真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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図解「島国ニッポンの領土問題」(尖閣諸島問題その8)

2010年10月17日 | 国際・政治
 「図解 そうだったのか!日本人なら知っておきたい基礎知識ー島国ニッポンの領土問題ー激怒する隣国、無関心な日本(日本を揺るがす最新ニュースの真相がすぐわかる!)」中沢孝之/日暮高則/下條正男(東洋経済新報社)は、その表紙が内容をよく表していると思う。尖閣諸島のみならず、竹島や北方領土などの領有をめぐる関係国との対立点について理解を深めようとするのではなく、日本の国益を守るために、どのように考えどのように対応すべきかを解説したものであるといえる。したがって、当然外務省見解が前提である。「尖閣諸島問題その7」で列挙した6つの疑問に関わる内容はないので、疑問は何ら解決されない。
 
 「尖閣諸島は日本の領土~外務省見解」と題した文章の中に<補足して日本側の見解を説明するとこうである。明治政府が、占有者のいない土地、国際法上のいわゆる「無主地」と認識して領有を宣言したのであり、その領有の方法は「無主地先占」で国際法上一点の問題もなく、その領有宣言に対して、その後、清国側が明確なクレームを付けていないではないか、としている。>とある。しかし、周辺国の歴史や文献、領有意識などを確かめることなく、「無主地」と断定していいのかどうかということ以上に「…領有を宣言したのであり…」が問題なのである。領有の宣言はしていないのではないか。「領有宣言」といえる文書を見たことも聞いたこもないがなぜなのか。

 外務省見解と同じような根拠で、共産党や社民党まで「尖閣諸島は日本の領土である」としているが、領有を宣言した文書はどこも示していないし、誰も示そうとしない。ほんとうはないものと思われる。そのような宣言文書のない領有が「国際法上一点の問題もなく…」といえるのかどうか。したがって、領有宣言(公示や通告や官報掲載など)のない閣議決定に、清国はクレームの付けようがなかったのではないか。そして、その3ヶ月後に、下関条約よる台湾割譲があったが、「尖閣諸島問題その7」で取り上げた伊藤博文の戦略意見は、台湾割譲を視野に入れていた当時の日本の軍事占領の一環であることを示しているのではないか。10年間、再三現地調査を繰り返していたのではなく、実は清国が抗議できなくなるのを待っていたのではないか。そして、日清戦争勝利が確定的になったために、領有宣言は必要なくなったということではないのか。

 いつもは政府に批判的な共産党や社民党も、下記のように外務省見解とほぼ同じような見解を表明している(インターネットで検索し一部抜粋した)。それに異をとなえるメディアも国内にはないようである。国益にかかわるゆえに、「大本営発表」同様、疑うことが許されないかのようである。中国の主張にもいくつかの疑問はあるが、日清戦争最中の日本の尖閣諸島領有が、ほんとうに平和的で合法的な領有であったとはとても思えない。
 
 帝国主義的領土拡張を始めていた当時の「沖縄県と清国福州トノ間ニ散在セル無人島」に関する内務卿山県有朋と外務卿井上馨のやり取り、内務大臣野村靖と外務大臣陸奥宗光の交換文書、首相伊藤博文の大本営会議提出の戦略意見などを総合的に理解して、なお尖閣諸島が平和的・合法的に領有されたというのであれば、もはや……。 
共産党-------------------------------
日本の領有は正当
尖閣諸島 問題解決の方向を考える

 沖縄の尖閣(せんかく)諸島周辺で今月、中国の漁船が海上保安庁の巡視船に衝突し、漁船の船長が逮捕されたことに対し、尖閣諸島の領有権を主張する中国側の抗議が続いています。日本共産党は、同諸島が日本に帰属するとの見解を1972年に発表しています。それをふまえ、問題解決の方向を考えます。

歴史・国際法から明確

 尖閣諸島(中国語名は釣魚島)は、古くからその存在について日本にも中国にも知られていましたが、いずれの国の住民も定住したことのない無人島でした。
1895年1月に日本領に編入され、今日にいたっています。

 1884年に日本人の古賀辰四郎が、尖閣諸島をはじめて探検し、翌85年に日本政府に対して同島の貸与願いを申請していました。日本政府は、沖縄県などを通じてたびたび現地調査をおこなったうえで1895年1月14日の閣議決定によって日本領に編入しました。歴史的には、この措置が尖閣諸島にたいする最初の領有行為であり、それ以来、日本の実効支配がつづいています。

 所有者のいない無主(むしゅ)の地にたいしては国際法上、最初に占有した「先占(せんせん)」にもとづく取得および実効支配が認められています。日本の領有にたいし、1970年代にいたる75年間、外国から異議がとなえられたことは一度もありません。
日本の領有は、「主権の継続的で平和的な発現」という「先占」の要件に十分に合致しており、国際法上も正当なものです。

社民党------------------------------
     尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件について(談話)
                                    社会民主党党首
                                    福島みずほ

 去る9月7日に、中国のトロール漁船が、沖縄県の尖閣諸島にある久場島付近の領海内で違法操業をしており、海上保安庁の巡視船の停船命令を逃れようとして衝突した。この事件で、海上保安庁は公務執行妨害容疑で漁船を拿捕するとともに船員を逮捕した。

 一般船員は13日に釈放したものの、船長を引き続き勾留し19日にはさらに勾留期限を延長し取り調べを継続した。

 発生から17日経った9月24日になって、那覇地方検察庁は、中国人船長を処分保留で釈放することを決めた。

 尖閣諸島は、歴史的にみて明らかに日本の領土であり、沖縄県石垣市に属する島である。領海内で他国の漁船が操業することは、特段の取り決めがない限り断じて認められないことであり、海上保安庁が取り締まることは当然である。


http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。  

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「日本の領土」田久保忠衛著(尖閣諸島問題その7)

2010年10月16日 | 国際・政治
 「日本の領土ーそもそも国家とは何か」田久保忠衛(PHP研究所)は、尖閣諸島の問題だけではなく、北方領土問題や竹島の問題も取り上げている。尖閣諸島の問題に関しては、政府見解を正しいものとして、「尖閣は日本の領土という証明」と題して政府見解をそのまま掲載している。その根拠を問う必要はないとの考え方のようである。そして、「尖閣諸島は日本の領土である」という前提で、「尖閣諸島
を巡る日台中の三つ巴」
と題して現況を考えたり、「尖閣諸島に海底油田が噴き出す日」・「尖閣諸島問題の鍵を握るのは誰か」・「日本の領土・主権を質す人 答える人」などと題して尖閣諸島問題を論じている。大陸棚論争の記述などから、さらに調べるべき課題があることは分かったが、下記のような「閣議決定」に基づく日本の領有そのものの疑問については、何も解決されなかった。そこで、改めて同書から政府見解に関する部分を抜粋し、その疑問点を整理しておきたい。
---------------------------------
 尖閣は日本の領土という証明

 尖閣諸島の領有権についての日本政府の基本的見解は次のように明快だ。
「尖閣諸島は、1885年以降、政府が沖縄県当局を通ずるなどの方法により再三にわたり、現地調査を行い、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配がおよんでいる痕跡がないことを慎重に確認のうえ、1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行って正式にわが国の領土に編入することとしたものです。

 同諸島は爾来歴史的に一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成しており、1895年5月発効の下関条約第2条に基づき、わが国が清国より割譲を受けた台湾および澎湖諸島には含まれていません。

 したがって、サンフランシスコ講和条約においても、尖閣諸島は同条約第2条に基づき、わが国が放棄した領土のうちには含まれず、第3条に基づき南西諸島の一部としてアメリカ合衆国の施政下に置かれ、1971年6月17日署名の『琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄返還協定)』により、わが国に施政権が返還された地域の中に含まれます。以上の事実は、わが国の領土としての尖閣諸島の地位を何よりも明確に示すものです。

 なお、中国が尖閣諸島を台湾の一部と考えていなかったことは、サンフランシスコ講和条約第3条に基づき米国の施政下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実に対して従来なんら異議を唱えなかったことからも明らかであり、中華人民共和国の場合も台湾当局の場合も、1970年後半、東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化するにおよび、初めて尖閣諸島の領有権を問題とするに至ったものです。

 また、従来、中華人民共和国政府及び台湾当局がいわゆる歴史的・地理的ないし地質的根拠等として挙げている諸点は、いずれも尖閣諸島に対する中国の領有権の主張を裏付けるに足る国際法上有効な論拠とはいえません」

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1 「再三にわたり現地調査を行いという。この文面は何度目にし耳にしたか分
  からない。しかし、誰がいつどのような調査を行ったのか、どのような記録があ
  るのかについては、まったく見たことも聞いたこともない。なぜ、もう少していね
  いに、現地調査の内容を明らかにしないのか。
2 無人島の無主地先占にあたって、周辺国の歴史や領有意識の確認をせず、現
  地調査だけで「無主地」と断じてよいのか。
3 領有を決定した1895年1月14日の閣議の前に、閣議を要請した内務省から
  外務省への文書「秘別第133号」(朱書)とその別紙(「右閣議ヲ請フ」という文  書)が、秘密文書であったというが、なぜなのか(清国の抗議をおそれたのでは  ないのか)。
4 閣議決定がなされたならば、それを受けて関係省庁が「領有することとなった
  島々の名称や位置(緯度・経度)、所管庁や地籍」などを発表(告示、関係国へ
  の通告、官報に掲載など)することによってはじめて、正式にわが国の領土に
  編入されることになるのではないか。そうした文書がないのに、「正式にわが国
  の領土に編入」したといえるのか。
5 閣議決定当時「尖閣諸島」という名称はなかった。閣議決定は、内務省の請議
  を受けて、「請議案通り」としたものであり、請議案は具体的に「久場島」「魚釣
  島」の島名をあげて「…上申ノ通リ標杭ヲ建設セシメントス」としたものである。
  したがって、閣議決定は「久場島」「魚釣島」に標杭を建設してよいという決定で
  あるはずで、それが、どうして「尖閣諸島」の正式なわが国への領土に編入に
  なるのか。尖閣諸島には「久場島」「魚釣島」のほかにも、いくつかの島々があ
  るのではないのか。
6 外務省は、「中華人民共和国も台湾も、東シナ海の石油資源の埋蔵が知られ
  てから領有権を主張し始めた」というが、日本が標杭をたてたのは、中・台との
  領有権問題が表面化してから(1969年5月5日石垣市)であったのはなぜな
  のか。なぜ標杭建設の閣議決定が直ちに実行されなかったのか。やはり、日
  清戦争勝利が確定的となり(閣議決定3ヶ月後には下関条約による台湾割譲
  があった)もはや必要なしと判断したのではないのか。だとすれば、「下関条約
  第2条に基づき、わが国が清国より割譲を受けた台湾および澎湖諸島には含
  まれていません」とはいえないのではないか。
   沖縄県令西村捨三は、山県有朋に宛てた内務省の内命に対する上申(188
  5年9月22日)で、標杭建設には清国との関係で懸念があると記しているが、こ
  れはどのように理解すべきか。
   関連して、明治天皇の特別命令で大本営の会議に列席した首相伊藤博文は
  下記のような戦略意見を提出した(1894年12月4日)という。

「北京進撃は壮快であるが、言うべくして行うべからず、また現在の占領地にとどまって何もしないのも、いたずらに士気を損なうだけの愚策である。いま日本のとるべき道は、必要最小限の部隊を占領地にとどめておき、他の主力部隊をもって、一方では海軍と協力して、渤海湾口を要する威海衛を攻略して、北洋艦隊を全滅させ、他日の天津・北京への進撃路を確保し、他方では台湾に軍を出してこれを占領することである。台湾を占領しても、イギリスその他諸外国の干渉は決しておこらない。最近わが国内では、講和のさいには必ず台湾を割譲させよと言う声が大いに高まっているが、そうするためには、あらかじめここを軍事占領しておくほうがいい。」(春畝公追頌会編『伊藤博文傳』下)

  だとすれば、1895年の閣議決定は、沖縄県令の懸念を考慮する必要がなくな
  ったことによる軍事占領の一環ではないのか。領有に関する正式文書が存在
  しない理由も、そこにあるのではないのか。

   「尖閣諸島は中国の領土である」という論にもいくつかの疑問を感じるが、少
  なくても「尖閣諸島に領土問題は存在しない」という日本の姿勢は、明治期の帝
  国主義的な領土拡張政策の継続ではないかと思うのである。

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「尖閣諸島」原田禹雄著の疑問点(尖閣領有問題その6)

2010年10月14日 | 国際・政治
 古来「標識島」として以上の価値があったとは思えない無人島の領有意識が、現在の尖閣諸島領有にとって、それほど決定的で重要であるとは思わないが、きちんとその歴史をふまえることは必要であると思う。そういう意味では「尖閣諸島ー冊封琉球使録を読む」原田禹雄著(琉球国榕樹書林)に学ぶことは多い。しかし、全体的には、あまりにも「井上」憎し(「尖閣列島-釣魚諸島の史的解明」第三書館の著者井上清)の感情が強いために、冷静な論理的批判になっていない面があるように思われる。

 例えば、下記の抜粋部分でいえば、「小琉球」・「鶏籠」は現在の台湾であり、当時中国領土とはされていなかったと断定的し、台湾を中国領とらえている井上の主張は「完全に虚構である」という。しかしながら、当時そう断定できるほど強くてはっきりとした領土意識で台湾を他国領として切り離して考えていたのかどうか、疑問に思われる。また、他国領だと意識されていたとしても、それでは、「界スル」という言葉をどのように理解するべきか、どことどこを「界スル」と読むべきなのか、きちんと論じなければならないと思う。

 また、胡宗憲(コソウケン)が編纂した『籌海図編』(チュウカイズヘン)に、中国領ではない鶏籠山(台湾)が描かれているから、尖閣諸島がそこに描かれていても、井上がいうように中国領とはいえないと主張する。だとすれば、逆に、倭寇に対峙した中国の名将胡宗憲が、なぜ他国領である鶏籠山(台湾)を倭寇防衛の戦略戦術と城塞・哨所などの配置や兵器・船艦の制などを説明した『籌海図編』に書き入れたのか、を説明しなければならない。そうしたことを何も説明せず、井上の主張は根拠がなく虚構である言い張るのは、論理的批判ではなく、感情論であると思う。

 さらにいえば、井上清の「尖閣列島-釣魚諸島の史的解明」(第三書館)は、過去の文献だけではなく、「尖閣諸島」領有の閣議決定にいたる歴史的背景やその手続き上の問題点を詳細に明らかにして、「日本帝国主義の再起の危険」を論じているのである。いくつかの文献解釈のみで、井上の主張は「完全に虚構である」と全面否定してしまう姿勢に、問題を感じざるを得ないのである。

 下段は、李鼎元(リテイゲン)が「中外ノ界」という意味の溝(郊)の存在を否定した冊封使録『使琉球記』の中の一部であるが、著者は、この李鼎元の「…深くて静かな教養に満ちた文章の中へ、井上清が土足で踏み込んできて…」と主張し、「…どちらが異常かわかっていただけよう。…」という。では、彼の前の冊封使のみでなく、彼の後の冊封使も「中外ノ界」を認めたのはなぜかということ、特に「徐葆光」が「渡琉にあたって、その航路および琉球の地理、歴史、国情について従来の不正確な点やあやまりを正すことを心がけ、各種の図録作製のために、とくに中国人専門家をつれて」きて琉球の専門家を相談相手とし、8ヶ月間研究を重ねて書いた『中山傳信録』の中に、姑米島(クメジマ)について「琉球西南方界上鎮山」とあることについては触れていない。李鼎元の文章がどんなに美しかろうが、やさしかろうが、そうしたことに触れることなく、下記の文章をもって、それらを全面否定することには無理があると思う。

 つけ加えるならば、尖閣諸島(釣魚諸島)は、中国大陸からはり出した大陸棚の南のふちに東西に連なっている。列島の北側が水深およそ200メートルの青い海であり、南側には水深2000メートル前後の海溝がある。そして黒潮が西から東へ流れているのである。したがって赤尾嶼付近の南側が深海溝の黒潮の色であり、大陸棚の海の色との対照があざやかであるという事実、また沿岸流と黒潮の流れがぶつかることによって海があれるため、海難よけの祭り「過溝祭」が行われたという事実、そして、汪楫などがそこを「溝」あるいは「郊」または「黒溝」、「黒水溝」などとよび「中外ノ界ナリ」と明記している事実について、それを覆す事実を提示することなく、釣魚島の近くで「過溝祭」をやったという李鼎元の文章のみによって、それらを全面否定することはできないと思うのである。下記は、「尖閣諸島ー冊封琉球使録を読む」原田禹雄(琉球国榕樹書林)からの一部抜粋である。
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3 明代の尖閣諸島

 井上は、明代の冊封使録に、赤緒嶼が中国領の東のはしの島、そして次の久米島が、最初の琉球領であると主張している。そして、その根拠として、陳使録の、

 (嘉靖13年 1534)11日の夕方、古米島(クメジマ)が見えた。つまり、琉球の領土である。

と、いう記述と、郭使録の、

 (嘉靖40年、1561)閏5月1日釣(魚)嶼を通過した。3日赤嶼についた。赤(尾)嶼、琉球地方を境する島である。更に1日の風で、姑米島(クメジマ)があらわれるはずであった。

と、いう記述を引用している。そして、井上は、次のように主張する。


 なるほど陳侃使録では、久米島に至るまでの赤尾、黄尾、釣魚などの島が琉球でないだけは明らかだが、それがどこの国のものかは、この数行の文面のみからは何ともいえないとしても、郭が赤嶼は琉球地方を「界スル」山だというとき、郭は中国領の福州から出航し、花瓶嶼、彭佳山など中国領であることは自明の島々を通り、さらにその先に連なる、中国人が以前からよく知っており、中国名もつけてある島々を航して、その列島の最後の島=赤嶼に至った。郭はここで、順風でもう1日の航海をすれば、琉球領の久米島を見ることができることを思い、来し方をふりかえり、この赤嶼こそ「琉球地方ヲ界スル」島だと感慨にふけった。その「界」するのは、琉球と、彼がそこから出発し、かつその領土である島々を次々に通過してきた国、すなわち中国とを界するものでなくてはならない。

 念のために、郭汝霖の通過した標識島を使録からあげると、東湧山、小琉球、黄茅、釣嶼、赤嶼である。東湧山は中国固有の領土であることを、私もまた認める。しかし、小琉球=台湾が、明代に中国固有の領土であることを私は認めない。『明史』巻323の列伝210の外国4に、「鶏龍」がある。この鶏龍こそが、今、いうところの台湾なのである。従って郭の通過した小琉球は、井上のいうような「中国領であることは自明の島」では、断じてない。従って、明代の尖閣諸島に対する井上の主張の根拠は、完全に虚構なのである。

 井上は、更に、『籌海図編』をとりあげて、『籌海図編』に描かれている島々は、中国領以外の地域は入っていないので、尖閣諸島が、そこに描かれているから、尖閣諸島は中国領なのだ、と主張している。本書に、『籌海図編』の相当する部分を付録しておいたが、図の中に鶏籠山が描かれている。鶏籠山は台湾そのものである。従って「中国領以外の地域は入っていない」という井上の主張は根拠を失う。井上はここでも虚偽を述べている。
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10 李鼎元(リテイゲン)『使琉球記』(1802年序)6巻

 ・・・
 5月11日壬辰。曇
 丁未の風に単乙の針路をとった。赤尾嶼から現在位置までの航行は計14更。
 午の刻、姑米島(クメジマ)があらわれた。島には8つの嶺があり、それぞれの嶺には、おのおの一つ二つの峰があって、断続している。舟の人々の歓声に、海がわきあがるばかりであった。

 10月6日乙卯。小雪、晴れ。
 この日、介山(正史の趙文楷の号)とともに、酒肴をととのえ、従客を招待して飲んだ。酒たけなわとなって客のひとりが言った。
  「海は、西に黒水溝をへだてて閩海と界されているときいております。昔は滄溟とも東溟ともいったそうです。琉球人はそれを知りま
  せん。このたびの旅行でも通過しなかったのですが、どうしてでしょう」。
 私は言った。
  「渡航する者は多いが、本を書く者は少ない。乗船して船酔いもせずに、毎日、将台に坐って、自分の眼でみたままを自分で書くということは、滅多にあるものではない。誰かが言うと、人々はそれと同じことをいうのだが、ききかじりの話をどうしてまにうけてよいものであろうか。琉球の人は毎年一航海しているのに黒溝を知らない。とすれば、黒溝はないのだといえよう。」


 10月25日甲戌。
 海面をみると深い黒色で、天と水と遙かかなたで接している。これがいわゆる黒溝なのであろうか。そもそも、ここへ来たものは、みな他人からきいただけで、だれも経験なく、自分で見つめる勇気もなく、はてはみだりに不思議の思いを生ずるのであろうか。まったくわからないのだが、私の目撃したところでは、何のかわりもありはしない。



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文献における尖閣諸島と無主地先占の疑問その5

2010年10月07日 | 国際・政治
 外務省は尖閣諸島について「1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとした」というが、その事実を公にする正式文書がないようである。閣議決定の記録が尖閣諸島の領有を示す正式の公文書であるというのでは、国際法的にも通用しないのではないかと思う。閣議決定の内容は、閣議決定をもとめた内務省の「請議案通り」ということなのである。領有を閣議決定したら、それを受けて関係省庁が領有することとなった島々の名称、位置(経度や緯度)、区域、所管庁、地籍表示、領有開始年月日などを官報に掲載し公示するとともに、文書をもってその事実を関係国に通告する必要もあるはずである。尖閣諸島に関しては、そうした文書がないのである。

 内務省の請議案には「久場島」「魚釣島」の名称が使われている。おまけに周辺の他の島は入っていない。当然のことながら、尖閣諸島という名称も使われてはいないのである。同月21日に内務大臣から沖縄県知事に「標杭建設ニ関スル件請議通リ」という指令が出ているが、これはあくまでも標杭建設の指示で、領有を公にする文書ではない。1970年に琉球政府が「明治28年1月14日の閣議決定をへて、翌29年4月1日、勅令第13号に基づいて日本の領土と定められ、沖縄県八重山石垣村に属された」としたが、その「勅令第13号」には、「久場島」「魚釣島」という名称さえ書かれておらず、尖閣諸島領有に関わる言葉や文面は、下記の通りまったくない。やはり、日清戦争のどさくさに「窃取」したために、きちんとした手続きに基づいた証拠書類を残せなかったと考えざるを得ない。

 明治天皇の特別命令で大本営の会議に列席し、意見を述べた伊藤博文の「…あらかじめここを軍事占領しておくほうがいい…」というような戦略論によって、日清戦争の最中に尖閣諸島の領有が決定されたとすれば、それは台湾割譲と切り離すことはできないと思う。「尖閣列島-釣魚諸島の史的解明」井上清(第三書館)からの抜粋である。
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13 日本の「尖閣」列島領有は国際法的にも無効である

 ・・・
 朝日新聞の社説「尖閣列島と我が国の領有権」(1972年3月20日)は、もし、釣魚諸島が清国領であったならば、清国はこの地の日本領有に異議を申し立てるべきであった、しかるに「当時、清国が異議をもうしたてなかったことも、このさい指摘しておかなければならない。中国側にその意思があったなら、日清講和交渉の場はもちろん、前大戦終了後の領土処理の段階でも、意思表示できたのではなか
ろうか」という。


 しかし、日清講和会議のさいは、日本が釣魚諸島を領有するとの閣議決定をしていることは、日本側はおくびにも出していないし、日本側が言い出さないかぎり、清国側からはそのことを知るよしもなかった。なぜなら例の「閣議決定」は公表されていないし、このときまでは釣魚島などに日本の標杭がたてられていたわけでもないし、またその他の何らかの方法で、この地を日本領にすることが公示されてもいなかったから。したがって、清国側が講和会議で釣魚諸島のことを問題にすることは不可能であった。
 
 また、第2次大戦後の領土処理のさい、中国側が日本の釣魚諸島領有を問題にしなかったというが、日本と中国との領土処理は、まだ終わっていないことを、この社説記者は「忘れて」いるのだろうか。サンフランシスコの講和会議には、中国代表は招請されるということさえなかった。したがって、その会議のどのような決定も、中国を何ら拘束するものではない。また当時日本政府と台湾の蒋介石集団との間に結ばれた、いわゆる日華条約は、真に中国を代表する政権と結ばれた条約ではないから──当時すでに中華人民共和国が、真の唯一の全中国の政権として存在している──その条約は無効であって、これまた中華人民共和国をすこしも拘束するものではない。すなわち、中国と日本との間の領土問題は、まだことごとく解決されてしまったわけではなく、これから、日中講和会議を通じて解決されるべきものである。それゆえ、中国が最近まで、釣魚諸島の日本領有に異議を申し立てなかったからとて、この地が日本領であることは明白であるとはいえない。

 明治政府の釣魚諸島窃取は、最初から最後まで、まったく秘密のうちに、清国および列国の目をかすめて行われた。1885年の内務卿より沖縄県令への現地調査も「内命」であった。そして外務卿は、その調査することが外部にもれないようにすることを、とくに内務卿に注意した。94年12月の内務大臣より外務大臣への協議書さえ異例の秘密文書であった。95年1月の閣議決定は、むろん公表されたものではない。そして同月21日、政府が沖縄県「魚釣」、「久場」両島に沖縄県所轄の標杭たてるよう指令したことも、一度も公示されたことがない。それらは、1952年(昭和27年)3月、『日本外交文書』第23巻の刊行ではじめて公開された

 のみならず、政府の指令をうけた沖縄県が、じっさいに現地に標杭をたてたという事実すらない。日清講和会議の以前にたてられなかったばかりか、その後何年たっても、いっこうにたてられなかった。標杭がたてられたのは、じつに1969年5月5日のことである。すなわち、いわゆる「尖閣列島」の海底に豊富な油田があることが推定されたのをきっかけに、この地の領有権が日中両国間の争いのまととなってから、はじめて琉球の石垣市が、長方形の石の上部に左横から「八重山尖閣群島」とし、その下に島名を縦書きで右から「魚釣島」「久場島」「大正島」およびピナクル諸嶼の各島礁の順に列記し、下部に左横書きで「石垣市建之」と刻した標杭をたてた。これも法的には日本国家の行為ではない。

 つまり、日本政府は、釣魚諸島を新たに日本領としたといいながら、そのことを公然と明示したことは、日清講和成立以前はもとより以後も、つい最近まで、一度もないのである。「無主地」を「先占」したばあい、そのことを国際的に通告する必要は必ずしもないと、帝国主義諸国の「国際法」はいうが、すくなくとも、国内法でその新領土の位置と名称と管轄者を公示することがなければ、たんに政府が国民
にも秘密のうちに、ここを日本領土とすると決定しただけでは、まだ現実に日本領土に編入されたことにはならない。


 釣魚諸島が沖縄県の管轄になったということも、何年何月何日のことやら、さっぱりわからない。なぜならそのことが公示されたことがないから。この点について、琉球政府の1970年9月10日の「尖閣列島の領有権および大陸棚資源の開発権に関する主張」は、この地域は、「明治28年1月14日の閣議決定をへて、翌29年8月1日、勅令第13号に基づいて日本の領土と定められ、沖縄県八重山石垣村に属された」という。これは事実ではない。「明治29年勅令第13号」には、このようなことは一言半句も示されていない。次にその勅令をかかげる。

 「朕、沖縄県ノ郡編成ニ関スル件ヲ裁可シコレヲ公布セシム。
    御名御璽
 明治29年3月5日
                   内閣総理大臣侯爵  伊藤博文
                   内 務 大 臣   芳川顕正
   勅令第13号
 第1条 那覇・首里区ノ区域ヲ除ク外沖縄県ヲ盡シテ左ノ五郡トス
  島尻郡  島尻各間切、久米島、慶良間諸島、渡名喜島、粟国島、伊平屋諸島
  鳥島及ビ大東島
  中頭郡  中頭各間切
  国頭郡  国頭各間切及ビ伊江島
  宮古郡  宮古島
  八重山郡 八重山諸島
 第2条 郡ノ境界モシクハ名称ヲ変更スルコトヲ要スルトキハ、内務大臣之ヲ定
  ム。
    附則
 第3条 本令施行ノ時期ハ内務大臣之ヲ定ム。」


 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。 

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文献における尖閣諸島と無主地先占の疑問その4

2010年10月07日 | 国際・政治
 尖閣諸島(釣魚諸島)沖の漁船衝突事故に関連するニュースでは、どのテレビ局やラジオ局も判で押したように「日本の領海内で起きた」との言葉を入れており、何か日本国民の合意形成を意図しているかのような感じがする。また、尖閣諸島領有そのものの歴史的経過には触れず、日本が平和的・合法的に領有した尖閣諸島を、周辺の海底に石油・天然ガスが大量に存在する可能性が指摘されたことを契機に、中国や台湾が領有を主張しはじめたと繰り返していることも気になるところである。日本の尖閣諸島(釣魚諸島)領有は、日清戦争の圧倒的勝利を確信し、台湾割譲を重要案件の一つとして検討していた時期に、首相伊藤博文が大本営の会議に列席し(明治天皇の特別命令)提出した「……”あらかじめここを軍事占領しておくほうがいい”……」というような戦略意見に基づいて理解されるべきであると思う。古賀辰四郎の魚釣島(釣魚島)における事業の話は、侵略的窃取を隠すための表向きの話であるというわけである。「尖閣列島-釣魚諸島の史的解明」井上清(第三書館)からの抜粋である。
---------------------------------
11 天皇政府は釣魚諸島略奪の好機を9年間うかがいつづけた

 ・・・
 この後も、日清両国の関係は、日本側から悪化させる一方であり、日本の対清戦争準備は着々と進行した。その間に古賀辰四郎の釣魚島での事業も緒についた。そして、1890年(明治23年)1月13日、沖縄県知事は、内務大臣に、次の伺いを出した。

 「管下八重山群島石垣島ニ接近セル無人島魚釣島外二島ノ儀ニ付、18年11月5日第384号伺ニ対シ、同年12月5日付ヲ以テ御司
令ノ次第モコレ有候処、右ハ無人島ナルヨリ、是マデ別ニ所轄ヲモ相定メズ、其儘ニ致シ候処、昨今ニ至リ、水産取締リノ必要ヨリ所轄ヲ
相定メラレタキ旨、八重山役所ヨリ伺出デ候次第モコレ有リ、カタガタ此段相伺候也」(前掲『日本外交文書』第23巻、「雑件」)


 沖縄県のこの態度は、85年とまったく反対である。今度は清国との関係は一言もせず、県から積極的に、古賀の事業の取締を理由に、日本領として沖縄県の管轄にされるように願っている。このときの知事は、かつての西村県令が内務省土木局長のままで沖縄県令を兼任していたのとはちがって、このときの知事は、内務省寺社局長から専任の沖縄県知事に転出した丸岡莞爾といい、沖縄に天皇制の国家神道を強要し広めるのに努力した、熱烈な国家主義者である。そういう知事なればこそ、釣魚諸島と清国との関係はあえて無視して、古賀事業取り締りを口実に、ここを日本領に取り込もうと積極的に動いたのであろう。
 ・・・(以下略)
---------------------------------
 しかし上記のような上申や古賀の願い出は、許可されることなく繰り返された後、日清戦争勝利が確実になった1894年12月27日内務省から外務省へ下記のような秘密文書が送られた。「其ノ当時ト今日トハ事情ノ相異候ニ付キ」との理由である。
---------------------------------
12 日清戦争で窃かに釣魚諸島を盗み公然と台湾を奪った

 ・・・
  「秘別第133号
 久場島、魚釣島ヘ所轄標杭建設ノ儀別紙甲号ノ通リ沖縄県知事ヨリ上申候処、本件ニ関シ別紙乙号ノ通リ明治18年貴省ト御協議ノ末指令ニ及ビタル次第モコレ有リ候ヘドモ、
其ノ当時ト今日トハ事情ノ相異候ニ付キ、別紙閣僚提出ノ見込ニコレ有リ候条、一応御協議ニ及ビ候也
  明治27年12月27日
                                内務大臣子爵   野村靖
   外務大臣子爵 陸奥宗光殿」

 この文末にいう「別紙」閣議を請う文案は次の通り。
「沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島、魚釣島ハ、従来無人島ナレドモ、近来ニ至リ該島ヘ向ケ漁業等ヲ試ムル者コレ有リ。之ガ取締リヲ要スルヲ以テ、同県ノ所轄トシ標杭建設致シタキ旨、同県知事ヨリ上申コレ有リ。右ハ同県ノ所轄ト認ムルニ依リ、上申ノ通リ標杭ヲ建設セシメントス
 右閣議ヲ請フ」
 
 ・・・
 外務省もこんどは何の異議もなかった。年が明けて1895年(明治28年)1月11日、陸奥外相は野村内相に、「本件ニ関シ本省ニ於テ別段異議コレ無キニ付、御見込ノ通リ御取計相成リ然ルベシト存候」と答えた。ついで同月14日の閣議で、前記の内務省の請議案文通りに、魚釣島(釣魚島)と久場島(黄尾嶼)を沖縄県所轄として標杭をたてさせることを決定、同月21日、内務大臣から、沖縄県知事に、「標杭建設ニ関スル件請議ノ通リ」と指令した。

 85年には、清国の抗議をおそれる外務省の異議により、山県内務卿の釣魚諸島領有のたくらみは実現できなかった。90年の沖縄県の申請にも政府は何の返事もしなかった。93年の沖縄県の再度の申請さえ政府は放置した。それだのに、いま、こんなにすらすらと閣議決定にいたったのは何故だろう。その答えは、内務省から外務省への協議文中に、かつて外務省が反対した明治18年の「其ノ当時ト今日トハ事情モ相異候ニ付キ」という一句の中にある。
 明治18年と27年との「事情の相違」とは何か。18年には古賀辰四郎の釣魚島における事業は、まだ始まったばかりか、あるいはまだ計画中であったが、27年にはすでにその事業は発展し、「近来同島ニ向ケ漁業ヲ試ムル者アリ」、政府をしてその取締を感じさせるようになったということであろうか。それも、「事情の相違」の一つといえる。しかし、それが唯一の、あるいは主要な「相異」であるならば、その相異はすでに明治23年にははっきりしている。その相違を理由に、沖縄県が、釣魚島に所轄の標杭をたてたいと上申したのに対して、政府は何らの指令もせずに4年以上もすごした。さらに26年11月に、沖縄県が前と同じ理由で標杭建設を上申したのに対しても、政府は返事をしなかった。その政府が27年12月末になって、そのとき沖縄県から改めて上申があったわけではないのに、突如として1年以上も前の上申書に対する指令という形で、釣魚諸島の領有に着手したのであるから、漁業取締りの必要が生じたということは、9年前の今との「事情の相異」の唯一の点でないのはもとより、主要な点でもありえない。決定的な「相異」は、べつのところになければならない。

---------------------------------
 それは、下記の伊藤博文の戦略意見の中にある。日清戦争勝利の勢いに乗じ、より有利な状況のなかで台湾の割譲を迫るためである。
---------------------------------
 ・・・
 北京進撃は壮快であるが、言うべくして行うべからず、また現在の占領地にとどまって何もしないのも、いたずらに士気を損なうだけの愚策である。いま日本のとるべき道は、必要最小限の部隊を占領地にとどめておき、他の主力部隊をもって、一方では海軍と協力して、渤海湾口を要する威海衛を攻略して、北洋艦隊を全滅させ、他日の天津・北京への進撃路を確保し、他方では台湾に軍を出してこれを占領することである。台湾を占領しても、イギリスその他諸外国の干渉は決しておこらない。最近わが国内では、講和のさいには必ず台湾を割譲させよと言う声が大いに高まっているが、そうするためには、あらかじめここを軍事占領しておくほうがよい。
 ・・・(以下略)

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古文献における尖閣諸島と無主地先占の疑問

2010年10月05日 | 国際・政治
 日本の外務省は、尖閣諸島について「外務省・アジア 尖閣諸島の領有権についての基本見解」 として
「 尖閣諸島は、1885年以降政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上、1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたものです。
 同諸島は爾来歴史的に一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成しており、1895年5月発効の下関条約第2条に基づきわが国が清国より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていません。」

と表明しています。(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/
 また、共産党まで2010年9月20日(月)「しんぶん赤旗」で日本の領有は正当として
「尖閣諸島(中国語名は釣魚島)は、古くからその存在について日本にも中国にも知られていましたが、いずれの国の住民も定住したことのない無人島でした。1895年1月に日本領に編入され、今日にいたっています。
 1884年に日本人の古賀辰四郎が、尖閣諸島をはじめて探検し、翌85年に日本政府に対して同島の貸与願いを申請していました。日本政府は、沖縄県などを通じてたびたび現地調査をおこなったうえで1895年1月14日の閣議決定によって日本領に編入しました。歴史的には、この措置が尖閣諸島にたいする最初の領有行為であり、それ以来、日本の実効支配がつづいています。
 所有者のいない無主(むしゅ)の地にたいしては国際法上、最初に占有した「先占(せんせん)」にもとづく取得および実効支配が認められています。日本の領有にたいし、1970年代にいたる75年間、外国から異議がとなえられたことは一度もありません。日本の領有は、「主権の継続的で平和的な発現」という「先占」の要件に十分に合致しており、国際法上も正当なものです。」

と書いています。(http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-02-23/02_02.html)
 しかしながら、日本が領有を閣議決定した1895年は、不平等条約の典型ともいえる下関条約調印の年でもあります。
 したがって、先ず1つ目は、尖閣諸島の領有が、日本の帝国主義的な領土拡張(侵略行為)の流れとは別の、正当な国家行為ととらえることができるのかという疑問です。
 なぜなら、日本の琉球処分(1871年)に反撥していた中国(清)が、琉球処分を受け入れざるを得なくなったのは、日清戦争の敗北によってであり、日本は日清戦争後の講和会議(1895年4月17日)で調印された下関条約によって、遼東半島、台湾および澎湖諸島など付属諸島嶼の主権も得ているのです。尖閣諸島だけは帝国主義的な領土拡張(侵略行為)とは別で、平和的に「無主地先占」されたものであり、問題はないといえるのかという疑問です。

 2つ目に、「無主地先占」が現地調査だけでなされてよいのかという疑問です。日本が領有を閣議決定した時、中国名「釣魚(チョウギョ)諸島」に「尖閣諸島」という日本名はなかったといいます。「尖閣諸島」と日本名で呼ばれるようになったのは、日本の領有が閣議決定されてから5年後の1900年だというのです。にもかかわらず、中国名「釣魚諸島」を中国や台湾、および琉球の人たちの領有意識、また、中国や台湾、および琉球の過去の文献にあたって調査することをせず、「無主地」と断定できるのかという疑問です。無人島といえども、領有意識があっても不思議はないのであり、領有意識があれば無主地と断ずることはできないのではないかという疑問です。

 3つめは、明の皇帝の冊封使(サクホウシ)陳侃(チンカン)の『使琉球録』や陳侃の後の冊封使、郭汝霖(カクジョリン)の『重編使琉球録』、また、同時代の倭寇と対した名将、胡宗憲(コソウケン)が編纂した『籌海図編』(倭寇防衛の戦略戦術と城塞・哨所などの配置や兵器・船艦の制などを説明した本)の下記のような記述を、無視できるとする根拠は何かということです。以下は「尖閣列島-釣魚諸島の史的解明」井上清(第三書館)からの抜粋です。
---------------------------------
 三 釣魚(チョウギョ)諸島は明の時代から中国領として知られている

 ・・・
 16世紀の書と推定される著者不明の航海案内書『順風相送』の、福州から那覇に至る航路案内記に、釣魚諸島の名が出てくるが、この書の著作の年代は明らかでない。年代の明らかな文献では、1534年、中国の福州から琉球の那覇に航した、明の皇帝の冊封使(サクホウシ)陳侃(チンカン)の『使琉球録』がある。それによれば使節一行の乗船は、その年5月8日、福州の梅花所からに外洋に出て、東南に航し、鶏龍頭(台湾の基隆)の沖合で東に転じ、10日に釣魚嶼などを過ぎたという。

 「10日、南風甚ダ迅ク、舟行飛ブガ如シ。然レドモ流ニ順ヒテ下レバ、(舟は)甚ダシクハ動カズ、平嘉山ヲ過ギ、釣魚嶼ヲ過ギ、黄毛嶼ヲ過ギ、赤嶼ヲ過グ。目按スルニ暇アラズ。(中略)11日夕、古米(クメ)山(琉球の表記は久米島)ヲ見ル。乃チ琉球ニ属スル者ナリ。夷人(冊封使の船で働いている琉球人)船ニ鼓舞シ、家ニ達スルヲ喜ブ。」

 琉球冊封使は、これより先1372年に琉球に派遣されたのを第1回とし、陳侃は第11回めの冊封使である。彼以前の10回の使節の往路も、福州を出て、陳侃らと同じ航路を進んだはずであるから、── それ以外の航路はない ── その使録があれば、それにも当然に釣魚島などのことは何らかの形で記載されていたであろうが、それらはもともと書かれなかったのか、あるいは早くから亡失していた。陳侃の次に1562年の冊封使となった郭汝霖(カクジョリン)の『重編使琉球録』にも、使琉球録は陳侃からはじまるという。
 その郭の使録には、1562年5月29日、福州から出洋し「閏5月初1日、釣嶼ヲ過グ。初3日赤嶼ニ至ル。
赤嶼ハ琉球地方ヲ界スル山ナリ。再1日ノ風アラバ、即チ姑米(クメ)山(久米島)ヲ望ムベシ」とある。

 上に引用した陳・郭の2使録は、釣魚諸島のことが記録されているもっとも早い時期の文献として、注目すべきであるばかりでなく、陳侃は、久米島をもって「乃属琉球者」といい、郭汝霖は、赤嶼について「界琉球地方山也」と書いていることは、とくに重要である。この両島の間には、水深2000メートル前後の海溝があり、いかなる島もない。それゆえ陳が、福州から那覇に航するさいに最初に到達する琉球領である久米島について、これがすなわち琉球領であると書き、郭が中国側の東のはしの島である赤尾嶼について、この島は、琉球地方を界する山だというのは、同じ事を、ちがった角度から述べていることは明らかである。 

 そして、前に一言したように琉球の向象賢(コウショウケン)の『琉球国中山世鑑』は、「嘉靖(カセイ)甲午使事紀ニ曰ク」として、陳侃の使録を長々と抜き書きしているが、その中に5月10日と11日の条をも、原文のままのせ、それに何らの注釈もつけていない。向象賢は、当時の琉球支配層の間における、親中国派と親日本派の激しい対立において、親日派の筆頭であり、『琉球国中山世鑑』は、客観的な歴史書というよりも、親日派の立場を歴史的に正当化するために書いた、きわめて政治的な書物であるが、その書においても、陳侃の既述がそのまま採用されていることは久米島が琉球領の境であり、赤嶼以西は琉球領でないということは、当時の中国人のみならずどんな琉球人にも、明白とされていたことをしめしている。琉球政府声明は、「琉球側及び中国側の文献のいずれも尖閣列島が自国の領土であることを表明したものはない」というが、「いずれの側」の文献も、つまり中国側はもとより琉球の執政官や最大の学者の本でも、釣魚諸島が琉球領でないことは、きわめてはっきり認めているが、それが中国領ではないとは、琉・中「いずれの側も」、すこしも書いていない。

 なるほど陳侃使録では、久米島に至るまでの赤尾、黄尾、釣魚などの島が琉球領でないことだけは明らかだが、それがどこの国のものかは、この数行の文面のみからは何ともいえないとしても、郭が赤嶼は琉球地方を「界スル」山だというときその「界」するのは、琉球地方と、どことを界するのであろうか。郭は中国領の福州から出航し、花瓶嶼、彭佳山など中国領であることは自明の島々を通り、さらにその先に連なる、中国人が以前からよく知っており、中国名もつけてある島々を航して、その列島の最後の島=赤嶼に至った。郭はここで、順風でもう1日の航海をすれば、琉球領の久米島を見ることができることを思い、来し方をふりかえり、この赤嶼こそ「琉球地方ヲ界スル」島だと感慨にふけった。その「界」するのは、琉球と、彼がそこから出発し、かつその領土である島々を次々に通過してきた国、すなわち中国とを界するものでなくてはならない。これを、琉球と無主地とを界するものだなどとこじつけるのは、あまりにも中国文の読み方を無視しすぎる。

 こうみてくると、陳侃が、、久米島に至ってはじめて、これが琉球領だとのべたのも、この数文字だけでなく、中国領福州を出航し、中国領の島々を航して久米島に至る、彼の全航程の既述の文脈でとらえるべきであって、そうすれば、これも、福州から赤嶼までは中国領であるとしていることは明らかである。これが中国領であることは、彼およびすべての中国人には、いまさら強調するまでもない自明のことであるから、それをとくに書きあらわすことなど、彼には思いもよらなかった。そうして久米島に至って、ここはもはや中国領ではなく琉球領であることに思いを致したればこそ、そのことを特記したのである。

 ・・・

 おそくも、16世紀には、釣魚諸島が中国領であったことを示す、もう一種の文献がある。それは、陳侃や郭汝霖とほぼ同時代の胡宗憲(コソウケン)が編纂した『籌海図編』(1561年の序文あり)である。胡宗憲は、当時中国沿海を荒らしまわっていた倭寇と、数十百戦してこれを撃退した名将で、右の書は、その経験を総括し、倭寇防衛の戦略戦術と城塞・哨所などの配置や兵器・船艦の制などを説明した本である。
 本書の第1巻、「沿海山沙図」の「福七」~「福八」にまたがって、福建省の羅源県、寧徳県の沿海の島々が示されている。そこに「鶏籠山」、「彭加山」、「釣魚嶼」、「化瓶山」「黄尾山」「橄欖山」「赤嶼」が、この順に西から東へ連なっている。これらの島々が現在のどれに当たるか、いちいちの考証はは私はまだしていない。しかし、これらの島々が、福州南方の海に、台湾の基隆沖から東に連なるもので、釣魚諸島をふくんでいることは疑いない。
 この図は、釣魚諸島が福建沿海の中国領の島々の中に加えられていたことを示している。『籌海図編』の第1巻は、福建のみでなく倭寇のおそう中国沿海の全域にわたる地図を、西南地方から東北地方の順にかかげているが、そのどれにも、中国以外の地域は入っていないので、釣魚諸島だけが中国領でないとする根拠はどこにもない。


 ・・・(以下略)

http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。 

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古文献における尖閣諸島と無主地先占の疑問・その2

2010年10月03日 | 国際・政治
 尖閣諸島沖の漁船衝突事件以来、政府は一貫して「尖閣列島に領土問題はない」という姿勢で事に当たっています。そして、それを全面的に肯定し前提とした報道が毎日のように続いています。中国側の対応にも様々な問題があるのではないかとは思いますが、「尖閣列島に領土問題はない」という姿勢では、この問題の平和的解決は難しいのではないでしょうか。そこで、原点に戻って考えるために「尖閣列島-釣魚諸島の史的解明」井上清(第三書館)から問題と思う部分を抜粋すます。
 同書によると、明朝の文献のみならず、清朝の文献にも釣魚諸島は中国領であることを示す記述があります。また、日本の文献では、林子平が『三国通覧図説』の「付図」で、釣魚諸島を中国領として色づけしています。同書には、カラーの「琉球三省并三十六島之図」が添付されており、そのことが分かります。清朝冊封使の過溝祭の記述を読み、中国領として色づけされた尖閣諸島(釣魚諸島)の地図を見る限り、中国大陸からはり出す大陸棚の南のふちにある尖閣諸島(釣魚諸島)を勝手に「無主地」とすることには、やはり無理があったと考えざるを得ません。
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4 清代の記録も釣魚諸島は中国領と確認している

 ・・・
 ところが、清朝の第2回目の冊封使汪楫(オウシュウ)は、1683年に入琉するが、その使録『使琉球雑録』第5巻には、赤嶼と久米島の間の海上で、海難よけの祭りをする記事がある。その中に、ここは「中外ノ界ナリ」、中国と外国との境界だ、とつぎのように明記している。

 「24日(1683年6月)、天明ニ及ビ山ヲ見レバ則チ彭佳山也……辰刻彭佳山ヲ過ギ酉刻釣魚嶼ヲ遂過ス。……25日山ヲ見ル、マサニ先ハ黄尾後ハ赤尾ナルベキニ、何モ無ク赤嶼ニ遂至ス、未ダ黄尾嶼ヲ見ザルナリ。薄暮、郊(或ハ溝ニ作ル)ヲ過グ。風濤大ニオコル。生猪羊各一ヲ投ジ、5斗米ノ粥ヲソソギ、紙船ヲ焚キ、鉦ヲ鳴ラシ鼓ヲ撃チ、諸軍皆甲シ、刃ヲ露ハシ、(よろい・かぶとをつけ刀を抜いて)舷ニ伏シ、敵ヲ禦グノ情ヲナス。之ヲ久シウシテ始メテヤム。」
 そこで、汪楫が船長か誰かに質問した。「問フ、郊ノ義ハ何ニ取レルヤ。」(「郊」とはどういう意味ですか)と。すると相手が答えた。
「曰ク、中外ノ界ナリ。」(中国と外国の界という意味です)。
 汪楫は重ねて問うた。
「界ハ何ニ於テ辨ずるや。」(その界はどうして見分けるのですか)相手は答えた。
「曰ク懸揣(ケンズイ)スルノミ。(推量するだけです)。然レドモ頃者ハアタカモ其ノ所ニ当リ、臆度(でたらめの当てずっぽう)ニ非ルナリ。」


 右の文には少々注釈が必要であろう。釣魚諸島は、中国大陸棚が東海にはり出したその南のふちに、ほぼ東西に連なっている。列島の北側は水深200メートル以下の青い海である。列島の南側をすこし南へ行くと、にわかに水深千数百から2千メートル以上の海溝になり、そこを黒潮が西から東へ流れている。とくに赤尾嶼付近はそのすぐ南側が深海溝になっている。こういう所では、とくに海が荒れる。またここでは、浅海の青い色と深海の黒潮との、海の色の対照もあざやかである。

この海の色の対照は、1606年の冊封使夏子楊(カシヨウ)の『使琉球録』にも注目されており、「前の使録の補遺(私は見ていない──井上)に『蒼ヨリ黒水ニ入ル』とあるのは、まさにその通りだ」とある。そして清朝の初めには、このあたりが「溝」あるいは「郊」または「黒溝」、「黒水溝」などとよばれ、冊封使の船がここを通過するときには、豚と羊のいけにえをささげ、海難よけの祭りをする慣例ができていたようである。過溝祭のことは、汪楫使録のほかに1756年入琉の周煌(シュウコウ)の『琉球国志略』、1808年入琉の斉鯤(サイコン)の『続琉球国志略』に見えている。

 これらの中で、汪楫の使記は、過溝祭をもっともくわしくのべているばかりでなく、溝を郊と書き、そこはたんに海の難所というだけでなく、前に引用した通り、「中外ノ界ナリ」と明記している点で、もっとも重要である。しかもこの言葉が、ここをはじめて通過した汪楫に、船長か誰かが教えたものであることは、こういう認識が、中国人航海家の一般の認識になっていたことを思わせる。

 ・・・

 徐葆光は、渡琉にあたって、その航路および琉球の地理、歴史、国情について、従来の不正確な点やあやまりを正すことを心がけ、各種の図録作成のために、とくに中国の専門家をつれていったほどである。かれは琉球王城のある首里に入るとすぐ王府所蔵の文献記録の研究をはじめ、前に紹介した程順則および程より20歳も若いが、彼につぐ当時の大学者──とくに琉球の王国時代を通じて地理の最大の専門家蔡温(サイオン)を相談相手とし、8ヶ月間琉球のことを研究した。
『中山傳信録』は、こうして書かれたものであるから、その記述の信頼度はきわめて高く、出版後まもなく日本にも輸入され、日本の版本も出た。そして本書および前記の『琉球国志略』が、当時から明治初年までの、日本人の琉球に関する知識の最大の源となった。この書に、程順則の『指南広義』を引用して、福州から那覇に至る航路を説明している。それは、従来の冊封使航路と同じく、福州から、鶏龍頭をめざし、花瓶、彭佳、釣魚の各島の北側を通り、赤尾嶼から姑米山(久米島)にいたるのだが、その姑米山について
「琉球西南方界上鎮山」と註している。

 ・・・(以下略)

---------------------------------
5 日本の先覚者も中国領と明記している

 これまで私は、もっぱら明朝の陳侃、郊汝霖、胡宗憲および清朝の汪楫、徐葆光、周煌、斉鯤の著書という、中国側の文献により、中国と琉球の国境が、赤尾嶼と久米島の間にあり、釣魚諸島は琉球領でないのはもとより、無主地でもなく、中国領であるということが、おそくとも16世紀以来、中国側にははっきりしていたことを考証してきた。この結論の正しいことは、日本側の文献によって、いっそう明白になる。その文献とは、先に一言した林子平の『三国通覧図説』の「付図」である。


 『三国通覧図説』──以下では、略して『図説』ということもある──とその5枚の「付図」は、「天明5年(1785年)秋東都須原屋市兵衛梓」として、最初に出版された。その1本を私は東京大学付属図書館で見たが、その「琉球三省并三十六島之図」は、たて54,8センチ横78,3センチの紙に書かれてあり、ほぼ中央に「琉球三省并三十六島之図」と題し、その左下に小さく「仙台林子平図」と署名してある。この地図は色刷りであって、北東のすみに日本の鹿児島湾付近からその南方の「トカラ」(吐葛刺)列島までを灰色でぬり、「奇界」(鬼界)島から南、奄美大島、沖縄本島はもとより、宮古、八重山群島までの本来の琉球王国領は、うすい茶色にぬり、西方の山東省から広東省にいたる中国本土を桜色にぬり、また台湾および「澎湖三十六島」を黄色にぬってある。そして、福建省の福州から沖縄本島の那覇に至る航路を、北コースと南コース2本えがき、その南コースに東から西へ花瓶嶼、彭隹(佳)山、釣魚台、黄尾山、赤尾山をつらねているが、これらの島は、すべて中国本土と同じ桜色にぬられているのである。北コースの島々もむろん中国本土と同色である。

 ・・・(以下略)

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