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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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韓国朴政権の犯罪、金大中拉致事件と主要メディア

2025年04月30日 | 国際・政治

 下記は、「金大中 拉致事件の真相」<金大中先生拉致事件の真相糾明を求める市民の会(韓国)>(三一書房)の「第13章 権力を引き継ぐ者たちの悲劇─金大中拉致事件が韓国政府に与えた影響」「事件の真相 朴正煕政権の犯行」の全文です。公権力による金大中拉致事件の顛末が実名入りで綴られています。だから、関わった人たちの犯罪は明白です。
 この政敵殺害を意図したと思われる凶悪な公権力による犯罪が、下記のようにいろいろな証拠によって明らかにされているのに、誰一人処罰されず、日韓両国政府によって真相が隠蔽され、事件そのものが忘れ去られようとしている現実は、法治国家にあるまじきことだと思います。これが公権力と関わりのない一般民間人の犯罪であれば、間違いなく全員有罪だろうと思います。だから、こういう犯罪を黙認してしまう日本も韓国も、いまだ「法治国家」といえないと思います。
 また、金大中氏を海に投げこむという殺害行為を阻止したアメリカの関与は称賛されても、朴政権の権力犯罪を知りながら黙認しているアメリカにも大きな問題があると思います。
 残念なことに、主要メディアも「金大中拉致事件の真相」を追求する姿勢がないように思われます。そんな状態だから、尹錫悦大統領が「非常戒厳」を宣布し、力を行使したのだと思います。
 日本には、文在寅前大統領の時に悪化していた日韓関係を、尹大統領となら改善できるという期待がありましたが、そうした期待を公言することは、金大中拉致事件の真相を隠蔽し、公権力の犯罪をなかったことにしようとする両国政府に与することだと思います。
 そういう意味で、韓国の保守政権と日本の自民党政権の「関係強化」は、一般国民の立場から言えば、日韓の「関係改善」といえるようなものではないと思います。
 トランプ大統領のアジア政策、特に安全保障政策がどういうものであるかは、いまだよくわかりませんが、バイデン政権の、「日米韓」や「日米比」、「日米壕印(QUAD)」など多国間の防衛協力体制構築を意図した関係強化は、一般国民の思いとはかけ離れた軍事優先の関係強化だと思います。オースティン前国防長官が講演で語った”二国間主義(Hub-and-Spokes Alliance System )から多国間主義(Multilateral Alliance System) への転換”に基づく政策は、日韓の真の「関係改善」にはならないと思うのです。石破政権は、多国間防衛協力体制の構築に取り組みつつあるようですが、方針転換すべきだと思います。

 関連して私が今気になっているのは、主要メディアが無視している、民主党から共和党に移籍した議員の動向です。
 一昨年のアメリカ大統領選挙に無所属で立候補していた元民主党のロバート・ケネディ・ジュニア氏は、途中で選挙活動を中止し、「民主党は変わってしまった」と主張し、民主党を離れて共和党のトランプ氏支持を表明、現在、トランプ政権の厚生長官という立場で、改革に取り組んでいます。
 また、ニュージャージー州選出の連邦下院議員(2019年~)ジェフ・ヴァン・ドリュー(Jeff Van Drew)氏も、トランプ氏の弾劾訴追に反対し、 2019年12月、トランプ氏の第一期目(2017–2021年)中に民主党から共和党に移籍しています。
 さらに、長年民主党員として活動していたライアン・ギレン(Ryan Guillen)テキサス州下院議員も、「民主党がテキサスの価値観から乖離した」と指摘して共和党に移籍しました。 
 そして、現在私が特に注目したのは、トランプ政権で国家情報長官を務めているトゥルシー・ギャバード(Tulsi Gabbard)下院議員(4期)です。彼女はハワイ第2区選出のサモア系アメリカ人で、米国議会初のヒンドゥー教徒だということです。2020年大統領選挙の民主党有力女性候補として、予備選挙指名争いに加わったようですが、2022年10月、民主党から離党し、2024年10月に共和党に移籍して、今、国家情報長官として活動を始めているのです。
 見逃せないのは、”トゥルシー・ギャバードは、閣僚会議で、彼女の事務所がハッカーが票をひっくり返すことを可能にする投票機の大規模な脆弱性の証拠を入手したと発表した。”という情報です。

  Tulsi Gabbard
BREAKING: Tulsi Gabbard just announced at the Cabinet meeting that her office has obtained evidence of massive vulnerabilities on voting machines that allow hackers to flip votes. WHOAH!!!
"We have evidence of how these electronic voting systems have been vulnerable to hackers for a very long time and vulnerable to exploitation to manipulate the results of the votes being cast, which further drives forward your mandate to bring about paper ballots across the country so that voters can have faith in the integrity of our elections."
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         第13章 権力を引き継ぐ者たちの悲劇─金大中拉致事件が韓国政府に与えた影響
                   事件の真相 朴正煕政権の犯行


 事件の概要を見ると、金大中は1973年8月8日午後一時過ぎ、当時統一党党首梁一東(ヤンイルトン)の泊っていた東京都内のホテル・グランドパレス2212号室で梁一東と当時統一党国会議員の金敬仁(キムギョンイン)に会った後、帰るために金敬任と一緒にドアの外に出た。その瞬間、すぐ横の2210号室とその向かい側2215号室から5人の怪漢が走り出てきて、そのうち3人は金大中氏を2210号室に引っ張り込み、残りの2人は金敬仁氏を梁一東いる2212号室に押し込んだ。怪漢らが金大中を引きずり出して連れ去った後の2210号室には、大型のリュック2個、ショルダーバッグ1個、10メートル余りのナイロン紐 ちり紙、錆び付いて使い物にならない実弾七発が込められたピストルの弾倉一つ、濃度の薄い麻薬剤が入れられた薬瓶、北朝鮮製の「白頭山」二本が入ったタバコなどが置かれていた。日本の警察はここで、犯人の残した指紋を採取し、それが駐日韓国大使館の一等書記官金東雲(キムドンウン)のものであることをつきとめた。怪漢らはホテルの地下駐車場まで降りて金大中を乗用車に乗せ、7月29日、大阪に入港し外港に停泊していた中央情報部工作船536トン「龍金(ヨングム)号」に引き渡した。乗用車は横浜駐在の韓国領事館副領事、劉永福(ユヨンボク)の所有であり、その助手席に金東雲が乗っていたのが日本の警察によって明らかにされている。「龍金号」に乗せられた金大中は縛られ、目にはテープを幾重にも貼られた上に包帯を巻かれ、手足に数十キロの石がくくり付けられた。また、背中に板を立てて体ごと縛られた。金大中は船の中で、犯人らが布団をかぶせて沈めれば水の上に浮き上がってこない、などと話しているのを聞いている。
 しばらくして、金大中は突然ピカッと光を感じとると同時に、轟音を聞いた。その瞬間、船室にいた者たちは「飛行機だ!」と叫んで飛び出して行き、船は一層速度を速めた。数十時間後、龍金号がある港に到着し停泊した後、金大中は目を塞がれたまま救急車に乗せられ、睡眠剤によってすぐに眠らされた。目隠しさせられたまま乗用車に乗せられ、ソウル東橋洞(トンギョドン)の自宅付近で降ろされた金大中は、拉致されて129時間後の8月13日夜10時30分頃、ようやく自宅に戻った。
 以上のようなことからみると、韓国の公権力は金大中を暗殺しようとしたが、思いがけず金敬仁(キムギョンイン)が犯行現場に現れたり、外国当局が「龍金号」上空に飛行機を飛ばすなどの事態が発生し、当初の目的を急遽変更して、拉致し家に帰したようだ。当時乗船していた「龍金号」の調理長だった曺始煥(チョシファン)の1993年9月16日付『時事ジャーナル』誌インタビューと、同月9日の民主党院内総務室で行われた記者会見によって、「龍金号」は中央情報部が運営する工作船であった事実が生々しく暴露された。また、「龍金号」上空に現れた航空機はアメリカの要請による日本の自衛隊所属の航空機だったことを、後にグレッグ前アメリカCIA韓国支部長は金大中に打ち明けている。
 アメリカ国務省は1973年7月、金大中が日本へ行く以前からKCIAがアメリカの犯罪者を雇って金大中を殺害する計画を立てているという情報を入手しており、KCIA責任者の本国召還を要求していた。また駐日公使金基完が当初、暴力団に金大中を殺害させようとしていたが、日本警察の監視でその計画を変更し、直接中央情報部要員が犯行を企てたことが関係者の陳述などで明らかになった。在日同胞で日本の暴力団柳川魏志(韓国名・梁元錫)は1980年8月、日本『週刊ポスト』誌とのインタビューで、自分はすんでのところで殺人事件に加担するところだったと述べた。また当時横浜領事館の中央情報部参事だった柳春国も、十余年後の『インサイドワールド』1993年11月号で同じような事実を述べている
 このように、事件の真相について数多くの資料が公表された。日本の警察の捜査内容、日本の国会で行われた証言、日本関係者の記者会見、日本の「金大中拉致事件真相調査委員会」の報告、レイナードの証言、ハビブ大使が本国政府に送った電報などを含め、1979年5月10日に公開されたアメリカ国務省の文書、金炯旭(キムヒョンウク)のアメリカ下院フレイザー委員会での証言と回顧録、『新東亜』1987年10月号に掲載された李厚洛のインタビュー、『新東亜』11月号に掲載された崔泳謹らのインタビュー、1987年9月5日、国内で発行された単行本『金大中事件の真相』、被害者金大中の終始一貫した証言、その他数え切れないほどの多くのマスコミ報道記事などがそれである。1973年9月24日、新民党の金泳三議員は「このような犯罪はある機関か、または権力の庇護を受けた団体か組織だけが行えるものだ」と主張した。また、金東雲書記官について彼の出頭を拒否するのでなく、日本に自ら出頭させ、国際社会と国民の疑惑を晴らす考えはないかと政府にただした。
 このような金泳三議員の質問と韓日定期閣僚会議の延期は、金東雲の嫌疑と中央情報部の関与疑惑を提起している。日本の警察の金東雲出頭要求と、犯行車両が副領事劉永福の所有であるという発表、また金東雲と李厚洛の解任、国務総理金鐘泌(キムジョンピル)の訪日謝罪なども金東雲の嫌疑を確認するものであり、大統領朴正煕も中央情報部の仕業であることを認めている。
 では、そうだとすれば、犯行の最高責任者は一体誰なのか。
 朴正煕大統領の最大の政治的ライバルであり、多くの国民から支持を受け、国際的にも注目され声援を受けていた金大中を外国で拉致したり殺害するというような重大なことが、果たして最高権力者の指令なしに実行できるだろうか。この犯行は政権の根幹を揺るがし、その道徳性に致命的な打撃を与えた事件であり、とりわけ国際的には日本の国家的主権を侵害するもので、韓日間ひいては韓米間の関係上、最悪の影響を及ぼしかねない大事件であった。当時朴正煕が絶対的権力者として君臨していた状況で、彼の知らない間に一部の部下たちだけでこのような重大なことが行えるとは、にわかに想像しがたい。朴正煕は国務総理に自分の親書までもたせて日本に出向かせ、屈辱的な陳謝をするなどした韓日政府間の政治的決着は何を意味するものだろうか。韓国公権力の介入有無に対する真相究明と、これに基づく国際法的な原則にのっとった回復措置など一連の原則的な方法を無視し、幕裏での闇取引によって事件を隠蔽し、1973年11月1日、政治的決着を図った情況がすでに明らかになっている。その取引の方向は、韓国の公権力は介入しなかったかのように既成事実化するものであった。したがって、金大中事件についての韓日両国政府の責任は免れないものであり、金大中個人の人権回復はもちろんのこと、歪曲された歴史を正すためにも韓日両国政府は真相究明に乗り出すべきである。
 朴政権が金大中を殺害しようとしたのは、国民の支持を受けた民主的な政治指導者を政治的ライバルではなく敵と見なし、それを除去することによって、永久独裁を狙ったためである。金大中のアメリカと東京での反維新民主化闘争は、朴政権の存立を直接脅かすものでもあった。
 朴政権の長期執権、不正、腐敗と、社会の不条理を中心とした論争は1971年の大統領、国会議員選挙で争点となり、民主的な基本秩序の回復と公明選挙を主張した「民主守護国民協議会」が発足した。また二度の選挙に相前後した大学生の「学園守護闘争」、司法部独立宣言、言論の自由を守る運動、執権党内での規律違反騒ぎ、実尾島(シルミド)軍特殊兵スパイでっち上げ事件、広州団地事件、大韓航空労働者労賃事件などは当時の政治、社会問題となった。
 しかし、維新体制下の朴大統領は韓国政治史上もっとも強力な統治権を発揮できた反面、維新国会は制度的に行政府は対する国政監査権の撤廃などでその牽制機能は喪失し、行政権の隷属化と侍女化に陥っていた。このように「新版ファシスト体制」を構築することによって、名実共に大統領は総統制の位置についていた。70年代の東西和解構図は朝鮮半島では逆に南北間の競争をもたらし、維新体制下の朴政権は「国家保安」といわゆる「政治、社会的安定」「持続的な経済成長」と「セマウル運動」などで翼賛体制を強めていった。そして弾圧、弾圧政治で物理的な安定を強要しつつ高度経済成長を成し遂げていったが、その一方で分配はなおざりにされたままだった。
 いわゆる高度経済成長とセマウル運動の成功にもかかわらず、「自由、人権、民主回復」を求める国民の熱望は、維新体制への挑戦となり、政治、社会の安定は確立されなかった。1975年初めには言論弾圧と東亜日報への広告弾圧があり、4月にはインドシナ半島の共産化を口実とした「安保」強化と、5月13日には「緊急措置九号」宣布[憲法誹謗・反政府活動全面禁止]によって、本格的な人権弾圧が始まった。本来、安保は人権のためにもあるのであって、安保のために人権が存在するのではないにもかかわらず、朴政権は国家の「安保」を口実にして、人権弾圧、民主主義への弾圧を本格化させた。
 こうして韓国政府は国家的な当面の課題を「政権安保」と「経済成長」に集約させた。即ち、で、崔圭夏総理の「安保外交」と、南悳祐副総理の「経済」を主軸とした「政治脱色と行政の装い」となって現れたのだ。ところが、1978年12月の第十代総選挙では、野党が与党に対して得票率で1.1%勝利した。これは維新体制の国民的支持基盤がすでに喪失していることを意味するものだった。一方、金大中の支援を受けた新民党の新総裁、金泳三は当面の目標として「民主回復」と「人権問題解決」で先頭に立つことを誓った。それにしても、8月のY・H事態に対する朴政権の暴挙は誰もが目をおおいたくなる酷いものだった。[78年8月9日、Y・H貿易の女子労働者達が労組結成、解雇撤回を訴え野党新民党党舎におしかけ籠城。野党とと労組が手を結ぶのを妨害するため2日後、強制解散を口実に警察が乱入、無差別暴力をふるい野党議員や記者たちが殴る蹴るの暴力を受け、その最中に女子労働者一名が死亡した]。
 10月4日には与党による単独国会で金泳三野党総裁を除名する強行採決が行われ、野党議員が全員辞表を提出するに至り、国民感情は極度に悪化した。「維新」七年後である10月16日、17日ついに釜山、馬山で市民、学生デモが爆発した。これは10.26事件[1979年10月26日、大統領朴正煕を金載圭KCIA部長がピストルで射殺した事件]へとつながり、事実上維新体制は終結した。
 要約すると、維新体制下の70年代の国内政治は金大中拉致事件から始まった人権弾圧で、対話と妥協の政治の代わりに、物理的な強制力を動員した政治不在の状況を作り出し、その結果「脱政治化現象」を生んだ。また中央情報部による人権弾圧の渦の中で、安保と経済成長を追求するために行政の能率化を志向した。そればかりか、体制そのものが「国力の組織化と能率の極大化」に向かい、すべてが官僚主導の機械的な能率中心主義へと変貌させられていたのである。このように70年代の韓国政府は朴正煕の独裁政治という政治の退化現象が生じた時期であった。

 

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日韓政治決着で真実を伏せる

2025年04月25日 | 国際・政治

 下記は、「金大中 拉致事件の真相」<金大中先生拉致事件の真相糾明を求める市民の会(韓国)>(三一書房)からの抜粋ですが、金大中拉致事件当時のKCIA部長・李厚洛(リフラク)氏の証言には、重大な「嘘」が含まれていると思います。
 まず、「天に誓って朴大統領の指令はありませんでした」という証言です。でも、当時、最大野党指導者の拉致というような重大な「指令」をしなければならない状況に置かれていた人、また、それができる人は、朴大統領以外には考えられないと思います。だから、李厚洛氏が、誰が指令したのかを明らかにしない限り、当時の状況からして、この証言は「嘘」であると考えざるを得ないと思うのです。
 金大中氏も、自らにもたらされた情報から、”拉致事件の三、四ヶ月前の73年春、朴大統領が李厚洛氏を呼んで、『金大中を殺せ』と指令したということだ。李厚洛氏が困惑のあまり実行をためらっていると、『金鐘泌総理とも話がついている』として、再び命令を出したということだ”と証言しているのです。
 また、李厚洛氏の次のような証言も、「嘘」であると思います。
私は正直なところ、当時南北対話に全身全霊を傾けていました。私は命がけで平壌に行き、戦争を防ぎ、統一を進めようという一念で、どうすれば統一できるか、という思いしかありませんでした。
 本来、KCIAの部長という立場は、朴正煕政権の政策を進めるために必要な情報を集め、また、その政策を有利に進めるための情報を拡散するために活動する役職だと思います。そういう意味で、彼の南北統一に関する主張や、彼が中央情報部長として平壌を極秘訪問し、その後、北朝鮮と合意するに到ったという「南北共同声明」は、あくまで表向きの目的であり、本当の目的は他にあったと思います。
 それは、当時韓国が、四月革命によって李承晩独裁政権から解放され、第二共和国下にあったこと、そして、自由化された社会の中で学生運動が活発化して南北統一を求める声も高まっていたことなどに、アメリカ軍政当時から反共主義を掲げていた軍部が危機感を抱き、朴正煕氏の指揮のもと軍事クーデターを決行して、政権を奪取した事実が示していることだと思います。朝鮮労働党による一党独裁の社会主義共和制国家である北朝鮮を征伐して服従させる考えはあっても、対話によって南北統一を目指す考えはなかったと思います。

 また、当時の朴政権が南北統一を進めようとしていたのなら、金大中氏を拉致する必要などなかったと思います。
 
 さらに言えば、南北統一は、当時国際情勢の緊張が緩和されつつあったとはいえ、アメリカのアジア政策に反することであり、アメリカの合意なしにできることではないと考えられるからです。
 アメリカの三省調整委員会で決定され、終戦指令文書である「一般命令第一号」の第一節に、38度線に基づく、各方面の日本軍の降伏を受領する連合国の分担を指定する文章が、急遽挿入された目的が、ソ連極東軍の満洲・朝鮮半島への急速南下と、それによる占領地域管理の既成事実化を危惧して、それ以上のソ連軍の進撃、すなわち、ソ連軍占領地域の拡大を抑止し、その共産主義的勢力圏が極東に浸透することを押し止めることにあったこと、また、さらにそれが、NSC48やNSC68にみられるような38度線利用した対ソ封じ込め政策へ発展していったことは、アメリカにとって、極めて重要な政策であることを物語っているのであり、一時的な情勢の変化で、簡単に変更されるような政策ではないと思います。それは、ワルシャワ条約機構が解散されても、NATOを解散させなかったアメリカの政策に示されていると思います。
 当時、警察庁警備局外事課長として、金大中拉致事件の捜査に当たった佐々淳行氏は、犯人を特定していたのに、日韓の政権が、政治決着で幕引きした事実を明かにしています。日韓のそうした関係を、アメリカも後々のために黙認したのだと思います。

(<第10章 アメリカCIA韓国責任者の証言 ─「金大中を助けなければならない」>は、当時の駐韓アメリカ大使、グレッグ氏の証言の一部のみ、抜粋しました) 
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            第1章 李厚洛(リフラク)証言──事件当時のKCIA部長14年目にして口を開く

  天に誓って朴大統領は……
当時朴大統領が強大な権力を掌握していたのは周知の事実だ。それにも関わらず、あのような重大な事件を果たして単独で行い得たのか、疑問は払拭できない。果たして朴大統領の指令は本当になかったのか。
「天に誓って朴大統領の指令はありませんでした。皆さんが取材すると、いろいろな人に会うでしょうし、いろいろな記事を読めばそんなことも考えるかもしれません。ですが、天に誓って朴大統領が指示したことはありませんでした。無責任な与党の幹部にですね、”何をやってるんだ。金大中があんなに勝手なことをふいて回っているのに……”と言うような輩はいたかもしれません。しかし、朴大統領が金大中を引っ張って来いとか、どうこうしろというようなことは全くありませんでした」
 ──朴大統領との関連はそうだとして、金鐘泌氏と拉致事件について何か意見交換をなさいませんでしたか。
「別にありませんでした」
──でも、当時の総理〔首相〕はJP[金鐘泌]でしたから、形式的にも何らかの話はあったかと思うのですが。
「総理だからといっても話したことはありません。……ただその問題で、JPが日本に陳謝使節として出向いた後、”ともかくご苦労をかけてすまない”とは言いました」
 ──金鐘泌氏は80年3月12日、日本の朝日新聞論説主幹のソウル訪問インタビューで「李厚洛氏は拉致計画を事前にアメリカCAIに提供し、アメリカに金大中氏を助けさせた」と述べてますが、これについてもお聞かせ願えませんか。
「それもだね。私の言うことをよく聞いてくださいよ。JPもフィクションで考えたんだ、え、まったく! これまでフィクションを読んで、私が計画して私がアメリカ人に金大中氏を助けさせたなどと、フィクションで言ってることなんだ。本当は違うんだ! 私はJPが言ったことを一度ちゃんと読んでみなければと思ってるんだが……。だからといって、JPを恨んでいるわけじゃない……」
──一般国民として金鐘泌総理はあそこまで言ってるんだから間違いないと思うのが当然だと思いますが、
「私はJPに話したこともなければ、具体的に説明したこともない」
──朴鐘圭(パク・チョンギュ)氏が関連していたという話もありますが。
「朴鐘圭氏は関係ありませんよ」
──事件後、朴鐘圭氏は李部長に何か言いませんでしたか。
「何もありませんな」
──血の気の多い朴室長ですから、何かしら不平を言ったとも考えられますが。
「彼の性格からしてそんなこと言うって? そんなことありませんよ……」
──”天に誓って朴大統領の指令はなかった。朴鐘圭氏警護室長も、金鐘泌国務総理もこの事件と関係ない”とすれば、一体誰がやったというのでしょうか。
 よどみなく答えていた彼の言葉はここにきてぷっつり途切れ、沈黙してしまった。

「告白した」という話は?
 朴大統領自身が金大中事件に言及した唯一の記録は、アメリカコラムニスト、ジャック・アンダーソンが青瓦台を訪問して書いた記事だ。アンダーソンは朴大統領と会って、『私が確認した金大中拉致事件』というコラムを書き、74年11月7日、世界200ヶ国余りの新聞に掲載された。朴大統領はアンダーソンに、「私は神に誓って、私がこの醜悪の事件とは何ら関わりがないと主張する」と述べた。アンダーソンのこの記事は、事件が朴大統領とは無関係であり、李厚洛氏の「単独犯行」を暗示する内容となっている。
 しかし、李厚洛氏がこれまで記者に語った内容を検討してみると、実際は朴大統領が指令を行ったものの、李氏は「朴正煕教の信者」として自分が罪をかぶろうとしているのではないかと思われた。死者はすでに何も語らないのだから。だが、李厚洛氏は再度、朴大統領は全く無関係だと釘を刺した。
「この点は後日歴史を記述してもまったく同じ内容でしょう。間違いありません」   しかし、興味をひくのは金大中氏拉致事件発生十周年を迎えた83年の夏、日本の朝日新聞による金大中氏とのインタビュー記事(8月4日付)だ。その内容は次の通り。
「──10・26〔1979年10月29日、大統領朴正煕が当時のKCIA部長金載圭に射殺された事件」以後、拉致事件関係者が金大中氏に真相を告白し、懺悔したという話もある。ある週刊誌にはあなたの話だとして、李厚洛氏が直接告白したと書かれているが・・・。
金 それは少し違う。李厚洛氏本人がそう言ったのではなく、ある人を介して伝えてきた。間に立った人は双方の信頼できる人物だ。時期は80年の3、4月頃だった。──李厚洛氏は何と言ってきたのか。
金 拉致事件の三、四ヶ月前の73年春、朴大統領が李厚洛氏を呼んで、”金大中を殺せ”と指令したということだ。李厚洛氏が困惑のあまり実行をためらっていると、『金鐘泌総理とも話がついている』として、再び命令を出したということだ。このような経緯を告白しながら『あなたを拉致したのは私だが、助けたのも私だ』と弁明してきた。私を助けたというのは拉致の途中で、彼が殺害中止に何らかの措置をとったという意味だろう。」
 金大中氏は『新東亜』9月号でもこの話を繰り返している。

   イエスではなく、仏のおかげ
 ──この朝日新聞の記事についてはどうお考えですか。お読みになられたでしょう。
 崔泳謹(チェヨングン)氏に会ったのは事実だが、私が金大中氏に伝えてくれと行ってもらったわけではない。彼が遊びに来たので会ったんです。あちらの方から寄越したのかどうか、私は知らない。会って話したことありますよ」
 李部長が会おうとわざわざ呼んだわけではないということですか。
「違う、呼んでいない。日本の新聞にそう書かれたのはニュアンスの差だろう。私が、その、そうじゃないですか。そんな風にいろいろ話があったというニュアンスの差だ! 朴大統領が殺せと言ったこともないし、”私が助けた”ということも、こう言うと誤解を招く恐れがあるので言わなかったんだが、私が崔泳謹氏に腹を立てながらこう言ったんですよ。”何、金大中がイエスのおかげで助かっただと? 仏のおかげだよ。俺が助けてやったんだ! 私がそう言ったのは、さも〔金大中氏が〕自分が死ぬ目に遭って命拾いしたと、しきりにそういう言うんで逆上してしまったのですが、ニュアンスの差で、そういう風にとられてしまったんだと思います」
──すると、崔泳謹氏を金大中氏にわざわざ会いに行かせたとか、まだ二度にわたって朴大統領が除去指令をしたとか、金鐘泌総理も了解した”と言ったとか、そういうことは決してなかったこということなのですか?
「決してありません」
 ──朴大統領が李部長にそのような指示を何らかの形で、それとなく暗示したということはありませんか。
「絶対ありません」
──そうだとすると、金大中氏はなぜそう考えているのでしょう。
「それはたぶん……私がさっき話したように、私はそのようなニュアンスで話したのですが、それが間違って伝わったのかもしれません」
──最近、崔泳謹氏にあったことがありますか・
「最近一度会いましたよ。……あちらから来たんです」
 崔泳謹氏は李厚洛氏と同郷〔慶尚南道出身〕で、五、六代国会議員をつとめ、民主党時代から金大中氏とも親しい間柄で知られている。最近では東橋洞〔トンギョドン:金大中氏の自宅がある町名〕系グループ、民権会議の理事長をしている。

 金大中氏の海外での言動が南北対話に……
 金大中氏が海外で繰り広げた維新反対闘争のどのような言動が国益を害するとされ、実際に事件が起きるきっかけになったのか聞いてみることにしよう。
──具体的に金大中氏のどのような活動が有害だとされたのですか。
「……はあ……、それは〔拉致を〕私がやったと……それを前提として言うのではなく、ともかくまず私の立場を聞いてください。
 私が72年5月24日、金日成(キムイルソン)に会ったとき、”南では政府の統一方式と立場が異なる民主人士も多いようですね”と言われてしまったのです。その時私は、かなりショックを受けました。統一問題について意見があれこれ出るのはわれわれの弱点だと切実に思ったのです。その後私は国会の証言で、金日成が言ったことを率直に述べ、われわれの統一に関する発言はずいぶん注意するべきだと言いました。金大中氏がアメリカでいわゆる「韓国民主回復統一促進国民会議」なるものを結成するとき、アメリカ各地を回って演説したのですが、そこには実に様々な人が集まっていました。だが、その人たちのみなが民主人士というわけではなくて、中には危険人物もいたのです。……金大中氏はカナダでもそのようなものを結成し、今度は日本にも作り、将来ヨーロッパにもということでした。その中には国民会議にとどまらず、亡命政府を樹立しようという人もいたのです。
 私は正直なところ、当時南北対話に全身全霊を傾けていました。私は命がけで平壌に行き、戦争を防ぎ、統一を進めようという一念で、どうすれば統一できるか、という思いしかありませんでした。
 確かにその頃だったと思います。ベトナムでは最終的にベトナム(南)とホーチミン軍隊(北)の会談にベトコン(南ベトナム民族解放戦線)が参加するという三者会談になったのですが、当時ロスアンゼルスや日本への北朝鮮の指令は、その(反政府)組織に積極的に参加しろとか、関心を表明しろというものでした。また反政府系新聞にもそのような方向へ向かう兆候がキャッチされました……。私が南北対話を進める当事者として考えてみると、このままでいては亡命政府の樹立如何に関わらず、へたをすると金日成が、南の朴正煕だけでなく海外にいる民主人士まで含めた三者会談に進もうとする可能性があり得ると思ったのです。なぜなら、私が北のやつらと話すたびに、統一について南には意見の食い違いあるのではないか、という話をしょっちゅう持ち出すのからです。
それは私にとって頭痛の種でした。このままでは南北対話も難しい。どんな組織であろうと海外で全世界的な組織を結成し、反韓活動、反政府活動するというのは、対話の進展に妨げになる。もちろんそんなことはあってはならないが、万が一にも一部の主張するような亡命政府が結成されでもしたら、わが国の権威は失墜します。実際私にはそのような危機感もありました。これらを考慮すると倫理的には胸の痛いことですが、少なくとも金大中氏を本国に連れ戻すべきだという思いにかられました。このようなことから拉致事件が起きたのではないかと考えるわけです。
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          第10章 アメリカCIA韓国責任者の証言 ─「金大中を助けなければならない」 
 ・・・
 グレッグ 私が朝鮮ホテルに泊まっていたとき、一度日本のNHKに証言したことがある。その内容はすでにマスコミで報道されており、新しい事実はない。20年前の事件についての証言は、もうこれが最後になることを願っているが、今回は私が知っている限りのことをお答えしよう。
 私が初めて韓国に到着したのは、73年6月末か7月の初めだったと記憶している。そのとき金大中氏は外国にいた。それからしばらくしてアメリカで、金大中氏の一連の演説があったのだが、その内容は非常に反政府的な内容で韓国政府にとっては脅威的なものだった。そのとき演説会場で野次と騒ぎがあり、金大中氏の演説が妨害された。ハビブ大使は、このような演説妨害は韓国政府の操縦によるものだと言った。日本でもやはり野次と騒ぎがあって演説が妨害されたのだが、私の記憶ではハビブ大使が「他国で韓国政府を批判することは深刻な事態を引き起こす。さらに日本で韓国政府を批判するのは韓国の現状から考えると非常に危険だ。このため、これから金大中氏は大変な目にあうかもしれない」と語った。
 事件の当日である8月8日午後3時頃、私はJASMAK-K(韓国軍事諮問団)クラブにいたが、大使館から電話連絡があり拉致の事実を知った。どの経路を通じたものかはわからないが相当早く情報を入手し、ハビブ大使と話したのを思い出す。その時ハビブ氏は韓国駐在のわれわれのチームを集めたが、それは大使館の政治参事官、CIA ソウル責任者である私、大使館の武官、それに文化広報院長だった。
 大使は「韓国の中央情報部が関与しているようだが、金大中氏を助けなくてはならない。すぐに情報収集し、証拠を集めるように」と指示した。
 この事件は韓国でセンセーショナルな事件であったため、それぞれが情報を入手してハビブ大使に個別に報告した。ハビブ大使はそれらを総合的に判断したのち青瓦台訪れ、真相の確認と憂慮を表明した。
 大使が青瓦台に行ったのは何日なのかはっきりしないが、以前マスコミに話したように、ハビブ大使は金大中氏のアメリカと日本での演説中会場であった野次などの演説委妨害を目撃したので[原文のまま]、拉致事件が起きたという報告を受けても、さほど驚きもしなかった。十分に証拠が集中されて、即刻青瓦台を尋ねたところを見ると、事件を事前に予測していたようだった。また実際のところ、金大中氏の救出に大きな役割を果たしたのはハビブ大使だった。
 ハビブ大使が青瓦台(青瓦台なのか外務部なのか──いずれにしてもトップクラス)を訪ねた後、アメリカはそれ以上、直接的な介入は行わなかったと思う。私が知っている限り、ハビブ大使が青瓦台に行ったのは飛行機問題ではなく、トップクラスに真相の確認と憂慮を表明しに行ったものだ。これによって、アメリカの直接的な役割がいったん終わったと思う。
 しかし、アメリカ大使が本国に報告する方法はいろんなやり方があり、デリケートな事柄については他の制限された方法(他にわからないように行うやり方、私も大使時代にこのような制限された方を使ったことがある)を使うので、その詳しい内容については知らない。
 ・・・

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日韓の「権力」、手を結んで事実を隠蔽

2025年04月20日 | 国際・政治

 かつて、「報道」を三権(行政・立法・司法)に次ぐ権力として「第四権力」とする考え方が存在しました。メディアが「権力の監視役」としての役割を担うという考え方です。現在、そういうメディアの役割は、ほとんど消えてなくなっているのではないでしょうか。
 しばらく前(4月6日)、朝日新聞は、「フォーラム面10年」と題し、ジャーナリストの津田大介氏とフォーラム編集長の真鍋弘樹氏の対談を掲載しました。そのなかで、津田氏は”時代に対応した情報の届き方については、まだ工夫の余地があると思います。でも、結論としてやるべき事はこれまでと大きく変わらないのではないでしょうか。取材して裏付けを取り、隠されていた事実を表に出す。アジェンダを設立し、対立する論点をフォーラムで議論して行く。これを報道がやらなくなったら社会は加速度的にひどくなっていく。諦めるのはまだ早いでしょう。”と語っています。今後の朝日新聞「フォーラム面」に関する大事な指摘だと思います。
 でも、私は、日常の新聞記事や、テレビのニュースなどは、もはや回復が難しいほど”ひどく”なっていると感じます。
 4月16日、朝日新聞は、「俳優逮捕報道 人権への配慮は」と題し、広末涼子容疑者の逮捕を受け、テレビ各局がニュースやワイドショなどで傷害事件を大きく取り上げたことを問題視し、識者からは「興味や好奇心に重きが置かれ過ぎている」と危ぶむ声が上がっている、と伝えました。朝日新聞には、まだ、ジャーナリストとしての良心を失ってはいけないと考えている人たちが存在するということだと思います。でも、日本のメディアは、全体的に、かなり俗悪週刊誌に近づいており、読者や視聴者の関心を引くことしか考えていないような記事やニュースが多くなっているように思います。広末容疑者の報道は、容疑の段階であるにもかかわらず、あたかも薬物中毒で事故を起こし人を傷つけたかのような推理に基づいて、現場を取材したり、広末容疑者の自宅に入る捜査員の様子を伝えたりしていたと思います。そして、容疑の段階でのこうした推理に基づく取材や報道は、事件が起こるたびに見られることで、珍しいことではないのです。
 また、最近のニュースは、事件や事故のニュースが中心であることも、大きな問題だと思っています。読者や視聴者を増やさなければならないという目的が中心になると、どうしても、日本が直面する数々の重大問題には目をつぶって、波風を立てないために権力や多数意見に配慮した方向に進んでしまうのだろうと想像します。そして、いわゆるメディアの過度な商業化や政府広報、警察広報への依存が、事実上「監視機能」を失わせてしまうのだと思います。
 事件や事故の報道も、その原因や背景を自らは考察することなく、”捜査関係者によると…”というかたちで、そのまま伝えた方が、問題にされることなく、楽なのだと思います。その結果、メディアの独自性や個性はほとんどなくなり、同じようなニュースが、同じように流されることになるのだと思います。
 また、国際的な報道では、トランプ政権以前は、アメリカの政治を批判したり、非難したりするニュースがほとんどなかったと思います。でも、「DS解体」を宣言したトランプ氏が大統領に就任したとたん、メディアがアメリカの政治の猛烈な非難や批判をくり返すようになったのも、権力や多数意見に配慮する姿勢になっているからだろうと思います。
 戦争を止めようとせず、平和憲法を無視して、ウクライナ支援の立場をとり、アメリカやウクライナからもたらされる情報を何の検証もせずに報道してきたことも、そういう姿勢だからだろうと思います。
 そういう意味では、上記の津田氏と真鍋氏の対談のなかでも取り上げられているデジタルメディアとフェイクニュースの問題で、見直されている伝統的メディアの地道なファクトチェク、言い換えれば「事実検証機能」が、特に、国際的な問題では全く機能していなかったといえるように思います。だから、日本の報道は「大本営発表」をそのまま伝えた戦前とかわらない状況だったと思います。
 ウクライナ戦争における国際社会のウクライナ支援を決定づけた「ブチャの虐殺」には、当初から、あちこちでさまざまな疑問が指摘されていたにもかかわらず、日本のメディアは、そうした指摘には目をつぶり、アメリカやウクライナからもたらされる「検証されていない情報」を伝え続けました。かつての「大本営発表」が、アメリカやウクライナからもたらされる情報に変わっただけだということです。

 

 下記は、「金大中 拉致事件の真相」<金大中先生拉致事件の真相糾明を求める市民の会(韓国)>(三一書房)の「刊行の辞」の一部です。本来メディアは、「第四権力」として、こうした国家が絡む事件の真相を糾明し、報道することに全力を尽くす必要があったと思います。それが、「第四権力」としての報道の役割だったと思います。でも、残念ながら、日韓のメディアは「第四権力」としての役割を果たすことができなかったのだと思い

ます。

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                                刊行の辞


かつて老子は「古(イニシエ)の道を執りて以(モッ)て今の有(ユウ)を御(オサム)」(執古之道 以御今之有:過去の理を把握することにより今の現実を治める)と述べ、ドイツのワイゼッカー元大統領は「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」と語った。
 金大中(キムデジュン)先生拉致事件の真相究明運動もまた、歴史における過去の疑惑を明らかにせずには、正しい現在と未来は建設し得ないという自明の命題から出発したものだった。過去の不正をふせたまま、今日と明日の正義を論じることはできない。
 なかんずく、この事件は古今東西類例をみない政敵殺害のシナリオ立案のもと、綿密に計画された公権力の蛮行であったという点で、韓国の政治史上拭えない恥部を残してしまった。さらに、韓日両国政府の野合で隠蔽されたことによって、殺害目的の拉致だけにとどまらないもうひとつの犯罪性が加算されてしまった。
 これに抗して、韓日両国の良心的政治家と市民運動勢力はその視点を拉致被害者個人の人権侵害に限ることなく、不正な権力犯罪の究明と問責、正しい韓日関係の成立までに終局目標をおいて運動を繰り広げてきた。しかし、両国の権力者たちは依然として事件真相究明の要求を黙殺し続けている。1992年には、この問題で自国の政府を叱咤してきた両国の野党、または野党人士が相前後して執権することになったが。だが、彼らはいざ權座に腰をおろすと、それまで自らが非難の対象としていた前任執権者たちとあまり変わらない「無関心」を装っている。驚くべきこの大事件で、処罰された者は誰一人としていないという事実そのものが、当時の最高権力者関連説を否定しがたいものにしている。
 ・・・以下略

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政府効率化省とDS解体とトランプ関税

2025年04月14日 | 国際・政治

 朝日新聞の論説主幹・佐藤武嗣氏は、4月10日、「座標軸」という欄で、”秩序破壊「法の支配」説く時”と題し、トランプ大統領を批判する記事を書いています。
 その文章は、「(戦後の)80年間の時代は終わった。これは悲劇だが、新たな現実である」。というカーニー首相(カナダ)のトランプ関税を批判した言葉で始まっています。
 そして、”世界は、関税競争や経済のブロック化が第二次世界大戦の引き金を引いたとの反省から、貿易自由化にかじを切り、ブレトンウッズ体制や世界貿易機関(WTO)を育んできた。その流れを主導した米国がいま、秩序の破壊に猛進する姿に、失望と危機感を抱く”と続けています。
 さらに、”世界相手に貿易戦争を仕掛ける狙いは何か”、と自問し、”思い当たることがある”というのです。
 その”思い当たるフシ”というのは、
ワシントン特派員だった8年前、トランプ大統領の最初の演説で飛び出した「殺戮(carnage)」という耳慣れない言葉にぞっとした。自由貿易や寛容な移民政策により米国市民が犠牲になったという文脈だった。自らの主張を正当化するには、戦後秩序で他国に利用された「報復」として関税発動が欠かせない。そんな執念を今回は「解放記念日」と呼んで炸裂させた。…”
 といいます。
 でも佐藤氏は、トランプ氏が「ディープ・ステート(deep state 略称:DS)解体」を公約して選挙に勝利し、その公約に基づいて、政府効率化省(DOGE)を設け、組織改革(縮小)に取り組んでいることは、まったく考慮していないように思います。佐藤氏は、トランプ氏の公約について、なぜ直接トランプ大統領に問い質した後で、文章を書かないのかと思います。主要メディアには、それくらいのことができないわけはないと思います。でも、そうしたことをせず、想像で批判する文章を書くのは、「DS解体」の意味が明らかになると困るからではないか、と私は疑います。だから、トランプ大統領の政策が、戦後のアメリカの戦略の大転換であることについては、書くことができないのではないか、と思います。
 私は、「DS」というものの実態がはっきりせず、また、いかにも「陰謀論」めいているので使いたくはないのですが、トランプ大統領が「DS」と呼ぶような組織集団の存在は否定できないと思います。そして、トランプ大統領の関税政策は「秩序の破壊」ではなく、「DS解体」のためであり、「秩序の転換」として理解するべきだと思います。トランプ大統領の「執念」というような個人的な思いの問題として語ってはならないと思うのです。
 さらに言えば、戦後世界の「秩序」は、圧倒的な軍事力と経済力を背景に維持されてきた、アメリカのための「反共的秩序」であり、「法の支配」と呼べるようなものではなかった、と私は思います。それは、アメリカの戦争や、反米的な国の政権転覆、また、米軍基地問題などをふり返れば、分かるのではないかと思います。アメリカに逆らう国には制裁を科し、なお逆らえば、軍事力を行使するというようなかたちで維持されてきた秩序は「法の支配」に反するものだと思うのです。 

 そういう意味で、下記のようなスノーデン氏に関わる情報は、アメリカの影響力行使に手を貸してきた日本の関係者には、深刻な問題だろうと思います。(この情報について、その後、あちこち調べましたが、どこにも関連情報が見当たらず、フェイクの可能性が大きいと思いました。でも、説得力のある情報であり、いくばくかの可能性を考慮して、そのままにすることにしました。)

”New Trump Administration Japan DS Dismantling Group Formed Started in the direction of elimination

Officials from the new Trump administration have visited Japan one after another, and the Japanese government is said to be in a state of frenzy. As for why he came to Japan, he came to crush Japan's deep state in order to fulfill Trump's presidential campaign promise of "abolishing the deep state". That's what it means. (Itagaki Information Bureau) To completely eliminate DS, it is necessary to cut off its funding source, and that funding source is Japan, a dark place The leaders of the effort to eliminate DS all have "red records.

The new Trump administration will establish a (secret) organization called "Japan Countermeasures Department" and its director will be Edward Snowden, a former CIA and NSA employee who is familiar with the behind-the-scenes aspects of DS (returned to the US in January 2025). It is rumored that a new member will be appointed.”

日本DS解体グループ結成 廃絶方向で始動

トランプ新政権の高官が次々と来日し、日本政府は狂乱状態にあるといわれています。なぜ日本に来たのかというと、トランプ大統領選の公約である「ディープステートの廃絶」を果たすために、日本のディープステートを粉砕するために来たのだ。それが意味するところです。(板垣情報局)

DSを完全になくすためには、その資金源を断つ必要があり、その資金源は暗い場所である日本です。DSを撲滅する取り組みのリーダーたちは、全員が「レッドレコード」を持っています。

 トランプ新政権は「対日対策部」という(秘密の)組織を設立し、その長官は元CIAやNSAの職員でDSの裏側に詳しいエドワード・スノーデン氏(2025年1月に帰国)が務めます。新メンバーが就任すると噂されています。(機械翻訳) ”

 

 下記は、<『朝鮮戦争の起源2⃣ 1947年─1950年 「革命的」内戦とアメリカの覇権』【下】』ブルース・カミングス:鄭敬謨/林 哲/山岡由美「訳」(明石書店)>から「第四部終幕  第19章 封じ込めのための戦争」の抜粋ですが、「法の支配」に反する反共的なアメリカの戦略が、明らかであると思います。
 特に、下記のような記述は見逃せません。
朝鮮戦争にアメリカ空・海軍を参戦させるという重要な決定について一人で取り組み、決定はその夜ブレアハウスで承認された。”
”それらの決定は連邦議会や国連での協議を待たずに下されたものだった”
”スティムソンは真珠湾攻撃の直後に、「ハワイを直接攻撃することで、今や日本人がすべての問題を解決してくれた」と日記に記し、「優柔不断の時期が過ぎ、全国民を団結させるような形で危機が到来したという安堵感」を吐露している”
”だが、アチソンは間違っていた。これは北側にとっても、南の住民の多くにとっても、朝鮮の戦争だったのだ。が、アメリカにとっては東西問題であり、1944年以来、李承晩が絶えず引き起こそうとしてた成り行きだった。そのため、この戦争は北朝鮮対アメリカ人の戦争となり、同じ物差しで側れない。それゆえ、相手には理解しがたい目的の為に、互いを殺戮しあう羽目になったのである。 
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                         第四部終幕
                    第19章 封じ込めのための戦争


 敵は自らが企てたことをせず、その正反対の行動に出た。彼らに成し得たことの中でも、これほど自らの目的を挫くのにうってつけの行動はないだろう。それもすべて自身の愚かさのなせる業である。…これはいずれの陣営にとっても、朝鮮の戦争ではないのだ。 ディーン・アチソン


 1950年6月、ひっそりと静まり返った週末の土曜日の夜、ディーン・アチソンは「例によって遅くまで国務省で過ごした」後、メリーランド州のサンディ・スプリングの農場に帰っていた。その夜、すなわち6月24日の午後9時26分に、ジョン・ムチオ(アメリカ合衆国・駐韓大使)から最初の電報が届く。一時間と経たないうちにディーン・ラスクは国務省に駆けつけた。ジョン・ヒッカーソン(国務次官補・国際連合担当)が直ちにアチソンに電話をかけると、アチソンは、安全保障理事会をあす開催させるのに「必要な措置をとるよう」命じた。ヒッカーソンは午後11時30分、国連事務総長トリダヴェ・リーに安保理開催を要請した。ラスクが後に認めたように、この決定はソウルからのこの最初の電報に基づいたものだった。
 このとき実質的にワシントンにいた政府高官はアチソンとラスクの2人だけだった。トルーマンはその朝、ミズリー州インディペンデンスの自宅に向かっており、日曜日にひそかに弟の農場に立ち寄ってからワシントンに戻ってきた。その後の数日間、アメリカの陸・空軍部隊をまもなく戦闘に送り込むことになる意思決定を支配したのはアチソンだった。アチソンは(ラスクとともに)朝鮮問題を国連に持ち込むことを決定し、その後戦闘についてトルーマンに知らせた─その際トゥルーマンには、翌日までワシントンに戻る必要はないと伝えている。6月25日夜のブレアハウスでの会議では、韓国に対する軍事援助の増強、アメリカ空軍が韓国からの退避を援護すること、および台湾と中国本土の間に第七艦隊を介在させることを主張。6月26日午後には、朝鮮戦争にアメリカ空・海軍を参戦させるという重要な決定について一人で取り組み、決定はその夜ブレアハウスで承認された。したがって、介入の決定はアチソンが下し、大統領がこれを是認したわけだが、決断が下されたのは国連や国防総省、連邦議会の承認を得る前のことだった。
 この6月の諸決定を支持したジョージ・ケナンは6月26日午後にアチソンが合議制の話し合いを打ち切ったメモをもとに、次のように回想している。

 彼は一人になって口述を書きとらせる時間がほしいと言った。そして、われわれを[3時間後に]呼び入れると、作成した文章を読んで聞かせた。それは大統領が最終的に発表した声明の原案であり、翌日の最終発表まで大きな変更は加えられなかった…政府が実際にとった方針は、軍指導部が[アチソンに]押しつけたものではなく、アチソンが一人で熟慮を重ねた末に自らたどり着いたものだった。

 アチソンも「その話は自分の記憶と一致する」とケナンに同意する。その晩、ブレアハウスに集まったグループは朝鮮戦争への空・海軍投入を承認し、台湾と中国本土の間に第七艦隊を置くことにした。ケナンは6月26日の決定が極めて重要だったと言及しているが、アチソンによれば、
「午前に…伝えたわれわれの行動計画について、それを実行するよう国連が求めてきたのは、〔6月27日の]午後3時になってからのことだった」)。記者クラブでの演説と全く同様に、朝鮮に関する決定はアチソンの手になるものであり、「一人で熟慮を重ねた末に」たどり着いたものだった。

 これらの決定は朝鮮における封じ込めというアチソンの論理の帰結として生まれたものだが、封じ込めの論理は最初1947年に練られ、記者クラブでの演説を構成したものだった。日曜日の午後、何とか時間をとって朝鮮情勢を考え抜いた際、アチソンは「後退」すればアメリカの力と威信は台無しになると結論付けた。「威信というのは力の投げかける影のことであり、これは抑止力として非常に重要だ」。彼はこんな言葉を残していることを思い起こしていただきたい。「われわれがこれまでにしなければならなかったのは防衛を組み立てることだったのだが、その手段は不十分で、一つひとつのプレーがどこでディフェンスラインを破るのかをわれわれは手探りで判断していた」。「野党/敵(オポジション)の仕事とは反対/対戦することであり、彼らは自分たち自身が作り出した状況で可能な限りのことをしている」。自分の言葉通り、アチソンは創造の際に居合わせた。アチソンは自分が、不十分な資源でアメリカの覇権的利益の観点から世界を形作っていると考えた。アチソンはアジアにおける防衛計画を立て「一事態」を築き上げたが、そこでは攻撃行為が失敗することとなっていた。この論理においては、彼が必ずしも攻撃を予期している必要はなく、それが朝鮮で起きることを望んでいる必要もない。アチソンは距離を置いて、じっくりと環境を構築することを望んだ。これまで詳しく論じてきたのは朝鮮と台湾の二カ所だが、ソビエト帝国周辺で火種となり得た地域としてイラン、トルコ、ギリシャ、ベルリンを付け加えることもできよう。
 真珠湾攻撃前のヘンリ・スティムソン陸軍長官の思いを身近に感じていたアチソンは、攻撃が起きた時、彼と同じようなカタルシスを覚えた。スティムソンが「巧みに操って」日本人に攻撃させたかどうかはさておき、スティムソンは真珠湾攻撃の直後に、「ハワイを直接攻撃することで、今や日本人がすべての問題を解決してくれた」と日記に記し、「優柔不断の時期が過ぎ、全国民を団結させるような形で危機が到来したという安堵感」を吐露している。アチソンは朝鮮を同じように見ていた。すなわち朝鮮がNSC68の問題を解決し、アメリカ人を団結させた。そのおかげで、先例がないほど多額の防衛費を費やしてソ連がしかけたとされる侵略行為を阻止するという政策が支持されたのだ、と。ジョセフ・ハーシュは、朝鮮に関する決定が下された直後のこうした雰囲気を捉えて、「かつて……感じたことがないほどの安堵感と一帯感は、この街を通り抜けていった」と書いている。
 アチソンは自らの論理から後に「これはいずれの陣営にとっても、朝鮮の戦争ではない」という結論にたどり着いたが、これは以下のような考察から生まれた啓示的なコメントであるといえる。
 朝鮮は局地的な事態ではない。朝鮮自体に大きな価値があるからこの攻撃が生じた というわけではないのだ。この攻撃は彼らが朝鮮にいくばくかの土地を求めたものではなく、共産主義者の支配グループ全体が西側の勢力地域全体にしかけた猛攻撃の急先鋒だったが、主として東洋への攻撃でありながら、全世界にも影響を与えた。共産主義者の目的はむろん朝鮮を統一させることだったが、日本や東南アジア、フィリピンに揺さぶりをかけ、東南アジア全域を手に入れ、ヨーロッパ情勢にまで影響を与える狙いもあった。それこそが朝鮮で戦争が起こっている理由なのである。

 そして、「敵は自らが企てたことをせず、その正反対の行動に出た。彼らになし得たことの中でも、これほど自らの目的を挫くのにうってつけの行動はないだろう。それもすべて自身の愚かさのなせる業である」。朝鮮は両陣営にとっての「実験場」であり、「それは両陣営の世界的な目的のための世界戦略だ。これはいずれの陣営にとっても、朝鮮の戦争ではないのだ」。
 こうした考え方は本書で論じてきたことのほとんどをどこかへ追いやった。つまり、朝鮮人とその歴史は現実の問題とは無関係と見なされ、排除されたのだ。アチソンにしてみれば、朝鮮で戦争が起こったのは偶然にすぎなかった。朝鮮はスペインと同じで、超大国にとっての実験場だった。この時期における朝鮮の実際の歴史は、いわゆる「南北」問題に相当するものであり、主たる政治課題は脱植民地化と植民地主義の遺産を根本的に再編することだった。これを東西の枠組みに置き換えれば、実際の歴史は関係がなくなり。朝鮮の内部環境に関する知識がほとんどなくても、朝鮮戦争に関する文献をすっかり書けてしまうことになる。
 だが、アチソンは間違っていた。これは北側にとっても、南の住民の多くにとっても、朝鮮の戦争だったのだ。が、アメリカにとっては東西問題であり、1944年以来、李承晩が絶えず引き起こそうとしてた成り行きだった。そのため、この戦争は北朝鮮対アメリカ人の戦争となり、同じ物差しで側れない。それゆえ、相手には理解しがたい目的の為に、互いを殺戮しあう羽目になったのである。
 しかし、それでもやはり、これは封じ込めのための戦争であり、防衛戦争のだった。世界に関するアチソンの高慢で冷酷な論理においては、よほどたやすく実現するのでない限り、李承晩の庇護の下で朝鮮が統一されるなど論外だった。アチソンは7月半ばにこう語っている。「38度線を奪還するのに必要な戦力を投入しなければならない。これはつまり、力ずくで追い出されたら、一刻も早く再びそこに戻っていくべきだということだろう。中国が参戦するとしても、同じことが言えるだろう。「ソ連が参戦しても、全面戦争になるまで徹底的に朝鮮で戦うべきだと私は考えるだろう」。
 これは凄まじいまでの封じ込めだったが、封じ込めであることに変わりはなかった。トルーマンはアチソンの考えを受け入れ、その後二人の方針がぶれることはなかった。そして、ワシントンでは官僚にも政治家にも巻き返し政策が重視されるようになり、何ら犠牲を伴わないと考えられた。6月26日、トルーマンはある側近に、朝鮮は「極東のギリシャだ」と語った。このたとえ方が、後にミュンヘンやチンギス・ハーン、ティムールになぞらえた時より、アチソン流の論理と朝鮮内戦の真実にはるかに近い。韓国には巨大な経済協力局(ECA)と駐韓アメリカ軍事顧問団(KMAG)がついており、トルーマン・ドクトリンの間接的な封じ込め網の一部であったが、そう認識されていたのは国務省内でのことにすぎなかった。6月26日までに韓国軍の崩壊が明らかになると、こうした論理はアメリカの軍事力を用いた直接的な封じ込めへとシフトしていった。
 アチソンがまず頼りにしたのは国連であって、アメリカ連邦議会ではなかった。彼は無礼にも、自分に同意しない者の見解は──それが軍であれ、立法であれ、社会全般であれ──安易に侮るところがあった(彼にとって世論は、自身の自律的な政策決定に対する意地の悪い制約だった)。本人の言によれば。彼が6月24日から26日かけて議会と協議しなかったのは、「その時点でごく明白だと思われた状況をすっかり混乱させ」、議員らが「大統領特権を制限する」おそれがあったからだという。(国連ではそのような問題は生じない)。1950年6月28日という早い時期にタフト上院議員がアチソンとトルーマンの決定を「大統領よる武力行使権限の完全なる侵害」と評したが、後にそのことを聞かれたアチソンはかなりの驚きをあらわにした。交戦権が連邦議会の権限であるとはアチソンには思いもよらなかったのだろう。
 事にあたってのアチソンの秘密主義は、前提をはっきりさせないとか小うるさい民主主義を寄せ付けないというレベルにとどまらず、自らの決定にかかわる情報を墓場まで持って行き、歴史的記録から隠すほどに徹底していた。アチソンは意思決定に関して、たいていは自身が唯一心から信用した自分の顧問と内々で決めてから、アチソンの意見に従うことの多い経験不足の大統領に指示するといった自律的なやり方を好んだ。
 アメリカ軍指導部はアメリカの軍事力の限界について、より冷静で控えめであり、ブレアハウスの会議から明らかなように、朝鮮戦争への地上部隊投入について消極的だった。だが、アチソンは軍部の判断もほとんど相手にしなかった。後の彼の言葉によれば、統合参謀本部は「自分の発言を耳にするまで、自分が何を考えている分からない」のだった。しかし、ひとたび話せば「御大が話したのだから絶対に正しい、となる」。アチソンによれば、国家安全保障会議の席で、統合参謀本部はたいてい誰も読まないような難解な文書で自らの見解を示し、「それから議論するのだが、その後私の経験ではいつも、私が健全な意見だと思うほうを大統領が支持した。それは私が大統領に提示する意見だった」。国防総省と国務省の間に論争が生じると、大統領はほとんどの場合アチソンの見解に従った。「私がそれを提案したからではなく、もう一方の意見があまりにばかげていたからである。何らの価値もなく、考え抜いた案とはいえなかった」。
 アメリカの世界戦略の計画能力という点では、統合参謀本部についてのアチソンの言葉は正しかった。国防総省は省の特権や予算をめぐるすったもんだ、あるいは神聖なる標準作業手順といったことに慣れ親しんでいたため統合参謀本部による方針説明は、グレアム・アリソンいうところの官僚政治的「つぎはぎ(モザイク)」の支離滅裂な性質を帯びていた。アチソンの覇権主義的な指揮と世界構想は、アメリカ政府内のこうした流動性を支配した。これはアチソンが自説の「第一モデル」に見切りをつけるのが早すぎたことを物語る格好の証拠である。これまで論じてきたように、戦後まもない時期の外交政策決定機関はアメリカ政府内で驚くほどの独立性を有しており、アチソンはその慧眼ゆえに、次々に下される重大な決定に関して有利な立場に立った。だが、それにもかかわらず、国際協調主義者の持続的な膨張主義より、まとまりのないモザイクほうが、朝鮮やその後のヴェトナムにおけるアメ リカの軍事力の限界に関してすぐれた感覚を示したのである。
 ・・・以下略

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「逆コース」を主導したケナンの思想

2025年04月12日 | 国際・政治

 戦後の日本や韓国(朝鮮半島)に決定的な影響をもたらした「対ソ封じ込め政策(Containment Policy)」を主導したジョージ・ケナン(George F. Kennan)が、モスクワのアメリカ大使館における勤務経験を生かし、本国に送った「X論文(X Article)」、通称「長文電報」は、トルーマン政権内で回覧され、アメリカの冷戦外交の基本方針となる「封じ込め政策」につながったといいます。
 そして、ケナンが1948年の訪日調査を基に日本の戦略的価値を再評価し「日本の経済復興と安定が極東の安全保障に不可欠である」と結論づけたことが、日本のGHQの政策転換、いわゆる「逆コース」の政策となったということです。
 下記は、<『朝鮮戦争の起源2⃣ 1947年─1950年 「革命的」内戦とアメリカの覇権』【上】』ブルース・カミングス:鄭敬謨/林 哲/山岡由美「訳」(明石書店)>「第二章 封じ込めと国際協調主義  第一部 アメリカ」「ケナンの工学」の抜粋ですが、下記のような記述が見逃せないと思います。
他方ケナンは、日本を再びソ連といがみ合うように仕向けて二十世紀初頭のような勢力均衡の状態を打ち立て、アメリカ人の血と財産を無駄にするようなことはすまいと考えていた。
 
「かつて日本の工業・商業の分野で指導的立場にあった人物は同国で最も有能なのだということ。また、そのような人物が一番の安定要因であるということ。さらに、彼らはアメリカとの間に最も強い自然な関係を結んでいるということ。そうした点に鑑み、アメリカは、以前の指導者層が日本において当然つくべき地位に収まるのを阻む要因を取りのぞかなければならない」。
 こうしてケナンは戦争犯罪人やこれを支援した財界人の追放に終止符を打つよう要求するとともに、日米二国間の条約の作成に「すぐに着手し」、「賠償の額をできるだけ低く抑え」、世界の両極体制のなかに日本組み込むことを求めたのである。その後も、日本が後背地を必要とすることになるだろうと、平然と述べた。
 こうしたカイロ宣言やポツダム宣言に反し、国際社会を欺瞞する考え方が、「逆コース」という現実の政策となったのだと思います。 

  したがって、日本や韓国におけるアメリカ追従の反共的な戦後政治は、ケナンによってもたらされたと言ってもよいと思います。
 いつまでも、そういうアメリカの戦略に従って、反中・反ロの政治をやっていては、世界の平和も、日本の発展も望めないように思います。
 
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                    第二章 封じ込めと国際協調主義  
                       第一部 アメリカ

ケナンの工学 
 アチソンは封じ込めを作った建築家なら、ケナンはさしずめ技師といったところだろう。ケナンは理念を明確化して積み重ねる計画を発展させ、アチソンの建築の構想に内実を与えた。ケナンは全体を見渡すことができずアチソンの代わりを務めることなどできなかった。というのもケナンにはアチソンのような政治的手腕もなければウォール街での実績もなく、それに世界でアメリカの占める位置を政治経済的へーボニーと捉えることが根本的にはできなかったからだ。しかしアチソンの世界都市の部品を捉えつけ、ブロックを処理する腕前は名人級だった。
 ケナンの封じ込め観の核心は産業構造についてのケチな理論にある。〔ケチな理論とは、事柄を説明するために必要以上に多くの実体を仮定すべきでないという考え方。〕ケナンにはアチソンのように技術決定論者的なところがあった。世界市場での競争力を持つ産業の連合が進撃して行くグランド・エリアをアチソンは思いえがいていたのだが、ケナンの頭にあったのは国内産業という現実政治の概念であった。戦争を遂行するためにも、超大国の地位を保つために。産業基盤を発展させることは非常に重要だった──われわれのところには四つあって、彼らには一つしかなく、この状態をそのまま維持する必要がある。つまり、封じ込め政策とは、アメリカとイギリス、西ヨーロッパ、日本を守ることであって、産業化されていない無防備な地域、特に遠く離れた野蛮なアジアでの小競り合いや革命にいちいちかかずらっていられないのである。1947年のドクトリンで国家主義的な傾向が抑えられているのは、こうした考え方が中核の前提になっていたからである。
 ケナンの決定論はたわいない西洋文化理解と混じりあっていた。ちょうど昔の中国の皇帝が持っていたイメージの裏返しである。ケナンにとってアジアは、西ヨーロッパから外へ向かって広がる高等文明のはるかかなたにある辺境の地であった。文明の最初の一滴が落とされるのは東ヨーロッパ、そして次がロシアであり、この地域の悪徳は大半が「オリエンタル」なものだった。中国やその弟分の朝鮮にたどり着く頃には、文明の樽の底をさらえても、出てくるのは野蛮ばかりという状態になる。日本はアジアで例外だったが、それはそのつまらない文化のお陰ではなく、産業基盤があるからだった。
 ・・・
 …それゆえにケナンは1949年9月、ラスクと〔無任所大使のフィリップ・〕ジェサップに、次のような事を伝えたのである。
 日本の影響とその行動とが朝鮮と満州に再び及ぶことに対し現実主義の立場から反対できなくなる。そんな日がいつか訪れる。われわれが予想するよりも早くその日は訪れるかもしれない。実のところ、これは満州や朝鮮でソ連の影響力を迎えうち、緩和する上で唯一の現実的な展望なのである。……このように勢力の均衡を使うという概念はアメリカの外交で目新しいことではない。国際情勢の現状に鑑みしたとしても、その概念の妥当性を認めることは、いかに早くとも早すぎることはないと[政策企画室]は考えている。

 ケナンはさらに、ローズベルトがヘンリー・キャボット・ロッジ上院議員に宛てた1905年の書簡に脚注で触れた。ロシアは「日本と差し向かいになったほうがよい。そうなれば、お互いに相手に与える影響を和らげられるだろうから」と書いてある手紙だ。さらに彼は「日本による半島の支配」のほうが「朝鮮での失政や中国の介入、ロシアの官僚制」よりはましだというデネットの見解も脚注で紹介している。
 友人であるアメリカがこんな具合だったから、朝鮮には敵など必要なかった。解放の4年後に、日本による支配を押しつけようと論じる封じ込めの発案者が現れたのである。帝国主義者にとっても、膨張主義者にとっても、アジア大陸は歴史をもたず、歴史を作れない民の住む真空地帯だった。両者の違いは、帝国主義者が「開放された」真空地帯に満足していたのに対し、膨張主義者がアメリカ人による支配を望んでいたという点ぐらいだった。
 東アジアでケナンの注意を引いたのは日本だけだった。そして1947年に悪評を得、自らの戦略を明確にしたことが、「逆コース」あるいはケナン復古主義ともいうべきもの──マックス・ビショッップらジャパン・ロビーの助太刀がずっと必要だったにしても──の考案につながった。日本を復興させて第二級の産業国にし、世界経済の蓄積のエンジンとして位置付けることが望みなのだとすると、ケナンは日本を第二級の地域大国として蘇らせて覇権国に骨抜きにさせる一方で、昔からの勢力圏は自由に支配させようと考えていた。アチソンをはじめとする国際協調主義者には、胎動期のアジア大陸の各地や朝鮮を日本の復興とどのようにつなぎ合わせるかという問題に関する世界経済観というものがあった。他方ケナンは、日本を再びソ連といがみ合うように仕向けて二十世紀初頭のような勢力均衡の状態を打ち立て、アメリカ人の血と財産を無駄にするようなことはすまいと考えていた。
 1947年9月には逆コース実施に関する文書の草案がケナンの指導のもとに作成されたが、その冒頭では、二つの陣営に分かれた世界に関する分析がなされている。当を得た分析で、その頃スターリン主義者のジダーノフが抱いていた世界像に驚くほどよく似ていた。

 現在の世界情勢を特徴づけているのは、以下の事実である。第二次世界大戦の結果、力が二つの中心点──アメリカとソ連──に集まったということ。この二つの力の関係は闘争であり、攻勢に出ているのはソ連でアメリカが守勢に立っているということ。さらに、個々の国家を引きよせる可能性をもつ第三の中心点は存在しないということ。このため政治的分化が起こり、それでどちら側とも関わりのなかった諸国が、ソ連の攻撃に屈服するか、あるいは防衛のためアメリカと連合して難を逃れるかのいずれかの動きを見せていることである。

 その文書が描いていた将来の日本像は、「アメリカに友好的」で、外交面ではアメリカの指導に従順、「産業面では主に消費財の、次に資本財の生産国として復興し」、貿易も盛ん、というものである。また軍事的には「外部からの攻撃に対する安全保障の面でアメリカに依存」すると考えられていた。さらにこの文書は、日本共産党のような「傀儡集団」が安定を脅かすようなことがあった場合にアメリカが「介入する道徳的権利」を留保している。身も蓋もない文言はさらに続いた──「かつて日本の工業・商業の分野で指導的立場にあった人物は同国で最も有能なのだということ。また、そのような人物が一番の安定要因であるということ。さらに、彼らはアメリカとの間に最も強い自然な関係を結んでいるということ。そうした点に鑑み、アメリカは、以前の指導者層が日本において当然つくべき地位に収まるのを阻む要因を取りのぞかなければならない」。
 こうしてケナンは戦争犯罪人やこれを支援した財界人の追放に終止符を打つよう要求するとともに、日米二国間の条約の作成に「すぐに着手し」、「賠償の額をできるだけ低く抑え」、世界の両極体制のなかに日本組み込むことを求めたのである。その後も、日本が後背地を必要とすることになるだろうと、平然と述べた。1949年10月、ケナンはアメリカの政策にとっての「ひどいジレンマ」という言葉に口にしている。

 南方に向かって帝国のようなものを再び切り開かないとするならば、日本がうまくやってには一体どうすればいいのか。こうした非常に難しい問題があります。日本に対し、これまで経験したことのないほどの広範囲にわたる貿易・商業の可能性を与えてやらねば……ならないのは明らかです。厄介な任務ではありますが、他方、これもまったく避けることのできないことですが、あらゆる事態において日本の情勢を制御する手段として……制海権と制空権を保持しておくことも必要です。……海外の供給源と海軍力、空軍力がなければ日本が再び攻撃的になることはありません。ですからわれわれはこれを管理することによって、日本の情勢を制御する能力を維持しなければならないのです。

 誤解されないよう、ケナンは続けて、次のように語った。

 われわれ欧米側が手際よく確実に、うまく支配権を行使し、石油をはじめ日本が海外から輸入しているものを本当に管理することができるのなら、軍事面や産業面で日本が必要としているものに関し拒否権を発動することも可能ではないでしょうか。

 まったくもってご立派な発言ではないか。これは、日米関係は「『遠隔操作』が一番」であると語ったジャパン・ロビーのハリーカーンが考えていたことを具体的な言葉にしたものであった。
 1949年4月、ケナンは「戦時や非常時における編制と使用のため……また日本の防衛、さらに治安維持のために」「日本の限られた軍事力」を復活させる可能性を探った。この文書(すぐに漏洩した)を読んだ朝鮮の愛国者は、これにより日本との戦いが再び起こると考えたことだろう。そしていつも内省的なケナンが、日本の復活によって朝鮮戦争が始まったという見解に──この仮説については後で議論する──いつまでもしがみついていたのもおそらくそのためだと思われる。
 朝鮮戦争の始まる2日前、ケナンは長い談話のなかで、アメリカにはアジアに影響を及ぼだけの力はない。だがアメリカ人の大多数はこれと違った考えを抱いており「この問題についてはできるだけ早く世論を正さなければならない」と語った。この言葉はアメリカにおけるヨーロッパ第一主義者とアジア第一主義者のあいだの対立をケナンがどのように考えていかを如実に表している。後者は学生のようなもので、「正す」必要があった。アジア第一主義者の意見は自国の政治過程に無知な者が抱くような考えだったのである。
 才気あふれる人物であったが、ケナンの言葉の端々には必ず「アジア人」に対する偏見が認められた。このように、ケナンの見解とは時代錯誤の自民族中心主義とアジア的専制政治に関する単純な理論、アジアの外交史に対する不十分な認識、そして産業構造とパワー・ポリティクスを優先するという彼特有の信念が組み合わさったものだったのである。このおかしな混合物は、アチソンが1950年1月12日に行ったあの記者クラブのスピーチにおいて使う予定で用意された草稿にも見られる。これはケナンが書いたものであるが、アメリカがとるべき合理的な政策の紹介というよりもむしろ、歴史とアジアの神秘についての談話とも言うべきものだった。草稿のなかでアチソンは「人間の本質」とかアジア諸国の政府の「排外主義的」で、「エキゾチック」で、「独裁的」な性格(彼にしては珍しく言葉の使い方に矛盾がある)、さらに勢力均衡に考えをめぐらせていた。そして「セオドア・ローズベルトもはっきりと理解していましたが、アジア北部の軍事的バランスはソ連と日本が左右するのであります。ソ連に有利な状況に大幅な変更を加えず、敗北した日本をそのままにしておくわけにはいかないでしょう」と述べている。これは典型的なケナン主義であるとともに、アチソンとの違いを示していた。1940年代後半という時期において、ケナンは技師になることができても建築家になることができなかったということである。この草稿はケナンがアチソンのために書いた最後の原稿であったが、ケナンの役割はその後ニッツェが担うことになった。

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「人道的介入」の結果破綻したリビア

2025年04月09日 | 国際・政治

 先日(331日)朝日新聞は、”記者解説「民主主義が後退する世界 明日への一石~大変革期を考える」”と題するヨーロッパ総局長・杉山正氏の文章を掲載しました。そのなかで杉山氏は、アメリカを中心とするNATO諸国のリビア軍事介入から3年後、再びリビアを訪れ、下記のように”国家は破綻していた”と書いていました。「アラブの春」が「アラブの冬だった」という現地の男性の声も取り上げているのです。だから私は、”ほら見ろ”と言いたくなるのです。

 

 2022224日、ロシア軍がウクライナに侵攻する直前に、プーチン大統領は国民に向けて演説をしましたが、そのなかで、プーチン大統領は、リビアについても触れています。

 でも、ウクライナ戦争の解説に出てきた防衛研究所の研究者や、ロシアの専門家といわれるような人たちが、この重要なプーチン大統領の演説内容について解説するのを、私は聴いたことがありません。

 

 プーチン大統領は演説の中で、アメリカやNATO諸国の武力行使について、下記のように語っています。

例を挙げるのに遠くさかのぼる必要はない。

まず、国連安保理の承認なしに、ベオグラードに対する流血の軍事作戦を行い、ヨーロッパの中心で戦闘機やミサイルを使った。

数週間にわたり、民間の都市や生活インフラを、絶え間なく爆撃した。

この事実を思い起こさなければならない。

というのも、西側には、あの出来事を思い出したがらない者たちがいるからだ。

私たちがこのことに言及すると、彼らは国際法の規範について指摘するのではなく、そのような必要性があると思われる状況だったのだと指摘したがる。

その後、イラク、リビア、シリアの番が回ってきた。

リビアに対して軍事力を不法に使い、リビア問題に関する国連安保理のあらゆる決定を曲解した結果、国家は完全に崩壊し、国際テロリズムの巨大な温床が生まれ、国は人道的大惨事にみまわれ、いまだに止まらない長年にわたる内戦の沼にはまっていった。

リビアだけでなく、この地域全体の数十万人、数百万人もの人々が陥った悲劇は、北アフリカや中東からヨーロッパへ難民の大規模流出を引き起こした。

シリアにもまた、同じような運命が用意されていた。

シリア政府の同意と国連安保理の承認が無いまま、この国で西側の連合が行った軍事活動は、侵略、介入にほかならない。

ただ、中でも特別なのは、もちろん、これもまた何の法的根拠もなく行われたイラク侵攻だ。

その口実とされたのは、イラクに大量破壊兵器が存在するという信頼性の高い情報をアメリカが持っているとされていることだった。

それを公の場で証明するために、アメリカの国務長官が、全世界を前にして、白い粉が入った試験管を振って見せ、これこそがイラクで開発されている化学兵器だと断言した。

後になって、それはすべて、デマであり、はったりであることが判明した。

イラクに化学兵器など存在しなかったのだ。”

信じがたい驚くべきことだが、事実は事実だ。

国家の最上層で、国連の壇上からも、うそをついたのだ。

その結果、大きな犠牲、破壊がもたらされ、テロリズムが一気に広がった。

世界の多くの地域で、西側が自分の秩序を打ち立てようとやってきたところでは、ほとんどどこでも、結果として、流血の癒えない傷と、国際テロリズムと過激主義の温床が残されたという印象がある。

私が話したことはすべて、最もひどい例のいくつかであり、国際法を軽視した例はこのかぎりではない。

 ・・・

そんな中、ドンバスの情勢がある。

2014年にウクライナでクーデターを起こした勢力が権力を乗っ取り、お飾りの選挙手続きによってそれを(訳注:権力を)維持し、紛争の平和的解決を完全に拒否したのを、私たちは目にした。

8年間、終わりの見えない長い8年もの間、私たちは、事態が平和的・政治的手段によって解決されるよう、あらゆる手を尽くしてきた。

すべては徒労に帰した。

先の演説でもすでに述べたように、現地で起きていることを同情の念なくして見ることはできない。”

 ・・・

”大祖国戦争の際、ヒトラーの片棒を担いだウクライナ民族主義一味の虐殺者たちが、無防備な人々を殺したのと同じように。

彼らは公然と、ロシアの他の数々の領土も狙っていると言っている。

全体的な状況の流れや、入ってくる情報の分析の結果が示しているのは、ロシアとこうした勢力との衝突が不可避だということだ

それはもう時間の問題だ。彼らは準備を整え、タイミングをうかがっている。今やさらに、核兵器保有までも求めている。そんなことは絶対に許さない。”

 

 2022930日には、下記のように呼びかけています。

欧米のエリートは、国家主権や国際法を否定しているだけではない。彼らの覇権は、明らかに全体主義的、専制的、アパルトヘイト的な性質を持っている。

 彼らは大胆にも、世界を自分たちの属国、いわゆる文明国と、今日の西洋の人種差別主義者の意図にしたがって、野蛮人や未開人のリストに加わるべきその他の人々とに区分している。

 「ならず者国家」「権威主義政権」といった誤ったレッテルはすでに貼られており、国や国家全体に烙印を押しているのであり、これは何も新しいことではない。西洋のエリートは、植民地主義者のままである。彼らは差別をし、人々を「第一階層」と「第二階層」に分けている。

 こうした声に耳を傾け、きちんと話し合って、平和の維持につなげるべきであると思います。

 杉山氏のリビアに関する文章には、下記のようにようにあります。一部抜粋です。

”・・・

"私は戦争や紛争の現場に何十回と足を運んできた。多くが自由や民主主義を求める戦いだった。 アフリカ特派員として海外取材を始めた2011年は、中東の権威主義国家が民主化のうねり「アラブの春」の中にあった。

 リビアはSNSを活用した市民デモをきっかけに、カダフィ政権を打倒する内戦になった。当時のリビアは高揚感に包まれていた。優勢な反体制派の民兵たちはカメラを向けると笑顔を見せていた。

 オバマ政権下の米国と北大西洋条約機構(NATO)同盟国は、デモ参加者の命を救う「人道的介入」を掲げてリビアに軍事介入。戦いの勝敗を決定付けた。最高指導者だったカダフィ氏は死亡し、欧米は政権崩壊を歓迎した。

 3年後の14年、再びリビアを訪ねると国家は破綻していた。「石をなげたら国自体が壊れるとは思わなかった」「アラブの冬だった」。デモに参加していた男性の言葉が印象的だった。

 反体制派が軍閥化して群雄割拠し、イスラム過激派も伸長していた。市民を守る治安部隊はほとんど機能していなかった。人々の視線が、現場で取材する自分に集まっているのが分かった。誘拐が現実的な恐怖だったのを強烈に記憶している。

 カダフィ政権時代の日本の旅行ガイドには。「治安のよさは世界で誇れるほど」と書いてあった。個人の自由を犠牲にした治安は民主化の過程で消え去った。オバマ氏は政権崩壊後の計画がなかったことを在任中の「最悪の失敗」だったと振り返った。

 「民主化って何だ。欧米に都合のいいようにすることを言うんだろう」。リビアの隣国ニジェールでこんな主張も聞いた。欧米が力をもとに価値観を押しつけることへの反感は、非西欧世界で確実に蓄積して行った。

 民主主義の土壌のないところに介入しても、リベラルを根付かせることはできなかった。多くの国が「民主主義体制への移行中の混乱」などとされ、忘れられてきた。自由や民主主義を求める戦いの結末は、皮肉にも権威主義の拡大につながった。

 アフリカ東部エリトリアの政府高官に聞いたことがある。報道の自由度ランキングで最下位の常連国だ。自由と民主主義をなぜ認めないのかという問いに「認めたいが国が割れる。ここはドイツではない。民主主義は贅沢なものだ」。詭弁めいた説明だが、リベラルを考察するときにこの言葉が頭をかすめる。

 ・・・”

 杉山氏は、政治家や軍人の主張を真に受け、アメリカがくり返してきたいろいろな国での武力行使とその後の実態をきちんと見てこなかったのではないかと思います。ほとんどの国が、リビアと同じような状態になっていると思うのです。アメリカが武力行使をした結果、民主化され、発展してきた国があるでしょうか。

だから私は、アメリカは、相手国の民主化などには関心はなく、反米的な国が力をもったり、社会主義国や共産主義国が拡大することを阻止する狙いで、武力行使をしてきたと思っているのです。 

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「大きな三日月地帯」におけるアメリカの新戦略

2025年04月07日 | 国際・政治

 下記は、『朝鮮戦争の起源2⃣ 1947年─1950年 「革命的」内戦とアメリカの覇権』【上】』ブルース・カミングス:鄭敬謨/林 哲/山岡由美「訳」(明石書店)>「第二章 封じ込めと国際協調主義  第一部 アメリカ」「大きな三日月地帯」─ アチソンが朝鮮に線を引く」からの抜萃です。

 この「大きな三日月地帯」の「封じ込め政策」は、バイデン政権で「攻撃型」に転換され、活発に進められてきたように思います。

 そういう意味で、ブルース・カミングスが明らかにした、”「大きな三日月地帯」── アチソンが朝鮮に線を引く”は、重要だと思います。

 当初、極東地域で日本・フィリピン・アリューシャン列島に対するソ連の軍事侵略にアメリカは断固として反撃するとしたアチソン・ライン(不後退防衛線)が、その後、日本・韓国・台湾・フィリピン・タイ・中東諸国などを含む「大きな三日月地帯(大新月地帯)」で、共産主義の拡大を封じ込めるという政策から、さらに攻撃型に発展し、現在に至っている現実が、見逃せないと思うのです。

 日本では、岸田前首相が20231月にアメリカを訪問し、バイデン大統領と首脳会談を行って帰国するや、防衛費の大増額に対処するよう、防衛大臣と財務大臣に指示しました。国内での議論は全くなかったと思います。

 また、その少し前には、日本の「国家安全保障戦略(NSS」を改定し、安保関連3文書で、反撃能力の保有を明記、「対敵基地攻撃能力(反撃能力)」の保有を決定しています。

 さらに溯れば、安倍政権当時から、自衛隊の「南西シフが進められ与那国島、奄美大島、宮古島、石垣島に陸上自衛隊の駐屯地を新設、奄美には警備部隊や地対空、地対艦誘導弾部隊、電子戦部隊などを配置しています。 

 その上、防衛省設置法等の一部が改正されて、自衛隊内に新たに陸海空の自衛隊を一元的に指揮する統合作戦司令部が創設され、自衛隊と米軍の指揮統制機能強化が表明されています。

 そして、台湾有事を想定し、空自戦闘機が中国艦を攻撃するという日米共同演習が計画されているのです。

 そうした日本の戦争準備と並行して、「大きな三日月地帯」では、米国主導の「ハブ・アンド・スポーク(hub-and-spoke)」型同盟(日米、米韓、米比、米豪などの二国間同盟)から多国間同盟への移行も進められています。「インド太平洋戦略」AUKUS」「クアッド(QUAD)」も、そうした流れと連動するかたちで動いてきたと思います。

 フィリピンは、しばらく前、米国との「防衛協力強化協定」に基づき、米軍が新たに使用できる国内の軍事基地4カ所を公表しました。南シナ海や台湾を巡って中国との緊張が高まる中で従来の5カ所からほぼ倍増したのです。

 だから中国は、排他的な「小サークル」の形成に反対し、くり返し「新冷戦的思考がアジアの分断を招く」と警鐘を鳴らし続けています。

 朝鮮戦争以来、アメリカの外交政策や対外政策は、今まで、この封じ込め政策に基づいて展開されてきたと思うのですが、アメリカの覇権の維持が難しくなり、バイデン政権は、それを攻撃型に転換したから、こうした動きが活発化しているのだと、私は思います。ウクライナ戦争も、そうした流れの中で理解する必要があると思います。

 だから、尹大統領の「非常戒厳」宣布や台湾の頼清徳(ライ・チントー)総統の「主権」発言も、こうした流れと無関係ではないだろうと想像します。攻撃的になっているのは、中国やロシアではなく、衰退しつつあるアメリカだろうと思います。

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                       第一部 アメリカ 

                   第2章 封じ込めと国際協調主義

 もはやわれわれは、朝鮮人やアゼルバイジャン人のことを気にかけることもなく日光浴などしていられなくなった。                                                     

                                            ヘンリー・ルース

 南朝鮮に限定的な政府を組織し、日本と経済的に結びつける方向で計画を起草されたい。

                                           ジョージ・マーシャル 19471

「大きな三日月地帯」── アチソンが朝鮮に線を引く

 1947年、アチソンは封じ込めの理論を打ちたて、これを以後3年のあいだ維持した。 この理論に軍部や議会は反対したのだが、結局は朝鮮戦争へのアメリカの介入を支配することになった。実質的には、1945年から1947年にかけてアメリカ占領軍が敷いた事実上の封じ込め政策が、アチソンの頭のなかで作用し、1947年以降朝鮮をトルーマン・ドクトリンの事実上の封じ込めに引きこむという行動をとらせたのである。

 南部の分断政権を支持するという考えが政府高官レベルまで浸透していったのは1947年初め だったが、これは李承晩(イスンマン)のアメリカ訪問の時期とも重なる。19471月末、陸軍長官 ロバート・パターソンは省庁の合同会議で、朝鮮に対する「不安は募るばかり」だと発言した。「朝鮮情勢は 他の占領地域と比べ物にならないくらい差しせまって」いるというのである。「事態を破綻に導いて面目を失うよりは手を引いたほうがよい」との声もあがっていたという。モスクワ協定を放棄し、その代わりに「南朝鮮共和国を樹立すべき」だとパターソンは語っている。 これを受けて アイゼンハワー元帥は「分断政権を支持したい」、なぜなら長期的に見ると、「朝鮮にわれわれが駐留しつづけるための費用よりも「朝鮮からの撤退」によって生じるであろうコストの方がはるかに高くつくと思われるからだ、と答えている。

 しかし朝鮮での封じ込めを強く推したのはアチソンと国務省だった。それは1947327日の省庁合同委員会の報告書にも反映されており、アチソンはこれを個人的に承認している。報告書の初めには、もし全面的な戦争になった場合「朝鮮は軍事的負担になる」、このためアメリカにとっては「朝鮮に部隊や軍事基地を置いても戦略上いかなる利益もない」とある。しかしそうであっても、「全朝鮮がソ連、またはソ連の影響を受けた勢力に支配されるならば……それは極東におけるアメリカの戦略に対する脅威になる」、特に日本にとって「非常に深刻な政治的・軍事的脅威」になるという。

 前置きに続き、報告書は無遠慮にも朝鮮封じ込め論を展開する。

 

 ソ連の封じ込めという確固たるわれわれの方針にはすきも緩みもあってはならない。なぜなら、手綱を緩めたのが一ヶ所であっても、ソ連は必ず、それを全域で政策を緩和していることの暗示と受け取るからである。朝鮮から手を引いたり朝鮮のソ連軍から逃げたりすれば、ドイツをはじめ、われわれにとって朝鮮よりもはるかに重要な意味を持つ地域において、ソ連の態度はすぐに硬化するだろう。 一方、朝鮮でしっかりと「方針を維持すれば」、ほかの問題に関する交渉においてもわれわれはソ連に対して実質的に強い姿勢で臨むことができる。

 この重要な文書が書かれた時期と文脈は、ギリシャとトルコにトルーマン・ドクトリーを適用する計画と時期や文脈とを同じくする。現にロバート・パターソンは35日、アチソンに当てた 書簡のなかでこのように調査の必要性を説いた。いわく、ギリシャとトルコは「イギリスの力に変化が生じたことに起因する、はるかに大きな問題のごく一部にすぎません」 したがって「 われわれの財政・技術・軍事援助を必要とするであろう他のあらゆる地域の情勢について調べることが……重要であり焦眉の急を要するのです」。

 朝鮮に関して計画立案者らは「攻撃的、積極的かつ長期的な計画」が望ましく、向こう3年間のコストは、政治・文化・経済面に限って、軍事費用を除いても6億ドル以上になるとはじいた。 (ちなみにトルーマンがギリシャとトルコのために必要と言っていたのはたったの4億ドルである。) さらにこの文書によると、アメリカ軍の帰国はいつかの「防護法対策」を講じてからになるという。「防護対策」とは、それぞれの人工比に応じた人数の代議員からなる南北合同の代議政体、「国連によるなんらかの保証」、「実効的な権利章典」、そして(非常に重要な点であるが)「世界銀行による財政援助と監督」のことである。なお、信託統治機構の失敗を受け、国連に朝鮮問題を引き渡すという案が浮上したのもこの時期だった。

 しかし 国務省は1946年初め頃の時点で、南北の人口比に対応する代議政体の設置という案をソ連は受けれないであろうということは分かっていた。というのも1945年に引いた線はソ連とアメリカで朝鮮を均分していたのであって、ニ対一に分けていたのではなかったからだ。また上記の文書のなかに権利章典への言及があるが、これは占領軍の支持していた朝鮮の指導者を、国務省が嫌悪していたことを強調するためだった。文章に添付された付録には「金九(キムグ)と李承晩のグループ」は過激派で朝鮮人民の「代表」ではない、また、現下の状況でふさわしく望ましい政治家のモデルは金奎植(キムギュシク)であり、自由主義の理論を実践できそうな指導者であるとはっきり書かれている。この文章では明確ではないものの、ほかでおこなわれた審議の記録からは、自由主義の国際協調主義者がホッジや陸軍、「軍事的思考」に南朝鮮の問題に対する責任があると見なし、占領軍から遠ざけようと官僚組織内で苦闘していたことがよくわかる。それは文民「弁務官」を指名するという計画にも現れていたが、結局、大使のジョン・ムチオがその役割を担うことになり、計画は実らなかった。

 この政治的勧告から、国務省の初期の計画における改革主義的傾向を新しい政策にどの程度残しておこうと考えられていたかがはっきりと分かる。しかし今や改革主義は抑えられた格好になり、封じ込めがそれよりも重要な目標になった。いうなれば、これがトルーマン・ドクトリンに見られる国際協調主義の残影というものを的確に示しているのである。文書の中でなされていた世界銀行による監督という重要な指摘は、この計画から導かれる当然の帰結と結びついていた。 当然の帰結とはアメリカ派遣の「よく訓練されたトップレベルの管理者と技術者」の指導のもとでの土地改革と朝鮮の産業の復興のことであり、これはまた日本における「逆コース」の推進力が強まっていたことの帰結であった。

 ロイド・カードナーの指摘によると、イギリス人は「アメリカの朝鮮政策の転換があまりにあつかましいのにあきれた」という。またイギリス外務省のME・デニングはすぐに、この計画は「大胆な行動」だと判断している。1947326日付のメモにデニングは「この計画について アメリカ人が十分考えたのかどうか、疑いを禁じえない。だがこの難しい課題が世界的規模のものであることを、朝鮮への援助が示しているのは確かだ」と書いている。ほかにも興味をそそる エピソードがある。1947年に外相のベヴァンがソ連の外相モノトフと会談し、ソ連はトルコやオーストリアにまで進出すべきでないと語った上で 「朝鮮がご所望ですか。 それは無理ですな」とモロトフに大声で言った そうである。

 もしこの省庁合同の調査が動かぬ証拠にはなり得ないというのなら、19473月に上院外交委員会で開かれた秘密会でアチソンが行った証言が決定的証拠となるだろう。 朝鮮は「ソ連とわれわれの間の境界線がはっきりと引かれた地帯」だという趣旨の発言で、途方にくれた上院議員たちの議論の引き金となったが、この議論については(永遠に)「非公開」で、歴史の闇に葬られている。しかし、証拠もその背後の論理に比べれば重要ではない、というのが常のならいである。  アチソンもケナンと同じように、封じ込めに制限を設け効き目のあるところにだけ薬を投与することを好んだ(例えば 中国には適用しない、など)上院議員とは、どの地域に封じ込めが適していてどの地域には向いていないかということを話し合った。アチソンはいくつかの地域に言及した後、「われわれが力になれる地域は他にもある。一つは朝鮮で、ここはソ連とわれわれの間の境界線がはっきりと引かれた地帯」だと述べている。ここで問題になっていたのは、朝鮮が戦略的に重要だということなのではなく、朝鮮がアメリカの関与に対する信頼性と威信を高めるということだった。それが意味するところは、1950625日日曜日の午後にアチソンが考えたことに正確に表れていた。威信とは「力の投げかける影」だというのである。朝鮮に駐留し続けることに陸軍省が難色を示すやいなや、アチソンはフォレスタルとパターソンとの会談で、自分もマーシャルも撤退には賛成しかねる、「撤退するようなことがあれば」アメリカの威信が「著しく傷つく」からだと、応じた。また議会がギリシャとトルコへの援助を承認すると、アチソンは朝鮮に関する法案も必要だとした。

 両者の違いは、朝鮮の軍事・戦略的重要性ともいうべきものと、政治・戦略的重要性との違いであった。朝鮮が戦場として適しているかどうかということはかかわりなく、アメリカはすでにそこにいて関与しているわけであるから、良い医者と認められる必要があり、さもなければ朝鮮以外の地域でも力が低下したと目される状況であった。他方軍部の議論では、朝鮮は戦略的には重要でないという論理がどんな議論においても通用する可能性があった。(19506月におけるフレアハウスでのブラッドリ大将の発言も含めて)。というのもそうした議論の前提が心理的 政治的なもので、具体的でも軍事的でもなかったからだ。

 他方、軍部と議会の反対を押しきってまで朝鮮に対する封じ込めを3年間にわたり主張していたアチソンには、大統領の後ろ盾があった。朝鮮戦争が始まると、アチソンは議会からの批判に身構え、自分の部下にこう伝えている──朝鮮は拡大するかもしれない。(つまり朝鮮の問題は、という意味。)ジョン・ヒルドリングからの手紙はバーバラのところにあるが──それに1947年のわれわれのプラン、1947年にヴァンデンバーグが拒否したプランの話が出ている」。またこの1950年夏には、国家安全保障会議について説明するなかで、次のように書き残している。「大統領は、ポーリー氏、ハリマン氏と話し合ってはどうかとわれわれに言われた。……そして1947年のポーリー氏の報告とヒルドリング氏の提案にあった手順をまとめ、朝鮮に関しわれわれが過去に何を提案し大統領が過去に何を承認したか──その手順は第80議会で否決されたが── について記録を示すようにと話された」

 ポーリーのことがちらりと出てくるが、これはアチソンの考えを知るヒントになる。〔ポーリーは財界出身。〕 東アジアにおけるアチソン流封じ込めの基底にあったのは世界経済の理論であり 、これは日本から東南アジアを通ってインドにのびる「大きな三日月地帯」というアチソンのメタファーによく表れている。1947年初頭の時点ではまだ朧げなものであったが、この構想こそがアチソンによる南朝鮮の封じ込め政策の拡張や後のアジアにおける「不退転防衛線」の考案、さらに朝鮮戦争に介入するという決断の重要な背景だったのである。

 もし日本の産業の復興によって地域経済が成長し、それだけでなく大陸の市場やこの地域で算出される原料が確保できるなら、これはもう一石二鳥どころか数鳥だ。そうなれば社会主義の国家統制経済の脅威にさらされている国は連帯し、日本とアメリカの経済的総合依存性という強力な支えが形成され、日本は自立する。さらにアジアのポンド圏とフラン圏内の入り口に日本とアメリカが足を踏み入れることができるようにすれば、ヨーロッパの植民地を縮小できる。これはすべて、世界システムの概念──三要素からなり相互に重なり合う複数のヒエラルキー──にぴったりと合う。つまりアメリカを世界の支配的な中心経済とすると、日本とドイツが地域の中心となるシステムを補強することになる。また、排他的な結束から成り立っていた諸帝国が解体していくなかで、日本とドイツは周辺部を再統合する助けにもなる。両国は資本・技術・防衛・資源の面で依存状態にある以上、世界市場で戦う力のあるアメリカの産業にとっては恐れるに足りない存在だった。これに対して朝鮮は不安定な半周辺の地域で、システムのなかで上昇する可能性も下降する可能性もあったうえ、反システム運動の脅威に晒されてもいた。ローズヴェルトは単一の世界のための政策を立案していたのだとしよう。だがその政策は失敗し、アチソンたちは第二の戦略を練った。排他的で自立的な国家統制経済の大規模な崩壊が起きるのを待たずに機先を制して、非共産主義の「グランド・エリア」内でいくつかの地域に中心地を作るという戦略である。

 第一巻でも述べたが、石油企業家エドウィン・ポーリーは1946年の晩春、敗戦国日本の賠償金に関する調査団の団長として朝鮮と満州に赴いた。ポーリーは、朝鮮半島の開発に大きな貢献をしたのは日本なのだから、そのために何もしてこなかった(とポーリーは見なしていた)人民委員会の手に産業や近代的施設を渡すのは恥ずべきことだ、と説いてトルーマンに強い印象を与えた。そのかわり、朝鮮は「民主主義(資本主義)的基礎」の上に開発すればよいと勧告している。ハーバート・フーヴァーも重要な役割を果たした。フーヴァーは19465月に日本と朝鮮を訪問したのち賠償政策を批判したり、日本とドイツの重工業に限度が設けられていることに対し1947年初めに異を唱えたりした。同年5月にはパターソンに宛てた書簡のなかで、日本の戦争犯罪人を寛大に扱うよう要求しつつ、「これ以上産業に圧力をかけるのはやめ」日本を「共産主義によるアジア侵略をせき止める防波堤」にするべきだと主張している。

 しかし、この15週間、指導的な立場にあったのはアチソンとケナン、ドレバー〔陸軍次官〕だった。1月末には国務長官のマーシャルがアチソンに走り書きのメモを渡し、驚くほどはっきりとした言い方でこのように伝えている。「南朝鮮に限定的な政府を組織し、日本と経済的に結びつける方向で計画を起草されたい」。また予算の問題を根拠に朝鮮からの撤退を提案していた陸軍省は、影響力のある日本にその肩代わりをさせたいという願望を表明することがあった。例えばトレバーは「朝鮮と日本が貿易圏と商業圏を形成するのは自然なことだから、そのうちに日本の影響力は再び拡大するだろう」と述べている。

 彼らは全員、日本とヨーロッパの「ドル不足」を解決し経済復興のペースを速める道は、重工業への規制を緩和し、ドイツや日本とかつての原材料供給地・市場とを結びつけることだと考えていた。ウィリアム・ボーデンは、この意味でドイツと日本は「勢力均衡のカギ」となっていたと論じており、ドイツが日本の復興計画よりも大きなマーシャル・プランにおいて単なる「軸」にすぎないのに対し「日本の復興計画は、アジアにおけるアメリカの広範囲にわたる単独での活動を形づくるものだった」という鋭い指摘を行っている。ドイツは分割されて数カ国の占領下に置かれたため、単なる軸となった。これに対して日本は分割されずにアメリカ一国の支配下に置かれ、アジア三日月地帯の中心になったのである。中国が陥落してからは、日本の裏庭とは主に東南アジアを指すようになったが、1947年から1948年にかけては朝鮮も満洲も中国北部もすべて日本への再統合の候補地だった。アチソンはその方法についてほとんど公にしていないが、194758日にミシシッピー州クリーヴランドで行った演説ではめずらしくこの点に触れ、アメリカは二つの大陸のために二つの作業場を作ることになるだろうと語った。この政府内部者たちはまた部外者からも助力を得てもいた。アヴェレル・ハリマンや『ニューズ・ウィーク』、ハリー・カーン〔同誌本社外信部長兼国際版編集長〕をはじめとする「ジャパン・ロビー」のことである。彼らは19471月になると、占領軍に財閥解体をやめるべきだと盛んに訴えるようになった。

 このように、朝鮮に封じ込めを行うための論理が二つのものを前提にしていた。つまりアメリカによる関与に伴う威信と日本での逆コースである。そしてこれが朝鮮を日本経済の裏庭、そして日本の防衛の前提にした。第一巻でも見たように、国務省の官僚で一般には「親日派」と見られっている者は1940年代初め頃、対立占領政策は緩やかなものにするべきだと主張しており、戦後の日本の安全保障と朝鮮の安全保障を関連づけて考えていた。親日派は朝鮮について考える時この国を必ず戯画化して「ミニ日本」に置きかえていし、中国国民党の支持者と反対派は李承晩が良いか悪いかについては意見が分かれていたものの、双方とも李承晩をミニ「蒋介石」と見なしていた。ヒュー・ボートンは初期の頃にも1947年にも計画の立案に力を貸したが、前回と異なるのはボートンらがハリマンやフーヴァー、ジョセフ・グルーといった大物の親日派に相談したことだった。 この省庁合同委員会の報告書は、5月初めに大筋で承認された。各省の長官が出席した57日の会議の席で、アチソンは、以下のような「決定」を読み上げている。──ギリシャおよびトルコ関連の法案が通過した後に「可能な限り速やかに」議会が朝鮮への一年計画を承認するよう要求する。文民弁務官を指名し、国務省が占領政策の非軍事的な側面に責任を負う。そして「適切な選挙法が通過し次第、南朝鮮に暫定政府を樹立〔しなければならない〕。」──後段で述べるように、その2日後、南部を攻撃から守るように命じた電報がホッジところに届いている。アチソンは1948会計年度だけ21500万ドルにのぼる計画を提案した。この一年計画にフォレスタルもパターソンも賛成した。ただ、パターソンだけはまだ、(マーシャルはこの意見に反対していたけれども)軍隊を引きあげるべきだと主張した。こうして陸軍省は少なくとも一年間だけ、新しい計画を実施することに同意したのである。

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韓国三つの謀略事件、金大中拉致・陸英修殺害・KAL機爆破

2025年04月03日 | 国際・政治

 42日、朝日新聞はデジタル版で、”CIA東京支局の存在、日米が公表に反対 ケネディ暗殺文書で判明”と題する記事を掲載しました。”2025318日、トランプ米大統領の命令を受け、1963年のケネディ大統領暗殺事件に関する文書が公開された。そのなかには、日本でのCIAの活動についての記載もあった”ということです。そして、”ジョン・F・ケネディ大統領暗殺事件をめぐり、これまで非公開とされてきた8万ページ近い文書が、トランプ米大統領の命令で機密解除された。世界各地で諜報(ちょうほう)活動をしてきた米中央情報局(CIA)に関連し、日本での活動を明らかにする文書も開示された。”というのです。

 でも、すべての文書が開示されたわけではなく、また、文書化されていない事実もあることを踏まえると、どこまでCIAの活動が判明するかは不明ですが、不都合な事実は何でもかんでも「陰謀論」でかわしてきたことが、少しは明らかになるのではないかと思います。

 ”日米が公表に反対”ということなので、私は、CIAの下記のような活動目標が、現実に実施されている事実の詳細が、少しでも明らかにされることを期待するのです。

アメリカ合衆国に友好的な政権樹立の援助

アメリカ合衆国に敵対する政権打倒の援助[8]

アメリカ合衆国に敵対する指導者の暗殺

 

 下記は「南北統一の夜明け 朝米関係の軌跡をたどる」鄭敬謨(技術と人間)からの抜萃ですが、著者の 鄭敬謨(チョンギョンモ)は、KCIAによる金大中拉致事件、在日韓国人・文世光(ムンセグァン)による朴正煕(大統領)の妻、陸英修(ユクヨンス)の殺害事件、また、金賢姫(蜂谷真由美)によるとされる大韓航空機爆破事件が、金大中がらみで起きた事件であると書いています。

 それら三つの事件に、いろいろなかたちで日本が関係していることから、私は、東アジアで反共政策を進めるアメリカのCIAが、両国の間に立って協力したのではないかと疑わざるをえません。韓国の政権をめぐって、保守と革新がはげしく競り合う状況の中で、CIAのソウル支局が、こうした事件をただ傍観していたとすれば、アメリカの関係者は、”ソウル支局は何をしている”ということになるのではないかと想像するのです。

 話がちょっとそれるのですが、下記のような事実も、気になっています。

 先日、「巻き戻される国際秩序」と題する朝日新聞の「オピニオン&フォーラム」の欄に、小泉悠・東京大学準教授の主張も掲載されていました。小泉悠 という人物の紹介のなかに、「専門はロシアの軍事・安全保障」とありました。でも、私は違和感を感じました。

 しばらく前、彼はたびたびウクライナ戦争の解説でメディアに顔を見せていましたが、ロシアの安全保障やプーチン大統領の情勢認識を語ることはほとんどなく、アメリカから得たと思われるロシアの戦争目的や戦況、両国が利用している武器の解説などをしていたように思います。だから、ロシアの軍事・安全保障の専門家ではなく、アメリカの「対ロ戦略」の専門家であり、CIAとも何んらかのつながりがあるのではないかと疑わざるを得ないのです。

 なぜなら、その記事のなかで、彼は、”…もしロシアという乱暴者の乱暴を追認して、その場限りでおとなしくさせるだけで終わるなら、待っているのはさらなる侵略戦争かもしれないのです”などと主張しています”また、「ミュンヘン会談」と関連して、”あの会談で英国のチェンバレン首相は、旧チェコスロヴァキアの領土の一部割譲を求めるナチスドイツの要求を、それで戦争が避けられるならばと認めてしまいました。翌年、ヒトラーはチェコスロヴァキアを勢力下に置いています”ということで、”同じように、もしプーチン政権が一度おこなった侵略を見逃したらミュンヘン会談の二の舞いになってしまうのではないかという思いは、私にもあります”とも主張しています。こうした主張は、アメリカをはじめ、NATO諸国の政治家が、しばしば口にする根拠のない「反ロキャンペーン」と変わらないと思います。どうしたら、戦争を終わらせることができるか、というようなことは一言も語っていないのです。だから彼は、”アメリカに敵対するプーチン政権の打倒”というCIAの活動目標を語っているように思うのです。第二次世界大戦後のアメリカの戦争政策や、現在のロシア敵視、中国敵視の政策が、そう思わせるのです。

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                 1章 金大中政権の浮上と新しい南北関係

 

 「真由美事件」に対する日本のかかわり

  もう一つ忘れてならないのは「工作員」真由美が、洋上のKAL機を爆破したという、 あの奇怪な事件も、金大中がらみで日本を巻き込んだ上、 韓国が引き起こした国家謀略であったという事実です。

韓国で熱心に民主化運動のため駆けずり回っている人に会うと、よく私は尋ねるのです 真由美こと、金賢姫が、顔にグロテスクなマスクをかけられ、2人の警察官に両脇を抱えられて金浦空港のタラップを降りてきたのは、何年何月何日あったのか、覚えているかと、残念ながら、この問いにきちんと答えられた運動家には、今まで 一人も出くわしたことはなかったのです。

 よく人は、行うことが難しいのであって、知ることは易しいと言います。違うのです。行うことより難しいことは、知るということなのです。また孫文先生のことを引き合いに出して恐縮ですが、先生は長い運動の中で、真実を知ってもらうことの難しさを痛感し、「知易行難」ではなしに、むしろその逆だということをということを説かれたのです。それ故でしょうか、先生の揮毫の中には、「知難行易」というのが数多く残されている、という話を聞かされたことがあるのです。

 冒頭のどこかで、私は真由美による犯行だとされるKAL爆破事件が発生したのは、19871129日にあったと述べたのですが、事件が発生したこの日の日付までは記憶してなくてもいい。しかし、「真由美」が、おかしな格好で金浦空港に降り立った日が、19871215日あったのは、きちんと覚えておいて欲しいと思うのです。何故か? 翌日の16日が、大統領選の日であったからです。選挙に勝ったのは盧泰愚であり、「蝸牛角上(カギュウカクジョウ)の争い」を演じた金大中、金泳三の両氏は、ともに苦杯をなめざるを得なかったのですが、両金に共食いの泥試合を演じさせる一方、北の「犯罪行為」に対する恐怖を劇的に煽り立ててから、その翌日に選挙行うという、この絶妙のタイミングが、果たして偶然のものであったでしょうか。「真由美」事件で金大中氏が失った票は100万票を下らなかったというのが、当時ソウルの友人から聞いた噂であったのです。

 この事件に、あるいは日本もかかわってたのはあるまいか、私が疑っている理由を説明するために、少しだけ遡ってこの事件のうさん臭いところを点検したいと思いますので、真由美と蜂谷真一「親子」がウィーンで購入したという「ウィーン─ベオグラード─バクダット─アブダビ─ バーレー」というひと綴りのエアチケットで、バグダッドからアブダビに降りてからの行動を探ることにしましょう。

 バグダッドを発ちアブダビに着いたKAL機から二人が降りたのは、事件当日(1129日)の午前3時であったのです。「蜂谷親子」と、名前が発表されていない韓国の政府高官13人、計15人を降ろしたKLA機は、340分、アブダビ空港を離陸するのですが、このKAL機(大韓航空858便)こそが、中東に出稼ぎに行っていた韓国人労働者を含め、115人の乗員・乗客もろとも、ベンガル湾の上空から、忽然と姿を消した件の飛行機であったのです。

 それでは、アブダビ空港で降りた「蜂谷親子」は、そこで何をしていたのでしょうか。午前9時発バーレーン行きの飛行機に乗り換えるまでの6時間を、空港のトランジット・ラウンジで過ごしていたというのです。この事実の中に、事件の秘密が隠されているのです。

 この二人は、アブダビからローマ行きの別のチケット(アリタリア航空)を持っていて、もし欲すれば、この時間帯内にアブダビを出発する飛行機で(たとえばロイヤル・ヨルダン航空603便等)ヨーロッパのどこの地点にでも脱出することはできたはずだというのです(野田峯雄著『破壊工作』JICC出版局、1990年刊)。しかし彼らは、そうはしなかった。わざわざ袋小路のような島国バーレーンに入り、「私たち、ここにいますから、上手に捕まえて下さい」と言わんばかりに、5つ星の超高級ホテル(リージェンシー・インターコンチネンタル)に、二泊もしながら 、悠々と買い物や観光を楽しんだというのですから、これは明らかに与えられたシナリオ通りの行動であり、KAL機爆破事件の真の犯人が「蜂谷親子」でないのは、明々白白であると言うべきではないですか。あの飛行機にあらかじめ爆薬が仕掛けられていたなんて、真由美なんか知る由もなかったただろうと私は確信しているのです。

 二人が所持していた偽造旅券が日本のものであり、二人とも日本人を装っていたというのも、 いかにも不自然な話だと思うのです。背後で動いていた真のテロリストの目論みからすれば、「蜂谷親子」は捕まらなくてはならないし、捕まった時のニセの旅券は、日本のものでなけれ

ならなかったのです。

 バグダッドを出発した「蜂谷親子」の二人が、バーレーンのホテルに泊まっているのを一番最初につきとめえ、偽造の日本旅券でバーレーンからアンマンに向けて出国しようとした(もしくは出国するようなふりをしていた)二人を、空港警備官に依頼して身柄を拘束し、尋問を始めたのは──前提所の著者、野田氏の調査によると──日本大使館の職員(砂川三等理事官)であったのです。この大使館職員はア、東京の本省から「蜂谷真由美のパスポートは偽造されたもの」という通報を受けて行動を開始したままであり、あの二人がKAL機爆破の犯人であったのは、 全く知らなかったと言うんですね。だとすれば、「真由美」ないし「蜂谷老人」の犯罪は、旅券の偽造ですから、犯人の身柄は、日本政府がバーレーン政府に要求し、東京に連行するのが当然だったでしょう。しかし当然といえば当然ですが、日本政府はそのような要求はしませんでした。「蜂谷親子」のありかをつきとめた日本大使館のタイミングのよさもさることながら、日本政府が、バーレーンで捕捉された金賢姫(真由美)の身柄を、黙って韓国側に渡したのは、初めから この事件のシナリオを知っていて、日本が87年選挙における金大中氏の当選を阻止する意図からでた行為であったと、私は疑わざるを得ないのです。  たとえば日本の国営放送局と言うべきNHKの態度ですが、光州における市民大虐殺のあと、全斗煥政権が浮上するや、NHKは、セマウル運動の本部長を務めていた全敬煥( 全斗煥の実弟)の活動について「密着取材」を行い、 1時間半の特別番組を組んで放映したのです。これは、中曽根氏がノーネクタイで、のど自慢を交わしたという、全斗煥に対する、日本政府のエールであったとみてよいでしょう。もう少し具体的に言うと、全斗煥 に捕らえられて獄中にいた金大中氏の処刑を急いでくれという信号であったのかも知れないのです。

 韓国の大統領選挙を目前で控えた1212日(98年)、NHKは「金賢姫と遺族の十年・大韓航空機爆破事件」と銘打った特別番組を放映しました。これはキリスト教に改宗したという金賢姫が教会の講壇に立って、爆破事件で命を失った115人の人々とその遺族に対してお詫びの言葉を述べ、「醜悪かつ残忍きわまりない北朝鮮の犯行を糾弾する」という趣旨のものであったのですが、これが、金大中政権の浮上を阻止しようという、日本政府の意図を反映したものでなかったとは言えないでしょう。

  しかしながら、日本政府が自分に対してとってきたこれまでの敵視政策のために、金大中氏が、否定的な態度で、日本に対し狭量な政策をとるだろうかと言えば、そうではないでしょう。先ほどのべたように、金大中は、昔の政敵に対してさえ、その霊前に額づき、生前の功績を讃えることをためらわない政治家であって、彼のこのようなプラグマティズムは、日本に対しても適用されるでしょう。

 日本政府もその年(97年)の末、通貨危機に直面した韓国に、いち早く100億ドルの援助を申し出る一方、小渕外相(当時)や中曽根元首相が踵(きびす)接してソウルを訪れ、 金大中氏と会いました。それは、言葉ではそこまで表現しなくても、日本政府としての新大統領に対する陳謝の意を含めてのジェスチャーであったと、少なくとも私は、そのように判断したいと思うのです。

 

 

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