真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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創氏改名に抗議の自殺-柳健永-抗議文と遺書

2010年06月10日 | 国際・政治
 下記は、柳健永(ユコニョン)が朝鮮民事令改正(創氏改名)に抗議し、朝鮮総督府に送りつけた抗議文と、毒を仰いで自決した際の「遺書」である。柳健永の男系血統継承を絶対視する考え方に異論がないわけではないが、この抗議文と遺書を読むと、朝鮮における日本の創氏改名政策が、朝鮮人の名前を日本式の名前に変えるというだけの単なる改姓・改名の問題ではなく、朝鮮の家族制度や親族構造を揺るがす大問題であったことがよく分かる。「創氏改名の法制度と歴史」金英達著作集(明石書店)からの抜粋である。
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3 柳健永(号 石田)の抗議文、遺書

柳健永(ユ・コニョン)の略歴
 1883年4月12日生まれ~1940年7月24日死(旧暦と思われる)。
 号、石田(ソクチョン)。出身全羅南道谷城郡梧谷面梧枝里369番地
 崔益鉉と奇宇萬の門下で修学。崔益鉉が義挙した義兵闘争に参加。
 義兵闘争に敗れ、韓国が併合された後は、故郷で青年子弟を教育。
 1940年、創氏改名に反対し、総督府、経学院(成均館)、中枢院に抗議書を送
 り、毒を仰いで自決(1940年7月24日)
 1977年に韓国政府より建国褒章を追叙される。


柳健永『石田遺稿』(死後の1942年に門弟らによって編まれた遺文集)

「総督府に抵す」

 己卯(1939年)12月9日、朝鮮遺民たる柳健永は謹んで総督府閣下に書をもって是非を糺す。あゝ国は亡ぶとも綱常(三綱五常。三綱=君臣・父子・夫婦の道。五常=仁・義・礼・知・信。)は一日たりと亡ぶべからざるなり。綱常が亡べば、人類は化して禽獣となる。他に何ぞ道あるべからんや。近く、三事(同姓同本婚、異姓養子・婿養子、創氏滅姓)の挙があるといふ。天地に未だあらざりし大変なり。何となれば、同姓同本にして婚するは、則ち夫婦の別が乱る。異姓養子・婿養子するは、則ち父子の親が絶ゆ。氏を創りて姓を滅するは、則ち承先報本の義(祖先を継承して本に報ゆるの義)が亡ぶ。3件(同姓同本婚、異姓養子・婿養子、創氏滅姓)の事を断行すれば、則ち人倫が永久に絶えん。孟子に曰く、人の禽獣と異なる所以は其の人倫を有するを以てす、と。人倫が永久に絶えれば、其の禽獣たらざるを望むこと得らるるや。且つ古より、人なるを奪はるるの国、人たるを絶ゆるの世が、或いはかつてこれ有らんや。滅人の道、絶人の倫に至りて、生霊を禽獣の圏へ駆りたるは、未だこれ聞かざるなり。近く新聞紙上に所載せる此報の記事を見ることを得。甚だ悉く是何をか挙げ措かんや。健永は草野の書生なり。国が亡びて後、含冤の痛みを忍び、苦しみ憂えて田舎に伏し、世事を聞くを欲せず。而して忽ち此報を見ゆ。痛恨に勝へず、閣下が一思されるよう敢えて一言を陳ぶるなり。
 

「遺書」

 あゝ柳健永は千年の古族なり。無才無命にしてもなお倫理中の人なり。国亡びて(日本による韓国併合)死ぬこと能はず、君害されて(国王が廃位されて)死ぬこと能はず、なお身を無一命の霑に委ねる(天命にまかせる)。而して寧ち跡を託して(後人に委せて)漁樵し、なお庶民の事を茲に作す(名利をはなれて民間に暮らす)。30年?さるる(断髪令から30年もたって)我が人民は我が倫綱を嫌ふにいたりたり。日に聞くに忍ばざるを聞き、日に見るに忍ばざるを見る。これを忍び、又忍ぶ。こひねがわくば、我が父母から生まれたままの身を保ち、我が天地が均しく与えてくれた性を定め、ただ溘然と之かん(ぽっくりと死んでいく)ことを。是を待ちて今日に至る。我が血伝の氏姓を永滅すは、則ち同租麀を聚にする(親子の道徳が乱れる)次第の事なり。国を滅して姓を易へること、いずれの代もこれ無し。なんぞそもそも五千年文明の民族が、かくなる禽獣を用ひて人類を変えるかつてない大変に遭ふかな。あゝ、無国無君無倫無綱の夷として獣して生きるより、むしろ一枕大寐を以て(永遠の眠りについて)古貌古心に帰し〔まっすぐで素朴な古人のような身と心になり)、吾が先王先祖に地下にて見ゆるも亦快ならずや。茲に叫す。天に逋ぶこと非ずして(天の意志に応えることもなく)毒を仰ぎ死に就す。庚辰〔1940年)7月24日なり。
 


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創氏改名-熾烈なる要望?

2010年06月06日 | 国際・政治
 麻生太郎元総理が、総理になる前「創氏改名は、朝鮮の人たちが『名字をくれ』と言ったのが始まりだ」というようなことを言って、批判を浴びたことがあった。戦後、いろいろな人たちによって、同じような発言が繰り返されてきている。しかしながら、それが事実に反することは、下記の抜粋からも明らかである。
 創氏改名は、単に名前を変えるだけではなく、「氏」の創設によって、男系血族集団を表す「姓」や一族の始祖発祥地名に関わる「本(本貫)」を基にし、夫婦別姓をとる朝鮮に、日本の家族制度を持ち込もうとしたものであり、朝鮮の親族構造や家族制度のあり方を変えようとする植民地政策であったという。
 また、「創氏改名は強制ではなかった」などという発言も繰り返されているが、期限までに「氏設定届」を出さなかった場合には、戸主の姓を自動的に「氏」にするという「法定創氏」によって法的問題に対処したことや、「学校・警察・行政機関・裁判所などを通して、様々なかたちの強制がなされた」という訴えを、無視することはできないと思う。「創氏改名」宮田節子・金英達・梁泰昊(明石書店)からの抜粋である。 
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第3章 創氏改名の実施過程
                                          宮田節子
 2月11日

 1940年2月11日から創氏改名の届出が実施された。輝ける皇紀2600年の紀元節に、天皇陛下の温かい思召しによって、朝鮮人も日本式氏を名のることが許されたという名文で。
 総督府の御用紙『京城日報』は、「けふぞ晴れの創氏の日」という見出しで、この日の様子を、次のように報じている。


 「いよいよ11日、けふ紀元の佳節は2300万半島同胞にとっては、皇国2600年の興隆を寿ぎ奉る佳き日であると同時に、待望してやまなかった”創氏の日”だ。既に手具脛ひいてけふを待ちかねてゐた人は、それぞれ熟慮勘考の末、心ぎめした新しい氏を天下晴れて名乗り出るのだ。─略─ この日は官庁が大祭で休みだが、この栄光の日を延ばしてなるかと全鮮府邑面事務所では、午前9時一斉に受付を開始することになった。京城府戸籍課では課内に『創氏相談所』を設けて、呉課長自ら所長となり、専任係書記3名がつき切りで、このうれしい相談相手になることになった」

 このように鳴物入りで宣伝し、紀元節の休日を返上して、全朝鮮の行政機関が、それこそ手具脛ひいて届出を待っていたにもかかわらず、この日の届出はわずか48件にすぎなかった。せっかくの休日を返上して待機していた府・邑・面の職員達はどれほど所在なかったことだろうか。

 創氏届出の趨勢

 2月11日の届出が象徴しているように、創氏改名は決して南総督が言明しているように、朝鮮人からの「熾烈なる要望」に応えて実施されたものではない。その事実は次の創氏届出の月別の統計が何よりも雄弁に物語ってくれるだろう。

(創氏戸数月別表略)

 以上の統計でもわかる通り、戸籍総数428万2754戸のうち、2月中に創氏を届出した戸数は、わずかに1万5746戸、全体の0.36%にすぎない。3月も届出戸数は4万5833戸で1.07%である。届出期間(2月11日から8月10日まで)6ヶ月の半分にあたる5月20日に至っても、届出総戸数は32万6105戸で、総戸数のわずか7.6%という惨憺たる状況であった。

 これではいかに総督府が、内外にむかって、創氏改名は「一視同仁ノ御聖旨ニ基キ内鮮一体ノ理想ヲ具現シタルモノトシテ、頗ル好評ヲ以テ迎ヘラレ、各新聞ハ一斉ニ之ニ関スル記事ヲ掲ゲ、総督府今回ノ改正ハ半島志願兵制度ノ設置、朝鮮教育令ノ改正ト共ニ内鮮一如ノ精神ヲ実現シタルモノ」(大野文書、「第75議会擬問擬答」)だと自画自賛しても、不評の事実をおおいかくすことは出来ない。そこで総督府は自らの威信をかけ、親日知識人を徹底的に利用し、法律の若干の手直しを行い、さらに当時はほとんどすべての朝鮮人を組織していた国民精神総動員朝鮮連盟を通して、強制の度を強め、ついに後半の3ヶ月で実に約300万戸を創氏させ、全体で創氏戸数は320万116戸、創氏率79.3%を達成するに至ったのである。
 ・・・(以下略) 
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第4章 「創氏改名」の思想的背景
                                           梁泰昊
 両班(ヤンバン)と族譜

 理由は何であれ法の施行からわずか6ヶ月という短い期間に、全世帯の8割が新しい創氏名を届け出したとは驚くべき行政効果と言わざるを得ない。もとよりそれが尋常な手段で達成できるはずもなく、そこには激しい弾圧と強制が働いていた。たとえばそれは、次のようなものであった。(文定昌『軍国日本朝鮮強占36年・下』)。


 ① 創氏(ここでは日本式の氏を設定することをさしている。以下同じ、筆者)をし
   ない者の子女に対しては各級学校へ入学、進学を拒否する。
 ② 創氏をしない児童は日本人教師が理由なく叱責、殴打するなどして児童の
   哀訴によってその父母が創氏するようしむける。
 ③ 創氏をしない者は公私を問わず総督府の機関に一切採用しない。また現職
   者も漸次免職措置をとる。
 ④ 創氏をしない者に対しては行政機関にかかるすべての事務を一切採用しな
   い。  
 ⑤ 創氏をしない者は非国民もしくは不逞鮮人と断定して、警察手帳に登録し査
   察、尾行を徹底すると同時に、優先的に労務徴用の対象者にする。あるいは
   食料その他物資の配給対象から除外する。
 ⑥ 創氏しない朝鮮人の名札がついている荷物は鉄道局や丸星運送店(日本通
   運のことか?筆者)が取り扱わない。


 創氏改名が朝鮮への植民地支配の中でも際立って「暴政」であったことを象徴するできごととして、「柳健永、薜鎮永のように自ら生命を断ち、あるいは文昌洙のように法廷闘争のすえ獄につながれるという深刻な個人的抵抗も行われ」たことが伝えられている(渡部学『朝鮮近代史』)。

 柳健永の遺書には、次のように書かれていた。「悲しい。柳健永は千年古族である─。とうに国が滅びるとき死ぬこともできず、30年間の恥辱を受けてきたが、彼らの道理にはずれ人の道に背く行いは、聞くに耐えず見るに忍びず──いまや血族の姓まで奪おうとする。同姓同本が互いに通婚し、異姓を養子に迎えて婿養子が自分の姓を捨てその家の姓を名乗るとは、これは、禽獣の道を5000年の文化民族に強要するものだ。──柳健永は、獣となって生きるよりはむしろ潔い死を選ぶ」(文定昌、前掲書)。ここにおいて柳が、名前を変えることそのものより、家制度の導入に抗議していることは明らかであろう。自分は伝統ある立派な血筋なのに、他姓の血が混じる恐れが出てきたと嘆いているのである。
・・・(以下略)

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天皇の軍隊の約束’軍人恩給’と自衛戦争論

2010年06月01日 | 国際・政治
 日本政府の戦後補償と援護行政をふり返ると、旧軍人・軍属(戦争加害者)およびその遺族を厚遇し続けてきたことが分かる。例えば、原告が日本国籍以外の69の戦後補償請求裁判や日本の民間人戦争被害者補償請求裁判の判決は大部分「棄却」であるが、講和条約締結後の国会では、戦傷病者戦没者遺族等援護法や恩給法改正法(軍人恩給の復活)をはじめ、旧軍人・軍属・戦没者遺族に対する経済的援護法案が、次々に承認された。その結果、旧軍人・軍属および戦没者遺族に対する援護費用は、すでにその総額が50兆円を超えているといわれている。アジアを中心とする多くの戦争被害者や日本の民間人戦争被害者を置き去りにしたまま、戦争加害者ともいうべき旧軍人・軍属とその遺族に、いたれりつくせりの手厚い援護が続けられてきたということなのである。そうした援護の考え方の根底には日本遺族会の細川発言に対する下記抗議声明にみられるような戦争観「自衛戦争論」があると思われるので、関係する部分を『「戦争の記憶」その隠蔽の構造』田中伸尚(緑風出版)から抜粋する。
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3 軍人恩給の復活

 復活した「天皇の軍隊」の「約束」

 橋本龍伍氏が厚相時代にてがけて制定された旧軍人優先の遺族等援護法は、その後の援護施策を方向づける重要な施策になった。遺族等援護法は強制的に兵として徴集された人びとだけでなく、職業軍人の死傷者とその遺族をも対象にしていた。つまり同法の本当の狙いは、吉武厚相が答弁しているようにアジア諸国の民衆や日本の民間人に戦争の災害をもたらした責任の重い軍人、とりわけ職業軍人への恩給復活のための突破口として用意されたのであった。すでに遺族等援護法が成立する1ヶ月前の3月25日、恩給法特例審議会設置法が成立し、軍人恩給復活のための準備が始まっていた。


 軍人恩給の復活には、日本遺族厚生連盟も組織を上げて運動した。軍人恩給は「天皇の軍隊」の軍人の階級に基づき、勤続による年金制を採り、生きても死んでも生活を保障するという「約束」によって民衆を戦争へと動員するシステムとして機能した。したがって、軍人恩給の復活は、旧体制下の「天皇の軍隊」の「約束」を実行することであった。ここでは、詳しい経過を省くが、軍人恩給は敗戦から丸8年1953年8月1日恩給法改正の公布によって復活した。こうして「天皇の軍隊」への恩給を停止させた「勅令第68号」はようやく失効した。(この勅令は、占領の終息と同時に失効するが、直ちに軍人恩給復活ができなかったために、政府は53年7月まで同勅令が有効との措置を執った)。軍人恩給の復活によって、遺族等援護法が援護の対象にしていた旧軍人・軍属やその遺族の大部分が恩給法の対象に移った。

 旧軍人・軍属やその遺族そして戦傷病者らへの国家の経済的援護は、恩給法と遺族等援護法を中心に進められ、それは毎年のように増額されていった。だが、遺族らへの経済的処遇はこれだけではなかった。たとえば「特別給付金」や「特別弔慰金」を支給する新法が60年代にぞくぞく整備され、戦没者の妻、父母、兄弟などへ拡げられかつアップされていった。以下でこれら一連の援護法が提案された際の政府側の説明をみよう。

 「戦没者等の妻であった方々につきましては、一心同体ともいうべき夫を失ったという大きな心の痛手を受けつつ今日に至ったという特別の事情があると考えられます。したがいまして、この際、このような戦没者等の妻の精神的痛苦に対しまして、国としても、何らかの形において慰藉することが必要であるものと考え、これらの方々に特別給付金を支給することといたします」(戦没者の妻への特別給付金支 給法案。第43国会。1963年3月制定)

 「戦傷病者等の妻につきましては、戦傷病者と一心同体ともいうべき立場において、久しきにわたり、夫の日常生活上の介助及び看護、家庭の維持のための大きな負担に耐えつつ今日に至ったという特別の事情があると考えられます。したがいまして、この際、このような戦傷病者等の妻の精神的痛苦に対しまして、国としても、何らかの形において慰藉することが必要であるものと考え、これらの方々に特別給付金を支給することといたします」(戦傷病者等の妻に対する特別給付金支給法案第51国会。1966年7月)

 この大戦により、すべての子又は最後に残された子を亡くされた戦没者の父母並びにこれらの父母と同様の立場にある孫を亡くされた祖父母については、その最愛の子や孫を国に捧げ、しかもそのために子孫が絶えたといういいしれぬ寂寥感と戦って生きてこなければならなかったという特別の事情があるものと考えられます。したがって、この際、このような戦没者の父母及び祖父母の精神的痛苦に対して、国として、何らかの形において慰藉する必要があるものと考え、これらの方々に特別給付金を支給する」(戦没者の父母等に対する特別給付金支給法案。第55国会。1967年6月制定)

 同じような文言で「特別」が強調されているが、国家として二度と同じ思いをさせないという反省をこめた意思はない。この三種の「特別給付金」は、いずれも国債として交付され、10年あるいは5年毎に継続かつ増額されてきた。たとえば戦没者等の妻への「特別給付金」は、制定時は20万円の国債だったが、増額を重ねて1993年には180万円になった。

 「特別給付金」のほかにも、「特別弔慰金」というのがある。戦没者などの遺族には、軍人恩給の公務扶助料や遺族等援護法による遺族年金が支給されているが受給者が死亡したり、成年に達したなどで受給権を失うケースが出てきた。しかし国家はこれによって援護を打ち切るのではなく、他の親族に特別弔慰金を支給するという(転給)法を制定したのである。(1965年6月)たとえば遺族年金などをも
らっていた戦没者の妻が亡くなった後で、その子が受けとる「墓守料」である。当初は3万円の国際(10年償還)でスタートし、その後10年ごとに増額改正され、敗戦50年の1995年には40万円になった。支給の範囲も子から戦没者の兄弟姉妹にまで広げられた。


 これらの戦没者遺族らへの経済的援護制度の新設、拡大、増額は、日本経済が高度成長へと離陸を開始した60年代からで、それは「繁栄」と「成長」の道だった。にもかかわらず、いやだからこそ日本侵略による他国の戦争被害者の存在は忘却され、彼ら彼女らへの責任意識は、政府レベルだけでなく一般でも希薄になった。その一方で戦犯やその遺族への援護は早くから始まり、遺族等援護法制定と恩給法改正のそれぞれの翌年には遺族年金、公務扶助料、恩給が、支給されるようになった。この事実こそ戦後国家の援護施策を支える思想を最も端的に表していよう。国内の原爆や空襲被害者は置き去りにされ、原爆死没者についてわずか10万円の「特別葬祭給付金」を盛り込んだ「被爆者に対する援護に関する法律」(被爆者援護法)ができたが、1994年末だったのは、記憶に新しい。しかも被爆者援護法では原爆投下まで戦争を続行した国家の責任を自覚し、謝罪し、反省する意味での「国家補償の責任」は明記されなかった。国内においても、「加害者」が救われ被害者が放置されるという構造ができあがっている。政府の援護行政は、二重の意味で戦争の「加害者」を厚遇し続けているのである。その結果、他者の忘却と自己の「繁栄」の中で、「戦争の記憶」は懐旧と苦労だけが語られてきた。繰り返し──。その始まりが1952年であった。

それにしても、国家の戦没者遺族らへの、このいたれりつくせりの手厚い援護施策はどうしてなのか。たとえば「今日、わが国が戦前にもみなかった繁栄の途をたどりつつあるのにつけましても……尊い犠牲となられた戦没者」(同特別弔慰金支給法案提案理由)の遺族の範囲をどんどん拡大してまで、原爆被爆者をはるかに上回る「特別」の給付を続けるのはなぜか。日本人へのいわば「戦後補償」は、これらの旧軍人・軍属の遺族に関わる援護がほとんどで、その金額は1995年度までに約40兆円にも達するとみられる。戦後賠償などによる対外支払いは、1兆円だった。これらの戦没者遺族に対する厚遇は、後で詳しくみる日本遺族会の存在と国家の論理が一致していたからである。
 「戦没者およびその遺族に対する国家補償の充実こそ国民の防衛意識の向上の基礎である事をご認識いただき、……」
 日本遺族会は、毎年戦没者遺族の処遇改善、つまり公的扶助料や遺族年金の増額要求をしているが、これは1984年度の政府予算への要望書の一節である。

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11 日本遺族会の戦争観と宗教的性格

 細川発言と遺族会の反発


 ・・・
 ──先の戦争をどう認識しているか。
 「私自身は戦略戦争であった、間違った戦争であったと認識している」(93年8月11日付『朝日新聞』朝刊)


 ・・・
 
   <声明>
 細川総理はさる8月10日の記者会見において、「さきの大戦は戦略戦争であった。間違った戦争であった」と断言した。
 顧みるに大東亜戦争の様相は、その戦場となった中国、東南アジアの諸地域の特性、また、終戦時のソ連不法進攻などそれぞれの経過、評価を異にするものがある。それを総て「侵略」と断定するところに歴史の認識に欠けるところがあり、言外に「戦没者を侵略者に荷担した犠牲者である」と決めつけた英霊冒とくのこの発言は一国の総理として他国に類を見ない極めて軽率な言辞であり、その見識を疑わざるを得ない。

 戦没者遺族は今日までわが身をかえりみることなく一途に祖国の安泰と繁栄を願って、尊い生命を捧げた肉親に誇りをもって、茨の道をひたすら生きてきた。しかるに総理のこの暴言は、この心の支えを根底から踏みにじったものであり、われわれ戦没者遺族は、断じてこれを容認することはできない。
 大東亜戦争は国家、国民の生命と財産を護るための自衛戦争であった。東京裁判を執行したマッカーサー元帥でさえ、ウエーキ島でのトルーマン大統領との会談(1950年5月3日)で「日本が第2次大戦に赴いた目的は、そのほとんどが安全保障(自衛)のためであった」と表明している。細川総理は、この歴史的事実を承知しているのであろうか。
 また、イギリス、フランス、アメリカなど欧米列強の国々がアジア、アフリカ等の諸国を植民地化していた時代があったが、これらの国々が謝罪したことは一国としてない。
 しかるに、細川連立内閣は戦争責任の反省と謝罪のための国会決議の愚挙を行おうとしている。
 我々戦没者遺族は細川総理の東京裁判史観に毒された自虐的侵略発言に対して猛省を求めるとともに、侵略、さらに国会決議発言を今臨時国会の場において撤回することを表明するよう、ここに断固要求する。
 右声明する。
 平成5年10月1日

                                財団法人 日本遺族会


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