真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

戦争に関わる歴史の真実は・・・ http://hide20.web.fc2.com に記事にリンクの一覧表


不敬罪、井上哲次郎と内村鑑三の論争

2020年12月02日 | 国際・政治

 私は、井上哲次郎と内村鑑三の論争で、明治がどのような時代であったかがわかるのではないかと思います。
 特に、西欧の学問に通じていた井上哲次郎が、西欧の学問や思想の発展を考慮せず、歴史の歯車を逆回転させるかのような主張をしたことが見逃せません。私は、井上哲次郎は、信教の自由を否定し、現に存在する天皇を、”天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス”などと神の如く位置づけて専制主義的な政治を展開した明治政府に組みしたのだと思います。井上哲次郎は下記のように書いています。

耶蘇教(キリスト教)は唯一神教にて其徒は自宗奉ずる所の一個の神の外は、天照大神も弥陀如来も、如何なる神も、如何なる仏も、決して崇敬せざるなり、唯一神教は恰も主君独裁の如く、一個の神は一切万物の主にして、此の神の外には神なしとし、他神の其領分中に併存するを許さざるなり、独り自宗の神のみを以て真正の神とし、他の諸宗の奉ずる所は、如何なる神も、皆真正の神と見做さゞるなり、多神教は之れに反して共和政治の如く、他宗の諸神をも併存するを許すこと多く、決して惟一神教の如く、厳に他神崇拝を禁ずるものにあらざるなり、唯一神教と多神教とは此の如く全体の性質を異にするを以て、多神教たる仏教は古来温和なる歴史を成し、唯一神教たる耶蘇教は到る処激烈なる変動を成せり
 
 では、”多神教たる仏教は古来温和なる歴史を成し”また、”我邦は古来神道の教ありて、神の多きこと実に千万を以て数ふ”日本の人間である井上哲次郎が、なぜ、キリスト教徒を”耶蘇教徒は何時の間にか知らず識らず愛国心を失ひ、他人の行為を怪訝し、風俗に逆ひ、秩序を紊り、以て国の統合一致を破らんとす、国の災実に是れより大なるはなし、我邦人たるもの深く此に意を留めざるべからざるなり”などと、キリスト教徒だけが悪者であるかのように断罪するのか、と思います。井上哲次郎のこの主張に対する内村鑑三の下記のような批判は痛烈であり、井上哲次郎が反論することは難しいだろうと思います。

天皇陛下は我等臣民に対し之(教育勅語)に礼拝せよとて賜はりしにあらずして、是を服膺し即ち実行せよとの御意なりしや疑うべからず、而して足下の哲学的公平なる眼光は余輩(ヨハイ:=われら)基督教徒を以て仏教徒よりも、儒者、神道家、無宗教家よりも、我国社会一般公衆よりも、勅語の深意に戻り、国に忠ならず(実行上)、兄弟に友ならず、父母に孝ならず、朋友に信ならず、夫婦相和せず、謙遜ならざるものとなすか、不忠不孝不信不悌不和不遜は基督教徒の特徴とするか、
足下は余が勅語を礼拝せざるが故に余を以て日本国に対して不忠なるものとなせり、然れども店頭御尊影を他の汚穢(オエ)なる絵画と共に鬻(ヒサ)くものは如何、朝に御真影に厳粛なる礼拝を呈し夕に野蛮風の宴会に列する者は如何、加之(シカノミ)ならず粛々として勅語に礼拝するものが盃を取て互に相談するや余輩□くものをして嘔吐の感を生せしむるものあるは未だ足下の目にも耳にも留まらざるや、若し余をして足下の如く新聞雑誌の記録を以て余の論城を築かしめば、余は教育の本原たる我文部省に就ても、足下の職を奉せらるゝ我帝国大学に関しても、若しくは足下の賞賛せらるゝ仏教各派現時実況に就ても、余は足下をしてニ三日も打続きて尚ほ通読するを得ざる程の非国家的反勅語的なる醜聞怪説をして足下の前に陳列し得るなり

 井上哲次郎の一神教と多神教に関する主張はわからなくはないのですが、当時のように、礼拝の対象を、神(天照大神)=天皇=大日本帝国=教育勅語と広げ、内村鑑三を不敬罪に問うのは、やはり如何なる神を信じるかという意味の信教の自由を否定するのみならず、国家と個人の関係における個人の内心の自由をも否定することになると思います。井上哲次郎は、そういう意味で当時の専制主義的な明治政府に加担してしまったのだと思うのです。

 また、近代西欧のキリスト教社会で形成された国家に関する理念や諸原則を超えて、内村鑑三が、自らキリスト教徒として、当時の日本に適応しようとしたと思われることが、”基督教は欧米諸国に於て衰退しつつありとの御説は万々一、事実なりとするも是亦余の弁解するの必要なし、何んとなれば余は欧米を真似せんとするにものにあらざればなり”という文章でわかります。
 また、内村鑑三は、礼拝の対象を神のみならず、国家(日本)や主権者(天皇)、その「御真影」(写真)、「教育勅語」にまで広げ、それらと個人の関係を権力的に縛り、礼拝を強制することに抵抗したのではないかと思います。井上哲次郎は、それを否定したのであり、それは、信教の自由や内心の自由を否定することを意味するのだと思います。

 日本では、代々、記者会見に臨む内閣官房長官が、会場に掲げられた丸に向って頭を下げています。これは、礼拝の対象を神に限定せず、天皇や国家や「御真影」、「教育勅語」、「国旗」(日の丸)その他に広げた明治時代の仕来たりが、今に続いているからではないのでしょうか。神や人に向ってではなく、旗に向って頭を下げる例が他国にもあるでしょうか。

 下記は、いずれも「続・現代史資料 教育 御真影と教育勅語 Ⅰ」(みすず書房)から、その一部を抜粋しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
               四 軋轢と悲劇

            (一) 内村鑑三不敬事件

井上哲次郎「教育と宗教の衝突」『教育時論』第279号・280号・281号・283号及び284号所収分

               教育と宗教の衝突
                                   井上哲次郎稿
 余は久しく教育と宗教との関係に就いて一種の意見を抱き居りしも、其事の極めて重大なる為め、敢えて妄(ミダリ)に之を叙述することを好まざりき、然るに或時教育時論の記者余を訪ひ、熊本県に於て教育と宗教と衝突を来せるが、抑々勅語の主意は耶蘇教と相合はざるものにや、如何にと問われたれば、余は最早平生懐抱する所を隠蔽すること能はず、少しくその要点を談話せり、然るに記者は其談話の大意を教育時論第272号に載せたり、是に於てか耶蘇教徒は頗る之れが為めに激昂せしものと見え、其機関たる諸雑誌に於て余が意見を批難し、中には随分人身攻撃をもせり、…
 ・・・
 嚮(サ)きに教育に関する勅語出づるや、之れに抗せしものは、仏者にあらず、儒者にあらず、又神道者にあらず、唯々耶蘇教徒のみ之れに抗せり、或は云はん、耶蘇教徒は勅語其れ自身に抗せしにあらず、勅語を拝することに抗せしなりと、然れども是れ唯々表面上の口実に過ぎず、其実は勅語の主意を好まざるなり、耶蘇教徒は皆忠孝を以て東洋古代の道徳とし、忌嫌に堪へざるなり、故に或は発して不敬事件となり、或は激して宣告文となれり、何故勅語の出づるに当りて唯々耶蘇教徒のみ勅語に対して紛紜(フンウン)を生ぜしや、能く其因りて起る所に注意せざるべからざるなり、耶蘇教徒の中日本の風俗に同化して忠孝の教も採用し、甚だしきは勅語をも会堂に講ぜんとするものあり、是等は保守的の耶蘇教と相容れざるものなり、其相容れざるは、一は我邦に適合せざる旧来の教旨を保存し、一は旧来の教旨をして枉(マ)げて我邦に適合せしめんとするに由るなり、要するに、耶蘇教は元と我邦に適合せざるの教なり、故に我邦の風俗に同化すべき必要も起るなり、若し耶蘇教が始より能く我邦の風俗に適合せるものならば、豈に之れに同化するを要せんや、従ひて又同臭の耶蘇教中に別派を生ずることあらんや、世の教育家は公平なる眼を以て能く近時社会の現象如何に注目せよ、勅語の出づるに当たりて第一高等中学校に不敬事件を演せしは何人ぞ、耶蘇教徒にあらずや、令知会雑誌第八十三号に云く、

 第一高等中学校嘱託教師、内村鑑三が同校の勅語拝戴式に列して、陛下の勅語に対して、尊影に対して、敬礼せざりし、其不遜不敬最も憎むべき所行は云云、其最初よりの顛末を記すべし、抑々此の事の起りは、
 本年一月九日、同校就業始めに於て、木下校長は、生徒一同を衆め校内倫理室を以て式場とし、各教員列席の上、旧臘(キュウロウ)陛下が文部大臣へ下し玉ひし、教育上に関する勅語の拝読式を挙行せり、其砌(ミギリ)教員内村鑑三は、他の生徒教員が何れも粛々として、敬礼を罄(ツク)すにも拘わらず、一人傲然として更に敬礼せざる状の、如何にも不遜なりしより生徒は大いに奮激し、厳しく内村を詰(ナジ)りしに、彼は漫然として、我は基督教者なり、基督教の信者は、斯る偶像や、文書に向て、礼拝せず、又礼拝するの理由なしと答へたるより、生徒は益々激し、一同校長に迫り、校長も捨置かれぬ事なり、とて、内村に問ふところあり、内村も同教徒、金森通倫、木村駿吉、中島力造等と協議の上、前非を悔て、礼拝することとなり、折節内村は病気にて蓐(シトネ)にありしかば、木村をして代拝せしめ、全快の上、自身更めて礼拝することと定まりしも、一旦其真面目を現はせし上は、今設(シツラ)ひ礼拝するも、決して真心に非ざるは勿論、不敬の所為ありし上は、相当の処置あるべしとの論、生徒中に喧しく、到底一同の折合つかざるより、初は免職すべき筈なりしも、故ありて内諭解職となり、此一条先づ事済となりしも、済まざるは基督教者の内幕にて、此事に付、二派に分かれ横井高橋の一派は、礼拝するも不可なしとし、他の多くは、飽迄も不可とするものにて、今尚ほ紛然たりと云ふ、

 是れ実に第一高等中学校に於ける不敬事件の顛末の概要なり、内村氏が此の如き不敬事件を演ぜしは、全く其耶蘇教の信者たるに因由すること亦疑いなきなり、耶蘇教は唯一神教にて其徒は自宗奉ずる所の一個の神の外は、天照大神も弥陀如来も、如何なる神も、如何なる仏も、決して崇敬せざるなり、唯一神教は恰も主君独裁の如く、一個の神は一切万物の主にして、此の神の外には神なしとし、他神の其領分中に併存するを許さざるなり、独り自宗の神のみを以て真正の神とし、他の諸宗の奉ずる所は、如何なる神も、皆真正の神と見做さゞるなり、多神教は之れに反して共和政治の如く、他宗の諸神をも併存するを許すこと多く、決して惟一神教の如く、厳に他神崇拝を禁ずるものにあらざるなり、唯一神教と多神教とは此の如く全体の性質を異にするを以て、多神教たる仏教は古来温和なる歴史を成し、唯一神教たる耶蘇教は到る処激烈なる変動を成せり、内村氏が勅語を敬礼することを拒み、傲然として偶像や文書に向ひて礼拝せずと云ひたるは、全く其信仰する所唯々一個の神に限るに出づるなり……、余は今此に多くの神若くは唯一の神を信ずることに就いて其是非如何んと断案を下だすにあらず、唯々不敬事件の起れる理由を弁明するに止まるなり、……我邦は古来神道の教ありて、神の多きこと実に千万を以て数ふ、然るに其最大の神たる天照大神は実に皇室の祖先なりと称す、然のみならず、倫理に関する教も皇祖皇宗の遺訓と見做さる、是れ現に我邦の国体の存する所とするなり、然るに耶蘇教徒の崇敬する所は、此にあらずして他にあり、他とは何ぞや、猶太(ユダタ)人の創唱に係る所の神に外ならざるなり、余は今耶蘇教徒に対して神道者になれと勧むるにあらず、此には単に耶蘇教者の国体を損傷すること多き所を解釈するに止まるなり。
 ・・・
…耶蘇教徒は多く外国宣教師の庇蔭(ヒイン)を得て生長せしものゆゑ、甚だ愛国の精神に乏しきなり、苟も愛国の精神に富まば勅語を拝するも何かあらん、唯々勅語のみを拝礼して愛国の精神なきものは、固より取るに足らざるの無腸漢に過ぎず、然れども真誠に愛国心あるものは、生命も亦国の犠牲に供することあり、何んぞ復た勅語を拝することを拒むを用ひんや、耶蘇教徒は何時の間にか知らず識らず愛国心を失ひ、他人の行為を怪訝し、風俗に逆ひ、秩序を紊り、以て国の統合一致を破らんとす、国の災実に是れより大なるはなし、我邦人たるもの深く此に意を留めざるべからざるなり、余は此間に耶蘇教徒中の最も甚しきものを挙げて其如何程我邦に不利なるものあるかを明らかにせん、駿河台の上に高大なる建物あり、兀(コツ)として雲表に聳え、我宮城を俯瞰するものゝ如し、是れをニコライの礼拝堂となす、…
 ・・・以下略
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
               四 軋轢と悲劇

            (一) 内村鑑三不敬事件

                     『教育時論』第285号(明治26年3月15日発行)
            文学博士井上哲次郎君に呈する公開状
                                       内村鑑三   
 足下(ソッカ:=貴殿)
 余(ヨ:=私)は未だ足下と相識るの栄を有せず、只東洋の一大哲学者として常に足下の雷名を耳にせしのみ、然るに近頃足下が「教育と宗教の衝突」と題して長論文を教育時論に投ぜられ、基督教の非国家的なるを弁せらるゝに際し、余に関する事柄を多く引用せられしに依り余は不得止(ヤムヲエズ)此公開状を足下に呈せざるを得ざるに至れり。
余は如斯(カクノゴトキ)論文が足下の手より出でしを喜ぶなり、若し凡僧(ボンソウ)寒生(=書生)の作たらしめんか、余は之れに答ふるに術なかるべし、然れども哲学的の眼光を有する足下なれば余は事物の研究に於て公平なる学術的論法を足下より請求し得ればなり。
然れども余は今足下の如き長論文を綴る閑暇(カンカ)なし、又その必要もなかるべし、基督教非国家論に就ては已(スデ)に公論のあるあれば、今茲に余の重複を要せず、基督教は欧米諸国に於て衰退しつつありとの御説は万々一、事実なりとするも是亦余の弁解するの必要なし、何んとなれば余は欧米を真似せんとするにものにあらざればなり、彼は彼なり、我は我なり、此点に就ては余は足下に倣ふて欧米の糟糠(ソウコウ)を嘗めざらん事を勉むるものなり、
然れども足下の論法並に論旨に就て余は足下に少しく足下の再考を要求せざるを得ず、足下願くは哲学者の公平を以て余の注意を観過する勿れ。
足下は哲学者として堅固なる事実の上にその論旨を建てられたり、足下は空想虚談に依らずして耳目を以て証し得べき歴史的の材料を以て足下の論城を築かれたり、誰か足下の注意深き帰納法に服せざらんや、然れども其事実の選択法に至りては足下甚だ疎漏ならざりしか、余が足下に申す迄もなけれ共、反対党の記事のみを以て歴史上の批評をなすべからざるは史学の大綱なり、天主教徒の記事のみ依りし独逸三十年戦争史は不公平なる歴史なり、北部合衆党の記事のみに依りたる米国南北戦争史は史学上の価値を有せず、然るに足下が余輩(ヨハイ)基督教徒の行跡を評せらるゝや多くは余輩の正反対党の記事に依らるゝは如何、余の高等中学校に於ける勅語礼拝記事に関して足下の引用せらるゝ記事は実に基督教に対して常に劇烈なる憎悪の念を有する真宗派の機関雑誌なる令知会雑誌なり、或は「仏教」雑誌なり、皆基督教に対して敵意を挟むにあらざれば常に之を貶見賤視する新聞雑誌なり、
憑(ヨリカカ)るべからざるは新聞紙上の記事なり、況んや反対者に関する記事においてをや、若し後来足下の言行記を編纂する者あって足下と主義を異にせる新聞雑誌が足下に関し登載せる所のものを以てせは足下以て如何となす
余は他の記事に就ては真偽を保証する能わざれども、令智会雑誌の余の第一高等中学校礼拝事件に関する報知は誣ゆるの甚しきものと言はざるを得ず、余が尊影に対し奉り敬礼せざりしとは全く虚説に過ぎず、拝戴式当日には生徒教員とも尊影に対し奉ての礼拝を命ぜられし事なし、只教頭久原氏は余輩に命してひとりづゝ御親筆の前に進みて礼拝せしめしなり、而して其記事中「斯かる偶像や文書に向て礼拝せず」云々の語は余の発せし語にあらざるなり、又「前非を悔て」との言は時の事実を伝ふにあらず、余は礼拝とは崇拝の意ならずして敬礼の意たるを校長より聞きしにより喜んで之をなせしなり、又爾来もこれをなすべきなり、故に「決して真心にあらざるの」云々の語は余の真意を伝ふものにあらず、其「免職」云々に関しては最も讒謗(ザンボウ)の甚しきものと云はざるを得ず、木下校長の余に対するや常に同僚の礼を以てせられ、余も亦同氏に対し決して悪感情を有せしことなし。余は奸賊として放逐せられしなり。
然れども是れ余一個人に関する事実なり、余は茲に彼の第一高等中学校事件に就て余を弁護せんとするものにあらず、余の茲に之を言ふは足下が事実の探究に甚だ疎漏なりしを示さんが為めなり、哲理的歴史は如斯不公平不完全の材料を以て建設し得べからざるは足下の能く知る所なり。
足下の基督教徒が我国に対し不忠にして勅語に対し不敬なるを証明せんとするや、該教徒が儀式上足下の注文に従わざるを以てせられたり、然れども茲に儀式に勝る敬礼の存するあり、即ち勅語の実行是なり、勅語に向て低頭せざると勅語を実行せざると不敬何れが大なる、我聖名なる 天皇陛下は儀式上の拝戴に勝りて実行上の拝戴を嘉し賜ふは余が万々信して疑わざる所なり。
畏れ多くも我 天皇陛下が勅語を下し賜はりしは真意を推察し奉るに
天皇陛下は我等臣民に対し之に礼拝せよとて賜はりしにあらずして、是を服膺し即ち実行せよとの御意なりしや疑うべからず、而して足下の哲学的公平なる眼光は余輩基督教徒を以て仏教徒よりも、儒者、神道家、無宗教家よりも、我国社会一般公衆よりも、勅語の深意に戻り、国に忠ならず(実行上)、兄弟に友ならず、父母に孝ならず、朋友に信ならず、夫婦相和せず、謙遜ならざるものとなすか、不忠不孝不信不悌不和不遜は基督教徒の特徴とするか、
足下は余が勅語を礼拝せざるが故に余を以て日本国に対して不忠なるものとなせり、然れども店頭御尊影を他の汚穢(オエ)なる絵画と共に鬻(ヒサ)くものは如何、朝に御真影に厳粛なる礼拝を呈し夕に野蛮風の宴会に列する者は如何、加之ならず粛々として勅語に礼拝するものが盃をを取て互に相談するや余輩□くものをして嘔吐の感を生せしむるものあるは未だ足下の目にも耳にも留まらざるや、若し余をして足下の如く新聞雑誌の記録を以て余の論城を築かしめば、余は教育の本原たる我文部省に就ても、足下の職を奉せらるゝ我帝国大学に関しても、若しくは足下の賞賛せらるゝ仏教各派現時実況に就ても、余は足下をしてニ三日も打続きて尚ほ通読するを得ざる程の非国家的反勅語的なる醜聞怪説をして足下の前に陳列し得るなり。否な若し余をして少しく復讐の念を生□せめ、新聞雑誌より足下自身に関する記事を摘用せんとなあらば、余は文学博士井上哲次郎君を以て至誠国に尽し、恭謙(キョウケン)己を持し、勅語の精神を以て貫徹せらあれた東洋の君子として画くことに甚だ困しむなり。
 勅語発布以来我国教育上の成績に如何なるものあるや、日本国の教育者社会は勅語発布以来その不敬者を責むるに喧噪なる割合に道徳上の進歩ありしや、学生の勤勉恭謙は発布以前に比較して今日は著しき進歩ありしや教員の真率倹節、その学生に対する愛情、犠牲の精神は前日に比して幾何の進歩かある、若し新聞紙の報する所を以て十の二三は真に近きとするも尚ほ余輩民間にある者より之れを見る時は日本帝国現時の教育界は勅語の理想と相離るゝ甚だ遠し、学生が教師に対する不平、教師が学生に対する不親切、理事者の不始末等余輩の耳朶(ジダ)に接する反勅語的の事何ぞ如斯く多きや、不敬事件よ、不敬事件よ、汝は第一高等中学校の倫理室に於てのみ演せられざるなり、
足下曰く「耶蘇教徒は多く外国宣教師の庇蔭を得て生長せしもの故甚だ愛国心に乏しきなり」と、是足下の観察にして余は是に悉く同意を表する得ず、然れども其事実問題は他日に譲る事となし、余は茲に余の観察を足下の前に開陳せざるを得ず、即ち「足下の如き尊王愛国論を維持する人士は多く政府の庇蔭を得て生長せしもの故甚だ平民的思想に乏しきなり」との事なり、広く目を宇宙の形勢に注ぎ、人権の重きを知り、独立思想の発達を希望するの士にして足下の如く重きを儀式上の敬礼に置き実行上の意志如何を問はざるの人は何処にあるや、足下は余輩の不敬を責むるに当て足下の材料を重に仏教の機関雑誌より得るの理由も蓋し茲に存せずんばあらず、足下の尊王愛国論は庇蔭の下に学を修め今尚ほ官禄に衣食するものにあらざれば、或は神官諸氏の如く、或は僧侶諸君の如く、其消長は大に足下の称する尊王愛国論の盛衰如何に関するものを除いて他に多く見さる所以のものは抑何ぞや、
勿論普通感念を有する日本臣民にして誰か日本国と其皇室に対し愛情と尊敬の念を抱かざるものあらんや、然るを愛国心は己の専有物の如くに見做し余輩の行跡を摘発して愛国者の風を装はんとするが如きは、阿世媚俗の徒も喜んで為す所なり、足下の如き博識の士は勿論不偏公平真理を愛する念より余輩を攻撃せらるゝなれども、足下の如き論法を使用し、足下の如き言語を吐かるゝ士は多くは、爵位官禄に与る人に多きを見れば、余輩民間にある者をして所謂尊王愛国論なる者も又自己の為めにする所ありてなすにあらざる乎の疑念を生ぜしむるは決して理由なきにあらざるなり、足下願くは余の疑察を恕せよ、余は唯足下が余輩に加へられし疑察を足下に加へしのみ、而して若し足下の称する尊王愛国論は必しも阿世媚俗の結果にあらずとならば(而して余はその必しも然らざるを知る)其同一の推理法を以て余輩基督教徒も外人の庇蔭に依るが故に基督教を信ずるにあらざるを知れ。
足下は基督教の教義を以て勅語の精神と幷立し能はざるものと論定せられたり、若し足下の論結にして、確実なるものなれば基督教は日本国に於て厳禁せらるべきものにして、耶蘇宗門禁制の表札は再び日本橋端に掲げらるゝに至らん、帝国大学に職を奉ずる基督教徒を始めとして我帝国政府部内にある基督教徒は直に免官すべきなり、足下已に足下の持論を世に公にせられたり、而して誠実なる日本国民として、真理を重んずる学者として、足下の輿論のクルセードを起し、基督教撲滅策を講ぜざるばからず、足下の責任も亦大なる哉。
然れども余は又足下に一の注意を与へざるを得ず、茲に基督教に勝る大害物の我国に輸入せられしあり、即ち無神論不可思議論是れなり、足下の論文に依て見れば足下はハーバート、スペンサーに対し多分の尊敬と信用を置くが如し、ミル、スペンサー、バックル、ベジョウ等は我国洋学者の夙(ハヤ)くより嗜読(シドク)せしものにして、今日の日本を造り出すに所て是等英国碵学の著書与大勢力ありしは蓋し疑なき事実なり、而して足下の公平なる哲学的の眼光は不可思議論と勅語とは並立し得るものと信ぜらるゝや、余は試に茲に一二の実例を挙げて足下の教訓を乞はんと欲す。
スペンサー氏の代議政体論は我国英語研究者の教科書として広く用ひらるゝ書なり、その需要の大なるや数種の翻刻を市上に見るに至れり、我国幾万の子弟は此書を読みつゝあるなり、而して其独裁政治を論するや左の語あり。
 余は茲に余の拙劣なる翻訳を附し此公開状の読者をして英語を解せざる人の為めにす(英文略)
 服従の性(即ち君主政体をあらしむるもの)は無数罪悪の原因となり、高潔の士にして服従を肯ぜ   ざるものを拷問殺戮し、バスチル、シベリアの惨状を演ぜしめしものなり、之れ智識、思想の自由、 真正の進歩の圧抗者なり、之れ何れの時代に於ても王室の弊害を譲し此弊害をして国内に流行せしめしものなり、……… 過去の記載に依るも、地球面上に散布せる未開人種を見るも、欧州今日各国の状態を比対するも、主権に対する服従は道徳と智識の増進すると同時に退減するを見る、昔時の武勇崇拝より今日の「オベッカ主義」(Flunkeyism)に至る迄此服従の精神は人性の最も陋劣なる所に最も強し。

而して之れをその最も甚だしきものにあらざるなり、その前后23ページに渉る記事を見よ、而し如何にして「天壌無窮の皇運を扶翼すべし」との勅語と並行し得るかを余輩に弁明せられよ。
余に若し時と余白とあらしめば余はウオーター、ベジョウの究理政治論より、ミルの代議政体論、其他バックル、ベイン、ホルテヤ、モンテスキウ輩の著作より、我国の尊王心を全然破壊するに足るべき章句を引用し得べきなり、冝なるかな我文部省は一時官立諸学校に令して前述のスペンサー氏代議政体論を教科書として使用するを禁ぜられたる事や。
我国仏学者の中に最も愛読さるゝルソーの民約論(Contract Social)は皇室の尊栄を維持するが為めには害なきものと信ぜらるゝや、欧米の学者にして基督教を攻撃せし記者は王政を攻撃せしものなるは足下の知る所なり、然るに基督教を以て我国体を転覆するものとして嫌悪する我国の教育者がベジョウ、スペンサー等を尊拝するは余の未だ了解し□はざる所なり。
昔時羅馬(ローマ)の虐帝ニーロは手づるから火を羅馬の市街に放ち其焔煙天に漲るを見て一夜の快を得たり、然るに後公衆の疑念と憤慨かその身に鍾るや直に基督教徒を捕へ罪を彼等に帰し彼等を殺戮せりと、今日我国の洋学者も亦ニーロ帝を学ばんとするものにあらざるか、世の軽薄に進み礼儀真率の地を払ふに至て其罪を基督教徒に科せんとするものは誰ぞ。
日本は足下の国にして又余の国なり、偽善と諂媚(テンビ)とは何処に存するとも共に力を合せて排除すべきなり、然れども軽卒と疑察とは志士の共同を計るに於て用なきなり、我等恭倹なる日本国民として、注意深き学者として、公平なる観察者として、他を評するに寛大なるべく、事実を探るに精密なるべく、結論に達するに徐かなるべきなり、足下此公開状を以て足下の所謂「一々答弁を為すほどの価値あるものにあらず」と為さず、余に教訓を垂るゝあらば豈余一人の幸福のみならんや、不備
    明治廿六年ニ月                            大坂に於て
                                          内 村 鑑 三

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

教育勅語には普遍性がある?

2020年11月24日 | 国際・政治

 明治維新によって政権を手にした薩長を中心とする尊王攘夷急進派は、明治政府を樹立するとまもなく攘夷を放棄し開国和親政策に転換して、欧米列強に国力・軍事両面で追い付くことに注力しました。そして、不平等条約の改正や国家の保全を目指したのだと思います。だからその政策は、 西洋文明を積極的に導入すること(文明開化)であり、地租改正や殖産興業によって経済力をつけること(富国)であり、徴兵制や軍制改革によって軍備を増強すること(強兵)であったのだと思います。そして、さらに列強のような植民地帝国建設を目指して、朝鮮・中国への経済的・軍事的進出を意図するようになったのだと思います。

 その祭必要とされたのが、自由民権運動を抑え、”皇威”を”宣揚”して、精神的に国民を統制するための「教育勅語」であったと思います。したがって、「教育勅語」は、開化政策による道徳的混乱を乗り越えるため、仁義忠孝を中心とした儒教的な徳育の指針を示しつつ、”一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ”というところに国民を導くものだったと思います。この部分は「文部省著作の教科書における教育勅語等の解説 第二十七課 教育に関する勅語」のなかで”若し国家に事変の起るが如きことあらば、勇気を奮(フル)ひ一身を捧げて、皇室・国家の為に尽くすべし。かくして天地と共に窮なき皇位の御盛運を助け奉るべきなり”と解説されています。”一身を捧げて、皇室・国家の為に尽くすべし”という教育が展開されていたということです。「続・現代史資料(9) 教育 御真影と教育勅語2」(みすず書房)の奉体の構造化 (三)

 こうした考え方は、1882年(明治15年)に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した勅諭、いわゆる「軍人勅諭」(正式には『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭』)の
朕か國家を保護して上天(ショウテン)の惠に應し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を盡(ツク)すと盡さゝるとに由るそかし我國の稜威(ミイヅ)振はさることあらは汝等能く朕と其憂を共にせよ我武維(コレ)揚りて其榮を耀さは朕汝等と其譽(ホマレ)を偕(トモ)にすへし汝等皆其職を守り朕と一心(ヒトツココロ)になりて力を國家の保護に盡さは我國の蒼生は永く太平の福(サイハイ)を受け我國の威烈は大(オオイ)に世界の光華ともなりぬへし
 という考え方と一つのものであり、「神話的国体史観」に基づく「教育勅語」によって、軍人のみならず広く一般国民にも富国強兵の精神的支柱を確立し、”億兆心ヲ一ニシテ””勇気を(フル)奮ひ一身を捧げて、皇室・国家の為に尽くす”国民を育成することが、目的であったのだと思います。

 だから、”天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く”という日本国憲法の下では、どんなに見直しても「教育勅語」が、かつての効力をもつことはあり得ないと思います。再び天皇主権の国家に戻さない限り、「教育勅語」で日本を救うことはできないということです。
 また、濤川氏は、”教育勅語は儒教にも神道にも仏教にもどこにも片寄っていない、ひじょうにバランスがとれたものなのだ。”と言いますが、それは、教育勅語に取り上げられている儒教的な徳目しか見ないからだと思います。”我カ皇祖皇宗國ヲ肇(ハジ)ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥(ソ)ノ美ヲ濟(ナ)セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此(ココ)ニ存ス”とあることを見逃してはならないと思います。明治政府は神道を国教化しましたが、「教育勅語」は、神道の神話的国体観に基づいており、神道と切り離すことはできないし、神道と切り離して「教育勅語」から神話的国体観を抜き取れば、残るのはほとんど儒教的な五倫五常の徳目で、国民の多様な考え方を一つにして統制することができるようなものではないと思います。

 また、「教育勅語」が効力を発揮した裏には、「不敬罪」があったことも見逃してはならないと思います。「続・現代史資料 教育 御真影と教育勅語 Ⅰ」(みすず書房)には、内村鑑三不敬事件の資料がいろいろ掲載されていますが、その中の「第一高等中学校『校友会雑誌』第三号(明治二十四年一月二十七日発行)」に下記のような記述があります。
”〇勅語拝戴式
 九日、勅語拝戴式を行ふ、式場は倫理室なり、此室に於て此式を行ふ、日本の臣民たるもの誰か感泣(カンキュウ)せざらんや、独怪むべし、本校教員内村鑑三氏は敬礼を尽さず、此神聖なる式場を汚せり、
 ”神聖なる式場を汚せり”という内村鑑三の「不敬事件」は、「教育勅語」の儒教的な徳目とは関係なく、”天皇”と”国民”の関わりの問題としてあったのではないかと思います。
 同書には、内村鑑三不敬事件の他に、熊本英学校事件久米邦武不敬事件島根県立第一尋常中学校(松江中学校)生徒不敬事件井上哲次郎不敬事件なども取り上げられていますが、「教育勅語」が単なる徳育の教えではなかったことがよくわかります。「教育勅語」が神話的国体観に基づいて、「」(現人神・天皇)が「臣民」(国民)に「下賜」したものであったが故に、神聖視され、強制力が働いたということです。だから「教育勅語」の「下賜」によって、日本は、学問の自由や思想の自由や信教の自由などがほとんどない国になってしまったといっても過言ではないように思います。そういう意味で「教育勅語」に普遍性はないと思います。

 また、「戦争犯罪を世界で唯一認めてしまった国、日本」と題された文章にも、とても問題があると思います。
 まず、日本は、”戦争犯罪を世界で唯一認めてしまった国”ということ自体が適切ではないと思います。”南京大虐殺や従軍慰安婦問題が教科書に載っている”ことが、国家が、戦争責任や戦争犯罪を正式に認めたことにはならないと思いますし、現に、日本の戦争責任や戦争犯罪に関して、多くの訴えがあったことも踏まえるべきだと思います。 
 また、”ある調査によれば、第二次世界大戦時の世界の軍隊の中で、もっとも性犯罪が少なかったのは日本軍だったという報告も出ている。軍規で性犯罪がきびしく罰せられていたためである。”と書いていますが、なぜ、こうした重大な歴史の事実に関して、”ある調査によれば…”などという論述の仕方をするのか疑問です。誰の、どのような調査であるのか、なぜ明らかにしないのか疑問に思うのです。 濤川氏の文章には、歴史の事実に関する重要な情報が多々含まれていますが、その出典引用元参考文献などが示されておらず、確かめようがありません。歴史学的に議論のある問題についての文章としては、適切ではないように思います。

南京大虐殺も同じだ。毛沢東は演説の中で、日本軍がジェノサイド、全員虐殺をしない軍隊だったから中華人民共和国は成立したと言っている。中国や欧米の歴史では、徹底虐殺は当たり前だったからだ。
 しかし、日本軍にはそうした発想がなかった。だから、南京で包囲された中国軍の軍人が市民の洋服を着て、市民に化けて逃げ込んだときに、それでもジェノサイドをやっていない。その市民に化けた軍人、便衣隊のゲリラ戦法によって、日本は結局、追い詰められていった。
 という文章もとても気になります。ほんとうに毛沢東がそういうことを言ったのか、私には、ちょっと信じ難いのですが、確かめようがないのです。

 日本国憲法には、
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 とあります。”大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス”という天皇主権当時の「教育勅語」、さらに言えば、国民の教育を受ける権利が、基本的人権の一つではなく、”皇祖皇宗ノ遺訓”であるという「教育勅語」には普遍性はないと思います。

 下記は、「今こそ日本人が見直すべき 教育勅語 戦後日本人はなぜ〝道義”を忘れたのか」濤川栄太(ごま書房)から抜粋しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
        第三章 日本を救うには、もはや「教育勅語」の見直ししかない

               教育勅語には普遍性がある

 日本の伝統や文化などの掘り起こしの重要なものの一つが、教育勅語なのである。とくに、日本の教育の危機を救うエースになるのが、教育勅語の見直しではないかと思っている。これまで「教育勅語というと軍事教育と直結して考えられ、見直そうという試みはすべて失敗しているが、今こそ、もう一度、教育勅語を考え直すときが来ているだろう。
 戦後、教育勅語は絶対悪のように考えられるようになって、教育勅語を論ずること、教育勅語に近づくことそのものが悪いことのような雰囲気ができている。しかし、教育勅語の内容そのものを肯定する声は今でも少なくはない。GHQでさえ、教育勅語には普遍的な道徳が語られていると認めているのである。
 教育勅語は、戦後GHQの方針によって排除されたが、神道を学校教育から取り除く神道指令と重なったことから、神道と結びついていると誤解されている向きもある。しかし、教育勅語は儒教にも神道にも仏教にもどこにも片寄っていない、ひじょうにバランスがとれたものなのだ。けっして偏狭な民族主義のあらわれなどではなく、普遍性のある良識的なものであることは多くの人が認めている。
 ところが、教育勅語が軍事教育の中で絶対視され、悪用されたために、戦後、悪いイメージが生まれる原因にもなった。さらに、GHQが天皇制の問題と教育の問題の中で、教育勅語をあつかったために、教育勅語は天皇制ファシズムの魂のようなものだと思われるようになってしまった。教育勅語の排除は、国会での失効決議という形で行われたが、これには裏がある。戦前天皇の詔勅には大臣の副署がつけられ、それで法律となっていた。だが、教育勅語には副署がつけられなかった。法律ではなく、教育に対する天皇からのメッセージというかたちをとっていたわけである。
 その点を戦後になって問題にされて、副署がついていないのだから法律としての形になっていない。これは憲法違反であるということになって、国会での失効決議がおこなわれて、排除された。
 しかし、これから考えるべきことは、失効決議がどうというよりも、教育勅語を先入観を持たずにもう一度、冷静な目で、現代的な視点で見直して、その優れた点ははっきりと認め、教育の中で生かしていくことができないかということだ。
 戦後教育は成功だったと言われているが、今になって、小学校や中学校で事件が相次いで起こり、教育のあり方自体が問題になっている。そんなときに、無意味なアレルギーで教育勅語を否定していることのほうがおかしい。多くの人が認めている普遍性を認めなければいけない時期になっているはずである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
        戦争犯罪を世界で唯一認めてしまった国、日本

 日本の戦争責任が話題になるとき、日本とドイツの違いがよく口にされる。ドイツはナチスの犯罪を認め、その反省にたって、戦後のドイツをつくってきたが、日本は明確な謝罪がないというのである。
 しかし、ドイツが本当は何と言ったかをもう一度、思い出してみる必要があるだろう。ドイツが言ったのは、ナチスが犯した犯罪は認め、それはドイツ国民としても忘れてはならないということであって、ドイツという国が、ドイツ国民が犯罪を犯したとはけっして言っていないのである。つまり、ドイツは戦争に負け、ナチスは犯罪を犯したが、それはナチスのファシストたちがやったことで、ドイツがやったことではない。それに文化や歴史、教育ではドイツはアメリカなどに負けてはいないのだと突き返したのだ。
 その気迫、気概が日本にはない。日本は戦争責任を認めていないというが、南京大虐殺や従軍慰安婦問題が教科書に載っているということは、日本のみの戦争犯罪を認めているということだ。こんな国は世界中を探しても日本だけである。
 戦争で侵略した軍隊が婦女子を暴行するという性犯罪は、世界中どこでも起っている。ナチスは東ヨーロッパに数百カ所の慰安所をつくり、占領した国の女性たちを集めてきたと言われているし、ソ連はベルリンに侵攻したあと、その報復としてベルリンの女性の七割を集めて暴行したとも言われる。
 ある調査によれば、第二次世界大戦時の世界の軍隊の中で、もっとも性犯罪が少なかったのは日本軍だったという報告も出ている。軍規で性犯罪がきびしく罰せられていたためである。もちろん、どこの軍隊にも跳ねっ返りはいるから、性的犯罪がまったくなかったなどということはありえない。しかし、自国のことは表に出さないようにしておいて、日本のことだけを責めてくる外国に対して、歴史の教科書に慰安婦をとりあげ、性犯罪をやった国家だと認めてしまうことは、世界的に見れば、ほんとうは異常なことだ。世界の国々は、そんな日本の病理を心の底で笑っている。
 南京大虐殺も同じだ。毛沢東は演説の中で、日本軍がジェノサイド、全員虐殺をしない軍隊だったから中華人民共和国は成立したと言っている。中国や欧米の歴史では、徹底虐殺は当たり前だったからだ。
 しかし、日本軍にはそうした発想がなかった。だから、南京で包囲された中国軍の軍人が市民の洋服を着て、市民に化けて逃げ込んだときに、それでもジェノサイドをやっていない。その市民に化けた軍人、便衣隊のゲリラ戦法によって、日本は結局、追い詰められていった。
 アメリカも最初は真実がわからなかった。それを思い知ったのがベトナム戦争である。アメリカ軍にも徹底虐殺という発想がなかったから、女子ども、年寄りだからと見逃すと、すぐ後ろから銃弾や手榴弾が飛んでくるという目にあって、はじめて、日本が中国で何を経験したかを知ったのである。
 ナチスがユダヤ人やスラブ人をいったいどれだけ虐殺したか、スターリンがどれほどの人間を粛清という名のもとに殺したか、そういうことを考えもせずに、「お前が悪い」と言われると、「ごめんなさい、悪うございました」と、考えもなく謝ってしまったのが日本だったのだ。
 一方のドイツはナチスの犯罪は認めながら、それはドイツの歴史とは関係ないとつっぱあねるところはつっぱねた。そうしないと、国際社会の中で生きていけないとドイツは知っていたからである。だが、国際社会のほんとうの修羅場を知らない日本は、ただ言われるままに認め、謝った。歴史意識の怠慢である。歴史に学んでいない。もう一度、日本は何をやり、何をやらなかったのか、歴史をきちんと振り返り、そこから多くのことを学び直さなければならない。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

今こそ日本人が見直すべき教育勅語?

2020年11月20日 | 国際・政治

 「今こそ日本人が見直すべき 教育勅語 戦後日本人はなぜ〝道義”を忘れたのか」(ごま書房)の表紙カバーの内側に、著者である濤川栄太氏の、”今、なぜ「教育勅語」の見直しが必要なのか”という、下記の短文があります。

今の日本の教育は、目を覆いたくなるほどの惨状に見舞われている。その結果「思いやり」「友情」「慈しみ」といった日本人が本来もっていたはずのたいせつなものが失われつつある。かつての教育には、今の教育にはない「教育勅語」というバックボーンがあった。それこそ、今の日本人に求められている「孝養」「忠義」「勤勉」などといった、精神文化の中心的存在だったのだ。
 私は声を大にしていいたい。いつまでも「教育勅語」をタブー視しつづけることは、この国を崩壊させることになる。今こそ「教育勅語」をまず、鉄扉の中からとりだすことから始めなければなるまい。─── 著者

 こうした考え方をする人は少なくないように思いますが、私には、とても受け入れることができません。
 確かに、日本の教育には様々な問題があると思います。戦後日本の教育に、”目を覆いたくなるほどの惨状”という側面があることもわからなくはありません。でも、「教育勅語」の”縛り”から解き放たれた日本人は、そこから自らの力で、”惨状”を乗り越えていく必要があるのであって、再び「教育勅語」の”縛り”に頼ることは許されないと思いますし、不可能だと思います。

 「教育勅語」がなぜ、”鉄扉の中”に入れられることになったのかは、”「教育勅語」関連資料”で取り上げた衆議院の「教育勅語等排除に関する決議」と参議院の「教育勅語等の失効確認に関する決議」で明らかにされています。

 日本は敗戦後、”日本国憲法の人類普遍の原理に則り、教育基本法を制定して、わが国家及びわが民族を中心とする教育の誤りを徹底的に払拭して”スタートしたのです。日本でしか通用しない神話的国体観に基づく「教育勅語」を復活させようとすることは、「皇国日本」を復活させることであり、基本的人権の一つである、国民の教育を受ける権利を”皇祖皇宗ノ遺訓”のなかに消し去ることを意味します。それは、人類が到達した普遍の原理に反するのです。

 また、「教育勅語」が大きな力を持ったのは、天皇を中心とした家族国家観(神話的国体観)によって、忠君愛国主義儒教的道徳が、(現人神・天皇)と臣民(国民)の関係の中で語られたこと、また、「教育勅語」が「御真影」とともに、神的なものとして「奉体」・「奉安」のシステムに組み込まれ、逆らうことの出来ない強い強制力を持ったからだと思います。

 それは、例えば、児童文学作家でノンフィクション作家、山中 恒氏の「教育勅語が残してくれたもの」と題した文章の中にみることができます。
けれども教育というよりも、練成と言う名の暴力をともなうマインド・コントロールによる過激な天皇絶対の国体護持思想の注入であったと思う。それが、どれほどものすごかったかは、あれから五十年を過ぎようとしているのに、私自身いまだに教育勅語の全文を暗記しているし、旧漢字歴史的仮名遣いでその全文を書くこともできるということでも証明できるような気がする。
                                                        「続・現代史資料月報」(1995.12

 山中 恒氏と同じようなことを書いている人は少なくありません。
 行事のたびに、ものものしい雰囲気の中で「教育勅語」の奉読を聞く子どもたちは、その意味を理解する以前に、畏敬すべきものとして受け止めさせられ、指示されるままに暗記したのだろうと思います。そして、その教えは、皇国日本のための忠君愛国主義や儒教的道徳であり、外国人を考慮の対象にしてはいなので、軍国少年軍国少女が育っていったのではないかと思います。 
 戦後、現人神・天皇が「人間宣言」(「新日本建設に関する詔書」昭和二十一年一月一日)をして、単なる象徴となったことにより、「教育勅語」に掲げられている徳目が、戦前のような絶対的価値をもつことはありえず、「教育勅語」をどのように見直しても、かつてのような意味や力を持たせることはできないと思います。

 また、著者はその「はじめに」で、ドイツと比較しつつ、戦後の日本を卑下して、下記のように書いています。 
歴史の授業なども、あまりに異様。暗記、暗記のオンパレード。子どもの心が戦(オノノ)く歴史話もなく、日本の先人たちに夢を馳せる提起もない。そこにあるのは、「この国はダメな国で、歴史的に悪いことばかりやってきました。外国へ行って性犯罪を犯した民族です」。子どもたちは、何を心の支えにし、生きる指標を求め、自らを豊かに高からしめる意欲と希望心を、いかなるな要素をもって掘りおこし、培えばいいのだろうか。
 子どもの姿をみれば、「一国の本質」が、よく焙り出される。この国の子どもたちの地獄絵図とは、じつに、この国のほんとうの姿なのだと認識していいのだろう。中国の胡錦涛氏が来日したとき、総理の橋本龍太郎氏も、野党頭首の菅直人氏にしても、いかなるよわみをもつのか私にはわかりかねるが、とにかく阿諛諂侫(アユテンネイ)のみにて、媚びてばかりいる。
 いつの日から、この国は正々堂々と胸を張って生きることを放棄する国になってしまったのか。あのナチスという歴史上最悪の蛮行を行った歴史を持つドイツが、胸を張って生きている。「あれは、ナチスというならず者が、十数年間ドイツを占拠したのであり、ドイツ史の連続性の上にはない!」。ドイツ大使の指導者たちはこう明言する。自国の悪を完全に認めきってしまった国家というものが、ことごとく歴史から抹殺されていく恐怖の教訓を、骨身にしみて知り尽くすドイツが、打っている「勧進帳」にちがいない。
 それにしても、この国の住人たちは、あまりにも歴史を知らなさすぎている。あまりにも歴史に学ぶことがすくなく、歴史の教訓と方程式を軽視しすぎている。歴史からも世界からも学べぬ国家というものが、いかに深刻な病理構造に陥り、腐敗し、弱体化するかということを、歴史は多くの事例と現象をもって示し、この国に「自己改革」を迫りつづけている。
 五十数年前に、たしかにこの国は戦争で負けた。だが、一度だけ戦争に負けただけで、かくも卑屈になり、奴隷のごとくただ近隣諸国に謝罪しつづけ、自虐しつづけているさまは、けっして健全なそれではなく、未来を豊かにするものではない。
 「東京裁判」という、国際法にも反する野蛮な裁判を強行し、アメリカは自国の圧倒的な帝国主義的悪と蛮行を隠蔽し、すべての責めを日本に被せようとした企図を、歴史は淡々と、自然体であぶり出そうとしている。
 しかし帝国主義的悪を究極的に実行したアメリカやソ連を、いくらなじって見ても致仕方ない。その米・ソの暴力的強権に屈したこの国が情けないのだ。ドイツを見よ!
「ドイツはたしかにアメリカに戦争で負けた。しかし、教育や文化で、建国二百年のアメリカになどけっして負けてはいない!」と、戦争直後のドイツの指導者たちは一歩も引かず、アメリカの「教育の押しつけ」を、毅然とはね返した。
 では、わが国の教育は、昔からそんなに腐敗していたのか。私は、断じて「否!」と答えたい。もちろん、戦前の教育が完全無欠のものと言うつもりはない。しかし、明治から苦労して近代国家を築いてきたかつての日本の教育には、今の教育にはないバックボーンがあった。その象徴的な存在が、この本で取り上げようとしている「教育勅語」(正式には「教育に関する勅語」)である。

 日本とともに戦争に負けたドイツが ”胸を張って生きている”というのは、ドイツ国民が第二次世界大戦における戦争責任を認め、謝罪し、反省を共有して、新たな歩みを始めたからできることだと思います。
 でも日本は、かつてアジア太平洋戦争を主導した人やその流れを汲む人たちが、戦争の過ちを受け入れず、正当化しつつ活躍しています。そうした人たちは、戦後も新たな歩みを始めることができなかったのではないかと思います。だから、「教育勅語」によって統制された日本が、未だにすばらしい国であったと思えるのではないでしょうか。”今の日本の教育は、目を覆いたくなるほどの惨状に見舞われている。”という受け止め方をするのも、戦前・戦中の意識を引きずっているからではないかと思います。

 「教育勅語」に関する衆議院の「教育勅語等排除に関する決議」や参議院の「教育勅語等の失効確認に関する決議」を踏まえ、戦争責任を認め自らの過ちを受け入れて、日本国憲法の精神で世界に向き合えば、少しも卑屈になることなく、子どもたちも日本に誇りをもって、活躍することができると思います。そして、過去の日本ではなく、現在の日本に誇りを持てるようにすることこそ、大事なのではないかと思います。
 ”一度だけ戦争に負けただけで、かくも卑屈になり、奴隷のごとくただ近隣諸国に謝罪しつづけ、自虐しつづけているさまは、けっして健全なそれではなく、未来を豊かにするものではない。
 というのは、戦争責任を認めず、きちんと謝罪しない結果の現象であると思います。ドイツのような新たな歩みが始まっていないということです。

 また、著者は、下記のように書いてもいますが、私は、思い込みが強すぎると思います。

「教育勅語」は、明治23年に発布されて以来、きわめて優秀で「徳」をたいせつにする日本人をあまりに多く輩出した。日本をまったく柔弱にしたいアメリカは、戦後、この「教育勅語」を最大敵視した。いかなる手段を使っても「教育勅語を葬れ!」は、アメリカの占領政策の絶対命題だった。
 その「教育勅語」の真の中身も精査せず、百年の時代を経て、時代不適応な部分を取り除いて発想することも放棄し、ただ超自虐的に、「無思想・無理念・無道徳」の根無し草教育をしつづけた戦後文明のツケが、今、洪水となってこの国を襲ってもいる。
 いつまでも「教育勅語」をタブー視しつづけることは、この国をさらに崩壊させることにならないか。とにかく、「教育勅語」をまず、鉄扉の中から取り出さねばなるまい。
 とりあえず、次ページに掲げた「教育勅語」の全文を、虚心坦懐に読んでみてほしい。現代人には馴染みのない文語調と難しい用語、そして何よりも神格化された天皇の存在など、割り引かねばならない歴史的要素はある。それらを捨象し、エッセンスのみを汲み取ってもらえるよう、私なりの現代訳を付けてみた。
 内容については本文の後半で詳しく触れるが、まずこの全文のイメージを頭に入れていただいたう えで、なぜ今、「教育勅語」なのか、一章からの問題提起を読んでいただければ幸いである。
  平成10年5月 端午の節句の日に                     濤川栄太

 どういう根拠をもって、
日本をまったく柔弱にしたいアメリカは、戦後、この「教育勅語」を最大敵視した。いかなる手段を使っても「教育勅語を葬れ!」は、アメリカの占領政策の絶対命題だった
 などと断定するのでしょうか。途中で政策転換があったとはいえ、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の対日政策の課題は、日本の民主化であり、「教育勅語」がそれに反する内容であった
ということは明らかではないかと思います。
 また、戦後の日本の教育は、決して”「無思想・無理念・無道徳の根無し草教育”などではありません。世界に誇ることの出来る日本国憲法に基づいて進められているのです。

 さらに、「教育勅語」に関わる下記のような事実も見逃すことができません。
 「教育勅語」が発布される前、すでに明治天皇の公教育への意向を表した「教学聖旨」(資料1)が発せられていますが、それは、明治政府の欧化政策によって、学問や教育の自由の思想が広まり、科学的認識能力の育成も進んで、自由民権運動結びついていくことに、明治政府が脅威を感じ、開化主義を修正して、仁義忠孝の道徳を明らかにしようとする教育政策の転換を意図したものであったと言われています。
 現に「教学聖旨」には、”維新ノ始首トシテ陋習ヲ破リ、知識ヲ世界ニ広ムルノ卓見ヲ以テ、一時西洋ノ所長ヲ取リ、日新ノ効ヲ奏スト雖トモ、其流弊仁義忠孝ヲ後ニシ、徒ニ洋風是競フニ於テハ、将来ノ恐ルヽ所、終ニ君臣父子ノ大義ヲ知ラサルニ至ランモ測ル可カラス、是我邦教学ノ本意ニ非サル也”というような記述があることからも、そうしたことがわかります。したがって、「教育勅語」は、「教学聖旨」をさらに発展させるかたちで、自由民権運動を押さえ込むために発布されたといっても過言ではないと思います。私は、そうしたことも看過できません。
 だから、「教育勅語」の復活など、ごめんです。
資料1------------------------------------------
聖旨
                   教学大旨

教学ノ要、仁義忠孝ヲ明カニシテ、智識才芸ヲ究メ、以テ人道ヲ尽スハ、我祖訓国典ノ大旨、上下一般ノ教トスル所ナリ、然ルニ輓近専ラ智識才芸ノミヲ尚トヒ、文明開化ノ末ニ馳セ、品行ヲ破リ、風俗ヲ傷フ者少ナカラス、然ル所以ノ者ハ、維新ノ始首トシテ陋習ヲ破リ、知識ヲ世界ニ広ムルノ卓見ヲ以テ、一時西洋ノ所長ヲ取リ、日新ノ効ヲ奏スト雖トモ、其流弊仁義忠孝ヲ後ニシ、徒ニ洋風是競フニ於テハ、将来ノ恐ルヽ所、終ニ君臣父子ノ大義ヲ知ラサルニ至ランモ測ル可カラス、是我邦教学ノ本意ニ非サル也、故ニ自今以往、祖宗ノ訓典ニ基ツキ、専ラ仁義忠孝ヲ明カニシ、道徳ノ学ハ孔子ヲ主トシテ、人々誠実品行ヲ尚トヒ、然ル上各科ノ学ハ、其才器ニ隨テ益々長進シ、道徳才芸、本末全備シテ、大中至正ノ教学天下ニ布満セシメハ、我邦独立ノ精紳ニ於テ、宇内ニ恥ルヿ無カル可シ、

小学条目二件

一 仁義忠孝ノ心ハ人皆之有リ、然トモ其幼少ノ始ニ、其脳髄ニ感覚セシメテ培養スルニ非レハ、他ノ物事已ニ耳ニ入リ、先入主トナル時ハ、後奈何トモ為ス可カラス、故ニ当世小学校ニテ絵図ノ設ケアルニ準シ、古今ノ忠臣義士孝子節婦ノ画像写真ヲ掲ケ、幼年生入校ノ始ニ先ツ此画像ヲ示シ、其行事ノ概略ヲ説諭シ、忠孝ノ大義ヲ第一ニ脳髄ニ感覚セシメンヿヲ要ス、然ル後ニ諸物ノ名状ヲ知ラシムレハ、後来忠孝ノ性ヲ養成シ、博物ノ学ニ於テ本末ヲ誤ルヿ無カルヘシ、

一 去秋各県ノ学校ヲ巡覧シ、親シク生徒ノ芸業ヲ験スルニ、或ハ農商ノ子弟ニシテ其説ク所多クハ高尚ノ空論ノミ、甚キニ至テハ善ク洋語ヲ言フト雖トモ、之ヲ邦語ニ訳スルヿ能ハス、此輩他日業卒リ家ニ帰ルトモ、再タヒ本業ニ就キ難ク、又高尚ノ空論ニテハ、官ト為ルモ無用ナル可シ、加之其博聞ニ誇リ長上ヲ侮リ、県官ノ妨害トナルモノ少ナカラサルヘシ、是皆教学ノ其道ヲ得サルノ弊害ナリ、故ニ農商ニハ農商ノ学科ヲ設ケ、高尚ニ馳セス、実地ニ基ツキ、他日学成ル時ハ、其本業ニ帰リテ、益々其業ヲ盛大ニスルノ教則アランヿヲ欲ス、
                                                                                  1879年(明治12年)内示    https://ja.wikisource.org/wiki/

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「教育勅語」を補強・補完した詔勅・省令・訓令等

2020年11月12日 | 国際・政治

 下記資料1は、戦後の衆議院における「教育勅語等排除に関する決議」で、資料2は、参議院における「教育勅語等の失効確認に関する決議」です。多少その言葉に違いがありますが、いずれも「教育勅語」のみならず、「陸海軍軍人ニ賜ハリタル勅諭」((軍人勅諭)や「戊申詔書」、「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」その他の諸詔勅の排除や失効を決議しています。
 それは、「続・現代史資料 教育 御真影と教育勅語 Ⅰ」(みすず書房)で、佐藤秀教授が述べているように、
理念面における天皇制の公教育支配を保障してきたものは、1890年公布の教育勅語のみでなく、それを「補強」もしくは「補完」する役割を果たした上述の諸詔勅類を含む一つの「体系」であったとみなければならない。
 というとらえ方をしているからだと思います。
 したがって、ここでは、衆参両院の決議とともに、「奉体」のシステムに関わる文部省令や地方の訓令、そして、関連の諸詔勅を抜粋しました。戦前の日本の教育は、こうした現人神・天皇から下りてくる「・・・セヨ」というような勅語や詔勅、また、それらに基づいた省令(儀式規程)や訓令(祝賀式要領)などで、がんじがらめに縛られていたのではないかと思います。だから、当時の日本人は定められた枠の中で考え、行動することしかできなかったのではないでしょうか。それは、言い換えれば、思想の自由や信教の自由、学問の自由その他の精神的な自由権が、ほとんどなかったということだと思います。

(一部漢数字を算用数字に変えたり、空行を挿入したり、段落を変更したりしています。漢字の後のカタカナは私の解釈でつけた読み仮名です。したがって、適切でないものがあるかも知れません。)

1 衆議院「教育勅語等排除に関する決議」
2 参議院「教育勅語等の失効確認に関する決議」
3 小学校祝日大祭日儀式規程(文部省令第4号
4 小学校における新年・紀元節・天長節祝賀式要領〔愛知県〕
5 戊申詔書
6 国民精神作興ニ関スル詔書
7 青少年学徒ニ賜フ勅語 

 資料4以下は「続・現代史資料 教育 御真影と教育勅語 Ⅰ」(みすず書房)から抜粋しました。
資料1--------------------------------------

教育勅語等排除に関する決議
 民主平和國家として世界史的建設途上にあるわが國の現実は、その精神内容において未だ決定的な民主化を確認するを得ないのは遺憾である。これが徹底に最も緊要なことは教育基本法に則り、教育の革新と振興とをはかることにある。しかるに既に過去の文書となつている教育勅語並びに陸海軍軍人に賜りたる勅諭その他の教育に関する諸詔勅が、今日もなお國民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、從來の行政上の措置が不十分であつたがためである。
 思うに、これらの詔勅の根本理念が主権在君並びに神話的國体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ國際信義に対して疑点を残すもととなる。よつて憲法第九十八條の本旨に從い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの詔勅の謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。
 右決議する 
 衆議院会議録 https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=100205254X06719480619
各派共同提案「教育勅語等排除に関する決議案」提出・松本淳造)
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第2回国会
                                  昭和23年6月19日 
                                    参議院本会議 
教育勅語等の失効確認に関する決議
 われらは、さきに日本国憲法の人類普遍の原理に則り、教育基本法を制定して、わが国家及びわが民族を中心とする教育の誤りを徹底的に払拭し、真理と平和とを希求する人間を育成する民主主義的教育理念をおごそかに宣明した。その結果として、教育勅語は、軍人に賜はりたる勅諭、戊申詔書、青少年学徒に賜はりたる勅語その他の諸詔勅とともに、既に廃止せられその効力を失つている。
 しかし教育勅語等が、あるいは従来の如き効力を今日なお保有するかの疑いを懐く者あるをおもんばかり、われらはとくに、それらが既に効力を失つている事実を明確にするとともに、政府をして教育勅語その他の諸詔勅の謄本をもれなく回収せしめる。
 われらはここに、教育の真の権威の確立と国民道徳の振興のために、全国民が一致して教育基本法の明示する新教育理念の普及徹底に努力をいたすべきことを期する。
 右決議する。

 参議院ライブラリー「教育勅語等の失効確認に関する決議」
 https://www.sangiin.go.jp/japanese/san60/s60_shiryou/ketsugi/002-51.html 

資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                小学校祝日大祭日儀式規程
文部省令第四号

 明治二十三年十月勅令第二百十五号小学校令第十五条ニ基キ小学校ニ於ケル祝日大祭日ノ儀式ニ関スル規程ヲ設クルコト左ノ如シ 
                      明治二十四年六月十七日文部大臣 伯爵大木喬任

               小学校祝日大祭日儀式規程

第一条 紀元節、天長節、元始祭、神嘗祭及新嘗祭ノ日ニ於テハ学校長、教員及生徒一同式場ニ参集シテ左ノ儀式ヲ行フヘシ

一 学校長教員及生徒
 天皇陛下及皇后陛下ノ御影ニ対シ奉リ最敬礼ヲ行ヒ且両陛下ノ万歳ヲ奉祝ス
但未タ御影ヲ拝戴セサル学校ニ於テハ本文前段ノ式ヲ省ク

二 学校長若クハ教員、教育ニ関スル勅語ヲ奉読ス

三 学校長若クハ教員、恭シク教育ニ関スル勅語ニ基キ聖意ノ在ル所ヲ誨告シ又ハ歴代天皇ノ盛徳 鴻業ヲ叙シ若クハ祝日大祭日ノ由来ヲ叙スル等其祝日大祭日ニ相応スル演説ヲ為シ忠君愛国ノ志気ヲ涵養センコトヲ務ム

四 学校長、教員及生徒、其祝日大祭日ニ相応スル唱歌ヲ合唱ス

第二条 孝明天皇祭、春季皇霊祭、神武天皇祭及秋季皇霊祭ノ日ニ於テハ学校長、教員及生徒一同式場ニ参集シテ第一条第三款及第四款ノ儀式ヲ行フヘシ

第三条 一月一日ニ於テハ学校長、教員及生徒一同式場ニ参集シテ第一条第一款及第四款ノ儀式ヲ行フヘシ

第四条 第一条ニ掲クル祝日大祭日ニ於テハ便宜ニ従ヒ学校長及教員、生徒ヲ率ヰテ体操場ニ臨ミ若クハ野外ニ出テ遊戯体操ヲ行フ等生徒ノ心情ヲシテ快活ナラシメンコトヲ務ムヘシ

第五条 市町村長其他学事ニ関係アル市町村吏員ハ成ルヘク祝日大祭日ノ儀式ニ列スヘシ

第六条 式場ノ都合ヲ計リ生徒ノ父母親戚及其他市町村住民ヲシテ祝日大祭日ノ儀式ヲ参観スルコトヲ得セシムヘシ

第七条 祝日大祭日ニ於テ生徒ニ茶菓又ハ教育上ニ裨益アル絵画等ヲ与フルハ妨ナシ

第八条 祝日大祭日ノ儀式ニ関スル次第等ハ府県知事之ヲ規定スヘシ

「官報」(2388号) 1891年06月17日(https://ja.wikisource.org/wiki/)

資料4------------------------------------------
     小学校における新年・紀元節・天長節祝賀式要領〔愛知県〕
        明治21年10月31日 愛知県訓令乙第49号

 小学校ニ於テ新年紀元節天長節ノ祝日ニハ左ノ要領ニ依リ祝賀式ヲ挙行セシムヘシ
       祝賀式要領
一 新年ニハ君が代の曲ヲ奏シテ
   聖上皇后両陛下ノ聖寿万歳ヲ奉祝シ次テ新正ヲ賀スヘシ
一 紀元節ニハ紀元節ノ歌ヲ唱へ
   神武天皇ノ我日本帝国万世一系ノ皇基ヲ定メ給ヒシ偉徳ヲ頌
   シ奉リ次ニ君か代ノ曲ヲ奏シ 今上天皇皇后両陛下ノ聖寿万歳ヲ奉祝スヘシ
一 天長節ニハ天長節ノ歌ヲ唱ヘ
   今上天皇中興ノ盛徳ヲ頌シテ聖寿万歳ヲ奉祝シ併セテ皇后陛下ノ聖寿万歳を奉祝スヘシ
一 式場ハ浄潔ニシテ祝賀式ヲ行フヘキ装置アルヲ要ス
一 職員生徒ノ服装ハ厳正ニシテ式場ノ出入進止静粛ナルヘシ 

資料5-----------------------------------------
                  戊申詔書
 戊申詔書〔上下一心忠実勤倹自彊(ジキョウ)タルヘキノ件詔書〕明治41年10月13日『官報』第7592号(明治41年10月14日発行)

〇 詔書
朕惟フニ方今人文日ニ就(ナ)リ月ニ将(スス)ミ東西相倚(ヨ)リ彼此(ヒシ)相済(ナ)シ以テ其ノ福利ヲ共ニス朕ハ爰ニ益々國交ヲ修メ友義ヲ惇(アツク)シ列國ト與(トモ)ニ永ク其ノ慶ニ頼ラムコトヲ期ス顧ミルニ日進ノ大勢ニ伴ヒ文明ノ惠澤ヲ共ニセムトスル固ヨリ内國運ノ發展ニ須(マ)ツ戦後日尚浅ク庶政益々更張(コウチョウ)ヲ要ス宜ク上下心ヲ一ニシ忠實業ニ服シ勤儉産ヲ治メ惟レ信惟レ義醇厚(ジュンコウ)俗ヲ成シ華ヲ去り實ニ就キ荒怠(コウタイ)相誡メ自彊(ジキョウ)息マサルヘシ
抑々(ソモソモ)我力神紳(シンシン)聖ナル祖宗ノ遣訓ト我力光輝アル國史ノ成跡トハ炳(ヘイ)トシテ日星ノ如シ寔(マコト)ニ克ク恪守(カクシュ)シ淬礦(サイコウ)ノ誠ヲ諭サハ國運發展ノ本近ク斯ニ在リ朕ハ方今ノ世局ニ處シ我力忠良ナル臣民ノ協翼ニ倚藉(イシャ)シテ維新ノ皇猷(コウユウ)ヲ恢弘(カイコウ)シ祖宗ノ威徳ヲ對揚(タイヨウ)セムコトヲ庶幾(コウネガ)フ爾臣民其レ克ク朕力旨ヲ體セヨ
      御名御璽
      明治41年10月13日
                            内閣総理大臣 侯爵桂太郎  

資料6ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
              国民精神作興ニ関スル詔書 
       大正12年11月10日『官報』号外(大正12年11月10日発行)

朕惟フニ國家興隆ノ本ハ國民精神ノ剛健ニ在リ之ヲ涵養シ之ヲ振作シテ以テ國本ヲ固クセサルヘカラス是ヲ以テ先帝意ヲ敎育ニ留メサセラレ國體ニ基キ淵源(エンゲン)ニ遡リ皇祖皇宗ノ遺訓ヲ掲ケテ其ノ大綱ヲ昭示(ショウジ)シタマヒ後又臣民ニ詔(ミコトノリ)シテ忠實勤儉ヲ勸(スス)メ信義ノ訓(オシエ)ヲ申(カサ)ネテ荒怠(コウタイ)ノ誡(イマシメ)ヲ垂(タ)レタマヘリ是レ皆道德ヲ尊重シテ國民精神ヲ涵養振作スル所以ノ洪謨(コウボ)ニ非サルナシ爾來趨向(スウコウ)一定シテ效果大ニ著(アラワ)レ以テ國家ノ興隆ヲ致セリ朕卽位以來夙夜(シュクヤ)兢兢(キョウキョウ)トシテ常ニ紹述ヲ思ヒシニ俄(ニワカ)ニ災變(サイヘン)ニ遭ヒテ憂悚(ユウショウ)交々(コモゴモ)至レリ 輓近(バンキン)學術益々開ケ人智日ニ進ム然レトモ浮華放縱(フカホウショウ)ノ習(ナライ)漸ク萠(キザ)シ輕佻詭激(ケイチョウキゲキ)ノ風モ亦生ス今ニ及ヒテ時弊ヲ革メスムハ或ハ前緖ヲ失墜セムコトヲ恐ル況ヤ今次ノ災禍甚夕大ニシテ文化ノ紹復(ショウフク)國カノ振興ハ皆國民ノ精神ニ待ツヲヤ是レ實ニ上下協戮(キョウリク)振作更張ノ時ナリ振作更張ノ道ハ他ナシ先帝ノ聖訓ニ恪遵(カクジュン)シテ其ノ實效ヲ擧クルニ在ルノミ宜ク敎育ノ淵源ヲ崇(タット)ヒテ智德ノ竝進ヲ努メ綱紀ヲ粛正シ風俗ヲ匡勵(キョウレイ)シ浮華放縱ヲ斥ケテ質實剛健ニ趨キ輕佻詭激キョウキョウキゲキ)ヲ矯(タ)メテ醇厚中正ニ歸シ人倫ヲ明ニシテ親和ヲ致シ公德ヲ守リテ秩序ヲ保チ責任ヲ重シ節制ヲ尚ヒ忠孝義勇ノ美ヲ揚ケ博愛共存ノ誼(ギ)ヲ篤(アツ)クシ入リテハ恭儉勤敏(キョウケンキンビン)業ニ服シ產ヲ治メ出テテハ一已(イッコ)ノ利害ニ偏セスシテカヲ公益世務ニ竭(ツク)シ以テ國家ノ興隆ト民族ノ安榮社會ノ福祉トヲ圖ルヘシ朕ハ臣民ノ協翼ニ賴リテ彌々(イヨイヨ)國本ヲ固クシ以テ大業ヲ恢弘セムコトヲ冀(コヒネガ)フ爾臣民其レ之ヲ勉メヨ

資料7ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                青少年学徒ニ賜ハリタル勅語
        昭和14年5月22日『官報』号外(昭和14年5月22日発行)

國本ニ培ヒ國力ヲ養ヒ以テ國家隆昌ノ氣運ヲ永世ニ維持セムトスル任タル極メテ重ク道タル甚ダ遠シ而シテ其ノ任實ニ繋(カカ)リテ汝等靑少年學徒ノ雙肩ニ在リ汝等其レ氣節ヲ尚(タット)ビ廉恥(レンチ)ヲ重ンジ古今ノ史實ニ稽(カンガ)ヘ中外ノ事勢ニ鑒ミ其ノ思索ヲ精ニシ其ノ識見ヲ長ジ執ル所中ヲ失ハズ嚮(ムカ)フ所正ヲ謬ラズ各其ノ本分ヲ恪守シ文ヲ修メ武ヲ練リ質實剛健ノ氣風ヲ振勵(シンレイ)シ以テ負荷ノ大任ヲ全クセムコトヲ期セヨ

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

教育勅語と「奉体」「奉安」のシステム

2020年11月09日 | 国際・政治

 明治維新以後、日本は法律や政治制度,文化や生活様式の各領域で,西欧化が進み、「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」などと表現される状況があったことはよく知られています。それは、富国強兵や殖産功業を推進しようとする明治政府の政策の結果といってもよいのではないかと思います。
 しかしながら、そうした欧化政策によって広がった西欧の考え方には、明治維新の王政復古の思想とは、相容れないものがありました。だから王政復古によって権力を奪取した薩長を中心とする人たちの明治政府が、自由民権運動などの欧化政策によって広がった思想を抑えようと伝統主義的・儒教主義的な徳育強化に動いたことは、当然の流れであり、それが「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)をもたらしたのだと思います。

 現在は、日本国憲法第26条に「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」という規定があるように、教育を受ける権利は、国民が国に対して要求できる「基本的人権」の一つですが、「教育勅語」は、王政復古の「神話的国体観」に基づいており、教育の根本は皇祖皇宗の遺訓であるということなので、教育は”国民の権利”になっていないのだと思います。
 「教育勅語」には

我カ皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト宏遠󠄁ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
 とあることでも、それがわかります。

 日本国憲法の第11条には”国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる”とあり、教育を受ける権利もその一つだと思いますが、天皇主権を定めた大日本帝国憲法における”国民の権利”は、”臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ”とか、”日本臣民ハ法律ノ範圍內ニ於テ”という制限が設けられているばかりでなく、現在のような”国民の権利”や”人権”に対する考え方とは根本的に異なる考え方に基づくものであったと思います。
 だから、皇国日本における国民道徳の基本と教育の根本理念を明示するものとして発布された「教育勅語」は、西欧の思想を学んだ人たちや教育の本質を追究した人たちの主張を斥けつつ、日本の敗戦の日まで国民を縛り続けたのだと思います。

 「教育勅語」(朝日選書154)の著者、山住正巳教授によれば、無教会主義で知られるキリスト教の思想家、内村鑑三は、その著書「聖書之研究」(1903年)に「…ここにおいてか日本にはフレーベル、ヘルバルトの教育はもちろん、教育という教育は一つもない事が証明されました。明治政府の施した教育はみなことごとく虚偽の教育であります。これは西洋人が熟禱熱思の結果として得たところの教育を盗み来って、これに勝手の添削を加えて施した偽りの教育であります」と書いて、教育勅語に基づく教育を痛烈に批判したといいます。
 また、いくつかの新聞社を渡り歩いたジャーナリスト桐生悠々は、「他山の石」(1935年)に「国際的に朋友相信ぜず、恭倹己れを持せずして、常に彼を疑い彼を卑しみ、彼を圧迫して顧ないが如きは、決して『世々厥の美を済せる』皇道ではない。重ねていう、『之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らざると言と行とが、真の我皇道でなくてはならない」と教育勅語と当時の対外政策の不一致を批判したといいます。
 そして、”学校教育も、すべて政府の意のままに進行したのではない。国定教科書に拘束されていた小学校でも、これに対する批判的な研究と実践があり、これを抜いては、戦前の教育の事実と問題点もまた明らかにならない。この批判的な言動は、教育と深い関係のある政治や文化のあり方を問い、また子どもの実態に着目するところからおってきた。…”と、例をあげ述べています。
 しかしながら、時の政府は、”我ガ国ノ教学ハ、教育ニ関スル勅語ヲ奉体シ、国体観念、日本精神ヲ体現スルヲ以テ、其ノ本旨トス、然ルニ久シキニ亘リテ輸入セラレタル外来思想ノ浸潤スル所、此ノ本旨ノ徹底ニ於テ未ダ十分ナラザルモノアリ”というようなとらえ方で、そうした動きに政治的圧力を加え、法学や教育学などの社会科学および歴史学や人類学などの人文科学の進歩を阻害し続けたのだと思います。

 だから、「教育勅語」が、今なお、”それは決して半世紀前の過去の遺物になりきっていないといってよい”といわれる状況を踏まえれば、その内容と同時に、当時の「奉体」や「奉安」のシステムなどを通した、日常的な天皇制支配教育の実態を知ることは、大事なことだと思います。 

 下記は、「続・現代史資料 教育 御真影と教育勅語 Ⅰ」(みすず書房)の 『一 「御真影」と「教育勅語」』から、「(二)「教育勅語」について」の部分を抜粋しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
解説 佐藤秀夫                             
                一 「御真影」と「教育勅語」
 
                 (二)「教育勅語」について

                   「教育勅語」とは 
 現在に置いて「教育勅語」は、「御真影」と同様に、多くの人々にとっては、実感の伴わない歴史事象の一つとなっているといってよいだろう。
 ところが、元首相田中角栄からソニー元会長盛田昭夫に至るまで、戦後政財界をリードしてきた実力者たちが、戦後教育への批判を展開する際しばしば、その「不在」こそが批判さるべき教育の現状況を生じさせたのだという嘆息とともに、日本の「古き良き」教育理念として提示するのが、実はこの「教育勅語」なのである。「教育勅語」は保守的支配層の教育への意識の内に澱のようにたまっているのである。少なくともつい最近までは確かに沈澱していたとみてよいだろう。それは決して半世紀前の過去の遺物になりきっていないといってよい。
 天皇制公教育を形成し維持していく上での「至高」の枠組として機能し、したがって学校教育における天皇制支配の最も顕著な表象物であった「御真影」と「教育勅語」とは、「肖像写真」と「文書」という形質上の差異をこえて、その取り扱い方にはかなり重要な差異が存在していたとみるべきであろう。国家元首でありかつ国家神道での「現人神」とされた天皇の肖像写真は、すでに述べたようにまさに「御真影」として礼拝対象とされていたから、それと学校との関係においては、「受動」や「強制」ではなく、「能動」と「自発」とが第一義的に求められた。速やかな普及よりも、自発的な「奉戴」の完全さが、基本的に求められていたのである。
 それに対して「教育勅語」の方は、日本教育の基本理念を体系的に表出した「ことば」であるので、公布と同時に尋常小学校を含む全ての学校に対して一律にその謄本が交付された。その後も新設された学校には、その設立主体の如何を問わずに、文部省から府県当局を通じて、または直接に、この教育勅語謄本が交付された。そこには「強制」と「普及・浸透」の即刻の実現方が求められていた。

               「教育勅語」をどうとらえるか
 従来日本近現代教育史において教育勅語は、大日本帝国憲法が日本国憲法にとってかえられるまで「不磨の大典」とみなされていたのと同様に、教育基本法の公布をみるまで、日本公教育の「真髄」を示す教典として「君臨」し続けたとみなされている。だが、ことばの正確な意味において、果たしてそう規定してさしつかえないものなのか、私は、そこにある種の限定づけが必要なのではないかと考えている。
 ・・・
 上述のように、日本近現代の急激な社会変動に対応した公教育の基本方針を時々の天皇からの詔勅により提示するという方式は、憲法上のいわゆる立法事項に関わるものを除いて、教育法規を勅令・省令等の命令によって制定してきた「教育法規の命令主義」慣行と相まって、敗戦前日本の教育行政管理の他に比類ない国家による中央集権性を根源において支えることになった。同時にこの方式の「定着」により、教育勅語そのものの時代的限界性の露呈と基本原理的虚構の崩壊とが回避されたばかりか、逆に「初発性」の故をもって、その「絶対制」が一層強調される結果をもたらさえしたのである。「綱領」から「聖典」への昇華がみられた。
 こうしてみると、理念面における天皇制の公教育支配を保障してきたものは、1890年公布の教育勅語のみでなく、それを「補強」もしくは「補完」する役割を果たした上述の諸詔勅類を含む一つの「体系」であったとみなければならない。天皇制の教育理念支配の否定を宣言した1948年六月の衆参両院の決議が、教育勅語とともに軍人勅諭・戊申詔書・「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」など「その他の教育に関する諸詔勅」を一括して排除もしくは失効確認したことは、この意味からいってまことに当然な措置であった。近現代天皇制と教育との関係史の考察に当たっては、今後は狭義の教育勅語だけを視野に収めるのではなく、広義の教育勅語といってよい「教育に関する諸詔勅類」を含んだ「体系」を対象としてとらえる必要があるのではないだろうか。
 ・・・

           (三) 「奉体」のシステムと実態とについて

                祝祭日学校儀式をめぐって
すでに(一)において関説したように、「御真影」と教育勅語と学校との関係史における最大の特徴は、その取扱い方 ── 当時の表現では「奉体」──にあったといってよい。肖像写真である「御真影」はもとよりだったが、文書である教育勅語を初めとする詔勅類にあっては、修身科教科書における教材の構成に影響を及ぼす一方、その「奉読」(全学校)や暗唱暗写(主として中等学校)が求められはしたものの、学校教育に与えた影響としては、それらの文章の多義的な意味内容よりも、それらの「存在」そのものが最も深刻で且つ核心的に作動したとみるべきだろう。
 その「存在」が子どもたちにとって最も大きくのしかかってくる機会は、何といっても国家祝祭日の学校儀式であった。「御真影」の「下賜」を契機として国家祝日(とくに紀元節と天長節)における拝礼儀式が導入され、教育勅語の下付を機に国家祝祭日における学校儀式が定例化された。それまで単なる休日であった国家祝祭日は、教員・児童生徒の参加が強制される学校儀式日(式日)に転換されたのである。「御真影」への拝礼、教育勅語の「奉読」、校長訓話、及び祝祭日唱歌斉唱を主な内容する学校儀式の形態は、1891年六月の文部省令「小学校祝日大祭日儀式規定」により最初の定型が与えられた。三大節(紀元節・天長節・一月一日)七祭日(元始祭・神嘗祭(カンナメサイ)・新嘗祭(ニイナメサイ)・孝明天皇祭・春季皇霊祭・神武天皇祭・秋季皇霊祭 ── もう一つの「新年宴会」には学校儀式は施行しない)全てに挙行された当初の儀式は、あまりにも「頻繁ニ渉リ疎慢ノ嫌アラシムル」結果かえって「厭倦(エンケン)ノ機」を子どもに与える虞れがあるとして、93年五月原則として三大節のみ施行と修正され、この原則は1900年八月「小学校令施行規則」に採用され定着した。慣行化された儀式施行上の細部は、41年四月文部省制定の「礼法要項」によりあらためて定式化され、宮城遙拝や国旗掲揚などとともに「国民礼法」の重要な一部として、小学校のみならず、全ての学校に適用されることになった。
 ・・・
         
              「奉安」のシステム
 「御真影」と教育勅語とが学校に持ち込まれることによって、それらを安全に保管しておくことが学校管理者および教職員にとっての最重要事項として登場することになった。
 教育勅語謄本の下付がほぼ行きわたった91年四月、文部省は第二次小学校令施行上の規則の一つとして定めた最初の「小学校設備準則」において「校舎ニハ 天皇陛下及 皇后陛下ノ 御真並教育ニ関スル 勅語ノ謄本ヲ奉置すへき場所ヲ一定シ置クヲ要ス」と定めた(資料三の六)。これが「奉置」規定の最初であったが、同年十一月に「設備準則」を改正した際に、同準則から「奉置」規定を除いて、独立の文部省訓令第四号により「管内学校ヘ下賜セラレタル天皇陛下 皇后陛下ノ 御影並教育ニ関シ下シタマヒタル 勅語ノ謄本ハ校内一定ノ場所ヲ撰ヒ最モ尊重ニ奉置セシムヘシ」と規定し直した(資料三の一七)。同訓令の「説明」によれば、「御真影」教育勅語の「奉置方」については設備準則に「規定スヘキ性質ノモノニアラス」とあり、これは、それらを小学校設備の一種であるかのように取り扱ったことを自己批判」し、「最も尊重ニ」奉置するようあらためて指示したことを意味している。
 天皇制教育の浸透にともない「奉置」は次第に徹底していく。学校では一般に、男性教職員による宿直、女性教職員を含む日直の服務体制を採用して、不時の「災難」に備えることとした。しかしその際に問題になったのは、上記91年文部省訓令第四号にいう「校内一定ノ場所」という制限であった。早くも93年兵庫県から、教職員数が少なく宿直が困難であったり(当時は単級学校、つまり一学級一教員の学校が全国小学校編制の最多数を占めていた)、山里で学校が人家から離れているなどの場合には町村役場など保管体制がしっかり取られ得る施設に「奉遷」してもよいかとの問い合わせがあり、これに対し文部省はやむを得ない場合、学校以外での「奉蔵」を認めた(資料三の三八)。1907年一月仙台しないの宮城県立第一中学校火災の際、宿直中の書記が二階に「奉置」してある「御真影」を運び出そうとして殉職した事件を契機に、仙台市では文部省の認可を得て市内全学校の「御真影」を市役所構内に設置した「堅牢ナル奉安所」に一括保管することとした。
 当初上記訓令中の「校内」が多く「校舎内」と解されていて、しかも小学校は木造校舎が圧倒的であり(鉄筋コンクリート造の小学校は1913年に神戸と横浜に各一校建設されたのが最初である)、児童数の増加に応じて二階建て校舎が増えてきた場合、階上を児童が往来している一階に「御真影」等を「奉置」することがはばかられたので、多くは二階建て校舎の二階に「奉置室」が設けられた。このために学校火災の際、「奉遷」が困難で、教職員の犠牲を生ずる可能性が高かった。1921年一月の長野県南条尋常高等小学校長中島仲重殉職事件はその悲惨な一例だったが、この殉職をめぐる論議においては、危険な「御真影」の「宮内省への奉還」論さえ提唱さてれたほどである。(資料四の(八)四─九)。
 文部省をはじめ府県行政当局は、宿直体制の徹底化(例えば資料三の八九)、管理責任の明確化(例えば資料三の九一)、教職員の奉体実践意識の育成強化(例えば資料三の八八、九〇)などの措置をとったが、他方学校側では「校内」を「校地内」と解釈して、木造校舎から一定の距離を置いた場所に漆喰造、石造など防火性を備えた独立の収蔵施設を設ける方法を取るようになった。鉄筋コンクリート工法が普及しはじめた1920年代後半以降はさらに多くの学校に設けられるようになり、30年代には文部省大臣官房建築課で神社形式の神明造で、防火への配慮のみならず換気装置をも付した模範設計を示すようになる(東京工業大学学校施設研究センター所蔵「菅野誠文庫文書」、宮城県庁文書)。「御真影」教育勅語謄本の「奉置」については、多くの府県で定期的に視学による視察が施行され、その際には湿気による損傷の有無も重要な点検課題とされていたからである。単なる「奉置」ではなく、完全に安全な保管を最重視するという意味での「奉安」という用語が一般化するようになり、それらを考慮した独立の施設は「奉安庫」または「奉安殿」(神明造など神社形式の場合)と呼ばれるようになった。校舎全体が鉄筋コンクリート造となった大都市の学校では、校長室の壁面に特別製の鉄製「奉安庫」を設備することもあった。
 ・・・
 こうして校地内に設置された「奉安殿」に対して、子どもたちは登下校の際に最敬礼することが求められるようになった。これは、折しも頻繁に登場するようになった「宮城遙拝」と符節を合わせて、従来「ハレ」の行事の際に限られていた天皇拝礼の、学校における日常化を意味していた。
 アジア太平洋戦争の末期、日本内地への空爆が必至になると、「奉安殿」の防備と「御真影」等の緊急避難は、学校防護団の重要任務の第一に位置づけられた。大都市をはじめ戦火の予想される地域からの人員疎開が開始されるのと同時に、「御真影」教育勅語謄本の疎開も実施された。都市近郊の安全な地域に臨時の「奉安所」が設立され、関係学校の教職員が交替で保全監視に当たったのである。 敗戦により、軍国主義教育の否定と国家神道の学校からの排除等の連合国軍指令に基づき、学校の軍事教練用武器、戦勝記念戦利品、忠霊碑などとともに「奉安殿」の撤去が占領軍地方軍政当局から指示された。当初文部省は神明造など神社形式の「奉安殿」のみの撤去に応じただけだったが、軍政当局は全ての撤去を強く求めた。四十五年末から四十六年にかけての「御真影」回収と並行して、ほぼ全ての学校での「奉安庫」「奉安殿」の解体・撤去が開始されるが、地域によっては四十八・九年頃までずれ込む場合があった。日本政府が固執していた教育勅語について、四十八年六月国会決議によりその学校からの排除・失効が確認されるや、直ちに謄本の回収・「奉焼」が実施されたので、「奉安庫」「奉安殿」の存在理由は完全に消滅していた。にもかかわらずその撤去の遅延した場合があったのは、設立後数年を経たばかりで破壊するのに忍びない「心情」や、設立費の完済を終えていない時点での解体に対する「ためらい」なども作用していたと考えられる。学校からの撤去の際に、解体ではなく「廃物利用」として、戦災で焼失したり老朽化してしまった神社や稲荷社の神殿に移設・転用された例もみられた。
 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「御真影」焼却映像と表現の自由

2020年11月03日 | 国際・政治

 昨年、あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」が展示中止となり、様々な議論がありました。
 世界85ヶ国の近現代美術館に関わる560人以上の専門家によって組織された、CIMAM(国際美術館会議)も懸念を表明し、展示中止の一因に芸術祭実行委員会で会長代行を務める河村たかし名古屋市長政治的要望があったことをあげたといいます。
 現実に、あいちトリエンナーレ実行委員会会長代理を務める河村たかし名古屋市長は、『平和の少女像』だけではなく皇室関連の展示についても問題視し、実行委員長の大村知事に対して『表現の不自由展』の中止を含めた適切な対応を求める抗議文を発したといいます。また、文化庁も補助金約7800万円の全額不交付を決定するに至りました。

 企画展の関係者は、最近公共の文化施設で「タブー」とされがちなテーマの作品が、どうしして「排除」されたり、展示不許可になったのかという理由をからめて、作品を展示する意図であったと語っています。現状に批判的ではあっても、日本人を侮蔑する意図はないということだと思います。
 私は、あいちトリエンナーレ2019の企画展を中止に追い込んだ人たちに、問答無用の姿勢を感じました。だから、そうした姿勢が、抗議を超えた脅迫等の犯罪行為を生んだのではないかと思います。
 歴史の事実を踏まえ、「表現の不自由展・その後」の展示をしっかり受け止める姿勢がないと、日本は国際社会の信頼を得ることが、ますます難しくなるのではないかと思います。

 敗戦後、日本人戦争被害者のみならず、日本が進出した中国やアジア諸国の被害者、さらには、日本の戦争で犠牲になった欧米諸国の軍人やその関係者および捕虜として苦難を強いられた人々も、大日本帝国憲法で「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と定められ、日本軍の最高責任者であり続けた昭和天皇を東京裁判で裁くべきだと主張したといいます。当然だろうと思います。でも、アメリカの対日政策によって天皇が免責され、いつの間にか日本では、昭和天皇の戦争責任を追及することはタブー視されようになりました。そして、戦前・戦中、天皇がどういう存在であったのかということは、ほとんど考慮されることがなくなってしまったように思います。

 そうしたことを踏まえ、今回は「続・現代史資料 教育 御真影と教育勅語 Ⅰ」(みすず書房)から「御真影」に関する文章の一部を抜粋しました。
 戦前の学校は、「御真影」の「下賜」願い出が求められ、「御真影」の「奉護」を直接の目的として、学校に日直および宿直の制度が導入された事実、「奉安殿」の設置が義務づけられて「御真影」拝礼の学校儀式が行われるようになった事実、さらに天皇自身ではなく「御真影」の「奉護」のために、命を投げ出さざるを得なかった教師がいた事実なども忘れられてはならないことだと思います。
 同書には、

  兵庫県養父郡小佐尋常高等小学校訓導
昭和二年ニ月一日                         井村   毅
                              明治三十九年三月二十八日生   
  学校火災ニ際シ御真影ヲ奉持セシママ火中ニ殉職ス

  大阪府豊能郡熊野田尋常小学校長
昭和九年九月二十一日                       稲久保 正夫
                              明治二十七年十二月一日生
  颱風襲来ニ際シ危険ヲ冒シテ御真影ヲ奉遷シ児童ヲ避難セシムルニ奮闘中講堂倒壊、数名ノ児童ヲ抱キタルママ殉職ス
  
 
 というような事実が、いくつか掲載されています。
 したがって、そういう事実をふり返れば、昭和天皇の「御真影」焼却映像が、日本人を侮蔑するものだというとらえ方は、歴史を無視した一方的なものだと思います。昭和天皇に対する思いは、様々なのです。それを無理矢理、”日本人を侮蔑する”と一つにして、表現の自由を圧殺してはならないと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
解説 佐藤秀夫                             
               一 「御真影」と「教育勅語」
     

                (一)「御真影」について

                   「御真影」とは
 ・・・
 「御真影」とは、明治天皇以後の天皇及び皇后以下皇族の公式肖像写真に対する尊称的な通称である。天皇はじめ皇族の個々の独立写真のほか、ヨーロッパの王族の例に模して、天皇と皇后のセット写真もあった(ただし戦前では各「独立写真」の併置に過ぎなかったのだが)。学校に「下賜」された「御真影」には、このセットのものが多くを占めていた。
 ・・・
 ところで、「御真影」は、公式名称ではない。宮内庁(省)は戦前・戦後を通じて、公式には「御写真」(おしゃしん)と呼称している。明治初年からの「御真影」の「下賜」記録文書綴は、「御写真録」の名称をもって、現在宮内庁書稜部に保存されている。それらの例によって、「御写真」が宮内庁(省)の用いる公式名称であると確認される。しかし、本書にみるように、文部省の法規では1900年頃まで「聖影」「御影(ギョエイ・ミカゲ)」などが用いられ、比較的のちになって「御真影」が一般化されるようになるのだが、そうなってのち戦前を通じて教育界では「御写真」という公式名称はほとんど使われずに、「御真影」が専ら用いられた。つまり、「御真影」とは、教育界をはじめ社会的に慣用された天皇・皇后の公式肖像写真であるということになる。
 ところで、通称に過ぎない「御真影」という表現が、あたかも正式名称であるかのように、教育界をはじめ広く「世間」で慣用されるに至ったのには、近現代天皇制のすぐれて特殊な性格が色濃く影を落としていると考えられる。「聖影」「御影」などと同じく「御真影」とは、元来仏教界において、仏舎利・仏像と並ぶ仏陀の画像または宗派・本山などの開祖・始祖等の公的肖像画を意味しており、それらは、宗派全体若しくは本山にとって「本尊」風の偶像として拝礼対象とされ、きわめて大切に護持されている。しばしばそれは、特定の日限に一定の資格ある信者に対してのみ限定的に「御開帳」が許されるような「秘宝」でもあった。天皇の公式肖像写真が、国家祝祭日学校儀式において拝礼対象として「偶像化」されるのに照応して右のような仏教での伝統的な慣用例に準拠して「御影」「御真影」などと通称されるようになったのではないかと推測される。そうだとすれば、「御真影」という通称は、まさに「体」を表した「名」ということになり、またそのような通称を生じさせた近現代天皇制の独特な性格を表示しているといえる。近現代天皇の肖像は、それが模倣したヨーロッパ近代王政下の君主たちの肖像と異なって、通貨や切手への印刷は禁じられていたし、新聞・雑誌・図書などへの印刷・掲示も厳重に制限されていた。国定教科書の挿し絵に天皇の容姿や肖像が歴然と掲載されることすら、ほとんど稀であった。まさに民衆に対しては「御真影」に他ならなかったのである。
 ・・・
             学校と「御真影」との出会い
 この「御真影」は、幕藩権力にかわる天皇制権力による統治体制成立の表象として、1870年代以後、府県庁など地方官庁、及び師団本部・軍艦など軍施設を皮切りに、政府関係諸機関に交付されていった。これは、新政府が天皇を頂点にいただく政府であることの証左を示すとともに、その新統治体制の発足を下僚及び国民に視覚を通して確認させる、「文明」的手段であったと考えられる。また外国からの使臣に対しヨーロッパ王制国家の例に倣って頒賜(ハンシ・ワカチタマウ)されることもあった。学校への下付の最初は、1874(明治七)年六月、ようやく専門教育機関としての体裁を整えつつあった東京開成学校に対してであったが、それは、上述の政府諸機関への交付と同質な意味をもつ措置であって、特定の「教育」目的を帯びての学校交付ではなかったとみるべきであろう。
 すでに70年代地方官に交付された「御真影」が、日時を限り府県庁楼上に掲げられ、地方民の拝礼を受ける事例が見られたが、立憲制樹立直前の80年代後半、「君臣接近」実現の手段として、従前とは異なった「教育」目的を帯びた、「御真影」の学校への導入が実施されるようになった。天皇の「地方行幸」が一段落をみた時期に、今度は学校を通じてその存在を若い世代に周知させようと企図されたのである。
 琉球処分により新領土に編入されてほどない沖縄県の、しかも「普通教育の本山」とされた師範学校に対して、1886(明治19)年九月天皇・皇后の「御真影」が「下賜」された。これを最初にして、「御真影」は、全国の同府県立師範学校・尋常中学校に対して文部省の仲介により宮内省から同府県を経由して、翌年末までにひとしなみに「下賜」されるに至った。官立学校への下付はすでに終わっていたから、同府県立校をさきがけとして今回は公立学校へも「御真影」が「下賜」されるようになったのである。これは、国の機関以外の公立機関への「御真影」一律「下賜」の、ほとんど最初の事例として特徴的であった(当時の府県庁は国の機関であった)。その立案者及び推進者は、内閣制度発足に伴い、初代文部大臣に任用された森有礼である。
 文相森は、大日本帝国憲法発布が日程に上り始めた1888(明治21)年一・二月ごろ、今後国家祝日(紀元節と天長節)には、学校に教員・生徒たちが集合し、祝日唱歌の斉唱および校長訓話などからなる学校祝賀儀式を施行し、「忠君愛国の志気」を生徒たちの内面に育成させるよう示唆した。そのための条件設定として、文部省は同年二月に「紀元節歌」(高崎正風作詞・伊沢修二作曲)、十月に「天長節歌」(黒川真頼作詞・奥好義作曲)の楽譜を「学校唱歌用」に府県へ送付する一方(ただし一府県当り十五部程度の少数部数に過ぎなかった)、府県立学校関係者に対し天皇・皇后の「御真影」の「下賜」方を願い出るように求めた。森は、幕藩的忠誠関係意識や封建共同体的帰属意識に替わる近代的集団意識の育成を通じて子どもたちへの国家帰属意識形成ををめざして、かねてより学校のもつ集団性訓練機能に着目していたが(尋常小学校を除く中等レベルの学校の男子生徒に兵式訓練を導入し、とりわけ普通教育のあり方を左右するものとして重視した師範学校には軍隊風の生活管理や寄宿舎生活を組織させた)、ナショナリズムまたはパトリオティズムの直接的な育成には、とくに唱歌を伴う儀式が効果をもつものと判断していた。
 ・・・
 また、本来は「アンシャンレジームから解放された」「市民」の自発性に立脚しているが故に強固とされる、欧米ナショナリズムやパトリオティズムへの「類似」を求める見地から、儀式施行の前掲条件となる「御真影」の交付に当たって、学校関係者からの自発的な願い出に対する天皇制の「特別」な「思し召し」に基づく「下賜」という手続きを必須とした。この手続きは、後述する教育勅語謄本の強制的交付とは対照的に、以後学校への「御真影」下付が廃止される日まで一貫して維持されることになるのであった。
 
              学校への「御真影」の普及

 「差別の体系」に他ならない君主制に依拠するものであるからには当然に、「御真影」の交付は、学校制度体系上での「高き」から「卑き」へ、国家機構上での「近き」から「遠き」へと位階的に推移していく。「御真影」が「下賜」され得る学校の範囲は、近代教育制度の展開過程に応じて次第に拡散されていく結果になるのだが、その実現は決して一挙にではなく序列的な「漸進」の過程をとった。
 ・・・
 とはいうものの、市町村立小学校の圧倒的多数を占める尋常科・簡易科等への「下賜」は、容易に進まなかった。教育勅語(当時は「徳育ニ関スル勅諭」案)起案が極秘裏に進行中だった1890(明治23)年八月当時、文部省は宮内省に対し「自今高等小学校ノミニ限ラス市町村立各小学校幼稚園等ニ至ルマテ御真影拝戴願出候向ヘハ下賜セラレ職員商都ヲシテ崇拝セシメ忠君愛国ノ志気ヲ涵養セシメ候様致度」と照会したが、同年十月宮内省は次のように回答した。

”即今公立各小学校一般ヘ下賜之儀ハ難相整候ヘ共御来意之趣教育上必要之儀ニ付特別ヲ以テ市町村立尋常小学校幼稚園ニ限リ其校園等ノ費用ヲ以テ近傍ノ学校ヘ下賜セラレタル御真影ヲ複写シ奉掲候儀ハ被差許候条此段及回答候也(「宮内庁書陵部所蔵」)”

 すなわち、すべての公立小学校・幼稚園への正規の「御真影」の「下賜」は「難相整候」としたが、「御真影拝戴」方自体は「教育上必要之儀」なので、近くの学校に「下賜」された「御真影」を各校園の経費負担により複写して、式日等に「奉掲」することは「差許」としたのである。 
 ・・・

            「御真影」「下賜」のシステム

 先述のように、官立学校や天皇との「特別ノ由緒」ある場合を除いて「御真影」の学校「下賜」には、「基礎鞏固」「設備整頓」「成績優良」な学校からの、自主的で「熱意」あふれる願い出を必須の前提とし、その「熱意」に対し当該校の「優等」さを「御嘉納」遊ばされた天皇の「優渥ナル思召」を以て、同校とくに「下賜」されるという仕組みが、ほぼ例外なく採用されていた。強制性の外貌をとらないという点において、「御真影」は、後述の教育勅語とははっきりと異なっていた。「御真影」には、「下賜」のみがあって、「下付」はそもそもありえなかったのである。
 「成績優良」校への「表旌(ヒョウセイ)」および「恩賞」であるからには、その「表旌」は一律平等であっては効果に乏しいばかりでなく逆効果を生じかねない。申請資格に「一視同仁」の平等化を招来したといっても、「下賜」自体には「表旌」と「恩賞」という限定的な「慈恵」性が不可欠とされた。かくして、1930年代以降には各種学校や夜間中学校・小学校併設青年学校などを除く、他のほとんど全ての学校に「御真影」が行き亘って、いずれの学校もひとしなみに「成績優良」の「表旌」を蒙るという、「おめでたい」境地を享受することになった。
 でもこの自発的願い出を必須としたことは、学校側に深刻な対応を迫る場合があった。「下賜」申請の資格を認められながら申請しないこと、それは天皇からの「表旌」や「恩賞」の機会を自ら「放棄」することを意味し、その「放棄」は「拒否」を含意するものと教育行政当局から判断される危険を伴いかねなくなったからである。
 「御真影」「下賜」が官公立校に限定されている間は、右の問題は顕在化しなかったのだが、私立学校一般に「下賜」対象が拡大されるに伴って、偶像崇拝を教義上否定するキリスト教学校、とりわけ国家主義的教育体制のもとでとかく胡散臭く見られがちな外国ミッション系統のキリスト教主義学校にとって、「御真影」への対応如何は、当該学校の存亡に関わる重大事と意識されざるをえなくなった。

 学校への「御真影」下付は、学校の設備や運営・管理体制に少なくない影響を与えた。
 第一は、その安全な保管、当時のことばでいえば「奉安」のための施設の設備である。その概略については後述することとしたいが、「校内ノ一定ノ場所ヲ撰ヒ最モ尊重ニ奉置セシムヘシ」とされた「奉安」体制の主眼点は、コピー(謄本)にすぎない教育勅語謄本もさることながら、天皇・皇后の「分身」とみなされていた「御真影」(しかも「複写」ではない正規の「御真影」)におかれていたとみるべきであろう。本書四の(八)に掲げた資料が語るように、「奉護」の犠牲となった教職員の多くは、どちらかといえば教育勅語謄本よりも、「御真影」を念頭に置いて行動していたと考えられるのである。
 
 第二は第一と関連するが、「御真影」の「奉護」を直接の目的として学校に日直および宿直の制度が導入されたことである。「御真影」を不時の災厄から安全に守るために、昼間は女性を含む教職員、夜間は男性教職員が、それぞれ交替して学校に当番することが求められた。教職員の宿日直制については、「御御真影」が学校から姿を消した第二次大戦後もしばらくの間は、校舎や記録の警備、不時の連絡、時間外文書の授受などの理由を付して慣習的に施行されていたのだが、その創設の第一次的な理由は、「御真影」および教育勅語謄本の「奉護」にあったのである。それらが消えたのち、教職員組合の教職員勤務条件改善の要求に沿って、1960年代以降教職員による宿日直制は全国的に廃止の方向をたどった。
 以上の普遍的で直接的な影響と並んで、公立の初等教育学校における「御真影」の存在が果たした「陰」の役割も無視できない。…何らかの紛争が発生しかけたとき、「畏れ多くも御真影を奉安する学校に対して、云々」の発言がことを収めてしまう場合があり、その点をさして戦前のしたたかな学校運営当事者の中には、「御真影」や勅語謄本をして(畏れ多くも!)「濡れ雑巾」(燃え上がらないうちに危険な火の手を消してしまう、「初期消火」に役立つ)と隠語するものさえいたといわれる。 一方、それが、そのような「したたかさ」を身につけていない「真面目な」教育者たちをして「天皇制教育」に挺身させる結果を生みだしたことも無視できないだろう。貧しい物的条件のもとで教育の実践に努力する教員たちに、「御真影」「下賜」のもつ「表旌」が「心の支え」となる場合があったからである。最も「権威」あるが故に最も「安上り」のキャナライジング装置として、それは機能していった。 
 このように学校の「本尊」であったということは、同時に学校内外での紛争の発生に伴い、それがしばしば抗争の手段として「利用」されることをも意味していた。校長または学校当局を窮地に追い込むために、また金銭略取などの脅迫手段としての、「御真影」教育勅語謄本などの紛失、盗難事件は、戦前を通じてしばしば発生した。尤も、紛失や窃盗、その結果としての焼却や破棄などの「荒っぽい」手段は、単に管理責任者を窮地に追い込むだけでなく、実行行為者にも刑事罰の追及が及ぶ危険性を含んでいる。
 ・・・
 文部省や道府県当局は、当然に「御真影」教育勅語謄本の「奉安」方を厳重に督励した。その結果として、「奉安」失態への「恐怖」=「不敬」への強迫観念から、災害時での過剰「奉安」=教職員の殉職が、ニ十件以上にもわたって生起することになった。〔本書四の(八)〕。それらの悲劇性は、その行動が「教育者精神」の発露として「表旌」されることにより、一層増幅される結果をもたらした。なかには、「御真影」教育勅語謄本に直接関わらない単なる殉職であったにもかかわらず、学校・行政当局・肉親などによって、「御真影」勅語謄本警衛と結び付けて「美談」化する事例もあった。そこには、本人の人柄の「顕彰」という単純な意図の他に、遺族への援助もしくは補償をより「容易」に調達し得るとの「計算」「教育者精神」「忠君」「自己犠牲」などの教材化政策などが複雑に作用していた。(例えば、岩本努『「御真影」に殉じた教師たち、』)。

              学校からの「御真影」の撤去

 第二次大戦の敗戦は、近代天皇制にとっての最大の危機を意味した。「国体護持」を目的としたポツダム宣言の受諾を決断した日本政府にとって、天皇制の戦争責任を連合国側がどのように追及するかは最大の関心事であった。
 学校の「御真影」に関していえば、陸軍大元帥大礼服を着用した天皇の写真が、無条件降伏下で軍が全面武装解除し解体してしまった状況にふさわしくないばかりか、まさに大元帥としての責任問題を想起させる危険性を帯びていた。加えて、国家神道解体についてのGHQ/SCAP(連合国最高司令官総司令部)指令(1945年12月)により、宗教儀式性をもっていた「御真影」拝礼の学校儀式の施行が、多く神社形式(神明造)をとっていた上にそれ自体が厳重な拝礼対象とされていた「奉安殿」の存在と同様に問題視されるのは必至となった。宮内庁省は45年11月、天皇服制の改正に伴い、新服制による写真に取り替えるためを理由として、従前の大元帥大礼服「御写真」を回収するとの次官通牒を発し、これを受けて十二月文部省は学校に「御真影」「奉遷」と、来る一月一日学校儀式での旧「御真影」の「奉掲」を禁じる旨とを、地方長官に通知した。
 こうして、1874(明治7)年以来約七十年に及ぶ学校における「御真影」存在の歴史に終止符が打たれることになった。学校「御真影」の回収(「奉遷」)は、45年12月後半から翌6年2月頃までにかけて、ほぼ全国一斉に施行された。回収された「御真影」は、公立校分は道府県の責任により、官立校分は文部省の責任をもって、それぞれ「奉焼」された。「奉焼」に際しては、「現下ノ国内ノ情勢ニ鑑ミ努メテ内密ニ執行ハシムルベキハ勿論ナルモ之ガ実施ニ当タリテハ尊厳鄭重苟モ軽ニ失スルガ如キコト無キ様」にと指示された(46年1月宮内次官通牒)。そこで例えば、府県庁裏手の空き地に深い穴を掘りその穴の中で密かに焼却するなど、なるべく人目に付かないよう配慮して実施された。
 ・・・以下略

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

学術会議任命拒否問題と天皇機関説(美濃部達吉)

2020年10月26日 | 国際・政治

 今回の学術会議任命拒否問題と関連し、私は、滝川事件とともに、美濃部達吉の天皇機関説問題がどういう問題で、どういう経過をたどったのかをふり返ることも大事だと思いました。「昭和史の瞬間 上巻」朝日ジャーナル編(朝日選書11)に「国体明徴の名のもとに─ 天皇機関説 ─ 」と題した文を寄せている今井清一歴史学教授は、”天皇機関説問題は民主主義、自由主義の息の根をとめ、思想統制を仕上げる役割を果たしたのである”と書いていますが、重大な指摘だと思います。 

 1935年(昭和10年)2月の貴族院本会議で、菊池武夫議員が、天皇機関説は国家に対する緩慢なる謀叛であり、美濃部を学匪と非難したことを受けて、政府は美濃部達吉の著書『逐条憲法精義 』『憲法撮要』『日本憲法の基本主義』の 三冊を発売禁止処分にするとともに、4月には、各地方長官、帝国大学総長、直轄諸学校長、公私立大学、 専門学校長、高等学校長等に対して、下記のような訓令文部省訓令第四号)を発し、国体明徴の徹底を求めました。

方今内外ノ情勢ヲ稽(カンガ)フルニ刻下ノ急務ハ建国ノ大義二基キ日木精神ヲ作興シ国民的教養ノ完成ヲ期シ由テ以テ国本ヲ不抜二培フニ在リ我ガ尊厳ナル国体ノ本義ヲ明徴ニシ之二基キテ教育ノ刷新ト振作トヲ図リ以テ民心ノ嚮(ムカ)フ所ヲ明カニスルハ文教二於テ喫緊ノ要務トスル所ナリ。此ノ非常ノ時局二際シ教育及ビ学術二関与スル者ハ真二其ノ責任ノ重且大ナルヲ自覚シ叙上ノ趣旨ヲ体シ苟クモ国体ノ本義二疑惑ヲ生ゼシムルガ如キ言説ハ厳二之ヲ戒メ常二其ノ精華ノ発揚ヲ念トシ之二由テ自己ノ研鑚二努メ子弟ノ教養二励ミ以テ其ノ任務ヲ達成セムコトヲ期ス
                        「国体明徴運動と教育政策」(日本大学 小野雅章)より

 でも、天皇機関説を問題視する政治家、軍人、右翼団体の追及は続き、軍部は、下記のような要望を出しすに至ります。
天皇機関説処理ニ関スル要望(昭和十、五、二一)陸軍省
 天皇機関説ノ処理ニ付政府トシテハ引続キ速ニ必要ナル措置ヲ講シ国体ニ関スル疑惑ヲ一掃シ之ヲ永遠ニ明徴ナラシムル手段ヲ執ルヲ要ス
一、憲法ノ研究ニ関スル政府ノ監督ヲ強化スルト共ニ中正ナル学説ノ完成ヲ積極的ニ指導援助ス
二、前項ノ趣旨ニ合スル如ク左ノ処置ヲナス
 (一)大学教職員国家試験委員等ノ人事ヲ刷新ス
 (二)憲法ニ関スル教科書、教材等ノ内容ヲ再検討シ単ニ字句ノ修正ニ止マラス其ノ精神乃至論旨ヲ補正セシム
 (三)国体ニ関スル言説中苟モ法規ニ触ルルモノハ之ヲ重キニ従ヒテ処断スル方針ヲ採リ要スレハ現行刑法、出版法、新聞紙法等取締ニ関スル諸法規ヲ改正ス
三、国体明徴ヲ一般ニ徹底セシムル為
 (一)最高学府等ニ国体講座ヲ設クル等ノ方法ニ依り国体ニ関スル教育ノ徹底ヲハカル
 (二)教科書調査会ノ権限ヲ拡充シテ広ク教科書ノ内容ヲ整理ス
四、美濃部氏ノ公職辞任ヲ更ニ慫慂ス
五、美濃部氏ニ対スル司法審理ノ遅延ハ一般ノ疑惑ヲ招来スルノ虞アルニ付適当ニ之ヲ促進ス” 

                           (国立国会図書館デジタルコレクションより)

  だから、政府は8月に「国体明徴に関する政府声明」を発するのですが、美濃部達吉が自らの辞職について、
くれぐれも申し上げますがそれは私の学説を翻すとか自分の著書の間違つてゐる事を認めるとかいふ問題ではなく、唯貴族院の今日の空気において私が議員としての職分を尽すことが甚だ困難となっ た事を深く感じたがために他なりません
 というような発言をしたこともあって、政府は、再び「国体明徴声明」を発する事態に直面します。
 そして日本は、二度にわたる「国体明徴声明」によって、国際社会に通用する「法学」や「歴史学」のような学問の存在しない、明治維新当時の記紀神話を史実とする尊王思想の国家に戻ってしまったのだと思います。

 当時、津田左右吉が、『記・紀』の神代の物語には、天皇の地位の正当性を説明するため、多くの作為が含まれていることを明らかにしていたことも見逃せません。『記・紀』の神代の物語が史実ではないことを論証した津田左右吉の『神代史の研究』や『日本上代史研究』、『上代日本の社会及思想』などの著書も、美濃部達吉の著書同様発禁処分となっているのです。そして、「皇室の尊厳を冒涜した」として出版法(第26条)違反で起訴されてもいるのです。政治権力が、「学問の自由」を侵し、自らの国を「神の国」や「神州」などと特別視して、戦争へと突き進んだ歴史を忘れてはならないとと思います。

 「学問の自由」が認められていれば、”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”(人間宣言)にいつまでもとらわれ、戦争に突き進むことはなかったように思います。

 下記は、「昭和史の瞬間 上巻」朝日ジャーナル編(朝日選書11)から抜粋しました。(漢数字や算用数字の一部を変更しています)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

                国体明徴の名のもとに

                ─ 天皇機関説 ─         

 

 滝川事件の二年後、1935(昭和10)年には、天皇機関説問題がおこり、その年いっぱい政界をゆさぶった。この事件は、国体論にもとづく学問、思想の自由にたいする弾圧という点では、滝川事件の延長線上にある。だが、それが単に著作の発禁や著者にたいする司法処分にとどまらなかったところに、段階のちがいがあった。議会の決議、軍の訓示につづいて政府が「国体明徴」を公式に宣言したことによって、軍をふくめた官僚組織が国体の名において、軍や政府に同調しない異説や異分子を排除するために、全面的にのり出すことになった。こうして天皇機関説問題は民主主義、自由主義の息の根をとめ、思想統制を仕上げる役割を果たしたのである。

 

 1934(昭和9)年の第六十五通常国会では、出版法が改正され、著作者・発行者を処罰する範囲が広がった。それまでの政体変壊・国憲紊乱と風俗壊乱とのうえに、あらたに皇室の尊厳冒瀆と安寧秩序の妨害が加えられた。この議会には、治安維持法改正法案も提出された。この法案は、国体変革をはかる結社の外郭団体員も罰する、国体変革の宣伝を罰する、検事に拘引四ヶ月以内の拘留権をみとめる、執行猶予または不起訴者を保護観察し、刑期終了者を予防拘禁に付しうる、などのことを定めたものである。だが、さすがにこれには、政友・民政両党からも、人権蹂躙のおそれがつよいという非難や、右翼も取締まれという要求がおこり、衆議院で審議未了となった。

 

 目の上のこぶ

 当時の政党のなかには、ファッショ排撃と議会政治の擁護を叫んで、政権を政党の手にとり戻そうとする動きもあったが、他方では、軍部やこれに近い国家主義勢力と結んで勢力を伸ばそうとするファッショ分子の活動も活発となっていた。政党の動向が揺れうごくなかで、後者は、貴族院の右翼議員や院外の右翼団体などと呼応して、前者の目をつんでいった。第六十五議会では、政友・民政両党の提携を斡旋した中島久万吉商相が”逆賊”足利尊氏を讃美したと攻撃されて辞職に追いこまれた。

 こうした思想摘発の先頭に立ったのが、国体擁護連合会で、滝川事件の火付け役となった蓑田胸喜もその有力メンバーであった。この会は1932年のいわゆる司法省赤化事件を契機として在京右翼団体が連合してつくったもので、政界・学界の自由主義者、とくに高等文官試験委員である帝国大学教授の摘発に力こぶを入れていた。末弘巖太郎東京帝大教授も蓑田に告発され、不起訴となったものの、その『法窓漫筆』は一部が発禁処分を受けた。

 国体擁護連合会がつぎにねらいをつけたのが、前年に退官したばかりの美濃部達吉東大名誉教授であった。美濃部は東大法学部で行政法を、1920(大正9)年からは憲法をも担任し、かれに代表されるいわゆる天皇機関説は、明治憲法下の議会政治を基礎づける憲法理論として学界の主流をなしていた。ながく高等文官試験委員であり、1932年には犬養政友会内閣に推されて貴族院の勅選議員なっていた。同時にかれは、自由主義的評論家として、反動的な時流に抗して健筆をふるっていた。それはかれの憲法理論もとづくものであった。

 美濃部は天皇・皇室を尊崇することにおいて人後に落ちなかった。そして国体の観念を歴史的ないし倫理的事実をしめす観念としては認めながらも、これを憲法解釈のなかに導入することには反対であった。

 「国体を理由として、現在の憲法的制度に於ける君権の万能を主張せるが如きは、全然憲法の精神を誤るものである。殊に君主の大権は常に官僚の輔翼に依って行るゝのであるから、国体を理由とする君権説の主張は、其の結果に於いては、常に官僚的専制政治の主張に帰する」(『逐条憲法精義』1927年刊)

 かれは天皇を国家の機関とすることで、具体的人格としての天皇と、憲法にもとづく天皇の権能とを区別した。そして官僚の輔翼によっておこなわれる後者については批判の自由をみとめて、国政が合理的に運営されることを保障しようとしたのである。

 したがって軍部や右翼が、国体とか統帥権をふりかざして、反対論を威圧することには、かれは  つよく反対した。ロンドン条約問題にあたっては、「統帥権干犯」のスローガンを排斥した。総理大臣が軍令部長の同意を得ずして条約の批准を奏請したとしても、それはただ軍令部長の権限の侵犯にとどまるもので、統帥権の干犯ではない、天皇の委任を受けないものがほしいままに天皇の陸海軍を指揮し統帥しようと企てたとすれば、それこそが統帥権の干犯である──美濃部はこう主張したのである。193410月に陸軍省が「国防の本義と其強化の提唱」、いわゆる陸軍パンフレットを配布したときにも、かれは軍国主義を粉飾している美辞麗句を剥ぎとって、その好戦的軍国主義を批判した。

 かれはまた、国民の意見を代表する議会を尊重するとともに、行政権も司法権も法律にしたがってのみおこなわれるべきだ、と法治主義を強調して、国民の権利をまもろうとした。機関説問題がおこった1939年はじめの第六十七通常議会でも、貴族院本会議で、斎藤実内閣瓦解の原因となった帝人事件における人権蹂躙問題をとりあげ、検察当局が権力を違法に乱用したおそれがつよいときびしく追及した。

 天皇の権威をかさに着た軍部や右翼にとって、従三位・勲一等・貴族院議員、帝国学士院会員で憲法学の権威である美濃部が、他ならぬ帝国憲法に依拠して批判をつづけることは、まさに目の上のこぶであった。

 

 拍手でマーク

 19351月に国体擁護連合会では、蓑田の起草した攻撃文をばらまいた。それは美濃部の著書のところどころを抜き出して、「天皇の統治=立法・行政・司法・統帥大権を無視否認せる不忠凶逆『国憲紊乱』ときめつけたものであった。ニ月七日には、衆議院の予算委員会分科会で陸軍少将の江藤源九郎代議士が、美濃部の著書『逐条憲法精義』の発禁処分を要求した。「帝国議会は国民の代表者として国の統治に参加するもので、原則としては議会は天皇に対して完全なる独立の地位を有し、天皇の命令に服するものではない」と同書にあるのは、天皇大権干犯・国体破壊で、出版法にいう国憲紊乱にあたるとしたのである。江藤は、国家主義勢力が中心とたのむ平沼騏一郎枢密院副議長の直系であった。

 こえて十八日には、貴族院本会議で、菊池武夫、井上清純、三室戸敬光の各議員が、天皇機関説排撃の質問戦をくりひろげた。菊池、井上両男爵は軍人で、三室戸子爵とともに、蓑田の代弁者であった。菊池は、憲法上統治の主体が天皇にあらずして国家にありと公言することは、「緩慢なる謀反であり明らかなる反逆になる」として、美濃部ならびにその著書にたいする処分をただした。

 岡田啓介首相の答弁は、美濃部博士の著書全体を通読すれば国体の観念において誤りはないと信ずる、用語に穏当でないところがあるが、学説については学者にゆだねるほか仕方がない、という消極的なものであった。機関説問題が大きな波乱を呼びおこそうとは、まだ予想もされなかったのである。

 美濃部は二十五日に一身上の弁明に立った。美濃部の長男亮吉は、その時の模様を次のようにしるしている。

 「貴族院は議席も傍聴席も超満員だった。坐る席がないどころか手すりによじ上らなければ、父の顔を見ることもできないほどの騒ぎであった。父は、東大の講義の時とはちがい、前夜おそくまでかかってつくった原稿を手に、二時間に及ぶ弁明の演説をおこなった。それは、やや学者風にすぎ、大学における講義じみてはいたが、なかなか迫力のある名演説であった。(中略)要するに貴族院の壇上において、いわゆる天皇機関説についての通俗講演を試みたようなものであった」

 貴族院では、壇上でおこなわれる演説には拍手しないのが原則であったが、この演説には少数ながら拍手がおこった。拍手をおくった小野塚喜平次東大総長は、やがて右翼団体ににらまれ、一時は護衛がついたという。この演説は議定を圧し、当の菊池も「ただ今承る如き内容のものであれば、何も私がとりあげて問題とするに当たらぬようにも思う」と述べたほどであった。

 

 扇動と重圧

 しかし貴族院における美濃部の弁明演説が新聞に大きく報道されたことは、右翼勢力を刺激した。かれらは天皇機関説が玉座の前で主張され、ジャーナリズムで拡大されて国民大衆の間にまで達したと、いきどおった。

 いわゆる天皇機関説は当時の憲法学説の主流をなしていたとはいえ、それは大学教育と知識階級の世界に限定されていた。大多数の国民は師範学校=小中学校の教育を通じて天皇を絶対的権威として教えこまれていた。とくに軍隊教育では、天皇への絶対服従が徹底的にたたきこまれた。大正時代の初頭に美濃部と上杉慎吉東大教授との間で天皇機関説論争がたたかわされていらい、文部省では美濃部を遠ざけていた。美濃部はこの時を最後に、中等教員検定試験の法制の試験委員に嘱託されなくなり、文部省の委嘱で執筆提出してあった中等教育の法制教科書も出版されなかったという。

 「天皇機関説批判」と銘打った雑誌『維新』四月号では、美濃部の弁明に名をかりた演説は自由主義の猛然たる反撃のあらわれであるとし、「自由主義思想勢力が……従来の地盤たる知識階級の圏外にも氾濫して国民思想の分野に圧倒的な支持を獲得するか、それとも国民大衆の意識下に伏在する伝統的国民感情が自由主義の反撃を押返して、これに最終的打撃を与へるかの国民思想の重大な転機である」と論じて天皇機関説との決戦を呼びかけていた。

 かれらは、現人神である天皇を「機関」とするのは不敬だという通俗観念をあおった。美濃部の理論体系のなかで意味をもつ機関という学術用語を、それから取りはずして扇動に用いたのである。議会では、「機関といえば全体の一部でありまして、また何時でも取換え得る意味を持つものであります」(貴族院・井上清純)、「天皇の御地位も会社の社長の地位も、機関たるにおいては全然同一のものとなるのではありませんか」(政友会・山本悌二郎)と論じられた。徳富蘇峰は『東京日日』に連載の「日日だより」に「記者は未だ美濃部博士の法政に対する著書を読まない。故にこゝにその所説に付いて語らない……記者はいかなる意味においてすらも、天皇機関説の味方ではない……日本国民として九十九人迄は、恐らく記者と同感であらう」と書いた。

 これらの批判は、関口泰が書いたように「美濃部博士の憲法学説を攻撃する者の九十九人迄、否百人迄が、博士の法政に対する著書を読まないらしいことは、その所説の節節から察せられる」ようなものであった。少しのちには天皇も鈴木貫太郎侍従長にたいして、「主権が君主にあるか国家にあるかということを考慮するならば、まだ事がわかっているけれども、ただ機関説がよいか悪いかという議論をすることは、すこぶる無茶な話である。(中略)今日、美濃部ほどの人が一体何人日本におるか。ああいう学者を葬ることはすこぶる惜しいもんだ」ともらしていたという。

 以上のような情勢の下で、右翼の攻撃に対抗して学問の自由を守ろうとする組織的な動きは、滝川事件のときとちがって、もはや見られなかった。蓑田らの気違いじみた批評は好ましくないという側面からの批判はあっても、正面から美濃部の学説を弁護しようとする論者はいなかった。当の東大法学部も、このすぐれた先輩の犠牲を個人的に慰め、あるいはいきどおるだけで、国体という錦の御旗にあえて反撃しようとはしなかった。美濃部は孤立無援のたたかいを続けなければならなかったのである。こうしたなかで河合栄次郎経済学部教授は「国体に関する議論と処置は、特に慎重なることを必要とする。然るに国法の許さゞる……の脅威を以て博士の口を緘(カン)し、世人をして生命と地位とを賭するに非ざればこれに関する一語をも吐くことを許さゞる状態に至らしめたることは、『国憲を重んじ国法に遵』へえと宣せられたる明治天皇の教育勅語に……するであらう」(『帝国大学新聞』1935415日付、伏字は原文のまま)と正面から反撃したが、当時にあってはこれだけの批判をすることはきわめて勇気のいることであった。

 三月八日には、右翼団体が大同団結して機関説撲滅同盟をつくり、天皇機関説の発表の禁止と美濃部の自決を要求した。議会でも貴衆両院の有志議員が機関説排撃を申合わせた。絶対多数を擁しながら岡田内閣に閣僚を送っていない政友会では、これを倒閣運動に利用しようと積極的にのり出した。美濃部の師である一木喜徳郎枢密院議長を天皇機関説論者として排斥しようとしようとする平沼一派の策動もからんだ。

 用語は穏当でないが学説は学者にゆだねる、といっていた岡田首相の答弁が、かれらの攻撃の突破口とされた。三月四日には首相は、私は天皇機関説を支持するものではありませんと、学説に反対の態度を明らかにした。十二日には、林銑十郎陸相が、用語は不快だが、この学説が軍に悪影響を与えた事実はないという四日前の答弁をくつがえして、この種の言説がなくなることを希望すると述べた。

 国体という錦の御旗をふりかざした一部の議員に、政府当局も、この問題に消極的な議員も、ずるずると引きずられていった。議会は審議の場としての機能と価値とを喪失していたのである。三月二十日には、貴族院では政教刷新建議を採択した。二十三日には衆議院が国体に関する決議を可決し「政府は崇高無比なるわが国体と相容れざる言説に対し、直ちに断固たる措置を執るべし」と主張した。「左程でもないことをあたかも国の一大事のごとく思い込み、悲憤慷慨やるかたなき同じ人が、このころ新橋や赤坂の一番のお得意様で、ここでは慷慨淋漓が痛飲淋漓になるのだそうである」。

 阿部真之介は、右翼をこうひやかすとともに、この決議案の提案説明に立った。鈴木喜三郎政友会総裁を「一般民衆は……かれの忠誠の志に感嘆する前に、かような問題をすら政略の具に供するを辞せざる卑劣な根性に愛想をつかしていたのである」と批判した。

 

 司法処分

 議会が終わると、政府としては早急に一応の措置をとって美濃部問題のけりをつけようとした。二月末に江藤代議士から不敬罪の告発をうけていた美濃部は、四月七日に検事局に召喚されて十六時間にわたる取調べをうけた。詔勅、とくに教育勅語を批判してもよいと認めるかどうかが、取調べの重点だったらしい。九日には内務省は『逐条憲法精義』『憲法提要』『日本憲法の基本主義』を発禁とし、『現代憲政評論』『議会政治の検討』に次版改訂を命じた。美濃部以外の機関説論者の憲法学書、法学通論三十数種にたいしても絶版が勧告された。文部省では全国各学校に国体の本義を明徴せよとの訓示が出され、おりからの新学期を前に、京都帝大では渡辺宗太郎教授の憲法担当を変更し、神戸商大では佐々木惣一講師をやめさせるなどの措置がとられた。法制局でも高等文官試験委員から機関説論者を除いた。

 しかし、いったん燃えあがった火の手は容易におさまらなかった。天皇の軍隊をもって自任する軍部では、天皇機関説が軍隊教育に悪影響を及ぼすおそれがあるとして、その徹底的排撃を希望した。四月四日には真崎甚三郎教育総監は、天皇機関説は国体に対する吾人の信念と相容れないとする訓示を全陸軍に通達した。十五日には帝国在郷軍人会本部から陸軍省軍事調査部長山下奉文の名による機関説排撃のパンフレット十五万部が配布された。各地の在郷軍人会支部では、これに呼応して機関説排撃大会を開いて気勢をあげた。

 右翼団体も追撃の手をゆるめなかった。美濃部を処分させ、一木枢密院議長を辞職に追いこんで元老重臣陣営の一角を崩し、さらには岡田内閣の打倒をはかろうとしていたのである。四月中旬には「美濃部思想は一木が元祖、之を絶やさにゃ国立たぬ」といったポスターが東京の各所にべたべたと貼られた。政友会もこれに同調して機関説排撃、岡田内閣打倒を叫んだ。岡田内閣では一木らを辞職させずに事態を収拾するため、美濃部に公職を辞退させることで事をうやむやに葬ろうと画策した。あらゆるつてをたどって辞職が勧告されたが、美濃部は頑として応じなかった。「小生公職辞退の儀につきなほ熟考を重ねし結果、今日において小生自ら公職を辞することは、自ら自己の罪を認めて過誤を天下に陳謝するの意義を表白するものに外ならぬことは申すまでもこれなく、自ら学問的生命を放棄し、醜名を死後にのこすものにて、小生の堪へ難き苦痛と致す所にこれあり候(中略)顧みればこの数年来憲政破壊の風潮ますます盛んと相なり、甚しきは自由主義思想の絶滅を叫ぶ声すら高く(中略)小生微力にしてもとよりこの風潮に対抗してこれを逆襲するだけの力あるものにこれなく候へども、憲法の研究を一生の仕事と致す一人として、空しくこの風潮に屈服し、退いて一身の安きをむさぼりては、その本分に反するものと確信致しをり候」。これは当時書かれたらしい手紙の一節である。

 八月三日には、ついに政府は国体明徴にかんする声明を発表した。そのなかには「統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使する為の機関なりとなすが如きは、是れ全く万邦無比なる我がこくたいの本義を愆(アヤマ)るものなり」という一句があった。岡田首相は一木枢密院議長と金森徳次郎法制局長官については問題ないとの談話を発表した。

 九月十七日には、さきに取調べをうけた美濃部の司法処分が検察当局から発表された。不敬罪にはあたらないが、昨年八月から施行された改正出版法による天皇の尊厳冒瀆・安寧秩序の妨害に該当する疑いが濃い、しかしこれらの著作は以前から刊行されていたことでもあるので、起訴猶予にするというものであった。この決定は美濃部が折れて辞職の内意をしめしてからなされたもので、その日に美濃部は貴族院議員の辞表を提出した。

 おりから陸軍内部においては、皇道、統制両派の抗争は頂点に達していた。機関説排撃の先頭に立った皇道派の真崎教育総監が七月に更迭されると、皇道派の青年将校は、これは統制派の永田鉄山軍務局長が重臣とたくらんだ陰謀で、「統帥権干犯」であると攻撃した。八月十二日には、永田は陸軍省内で相沢三郎中佐に斬殺された。これに刺激された軍部や在郷軍人のなかからは、政府の声明は生ぬるいという非難がたかまり、政府は軍部の要求である再声明を迫られた。

 十月十五日には国体明徴第二次声明が出され、いわゆる天皇機関説は「厳に之を芟除(センジョ)せざるべからず」と声明された。芟除とは刈りのぞくことである。陸軍ではこの声明をきっかけに在郷軍人会本部を通じて在郷軍人の統制にのり出し、その動きはようやく鎮静にむかった。ただ在郷軍人中の強硬派の三六倶楽部や、皇道派と密接な関係をもつ直心道場だけが内閣打倒の活動をつづけた。天皇機関説問題を契機とするはげしい倒閣運動でも岡田内閣は倒れなかった。だがその代りに再度の声明を出すことで右へ右へと傾いていったのである。

 こうした機関説問題を民衆はどう受けとったか、いちがいにいうことはできない。だがこの年秋の地方選挙では無産政党が躍進した反面、右翼の国家主義政党は不振であった。陸軍の華北工作、海軍の軍縮会議脱退の動きにみられる戦争の危機感、軍需インフレによる勤労大衆の生活難をなにほどか反映していたのであろう。翌三十六年ニ月二十日の衆議院議員総選挙では、機関説排撃の先頭に立った政友会が敗れ、川崎市をふくむ神奈川県第二区では鈴木総裁が落選した。無産政党は五名から二十一名に急増した。その翌日の二十一日、美濃部は右翼の壮士によって狙撃され、足に軽傷を負った。さらに五日あとには、二・二六事件がおこって情勢を大きく転換させたのである。 

 二・二六事件ののちには、「国体明徴」の具体的な措置がつぎつぎにとられた。四月には対外文書にこれまで「日本帝国」「日本国皇帝」としるしたのを、「大日本帝国」「大日本帝国天皇」と改めた。十月には文相を会長に、西田幾太郎以下の委員をあつめた教学刷新評議会で「我が国に於ては、祭祀と政治と教学とはその根本に於て一体不可分にして三者相離れざるを以て本旨とす」という調子の答申が出された。翌三月には文部省から『国体の本義』が配布された。そこでわが国体は神勅にもとづく世界無比のもので、「我臣民は西洋諸国に於ける所謂人民と全くその本性を異にして」「その生命と活動の源を常に天皇に仰ぎ奉る」として、美濃部が強調してきた国民の権利はまったく否定された。

 憲法にある臣民権利義務や帝国議会の規定も、西洋諸国のように人民の権利擁護のため、ないしは人民の代表機関としてあるのではなく、ただ天皇親政を翼賛せしめるために設けられたものにすぎないとされた。この本からは旧制高専の国語の入試問題がよく出されたので、受験生のテキストに広く使われた。                                      《今井清一》

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

日本学術会議任命拒否問題と滝川事件

2020年10月22日 | 国際・政治

 菅義偉首相が、日本学術会議が推薦した会員候補のうち六名(芦名定道、宇野重規、岡田正則、小澤隆一、加藤陽子、松宮孝明)を任命しなかったので、”日本学術会議任命拒否問題”として議論が続いています。
 日本学術会議は、幹事会を開催し、菅首相に対して六人を任命するように求める要望書を決定し、内閣府に送付したといいます。あちらこちらで、「内閣にイエスという提言や法解釈しか聞かなくなるのは禍根を残す」とか「学問の自由に対する暴挙だ」とか「日本学術会議法に反する明らかな違法行為だ」いう声があがっているにもかかわらず、菅政権は、「総合的、俯瞰的な活動を確保する観点から判断した」との一点張りです。
 だから、安全保障関連法特定秘密保護法などで政府の方針に異論を唱えた人たちは、総合的、俯瞰的な活動を確保する観点から任命できないということなのではないかと想像します。戦前、”学問の自由、大学の自治”を巡って戦われた「滝川事件」を思い出し「昭和史の瞬間 上巻」朝日ジャーナル編(朝日選書11)から「大学自治の墓標 ── 京大・滝川事件」を抜粋しました。
 ”歴史はそれ自体を繰り返さないが、しばしば韻を踏む”はマーク・トウェインの言葉だそうですが、同じ過ちをくり返してはならないと思います。
 不都合な事実をなかったことにし、自らに都合のよい法律を作り、自らに都合のよい解釈をし、自らに都合のよい人事で要職をかため、思い通りの政治を続けるとどういうことになるのかは、歴史が教えていると思います。下記を読むと、日本は再び後戻りができないところまで進んでいるような気さえするのですが…。 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
         大学自治の墓標  ── 京大・滝川事件

1933(昭和8)年五月二十六日、京都帝国大学法経第一教室は、1600名の学生で埋めつくされていた。午後五時三十分、宮本英雄学部長を先頭に、教授・助教授・講師・助手・副手の法学部の全教官が姿をあらわして、学生大会の緊張と興奮は頂点に達した。
 宮本法学部長が壇上に立って、いま教授会全員の辞表を小西総長に提出してきたことを告げ、その理由の説明として、十二分間にわたって教授一同の名による声明書を朗読した。
 「政府が今回、滝川教授辞職の事あらしめたるの措置は、甚しく不当にして、遂に吾人一同をして辞表を呈出するの已むなきに至らしめたり。
 ……事は実に大学の使命および大学教授の職責に関す。之を以て滝川氏個人の擁護なりとする人の如きは、吾人初めより之と共に本問題を談ずるの意を有せざるなり。
 大学の使命は固より真理の探究に在り。真理の探究は一に教授の自由の研究に待つ。大学教授の研究の自由が思索の自由および教授の自由を包含すること、論なし。教授が熱心に思索し、思索の結果たる学説を忠実に教授することを得るに於て、始めて研究の自由あり。……政府の滝川教授休職に関する措置は、全く大学教授の職責を無視し、以て大学の使命の遂行を阻碍(ソガイ)するものとす。是れ吾人をして辞職の已むなきに至らしめたる理由の一なり。
 大学に於ける研究の自由……を確保するは、大学制度の運用に当りて、研究の自由を脅すの結果を生ずることを防ぐを肝要とす。之が方法中、最も根本的なものは、政府が任意に教授の地位を左右するの余地なからしむることに存す。…之が為には、教授の進退は総長の具状を得て之を行ひ、且総長が教授の進退に付具状せんとするとき、必ず予め教授会の同意を得るを要すとすることを必要とす。是れ所謂大学の自治と称するものゝ一端なり。…然るに、今回の滝川教授の休職は、総長の具状なく、且毫も教授会の同意を得るの手続存することなくして、行はれたり。此の如きは、実に、我が京都帝国大学に在りて、研究の自由を確保する方法として、夙に公に認められ、且久しく遵守し来れる規律を破壊し、以て大学の使命の遂行を阻碍するものとす。是れ吾人をして辞職の已むなきに至らしめたる理由のニなり」
 読み終わった宮本学部長は、「私たちは、いまこうして総辞職を決行した。もっとも関係の深い学生諸君のことに思い至るとき、まことに胸がありさけるように苦しい。しかし私たちのとった態度はあくまで正しいと信ずる。諸君は私たちの意のあるところを察して、これからも学生にふさわしい道を進んでもらいたい」と別れのことばを述べた。
 つづいて助教授団の声明、講師・助手・副手団の声明が読みあげられたのち、教授以下は退場した。教授十五名をはじめ、辞表提出者は三十九名にのぼった。
 学生大会は続行され、大学院学生代表が、指導教授を失ったいまは、総退学のほかなし、と声明した。このとき経済学部学生代表から、経済学部教授会の弱腰を非難して、あすから受講を辞退することを、学生一同申合せたと発言した。第一高等学校以下、全国三十四高校の卒業生代表が、学習院を最後に、それぞれ決議文を朗読した。京大法学部学生一同の名で、文部省にたいして、滝川教授休職撤回と全法学部教授の復職とを要求し、目的貫徹のためには総退学を辞さない、との決意を声明した。
 この五月二十六日の学園のはげしい動きは、「吹き募る京大暴風帯」(『大阪朝日』)、「抗争の激流に潰えた京大法学部」(『大阪毎日』)などの大見出しで社会を衝撃した。そして思えばこの日教授と一体の学生大会が、京大・滝川事件のクライマックスであった。しかし、事ここに至るまでには、むろんさまざまないきさつがあった。

 拡大解釈された「アカ」
 京大法学部総辞職にまで発展しただ事件は、刑法担当の滝川幸辰教授を文部省が罷免しようとしたことからおこった。手短に述べれば、つぎのような経過である。
 1932(昭和七)年十月、滝川教授は中央大学で「トルストイの『復活』に現れた刑罰思想」と題する講演をした。この内容がけしからんものだった、と告げ口するものがあったとみえて、文部省から新城京大総長に注意があり、法学部は部長を中心に「誤解」を解くことにつとめた。ところが、翌三十三年四月、新任の小西重直総長にたいし、文部省は正式に滝川教授の辞職を要求した。それに一歩先立って、同教授の著書『刑法読本』と『刑法抗議』とが、内務省から発売禁止処分を受けており、その危険な内容(文部省の理解によれば内乱を扇動し、姦通を奨励するもの)に照らして、大学教授として適当でない、という理由であった。ここで問題が表面化した。文部大臣は鳩山一郎(戦後の首相)であった。
 法学部教授会は、理由がないとしてこれを拒否した。教授会の立場は、教授の学問上の見解の当否は、文政当局の判断によってきめられるべきものではなく、そのときどきの政府のつごうで教授の地位を動かすべきではない、というのであった。文部省の「論理」は「学問研究の自由の中には、①研究の自由、②教授の自由。③発表の自由があるが、教授の自由と発表の自由に関連して滝川教授の責任を問わんとしているので、教授会の意向は当を得ない」というのであったが、この「論理」に説得力があるかどうかはともかくとして、絶対クビにするというハラのほうは強固であった。板ばさみになった小西総長は、東京と京都のあいだを往ったり来たりしてノイローゼ状態におちいった。
 五月二十四日、小西総長は鳩山文相と会見して、大学として文部当局の要求には応じることができぬ旨を回答した。文部省は切札を出して、翌二十五日に高等文官分限委員会をひらき、一方的に滝川教授の休職を決定した。
 成行きからハラをきめた法学部教授会は、五月十五日、連署して、言い分がとおらないかぎり総辞職を申合せ、さらに二十三日、絶対に慰留に応じないことを申合せて、全員の辞表を学部長にあずけた。そして二十六日に、滝川教授休職発令の電報が飛びこんだのに応じて、学部長から総長に辞表を提出し、つづいて学生大会乗込みの場となったのである。
 こうみてくると、事件のきっかけにちなんで、世間が滝川事件と呼んだことに理由があると同時に、当事者たちが、滝川個人の問題ではないという観点から、京大事件とよびならわしてきたことがうなずかれる。ことの本質は、まさに学問の自由、大学の自治そのものの問題であった。そして事件をひきおこした時代は、すでにそれにふさわしい条件をそなえていた。
 1931年秋の満州事変の戦火は、翌32年一月、上海事変に飛火し、三月には「満州国」建国が宣言され、国内では右翼テロが続発して五・一五事件にまでいたった。ドイツでは33年一月に、ナチスが政権をにぎり、ヒトラーが首相に就任した。そしてニ月には国会放火事件をおこして最有力の反対派・共産党に大弾圧を加え、非合法化した。日本でも「アカ」狩がつよめられ、権力者の目には「アカ」の範囲が拡大した。
 すでに三・一五事件のあと、京大・河上肇教授、東大・大森義太郎、平野義太郎、山田盛太郎助教授、九州大・向坂逸郎教授などの「左翼」教授がつぎつぎに追放されたが、いまでは、滝川教授までが「マルクス主義者」のレッテルをはられるようになった。滝川教授はけっしてマルクス主義者ではなく、「自由主義者」と呼ぶのがふさわいが、いまや自由主義者も「危険思想」であるにかわりなかった。「危険思想」の摘発を職業とする商人があらわれた。蓑田胸喜(ひとびとは狂気とかげで呼んだ)とその機関誌『原理日本』がその代表的なものであった。滝川教授ばかりでなく、東大の美濃部達吉、田中耕太郎、末弘巌太郎などの諸教授もかれによれば「赤化教授」であったが、わけても滝川教授には私怨を抱いていたふしもある。それは滝川教授が部長をしていた京大講演部で、蓑田の「学術講演」が学生たちの包囲攻撃を受けた一幕があったからである。蓑田たちが提供する資料は衆議院の宮沢祐代議士や貴族院の菊池武夫男爵らの「右翼議員」によって、議政壇上で活用された。かれらは満州事変いらい発言力をつよめてきた軍部のバックアップをたのんで強気であった。滝川事件の背後には、陸軍大臣・荒木貞夫大将があると噂された。さらに当時、大きな政治問題になった「司法官赤化事件」にショックを受けた司法省が司法官試験委員としての滝川教授の刑法学説に神経をとがらせているとも噂された。「自由主義者」を自称している政治家・鳩山文相が、京大総長や学生にむかって「時勢のことをかんがえてもらいたい」とたびたび洩らしたのは、理由のないことではなかった。
 一滝川教授にとってはもちろん、京都帝国大学にとっても、敵はあまりに強大であった。法学部教授会は、このたたかいに勝ち目のないことを意識していたはずである。しかし教授会は、たたかうことが必要だと考え、そしてたたかった。ことがらのスジをあきらかにし、教授会を結束させていくうえで、強大な指導力を発揮したのは公法学の佐々木惣一教授であった。佐々木教授は、京大法学部の第一回卒業生で、官僚養成所としての東大に対抗して設置された京大の在野精神の伝統に誇りをもつ、母校愛に燃える、当時五十七歳の長老教授であった。1913~14(大正2~3)年、教授会を中心とする大学自治確立の大闘争であった「沢柳事件」を、少壮教授としてたたかいぬいた経験をもっていた。この、一樹よく森をなす、と評された佐々木教授の人間的魅力と論理とが、滝川事件をあそこまでたたかいぬかせたのだ、と関係者の評価は一致している。これとならんで、闘志と機略にあふれた宮本英雄教授が、たまたま法学部長の地位にあったことが、この大闘争の展開に欠くことのできない条件であったことも事実らしい。

 学生運動
 教授団のまわりに、学生が結集して立ちあがった。
 滝川事件の表面化は、新学期早々の学生を緊張させた。京大法学部には、在学生と卒業生とを包含する学友会「有信会」の組織があったが、学園の空気が切迫した五月十八日、学生有志があつまって、組織的行動を開始した。翌十九日、第一回学生大会をひらいて、文部省へ抗議と教授会支持の声明書を満場一致で採択した。そして出身高等学校別代表者会議(高代会議)をひらき、闘争委員会を設置した。すなわち中央部、交渉部、情報部、会計部、庶務部の各専門部を設けて組織体制を整えた。同時に、東京、九州、東北の各帝大の新聞に檄を送った。中央部の議長には、六尺豊かの巨体に長いあごひげをたらした名物学生・渡辺貞之助君がえらばれた。かれは、それ以来、ひんぱんにひらかれた学生大会の事実上の常任議長となり、名議長ぶりをうたわれた。
 運動の基本組織が出身高等学校単位につくられたことは、旧制高校が持っていた性格からいって、納得のいく方針であった。すでに寮での共同生活をつうじて築かれていた友情を基礎に、学生は団結した。かれらは教授を歴訪し、激励し、批判し、全国各地の大学にオルグに出かけ、講演会をひらいて市民に訴え、文部大臣への直接抗議をも試みた。かれらは京大の自由主義の伝統を守護する使命感と、師弟の情誼に殉ずる純情に若い血を燃やした。法学部学生大会の総退学宣言にしたがって、1300通の退学届けがあつめられた(もっとも結果的にみて、これは抗議の署名運動といった意味のものであった)。もちろん高い調子の論陣をはったが、そのほかに運動の独自の機関紙として『京大学生運動新聞』を数号発行した。
 経済学部、文学部も学生大会をひらいて共同闘争を決議した。経済学部学生大会の受講辞退戦術については、さきにも紹介した。やがて、法経文理連合学生大会から、さらに全学学生大会がひらかれ、鳩山文相に辞職勧告委員を派遣することが決議された。しかし学生運動の形態は、ほとんど屋内集会に限定され、一回のデモも組織されず、教授会に同調の線をかたく守って、その妨げとならぬように慎重に統制されていた。運動に左翼的色彩が見えないことがむしろ注目をひいた。
 
 もともと京大は、左翼学生運動の名門であった。治安維持法の適用第一号の「栄誉」をになったのも、1926年の京大学生を中心する、いわゆる学連事件であった。たしかに、三・一五=四・一六事件いらいのあいつぐ弾圧の影響もあったろう。しかし、滝川事件以後の事実に照らしても、京大に左翼の伝統がたえたわけではなかった。けれども滝川事件のなかで、左翼がどんな独自的役割を演じたかは、表面からはわからない。中央指導部の議長・渡辺君をはじめ、平岡学、西毅一など、表面に立った幹部は左翼学生ではなかった。運動の展開にともなっていくつかの小さな渦巻は発生したが、全体として学生の統一はよく保たれた。運動にアカい色が見えることを厳重に警戒し、同時に内心期待していた警察にとって、弾圧の口実になるような材料は、ついにあらわれなかった。
 このような特徴をもった学生運動が、大衆的規模で展開した。卒業生もさかんに活動し、全国大会をひらいて支援した。言論機関も法学部側に好意的であった。このたたかいが、言論・報道の自由の最後のとりでの攻防戦であることを意識するひとびとが少なくなかったのである。とくに京大支局に田畑磐門記者を配置していた『大阪朝日新聞』の紙面は積極的であった。
 東大、東北大、九州大などでも京大支援の学生運動があった。そのクライマックスは六月二十一日、東大法経三十一番教室で、非合法にひらかれた学生大会であった。美濃部達吉教授が、憲法の講義中に、学生の希望に応じて講義を中止して学生大会にあけわたした。入口の扉を内から縄でガッチリしめ、無数のビラが飛散るなかで演説が進み、拍手、歓声がわいた。しかし、興奮に顔をほてらせて教室を出ようとした学生を、警官隊が待ちかまえていた。
 突如、ワッショ、ワッショの叫びとともに、ガッチリとスクラムをくんだデモ隊が、警官隊の包囲網に突進した。たちまち乱闘、警官隊は学生を打ちすえ、けとばし、トラックに満載した。
 関係者の証言によれば、滝川事件当時、共産主義青年同盟東大細胞はなお、強力であった。事件がおこると、この全組織が立ちあがり、大衆的な闘争機関として、各高校別会議が、いわば中央闘争委員会として「高代会議」が持たれ、これらの闘争組織を共青が指導したのであった。しかし弾圧で共青が追いつめられ、解体するにともなって、学生大衆も気力を失って運動は衰退した。

 「石の下」の自治
 運動の衰退は、本家の京都でいっそう深刻な問題であった。肝心の法学部教授会が分裂するという悲劇が、やがておこった。
 五月二十六日の総辞職宣言で、たたかいは第二段階にはいった。もちろん文部省も、火の手が大きくなることは本意でなかったから、収拾のため、さまざまな工作をこころみた。法学部閉鎖、法文系学生の私立大学への移管などの噂がバラまかれた。便乗した右翼が、強硬派に脅迫を加えたりした。法学部教授会の強硬な態度にサジを投げた小西総長は、六月辞職した。
 事件三代目の総長として松井元興教授が選出された。新総長は、前総長がてもとにあずかったままになっていた十五教授の辞表を文部省に取次いだ。文部省はそのなかから、佐々木惣一、宮本英雄、末川博、滝川幸辰、森口繁治、宮本英脩の六教授の分をぬきだして受理し、あとの九教授に対しては、今回のことは「非常特別の場合」だ、今後はこういうことはしないから辞意を撤回して残留してくれと説得した。
 辞表受理組は強硬派とみられていたグループであったが、宮本英脩教授が加わっていたことは自他ともに意外であった。そこで同教授は、『朝日新聞』に「最軟派の立場」と題して投書し、もともと辞職したくなかった自分の心情を表明した。そしてまもなく復帰した。一方、慰留組のなかで、恒藤恭、田村徳治の両教授は、納得できぬと声明して辞意をつらぬいた。他の教授たちは、自分たちの主張が基本的に貫徹したから、残留して法学部の再建に努力すると声明して、辞表を撤回した。
 こうして法学部教授会が、退官組と残留組とに分裂したことによって、さしもの大紛争も七月半ばに一段落を告げた。助教授以下も、二派に分裂した。事ここに至るまでのあいだには、もちろん、きわめて「人間的な」内面、外面のドラマがあったことは想像にかたくない。いまとちがって、大学教授が希少価値を持ち、わけても帝国大学に権威と生活の安定が保証されている時代であった。学生は、残留派を「瓦全組(ガゼンクミ)」とののしったが、かれら自身も、帝大の卒業証書が高い相場を持っていることを知っていた。時すでに夏休みにはいるとともに、学生は郷里に散って運動は中断した。この点、昔も今もかわらぬ学生運動の法則である。そして九月に登校したときには、学内の様相は一変していた。すでに火は消えており、かきおこそうとする者には、大学当局が弾圧をもってのぞんだ。
 敗北はあきらかであった。新聞の投書欄で、ささやかな腹いせをするのがせいいっぱいであった。
 
 「講師求む、法律を多少理解する者、研究の自由なきも、破格優遇、地位安固、講義は国定教科書による」(『大阪朝日』京都版)
 そして学生たちは、カフェーで一杯ひっかけて、軍歌「戦友」の替歌を放唱しながら京洛の巷をさまよった。
 
  ここはお江戸を何百里
  離れて遠き京大も
  ファッショの光に照らされて
  自治と自由は石の下

  思えば悲し昨日まで
  真先かけて文相の
  無智を散々懲らしたる
  勇士の心境変われるか

 学生の支援こそあったが、京大法学部は自ら象牙の塔に孤立してたたかった。教授会を構成する正規の教授だけの問題であると限定し、他をたのまぬという方針をつらぬいた。助教授も学生も、他学部教授会も、まして他大学も、こちらからは応援を求めぬ、自力で文部省とたたかう、それが大学の自治だ、という態度で一貫して玉砕した。それにしても、他学部も他大学も、個人としては同情を表明するものはあったが、組織的支援の態勢をとらず、京大法学部を見殺しにした。東大法学部の動向が注目されたが、一片の声明に接することもできなかった。これら三十年前に日本の大学におこった事実は、今日の目からみると、まことにいたましい。あと味の悪い事件であったにちがいないとともに、今日のわれわれにとっても、あと味がよくない。
 しかし少数ではあったとはいえ、純理をつらぬいて一歩もしりぞかなかあった大学人があったというすがすがしい事実は、日本の大学自治の伝統として、いまに生きている。当時、学生としてこの戦前最後の大衆闘争に情熱をかたむけたひとびとはいまも語る。不幸な事件であったが、痛切な実践的教育であった。人間の出所進退にについて、生涯を左右する教訓を得た。その意味で滝川事件は、その後のわが人生を方向づけた。
 1934(昭和九)年、事件一周年に、熱血派の学生、平岡学らは、京大法学部の建物に「想起せよ、五・二六!」と大書した垂れ幕をかかげた。そして一年の停学処分を受けた。こうして軍国主義が階段をのぼるのに反比例して、大学の転落は加速度を増した。美濃部博士の天皇機関説攻撃、東大矢内原忠雄、大内兵衛教授らの追放、河合栄治郎教授事件等々、大学の自治と学問の自由の長い墓標の列が立ちならぶことになった。
 それにやっと終止符をうたれたのは、1945年八月であった。闇の閉ざされていた日本の大学は、にわかに光につつまれたように見え、ひとびとは受難の先輩があたたかい椅子をとりかえしたことをよろこんだ。しかし、それから二十年たった今日、京大滝川事件の思い出がふたたび大学人の心のかげりとなりはじめているのではなかろうか。
                                                                                          《塩田庄兵衛》

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

李玉仙(イオクソン)さんの人生

2020年10月15日 | 国際・政治

 日本政府は、徴用工問題だけではなく、いわゆる「従軍慰安婦」問題に関しても、1965年の「日韓請求権協定」で、”完全かつ最終的に解決済み”であるというのですが、「国際法律家委員会(ICJ)」は、”1965年の日韓の協定も、1956年日比賠償条約も日本に対する女性たちの請求を妨害するものではない。前者は、人権被害に関する請求を包含すると意図されたものではないし、現に包含しもしなかった。後者も、国家にもたらされた破壊に関し、フィリピンの「人民」への賠償のためのものだった。個々人への補償問題は、交渉で提起されておらず、よれゆえ、同条約は、この問題を解決しようと意図されたものではなかったし、解決したとも解釈されてはならない。”と結論しています。

 いわゆる「従軍慰安婦」の存在が、広く知られる知られるようになったのは、千田夏光氏の『従軍慰安婦』の刊行(1973年)がきっかけになったといわれますが、金学順さんが名乗り出て、「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」と題した記事が、朝日新聞に掲載されたのは、さらに20年近く後の1991年8月11日だということですから、1965年の「日韓請求権協定」が”人権被害に関する請求を包含すると意図されたものではないし、現に包含しもしなかった”というのは、その通りだと思います。「日韓請求権協定」締結当時、「従軍慰安婦」の存在は、ほとんど知られていなかったのです。だから、「日韓請求権協定」は、「従軍慰安婦」の問題を”解決しようと意図されたものではなかったし、解決したとも解釈されてはならない”というのは、間違ってはいないと思うのです。
 また、元「従軍慰安婦」の多くの人たちは、日本政府がきちんと自らの責任を認め、謝ってほしいと語り、尊厳の回復を訴えています。「日韓請求権協定」に基づく経済協力で解決済みにできる問題ではないということだと思います。

 でも、「国際法律家委員会(ICJ)」という国際組織の勧告に背を向け、自民・民主両党の一部の国会議員やジャーナリストが2007年6月24日「従軍慰安婦」の「強制連行はなかった」とする意見広告を米ワシントン・ポスト紙に出しました。それは結果的に、2007年7月31日、アメリカ合衆国下院121号決議の採択をもたらすことになったと思います。
 アメリカ合衆国下院121号決議には、
Whereas the `comfort women' system of forced military prostitution by the Government of Japan, considered unprecedented in its cruelty and magnitude, included gang rape, forced abortions, humiliation, and sexual violence resulting in mutilation, death, or eventual suicide in one of the largest cases of human trafficking in the 20th century;
 とあります。”日本政府によって性奴隷にされた慰安婦とされる女性達の問題は、残虐性と規模において前例のない二十世紀最大規模の人身売買のひとつであると考えられる”というような意味だと思います。
 また、
Whereas some new textbooks used in Japanese schools seek to downplay the `comfort women' tragedy and other Japanese war crimes during World War II;
 とあります。”日本の学校で使われる新しい教科書で、「従軍慰安婦」の悲惨や第二次世界大戦における戦争犯罪が軽く扱われようとしている”というような指摘だと思います。安倍政権の「従軍慰安婦」問題に対する姿勢を批判したのです。

 そして、同じようにオーストラリア上院が慰安婦問題和解提言決議をし、オランダ下院、およびカナダ下院慰安婦問題謝罪要求決議をしているというのです。また、フィリピン下院外交委韓国国会なども謝罪と賠償、歴史教科書記載などを求める決議採択し、さらに、台湾の立法院(国会)も日本政府による公式謝罪と被害者への賠償を求める決議案を全会一致で採択したというのです。こうした国際社会の声は、日本政府が、「従軍慰安婦」問題を、”「強制連行」を立証する資料が見つからなかった”ということで売春の問題に矮小化し、なかったことにしようとする事に対する警告であると思います。

 こうした決議に誠意をもって対応しないため、2011年12月14日午前、ソウルの日本大使館前の路上に、「従軍慰安婦」問題を連想させる少女のブロンズ像が設置されました。それは、毎週水曜日に「従軍慰安婦問題」に対する日本政府の対応に抗議する集会が続けられ、14日に1000回となるのを記念し、制作されたといいます。

 下記の李玉仙(イオクソン)さんも、未成年であったにもかかわらず、「性奴隷」といわれる扱いをうけたことを証言しています。「従軍慰安婦」の問題は、たとえ「強制連行」を立証する資料が見つからなくても、重大な人権問題であることがわかります。そして、李玉仙さんは90歳をこえる高齢にもかかわらず、この水曜集会に意欲的に参加されているのだといいます。元「従軍慰安婦」の人たちの尊厳の回復のためには、個人的な謝罪や民間基金の補償ではなく、国際組織の勧告にあるような日本政府の公式の謝罪とそれをもとにした法的な補償や事実を継承する教育だと思います。戦時中の日本政府や軍の過ちを認め、一日も早く近隣諸国との関係改善に取り組んでほしいと思います。

 下記は、「ナヌムの家歴史観 ハンドブック」ナヌムの家歴史観後援会(柏書房)から「2部 ナヌムの家のハルモ二たち」の「 李玉仙(イオクソン)ハルモ二」を抜粋しました。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
            2部 ナヌムの家のハルモ二たち

             李玉仙(イオクソン)ハルモ二               
 
 1927年(戸籍上、1928年)10月10日、釜山市寶水洞(ポスドン)で6人兄妹の2番目として生まれる。父は日雇い労働、母は下働きなどをしていたが、それでも糊口をしのぐのがやっとの貧しい家庭で育った。学校へ行くことは考えもできなかったが勉強がしたくて、12歳ごろから学校へ行きたいとせがんでは殴られもした。
 そんな折、14歳(40年春)のとき、お金も稼がせてやるし、勉強もさせてやるといわれ、釜山の波止場近くの小さな飲み屋に養女として売られていった。そこで半年あまり暮らしたが、働かせるのみで学校にも行かせてもらえないので逃げ出したところ、再び捕まり、今度は蔚山(ウルサン)の飲み屋に売られた。
 1942年7月中旬の夕刻、使いに出された際に、朝鮮人男性2名に捕まり、中国の延期吉(ヨンギル)にある空軍部隊の東飛行場に連れていかれた。そこでは1年ほど下働きさせられたが、その間日本軍人たちから日常的に強姦された。その後一緒にいた女性たち全員が延吉市内にある慰安所に移され、3年ほど「慰安婦」生活を送った。
 慰安所は狭く、10名あまりいた女性が入りきれず、1部屋に2~3名が入った。初めは部隊内の庭にゴザを敷いて使うこともあったが、突然軍人たちが部屋に入ってきて、他の同僚が見ている前で獣のように女性を強かんした。そこにいるときはサック(コンドーム)も使わず、性病検査もなかった。妊娠した女性が1人いたが、子どもが生まれると、日本軍人が連れ去ったという。しばらくして近くに慰安所が新築されて引っ越したが、そこでは1人に1部屋ずつ当てがわれた。
 ここでは週に1回ずつ数名の軍医官がやって来て性病検査をした。梅毒にかかったが、、606号注射を打たれても完治せず、管理人が水銀を身体に当てて治療し、その後不妊症になった。性病は無料で治療されたが、他の病気の治療はしてもらえなかった。使いに出た際、朝鮮人の警官に殴られて鼓膜が破れ、耳から膿(ウミ)が出るなど酷(ヒド)い状態だったが、治療を受けることができず、今も耳がよく聞こえない状態だ。
 16歳くらいのとき、慰安所で初潮を迎えたが、生理中も軍人の相手をさせられ、週末には25名ほどの軍人を相手にした。言うことを聞かないときには革のベルトで鞭打たれた。
 戦争が終ると、慰安所管理人が「慰安婦」たちを山に残して逃げてしまったので、市内に出た。それからは生きる糧(カテ)も無かったが、延吉の東飛行場に報国隊としてきていた朝鮮人男性と出会い、結婚した。しかし夫が解放前に勤労奉仕隊長として日本に協力していたことが問題となり、夫だけが朝鮮に逃げ帰ってしまった。その後10年間婚家で暮らした後、姑の勧めで再婚した。
 夫の連れ子を育て、韓国に帰国するまでは痛風にかかった夫と、息子の子2人を学校にやるなど、実質的な大黒柱の役割をした。
 1999年末、夫が亡くなってから帰国を決意、2000年6月1日、池石伊(チドリ)ハルモ二とともにナヌムの家に来た。物事の分別をわきまえ、常に他人に配慮して行動する。特に、向かいの部屋の金君子(キムグンジャ)ハルモ二と一緒に教会に通い、姉妹のように頼っている。また、勉強できなかったことが今も悔やまれるのか、聖書や詳説などを分厚い老眼鏡をかけて熱心に読み、勉強している。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

金学順さんの証言②

2020年10月12日 | 国際・政治

 国際法律家委員会(ICJ)は、1993年4月から5ヶ月かけてフィリピン、日本、韓国、朝鮮民主主義共和国で、のべ40人以上の証言者からの聞き取りを行い、また、資料を収集し、報告書をまとめました。その最終報告書には、日本政府に対する勧告が含まれています。

 また、クマラスワミ氏の「戦時における軍事的性奴隷問題に関する朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国および日本への訪問調査に基づく報告書」にも勧告が含まれています。
 さらに、マクドゥーガル氏の報告書付属文書〔第2次大戦中設置された「慰安所」に関する日本政府の法的責任の分析〕にも勧告が含まれています。私は、そうした国際組織の調査結果に基づく勧告を、いつまでも放置せず、誠意をもって応えるべきだと思います。

 下記は、『金学順さんの証言─「従軍慰安婦問題」を問う』(解放出版社編)から「第一章 金学順(キムハクスン)さんの証言」の後半を抜粋したものです。 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
            第一章 金学順(キムハクスン)さんの証言

 朝鮮人男性に助け出され
 鉄壁鎮と呼ばれていたその地に二ヶ月ほどいて、次の地に移動しました。また戦闘の最前線の地です。軍人たちは教えてもくれませんから、地名はよくわかりません。私は中国語もよくできるし、日本軍がどこにいるかはだいたいわかってきましたが、どこかはわかりません。
 当時の状況を知らない人にはわからないでしょうが、中国人、韓国人、日本人が入り乱れてたたかった時期であり、中国の八路軍と戦闘をしていました。そのときには日本軍のいろんな秘密を八路軍に伝えたり、最後には中国軍の中に入っていっていっしょにたたかった。そういう状況でした。
 それまでと同じく軍人が来ると相手をせねばならず、どんなにつらくても逃げられませんでした。すでにそこに送られていた三人と一緒に行動することになりました。
 あまりに悔しく腹がたったとき、抵抗したりして命令をきかなかったりすると、ひどく殴られました。
 最前線では、作戦に出かける時は軍人は来ませんでしたが、作戦から戻ったときは一日に十人、二十人といわずとにかく相手をしなければならないので、そのときのつらさは言いあらわせません。
 もう人間のすることではありません。いつまでもその夢を見ることがあります。私が死んでいのちが消えてしまうまで続くでしょう。死んだときにやっと自由になるのかもしれません。しかし何をやっても、その悪夢を忘れることはないでしょう。
 部隊がどんどん前進していくので、軍人といっしょに車に乗って移動しながら過ごしました。移動先でも同じことをするのです。私は死んではいけない。とにかくどうやっても生きるのだと決心したのです。
 そうこうするうちに、ここを脱出しなければ生きられないと思うようにもなりましたが、どこへ行ったらいいのか分からなくて、脱出する勇気も出ないまま、軍人たちに酷使されてからだをこわしました。肺が悪くなり病の床にふせってしまったのです。
 軍人たちが作戦で出かけてしまったある日の夕方のことです。ふせっている私の部屋に朝鮮人男性が突然入ってきました。驚いていると、私に「声をあげてはいけない」と口を押えて、「私は朝鮮人だ。お前も朝鮮人だろう。どうしてこんなところにいるのか。何もしゃべってはいけない」と言いました。だいぶ年上の男性でした。
 日本人、韓国人、中国人が入り乱れてたたかっていたのですから、韓国人男性が前線に忍び込んでくることはそう不思議ではありませんでした。彼は「商売をしている」といっていましたが、何かを調べているようでした。
 彼を見ると、私は「おじさんも朝鮮人、私も朝鮮人。おじさんがここを出るときには私を逃してほしいのです。このままここにいたら死んでしまう。どうかいっしょに連れて行って下さい」と頼みました。彼は「お前はいくつだ。こんなかわいそうなことがあるのか。17歳でどうしてこんなところに連れられて、苦労しているのか」と言いながら、「自分といっしょだと、あちこち移動しなくてはならない。それが出来るか」と聞いてきました。
 私は「おじさんが行くところについて回りますから、助けて下さい」と言いますと、彼は道をよく知っていたので、手をつないでいっしょに連れて出てくれたのです。その日の夜明け前、軍人たちが戻らないうちに慰安所を脱出しました。

 北京、南京、蘇州……と逃げて
 ちょうどそのときは軍隊は出撃していて、見張り番がいる程度だったので、逃げだすことが出来たのだと思います。
 この逃走の手引きをしてくれたのは、将来の夫になった人でした。私より18歳年上でした。名前はチョー・ウォンチャンといいます。
 彼は日本軍から追われていたので、中国で足を踏み入れない所はないほど逃げ回りました。小都市は日本軍に見つかりやすいので大都市を隠れながら転々としました。奉天、ハルビン、沈陽、北京、西京、南京、蘇州──と、転々としました。
 日本軍に見つからないように、中国服を着て逃げたのです。人間が隠れて暮らすということは、たいへんにつらいことです。
 私が19歳のときに、妊娠しました。夫が「どこかに定着しないといけない」といって上海に行くことになりました。上海では重慶にあった大韓民国臨時政府の光復軍とも連絡がとれるからです。
 上海で日本人が住んでいるところを避けて、落ち着いたのはフランス租界の近くでした。フランスの外交官が住んでいた近くでは、日本軍の目から逃れられた生活ができたからです。
 朝鮮人が多かったのは、このフランス租界とイギリス租界周辺でした。
 上海は国際都市であり、五十四カ国の領事館があるところです。イギリス租界などに住んでいると、領事館の許可がないと逮捕できないわけです。
 夫も私も中国語ができたことが幸いして、中国人からお金を借り、「松井洋行」という看板をあげて商売をしました。金貸し、質屋の仕事です。中国人の質屋に預けた質札をもってきた人にもお金を貸すことをしました。ですから、すごく商売が上手くいきました。
 質屋では三ヶ月たつと全部がながれることになっており、私はこの商売をして初めて「ながれる」という意味も覚えました。
 日本式の名前の「松井洋行」という名前にしたのは、日本名にすると日本の警察は一切手を出さないからです。
 こうして中国人と朝鮮人はお互いに助け合ったのです。
 もう上海を離れて半世紀以上がたっていました。その上海はいまも行ってみたいところです。私たち夫婦が三年間住んでいた思い出多いところですから。
 解放の年、四十五年に、私が22歳のときです。男の子が生まれ、四人家族になりました。

 上海から仁川(インチョン)へ
 上海では金九先生の講演を聞いたことがあります。同胞の人が皆集まり、大光明という劇場で聞きました。
 金九先生は上海と重慶の間を行ったり来たりしていました。やがて蒋介石が敗走し、最後に日本に逃げるだろうと思っていました。そうすれば大変なことになるだろう──というのが大方の見方でした。
 そうして日本が戦争に負けて解放になりました。解放から間もなくして、上海の自宅で夫が白い紙を出して旗の枠の中に何かのしるしを書きました。「これは何か知っているか」と私に問うたことを覚えています。それはやがて祖国の国旗となる太極旗でした。夫は喜びをいい表したのです。
 大韓民国臨時政府を樹立した金九先生は先に祖国に帰られました。最後まで残った光復軍と私たち親子四人は一緒に上海から船に乗って韓国の西海岸の仁川に上陸して帰ることになったのです。2000人くらいの人が乗船して祖国をめざしました。
 しかし、当時はコレラが流行っていたのです。船の中でコレラにかかった人がでて、なかなか韓国には上陸できませんでした。26日間も船中に滞在してから、ようやく仁川に上陸したのです。
 当時は戦地から仁川に上陸した人々は避難民といわれていて、ソウルの奨忠堂(チャンチュンタン)収容所という施設にたくさんの人が収容されていました。私たち親子もこの収容所で約三ヶ月暮らしました。
 収容所でもコレラが流行っていました。4歳になる娘チョプジャはそのコレラにかかったのです。そしてあっという間に死んでしまいました。息子ジェフアと夫、そして私の三人家族になってしまったのです。
 私たちは収容所を出てからソウルの東大門区昌信洞で部屋を借りて暮らしました。なんとか食べて行かなくってはならないので、夫は掃除夫の仕事をし、私は商売をしてがんばりました。
 そうすると、六・二五(朝鮮戦争)が起こりました。また三年間の間、残酷な生活をせねばなりませんでした。

 夫、そして息子も死んで
 戦争が休戦になり、幸いにも家族三人は死なずに生き残れました。荒れはてた国土で、生活をどうしていくか考えた末、夫が軍隊に副食を納入する仕事を始めたのです。私はいろいろな小物を売ったりして生活をしました。
 1953年1月も末の、雨が三日間も降り続いていた寒い日でした。
 夫は軍隊の老朽化した倉庫に副食を納入するので出かけていきました。そこで検査を受けるため倉庫にいたのですが、二階建てのその倉庫が急に崩れて、民間人七、八人、軍人二十六人が事故に巻き込まれたのです。夫は赤十字病院に運ばれたのですが、かけつけてみると重体で、まもなく亡くなったのです。夫は47歳の若さでした。
 私にはどうして不幸が待ち受けているのか、不幸な人生ばかりを歩むのか──と、何度悔やんだことか。娘を亡くし、さらに夫までもが。
 一人息子と私だけが生き残りました。
 しかし生きていくため働かねばなりません。いつまでも悲しみにくれてはおられません。風呂敷に服などを包んであちこち売り歩く生活をするようになりました。
 主に江原道(コンファド)の村々を、回らないところはないほど歩き回り商売をしました。
 息子はソウルの国民学校のチャンシン小学校三年生になっていたのですが、「一度海に行きたい」と言うので連れていって、韓国江原道の東海岸にソクチョンというところがあり、そこへ息子を連れて行くことになったのです。
 朝、ソウルからバスに乗ると、夕方、そこに到着しました。
 私は商売をしなければならないので、息子を置いて帰ったのですが、息子はソクチョンのヨンナンで湖で溺れ死んだのです。私は一人息子まで失ってしまいました。
 昔、「従軍慰安婦」にされたという過去がある中で、誰が再婚してくれるでしょうか。誰と再婚することができるでしょうか。
 従軍慰安婦だったことで、女扱いしない、むしろ犬よりも劣る存在として回りで見られるのに、どうして再婚などできるでしょうか。再婚できたとしても過去が分かると、「お前は慰安所にいた奴だ」と胸に突き刺さるような言葉を朝鮮人の男でさえ言うだろうと思い、「ずっと一人で生きていこう」と心に決めて今まで生きてきたのです。
 ただ一人で、いまソウルの東大門近くの民家の一室に住んでいます。

 胸の内の恨(ハン)を解きたい
 毎日の趣味をいうと、朝早く起きて新聞を丹念に読むことです。夜はテレビをみます。体調も良くないので外にでかけることはあまりありません。
 そんなある日、テレビで日本政府が「従軍慰安婦はいなかった」と言っているのを聞いて、本当に腹が煮えくり返るような思いでした。
 あったことはあったこととして話すべきです。私がこの様な境遇になってしまったことを考えると、この怒りをどうしたらよいのか分かりません。
 女性が女性として生きるというのも何もわからずに、五十年間を耐え続けて生きてきたのですが、こうした生きた証人がいるにもかかわらず、日本は慰安所は関係ないと言う。こんなとんでもないことがなぜありえるのかと、胸が引き裂かれる思いになりました。
 私は生きた証人として、どこかへでかけてしゃべらないと、と思うようになりました。
 慰安所から四ヶ月たって、何んとか逃げだしたので、いま、こうして証言することができるのですが、慰安所にいっしょにいたほかの四人は一体どうなったのでしょうか。解放を迎えたあと、いま生きているのか、一体どうしているのでしょうか。
 私はすごく彼女らに会いたくって、(マスコミを通じて)何度となく会いたいと言っているのですが、これまで何の連絡もありません。どこかに隠れていて会おうとしないということでは決してないでしょう。もう死んでしまったのではないでしょうか。
 またあの時私を苦しめた日本人は、今は7、80歳になっているはずです。会うことができたら、着ている衣服を引き裂いてやりたい気持ちをもっています。
 怒りのあまり、韓国教会女性連合で、私の胸のうちを全て打ち明けて、どうしたらいいのか相談しました。私の胸の中につまっているハン(恨)を解きほぐしたい……。日本が過去にそういう事実があったことを正直に認めてほしいのです。
 それで、放送局や新聞社を呼んで全てを話すことになったのです。政府や国会議員にも国会で証言したいと頼みましたが、何の連絡もありません。それでは私が日本に行って直接日本人に体験を話して、事実を語ろうと思って日本にやって来たのです。
 当時、軍人たちは口々に天皇陛下と言っていたことは忘れません。天皇陛下、日の丸という言葉を聞くと、昔のつらい思い出がよみがえってきて、その気持ちは口ではとても表せません。この怒りをどうやって鎮めればよいのでしょうか。
 日本政府は当時、「従軍慰安婦」を天皇陛下の下賜品とか言っていました。数万人の女性を引っ張っていって殺しておいて、よくそんな事が言えたものです。とにかく、そうすることによって朝鮮人の種をなくそうとしていたのは事実だと思います。名前や姓を奪い日本語を使わなければ学校にもいけませんでした。父を殺され、私自身も「従軍慰安婦」にさせられました。
 私は裁判をして補償してもらうのが目的ではありません。事実を明らかにしてどうしても謝罪してほしいのです。日本で裁判するため来日し、「何を主張したいか」と問われたのですが、「もう一度、17歳の時代に戻してほしい」と言いました。
 お金などいらないし、17歳のときの青春を戻してほしいと言いました。
 無論、17歳のときの青春が戻るはずなどありません。戻りっこないでしょう。でもそういう思いがこみ上げてきたのです。私のハンを解いてほしいのです。しかしながら、何をしてもそのハンは消えないでしょう。余りにも深いからです。多分、このハンを胸に抱えたまま死んでいくでしょう。

 歴史を正しく伝えてほしい
 過去の侵略の歴史を若い世代に正しく伝えてほしいと思っています。日本の若者たちは日本が過去にどうしたことをしたか知らない。日本政府が過去にあった侵略の歴史を隠し、なかったことだというふうに押し通しているから、若い世代が知らないのです。若い世代、次の世代に正確に歴史を伝えてほしいのです。過去にあったこと、悪かったことも正しく伝えなくてはなりません。それを隠すということは、それをまた繰り返すことにもなりかねません。
 日本は朝鮮を三十六年間植民地支配し、多くの朝鮮人を殺し、朝鮮という国をなくそうとした歴史があります。姓や名前までも変え、日本人として名乗らないと学校へも通えなかった時代が三十六年間続いたのです。そのような歴史を今の若い人に隠し、なかったことだというのではなく、正しく伝えてほしいのです。

 私が過去の体験を語るのは、どうしてなのだと思いますか。お互いにそうした過去の嫌なことを繰り返さないように、そして戦争なんかしないで、仲良く暮らしていこうと思うからです。
 日本の皆さん、昔はそうであったとしてもこれからはお互いに争わないようにして下さい。
 日本の軍隊は争いを好んできました。朝鮮を植民地にしたのにあきたらず、日中戦争をおこし、うまくいかないので太平洋戦争をおこしました。どうしてこの様に争いを好むのかわかりません。
 どんどん戦争を続けたことで、そのような過去がおこったのではないでしょうか。朝鮮人女性を慰安所に連れ、朝鮮人男性を弾よけにし、そうしたメチャクチャなことをして反省もしないとは、とんでもありません。自ら反省すべきであって、言わなければわからないというのはおかしなことだと思います。
 日本はいま、経済大国でもあり、軍事大国でもあります。そういう大きな国が今度派兵するというのは、どういうことでしょうか。今度は何をするために派兵するのでしょうか。過去にやったことを明らかにもせず隠したままで、今度は出かけていって誰かを殺すことになるのでしょうか。
 過去において不幸にした人びとに対して何らかの謝罪があってしかるべきです。過去におこったことを、ちゃんと謝罪すべきではないでしょうか。そこから新しい関係が始まるのではないでしょうか。
 私のように従軍慰安婦にされた人にたいして謝ることすらせず、いま派兵する日本が怖いのです。これは私だけの感情ではありません。
 解放のとき、日本人が韓国から出ていくときに、「十年後に日本がどうなるかみておれ」と言っていたことが思い出されます。
 今日、皆さんがいくら笑顔で迎えてくれても私はそれで満足することはできません。日本政府が悪かったと謝罪しない限り、私の気持ちは晴れません。
 日本に怖いことをいろいろされたので、いまも日本という国の名前を聞くだけでも怖くってたまりません。しかし、実際日本にきてみて感じたのは、日本の若い人でいい人がたくさんいることがわかりました。
 私は日本のあちこちで私自身の過去の体験をしゃべってきました。日本に来てこうして話しているだけで、私は日本をすでに許しているのかもしれません。
 韓国を発つ時に私が決心したことは、皆さんに言いたいことを全て話してから、最後に天皇の前で死ぬことでした。しかし生きてたたかうことが大事だと思うようになりました。自ら訴えていかなければならないのだと思っています。どこにでもでかけて行って証言していきたいと思います。それが、いま私を駆り立てていることです。
 あちこち話がいきまして、何を言ったのかも思い出せません。とにかく胸の中にある思いを全部ひっぱり出してしゃべりました。


 
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加