真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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慰安婦狩り、監禁、強かん、殺人の証言

2019年07月29日 | 日記

 元「慰安婦」の証言集を読むと、朝鮮や台湾から連行され、慰安婦にさせられた女性の多くは、騙されて慰安婦にさせられたということがわかるのですが、フィリピンや中国でなどの戦地、占領地では、下記のように、日本軍の兵士が直接女性を暴力的に連行し拘束して慰安婦にしたことがわかります。軍と住民との関係が敵対的であったためではないかと思います。

 日本は、こうした元「慰安婦」の証言を、事実の証言として受け止め、元「慰安婦」の方々にきちんと向き合って、一日も早く謝罪と賠償をすべきだと思います。元「慰安婦」の証言は多様です。こうした感情が伴う証言を、支援者などが創作して覚えさせ、事実と異なることを証言させているなどと受け止めたり、売春婦だった人たちが、お金欲しさに嘘をついているのだなどと受け止めて、責任逃れをすることは、恥ずかしいことではないかと思います。
 国連人権委員会より任命され、女性に対する暴力に関する特別報告者となったラディカ・クマラスワミ氏(スリランカ出身、ニューヨーク大学法学部教授)は、日本軍の「軍事的性奴隷問題」についての報告書のなかで、

それでも徴収方法や、各レベルで軍と政府が明白に関与していたことについての、東南アジアのきわめて多様な地域出身の女性たちの説明が一貫していることに争いの余地はない。あれほど多くの女性たちが、それぞれ自分自身の目的のために公的関与の範囲についてそのように似通った話を創作できるとは全く考えられない。

 と書いています。私もその通りだと思います。日本が責任逃れを続ける限り、東アジア諸国の日本軍「慰安婦」問題に関する追及は続くと思います。根本的解決に至らないと、将来世代も恥ずかしい思いをすることになるのではないかと思います。根本的解決に至れば、過去の問題になり、将来世代が恥ずかしい思いをすることはないのだと思います。

 下記は、「フィリピンの日本軍慰安婦 性的暴力の被害者たち」フィリピン「従軍慰安婦」補償請求裁判弁護団(明石書房)から抜粋しましたが、

” 戦争被害者の生き残りの一人として私にできることは、私の経験をもって、すべての政府と国際社会に、戦争がもたらす女性への暴力についての教訓とさせることだけです。しかし日本政府がわたしたちに負う、その責任に向きあわない限り、この教訓も学ばれず、完全に目的を遂げることができません。

 という主張は、無視されてはならないと思うのです。

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                  父を殺され、将来を破壊された
                                                      トマサ・サリノダ
 私はトマサ・サリノダです。1928年12月8日、アンティケ州州都のサンホセに生まれました。母は私の生後一ヶ月で亡くなり、きょうだいはおりません。
 1942年に日本がフィリピンを占領したときには私は十三歳でした。私は父と山へ疎開しましたが、州知事が州都は安全になったと宣言したことを期に家へ戻りました。山から家へ戻る途中に初めて日本兵を見ました。サンホセは日本兵であふれていました。
 日本軍の駐屯地が家の近くにあったので通りを行く日本兵をよく見かけました。兵士たちは私のじゃまをすることも、私たちを傷つけることもしませんでした。少なくともしばらくのあいだは。
 しかし、二週間後、父と私が寝ているところへ、日本兵が押し入って来ました。外にはほかに二人が待機していました。二人の兵士が私を連行しようとしたため、父は抵抗しました。するとそのうちの一人、後でヒロオカ大尉と知るのですが、彼が剣で父の首を打ちました。父を助けようと駆け寄り、抱き起すと頭がなくなっていました。あまりの悲しさに泣き叫ぶ私を日本兵は容赦なく家から引きずり出しました。私は父の亡骸につきそいたいと、放してくれるように頼んだのですが、日本兵は気にもとめませんでした。首を切り落とされた父の亡骸はそのまま放置されました。
私はサンホセのゴビエルノ通りにある二階建ての家に連れていかれました。日本軍の駐屯所がすぐ近くにありました。日本兵は私をなかに入れ、鍵をかけて出ていきました。夜中に私は父のことを思い、泣き続けました。
 夜明け前にヒロオカ大尉と他の兵士が部屋に入ってきました。彼らは、弱っていて、打ちひしがれている私にセックスを強要しました。私は強く抵抗しましたが、ヒロオカは私を強かんしてしまいました。ヒロオカの後に次の兵士が強かんしようとしました。私は弱っていましたが、再び強く抵抗すると、その男は何かで私の頭を殴り、私は気絶しました。意識が戻ったときにはだれかが私の頭の傷をお湯で拭っていました。
 その後三日間は部屋のなかに一人おかれ、日本兵は来ませんでした。しかしその後は日本兵が来て私を強かんしました。私は何度も気を失ったので何人に強かんされたのか覚えていません。毎日二人から五人くらいの兵士に強かんされました。
 どのくらいその家にいたかは覚えていません。自分が正気を失ってしまったと思えることもありました。部屋のなかにただ座って何時間もぼんやりと宙をみつめていました。いつも父のこと、どうやって殺されたかを思い出していました。父がどこに埋葬されたのかもわかりません。
 ある日兵士が部屋のテーブルの上に鍵を忘れたのを機に逃げ出しました。ある夫婦の家へ逃げ込み、かくまってもらい、私は家事の手伝いをしていましたが、長くは続きませんでした。オクムラという日本兵が来て、引き渡さなければ殺すと夫婦を脅し、私を連れ出しました。
 私はオクムラの家へ連れていかれ、奴隷のように扱われました。洗たくや掃除を命じられたほかにオクムラが帰るたびに強かんされました。オクムラは来客があると、その者に私を強かんさせることもしました。けれども私はオクムラの家から逃げだそうとは考えませんでした。逃げたら殺されるか拷問される、という思いと、あの大きな家で多人数の日本兵にセックスを強要されるよりは、オクムラの家のほうがまだましだという思いからです。
 日本軍がサンホセから完全にいなくなって私はオクムラから解放されました。
 それ以来ずっと一人で暮らしています。日本兵によってとても深く傷つけられたため、結婚したいとは一度も思いませんでした。日本の占領中に辱められた経験を思い出すたびに苦痛と恥ずかしさでいっぱいになります。日本軍によって父が殺されたこと、性奴隷にされたことを思い出すたびに泣いたものでした。戦争中の辛い体験から何年たっても、ときおり父のことを考えては、何時間も座り続けることがあります。
 戦争によって父は殺され、私は唯一の身寄りを失くしました。学校へも行けず裁縫をして生計をたててきました。性奴隷とされたことによって私の人生、将来が破壊されてしまったのです。
 若いころは何人かの男の人に好意を寄せられましたが、すべて断りました。セックスのイメージには暴力と強かんの記憶がつきまとうからです。それは汚らしく、寒気のするものでした。交際を断った際にある男性には、「日本人を何百人も相手にするほうがいいのだろう」と侮蔑され、家に投石までされました。自分の子どもはほしかったのですが、この経験のせいで結婚しないほうを選んだのです。
 1992年の終わりに、ある女性団体が、第二次世界大戦に性奴隷制度の被害者になった私のような女性に呼びかけていると知りました。「とうとう正義が回復される」と希望の光を見た思いでした。イロイロにあるその女性団体「ガブリエラ」の事務所を通して、タスク・フォースと連絡を取ることにしました。お金がなかったので、毛布を売って交通費を捻出しました。タスク・フォースの人びとに自分の体験を話した後には、大きな安堵感に包まれました。長いあいだずっと、誰かわかってくれる人に戦争中の苦しい体験を全部打ち明けたかったのです。初めて受け入れられ、理解されたと感じることができました。それはまるで胸からいっぱいのとげを抜き去ったかのようでした。
 しかし、名乗り出ることによってさらに傷つきもしました。近所の人に「補償金が入るのだから強かんされて運がよかった、戦争で金儲けができた」などといわれています。
 それでも提訴する決心をしたのは、これが日本軍によってなされた悪に対して正義を取り戻す一つの方法だからです。日本政府は五十年間も私たちに対する責任を取らずにすませてきました。私たちになされた戦争犯罪と強かんの事実は、私やそのほかの元「慰安婦」の証言によって指摘されています。
 戦争被害者の生き残りの一人として私にできることは、私の経験をもって、すべての政府と国際社会に、戦争がもたらす女性への暴力についての教訓とさせることだけです。しかし日本政府がわたしたちに負う、その責任に向きあわない限り、この教訓も学ばれず、完全に目的を遂げることができません。
 私は日本政府がすべての性奴隷制度の被害者に対し、その法的責任を果たし、誠意ある謝罪を行い、補償するように求めます。これが私に理解できる唯一の正義の表現です。単なる言葉では、私の経験した屈辱と苦悩を和らげることはできません。日本軍によって私は父をなくしました。父さえ生きていたら私は今頃、ここにいる裁判官のかたがたのように立派な仕事をしていたことでしょう。戦争中の性奴隷、「慰安婦」制度は戦時にあって私たち女性がもっとも被害を受けるのだということを醜く例証しています。
 私はすでに年老い、貧困のうちにひとりで暮らしています。食べるものにも困り、健康を害しているのでもう長くは生きられないでしょう。正義がすぐに実現されることを望みます。十分すぎるほど苦しみました。体は弱り、健康状態も日々衰えていっています。ですから日本政府は、そしてここにいらっしゃる裁判官のかたがたに、正義の実現をこれ以上遅らせないでくださいと訴えます。お願いですから、どうか、自分の人権と正義が回復されるのか否か、わからないままに私を死なせないでください。(第一回裁判での意見陳述による、秋田一恵弁護士担当)

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強制連行、監禁、強かん

2019年07月27日 | 国際・政治

 戦時中の、日本軍による戦争犯罪は、日本軍「慰安婦」の連行、監禁、強かんの問題だけではないと思います。戦地でくり返された捕虜の虐待、拷問、斬殺、強制労働や初年兵の捕虜刺突訓練、細菌戦準備のための731部隊による人体実験、細菌兵器の実戦使用、進軍途上で行った民間人の殺害、毒ガス兵器の使用、無差別爆撃なども戦争犯罪であり、明らかに法や道義を無視したものだったと思います。そうした戦争犯罪にきちんと向き合うことが、それらの犠牲となった人たちやこれからの日本にとって大事であると思います。だから、下記のような証言を、事実の証言として受け止め、見舞金で済ますようなことをせず、誠意をもって対応する必要があると思うのです。

 下記は、「フィリピンの日本軍慰安婦 性的暴力の被害者たち」フィリピン「従軍慰安婦」補償請求裁判弁護団(明石書房)から、テオドラ・コグロン・インテスの証言を抜粋しました。
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                  十人が監禁されていた
                                             テオドラ・コグロン・インテス
 私は、1927年4月27日、ネグロス島ネグロス・オシキデンタル州カラトラパ町で、五人姉妹の次女として生まれました。父はヤシ酒職人、母は野菜売りをしていました。現在、両親はすでに亡くなり、姉妹とも、1956年に私がマニラに出てきて以来音信はありません。
 戦争前の私の家族の生活は、決して楽ではありませんでしたが、それでも家族で力を合わせて何とか暮らしていました。母は、私が七歳のとき身体に水のたまる病気にかかり、子どもたちは、私を含めて小学校を一年か二年で休学して、母に代わって市場で野菜を売ったり、農作業をしたりしました(なお、私は、戦後に再び学校に通い、小学校四年生まで終えています)。
 日本軍が私たちの住んでいた町にやってきたのは1942年のことで、当時私は十四歳くらいでした。その日の朝十時ごろ、日本軍の兵士はトラック二台に鈴なりとなって町に来て、市場に乗りつけるや、たくさんの人を捕まえはじめました。そのとき、私は市場で野菜や米を売っていましたが、逃げるまもなく、二人の日本兵に腕をつかまれ連れて行かれそうになりました。この日本兵らは、肩まで垂れた縁の帽子をかぶり、肩にはバッジのようなものをつけていました。私は抵抗しようとしたのですが、銃剣で顔と太ももを殴られ気絶してしまいました。このとき、倒れた拍子に木切れのようなものが左のももに突き刺さり、その傷のあとは今でも残っています。
 気がついたとき、私は、どこかの家の部屋のなかに運ばれていました。太陽のぐあいから見て、午後五時ごろだったと思います。部屋のなかには、私のほかにも、市場で見かけたことのある四人のフィリピン人女性がおり、私が気がついた直後にそのうちの一人が外へ逃げ出しました。そのとたん、外で銃声が聞こえ、私たちは彼女が殺されたことを知りました。
 私は、気がついたときのほかの四人のようすから、強かんをされるだろうということがわかりました。恐ろしくてどうしてよいのかわからないでいると、日本兵二人とフィリピン人の日本軍協力者(通訳)とが部屋に入ってきて、私にタオルを渡し、シャワーを浴びてタオルを体にまとうようにと指示しました。私は、日本兵と通訳に連れられて階段を下り、階下のバスルームに行ってシャワーを浴びました。それから、もといた部屋に連れ戻されると、すぐに二人の日本兵が部屋に入ってきて、部屋にあったベッドの上で一人が私の足を押え、もう一人に強かんされました。この二人は、私を市場でつかまえた兵士で、後でリョウナン、ミソダ(ミズタ?)と呼ばれていることを知りました。二人のうちリョウナンのほうが位が上ではないかとの印象を持ちました。
 私は当時、初潮を迎えたばかりで、もちろん処女でした。このときのショックが大きく、その後一週間くらい高熱が続いて、この一週間のはっきりした記憶はほとんどありません。しかし、そのあいだにもやってきた何人もの日本兵から強かんされ続けたことは覚えています。
 一週間して熱がひくと、私は食事の支度などをするように命令され、家のなかを歩きまわることが許されました。そこで、窓から外を見て、初めてそこが町から五百メートルくらい離れた金持ちの古物商の家であることがわかりました。その家は、州都であるバゴロドヘ通じる幹線道路に面しており、背後に海があって、一階はコンクリート造り、二階は木造りの建物でした。私の監視されている部屋は二階にあって、ベッドが二つとソファーとテーブルがあり、私と同じ日に連れてこられた三人のフィリピン女性がいっしょに閉じこめられていました。この三人のうち二人の名前は、スリンとインダイで私より少し年上だったと思いますが、もう一人については忘れました。私も含めて四人のフィリピン人女性は、いつもタオルを身にまとうだけのかっこうでいるようにと命令され、部屋の外には銃を持った兵士が常に見張りに立っていました。
 その後の私たちの生活は、毎日朝三時に起床し、日本兵の相手をした後、朝食や昼食の準備、後片づけをし、午後に再び何人かの日本兵の相手をするという毎日でした。この家には全部で二百人くらいの日本兵がいて、入れかわり立ちかわり私を強かんしましたが、夜にはリョウナンとミソダがよく来ました。私は最初のころは日本兵の相手をさせられることに抵抗していたのですが、そのたびに殴られ、同じ部屋にいたフィリピン人女性に、「どうせ殴られるだけだから言われるままにしたほうが良い」と言われ、他の二人は、「初日に殺された女性のように殺されてしまう」と反対し、結局は思いとどまったこともありました。このようにして私は言われるままに日本兵の相手を続けましたが、そのあいだじゅう、自分が自分でないような、自分の身の上に起こったことが信じられないという気持ちでした。今考えれば、監禁されているあいだ、私は豚のように扱われていたと思います。
 リョウナンはいつもコンドームを使用していたように思いますが、他の兵士はどうだったかよく覚えていません。私がこの家に閉じ込められているあいだ、医者の診察などは一切ありませんでした。
 この監禁中に、リョウナンは私に簡単な日本語を教え、今でも「おはよう」「こんにちわ」「こんばんは」「どうもどうも」「ともだちだよ」「たくさんたくさんありがとう」といった言葉を覚えています。
 私たちがこの兵舎に連行されてから一ヶ月くらいして、リョウナンが、部隊が他所へ移動すると教えてくれました。これは、アメリカ軍の侵攻などによるものではなく、単に移動し、後で代わりの部隊が到着する予定だとのことでした。部隊が移動する当日、日本兵がいなくなったのを確認して、監禁されていた女性たちは、あわてて各々の家へ帰りました。この日、私は初めて、自分のほかにも女性たちが同様に別の部屋で監禁されていたことを知りました。この家には合計十人くらいの女性が監禁されていたようでした。なお、この日本軍の部隊は、このとき、州都へ移動したと聞いています。
 私が家へ帰ってみると、焼払われて家はなく、家族は焼跡にバラックを建てて住んでいました。私が帰ったとき、家族は生きて帰ったことを非常に喜んでくれました。私が「慰安婦」をさせられていたことを話すと、両親はとても悲しみましたが、とにかく生きていてよかったと言ってくれました。そして一ヶ月くらいたって、何かの拍子に最初に強かんした二人の日本兵の顔が浮かんで、突然正気に戻りました。
 私は、1950年にフィリップ・インテスと結婚しました。私は、「慰安婦」とされた体験から、男性を憎むようになり、本当は結婚などしたくなかったのですが、両親から強く勧められて結婚したのです。夫は、結婚前に近所の人から、私が「慰安婦」をさせられていたことを聞いたらしく、私に対して、「それは本当か」とたずねてきました。私はそれに対して「本当だ」とだけ答えました。夫はそれ以上は何も言わず、私たちは結婚しました。
 夫とのあいだには八人の子どもに恵まれ、皆無事に成長しました。
 現在は、養女(十一歳)と二人で暮らしており、私が市場で店を借りて果物や野菜を売って生活しています。この収入で食べて行くだけのことは一応できますが、それ以外に、医療費や薬代などが必要なときは、高利貸しから借金をしてその場をしのいでいる状態です。健康状態としては、首筋や背中に痛みがあって、医者に見せたところ肺機能が弱っていると言われました。医者に通いたいのですが、お金がなく、それもできません。
 私は、今でも日本兵から強かんに強かんを重ねられたことが忘れられません。今でもときどきその夢を見ます。
 私が元「慰安婦」として名乗り出ようと決心したのは、同じ地区に住む元「慰安婦」が名乗り出ていて、日本の弁護士が調査にきたことがきっかけでした。彼女が自分の身に起こったことを話し謝罪を求めていることを知って、私も、戦争当時に何が行われたのかを伝え、きちんと謝罪し補償してほしいと思い、名乗り出ることにしたのです。
 私が名乗り出る決心をしたとき、私は子どもたちに、自分が「慰安婦」をさせられていたこと、名乗り出ようと思うことを話しました。子どもたちのうち一人は、私が新聞やテレビに出てそのことが広まるとどんな反響があるかわからないと心配しましたが、結局、その子も含めて私が名乗り出ようとする気持ちをわかってくれました。(幸長裕美弁護士聴取)
 

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中国に連行された「慰安婦」、鄭学銖の証言

2019年07月25日 | 国際・政治

 日本軍「慰安婦」の問題に対する日本政府の対応に問題があることは、20153月、シカゴで開催されたアジア研究協会(Association for Asian Studies)定期大会がきっかけとなって、同年55日に発表され、日本政府にも送付されたという在米歴史学者や日本研究者等187人による「日本の歴史家を支持する声明」で明らかだと思います。

 その声明のなかに、下記のようにあります。 

”…大勢の女性が自己の意思に反して拘束され、恐ろしい暴力にさらされたことは、既に資料と証言が明らかにしている通りです。特定の用語に焦点をあてて狭い法律的議論を重ねることや、被害者の証言に反論するためにきわめて限定された資料にこだわることは、被害者が被った残忍な行為から目を背け、彼女たちを搾取した非人道的制度を取り巻く、より広い文脈を無視することにほかなりません。 

 安倍政権は、一貫して「政府が発見した資料には軍や官憲による強制連行を直接示すような記述は見られなかった」という主張をくりかえし、それだけを根拠にこの問題を決着させることを意図して韓国と交渉しました。そして、またしても、慰安婦であったことを名乗り出た人たちに向き合うことなく、201512月に”最終的かつ不可逆的な解決”というような言葉を使った慰安婦問題日韓合意の発表に至ったのです。下記のような元慰安婦の証言は、事実を語ったものとして受けとめられていないのです。

 

 それは、安倍首相がその後、日韓合意について、「戦争犯罪のたぐいのものを認めたわけではない」と言ったことが報道されたことからも明らかです。上記の在米歴史学者や日本研究者等187人による声明が完全に無視されているということだと思います。 

 日本軍「慰安婦」の問題を知る人たちは、日本が敗戦前後に多くの公文書を焼却したことを知っています。また、日本政府が、この問題の真相究明をしようとしないだけでなく、真相究明に必要な関係資料を、今なお非公開にしていることに不信感を持っています。

国連人権委員会より任命された女性に対する暴力に関する特別報告者ラディカ・クマラスワミ氏は、「戦時における軍事的性奴隷問題に関する朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国および日本への訪問調査に基づく報告書」のなかで、

第2次世界大戦直前および戦争中における軍事的性奴隷の徴集について説明を書こうとする際、もっとも感じる側面は、実際に徴集が行われたプロセスに関して、残存しあるいは公開されている公文書が欠けていることである。

と、本来あるべき公文書がないことを指摘しているのです。

 安倍政権のような対応では、国際社会の信頼は得られないと思います。だから、安倍政権の意図に反して、世界中に慰安婦の少女像が設置されていくことになるのではないかと思います。過去のあやまちを素直に認めなければ、将来世代が、野蛮な軍国主義を引きずる国民として、苦しい立場に立たされることになるのではないかと思います。

 積極的に真相究明をしようとせず、厖大な戦争に関わる公文書を焼却処分したり、重要文書を非公開にしておきながら、「政府が発見した資料には軍や官憲による強制連行を直接示すような記述は見られなかった」と主張し、慰安婦であったことを名乗り出た人たちの証言を受け入れないのは恥ずかしいことだと思います。また、日本軍「慰安婦」の問題は、上記声明文にあるように、強制連行だけが問題なのではないのです。本人の意思に反して拘束したこと、性行為を強要したこと、人身売買の問題なども含まれているのです。

 

 下記は、「中国に連行された朝鮮人慰安婦」韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会:山口明子訳(三一書房)から、証言部分のみを抜粋しましたが、日本軍「慰安婦」の問題が、戦争犯罪に関わることは否定しようがないと思います。

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                   故郷の歌に悲しみをこめて…

                                               鄭学銖(チョン・ハクス)

 

 幼いときから他家で働いてきた 

 私は1925524日(陰暦)、慶尚北道甘浦のチョンゴルで長女として生まれた。私の家はとても貧乏で、農地もなく、父親が日雇いで生計を立てていた。

 母親は魚の加工処理をする日本人の工場で働いていたが、日本人からしじゅう虐待されて、私が七歳になった年に亡くなった。兄さんは父親と一緒に地主の家の農作業を手伝ったり、あちこちをめぐり歩いて臨時工として仕事をし、私は幼い弟妹の面倒を見ながら、家の中の仕事を主にしていた。

 私が九歳のとき、父の病気のために、地主から借りた薬代を返すために、その地主の家の女中として働くことになった。幼い年齢であらゆる仕事をみんなやった。ある時には地主が私に、向かいにある日本人の工場にこっそり鉄条網を潜って入り、米をくすねて来るようにと言った。これは本当に危険を冒してしなければならないことだったが、地主がやれというので、どうしてもやるしかなかった。一度は泥棒に入ったが、見つかって急いで逃げ出すとき、鉄条網に刺されて血がたらたら流れたりした。

 他の家で仕事をしてあげた時、扇子に描かれた太極旗を見たので国旗を覚えている。 

 ある日、外で私をよんでいると聞いて、お手洗いに行くとごまかして出てみると、父と兄弟たちが私を待っており、そのまま甘浦をたった。私たちは浦項、蔚山を経て、食べる物を求め、日雇いもしながら、釜山へ逃げた。

 このような子ども時代を送ったので、学校の門の前さえ行ってみる機会がなかった。よその子たちが楽しそうに学校に通うのをみて、胸が痛かったことが思い出される。

 私が十二歳ぐらいになった時には、私たちの家族はみな釜山にいるようになったが、それぞれがばらばらに働かねばならなかったので、しじゅう会うことはできなかった。どこで仕事をしても、苦労して、希望がなかった。

 

 日本人の軍人に捕まって

 そうしたある日、私が働いていた家の主人の息子が私を強かんしようとし、私は死にもの狂いで反抗して、やっと逃げ出した。無我夢中で逃げ出して、一人で釜山の海辺に来て、涙を流しながら「連絡船は出て行く…」という歌を歌って自分の身の上を嘆いていた。その時、突然、後から数人の日本人軍人が現れた。私は反抗することもできず、口と目を押さえつけられたまま、軍用トラックに乗せられた。その時、私は十四歳(1938年)だった。

 すぐに釜山駅に連れて行かれ、軍用列車に乗せられた。汽車の中はほとんど軍人だったが、私たちの車両には朝鮮の女の子がたくさんいた。お手洗いに行くときまで、軍人たちがついて来て監視をし、汽車の中から外を見ることもできないようになっていた。汽車の中では朝鮮の女の子同士で自由に話をすることも出来ないまま、自分たちの境遇を嘆きながら数日間を過ごした。食事は一日三食くれたが、簡単な握り飯だった。

 ついに汽車はどこかに停まり、降りる時に、そこの人たちが話していることを聞いて私が今着いたのは満州のハルピンだということがわかった。

 その時一緒に来た女の子たちは、十四歳からニ十歳くらいまでで、その中でも私はいちばん若い方だった。多くの女たちは、大邱、慶州、釜山の地域から捕まって来た。

 

 部隊について行って慰安婦生活をした

 私のいたハルビンの慰安所は軍隊内にあって、一階だけのテントのようなところの小さな部屋に布団と布団入れ、洗面器があった。

 慰安所には全部で二十人の朝鮮人慰安婦がいた。髪の毛を強制的に短く切れら、日本の着物を着て、日本語と日本の歌を覚えた。私たちを管理する主人は日本人夫婦だった。

 軍人たちは慰安所に入って来る時に主人に金を渡すので、軍人たちがいくらの金をだしたのかはよくわからない。私は主に将校たちの相手をした。一日にニ、三人の将校を相手にすることもあり、もっと大勢のこともあった。軍人たちはほとんどサックを使った。私が初めて相手をした将校は「マモル」という名前だった。おかみさんが私の部屋に連れて入って来て、「こわがることはないよ、何でもないから」という冷たい言葉を残したまま部屋の戸を閉めて出て行ってしまった。私は恐ろしくて、部屋の隅に身を縮めていた。軍人が近付いてきて強かんしようとしたので、私は彼の顔や腕に噛みついて抵抗した。けれど、それ以上は抵抗できなかった。

 ある将校は、言うことをきかないといって、縛っておいて、自分たちのやりたいままに欲望を遂げた。あらゆる手段と方法を尽くして、自分の野望を満たす野獣のような軍人を見ると、歯の根が合わないほど震えた。私はしじゅう反抗したので、たくさん殴られた。私が殴られて気絶すると、主人は冷たい水を吹き掛けて正気づかせた後、しばらくの間閉じこめて、ご飯もくれなかった。

 食事は三度くれたが、ゆっくり食べられるときは稀だった。休日はなかった。日曜日も外出は禁止されて外出出来なかったが、時々、日本の軍人が宴会をするときには宴会の場所について行き、酒を注いでやったり、歌を歌ったり踊ったりして、興をそえた。

 ある軍人たちは時々、少しのお金をくれた。その金で主に化粧品や日用品を買った。主人からは月給や金を貰ったことはない。

 私たちは、しじゅう反抗し、機会があれば逃げ出そうとしていたため、ある日、主人は私たち全員を集合させた。私たちをハルビンのある工場の庭に連れて行った。しばらくすると、日本の軍人たちが、たくさんの中国人の女たちを縛って連れて来た。女たちの着ているものを脱がせた後、手足を板に縛りつけておいて、凶悪な日本の兵士たちが輪かんした。大勢の兵隊が列を作って自分たちの番を待った。あらゆる方法で輪かんした後、その女たちを拷問した。とうがらし水を下半身に注いだり、長い刀で所かまわず刺したりしながら、苦しみもだえる姿を見て喜んだ。ある者たちは石油を振り撒いて火をつけたり……、到底、想像もできない方法で拷問すると、中国の女たちは、一人、また一人と死んでいった。この光景を見た私たちは、これ以上反抗する気持ちも出ないまま、毎日の生活を続けるほかなかった。

 一週間に一回ずつ病院に行って性病検査を受け、性病にかかっている人は606号の注射を受けなければならなかった。兵士たちの相手をする女たちは性病にかかることが多くて苦労した。

 私たちは客を迎える前に、液体の避妊薬を茶わん一杯ずつ飲まなければならなかった。それでも、ある女は誤って妊娠し、子どもを分娩したが、嬰児はすでに性病によって腐って死んでいた。赤ん坊を産んだ女はある日行方不明になった。

 ある者は死んで出て行き、ある者は売られて出て行き、またある者は部隊について移動していったために、しじゅう慰安婦はかわって友だちと親しく付き合う暇もなかった。ただ、毎回、同じ運命におちいった他の慰安婦たちと出会った。

 当時の私の日本名は「モリヤ・スズコ」だった。後では「カネコ」とよばれた。慰安所では特に親しい友人もなく、毎日一人で自分の身の上を嘆きながら、故郷を懐かしく思い、父親を怨んだ。「私たちが釜山に来ないで、甘浦にいさえすれば、こんなことはなかったのに、なぜアポジは私たちを連れて釜山に行ったのか?」日帝を怨むことができないで、父親を怨んで怨んだ。

 こうして悲しみに浸っているときは、故郷の歌を歌った。「アリラン、アリラン、アラリヨ、アリラン峠を越えていく」、「泣くな、福南よ、故郷を離れて行くとき、雨が降ろうと雪が降ろうとよく働くから、母さんどうか安心なさい……」、「汽車は出て行く、黒い煙と残る煙が、私を泣かせる」、「いつの日帰るふるさとか、父母いずこ、はらからいかに、姉は満州にいるのです」、「情にほだされ、金に泣く、ああわが身の上、ああ…ふたたび来られぬ…」

 1940年のある日の朝、私は軍隊について移動して、山東省にある棗庄へ行った。基本的な環境と生活はハルビンにいたときと変わらなかった。ここでも軍隊の中にある慰安所に寝泊まりした。主人も日本人夫婦だった。私は折りさえあれば、逃げ出そうとした。ここでも反抗的だという理由でよく殴られ、ひどい拷問を受けた。

 ある時は、顔をちゃんと化粧もせず、日本人軍人に反抗したという理由で、殺気立って殴られた後、また狭い監獄のようなところに閉じ込められた。

 ふだん、慰安所で雑役を手伝ってくれていた中国人の老人李さんが、私の置かれた境遇があまりにも気の毒だといって、私が逃げるのを助けてくれた。漆のように真っ暗な夜、カチャッ、カチャッという音が聞えてきて、私ははじめは、ねずみが走っているのかしらと思った。しかし、まもなく、煉瓦が外されて、おじいさんの声がした。「娘さん、早く出なさい。私はあなたを助けに来たよ」。おじいさんは私を民家に連れて行ってしばらく隠しておき、服を着替えさせて、中国のお金を少しくれ、中国の名前を李天英とつけてくれた。私はこの老人への感謝を忘れないために、今もこの名前を使っている。

 おじいさんは私に山の方へ逃げろと言った。そして、山の方に逃げて行くと二人の女と出会った。私はあまりびっくりして、また、警戒する気持ちで、お互いに身分を聞いたところ、彼女たちも朝鮮人慰安婦で逃げ出してきたところだといった。

 私たちはおなじ身の上なので、ずっと一緒に逃げたが、間もなく、出動した日本軍たちが私たちを追い掛けて来た。二人は射殺され、私は手榴弾の破片が当たって捕まった。今も私の左ふくらはぎには、そのとき手榴弾に当たった傷痕が残っている。

 私は捕まって拷問された後、再び監獄に入れられた。私を売り払ってしまおうという軍人たちもいたが、日本軍の必要によって、私をまた河北省石家庄に連れて行った。石家庄での生活環境もハルビンと似たりよったりだった。

 石家庄で数ヶ月過ごした後、部隊の移動について山西省臨汾に戻って来た。私が香港にいた時、初めて東京と北海道から来た日本人慰安婦たちにあった。

 

 国民党、共産党部隊の看護婦として

 1944年末、米軍が日本を爆撃し始めた。追い詰められて行く日本軍の戦況によって日本の軍人たちと慰安婦たちは悲観的な日々を送っており、防空壕に隠れてばかりいた。

 多くの人たちは遺書を書き、手当たり次第に食べたりして、死ぬ日を待っているありさまだった。こうした混乱の隙に乗じて私はまた逃げ出す冒険を選んだ。

 九死に一生を得てやっとのことで脱出して、ある小川のそばで釣りをしている五十歳ぐらいの男の人に出会って助けを求めた。その人の説明どおりに尋ねて行くと若い夫婦がいた。彼らは私の服を着替えさせてくれた後、部隊のいる山の方へ登って行けば助けてもらえるだろうと言った。その山に登って行ってみると、そこは思いがけないことに、国民党の軍閥の一つである閻錫山の部隊であった。日本人の走狗(手先)部隊だと言われていたので、私もこの部隊のことは知っていた。この部隊で私は慰安婦の頃に習った簡単な看護の技術で、看護婦生活をした。

 1945年日本軍が降伏した後、中国は共産党と国民党部隊が対立する緊張した状態に入った。私がいた閻部隊が共産党八路軍部隊に負けたので、私はまた共産党部隊で看護婦生活をすることになった。後には後方部隊に輸送されて、「闘争」病院でも看護婦生活をした。

 1946年春頃、中国共産党と朝鮮共産党の協定ができて、「朝鮮人は祖国に帰って国家に忠誠を尽くせ」というスローガンの下に、朝鮮人に故国に帰る道が開かれた。

 私は、共産党が書いてくれた紹介状と銀貨をもって、汽車に乗り乗り換えるために河南省安陽に行った。その時私は共産軍の服装をしており、胸に毛沢東勲章をつけていたために、安陽一帯を掌握していた国民党三二軍にスパイの嫌疑で捕まった。私が持っていたものは全部没収され、ちょっとでも夢見ていた帰国の希望は消えてしまった。

 国民党の軍人は私を拷問したが、特別な情報は得られなかったので、釈放させ、新郷にある日本人の拘留所に送って雑役を手伝わせるようにした。

 ある日、私が国民党三二軍の輸送部隊に行ったとき、故国に帰ろうとする何人かの朝鮮人と出会った。私はその時、故国へ帰りたかったのだが、周囲の人たちは、「あんた、今出て行ったら、外にいる人たちに売り飛ばされるだろうよ」というので、出ることをためらった。その時まで経験してきたことを考えると、恐怖感に襲われて、どうしていいかわからなかった。でも、結局、世の中があまりにも恐ろしくて、こわくなってそのままそこにいることにきめた。

 

 平坦でなかった結婚生活 

 国民党部隊の移動について河南省鄭州に到着した。軍隊の垣から逃れ出られないので、失意に陥った日々を送っていたが、周囲の人たちが三二軍砲兵隊の運転手を紹介してくれて彼と結婚した。それ以前よりは生活も安定したため、しばらくでも新婚の幸福を感じることができた。

 1948年頃、だんだん国民の支持を得ていた共産党と戦闘力が衰退しつつあった国民党三二軍が徐州で対決したが、ついに共産軍が優勢を占めるようになった。私の夫もこの戦争に参加した。当時の共産党の寛大な政策のおかげで国民党部隊の運転手であった夫もひどい拷問を受けることなく釈放され、一般人の生活をすることができた。

 1949年から後、私たちは夫の故郷である安徽省舒域県に定着した。この時、共産党の土地改革政策で茶を栽培できる小さな土地が配分され、しばらく平穏な暮らしをした。

 六・二五韓国戦争が勃発したとき、私は看護婦の資格で参戦を志願して、自分の故国に行ってみたかったのだが、家族たちの反対で夢を実現できず、夜を明かして泣いた。

 しばらくして夫は、仕事のために六安市へ行き、私は残って婚家の家族たちのために尽くした。六安市へ行った夫はしばらくたって行方をくらませてしまった。私がそれを知って、私たちの関係は終わりになった。その後少しして私に子どもがいないという理由で強制離婚された。

 離婚後、独り身で、あちこちを転々としながら、仕事をした。一時は建築現場で荒仕事もしたが、「生活態度不良」という罪名で労働教養所にに入った。

 労働教養所は、強制集団労働収容所のような所で、私はそこで豚と牛を飼った。私はそこで自分の人生をあまりにも惨めだと感じるたびに故郷の歌を歌った。一般の中国人は私が中国のどこか方言で歌っているのだろうと思って、別に気に留めなかった。しかし、私が歌っている故郷の歌と私がふだん頭に物を載せて運ぶ習慣に目を留めたある女性幹部が私を事務室によんだ。この女性幹部は韓国戦争のとき戦争に行ったので、朝鮮の習慣をだいたい知っていた。

 この時初めて、私の経歴が調査され、私の個人記録カードには、朝鮮人だということと慰安婦生活をしていたということが記された。私は労働教養所では、熱心に働いた結果、二十人の労働班の班長役をしたりした。

 1961年頃、労働教養所で一人の中国人男性と知り合い、1964年頃に再婚した。私は世間の暮らしに疲れていたので、人間不信におそわれていた。それで、身体はたいへんでも、心だけでも安まる農村で気楽に余生を送りたかった。だから、夫の故郷である安徽省の太和県の農村に帰ろうと言い張った。

 農村での生活は容易ではなかった。何もかも初めから覚えなくてはならなかった。私が労働教養所に行っていたことを知っている夫の親戚は私に対してひどく冷たかったし、私が子どもを産めないので、いっそうひどくいじめられた。

 こうした生活の難しさとともに、慰安所時代によく殴られて苦しんだためか、病気になって手術を何度も受けねばならなかった。私を追い出そうとする親戚たちのため、そこに留まっているのがあまりに辛くて、私は一人で他の地域に行って働いた。

 そこでも大病を患って労働も出来ず、飯が減るだけ仲間の労働者の負担になると非難されたので、とても辛かった。行くところもないのでまた夫のもとに帰ったが、だれも喜んで迎えてくれなかった。それからはずっと我慢してきた。

 1966年から1976年まで続いた文化大革命によってそれまでに分配されていた土地は全部人民公社に渡って国有化された。それまで少しあった土地もなくなって人民公社で一日中働かねばならなかった。この期間には、私が外国人の身分だということで、行動上の制約をたくさん受け、定期的に政府の人がやってきて、私の思想と態度を記録した。まちがっていると、公開非難の対象とされた。

 その頃、私が暮らしていた家は、雨が降れば雨が漏り、雪が降れば部屋に雪が吹きこみ、風が吹けば屋根が飛んでしまうような窓もない草ぶきの家だった。

 寝台もなく、凍てついた床に綿もない布団を広げて座り、寒い冬をすごさなければならなかった。雪の降りしきるある寒い冬の日、薪を探しに素足で外へ出て凍傷にかかり、足の踵が二センチぐらい割れて、冬じゅう苦しんだこともある。

 1971年頃、中国で北朝鮮の映画「花売る乙女」が上映されたが、その時私は合肥の病院で手術を受けて休んでいる時だった。医者は私に動いてはいけないと言ったが、私はその映画をどうしても見たくて、こっそり抜け出してその映画を見た。この映画を見たあと私は精神錯乱におちいり、野原に飛びだして「祖国へ帰るんだ、祖国へ帰るんだ」と泣き叫んで、気を失った。

 たまたまこのニュースを知った中国の青年が私を訪ねて来て、自分が私の息子になるからお互いに助けあって暮らそうといった。私たちはその日に母子の関係を結び、ずっと連絡をとりあって暮らしてきた。

 現在は国の保護対象者として、国から出る一月二十五元(韓国の金で2500ウォン、日本円で320330円程度)が私の生活費である。二十五元で夫と私が一月暮らさなければならないので、食べたい物も思うように食べられず、病気になっても病院に自由に行けない。こんな切り詰めた暮らしの中でも、私の養子が一月120元の月給の中から私によくしてくれているので、なんとか生活している。

 息子が韓国と中国が国交を結んだということを知って、私たちは書類などを準備して北京にある韓国大使館に行ってきた。それから後、私のいろいろなことが世間に知られた。南京にいる韓国と日本の留学生たちの募金で、その間借金をしていた薬代も返すことができた。

 その後、韓国に行ってくる機会もできた。ソウルの上道教会の招きで1994610日から21日まで韓国を訪問して、私の故郷にも行ってみたし、親戚たちにも会った。今は死んでも思い残すことはない。それでも、残る人生を本当に私の祖国で、私の身内のものたちと生活して一生を終えることができたらと思う。

 私は日本のために、暗く悲惨な一生を送って、今はシベリアのような安徽省の田舎の村で病気だらけで苦しい生活をしているのに、日本政府はなぜ、まだ自分たちのしたことを認めていないのか。私がこのように生きた証人となっているにもかかわらず、なぜ、否認しようとするのか。

 私はれっきとした韓国人である。韓国政府は私が韓国でくらすことができるようにしなければならない。

 私の戸籍も韓国にあり、私の身内もみな訪ねたのに、なぜ、私が今も中国で暮らさなければならないのか。到底理解できない。発展した私の国でいつまでも暮らせればよい。

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中国に連行された「慰安婦」、洪江林の証言

2019年07月22日 | 国際・政治

  「帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い」(朝日新聞出版)の著者(朴裕河)は、いろいろなところで、具体的に例をあげ、日本政府は、韓国に対し日本軍「慰安婦」の問題について、反省と謝罪を繰り返してきたと書いています。でも、その反省と謝罪の内容については、問題にされていません。逆に、大統領と首相が顔をあわせるたびに謝罪があったのに、韓国側がそれをきちんと受け止めてこなかったことが問題であるかのように書いています。私は、それが受け入れ難いのです。

 

 国際法律家委員会(ICJ)の「最終報告書」作成に関わったウスティニア・ドルゴポル(南オーストラリア・フリンダース大学)教授は、被害者に対する日本政府の「民間基金」の対応について痛烈に批判し、”お金を民間基金から出すということは、政府が道義的にも法的にもまったく責任を拒否することです。”として、”非常に侮蔑的なものであり、被害者のことをまったく考えていません”と断じています。

 また、国連人権委員会オランダ政府代表のテオ・ファンホーベン(リンバーク大学)教授は、この問題に対する日本政府の意見を悉く法的に批判されています。日本政府の意見は国際社会で通用しないものであり、日本政府の意見では、この問題の根本的解決はできないということだ思います。

 日本政府の意見は下記の8項目ですが、教授の批判を読むまでもなく、日本政府の責任回避の姿勢が明らかだと思います。ドイツの戦争犯罪に対する姿勢を見習うべきだと思います。

a 現在の段階で、人権の分野においては一般的に個人は国際法上の主体として認められいない

b 個人の被害者は、国際法のもとでいかなる被害回復を受ける権利も持たない。国家の責任は国家間の関係に限定される

c 種々の法律システムの間にある差異が充分に念頭におかれなければならない

d 「人権と基本的自由の重大な侵害」という概念は、法律概念として空疎である

e 何が「国際法の下における犯罪」を構成するかについての共通の理解は存在せず、違反者を訴追し処罰する義務は、国家の普遍的な義務ではない

f 「刑事免責」(impunity)の概念が明らかでない

 

 こウスティニア・ドルゴポル教授やテオ・ファンホーベン教授の判断を踏まえると、日本政府が繰り返したという反省と謝罪が、韓国で受け入れられないのは当然ではないかと思います。日本の首相の反省や謝罪は、あくまでも個人的なものであり、日本は、戦争責任に関する法的な判断、戦争犯罪に関する捜査・訴追をまったくしていないのです。 

 

 下記は、「中国に連行された朝鮮人慰安婦」韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会:山口明子訳(三一書房)から抜粋したのですが、「いちばん辛かった長沙の慰安所」の文章の中に、”慰安所にいる時、朝鮮人の軍人が来ると、二人で抱き合って泣いたものだ。”とあります。朴裕河教授はどのように受け止められるのか、と思います。

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                 家の中でも、外に出てもみじめだ

                                                   洪江林(ホン・ガルリム)

 

 幼いときから、苦労がはじまった

 私は1922年、723日生まれ、今年で満七十二歳になる。小さい頃、故郷の慶尚北道金泉で暮らしていたときから、ずっと苦労の続きだった。

 私の父は農地がなくて百姓ができないので、竹の籠を編んで売る商売をしていたが、うまく行かなかった。その上もっと悪いことには、母は弟を産んでから足を悪くして、歩けなくなった。だから、私は弟を負ぶって炊事をした。兄がいたけれども、ご飯の支度や弟の子守は私の仕事だった。

 私はもちろん、兄も学校の近所までも行くことができなかった。私は今も読み書きができない。暮らしが苦しいので、十二歳のときから日本人の家に働きに行った。

 朝行って、そこの家の子どもの守りをし、仕事もした後、夕方には家に帰って家族のご飯をつくらねばならなかった。その家で働いている間、苦労も苦労したが、食べることもろくにできなかった。その家には五十歳くらいの元気なあばあさんがいたが、ある日うちの両親に話もしないで、私を連れていって、汽車に乗ろうとした。

 私が汽車に乗って出発しようとしたとき、どうして知ったのか、兄さんが動きはじめた汽車に駆け寄って泣いていたことが思い出される。後で知ったことだが、私がたったあと母は娘をなくしてしまったとたいそう泣いたのだという。後で奉天から手紙を出したが、両親はその時になって、私がどこに行ったのかやっと分かったのだという。

 そのおばあさんは私を奉天に連れて行った。私が数えで十七歳の時(1938年)だった。

 

 あそこが小さいとメスで切られて

 奉天のその慰安所は、軍の近くにあった。慰安所として使っていた建物は、もともと中国人が住んでいた住宅だったが、日本の軍人が家の持ち主を追い出して、慰安所として使うことになったのである。軍人たちが来て、部屋に間仕切りをしていくつもの部屋を作った。家は平屋建てでたいへん広かった。十五人くらいの女たちがその家にいた。

 初めて軍人の相手をさせられたときは、とても痛くてワァワァ泣いた。その後も本当によく泣いた。逃げようとは思いもしなかった。慰安所の外に出ることさえ出来ず、出たとしても、どこがどこだか分からないのにどうして逃げ出せるだろうか。がっくり気落ちして泣いてばかりいた。私があまり泣くので、主人は、ちょっと休んでまた軍人の相手をしろと言った。

しばらくして、また軍人の相手を始めた。それからいくらもたたないうちに、定期検査をしながら軍医が、あそこが小さいからだと、私の膣の入り口をメスで切り裂いた。麻酔もしないで、その痛さは口で言い表せないほどだった。身体が小さい私は、下半身も小さかったのか、軍人たちを何人か相手をするともう痛くてたまらなかったので、その軍医は、いっそ切って大きくしてしまえばすむと考えたようだった。

 慰安所での私の名前は、「ユキエ」だった。私のいた部屋は小さかった。主人が布団をくれたが、それをかけただけでは寒いので、金のある人は自分でも布団を買った。朝と晩にご飯を二度食べた。お腹が空いているのか空いていないのかも分からなかった。一週間に一度ずつ慰安所に軍医が来て、女たちを検査した。主人からサックをもらって使った。

 慰安所で私は病気にかかり、治療をうけたことがある。肋膜に水がたまって注射器で黄色い水を抜いたのだが、がまんができないくらい痛かった。その後、一月ばかりは軍人の相手はできなかった。

 「お客さま」(私たちは、相手の軍人をこう呼んだ)をたくさんとれば、主人は喜んでご飯もたくさんくれ、よくしてくれるが、お客がすくなければ、雑言をあびせられた。身体の丈夫な女は、お客をたくさんとり、身体の弱い女はお客を少しかとれなかったが、私は身体が弱かったので、お客を少ししかとらなかった。お客が入って来ても、身体の具合が悪いからだめだといって、主人が知らないうちにそのまま追いだしたりもした。そうしなければこっちの身がもたないのに、どうしろというのだろうか。ある軍人はそのまま出ていってくれたが、ある軍人は「ばか野郎」と悪態をつきながらでていった。そうすると主人は私に「なぜ客を帰したんだ」と文句を言って殴り、ご飯もくれなかった。私が夜も昼も泣いてばかりいるので、主人は上海に売ってしまった。

 

 上海に売られて

 奉天の慰安所の主人は、上海に私を連れだしたまま行ってしまった。また、売られてしまったのである。上海の慰安所の主人もやはり、朝鮮人の夫婦だったが、奉天の主人にくらべて、人がよかった。上海は家がたくさんあって、賑やかだった。

 この慰安所には、朝鮮の女たちが十五人ぐらいいた。 女たちの年は十五歳からニ十歳ぐらいだった。

 上海で一年ぐらい過ごした後、上海の主人は、私たち女たちを連れて南京に移った。ところが南京には、この主人が経営するのにちょうどいい慰安所がなかったので、再び、湖南省の長沙にいった。南京にいる間は、旅館ではなく、他の人が経営する慰安所に泊っていたが、そこでも軍人を客として迎えた。

 

 いちばん辛かった長沙の慰安所

 湖南省の長沙には、日本の軍人がとても大勢いた。そこでの生活は本当に窮屈だった。そこでは、女たちは、代わるがわる一ヶ月ずつ小隊の軍人たちの相手をしに行かなければならなかった。大きな部隊の近所に慰安所があり、その周辺には小隊が散らばっていたのだが、その小隊に女たちが交替で行ったのである。

 主人が私に、ある部隊に行けというと、中国人の人夫が曳くそりについて、小隊に行かねばならなかった。そりには布団を一組積んで行くのである。

 私はそりについて歩いていくのだが、小半日歩き続けた。部隊の前の小さな小屋で一か月間、私一人でその部隊の軍人たちの相手をしなければならなかった。一日に何人もひっきりなしに来るので、数えきれないぐらいほんとうにたくさんだった。一人が出ていくと、すぐにまた入って来る、出ていくとまた入って来るというように、昼も夜もやってきた。入り口の前に軍人たちが列を作って待っていた。

 食事は一日二度ずつ、部隊から軍人たちが食べる茶わんに入れて持ってきてくれた。休める日もなかった。どのくらい痛かったかわからない。あまりたいへんなので、自分の身の上が悲しくて、ご飯も食べずに、山に行って泣いたこともある。そうすると、金をもらっている中国人の人夫が登って来て、軍人たちが探しているといって私を連れ下りた。だから、しかたなく下りてきて、また相手をした。話をすればたくさんあるけれど、とても全部は話しきれない。帰って来るとき、余り痛くて私が歩けないでいると、布団を積んでいく中国人が見兼ねて、そりの上に座れといって乗せてくれたりした。

 中国人の男は軍人から金を受け取って主人に持ってきてやった。小隊にいるときにも、一週間に一回ずつ、性病検査をしに医者がきた。私はサックを使わない客はとらなかったからか、性病にはかからなかった。私が帰ってくると、他の女の子が交替して出掛けて行った。このように長沙にいちばん長くいたけれど、何年になるのか分からない。

 一度は酒に酔った軍人が刀を持ってきて、乱暴を働くので、手洗いに逃げ込んで中から鍵をかけ、息を殺していたこともあった。

 慰安所にいる時、朝鮮人の軍人が来ると、二人で抱き合って泣いたものだ。朝鮮人の軍人の中には私と同じ故郷の金泉の人もいた。彼は、関係しないで、主人にこっそりと私にお金をくれた。また、全羅道出身の運転兵がしょっちゅう私のところに訪ねて来た。

 

 口のきけない人のように

 日本が戦争に負けたあと、主人は荷物を風呂敷に包んで逃げ出してしまった。日本人たちも、風呂敷包みを背負って車に乗り、行ってしまった。戦争に負けて何もかも大混乱だった。

 中国人たちは私たちを日本人であると思って、着物も全部奪い、やたらに殴った。私も殴られた。中国人たちが食ってかかり、殴るので、女たちはおじけづいて、車の便があるとそれに乗って、ばらばらに散っていった。

 慰安所に訪ねてきた朝鮮人の運転兵が私に武漢の積慶里に行けと教えてくれた。そのころは武漢へ行く船に乗る朝鮮人が男も女もとてもたくさんいた。自動車に乗ったり、船に乗ったりした。

 私をいれて四人の女は武漢へ向かう小さな櫓で漕ぐ舟に乗った。舟に乗せてくれた中国人はずいぶん年よりだった。他の女たちは私と同じ慰安所にいた人たちではなく近所のほかの慰安所にいた人たちなので、だれがだれなのか分からなかった。そして、なかの一人は舟に乗るときから病気だったが、結局、舟の中で死んでしまった。舟の持ち主がその人を河の中に投げこんだ。

 武漢で舟を降りた後、一緒に来た人たちはまたばらばらになった。その時は中国語もできなかったので、恐ろしくてぶるぶる震えていた。

 武漢に来て、積慶里にいる朝鮮の女たちが鞭で打たれている声が外に聞こえてくるという噂を聞いたので、私はそれを信じて、私も打たれるのかと恐くなって、そこへは行かなかった。後で李鳳和ハルモニから聞くと、そのころ積慶里では阿片を吸う朝鮮の女たちを別に集めていたが、その女たちの叫ぶ声だったという。

 私は日本租界の酒を売る店で、おかずを作ったり、雪掻きをする仕事をした。

 ある寒い日に、酒屋の前に出て座り、行くこともできず、帰ることもできない自分の身の上を考えて泣いていた。その時、通りかかった一人の男が、あんたはなぜ泣いているのか、どこから来たのかと聞き、かわいそうだと私を自分の家に連れて行った、その家に行ってみると、金もなければ、食べるものもない、もっとひどいことには着るものや布団もなく、何もなかった。それでも、しかたがないじゃありませんか。その家に暮らすほかに、どうすることもできないのだから。彼は二十三歳の独身の男だったので、私は彼とすぐ結婚した。その家には夫の祖母もおり、父親もいた。私は口のきけない人のように言葉もしゃべれなかった。飯を食べろと言われれば食べ、座れと言われれば座り、寝ろと言われれば寝た。ことばが聞き取れないので、どこがどこだかも分からなかったから、夫がしろというままにするほかなかった。その苦しみも口では言えない。

 結婚していくらもたたぬうちに、私はまたある中国人に捕まった。私を日本人だと思って、風呂屋に閉じこめておき、飯もくれなかった。恐ろしくてことばも出なかった。どれくらい泣いたか分からない。夫も外で泣いた。そうしたら、半月ぐらいで釈放された。

 一時、子どもができなかったので、夫は子どもも産めない女だと私を殴った。考えてみると、故郷でも苦労し、慰安所でも苦労し、この家に来ても苦労して、飯もろくろく食べられないのだから、こんなところで生きていたくない、いっそ死のうと、家を出て河のそばに行った。生きていてもしょうがないと思った。ところが、夫が駆けつけてきて、家に連れもどされた。

 その後、二人の息子を産み、最初の子は生まれてすぐ亡くなり、二番目が今、四十六歳にさる。息子は前には食品工場に勤めていたが、その工場がなくなったので、今は家でぶらぶらしている。

 夫とけんかをすると、夫はお前は朝鮮人だからそうなのだという。私も本性が出て悪態をつくと、私が慰安婦だったということを言い出して、殴ったこともあった。

 その夫も一年前にあの世へ行ってしまった。私は三十歳を過ぎてからは、武漢紅旗太白粉倉で働いていたが、退職した。今はその会社から毎月出る退職年金で暮らしている。

 

 

 

 

 

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自宅のそばの慰安所に監禁 朝鮮人慰安婦の証言 その4

2019年07月18日 | 国際・政治

 「帝国の慰安婦」の著者(朴 裕河)は、従軍慰安婦(日本軍慰安婦)の問題は”植民地支配の問題”だと書いています。また、”帝国主義の問題”だと書いています。さらに、”政治システムの問題”とも、”資本の論理の問題”だとも書いています。従軍慰安婦(日本軍慰安婦)の問題の背景をいろいろな角度から考えることに意味がないとは思いませんが、そうした著者の指摘や論理が、日本の戦争責任を有耶無耶にし、問題の根本的解決を困難にするような結論につながっていることを、私は見逃すことができません。

 慰安婦であったことを名乗り出た人たちが求めているのは、下記の証言にもあるような日本の戦争犯罪に対する謝罪と賠償であって、問題の背景や位置づけを求めたり、問うたりしているのではないと思います。それをごちゃまぜにすることは、問題の本質を歪めるものであると、私は思います。

 

 だから、従軍慰安婦(日本軍慰安婦)の問題は、著者がいうような難しい問題ではなく、日本政府が、慰安婦であったことを名乗り出た人たちに真摯に向き合い、国際社会が指摘する戦争犯罪と認めて謝罪と賠償を受け入れれば解決する法的な問題だと思います。それをすでに解決済みであると突っぱねたり、戦争責任を回避して、見舞金で済まそうとしたり、政治取引のような合意で終わりにしようとしたりするから、いまだに解決の見通しの立たない対立が続き、将来世代にまでそれを引き継がせることになりつつあるのだと思います。その損失は計り知れないと思います。

 

 日本政府が、公式謝罪と法的賠償を拒否する理由として”……人さらいのように、人の家に入っていってさらってきて、いわば慰安婦にしてしまったということは、それを示すものはなかったということを明らかにしたわけであります。”などと苦しい言いわけをして、日本側に強制連行を指示する証拠がなかったことを上げていますが、敗戦前後に大量の文書を焼却処分している上に、研究者によって、強制連行を窺わせる文書が発掘された事実を、そのような言いわけで、無視することは許されないと思います。

 そして何より、下記のような証言があることを、無視してはならないと思います。下記のような証言を無視し、虚言であるかのような対応をすれば、慰安婦であったことを名乗り出た人たちの名誉・尊厳・人権の回復はできず、問題がいつまでも続くことになることを認識すべきではないかと思います。

 

 オランダの戦犯法廷「バタビア臨時軍法会議」では、オランダ人女性を強制的に連行し慰安婦にしたとして、日本の軍人七人と軍慰安所経営者四人が死刑や禁錮15年を含む有罪判決を受けたといいます。

 加えて、 従軍慰安婦(日本軍慰安婦)の問題は、強制連行があったかなかったか、ということだけでなく、人身売買や性行為の強要、監禁など当時の国際法に反する問題を含んでいることを忘れてはならないと思います。「醜業婦ノ取締ニ関すスル1910年5月4日国際条約」には、下記のようにあります。

 

第1条 何人ニ拘ラス他人ノ情欲ヲ満足セシムル為メ売淫セシムル意思ニテ未丁年ノ婦娘ヲ傭入レ誘    引若クハ誘惑シタル者ハ仮令本人ノ承諾アルモ又犯罪構成ノ要素タル各種ノ行為カ他国ニ於テ遂行セラレタルトキト雖モ処罰セラルヘキモノトス 


第2条 何人ニ拘ラス、他人ノ情欲ヲ満足セシムル為メ売淫セシムル意思ニテ詐偽、暴行、強迫、権勢其他強制的手段ヲ以テ成年ノ婦娘ヲ雇入レ誘引若クハ誘惑シタル者ハ仮令犯罪構成ノ要素タル各種ノ行為カ他国ニ於テ遂行セラレタルトキト雖モ処罰セラルヘキモノトス

 

 名乗り出た多くの慰安婦が証言していますが、「お金を稼げるところがある」などと言って騙して慰安婦にしたことは、第2条の「…詐偽、暴行、強迫、権勢其他強制的手段ヲ以テ」の「詐偽」に当たるのではないかと思います。日本政府は、こうした国際法の精神を尊重して対応すべきだと思います。

 

 下記のような証言を含め、従軍慰安婦(日本軍慰安婦)問題の諸情報は、関係国で共有されており、日本の責任逃れは、国際社会では通用しないことを知るべきだと思います。だから、国連人権委員会や国際法律家委員会の勧告にしたがって、一刻も早く公式謝罪と法的賠償を行い、決着させるべきだと思うのです。

 国際法律家委員会の最終声明には”民間基金の創設は元「慰安婦」に対して日本政府が賠償するための代替措置には決してなりえない”とあります。

 慰安婦であったことを名乗り出た人たちが生きているうちに名誉・尊厳・人権の回復をはかって決着させないと、将来世代もずっとこの問題で苦しむことになるのではないかと思います。

  下記は、「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編(明石書店)から抜粋しました。

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                   自宅のそばの慰安所に監禁

                                                    尹 頭理(ユンドウリ)

 

 裕福な家庭に生まれたが

 私は1922年、三男四女の四番目として生まれました。兄は中学校を卒業しましたが、残りの兄弟たちは国民学校を卒業するか、中退しました。兄弟の中で私だけがソウルの西大門にあるチョニョン普通学校に通い、他の兄弟たちは釜山で学校に通いました。私は釜山で生まれ、八歳まで暮らし、ソウルの叔母の家に移って学校に通いました。なぜかというと占い師が「この娘は鼻の下が短いので命も短い、両親と離れて暮らさなければならない」と言ったからでした。

 私が幼かったとき、父は建築業を営んでいました。酒も飲まず、子どもに対する愛情は深いものでした。田畑をかなり持っていましたが、家族が直接農作業をするのではなく、小作にやらせていました。私たちが住んでいた家は、釜山の朝鮮紡織会社の前にありましたが、二百坪にもなる大きな家でした。

 けれども兄が結婚してから、家に波風が立ち始めました。兄は結婚して一ヶ月後に、精神に異常をきたし頻繁に家出を繰り返し、父も亡くなって家が急速に傾いていったのです。

 

 十四歳になった年の1941年、ソウルから釜山に戻ってみると田畑と家はみんななくなり、ちっぽけな一間の家に父、母、姉、弟、妹の五人が暮らしていました。父は私が釜山に戻った翌朝、食事の途中に突然倒れて亡くなってしまいました。母はそのとき腎臓が悪くて病気がちで、下の姉は父が亡くなった年の三月に結婚しました。そのため私が長女の役割をしなければならず、一家の生計をたてるため工場に就職しました。

 十五歳になった1942年陰暦の二月に三和ゴム工場に入りました。工場で靴底を貼る仕事をしていたのですが、ボンドの臭いがひどくて目まいがし、むかついて吐き気がしました。そのため私は休み時間にちょこちょことミシン部のところに行ってミシンを習い、ミシン部に移りました。五ヶ月ほど通ってこの工場を辞め、月給をたくさんくれるという、同じ釜山にある三志村被服という軍服を作る工場に移りました。

 工場では夕方六時までに一日の作業量を終えることができなくて、九時まで残業をしなければならず、家に帰ると十時でした。残業を終えればすでにバスはなく、夜道を歩いてかえらなければなりませんでした。が、一人の日本人の課長が私に下心を抱き、夜遅く歩いて家に帰る途中三度も私に乱暴をしようとしました。道を歩いて角に来ると、私をつかまえ山道に引きずって行ったのです。そのたびに同じ工場の朝鮮人裁縫修理工や班長たちが私を助けてくれました。

 1943年八月までその工場に通いました。

 

 巡査が呼ぶので

 日本人課長が私をねらい続けるので、その工場にはとても勤められなくなりました。それでそこをやめ、草梁(チョリャン)にある手袋工場に移ろうと見に行き、そこから戻る途中でした。夕方五時か六時頃、釜山鎮駅前にある南部警察署を通り過ぎようとすると、歩哨に立っていた巡査が来いと呼ぶのです。私は何もしていないので大丈夫だろうと思って、警察署の中に入って行きました。19439月初旬のことでした。警察署の中には私のような少女たちが数人いました。座れというので「どうしてですか」と聞くと「いいところに就職させてやるからじっと座っていろ」と言いました。夜の十一時頃になると軍用トラックが来て二人の軍人が私たちを全員乗せて出ました。この軍人にどこに連れて行くのか聞くと、いいところに就職させてやるとだけ言うのです。夜だったのでどこがどこかもわかりませんでした。私たちは軍用トラックに乗せられ、どこかわからないところで下ろされました。そこには五人の女の子が私たちより先に来ていました。私たちと合わせて計十人が倉庫のような部屋で一晩を明かしました。翌日の夜、私たちは軍人の引率で「ブルルン」という音の出る警備船のような船に乗りました。船の中にはニ十歳にもならないような幼い少女たちが五十人ほどいて、三人の軍人が一緒に乗っていました。その船は日本に行きましたが、日本のどこかはわかりません。船の中で私たちはひしと抱き合い、ただ泣くばかりでした。船から下り、かなり歩いて倉庫のような部屋に着きましたが、そこには若い女性がたくさんいました。そこでまた一夜を明かしました。

 翌朝全員が集まって「君が代」を歌い「皇国臣民の誓詞」を唱えた後、いくつかの班に分けられました。釜山から一緒にいった五十人は、十人ずつ二班と十五人ずつ二班にわけられましたが、私は十人の班に入りました。釜山で私のように捕まえられてきたスンジャも私と同じ班になりました。スンジャの日本名は「カネムラジュンコ」でした。スンジャは私より一歳年上の十七歳でした。家は釜山の旧家でしたが、彼女もやはり勤めていた工場からの帰り道に捕まえられたと言っていました。スンジャと私のいた班は二番目に船に乗りました。

 それは私たちが釜山から乗ってきた船と同じ船でした。私たちの班の十人の女の子と、釜山から日本に行くとき私たちを引率した軍人三人が一緒にその船に乗りました。何時間か行くと、釜山の影島(ヨンド)に再び戻ってきました。釜山に帰ってきても、いいところに就職させてやるからおとなしく待っていろと言われました。そのため私たちは「今勤めている工場があるので、就職させてくれなくてもいい。家に帰して」と頼みました。私と同じ船に乗った十人の幼い少女たちは、1943年九月、釜山の影島にある第一慰安所に行くことになりました。

 

 影島第一慰安所で

 到着した日は下の一階で一夜を過ごし、翌日の昼朝鮮人が私を呼びに来たのでついていきました。この人は慰安所で飯を炊き女たちを監督する日本人の手先でした。彼が私に日本軍人が呼んでいるから二階に上がれと言うので行ってみると、将校かと思われる軍人んが一人座っていました。私が恐くて中に入らず、「なぜ来いとおっしゃったのですか」と尋ねると、何をごちゃごちゃ言っているんだと大声を上げました。必死で抵抗しましたが、結局犯されてしまいました。何日間か陰部が痛くて襲いかかる軍人を拒みましたが、そのためにひどく叩かれました。将校たちは夜泊って出て行ったりしていました。ご飯を食べる時間以外は一日中軍人の相手をしなければなりませんでした。

 影島の第一慰安所には四十五人の慰安婦がいました。彼女たちはみな朝鮮人でした。慶尚道出身者がもっとも多く、そのほか忠清道、全羅道、江原道などでした。たいていが農家の娘でした。

 主食はおもに麦飯かゴマの油かすと米をまぜたご飯で、主なおかずはキムチ、たくあん、たまに豆モヤシも出ました。たいていご飯と二種類のおかずが出されました。それに日本の祝祭日には豚肉が少しつきました。服は家から着てでた黒のチマと慰安所でくれた服を交互に着ていました。慰安所でくれた服というのはモンペとキャラコでできた運動着のような前のはだけた上着などでした。着るものは春、秋が来るたびに不足しないようにくれました。下着は腰と裾にゴムを入れたショーツをくれました。

 洗濯石鹸、洗顔石鹸、ガーゼ、綿、歯磨き粉などの日用品は、慰安所からもらったものを一カ所において何人かで使いました。洗濯は軍人たちが来ない静かな時間に自分たちでしました。

 慰安婦生活をしている間、お金や軍票をもらったことは一度もありません。しかし私を好いてくれた吉村が来れば、たまに何か買って食べなさいとお金をくれたりもしました。私はそのお金を隠しておきました。お金があれば慰安所の外の道端にある売店でもものを買うこともできたのですが、恥ずかしくてほとんど外には出ませんでした。ほかの人たちもひどく疲れていて、何かを買って食べる気にもなりませんでした。

 第一慰安所だった建物は、昔朝鮮人が旅館をしていたのを日本人が取り上げたものでした。その一帯には雲雀町(ヒバリマチ)という日本人の遊郭街がありましたが、影島橋を渡り左に五百メートルほど離れた場所に位置していました。その日本人遊郭街を過ぎ、さらに奥に入ったところに慰安所がありました。

 慰安所の経営者は日本人の高山という人で、慰安所の監視は軍隊がしていました。山下という日本人軍属が玄関に座っていて、軍人たちが来れば空いた部屋に入れと部屋を決めるのでした。慰安所の中には慰安婦たちを監督し、食事を作る朝鮮人もいました。また敷地内には交代で見張りに立つ軍人が三、四人いました。

 建物は二階建てで、一階には部屋が十一あり二階には十二ありました。一つの部屋の広さは二畳半ほどでした。そのうちオンドルの部屋が一つありましたが、そこには小間使いをする人の部屋で薬品も置いてありました。私の部屋は二階でした。横にもう一つ平屋の建物がありましたは、部屋数は二十ほどでした。朝鮮人が住んでいた民家で部屋が広かったので、仕切りで一つの部屋をいくつかに仕切っていました。

 一日平均三十から四十人ほどの相手をしました。主に釜山から来た海軍と陸軍の軍人でした。特に船が着く日は多く、土曜日、日曜日にはさらに多くなりました。あまり多いときには心と体が自分のものとは思えないほどでした。軍人たちがたくさん来る日は、入れ代わり立ち代わり入ってくるので人数も数えられませんでした。軍人の相手をし終わる度に、一階にある風呂場に下りて行ってクレゾールの混じった水で洗いました。そうした後また自分の部屋に戻って軍人の相手をしなければなりませんでした。私は一人でも軍人を減らそうと、どんなに忙しくても、洗浄しなければだめだからと時間を引き延ばしたりもしました。軍人たちはサックを使うようになっていましたが、使おうとしない軍人もたくさんいました。

 日本人の軍人の中にはひどいことをする人もたくさんいました。自分の性器をなめろというのはよくあることで、立ってやろうという人もいたり本当に変な人がいました。すべてを言葉では言い尽くせません。軍人たちはその当時日本で出版された『四十八体』という本を持ってきて、私にその本に出てくる体位どおりにしろと言いました。そんなとき私は朝鮮語で文句を言うのでした。今も私は牛乳が飲めません。牛乳を見ると男の精液を思い出すからです。

 

 「母(オモニ)への手紙」歌っては泣く

 日本人軍人の中には私に好意的な人もいました。先ほど言った吉村という人はしばしば私に逢いに来ましたが、私がかわいそうだと身体には触れませんでした。彼は陸軍の軍人で戦争が終われば結婚しようと私の写真まで持って行きました。日本が戦争に勝てば私を日本に連れて行くと言いました。私は彼にこっから出してくれと頼みましたが、彼は自分の力では無理だ、上の人が指示を出さなければどうすることもできないと言うのでした。彼は時々大きな飴とお金をくれました。しかし戦争に敗けると一人で日本に帰ってしまいました。

 私のところによく来ていたもう一人の軍人は、両親が朝鮮人だけれど日本で生まれて海軍に入ったと言っていました。彼が来る船はひと月に一度、釜山港に入って来ましたが、そのたびに私のところに来ました。一度彼について釜山港に船を見に行ったこともあります。彼と何人かの将校が、私を連れ帰るからと許可をもらってくれたので出かけました。その時以外に慰安所から外出したことはありません。ほかの慰安婦たちも知り合いの軍人に連れ出されて外出する場合がありました。しかしもともと外出は禁止されていました。

 私は慰安所にいるとき妊娠したことはありませんが、一緒だった慰安婦の中で二人が妊娠しました。そのうちの一人は中絶の手術が失敗して死にました。もう一人はお腹がかなり大きくなりましたが、自殺するつもりで階段で首を吊ろうとしたところ軍人に見つかりよそに移されました。どこに連れて行かれたのかはわかりません。慰安所の中で子どもを産んだ人はいませんでした。

 生理の時はガーゼをもらいそれを生理帯にしていましたが、生理の日でも軍人の相手をしなければならなかったため、それをつけているひまがありませんでした。とにかく死なない限り軍人を受け入れなければならなかったのです。おぞましい、身の毛のよだつ話です。本当に言葉になりません。生理の時綿をガーゼにぐるぐる巻いてそれを膣に突っ込んで軍人の相手をしました。一度その綿が子宮の中にまで入ってしまいひどい目にあいました。結局病院に行って取り出してもらいました。

 慰安所の建物の横には慰安婦たちの指定病院がありました。病院には医師一人と日本人看護婦一人がいました。一ヶ月に一度病院に行って性病検査をしました。検査の時男性の医師が膣を覗き見、指を入れたりしました。淋病にかかった者は606号という注射を打たれました。606号という注射は腕がもがれるかと思うほど痛いものでした。

 慰安所で淋病をうつされたことがあります。病院に通い注射をしてもらって薬をたくさん飲みました。慰安所を出た後でも、身体が弱ると何度も再発しました。

 将校たちは一晩泊って行く人がたくさんいました。このように「泊まりの日」は少しでも離れたくて、寒い冬でも外に出て廊下にしばらく座ってから部屋に戻ったりしました。一週間に一日くらいは自分一人で楽に寝ることができました。

 泊って行く人たちがは朝五時に出て行きました。軍人が行ってしまえば少し楽に寝られましたが、七時半には起きなければなりませんでした。朝起きたら庭に集まって「君が代」を歌い「皇国臣民の

誓詞」を唱えました。その後八時から九時の間にご飯を食べました。そして少し休むと十時頃から軍人が来はじめ、特に午後三時から四時は一番たくさん来ました。食事時間は三十分、その間だけ軍人の相手はしませんでした。

 慰安所にいっしょにいた慰安婦の中で尹ヨンジャ(山本エイコ)、ウメコ、スンジャなどを覚えています。

 慰安所に入ってから半月後に逃げようとしたことがありました。私と一緒に釜山で捕まって慰安婦にさせられたスンジャが影島の地理をよく知っていたので、一緒に逃亡を試みたのです。逃げようと最初に言い出したのは私でした。私たちは歩哨兵二人をそそのかすために、タバコを持って行ったり親切にしてやりました。そしてちょっと風にあたってきたいと言いましたが、だめだと言われたので酒を飲ませました。すると、板の間にどっしりと腰を下ろし居眠りを始めました。便所に行ってくるからとそうっと抜け出して逃げました。しかし慰安所を出るまでの道のりは思ったより遠く、何歩も行かないで捕まりました。銃の先でおしりを三、四発殴られて、前につんのめり、口から血を流して倒れました。ぽっこりへこんだおしりの傷が化膿して熱が出、まっすぐに寝ることもできませんでした。それなのに軍人たちの相手をさせ続けるのです。何度も膿んでは腐りました。それでやっと病院に連れて行ってもらい皮膚をえぐられました。手術後三日休みました。三日後まだ傷口がふさがらずほてり、まっすぐに横たわることもできないのに軍人たちはとびかかってきました。このときが一番つらく、おしりが痛くて寝ることもできないのに、軍人の相手をしろというのでどれほど痛かったかわかりません。そこにいた慰安婦たちはみな逃げたいと思っていましたが、私たちの逃亡が見つかり、また私がそうやって痛がるものを見てあきらめてしまい、その後逃げ出そうとする人はいませんでした。

 慰安所生活の中で楽しいことはありませんでした。軍人のこない、自分たちだけの時は家がただただ恋しくて、みんなで一緒に泣きました。そこでは日本の軍人たちが私たちをずらりと座らせて写真をいっぱい撮っていました。

 そこで私がよく歌った歌は「アリラン」と「オモニへの手紙」という歌です。特に母のことを思い出しながら「オモニへの手紙」という歌を歌って、泣きました。朝鮮の歌はこっそり歌わなければなりませんでした。見つかればひどい目にあったからです。

 慰安所にいたとき家族と手紙をやりとりしたことは一度もありません。手紙や面会などは一切できませんでした。しかし家族の消息を聞いたことはありました。私が窓の外をながめていたら、物を売りに来たとなり村の人を見かけたのです。その人に母のことを尋ねると、セリを売っていると教えてくれました。母が苦労していると聞いてどれほど泣いたことでしょう。

 母と上の姉は工場に行くといって出てから帰らないので、あちこち聞いて回りながら、私を探したそうです。姉はもしやと思い慰安所まで探しに来ていました。慰安所の建物は旅館をしていた場所だったので道に面しており、窓から見れば行き交う人が見えます。母と姉が探しにきた時はちょうど軍人のいないときで、部屋から見ていると道端にいる母と姉が見えました。それで私は急いで下りて行きました。母が私を見つけて連れて行こうとすると軍人が母と姉を押しのけてしまい、ろくに言葉を交わせないまま、引き離されてしまいました。その後母はすっかり落胆して病気になってしまったそうです。慰安所には看板があり軍人たちが立っていたので、姉は私が慰安婦だということに気づいたと思います。

 釜山の大新(テシン)洞には「第二慰安所」がありました。そこにも約四十~五十人の慰安婦たちがいたと聞きました。

 

 私を見て泣き崩れる母(オモニ)

 私たちは解放を迎えたことも知らずにいましたが、慰安所の外があまりに騒がしいので出てみると、解放だと告げられました。慰安所の経営者だった高山と日本軍人たちは私たちを慰安所に残したまま、船に乗って日本に逃げ帰りました。それで慰安婦たちはばらばらになりました。家に戻ろうと思っても一銭のお金もありません。慰安所に来る前は私が稼いで家族の生計を立てていたのに、手ぶらで家に帰れないと思いました。また母がセリを売って苦労しているという話を聞いていたので、お金を貯めて帰らなければと思ったのです。それで慰安所の前にあった食堂で食べ物を運ぶ仕事を一ヶ月ほどして、また別の食堂で一年間働いてからお金を用意して家に帰りました。

 家に戻ってみると母は市場にセリを売りに出ていましたが、妹が「オンニ(お姉さん)」と言って泣きました。夕方六時になって痩せこけた母が真っ黒になって帰ってきました。その姿を見ると無性にほっとして、私も母も泣き崩れてしまいました。母は私に「もう会えないと思ったのに」と言って泣きました。翌朝母はまたセリを売りに行こうとするので私がとめました。そして私が稼いできたお金で米を買いました。

 その後私がお金を稼ぎながら妹を育て、兄弟姉妹たちを助けてやりました。母は私が二十七歳のとき、私のことを苦にして病気になって亡くなりました。母は私に「ひどい目にあって嫁にも行けず、私がおまえに荷物ばかり背負わせてしまった。おまえ一人をちゃんと嫁にもやれず、死ぬに死ねない」と言いました。

 私は結婚したいとはちっとも思ったことがなかったので、いままで一人で暮らしてきました。もうすでにあきらめてしまった体なので、金だけを稼ごうと思いました。それでやみドル商売、アメリカ製品の商売、アヘンの売買、密輸、旅館業業などをして、一時はかなり儲けましたが、他人に踏み倒されてすっからかんになってしまいました。

 

 もう一度女に生まれたら

 ソウルで暮らしていましたが1980年、父の故郷である蔚山(ウルサン)に来ました。私の生まれ育ったのは釜山ですが、そこで慰安婦をしていたことを思い出すので、行きたくありません。

 現在蔚山で保証金三百万ウォンの家賃の部屋を借りて一人暮らしをしています。一級零細民として洞会から毎月十キロのお米と一升の麦、三万ウォンずつをもらっています。そして一種居宅保護者の医療保険証があり、病院での治療を無料で受けています。

 健康状態はとても悪く、今は高血圧、脂肪肝、十二指腸潰瘍、関節炎、右わき腹に水の溜まるこぶ、鬱病、神経性の心臓病などを患っています。

 もう一度女に生まれ変わりたい。今のようにいい世の中で、いい両親のもとで勉強をいっぱいして、いい人のところに嫁に行き子どもを産みたい。若い頃は肌がきれいで、「金持ちの長男の嫁さんになれる」と言われたものです。なのに結婚もできず、いったいこれはどういうことでしょう? 夜中に目が覚めて「どうして一人で寝なきゃならないんだ? どうして一人で暮らしているんだろう? 誰が私をこんなふうにしたのか? どうして私たちの国は奪われてしまったのか?」などと思うと眠れないんです。結婚もできず、子ども一人産めなかったので、街で子どもを連れた人を見ると「あの人には子どもがいるのに、なぜ私には……」と思い、悲しくなるのです。

 人の一生をこんなにめちゃめちゃにしておいて、まだ責任逃れをするとは日本はどういうつもりですか? 結婚もできないように私の一生を台無しにして、口先だけでの謝罪をするとはどういうことですか? 死んで目を閉じるまで、自分がされたことを忘れることはできません。いや死んでもわすれることなどできないでしょう。

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挺身隊から慰安婦に 朝鮮人慰安婦の証言 その3

2019年07月16日 | 国際・政治
 日本には、池澤夏樹氏の他にも、朴裕河世宗大学教授の書いた「帝国の慰安婦」を高く評価する知識人がいると言います。重大な問題だと思います。
 なぜなら、帝国の慰安婦」には、地獄の苦しみを味わった辛い過去を勇気をもって語り、名誉・尊厳・人権の回復のために、慰安婦であったことを名乗り出た人たちを、再び地獄に突き落とすような記述や論理がみられるからです。また、不当ともいえる軍人恩給の復活を認め、日本の戦争責任の問題を不問に付すことにもなると思うからです。

 軍人恩給については、<「帝国の慰安婦」 事実に反する断定の数々 NO6>でも書きましたが、GHQが「この制度こそは世襲軍人階級の永続を計る一手段であり、その世襲軍人階級は日本の侵略政策の大きな源となったのである」と指摘し、「惨憺たる窮境をもたらした最大の責任者たる軍国主義者が…極めて特権的な取扱いを受けるが如き制度は廃止されなければならない」として、廃止させたものです。
 にもかかわらず、戦後日本が主権を回復するとすぐに軍人恩給を復活させました。だから、日本の戦争被害者の補償は、軍人を中心としたものになり、その支給金額も、原則として当時の階級に応じた(仮定俸給年額:兵145万円~大将833万)ものになっています。戦後も戦時中の考え方で貫かれているのだと思います。大きな戦争責任を負うべき人ほど多額のお金を受領してきたところに、日本の戦後政治の問題点が象徴的にあらわれていると思います。
 したがって、同書を高く評価することは、日本国憲法に基づく日本の政治を否定し、戦争責任を回避しようとする戦前回帰の政治を追認することになると、私は思います。戦後補償はドイツのように公平におこなわれるべきだったのではないでしょうか。軍人恩給復活以降、旧軍人軍属や遺族らに対する補償、援護は累計で50兆円を超えているのに、元従軍慰安婦(日本軍慰安婦)であった人には、国による法的賠償をせず、見舞金で処理しようということに、私は賛成できません。

 また、 ”「朝鮮人慰安婦」として声をあげた女性の声にひたすら耳を澄ませ”たという「帝国の慰安婦」の著者(朴裕河)が、下記のような従軍慰安婦(日本軍慰安婦)の証言に基づいてではなく、情報将校であったという小野田寛郎氏の、”彼女たちは実に明るく楽しそうだった。その姿からは今どきおおげさに騒がれている「性的奴隷」に該当する様な影はどこにも見いだせなかった”などという証言に依拠して議論を進めることが、私には理解できません。もちろん、慰安婦の置かれた状況は、時期や、地域や、戦況によって異なり、小野田寛郎氏が指摘するようなことがなかったとはいえません。しかしながら、すべての慰安婦がそうであったかのように、また、いつもそうであったかのようにいうことは、明らかに間違いであることを、下記の証言が語っているのではないかと思います。従軍慰安婦(日本軍慰安婦)の問題は、日本政府が慰安婦であったことを名乗り出た人たちに、どのように対応するかの問題であることを忘れてはならないと思います。
 
 だから、少々長いのですが、「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編(明石書店)から「 挺身隊から慰安婦に」を抜粋しました。
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                        挺身隊から慰安婦に
                                                  姜徳景(カンドクキョン)
 女子勤労挺身隊一期生として日本に
 私は1929年二月に、慶尚南道晋州(チンジュ)の水晶(シュジョン)洞で生まれました。父は早くに亡くなり、母が再婚したので私はほとんど母の実家で育ちました。母方の暮らしはまあまあ裕福な方でした。
水晶洞の近くにポンネ国民学校がありましたが、私は吉野国民学校(現在の中央国民学校)に通いました。三十一期の卒業生です。六年で卒業し家にいましたが、母が見かねて高等科にいかせてくれました。高等科は私が入学する頃新しくできたばかりで、まだ一クラスしかなく、学生は六十人くらいでした。
 十六歳になった1944年六月頃、女子勤労挺身隊一期生として日本に行きました。吉野国民学校高等科一年生のときです。高等科一年の日本の担任の専制が家庭訪問に来て、挺身隊に出るように言われました。勉強もできるしお金にもなるという話でした。先生が帰った後、私にだめだと言って母が泣いたりわめいたりして大変でしたが、私は行くことにしました。私のクラスから級長と私の二人が行きました。級長だった友だちはクラスで一番勉強ができ、家も金持ちでした。
 晋州から集まった隊員は五十人でした。馬山(マサン)からさらに五十人が汽車に乗込み、釜山に行ってみると他からも五十人来ていて全員で百五十人になりました。出発の前にみんなで道庁に行きました。道知事も参席して道庁前の広場で開かれた「壮行会」で、私の友達が出挺の式辞を述べました。晋州では壮行会はありませんでした。
 釜山から連絡船に乗って朝出発しましたが、船に乗ると涙がでました。船の両側には軍艦が二隻、飛行機が二機ついて来ました。船は三階建てで、私たちは一番下の階に乗りました。
 
 飛行機工場で──空腹の記憶だけが
 下関に到着した後、汽車に乗って富山県の不二越飛行機工場に行きました。工場に到着すると年配の男性と女性、二人が迎えに出ていました。
 到着するなり真っ先に工場をぐるりと見学させられ、旋盤をどういうふうに扱うのかも教えてくれました。工場はどれほど大きかったでしょう。その敷地は当時の晋州よりももっと広いように感じられました。とにかくたくさんの人がいました。四方に塀があり門番もいて、寄宿舎からかなり歩かないと工場には着きませんでした。
 工場では胸に女子挺身隊と書かれたうす黄色の服と帽子をくれました。寄宿舎に帰れば家から持ってきた服を着ましたが、工場ではその制服ばかり着ていました。仕事のときは必ず帽子を被っていました。帽子を被っていなかったために髪の毛が機会に巻込まれて死んだ人もいました。
 寄宿舎は正門の近くにありました。寄宿舎の寮長は男性で、私たちを指導する女性たちもいました。仕事を本格的に始める前に女性の指導員が遠足に連れていってくれましたが、そこが新湊と伏木の境界付近でした。海がありその近所には朝鮮人がたくさん住んでいました。私たちが水を汲みにいくと、朝鮮から来たのかととても喜んでくれ、私たちも本当にうれしくて抱き合って喜びました。寄宿舎の食べ物は味がうすすぎて困っていたので、塩を一かたまりだけほしいと頼みました。そしてそのあたりをよく見ておいたのです。
 勤務時間は十二時間で早番、遅番を一週間ずつ交代でしました。そこでの仕事は旋盤で機械の部品を削ることでした。部品は非常に精巧に削らねばなりませんでしたが、材料が固すぎるときにはバイトが焼けてしまい、一日を棒に振ることもありました。晋州から一緒に行った隊員たちは全員旋盤で部品を削る仕事をしました。全羅道から来た隊員たちは鉄を切断する仕事をしていましたが、削った小さな鉄がとてもきれいだったので寄宿舎に持ち帰ったところ、スパイ容疑がかかると言って指導員が持っていきました。月給は貯金してやると言われたような気がしますが、実際に見たことはありません。
 工場では仕事もきつかったけれど、とにかくお腹がすいて我慢できませんでした。ご飯と味噌汁それにたくあんがせいぜいで、ご飯もほんの少ししかくれません。ご飯を大事に食べようと一粒ずつ数えながら食べたり、箸についた飯粒もきれいに食べました。そのご飯も食べずに隠しておいて、あとで食べる子もいました。昼食は小さな三角の豆餅三つでしたが、お腹がすき過ぎて昼食時間の前に全部食べてしまっていました。夜勤のときは、仕事が終わって寄宿舎に戻ると朝食をくれるだけで、夜まで何もくれませんでした。それで他の部屋の食事をこっそり持ち出して食べたりもしたのです。そうすればその部屋の人たちが食べられなくなるということもわからずに。とにかくあまりにお腹がすくので家に葉書を送ったところ、塩と豆を送ってくれたのでお腹の足しにしたりしました。家にいるときには食が細く、おばあさんに心配をかけたことを後悔したものでした。
 工場では私たちより年上の三人の日本人女性も一緒に働いていました。彼女たちは弁当を持参して出退勤していました。時には家から洗濯石鹸を送ってもらってそれを日本人女性に渡し、ご飯や塩にかえてもらって食べたりもしました。工場での生活がつらく、とにかくお腹がすくので、全羅道から来た一人の子は気がふれてしまいました。するとその子は工場から故郷に送り返されました。後に他の子も道でひっくり返って、気がふれたふりをしましたが、嘘をつくなと言われて家に送ってもらえませんでした。
 工場で一冬過ごしました。屋根が見えなくなるくらい雪が積もり、寄宿舎から工場までの道には屋根を被せました。夜勤の時には日本人は時間通りに食事をしましたが、私たちは夕方前に豆餅を食べ終わっていたので、食事時間には溶鉱炉の横で泣きながら縮こまって眠ったりもしました。
 寄宿舎の部屋は十二畳ほどの広さでしたが、十二ないし十三人が一つの部屋で暮らしました。布団は毛布も含めそれぞれ三枚ずつくれました。寄宿舎はかなり広くて全部見て回れないほどで、誰がどこにいるのかもわかりませんでした。寄宿舎では日本人を見ることはなく、朝鮮人は晋州、馬山、全羅道等同じ故郷出身同士がそれぞれの班に分けられていました。
 晋州の人の中では私の友だちが大隊長、私が中隊長でした。だれがそういうふうにつけたのか思い出せません。中隊長といっても一度友だちと歌の歌詞をつけた以外に私がしたことはなく、その歌は今でも覚えています。学校で習った日本の軍歌に歌詞をつけて日本語で歌いました。
 
 ああ山こえて海こえて  
 遠く千里を挺身に
 はるかに浮かぶ半島の
 母のお顔が目にうかぶ
 
 雪がこんこん降るなかを、晋州から来た者はみんなその歌を歌って通いました。
 あるとき私たちの班の隊員たちがストライキを起こしました。朝布団に入ったまま起きないように約束したのです。女の指導員が起こしにきた時、全員布団をかぶって最後まで寝たふりをしました。その日は結局時間が過ぎても仕事に出かけませんでしたが、そのことでご飯ももらえず、ひどく叱りつけられました。
 不二越工場に到着してから二ヶ月ほど経った頃、お腹がすいて明け方に逃げ出したことがあります。以前に行ったことがある新湊の家に班長の友だちと一緒に逃げました。その家に隠れていたのですが、どうしてわかったのか寄宿舎から捕まえに来ました。工場に引っ張って行かれ何度もぶたれました。模範を見せなければならないおもえたちがこんなことをして、と怒鳴りつけられました。
 その後晋州からさらに五十人が来ました。その中に私より一歳年下で親戚の姜ヨンスクがいました。私は彼女に、こんなひどいところになんで来たのかと叱りました。そしてどうにかして抜け出そうと工夫し、しばらくしてから再び友だちと一緒に逃げたのです。
 
 逃げ出したが軍人に連行され
 夜でした。鉄条網を持ち上げ抜け出して、前に逃げたのとは違う方向に行きました。が、工場からいくらも離れていないところでうろうろとまよっているうちに軍人に捕まってしまいました。友だちとは死んでも手を放さないでいこうと言っていたのに、捕まってトラックに乗ってみると私だけでした。トラックは憲兵、運転兵と私の三人だけでした。
 私を捕まえたのは赤池に三つの星の階級章をつけた憲兵でした。最初は名前も階級もわからなかったのですが、後で何度も見るとわかるようになってきました。その憲兵は自分の名前を「コバヤシ・タテオ」だと言っていました。
 運転兵の横に座らされましたが、そのコバヤシは途中で車を止めさせ、私に降りろと言って山影に連れてきました。天と地の区別もつかないような真っ暗な夜でした。そこで彼は私におおいかぶさってきました。男の相手をするということがどういうことかも知らず、怖ろしくて抵抗もできずじまいでした。今なら舌をかんで死ぬところですが、その時はただ恐くて悲しくて呆然とするだけでした。
 再び車に乗ってある部隊に到着しました。部隊の横に見張りが二人立っていました。その部隊の後ろにテントのような家があり、しばらくここにいろと言われました。そこにはすでに五人の女性がいましたが、彼女たちは何も言わずにただ私を見るだけでした。到着してからすぐに夜が明けました。
 テントのような家は布でできた仕切りのいくつかの部屋に分けられていました。私がいた部屋は大きさが畳一枚半ぐらいでしたが、畳は敷かれていませんでした。夜は軍用の簡易ベッドで寝ました。そこにいるほとんどの人たちは私より年上でした。最初は恐ろしいし心の余裕がなく話もできなかったので、そこで何をするのかも知りませんでした。
 三日ほどしてそのコバヤシが来てまた同じことをしました。それから軍人たちが来はじめたのです。
そこでは日に十人位の相手をさせられました。昼間来る軍人はなく、土曜日の午後からたくさんやってきました。私のところにはコバヤシという憲兵が頻繁に来ました。彼の他には泊っていく人はいませんでした。夜は主に女の子同士で寝ました。軍人に比べて女の数が足りず、休める日はありませんでした。恐さもあり、またとにかく陰部がほてって痛く、まともな状態ではありませんでした。
 よそから軍人が来れば夜どこかに連れだされることもありました。私はそこで「ハルエ」と呼ばれました。軍人たちに名前を呼ばれたら、その女性は敷布団を持って軍人について出て行かなければなりませんでした。真っ暗な山影で人数もわからない軍人たちに輪姦されました。足の付け根があまりに痛くて歩けないので、軍人たちに引きずられるようにしてテントに戻りました。その時の何とも悲惨な気持ちは本当に言葉では言い表せません。
 服はコバヤシが持ってきてくれたものと、工場から逃げ出すとき小さな風呂敷包に入れて持ち出したものとを着ていました。食べ物は軍隊から持ってきてくれましたが、握り飯を食べたのを覚えています。土の上にちゃぶ台を置いてうずくまって食べました。コバヤシがこっそり握り飯や乾パンをを持ってきてくれることもありました。彼も最初は非常に恐かったけれど、後には少しましになりました。そこでは診察のようなものは受けませんでした。
 そこにしばらくいてから部隊が移動しました。高級タクシーのように車体の長い国防色の自動車一台とトラック二台に分乗し、女たちは軍人と一緒にトラックに乗って暗いうちに移動しました。
 
 どうにかして逃げ出せないものか
 二度目の場所には丸一日もかからずに着いたようでした。車に乗って移動する時片側にはずっと海が見えていて、はんたい側には山がありました。到着すると近くに池のような川のようなものがあり、大部分は畑でしたが、周囲は森のように木が繁っていました。雪がたくさん降っていました。部隊はとても広く、平べったくて屋根の平らな建物が何カ所かありました。前のところとは違って民家もかなりありました。
 私たちが入った家も屋根が平たく、扉を開けて入って行けば前に廊下があり、部屋がいくつかありました。各部屋に入れば後ろに窓がありました。部屋には畳が敷かれていました。
 私たちが到着したときは二十人くらい女がいたでしょうか、がやがやと結構賑やかでした。しかし先にいた女たちがどこかに行ってまた戻ってくることもあり、日によれば五、六人しかいないこともありました。
 部隊は大きかったけれど、軍人はそれほど多くなく一日に数人の相手をしました。そこでは泊って行く人もいました。お金や券のようなものはありませんでした。
 ドアの左側に大きな部屋があり、その右側に小さな部屋がありました。私たちは主に大きな部屋にいましたが、軍人たちは外で待機してから入ってきました。軍服を着た人に呼ばれて向かい側の小さな部屋に入って行きました。その部屋は二人が寝れば少しの隙間しかないほどでした。敷き布団と毛布があり湯たんぽがありました。湯たんぽは足元においたり、抱いて寝るように言われましたが、冬がものすごく寒かったという記憶はありません。
 ここに来てからは知恵も働き、私に親切なポクスン姉さんとコバヤシにいろいろ尋ねてみました。ポクスン姉さんは同じ建物に暮らしていましたが、一番長くいるということで三十過ぎに見えました。私はポクスン姉さんに、ここから富山県まで遠いのか、ここはどこなのか聞きました。ポクスン姉さんは富山は知らないといいました。私たちがいた地名を聞いた気もしますが、思い出せません。そして「私たちのお金はあいつら(軍属)がみんな持っている。私たちにはくれずにやつらがみんな持っている」と言っていました。また私に「おまえは軍人につかまって連れて来られたのに、お金ももらえずにかわいそうだ」とも言っていました。
 またコバヤシをやんわりとだましてみようとしました。「この人をうまくだませれば逃げられる」と思ったので、最初は笑顔まで作って「富山県まで遠いの?」と聞いてみました。初めは何も教えてくれず、「軍事秘密だ。そんなことを知ってどうするんだ」などと言っていましたが、「ここに天皇陛下の御所がある」とか「ここに来られる」とか言ってたことがありました。「ここがどこかは教えられないが、すぐに家に送ってやるから」と言いました。そして私が不二越にいたことに気づいたようで、「おまえは工場にいたのか?」と聞かれました。軍人の中では主にコバヤシとだけ話をしました。体の具合がひどくあまりに悲しくて、鉛筆を借りて「ああ山越えて海越えて/上等兵に捕まって/私の体は引き裂かれた」という歌詞にして、工場にいるとき歌った軍歌につけてみました。ある日その歌をコバヤシに聞かせてやると、彼は私の口に手を当てて歌をやめさせました。そしてだんだん最初の頃のようには来なくなりました。
 ポクスンとコバヤシ以外の人とはほとんど話をしませんでした。一緒にいた女たちとも目があえば見つめあって首をたてに振るだけでした。彼女たちの名前も軍人たちが「メイコ」「アキコ」と呼んでいた記憶しかありません。私はひたすら身をちぢめて歩いていました。
 そこには階級章のない国防色の服を着た何人かの男がしょっちゅう出入りして、その人たちがご飯を運んでくれました。食事はみな一緒ではありませんでした。中味もまずしく、味噌汁とたくあん、たまにはごぼうの煮物がありました。一度コバヤシが酒に酔っていなり寿司を持ってきてくれたことがありました。ポクスン姉さんはどこに行くのか、夜出かけて外で食事を食べてきたりしました。誰かにどこに行ってきたのと聞かれて、「あっちの家」と答えていました。畑に行っておかずになりそうなものを取ってきたりもしました。
 ここでもコバヤシが服を持ってきました。着物は着たことがありません。ブラウスにスカートを着ていました。
 私は体が辛いので、横になっている方がよくて、近くでも外にはほとんど出ませんでした。陰部が痛くてまっすぐに歩くのもたいへんでした。ポクスン姉さんは「南から軍人がいっぱい来るよ」と教えてくれましたが、私は土曜日が来るのが死ぬほど恐く、本当に逃げ出したくてたまりませんでした。
 
 悲しみを抱いて故国に
 ある日あまりに静かなので変に思い、同僚の一人と部隊まで行ってみると、見張りもおらず軍人たちが皆かがみこんで泣いていました。わけがわからず通りの方にでると、路上で「万歳(マンセ)」という声が聞こえました。朝鮮人のおじさんがトラックの上で旗を持って行ったり来たりしていました。徴用で来た人のようでした。あちらこちらから人が出てきて騒々しくなっていました。私はその人をつかまえて「どこにいかれるのですか、私も連れて行ってください」と言いました。おじさんは「どうしたんだい」と驚きながら聞きましたが、慰安婦生活をしていたことは言いませんでした。ただ富山県まで連れて行ってほしいと頼みました。そのとき日本には新湊にしか朝鮮人がいないと思っていたのです。おじさんが大坂までなら連れて行ってやれると言うので、あわてて風呂敷包を抱えてトラックに乗りました。その時おそらくそこにいたニ、三人の女も一緒に乗ったと思います。ほかの朝鮮人女性たちとはばらばらに別れてしまいました。
 大阪に到着するとそのおじさんが握り飯をくれました。それからほかの人に私を紹介して、トラックと汽車に乗って新湊まで連れて行ってくれるようにしてくれました。
 不二越工場から最初に逃げ出したとき、ご飯を食べさせてくれたことのあるパンさんの家に行きました。今までどうしていたのか話してみなさいと言うので全部話しました。すると朝鮮に帰るまで自分の家にいるようにと言ってくれました。それでその家でご飯をもらい洗濯もしてもらいながら過ごしました。四、五ヶ月してから寒い冬の日にパンさん一家と一緒に大阪まで出て、ヤミ船に乗りました。
 パンさんの家にいるとき、そのおばさんも私が妊娠していることに、私より先に気づきました。私が日本の軍人に連行されたのは初潮の前でした。最後の慰安所にいたとき血がうっすらにじんでいたのを見たのですが、その直後に妊娠したようでした。それで私は玄界灘を渡る船の中で海に飛び込んで死のうと思いました。しかし私の様子がおかしいのに気づいたおばさんが死なないように横にぴったりくっついていました。
 パンさんの故郷は全羅道だったようで南原(ナムウォン)に行きました。日本から来た帰郷民たちの宿舎は日本人が経営していた菊水旅館でしたが、一軒には国防警備隊、もう一軒には帰郷同胞たちが泊まっていました。1946年一月頃に赤ん坊を産みましたが、そのおばさんが取り上げてくれました。そこに何ヶ月かいたのですが、好きな男について異国にひょいと出てきたものの、生活も不安で思いどおりにならないので、おばさんは日本に戻ることになりました。おばさんは船に乗るために釜山に行くついでに、私を晋州まで連れて行ってくれました。
 
 満身創痍の体をひきずって
 家に行くと母が「子どもまで作って、そんな娘は家に入れられん」と言いました。そして知り合いのおじさんに頼んで、私を釜山に連れて行かせました。結局私は釜山鎮(オウサンチン)にある、天主教が運営する大きな孤児院を紹介され、子どもを孤児院に預けることになりました。そして草梁(チョリャン)にある平和食堂で働くようになりました。そこで働きながら毎週日曜日に孤児院まで子どもに会いに行きました。ある日私の子どもの服をほかの子が着ているので尋ねてみると、肺炎で死んだと言われました。四歳のときでした。子どもの死体をこの目で見られなかったのでとても信じることができませんでした。それで私は一生結婚しなかったのです。
 その後食堂の仕事、家政婦、下宿の管理人など何でもやりましたが、運が悪いのかお金がたまりかけると失敗したり、体がだめになったりで現在は家一つ借りられない状態です。
 慰安所に行ったため特に体全体が痛むのです。若いときは毎月生理が来るたびに痛みがひどくて、二日ほど部屋中をころげ回っていました。あまりの痛さに注射を受けなければなりませんでした。またしょっちゅう下血をしました。漢方薬局に行ったり、産婦人科に行ったりしました。この痛みさえとれれば、裸になって踊り出したいほどでした。病院では子宮内膜炎、卵管の異常だと言われました。
 解放後帰国して十八歳になってようやく生理がきちんとくるようになったのに、四十前には終わってしまいました。それからはなんともなかったのですが、膀胱がおかしくなって最近まで何回も入院を繰り返しました。
 こうして証言するようになったのは、思いっきり身の上話をしてみようと思ったからです。いままでのことを書きつけてみたこともありましたが、何度も引っ越したりしているうちになくなってしまいました。私たちのような経験を二度とさせてはならないと思ったので証言しました。そしてどうせなら私たちががんばって日本に謝罪、賠償、すべて引き出せるものは出させなければなりません。
 いまだに韓国の恥だという人がいます。いくら事実を知らないとしてもあまりに無知すぎます。
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朝鮮人慰安婦の声に耳を澄ませる その2

2019年07月11日 | 国際・政治

 私は、「帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い」朴裕河(朝日新聞出版)を読んで、ほんとうに驚きました。著者は、”「慰安婦」に関する世界の理解は「第二次世界大戦中に二十万人のアジアの少女たちが日本軍に強制的に連行されて虐げられた性奴隷」というものです”と書き、”「慰安婦」を否定する人たちは「慰安婦は売春婦」と主張しています”として、”その対立をなんとかしたいと思い、したことは、「朝鮮人慰安婦」として声をあげた女性の声にひたすら耳を澄ませることでした”と、書いているのですが、下記のような朝鮮人慰安婦の証言はほとんど無視し、逆に、小野田寛郎氏の「私が見た従軍慰安婦の正体」から、”彼女たちは実に明るく楽しそうだった。その姿からは今どきおおげさに騒がれている「性的奴隷」に該当する様な影はどこにも見いだせなかった”などという文章を引き、慰安婦であったことを名乗り出た人たちやその支援者の名誉・尊厳・人権を回復するための運動を批判しているのです。私は、とても抵抗を感じました。従軍慰安婦(日本軍慰安婦)の問題は、慰安婦であった人の証言や、当時の慰安所に関わる日本軍や政府の関係文書を抜きに語ることはできないと思います。

 だから、証言集などを手にすることが難しい人たちのためにも、いくつかの証言を「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編(明石書店)から抜粋してアップすることにしたのです。
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                      「一家に一人の供出」だと言われ                       

                                                     黄錦周(ファンクムジュ)

 少女時代
 私の家は由緒正しいソンビ[士人、官職につかない学者]の家系でした。扶餘にいた祖父と水原(スウォン)にいた母方の祖父は古くからの親友同士で、父が生まれる前から互いの子どもたちを結婚させる約束だったといいます。父方の祖父が亡くなると、母が十七歳、父が十二歳になった年に、二人は結婚することになりました。
 私は1922年、陰暦の八月十五日に扶餘で生まれました。私が長女で、妹が一人、弟が一人いました。経済的には豊かではありませんでしたが、父はソウルで中学校を卒業した後、日本に留学しました。父よりもニ十歳年上の伯父が水原で司法書士をしながら父の学費を援助しましたが、それだけでは足りなかったので、父は靴磨きや新聞配達などをして苦学したそうです。ところが留学も終わろうとする頃、父は病気になりました。故郷に戻り水原の伯父の司法事務所で仕事の手伝いをしましたが、病気は悪くなる一方でした。扶餘の家に帰って治療しても、一向に良くなりません。その治療費のために家計は苦しくなりました。父は床に伏して、当時一般の人の目には触れることのなかった新聞ばかり読んでいました。新聞は私が面事務所に行って持って来たりしました。
 ある日、いい薬があるという話を耳にしましたが、その値段が百円だというのです。家にはそんな大金はありません。ただ気をもむばかりでしたが、ソウルで大きく商売をしている咸興(ハムフン)の崔(チェ)さんという人を母の友達が紹介してくれました。私は崔さんに父のことを話しました。その人は、父親は大事にしなさいと言いながら百円をくれました。その代償に、私は崔さんの養女となり、
ソウルにいる崔さんの妾の家で手伝いをすることになったのです。後で聞いたところによると、父はそのお金で薬を買って飲みましたが、甲斐もなく一年後に亡くなったということでした。私は、家族の誰にも言わずに家を出ながら、成功するまでは何があっても決して帰らないと固く心に誓いました。私はその時これで親に恩返しができたと思いました。私が十三歳の時(1934年)のことでした。
 崔さんの妾は意地悪でしょっちゅう殴るので、私はひどく苦労しました。二年間そこで暮らしましたが、養父である崔さんにそのことを訴えると、咸興の本妻の家に移してくれました。咸興の家に私を連れて行ってくれた人が本妻から百円を受け取って行きました。私の借金は二百円になったわけです。これがずっと心の重荷となりました。
 咸興の家には息子と娘が二人ずついました。養母は私によくしてくれました。勉強しなければならないと言って十七歳になる秋から夜学にも通わせてくれました。ハムソン女子講習所というところで、大きな教会が運営していました。夜になるとカーテンを引いて間を区切り一年生から四年生まで学年別に教えていたのです。私は二年生まで通って日本語、算数などを習いました。朝鮮語は一週間に二時間しか教えませんでした。私は編み物と縫い物がとても得意でした。

 日本人班長夫人の誘いに乗って
 夜学の二年生を修了して一年ほど休学していた時のことです。私が住んでいた村の班長は日本人でしたが、私の家の裏の一戸建てに借家暮らしをしていました。班長の姿をみることはめったにありませんでしたが、夫人と子どもたちは時々見かけました。その夫人が村を歩き回って「日本の軍需工場に三年の契約で仕事をしに行けばお金が儲かる、一家で少なくとも一人はいかなくてはならない」と暗に脅迫しました。私は区長が自分の娘を行かせることもあると聞いた上に、村で以前に日本の工場に行ってお金を稼いできた人もいたので、日本の工場に行くという話を疑いませんでした。養父の家には私を含めてまだ嫁に行っていない娘が三人もいましたので、誰か一人は行かねばならなくなるだろうと思いました。その時、長男はソウルの大学に、次男は日本の大学に行っていました。次女は高等女学校に通っており、長女は咸興高女を卒業して日本の大学に入る準備をしていました。養母が困っているのを見て、私は自分が行くと養母に告げました。これからさらに勉強する娘たちをいかせてはならないと思ったのです。それに二百円の借金も返したいと思いました。日本の工場で三年間働けばそれだけの金を稼げるだろうと考えたのです。養母はとても喜んで三年辛抱して行ってきてくれたらいいところに嫁に出してやろうと言いました。ニ十歳になった年(1941年)の陰暦二月のことでした。
 私の村では二人が行きました。班長夫人が集合日時と場所を知らせてくれたので、その時間に咸興駅に行きました。咸興駅に行ってみると、いろいろな郡か来た女たちが二十人くらいいました。年格好は大体十五、六歳といったところで、私が一番年長の方でした。出発の時、送別式のようなものはなく、見送りの家族が大勢きていました。私は黒のユトンチマに白のチャミサ(絹)チョゴリを着て、黒い木綿の風呂敷の中に下着、生理帯、石鹸、ハブラシ、くし、消化剤、三年過ごすための冬服、夏服を入れて持って行きました。駅で五十代の朝鮮人男性が私たちの一行を引率し、日本の軍人に引き渡しました。軍人は私たちを軍用列車に乗せました。軍用列車の他の車両には軍人が乗っていました。一つの車両に私たちの一行と他の女たちも合わせて五十人ほど乗っていました。他の車両にも女たちがいたようでしたが、よくわかりませんでした。咸興駅から一緒に乗った二十人に関しては互いに知り合いましたが、他の女たちのことはよくわかりません。
 汽車の窓には黒い油紙でできた日よけが引き下ろされていました。女たちは皆、家を離れる悲しみから力なく座り込んでいましたが、私はこの日よけの隙間から外を覗き見ました。そして、私たちを汽車に乗せた軍人がぐるぐる巻きにした紙を日本人の憲兵に渡し、憲兵の方からも似たようなものを受け取っているのを目撃しました。おそらく書類を交換したのでしょう。この場面を見た時なぜか不安がよぎり、その後も忘れることができませんでした。今でも鮮やかに思い出すことができます。汽車の車両の前後には見張りの憲兵が一人ずつ立っていました。
 外を見ることもできず、電灯もついていなかったので汽車の中は真っ暗でした。でも北の方向に向かっていることだけはわかりました。ソウルの方に行くのだなとばかり思っていた私は、汽車が北へ北へと向かっていくことに疑念を抱きましたが、聞くこともできませんでした。汽車はトンネルの中でしばらく止まってしまったり、夜はあまり走らなかったりしました。何度か汽車から降りて倉庫のような所に隠れたりもしました。汽車を乗り換えたような気がしますが、よく覚えていません。その間に一日に二回ずつ握り飯と水をくれました。時計もない汽車の中でニ、三日過ごしたように思います。汽車から降りるとなにやら放送する声が聞こえました。何の放送か尋ねると、吉林駅だということでした。
 駅前広場に出ると、埃まみれの汚い幌を張ったトラックが待っていました。汽車から降りてきた女たちがトラックに分乗しました。女たちは黒い木綿の風呂敷包みを一つずつ抱えて座っていました。ガタガタと何度も飛びはねるようにしてトラックは半日走り続けました。

 「へたしたら殺される」
 トラックが着いた場所には民家のようなものは一切なく、軍隊の幕舎[テント]ばかりが見える果てしなく広い部隊の敷地内でした。私たちは[小屋(コヤ)]と呼ばれるたくさんの幕舎の一つに荷を解き、その日の睡眠をとりました。ブリキで丸く建てられた小屋の床には板を敷き、その上に畳を被せてありました。
 毛布一枚と刺し子の布団を一枚支給されました。とても寒かったので、私たちはお互いに抱き合って寝ました。私は「ここで軍人の食事の世話や洗濯をするのだな」と思いました。その小屋には私たちより先に来ていた女が何人かいました。彼女らは「あんたらももう終わりね。かわいそうに」と言いました。「私たちは何をするの?」と尋ねると「仕事は仕事だけど仕事じゃない。しろと言うとおりにするしかないよ。へたしたら殺される」と言うのでした。
 翌日、軍人たちが来て女たちを一人ずつ連れて行きました。私もある軍人に連れられて将校の部屋に行きました。将校は寝台の横にいて、近くに来いと言いながら、抱き寄せようとしました。私が嫌だと言うと何故かと問い返しました。「洗濯や掃除ならやります」と言うと、そんなことはしなくていいと言いながらまた抱き寄せようとしました。それでも振り切ると両頬を叩かれました。私が助けてくださいと頼みこむと、とにかく言うことを聞けと言われました。私は死んでもそんなことはできないと言いました。将校がチマを強く引っ張ったので、チマの肩紐だけ残して引き裂かれてしまいました。その時私は黒いチマに白のチョゴリを着て、髪を長く編んでいました。チマを引き裂かれ下着姿になってしまった私はそれでもいやだと言って座り込みました。将校は私のおさげ髪を引っ張って立たせ刀で下着を引き裂きました。その時私は気を失ってしまったのです。しばらくして気がつくと、将校は向こうの方に座って汗を拭き、服を着ているところでした。兵士が来て私をまた連れて出ました。私は下着を拾い、チマを抱きかかえて泣きながらその部屋を出たのです。痛くて歩くのもやっとでした。先に来ていた女が「ほらごらん、私らは生きてここから出て行くことはできないんだと」と言いました。
 半月ほどの間は一日に、三、四回ずつ将校に呼ばれました。来たばかりの女は新物ということでしばらくの間将校の相手だけをさせられたのです。将校たちはサックを使わないので、この期間に妊娠した女がたくさんいました。妊娠したことにも気付かずに606号の注射を受けると、体がむくみ寒気におそわれ下血しました。すると病院に運ばれて医者が子宮の中を掻爬(ソウハ)します。このように三、四回搔爬すると、もう妊娠できない身体になりました。
 約半月後、その小屋に荷物を置いたまま慰安所に行くことになりました。慰安所は木造の簡単な建物で、板材で五、六部屋に隔てられていました。戸は毛布を破いたものが下げられているだけでした。そんな建物が三、四棟並んでいました。その他にも慰安所の建物があると聞きました。慰安所の看板はありませんでした。部屋は一人寝るのにちょうどという大きさで、板間の上に毛布を敷いてやっと人一人通れるくらいのものでした。
 軍人の相手が終わると自分の小屋に帰って寝ることになっていましたが、夜中まで、あるいは夜通し軍人たちが来ましたし、疲れてもいたので慰安所の部屋で寝ることが多かったと思います。布団一枚かけて寝るのですが、寒くて死にそうでした。食事は兵士が利用する食堂でとりました。軍人らが食事を作ってくれました。ご飯に味噌汁、たくあんが主なメニューでした。到着したばかりの時、モンペと羽織り、軍事用の靴下、帽子、黒の運動靴、刺し子のオーバーとズボンをくれました。その後は軍人の運動着のようなものをもらって着たこともありましたが、そのうち補給が途絶えて軍人たちの古着を拾って着るようになりました。1945年にはいると、服の供給もなくなるほど物資の不足が深刻化していました。おかずもなく、味噌、醤油もない中でご飯ニ、三口に塩水を沸かして飲むという有様でした。
 慰安所に軍人たちが来る時間は特に決められておらず、兵士と将校が入り混じって来ましたが、将校は病気がうつるのを恐れてあまり来ませんでした。一日に相手した軍人の数は三十人~四十人くらいでしたが、休日には軍人たちがふんどし一枚で列を作るほど押し寄せました。まだ前の人がいるのにそのふんどしまで取ってカーテンを開け押し入る軍人もいました。少しでも時間が余計にかかると、外で「早く、早く」と叫ぶ声がしました。戦場に出る前の軍人は特に荒々しく、泣きながらする人もいました。そんな時には彼らをかわいそうに思うこともありました。サックをしてくる人、持ってきてつけてくれという人、つけても来ないし持っても来ない人、と様々でした。初めにサック一箱を配給されましたが、私はそれさえなければ軍人が来ないと思って捨ててしまったのです。でも軍人がやって来ました。今思えば私が損をしただけでした。
 慰安婦生活を強いられた期間に報酬を受けたことは一度もありません。お金も票のようなものももらったことがありません。
 定期検診は一ヶ月にニ、三回病院に行って受けましたが、一年後くらいからは事務室のような幕舎に軍医が器具を持って来て行うようになりました。消毒をして薬を塗り606号の注射も打たれました。女の看護婦はみたことはありません。女たちは一年もすると皆健康ではなくなりました。妊娠をニ、三回経験し、様々な病気にもかかるのです。病気がひどい時には隔離され便所も別にされて、治るとまた連れて来られるのでした。このように二回までは治療を受けましたが、三たび再発すると軍人に連れて行かれ、二度と帰っては来ませんでした。陰部から臍まで黄色く化膿した女もいました。こうなると顔も腫れて黄色くなりました。こういう女たちも軍人に連れて行かれ、そのまま帰って来ませんでした。咸興駅から一緒に行った二十人のうち、残ったのは私一人で、あとは皆途中でどこかへ消えてしまいました。病気のせいでいなくなった女もいましたし、他の部隊に移動した者もいたからです。そして新たに補充された女たちの多くもいなくなり、私がいた小屋に最後まで残っていたのは私の他には七人だけでした。全員朝鮮人でした。この女たちも皆病んでいて思うように動くこともできない有様でした。
 生理の時には脱脂綿のようなものを配給されました。一年ほどした頃からこの配給が途絶えたので、他の人が洗って干しておいたものを盗んで使ったり、軍人たちのゲートルを拾ってきて洗って使ったりもしました。これが軍人の目に止って縁起が悪いと殴られたこともありました。
 軍隊の中で慰安婦は人間としての扱いを受けることができなかったのです。殴られることが日課でした。月を眺めているだけで何を考えているのかと殴られ、一人言を言えば文句を言ったと殴られました。部隊の中のできごとは見て見ぬふり、聞いて聞かぬふりをしろと言うので、手で目を覆って歩いたりしました。幕舎の外に出ようとすると、どこに行くのかと足蹴にされたので、外を見ることもできませんでした。だから部隊名も、軍人の顔や階級も覚えられませんでした。私は特に反抗した方なので、よく叩かれたようです。あまり叩かれすぎたせいか今でも急に意識が遠くなり耳が聞こえなくなることがあります。膝と臀部に強力な磁気をつけて暮らしています。風呂に入る時にはずすだけで、数時間後には腫れあがって座ることもできなくなってしまいます。
 子宮が腫れて血膿が出て兵隊の相手をすることができなかった日、ある将校が来て相手をできないなら代わりに自分の性器を口に含めと言いました。私は「そんなことをするくらいだったら、あんたのクソを食らうほうがまだましだ」と言い返しました。するとその将校は「このやろう、殺してやろうか」と言ってめちゃめちゃに殴る蹴るの暴行を加えました。私は気を失ってしまいました。そして気がついた時、四日も経ったと小屋の同僚に言われました。
 女たちの中には朝鮮で学校に通っていて、休みを利用して中国の親戚の家に遊びに来たところを道端で軍人に捕まえられて来たという者もいました。二十才歳くらいの女でした。私の小屋にいた女は皆朝鮮人で、中国人が一人だけ混じっていました。朝鮮人は北部の出身者が多く、論山から来たという者も一人いました。私のように軍需工場に行くと騙されて来た人が大部分でした。
 特に懇意にした軍人はいませんでしたが、衛生兵と少し親しくなったことがありました。私は、軍医の下で働いていたこの人に頼んで、病気にかかった同じ小屋の女たちを治療してもらったりしました。でもそれも束の間のことで、他には親しくした軍人はいません。軍人たちにめちゃめちゃにされるので、淋しさなどを感じている余裕もなかったのです。
 ある日、移動する部隊があるので一緒に行きたい者はついていってもいいと言われました。私はあまりにもつらかったのでここよりはましだろうとついて行くことにしました。私の他にも十数人がついて行くことになりました。トラックに乗って出発したのですが、吐き気がひどく外を見ることもできなかったので、どこにどのように行ったのかわかりません。船にも乗ったような気がします。軍人たちは私たちを慰安所に降ろしました。慰安所の建物は吉林の慰安所と似ていました。どこだったのかわかりませんが、爆撃がひどくて夜は灯火することができませんでした。そこに着いてみると 他の女たち(中国人二人、他は朝鮮人)が先に来ていて、ここはたとえ逃げ出せたとしても水に落ちて死んでしまうようなところだと言いました。部隊はたしかに陸軍ではないようでした。慰安所に来る軍人は主に海軍で、時たま他の軍人が来る程度でした。吉林の軍人たちよりも乱暴でもっとひどくぶたれました。戦闘に出る前の軍人はとりわけ乱暴で、とても生きていけないと思いました。八、九ヶ月ほどしたある日、軍人たちが吉林の方に後退する気配を感じた私は、ひとり死にものぐるいで軍人たちの中に混ざってそこを出ました。そうしてもといた部隊に戻ったのです。満州に戻ってしばらくした頃、解放を迎えました。

 捨てられた朝鮮の女たち
 ある日、夕方になったというのに食事の知らせがありません。人も来ないし、外も静まり返っていました。幕舎の戸をそっと開けて外に出て見ると、馬も、トラックも、車も、何もかもなくなっているのです。鉄条網にかけてあるムシロだけが強風になびいていました。そっと這うようにして食堂に行ってみると、めちゃめちゃに散らかっていて人っ子一人いませんでした。水を飲んでいると兵士が一人現れました。
 彼は、連絡兵として遠くに行って帰って来たらすでに部隊はなく、「早くここを発つように」という将校のメモだけが残されていたと言いました。その兵士は私にこうも言いました。「原子爆弾が投下されて日本は降伏した。おまえたちは朝鮮に早く帰った方がいい。ここにいたら中国人に殺される」。
 私は幕舎に帰って、残っていた七人の女たちにその言葉を伝え、早く発とうと誘いました。全員朝鮮人でした。彼女たちは皆、下腹部が腫れて膿が出て、体がむくんで歩くのもしんどいと言って泣きながら、私一人で行くように言うのでした。私は心が痛みましたが、仕方なく一人で幕舎を出てまた食堂に行ってみました。兵士はもういませんでした。
 八月だというのに寒かったので、軍人が捨てて行った下着のような、運動着のようなものを三枚重ね着して、食堂で拾った大きさのちがう地下足袋を履いて、虱だらけの頭を手ぬぐいで縛って走りました。
 兵営は思っていたよりもはるかに広いということをこの時知りました。門を三回もくぐりぬけ、最後に鉄条網の門を通り抜けてやっと部隊の外に出られました。三里ほど歩いて行くと人の姿がちらほら見え始めました。さらにしばらく行くと軍人や労務者、その家族たちで道がふさがれていました。この人たちと一緒に道端でご飯を分け合い、民家から食べ物をもらい、火を焚いて一緒に丸くなって寝たりしました。
 私は道端で服を何回も拾って着替え、靴も拾って履きました。春川(チュンチョン)の近くで日本人を乗せた石炭車が来たのでこれに乗り、清涼里(チョンリャンリ)駅で降りました。到着したのは十二月初めのことです。
  清涼里に到着すると、食べ物をもらおうと大衆食堂に入りました。満州から来たというと、その店の主人が食べ物を与えてくれました。私は部屋に入ってご飯を食べながら泣きました。こんな姿で家に帰るのはいやでした。そこで家族も親戚も捜すあてがないと言うと、店主は自分の家にいていいと言ってくれたのです。風呂に入り、モンペ、セーターなど古着をもらって着ました。店主は私の髪を切って櫛で虱の卵を取り除き、DDTをかけました。ここで三年働いて少しお金を貯めた後、泰昌(テチャン)紡績工場に勤めました。二十七歳になっていました。
 その間に米軍部隊からもらって来たペニシリンを打って性病の治療をしました。その後も十年ほど欠かさず薬を飲み続け性病を完全に治したのです。紡績工場で三年ほど働いている間に六・二五[朝鮮戦争]が勃発したので、貯金通帳と印鑑だけを持って避難しました。避難の途中、孤児三人を育てましたが、結局また孤児院に預けました。戦後、清平(チョンピョン)付近で四、五年畑仕事をしました。その間に預けておいた孤児三人を再び引き取って育てました。そのうち一人は幼い頃に死にましたが、女の子一人男の子一人を育て上げて結婚させました。この子たちとは今でも行ったり来たりしています。今まで生活が苦しくて死のうと思ったことが何度もありました。
 ソウルに帰って来て清涼里の近くで野菜売りを始めました。うどん屋などもしてみましたが、今は新林(シンリム)洞で七坪の小さな食堂を営んでいます。人を雇わず一人でやっています。なんとか暮らしてはいますが、楽ではありません。
 二日に一回は朝五時半に起きて永登浦(ヨンドウンボ)市場、可楽(カラク)市場、龍山(ヨンサン)市場に行って料理の材料を買って来ます。コーヒーを一日五、六杯も飲まないと目が覚めません。膝もひどく痛みます。子宮摘出手術も受けました。これから先、どうしたら他人から蔑まれず病気にも悩まされず生きて、そして死んでいけるのかと思いあぐねています。

 無視されずに生きたい
 いつも悔しい思いを抱いて生きてきました。何度もこのことを政府に訴えたいと思いましたが、その機会がありませんでした。ところが去年(1991年)十一月、夜十時のテレビ番組で金学順さんが証言するのを見ました。翌日の朝、テレビで見た金さんの電話番号を回して金さんに会いました。そして金さんに教えてもらって申告したのです。
 親に恩返ししようと家を出たのに、私の人生はとんでもない方向に行ってしまいました。今からでも、他人から無視されずに残された人生を、苦しい人たちの手助けをしながら、他人の世話にならずに生きて死ねたらと願っています。

(1)村の区長の下に班長がいた。区長は現在の統長のような順位であって、班長は現在の班長に該当する地位であった。

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朝鮮人慰安婦の声に”耳を澄ませる” その1

2019年07月07日 | 国際・政治

 7月3日付け、朝日新聞の「終わりと始まり」欄に掲載された池澤夏樹氏の文章は、その最後の九行が(ここでは四行)私には看過できません。池澤夏樹氏の文章とは思えない内容になっているからです。

 くり返しになりますが、私は、朴裕河(パクユハ)著「帝国の慰安婦」にとても抵抗を感じ、読みっ放しにはできないと思って、抵抗を感じた部分を悉く抜き出し、私自身の考えをまとめたのですが、その根拠を明らかにしておくために、『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成(財)』(女性のためのアジア平和国民基金編)「従軍慰安婦資料集」吉見義明編(大月書店)に入っている関係資料の一部も示しました。そして、私のブログ「真実を知りたい NO2」(https://blog.goo.ne.jp/yshide2004)に『「帝国の慰安婦」事実に反する断定の数々』と題して6回に分けて、アップしたのでした。その直後に、池澤夏樹氏の下記の文章を目にしたのです。だから、衝撃を受け、看過できないと思ったのです。

見終わった方にぼくは朴裕河(パクユハ)著『帝国の慰安婦』を読むことをお勧めする。『主戦場』は映画としてよくできているがあくまでもレポートであって、論理の骨格に欠ける。それを補うのにこの本は役立つ。両国と諸勢力を公平に扱って、感情的になりがちな議論の温度を下げ、明晰な構図を与えてくれる。

 『帝国の慰安婦』が論理の骨格を補うことはないと、私は確信します。また、『帝国の慰安婦』は両国と諸勢力を公平に扱っているとは思いません。明らかに片寄っており、被害者やその支援団体ではなく、日本政府を後押ししていると思います。
 さらに言えば、感情的になりがちな議論の温度を下げることなく、逆に温度を上げ、大きな混乱をもたらすものだと思います。それは、被害者や支援団体が同書の出版差し止めを求め、名誉棄損で訴えた結果、さまざまなやり取りの後、ソウル高裁が罰金1000万ウォンとする判決を言い渡したことでも明らかだと思います。
 従軍慰安婦(日本軍慰安婦)の問題の解決は、名誉・尊厳・人権の回復をもとめて、慰安婦であったことを名乗り出た人たちが、受け入れられるものにすることが欠かせないと思います。地獄の苦しみを味わい続けてきた人たちに向き合うことなく、政治的な力によって、名誉・尊厳・人権の回復にはつながらないような和解をすることは、慰安婦であった人たちはもちろん、日本にとっても韓国にとっても、よくないことだと、私は思います。
 『帝国の慰安婦』の著者は、国連人権委員会の二度にわたる日本政府に対する勧告を否定したり、国際法律家委員会(International Commission of Jurists)の日本政府に対する勧告を無視したりしていますが、私は尊重されなければならないと思います。
 2007年に、日本の一部政治家やジャーナリスト等が「従軍慰安婦」の「強制連行はなかった」という意見広告を米ワシントン・ポスト紙に出し、それが、結果的に、アメリカ合衆国下院121号決議の採択をもたらすことになったことはよく知られていると思いますが、その決議には「性奴隷にされた慰安婦とされる女性達の問題は、残虐性と規模において前例のない20世紀最大規模の人身売買のひとつである」と断定し、「日本軍が強制的に若い女性を”慰安婦”と呼ばれる性の奴隷にした事実を、明確な態度で公式に認めて謝罪し、歴史的な責任を負わなければならない」というものでした。また、決議は「現世代と未来世代を対象に、こうした残酷な犯罪について、教育をしなければならない」とも要求しているのに、日本は逆に、教科書から従軍慰安婦(日本軍慰安婦)問題の記述を削除する方向に動きました。
 日本は、自らを正当化しようとする当時の軍人や政治家の主張に引きずられて、国際世論を無視してはならないと思います。アメリカにとどまらず、オーストラリア上院、オランダ下院、カナダ下院の決議などが続き、フィリピン下院外交委、韓国国会なども謝罪と賠償、歴史教科書記載などを求める決議を採択したといいます。さらに、台湾の立法院(国会)も日本政府による公式謝罪と被害者への賠償を求める決議案を全会一致で採択したと伝えられています。サンフランシスコ講和条約締結国が、次々に日本のみを対象とする決議を出すに至ったことは、重く受け止めるべきではないかと思います。 

 『帝国の慰安婦』著者は、序文で”「慰安婦」に関する世界の理解は「第二次世界大戦中に二十万人のアジアの少女たちが日本軍に強制的に連行されて虐げられた性奴隷」というものです”と書き、”「慰安婦」を否定する人たちは「慰安婦は売春婦」と主張しています”として、その対立をなんとかしたいと思い、したことは、”「朝鮮人慰安婦」として声をあげた女性の声にひたすら耳を澄ませることでした”と書いています。でも、著者が”「朝鮮人慰安婦」として声をあげた女性の声にひたすら耳を澄ませ”た気配が、同書にはないのです。だから、ここでは、「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編(明石書店)から、「初潮前に処女を奪われて 李相玉(イサンオク)」を抜粋しました。”耳を澄ませる”ために。

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                         初潮前に処女を奪われ
                                                   李相玉(イサンオク)
「女が勉強するとろくなことがない」
 私は1922年、慶尚北道達城(タルソン)郡達城(タルソン)面助也(チョヤ)洞に二男三女の長女として生まれました。戸籍上の名前はサンオクですが、幼い頃おとなしい性格だったので、ウムジョン[言行がしとやかで上品なこと]と呼ばれていました。戌年の生まれでしたが、祖父は「この娘は運勢が悪いので、後妻になったほうがいい」と言っていました。当時父は面長をしており、作男を雇って農業を営むなど、比較的暮らしは裕福でした。妹たちには乳母もついていました。
 学校に上がる前に夜学に通いましたが、ある晩、獣を見て驚いてからは、怖くなって行かなくなってしまいました。

一年生の教科書はすぐに全部読めるようになりました。三歳違いの兄は、女が勉強して何になると言い、学校に行けないように本を全部焼き捨て、女が勉強するとろくなことにならないとうそぶきました。それでも私が学校に行きたいと言うと、家では祖父がいて叩けないので、書堂(ソダン)に私を引っぱって行き、鎌で突き刺して殺すとまで言いました。私は隣の家の背の高いお姉さんが学校に通うのを見て、羨ましくて仕方がありませんでした。
 学校に行けなくなったため、その年の春の終わり、母にも告げず、家を出て伯母の住むソウルへ向かいました。子どもなので汽車賃を持っていませんでしたが、そのまま汽車にのりました。ソウル駅で下り、電車に乗り換えて笠井町まで行き叔母の家まで歩きました。伯母の家は京城府笠井町にあったのです。
 夫に先立たれた伯母は服地を売って生計を立てていましたが、暮らしはあまり楽ではありませんでした。伯母は私に家に帰るようにと言いながら、仕事ばかりさせました。いとこの兄や姉たちが、ウムジョンは学校に行きたくて来たのに、仕事ばかりさせてなぜ学校にやらないのかと、伯母を説得してくれたので、翌年十歳の時、学校に再び通えるようになりました。学校の名前は覚えていません。学費は伯母が出してくれました。学校に通いながら家の掃除や縫い物もしなければならなかったので、思うように勉強ををすることができませんでした。学校が遠かったので、朝ご飯を食べるとあわてて家を出て学校に行ったものです。
 学校には日本の子どもも通っていました。先生が私の長い髪の毛を撫でながら、頭がいいとほめてくれたことを覚えています。女子生徒は数えるほどで、男子生徒がほとんどでした。学校の帰り道に友だちとお手玉や縄とびをして遊んで、帰りが夕飯時になってしまうようなことがあると、ひどく叱られました。
 部屋は従姉たちと一緒でした。そのうちの一人はもう学校を卒業して勤めに出ていました。小遣いがなくて、伯父がタバコ代にくれた五銭で飴を買って食べたことがありましたが、伯父は叱りもせずタバコを買って来るようにと、またお金をくれました。
 私が伯母の家に来てから、伯母が達城に出かけたことがありました。その時、兄は私を学校にやっていることに文句を言い、学校に行かせるなと騒ぎ立てたそうです。そして、私のことを関係ないアカの他人だと言い、両親が私に会いに行くことにも反対しました。私は家に手紙も出しませんでした。
勉強がますます面白くなり、教科書はもちろん手当たり次第に本を読みました。

 伯母の家を出て
 四年生まで学費を出してくれた伯母が、もう学費は出せないから家に帰るようにと言い出しました。それまでにも何度か帰るように言われていましたが、私は家に帰ったら勉強ができなくなると思い、泣きながら帰らないと言い張りました。その度に伯母は私の強情にまいって、そのままいることを許してくれました。私は勉強もしたいし、家に帰ったら兄が勉強させてくれないから帰らないと言い張りました。でも、結局、六年制の学校を四年までしか通えませんでした。
 伯母があまりうるさいので、十四歳の時に伯母の家を出ました。兄にひどい仕打ちをされるのが恐くて実家には帰れませんでした。伯母の家を出て歩き回っていると、どこからか話し声と歌が聞こえるので振り返ってみると、門が開け放されていて、その横に紹介所という看板と金ムンシクという表札がかかっていました。住所は京城市笹井町一二三番地で、伯母の家のすぐ近くでした。紹介所がどういうところか知りませんでしたが、歌声が聞こえたので歌でも習おうと思い入って行きました。恐くはありませんでした。入ってみると女たちが床でチャンゴ[朝鮮の民族楽器、鼓の一種]を打ち、男たちはそれを聞いていました。後になってわかったことですが、紹介所では女に歌を歌わせ、うまければ人力車に乗せてどこかへ送りだしていました。
 私が入って行くと、紹介所のおばさんに「どこから来たの?」と聞かれたので、「家は達城だけど、京城(ソウル)の伯母の家に住んでいました。仕事がちゃんとできなかったので追い出されたんです」と嘘をつきました。おばさんが、自分の家で暮らすかと聞くのでうなづくと、では養女にしようと言いました。そこで食事をつくったり洗濯をしたりしながら、一年ほど暮らしました。暮らし始めたのは冬でした。食べるもの、着るものの面倒を見てくれた上、時々十銭かニ十銭くらいお小遣いをくれました。もらったお金は服の端っこを破って、縫いつけて持ち歩きました。紹介所の主であるおばさんは金ムンシクという名の未亡人でした。年は四十過ぎで色が白く、男のように髪の毛が全然ありませんでした。紹介所では女たちがチャンゴを打ち歌うのをいつも聞いていたので、私もたくさん歌を口ずさむようになりました。
 いつ頃からか女たちがひっきりなしにやって来るようになりました。一人、二人とやって来ましたが、中には父親に売られて来た娘たちもいました。紹介所にいた年老いた朝鮮人の男と、日本人の軍属が村を回って女たちを集めて来るのでした。日本人の軍属は国防色の軍服を身につけ、肩には赤と青の飾りがついていました。赤いかもめの形をした肩章が一つありました。
 彼女たちがどこへ行くのか尋ねると、日本人の軍属について日本の工場へ行くのだと答えました。「私も行こうかな」と言うと、彼女たちは一緒に行こうと言い、日本人の軍属に話してくれました。彼は「いいだろう」と言って、私の名前を書き入れました。紹介所のおばさんに日本に行くことを話すと、「行きたければ行けばいい」と言いました。実家や伯母さんは知らせませんでした。
 私を入れて総勢十人になったところで、日本人の軍属は出発しました。慶尚道や全羅道など女たちの出身地は様々で、年は十六歳から十八歳くらいでした。私が一番年下で、十五歳(1936年)でした。春だったと思います。私は裏つきのチョゴリに黒いチマを着ていました。ソウルから釜山まで汽車で行き、その足で連絡船に乗り下関に着きました。髪の毛が長いと朝鮮人だとわかってしまうというので、髪を短く切りました。私は日本語を少し話せたので、旅館でみんながお腹がすいたというと、いつもお菓子や卵を買いに出ました。
 一週間ほど過ぎた頃、また船に乗るように言われました。日本に来たのに、またいったいどこへ行くのか尋ねました。大きな連絡船で、中には酒場や風呂場もありました。女は私たち十人だけでした。ほとんどみんな船酔いしてしまい、食堂で梅干しと味噌汁をもらって食べるとよくなりました。
 何日たったのかわかりませんでしたが、船上に出て波うつ海を見ながら紹介所で覚えた歌を歌うと、自然に涙が出ました。船員たちは「お前が行く所には真っ黒い土人(ママ)が裸に木の皮をもとって暮らしているんだ。行けば死ぬぞ」と脅かしました。そこへ行って何をするのか聞くと、たわし工場で働くのだと言いました。

 パラオに着いて
 船が島を通り過ぎる時、船員たちが「あそこの島がサイパンで、その下にあるのがヤップ島、おまえたちの下りる島がパラオだ」とおしえてくれました。パラオに着きましたが、埠頭の施設が整備されていなかったため、船を島にぴったり着岸させることができませんでした。船がツーと音を出すと、向こうから真っ黒い原住民が一人、伝馬船に乗って現れました。衣服は着けず、真っ赤な布を腰の部分にだけ巻きつけていました。船からはしごが下ろされたので下りようとすると、船員たちが「ここの土人(ママ)たちは昔、人を襲って食べたこともある」と私たちを脅かしました。私たちは泣きながら下りないと言いましたが、早く下りろと怒鳴られました。伝馬船は小さくて二人乗るのがやっとだったので、何度も往復しなければなりませんでした。
 下りてみると、人の手が加えられていない自然そのままの島でした。島の人たちは服を着ていませんでしたし、女ったちも椰子の葉っぱを腰だけに巻きつけていました。歩いてたどり着いたのは、板で細長くL字型に造った家でした。建物は平屋でしたが、敷地が広く片側にはお花畑があり、広い庭の周囲には木が繁っていて生垣の役目を果たしていました。
 一緒に来た日本人の軍属は、私たちを家の経営者に引き渡しました。経営者は朝鮮人夫婦で、全羅道の方言を使っていました。男の姓はハヤシといいましたが、名はわかりません。男の方は読み書きができず、太った女の方は日本語が達者でした。彼らは、私たちにどこから来たのか、親は知っているのかなどと質問したけれど、私たちはお腹もすいていたし、泣いてばかりで答えられるような状態ではありませんでした。
 経営者が日本人の軍属にお金を支払い、その金額によって各々一年半、二年、三年と期限が決められました。私は一年半でしたが、あらかじめもらったお金は一銭もありませんでした。
 最初はパパイヤ、パイナップル、バナナなどを食べ、一週間ほどして米が届いてからはご飯と味噌汁を食べました。食堂には経営者の親戚だという三十代の朝鮮女性がいて、賄い婦をしていました。雨が降ると雨水をためておいて飲み水にしたり、洗濯に使ったりしました。気候は朝鮮の五月頃の陽気で、雨が降ると涼しくなりました。
 その家には漢字で書かれた看板がかかっていましたが、泣いていたためによく見えませんでした。入り口の引き戸を開けて入ると玄関があり、その奥が経営者たちの部屋でした。その横に台所と事務室があり、たくさんの部屋が向かい合わせになっていました。軒下に筒をつないで、雨が降ると土の中に埋め込んだ貯蔵タンクに水が溜まるようにし、その水を消毒して飲みました。この水を水道に連結し、トイレでも使えるようにしていました。経営者たちの部屋の前には自分たち専用の小さなタンク置いていました。
 経営者は許可が下りないと、客を取れないと言いましたが、半月ほどたってその許可が下りました。
 そんなある日の夕方、経営者が私たちに玄関に出て座るように言いました。しばらくすると軍人たちが来て、靴を脱いで入り、気に入った女を部屋に連れて行きました。初めて軍人の相手をさせられたときは本当に恐ろしくて、悲鳴を上げながら逃げまどいました。すると泣くなといって殴られました。
 そこでは午後三時か四時になると軍人がやってきました。経営者は階級の高い軍人には、年長の物事のわかった女を紹介し、年端のいかない私には、学識のない兵士ばかりを紹介しました。兵士は私が言うことを聞かないと言って、情け容赦なく叩きました。軍人が靴を脱いで上がり、女を指名すると、その女が靴をもって部屋について行ったりしました。
 私は一日に二~三人の相手をするのがやっとでした。二人の相手をしただけでも疲れて横になって休まなければなりませんでした。玄関にいて経営者に軍人を取るように言われると、ぶるぶる震えて泣きちらすので、経営者は他の女に回しました。他の女たちは二十人ほどの相手をさせられていました。白い軍服を着た軍人と、国防色の軍服をきた軍人が来ました。朝鮮人はいませんでした。部隊がどこにあったのか知りませんが、海辺の近くにあると話しているのを聞いたことがあります。
 軍人の相手をする際、一回というのは普通一時間でしたが、一度済んでからもまた服を着ずに飛びかかって来る男もいました。こんなふうに何度も襲いかかってくるときにはいやだと言って拒みました。大声を上げ必死になって抵抗すると殴られたリ、刃物で突き刺されたりしました。こんな生活に耐えきれず逃げだしたのですが、捕まってしまいひどく痛めつけられました。そのため今も右の耳がよく聞こえず、体もがたがたです。逃亡しようものなら首に縄をかけて引きずり回すなど、めちゃくちゃにされました。生理中でも軍人たちはおかまいなしでした。経営者に「生理だから軍人の相手ができない」と言うと叱りとばされました。私にしょっちゅう会いに来たり、親切にしてくれる軍人はいませんでした。私が冷たい態度を取り、相手にしようとしないので殴られてばかりでした。
 経営者は女たちに日本名を付けました。私はノブコという名前でした。他の女たちの名前は呼んだこともないので覚えていません。ハナコという名前のお姉さんだけは覚えていますが、全羅道出身で、顔がきれいで、軍人たちに最も苦しめられていました。
 お金は軍人が直接事務室に払ったり、部屋で女たちに渡したりしていました。するとお金を受け取った女が、経営者のところに持って行くのです。料金は当時の日本のお金で普通一円、泊まりが三円でした。
 女たちにはそれぞれ部屋があり、小さなタンスが置かれていました。布団もありましたが、布団とタンスの代金は私たちの稼ぎから差し引かれました。部屋は畳敷きで二坪ほどの大きさでした。
 私のひと月の給料は三十円ということでしたが、服や化粧品、鏡のようなものを持ってきては、その分を差し引かれるので、私はお金を手にしたことはありませんでした。経営者は、客を取るのだからきれいにしなければいけないと言い、チョゴリや着物、ワンピースを持ってきては買わせ、おかずも高価なものを作っては給料から差し引きました。
 おかずにはキムチもあり、三食出ましたが、量が少なかったので、お腹がすきました。それでパイナップルをもぎ取って食べたりしました。門の前には監視役の男が立っていましたが、目先のきく女たちは男にお金を少し握らせて、買い物に出かけていました。
 週に一度、検査を受けに病院に行きました。病院は軍病院で、日本人の軍医と看護婦が二人いました。私たちは梅毒の検査を受けました。サックをつけない軍人もいたので、数多く接触した人は梅毒にかかっていました。病気になると入院して治療を受けましたが、私は性病にかかったことはありません。軍人の相手をした後すぐにトイレに行って洗浄しました。汚らしい気がしたからです。そうして私が部屋を空けているいる間に、部屋の物を盗って行く軍人もいました。すると経営者がまた物を買って部屋に持って行くように勧めました。私は「いりません。あっても軍人たちがみんな盗っていくのに、ドブにお金を捨てろって言うの?」と断りました。経営者はそれでも持って行けと言い、「他の女たちはみんな買っているのに、おまえだけなんで買わないんだ?」と殴るのでした。
 病気にかかって入院すると、経営者はあわてふためき、「ひと月もふた月も病院にいてどうやって借金を返すつもりだ」と怒鳴り散らしました。借金を返せないと期限がどんどん延長されました。
 最初にいた朝鮮人の経営者の夫婦は、数ヶ月後慰安所を日本人に譲り渡しました。新しい経営者夫婦は四、五十歳でした。経営者が変わると、食事掛の女も管理人に変わりましたが、私たちの待遇はまったく変わりませんでした。
 最初は私と一緒に行った女たち十人だけだったのが、あとでまた新しい女たちがやってきました。妓生(キーセン)たちも来ましたが、その中には平壌で有名だった妓生もいました。少し年長に見えるその妓生はたいへんな人気でした。彼女が来てからは、着物を着てやってくる男が増え、妓生たちを呼んで歌を歌わせました。
 日本人の中には朝鮮語のできる人もいました。妓生たちは踊りを踊ったり、カヤグムを弾いたりしました。全羅道民謡の謡い手もいましたが、彼女たちも軍人を取らされました。戦争でたくさんの人が死にましたが、自殺した人はいませんでした。
 初潮は二十一歳の時でした。起きてみると布団が赤く濡れていて、痛くもないのにきっと死んでしまうのだと思い、涙が止まりませんでした。隣の部屋のお姉さんに話すと「女の子なのに何も知らないのね」と言い、すぐにお店に電話をかけてカーゼを頼んでくれました。そしてそれを切って使うよう教えてくれました。
 あるとき、慰安所にいた四、五十人の女たちが軍服に帽子を被り、刀を持って訓練を受けに行きました。訓練は日本の軍人が指導し、国防色の服を着せられました。帽子をちゃんと被らなかったり、ボタンをうまくはめられないだけで叱られました。お腹がすき、日射しも強かったので何回も倒れ、そのたびに怒鳴られました。
 軍人の来ない時間を見計らって、事務員の男が女たちに日本語を教えていました。私は日本語が話せたので日本語で返事すると「おまえはあっちへ行け」と言われ、勉強には加わりませんでした。
 パラオに来てしばらくすると朝鮮人開拓者たちがやってくるようになりました。彼らが田畑を耕し、道を作り、家も建てて、島は次第に整備されて行きました。移民としてやってきた人には全羅道出身者が多く、彼らは遊郭に朝鮮の女がたくさんいると聞いて、訪ねてきました。経営者は朝鮮人でも相手にするように言いましたが、私は聞き入れませんでした。
 たちの悪い陸軍の兵士にひどい目にあわされたことがありました。胸や腕、足を刀で突き刺され、入院して治療することになりました。その傷跡は今でも残っています。入院中私は「オモニ、オモニ」と泣いてばかりいたので、軍医にお母さんはどこにいるのかと聞かれ、朝鮮にいると答えました。私は日本語が話せたので、軍医が上官に話をして、病院で働くように計らってくれました。
 その後は病院で、医者におそわりながら、くちばしのような器具で女たちの性病検査をする仕事につきました。週に一度、女たちの検査をする日が一番忙しく、百人以上の検査をしなければなりませんでした。約半数が朝鮮人女性でした。病院で働くようになって、パラオに日本人の遊郭と朝鮮人の遊郭が一つずつあることを知りました。
 病に侵された女たちは、卵管にウミがたまってなかなか取り出せませんでした。病院には十人以上の女たちが常に治療をうけていました。子宮の中にだんごのような薬を入れ、綿でふさいで、二十四時間後にまた検査をするという治療法でした。症状が軽い場合はニ、三日、重い場合はひと月ほどかかりました。検査をしてわかったことですが、女たちのなかには出産経験のある人もいました。
 病院でのひと月の給料は五十銭でした。そのお金でたばこを買うと、残りはいくらもありませんでした。たばこはこっそり吸っていました。普段着の韓服で仕事をし、病院でも「ノブコ」と呼ばれました。
 病院で働くようになってまもなく、医者と何人かの看護婦たちと一緒に飛行機に乗ってシンガポールへ行きました。昭和十七(1942年)だったと思います。シンガポールでは野戦病院で働きました。
 シンガポールで何ヶ月か働いた後、パラオに帰って来ました。また、元の病院で働き始めたのですが、戦争が始まると爆撃がひどく、あっちこっち逃げながら仕事をする有様でした。急ぐ時は、耕うん機のようなオートバイにも乗り、医者と看護婦が軍人たちを治療するのを手伝いました。戦争が始まったばかりの頃、軍医は私に、パラオに長くいると風土病にかかるかもしれないからと診断書を書いてくれて、朝鮮に帰るように言われました。その診断書をもって、警察に行き手続きを済ませ荷物を船に乗せて、翌日出発するはずだったのに、乗るはずの船が爆撃を受けたために、結局戦争が終わるまで帰れませんでした。
 私がいた建物は、広々とした平原にたっていたため目につきやすく、爆撃を受けてあちこち穴があいていました。女たちもたくさん死にました。私は少し離れた田舎にいる時に爆撃の音を聞き、ある家の二階から飛び降りて足にけがをしました。
 爆撃が激しかったので、医者や看護婦とははぐれ、岩山に避難しました。食べるものがすくなく川べりにいた大きなかたつむりをとって食べましたが、地元の人たちは毒があると言って、食べませんでした。また、とかげやねずみも生きたまま食べました。
 ある夜、軍人からもらった飯合にお米を少し入れて、水を探してきて注ぎ、火がみえないようにお米をたいている時に爆撃を受けました。ご飯を持ったまま逃げまどい、朝見てみるとご飯がまだ炊きあがっていなくて真っ赤でした。死んだ人の血が水に混ざっていたのに気がつかなかったのです。一緒にいた女たち六人と話し合った結果、これでも食べないことには死んでしまうということで、目をつぶってのみこみました。こんなふうにして行動を共にした六人はどこかで死んでしまったのか、私一人だけが生き残りました。

 故郷に帰っても家族の姿はなく
 戦争が終わりに近づいた頃、アメリカの飛行機が飛んできてビラをばらまきました。朝鮮人は手をあげて出てくるようにと、ハングルで書かれていました。日本の軍人がなんと書いてあるのかと、銃をつきつけながら尋ねましたが、私は字が読めないと嘘をつきました。
 日本が戦争に負けると、日本の軍人のなかにはビンを割って逆さに突き立て、顔を突っ込んで自殺する人もいました。米軍がやってきて、朝鮮人と日本人を分けて立たせ、朝鮮人は自分たちが乗っている船に行くように命じました。私は怖くて、まごつきながらついて行きました。米軍はたばこを差し出ながら、日本の時計と替えてくるようにと、私に言いました。そこで私はたばこを持って、日本の軍人の時計と交換しに行きましたが、軍人はかわりにお金を出したりしたので、少し儲けることができました。
 夜に毛布をかけてどこででも寝ました。そして、家族で移民として来た人たちと一緒に朝鮮に帰る船に乗りました。1946年のことです。寒い十二月、釜山に着きました。船から降りて故郷の達城に向かい、家に入ってみると誰もいませんでした。村の人たちが、家族は母親の実家のある尚州(サンジュ)にずいぶん前に行ったと教えてくれたので、訪ねて行きましたが誰もいませんでした。その後、国中をさがしてみましたが、家族には会えませんでした。
 六・二五[朝鮮戦争]の時は、忠清南道の唐津(タンジン)にいましたが、パラオで経験した以上のことなどあるはずがないと思い、避難もしませんでした。それからは、大川(テチョン)にも住んだし、工事現場で賄いをやったりもしました。
 ある時、南洋で知り合った人を尋ねて唐津に行きました。そこで、若いのになぜ結婚しないのかと言われ、その家の仲立ちで結婚することになりました。相手は妻と死別して三人の子どもがいる男性でした。相手の男性はこれといった財産もなく、その気になれなかったのですが、子どもたちがかわいそうなので一緒に住むことにしたのです。1957年、私が三十六歳になった年のことです。夫は結婚式をあげようといいましたが、三人も子どもがいるのに何を今さらと思い、そのまま暮らしました。
 結婚して一度妊娠しましたが、七か月目で流産してしまい、それからは子どもはできませんでした。
 夫が中風で死んだ後は、長男夫婦と暮らしましたが、長男は浮気をして本妻とは別れ、妾と一緒になりました。この妾が私の髪をひっつかんだりしてひどいことをするので、夫の遠い親戚にあたる今の家に来たのです。七年前のことになります。私が来てからは、ここの暮らし向きもよくなり、生活の心配はしないですんでいますが、生活保護は受けています。
 当時のことを考えたり、話したりすると、頭が痛くなって数日間はぐっすり眠れません。。足を伸ばして思いっきり泣いてもすっきりしません。南洋であのような経験をしたために、私は鬱病にかかってしまいました。鬱状態になると、冬でも部屋の戸を開けていないと眠れません。いきつけの病院では、神経をあまり使わないように注意されました。また、寝ている時に、右足のふくらはぎがこむらがえりになるのがつらいです。南洋で逃げる際に刀などで突かれ、血をたくさん流したためです。この頃は身体がだるく、体調がすぐれません。ミョンランという頭痛薬をパラオにいた二十代前半の頃から飲んでいたのですが、今でも一日二錠ずつは欠かせません。最近は頭痛だけでなく、息をするのも苦しくて病院に通っています。
 

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池澤夏樹氏に『帝国の慰安婦』の評価再考を願う

2019年07月05日 | 国際・政治

 7月3日、朝日新聞の「終わりと始まり」という欄は、池澤夏樹氏の文章でした。同氏の文章が新聞に出たときは、私はいつも感心し、なるほどと教えられ、また、頷きながら読むことが常でした。今回も、「左軍」の人たちについて、”この人たちは低い声で語る。歴史文書を解析し、論理を尽くして、右軍の主張をひたひたと崩してゆく。角砂糖で築いた城壁に水が染み込んでゆくのを見るようだ。”と書いておられます。鋭い観察眼だと思いました。そして、それは「左軍」の人たちが、何も飾る必要はないし、何も作る必要がなく、自分が把握した事実を語るだけでよいというところからくるものだろうと思いました。

 だから、今回もいつものように、鋭い観察眼や深い思考に支えられた素敵な表現の同氏の文章に感心しながら読んでいたのですが、最後の「帝国の慰安婦」に関する9行が、私には驚きでした。すべてをひっくり返されるような内容だったからです。

 私は、朴裕河(パクユハ)著「帝国の慰安婦」にとても抵抗を感じ、読みっ放しにはできないと思って、抵抗を感じた部分を抜き出し、自分の考えを<「帝国の慰安婦」事実に反する断定の数々NO1~NO6>にまとめ、ブログにアップする作業を終ったばかりでした。だから、池澤氏の文章の全文と、私の感想も合わせて記録に残しておきたいと思いました。

 池澤氏には『帝国の慰安婦』の評価の再考をお願いしたいのです。『帝国の慰安婦』における、朴裕河教授の断定が、事実に基づくものかどうか、また、どんな意味をもつのか、吟味し、検証をしながらもう一度じっくり読み直して欲しいと思います。
 私は、『帝国の慰安婦』が”両国と諸勢力を公平に扱って、感情的になりがちな議論の温度を下げ、明晰な構図を与えてくれる”というような評価のできるものではないと思います。同書は、日本軍慰安婦問題において、決して両国と諸勢力を公平に扱ってはいなし、明晰な構図も示してはいないと思うのです。

 『帝国の慰安婦』の著者は、序文で”「慰安婦」に関する世界の理解は「第二次世界大戦中に二十万人のアジアの少女たちが日本軍に強制的に連行されて虐げられた性奴隷」というものです”と書き、”「慰安婦」を否定する人たちは「慰安婦は売春婦」と主張しています”として、その対立をなんとかしたいと思い、したことは、”「朝鮮人慰安婦」として声をあげた女性の声にひたすら耳を澄ませることでした”と書いています。その姿勢は素晴らしいものだと思います。

 しかしながら、同書には、名誉・尊厳・人権の回復を求めて 慰安婦であったことを名乗り出た朝鮮人慰安婦の証言に向き合ったと思われる対応がほとんど示されておらず、逆に、名誉・尊厳・人権の回復を求めて、日本政府に公式謝罪と法的賠償を要求することが誤りであるとするような文章が随所に書かれています。私には”「朝鮮人慰安婦」として声をあげた女性の声にひたすら耳を澄ませ”たとは思えない内容ばかりでした。
 この日本軍慰安婦問題で最も重要なことは、思い出したくもないつらい過去を語り、慰安婦であったことを名乗り出た人たちの名誉・尊厳・人権の回復を図ることだと思います。常識的判断に基づいた一定程度の妥協は必要かも知れませんが、名誉・尊厳・人権の回復につながらないような和解は、将来に禍根を残すと思うのです。しっかり被害者に向き合い、被害者の納得を得ることが欠かせないと思います。そういう意味で『帝国の慰安婦』には、とても問題があると思うのです。
 政治家が主導したり、大枠をはめる政治取引のような和解ではなく、あくまでも、法律的・道義的解決を図る和解であってほしいと思います。

 下記が、『映画「主戦場」 慰安婦語る口調 言葉より雄弁』と題された、池澤夏樹氏の文章の全文です(但し、縦16文字一行の三段の文章を横書きにしています。フリガナは括弧書きにし、漢数字は算用数字に変えています)。
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                  映画「主戦場」 慰安婦語る口調 言葉より雄弁                
                                                         池澤夏樹
 すべての試合の観戦はおもしろい。映画「主戦場」の場合はサッカーや囲碁ではなく、論戦。
 従軍慰安婦というテーマを巡って、右軍と左軍双方の論客が登場、それぞれ自説を展開する。
 第二次世界大戦の時、朝鮮から多くの女性がアジア各地の戦場に送り出された。あるいは自ら渡った。日本兵たちを相手に性行為をするのが彼女たちの職務だった。これが強制であったか否か、実態はいかなるものだったか、これが論議の軸だ。
 論者が直接対決する形のディベートではない。インタビュアーが一人一人を訪れて話を聞き、それを争点ごとに並置して編集、一つの流れを作る。ドキュメンタリーの手法として新しいものだ。
 争点は──
 強制連行はあったか?
 軍や国の関与はあったか?
 二十万人という数字の根拠は?
 売春婦か性奴隷か?
 歴史教育の場で教えるべきか?
 慰安婦の像は撤去すべきか?
 などなど
 監督のミキ・デザキは日系のアメリカ人。この問題については第三者の立場にある。だから右軍と左軍も積極的にインタビューに応じたのだろう。持論を聞いてほしいと思ったのだろう。

 論争だから武器はあくまでも言葉である。論理的な説得力のある言葉。ところが映画は発される言葉と同時に話者の口調と表情も伝える。これが言葉以上に雄弁で、人柄があからさまになる。
 右軍には派手な人が多い。昨年LGBTの人は「『生産性』がない」と書いた国家議員の杉田水脈(ミオ)「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝、自称歴史家ながら「人の書いたものはあまり読まない」と公言する日本会議の加瀬英明、優雅な口調で静かに語る櫻井よしこ。やたら賑(ニギ)やかなアメリカ人「テキサス親父(オヤジ)」タレントのケント・ギルバート(本業は弁護士だそうだ)。
 キャラの立った人たちばかりだ。
 それに対して左軍の方はどちらかと言えば地味。歴史学者の吉見義明、同じく林博史と政治学者の中野晃一、「女たちの戦争と平和資料館」の渡辺美奈、韓国挺身隊問題対策協議会のユン・ミヒャン、元慰安婦の娘で「ナヌムの家」の看護師であるイン・ミョンオク。
 この人たちは低い声で語る。歴史文書を解析し、論理を尽くして、右軍の主張をひたひたと崩してゆく。角砂糖で築いた城壁に水が染み込んでゆくのを見るようだ。

 映画を見ていて思ったことがある。文字で読んでいたのでは気づかなかった音の響き。
 「いあんふ」という言葉はいかにも柔らかい。母音ばかりで、慰めてもらいたいという男の気持ちが表れている。それに対して「せいどれい」は耳にきつい。SとDとRと鋭い子音が連続する。女たちの側からの詰問の感じがある。
 おもしろいことに英語でも語感が同じなのだ。comfort woman は柔らかいのに sex slave はきつい。
 スタッフはアメリカ西海岸まで取材に行っている。カリフォルニア州のグレンデールという町に慰安婦の像が作られた時のこと。あちらにもちゃんと右軍と左軍がいて論戦を展開していた。
 グレンデールの元市長が言ったことに蒙(モウ)を啓(ヒラ)かれる思いがした──「慰安婦問題というのは、若いアジアの少女たちに起こった人権侵害です」
 そう、あれを作るのは世界中すべての地域で戦争による性被害がなくなるのを祈ってのことなのだ。日韓/韓日の二国の歴史に関わるだけではない。「イスラム国」は多くの女性を奴隷状態に置いて暴行を繰り返した。戦争が暴力であり暴力がもっぱら男性の力の誇示であるとしたら、同じことは今後も起こるだろう。この問題に人々の関心を向けるために、あの像には意義がある。
 当面の課題は日本の若い人たちの無知と無関心である。映画の中では韓国の慰安婦像の前で日本人少女二人が「慰安婦のことを知っていますか?」と問われて「さあ……」と当惑する。2006年の教育基本法改正以来、教科書はこの件を扱うことを避けるようになった。
 ぼくがこの映画を見た時は満員で、観客は時にスクリーンの発言に失笑を洩(モ)らし、終わった時は拍手した。しかし、ああ、そのほとんどが中高年。
 見終わった方にぼくは朴裕河(パクユハ)著『帝国の慰安婦』を読むことをお勧めする。『主戦場』は映画としてよくできているがあくまでもレポートであって、論理の骨格に欠ける。それを補うのにこの本は役立つ。両国と諸勢力を公平に扱って、感情的になりがちな議論の温度を下げ、明晰な構図を与えてくれる。


 
 
 

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「帝国の慰安婦」事実に反する断定の数々 NO6

2019年07月01日 | 国際・政治

 「帝国の慰安婦」の著者は、日本軍慰安婦問題で最も大事な部分を、推察や思い込みで結論付けているように思います。そして、それは下記のように、名誉・尊厳・人権の回復を求めて名乗り出た日本軍慰安婦の証言ではなく、彼女たちの証言を否定するような人の証言に依拠してなされているように思います。

 「帝国の慰安婦」には、なぜ、 日本政府に対して謝罪や賠償を求めて名乗り出た人たちの証言がほとんど出てこないのでしょうか。また、当時の日本軍の慰安婦に関わる文書もほとんど出てきませんが、なぜでしょうか。それで、日本軍慰安婦のことが語れるとは思えません。

  p230 
 補助軍としての慰安婦
 「慰安婦」たちが兵士たちに「群がってきた彼女たちは商売熱心に私たちに媚び」たとか、「実に明るく楽しそう」で「『性奴隷』に該当する様な影はどこにも見いだせな」(小野田寛郎2007)いように見えたのはそういう構造によるものだ。彼女たちが商売熱心に「媚び」たり、そのために「明るく」振る舞い、「楽しそう」にもしていたとしたら、それは彼女たちなりに「国家」に尽くそうとしてのことなのである。業者の厳しい拘束と監視のなかで、自分の意志では帰れないことが分かった彼女たちが、時間の経つにつれて最初の当惑と怒りと悲しみを押して積極的に行動したとしても、それを非難することは誰にもできない。歌う慰安婦が悲惨な慰安婦と対峙するものではないように、「媚び」る笑顔も、慰安婦たちの悲惨性と対峙するわけではないのである。
 彼女たちは、自分たちに与えられていた「慰安」という役割に忠実だった。彼女たちの笑みは売春婦としての笑みというより、兵士を慰安する役割に忠実な<愛国娘>の笑みだった。たとえ「兵士や下士官を涙で騙して規定の料金以外に金をせしめているしたたかな女」(同)がいたとしても、兵士を「慰安」するために、植民地支配下の彼女たちを必要とした主体が、彼女たちを非難することはできないはずだ。そして、そのようなタフさこそが、昼は洗濯や看護を、夜は性の相手をするような過酷な重労働の生活を耐えさせたものだったのだろう。
 植民地人として、そして<国家のために>闘っているという大義名分を持つ男たちのために尽くすべき「民間」の「女」として彼女たちに許された誇り──自己存在の意義、承認──は「国のために働いている兵隊さんを慰めている」(木村才蔵2007)との役割を肯定的に内面化する愛国心しかなかった。「内地はもちろん朝鮮・台湾から戦地希望者があとをたたなかった」(同)とすれば、そのような<愛国>を、ほかならぬ日本が、植民地の人にまで内面化させた結果でしかない。
 慰安婦でも山中や奥地の駐屯地まで行ったのは、植民地の女性が多かったようだ。それが個人的選択の結果なのか、構造的なことなのか明確ではないが、いずれにしても彼女たちがそのような場所まで行って日本軍とともにいたことを、日本の愛国者<慰安婦問題を否定する日本人の中には愛国者が多いようだ>たちが批判するのは矛盾している。朝鮮人の方がより多く過酷な環境に置かれていたとしたら、それは植民地の女性という、階級的で民族的な二重差別によるものである。たとえ自発的な選択だったとしても、その自発性と<積極>性は、そのような構造的な強制性の中でのことなのである。


 こういう文章を読むと、また、同じことを確認しなければならなくなります。日本軍慰安婦の問題は、名誉・尊厳・人権の回復のために、違法行為(犯罪行為)を主導した日本軍や日本政府に対して、謝罪や賠償を求めて名乗り出た人たちに、どのように対応するかという問題です。前にも書きましたが、慰安所の設けられた時期や国や地域、また、戦況によって、慰安婦のおかれた環境は大きく異異なります。したがって、当然のことながら、慰安婦だった人が全て名乗り出たわけではありません。問題は、謝罪と賠償を求めて名乗り出た人たちに対してどう対応するかということです。
 ”内地はもちろん朝鮮・台湾から戦地希望者があとをたたなかった”というようなことが、何時、何処であったのでしょうか。根拠を示してほしいと思います。すでに触れたように、慰安婦集めに関する軍の文書には、
支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為、内地ニ於テ之ガ従業婦等ヲ募集スルニ当リ、故ラ(コトサラ)ニ軍部諒解等ノ名義ヲ利用シ、為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ、且(カ)ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞(オソレ)アルモノ、或ハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ、或ハ募集ニ任ズル者ノ人選適切ヲ欠キ、為ニ募集方法誘拐ニ類シ、警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等、注意ヲ要スルモノ少ナカラザルニ就テハ、将来是等(コレラ)ノ募集ニ当タリテハ、派遣軍ニ於テ統制シ、之ニ任ズル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ、其ノ実施ニ当リテハ、関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連繋(レンケイ)ヲ密ニシ、以テ軍ノ威信保持上、並ニ社会問題上、遺漏ナキ様配慮相成度(アイナリタク)、依命(メイニヨリ)通牒ス。
などとあるのです。なぜこうした文書は取り上げないのでしょうか。

 また、”彼女たちは、自分たちに与えられていた「慰安」という役割に忠実だった。彼女たちの笑みは売春婦としての笑みというより、兵士を慰安する役割に忠実な<愛国娘>の笑みだった。”などと断定することのできる朝鮮人慰安婦の証言があるのでしょうか。日本の軍人の証言が正しく、日本軍慰安婦の証言は信用できないということでしょうか。さらに言えば、こうした「愛国娘」が、日本政府に対して、謝罪や賠償を求めて名乗り出ることがあるでしょうか。私には信じられません。
 ”醜業ヲ目的トスル婦女ノ渡航ハ、現在内地ニ於テ娼妓其ノ他、事実上醜業ヲ営ミ、満21歳以上…”という国際条約に基づいて、合意の上で、日本から戦地に行った慰安婦なら話はわかりますが…。
 日本軍慰安婦問題で大事なことは、証言に基づいた対応だと思います。

 p255
台湾・朝鮮半島での補償事業がうまくいかなかったのは、何よりも、過去にこの両地域・国家が植民地だったという関係性にある。つまり朝鮮人慰安婦や台湾人慰安婦は、戦争を媒介として加害者と被害者の関係で規定される存在ではなく、植民地になったがために動員された<帝国主義の被害者>でありながら、実質的にはいっしょに国家への協力<戦争遂行>をしてアジアに対して加害者となった複雑な存在だった。彼女たちはかつて「誇り」を傷つけられ、しかも協力させられた存在として、一方的に被害を受けた他の国よりも「誇り」へのこだわりは強くなる。そのような心理構造も、基金拒否の背後には働いていたと考えられる。

 ここで著者が何を言わんとしておられるのか、よくはわかりませんが、”…というのは、かつて「誇り」を傷つけられ、しかも協力させられた存在として、一方的に被害を受けた他の国よりも「誇り」へのこだわりは強くなる”とはどういうことでしょうか。朝鮮人慰安婦は”一方的に被害を受けた”のではないということでしょうか。多くの証言からは、そうしたことが読み取れません。また、「誇り」にこだわることを否定するのでしょうか。私には、協力させられたことを受け入れていたとは思えませんが、「誇り」にこだわりがあるからこそ、名誉・尊厳・人権の回復が必要なのではないかと思います。 
 6月29日の朝日新聞は、家族離散などを強いられたハンセン病患者家族が、患者ではなく家族に対する損害賠償と謝罪を求めた集団訴訟で、国の責任を認め、総額3億7675万円の支払いを命じたという熊本地裁の判決を伝えています。だから、日本軍慰安婦の訴えを受け入れないことは間違っていると思います。国が、国際法や国内法に違反するかたちで被害を与えた被害者には、国が謝罪や賠償をすることは当然のことだと思うからです。 

 p259
 もっとも、アメリカが戦後の日本で慰安所を利用し、そしていまなお軍事基地を各国において利用しつづけているという現実を認識せずに、日本批判に走っているのは矛盾でしかない。

 日本軍慰安婦の問題を、あえて、一般的な売春の問題とごちゃまぜにして、謝罪や賠償は必要ないと主張されているように思います。米軍が基地の周りに慰安所を設置し、女性を騙してつれてきて慰安婦にして、奴隷的状態に置いているなどということがあるとは思えません。 

p266
支援者たちにその意図がなかったとしても、「慰安婦」=「当事者」たちは、いつのまにか一部の人にとっては日本の政治運動のための人質になっていたとさえ言える。そのとき目指された「社会改革」が市民の意識変化だったのか、政権交代だったのか、あるいは天皇制廃止だったのか明らかでないが、2009年、民主党政権が誕生して政権交代が果たされても慰安婦問題は解決されなかった。

 慰安婦問題が解決されなかったのは、支援者たちの運動が間違っているからということのようですが、こうした考え方は、日本軍慰安婦の問題を根本的に解決しようとすることなく、日本軍慰安婦や国際社会が求める「法的責任」を曖昧にしたまま、政治的取り引きのような形で決着させようとする日本政府の姿勢に通じるものではないかと思います。日本政府の側に問題があることをまったく無視しているように思います。

 p267
 基金は、政府なりに誠意をこめた<手段>であり、当時の国民の<総意>として、「謝罪と補償」の役割を担えるものだった。もちろん基金は、支援者たちの一部が望むような天皇制批判意識を共有していたわけではなく、支援者たちが考えるような<改革された日本社会の形>など気にかけていなかったであろう。それでも慰安婦問題の解決には寄与しうるものだったのである。
 当時そのことが無視されたのは、そこでは問題解決自体よりも、少数の支援者たちの考える<日本社会の改革>という理念のほうが重視されていたからと言うほかない。支援者たちのほとんどが、当事者主義を取り、誰よりも慰安婦たちの身になって考え行動してきたであろうことは疑いの余地がない。しかし、正義自体が目的化してしまったために、皮肉にも慰安婦は、そこではすでに当事者ではなくなっていたのである。

 どう繕っても、「基金」は責任逃れであることを否定することはできないと思います。
 支援者たちが、”誰よりも慰安婦たちの身になって考え行動してきたであろうことは疑いの余地がない。”と認めておきながら、支援者たちの運動については、”しかし、正義自体が目的化してしまったために、皮肉にも慰安婦は、そこではすでに当事者ではなくなっていたのである。”などと断定し、否定される根拠はどこにあるのでしょうか。”少数の支援者たちの考える<日本社会の改革>という理念のほうが重視されていた”などというのも、著者の思い込みではないかと思います。根拠がありません。

 こうした考え方は、歴史的な事実をきちんと見ていないことから来るのではないかと思います。大戦後、冷戦の影響で、GHQの対日政策が転換されました。そして、戦犯として獄中にあった人を含め、戦中活躍した人たちが公職追放を解除されて復帰しました。そのため、戦後の日本は、戦争責任を回避しようとする政治勢力が強い影響力を持ったのです。それは、GHQが活動を終了し、日本が主権を回復するや否や、戦前・戦中の考え方をそのまま引き継いだ軍人恩給が復活したことでわかります。大将はおよそ830万円、大佐は550万円 兵150万円というように戦争中の階級によって、元軍人やその遺族には手厚い援護をしながら、空襲被害者をはじめとする一般被害国民や国家総動員法で徴用された多くの人は、補償の対象外でした。また、国籍により外国人を補償から排除するという問題も、戦後70年以上を経ても、いまだに解決されていないのです。
 この軍人恩給制度は、GHQが「この制度こそは世襲軍人階級の永続を計る一手段であり、その世襲軍人階級は日本の侵略政策の大きな源となったのである」と指摘し、「惨憺たる窮境をもたらした最大の責任者たる軍国主義者が…極めて特権的な取扱いを受けるが如き制度は廃止されなければならない」として、廃止させたものでした。にもかかわらず、軍人恩給を復活させ、戦争責任を負うべき立場の人が、多くのお金を受領しているということは、日本の政権が、戦争の責任を認めない姿勢を持っていることの証しだろうと思います。
 また、植民地支配を正当化する発言や、要職にある人の戦争に関わる失言が国会でくり返えされていることでも、日本に根強く責任回避の姿勢があることは明らかではないかと思います。したがって、日本軍慰安婦問題を担当し、交渉にあたった関係者は、誠意をもって努力した部分もあるでしょうが、責任回避のために公式謝罪や法的賠償を避けなければならない立場に立たされている面があったことを見逃してはならないと思います。「基金」は責任回避の苦肉の策といえるのではないかと思います。

 p270
ところで、基金構想が報じられたあとに出された、日本メディアへの抗議の意見広告には「わたしたちは『民間基金』による『見舞金』ではなく日本政府の直接謝罪と補償を求めています」という言葉が見える。基金は単に「民間」のものと理解され、「償い金」は単に「見舞金」と認識されていた。同じ広告に掲載された元慰安婦キム・ハクスン(金学順)氏も同じく基金を「見舞金」と認識している。
そこで「民間人に何の罪があるというのです?(キム・ハクスン)」「私は乞食ではありません。民間から集めた同情の金はいりません。(イ・スンドク)」(「毎日新聞」意見広告、1994年11月29日付)と述べているのだろう。「乞食」という言葉や「金だけよこしてことが済むと思っているのか?」といった抗議も、「基金」が政府の「戦後処理」の意味を持つ作業だったことがほとんど理解されなかった結果である。

「戦後処理」の意味を持つ作業だったことがほとんど理解されなかった結果である。”というのは、勝手な解釈だと思います。理解されなかったからではなく、「基金」が、日本軍や日本政府の違法行為(戦争犯罪)を認めなかったからです。

 p273 
 日本の支援者たちの、心からの謝罪意識と根気強い長年の運動は、ほかの多くの市民運動と同じように、戦後日本の精神を体現したものであった。おそらく、だからこそ、と言うべきだが、日本の支援者たちの基金反対は、まず慰安婦に関して十分に理解していなかったゆえのことと言えるかもしれない。
 支援者たちは、長い間「慰安婦」を「性奴隷」とみなし、慰安婦の自由を拘束した主体を「軍」に限定してきた。それこそが、支援者たちの<徹底した謝罪意識>へのこだわりを作ったものだろう。そして、人身売買などの手段で集めていた業者たちを見過ごさせたのも、そのような認識だったためだろう。

 名乗り出た慰安婦を支援してきた人たちが、”慰安婦に関して十分に理解していなかった”などというのは、なぜでしょうか。”人身売買などの手段で集めていた業者たちを見過ごさせたのも、そのような認識だったためだろう。”というのも違うと思います。業者を動かしていたのが軍だったからだと思います。
 著者は、朝鮮人の女性や少女を騙して慰安婦にしたのは「業者」、慰安婦を奴隷状態に置いたのは「業者」、慰安婦を戦地に放置したのは「業者」と、責任の主体をすべて「業者」にして、日本軍や日本政府を免責するようなことをいろいろ書かれていまが、前掲のものとは別の慰安所規定には、下記のようにあります。
ーーーー
第2大隊
 常州駐屯間内務規定ヲ本書ノ通リ定ム
  昭和13年3月16日
                                                 大隊長 万波少佐
 〔第1章~第8章・略〕
第9章 慰安所使用規定

第59 方針
    緩和慰安ノ道ヲ講シテ軍紀粛正ノ一助トナサントスルニ在リ
第60 設備
    慰安所ハ日華会館南側囲壁内ニ設ケ、日華会館付属建物及下士官、兵棟ニ区分ス
    下士官、兵ノ出入口南側表門トス
    衛生上ニ関シ楼主ハ消毒設備ヲナシ置クモノトス
    各隊ノ使用日ヲ左ノ如ク定ム
      星 部隊  日 曜日
      栗岩部隊  月火曜日
      松村部隊  水木曜日
      成田部隊  土 曜日
      阿知波部隊 金 曜日
      村田部隊  日 曜日
    其他臨時駐屯部隊ノ使用ニ関シテハ別ニ示ス
第61 実施単価及時間
     1 下士官、兵営業時間ヲ午前9時ヨリ午後6時迄トス
     2 単価
      使用時間ハ一人一時間ヲ限度トス
      支那人   1円00銭
      半島人   1円50銭
      内地人   2円00銭
     以上ハ下士官、兵トシ将校(准尉含ム)ハ倍額トス
     (防毒面ヲ付ス)
第62 検査
    毎週、月曜日及金曜日トシ金曜日ヲ定例検黴(ケンバイ)日トス
    検査時間ハ午前8時ヨリ午前10時迄トス
    検査主任官ハ第4野戦病院医官トシ兵站予備病院並各隊医官ハ之ヲ補助スルモノトス
    検査主任官ハ其ノ結果ヲ第3項部隊ニ通報スルモノトス
第63 慰安所使用ノ注意事項左ノ如シ
     1、慰安所内ニ於テ飲酒スルヲ禁ス
     2、金額支払及時間ヲ厳守ス
     3、女ハ総テ有毒者ト思惟シ防毒ニ関シ万全ヲ期スヘシ
     4、営業者ニ対シ粗暴ノ行為アルヘラカス
     5、酒気ヲ帯ヒタル者ノ出入ヲ禁ス
第64 雑件
     1、営業者ハ支那人ヲ客トシテ採ルコトヲ許サス
     2、営業者ハ酒肴茶菓ノ饗応ヲ禁ス
     3、営業者ハ特ニ許シタル場所以外ニ外出スルヲ禁ス
     4、営業者ハ総テ検黴ノ結果合格証ヲ所持スルモノニ限ル
第65 監督担任
     監督担任部隊ハ憲兵分遣隊トス
第65 付加事項
     1、部隊慰安日ハ木曜日トシ当日ハ各隊ヨリ使用時限ニ幹部ヲシテ巡察セシムルモノトス
     2、慰安所ニ至ルトキハ各隊毎ニ引率セシムヘシ
       但シ巻脚絆ヲ除クコトヲ得
     3、毎日15日ハ慰安所ノ公休日トス
 〔後略〕

この慰安所規定で業者ほとんど決定権がなかったことがわかります。日本軍の責任は明らかではないでしょうか。こうした文書を無視するから、”日本の支援者たちの基金反対は、まず慰安婦に関して十分に理解していなかったゆえのことと言えるかもしれない。”などと言わざるを得なくなるのではないかと、私は思います。

 p285
 社会の下層階級の女性たちの移動が活発だったのは、異なる経済システムの中に編入される<移動>自体が彼女たちの身体を格上げしたからである。つまり、慰安婦問題とは、国家や帝国といった政治システムの問題であるだけでなく、より本質的に資本の問題である。帝国・国家が「交易」を名分に他国に不平等条約を強いて有利なシステムの中で商品を売って利益を得たように、人身売買などの行者と抱え主、主人たちは、女性たちの身体を商品化して消費者に売った。そういう意味でも、慰安婦システムを使ってもっとも経済的利益をあげたものと見える「業者」や「抱え主」の存在を消去しては「慰安婦問題」の本質は見えてこない。
 帝国主義はそのように祖国を離れた商人たちが自分と自国の利益を図るなか、生じうる衝突──日常的トラブルから戦争まで──勝ち抜き、そこにより長く留まれるように、言い換えれば彼らが国家勢力を拡張し、経済を潤沢にする任務を果たす道から離脱しないように管理した。慰安所は表面的には軍隊の戦争遂行のためのもののように見えるが、その本質はそのような「帝国主義」と、人間を搾取して利潤を残そうとする資本主義にある。「戦争」は、そのような経済戦争での妨害物を物理的に制圧し、成功させるための手段に過ぎない。日本の近代啓蒙主義者だった福沢諭吉が「娼婦の海外への出稼ぎは日本の『経世上必要なる可』し」(矢野 45頁から再引用)としたのは、くしくもそこのところを語ったものだった。

 これは、明らかに日本軍慰安婦の問題の論点をずらすものだと思います。日本軍慰安婦の問題の歴史的背景を考えたり、国家経済とのかかわりや戦争とのかかわりを考えたり、分析したりすることは意味のある事だと思いますが、それは日本軍慰安婦であったことを名乗り出た人たちの名誉・尊厳・人権を回復させることとは、直接関係ないことです。日本軍慰安婦の問題は、”国家や帝国といった政治システムの問題”ではありませんし、”資本の問題”でもありません。日本軍や日本政府の違法行為(戦争犯罪)によって、被害を受けた慰安婦に、どのように対応するかという問題です。だから、論ずべきは、いかなる違法行為(戦争犯罪)があったかということや、被害の実態です。論点をずらしてはならないと思います。

 P293
 2006年になると、「東豆川ではほとんど韓国女性を見かけることがなくな」(週刊京郷」)669 2006年4月11日号)り、韓国女性を代替していた中国人朝鮮族やロシアの人たちがフィリピンやペルーの人に取って代わっているという。
 これはまさしく、大日本帝国時代に日本人慰安婦がしていたことを朝鮮人慰安婦がするようになったのと同じ構造である。韓国が経済力をつけるようになって、より貧しい外国の女性たちが、生活のために韓国という遠い国に<移動>してきて、韓国人女性がやっていたことを代替しているのである。
違いは、あのときは<強制された国籍>がその移動を強制し、かつ支えていたのに対して、今ではグローバリゼーションの名のもとに、より広い地域にまたがる階級化が進んで、女性たちの移動がより<自発的に>見えていることである。そして今でもその代替のために、「東アジアに向かって、世界各国で人身売買された女性たちが送り込まれている」(林博史 2012 152頁)

 この受け止め方も間違っていると思います。朝鮮人慰安婦は、貧しいから売られていったということを前提にしているようですが、多数の証言は騙されて慰安婦にさせられたというものです。また、”より貧しい外国の女性たちが”ということで、当時の朝鮮が日本より貧しかったから、”大日本帝国時代に日本人慰安婦がしていたことを朝鮮人慰安婦がするようになった”というのも問題です。『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成(財)女性のためのアジア平和国民基金編』や、「従軍慰安婦資料集」吉見義明編(大月書店)にある資料は、それが軍の方針であったことを証明しています。経済的な理由で、取って代わったとは言えないのです。

 P294
 人間にとって、存在することの尊厳──人権にとって必要不可欠なのは、身を安息させることのできる空間である。しかし家や土地を持てる経済力を持たずに、別の場所へ追いやられるのは、いつでも社会で最も弱い者たちだ。貧困が、故郷を離れるように彼らの背中を押し、中でももっとも貧しい女たちが「慰安婦」となった。彼女たちが一般の売春婦と違うのは、戦争や戦争待機のために動員された男たちのために働いていることである。貧しい者たちは、経済的自立の可能な文化資本(教育)や社会的セーフティネットを持たないために、働く先を見つけられずに、最後の資本──自分の身体(臓器、血液、性)を売るようになる。最初から身体自体、命自体を国家に抵当にとられた者たちが貧しい階層の兵士たちであり、そうした人たちは今でも世界中に存在する。<慰安婦>と<兵士>はそのように、同じく国家によって動員された存在でありながら、そしてその「国家」が自国である場合は、同志でありながら、構造的に加害者と被害者となった。

 もっともらしい主張ですが、同じように、これも、違うと言わざるを得ません。”貧困が、故郷を離れるように彼らの背中を押し”とか、”中でももっとも貧しい女たちが「慰安婦」となった”とすべて貧困に結びつけることは事実に反すると思います。貧困が全く関係ないとはいえませんが、”騙された”という多くの証言を無視してはならないのです。
 また、軍の方針も見逃してはならないと思います。”もっとも貧しい女たちが「慰安婦」となった”と結論づけることは、日本軍慰安婦だった人の証言や軍の文書の無視から生まれるものだと思います。
 怒りの声が聞こえてくるようで、地獄の苦しみを味わった日本軍慰安婦の人たちを、再び地獄に突き落とすような断定の数々に、批判を試みました。

 

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