下記は、「金大中 拉致事件の真相」<金大中先生拉致事件の真相糾明を求める市民の会(韓国)>(三一書房)の「第13章 権力を引き継ぐ者たちの悲劇─金大中拉致事件が韓国政府に与えた影響」「事件の真相 朴正煕政権の犯行」の全文です。公権力による金大中拉致事件の顛末が実名入りで綴られています。だから、関わった人たちの犯罪は明白です。
この政敵殺害を意図したと思われる凶悪な公権力による犯罪が、下記のようにいろいろな証拠によって明らかにされているのに、誰一人処罰されず、日韓両国政府によって真相が隠蔽され、事件そのものが忘れ去られようとしている現実は、法治国家にあるまじきことだと思います。これが公権力と関わりのない一般民間人の犯罪であれば、間違いなく全員有罪だろうと思います。だから、こういう犯罪を黙認してしまう日本も韓国も、いまだ「法治国家」といえないと思います。
また、金大中氏を海に投げこむという殺害行為を阻止したアメリカの関与は称賛されても、朴政権の権力犯罪を知りながら黙認しているアメリカにも大きな問題があると思います。
残念なことに、主要メディアも「金大中拉致事件の真相」を追求する姿勢がないように思われます。そんな状態だから、尹錫悦大統領が「非常戒厳」を宣布し、力を行使したのだと思います。
日本には、文在寅前大統領の時に悪化していた日韓関係を、尹大統領となら改善できるという期待がありましたが、そうした期待を公言することは、金大中拉致事件の真相を隠蔽し、公権力の犯罪をなかったことにしようとする両国政府に与することだと思います。
そういう意味で、韓国の保守政権と日本の自民党政権の「関係強化」は、一般国民の立場から言えば、日韓の「関係改善」といえるようなものではないと思います。
トランプ大統領のアジア政策、特に安全保障政策がどういうものであるかは、いまだよくわかりませんが、バイデン政権の、「日米韓」や「日米比」、「日米壕印(QUAD)」など多国間の防衛協力体制構築を意図した関係強化は、一般国民の思いとはかけ離れた軍事優先の関係強化だと思います。オースティン前国防長官が講演で語った”二国間主義(Hub-and-Spokes Alliance System )から多国間主義(Multilateral Alliance System) への転換”に基づく政策は、日韓の真の「関係改善」にはならないと思うのです。石破政権は、多国間防衛協力体制の構築に取り組みつつあるようですが、方針転換すべきだと思います。
関連して私が今気になっているのは、主要メディアが無視している、民主党から共和党に移籍した議員の動向です。
一昨年のアメリカ大統領選挙に無所属で立候補していた元民主党のロバート・ケネディ・ジュニア氏は、途中で選挙活動を中止し、「民主党は変わってしまった」と主張し、民主党を離れて共和党のトランプ氏支持を表明、現在、トランプ政権の厚生長官という立場で、改革に取り組んでいます。
また、ニュージャージー州選出の連邦下院議員(2019年~)ジェフ・ヴァン・ドリュー(Jeff Van Drew)氏も、トランプ氏の弾劾訴追に反対し、 2019年12月、トランプ氏の第一期目(2017–2021年)中に民主党から共和党に移籍しています。
さらに、長年民主党員として活動していたライアン・ギレン(Ryan Guillen)テキサス州下院議員も、「民主党がテキサスの価値観から乖離した」と指摘して共和党に移籍しました。
そして、現在私が特に注目したのは、トランプ政権で国家情報長官を務めているトゥルシー・ギャバード(Tulsi Gabbard)下院議員(4期)です。彼女はハワイ第2区選出のサモア系アメリカ人で、米国議会初のヒンドゥー教徒だということです。2020年大統領選挙の民主党有力女性候補として、予備選挙指名争いに加わったようですが、2022年10月、民主党から離党し、2024年10月に共和党に移籍して、今、国家情報長官として活動を始めているのです。
見逃せないのは、”トゥルシー・ギャバードは、閣僚会議で、彼女の事務所がハッカーが票をひっくり返すことを可能にする投票機の大規模な脆弱性の証拠を入手したと発表した。”という情報です。
Tulsi Gabbard
BREAKING: Tulsi Gabbard just announced at the Cabinet meeting that her office has obtained evidence of massive vulnerabilities on voting machines that allow hackers to flip votes. WHOAH!!!
"We have evidence of how these electronic voting systems have been vulnerable to hackers for a very long time and vulnerable to exploitation to manipulate the results of the votes being cast, which further drives forward your mandate to bring about paper ballots across the country so that voters can have faith in the integrity of our elections."
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第13章 権力を引き継ぐ者たちの悲劇─金大中拉致事件が韓国政府に与えた影響
事件の真相 朴正煕政権の犯行
事件の概要を見ると、金大中は1973年8月8日午後一時過ぎ、当時統一党党首梁一東(ヤンイルトン)の泊っていた東京都内のホテル・グランドパレス2212号室で梁一東と当時統一党国会議員の金敬仁(キムギョンイン)に会った後、帰るために金敬任と一緒にドアの外に出た。その瞬間、すぐ横の2210号室とその向かい側2215号室から5人の怪漢が走り出てきて、そのうち3人は金大中氏を2210号室に引っ張り込み、残りの2人は金敬仁氏を梁一東いる2212号室に押し込んだ。怪漢らが金大中を引きずり出して連れ去った後の2210号室には、大型のリュック2個、ショルダーバッグ1個、10メートル余りのナイロン紐 ちり紙、錆び付いて使い物にならない実弾七発が込められたピストルの弾倉一つ、濃度の薄い麻薬剤が入れられた薬瓶、北朝鮮製の「白頭山」二本が入ったタバコなどが置かれていた。日本の警察はここで、犯人の残した指紋を採取し、それが駐日韓国大使館の一等書記官金東雲(キムドンウン)のものであることをつきとめた。怪漢らはホテルの地下駐車場まで降りて金大中を乗用車に乗せ、7月29日、大阪に入港し外港に停泊していた中央情報部工作船536トン「龍金(ヨングム)号」に引き渡した。乗用車は横浜駐在の韓国領事館副領事、劉永福(ユヨンボク)の所有であり、その助手席に金東雲が乗っていたのが日本の警察によって明らかにされている。「龍金号」に乗せられた金大中は縛られ、目にはテープを幾重にも貼られた上に包帯を巻かれ、手足に数十キロの石がくくり付けられた。また、背中に板を立てて体ごと縛られた。金大中は船の中で、犯人らが布団をかぶせて沈めれば水の上に浮き上がってこない、などと話しているのを聞いている。
しばらくして、金大中は突然ピカッと光を感じとると同時に、轟音を聞いた。その瞬間、船室にいた者たちは「飛行機だ!」と叫んで飛び出して行き、船は一層速度を速めた。数十時間後、龍金号がある港に到着し停泊した後、金大中は目を塞がれたまま救急車に乗せられ、睡眠剤によってすぐに眠らされた。目隠しさせられたまま乗用車に乗せられ、ソウル東橋洞(トンギョドン)の自宅付近で降ろされた金大中は、拉致されて129時間後の8月13日夜10時30分頃、ようやく自宅に戻った。
以上のようなことからみると、韓国の公権力は金大中を暗殺しようとしたが、思いがけず金敬仁(キムギョンイン)が犯行現場に現れたり、外国当局が「龍金号」上空に飛行機を飛ばすなどの事態が発生し、当初の目的を急遽変更して、拉致し家に帰したようだ。当時乗船していた「龍金号」の調理長だった曺始煥(チョシファン)の1993年9月16日付『時事ジャーナル』誌インタビューと、同月9日の民主党院内総務室で行われた記者会見によって、「龍金号」は中央情報部が運営する工作船であった事実が生々しく暴露された。また、「龍金号」上空に現れた航空機はアメリカの要請による日本の自衛隊所属の航空機だったことを、後にグレッグ前アメリカCIA韓国支部長は金大中に打ち明けている。
アメリカ国務省は1973年7月、金大中が日本へ行く以前からKCIAがアメリカの犯罪者を雇って金大中を殺害する計画を立てているという情報を入手しており、KCIA責任者の本国召還を要求していた。また駐日公使金基完が当初、暴力団に金大中を殺害させようとしていたが、日本警察の監視でその計画を変更し、直接中央情報部要員が犯行を企てたことが関係者の陳述などで明らかになった。在日同胞で日本の暴力団柳川魏志(韓国名・梁元錫)は1980年8月、日本『週刊ポスト』誌とのインタビューで、自分はすんでのところで殺人事件に加担するところだったと述べた。また当時横浜領事館の中央情報部参事だった柳春国も、十余年後の『インサイドワールド』1993年11月号で同じような事実を述べている
このように、事件の真相について数多くの資料が公表された。日本の警察の捜査内容、日本の国会で行われた証言、日本関係者の記者会見、日本の「金大中拉致事件真相調査委員会」の報告、レイナードの証言、ハビブ大使が本国政府に送った電報などを含め、1979年5月10日に公開されたアメリカ国務省の文書、金炯旭(キムヒョンウク)のアメリカ下院フレイザー委員会での証言と回顧録、『新東亜』1987年10月号に掲載された李厚洛のインタビュー、『新東亜』11月号に掲載された崔泳謹らのインタビュー、1987年9月5日、国内で発行された単行本『金大中事件の真相』、被害者金大中の終始一貫した証言、その他数え切れないほどの多くのマスコミ報道記事などがそれである。1973年9月24日、新民党の金泳三議員は「このような犯罪はある機関か、または権力の庇護を受けた団体か組織だけが行えるものだ」と主張した。また、金東雲書記官について彼の出頭を拒否するのでなく、日本に自ら出頭させ、国際社会と国民の疑惑を晴らす考えはないかと政府にただした。
このような金泳三議員の質問と韓日定期閣僚会議の延期は、金東雲の嫌疑と中央情報部の関与疑惑を提起している。日本の警察の金東雲出頭要求と、犯行車両が副領事劉永福の所有であるという発表、また金東雲と李厚洛の解任、国務総理金鐘泌(キムジョンピル)の訪日謝罪なども金東雲の嫌疑を確認するものであり、大統領朴正煕も中央情報部の仕業であることを認めている。
では、そうだとすれば、犯行の最高責任者は一体誰なのか。
朴正煕大統領の最大の政治的ライバルであり、多くの国民から支持を受け、国際的にも注目され声援を受けていた金大中を外国で拉致したり殺害するというような重大なことが、果たして最高権力者の指令なしに実行できるだろうか。この犯行は政権の根幹を揺るがし、その道徳性に致命的な打撃を与えた事件であり、とりわけ国際的には日本の国家的主権を侵害するもので、韓日間ひいては韓米間の関係上、最悪の影響を及ぼしかねない大事件であった。当時朴正煕が絶対的権力者として君臨していた状況で、彼の知らない間に一部の部下たちだけでこのような重大なことが行えるとは、にわかに想像しがたい。朴正煕は国務総理に自分の親書までもたせて日本に出向かせ、屈辱的な陳謝をするなどした韓日政府間の政治的決着は何を意味するものだろうか。韓国公権力の介入有無に対する真相究明と、これに基づく国際法的な原則にのっとった回復措置など一連の原則的な方法を無視し、幕裏での闇取引によって事件を隠蔽し、1973年11月1日、政治的決着を図った情況がすでに明らかになっている。その取引の方向は、韓国の公権力は介入しなかったかのように既成事実化するものであった。したがって、金大中事件についての韓日両国政府の責任は免れないものであり、金大中個人の人権回復はもちろんのこと、歪曲された歴史を正すためにも韓日両国政府は真相究明に乗り出すべきである。
朴政権が金大中を殺害しようとしたのは、国民の支持を受けた民主的な政治指導者を政治的ライバルではなく敵と見なし、それを除去することによって、永久独裁を狙ったためである。金大中のアメリカと東京での反維新民主化闘争は、朴政権の存立を直接脅かすものでもあった。
朴政権の長期執権、不正、腐敗と、社会の不条理を中心とした論争は1971年の大統領、国会議員選挙で争点となり、民主的な基本秩序の回復と公明選挙を主張した「民主守護国民協議会」が発足した。また二度の選挙に相前後した大学生の「学園守護闘争」、司法部独立宣言、言論の自由を守る運動、執権党内での規律違反騒ぎ、実尾島(シルミド)軍特殊兵スパイでっち上げ事件、広州団地事件、大韓航空労働者労賃事件などは当時の政治、社会問題となった。
しかし、維新体制下の朴大統領は韓国政治史上もっとも強力な統治権を発揮できた反面、維新国会は制度的に行政府は対する国政監査権の撤廃などでその牽制機能は喪失し、行政権の隷属化と侍女化に陥っていた。このように「新版ファシスト体制」を構築することによって、名実共に大統領は総統制の位置についていた。70年代の東西和解構図は朝鮮半島では逆に南北間の競争をもたらし、維新体制下の朴政権は「国家保安」といわゆる「政治、社会的安定」「持続的な経済成長」と「セマウル運動」などで翼賛体制を強めていった。そして弾圧、弾圧政治で物理的な安定を強要しつつ高度経済成長を成し遂げていったが、その一方で分配はなおざりにされたままだった。
いわゆる高度経済成長とセマウル運動の成功にもかかわらず、「自由、人権、民主回復」を求める国民の熱望は、維新体制への挑戦となり、政治、社会の安定は確立されなかった。1975年初めには言論弾圧と東亜日報への広告弾圧があり、4月にはインドシナ半島の共産化を口実とした「安保」強化と、5月13日には「緊急措置九号」宣布[憲法誹謗・反政府活動全面禁止]によって、本格的な人権弾圧が始まった。本来、安保は人権のためにもあるのであって、安保のために人権が存在するのではないにもかかわらず、朴政権は国家の「安保」を口実にして、人権弾圧、民主主義への弾圧を本格化させた。
こうして韓国政府は国家的な当面の課題を「政権安保」と「経済成長」に集約させた。即ち、で、崔圭夏総理の「安保外交」と、南悳祐副総理の「経済」を主軸とした「政治脱色と行政の装い」となって現れたのだ。ところが、1978年12月の第十代総選挙では、野党が与党に対して得票率で1.1%勝利した。これは維新体制の国民的支持基盤がすでに喪失していることを意味するものだった。一方、金大中の支援を受けた新民党の新総裁、金泳三は当面の目標として「民主回復」と「人権問題解決」で先頭に立つことを誓った。それにしても、8月のY・H事態に対する朴政権の暴挙は誰もが目をおおいたくなる酷いものだった。[78年8月9日、Y・H貿易の女子労働者達が労組結成、解雇撤回を訴え野党新民党党舎におしかけ籠城。野党とと労組が手を結ぶのを妨害するため2日後、強制解散を口実に警察が乱入、無差別暴力をふるい野党議員や記者たちが殴る蹴るの暴力を受け、その最中に女子労働者一名が死亡した]。
10月4日には与党による単独国会で金泳三野党総裁を除名する強行採決が行われ、野党議員が全員辞表を提出するに至り、国民感情は極度に悪化した。「維新」七年後である10月16日、17日ついに釜山、馬山で市民、学生デモが爆発した。これは10.26事件[1979年10月26日、大統領朴正煕を金載圭KCIA部長がピストルで射殺した事件]へとつながり、事実上維新体制は終結した。
要約すると、維新体制下の70年代の国内政治は金大中拉致事件から始まった人権弾圧で、対話と妥協の政治の代わりに、物理的な強制力を動員した政治不在の状況を作り出し、その結果「脱政治化現象」を生んだ。また中央情報部による人権弾圧の渦の中で、安保と経済成長を追求するために行政の能率化を志向した。そればかりか、体制そのものが「国力の組織化と能率の極大化」に向かい、すべてが官僚主導の機械的な能率中心主義へと変貌させられていたのである。このように70年代の韓国政府は朴正煕の独裁政治という政治の退化現象が生じた時期であった。