真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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国家神道と国家主義のカルト(the nationalistic cult)

2021年07月26日 | 国際・政治

 オリンピック開催に突っ走る政府や組織委員会関係者の、国民の命と生活を後回しにしたような発言およびオリンピック開会式演出に関わる重要人物の辞任・解任が続き、やっとその背景に迫る文章を目にするようになりました。朝日新聞の”人権意識、日本の低さ露呈、歴史認識、世界標準とズレ”というような文章がその一つです。これは、高橋哲哉東京大学名誉教授や佐藤卓己京都大学大学院教授の主張を短くまとめたもののようですが、本当に深刻な問題だと思います。でも、現在の日本では、日々歴史の修正が進み、歴代最長といわれる安倍政権によって、もはや後戻りが難しいのではないかと思われるほどひどい状態になってしまったように思います。
 「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が中止に追い込まれたことに象徴されるように、南京大虐殺の問題も、日本軍「慰安婦」の問題も、徴用工の問題も、まともに議論することができないような状態になり、日本人の歴史認識は、国際社会のそれと乖離する一方ではないかと思うのです。

 先日、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産委員会が、長崎県の端島炭鉱(軍艦島)などからなる世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」について、朝鮮半島から連行され労働を強いられた人々についての日本の説明が不十分だとして、「強い遺憾を示す」とする決議を全会一致で採択したことが報道されました。日本政府が、犠牲者を記憶にとどめるための措置を登録時に約束したにもかかわらず、それを守らず、逆に正当化するような内容にしてしまったことが決議に至ったのだと思います。安倍前首相が会長をつとめる創生「日本」に結集する自民党員のなかには、さっそく、”政治的偏向が目立つユネスコ”からの脱退を主張する声が出ているとのことですが、政治的偏向が目立つのは、歴史の修正を進める安倍・菅政権の方だと思います。

 戦時中、九州の炭鉱では、”一に高島、二に端島、三で崎戸の鬼ヶ島”と怖れられたといいます。
 また、端島の桟橋に残る石造りの門は一生出られない”地獄門”と言われ、崎戸島は”鬼ヶ島”、高島は”白骨島”と呼ばれて脱出不可能の孤島として怖れられていたのだといいます。そんな端島の高島町役場端島支所の廃墟で、1925年から1945年に至る20年間の「火葬認許証下附申請書」と「死亡診断書」の束が発見され、それがきっかけで、島における悲惨な労働者の実態が少しずつ明らかにされていったといいます。徹底した調査と聞き取りをもとにした林えいだい氏「死者への手紙-海底炭鉱の朝鮮人坑夫たち」(明石書店)を読めば、ユネスコ世界遺産委員会の「強い遺憾を示す」とする決議を、政治的偏向などという政治家の政治的偏向こそ、救いがたいレベルではないかと思います。

 日本はかつて、リットン報告書の採択満州国不承認に関する案に、44か国中42か国が賛成したにもかかわらず(反対は日本のみ、シャム=現在のタイが棄権)、これに抗議して国際連盟を脱退し、孤立の道を歩んだことを忘れてはならないと思います。自らの意見が通らなければ脱退するということでは、民主主義国家とは言えないのだと思います。ユネスコは、195か国が加盟する国際組織です。”政治的に偏向している”というとらえ方はもちろん、分担金拠出を云々することも、恥かしいことだと思います。自らの主張が通らない時は、理解を得るために、研究会を重ねるなど、地道な日常活動をくり返すことが、文明国には欠かせないと思います。それをしようとしない政治家が、日本の政治を担っているために、現在の日本は、歴史問題の本質をみんなで考えようとする「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」のような活動が、脅しによって中止に追い込まれるようなことになっているのではないかと思います。 

 だから、”日本を取り戻す”などと言って戦前回帰を進め、国際社会と逆方向に進もうとする日本の現状を踏まえ、今回は、「日本国起」と「過去を見る眼」で触れたGHQの文書、「JAPAN:FREEDOM OF WORSHIP」(日本:信仰の自由)から、要所を抜萃することにしました。 
 この文書には「National Shinto」(国家神道)、「the nationalistic cult」(国家主義のカルト)、「danger to the peace」(平和への脅威)と刺激的な文言が並び、「Yasukuni」(靖国)の文字とともに、「…could be closed」(閉鎖できる)とあったというので、記録しておきたいと思ったのです。

 先日、軍務課内政班班長の竹下正彦中佐が書いた「機密作戦日誌」の8月9日から8月15日の部分を抜粋しました。
 そこには、昭和二十(1945)年、ポツダム宣言受諾のいわゆる「御聖断」が下された後、阿南陸相が自決を決断し、自決にあたって竹下中佐(阿南陸相の義弟)にいろいろ言い残している内容が、詳しく記録されていました。その中の一つに、”米内ヲ斬レ”というのがありました。ポツダム宣言をめぐる閣議や御前会議における米内海相の、和平を進めようとする主張が受け入れられなかったのだろうと思いますが、同じ日本人で、海軍を代表する海相を、“斬レ”と指示するのは、客観的に見れば、破壊的カルトと変わらないのではないかと思います。
 そしてそれが、軍人勅諭や教育勅語、戦陣訓などの教えに、忠実に従おうとするが故のものであることから、日本の国自体が、明治維新以来、破壊的カルトと変わらない考え方をする国であったのではないかと、私には思われるのです。
 軍人勅諭の中には、”只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽(サンガク)よりも重く死は鴻毛(コウモウ)よりも輕しと覺悟せよ其操(ミサヲ)を破りて不覺を取り汚名を受くるなかれ”などと書かれています。大事なのは”皇軍の道義”であり、人命ではないのです。明らかに、人命軽視の考え方だと思います。
 戦陣訓には”夫れ戦陣は 大命に基づき、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦えば必ず勝ち、遍く皇動を宣布し、敵をして仰いで御稜威(ミイツ)の尊厳を感銘せしむる處なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず”とありました。

 こうした考え方の背景には、吉田松陰の下記のような侵略の思想があるのではないかと思います。吉田松陰の『幽囚録』には、”皇国は四方に君臨し、天日の嗣の永く天壌と極りなきもの…”などあり、さらに、”今急に武備を修め、艦略ぼ具はり礮(ホウ)略ぼ足らば、則ち宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間(スキ)に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲(チョウキン)会同すること内諸侯と比(ヒト)しからしめ、朝鮮を責めて質を納(イ)れ貢を奉ること古の盛時の如くなら占め、北は満州の地を割(サ)き、南は台湾・呂栄(ルソン)の諸島を収め、漸に進取の勢いを示すべし<「吉田松陰全集第一巻」(岩波書店)>”などとあるのです。

 二・二六事件の決起将校や、昭和二十(1945)年八月十三日に、地下防空壕ニ参集し、”真剣ニクーデターヲ計画”を話し合った”竹下、椎崎、畑中、田島、稲葉、南、水原、中山安[安正]、中山平[平八郎]、島貫、浦、国武、原等、二、三課、軍務課ノ面々は、皆、軍人勅諭や教育勅語、戦陣訓はもちろん、こうした吉田松陰の考え方を学んで自分のものとしていたから、死をおそれず、”仮令(タトヘ)逆臣トナリテモ、永遠ノ国体護持ノ為、断乎明日午前、之ヲ決行セムコトヲ”話し合ったのだと思います。「機密戦争日誌」の八月十四日には、”仮令聖断下ルモ、右態勢ヲ堅持シテ、謹ミテ、聖慮ノ変更ヲ待チ奉ル”とあります。まさに、”義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕しと覺悟”してのことであったと思います。

 また、”継戦トナレバ治安ヲ維持スルコト可能ナルモ、降服トナリテハ請ケ合ヒ兼ヌル旨述ベ、且、仮令御聖断アルモ詔書ニ副書セザレバ、効力発生セズトノ意見等述ベ、又治安出兵ノ為ニハ、筆記命令ヲ貰ヒ度旨述ベタリ。”という記述や”…一方、此ノ日、畑[俊六]元帥広島ヨリ到着、次官之ヲ迎ヘ、此ノ頃陸軍省ニ出頭セラル。白石[通教]参謀随行。原子爆弾ノ威力大シタアコトニ非ラザル旨語ルヲ以テ、元帥会議ノ際、是非其ノ旨、上聞ニ達セラレ度頼ム。”などという記述もありました。 

 「機密戦争日誌八月十五日には、”十一時二十分、椎崎、畑中両君、宮城前(二重橋ト坂下門トノ中間芝生)ニテ自決。”とあります。日本の軍人にとって降伏はあり得ないということだったからだと思います。「御聖断」があったから、降伏するというのでは、大戦末期に太平洋の島々はじめ、いたるところでいわゆる「玉砕戦」を展開した部隊や、万歳突撃や特攻で命を捧げた兵士に言い訳ができないということだろうと思います。

 GHQの占領政策を、日本人の「精神的武装解除」であり「日本の心的去勢」を意図するものであると言った徳富蘇峰は、戦後の日本を嘆き、”此頃ハ藤田東湖も松陰モ 説ク人モナク聴ク人モナシ”という歌をよみましたが、藤田東湖の「弘道館記述義」や吉田松陰の「幽囚録」、江戸時代後期の思想家、佐藤信淵の『宇内混同秘策』などの考え方が、若き将校たちの思想の背景にあったことはまちがいないと思います。『宇内混同秘策』には、”皇大御国は大地の最初に成れる国にして世界万国の根本なり。故に能く根本を経緯するときは、則ち全世界悉く郡県と為すべく、万国の君長皆臣僕と為すべし”とありました。また、”凡そ他邦を経略するの法は、弱くして取り易き處より始るを道とす。今に当て世界万国の中に於て、皇国よりして攻取り易き土地は、支那国の満州より取り易きはなし。”ともありました。

 だから私は、戦前の日本という国自体が、自国を神国とする優越的立場で、拡大(侵略)を意図し、人命軽視・人権無視をする国、すなわち破壊的カルトと変わらない考え方をする国であったと思うのです。そうした意味で、GHQの文書、「JAPAN:FREEDOM OF WORSHIP」(日本:信仰の自由)は、日本のカルト的側面を正しく認識していたと、私は思うのです。

 下記は、「靖国 知られざる占領下の攻防」中村直文NHK取材班(NHK出版)から、関連部分を抜萃しました。
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              第一章 国家のカルト 

 アメリカとYasukuni
 ・・・
 靖国神社を巡る日米の攻防をテーマにした企画が通り、私たちは本格的にロケをスタートさせていた。取材の大きな柱の一つがアメリカであった。
 アメリカ側の取材の出発点は、冒頭でも触れた太平洋戦争中のアメリア政府の極秘文書である。きっかけは、占領史研究の第一人者、竹前栄治氏との出会いだった。
 東京経済大学名誉教授の竹前氏は、東京都立大学大学院博士課程を修了。米ハワイ大学やカリフォルニア大学大学院に留学し、フルブライトの研究員としても渡米した経験を持つ”アメリカ通”である。連合国軍最高司令官総司令部(General Headquarters Supreme Commander for the Allied Powers=GHQ/SCAP)の残した膨大な資料を翻訳・整理した研究者として名高い。また戦後、GHQの高官たちに聞き取り調査を行い、貴重な証言記録を残したことでも知られる。
 その竹前氏の自宅を訪ね、「アメリカと靖国」という取材の趣旨を説明すると、強い興味を示した。
「占領史研究の分野においては、靖国神社はほとんど手つかずですね。その視点で資料をさがせば、新しい何かが出てくるかもしれない」
 竹前氏はマイクロフィルム化された膨大な占領期の資料を見る作業で目を酷使し、五十歳ごろに失明した。しかし研究内容を詳細にいたるまで鮮明に記憶していて、占領期に関する人物名や資料名は即座に出てくる。竹前氏は、「靖国」に関してアメリカ側のどのような資料にあたればいいのかすぐにアドバイスしてくれた。そしてアメリカ政府のGHQの資料を探す作業に関しては、専門家の手を借りたほうが早いと、在野の研究者を紹介してくれた。
 竹前氏が紹介してくれた笹本征男氏は、竹前氏のもとでGHQの膨大な資料の整理や解析に従事してきた。占領史研究者としても知られており、終戦直後、日本軍が原爆の被害調査をどのように行い、それがいかにしてGHQに渡ったのか、独自の視点で日本の敗戦処理を研究している。
 指定された渋谷の喫茶店に行くと、気難し気な初老の男性が待っていた。笹本氏だった。挨拶すると、ニコリともせずに、「竹前先生にこの資料を持っていけと言われましてね」、そうつぶやいておもむろに一通の文書のコピーを差し出した。「極秘」と書かれた英文の文書である。右肩に「PWC-115」、見出しには「JAPAN:FREEDOM OF WORSHIP」(日本:信仰の自由)とある。
「PostWar Programs Committee(PWC)、戦後計画委員会というのは、太平洋戦争中にアメリカ国務省内に設置された委員会でね、日本の占領政策をどうするか、天皇制だとか教育だとか、テーマごとに分かれてひそかに議論していたわけです。それで、この『信仰の自由』なんですけどね、日本の軍国主義・超国家主義を助長したとされていた国家神道をどう扱うべきか、議論したものなんですよ」
 笹本氏に手渡されたその文書の一言一句を、私は目を皿にして見つめた。「National Shinto」
(国家神道)、「the nationalistic cult」(国家主義のカルト)、「danger to the peace」(平和への脅威)と刺激的な文言が並ぶ。さらに見ていくと、「Yasukuni」の文字があった。「…could be closed」(閉鎖できる)とある。
 私が驚く様子を見ながら、笹本氏は続けた。
「占領史をかじっている人間であれば、もちろんこの文書の存在自体は知らないわけではない。ただ、なぜか占領史研究においては、『靖国』はまとまった形で取り上げられてこなかったんです。いいいですか、『靖国』はまだまだ未知の領域なんです。このPWC文書も改めて『靖国』という視点で見ると、実に面白い」
 強面で気難しそうに見えた笹本氏は、いったん話始めると饒舌だった。話はしだいに熱気を帯びていった。
「戦前のほかのアメリカ政府の文書もね、いろいろ調べ直したんですよ。でも明確に『靖国』のことに触れているモノはこれだけなんですね。なぜほかにないのか。『靖国』についてはこの文書が最初で最後なのか。はたしてこの文書の内容と実際の占領政策はどう関係しているのか。かえって疑問が深まるばかりなんですよ。いずれにしても、この文書を入り口に、今度は占領期のGHQ文書を『靖国』という視点で徹底的に洗わないといけないでしょうね」
 私は手渡された文書の「Yasukuni」とタイプされた部分にクギづけになったままだった。驚きを禁じえなかった。文書が作成されたのは昭和十九(1944)年三月。終戦の一年半も前である。まだ戦争の帰趨も明らかでない時期に、アメリカ政府はすでに靖国の閉鎖を検討していたのである。
 驚きと同時に疑問も膨らんだ。靖国神社の閉鎖を検討していたとすれば、それはなぜだったのか。
 笹本氏と会った四か月後、私たちは極秘文書「PWC-115」のコピーを握りしめて、アメリカの地を踏んだのである。
 ・・・

 国家主義のカルト
 ・・・
 昭和十六(1941)年十二月、真珠湾攻撃による太平洋戦争が勃発すると、翌夏、アメリカ国務省で戦後政策を検討していた特別調査部領土小委員会に東アジア班が設置され、対日戦後政策の議論が本格的に始まった。アメリカは、日本との戦争に乗りだす一方で、勝利を前提に日本の占領政策を議論し始めたのである。
 昭和十九(1944)年一月、陸軍省と海軍省から極東地域の占領統治に関する質問を受け、具体的な立案作業を開始する。推進したのが国務省の内部機関「戦後計画委員会」(Postwar Programs Committee=PWC)であった。PWちゃ国務長官コーデル・ハルと上級官僚によって構成され、その下部機関として「部局間極東地域委員会」(Inter-Divisional Area Ccommittee on the Far East)が置かれた。この極東地域委員会が主に対日政策を担当することになる。
 中野剛創価大学教授は、「アメリカの対日宗教政策の形成」(井門富士夫編『占領と日本宗教』所収、未來社)の中で、当時国務省の立案者たちは大きく二つの立場に分かれていたとしている。一つは「天皇制の全面廃止」を主張する強硬論のグループ、一般に「中国派」と呼ばれた人々であり、彼らは、「日本の侵略思想と天皇制は不可分の関係にある」と考えていた。その一方で、強硬派の方法に疑問を挟む第二のグループが存在した。いわゆる「知日派プランナー」たちである。彼らも、日本軍国主義と侵略思想の根絶という目標においては「中国派」と一致していたが、これらの目標が天皇制の廃絶によって達成できるとは考えなかった。
 PWCの下部機関、部局間極東地域委員会のメンバーは、「知日派プランナー」と呼ばれた国務省官僚や学者によって構成されており、戦後の対日政策について、「天皇制」「軍隊」「教育制度」など具体的なテーマを掲げて文書を作成した。その一つが「PWC-115」文書のテーマ「信仰の自由」だったのである。

 「信仰の自由」は、当時のアメリカ政府にとって重要なキーワードの一つであった。すでに第二次世界大戦が始まっていた昭和十六(1941)年一月、ルーズベルト大統領は年頭教書の中で、日独伊枢軸国の脅威とそれに対する自由主義諸国の戦いの意義について述べた。その中で、「合衆国政府が目指す世界、戦後の世界が基礎づけられるべき原則として『四つの自由』を宣言」した。四つ自由とは
、すなわち「言論の自由と表現の自由」「神を崇拝する自由」「欠乏からの自由」「恐怖からの自由」である。
 「PWC-115 日本・信仰の自由」は、アメリカが、第二次世界大戦の果てに確立すべきと考えていた”四つの自由”の一つを日本にどう”適用”するか、という重要な議論であった。
 「PWC-115」文書の冒頭は、次のような問題提起で始まる。

 極端な国家主義から、宗教としての神道を区分することは困難だとの見地に立って、日本において占領軍が信仰の自由を許可すべきか否か(後略)
         (「神社新報」昭和五十(1975)年十二月十五日号による。神社新報社)

 極端な国家主義と結びついている神道とは、すなわち「国家神道」を指す。当時、アメリカ国務省内部で最大の焦点にとなっていたのは天皇制の取り扱いであったが、「国家神道」は天皇制と結びつき、日本の軍国主義・超国家主義を支える”イデオロギー”として注目されていた。
 そもそも「国家神道」とは何か。その言葉の定義については、現在でも専門家の間で解釈が大きく分かれている。島薗進東京大学教授は、「国家神道」という言葉について、「戦前の神社神道が国家と特別の結びつきをもっていたことに限定して用いようとする用法」と、「明治維新から敗戦まで間
、国家が神道的な思想や実践を国民統合の支柱として用いてきた、その総体を指そうとする用法」(島薗進「国家神道」と近代日本の宗教構造」、「宗教研究」329号所収、2001年)、つまり、狭義の前者と広義の後者という二つの定義が存在すると指摘している。
 いずれの定義にも共通するのが、戦前の日本において、神道あるいは神道的なものが国家と深く結びついていた、ということである。PWCが問題提起したのはまさにそこにあった。国家と結びつき、軍国主義・超国家主義を支えた「神道」をも、「信仰の自由」の対象として認めるのか──。
それに対する議論は次のようなものであった。

 連合国は信教の自由(筆者注:原文はfreedom of religious worship)の原則を約束している。この原則を日本に適用することは、近年の日本の国家主義者たちが、神道の本来の姿である無害な原始的アニミズムの上に、現在国家主義者によって狂信的なまでに、愛国的かつ侵略的な日本の拡大のために利用されている国家主義的天皇崇拝(筆者注:原文はa naitionalistic Emperor-worshiping cult)を上乗せしめてきたという事実により、複雑な情況となっている。
 この問題を考察するにあたっては、神道のもっている二つの側面を明かにする必要がある。古神道は、それ自体は我々の利益に対し有害なものではない。しかし、極度に好戦的な国家主義の儀礼(筆者注:原文は the cult of extreme militant nationalism=極度に好戦的な国家主義のカルト)である国家神道は明らかに太平洋地域として、恐らく世界の平和に対する危機の根源の一つである。天皇制度が、それから生じた誤用のために、合衆国においてしばしば非難されているのとちょうど同じように、古神道もその上につぎ木された国家主義的信仰(筆者注:原文はnationalistic cult=国家主義的カルト)のために非難されている。(前掲、「神社神宝」)

 PWCは、「国家主義的カルト」は、無害な原始的神道の上に「天皇崇拝」や「狂信的なまでの国家主義(超国家主義)」、「攻撃的な軍国主義」などの要素が加わって生み出された、と分析する。国家神道は世界平和にとっての脅威であると断罪し、マメリカが戦場で目の当たりにした日本軍の”狂気”の源泉がそこにあると考えたのである。
 では、具体的に日本の神社の中でどれが”危険”なのか。
 PWCは約十万の神社を三つに分類し、その中で初めて「靖国」について言及する。

(a)大多数の神社は、古代的起源にもとづくものであり、地方の守護神が祀られている。それらは地方的な祭りの場であって、厳密に宗教的な神社であると解釈され得る。
(b)天照大御神(The Sun Godess)が祀られている伊勢の大神宮のごとき少数の神社もまた古代的宗教の神社ではあるが、それに国家主義的象徴のメッキが施されている。
(c)靖国(神社)、明治(神宮)、乃木(神社)、東郷(神社)その他の国家的英雄を祀る近代的神社のいくつかは、我々が理解するごとき意味における「宗教」的信仰の場なのではなくして、国家主義的軍国主義的な英雄に対する崇拝および戦闘的国民精神の涵養(カンヨウ)のために祀られた国家主義神社(nationalistic shrine)である。
 この最後に挙げた種類の神社は日本政府も「国家神道は宗教ではない。むしろ愛国精神の発露である」と繰返して主張しているのであるから、信教の自由の原則を犯すことなく閉鎖し得るものである。
                               (前掲 「神社新報」)

PWCの議論において、もっとも”国家主義的”な存在とみなされたのが靖国神社をはじめとする明治以降に作られた新しい神社であった。日本が「国家神道は宗教ではない」と主張していることを逆手にとって、靖国神社は「宗教」ではないからアメリカの掲げる「信仰(信教)の自由」を侵すことなく、靖国神社を「閉鎖」できるとしたのである。
 「神社は宗教ではない」という考え方については、明治以来、日本政府が一貫して主張してきたことであった。明治三十三(1900)年、内務省に神社局が設置され、神社とほかの宗教の管轄が切り離されたときをもって、「神社非宗教」が法制度的に確立したとされるが、このとき「神社は宗教にあらず」ということが明確に国家の仕組みとして示され、国民を精神的に統合する中核としての役割が神道に託されたのである。戦前の日本では「敬神崇祖(ケイシンスウソ)」、つまり神を敬い祖先を尊ぶということが、国家理念であり国家神道の観念だと考えられていた。

 このことについて阪本是丸國學院大學教授は、以下のように指摘している。「(前略)全国民に『敬神崇祖』の観念を普及・徹底させること、やがてこれが国家および大多数の国民の統一意志となる。その最大の契機が昭和六年の満州事変であり、それ以降の準戦時体制であった。」(「国家神道体制の成立と展開」、前掲、井門富士夫編『占領と日本宗教』所収)。戦争の拡大にともなって、国家をまとめる精神的な役割が国家神道に託されたのである。
 皇紀二千六百年にあたる昭和十五(1940)年には、神祇院が創設され、「敬神崇祖」の普及が国家の公式行事となった。「『国家神道』にはじめてイデオロギー・思想が付加」(前掲「国家神道体制の確立と展開」)されたのである。小中学校の児童・生徒にも神社参拝が義務づけられ、一般国民にもそれが奨励された。
 PWCは、こうした戦時中の日本国内の”変化”を確実にとらえていた。軍事的拡大に伴って国家と神道の関係が変化していったこと、神道が国家によって”利用”されている部分があることに気づいていたのである。
 「靖国閉鎖」に言及したPWCだが、一方で次のような指摘もしている。

 国家神道儀礼(筆者注:原文はカルト)の国民への影響力を弱めるためには軍事的敗北と軍隊の動員解除と同時期にこのような神社を容認して置くのが、それを強制的に閉鎖してしまうよりは、むしろより役立つかもしれない。なぜなら、強制的閉鎖は却ってその信仰(筆者注:原文はカルト)を強める傾向となるおそれがあり得るからである。

 靖国神社を閉鎖できる、という明快な結論を出しながら、PWCはその閉鎖がもたらす弊害も念頭に置いていた。結論として、PWCは、「国家とのあらゆる結びつきを断った上での存続」という慎重かつ穏健な方向性を示した。
 結果だけ見れば、靖国神社の処置はPWCが提言したとおりになったのだが、現実の占領において具体的に採られた政策は、必ずしもPWCの政策提案を直接反映したものではなかった。連合国軍総司令部(GHQ)の政策のもととなったのは、PWCが解散したのちに、政府と軍部の統合的な政策を作るべく設けられた「国務省、陸軍省、海軍省三省調整委員会」(State-War-Navy Coordinating Committee=SWNCC)の諸決定であった。しかし、 SWNCCの文書には靖国神社についての具体的な提言は一切残っていない。靖国を存続させるか否かという議論は、占領下、GHQ内部で”再燃”することになる。

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神社参拝の強要と終戦時朝鮮における昇神式

2021年07月21日 | 国際・政治

 1945年(昭和20年)8月15日正午に玉音放送があり、前日に決定されたポツダム宣言受諾及び日本の降伏が国民に公表されて、帝国政府が軍に武装放棄と連合軍への投降命令を発した直後、朝鮮では神社がまっ先に昇神し、人民に先んじて引揚を行ったといいます。
 その素早さに驚きますが、下記の抜粋文によって、その理由がわかるような気がします。

 朝鮮における神社の昇神と引揚に関する竹島朝鮮神宮権宮司や総督府祭務官高松忠清氏の、下記抜粋文にあるようなことばは、朝鮮における神社信仰が、本来あってはならない強要に基づくもので、朝鮮人の信仰心に基づくものではなかったことを物語っているのだと思います。特に、”神社は朝鮮の土地・住民に即した神を祀ったものではなく、日本内地から神霊をお移ししたものであったこと”を、自ら昇神の理由の一つに挙げていることは、見逃せません。
 また、”神の尊厳維持は国家の至上命令であり、その責任はあくまで国家にあった。神職は、官の命により神社を守るものであった。しかも神社を護持する信仰団体が朝鮮民間に結成されていなかったために、昇神式挙行の命を出さざるを得なかった”との説明も、やはり朝鮮における神社信仰に無理があったことを物語っているように思います。

 下記の、
” 八月十五日の夜、平壌神社が放火されたのをはじめとし、相ついで各地の神社・神祠が破壊・放火された。さきにあげた総督府の統計によると、八月十六日から八日間に、神祠・奉安殿に対する破壊・放火は136件におよんでいる。これは警察官署に対する襲撃・占拠・接収・要求など149件にほぼ匹敵する数字で、行政官庁に対する暴行件数よりも多い。
 という文章は、そうした実態を裏づけるものではないかと思います。多くの朝鮮人が、強いられた神社参拝に不満を抱きながら、我慢を続けていた証しなのだろうと思うのです。
 だから、神社の破壊や放火に関して、著者・森田芳夫氏が
神社が朝鮮人にとって今後利用価値のない施設であると考えられたからでもあろうが、根本的な原因は神社参拝が朝鮮人にとっては民族弾圧と考えられ、その不満が神社や奉安殿に向けられた点もあったといえよう。
 と認めていることは、重大であり、われわれ日本人が忘れてはならないことの一つだと思います。

 下記は、「朝鮮終戦の記録 米ソ両軍の進駐と日本人の引揚」森田芳夫著(厳南堂書店)の「第三章 終戦時の朝鮮」から「四 神宮・神社の昇神式」を抜粋しました。
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              第三章 終戦時の朝鮮

              四 神宮・神社の昇神式

1 朝鮮における神宮・神社
 終戦によって、朝鮮が混乱におちいったときに、総督府当局がもっとも心を配ったことの一つに、天皇皇后両陛下のお写真と神社がある。朝鮮統治は、その究極の理想として、朝鮮民族の「同化」「皇民化」を掲げた。したがって天皇皇后両陛下のお写真と神社の尊崇は絶対的であり、とくに戦争中の行事に、その儀式が尊重された。終戦の年に、全朝鮮に官幣社2(朝鮮神宮・扶余神宮[扶余神宮は造営中であった])国幣小社8(京城・全州・光州・大邱・龍頭山[釜山]・平壌・江原[春川]・咸興)一般神社69、神祠1062を数えていた(表略)。朝鮮神宮参拝者は、日華事変以後急増して年間二百万名を越え、十七年の参拝者数264万8365名、一日平均の参拝者数は7千名を越えた。
 八月十五日の夜、平壌神社が放火されたのをはじめとし、相ついで各地の神社・神祠が破壊・放火された。さきにあげた総督府の統計によると、八月十六日から八日間に、神祠・奉安殿に対する破壊・放火は136件におよんでいる。これは警察官署に対する襲撃・占拠・接収・要求など149件にほぼ匹敵する数字で、行政官庁に対する暴行件数よりも多い。
 過去に幾度か朝鮮内に起こった民族運動において、学校や警察署に放火されることはあっても、神社が焼かれたことはなかった。終戦とともに神社が焼かれたことは、学校や警察署とは異なって、神社が朝鮮人にとって今後利用価値のない施設であると考えられたからでもあろうが、根本的な原因は神社参拝が朝鮮人にとっては民族弾圧と考えられ、その不満が神社や奉安殿に向けられた点もあったといえよう。しかし、そのことの日本人に与えた精神的衝撃は大きかった。

 2 朝鮮神宮の昇神式
 八月十六日の午前、朝鮮神宮の額賀宮司・竹島権宮司、京城神社の仲宮司は、総督府の本多地方課長のもとに集まり、神宮・神社の件について協議した結果、全朝鮮の神宮・神社の昇神式を行なうことを決定し、その日の午後から十七日にかけて、警務局の電話によって各道庁にその旨を通達した。咸鏡北道(ハムギョンプクド)だけは電話が通じなかった。神祠には、神職もいないので、そのままにしていた。
 昇神式とは、おまつりしている神霊にお帰りを願う儀式で、日本神道はじまって以来の行事である。朝鮮神宮において、行なわれた昇神式について、権宮司竹島栄雄氏の報告の一節を転記する。

   終戦に伴う前後措置に関する報告
 御神儀
  終戦によって生ずべき事態の変化に対処し、御神儀の御措置に関し、左の二方法が考えられたり。
 (一) 神霊の御昇神を奉仕する儀
 (二) 内地奉遷を奉仕するの儀
  而して、(一)の儀に関し、御霊代の措置に関し、左の四つの場合を考えたり。
(1)境内の一角を選びて土中申し上ぐるの儀
(2)海中に沈め奉るの儀
(3)御焼却申し上ぐるの儀
(4)宮中に御返納申し上ぐるの儀
 右の二案につき、二十年八月十五日、社内にて慎重審議をかさね、第一案第四項の儀、すなわち御昇神を乞い奉り、御霊代を宮中に奉遷致すをもって至当との結論を得たるも、ことの重大なるにかんがみ、翌十六日早朝、宮司出て、朝鮮総督の指示を仰ぐこととなし、総督・総監・地方課長・祭務官・宮司協議の結果、第一案第四項により、御措置申し上ぐることに決せり。すなわち、御鎮祭の儀を拝するに、御霊代は、宮中よりの御奉納にかかり、御正殿に御奉安の上、勅使御祭文を奏して、御鎮祭申し上げたるその先例により、これが逆の方途を講ずるをもって至当となしたる所以なり。
 右、祭儀を昭和二十年八月十六日午後五時斎行、宮司以下全員奉仕、朝鮮総督府官房地方課長本多武夫、朝鮮総督代理として、朝鮮総督府祭務官高松忠清を伴いて参列、無事終了、御鎮座二十年にしてここに御神儀の御遷座を乞い奉りたり。而して御霊代は、八月二十四日、京城飛行場発、飛行機にて宮内省式部次長坊城俊良に託し、宮中へ奉遷申し上げたり。
  御神霊御宝物
御鎮祭当初、大正天皇の特別のおぼしめしをもって、明治天皇御佩用太刀(銘正恒)一振を御宝物として御奉納、由来神庫に格納中なありしも、これまた宮中に御返納申し上ぐることとなし、八月十六日、京城飛行場発、飛行機をもって、陸軍中央通信調査部勤務陸軍大尉仙石正文に託し、宮中へ御返納申し上げたり。
 御神宝ならびに御宝物・御祭文・御調度等は、いっさい焼却し奉ることとなし、夜中を待ち、八月十九日より、焼却、八月二十五日をもって完了せり。

 御正殿ならびに儲殿の解体・焼却のことについては、のちにのべる。
 日本人にとって、神社は信仰の中心であり、「日本人のいるところ、かならず神社あり」といわれたものである。神社参拝は、国家・民族を越えた宗教的なものとして朝鮮人にも強要され、朝鮮人側にもごく少数であったが、純真な信者があった。しかるに、戦争が終わり、日本の武力放棄と同時に、神社がまっ先に昇神し、人民に先んじて引揚を行ったのは何故であったろうか。満洲や華中における神社が、居留民の最後に引揚まで奉祀された例とくらべて、考えさせられるが、その点について、当時の竹島朝鮮神宮権宮司は、第一に、暴行に対して神の純潔性を保とうとしたこと、第二に、満州や華中の居留民の神と異なり、朝鮮の主要神社は、官幣社・国幣社として国家的社格を持っていたこと、第三に、神社は宗教であるが、立場は一般宗教と異なり国家神道であったこと、第四に、神社は朝鮮の土地・住民に即した神を祀ったものではなく、日本内地から神霊をお移ししたものであったこと、第五に、天照大神の性格に国魂神としての性格はあったが、祭祀にあたっては、あくまで皇祖神としてお祀りっしていたことをあげ、当時の総督府祭務官高松忠清氏は、
「神の尊厳維持は国家の至上命令であり、その責任はあくまで国家にあった。神職は、官の命により神社を守るものであった。しかも神社を護持する信仰団体が朝鮮民間に結成されていなかったために、昇神式挙行の命を出さざるを得なかった」 
と説明した。

 3 各地の神社の昇神式
 総督府からの指示にもとづき京城神社は八月十六日午後三時に昇神式を行った。元山神社は十六日午後八時、江原神社は十七日午前五時、仁川神社は十七日、大邱神社は十八日夜、金北の裡里・全州・南原・大場・金堤神社は十八日、全南の順天神社は十七日、莞島神社は十八日、黄海道の海州神社は十七日、沙里院神社もそのころ、平南の鎮南浦神社は十七日、平北の江界神社は十九日、江原道の長箭神祠は十八日、それぞれ昇神式を行った。平北の満浦神社は八月十八日に昇神式を行い、神体を焼却した。馬山神社は九月四日、密陽神社は十月五日に昇神式を行った。
 ソ連軍が進攻した羅南では、八月十五日午前三時に、小沢芳邦宮司が羅南護国神社の神体を奉じて、羅南から十二キロ山奥の檜郷洞の山中に避難し、朝夕、戦勝祈願祭を奉仕したが、十八日夜、三洞嶺に深さ五尺の穴を掘り、御神体を収めた。その後、小沢宮司はさらに山奥に避難し、そのまま逃避行がつづいたので、神体を迎える機を失した。
 龍頭山神社(釜山)、仁川神社の神宝は、海中に沈めた。全州神社は、十八日の昇神式の際に、仮の焼却をして神宝を焼いたが、神体を裏の山中に移して奉仕を続け、十一月八日引揚の際に、米軍の許可を得て二等車に神体を奉じて、日本に持ち帰った。
朝鮮人の手によって焼かれたものとして、十五日夜に平壌神社、十六日に定州神社・安岳神社・温井里神祠、十七日に安州神社・朔州神社・寧辺神社・川内里神祠・載寧神祠、十八日に兼二浦神社・宣川神社・博川神社・小鹿島神社、二十一日に龍川神社、二十二日に熙川神社、新幕神社もそのころであった。新幕神社の神体は十七日ごろ氏子総代の手で焼却された。八月末に安東神社(慶尚北道)、九月二日に江界神社、九月七日に海州神社などの焼かれた報告がある。長淵神社は八月二十日ごろ在住民と日本軍の手により焼却し、夢金浦神祠・苔灘神祠は朝鮮人によりこわされた。満浦神社の奉斎殿は、十九日夜朝鮮人によって焼かれた。
 浦項神社は鳥居をたきものにされ社殿をこわされ、慶州神社社殿の鍵をこわされ、放火の形跡があり、通川神祠は焼かれ、枰城神祠は祠殿破壊、恵山神社・南原神社は暴行にあい略奪された。亀城神社は、十七日に住民の手でこわされたが、神体は郵便局長宅に持ち帰られた。清津神社は、ソ連軍の兵火にあい全焼して宮司は焼死した。城津神社はソ連軍の軍用施設になった。以上、暴行放火をうけた報告は、北朝鮮の地に多い。

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終戦時朝鮮の治安対策の混乱

2021年07月20日 | 国際・政治

 しばらく前までは、特に文化的な面を中心にして、日韓関係は良好だったと思います。多くの人が観光で行き来していましたし、いろいろな分野の交流が盛んに行われていたからです。日本では、韓流ブームがありました。K-POPが好きな日本の若者もずい分増えていたのではないかと思います。逆に、韓国でも、日本のアニメやマンガ、音楽その他の日本文化に興味を持つ若者がずい分増えたと聞いています。
 にもかかわらず、このところの日韓関係は最悪です。竹島問題、慰安婦問題、徴用工問題、貿易問題その他の政治的対立が連日マスコミを賑わすようになり、先日は、韓国メディアが東京五輪の選手村における横断幕の撤去要請を猛批判し、新たな垂れ幕も登場するに至ってます。そして、オリンピックに出場予定の選手たちも、そうした政治的な問題と無関係ではいられない立場に追い込まれてきているように思います。
 それは、日本の安倍・菅政権が、韓国の文在寅政権とは、過去の歴史認識や政治姿勢がまるで違っており、関係改善が望めないと判断して攻勢を強めている結果ではないかと、私は想像します。

 だからこそ、日韓の歴史をきちんとふり返り、歩み寄る努力が欠かせないと思うのですが、現在の日本には、残念ながら、ふり返ることすら受けつけない雰囲気が広がっているように思います。
 私は、現在の日韓の諸問題は、日本側がかつての「村山談話」の姿勢を堅持して話し合いにのぞめば、必ず解決できると思っています。
 「平和の少女像」をめぐり対立が深まっている”日本軍「慰安婦」”の問題も、元日本軍「慰安婦」であった人たちの尊厳の問題として受け止め対応すれば、根本的解決も可能だと思います。でも、安倍政権による「日韓合意」は、「最終的かつ不可逆的な解決」などという言葉をつかっていますが、尊厳の回復を求めている当事者を脇に置いた政治決着であり、問題を複雑にしただけで、「最終的解決」に「不可逆的解決」にもならないものだったと思います。
 言い方を変えれば、安倍・菅政権による日韓合意は、戦時中の日本人の尊厳を守るために、元日本軍「慰安婦」の尊厳の回復は認めない内容であったということです。

 それは、極論すれば、”元日本軍「慰安婦」は売春婦であったのか、それとも、日本人によって「慰安婦」にさせられたのか”という問題であり、その歴史認識を共有することが欠かせないと思いますが、それをしようとしない安倍・菅政権では、日韓の関係改善は難しいと、私は思うのです。

 そういう意味で、下記のような終戦時の記録も、歴史認識に関わり、頭の隅に置いておくべきだろうと、私は思います。
 終戦時の朝鮮における日本の治安対策は混乱しています。当時の朝鮮における治安の責任者、西広警務局長が、”終戦決定と同時に、第一に政治犯・経済犯を釈放すること、第二に朝鮮人側の手によって治安維持をさせることを考え”たこと、そして、”この時局をにない治安維持をなしうる人材として、呂運亨(ヨウニョン)・安在鴻(アン・ジェホン)・宋鎮禹(ソン・ジヌ)氏”などの独立運動家を思いうかべ、日本の韓国併合に抵抗した独立運動家に頼る方法をとったことは、前回とりあげました。
 遠藤政務総監も、呂運亨氏招いて、”…あらかじめ刑務所の思想犯や政治犯を釈放したい。連合国軍が入るまで、治安の維持は総督府があたるが、側面から協力を御願いしたい”と依頼していました。

 でも、軍はそれを認めず、下記抜粋文にあるように、朝鮮軍管区報道部長、長屋少将は、”…朝鮮軍は厳として健在である”として、武力をもって治安維持にあたることを宣言したのです。
 また、井原参謀長は”…絶対に軍隊を一個小隊以下にするな”と全軍に命を下し、また、兵隊のひとり歩きを厳禁したといいます。京城の部隊では、”町を歩くときは、かならず三人以上”と厳命されたとのことです。
 そうしたことも、日本の朝鮮支配がどういうものであったかを物語っていると、私は思います。
 下記は、「朝鮮終戦の記録 米ソ両軍の進駐と日本人の引揚」森田芳夫著(厳南堂書店)から、「第三章 終戦時の朝鮮」の「三 日本軍の終戦対策」を抜粋しました。
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             第三章 終戦時の朝鮮

             三 日本軍の終戦対策

  3 治安対策
 八月十五日に終戦後の治安維持のために、各地で警備召集が行なわれた。一方軍隊にあるもののうち、召集前に警察官であった約四千名が、十五日の夕刻に除隊になり現職に復帰した。また、朝鮮人兵は全員、除隊になった。
 十六日、朝鮮建国準備委員会が活躍を開始して、京城が騒然としたときに、はじめて軍は遠藤政務総監と呂運亨氏との間に交渉があったことを知った。若い参謀たちは、この工作について軍に事前相談をしなかったことを怒り、総督府に抗議して、今後は軍が治安の指導力をもつことを主張し、総督府側の承諾をとるとともに、両者間で「政治運動取締要領」を策定した。
 その日に、朝鮮軍管区司令部は「管内一般民衆に告ぐ」と題する布告を発して、「人心を撹乱し、いやしくも治安を害するごときことあらば、軍は断固たる処置をとるのやむなきに至るべし」と警告した。十八日に、朝鮮軍管区報道部長長屋少将はラジオ放送を行い、
「一党一派、目前の野望に走り、ただただ社会秩序をみだし、何ごとか私の利を獲得せんとしてか、東亜のこの悲劇を奇貨とし、あるいは、食糧を龍断し、交通通信機関の破壊または略奪・横領をくわだて、治安を害せんとする匪賊的行為に出ずるものがある。朝鮮軍は厳として健在である。今にしてその非を悟らずんば、ところと場所を問わず、断固武力を行使するのやむなきは、先日の軍当局の発表によっても明瞭である」
と述べた。日本軍は日本人保護に必要な地点に出動した。京城では二十日に京城師管区司令官菰田康一(コモダコウイチ)中将が、京城警備司令官に任命され、隷下部隊のほか、在京城第120師団をあわせ指揮した。兵力はおよそ歩兵約二個連隊で、一般治安のほか、とくに食糧の収集に努力した。
 西南海岸にあって、米軍の上陸をまちかまえていた部隊の一部が戦車や装甲自動車をつらねて主要都市に集結した。いなかで迫害になやんでいた日本人は、軍隊に助けられながら都市に避難してきた。また、軍隊の力で警察や官庁や新聞社の接収をとりもどした。
 井原参謀長は全軍に命を下し、「武力の発動は最悪の事態に限る」「絶対に軍隊を一個小隊以下にするな」と伝え、兵隊のひとり歩きを厳禁した。京城の部隊はでは、「町を歩くときは、かならず三人以上」と厳命された。それは民心の激動期に朝鮮人民衆と軍隊との摩擦を少なくし、あくまで流血を防ごうとするにあった。軍の出動にもかかわらず流血騒ぎが少なかったのは、この首脳部の指令よろしきを得た結果といえよう。
 また、軍としては、きたるべき日本軍の武装解除にそなえて、九千名の軍人を警察官に転属させ「特別警察隊」を編成し、銃剣をもたせ、警察官の服装をあたえて赴任させた。
 しかし、この軍の出動は、朝鮮人側、ことに発足当初の意気さかんな朝鮮建国準備委員会の人々にとって、このましいものではなかった。日本軍への感情が悪化し、一部には衝突のおそれさえ予想された。十八日夜、当時の京城師管区参謀貝出茂之少佐は、平服で単身、鍾路の長安ビル内にあった同会の保安隊本部を訪れて、事態収拾について保安隊幹部と話合いを行なった。これについて、朝鮮人側の記録には、
「異論百出、だが長年の旧怨をすてて、切迫した事態を円満に解決しようという点では意見が一致した。この混乱期にかれが保安隊と日本軍との中にたって調整の労をとったことは、事態を円満に解決するのに陰に陽によい結果をもたらした」
と述べている。また、総督府は軍の強硬な要請により、二十日に朝鮮人団体の責任者を鍾路警察署に召集し、同日午後五時かぎり朝鮮人側の政治または治安維持団体はその看板をおろし、即時解散することを命じた。しかし、これに対して、二十一日に、建国準備委員会総務部長崔謹愚氏は朴錫胤氏とともに遠藤政務総監をたずねて、軍の強硬な態度は約束に違うと抗議した。政務総監は、井原参謀長に直接あって解決するようにといったので、崔・朴両氏は井原参謀長をたずねて、神崎大佐らと会談した。席上相互のきびしい応酬ののちに、建国準備委員会だけはその看板をおろさず、治安に協力することになったという。
 軍は、日ごろ朝鮮人に接していないために、政治的感覚がにぶく、その工作はつたなかった。ために、かえって混乱をひきおこしたところも少なくなかった。
 全羅北道裡里にいた護鮮兵団長(第160師団長)は、八月二十日に告辞をラジオで発表したが、その中に「軍は総督府と協議の上、警察・憲兵の後盾となり、治安維持に任ずるとともに、要救護物件・住民の保護に任ず」といい、
(一)宗主権委譲せらるるまでは、朝鮮は皇土にして、朝鮮人民は皇民なり。よろしく聖旨を奉戴し、皇国臣民の誓いを朗唱し、平静事に従うべし。内鮮人相互絶対に相剋すべからず。
(一)独立運動は、いっさいこれを認めず。……韓国国旗の掲揚は厳禁す。
(一)治安維持のための団体結成を認めず。ただし軍・官憲に協力するものも申出に対して軍において統制す。
と述べている。
 忠清北道では、小林地区司令官が、八月十五日・十七日の二回にわたり警備召集(在郷軍人の召集)を行なおうとしたのに対し、坪井警察部長は知事の意見により、これを阻止することにつとめ、さらに警察官をつかって令状を配布するのをとめる一方、警察部が朝鮮人保安隊の後援者になることを発表した。しかし、軍は八月二十三日に、その保安隊に解散命令を下して、警察部の工作に反撃した。軍から編成替えした四百名の特別警察隊員が、八月二十五日から九月一日の間に三回にわたり忠清北道に派遣されてきたが、道警察部が「援助を必要としない」と述べて、総督府と連絡の上、隊員をその自由意思に任せて家に帰らせた。その際、四名だけが、自由意思で警察に残ったという。軍が警察側の工作を理解せず双方対立的になったところはほかにもみられたが、忠清北道がもっとも甚だしかった。
 全羅南道では、道知事が許可した九月九日の朝鮮人側の祝賀行進を師管区司令部が反対し、八木知事はその説得に苦労して、ついに行なわせることができた。
 江原道陵で八月二十九日に、慶尚南道河東で八月二十日に、統営で九月二十九日に、特別警察隊員による発砲事件が起こり、いずれの地でも、対日本人感情が急に悪くなり、河東と統営では、朝鮮人の死亡者がでて、関係の日本人の拘留をみた。
 軍は、一般日本人に「治安維持は軍が責任をおう。軍は最後にひきあげる」と宣言したが、北朝鮮では軍がまっ先にソ連軍から武装解除をうけえて抑留され、南朝鮮では軍がまっ先に米軍から引揚を命ぜられた。一般日本人は、従来の観念から軍に頼ろうとしていたため、とくに北朝鮮ではその悲劇を大きくした。軍が米ソ両軍に行なった交渉については次章で述べる。

 なお、血気にはやる青年将校の中には、終戦を痛憤して、自決するものもいた。平壌では、八月二十五日、第五空軍の飛行将校六名が重爆撃機にのり、思いきり飛んだのちに平壌飛行場内で自爆した。これは一説にあまりに低空飛行したために、地上の建物と接触して墜落したともいう。済州島でも、終戦後、第五十八軍管下の砲兵隊の見習士官が割腹自殺したことが報ぜられている。羅南では、八月十八日に武装解除の準備を行なっている間に、下士官および上等兵一名が手榴弾で自殺を計った。

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八月十五日の朝鮮と「日本国紀」

2021年07月14日 | 国際・政治

 『「日本国紀」の副読本』百田尚樹・有本香(産経セレクト)の百田氏と有本氏の対談の中で、百田氏は、藤尾文相の”韓国併合は合意の上に形成されたもので、日本だけではなく韓国側にも責任がある”との発言を引き、”藤尾文相の言っていることは正しい。”と断言しています。
 でも、日本にとって不都合な多くの歴史的事実を無視したそういう歴史認識は、国際社会では通用しないと思います。私は、以前「日韓併合小史」山辺健太郎(岩波新書)や「外交文書で語る-日韓併合」金膺龍(合同出版)その他から、閔妃殺害事件ハーグ密使事件などに関わる文章を抜萃しつつ、韓国併合に至る経緯を辿ったことがありますが、それらの事件は、当時の関係者の多くが認めていることであることを知りました。

 また、有本氏は、日本軍「慰安婦」について、

”いまだに「一方、朝鮮・台湾の若い女性のなかには、戦地におくられた人たちがいた」と当時の事情を無視して書いている神経もすごい。「戦地に送られた」と書いていますが、「送った」のは誰かをあえてボカしています。しかし、日本軍でも日本政府でもありません。業者ですね。しかし「この女性たちは、日本軍とともに移動させられ、自分の意思で行動することはできなかった」と「日本軍」という単語を書くことで、日本が若い女性を戦地に送ったかのように印象操作しています。
 などと、根拠を示さず語っていますが、明らかに事実に反します。『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成(財)女性のためのアジア平和国民基金編』は、日本政府による日本軍「慰安婦」の調査結果をまとめたものですが、日本軍「慰安婦」に関わる公文書が数多く掲載されています。河野談話で語らざるを得なかったように、軍や政府の関わりを否定することはできないのです。また、「従軍慰安婦資料集」吉見義明編(大月書店)には、”軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件”というような軍の文書や、軍の定めた慰安所規定、また、日本軍「慰安婦」派遣に関する軍の電報のやり取りなども取り上げられています。そうした数々の資料や多くの証言を無視し、逆に”いまだに「一方、朝鮮・台湾の若い女性のなかには、戦地におくられた人たちがいた」と当時の事情を無視して書いている神経もすごい。”などという有本氏の主張は、いかがなものかと思います。日本軍「慰安婦」に関わる教科書の文章は、”印象操作”などとはまったく無縁で、関係機関の文書や関係者の証言に基づいたものです。だから、”当時の事情を無視して”いるのは有本氏の方です。
 日本政府が、国際機関(国際法律家委員会や国連人権委員会)から勧告を受けている事実や、日本軍「慰安婦」として性交渉を強いられた女性の存在する国々の国会決議などを踏まえれば、こうした何の根拠も示さない主張は、国際社会の信頼を損ない、日本の将来を危うくするものだと、私は思います。そして何より、日本の若者を惑わせる主張だと思います。こうした主張が、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の展示を中止に追い込み、さらに「表現の不自由展・その後」の開催を、再び難しくする要因の一つになっているのではないかと思います。政権の姿勢を反映してか、行政や警察も簡単に脅しに屈し、表現の自由を守ろうとしてはいないように、私は思います。

 また、百田氏の

「三・一独立運動」(1919年3月1日)は単なる暴動なんですよ。韓国では「偉大な独立運動」として3月1日を国民の記念日にしていますが、本当に「独立運動」だったかは大いに疑問です。初期のデモを別にすると、後の暴動は単なる騒擾事件ですよ。逮捕された者たちは首謀者も含め非常に軽い罪でした。

 というような主張も、事実に反し、見逃すことはできません。

 三月一日の早朝、韓国では、東大門と南大門などの主要地域に、下記のような壁新聞が張り出されたといいます。

 ああ、わが同胞よ! 君主の仇をうち、国権を回復する機会が到来した。
こぞって呼応して、大事をともにすることを要請する
   隆煕13年正月                           国民大会

 それは当時、殉死を覚悟して韓国の主権守護にあらゆる手を尽くしていた高宗前皇帝が、突然死をとげたからであるといいます。韓国の人々は、いくつかの理由で、高宗前皇帝の突然の死が、日本人による毒殺であると受け止め、不満を爆発させて起ち上がったということなのです。
 また、「三・一独立宣言文」には、”威力の時代は去り道義の時代がきた”という言葉があります。さらに下記のような約束事も書かれています。
一、今日われわれのこの挙は、正義、人道、生存、尊栄のためにする民族的要求すなわち自由の精神を発揮するものであって、決して排他的感情に逸走してはならない。
一、最後の一人まで、最後の一刻まで、民族の正当なる意思を快く発表せよ。
一、一切の行動はもっとも秩序を尊重し、われわれえの主張と態度をしてあくまで光明正大にせよ。

 道義・道徳を尊重するように呼びかけているのです。
  ”国権を回復する機会が到来した”と呼びかける壁新聞を張り出し、上記のような約束事を明記した独立宣言文を発表し、上海に臨時政府を設立した運動が”単なる暴動”でしょうか。

 さらに、総督府はこの独立運動を弾圧するために、軍隊や憲兵はもちろん、警察、鉄道援護隊、在郷軍人、消防隊まで動員し、運動が終息するまで武力による弾圧を続けて、多くの死傷者出すことになりました。にもかかわらず、”逮捕された者たちは首謀者も含め非常に軽い罪でした。”というのは、事実に反すると思います。
 以前にも取り上げたことがありますが、「朝鮮独立運動の血史1」朴殷植著・姜徳相訳注(平凡社)には、二百を超える韓国全土の府郡で呼びかけに応えて、独立運動が起こったとあります。また、義兵として加わった人民は200万を超え、死亡者は7,509人であったとあります。 
 三・一独立運動の発祥地で知られるタプゴル公園には、現在、独立宣言文を読み上げている柳寛順(ユガンスン)のレリーフがありますが、彼女は拷問をうけ獄死したと言われています。そして、韓国には、日本が使用した拷問のための様々な道具や拷問が行なわれた部屋などが、今も残さているのです。

 下記は、「朝鮮終戦の記録 米ソ両軍の進駐と日本人の引揚」森田芳夫著(厳南堂書店)から抜萃しましたが、日本のポツダム宣言受諾を知った朝鮮総督府の阿部信行総督は、総督府職員一同を会議室に集め、終戦の詔勅のラジオ放送を一緒に聞いた後、「諭告」を読み上げたといいます。その諭告の中に、 ”我等臣子 肇国ノ神勅ニ徴シ 神州不滅ノ確信ノ下 子々孫々 万古天皇ヲ仰ギテ将来ノ文化建設ト道義確定ニ依リ 世界ニ示範スベキ精神的理想国家完成ノ一途ニ堂々邁進スルノ決意アルヲ要ス”とあります。神話的国体観に基づく決意の重要性を語り、”疆内官民克ク之ヲ励メヨ。”と呼びかけているのです。朝鮮の地において、日本の神話に基づく国体観による強引な政治が行なわれていた証しだと思います。

 また、当時、朝鮮治安の責任者西広警務局長は、”終戦決定と同時に、第一に政治犯・経済犯を釈放すること、第二に朝鮮人側の手によって治安維持をさせることを考えていた。”という事実が、日本の支配が武力に基づくものであったことを物語っていると思います。

 また、西広警務局長は、”この時局をにない治安維持をなしうる人材として、呂運亨(ヨウニョン)・安在鴻(アン・ジェホン)・宋鎮禹(ソン・ジヌ)氏”を思いうかべたとのことですが、武力行使が出来なくなった日本人では、治安維持が難しいので、日本の韓国併合に抵抗した独立運動家に頼るしかなかったということだと思います。
 さらに、阿部総督が諭告を読み上げた直後から、早速”総督府をはじめおもな官庁で、重要書類の整理焼却がはじまった。”というような記述も見逃すことができません。なぜ、まず最初に、”重要書類の整理焼却”をしたのか、国際法を順守していれば、必要のないことではないかと思います。重要書類の焼却処分は、敗戦前後、日本国内でも徹底して行われたことはよく知られていますが、不都合な事実は隠蔽するという姿勢が、今に続いているように思います。
 百田氏や有本氏は、こういう朝鮮終戦の記録が、日本人の手によって残されていることを無視してはいけないと思います。

 同書の著者森田芳夫氏は、京城日本人世話会で活躍し、厚生省引揚援護庁や外務省引揚調査室などに席を置いた人だといいます。そして、厚生省事務次官太宰博邦氏や外務省アジア局長後宮虎郎氏、中央日韓協会副会長・元京城日本人世話会会長穂積真六郎氏が文を寄せています。終戦時の朝鮮を知ることの出来る貴重な本だと思います。私は、日韓関係を語る人には、ぜひこうした本の存在を知ってほしいと思うのです。
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             第三章 終戦時の朝鮮

        一 総督府の終戦対策と朝鮮建国準備委員会

1 遠藤・呂運亨会談
 日本のポツダム宣言受諾は、朝鮮民族解放の受諾でもあった。ポツダム宣言には「カイロ宣言の条項は履行せらるべく」と明記され、カイロ宣言には「やがて朝鮮を自由かつ独立のものたらしむる決意を有す」と述べられている。
 朝鮮総督府警務局は短波放送をきいて、日本が国体護持の条件付でポツダム宣言を受諾したことを八月十日には知っていた。しかし東京の政府からは何の通知もなかった。終戦になれば、連合国が進駐し、日本軍は武装解除され、日本の主権は失われる。現在清津(チョンジン=朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道の道都)に上陸しているソ連軍が汽車で南下すれば、京城までは二十時間で達し得る状況にある。当局としては、ソ連軍がただちに刑務所の朝鮮人政治犯を釈放し、赤色政権を樹立するであろうこと、また、その際かならず起こるであろう略奪・暴行およびそれに雷同する一般民衆の動きも考えねばならなかった。
 朝鮮治安の責任者、西広警務局長はこの対策として、終戦決定と同時に、第一に政治犯・経済犯を釈放すること、第二に朝鮮人側の手によって治安維持をさせることを考えていた。西広局長の頭の中には、この時局をにない治安維持をなしうる人材として、呂運亨(ヨウニョン)・安在鴻(アン・ジェホン)・宋鎮禹(ソン・ジヌ)氏らがうかんだ。
 ・・・
 これよりさき、十四日夜、遠藤政務総監は、京城保護観察所長・長崎祐三氏に電話をかけて、明十五日午前六時に、呂運亨氏とともに、政務総監官邸に来るようにと通知した。 呂運亨に対し治安時維持の協力を依頼することについて、政務総監と警務局長とは、かねてから話し合っていたものと見られる。長崎保護観察署長に通知したのは、呂運亨氏が思想犯前歴者として保護観察の対象にあったからである。
 八月十五日午前六時半ごろ、長崎保護観察所長は呂運亨氏およびその通訳の京城地方法院の白允和検事をつれて、大和町の総監官邸を訪ねた。呂運亨氏は日本語ができるが、うまくないので通訳を必要としたのである。
 遠藤総監は、呂運亨氏を第二面会室に通し、
「今日十二時、ポツダム宣言受諾の詔勅が下る。すくなくとも十七日の午後二時ごろまでには、ソ連軍が京城に入るであろう。ソ連軍はまず日本軍の武装解除をする。そして刑務所にいる政治犯を釈放するであろう。そのときに、朝鮮民衆は付和雷同して暴動を起こし、両民族が衝突するおそれがある。このような不祥事を防止するために、あらかじめ刑務所の思想犯や政治犯を釈放したい。連合軍が入るまで、治安の維持は総督府にあるために、あらかじめ刑務所の思想犯や政治犯を釈放したい。連合国軍が入るまで、治安の維持は総督府があたるが、側面から協力を御願いしたい」
と述べた。これに対し、呂運亨氏は、「ご期待にそうよう努力する」と答えた。
 そのとき室にはいってきた西広局長も加わって、釈放を前に思想犯・政治犯に妄動しないようあらかじめ話してほしいことと、民衆の中で、とくに青年・学生が暴動の中心となるおそれがあるので、かれらに冷静を持するよう説得してほしいことを呂運亨氏に依頼した。なお遠藤政務総監は、呂運亨氏から安在鴻氏に対して「ともに治安維持に協力するよう」伝言を依頼して席を辞した。
 それから西広局長は呂運亨氏に「治安維持協力に必要なら、朝鮮人警察官を貴方の下に移してもよい」といった。呂運亨氏からの食糧問題についての質問に対して、西広局長は「十月までは大丈夫である」と答えた。また「治安維持法に問われて警察署・憲兵隊に留置されているものを釈放してもらいたい」との要求に、「それはもちろんである。刑務所にいるものさえ釈放するのだから」と答えた。「集会の禁止をといてほしい」という呂運亨氏の言に、西広局長は集会の自由を約束した。なお、呂運亨氏は「釈放者に対して、まじめに建国に努力するよう、自分から一言のべたい」と希望した。
 ・・・

 2 八月十五日の京城
  八月十五日の午前中には、京城府内の要所要所に「本日正午重大放送、一億国民必聴」の掲示が大きく出された。民衆は「終戦」という予感と、「対ソ宣戦布告」の二とおりの解釈をもち、事態の重大感に緊張していた。正午のラジオ放送は雑音が多くて聞きとりにくかったが、だいたいの内容はわかり、つづく解説とともに、京城府内にはり出された新聞社の掲示によって、一般は日本の無条件降伏の実相と連合国が朝鮮の独立を約束していることを知った。
 総督府では、正午、職員一同を第一会議室に集めて、終戦の詔勅のラジオを聴取したのち、阿部総督の諭告があった。

     諭告
本日畏クモ停戦ニ関スル詔書ヲ拝シ、臣子トシテ 恐懼慚愧 九腸寸断ノ思ヒニ堪ヘズ
顧ミルニ 皇国ノ自存自衛ト道義ニ基ク大東亜民族ノ運命開拓トヲ目的トスル聖戦ニ於テ 開戦以来幾多ノ将兵ハ万里異境ニ勇戦敢闘シテ 屍ヲ陸海空ニ曝スモノ其ノ数ヲ知ラズ 大ニ皇軍ノ精強ヲ世界ニ周知セシメ 銃後ノ国民亦 無防備都市ニ爆焼ヲ蒙リ 無辜ノ非戦闘員ニ犠牲甚大ナリシニ拘ラズ 一億団結 能ク職域ニ奉公シ 戦争ノ完遂ニ協力セリ 
我ガ半島ニ於テモ 此ノ間 軍官民協同一致 内鮮一体鉄桶(テットウ)ノ団結下ニ 戦力ヲ増強シ 戦線ニ在りリテハ 幾多ノ特攻勇士ヲ輩出シ 又多数ノ志願応召ニ依リ 皇軍ノ有力ナル一翼ヲ形成シ 銃後ニ在テハ連年ノ気象不順ニ拘ラズ 食糧ノ増産供出ニ国策ヲ奉行シ 工場 鉱山 将又 運輸 通信ノ各部門 何レモ其ノ使命トスル職能ヲ発揮シテ戦力増強ニ寄与シ 殊ニ家郷遠キ内地其ノ他ノ異域ニ赴キ 軍事産業ニ従事セル多数ノ勤労者アルヲ想フトキ 感慨切ナルモノアルヲ禁ズル能ハズ 蓋シ内鮮間ニ於ケル古来ノ血縁的文化的深縁ニ加フルニ 併合施政以来三十有余年 皇沢(コウタク=天皇ノめぐみ)浴ネクシテ民生化育シ 融合一体 能ク今次聖戦ノ大義ヲ共感把握シ 之ニ殉ズルノ志向熾ナリシニ由ラズンバアラズ  
然ルニ 皇国官民 四カ年ニ近キ必死敢闘ニ拘ラズ 竟(ツイ)ニ敵側ヨリ未曾有ノ破壊力ヲ有シ人類ヲ滅亡セシメ文化滅尽スルノ作用ヲ備フル新爆弾ノ使用ヲ見ルニ及ビ 茲ニ 臣民ノ康寧ト世界ノ平和ヲ冀ハセ給フ 聖上陛下ノ大御心ニ依リ 詔書渙発アラセラルルニ至レリ 一億臣民 万斛(バンコク)ノ熱涙ニ咽ビ 異郷ノ万骨 為ニ哭スルモノアラム 
開戦依頼 国民ハ戦争完勝ノ一途ニ生活ノ努力ヲ集結シ来リタルガ 今ヤ其ノ目的消失シ 民生之ガ為ニ秩序ヲ弛緩セシメ 国民ノ志気亦沮喪セムコトヲ惧ル 是ニ於テカ 我等臣子 肇国ノ神勅ニ徴シ 神州不滅ノ確信ノ下 子々孫々 万古天皇ヲ仰ギテ将来ノ文化建設ト道義確定ニ依リ 世界ニ示範スベキ精神的理想国家完成ノ一途ニ堂々邁進スルノ決意アルヲ要ス 時局ノ急転ニ際シ 民生ノ苦難因ヨリ想察スルニ余リアリ 疆内(キョウナイ)官民 徒ニ坊間ノ流言ニ怯ヘ 疑心暗鬼 自ラ動揺混乱ニ陥リ 同胞相剋スルガ如キ軽挙ヲ戒メ 親和敬譲(ケイジョウ)社会ノ紐帯ヲ鞏(カタ)クスベシ
殊ニ官吏ハ 冷静沈着事ヲ判ジ 泰山前ニ崩ルルト雖モ動カザルノ真勇ヲ以テ時勢ニ当リ 全知全能ヲ尽シテ 其ノ職任ヲ最後迄 完遂スルヲ要ス
 凡ソ非常ノ時機ニ際会シ 毅然トシテ其ノ本分ヲ尽ス者コソ 大丈夫ノ名ヲ辱ズカシメザルニ値シ 此ノ気概アリテコソ克ク不滅ノ国体ヲ護持シ得ルモノト謂フベシ 意思アル所必ラズ道アリ 精神一到何事カ成ラアザラム 一難万勇ヲ生ジ 敢然トシテ之ヲ完破スル所 所謂大死ノ一番 大活現成ノ境地ナルヲ知リ 

    昭和二十年八月十五日
                                                       朝鮮総督 阿 部 信 行

 総督は、涙で声をつまらせながら諭告をよみ、全員粛然として悲痛につつまれて式は終った。
 その直後には、総督府をはじめおもな官庁で、重要書類の整理焼却がはじまった。もう京城府内には、国民服やモンペをやめて白衣をきた多くの朝鮮人が、町に出てゆうゆうと歩いていた。
 この日、政務総監から内務次官あてに「停戦の大詔を拝せるが、朝鮮内の諸般事項につき、中央より何分指示あるものと思料するも念のため」と打電したが、なんの回答もなかった。ラジオ放送では、一般官民の妄動をいましめ、職責の完遂を期すると同時に、日本人・朝鮮人ともに冷静沈着ことに処し、きたるべき新段階に秩序ある準備を心がけるよう強調した。
 また、非常事態の警備に任ずるために、警備召集令状が発せられた。「戦争が終って召集とは」といぶかりつつも、応召者は軍隊の門をくぐり、銃をになって深夜に京城府内の警備についた。
 なお、その日に李鍝公の陸軍葬が行われた。李鍝公は、李太王の第二子李堈公の次男である。当時三十四歳、陸軍中佐で、広島にあった西部軍管区司令部の高級参謀でああった。八月七日、乗馬で出勤の途中、原子爆弾にあい七日死去、御遺骸は軍用機で京城に運ばれた。その葬儀に天皇の御名代として参列する宮内省式部次長坊城俊良氏は、飛行機で十四日深夜に京城についた。葬儀は十五日午後一時から葬儀委員長井原第十七方面軍参謀長、祭主額賀朝鮮神宮宮司によって京城運動場で行われた。軍司令官・総督・政務総監が参列し、京城神社をはじめ、京城にいる神職がほとんど出て奉仕し、葬儀は厳粛に終了した。

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「日本国起」と「過去を見る眼」

2021年07月07日 | 国際・政治

  前稿で取り上げたベルンハイムに基づけば、「日本国紀」は、歴史の最も原初的な「物語風歴史」にあたり、”歴史的知識が科学となる”ずっと前のものであると思います。それは現在では、娯楽の対象としては認められても、社会科学の一分野としての歴史としては、認められないものだと思います。
 ”その国に生まれたことを誇りに思う。そして自分たちの父祖に対して尊敬の念を持つ。私たちに誇りを持つ。そのような歴史教育”を意図して、日本の歴史的事実を取捨選択し、並べ立てる歴史は、社会科学の一分野としての歴史ではないのです。
 かつて日本が、日本人に”自分たちの父祖に対して尊敬の念”を持たせる神話的国体観(皇国史観)によって、戦争に突き進み、滅亡の瀬戸際に立ったことを忘れてはならないと思います。
 GHQの膨大な資料の中に、「PWC-115」([PWC=Postwar Programs Committee=戦後計画委員会)「JAPAN:FREEDOM OF WORSHIP(信仰の自由)」という文書があり、それには、「National Shinto(国家神道)」、「the nationalistic Cult(国家主義カルト)」、「danger to the peace(平和への脅威)」というような文言が並んでいるといいます<「靖国 知られざる占領下の攻防」中村直文・NHK取材班(NHK出版)>
 それで思い出すのが、天皇の「人間宣言」といわれる「官報號外 昭和21年1月1日」の 「詔書」です。その中には、下記のようにありました。
天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念
 戦前の日本が、こうしたまさに「国家主義カルト」ともいえる観念をもって、世界を相手にするような戦争に突き進み、滅亡の瀬戸際に至ったことは、否定できない事実だと思います。

 したがって、「日本の国は、非常に特殊で、一つの”王朝”が、二千年を超えて続いているわけですから。…」などといって、再び、神話に基づく”架空ナル観念”を復活させるような有本氏の考え方はいかがなものかと思います。そうした考え方では、近隣諸国はもちろん、国際社会の信頼を得ることも難しいと思います。また、歴史が、諸外国とのトラブルの原因になったり、トラブルの有利な解決のために利用されるようなことがあってはならないと思います。

 「歴史は、現在と過去との対話である」 と言ったのは、歴史家、E・H・カーですが、彼の著書
歴史とは何か」E・H・カー著:清水幾太郎訳(岩波新書)の「はしがき」で、訳者の清水幾太郎は、
過去は、過去のゆえに問題となるのではなく、私たちが生きる現在にとっての意味ゆえに問題となるのであり、他方現在というものの意味は、孤立した現在においてではなく、過去との関係を通じてあきらかになるものである。したがって、時々刻刻、現在が未来に食い込むにつれて、過去はその姿を新しくし、その意味を変じて行く。われわれの周囲では、誰も彼も、現代の新しさを語っている。「戦後」「原子力時代」「二十世紀後半」…しかし、遺憾ながら、現代の新しさを雄弁に説く人々の、過去を見る眼が新しくなっていることは極めて稀である。過去を見る眼が新しくならない限り、現代の新しさは本当に掴めないであろう。E・H・カーの歴史哲学は、私たちを遠い過去へ連れ戻すのではなく、過去を語りながら、現在が未来に食い込んで行く、その尖端に私たちを立たせる。…”
 と書いています。適確な解説ではないかと思います。私は、歴史を語る人は、「過去を見る眼」が、最新のものであってほしいと思います。

 また、同書の「Ⅲ 歴史と科学と道徳」の「歴史は科学であること」の中で、E・H・カーは、
十八世紀末といえば、世界に関する人間の知識と人間自身の生理的性質に関する人間の知識との双方に対して科学が堂々たる貢献をした時期ですが、この時期に、科学は社会に関する人間の知識をも進め得るものか否か、という問題が提起され始めたのであります。社会科学の見方、また社会科学の一つとしての歴史の見方は、十九世紀を通じて次第に発展して参りました。科学が自然の世界を研究する場合の方法が人間現象の研究に適用されることになりました。この時代の前半はニュートン的伝統が力を振っておりました。自然の世界と同じように、社会もメカニズムと考えられていました。… 次いで、ダーウィンがもう一つの科学的革命を行い、社会科学者たちは生物学からヒントを得て、社会を一つの有機体と考え始めました。けれども、ダーウィン革命の本当の重要性は、ダーウィンが歴史を科学たらしめて、ライエルが既に地質学で始めていた仕事を完成したという点にあったのです。科学はもう静的なもの、無時間的なものを取扱うのではなく、変化および発展の過程を取り扱うものとなりました。科学における進化が歴史における進歩を確かめ且つ補ったのでした。
 と書いています。そういう時代に、再び「歴史は物語である」などというのは、時代錯誤ではないかと思います。

 個々の人間社会の歴史的事実の因果関係を考察したり、個々の歴史的事実を進化する諸発展全体のなかで考察したり、また逆に全体の諸発展から個々の事実を考察したりという科学的作業を行うことなしに、下記のような個人的な思いをもって歴史を語ることは、歴史学の基本を無視するものであると、私は思います。したがって、「日本国紀」は、娯楽の対象としては認められても、学校における歴史教育の対象にはなり得ないと思うのです。

 下記は、『「日本国紀」の副読本』百田尚樹・有本香(産経セレクト)から、特に問題を感じた部分を、ところどころ抜萃しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
            序章 なぜいま「日本国記」か

 …ケントギルバートさんとの対談”ふとケントさんに「アメリカの歴史教育はどうなっていますか」と聞いたのです。すると、ケントさんが「アメリカの歴史教育は、それを学ぶと、子供たちの誰もがアメリカが好きになります。あめりかに生まれたことを誇りに思う、喜びに思う、そういう歴史教育です」と言われた。
 それを聞いたとき、「なんと素晴らしいことか!」と思ったのです。その国に生まれたことを誇りに思う。そして自分たちの父祖に対して尊敬の念を持つ。私たちに誇りを持つ。そのような歴史教育であるべきだと思ったわけです。
 しかし、日本にはそんな歴史教育も教科書もない。それがすごく残念だとおもったのですが「そうか、なければ教科書のような本を自分が書いたらいいんだ」と考えたのです。…

            第一章 歴史教育とGHQの申し子
 局地戦と民族の物語
有本 
 ・・・やはり歴史とは「壮大な民族の物語」です。でも、いまある教科書や歴史の本はそれを物語として捉えていない。教科書は仕方ない部分もあるかもしれませんが、重要な何かが欠けていると思います。
 慰安婦問題や南京問題では近隣諸国から日本はたびたび攻撃されますね。その都度、個々の問題に専門家の先生方が反論、反証され、ずいぶん日本も変わってきました。でも、向こうから仕掛けられた局地戦に対応するだけでは、歴史は取り戻せない。日本人の中に、自分たちの物語がないことが致命的ではないかと思うのです。相手は捏造も辞さず、はなから歴史を政治の道具にしようというわけですからね。

            第二章 歴史は「物語」である
 年表は歴史ではない
百田 私は小説家ですから、今回、歴史ではあっても「物語」を書きたいと思いました。そして通史を書くにあたって、いくつかの歴史教科書を読みました。またそれよりも詳しく書かれたものも読みました。それらの本を読んで気付いたことは、歴史教科書は物語ではなく、歴史の年表の解説本だったということです。
 
百田 歴史の本を読んでみても、表にこそなっていないけれど、結局、年表なんですよ。何年にこんなことがあった、と細かく書いてあって、また何年にあんなことがあったと書いてある。日本の歴史教育も歴史家もそうなのですが、できるだけそこに主観を交えずに、淡々と事実だけを書こうとするから、余計にそうなるのでしょう。
 でも本来は「主観」が大事といいますか、別の言い方をすると、視点が大事なのです。これは誰が書いているのか、誰がこの事実を見ているのか、ということが大事です。
 私は小説家ですから、物語はそれがないと書けないことを知っています。これは誰が見ているのか、つまり一人称なのか、三人称なのか、あるいはこれは神の視点なのか、というように、まず視点がどこにあるかがすごく重要なのです。
 ・・・
学者は怖がって「I(アイ)」を消す
百田 私はしばしばこの物語の中で断定的に書いています。見方に付いて、どこかから文句が出ても闘おうという意志があるからです。私の視点、私の主観で書いているわけで、いくつかの事実を見てこれは私はこう思うという物語なんですね。ところが編集者が、私が断定しているのに「と言われる」なんて直そうとするから、その部分をまた消したりもしました。

百田 『日本国紀』の中には、「私はこう思う」だけではなく、私の感情が随所に入っています。
百田 「怒りを感じる」と書いたところもあります。そういう意味でも前代未聞の歴史の本です。
 本来、歴史を物語らなければならないのに、日本の歴史書はいつの間にか「客観がすべて」と、自己をださない、主語がない、そういう学術論文の書き下し的な本ばかりになってしまっているように思います。それだとおもしろくなるわけがない。歴史のダイナミズムを失ってしまっているのです。
 繰り返しになりますが、歴史はストーリーです。いまの多くの歴史家はストーリーであることを忘れてしまっています。

 通史は小説家の仕事だと思う
百田 日本は「言霊の国」で、言葉を非常に大事にするので、古今、素晴らしい作家が生まれています。ところが通史を書いた小説家はほとんどいないんですね。

百田 …ところが、残念ながら日本の通史を書くのは、学者に限られているのです。さらにひどいのは、これは教科書を見たらわかりますが、著者が十人も二十人もいたりする。なんですか、これ、と。平安時代は誰が書いた、鎌倉時代はこの人が書いた、江戸時代はこの人、とそんなことでは一つの流れにならないですよ。

 寄せ集めでは物語にならない
有本 それはもちろん、それぞれの専門分野を分担されて大変なお仕事をされてとは言えるんですが、でも日本の国は、非常に特殊で、一つの”王朝”が、二千年を超えて続いているわけですから。その一つの流れということを考えると、百田さんが言われるように、一人の筆で書く必要があると思いますね。
百田 教科書が、実際どういうふうにしてできているかという細かい作業はしりません。でも、別の言い方をすると、たとえば船を設計してつくるとしますね。そのとき、最初のフォルムを作る人がいなければ駄目なのですよ。マスとは誰それが作った、スクリューはこういう人が作った、というふうにそれぞれ専門家はわかれますが、でも全体の設計図を描いた人がいないと船はできません。
 家もそうですよね。外装はあなたに頼む、内装はこの人に頼むというのがあっても、最初は建築士が設計して大きな枠組みを作りますよね。
 ところが、どうも日本の歴史書は、そういう大きな一本の流れをドンと誰かが作ったという形跡があまりないんですね。最初から寄せ集めなんです。

 ハルキストとナオキスト
 ・・・
 たとえば、村上春樹さんの作品の登場人物を見ていると、「あれ? この人、どこの国の人間?」「どうしたら、こんな考え方ができる人間がうまれるの?」「この主人公は、どんな両親の元で、どういう育てられ方をしたらこんなふうになるの?」と思うでしょう。でも村上さん本人にとっては「いや、それがコスモポリタン」ということなんでしょうが。 

 いまの日本史には怒りも悲しみも喜びもない
百田 ・・・
 モンゴルの元寇がありましたよね。モンゴルは日本に「服従せよ」と言ってきたわけですが、そのとき当時の日本人は「誰が服従するか!」と思ったんですよ。「なんだ、無礼な!」「屈辱的な外交などできるか!」と怒ったんです。その怒りを、私たちが物語を書くときには、伝えなければ駄目なんですよ。

              第三章 消された歴史
 なぜ敗戦がたった一行なのか
百田 …
 「ポツダム宣言を受諾して戦争が終った」という一文からは、民族の屈辱、怒り、悲しみ、絶望が、まったく伝わってきません。
有本 ポツダム宣言受諾に至るまでの苦悩も伝わってきませんね。ひょっとしたら国体が壊されるかもしれないという、とてつもない大きな不安が伝わらない。

自分を奴隷として売った愛国者
 百田 知られていない人物も取り上げましたね。たとえば講演などで『日本国記』執筆中に、その内容を話したりしたのですが、びっくりするのが大伴部博麻という人物を、誰も知らないことですよ。「大伴部博麻を知っている人、いますか?」と600人くらいの会場で訊くと、一人か二人が手を挙げるくらいです。こんな凄い人物がこれほど知られていないのかと逆に驚きますね。
 ・・・
有本 実在をはっきりさせられない、とかいう理由で、体よく消されたんでしょうねえ。

 ばらばらの歴史では流れが見えない
百田 … 
 大東亜戦争に至るまでには、第一次世界大戦からの国際状況やアメリカとの関係を見なければならないし、さらに言えば、日露戦争も大きく影響しています。そして実はペリーの黒船が来る前からの大きな流れがあるのです。大東亜戦争はそういう百年近い単位で見なければ本質が見えてこないのです。
 有本 大東亜戦争はその最終局面だったわけですよね。

          第五章 日本人はなぜ歴史に学べないのか 
 『日本国紀』の隠しテーマ
百田 …
 なかでも朝鮮半島に関する歴史教科書の記述は本当にひどい。読んでいると「これは韓国の教科書?」と思われるようなものがあります。

 韓国を助けるとろくなことにならない
 有本 いま見てきたように、日韓関係は古代から一貫した原則があるのです。それは「韓国を助けるとろくなことにならない」ということです。問題はなぜ、日本はこの歴史に学ばないのかということです。 

         第六章 「負の歴史」を強調する教科書
 徴用工と慰安婦問題が
 有本 いまだに「一方、朝鮮・台湾の若い女性のなかには、戦地におくられた人たちがいた」と当時の事情を無視して書いている神経もすごい。「戦地に送られた」と書いていますが、「送った」のは誰かをあえてボカしています。しかし、日本軍でも日本政府でもありません。業者ですね。しかし「この女性たちは、日本軍とともに移動させられ、自分の意思で行動することはできなかった」と「日本軍」という単語を書くことで、日本が若い女性を戦地に送ったかのように印象操作しています。

 独立マンセー
百田 ご丁寧に「3~4月に独立運動が起こった所」という無数の点を打った地図まで載っている。「三・一独立運動」(1919年3月1日)は単なる暴動なんですよ。韓国では「偉大な独立運動」として3月1日を国民の記念日にしていますが、本当に「独立運動」だったかは大いに疑問です。初期のデモを別にすると、後の暴動は単なる騒擾事件ですよ。逮捕された者たちは首謀者も含め非常に軽い罪でした。

             第七章 ベストセラー作家の秘密
 歴史の重要性
有本 …亡命政権の人たちと仲よくなったりして、あるものを見つけたのです。
 中国がチベットの歴史を書き換えようと、プロパガンダのためにつくった豪華本です。「チベットの歴史をすべて振り変えることのできる事典」という触れ込みの立派な本を中国が出版したわけです。『西蔵歴史檔案薈粹』(A  collection of historical archives of Tibet)というタイトルで、大判の箱入り、箔貼りの豪華なハードカバーですよ。光沢厚地の上等な紙に、写真もふんだんに掲載したオールカラーの印刷です。
「チベットは古代から中国の一部だった」と宣伝するための本なので、昔の文献や進物の類を100ほど掲載していた。中国は「チベットは中国の一部」だということを既成事実化するために、この本をあちこちに配っていたのです。

有本 …それに対してチベット亡命政権は「このままでは自分たちの歴史が書き換えられてしまう」と、反論するための本をつくろうとしました。ただし、彼らにはお金がない。そこで、わら半紙みたいな紙に刷って、中国の豪華本に対する反証本を出したのです。それに私は感動しました。その本を日本語に翻訳し、石平さんに推薦の言葉と帯の言葉をかいてもらって日本で出版しました。
 そのとき私は、チベット人のしていることを日本人はなぜしないのか、できないのかと思ったのです。当時すでに慰安婦問題があり、国際社会で日本の姿は歪められていました。だけど日本人はそれに唯々諾々としていた。…
 だから国を取られてしまったチベット人が、こんなに一生懸命に、自分たちの歴史だけは絶対に渡さないという覚悟で闘っているのに、豊かな日本人が歴史を奪われて平気でいるなんて、私は一体何をしているんだろうと思ったんですね。

 民族の歴史を守る
有本 また、去年(平成29年)イスラエルに行ってきたのですが、ここでも違う角度から歴史の重要性を実感しました。国と民族には歴史が何よりも重要なのだということです。
 イスラエルは戦後に建てられた新しい国だとも言えますが、ユダヤ人の中には古代まで遡る建国物語がある。チベットとは状況が違うけれど、イスラエルが懸命に守ろうとしているのも民族の歴史なのです。もちろん反発もありますが。

百田  …
 イギリスもフランスも、連続性という意味で日本と比べたら歴史が浅いのです。つい最近できたような新しい店みたいなもの。日本は何代もさかのぼれる老舗みたいなものなのです。そのすごさを実は日本人が知らない。
有本 これは単純な日本人礼賛ではありませんし、良き歴史を眺めていい思いをしたいという娯楽ではありません。あえて個人に置き換えると、強い部分も弱い部分も含めて自分を知らない人間は、グローバル化が進む世界で勝ち抜ける人材などになれるわけがないと私は思っています。最近ではグローバル人材を育てるという、よくわからない学部や学科が全国の大学にありますが、自分が日本人であること、自分自身すらよく知らないのに、どうやって世界の人と渡り合うんですかと言いたい。
 

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日本の歴史修正主義と「歴史とは何ぞや」(ベルンハイム)

2021年07月05日 | 国際・政治

 安倍前首相がオリンピック開催に関し、”歴史認識などで一部から反日的ではないかと批判されている人たちが、今回の開催に強く反対している”と語ったことが報道されました。いわゆるネット右翼と一体となったようなこうした発言が、オリンピック開催に否定的な医療従事者や感染症の専門家に対する脅しに近い主張や、現実の脅しを生み出しているのではないかと思います。
 そして、そうした安倍前首相の言動の影響は、強引なオリンピック開催のみならず、あらゆる領域・分野で深刻な状態にあると、私は思います。
 先だって、大村愛知県知事のリコール署名偽造事件で事務局長らが逮捕されましたが、それらも、安倍前首相をはじめとする自民党政権の、いわゆる従軍「慰安婦」問題に対する姿勢に影響されていると思います。現状は、従軍「慰安婦」問題について話し合ったり、議論しようとすることはもちろん、戦地の実態をふり返ることさえ、脅しの対象になっているように思います。
 「表現の不自由展」で展示された「平和の少女像」は、日本では右翼の抗議が起こる恐れがあるという理由で、公共の場所での展示が難しくなっています。表現の機会を奪う事態が相次ぎ、由々しき事態だと思います。
 でも、「表現の自由」が保障された日本で、堂々と表現の機会を奪うようなことができるのは、安倍前首相をはじめとする自民党政権中枢が、戦後の日本を受け入れず、かつての戦争指導層の思想を受け継いで、歴史を修正しつつあるからだと思います。

 その歴史の修正を代表するような百田尚樹氏の「日本国紀」については、すでに二回取り上げ、”「日本国紀」は「歴史書」すなわち「The History of Japan 」ではなく、百田尚樹氏の思いを込めた受け止め方によって歴史をとらえ、創作された日本の歴史「物語」すなわち「The Historical tale of Japan」であると思うのです。”と、私は結論づけました。
 その「日本国紀」に関連して、『「日本国紀」の副読本』百田尚樹・有本香(産経セレクト)という本が出されていますが、その中で、百田氏と有本氏は、「日本国紀」が、予約段階で、何日間もアマゾンの本全体のランキングトップを記録したことを、誇らし気に語り合っています。影響力の大きさを示しているのではないかと思います。
 すでに、何人かの著書をとり上げてきましたが、日本の知識人の多くも、何かといえば、「自虐史観」や「東京裁判史観」という言葉を口にして、戦後の日本を批判し、歴史の修正に加担していると思います。戦後の日本を否定し、歴史を修正するような本の出版も相次いでいます。

 だから私は、基本的なことを確認すべく、「歴史とは何ぞや」ベルン・ハイム著・坂口昴・小野鉄二訳(岩波文庫)の重要部分を抜萃することにしました。同書の中に、
この階段において初めて、歴史的知識は真に一個の科学となった。
とあり、
訳者の「緒言」に、下記のようにあるからです。
”この書の内容価値は、ただにドイツばかりでなく、他の欧米諸国からも、ひろく認められている。およそ初学者の史学に入ろうとするものを導き、かねて一般知識階級の歴史的教養に資する書物で、これほど簡にして要をつくし、親切にして繫縟(ハンジョク)でないものは、いまだ他に見当たらない。ことに理論となく実際となく、いやしくも歴史に関するほとんどすべての方面を網羅し、それらの各部門に入るの道を啓示して、青年学徒をして進路を誤らしめないのは、本書独得の使命として、もっとも推賞に値する。
 翻訳文独特のわかりづらさがありますが、「歴史」に関してきわめて重要なことが書かれていると思います。

 現在、「歴史」が、社会科学(日本では人文科学に分類されることが多いようですが…)の一分野に位置づけされていることや、歴史学の発達過程に関する国際社会の常識を無視するような日本における歴史の修正は、日本の将来を危うくし、若者をトラブルに巻込んで不幸に陥れることになると、私は思います。歴史に関する記述は、きちんと歴史学の基本を踏まえ、客観的な事実に基づいていなければならないと思います。
 再び、日本を野蛮国に転落させるような、ネトウヨの跋扈や神話を史実とするような歴史を許してはならないと思うのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
            第一章 史学の本質および職能

              第一節 史観の発達
 ・・・
 歴史的知識とそれに相応する叙述法との発展には、三つの主要階段を分ち得る。これらの階段は本質的にはただいま示した一切の知識の発達における階進に相当するものである。すなわち物語りしあるいは数え上げる階段と、教訓的あるいは実用的階段と、発展的あるいは発生的階段と、この三つがそれである。
一、物語風歴史(erzahlende Gesch.) 
 この階段では、その事に関心を有する範囲で、歴史的素材をその所と時との順序で物語りあるいは数えあぐるをもって満足する。素材に対する関心はさまざまな方向に向けられ得、かつそれに応じて種々の再現の形式が生ずる。もっとも古いのは、顕著数奇な人の運命や冒険に対する美的興味であろう。これに応じてかのなかば伝説的なかば歴史的な歌謡や史詩がある。これは民族史の初めに逢着するもので、たとえばランゴバルドを始めその他のゲルマン部民の移動伝説や国王伝説のごときである。聴く者の知識程度にとっては、よしやそれがホーマーの史詩、ニーベルゲンの伝説、Cid 譚のような作品であっても、歌になった歴史にほかならない。また、名聞欲や重要と思う人物、所行、事件を記憶に存したいという願望が、他の記述を生ぜしめる。アッシリア人やエジプト人のかの最古の歴史はそうしてできたものである。主権者の栄えある功業を数えあげている。東方諸国、ギリシャ、ローマにおいて金石または木材に刻んだ条約、戦勝、法律の記録もまたそうしてできた。かようなものはすでに、一層冷静で実際的な関心と相触れるところがある。ここに実際的関心とは、宗教、祭祀、政治上の目的のため、ある事項を確保しこれを安全に後世に伝えようとすること次の諸表におけるがごときをいう、── 種々の国王表、官吏表、氏族表、中世の諸暦、教会監督、律院庵主表。

 民族が違えば、歴史に対する感じや歴史的素材再現の才能の発達もはなはだ相違する。高度の文明を有するにかかわらず原始的形式の階段に立ち止まり、実に形式さえ不充分に発達させたに止まる国民も多い。たとえばインド人のごときこれである。しかるに他の諸国民は、物語風歴史を発展させ、その形式をいっそう豊富完全にしていっそう高い階段へ移る道を拓いた。ギリシャ人やローマ人は第一にこれである。すでにHerodotos はギリシャ人とペルシア人との戦争を紀元前440年頃に叙述して物語風歴史の模範的な作品を創ったので 、「歴史の父」と称せられたのはもっともなことである。また官吏の表や表のようになった心覚えから、初めはギリシャ人、次にローマ人の間に詳しい年代記や時代記が発展し、着眼や関心がますます事件の内的関連や動機に向けられるようになった。

二、教訓的あるいは実用的歴史(lehrhafte od. Pragmatische Gesch.)
 この見方を最初に意識的、模範的に代表したのは、アテネの人 Thukydides (前460頃─400頃)のペロポネサス戦史である。彼の明言するところによれば、その著作の役立つべき点は、過去の事物について明確な観念を与えること、したがってまた人事の進行にともなって同様にまたは類似して起るかもしれない事物について明確な観念を与えることにある。ゆえに彼は、昔に似た政治上の形勢に対しては過去の知識から実用的な教訓が汲まれんことを欲し、かつすべての人間の本性と行為とは一般に類似しているから、右は可能であるし理由もることだと説いている。これで彼はこの教訓的階段の特性を示すこと特徴的である。「プラグマティッシュ」なる用語はPolybios(前210頃──127頃)から採ったもので、彼はその世界史において同じ立場をとっている。もっとも彼は「実用的歴史」なる用語で自分の立場を言い表してはいず、彼の叙述が国事(・・・ギリシャ文字)に関するかぎりにおいてそう名づけているのである。この階段の歴史認識は、その実用的傾向に従い、事件を決定する心理的衝動すなわち個人が一般に抱く人間的な動機や目的に向けられ、行動する人物の情欲や思慮から一切のものを解釈しようと試みる。実にこの歴史認識の叙述は右の点を強くめだたしていることしばしばで、その特徴は、人物の動機や目的に関する熟考、著作者が現在に対してそれを応用すること、および判断に道徳論や政治論がはいる点にある。かく素材の内的原因や条件を深く究めることによって、まったく本質的な一進歩が起こったにしても、なおこの実用的歴史はわれわれにとっては明白な大欠点をもっている。すなわちこのものは心理的動機の観察に偏し、研究叙述者が人間のこれら動機について有する観照によって直接左右され、また彼の教示する目的に依存するが、この目的はとかく道徳的、政治的、ことに愛国的傾向をとりやすい。また一切を個人の衝動から解釈しようと望むため、ややもすれば偶然かつ主要ならぬ動機を過重するに至り、かくてついに君主や民族の運命さえ一人の奥女中の陰謀に制約されるように思われてくる。しかして実用的歴史は、ある文化民族のうちに個人的意識すなわち主観性が勃興する場合に現れるのが常である。それはまずギリシャに栄えた。すなわち前の階段の既存の形式たる年代記や時代記を利用し、さらに伝記や回想録のような新形式で表された。ついでローマにおいてアウグスツス時代以後とくに行われ、その模範的代表たる Tacitus (後55頃──117頃)の諸著作を出した。その後衰えてゆく古代文化のうちにあっても実用的歴史は勢力を有し、部分的には前述の弱点を示している。中世になっては、一部は物語風、備忘録的歴史という最低階段に沈降し、一部はローマの編史のすでに形成されたものをとり、しかもこれに新しいキリスト教の観照が入り込んでいる。この観照が入り込んだことは、すぐあとで説明しなければならないように、発生的歴史認識の最初の力強い萌芽を意味する。ついで、実用的歴史は、独特の新鮮さを見せて栄える。それはヨーロッパの諸民族が自覚を高めてその国民的特性を完成し始め、母国語を文学上に用いて親しく体験した事柄を直接表白した時代である。個人の権力や勝手気儘が政治上運命において決定的に有力なため、歴史上事件の経過が事実上個人の動機や目的によって制約されるように思われる時代なり所なりには、実用的歴史がきわめて繁昌するものである。まずフランス人にあっては第十三──十七世紀の回想録や回想録風の時代記となり、次に第十四世紀以後イタリア人にあっては小僭主(センシュ=血筋によらず実力により君主の座を簒奪し、身分を超えて君主となった者)たちの朝廷と党争で四分五裂の自由国との時代記となり、最後にドイツではとくに第十七、八世紀の小国分立状態の下に、実用的歴史が盛んなのはすなわちそれである。こういう場合には歴史は端的に事件の知識であると定義され、この知識から、政治生活において何が有用かまた有害か、いったい何が善い幸福な暮しに役だつかを学ぶものだと考えられている。しかもこれとならんで、いっそう高く広い歴史把捉に達する先行条件が、次第次第に成立しかつ有力となった。しかしてついに第十八、九世紀の交に当り、右の把捉が出現したのである。

三、発展的あるいは発生的歴史( entwickelnde od. Genetische Gesch)
 この階段において初めて、歴史的知識は真に一個の科学となった。何となればここに初めて、特性的に因果関連する諸事実の特殊な領域としての素材の純粋な認識が目標とされたからである。すなわちそれぞれの歴史現象はどういうふうに生成してその時代にそういうものになったか、またそれがさらにいかに作用したかということを知ろうと思うのである。〔発展〕というのは、かく作用が相関連するという中立的な意味である。
 この階段にこうも遅くなってやっと到達したことは、不思議に思われるかもしれないが、しかし容易に説明されることである。そもそも発展の概念は今日われわれにはかくまで自明と思われるが、人の精神に生得のものではけっしてない。人事を発展の産物として、すなわち内外諸原因が一体になって作用する関連においてこれを把捉するには、精神文化総体がことに高度であることが必要であり、そのためにまず発達していなければならない精神上の先決条件は一に止まらない。まず人の本性の単一なことに関する観照が存しなければならない。何となれば、相関連して発展すると考え得るのは、一体として観られたものに限るからである。いかにも古代でもその文化の頂上にあっては、人類は一体であるという観念が欠けてはいなかった。しかしその観念は充分内面的かつ深刻でなかったため、人類の文化共同体という効果ある表象には到達しなかった。しかるにキリスト教が、神の子としての全人類の連帯という生気ある思想を初めてもたらした。けだし神の子としての人類は、堕落、贖罪、最終世界審判という共通の運命によって結ばれあっていると考えるのである。中世の史観はこの思想を終始顧慮していたから、それが古代の史観にくらべて観念上進歩したことは認めてよい。しかしもちろん観念上傾向においてだけである、というのは、右の宗教的思想は超俗的事物に関心をもつという強力な標準を立てているから、その前へ出ては有為転変の俗界の存在は萎縮して空となりほとんど注意するだけの価値もないものになるからである。実にたとえばローマ人とゲルマン人と、どちらが歴史の舞台を占めようとかまわない、ただ神の国の拡張と栄えとを図るために、帝国が存続さえしてゆけばよいと思われた。それだけに中世が第二の観照に到達するのはなおさら容易ではなかった。この観照は発生的考察法にとって一個の先決条件であるが、古代にも不充分にしかなかったものである。すなわち人間の一切の関係においてつねに継続的変化が行われているというのもこれである。中世の人々がこの事をしばしば看過していたのは、われわれの立場から見れば実にほとんど解し得ないことである。したがって当時の人々は、諸時代やそれぞれの文化が相異なることについて、まったく何ら確乎たる観念がなかった。たとえばフランク人をトロヤ人の後裔と考え〔ドイツの名族〕ウェルフ家〔Welfen、ラテン語ではCatuli〕をローマのカトー家(Catones)より出づとなし、きわめてかけ離れた諸時代の制度や法律をカール大帝のものに帰し、ドイツ国王の帝国僧職叙任権(Investitur)の根拠は古イスラエル王権の権能に発すと考えさえした。かようなことは他にも多くある。第十八世紀にもなおこういう多くの時代錯誤に逢着する。第三に人の種々の関係や活動が、相互の内的因果関連および交互作用の裡に立っているという洞察も、ようやくはなはだ徐々に発達した。この洞察はまた、政治上事件が経済状態や社会状態に影響すること、逆に宗教や芸術、科学が相互に、また国家、社会の他の諸事情と活発な関係があること、国土の気候や地勢が諸民族の性格や生業に影響することを認識するものである。古代でも最大の歴史家は、現実生活を活眼をもって見たから、すくなくとももっとも明白な作用影響はいかにも見誤らなかったが、中世ではこれを見る眼がほとんどまったくなくなり、これらの影響にようやく着眼するのは、近代に残された仕事になった。右の作用影響に注意し、これに基づいて初めて比較言語学、人種学などのような比較科学が可能となったこと、また人類地理学のような知識分科全体および広範な文化史がこうして初めて成立し得たことを考慮すれば、かかる新しい洞察をするようになったことが何を意味するかを、明らかに思い浮かべ得るのである。
 中世が終って以来、人の歴史の広範深刻な把捉に必要な一切の先決条件は、きわめてさまざまな方向から、精神文化および科学の一般的進歩と関連して次第に満たされた。こうして発生的把捉が勃興し来ったのは、第十八世紀の後半以来のことで、第十九世紀以来学界を風靡するようになった。この把捉法は当代の精神的根本観照とはなはだ密接に関連していたため、自然観察の領域へも応用され、いたるところその効果豊かな作用を及ぼして科学的研究を活発ならしめた。これと相伴って作業手段が拡大されて多くの影響を及ぼし、また作業方法(研究法)が発達してきた。これらのものは、のちに詳しく見るであろうように、総観照のそれぞれの階段に依存する。何となれば総観照、関心の需めるところや目標とするところが、本質的に人心を導いて必要な手段、方法に到達させるからで、他面新しい手段、方法の偶然の発遣さえ、その利用を心得ている総観照が現存している場合にかぎり、何らかの結果をもたらすわけである、近ごろ表現派的傾向と関連して、「総合」と個別研究とを対立せしめるがごときは、はなはだしく不合理である。なお参照すべきは、第二章末の文献記録と

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