真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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日本が属国であるあらわれでは?

2023年06月25日 | 国際・政治

 小泉悠氏は、ウクライナ戦争が始まって以来、毎日のようにメディアに登場し、戦況や西側がウクライナに供与した武器の性能、それがもたらであろう効果、考えられる両国の作戦などについて解説したり、分析したりしてきました。
 だから、小泉氏が停戦や和解については、何も考えられていないであろうこと承知していましたが、私が気になるのは、日本において、その考え方のどこに問題があるのかを指摘する声が、どこのメディアからも聞こえてこないことです。
 だから、「ウクライナ戦争と世界のゆくえ」(東京大学出版会)に掲載されている小泉氏の「古くて新しいロシア・ウクライナ戦争」の中の、「はしめに」と<「限定全面戦争」としてのロシア・ウクライナ戦争>の文章をもとに、その考え方の問題点を考えました。

 まず、「はじめに」のなかに、”ロシアがなぜこのような戦争を始めたのかを現時点で正確に論じることは難しい”とあります。私は、このとらえ方がすでに歪んでいると思いました。戦争に至る経緯をきちんとふり返ることなく、ロシアがこの戦争を始めた、と断じてしまうことに問題があると思うのです。
 前回、東京大学公共政策大学院・鈴木一人教授が、「戦争と相互依存」と題し、経済制裁について論じている文章を取り上げました。そのなかに、G7の国々が、”ロシアが2月24日にウクライナ侵攻を始める前から列度の高い経済制裁を行うことを宣言していたこと”とありました。その宣言は、ウクライナ戦争が、ウクライナと一体のG7(NATO諸国)の国々、特にG7を主導するアメリカとロシアの戦争であることを示唆する宣言であったと思います。

 だから、それに目をつぶるとらえ方では、”ロシアがなぜこのような戦争を始めたのか”は、難しいだけではなく、永遠にわからないと思います。
 ロシアが、特別軍事作戦に踏み切った理由は、それまでのアメリカやG7(NATO諸国)の動きと無関係ではあり得ないと思います。

 また同じように、”ウクライナに対する支配力の回復という地政学的な(そして多分に古めかしい)動機が存在したことはおそらくたしかであるとしても、プーチン大統領がそのような野望をなぜ抱いたのか、ロシア政府内でいかなる意思決定が行われたのか、戦争のもたらす帰結がどのように想定されていたのか等は将来の歴史研究に委ねるほかあるまい。”ということも、歪んだとらえ方だと思います。
 ”支配力の回復”とか、”プーチンの野望”などという視点で、ウクライナ戦争を捉えていては、将来の歴史研究にそのこたえを委ねても、いろんな立場の人を説得できる社会科学的な結論を得ることなどできないと思います。

 また、小泉氏は、”「限定全面戦争」としてのロシア・ウクライナ戦争”で、”2021年7月12日に発表された論文”や、開戦直前の、”2022年2月21日と2月24日に公開されたビデオ演説”を取り上げていますが、その解釈も主観的で歪んでいると思います。
 ロシアが、ウクライナ政府の「非ナチ化」を目指しているから、ウクライナ戦争が、相手の完全な打倒を目指す「撃滅戦争」であるなどというのは、明らかに飛躍した主観的解釈であり、さらに、”敵国の政治・経済・国民を完全に破壊ないし支配することを目標とする「限定全面戦争」のような闘争形態は論理的には排除されない”というのも同様だと思います。飛躍していると思います。正しくないと思います。

 小泉氏が、なぜこのような主観的で歪んだ解釈をされるのか、ということの答えは、かなりはっきりしていると思います。

 ウクライナ戦争において、ゼレンスキー政権を支えるアメリカやG7(NATO諸国)が、ロシアに対し、どのような圧力を加えていたのかに注目すると、日本を含むG7(NATO諸国)の方針と敵対せざるを得なくなり、困るのだと思います。


 プーチン大統領は、2022年2月24日の演説で、まず最初に、”きょうは、ドンバス(=ウクライナ東部のドネツク州とルガンスク州)で起きている悲劇的な事態、そしてロシアの重要な安全保障問題に、改めて立ち返る必要があると思う。”と語っているのです。
 ウクライナ軍がドンバスを攻撃していた事実やその実態、”NATOの東方拡大、その軍備がロシア国境へ接近している”というロシアにとっての”根源的な脅威”を無視しては、ロシアの特別軍事作戦の意味や、プーチン大統領の主張は理解できないと思います。

 NATO諸国が、ロシアの国境近くで合同軍事演習をくり返したからだと思いますが、プーチン大統領は、”NATOは、私たちのあらゆる抗議や懸念にもかかわらず、絶えず拡大している。軍事機構は動いている。繰り返すが、それはロシアの国境のすぐ近くまで迫っている。”と語っています。
 そして、多数の市民が犠牲になったアメリカを中心とするNATO諸国のベオグラード爆撃や、イラク、リビア、シリアなどの国々の悲劇を踏まえ、”これは、私たちの国益に対してだけでなく、我が国家の存在、主権そのものに対する現実の脅威だ。それこそ、何度も言ってきた、レッドラインなのだ。彼らはそれを超えた。”と結論づけているのです。

 だから、小泉氏は、2021年7月12日に発表された論文”や、開戦直前の、”プーチン大統領のビデオ演説”を取り上げながら、その内容の最も大事で、中心的な部分を無視されていると思います。小泉氏は、日本を代表する安全保障、特にロシアの軍事・安全保障の専門家として毎日のようにメディアに登場しているのだと思います。その小泉氏が、故意でなければ、理解力不足というしかないことを書かれているので、私は、そこに日本政府や日本政府の背後にあるアメリカの力が働いているのだろうと思わざるを得ません。

 

 現在、ウクライナ戦争に関して、メディアに登場する大学教授や研究者は、ほとんどが、ウクライナ戦争にかかわるアメリカやG7(NTO諸国)のロシアに対する圧力を考慮せず、ウクライナ戦争を語ります。だから、プーチン大統領の野望でウクライナ戦争が始まったとか、悪魔のような独裁者プーチンの支配欲の結果であるかのように解説されるのだと思います。

 ウクライナ戦争を、NATO諸国の東方拡大ウクライナを含むNATO諸国の軍事演習ウクライナに対するNATO諸国の武器の供与や配備ウクライナのクーデターに対するアメリカの関与ノルドストリーム2の関係企業に対する制裁等々を考慮せず捉えようとするから、ウクライナ戦争がプーチン大統領の野望の結果となり、プーチン大統領が独裁者でなければならなくなるのだということです。
 だから、アメリカを中心とする西側諸国は、早々に、あらゆる組織からロシアを排除し、西側諸国にアメリカのプロパガンダがゆきわたるようにしたのではないか、と私は思っています。真実が知られては、ロシアを孤立させ、弱体化させることができないからだと思うのです

 現在、ウクライナ戦争にかかわって、メディアに登場する専門家と称される学者や研究者は、ほとんど小泉氏と同じような捉え方で、ウクライナ戦争を解説していますが、私は、そういう人たちは、アメリカの組織とつながっており、アメリカのために働いているのだろうとも想像しています。そしてそれは、日本がいまだにアメリカの属国であるあらわれだろうと思っています。

 私は、日本国憲法を尊重し、法や道義・道徳を根拠として、被爆国日本の立場で、ウクライナ戦争の停戦を主張してほしいと思っています。

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                 古くて新しいロシア・ウクライナ戦争

                                  小泉 悠
                                  東京大学先端科学技術研究センター専任講師
                                  専門はロシアの安全保障政策    
  はじめに
 2022年2月に開始されたロシアのウクライナ侵略は(以下、ロシア・ウクライナ戦争)は、世界に大きなショックを与えた。その一因は、第二次世界大戦後の欧州で発生した最大規模の国家観戦争であったという点に求められよう。後述するように、ロシアは15万人にも及ぶとされる兵力を動員し、ウクライナに対する公然たる侵略に及んだ。ロシアが国際安全保障の番人であるべき国連安全保障常任理事国の一つであったことも、ショックを増幅する要因であったように思われる。
 ロシアがなぜこのような戦争を始めたのかを現時点で正確に論じることは難しい。ウクライナに対する支配力の回復という地政学的な(そして多分に古めかしい)動機が存在したことはおそらくたしかであるとしても、プーチン大統領がそのような野望をなぜ抱いたのか、ロシア政府内でいかなる意思決定が行われたのか、戦争のもたらす帰結がどのように想定されていたのか等は将来の歴史研究に委ねるほかあるまい。
 そこで本稿では、異なった角度からの接近を試みることにした。すなわち、ロシア・ウクライナ戦争とはどのような戦争であるのか、ということである。
 戦争を形容・分類する方法はいくつかある。例えば、それが正当な戦争なのか、不当な戦争なのかといった規範的判断はその一つであろうし、あるいは規模や烈度で分けることもできる。ハイテク兵器が中心になるのか、ローテクの旧式兵器で戦われるのか、といった技術的な分類もできよう。
 こうした中で、本稿では、ロシア・ウクライナ戦争の性質(nature)に着目した。ここで問題になるのは、戦闘態様(戦争の特徴=character)というよりも、戦争がどんな目的で、誰によって戦われ、社会全体との関係性においていかに位置付けられるか、といった戦争のパラダイムである。ロシア・ウクライナ戦争について言えば、その基礎は近代の欧州で成立した「古い戦争」パラダイムでありながら、冷戦後に唱えられた「新しい戦争」としての性質を有するということを本稿では主張した。
ーーー
  2 「限定全面戦争」としてのロシア・ウクライナ戦争
 以上を踏まえた上で今回のロシア・ウクライナ戦争を眺めてみると、全体的に「古い戦争」としての色彩が非常に濃厚であると言えよう。
 まず指摘されるべきは、ロシアの戦争目的が政治的なものであったということである。これは、非政治的な目的で組織的な暴力が行使される点を特徴とする「新しい戦争」とは明らかに異なっていた。
 今回の戦争に先立つプーチン大統領の言説に着目して考えてみよう。2021年7月12日に発表された同人の論文「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について」、開戦直前の2022年2月21日と2月24日に公開されたビデオ演説などは、いずれも一つの主張で貫かれている。ロシア人とウクライナ人は本来、歴史を共有してきた不可分の存在であること、にもかかわらず現在のウクライナ政府が西側の手先になり下がっている状態は受け入れ難いこと、さらには「ネオナチ思想に毒されたウクライナ政府」がロシア系住民を迫害したり核兵器の開発を目論んでおり、存在自体が認め難い脅威であるということなどである。したがって、ウクライナは「ロシアとのパートナーシップ」を通じて「真の主権」を取り戻すべきであるというのが「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について」におけるプーチンの結論であり、2月のビデオ演説では①ウクライナの非ナチ化、②中立化 ③非武装化、④ロシアによるクリミア半島の強制併合や親露派武装勢力によって樹立された「人民共和国」の承認といった要求が掲げられた。また、この間の2021年12月、ロシア外務省は欧州の新しい安全保障秩序に関する条約を米国及びNATOに送付し、NATOの東方拡大、冷戦後の新規NATO加盟国からの部隊撤退、ロシア周辺での軍事活動の禁止を要求した。
 これらの中でも、特に注目されるのは、ウクライナ政府の「非ナチ化」という目標である。その意味するところは明確ではないが、プーチンが現在のゼレンスキー政権を「ナチス」と位置付ける以上、政体の顚覆を示唆しているように見える。とするならば、今回の戦争でロシアが目指したのは、クラウゼヴィッツが言う二つの戦争──相手の完全な打倒を目指す「撃滅戦争」と、領土獲得などの限られた目的達成を目指す戦争(本稿では「限定戦争」と呼ぶ)のうち前者であったということになろう。
 こうした理解は現代のロシアにおいても見られる。歴史家、安全保障専門家、実務家であるアンドレイ・ココーシンが、2005年の著書『軍事戦略の政治・社会学』で、戦争を「制限戦争」と「全面戦争」に分類して論じているのはその一例である。ココーシンによれば、前者は①敵の侵略に対する原状回復、②限られた領土の奪取、③特定の利益を守る決意を示すための軍事力の誇示、④交戦相手国の体制転換といった限定された政治的目的の達成のためにおこなわれるものであるのに対し、後者はドイツの対ソ戦争のように敵国の政治・経済・国民を完全に破壊ないし支配することを目標とする。
 このような区別に基づくならば、限られた地理的範囲、投入兵力、烈度の下で遂行される「限定全面戦争」のような闘争形態は論理的には排除されないのであって、ウクライナへの侵攻はまさにその実例ということになろう。ロシアが目指したのは、単にウクライナの政体を転換するのみならず、これを自国の強い政治的影響下に置くこと(プーチンやメドヴェージェフの言う「ロシアとのパートナーシップ」の強要)であったと考えられるからである。 

 

 

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善悪を逆さに見せることはアメリカのお家芸

2023年06月20日 | 国際・政治

 イラン政府報道官・バハードリー・ジャフロミー氏が、「アメリカ は善悪を逆さに見せることにおいて先端を走っている」と語り、「アメリカが見せるやり口のうち、最も得意とする強力なもののひとつに、虚言がある。この国は、嘘を真実に、真実を嘘に見せかけるのである」というようなことを言ったといいます。そして、「言動・行動の両方において善悪を逆さに見せることはアメリカのお家芸である」とし、「アメリカは、様々な時代において真実を実際とは間逆に見せて、直接・間接的に戦争の中心的存在となってきた」と述べたということです。(https://parstoday.ir/ja/news/iran)
 こうした主張を、日本の主要メディアは取り上げませんが、アメリカの戦争を中心とした対外政策や外交政策をふり返れば、私は間違っていないことがわかると思います。ベトナム戦争でも、湾岸戦争でも、イラク戦争でも、アメリカによるでっち上げがありました。
 でも、アメリカは、巧みにそうした主張や自らの犯罪的過去を抑え込み、消し去るようにしているのだろうと思います。
 
 「ウクライナ戦争と世界のゆくえ」(東京大学出版会)に、東京大学公共政策大学院・鈴木一人教授が、「戦争と相互依存」と題し、経済制裁について論じているのですが、その中に、下記のような見逃すことのできない記述がありました。

ロシアに対する制裁で、まず特筆すべきはその決定が迅速に行われたこと、また、利害が異なるG7の国々が共同歩調を取り、足並みをそろえることを徹底した点であろう。すでに述べたように高度な依存関係にある国を制裁の対象国とする場合、対象国に損害を与える制裁は、「返り血」を浴びることになる。そのため、各国は自らの産業への「返り血」を可能な限り少なくした上で制裁を実施しようと試みる。また、強い制裁措置を取るにしても、多くの利害関係者に納得してもらうために説得の時間が必要となる。しかし、今回は、ロシアが2月24日にウクライナ侵攻を始める前から列度の高い経済制裁を行うことを宣言していたこと、また、ロシアの軍事的な侵攻が明らかに国際法を無視し、さらにはブチャの虐殺のように、非人道的な戦争を行ったことで、西側諸国の多くの国では列度の高い経済制裁を取ることの支持が高まり、多くの調整を必要とせず経済制裁のメニューを設定ですることができた。・・・”

 そして、経済制裁についてあれこれ論じた後、結論として下記のように書いているのです。

ロシアのウクライナ侵攻は、国際法に反する、看過してはならない事象である。ブチャの虐殺を見るまでもなく、ロシアによる武力行使は暴力的で非人道的なものであり、こうした行為を継続させてはならない。西側諸国はウクライナに派兵して、ロシア軍と直接戦火を交えることはないが、それでもウクライナ軍の戦いを容易にするためにも、経済制裁を継続して、ロシアの継戦能力を奪い続けることが重要である。しかし、西側諸国が「返り血」によって経済制裁を継続することを止めてしまえば、ロシアにとって有利な状況が生まれ、さらにウクライナへの攻撃を激しくしていくかもしれない。この戦争を終わらせるためには、一層の経済制裁の強化と、「制裁疲れ」に陥らないよう、各国政府が国民に向けて経済制裁の意義を説き続け、なぜ、なんのために経済制裁をしているのかを常に意識させる必要がある。”

 私は、学界もすっかりアメリカの影響下に入ってしまったような気がしました。
 鈴木教授は、 知ってか知らずか、イラン政府報道官が語ったような、虚言によって”善悪を逆さに見せる”というアメリカの戦略をまったく考慮しておられないと思います。
 また、停戦ではなく、ウクライナ戦争を、ウクライナ側に立って支え、戦争の継続を主張されています。人の命が日々失われていくことを、どのように考えておられるのか、と驚きます。


 まず、ウクライナ戦争が2022年2月24日に始まったととらえることに問題があると思います。  
 2014年のマイダン革命は、アメリカの関与なしにはあり得なかったと思います。アメリカは、マイダン革命に端を発するクーデターによって、ヤヌコビッチ社会主義政権を顚覆し、長い時間と莫大な費用を投じて、ウクライナに親米政権を樹立した後、NATO軍の動きを活発にし、戦争を準備したことを見逃してはならないと思います。アメリカは、中南米をはじめ、さまざまなところで、同じようなことをやり、戦争をくり返してもきたと思います。だから、アメリカの表向きの主張をもとに、制裁を論じることに問題がある、と私は思います。

 また、鈴木教授が、あたかも西側諸国が、自主的に経済制裁に加わったかのように論じられておられることも気になります。現実には、圧倒的な経済力や軍事力を背景としたアメリカの圧力があったと思います。ウィキペディア(Wikipedia)によると、米軍基地は、国防総省が公表しているだけで、170か国以上、内大規模基地を置くのは約60か国であるといいます。名目は地域の安全かも知れませんが、現実にはそれは、基地を提供している国に対する逆らうことのできない軍事的圧力として機能している側面があると思います。だから、米軍が大規模基地を置き、常駐している国が、アメリカの覇権や利益に反するような政策を取ったことはほとんどないと思います。
 ウクライナ戦争前、ロシアからドイツに直接天然ガスを送るパイプライン「ノルドストリーム2」をめぐり、西側諸国内には深刻な対立があったといわれています。でも、計画を進めていたドイツも、結局「ノルドストリーム2」の利用をあきらめました。その方針転換が、ヨーロッパ最大のラムシュタイン米軍基地の存在するアメリカの圧力なしに行われたとは思えません。

 イラン政府報道官が語ったことは、日本や朝鮮の戦後をふり返っても、間違いでないことがわかると思います。例えば、米軍の日本駐留は憲法違反であるという伊達判決が、どのような経緯で、最高裁で覆されることになったのか、また、日本人自身による民主化運動が高まりつつあったときに、レッド・パージ戦犯の公職追放解除があり、それを正当化し、民主化運動の息の根を止めるようなかたちで発生した数々の事件は、いったい何であったのか。
 さらに、戦後の朝鮮で、建国準備委員会が、南北朝鮮の合意に基づいて建国を発表し、閣僚も決めていたという「朝鮮人民共和国」が姿を消して、なぜ、南朝鮮単独の李承晩政権が生まれたのか、などをさまざまな資料を基に調べれば、それらが、日本や朝鮮を反共の砦とするためのアメリカの戦略であったことがわかると思います。

 以前に取り上げましたが、先日 下記のような報道がありました。
岸田首相は、2023年度から5年間の防衛費の総額を43兆円とするよう指示した。首相官邸で浜田靖一防衛相、鈴木俊一財務相に伝えた。現行の中期防衛力整備計画の5年総額27兆4700億円から5割以上増える。相手のミサイル発射拠点をたたく反撃能力の整備などにあてる。岸田文雄首相は、総合的な防衛費を2027年度に国内総生産(GDP)の2%程度に増額するよう鈴木俊一財務相と浜田靖一防衛相に指示した。 鈴木・浜田両氏が会談後記者団に明らかにした。”

 ということは、この増額が、自衛隊や防衛省の要求に基づくものではないということです。国会はもちろん、閣議でも全く議論されていない増額です。なぜこのような独裁的決定が、民主国家であるという日本でなされたのか、なぜその手続きが議論の対象にならないのか、なぜ財源だけが問題にされるのか、を考えれば、その背景に、アメリカの戦略があることは疑う余地がないのではないかと思います。


 また、鈴木教授は、”ロシアが2月24日にウクライナ侵攻を始める前から列度の高い経済制裁を行うことを宣言していたこと”と書いていますが、それは裏を返せば、アメリカを中心とする西側諸国が、ロシアとの戦争を準備していたということであり、何とかして、ロシアを説得し、戦争になるのを防ごうとはしていなかったということだと思います。

 イラン政府報道官は、その他、下記のようなことも語ったと伝えられています。
アメリカは家庭を守ると主張しながら、その崩壊を追求しており、女性や子供についても、倫理的・性的に逸脱した教育を行ってきた。同国の経歴は、世界の隅々まで知られている

 また、イラン国民が誰よりもアメリカによる人権侵害の犠牲になってきたとし、「基本的人権、健康的に生きる権利、また先端科学やナノ、宇宙といった分野の平和的目的の教育を受ける権利は、制裁により奪われていいことがあるだろうか?」と強調したといいます。

 さらに、「600万人のシリア市民を難民にし、(原爆投下の)ボタンひとつで22万人の日本人を虐殺したのは誰だったか」とした上で、ボスニアでの虐殺や、90万人のアフガニスタン市民の殺害などにも触れ、「歴史上何度もあったアメリカによる侵略行為は、説明が行われなければならない」と述べたということです。

 イランでは、毎年6月27日から7月3日までを「アメリカ式人権状況開示週間」と定め、特にイラン国民に対してアメリカが行ってきた犯罪を振り返っているということにも、考えさせられます。

 

 

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ナミビア・アンゴラの独立とアメリカお決まりの関与

2023年06月17日 | 国際・政治

 私はウクライナ戦争が始まって以来、ウクライナ戦争を主導するアメリカの対外政策外交政策の歴史をふり返っています。
 今回は、ナミビアアンゴラの独立問題にアメリカがどのように関わったのかについて、「アフリカの21世紀 第3巻 アフリカの政治と国際関係」小田英郎編(勁草書房)から、関連部分を抜萃したのですが、その中に、下記のような記述があります。

レーガン政権は、ナミビア独立のための安保理決議第435号の実施条件としてアンゴラからのキューバ軍の撤退を主張したのであった。

レーガン政権は、アンゴラ・ナミビア紛争に対して一方では85年8月のアンゴラに対する武器援助を禁じたいわゆる「クラーク修正法」の廃止とそれに伴うアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)に対する支援の再開といった強硬な姿勢をとり、・・・”

 当時の国連、安全保障理事会は、1976年、国連の監視のもとに行われるナミビアの選挙を受け入れるよう、事実上の宗主国である南アフリカに要求し、また、78年には、”国連監視下の自由選挙の実施と南アフリカ軍のナミビアからの撤退を求める決議”をしています。そしてそれは、ナミビア問題解決のための基本的枠組みとして国際的に承認されていたといいます。
 さらに言えば、国連総会では、ナミビア人民による武装解放闘争に支持を表明して、いかなる問題の解決も、ナミビア人民の唯一の代表である南西アフリカ人民機構(SWAPO)の合意がなければならない、とも認めていたのです。

 注目すべきは、ナミビアの独立問題に関わって、アメリカがアンゴラからのキューバ軍の撤退を持ち出し、また、アンゴラに対する武器援助を禁じたいわゆる「クラーク修正法」の廃止を求め、アンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)に対する支援を開始したことです。そこに、私は、アメリカの対外政策や外交政策の性格がよくあらわれていると思います。

 隣国、アンゴラの情勢が、ナミビアの独立に深く関わっていたようですが、アメリカはアンゴラにおける最大勢力アンゴラ解放人民運動 (MPLA)が、反アパルトヘイトを唱える社会主義的組織であることに危機感を抱き、南アフリカとともに、アンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)アンゴラ民族解放戦線 (FNLA)の支援に動いているのです。
 だから、アンゴラはキューバに助けを求めたのだと思います。
 強国が関与しなければ、ポルトガルからの独立後、アンゴラ解放人民運動 (MPLA)が政権を樹立し、社会主義的国家が生まれる流れであったのに、強国が関与した結果、アンゴラ解放人民運動と、アンゴラ民族解放戦線やアンゴラ全面独立民族同盟との武力闘争(アンゴラ内戦)になってしまったのだと思います。

 それは、アメリカの政策に関する下記の文章でも、わかると思います。
「この建設的関与」政策とは、南アと南部アフリカ黒人諸国の対話と和解を促進することによって同地域におけるソ連とキューバの影響力を低下させる一方、合衆国と南ア白人政権との対話を通じてアパルトヘイト体制の変革を促進しようというものであった。
 アメリカは、アンゴラ解放人民運動 (MPLA)による社会主義的政権の樹立を阻止するために、南アフリカのアパルトヘイト体制(人種差別体制)を部分的に修正し、国際社会の理解を得て、南アフリカと手を結ぶことにしたのだろうと思います。
 アンゴラ独立前、南アフリカは、当時支配下に置いていたナミビアからアンゴラに軍事侵攻し、「アンゴラ人民民主共和国」の独立を宣言したアンゴラ民族解放戦線アンゴラ全面独立民族同盟を支援したということですが、激戦の末、「アンゴラ人民共和国」の独立を宣言した、最大勢力アンゴラ解放人民運動に阻止されているのです。
 アメリカが、支配する側、すなわち、搾取・収奪する側を支援し、される側の闘いを抑圧する反共国家であることは、ナミビアやアンゴラの独立にかかわっても、貫かれていると思います。
 だから、ウクライナ戦争でも、アメリカは、反政府勢力を支援し、ヤヌコビッチ社会主義政権を倒して、ロシアと戦わせることにしたのだと思います。そういう意味では、ゼレンスキー政権は、アメリカが支援した南アフリカの少数白人政権と同じで、決して民主的な政権ではないだろうと思います。

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                     第四章 人種主義からの解放
                        ── 南アフリカ共和国とナミビア

    Ⅱ ナミビア独立問題の経緯
 南部アフリカに残された最後の未独立地域ナミビアは、1990年3月21日に同地域を違法統治してきた南アの支配を離れて多数支配政権のもとに独立を達成した。しかしながら独立にいたる過程は極めて紆余曲折したものであり、直轄統治地域としてナミビアを管理してきた国連、そして国際的な非難にも拘らず統治を続けてきた南ア、そして同地域を代表する唯一の解放組織として国連に承認されたSWAPOといった当事者の活動だけでなく、国際政治の力学がその独立に決定的な影響を与えたのであった。
 ・・・
  一 歴史的背景
 1884年から85年にかけて開催されたアフリカ植民地分割のためのいわゆる「ベルリン会議」において現在のナミビアの国境線が確定し、同地域はドイツ領「南西アフリカ」となった。ただしナミビア唯一の良港であるウォルビス湾とその周辺地域は既にケープ植民地の一部となっていたため、「飛び地」として今日に至るまで南アによって統治さっることになった。
 第一次大戦中、ナミビアは南ア軍によって占領され、戦後、南アは国際連盟によって同地域の委任統治権を与えられた。これによって南アは、基本的には独立に至るまで国内に対してと同じようにナミビアに対しても人種差別的な統治をおこなったのである。 
 第二次大戦後に誕生した国際連合は、ナミビアを信託統治領とすべく南アに対して委任統治の終了を求めたが、南アはこれを無視して一方的な統治を継続した。当初こうした南アの政策に対して国連は、これを阻止する有効な手段を持たなかった。しかしながら60年代に入ると第三世界の諸国、とりわけアフリカ諸国が大挙して国連に加盟したため、ナミビア問題は国連の場において積極的に議論されるようになった。その結果60年代後半において国連はナミビアに関する一連の決議を採択したのであった。すなわち66年、国連総会は南アの委任統治の終了とナミビアに対する国連の直轄統治を決議し、その翌年にはナミビアの統治にあたるナミビア理事会を設置した。そして68年にはこれまでの「南アフリカ」から「ナミビア」へと同地域の名称を改めるとともに、安保理はナミビアに対する南アの統治を違法と宣言したのであった。
 他方ナミビアのアフリカ人は、1958年にSWAPO(South-West African People's Organization)を結成して南アからの解放運動を開始し、66年以降、同組織は武力解放闘争に踏み切った。しかしながら70年代の後半に至るまで、ナミビア独立問題は容易に進展しなかった。その理由は、①ナミビアに対する南アの力による統治が確立されていたこと、②国連は、みずからの決議を強制的に実施する手段を持たなかったこと、③SWAPOの解放闘争が南アに政策を変更させるだけの影響力を持たなかったこと、などである。しかしながら1974年のポルトガル・クーデターとその後のポルトガル植民地体制の崩壊、そして南部アフリカにおけるモザンビークとアンゴラの独立は、ナミビア情勢にも大きな影響を与えることになったのである。そしてアンゴラ内戦を契機としてナミビア問題は、一地域の独立問題から国際政治における東西対立の文脈へと移行していったのである。

  ニ ナミビア独立交渉の展開
 1977年1月に誕生した合衆国カーター政権は、一方で宗主国イギリス政府と共同歩調をとりながらローデシア(現ジンバブェ)紛争の平和的解決の処方箋を模索し、他方でナミビア紛争の平和的解決に向けて、コンタクト・グループ(イギリス、合衆国、カナダ、フランス、西ドイツ)の一員として積極的な調停活動をおこなった。
 ナミビア問題の平和的解決の可能性を模索した通称コンタクト・グループは、合衆国のイニシャティヴのもと、当時の安保理西側5カ国によって結成された。同政権がナミビア問題の交渉による解決に乗り出した理由としては次の3点が指摘されている。第1は、に、77年初頭、ナミビアの独立を認めない南アに対する非難が国連内部において激昂していたこと。第2点は、当時南アが、国連を無視して、ナミビア領内の親南ア勢力を結集して独自の問題解決、いわゆる「内部解決」を図ろうとしていたこと、第3点は、カーター政権が、新政権として第三世界に対する独自の政策を打ち出そうとしていたこと、である。これに加えて同政権が、その前年、当時の合衆国国務長官キッシンジャーが展開していた南部アフリカ積極外交に強く刺激されたことも否定できないであろう。
 コンタクト・グループの行動指針となったのは、1986年1月に採択された国連監視下における自由選挙の実施を骨子とする安保理決議第835号であった。この決議もとづいて、コンタクト・グループ
は、ナミビア問題の当事者である南ア、SWAPO、そして問題の準当事者ともいうべきフロントライン諸国首脳と交渉を重ね、この結果を踏まえて国連安保理は、78年9月、ナミビア紛争解決の基本的枠組みを定めた決議435号を採択した。同決議の骨子は、国連監視下の自由選挙の実施と南ア軍のナミビアからの撤退であり、この決議は同紛争解決のための基本的枠組みtpして国際的に承認された。
 南アは、一方ではコンタクト・グループと交渉を行って国際的な問題解決に応じる姿勢を見せながらも、他方では「内部解決」を強引に推し進めたため同グループの調停活動は容易に進展しなかった。さらに、80年代に入ってからはレーガン政権が、ナミビア独立問題とアンゴラからのキューバ軍の撤退を結びつけた独自の解決案を持ち出してきたために、コンタクト・グループは、まさにその「グループ」としての一体性と機能を低下させていったのである。
 周知のように1981年1月に誕生したレーガン政権は東西両陣営の対立という文脈のなかに南部アフリカの諸紛争を位置付け、同地域に対する基本戦略としていわゆる「建設的関与」政策を打ち出した。「この建設的関与」政策とは、南アと南部アフリカ黒人諸国の対話と和解を促進することによって同地域におけるソ連とキューバの影響力を低下させる一方、合衆国と南ア白人政権との対話を通じてアパルトヘイト体制の変革を促進しようというものであった。そしてアンゴラ・ナミビア紛争に関して言うならば、合衆国はこうした基本路線に即していわゆる「リンク政策」を打ち出した。すなわちレーガン政権は、ナミビア独立のための安保理決議第435号の実施条件としてアンゴラからのキューバ軍の撤退を主張したのであった。
 レーガン政権は、アンゴラ・ナミビア紛争に対して一方では85年8月のアンゴラに対する武器援助を禁じたいわゆる「クラーク修正法」の廃止とそれに伴うUNITA(アンゴラ全面独立民族同盟)に対する支援の再開といった強硬な姿勢をとり、他方では紛争の平和的な解決を目指して紆余曲折はあったものの着実に紛争当事国との交渉を重ねた。要するに合衆国は、まさに「和戦両様」の戦略をもって同紛争の解決にあたったと言えよう。
 「リンク政策」に即して当事者間の合意を取り付け、アフリカ南西部の和平を実現しようとする合衆国の調停活動は、国務次官補クロッカーを中心にして80年代前半から積極的に展開された。そして84年2月にザンビアの首都ルカサにおいてアンゴラ、南ア、そして合衆国のあいだでアンゴラ南部の非軍事化とそれに関する「合同監視委員会(JMC)」の設置について合意に達したことは、公式の場における合衆国の調停活動の最初の大きな成果として位置づけることが出来よう。
 

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アパルトヘイト関連諸法と人種差別と台湾有事

2023年06月12日 | 国際・政治

 下記は、「アフリカの21世紀 第3巻 アフリカの政治と国際関係」小田英郎編(勁草書房)から「第四章 人種主義からの解放」の一部を抜萃したものですが、南アフリカの人種差別法であるアパルトヘイトが具体的にどのようなものであったのかということ、またその考え方が抱える矛盾や、次第に高揚する国際的な非難、さらに激昂するアフリカ人の反アパルトヘイト運動よって維持できなくなっていった経緯などがわかりす。
 だから現在、あからさまな人種差別法はなくなったようですが、それは人種差別がなくなったということではないと思います。特に、アメリカの対外政策や外交政策のなかに、私は今も、反共主義と結びついた人種差別が存在するのではないかと思います。

 最近何度か、中国の「秘密警察」に関する記事や報道を目にし、耳にしました。
 それによると、中国の公安局が、海外に「秘密警察」の拠点として、「海外派出所」の設置を進めているということです。そしてそれは、「外交関係に関するウィーン条約」に違反しているということです。「外交関係に関するウィーン条約」は、他国内において在外公館以外に許可なく政府関連施設を設置することを禁じており、「海外派出所」は国際条約違反だというわけです。
 確かに、その「秘密警察」が存在し、日々スパイ活動のみならず、反体制派の取り締まり、さらに、その活動に関わって、脅迫やテロまでやっているとすれば、きちんと対処すべき問題だとは思います。
 しかしそれが、ウクライナ戦争が続いており、台湾有事が心配されている現在、アメリカの連邦捜査局(Federal Bureau of Investigation, 略称FBI)の調査結果として発表されたということが、私は気になります。
 ロシアや中国を悪者とする、イメージ作りの一環ではないかと思うのです。

 中国の「秘密警察」の存在を問題にするのであれば、当然、それを遥かに超えるアメリカの中央情報局(Central Intelligence Agency 略称CIA)の所業も問題としなければならないと思います。
 先日、アメリカのバーンズ CIA長官が、”中国の習近平国家主席が、2027年までに台湾侵攻の準備を行うよう軍に指示していることを把握している”との見方を示しましたが、CIAによる台湾有事に関わる工作が進んでいることを示しているのではないかと思います。
 だから戦争に発展したウクライナの問題に、CIAが無関係であったということはあり得ないと思います。
 ラテンアメリカ諸国の軍部などによるクーデターをふり返れば、反米的な政権や社会主義的政権の国家におけるクーデターの多くが、アメリカのCIAによる工作と支援のもとになされたことがわかります。また、ウィキペディア(Wikipedia)には、CIAが主導し関与したとされる多くの作戦や事件も取り上げられています。だからCIAは、今も世界中でスパイ活動や工作をやっているのだと思います。
 ウクライナの政権転覆も、アメリカのCIAの介入なしにはあり得なかったと思います。
 それは、CIAの日本や朝鮮における活動、すなわち、日本や朝鮮を反共国家とするために、さまざまな工作をくり返した事実からも推測できることだと思います。
 そうしたアメリカのCIAによる工作には全く目を向けず、今、客観的根拠の乏しい中国の「秘密警察」を論じることに、私は違和感を感じるのです。

 今大事なことは、国際組織がウクライナ戦争に至る経緯をふり返り、ウクライナ側だけではなく、ロシア側の主張もきちんと聞いて、主張が対立する部分については必要な調査を実施し、停戦の話を進めることだと思います。両方の主張に耳を傾ければ、何が問題かということがわかり、調査すべきこともわかって、客観的事実に基づいた停戦が可能になるのではないかと思います。 

 私は、なぜ副大統領時代にくりかえしウクライナを訪れていたバイデン大統領や、ウクライナに入り込んでいたバイデン大統領の息子のハンター・バイデンの行動内容や目的を問わないのか、さらに、米国務省のビクトリア・ヌーランド(オバマ大統領上級補佐官)が講演で、”我々は、ウクライナの繁栄、安全、民主主義を保障するために50億ドル以上を投資してきた”と述べたというのに、その使い道を問わないのか、と思うのです。その背後には、間違いなくCIAの日常的な活動やさまざまな工作があったのではないかと思います。
 ヌーランドが、電話でやり取りした録音がリークされ、ウクライナに傀儡政権を樹立するべく画策していたことが明らかにされているのに、なぜ、それさえ不問に付されているのか、と思います。
 わたしから見れば、ウクライナに対するアメリカの介入は、アメリカが中南米などでくり返してきた介入と同じです。

 ウクライナ戦争で悪者にされているロシアが、過去に、自らの覇権や利益のために、他国のクーデターに関わり、アメリカのように他国の政権転覆をくり返してきたでしょうか。また、中国が、自らの覇権や利益のために、他国のクーデターに関わり、アメリカのように他国の政権転覆を繰り返してきたでしょうか。
 今、中国の「秘密警察」が、ウクライ戦争の停戦や台湾有事回避の問題を差し置いて論じなければならないほど、重大な問題でしょうか。今、中国の「秘密警察」を問題にしなければならない理由は何でしょうか。 

 私は、現在の世界政治は、アメリカの覇権や利益のために作り上げられたイメージ、すなわちロシアや中国を悪者とするイメージで動いているように思います。
 そして、そうしたイメージは、アメリカが一方的に流す、反共主義を背景とした中国・ロシア敵視の日々の報道によって作り上げられていると思います。
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                     第四章 人種主義からの解放
                        ── 南アフリカ共和国とナミビア

    Ⅰ 南アフリカ共和国のアパルトヘイトと反アパルトヘイト運動の展開

 ニ 国民党政権のアパルトヘイト政策
 1948年の総選挙において初めて単独政権を樹立した国民党は、以上に述べたようなアフリカーナー
の主体性というものを全面に押し出して誕生した政党であった。言葉を換えて言うならば、国民党はまさにアフリカーナー・ナショナリズムが生みだした政党であった。同党は政権の座に就くと同時にアパルトヘイト政策、すなわち白人と黒人の全面的な分離政策を積極的に推進したのである。そしてこれは周知のように、居住地域、教育、移動、職種にはじまって婚姻、公共施設(公園のベンチ、公衆トイレ、鉄道の車両、海水浴場など)に至る政治・経済・社会のあらゆる分野における人種的分離を固定化するものであった。
 ところでアパルトヘイトという言葉はアフリカーンズ語で「分離」を意味する。そしてこの言葉が国民党のイデオロギーおよびそれにもとづく政策全体を指してはじめて用いられたのは、1943年3月26日付けの国民党系新聞『ディ・ブルヘル』紙の社説においてであると言われているが、一般的には1948年の総選挙に際して、国民党が選挙スローガンとしてこの言葉は知られるようになった。同総選挙において国民党は、例えば対立政党である統一党に投票すれば人種的平等が実現し、白人の特権が奪われるばかりでなく「コーヒー色の人種」つまり白人と黒人の混血が大量に発生するであろうといった具合にいわゆる「国禍(ブラック・ペリル)」に訴えて少数白人の危機意識をあおり政権の座に就いた。他方有権者(白人)の大半は支配人種としての地位に固執すると同時に少数派としての孤立感を抱いていたために、白人優越主義というイデオロギーを堅持して白人の支配的地位を力で維持しようとする政府を望んでいたのである。したがって、純潔な白人種の保全そして別個の民族社会としての土着民の保護のために、白人種と様々なアフリカ人民族(すなわちコーサ、ズールー、ソト等の諸部族)のあいだで国土は公平に分割されるべきであり、アフリカ人保留地はアフリカ人にとって真の故郷となるべきである、というアパルトヘイトのイデオロギーは、白人有権者の希求に合致するものであった。
 かくして国民党は、諸権利の剥奪、選択の自由の制限、そして不平等の制度化を目指す人種差別法案を次々に成立させて非白人に押し付けていった。なおこうした内容の人種差別法は先に述べたように国民党政権成立以前にも存在したが、両者の間にはその程度が違うだけでなく、質的にもある程度違っているという。すなわちブルーケスは次のように述べている。「1948年の人々は自分達の父親の偏見を合理化し、アパルトヘイトを道徳的原理だと言い始めたのである。種族保存の教義は、宗教上の教説的な色合いを濃くした。白人の人種的同一性を確保しておくのは、……道徳の至上命令となったのである。現代のアパルトヘイトは、このようにかつての分離や<隔離>以上のなにものかなのである」それでは以上の議論を踏まえてアパルトヘイト諸法を重点的に列挙してみたい。
 社会的側面における代表的なアパルトヘイト法は以下の通りである。
 雑婚禁止法(1949年)および背徳法……異人種間の婚姻と性的交渉を禁止。
 人口登録法(1950年)……人種別の住民登録。これによって白人、カラード、アフリカ人の区別を明確化した(同法成立以前は、膚の白いカラードなどは白人として扱われたりしていたが、以後一つの人種的範疇としてのカラードの存在が明確化された)。
 原住民パスの廃止および文書統一に関する法(通称パス法、1952年)……すべてのアフリカ人は、照合手帳をつねに携行することが義務づけられ、これによって全国的な規模でアフリカ人の移動を統制し、かつ白人都市へのアフリカ人の流入を規制した。
 集団地域法(1950年)および公共施設分離法(1953年)……都心からのカラード、インド人、そしてアフリカ人の排除、スポーツ、海水浴場、公衆トイレといった公共施設の人種別の使用など人種にもとづく社会的・物理的分離。
 アフリカ人教育に関するものとしてはバンツー教育修正法(1953年)があり、同法にもとづいてこれまでキリスト教伝道団によって行われていたアフリカ人の教育が廃止され、政府の政策に即したアフリカ人教育を実施するためにすべて公立化された。
 アフリカ人の地方行政についてはバンツー職権法(1951年)およびバンツー自治促進法(1959年)を挙げることができよう。両法は基本的にはアフリカ人保留地における伝統的なアフリカ首長の権限を強化して、政府の傀儡とするところにその目的があった。
 ところで南アあるいは少なくとも南アの大都市において日本人は、「名誉白人」の称号を与えられ白人並みの待遇を与えられていることは周知の通りである。しかしこうした日本人に対する処遇は決して法制化されたものではない。小田英郎教授によればこれは、1961年4月のヤン・デ・クラーク内務相の議会答弁のなかで集団地域法との関連においては日本人は白人の一員と見なされ、扱われると述べたことに由来しているが、「名誉白人」という言葉自体は、もともとジャーナリズム用語であって、正式のものではない、という。
 ところでアフリカ人と白人の分離であるアパルトヘイトを徹底するならば、その論理的な帰結として白人国家としての南アからアフリカ人を分離するところに行き着かざるを得ないであろう。そして事実、国民党政権は50年代末以降こうした方向へと向かっていった。すなわち白人政権は、アフリカ人の各部族(例えばズールー族、コーサ族など)ごとに10ケ所のバンツースタン(のちにホームランドと呼ばれる)という居住地を設定し、そして各地域ごとに自治権を与えて白人社会から分離しようとしたのである。これがいわゆる「分離発展政策」である。こうした政策は70年代に入るとさらに徹底され、ホームランドには独立が与えられることになり、かくして1976年にはトランスカイ、77年にはボプタツワナ、79年ヴェンダ、そして81年にはシスカイがそれぞれ南ア政府の手によって独立させられたのである。しかしホームランドは、面積も狭くまた地味に乏しいためアフリカ人全人口を徹底吸収できない状態にある。かくして余剰人口は隣接する白人国家、すなわち南アへ出稼ぎに行かざるを得ないのであり、他方南アはこれによってアフリカ人を低賃金労働力として確保することができるわけである。さらに南ア人口の圧倒的多数を占めるアフリカ人を外国人として切り離してしまえば、南アで第2位の人口を有する白人が統治権を独占しても少数支配という汚名を逃れることができる。これが国民党政権の主観的な理論であった。
 しかしながらアフリカ人を切り捨てようとするこうした政策を国際社会が容認するわけはなく、今日に至るまでホームランドの独立を承認した国は南ア以外には存在しない。また都市に居住するアフリカ人をいかに処遇するのか、これが白人当局にとって大きな問題となった。アフリカ人に白人の居住地域である都市への居住を認めることは、分離発展政策の本来の主旨からいえば矛盾を孕むものである。しかしながら低賃金労働力としてアフリカ人を確保するためには都市への居住を認めざるをえない。かくして国民党政権はこうした矛盾を解消するとともに、次第に高揚する国際的な非難と激昂するアフリカ人の反アパルトヘイト運動に対処するために、70年代後半以降アパルトヘイトの「改革」に着手したのであった。

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力による現状変更を意図しているのはアメリカでは

2023年06月07日 | 国際・政治

 先日の朝日新聞に、生成AIが追い風となって、半導体大手エヌビディア時価総額が30日、一時1兆ドル(約140兆円)を超えたとの記事がありました。そして、時価総額トップ10の企業が取り上げられていました。それによると
”①アップル(米)、②マイクロソフト(米)、③サウジアラコム(サウジアラビア)④アルファベット(米)、⑤アマゾン(米)、⑥エヌビディア(米)、⑦バークシャー・ハサウェイ(米)、➇メタ(米)、➈テスラ(米)、➉台湾積体電路製造(TSMC、台湾)”
 ということで、10社中8社が、アメリカの企業で、エヌビディアは6位に食い込んでいるのです。

 ベスト20をみても、⑫に、モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン(LVMH Moet Hennessy Louis Vuitton)、⑲に中国の騰訊控股(Tencent Holdings)、⑳に、韓国のサムスン・エレクトロニクス(Samsung Electronics)が入るだけで、その他はすべて、アメリカの企業です。

 なぜ、こんなことになっているのかということを考えることは、世界情勢を正しく認識するために必要なことではないかと思います。

 私は、その一つは、どこの国にもある資本家による労働者からの搾取だと思いますが、アメリカが、最も広く、世界中の労働者から、酷い搾取をしているからだろうと思います。
 もう一つは、覇権大国アメリカが、世界中に軍事基地を持ち、その軍事力や経済力を背景に、他国の政権や関係組織に隠然たる圧力をかけ、収奪しているからだろうと思います。それを実証するような文章が資料2です。すでに以前取り上げましたが、メキシコのサパティスタ民族解放軍総司令部が、クリントン大統領に宛てた告訴状ともいうべき「訴え」の文章です。
 
 独裁者を支援し、一体となって搾取収奪、また、軍事力行使を行使するようなことがなければ、アメリカの企業が、時価総額トップ10やトップ20の大部分を占める結果は、ありえないと思います。

 ところが、中国の急成長その他によって、世界情勢は明らかに変わりつつあるのだと思います。今のまま推移すると、数十年後には、上記のような企業の、時価総額の結果が得られることはなくなっているのではないかと思います。世界中で、アメリカ離れが急速に進んでいるからです。

 現在、非米・反米のBRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ共和国)や上海協力機構(SCO=Shanghai Cooperation Organization)が拡大する傾向にあるようです。
 現在のBRICSの国々は、すでに、それぞれ広大な領土や人口を誇る大国だと思いますが、そのBRICSに多くの国が加盟を希望しているのです。
 報道では、BRICSの首脳会議開催を前に、すでに、19カ国から加盟の申請が行われているといいます。先行きは不透明なようですが、その19カ国の中に、イランサウジアラビアアルゼンチンなどの資源大国が含まれていることは、見逃せません。

 もはや、いままでのようにアメリカを中心とするG7(米国、英国、フランス、ドイツ、日本、イタリア、カナダ、EU)の国々の思うようには、いかなくなりつつあるということです。そして、こうしたアメリカ離れの変化の背景に、私は、欧米による苛酷な搾取収奪、また、軍事力行使に苦しめられた過去に対する、それぞれの国の人たちの思いがあるのではないかと想像します。サパティスタ民族解放軍の言葉を借りれば、欧米の干渉は、”もうたくさんだ”ということです。
 世界の石油供給量の4割を握るOPECプラスが昨年10月、石油の協調減産を決めたのみならず、ウクライナ戦争を契機に、欧米日(G7)各国がエネルギー不足に直面しているとき、サウジアラビアなどが、さらに自主的減産を発表したりしたこともそうした流れを示していると思います。

 ところが、こうした国際情勢の変化を受け入れることができず、焦っているのは、アメリカだと思います。BRICS上海協力機構を主導する中国ロシアを弱体化しなければ、アメリカが覇権や利益を失うばかりでなく、現在のアメリカ社会の維持さえ難しいので、戦争に突き進んでいるのだと思います。だから、国際情勢の変化を見定め、危機を煽るメディアの報道に惑わされないようにしなければいけないと思います。
 アメリカの挑発がなければ、今、国際社会に対する影響力が拡大傾向にある中国が、わざわざ国際社会を敵にまわしてまで、台湾に軍事侵攻するわけはないと思います。また、台湾の人たちの多くも、現状維持を望んでおり、中国と争ってまで、独立すべきだとは思っていないことが、台湾の世論調査でわかっているのです。

 下記資料1は、「アフリカの21世紀 第3巻 アフリカの政治と国際関係」小田英郎編(勁草書房)からの抜萃ですが、搾取収奪、また、軍事力行使をくり返してきた欧米の歴史を踏まえて、現状を捉えることが重要ではないかと思います。
 あらゆる面で、世界を牽引してきた欧米日も、いまだに、アパルトヘイトを正当化したり、黙認したりしてきた過去を きちんと克服してはいないことがわかると思います。 
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       第四章 人種主義からの解放
                             ── 南アフリカ共和国とナミビア

     Ⅰ 南アフリカ共和国のアパルトヘイトと反アパルトヘイト運動の展開

  1 白人支配・人種主義の歴史的背景
 現在南アの領土となっている地域に対するヨーロッパ人の進出は、はるか17世紀の半ばまで遡ることができる。現在のケープタウンへやってきた最初のヨーロッパ人(オランダ人)は、インドへの通商ルートの中継地を確保することをその目的としていたが、その後彼ら(現在ボーア人ないしはアフリカーナーと呼ばれている人々の祖先たち)は、次第に内陸部に向ってその入植地を拡大していった。その後同地域、すなわちケープ植民地の宗主権は、いわゆるナポレオン戦争(1793─1815年)を契機としてオランダからイギリスへと移行したが、イギリスの統治はアフリカーナーのなかに大きな不満を生みだすことになった。というのもイギリスが、財政上の理由から入植地の拡大に消極的であり、また奴隷廃止という当時の国際世論を背景として非白人に対する保護政策を打ち出したためであった。このため土地不足と労働力不足に悩むアフリカーナーたちは、19世紀前半(1837年)にケープ植民地におけるイギリスの統治を離れ新天地を求めて内陸部へと大移動を開始したが、これが今日に至るまでアフリカーナーにとっては歴史的なモニュメントとなっているいわゆるグレート・トレック(内陸大移動)である。当時アフリカーナーが置かれていた心理的・物理的状況は、グレート・トレックの初代指導者であったP・レティーフの起草した「フォルトレッカーズ宣言書」に端的に示されている。すなわち「我々は、不正な浮浪者(アフリカ人──引用者)によってかきまわされたこの国に失望している。奴隷解放やカフィア戦争(1877─78年にかけて現在の南ア南部沿岸地域で発生したアフリカーナーとアフリカ人のあいだの武力衝突──著者)による損失、宣教師の偏狭かつ不公平な態度、主人と召し使いのあいだの秩序の破壊等に対して心から不満を抱くものである。我々は、平和な国を求めてこの国を立ち去ることを言明する。我々は、イギリス当局が我々に対してこれ以上何も要求せず、将来もまた何ら干渉することなく、我々に自治を認めるであろうことを確信してこの国を去るものである」。そして彼らは、アフリカ人と衝突しイギリス当局の干渉にあいながらも最終的にトランスヴァール共和国(1852年)、そしてオレンジ自由国(1854年)という二つのアフリカーナーの国家を樹立したのであった。
 19世紀の後半に入りアフリカに対するヨーロッパ列強の植民地主義的進出が始まると、南部アフリカにおいてもイギリス政府はこれまでの財政緊縮から領土拡張へとその政策を転換した。そしてこうした政策転換に拍車をかけたのが、現在の南アの経済的繁栄への基礎となったダイヤモンドが1867年にキンバリー、そして金鉱が同86年にヨハネスブルグというアフリカーナーの居住地域において相次いで発見されたことであり、これはイギリスの帝国主義的野心をさらに刺激することになった。かくして1899年から1902年にかけてイギリスと二つのアフリカーナー国家のあいだでいわゆるボーア戦争が発生した。同戦争はイギリス側の勝利に終わり、その後、アフリカーナーの居住地域(すなわちかつてのトランスバール共和国とオレンジ自由国)とイギリス植民地(すなわちケープ植民地とナタール植民地)の統合に向けてイギリス・アフリカーナー両者のあいだで討議が行われ、その結果、1910年に四つの州からなる南フリカ連邦が成立したのである。
 以上のようにアフリカーナーたちは、新天地を求めてバンツー系アフリカ人との激しい衝突を繰り返しながら内陸部へと進出して自分達の国家を築き、またボーア戦争において約26000人の非戦闘員(婦女子)たちをイギリス側の強制収容所において失うという犠牲を払いながらも自分達の主体性を堅持しようとした。そしてこうした彼らの精神的支柱となったのが、彼らアフリカーナーの信奉するオランダ改革派教会の次のような教義である。すなわちアフリカーナーは神に選ばれたるものであり、異教徒の有色人種は彼らに対し、あるいは彼らの所有する土地に対して何ら自然権を持たない。すべての人間は神に救われるものと救われざるものに分かれ、異教徒の有色人種は生れつきアフリカーナーの下僕となることが運命づけられている、というものであった。こうした彼らの建国意識、あるいはアフリカーナー・ナショナリズムとも呼ぶべき彼らの歪んだ主体性の主張というものが、非白人を犠牲にして築き上げた自分達の特権的な地位の喪失という危機意識と相俟って、現在、保守党を中心とする白人右派ないしは極右勢力の拡大を助長していると見てよいであろう。


 人種社会の形成
 連邦結成後、南アは人種差別社会の形成に向って急速に動きはじめた。そこで以下重点的に初期の人種差別法について見てみたい。非白人の参政権についてみると、すでにかつての二つのアフリカーナー共和国では彼らの参政権は全く認められていなかったが、これに加えて連邦会議においても非白人の代表権は否定された。さらに1853年以来人種に係わりのない制限選挙権が導入され、英語の読み書き能力を身に付け、一定の財産を所有する非白人には参政権が認められていたケープ州およびナタール州においても、1936年「原住民代表法」によってアフリカ人の、そして46年には「インド人代表法」によってインド人の参政権が剥奪された。
 他方、こうした政治面における人種差別制度の形成と並行して、経済・社会面における人種差別も逐次実施されていった。すなわち1913年には全人口の約70%を占めるアフリカ人に対して全国土の約9%の原住民保留地を定め、この地域以外に土地を取得することを禁じた「原住民土地法」が制定された。この結果、アフリカ人は原住民保留地に家族を残し、白人地域へ出稼ぎ労働者として働きに出ていかねばならなくなった。というのも原住民指定地は面積が狭いうえに降水量が少なくさらに地味も乏しいために農業生産性が低く、人口増加率の高いアフリカ人人口を支えるためには極めて不十分であったためである。アフリカ人の労働条件に関する人種差別法としては、1911年には「鉱山・労働法」が制定されて、熟練工への道がアフリカ人に閉ざされ、さらに同24年には「産業調停法」そしてその翌年には「賃金法」がそれぞれ成立している。「産業調停法」は、労働組合と雇い主組合の登録を義務づけるとともに労使間の紛争を調停し、労働条件を明確化することを定めたものであり、他方「賃金法」は、いわゆる未組織労働者のために政府が最低賃金と労働条件の改善を図る、というものである。ただし「産業調停法」および「賃金法」は、あくまでも白人労働者の雇用確保と労働条件の向上を目指したものであって、アフリカ人労働者は両法の枠外に置かれたのであった。
 以上のような人種差別法に代表される諸法の意図は次の二点に要約される。すなわち第一点は、「原住民土地法」によって生産性の高い土地を白人農園主のために確保する一方、アフリカ人には生産性の低い荒れ地を割り当てることによって出稼ぎの労働を余儀なくさせる。他方「鉱山・労働法」、「産業調停法」および「賃金法」などによってアフリカ人を低賃金労働力として固定する。そしてさらにアフリカ人に対する参政権を否定することによって、彼らの不満を合法的に政府の政策に反映させる道を閉ざす、ということである。第二点は、白人労働者とりわけ白人貧困層(いわゆるプアー・ホワイト)の保護である。周知のように、南アの物質的な繁栄は金鉱に依存していた。しかし急激な発展を遂げつつあった南アにおいても、この物質的な繁栄によって生み出された富は不平等に分配されたためアフリカ人は言うに及ばず、白人全体としての急激な生活水準の向上も実現されなかった。
したがって初期の人種差別法は、こうした物質的繁栄の恩恵を受けなかった白人貧困層救済のための手段でもあったのである。このことは1924年の総選挙において、連合協定を結んだアフリカーナー─国民党と労働党が圧勝したことに端的に示されている。というのも両党は、白人労働者の保護を全面に押し出して白人労働者と白人農民の票を獲得したからである。そしてアフリカーナー国民党の党首が、アパルトヘイトの創始者の一人と言われるヘルツォークであった。
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
アメリカ合衆国大統領ビル・クリントン氏宛
アメリカ合衆国議会宛
北アメリカ合衆国人民宛
                   ★ 
 われわれが本状を認(シタタ)めるのは、メヒコ(メキシコ)連邦政府が北アメリカ合衆国人民および政府から受け取った経済的・軍事的な援助を、チアパス州の先住民を虐殺するために使っていることを告発するためです。
 北アメリカ合衆国議会ならびに人民は、この軍事的・経済的援助を、麻薬商人と戦うために提供したのか、それともメヒコ南東部で先住民を虐殺するために提供したのか、われわれは問うものです。軍隊、航空機、ヘリコプター、レーダー、通信機器、武器、その他の軍事物資は、現在、麻薬商人や麻薬マフィアを追跡するためにではなく、わが国の南東部で、メヒコ人民とチアパス先住民の正義の戦いを弾圧するために、また、罪も無い男、女、子どもたちを殺害するために使われているのです。
 われわれは、外国の政府、個人、組織などからはいっさいの援助を受けていません。麻薬商人との関係もないし、内外のテロリズムともなんの関係もありません。われわれが組織できているのは、われわれが無一物であり、多くの問題を抱えているからです。長年に及ぶペテンと死はもうたくさんなのです。尊厳ある生のために戦うことは、われわれの権利です。われわれは常に民間人を尊重し、戦争に関する国際法に基づいて行動しています。
 北アメリカ人民および政府は、メヒコ連邦政府に対して援助を供与することによって、自らの手を先住民の血で汚しているのです。われわれが求めているのは、世界中の全ての人民が求めているものと同じく、真の自由と民主主義です。この希望のためなら、われわれは自らの生命を賭する用意さえできています。あなたがたがメヒコ政府の共犯者となって、その手をわれわれの血で汚すことのないよう希望するものです。
                                                                             メヒコ南東部の山中より  

先住民革命地下委員会=サパティスタ民族解放軍総司令部                                                                メヒコ、1994年1月

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西側諸国の中・ロ敵視は、多様性の否定

2023年06月01日 | 国際・政治

 南アフリカ共和国の第8代大統領ネルソン・マンデラは、反アパルトヘイト運動を進めたために1964年に国家反逆罪で終身刑の判決を受け、27年間獄中にありました。その彼の自伝に考えさせられる文章がいろいろ出てきます。
 そのひとつが、”南アフリカでアフリカ人であるということは、自覚のあるなしにかかわらず、生まれた瞬間から政治に関わっていることを意味する”という文章です。
 当時の南アフリカは、そういう酷い状況であったということであり、そのために、”何百もの侮蔑、何百もの屈辱、何百もの記憶に残らないできごとが絶え間なく積み重ねられて怒りが、反抗心が 同胞を閉じ込めている制度と闘おうという情熱が、自分のなかに育ってきた”と書いています。だから、”今この瞬間から、同胞を解放する運動にこの身をささげます、と、ある日突然、宣言したわけではない”というのです。特別意図することなく、気がついたら、解放運動に関わっていたということです。それが、”生まれた瞬間から政治に関わっていることを意味する”ということなのだと思います。

 でも、当時の南アフリカの白人支配者は、きわめて自然な、そうした侮蔑や屈辱に対する黒人の意識や思いを少しも受け止めず、解放運動の指導者を国家反逆罪に問うて、暴力的に解放運動を弾圧し、抑圧したのです。
 また、国連におけるアパルトヘイト犯罪条約採択経済制裁に反対したのが、当時のイギリスのサッチャー首相や、アメリカのレーガン大統領であったこと、さらに、日本や欧米諸国が、”アパルトヘイトが人道に対する犯罪であり、国際法の諸原則、特に国連憲章に反し、国際の平和と安全に対する重大な脅威である”としたアパルトヘイト犯罪条約に加わわらなかったことは、当時の南アフリカの白人支配者とあまり変わらない考え方をしていたということではないかと思います。

 そして私は、ウクライナ戦争には、それと似た構図があるのではないかと思います。
 しばらく前、日本で、G7の会合がありました。G7は、基本的に、かつてアフリカやアジアや中南米などの国々を植民地下においた国々であると思います。現在、G7の国々は、かつてのように政治的な権力を行使し、あからさまな植民地支配はしていませんが、それは、現実的な支配・従属関係を終わらせたということではないと思います。
 すなわち、現在なお、アメリカを中心とするG7が主導する世界に、いかなる国であれ、逆らうことが許されない状況にあるといってもよいのではないかと思います。
 そういう意味で、アメリカの方針に従わないロシアや中国は、G7の国々から敵視され、さまざまな経済制裁を受け、また、軍事的圧力をかけられて、マンデラのように、国家反逆罪に問われているような立場にあると思います。

 国連憲章の第33条には、下記のようにあります。
いかなる紛争でもその継続が国際の平和及び安全の維持を危くする虞のあるものについては、その当事者は、まず第一に、交渉、審査、仲介、調停、仲裁裁判、司法的解決、地域的機関又は地域的取極の利用その他当事者が選ぶ平和的手段による解決を求めなければならない。

 でも、アメリカを中心とするG7の国々は、国家間に問題があっても、それを平和的に解決するための努力をしてきたとは思えません。
 ウクライナ戦争では、ロシアが、ウクライナとの国境地帯に軍を集結させているのがわかっていたのに、G7の国々は、平和的解決に動きませんでした。ウクライナのゼレンスキー大統領も、国際社会に、プーチン大統領を説得するように求めることはありませんでした。そして、今なおアメリカは、停戦のための努力はしていないと思います。
 主要紙に、ウクライナ戦争の記事を書いたり、報道番組でウクライナ戦争の解説に出てきたりしている識者がいうように、もし、ロシア軍のウクライナ侵攻が、ウクライナの領土に対する独裁者プーチンの野望に基づくものであるというのであれば、プーチン大統領に話合いを呼びかけ、また、ロシアのあらゆる機関、あらゆる組織、あらゆる団体や個人に、プーチンの野望を乗り越えるように働きかけるのが、平和的な問題解決だろうと思います。
 でも、現実にはまったく逆に、ロシアの選手をオリンピックから排除したのみならず、あらゆる機関、あらゆる組織、あらゆる団体から、ロシアを排除するよう働きかけました。
 そして、ロシアに対して経済制裁を課すよう呼びかけ、ウクライナに対する武器の供与や難民支援、その他の支援を呼びかけたと思います。

 プーチン大統領は、ロシアの選手がオリンピックから排除されたとき、なぜ、アスリートを政治に巻き込むのか、と苦情を語りましたが、私は、それが正論だと思います。
 国家間の紛争や問題を、平和的に解決し、相互理解を深めるためには、あらゆる機関、あらゆる組織、あらゆる団体や個人の交流こそが重要で、決して排除してはならない、と思うのです。

 だから、私は、アメリカが、ロシアを孤立化させ、弱体化させるために、ウクライナ戦争を画策したのだと思っています。戦争を欲したのはアメリカだと思っているのです。 
 それは、平和的に問題を解決すると、アメリカの覇権や利益が維持できないからだ、と私は思います。アメリカにとっては、ロシアがパイプラインの利用などによって、ヨーロッパ諸国に対する影響力を拡大することが、受け入れられなかったのだと思います。また、中国が、さまざまな国々と関係を深め、発展しつつあることも受け入れることができないのだと思います。

 現在、中国が、国際社会から見放されることがわかっているのに、あえて台湾に軍事侵攻することはない、と私は思います。だから、中国の台湾に対する軍事侵攻は、アメリカが、中国を孤立化させ、弱体化させるために、何とかして実現させようと画策しているのだと思います。 
 
 下記は、「自由への長い道(LOMG WALK TO FREEDOM)」ネルソン・マンデラ(NHK出版)から「第3章 自由の戦士の誕生」の「ANC青年同盟」の一部を抜萃しました。
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                     第3章 自由の戦士の誕生

 ANC青年同盟
 政治に携わるようになったのがいつのことなのか、解放闘争に一生を費やすという意識がいつ芽ばえたのか、正確に言うことはできない。南アフリカでアフリカ人であるということは、自覚のあるなしにかかわらず、生まれた瞬間から政治に関わっていることを意味する。アフリカ人の子どもは、アフリカ人専用病院で生れ、アフリカ人専用バスで自宅へ連れ帰られ、アフリカ人専用地域で育ち、もし学校に行くとすればアフリカ人専用学校に通う。
 子どもが成人すると、アフリカ人専用の仕事に就くことができ、アフリカ人専用居住区に家を借りることができ、アフリカ人専用の汽車に乗ることができる。そして、昼夜関係なく呼び止められて、パスを見せるように命じられ、命令にそむけば逮捕されて、刑務所に入れられる。アフリカ人の人生は、成長をむしばみ、可能性をせばめ、生活を妨げる差別的な法律や規則でがんじがらめになっている。それが現実であり、その現実への対処のしかたは無数にあった。
 わたしの場合は、救世主の降臨もなく、これといった天の啓示もなく、悟りの瞬間というものもなかったが、何百もの侮蔑、何百もの屈辱、何百もの記憶に残らないできごとが絶え間なく積み重ねられて怒りが、反抗心が 同胞を閉じ込めている制度と闘おうという情熱が、自分のなかに育ってきた。今この瞬間から、同胞を解放する運動にこの身をささげます、と、ある日突然、宣言したわけではない。気がついてみると解放運動に関わっていて、それ以外の道はもう進めなかったのだ。
 影響を受けたおおぜいの人たちの名をあげてきたが、なかでも、ウォルター・シスルの賢明な指導を受ける機会はますます多くなっていった。シスルは意志が強く、道理をわきまえ、実際的で、なおかつ献身的な人物だった。危機のさなかにもけっして冷静さを失わず、ほかの者たちが声高に叫んでいるときでも、ひとり黙っていることがよくあった。ANC(アフリカ民族会議)は南アフリカに変化をもたらすための手段であり、黒人の希望と野心の集積所であると、シスルは信じていた。組織に属する人間を見れば、その組織のよしあしをある程度判定できるものだが、シスルの属している組織ならば、わたしは誇りを持って参加する気になれた。当時は、選択肢も限られていた。そのなかで、ANCは、あらゆる人びとに門戸を開いた組織であり、すべてのアフリカ人が身を寄せることのできる大きな傘を自認していた。
 1940年代は、変化の時代だった。ローズヴェルトとチャーチルが署名した1941年の大西洋憲章は、個々の人間の尊厳を重んじることをあらためて確認し、民主主義の多くの原則を看板に掲げた。西欧には、この憲章をそらぞらしい約束と見る者もいたが、わたしたちアフリカ人はそうではなかった。この大西洋憲章と、暴政と抑圧に対する連合国の戦いとに触発されて、ANCは、”アフリカの要求”という自前の憲章を作り、すべてのアフリカ人のための、完全な市民権を確立、不動産取得の自由、あらゆる差別的法令の撤廃を訴えた。ヨーロッパで連合国が勝ち取ろうとしている大義は、われわれが国内でめざしている大義と同じものだということを、南アフリカ政府に、そして一般国民にもわかってもらいたかったのだ。

 オーランドにあるシスルの家は、活動家やANCのメンバーのたまり場になっていた。温かく居心地のよいその家を、わたしはひんぱんに訪れて、政治的な議論を戦わせたり、シスル夫人の手料理をごちそうになったりした。1943年のある晩、文学修士と法学博士号を持つアントン・レンベデと、A・P・ムダに会った。レンベデが話すのを聞いていたその瞬間に、わたしは、考えかたの独創性と斬新さに打たれ、人格の磁力に引かれた。南アフリカ全土に一握りしかいないアフリカ人弁護士のひとりだったレンベデは、ANC創設者のひとりである大御所ビクスリー・カ・セメ博士と共同で法律事務所を経営していた。
 
 アフリカは黒人の大陸であり、アフリカ人は、本来自分たちのものである土地や権利を取りもどすために声をあげるべきだ、というのがレンベデの主張だった。レンベデは黒人の劣等意識をきらい、西欧や西欧の思想に対する崇拝と偶像化の傾向を手きびしく批判した。劣等意識こそは、解放への最大の障害だと断言した。マーカス・ガーヴェイ、W・E・B・ドゥボイス、ハイレ・セラシエ(訳注:3人とも黒人の地位向上運動を国際的な広がりのなかで展開した人物。カーヴェイはブラック・ナショナリズムの父、ドゥボイスはパンアフリカ主義の父、セラシエ皇帝はアフリカ統一機構OAUの設立に尽力)などのアフリカの英雄を例にあげて、アフリカ人は、機会さえあれば白人と同等の能力を発揮できるのだと指摘した。「私の肌の色は、母なる黒い大地のように美しい」と、レンベデは言った。黒人が首尾よく大衆行動を起せるようになるには、自己のイメージを改善しなければならないと考えていた。自主独立と民族自決を説き、その思想をアフリカニズムと名づけた。わたしたちは当然のように、いずれレンベデがANCを率いることになるだろうと思っていた。
 レンベデは、人々の間に新しい気運が高まりつつあり、種族間の壁もしだいに薄くなって、若い男女は自分たちをコーサでもンデベレでもツワナでもなく、何よりまずアフリカ人だと考え始めている、と力説した。ナタール州の無学なズールー族農民の子どもであるレンベデは、アメリカ系のアダムズ・カレッジに学んで、教員の資格を得た。オレンジ州で何年か教員をしながら、アフリカーンス語を習得し、アフリカーナー民族主義をアフリカ民族主義の原型と見るようになった。
 レンベデはのちに、ナタール州のアフリカ人向け新聞『インクランド・ヤ・バンツー』にこう書いている。

 現代の歴史は、民族主義の歴史である。人民闘争や戦火の試練をくぐり抜けた民族主義は、外国による支配や現代帝国主義に対する唯一の解毒剤としての地位を確立した。それゆえに、巨大な帝国主義勢力は、被支配者のあいだに見られる民族主義的傾向を抑えつけ、かつ根絶することに全力を傾けている。そして、この目的のために、莫大な金額を投じて、民族主義が”偏狭”で”野蛮”で”非文化的”で”呪わしい”ものだという宣伝工作をくり広げてきた。被支配者のなかには、この邪悪な宣伝を信じ込まされ、あげくは帝国主義の手先や道具になって、大いに貢献させられる者もいる。その人々は、”文化的”で”リベラル”で”進歩的”で”偏見がない”と、帝国主義者たちの賛辞を浴びることになるのである。

 レンベデのこの考えは、わたしの胸に突き刺さった。わたしのなかにも、英国植民地の温情に牙を抜かれ、白人たちから”文化的”で、”進歩的”で”洗練されている”とほめられてうれしがるような部分があったからだ。わたしはすでに、”英国支配者の意に添う黒人エリートになるための道を歩んでいた。摂政からサイデルスキー氏に至るまで、周りじゅうがそれを期待していた。しかし、それは幻想だった。レンベデのように、わたしも、戦闘的なアフリカニズムを解毒剤と見るようになってきた。
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