲ抱クガ如ク安置サレタリ。

一、惟正以下男ノ子ガ三人モ居ルカラ大丈夫。

一、綾子ニ対シ、オ前ノ心境ニ対シテハ信頼シ感謝シテ死ンデユク、ト伝ヘテ呉レ。

一、姉ヲ始メ親戚一同ニ、ヨク分ッテ呉レルダラウ。

一、惟道ハ、オ父サンニ叱ラレタト思フト可哀想ダガ、此ノ前帰ッタ時、風呂ニ入レテ洗ッテヤッタアノデ、ヨク分ッタラウ、皆ト同ジ様ニ可愛ガッテ居ルコトヲ伝ヘテ呉レ。

一、家族ノコト等、君ガ来タカラ伝ヘラレタノダ。

一、次官ニ後ヲ頼ム。

一、豊田、大西、畑閣下ニ厚思ヲ謝ス。

一、板垣、石原、小畑[敏四郎]閣下同ジク。

一、荒木[貞夫]閣下ニヨロシク。

一、米内ヲ斬レ。

一、台上各位ニヨロシク。

一、野口、除野、久雄[阿南尚男]サンニヨロシク。

一、辞表ノ日附ハ十四日トセラレ度。

一、モウ十五日ダガ、自決ハ十四日ノ夜ノ積(ツモリ)ナリ。十四日ハ父ノ命日デ此日ト決メタ。ソウデナイ場合ハ、二十日ノ惟晟ノ命日ダガ、夫デハ遅クナル。

十四、林秘書官ノ知ラセニテ、竹下ガ現場ニ到レバ、大臣ハ既ニ割腹ヲ了ハリ、喉ヲ切リツツアリ、予ガ介添シマセウカト言ヒタルニ対シ、無用、アチラニ行ケト云ハル。暫クシテ来リ検スルニ、少々右前ノメリトナリ居ラレタルモ、呼吸十分ニ聞ユルヲ以テ、予ハ苦シクハアリマセンカト呼バハリタルモ、既ニ意識ナキ如キモ手足モ少々動クヲ以テ、短刀ヲ取リテ介添ヘス。

其ノ後、載仁親王ヨリ拝領ノ軸物ヲ側ニ展ケ、遺書ヲ並ベ、軍服ヲ体ニカケタリ。

十五、陸軍省ヨリ再度連絡アリシニ依リ、三度大臣ノ死ヲ慥(タシカ)メ登庁ス。コノ時、未ダ呼吸アリ。

 

八月十五日 木[水]曜

一、次官閣下以下ニ報告。

二、十一時二十分、椎崎、畑中両君、宮城前(二重橋ト坂下門トノ中間芝生)ニテ自決。

  午后、死体ノ引取リニ行ク。

 

三、大臣、椎崎、畑中三神ノ茶[荼]毘、通夜。

コレヲ以テ愛スル我カ国ノ降伏経緯ヲ一応擱筆(カクヒツ)ス。

 

コメント

機密戦争日誌8月9日から15日 NO1

2021年06月23日 | 国際・政治

 最近のオリンピック開催をめぐる関係機関の諸判断は、自民党政権中枢の本質を、かなりはっきりと国民の前にさらけ出すことになったように思います。前回も書きましたが、新型コロナ感染症によって日本人が何人亡くなろうが、医療機関がどんな困難に直面しようが、飲食店その他がいくつ潰れようが、さらに、職を失い、住む所までも失う人が何人出ようが、オリンピックはやるという姿勢とともに、オリンピック関係者に対する露骨な特別扱いが、いろいろ指摘されているからです。慶応大学名誉教授でパソナ会長の竹中平蔵氏の発言や内閣官房参与の高橋洋一教授のツイッターが問題視されたこと考え合わせると、それらが、相当多くの人たちに不満や失望を感じさせることになっているのではないかと思います。

 加えて、先日、東京五輪組織委員会が主催するイベントの企画・構成を手掛けるなど、オリンピックの開催に協力してきた演出家の宮本亞門氏が、日刊ゲンダイが行ったインタビューで、オリンピック東京招致をめぐる黒い疑惑に関して、衝撃の事実を語ったことが報じられています。
東京の招致決定後、あるトップの方とお会いした時、招致が決まった会場で、裏でいかに大金の現金を札束で渡して招致を決めたか、自慢げに話してくれたのです。驚いた私は「それ本当の話ですか?」と言ったら笑われました。
「亞門ちゃん若いね。そんなド正直な考え方で世の中は成り立ってないよ」”(「ニュースサイト/リテラ」より)
ということです。
 オリンピック東京五輪招致を巡る贈収賄疑惑については、仏司法当局が日本オリンピック委員会(JOC)の前竹田恒和会長に対する捜査などを続けているといわれています。JOCの前竹田会長は”正当な支払い”と主張しているようですが、国際オリンピック委員会の委員だったラミン・ディアク国際陸上競技連盟前会長の息子に支払ったというおよそ2億2000万円という金額は、”正当な支払い”としては、あまりに大きな金額で、仏司法当局が捜査対象にしたことは、間違っていないのではないかと思います。

 森友学園問題、加計学園問題、桜を見る会問題、河井克行前法相と妻・案里氏の選挙に関わる買収と一億五千万円支出問題等すべて真実は闇の中ですが、総理が変わっても学術会議任命拒否問題や東北新社による接待問題などが続きました。それに、オリンピック東京招致疑惑にからみ、当時官房長官だった菅首相が、セガサミーホールディングスの里見治会長に、オリンピック招致のための工作資金を依頼したとの情報まで報道されるに至っています。

 こうした一般国民には考えられないような利益がらみの政治問題の連続は、やはり、単なる儲け主義の結果ではなく、自民党政権中枢が戦前の考え方を引きずっているからであり、戦前回帰を意図しているからだと、私は思います。今はまだ詳細を公にできない目的を共有しているからではないかと、私は疑っているのです。河井案里氏は、選挙違反容疑に関わる家宅捜索後の記者団の取材で、国会議員を続ける意向を示しつつ、”日本を変えたい”、と語ったことが忘れられません。安倍前総理同様、戦後の日本が受け入れられないということだと思います。

 下記は、「大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌 下」軍事史学会編(錦正社)から、軍務課内政班班長、竹下正彦中佐の記した8月9日から15日の中の、12日までの部分を抜萃したものです。ポツダム宣言受諾をめぐる論争を中心とするものですが、戦後の教育を受けた一般国民の考え方とはあきらかに異なる考え方が随所に読み取れます。

 下記には、あくまでポツダム宣言受諾を拒否し、和平論を語る、”平沼、近衛、岡田[啓介]、鈴木、迫水、米内、東郷等ヲ葬ラムトスル者アリ。”とか、”陸軍大臣ノ治安維持ノ為ノ兵力使用権ヲ利用シ、実質的クーデターヲ断行セムトスル案アリ。”というような記述がありますが、現在の一般国民から見れば、あってはならない人命軽視の考えだと思います。

 「宮城事件」の原因となる「兵力使用計画」を起案し、陸軍大臣に”仮令(タトエ)逆臣トナリテモ、永遠ノ国体護持ノ為、断乎・・・之を決行センコトヲ具申”したという筆者の竹下中佐が、戦後、陸上自衛隊幹部学校研究部長や防衛大学校幹事、第4師団長、陸上自衛隊幹部学校長(陸将)等を歴任し、活躍したという事実も見逃せません。

 そして、そうした人たちと考え方を共有し、”日本を取り戻す”、という安倍前総理をはじめとする自民党政権中枢の政治家が目指しているのは、人命や人権を軽視したかつての日本であることを見逃してはならないと、私は思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

     機密作戦日誌 (自 昭和二十年八月九日 至 昭和二十年八月十五日)
                                軍務課内政班班長 竹下正彦中佐

                     昭和二十年
  八月九日金[木]曜
一、7時10分、渋井別館ニ於テ軍務課岩佐曹長ヨリ、至急登庁方、同時、次官秘書広瀬[栄一]中佐   
 ヨリ、「ソ連宣戦セリ、至急登庁」ノ電話連絡アリ、8時前登庁ス。
二、山田[成利]大佐ト協議ノ上、ソ連参戦ニ伴フ処置トシテ、
  陸軍意思ノ決定
  大臣、総長局部長会議  9:00
  最高戦争指導会議   11:00
  閣議         13:00
  御前会議       15:00
  決意開[闡]明    17:00
 ノプログラム作[製]成上申ス。
三、「ソ」連ノ宣戦布告ニ伴ヒ、帝国ノ採ルベキ態度案トシテ別紙作成。
    「ソ」連ノ参戦ニ伴フ戦争指導大綱(案)
             昭和20・8・9
方針
 帝国ハ「ソ」ノ参戦ニ拘ラズ、依然戦争ヲ継続シテ、大東亜戦争ノ目的完遂ニ邁進ス
 (一)「ソ」ニ対シテハ宣戦ヲ布告セザルモ、自衛ノ為飽ク迄交戦ス
 (二)「ソ」連、若(モシク)ハ中立国ヲ利用シテ、好機ニ乗ジ戦争終結ニ努力ス。
    但シ、皇室ヲ中心トスル国体ノ護持及国家ノ独立ヲ維持スルヲ最小ノ限度トシ、当分対 
    「ソ」交渉ヲ継続ス。
 (三)国民ヲシテ大和民族悠久ノ大義ニ生クル如ク、重大決意ヲ促スモノトス(詔勅)。
 (四)速カニ国内ニ戒厳ヲ施行ス
四 十時三十分ヨリ最高戦争指導会議開催。
  出席者構成員ノミ(総理、陸海軍大臣、参謀総長、軍令部総長、外務大臣ノ六名)
  十三時三十分終了(予定ヨリ一時間半延長)、論尽キズ決定ニ至ラズ、閣議ニ譲リシモノノ如   
  シ。
五 総合計画局参事官白井[正辰]中佐、長官ノ命ニ依リ軍務局長ノ許ニ来訪、総理、陸海軍、外務   
  大臣(最戦指出席者)不在中ノ閣僚、書記官長等ノ気分ヲ披露ス。 
(一)、対「ソ」見透シヲ誤リタル責ニヨリ、総辞職スベキナリ、(ニ)、戦争ニハ勝テヌ、(三)、統帥部ノ作戦ニ関       スル見透シヲ軍ニ尋ネムトノ空気ナル由ニテ、竹下中佐ハ局長ノ命ニ依リ、 
   宮内省内、最高戦争指導会議室ニ至リ、大臣、総長ニ右ノ空気ヲ伝達、閣議ノ参考ニ供セリ。
六、引キ続キ、総理官邸ニテ閣議開催、17:30一旦散開。18:30再会[開]、22:20終    
  了。前後実ニ九時間ニ及ビ、遂ニ決定ヲ見ルニ至ラザリシモノノ如シ。特ニ第一次ニ於テハ、閣   
  僚ヨリ国力ノ現状 食糧ノ見透シ 作戦ノ見透シ等ニ附、質問続出セル模様ニテ、陸軍大臣ハ今   
  頃カカルコトガ分ラヌデハ困ル旨、発言在リシ模様ナリ。小田原評定トハ正ニコレヲ評スベキカ。
七、23:00ヨリ、御前会議開催、参集員最高戦争指導会議構成員(幹事含ム)。

八、午前ノ最高戦争指導会議ノ内容ハ、極秘ニ附サレアリシモ、軍事参議官会同席上、参謀総長ノ発   
  言ヲ聞キタル軍事課高山[信武]大佐ノ洩ラス所ニ依レバ、陸軍提案ノ和平四条件ハ、(一)国  
  体ノ変革ヲ許サズ、(二)、外地日本軍隊ノ武武装解除ハ外地ニテ行ハズ内地ニテ日本自ラ行フ、
 (三)、保障占領許サズ、(四)、戦争責任者ノ処罰許サズ、ニシテ右条件ニ附、意見ノ一致ヲ見 
  ザリシ模様ナリ(仄聞スル所ニ依レバ、外相ハ第一項ノミニテヤリ度意向)
  右ニ附、飯尾[裕幸]、畑中[健二]等陸軍ガ和平条件ヲ出シタルコトニ附、不満ノ意ヲ表セリ、徹底抗戦以外ニナ  シト言フ
九、軍事参議官会同、18:30ヨリ開催、東久邇[稔彦]、朝香[鳩彦]、杉山[元]、土肥原 
  [賢二]、梅津[美治郎]各将軍参集セラル。
十、今後ノ準備ノ為、内政班ハ班長竹下中佐ハ全般及戦争指導輔佐、浴[宗輔]中佐班業務総轄、  
  椎崎[二郎]、畑中政変対応、江口[利夫]中佐宣伝情報、田島[俊康]少佐戒厳法規、白木
  [義孝]少佐庶務ニ臨時分担ヲ定メ、20:00ヨリ班内会報ヲ開ケリ。
十一、加藤[丈夫]大佐ハ、午后、東條[英機]大将ニ情況ヲ報告ス。
   小磯[国昭]大将ハ所在不明ナリ。

   八月十日 土[金]曜
一、昨夜二十三時ヨリ開レタル御前会議ハ、本朝三時終了、引キ続キ閣議アリ。
二、9:30分ヨリ地下防空壕ニ於テ、陸軍省高級部員以上ノ集合ヲ命ゼラレ、大臣ヨリ昨日ノ御前   
  会議ノ模様ニ附、左記要旨ノ説明アリ。
      左記(下記)
  昨夜十一時ヨリ本朝三時ニ亘リ、御前会議開催セラレ、皇室ノ保全ヲ条件トシテ、ポツダム宣言内容ノ大部ヲ受諾ス  ルコトニ、御聖断アラセラレタリ。
然レ共、之ガ実効ヲ見ル為ニハ、皇室保全ノ確証アルコトヲ前提トスルモノナリ。予ノ微力遂ニカカル帰結ニ至ラシメタルハ、諸官ニ対シ申訳ナク、深ク責任ヲ感ズルモ、御前会議ニ於テ、予ガ主張スベキコトヲ十分ニ主張シタルコトニ就テハ、予ハ信頼シ呉レルモノト信ズ。コノ上ハ唯、大御心ノママニ進ム外ナシ。此ノ際左記ニ注意セヨ。
(一)、総テヲ捨テテ厳粛ナル軍紀ノ下ニ団結シ、越軌ノ行動ヲ厳ニ戒ム。国家ノ危局ニ際シ、無統 制ナル行動ハ国ヲ戒ル因ナリ。
(二)、国民ノ動向ヲ十分ニ観察シ、之ヲ把握シ、大御心ニ従フ如ク指導スルコト肝要ナリ。
    難局ニ立チタル大和民族ノ方向ヲ誤ラザラシムルコト。
(三)、軍ノ自粛ハ必要。
    海外軍隊ノ処理ニ就テハ最痛心事ナリ。
(四)、今後ノ外交交渉ノ経過ヲモ考ヘ、軍ハ和戦両用ノ態勢ヲ以テ臨ム要アリ。
三、大臣説明ニ続キ、吉積[正雄]軍務局長ヨリ細部ノ説明アリ。
四、此ノ夜、大臣官邸ニ大臣ヲ訪ヒ、九日ニ於ケル状況ヲ聴取セル所左(下)ノ如シ。
 1、午前ノ最高戦争指導会議ニ於テハ、外務大臣及ビ米内[光政]海相ヨリ和平論アリ、和平交渉ニ入ル為、敵ト何等カノ手掛リヲ得ルコト絶対必要ニテ、之ガ為ニハ最少[小]限ノ要求タル皇室ノ保全ノ一条項ヲポツダム宣言内容ニ含マルルモノトノ了解ノ下ニ受諾シ度トノ論ニ対シ、大臣ハ戦争ノ継続ヲ主張シ、交渉ノ余地アラバ五頁(九日ノ条ノ八)記載ノ四カ条ヲ、国体護持ノ最小限条件トシテ附スルノ要アル旨力説シ、梅津総長、豊田[副武]軍令部総長之ニ同意セル由ナリ。
 2、此ノ会議ノ間、軍令部次長大西[滝次郎]中将ヨリ、大臣ヲ呼ビ出シ、米内ハ和平ナル故心許ナシ 陸軍大臣ノ奮闘ヲ期待スル旨依頼セルニ対シ、大臣ハ承諾シ、且海軍部内ノ立場モアルベク、本件ハ聞カザルコトトシ度旨答ヘタリ。
 3、会議ハ意見対立シ議決ニ至ラズ、14:30ヨリ閣議ニ入ル。閣議ニ於テハ、鈴木[貫太郎]総理ヨリ最高戦争指導会議ノ模様ヲ御伝ヘスル旨宣シ、東郷[茂徳]外務大臣ニ発言セシム。東郷ハ、和平交渉ノ手掛リヲ得ル為ニモ一カ条ノ条件附ニテ受諾ノ要アル旨述ベタリ。之ニ対シ大臣ハ、夫レハ外相ノ意見ニテ最高戦争指導会議ノ内容トハ異ル旨詰(ナジ)ル。外相ハ之ヲ是認シ、今ノハ自己ノ見解ナル旨述ブ。次デ米内海相ハ戦局ノ不利ヲ述ベ(此ノ時敗北ト云ヒタルニ対シ、大臣ハ敗北ハナシアラズト詰メ寄リ、不利ト訂正セシム)、軍需大臣、農商大臣、運輸大臣等ニ対シ逐次戦争継続ノ可能性アリヤト質シ、各相交々(コモゴモ)困難ナル事情ヲ答フ。茲ニ於テ大臣ハ、カカルコトハ既ニ十分承知ノ事ニテ、本日今更繰リ返スノ要ナシ、カカル状態ニ於テ之ニ堪ヘテ戦争ヲ遂行スベキ[カ否カ]ガ今日ノ決心ナラズヤト断ズ。── 一時間休憩
4、18:30頃ヨリ閣議最会[開]。今度ハ端的ニ、ポツダム受諾ヲ一ヶ条件デヤルヤ、四ヶ条附ケルヤニ附議セラル。和平交渉ノ手掛リヲ得エルナラ、四ヶ条ヲ附ケテハ駄目ナラント云フ意見多シ。安井[藤治]国務相ハ陸相ヲ支持セリ。松阪[広政]法相ハ国体護持ヲ条件トスル以上、軍備ノ保有、駐兵権ノ拒否ハ当然ノ条件ナルベシト正論ヲ唱フ。岡田[忠彦]厚相モ右ト同ジ、但シ現実ノ状況ハ和平ノ要アルベシト述ベタリ。──22:10終了。
   5、閣議ハ意見対立シ、議決ニ至ラズ。22:55ヨリ御前会議開催トナル。此ノ間、鈴木総理ハ参内、閣議ノ経過ヲ 上奏セリ。
 6、御前会議
総理、阿南陸相、梅津総長、外ニ両軍務局長、迫水書記官長、平沼枢相、米内海相、東郷外相、豊田軍令部総長

   会議室ニ入ルヤ、机上ニ議案トシテ外相案印刷配布シアリ。即、天皇ノ国法上ノ地位ヲ確保スルヲ含ムトノ諒解ノ下ニ、ポツダム宣言案ヲ受諾スルノ案ナリ。大臣ハ之ヲ見テ、総長ニ対シ、条件問題ヲ議スルヲ止メ、戦争遂行一点張リデ議論スルノ要アル旨耳打チシ、次デ陸軍大臣ハ左(下)ノ如ク発言ス。
   之ノ原案ニ全然不同意ヲ表明シタル后、
   イ、天皇ノ国法上の[ノ]地位確保ノ為ニハ、自主的保障ナクシテハ絶対ニ不可。臣子ノ情トシテ我ガ皇室ヲ敵手ニ渡シテ、而モ国体ヲ護持シ得ルトハ考フルコト能ハズ。
   ロ、今次ノ行キ方ハ、伊太利屈服ノ時ト同様ナリ。敵ノ謀略ニ乗ル能ハズ。
   ハ、カイロ会談ノ承認ハ、満州始メ他ノ大東亜諸国ニモ申訳ナシ。例令戦争ニ敗ルトモ、最后迄戦フコトニ依リ、日本ノ道義ト正義ト勇気ハ永久ニ残ルベシ。之レ国家トシテ悠久ノ大義ニ生キルコトニシテ、精神ニ於テハ天壌無窮ト云ヒ得ベシ。
ニ、戦争継続ニ進ムベキモ、万一交渉ノ余地アラバ国体護持ノ自由的保障タル軍備ノ維持、敵駐兵権ノ拒否ヲ絶対必要トシ、戦争犯罪者ノ処分ハ国内問題トシテ扱フベキ旨、主張スル要アリ。
ホ、最后ニ重ネテ、「ソ」連ハ不信ノ国ナリ、米ハ非人道国ナリ カカル国ニ対シ保障ナキ皇室ヲ敵ニ委スルコトハ絶対反対ナリ。
ヘ、尚作戦上ノ判断ニ就テハ両総長ニ譲ル。
 次デ、梅津総長ヨリ陸相ニ全ク同意ノ旨、且、作戦上ノ所見開陳アリ 次デ、総理ハ豊田総長ヲ措イテ、平沼[騏一郎]枢相ノ発言ヲ促シヲ以テ、大臣ハ紙片ニ、「豊田ハ?」ト記シテ渡シタリ。平沼ハ二時間ニ亘リ、突如参列セシ為、一般状況ニ通暁セザルノ故ヲ以テ、各参列者ニ質問ノ上、「原案ニ同意スルモ、陸相ノ四ヶ条モ至極尤モナル故、十分考慮サレ度旨」。賛否明瞭ナラザル発言ヲセリ。尚、其ノ間「天皇ノ国法上ノ地位」云々ニ附、日本天皇ノ地位ハ国法上ノモノナラズ、 憲法以前ヨリノモノナルコトヲ述ベ、「天皇大権ノ確保」ノ趣旨ニ訂正ヲ要求シ、修正セラレタリ(大臣ハ平沼ハバドリオノカモフラーヂニ非ズヤ、ト疑惑ノ念ヲ有タル)。次デ、豊田軍令部総長ヨリ阿南陸軍大臣ノ意見ニ全ク同感ノ旨述ベ、且、海軍トシテモ尚一戦ノ力アル旨奏セリ。大臣ハ 平沼ノ意見賛否何レナルヤ分明ナラザル点モアリ、之ヲ追及スベク「議長」ト発言ヲ求メタルモ、総理ハ左耳悪ク、聞エズ、発言ヲ開始セリ。即、遺憾乍ラ議分レテ決セズ。三対三ナルヲ以テ、此ノ上ハ陛下ノ御聖断ヲ仰グ旨奏ス。
 此ニ於テ、陛下ハ原案ニ同意セラレ、彼我戦力ノ懸隔上、此ノ上戦争ヲ継続スルモ徒ラニ無辜ヲ苦シメ、文化ヲ破壊シ、国家ヲ滅亡ニ導クモノニシテ、特ニ原子爆弾ノ出現ハコレヲ甚シクス、依テ終戦トスル。忠勇ナル陸海軍ノ武装解除ハ忍ビズ、又、戦争犯罪者ハ朕ノ忠臣ニシテ、之が[ガ]引渡シモ忍ビザル所ナルモ、明治大帝ガ三国干渉ノ時、忍バレタ御心ヲ心トシテ、将来ノ再興ヲ計ラムトスルモノナル旨聖断アリタリ。
 7、次デ閣議アリ、大臣ハ其ノ席上、敵ノ信用程度如何、皇室保全ノ確証ナキ限リ陸軍ハ戦争ヲ継続スル旨述ベ、更ニ総理ニ対シ、天皇大権ヲハッキリ認ムルコトヲ確認シ得ザル時ハ、戦争ヲ継続スルコトヲ首相ハ認ムルヤト訊(トヒタダ)シタルニ対シ、総理ハ小声ニテ認ムル旨答ヘタリ。更ニ海相ハ戦争ヲ継続スル旨答ヘタリ。
五、午後、重臣会議アリ。
六、午后、臨時閣議アリ。発表方法ニ附検討セラレシ模様。
七、夜、予ハ九時頃ヨリ大臣ヲ訪問、十一時頃迄第四項ノ如キ話ヲ承ハル。

  八月十一日 日[土]曜
一、九日ノ御聖断ハ和平ヲ基礎トスルコト勿論ナルモ、議案ハ単ニポツダム宣言ニ対スル帝国ノ申入レ要領ヲ決定セラレタルニ止マル。省部内、騒然トシテ何等カノ方途ニ依リ、和平ヲ破摧(ハサイ)セムトスル空気アリ。
之ガ為、或ハテロニ依リ、平沼、近衛、岡田[啓介]、鈴木、迫水、米内、東郷等ヲ葬ラムトスル者アリ。又陸軍大臣ノ治安維持ノ為ノ兵力使用権ヲ利用シ、実質的クーデターヲ断行セムトスル案アリ。諸氏[処士]横議漸ク盛ナリ。
二、情報局ハ、九日御聖断ニ基キ、所要ノ発表ヲ為サムトス。
  陸軍ハ、和戦両用ノ構ヘニ基キ、ソ連参戦以来二日、未ダ何等ノ意思表示ヲ為サズシテハ、軍ノ士気ノ崩壊ヲ恐レ、飽ク迄軍隊ハ任務ニ邁進スベキ大臣訓示ヲ発セラル。
予ハ右発表ヲ、ラジオ及新聞ヲ通シテ発表方処置ス。
三、然ルニ本件ハ、聖旨必謹ニ反スルモノトシテ重大化シ、軍事課長、軍務局長ヨリ注意ヲ受ケ、局長ハ各新聞社ヲ歴訪シ、発表停止ニ努メタルモ及バズ。
四、此ノ日、梅津参謀長、豊田軍令部総長、東郷外務大臣、平沼枢府議長、鈴木総理ハ交々(コモゴモ)参内、上奏スル所アリ。
五、井田[正孝]、畑中、大臣ヲ私邸ニ訪フ

  八月十二日 月[日]曜
一、朝三時過ギ、次官秘書官広瀬中佐、自動車ニテ渋井別館ニ来リ、九日ノ我カ申入レニ対スル敵側回答ノ放送アリシ由 告ゲタルニ依リ、竹下、浴、加藤、ソノ車ニテ登庁シ、五課ニ寄リ、傍受情報ヲ見、軍事課長室ニ至ル。
ニ、軍事課長荒尾[興功]大佐ノ下ニハ課員皆在リ。極度ノ緊張ヲ呈シアリ、蓋シ昨夜、井田、畑中、大臣邸ニ至ルヤ、   巡査六人護衛ニ来在リ、「バドリオ」側ガ、反対ニ大臣ヲ保護監禁セントスルニ非ズヤトノ判断ニテ、憲兵二十名ヲ畑中 引率ノ下ニ差遣シ、且、台上警戒ノ処置ヲ講ジツツアリ。
三、九日ノ後手ニ鑑ミ、訳文不充分に[ニ]拘ラズ、局長ハ直チニ外務次官ノ許ニ、軍事課長ハ書記官長ノ許ニ、次官ハ 侍従武官ノ許ニ至リ、各々本回答ニテハ受諾シ難キ陸軍ノ意思ヲ通シ、情勢馴致ニ努ムル所アリ。
四、昨日ニ予定セシ大臣ノ上奏ハ、手続ノ為本日トナリ、人事上奏後、九日ノ件ニ附軍ノ実情等ニ附、委細上奏セリ 此ノ時陛下ハ、「阿南心配スルナ、朕ニハ確証ガアル」旨、却テ御慰藉的の御言葉アリシ由(通常ハ陸軍大臣ト御呼ビ遊サレ、阿南ノ姓ヲ呼バルルハ、侍従武官時代ノ御親シキ心持ノ表現ナル由)
五、竹下中佐ハ、昨日来計画セル治安維持ノ為、東部軍管区及近衛師団ヲ用ヒテ、宮城、各宮家、重臣、閣僚、放送局、陸海軍省、両統帥部等ノ要処ニ兵力ヲ配置シ、陛下及皇族ヲ守護シ奉ルト共ニ、各要人ヲ保護スル偽装クーデター計画ニ附、次官ニ意見ヲ具申ス(人事局長等同席)
ソノ席上、佐藤[裕雄]戦備課長入室シ、コノ計画ノ不可ナル理由ヲ具申ス。
次官ハ必ズシモ同意ノ意ヲ表セズ。寧(ムシ)ロ、民間テロヲ可トスル意見ヲ附シ、折シモ閣議ニ出デントスル大臣ニ該案ヲメモトシテ渡スベキ由ヲ命ジ、竹下ハ之ヲ行ザ可ラザル一般情勢ト該案ノ骨子ヲ記ス。
六、メモハ林[三郎]秘書官ニ、次官ヨリ手交シ、大臣ニハ次官ヨリ極メテ簡単ナル説明ヲ行ヒタル模様ナリ。然ルニ竹下、次官室ヲ出ヅルヤ、省部二課 軍事課、軍務課ノ少壮将校十数名、室外ニ屯(タムロ)シ、直接大臣ニ意見具申スルノ要ヲ説キシ為、全員入室、大臣ニ対シ、竹下ヨリ要旨説明ヲ行ヒタリ。稲葉[正夫中佐]捕足。次官、局長ニ、三、荒尾、山田大佐、竹下、椎崎、畑中、稲葉、井田、原[四郎]等同室。此ノ時、畑中少佐ハ軍内既ニバドリオ通謀者アリト発言、竹下ハカカルモノハ即刻人事的処理ヲ加ヘラレ度旨述ブ(目標、佐藤裕雄大佐)。大臣ハ相互不信ヲ戒メラル。
竹下ハ、更ニ東部軍及近衛師団参謀長ヲ招致シ、万一ノ為ニ準備ヲ命ゼラレ度旨具申、大臣ハ許可シ次官ニ処理ヲ命ゼラル。
更ニ広瀬中佐ノ発意ニ依リ、省内将校ハ大臣ヲ中心トシ、一糸紊レズ行動スベキ旨、竹下ヨリ発言スル所アリ。
七、15:00──17:00間、皇族会議開催セラル。後ニ諸情報ヲ綜合スルニ、午前中予備会議アリ、午后、天皇親臨ノ下ノ皇族会議ニ於テハ、宮殿下ヨリノ御発言ハナク、陛下ヨリレイテ以来ノ戦蹟ニ基ク軍不信ノ御言葉ノ后、和平ノ御決意鞏(カタ)キ由述ベラレ、タノムタノムト宣(ノタマハ)セラレシ由ニ承ハル。
因ニ、近来三笠宮[崇仁]殿下ノ御言動ノ和平的ニシテ、且、陸軍ノ驕慢ヲ反省スベシトノ過激ナル御言動、同期生、曲等ニ洩ラシ、我等憂慮ノ念深シ。
八、大臣、夜、三笠宮邸ヘ伺候。
九、竹下中佐、夜、竹田宮[恒徳]邸ヘ伺候。殿下、皇族会議内容ニ就テハ触ルルヲ避ケラル。

コメント

ミャンマー 南機関とアウンサン将軍

2021年06月09日 | 国際・政治

 私が、アジア太平洋戦争にこだわるのは、310万もの日本人と、その数倍のアジアを中心とする人々を死に追いやった戦争を指導した人々が、冷戦など、その後の情勢の変化によって、公職追放を解除され、戦争責任を追及されることなく、敗戦後も日本の中枢で活躍することになったために、今なおいろいろな場面で、日本の野蛮な戦争を正当化し、日本国憲法を蔑ろにしたり、戦前・戦中の考え方に基づく政策を進めようとするからです。
 先日、慶応大学名誉教授でパソナ会長の竹中平蔵氏が、”オリンピックってのは、世界のイベントなんですよ。世界のイベントをたまたま日本でやることになっているわけで、日本の国内事情で、世界の『イベント(五輪)やめます』というのは、あってはいけないと思いますよ。世界に対して、『やる』と言った限りはやる責任があって”、と述べたことが報道されました。驚きました。
 しばらく前には、内閣官房参与の高橋洋一教授がツイッターで、世界各国の新型コロナウイルス感染者数比較のグラフとともに、”日本はこの程度の『さざ波』。これで五輪中止とかいうと笑笑””、と投稿したため、ネット上で反発が広がり、退職したとの報道もありました。
 新型コロナ感染症によって、何人亡くなろうが、医療機関がどんなに追い詰められようが、飲食店が何店潰れようが、職を失い、住む所までも失う人が何人出ようが、オリンピックはやる、という自民党政権中枢や政権を支える人々の感覚は、明らかに戦争指導層のそれと同じではないかと、私は思います。降伏を許さず、玉砕といわれる全滅戦を強いた、かつての戦争指導層の人命軽視、人権無視は、生き続けているように思うのです。
 
 戦前・戦中の日本は、現人神である天皇が統治する国でした。だから、戦争指導層は、”上官の命令は朕の命令と心得よ”という「軍人勅諭」に支えられ、かなり強引な作戦も、反対を恐れることなく命令できました。
 そして、戦争指導層の考え方や思いを受け継いでいる安倍・菅政権のコロナ対応にも、そうした強引な独断専行の傾向がうかがえると思います。コロナ一斉休校布マスク全戸配布も、ワクチン1日100万回接種も、きちんとした専門家に対する諮問や民主的な手続きなしに行われ、今、五輪開催を強行しようとする政府の姿勢に警告を発している新型コロナ対策分科会の尾身茂会長外しが話題になっています。
 当初から、安倍・菅政権の下では、専門家が専門家として尊重されず、政治的に利用されているという指摘がありました。そして、野党から”五輪開催について尾身氏に諮問しないのか”と聞かれた西村コロナ担当相が、”分科会は五輪開催の可否などを審議する場所ではなく、そういう権限はない”と答えたことが報道されています。政府の新型コロナ感染症に対する政策や姿勢が問題なのであって、分科会に権限があるかないかの問題ではないと思います。西村コロナ担当相の答えは、一般国民の感覚とは、著しく乖離していると思います。

 またミャンマーでは、軍がクーデターを起こし、多くの民主化指導者を拘束するとともに、抗議活動の弾圧を続けていますが、すでに死者が800人を超えているといわれています。軍の暴力的なクーデターはもちろん、民主化指導者の拘束や抗議活動の弾圧に対し、世界中から抗議や非難の声が上がっているなか、日本の丸山大使は、軍事政権のワナ・マウン・ルイン氏と会談を行いました。それ自体が、他国では考えられないことのようですが、会談後、在ミャンマー日本大使館が、フェイスブックに投稿した内容や、ワナ・マウン・ルイン氏を「外相」と表記していることが、ミャンマーで大変な反発を招いたといいます。
 ”日本はミャンマー国民の声を聞かず、軍人を認めるつもりなのか?”とか、”ワナ・マウン・ルウィン氏は、外務大臣ではありません。誰も認めてはいけませんし、このような言葉使いをやめて頂きたい。ミャンマー国民としては強く非難します”などという非難コメントが相次いだといいます。
 これを受けて、加藤官房長官が、”「外相」と呼称はしているが、呼称によって国軍によるクーデターの正当性やデモ隊への暴力を認めることは一切ない”と強調し、その上で、”ミャンマー側の具体的な行動を求めていくうえで、国軍と意思疎通を継続することは不可欠で、これまで培ってきたチャンネルをしっかり活用して働きかけを続けることが重要だ”と、記者会見で語ったということです。私は、こうした対応にも、やはり法や道義・道徳の軽視を感じます。
 それで、”これまで培ってきたチャンネル”というものが何なのかをよりよく知りたいと思い手にしたのが、「自由 自ら綴った祖国愛の記録」アウンサンスーチ、柳沢由実子訳(角川文庫)です。  
 その内容は、私の戦争指導層に対する認識を、さらに一層強めるものでした。
 
 というのは、ミャンマーの人たちとの交流によって信頼を得たのは、当時の鈴木敬司陸軍大佐を中心とする「南機関」(特務機関の一つ)の人たちであり、戦争指導層は、その信頼を台無しにするような作戦を展開したことがわかったからです。鈴木大佐の考えは、イギリスの支配から逃れるために、ビルマを独立させようと活動を続けるアウンサン将軍などと力を合わせることによって、援蒋ルートを遮断しようということでした。でも、下記抜粋文でわかるように、戦争指導層は、そうした真のビルマ独立の作戦を受け入れませんでした。だからアウンサン将軍は、”立ち上がれ、そしてファシスト勢力を攻撃せよ”と言って、逆に連合軍と手を結び、日本軍に銃口を向けるに至るのです。鈴木大佐以下南機関のメンバーたちも、次第に戦争指導層の方針に反発し、事と次第によっては反旗を翻すことさえ仄めかしたといいます。
 日本の敗戦は、戦争指導層のそうした現場の意向を無視した作戦や、現地の情勢分析の欠如にあったことも忘れてはならないことだと思います。
 下記は、「自由 自ら綴った祖国愛の記録」アウンサンスーチ、柳沢由実子訳(角川文庫)から、日本との関わりについて書かれている「第一部 わたしの父、アウンサン」のなかの、「日本との同盟」と「レジスタンス」から、一部を省略して抜萃しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
             第一部 わたしが受け継いだもの

             第一部 わたしの父、アウンサン

 日本との同盟
 アウンサンは、軍事闘争の必要性について考えていた。幼い頃からの独立の夢とは異なるが、合法的手段で独立を手に入れる可能性を否定していたわけではなかった。大学生の頃には、文官試験を受けることも考えたし、教養に裏づけられた政治手腕とその愛国精神ゆえに、心から崇拝していたインドの政治家たちの例に倣うことも、おそらく考えただろう。
 有名な学生運動のリーダーになった後、アウンサンはラングーン大学の英語教授に、自分は「平和的革命家」だと書き送ったともいわれている。しかし、ビルマの国情は彼のそうした考え方を変えてしまった。アウンサンは、1940年に自らの考えをつぎのようにまとめている。

 個人的には、われわれの運動を世界に知らしめて支持を得ることも必要だと考えたが、民衆を民族闘争に駆り立てるという最も大事な仕事は、ビルマ国内で実行しなければならないとわたしは思っていた。
 わたしの計画の概要は以下のものだった。
 まず、イギリス帝国主義に対する民衆の抵抗運動がビルマ全土で展開される。それは世界および国内の流れとも歩調を合わせ、産業・農業労働者による各地での散発的なストライキがゼネラル・ストライキや地代不払い運動に発展し、また民衆のデモなどあらゆる形での闘争的プロパガンダや民衆の行進が大規模な民族抵抗運動につながるようにすることである。さらにイギリス帝国主義に反対する経済キャンペーンが、英国製品の不買運動という形であらわれ、最後には納税拒否運動に発展していく。そして、この計画は軍部、官僚、警察機構の各機関や情報網を攻撃するゲリラ活動の展開によってさらに勢いを増し、その結果、わがビルマにおけるイギリス人の統治が終焉を迎えるという筋書だった。その時こそ、世界情勢の変化に同調しながら、ついにはわれわれが権力の掌握を宣言できる時だったのである。さらには、英国政府に帰属する軍隊のなかで、とりわけイギリス人以外で編制された部隊が、われわれの側に寝返ってくれることをわたしは期待していた。
 計画の中でわたしは、日本がビルマに侵攻してくる可能性についても考えはした。しかし、その時点でそれを明確に想定することはできなかった。
 ・・・
 1940年8月、アウンサンともうひとりのタキン、フラミャイン(後のヤンアウン)が、ハイリー号(海利号)に乗ってビルマを脱出した。彼らは、中国アモイのカウンロンスにある外国の租借地に着いた。彼らはそこに数ヶ月間滞在し、中国共産党と接触をはかろうと空しい努力を続けた。中国共産党との接触は実現しなかったが、彼らはある日本人に会った結果、日本で鈴木敬司大佐に会うべく東京に飛んだ。鈴木は日本軍の将校で、やがて南機関の機関長として有名になる人物だった。南機関は「ビルマの独立を支援し、ビルマ・ロードを遮断すること」を任務とする秘密軍事組織だった。
 ・・・
 「自由ブロック」のメンバーの意見は、日本の援助を受けるべきかどうかで分かれた。共産主義者たち(シュエやバヘェィン、タントゥン、テェィンペなどが力をもってえいた)は、日本のファシスト政府と協力する考えに特に反対だった。しかしアウンサンは、援助の手を差し伸べてくれる所からはどこからであれ援助を受け入れ、事態の推移を見守るべきだという現実的な考え方をしていた。とは言え、彼自身が認めているように、それが結果にどう結びつくかは、充分に考えぬいていたわけではなかったようである。
 東京では、アウンサンと鈴木が相互理解を深めていたが、双方にためらいもあったようだ。鈴木は、アウンサンの誠実さと愛国精神は認めていたが、「彼の政治的思想は充分に熟していない」と考えていた。
 それは、当時の評価として必ずしも不当なものではなかった。と言うのも、日本の侵攻を招いたのは自分や同胞たちの「ファシズムへの傾倒ではなく、自らの失策と小ブルジョア的小心さだあった」と、アウンサン自身が記している。日本に向かう途上、アウンサンは不安にかられていた。日本に来てみると、状況が「さほど悪くない」ことが分かり安心したが、心配はなお残った。彼は、日本人の愛国精神や清廉潔白さ、禁欲的な姿勢に尊敬の念を抱いたが、軍国主義思想の「残虐さ」には反発を覚えたし、女性に対する態度には少なからぬショックを受けた。
 アウンサンは、1941年2月、中国人の船員に変装してビルマに戻った。彼は、日本からある申し出を受けていた。これはきっと、反乱を支援する武器と資金の提供だろうとビルマ側は理解していた。
 選り抜きの若者たちに軍事訓練が行われることになり、彼らは密かに国外に脱出することになった。アウンサン自身は早々にビルマを離れ、レッヤーその他三人と共に再び日本に行った。彼らは「三十人志士」と呼ばれる先鋭メンバーだった。三十人は、やがてビルマ独立義勇軍(BIA)の中心的存在となるのだが、彼らの選抜の基準は、その人望(投獄中の民族主義者は除外)と、タキン党内の派閥の対立(将来の紛争の原因)を抑えたいという意向にそったものだった。
 海南島で、三十人は厳しい軍事訓練を享け、その中から、アウンサン、レッヤー、トゥンオウ、アウンタン(のちのセッチャー)が、司令官、指揮官としての特別訓練のために選抜された。タキン党の一派閥のリーダーだったトゥンオウが、このグループの「政治的指導者」に選ばれた。
 しかし、「三十人志士」のリーダーとしてのみならず、ビルマ独立義勇軍誕生後の軍の指導者として誰もが認める存在となったのは、アウンサンだった。彼は細身で、とりわけ頑強というわけではなかったが、優れた能力をもつ勇敢な兵士として、多くの困難に耐え抜いた。
 しかも「人間関係が下手だ」という批判があったにもかかわらず、心身ともに弱り果てた仲間を元気づけ、とりわけ若い者たちに心を配った。訓練生活への不満が出たり、日本人に対して感情が高ぶった時にそれを抑えるように言い聞かせたのは、ほかならぬアウンサンだった。と言うのも、若い訓練生の多くは一部の指導官に対して尊敬や親愛の情を抱いてはいたが、日本人の態度をある面ではきわめて不愉快と感じていたのだ。二つの民族の間には、1941年末の日本軍のビルマ侵攻以前にすでに摩擦が生じ始めていた。
 ビルマ独立義勇軍は、海南島軍事基地の訓練生とビルマ系のタイ国人と南機関のメンバーによって構成され、1941年12月にバンコクで正式に結成された。鈴木が司令官となり、アウンサンは、副司令官格の参謀となった。
 結成したばかりの軍の隊員は、忠誠の誓いを立て、将校たちは勇ましい響きをもつビルマ名を使うようになった。例えば、鈴木はモウジョウ(「雷」の意味)、アウンサンはテーザ(「火」の意味)と名乗った。「三十人志士」のほかのメンバーもやがてその名を知られるようになったが、その中には、レッヤー、セッチャー、ゼヤ、ネウィン、ヤンナイン、チョオゾオといった人々がいた。しかし、「テーザ」の名は、やがて彼がまだ学生でタキン党の指導者だった頃に国内に知れ渡っていた元の名前、アウンサンに戻った。彼が国民的英雄として偶像視されるようになったのは、「将軍ボジョウ)」アウンサンとしてであった。ビルマ独立義勇軍が日本軍と共にビルマに進軍したことは、ビルマ人にとって非常に誇らしく、喜ばしいことであった。ビルマ人は、自分たちの民族の尊厳がついに認められたと感じた。
 しかし、すでにアウンサンとその同志たちは、目の前に難題が控えていることに気づいていた。彼は、まだバンコクにいた間にビルマ国内の民族主義者たちに対して独立の準備を進めるよう、そしてそれを既成事実として日本に認めさせるように働きかけたと、記録に残している。それが失敗に終わると、民衆を動員し、侵略者日本が権力の地盤を固めることのないよう、地下活動による抵抗運動を開始した。しかし、ビルマは混乱常態に陥り、政治家の多くは投獄された。そのためにあらゆる計画が実行不能となり、ビルマは日本に占領されてしまった。
 日本による占領の物語は、幻滅と疑惑と苦痛の物語である。イギリスから離れて自由になることができると信じていた人々は、今度はアジアの同胞によって支配されることになり、激しい落胆を覚えた。多くの人々は日本の兵士を解放者として歓迎していたのだが、その正体は、評判の悪かったイギリス人以上に悪質な圧制者だった。日ごとに忌まわしい事件が増えていった。ケンペイ(日本の軍事警察、憲兵)という言葉が恐れられ、人々は、突然失踪や拷問、強制労働が、日常生活の一部となった世界で生きる術を身につけなければならなかった。
 それに加えて、連合国と日本軍の双方からの爆撃による被害、戦争による物不足、密告、異なる国同士の気質と文化の衝突、共通の言葉を持たない人間同士の避けられない誤解といった問題もあった。もちろん、正義と人間の道に則した生き方をし、ビルマの味方となる日本人もいた。しかし、軍国主義的な人種差別が幅をきかす中では、彼らの積極的な貢献も水泡に帰した。
 南機関のメンバーで、ビルマに独立を約束したからには、面目にかけても実現しなければならないと考えていた人々は、事態の推移に苦々しい気持ちを抱いていたようだ。実際に、鈴木は、1942年にラングーンが日本軍の手に落ちた直後、トゥンオウを首班とするビルマ中央政府を作った。しかしこの政府は短命に終る。
 なぜなら、占領下の状態が長引くにつれて、日本軍が軍政を敷き、ビルマは征服された一領土として扱われるようになっていったからだ。ビルマ独立義勇軍の立場は、不安定で厄介なものとなっていた。義勇軍は、行軍に加わってきた補充兵でどんどんふくれ上がっていったが、こうした新兵は、部隊の一員として効率的に動けるような訓練も教育も受けていなかった。アウンサンは、部下を指揮する権限を与えられず、鈴木の参謀将校に過ぎなかった。
 一方で鈴木は、ビルマの将来を巡って日本の軍政と義勇軍の間で苦しい立場にたっていたようだ。アウンサンと彼の同志たちは、義勇軍の指揮権をビルマ人将校に譲るべきだという気持をしだいに強めていった。レッヤーは、自分とアウンサン、そのほか数名の「三十人志士」のメンバーが、この問題で鈴木と対決した劇的な場面を記録に残している。この結果、アウンサンがビルマ義勇軍の司令官に任命された。レッヤーが参謀長となった。
 アウンサンは、自らの立場や祖国の窮状について、何の幻想も抱いていなかった。独立のための闘争が決して終っていないことを知っていた彼は、軍隊の強化と訓練を徹底的に行った。同時に、ビルマ独立義勇軍を党派政治から遠ざけ、行政上の問題に介入させないように努めた。しかし、政治を軍から切り離す時はすでに遅く、軍の中枢が政治を掌握していたことをアウンサンは知っていたに違いない。1942年7月、鈴木はビルマを去り、ビルマ独立義勇軍は「ビルマ防衛軍」に改編された。アウンサンは司令官となり、大佐の地位に就いた。しかし、日本人の軍事「顧問」が、新しい軍隊の各レベルに配属され、ビルマ人将校の実際の権限はかなり制限されていた。8月には、ビルマ日本軍の司令官、飯田中将がバモオを首相に据えた。表面的には、ビルマ政府は国民のものとなったかのように見えたが、実際には、それは完全に日本軍の支配下にあった。

 レジスタンス
 アウンサンとその同志は、ビルマ独立義勇軍(BIA)との行軍で体力を消耗し、マラリアもこれに追い打ちをかけて、その多くが入院した。アウンサンが大勢の仲間とともに運び込まれたラングーン総合病院では、献身的な医師と看護婦たちが働いていて、大変な混乱の中で最大限の治療を施そうと努力してくれた。アウンサンはその厳めしい顔つきと、近寄りがたい雰囲気、さらに英雄であるという評判が広まっていたこともあって、新参の看護婦たちは彼を恐がって、ほとんど近づこうとしなかった。
 そのため、彼は若いが経験の豊富な看護婦、マ・キンチーの介護を受けるようになる。彼女は大変魅力的な女性で、治療に打ち込むその姿勢は、患者からも同僚からも深く敬愛されていた。彼女の優しく、そして明るく献身的な介護を受けるうち、皆に怖がられていたこの最高司令官も、すっかり彼女に魅了されてしまった。アウンサンは内気だったし、強い使命感を持っていたので、それまで女性を避けてきた。自らに非常に厳しかった彼は、東京で鈴木から女性を提供されたとき(鈴木にしてみれば、おそらく本流の親切心からやったことなのだろうが)、たいへんショックを受け、この年上の男は自分を「堕落」させようとしているのではないか、と疑ったほどだった。
 ・・・
 1943年3月、アウンサンは少将に昇格、日本へ招かれて天皇から勲章を授かった。この日本への代表団は、バモオが団長を務め、アウンサンのほかに、ビルマの優れた政治家、テインマウンとミャも同行した。日本の東条首相はこの年の1月、まもなくビルマの独立が認められると発表しており、代表団は一通の文書を携えて帰って来た。
 その文書は、アウンサンの簡潔な言葉を借りれば、「ビルマは1943年8月1日をもって独立を認められ、われわれは条約を締結することになるであろう」という内容だった。アウンサンはその文書をあまり重大に受け止めてはいなかった。8月1日、ビルマはその文書どおりに、主権を有する独立国家として認められ、大東亜共栄圏の対等なメンバーとなる。バモオは首相となるとともに、アディパティ(「国家代表」の意)も称号を与えられた。
 アウンサンは陸軍大臣となった。日本はさまざまな策略を使って、ビルマ国軍(BNA)と改名されたビルマの軍事力を弱めようと試みた。最初は軍隊を国中に分散させて配置し、その後、ニ三カ所に集中させたりして、陸軍省と実戦部隊の接触を困難にしようとした。アウンサンは冷静沈着だった。彼は、日本の示唆することには何でも同意しながらも、胸中を明かさず、独自の計画を練った。
 アウンサンが、レッヤー、ゼヤ、ネウィン、チョオゾオら、数人の軍将校を招集し、レジスタンスの時機について討議したのは、彼が東京から帰ったころのことだったにちがいない。将校たちは事態が好転するまで待つように主張した。アウンサンがしぶしぶこの意見に同意したのは、タントゥンとこの問題について話し合ったすぐあとだったと思われる。タントゥンも、まだ機が熟していないという意見をのべたのである。ほかの共産党員、特にシュエとテェィンペは、イギリスの撤退によって監獄から解放される前から、ずっと抗日運動を唱えていた。
 日本軍の前進とともに、彼らは地下に潜行し、テェィンペは、シュエボーでアウンサン、ネウィンと短い会談を持ったあと、イギリス軍との接触を図るためインドへ向った。1943年11月には、対日反乱の計画は着実に進み、ビルマの山中に隠れてゲリラ部隊を組織しようと狙っていたシーグリムという少佐は、「ビルマ国軍のアウンサンという人物が、機を見て日本に攻撃を仕掛けようと計画している」と、インドに報告している。
 アウンサンはレジスタンスの準備が完了するまでは、日本からの疑いをそらしておかなければならなかった。が、その一方で彼は国民に対しては、現在の「独立」はみせかけであって、真の独立のための闘いはこれから始まるのだ、と大胆な発言をしていたのである。
 1942年の終わりごろ、ビルマ防衛軍内の無責任なメンバーと、国内の主要民族のひとつであるカレン族との間で衝突が起こり、大規模な流血事件と民族紛争になった。アウンサンは、ビルマの異民族間の関係を良好に保つことが、国家統一にとって不可欠であることを知っており、この問題をいつも非常に重視してきた。
 1940年に鈴木のために描いた「ビルマ独立の青写真」のなかで、彼はすでに「イギリスの陰謀によって、大多数を占めるビルマ族と、アラカン州、シャン州などの山岳民族との間にできてしまった大きな溝を完全に埋め、各民族を統一してひとつの国家とし、平等な扱いを受けられるようにする」ことの必要性を強調している。
 カレン族とビルマ族の争いは、アウンサンを大いに悩ませた。1943年の後半を通して、彼とタントゥン、レッヤーは、この二民族間に平和と理解をもたらそうと懸命に力を尽くした。彼らの必死の努力は報われた。カレン族はビルマ族のリーダーたちを全面的に信頼するようになり、カレン族の大部隊がビルマ国軍に加わったのでる。
 アウンサンが急いで解決しなければならなかったもうひとつの問題は、共産党員とビルマ革命党の社会主義者との間でしだいに高まっていた敵対感情だった。共産党のリーダーはシュエ(日本の占領下、ずっと地下での活動を続けた)、タントゥン、(農林大臣になっていた)、バヘェィンで、これに対してチョオニェィンとバスェの二人が、最も活動的で傑出した社会主義者だった。アウンサンは、この両者の間を取りなそうと必死で努力した。
 こうした調停は迅速に行われた。と言うのは、このころ、政治上の意見の相違が軍隊内部に広がり、軍の団結が脅かされそうになっていて、レジスタンスを成功させるチャンスも危うくなっていたからだ。さらにシュエが、反ファシスト運動の過程で、BNAを攻撃する宣伝を広めたことから、軍隊内部に憤りが広がり、アウンサンも腹を立てていた。数ヶ月にわたる意見交換をしたあと、1944年8月、アウンサンは、シュエ、タントゥン、バヘェィンと、数日間におよぶ秘密会議を持った。反ファシスト組織に関するアウンサンの提案が討議され、同組織結成へ向けて声明書の草案と、団結行動のための計画案が承認された。
 まもなく、共産党のリーダーとビルマ革命党のメンバーの間で会議が設定され、その席でアウンサンは、「立ち上がれ、そしてファシスト勢力を攻撃せよ」と題された声明を、ビルマ語で読み上げた。ここに、公式に反ファシスト組織(AFO)が発足、シュエが政治的指導者となり、タントゥンは参謀として対日連合国との連携を担当し、アウンサンは軍事指導者となる。当時ビルマ国軍内には若手将校も何人かいたが、アウンサンは自分の相談相手を、数人のタキン党のリーダーと幹部将校に限定していた。ところが、若い将校たちは、独自にレジスタンスを起こそうと計画した。これを知ったアウンサンは、事態を解決するため、彼らにAFOでの特殊任務を与えた。
 国内勢力の統一が終われば、あとは対日連合軍とどのように連携していくかを決めさえすれば、レジスタンスの計画は完了する。アウンサンとAFOのリーダーは、外部からの援助があろうとなかろうと、、日本に抵抗して立ち上がろうと決めていたが、連戦連勝の連合国の協力が得られれば、さらに有利になることは明らかだった。
 結局、イギリスの明白な理解が得られないまま、1945年3月27日に対日反乱は開始され、国中のビルマ軍が日本に反抗して立ち上がった。その10日前、アウンサンはラングーンで記念行進に参加し、それが終ると「作戦行動」のために、部下とともに首都を抜け出した。イギリス人将校スリムの第十四連隊は、すでにマンダレー北方のイラワジ河を渡っており、タントゥンもイギリス軍将校との会合を試みるためタウングーへ発っていた。対日反乱は一気に盛り上がった。
 5月15日、アウンサンは部下の将校を伴って、スリムをその本部に訪ねた。そのあとの会談で、アウンサンは大胆にも、自分はビルマ臨時政府の代表であると名乗り、ビルマにおける連合軍の指揮官の地位を要求した。しかし、このイギリス軍将校から最大限の譲歩を引き出そうとしながらも、アウンサンは自分が現実的で、協力的で、正直な人間であることを相手に分からせ、スリムの好意と尊敬を勝ち取ったのである。スリムはこう言っている。
 「彼から受けた最大の印象は、いわゆる誠実さだった。いいかげんな安請け合いを並べ立てたりせず、はっきりと公約することも躊躇していた。だが、もし何かをやると約束すれば、その約束は必ず実行する男だろうと思った」
 アウンサンとスリムとの会見後、ビルマ軍と連合軍は日本軍に対抗して共同作戦をとり、日本軍はあっと言う間に崩れ去った。6月15日、ラングーンで戦勝パレードが行われ、大英帝国と連合軍を代表する部隊とともに、ビルマ軍も参加した。対日反乱は終った。ビルマの民族主義者たちにとって、イデオロギーの違いや個人的意見より共通の目的が優先された。最も素晴らしいときであった。
 1945年8月、AFOは拡大して、広範囲にわたる社会団体、政治組織や個人を含むことになり、反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)と改名した。

 

コメント

憲法改正草案第86条,89条,92条,93条,96条,98条,99条,100条の問題点を考える NO4

2021年06月02日 | 国際・政治

 これまで、何度も取り上げてきたのですが、昭和21年1月1日の官報号外に掲載された「詔書」、いわゆる天皇の「人間宣言」のなかに下記のような一節があります。

惟フニ長キニ亘レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハ動モスレバ焦躁ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪セントスルノ傾キアリ。詭激ノ風漸ク長ジテ道義ノ念頗ル衰へ、為ニ思想混乱ノ兆アルハ洵ニ深憂ニ堪ヘズ。
然レドモ朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。

 これは、日本の戦争が、”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”に基づくものであったということだと思います。どういう経緯で、こうした内容の「証書」が出されるに至ったかは分かりませんが、この内容に間違いはないと思います。
 にもかかわらず、自民党政権中枢は、戦後の日本を受け入れようとせず、「日本国憲法」を「押し付け憲法」として改定し、「世界人権宣言」に基づく国際社会の歩みとは違った道を進もうと意図しているように思います。
 それは、「日本国憲法改正草案Q&A増補版」のなかの「5国民の権利及び義務」に、下記のようにあることで察せられます。
権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたものです。したがって、人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要だと考えます。現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました。”
 でも、「天賦人権説」を含めた「自然権思想」は、あらゆる国の歴史、文化、伝統を踏まえた普遍的なものだと思います。だから、憲法改正草案は、そうしたことを踏まえ、日本国憲法と比較してみていく必要があると思います。

 日本国憲法第86条には
内閣は、毎会計年度の予算を作成し、国会に提出して、その審議を受け議決を経なければならない。
 とあります。
 自民党憲法改正草案第86条
内閣は、毎会計年度の予算案を作成し、国会に提出して、その審議を受け、議決を経なければならない。
2 内閣は、毎会計年度中において、予算を補正するための予算案を提出することができる。
3 内閣は、当該会計年度開始前に第一項の議決を得られる見込みがないと認めるときは、暫定期間に係る予算案を提出しなければならない。
4 毎会計年度の予算は、法律の定めるところにより、国会の議決を経て、翌年度以降の年度においても支出することができる。”
 となっています。特に問題だと思うのは、4の”毎会計年度の予算は、法律の定めるところにより、国会の議決を経て、翌年度以降の年度においても支出することができる。”という条文です。
 国の予算は原則として「単年度主義」です。この「単年度主義」は、毎年度の予算に対する国会の審議権を確保するために欠かせないものだと思います。しかしながら、最近、この予算の単年度主義の例外である「継続費」や「国庫債務負担行為」が増え、歳出の複数年度化が進んでいるといわれています。そして、歳出の複数年度化は、後年度の歳出の硬直化や国会審議の空洞化をもたらすので、問題があると指摘されているのです。また、それらが主に防衛予算と関わり、護衛艦や潜水艦の建造に用いられている現実を見逃すことが出来ません。防衛予算の特別扱いが進んでいるということだと思います。それを憲法で正当化するような改定は、国会の審議を軽視するもので、重大な問題だと思います。一度決めたら変えられないというような国家予算の会計年度をこえた支出の仕方は、憲法に定めるべきではないと思います。

日本国憲法第89条には、
公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。”
 とあります。
 自民党憲法改正草案第89条は、
公金その他の公の財産は、第二十条第三項ただし書に規定する場合を除き、宗教的活動を行う組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため支出し、又はその利用に供してはならない。
2 公金その他の公の財産は、国若しくは地方自治体その他の公共団体の監督が及ばない慈善、教育若しくは博愛の事業に対して支出し、又はその利用に供してはならない。
となっています。” 第二十条第三項ただし書に規定する場合を除き”の部分が問題なのです。”社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないもの”は別だという理由で、「神道」を特別扱いすることになると思われるからです。なぜなら、全国にある護国神社靖国神社が、戦前の日本人の生活と深く結びつけられていたので、それらに関わる行事などが、社会的儀礼又は習俗的行為として復活し、財政的に支えられることになると思うのです。

日本国憲法第92条には,
地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。
とあるのですが、自民党憲法改正草案では、これが第93条になり第92条は、
地方自治は、住民の参画を基本とし、住民に身近な行政を自主的、自立的かつ総合的に実施することを旨として行う。
2 住民は、その属する地方自治体の役務の提供を等しく受ける権利を有し、その負担を公平に分担する義務を負う。
 と新しく追加された条文になっています。私は、地方自治を、この”住民に身近な行政”に限定することに大きな問題があると思います。
 例えば、沖縄に米軍基地が集中し、現実に生起している諸問題で、沖縄県民の切実な要望を受けた沖縄県の県政が、国政と対立していることに関し、地方自治体は国政に口を出すな、と抑え込むために利用されることになるのではないかと思います。国政と地方自治が政策的に対立する難しい問題は、いろいろあると思います。それを、地方自治は”住民に身近な行政”ということで、地方自治体が国政に抵抗することを、憲法で封じるような条文は、日本国憲法の精神、すなわち「地方自治の本旨」に反するものだと思います。
 また、 ”住民は、…その負担を公平に分担する義務を負う”と、あります。国政や地方自治が、国民のためになされることを定めた日本国憲法の精神が後退し、国民の義務が重視されているように思います。

 さらに、自民党憲法改正草案第93条では、
地方自治体は、基礎地方自治体及びこれを包括する広域地方自治体とすることを基本とし、その種類は、法律で定める。
2 地方自治体の組織及び運営に関する基本的事項は、地方自治の本旨に基づいて、法律で定める。
3 国及び地方自治体は、法律の定める役割分担を踏まえ、協力しなければならない。地方自治体は、相互に協力しなければならない。
 とあります。この、”国及び地方自治体は、法律の定める役割分担を踏まえ、…”の”役割分担”が問題だと思います。自民党憲法改正草案の考え方は、当然、地方自治は ”住民に身近な行政”ということでしょうから、地方自治が国政と対立することになった場合には、国政が優先され、抑え込まれることになるのではないかと思うのです。

 日本国憲法第93条には、
地方公共団体には、法律の定めるところにより、その議事機関として議会を設置する。
② 地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。
 とありますが、自民党憲法改正草案は、第94条で、
地方自治体には、法律の定めるところにより、条例その他重要事項を議決する機関として、議会を設置する。
2 地方自治体の長、議会の議員及び法律の定めるその他の公務員は、当該地方自治体の住民であって日本国籍を有する者が直接選挙する。
 と定めています。すでに触れたように、自民党憲法改正草案は、第92条で、”住民は、…その負担を公平に分担する義務を負う。”と住民の義務を定めていました。でも第94条では、”日本国籍を有する者”にしか、選挙権を与えていません。義務は公平に分担し、権利は、日本国籍を有するものだけしか行使できないのです。在住外国人の人権に配慮すべきではないかと思います。地方自治は ”住民に身近な行政”と言っておきながら、在住外国人の選挙権を認めようとしない自民党政権中枢は、未だに戦前の女性差別と共に、外国人差別も払拭しきれていないように思います。

 日本国憲法の第96条は、
”この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
② 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。”
 とあるのですが、自民党憲法改正草案では、「第十章 改正」の第百条になっています。そして、
この憲法の改正は、衆議院又は参議院の議員の発議により、両議院のそれぞれの総議員の過半数の賛成で国会が議決し、国民に提案してその承認を得なければならない。この承認には、法律の定めるところにより行われる国民の投票において有効投票の過半数の賛成を必要とする。
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、直ちに憲法改正を公布する。”
 となっています。 ”各議院の総議員の三分の二以上の賛成で…”が、”両議院のそれぞれの総議員の過半数の賛成で…”と変えられているのです。
 憲法は、専断的な国家権力の支配を排し、国家権力の監視と抑制を行うための大事な規範だと言われています。だから、単純過半数で進められるような簡単な問題ではないという意味で ”各議院の総議員の三分の二以上の賛成で…”とあるのだと思います。それを”両議院のそれぞれの総議員の過半数の賛成で…”と変えようとするのは、やはり、自民党政権中枢の過去の歴史認識が、一般国民のそれとは異なるからだろうと思います。憲法改正のハードルを下げ、簡単に憲法を改正できるようにして、少しずつ”日本を取り戻”そうということではないかと、私は思います。
 先だって憲法改正推進本部最高顧問に就任した安倍前首相は、かつて記者会見で、「憲法改正というのは、決してたやすい道ではありません。必ずや私たちの手で、私自身として私の手で、成し遂げていきたい」と語ったことが報道されました。それは、敗戦後の日本が、連合国(GHQ)によって無理矢理変えられてしまったので、憲法改正によって、戦前の日本、即ち「皇国日本」を可能な限り取り戻したいということなのだろうと思います。日本国憲法を「押し付け憲法」と主張する人たちは、皆同じ思いなのだろうと思います。したがって、安倍・菅政権の日本は、欧米を中心とする国際社会とは、進む方向が違っているのだと思います。

 東京五輪・パラリンピック組織委員会・森会長の”女性蔑視”発言や世界経済フォーラム(WEF)による「ジェンダーギャップ指数2021」で、日本が、世界156カ国のうち、120位という不名誉な結果も、そうしたことと無関係ではあり得ないことを見逃してはならないと思います。

 もともと、行政府の長である内閣総理大臣が、憲法改正を語り、そのための運動を主導すること自体がおかしなことだと、私は思います。率先して憲法を遵守し、国会の議決に基づいて行政を主導すべき内閣総理大臣が、”衆議院又は参議院の議員の発議により”進められるべき立法府の問題を主導することは、専制政治の始まりのように思います。そこにすでに安倍前首相の独裁性があらわれていたように思います。

 また、見逃すことができないのは、自民党憲法改正草案が、第九章として、第98条第99条で、下記のような「緊急事態」の条項を新たに設けていることです。
第98条
内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。
2 緊急事態の宣言は、法律の定めるところにより、事前又は事後に国会の承認を得なければならない。
3 内閣総理大臣は、前項の場合において不承認の議決があったとき、国会が緊急事態の宣言を解除すべき旨を議決したとき、又は事態の推移により当該宣言を継続する必要がないと認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、当該宣言を速やかに解除しなければならない。また、百日を超えて緊急事態の宣言を継続しようとするときは、百日を超えるごとに、事前に国会の承認を得なければならない。
4 第二項及び前項後段の国会の承認については、第六十条第二項の規定を準用する。この場合において、同項中「三十日以内」とあるのは、「五日以内」と読み替えるものとする。”


第99条
緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。
2 前項の政令の制定及び処分については、法律の定めるところにより、事後に国会の承認を得なければならない。
3 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。この場合においても、第十四条、第十八条、第十九条、第二十一条その他の基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない。
4 緊急事態の宣言が発せられた場合においては、法律の定めるところにより、その宣言が効力を有する期間、衆議院は解散されないものとし、両議院の議員の任期及びその選挙期日の特例を設けることができる。
 この緊急事態に関わる第98条と第99条は、内閣総理大臣にかつての「天皇大権」にも似た権限を与えています。
法律と同一の効力を有する政令を制定すること”できるほか、”内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。”とあるのです。
 また、国民は、” 国その他公の機関の指示に従わなければならない”とあります。一度「緊急事態」が発せられれば、誰も逆らえないということだと思います。

 日本国憲法の第97条は
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
 とありますが、これは過去の歴史を踏まえた大事な条文だと思います。でも、自民党憲法改正草案では完全に削除されています。そこに、すでに述べたように、歴史や憲法に関する認識があらわれているように思います。
 内閣総理大臣や内閣の行政権限を強化し、国民の権利や自由は制限しつつ、義務を明確にしようとする安倍・菅政権の方向性は、国際社会とは異なる方向性を示していると思います。だから、選択的夫婦別姓法案LGBT差別禁止法案も、簡単には成立しない難しさがあるのだと思います。 
 ただ、自民党政権中枢も、政権を維持する必要上、国際社会や国民の意識と甚だしく乖離した戦前回帰の意図を明白にできないというジレンマがあり、ところどころで妥協しつつ、時間をかけてゆっくり変えていこうとしているように思います。それだからこそ、この憲法改正が、本格的な戦前回帰の端緒として、重要な意味をもっているのだろうと思います。(条文のいくつかは、http://tcoj.blog.fc2.com/blog-category-4-1.htmlを利用させていただきました。)
 
 

コメント

自民党憲法改正草案第21条、第54条、第56条、第63条、第66条、第72条の問題点を考える NO3

2021年05月28日 | 国際・政治

 オリンピック開催に向けて、菅政権はコロナの対策で突っ走っており、様々なところから戸惑いや驚き、批判の声があがり続けています。それは、安倍政権も同じでした。安倍前首相は昨年2月末、新型コロナウイルス感染症対策として、突然、全国の小中学校と高校、特別支援学校に臨時休校を要請し、3月には、感染防止策として布マスクの全戸配布を決定しています。きちんと専門家や現場の関係者、また、一般国民の声を聞くことなく独断的に決定されたために、あちこちから戸惑いや驚き、批判の声があがりました。当然だと思います。
 現在の日本では、「学校保健安全法」に、児童生徒の生命安全の保護と学校を感染ルートとする感染拡大防止を目的として「児童生徒の出席停止」(第19条)並びに「学校の全部又は一部の臨時休業」(第20条)の定めがあります。そして、前者は校長、後者は学校の設置者である教育委員会の権限に属するのです。
 だから、文部科学省は、安倍前首相が、全国の小中学校と高校、特別支援学校に臨時休校を要請する前に、「学校の卒業式・入学式等の開催に関する考え方について」で、「政府として一律の自粛要請を行うものではない」と断った上で、感染が発生している地域では学校の設置者において、実施方法の変更や延期などを含め、対応を検討するよう、事務連絡で求めていたといいます。(事務連絡 令和2年2月25日
 一時的にせよ、児童生徒の教育を受ける権利を制限することになるわけですから、地域や学校の感染状況を考慮し、学校の設置者に対応を検討するよう求めた文部省の対応が、通常の行政の対応だと思います。
 でも、安倍前首相は、そうした手続きを無視して、「緊急事態条項」先取りをするかのように、突然、全国一斉休校を要請したのです。そこで、文部科学省は再び「新型コロナウイルス感染症対策のための小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校等における一斉臨時休業について」(元文科初第1585号 令和2年2月28日)という文書を、各都道府県・指定都市教育委員会教育長その他に宛てて出したのです。その結果、どれほどの人たちが対応に苦慮することになったかは、改めていうまでもないと思います。
 感染者が一人も確認されていない地域にまで、休校を要請をした安倍前首相の、法や権利、地域や現場を考慮しない政治を、私は見逃すことができません。

 PCR検査体制などについても、WHOの提言を取り入れることなく、官邸主導で検査が抑制されることになったので、現在も新型コロナウイルスの感染が周辺国の中では、最も深刻な状態になっているのではないかと、私は思います。日本では変異ウィルスが広がり、収束が見通せないばかりでなく、治療を受けることが出来ず亡くなる人が続出しているからです。でも、高橋洋一内閣官房参与は、そういう日本国内の感染状況についてツイッターで『さざ波』などと表現し、批判を浴びました。私は、ある意味で正直な発言ではないかと思いました。それが、かつての戦争指導層の考え方を受け継いでいる自民党政権中枢の、人命や人権に対する感覚なのではないかと思ったのです。

 また、一昨日の新聞に、「教員免許更新制」の廃止の話が進んでいるとの記事がありました。しばらく前には、「大学入試共通テスト」での「英語民間試験の活用」と「国語・数学の記述式問題導入」見送り決定の見通しも示されていました。教育現場からは、その度に、戸惑いや驚きや批判の声があがっていました。それらも、専門家や現場の関係者、当事者の声等をきちんと聞かず突っ走る、官邸主導の政治がもたらした問題なのだと、私は思います。コロナ対策に限らないのです。

 そしてそれは、戦時中の実態把握や情勢分析を軽視し、現場の意向を無視した無謀な作戦とダブって見えるのです。インパール作戦をはじめ、あちこちで大勢の戦死者や餓死者を出した作戦の過ちを、自民党政権はくり返しているのではないか、と思うのです。 

 そうしたことを踏まえつつ、自民党の憲法改正草案を見ると、様々な問題が潜んでいるように思います。
 日本国憲法第21条には

1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
 とあります。

 でも、自民党憲法改正草案第21条
1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
3 検閲は、してはならない。通信の秘密は、侵してはならない。
第21条の2(国政上の行為に関する説明の責務)
 国は、国政上の行為につき国民に説明する責務を負う。
 となっています。

公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。”が付け加えられているのです。政治的対立が激しくなった時に、「公益」や「公の秩序」が、時の政権によって利用されることを考えれば、これは重大な問題をもつ付け加えではないかと思います。
 すでに見てきたように、自民党の憲法改正草案は、自然権思想に基づく個人の人権を、「公益」や「公の秩序」によって制限したり、「家族国家観」に基づく「家族」の中に埋没させようとする条文がありましたが、この付け加えも、かつての「治安警察法」や「治安維持法」と同じように、国家のために人権を制約することを可能とすることになるのではないかと思います。

 次に、日本国憲法「第四章 国会」の、第54条には、
衆議院が解散されたときは、解散の日から四十日以内に、衆議院議員の総選挙を行ひ、その選挙の日から三十日以内に、国会を召集しなければならない。
② 衆議院が解散されたときは、参議院は、同時に閉会となる。但し、内閣は、国に緊急の必要があるときは、参議院の緊急集会を求めることができる。
③ 前項但書の緊急集会において採られた措置は、臨時のものであつて、次の国会開会の後十日以内に、衆議院の同意がない場合には、その効力を失ふ。”
 とあります。

 自民党憲法改正草案第54条
衆議院の解散は、内閣総理大臣が決定する。
2 衆議院が解散されたときは、解散の日から四十日以内に、衆議院議員の総選挙を行い、その選挙の日から三十日以内に、特別国会が召集されなければならない。
3 衆議院が解散されたときは、参議院は、同時に閉会となる。ただし、内閣は、国に緊急の必要があるときは、参議院の緊急集会を求めることができる。
4 前項ただし書の緊急集会において採られた措置は、臨時のものであって、次の国会開会の後十日以内に、衆議院の同意がない場合には、その効力を失う。
となっています。

 ”衆議院の解散は、内閣総理大臣が決定する。”と付け加えられています。選挙において、政権が有利な立場にあるときに、恣意的に衆議院を解散するというようなことがなされないように、逆に、法的制約が考慮されてもよいのではないかと、私は思います。そういう意味で、合議に基づくことなく、内閣総理大臣個人に衆議院の解散権を与える付け加えには問題があると思います。

 また、日本国憲法第56条には

両議院は、各々その総議員の三分の一以上の出席がなければ、議事を開き議決することができない。
 ② 両議院の議事は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、出席議員の過半数でこれを決し、可否同数のときは、議長の決するところによる。
 とあり、

自民党憲法改正草案第56条
両議院の議事は、この憲法に特別の定めのある場合を除いては、出席議員の過半数で決し、可否同数のときは、議長の決するところによる。
2 両議院の議決は、各々その総議員の三分の一以上の出席がなければすることができない。”
と変えられています。

 すでに、政権は、国会における話し合いを避ける傾向が強いように思いますが、総議員の三分の一以上の出席がなくても、議事を開くことができるようにすれば、そうした傾向に拍車がかかると思います。だから、第56条では、”議事を開き”の削除が問題だと思います。国会における話し合いが、軽視されてはならないと思います。話し合ってもしかたない、というような現状を改善するためにも、こういう条文には問題があると思います。進む方向が逆だと思うのです。

日本国憲法第63条には
内閣総理大臣その他の国務大臣は、両議院の一に議席を有すると有しないとにかかはらず、何時でも議案について発言するため議院に出席することができる。又、答弁又は説明のため出席を求められたときは、出席しなければならない。
とあります。

自民党憲法改正草案第63条
内閣総理大臣及びその他の国務大臣は、議案について発言するため両議院に出席することができる。
2 閣総理大臣及びその他の国務大臣は、答弁又は説明のため議院から出席を求められたときは、
出席しなければならない。ただし、職務の遂行上特に必要がある場合は、この限りでない。
となっています。
 ”職務の遂行上特に必要がある場合は、この限りでない。”などという例外を認めることも、話し合いの軽視であり、国会軽視ではないかと、私は思います。大臣が説明責任をきちんと果たさないことの多い現状を考えると、答弁や説明を逃れるために、恣意的にこうした例外規定を利用することも考えられるのではないかと思います。

日本国憲法第66条には
”内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する。
② 内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。
③ 内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。”
とあります。

自民党憲法改正草案第66条
内閣は、法律の定めるところにより、その首長である内閣総理大臣及びその他の国務大臣で構成する。
2 内閣総理大臣及び全ての国務大臣は、現役の軍人であってはならない。
3 内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負う。
となっています。”文民でなければならない。”が”現役の軍人であってはならない。”に変えられています。
 議員内閣制の日本では、内閣総理大臣や国務大臣は、国民が選ぶわけではありません。日本国憲法第67条”内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する”に基づき、事実上政権政党が決め、国務大臣は、指名された内閣総理大臣が任命しているのです。そして、日本国憲法第68条に、”内閣総理大臣は、国務大臣を任命する。但し、その過半数は国会議員の中から選ばれなければならない”とあることから、自民党の改正草案では、昨日まで軍人であった人間を、大臣に任命することも可能になるのです。
 でも、軍事に関わる安全保障政策の基本的判断や決定は、選挙で選出された国民の代表である文民であるべきで、軍事組織は政治や外交に干渉せず、国民が選挙で選んだ政治家の指導に服することが求められるのではないかと思います。総理大臣の一存で、昨日まで軍人であった人間が、大臣に任命されるようでは、「文民統制」が危ういものになると思います。政治家、特に大臣は、できるだけ軍事組織と直接的なつながりのない人が望ましいのであり、”文民でなければならない。”を”現役の軍人であってはならない。”に変えることは、かつて、軍事組織と内閣が一体となり、軍国主義といわれる政治によって、国家存亡の危機を経験したことを思い起こせば、極めて不適切だと思います。現役の軍人だけではなく、かつて軍人であった人も、内閣総理大臣や国務大臣には相応しくないと思うのです。

日本国憲法第72条には
 ”内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、
並びに行政各部を指揮監督する。
 とあります。

自民党憲法改正草案第72条で
内閣総理大臣は、行政各部を指揮監督し、その総合調整を行う。
2 内閣総理大臣は、内閣を代表して、議案を国会に提出し、並びに一般国務及び外交関係について国会に報告する。
3 内閣総理大臣は、最高指揮官として、国防軍を統括する。

 改正草案に付け加えられた”総合調整を行う”が何を意味しているのかよく分かりませんが、独裁的な権力の行使を許すことにつながることが懸念されます。また、”内閣総理大臣は、最高指揮官として、国防軍を統括する。”という付け加えも、何の制約もない総理大臣の権限強化の一つとして、とても気になります。制約がなければならないと思いまし、実力組織の縮小廃止の方向性をはっきり示すべきだと思います。
 

コメント