真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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浮島丸事件の原告冒頭意見陳述書

2019年09月24日 | 国際・政治

 多くの人命が失われ、補償や謝罪を求めている被害者及び犠牲者遺族の人命・人権にかかわる浮島丸の問題を、真相究明をすることなく放置していていいのでしょうか。

 韓国最大の新聞社である中央日報は、先日、”浮島丸爆破沈没事件の真実究明映画『浮島丸』(キム・ジンホン監督)”が、9月19日に韓国で公開されることを伝えたといいます。そして、浮島丸事件について、下記のように書いているといいます。

1945年8月22日に青森から朝鮮人を乗せて釜山(プサン)に向かった軍艦「浮島丸」。しかし8月24日、舞鶴港で爆発して沈没した。この事故で船に乗っていた朝鮮人帰郷者524人と日本の乗組員25人が死亡し、さらに多くの人々が行方不明となった。

当時、日本政府は米軍が設置した機雷のため沈没したと主張したが、日本が意図的に撃沈させたという疑惑も提起された。船体はダイナマイトで爆破され、遺体の収拾もまともに行われなかった。

映画『浮島丸』は当時の事件を目撃した生存者の証言が反映された。また、故郷に戻る夢を抱いて船に乗った多くの朝鮮人の写真を入れて当時の状況を生々しく描いた。

映画のナレーションに参加した俳優アン・ジェモは「浮島丸爆沈事件を知ってから、我々の民族の痛恨の歴史について共感するようになった」とし「犠牲者と生存者の方々が見えないところでこのように長い時間、つらい記憶を孤独に乗り越えてきたのかと感じた」と語った。

 浮島丸爆沈事件では、浮島丸の釜山行決定に関して、責任ある立場の人たちが、あり得ないことを語っています。それは、何か重要な事実を隠すためだったのではないかと思います。 
 大湊海軍警備府参謀長が、海軍の運輸本部に浮島丸の使用許可を求め、八月十九日に許可を得ていることが、”海軍省発信電綴”で確認されました(191117番電、運輸本部総務課長発、大湊警備府参謀長宛「貴機密電181439番電返、浮島丸使用差支ナシ」)。

 したがって、大湊海軍警備府の清水参謀が、浮島丸の釜山行について、「船が航行禁止になる前に韓国人を帰してあげたい」という計画であったというのは、下記の、「連合国最高司令官要求事項」や「大海令第五十二号」との関係で、嘘であることが明らかだと思います。あり得ないことです。

 なぜなら、「浮島丸釜山港に向かわず」の中に、下記のような記述があるからです。
8月15日のポツダム宣言の条項受諾後、16日には米国政府が日本政府に対し、マニラに滞在中であった聯合国最高司令官ダグラス・マッカーサーと停戦命令及び連合軍占領要項の打ち合わせのため、日本政府使節団をマニラに送るよう要求。日本政府は要求とおり大本営参謀次長であった河辺虎四郎中将を代表にして、外務、陸軍、海軍省から随員を選び、代表団をマニラに派遣した。
 このマニラ派遣代表団に対して、連合軍最高司令部は8月20日「連合国最高司令官要求事項」を手渡した。その「要求事項」は第一号から第四号まであるが、その第三号中に海軍の艦船航行に関する要求がある。
 それは「連合国最高司令官及随行部隊進駐ニ関スル要求事項」である。
「要求事項第三号」は(イ)と(ロ)で海軍艦船に対して、次のような要求をしている。
  要求事項第三号
       第三号
連合国最高司令官及随行部隊進駐ニ関スル要求事項
一、日本帝国政府及大本営ハ千九百四十五年八月二十四日一八〇〇時ヲ期シ左ノ要求事項ヲ実施スベシ
(イ)日本国軍隊及民間航空当局ハ日本国内ニ在ル日本国陸軍、海軍、又ハ民間ノ一切ノ航空機ヲシテ追テ其ノ処分ニ関シ指示アル迄確実ニ之ヲ地上、水上、又ハ艦船上ニアラシムベシ
(ロ)日本国ニ属シ又ハ日本国ノ支配下ニアル一切ノ種類ノ陸海軍及民間ノ艦船ニシテ日本国領海内ニ在ルモノハ聯合国最高司令官ノ追テ命令スル迄之ヲ毀損スルコトナク保存スベク又現ニ進行中ノ航海以外ニ一切移動セザルモノトス航行中ノ船舶ハ直ニ一切ノ種類ノ爆発物ヲ無害ナラシメ之ヲ海中ニ投棄スベシ航行中ニ非ザル艦船ハ直ニ一切ノ種類ノ爆発物ヲ陸上ニ安全ニ格納スベシ

 この要求書を携えた日本政府代表団は8月20日マニラを飛び立ち、その夜日本に到着した。
 日本政府は直ちに連合軍要求事項の実施にとりかかった。海軍に対する要求は「大海令」として豊田副武軍令部総長より、天皇の命令として各司令部あてに無電で発令された。
 それが、
昭和二十年八月二十一日 奉勅 軍令部総長 豊田副武 大海令第五十二号”であり、その六に、”八月二十四日一八〇〇以後特ニ定ムルモノノ外航行中以外ノ艦船ノ航行ヲ禁止ス”とあるのです。

 浮島丸の釜山行は、大海令第五十二号が発せられる前、それも、連合軍最高司令部が、マニラ派遣代表団に「連合国最高司令官要求事項」を手渡す前に、海軍運輸本部の許可を得て命令されているのです。だから、「船が航行禁止になる前に韓国人を帰してあげたい」という計画は、あり得ないわけです。

 また、浮島丸に乗せて朝鮮人を帰還させる理由として、”連合軍の進駐を恐れた朝鮮人が故郷に帰りたいと訴えた事に応えたもの”と主張しているのですが、これもあり得ないことは、様々な証言で明らかだと思います。
 原告最終準備書面には、下記のようにあります。
 ”日本の敗戦により、朝鮮人は日本の支配から解放された。朝鮮人は各地で「マンセー(万歳)」と喜び、これまで自分たちを押さえ付けていた日本人にその力がないことを実感した。炭鉱等で劣悪な条件下で労働を強いられていた朝鮮人の中には、これまでの恨みをはらそうとする者もいた。日本の支配から自分たちを解放したのは連合軍である。それなのに、なぜ朝鮮人が連合軍の進駐をおそれるのか、事実の歪曲もはなはだしい。…”

 特高文書には戦時中から、朝鮮人が連合軍の勝利をひそかに喜んでいることへの警戒が発せられており、又、ソ連参戦時や日本の敗戦時には、朝鮮人の「不穏策動」に対する「特別取締」がたびたび通達されているといいます。

引揚援護の記録』には、
終戦による事情の急変と前途に対する不安は、解放された人々を喜びの絶頂に立たせると同時に、帰国を急がせたのも当然の成行であった。しかしながら、ただ単に帰国を急ぐにとどまらず、立場の変化から全国各地には、不穏な空気がみなぎり、特に北九州と北海道においては、暴動がおきるような状態であった
とあり、大湊海軍警備府の参謀たちが 朝鮮人の暴動や報復に脅えて、朝鮮人を一日も早く帰国させようと、浮島丸の釜山行を決定した、としか考えられません。

 また、浮島丸が最初から舞鶴港に向かったことも、多くの乗組員の証言から明らかだと思います。
 報道等の取材に応じた乗組員のほとんどが、”釜山には行かないと了解していた”と述べており、NHKのドキュメンタリー『爆沈』では、朝鮮人を引率した日通の労務係・高橋嘉一郎が、”行く先は舞鶴と聞いていた”と、語っているのです。
 浮島丸の乗組員が、皆、強硬に釜山行に抵抗していたのに出港することになったのは、釜山には行かないということが約束されたからだと思います。
 でも、4000人近い朝鮮人を大湊から送り出し、大湊にかわって、釜山に帰るつもりの朝鮮人を受け入れるところがあるでしょうか。また、舞鶴で4000人近い朝鮮人を降ろし、いつ帰国できるかわからない状態に置けば、帰国するつもりで大湊を離れ乗船した朝鮮人は、だまっていないのではないでしょうか。
 だから、その他の様々の状況証拠と合わせて考えれば、浮島丸の爆沈が意図的なものであることが疑われるのです。
 でも、日本政府は、”触雷沈没”一点張りで、様々な矛盾を指摘されても真相究明の調査はしない、謝罪もしない、補償もしない、遺族の求める遺骨の返還にも応じないというのです。法的のみならず、道義的にも許されないのではないでしょうか。

 下記は、「報告●浮島丸事件訴訟」(日本国に朝鮮と朝鮮人に対する公式謝罪と賠償を求める裁判をすすめる会編集)から抜粋しました。 
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                     原告冒頭意見陳述書
一 原告 徐鳳求
 私は、大韓民国忠清北道報恩郡の人間で、十八歳の時に強制徴用されました。
 私が連れて行かれて働かされたのは、大湊の開発軍施設部ですが、当時を思い出すのも苦痛です。私は、侮辱と苦痛と飢えの中で、一年七ヶ月余り、飛行場、滑走路、格納庫、陣地構築等の労役に休む暇なく酷使されました。そして戦争が終り、故郷に帰る途中に、残酷きわまりない浮島丸事件に会いました。
 この事件は私の人生を根こそぎ破壊しました。七千余名が乗った船は、当初釜山に向かうと言っていましたが、日本列島の沿岸に沿って航海し、舞鶴港に入ってボートを降ろしました。乗組員数名がこのボートで去った後、突然爆音がとどろきました。
 私はこの爆音と同時に意識を失いました。気がついたとき、とても目を開けて見ることのできない残酷な光景が、目の前にありました。私の回りには死体が散らばり、海へ落ちた多くの人々が、先を争って船にはい上がろうとしていました。それはまさに修羅場でした。私は、他の人達がボートに殺到するのを見てそちらへ行こうとしましたが、途中でころび多くの人に踏みつけられました。そこで再び気を失い、気がついたときは海の中でした。
 私が生き残ったのは。まさに天の助け、神の助けです。救助されて陸地に引き上げられたとき、私は満身創痍の情態でした。足首を痛め、腕は折れていました。右肩を脱臼し、肘は裂けていました。腰をひどく踏まれて、体を起こすこともできませんでした。
 今思い返してみると、あのとき生き残ったほうがよかったのかどうか分かりません。その後今まで、私は肉体労働ができませんでした。故郷で結婚はしましたが、当時の事故の後遺症のせいか子供ができませんでした。
 私の青春は、日本のために働き、その日本が私を死へ追いやり、やっとのことで生き残ったものの屈辱的な人生を送ることになりました。
 誰が私の人生をつぐなうことができるでしょうか。
 この裁判は、日本の良心を問うものであって、私に補償してくれというものではありません。私はもう六十八歳で、どんな補償でも、過ぎ去った私の人生を取り戻すことはできないからです。
 日本国が国家的良心を取り戻さないならば、このような悲劇がくりかえされないという保証はありません。日本政府の公式な陳謝と真相究明を求めます。

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二 原告 金東天
 四十八年前、日本政府は内鮮一体を唱えながら、私達を青森県三沢に強制連行し、二年半無報酬で暴力的にこき使いました。戦争に負けて、「故郷に送り帰してやるから船に乗れ」というので船に乗ったところ、船は故郷に向かわず別の港に入りました。初めはそこがどこだか分かりませんでしたが、後で聞いて知ったところによると、そこが舞鶴でした。
 そのとき乗務員たちは、「秘密会議をするから、甲板のうえの韓国人たちはみな中に入れ。」と言いましたが、私は不審に思って船底には降りて行きませんでした。隠れて見ていると、乗務員たちはウィスキーを瓶ごとあおったのち、甲板のうえにあったボートを降ろしました。そのボートが水につくかつかぬうち、「ドカーン」という音がして爆発が起こりました。
 一体どんな理由で、七千五百名もの人間を殺し、いままで真相を明らかにせずにきたのでしょうか。捕虜でも、戦争が終れば故国に帰れるのに、私達は何の罪があって、殺されなければならなかったのでしょうか。
 浮島丸事件当時の事を思うだけで鳥肌が立ちます。日本の公式な陳謝を求めます。

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三 原告 金水坤
     哀 悼 詩
  浮島丸爆沈事件
                       一九九二年八月二十日 日本にて記す
 歳月は流れて四十七年
 昔、友と別れたことを思い、涙止どまらず
 思い返せば、恨み悲しみは尽きない 
 去来する雲の下、昔を思う

 遺族は声を上げて叫ぶ
 若くして水葬されたものの霊を
 天地も崩れよ
 この声、天帝に届けよ

                       大湊 一本松、宇會利にて
 四十七年振りに
 一本松を訪れる
 山は青く、流れる水も昔と同じ 
 村落は様を変えて、昔を思い出せない

 宇會利川は昔のまま
 谷の水は昔の事を思い出させる
 共に宇會利に来た 同郷者
 五十四名中、今は八人

 一本松、宇會利は私が連行されたところです。共に連行された仲間は、その後さらに二人が亡くなり今日生きているのは六人になりました。
 早急な真相究明と、日本の公式陳謝を求めます。

ーーーーー

四 金承烈
 日帝治下の強制動員によって、一つの家庭と個人の人生がどんなに破壊されたか、この場をかりて告発します。
 私は父の顔を知りません。私が三才の時、無慈悲な日本軍の浮島丸沈没のよって父は亡くなりました。年老いた祖母は、父の戦死の通知を受け取って、精神錯乱を起こしました。毎日父の名を呼びながら町をさまよい歩き、母は、その後を追いかけねばなりませんでした。私は父をなくしたために、学校にも通えず、カバンの代わりにもちの箱を背負い、時には靴みがきや新聞配達をして、祖母と母のめんどうをみなければなりませんでした。雨や雪の降る日は、他人の家の軒先で縮こまって、心の底から何度父の名を呼び、恨みの涙を流したか知れません。
 祖母は、十年余りの歳月を、人に「気ちがい」とののしられながら、心安らぐこともなく、恨み多い人生を終えました。当時十五才だった私は、この手で祖母の目を閉じてやりながら、
「おばあちゃん、私がもう少し大きくなったら、日本の天皇を殺して、おばあちゃん、お父さん、家族全員の恨みを晴らします。どうか安らかに目を閉じて、せめてお父さんの霊魂に会ってください。」
と言って、母と抱き合って泣きました。今でも、天皇を殺す機会があったら、五十二年間の苦痛と試練の恨みを晴らすために、私の一身を捧げるでしょう。
 戦争中、強制動員されて日本のために戦った人間を、犬や豚、獣ではない人間を、しかも何千人もの命を、戦時でもない終戦後に、あんなにも残酷に奪った殺人鬼。
 日本の天皇の命令でなければ、誰が、数千人もの命を奪うことができるでしょうか。
 私は補償を望むのではありません。いくらかのお金で、父が亡くなった霊魂を汚すことはできません。
 日本政府は、歴史的事実を認め、浮島丸爆発で命を失った韓国人の名簿を偽ることなく明らかにし、慰霊碑をわが韓国の地に建立し、天皇は人間としての良心に立ち返って、ひざまづいて、千べんも万べんも謝罪せねばありません。そうせずにこれ以上隠蔽しようとするならば、日本国は、世界的に非人道的国家であるとの汚名を注ぐことはできないでしょうし、日本国民は、子々孫々にわたって罪の意識にさいなまれることでしょう。
 言葉のない獣でも、子供を産めばえさをやり、ふところに抱いていつくしんで育てます。父は、祖母、母、三才の幼い私を残して、どれほど心残りだったことでしょう。
 「アボジ!」
                                 訳 岩橋 春美
  一九九三年三月二日
  

 

 

 
 

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浮島丸事件「訴状」抜粋

2019年09月22日 | 国際・政治

 日本政府は、意図的に沈められたと思われる浮島丸の沈没原因の究明を求める訴えに耳を貸さず、”触雷沈没”くり返し、数千人が乗船していたと思われるのに根拠を示すことなく乗船者3735人としています。また、死没者名簿にある名前は大部分、女性と子どものものであり、不自然な点が多々あるにもかかわらず 朝鮮人死没者は524名、日本人乗組員死没者は25人と発表しています。でも、詳細は明らかにしておらず、疑問は残されたままです。

 

 そればかりでなく、海軍からの情報として、”大湊にいる朝鮮人は、皆朝鮮に帰れ”と言い、”帰らないと米の配給など今後は受けられなくなる”とか、 ”大湊から朝鮮に行く船は浮島丸が最後だ”というようなことを言って、多くの朝鮮人を浮島丸に乗船させておきながら、沈没後は被害者や犠牲者遺族に、全く謝罪や補償をしていません。沈没当時、徴用された朝鮮人は、まだ徴用を解除されておらず、日本国籍であったにもかかわらず、謝罪や補償をしていないのです。

 さらに、くり返し求められている遺骨の返還にも、誠意ある対応をしていません。

 

 だから、1945824日の浮島丸爆沈から47年が経過した1992825日、韓国に住む生存者や遺族が、日本政府を相手に、謝罪と賠償をもとめる訴えを京都地裁に起こしました。下記は、その訴状の一部です。

「報告●浮島丸事件訴訟」(木)日本国に朝鮮と朝鮮人に対する公式謝罪と賠償を求める裁判をすすめる会編集)から抜粋しました。

 

 戦争によって植民地の人民や少数民族に被害を与えた例は、世界中いたるところにあると思います。でも、第二次世界大戦後、ドイツのみではなく、アメリカやカナダも敵性民族と見なし、不当に財産を奪い強制収容所に収容した被害者や、犠牲となった人たちに謝罪し、「内外人平等」の立法措置を講じて補償に取り組みました。

 しかしながら日本は、被爆者援護に関する法律の一部を除き、戦争犠牲者援護立法のほとんどすべてに「国籍要件」を設け、外国籍の戦争被害者に対する補償を排除しました。したがって、日本は多くの外国籍戦争被害者を原告とする訴訟をかかえることになったのだと思います。

 

 原告最終準備書面の中に、日本人として心の痛む、下記のような指摘があります。

サ条約(サンフランシスコ平和条約)の発効を理由に、日本国は一片の民事局長通達で、在日する朝鮮人からも日本国籍を剥奪し、無権利状態に置いた。戦後も日本で生きることを選択した、或いは日本でしか生きていけない朝鮮人から日本国籍を剥奪し、何の救済措置も取らず、「日本で生きる」という権利さえ奪ったのである。

 

朝鮮人との特別な関係を否定し、単なる外国人とした日本国は、サ条約発効直後に成立した援護法に国籍条項を設け、朝鮮人を対象からはずした。この後、かなり長い間、白い病衣の傷痍軍人がアコーディオン等を弾く姿が日本の街頭で見られたが、これは朝鮮人、台湾人である(映画「忘れられた皇軍」大島渚監督)。朝鮮人、台湾人を日本国民とし、軍人・軍属として、少なくとも10万人以上の戦死者、戦傷病者があったことは、日本人の脳裏から消え去っていた。

 

更には、遅れた樺太からの引き揚げにおいては、朝鮮人を「もはや外国人」とし、日本人だけを引き揚げの対象とした。ごく一部の朝鮮人が、日本人女性の同伴者として日本国に帰国しただけで、4300人と言われる朝鮮人は、樺太に置き去りにされた。朝鮮人の大部分は朝鮮半島南部(現在の韓国)出身で、当時ソ連とは国交のなかった韓国の国籍を持つことも、韓国へ帰ることもできなかった。北朝鮮の国籍を持つことは、故郷への道を閉ざすことであり、多くの朝鮮人がソ連の国籍も取らず、無国籍(最終国籍日本)のまま、望郷の念を捨てずにいた。日本が朝鮮人の日本国籍を認め、引き揚げの対象とすれば、朝鮮人は日本を経由して故郷へ帰ることができたが、日本は認めなかった。

 樺太に朝鮮人がいたのは、戦前は南樺太が日本の領土で、労働力として、強制、半強制的に朝鮮人を動員したからである。その時朝鮮人は、無論、日本国民であった。朝鮮人が日本国籍を喪失するのは原状の回復と日本国は主張するが、樺太の朝鮮人は故郷へ帰って初めて原状を回復できるのであり、それまでは当然、日本国籍である。樺太の朝鮮人の日本国籍を認めることは、朝鮮人に対する日本国の責任と義務を認めることに他ならない。日本国は一方的にそれを放棄したのである。

 

ポツダム宣言に規定されていた戦犯裁判で、多くの朝鮮人がBC級戦犯となり、23名もが絞首刑となった。彼らは戦争を終結し日本の平和を回復するために犠牲となったのである。だからこそ日本人戦犯は、戦地勤務扱いで、恩給法、遺族援護法が適用されている。しかるに、朝鮮人には、罪だけは日本国民として負わせ、後は、「もはや日本人ではない」と見捨てた。「死ぬまでは生きているんだ」と、絞首刑になる直前まで遺書を書き綴った趙文相、彼らの死は日本国民としての絞首刑であり、日本国の為であった。

 

以上のように、サ条約発効による国家主権の回復にあたり、日本は朝鮮人への責任を放棄することを決めたのである。在日朝鮮人に対する日本国籍の一方的剥奪と遺族援護法からの排除その他は同根である。それは、日本国と朝鮮人との特別な関係、植民地支配に伴う戦後の責任を否定したことの具体的な現れである。

 「血も涙もない」、「冷酷無比」という言葉は、日本国のためにあるのではないかと思わざるを得ない。正しく、他国に比べようもないものである。今日の世界の常識にないものである。

 「このような戦争損害は、多かれ少なかれ、国民の等しく耐え忍ばなければならないやむを得ない犠牲」──本件でも、同種の裁判でもいつも言われることである。ここにあるとおり、正しく日本国民であったから、朝鮮人は犠牲になり、耐え忍んだ。しかし、少しも「国民等しく」ないではないか。

 戦争中は、軍人・軍属は朝鮮人も法的に等しく扱われた(甲A第五号証、1955年厚生省刊『続引揚援護の記録』)。戦後サ条約が発効したとたん、もはや日本国民ではないと、朝鮮人は等しく扱われなくなった。それでいて、今日、やはり、「国民等しく耐え忍べ」と日本国も裁判所も言う。

 「国民の等しく」という文言は二重の意味で嘘である。朝鮮人は、日本国民として等しく扱われていない。しかも朝鮮人は日本国民ではない。朝鮮人は日本国民として犠牲だけを等しく受け、日本国民でないから補償は等しく行わない。朝鮮人は日本国の為に、日本人として等しく犠牲になれ、しかし、朝鮮人だから、戦争が終っても日本人が補償されても、いつまでも耐え忍べと、そういうことなのだ。

 これではあまりにもひどいではないか。朝鮮人の犠牲は、何の為の犠牲だったのか。全て日本のための犠牲だったのではないか。それなのに朝鮮人だけが今なお耐え忍ばなければならない。日本国民として、日本のために犠牲になり、戦後は外国人だから、日本のための犠牲を更に耐え忍ばなければならないのである。これが、韓国併合に対する日本の答え、日本の総括なのだ。

 これは、人間を支配者と被支配者に分けて当然とした、前時代の帝国主義と変わらないではないか。今日の世界では決して認められないものだ。かって植民地出身者を軍人・軍属とした帝国主義諸国は、日本を除いて一カ国もこのようなことをしていない。

 ポツダム宣言は、今日も日本が守らなければならない国際法である。戦争に動員した朝鮮人を使い捨てにすることは、朝鮮人を奴隷状態のままに置くに等しい。

 戦争が終ろうと、朝鮮が独立しようと、朝鮮人と日本国との特別な関係が消えてなくなる訳ではない。朝鮮が独立すれば、死んだ者が生き返るわけでもない。一人の人間の人生から、1910年から1945年までを消し去って、全く新しく人生を始めることもできない。「朝鮮人の奴隷状態からの解放」は、日本が朝鮮人との特別な関係を認め、植民地支配に伴う戦後の責任と義務を認めることが第一歩である。”

 「発展途上国支援」としての無償3億ドル、有償2億ドル、民間借款3億ドルの供与及び融資をもって、戦争被害に関する問題をすべて”解決済み”と主張し続けることが許されるのでしょうか。

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【請求の趣旨】

一 被告は、原告目録の(一)記載の各原告にたいして「それぞれ金五千万円、同(二)記載の各原告に対してそれぞれ金二千万円を支払え

二 被告は、浮島丸の沈没により、原告らを含む多数の朝鮮人に多大の犠牲を被らせたことを公式に謝罪せいよ。

三 訴訟費用は被告の負担とする

との判決並びに仮執行の宣言を求める。

 

【請求の原因】

第一 訴訟に至る経過

一 略

二 浮島丸事件

1 浮島丸の出航

(一)1945815日、日本はポツダム宣言を受諾して、戦争は終結し、日本の朝鮮に対する植民地支配も事実上終焉した。日本本土や樺太・千島には強制連行されてきた朝鮮人軍属・徴用工や植民地収奪による生活苦から渡日した朝鮮人が多数居住していた。長年彼らに強制労働を強い、厳しい抑圧を加えてきた軍部を始めとする日本人の間には、日本の敗戦を機とした朝鮮人の暴動の幻想に脅える者も多かった。

 

(二)青森県大湊地区にも、大湊海軍施設部や大間鉄道建設のために強制連行されてきた朝鮮人軍属・徴用工等、多数の朝鮮人が居住していた。大湊海軍警備府司令官は、敗戦から四日目の八月十九日、海軍に徴用されていた輸送船浮島丸(4730トン)に、大湊港から朝鮮人を乗せて朝鮮に回航せよと命令した。日本に在留した朝鮮人が帰国を望み、日本当局に要請し始めるのは同年九月に入ってからであり、敗戦直後の混乱の中で敢えて朝鮮人の送還に踏み切って意図は、朝鮮人の暴動に脅え、それを予防すること以外にありえなかった。

 

(三)しかし、当時の日本海には日本軍の機雷が敷設され、港には米軍の投下した無数の機雷が、未だ掃海されないままになっていた(当時若狭湾に611、舞鶴港だけでも116の米軍機雷が投下されたままになっていたという)。しかも、機雷の位置を示した機密海図は敗戦とともに焼却されていて、浮島丸には交付されず、朝鮮に行けば乗組員がそのまま捕虜になる可能性も否定できなかった。

 

(四)浮島丸の乗組員は、復員の期待を裏切られ、航海の危険を危惧し、敗戦で軍規が弛緩していたこともあって、朝鮮への航行には不満を述べる者も多かった。憲兵や参謀らは兵士たちを軍法会議の恐怖で威圧し、日本刀で威嚇して出航させなければならなかった。

 

(五)一方、大湊付近の朝鮮人は、海軍関係者から「朝鮮に行く船はこれが最後だ」「この船に乗らなければもう配給は支給されない。」などといわれ、続々と大湊港に終結(集結?)して野宿して待機し、浮島丸号に乗船した。もとより朝鮮人らも期間を望んではいたが、軍属・徴用工らは監督者に引率されて、事実上強制的に乗船し、民間人も「配給が支給されない」と言われれば、当時の食料事情から、乗船する以外の選択肢はありえなかった。

 

(六)浮島丸は船底から甲板まで朝鮮人を満載し、822日夜10時ごろ、大湊港を出航した。

 

2 浮島丸の沈没

(一)浮島丸は、日本海を横断する朝鮮半島への最短コースではなく、日本列島に沿って、その沿岸を南西に航行した。もともと航行を忌避していた乗組員らの士気は低く、昼間から酒盛りをする者もいて、戦争中に兵隊を虐待した下士官に兵隊が集団リンチを加えるという騒ぎもあった。

 

(ニ)同年824日、浮島丸は航路を左に変え舞鶴港に入港しようとした。ところが、舞鶴湾内下左波賀沖300メートルにさしかかった午後五時ニ十分頃、船体中央部で突然爆発が起こり、船体が二つに折れ、浮島丸はそのままマストだけを海上に残して、海底に沈没した。乗客・乗員らはある者は海に投げ出されて溺死し、ある者は船から脱出できずに、船体とともに海に沈んだ。

 

3 乗客・乗員と犠牲者の数

(一)浮島丸に乗船していたのは、厚生省の発表によれば、乗組員255人、朝鮮人3735(徴用工2838名、民間人897名)であった。ただし、他の正規の手続きを経ないで乗船した者もあり、遥かに多数の人々が乗っていたはずだと主張する目撃者もいて、正確には把握できない。

 

(ニ)また、大湊海軍施設部が同年91日に作成した「死没者名簿」によると、死亡者数は、乗客524名、乗員25名とされている。しかし、その信頼性には疑問があり、死者の数もやはり正確に把握できない。

 

4 生存者の帰還

 沈没時に船から脱出した生存者のうち、付近の漁民等に救助された者は、舞鶴の平海兵団の寮に収容され、その後海軍工廠の寮に移され、負傷者は舞鶴海軍病院に入院した。海軍は生存者を帰還させるため、917日に山口県仙崎行の列車を準備したが、海軍の帰還事業に不信を抱いた生存者の多数はこの列車の(に)乗らず、自力で故郷に帰還した。

 

5 自爆説(虐殺説)の流布

(一)浮島丸の沈没は、戦後海難史有数の大事件でありながら、日本の新聞には全く報道されることがなかった。その中で、浮島丸の沈没は日本海軍が組織的に仕組んだ陰謀だとの噂が生存者の間で流れ始めた。そして、918日付けの釜山日報は「陰謀か? 過失か? 帰国同胞船爆発 日本人は事前に下船上陸」と浮島丸の沈没を大きく報道し、沈没の原因が自爆(虐殺)ではないかとの強い疑念を表明するとともに、死者の数を5000人と伝えた。こうして、浮島丸事件は日本軍による朝鮮人虐殺事件であるとの認識が広まり、今日の韓国ではこれが定説的地位を占めている。原告らの中にも、自爆説(虐殺説)を確信している者も多い。

 

(ニ)自爆説の根拠とされているのは概ね次の諸点である。

 ① 出航前に浮島丸に大量のダイナマイトや鉄砲類が積み込まれた。

 ② 大湊出航後、この船は無事朝鮮につくか否かはわからない、との噂が船内に広まっていた。  

 ③ 乗船者に支給されるため船に積み込んであった毛布や衣類などの、必要物資を海中に投棄しているのが目撃されている。

 ④ 釜山や元山に直行せずに舞鶴に寄港する理由がない。

 ⑤ 船が舞鶴に近づく頃、朝鮮人憲兵の白氏は、船底に爆発物が仕掛けられ、電線がつないでいるのを知り、驚き、湾に入るや船から海に飛び込んで逃げ出し、これを日本の水兵たちが追跡した。

 ⑥ 日本軍の将校がボートを下ろし、船から脱出した直後に爆発が起こった。

 ⑦ 沈没時に爆発音が三回したが、触雷なら一回しか起こるはずがない。

 ⑧ 触雷なら発生するはずの水柱が目撃されていない。

 ⑨ 後の船体引揚げ時に、船体の内側から外側に破れているのが確認された。

 

 沈没の真相

 (一)右の自爆説に対し、日本政府は米軍の機雷への触雷が原因であると主張してきた。しかし、真相解明のための積極的な努力をして触雷説を裏付けることはしなかった。

 (ニ)浮島丸事件を詳細に取材して1984年に「浮島丸釜山港に向かわず」を出版したジャーナリスト金賛汀氏は、朝鮮行を忌避した一部の下士官による自爆の可能性を示唆している。

 

7 犠牲者の遺骨

(一)事件当時、海岸に打ち上げられた遺体は、舞鶴海平団敷地に仮埋葬され、船とともに沈んだ遺体はそのまま放置された。

(二)19503月、飯野サルベージ株式会社が浮島丸を引き揚げて再利用する計画をたて、船体の後半部を引き揚げ、その中の103柱の遺骨を回収した。しかし、引き揚げた機関部が使用不能と判明したため、残りはそのまま放置された。

(三)同年4月、仮埋葬されていた遺体が掘り出され火葬された。

(四)19541月、飯野重工が浮島丸をスクラップとして利用するため、第二次の引揚げをおこなった。そのとき引揚げられた船体前半部から多数の遺骨が9年ぶりに引揚げられた。日本政府はこれを245柱分であると発表、仮埋葬されていた分と第一次引揚げで発見された分を加え、死没者名簿の524名と一致するとした。

(五)これら遺骨は、舞鶴の東本願寺別院で保管されていたが、1955121日に呉地方援護局に移され、1971年から東京目黒の祐天寺で保管された。

(六)19711120日と1974128日に、外務省を通じて身元が判明したとされる遺骨が韓国に返還された。しかし、今日も285柱とされる遺骨が祐天寺に保管されている。

 

三 戦後補償の国際的潮流 以下略 

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朝鮮人徴用工と浮島丸事件 NO4

2019年09月18日 | 国際・政治

 このところあまり耳にしませんが、しばらく前までは安倍政権の閣僚から、しばしば「未来志向」という言葉が発せられていました。でも、私は「未来志向」という言葉に、多数の朝鮮人虐殺が疑われる浮島丸爆沈事件のような人命や人権に関わる重要な問題を不問に付し、不都合な事実だからなかったことにしようとする姿勢を感じます。究明されなければならない問題を、「未来志向」でなかったことにしてはならないと思います。だから、「浮島丸釜山港へ向かわず」金賛汀(かもがわ出版)が投げかけた疑問を、さらに確認したいと思います。

 

 浮島丸の意図的沈没が疑われる理由の一つが、浮島丸の釜山行に関係する人たちの明らかに事実に反する下記のような証言や言い逃れです。

 浮島丸出航命令が出された時には、米軍の日本の艦船航行禁止の連絡はまだ大湊海軍防備付の司令部には届いていないのに、米軍による”航行禁止の前に韓国人を帰してあげたい”と、浮島丸の釜山行きを計画したというのです。あり得ないことです。また、”韓国人を帰してあげたい”という理由も考えられないことです。なぜなら、大湊海軍防備付の参謀が、日本の敗戦を知った朝鮮人の報復や暴動に脅えていたことが明らかなっているからです。

 朝鮮人報復暴動への恐怖
 ・・・
 永田元参謀は朝鮮人の送還について「知らん」「責任ない」の一点張りであるが、浮島丸の出航を直接指揮したのは清水参謀と大熊参謀であることが、浮島丸の乗組員の聞き取り調査から判明した。
 その清水元参謀はNHKの『爆沈』の中で、インタビューに答えて、出航を命じた理由について次のように語っている。
 「いつだったか、期限を決めて100トン以上の船は航行を禁止するという連絡が米軍からあったのです。それまでの間に、大湊地区の韓国人を帰してあげたい。それから鎮海に送って、その次の便で小樽──北海道方面の韓国人を帰そうという計画で準備したのです。
 ところが、浮島丸らの船が、韓国人を乗せようとしてもなかなか乗せない。乗せても出航しないので、大熊さんも手を焼いておられた……」
 清水元参謀のこの理由付けは、浮島丸出航命令が出された日時と米軍の「航海禁止」処置の命令が出された日時にずれがあり、つじつまが合わない。
 24日午後6時以降100トン以上の船の日本海内航行禁止は、日本政府に対して連合軍最高司令部が20日に要求し、その要求も米軍から直接各司令部に発せられたのではなく、大本営海軍軍令部総長からの命令「大海令第五十二号」として21日に発せられている。したがって、浮島丸出港命令が出されていた時点で「航行を禁止するという連絡が米軍からあった……」ということは事実としてありえない。
 まず、浮島丸の出航命令は19日に出されており、連合軍側の要求は20日に提示され、その要求が
「大海令第五十二号」として発せられたのは21日である。連合軍の要求が提示される以前に浮島丸の釜山への出航命令は出されていたのである。…

 また、大湊の郷土史家・鳴海健太郎氏は
「永田さんは復員後、下北に在住し下北郡東通村蒲野沢中学校の代用教員をしていたことがあります。昭和29年頃ですが……。
 代用教員時代、永田さんは戦時中のことは人前で言ったことはなかったそうですが、たまたま教員たちの宴席があった時、同僚の教員、東田寛次郎氏に『朝鮮人をあの時強制送還しなければ、下北で暴動が起きたかもしれない』ともらしているんです」
 と語ってくれた。永田茂元首席参謀ははっきりと、朝鮮人が暴動を起こすから強制送還したのだと言っていたという。大湊警備府司令部の参謀は、戦時中の強制労働と厳しい抑圧に対する朝鮮人の反乱があるかもしれないという幻想におびえて、朝鮮人の即時送還を命じ、遂行しようとしたのである。
 ・・・

 くり返し浮島丸関係者と司令部参謀の話し合いが持たれましたが、出航しそうな風向きになってきたので、大湊の司令部より元の横浜の第二十二戦隊司令部の方に信頼感や連帯感を感じていた木本上等兵曹は、通信係下士官・大川一等兵曹に声をかけ、第二十二戦隊司令部に状況を説明し、何か打開の方法はないかと、電信で相談を持ち掛けることにしたといいます。
 その第二十二戦隊司令部からの返電は、「『大海令』が出て24日以降の出航は禁止されているから大丈夫だ」というような内容だったということです。
 だから、「24日6時以降は航行禁止だという内容だと聞かされたので、ああ、これで助かった。少し引き延ばして、その航行禁止にひっかければいいと思いましたよ」と、釜山に行かなくてもよい方法を確認しています。

 出航前の”自爆”の噂も、浮島丸の”触雷沈没”の事実を疑わせるもののひとつです。大湊海軍警備府の参謀は「陛下の命令である」と脅して浮島丸の釜山行を命じました。でも乗組員には、「俺たちは釜山に着いたら銃殺される」と脅える人や、行ったら「ロシア軍の捕虜になる」と考える人、また、「釜山に行ったら帰れない」と思う人などがあり、命令通り素直に釜山向かうことはありえない状況がありました。だから、下記のような証言は重要であり、”自爆”が疑われるのです。

                        九 出航=行方定まらぬ船出
 乗船──浮島丸自爆の噂
 ・・・
 艀で浮島丸に運ばれたその日のうちに船は出航した。
 ・・・
 その頃、大湊市内では市民たちの間に、浮島丸について奇妙な噂が流れていた。
 それは、浮島丸がどこかの海で、”自爆”するという噂なのである。
 敗戦当時、むつ市で農業団体の役員をしていた伊勢広太郎氏は、その噂についてこう語っている。
「浮島丸は新潟まで行けば爆沈されるのだ、という噂を聞いたことがあります。それでうちの娘たちが朝鮮の友だちに、爆沈の噂があるから行かないで、と言って止めたようですが、なにしろ、帰国できるというので喜んで『マンセー、マンセー』と叫んでいる状態ですから、言うことは聞きませんでしたよ」(NHK『爆沈』より)
 さらに、日本通運で強制連行してきた朝鮮人を送り返す、引率責任の役を割り当てられた日通労務係高橋嘉一郎氏も
「浮島丸に乗って行こうとすると弟が来て、浮島丸は爆沈されるということだから乗らない方がいいのじゃないかと言っていたが、そんな馬鹿な、ということで乗った」(同『爆沈』より)
と語っている。
 むつ市で長く教鞭を取っていた秋元良治氏は、かつて同僚であった教員が、
「私は浮島丸事件があった時、田名部国民学校の五年生でしたが、私の家と懇意にしている海軍の下士官が遊びに来て、『俺たちは釜山に着いたら銃殺される。浮島丸は没収されてしまうであろう。だから、釜山に着くまでには自爆させるんだ』と言って、自爆させる場所まで話しておったのを記憶しております」
と語っていたという。
 浮島丸の出港前から大湊では、浮島丸が日本海で”自爆”するという噂が市民の間に流れていたのである。
 それは、大湊市内の地元の人々が浮島丸の乗組員から聞いた話として、伝えられていった。その噂を聞いた人は一人や二人ではなく、きわめて多くの人々の口にのぼっていた。
 この浮島丸、”自爆”の噂は、少数の朝鮮人乗客たちも知人の日本人から聞いたようだが、帰国の喜びに沸く朝鮮人労務者たちは一笑に付して取り合わなかったようである。
 ・・・

  大湊を出港した浮島丸は、裏日本の海岸沿いに航路を取りましたが、倭島航海長は「釜山に向けて出港した」といいます。米軍機の投下した浮遊機雷は沿岸部に多く投下されたので沿岸部の航行は危険ではないかという質問に、そんなことはないと否定しています。また、少ない燃料の節約のためには沖合を航行し、釜山に直行すべきではなかったかという質問にも、安全を考えての航路だったと言い張ったようです。でも、機関長・野沢元少佐や操舵長・斎藤恒次元上等兵曹は、航海長・倭島元大尉と全く異なる考えで航行したと主張しています。証言が正反対であり、ここにも大きな疑問があります。

 行く先は釜山か舞鶴か
 ・・・
 これは野沢忠雄元少佐だけの証言ではない。
 操舵長・斎藤恒次元上等兵曹もはっきりと断言した。
 大湊から釜山に向けての出航命令を受けた後、どのような航路で釜山に向かおうとしたのかという質問に
「私たちは、初めから釜山に行くつもりなんかなかったですよ」
 と、いとも簡単に言ってのけた。
「え? そんなの命令違反でしょう」
「ええ」
「艦長も承知なのですか」
「当然です。艦長の命令でそのように操船したのですから」
「本当ですか……」
「間違いないですよ」
艦長の命令で、釜山に行かないように操船したのだという。
「海図もなしに出航できないと、艦長が何度も参謀部に申し入れたと聞いていますが、それが出航を強要する命令を受けたものですから、出港することにはなったものの、大湊を出る時からほぼ舞鶴に入港する予定でした。それは艦橋にいた者は承知していたと思います。
 大湊を出てから、一般海図しかありませんから、沿岸を視界にいれながら南下していったのです。だから舞鶴入港は予定の行動です」
 と、はっきり言い切る。
 ・・・

 日本の敗戦によって、軍の秩序が崩壊しつつあった当時、浮島丸の船内でも、艦の航海妨害の謀議や水兵の反抗や、士官に対する集団リンチがあり、殺人まであったといいます。
 浮島丸が釜山に向かわないとすれば、3700名(実際はもっと多いと考えられる)を超える朝鮮人乗客をどうするのか、ということが問題になります。帰国できると思って浮島丸に乗船した朝鮮人乗客を舞鶴港で降ろすことには、いろいろな困難があり無理ではないかと思います。でも、浮島丸の乗組員が、3700名を超える朝鮮人乗客をどうするつもりであったのかはわかりません。乗組員の証言を総合的に考えると、浮島丸は、米軍による航行禁止にかこつけて、最初から舞鶴港に入る意図をもって大湊を出たのではないかと思います。多数の朝鮮人労務者を釜山に輸送するため、軍命に従って釜山に向かう航路をとれば、米軍の航行禁止の対象にはならないため、浮島丸の航行に関わる人たちは、それぞれの立場で、意図的に沿岸部を航行させ、舞鶴港に入ったのだと思います。

 また、乗組員の証言から、犠牲者数を減らすために、乗船者数が意図的に少なくされているのではないか、ということも指摘されています。”4000名ではすまない”というのです。 

 
 黒い十字架を背負った航海
 そんな浮島丸の船内で、朝鮮人乗客の間に大湊出港前に日本人から流された噂──浮島丸自爆の噂が流れていた。そして、それはまたたく間に朝鮮人の間に広まっていった。
 金東経さんは、
「菊地桟橋で4日ぐらい待って乗船した後、船は出港しましたが、出港してから、噂が流れてきました。
 司令部から、軍の機密がもれるといけないから朝鮮人を送り返せ、と言われた兵隊が、戦争が終ったあとで船が沈没するような危ない航海をするのはばかばかしいと抵抗したため、船の出港が遅れたようだという噂でした。
 それに、兵隊が船は沈没するようなことを言っているというので、皆、不安になって、どうせ死ぬなら金を持っていてもしかたがないじゃないかと、ヤケクソのようにバクチをやる人も出て来ました」
 と言う。
 同様の証言を京都府下網野町在住の申美子さんが語っている。浮島丸には、飯場を経営していた父親たちと一家全員で乗り込んだが、乗船した後、すぐに、
「この船は沈没するという噂が朝鮮人の間に広がっていきました。皆、自分たちは殺されて死ぬかも知れないと語っていて、かなり動揺していました。
 私たち一家もそんな噂に不安でしたが、死ぬときも、親子家族、皆で死ぬのだからいいじゃないかと話し合っていたものです」
 ・・・
 浮島丸はもともと客船であるが、船内の客室は士官と兵隊たちの居住区で占められ、朝鮮人労務者たちは、弾薬庫と機関室にはさまれた中甲板と船倉に詰め込まれていた。船底には、船の、船のバランスを保つ必要から大量の砂利が積まれていたが、その上に木製のすのこのようなものを置き、そこにも大勢の朝鮮人労務者が詰め込まれた。このようにして乗せられた朝鮮人乗客の総数を、大湊海軍警備府では3735名と発表しているが、長谷川是元二等兵曹は、
「私は、6000人とか8000人とか聞いたのですがねえ。3735人ですか。そうだったかなぁー」
と疑問をなげかける。そして、斎藤恒次元上等兵曹はさらに具体的に、
「浮島丸に乗った朝鮮人は6000人近くいたんじゃあないですか。浮島丸が青函連絡船の代替として運行した時、船底に乗客を入れないで4000名乗せたんですから。大湊からのせた朝鮮人は船底までギッシリ詰め込みましたからね。青函連絡船の代替運航の時よりずいぶん多いことになりますから、4000名ではすまないはずですよ」
 と話している。
 ・・・
 浮島丸は8月23日、水兵の反抗や下士官に対する集団リンチ・殺人、艦の航海妨害の謀議、そして朝鮮人乗客の帰国の喜びと流れる爆沈のうわさへの不安──こうしたさまざまな思いを乗せ、一路日本海沿岸を南下していた。

                      十 入港=寄港命令はあったのか

 二十四日四時以降ノ航行を禁ズ
 浮島丸は釜山に向けて航行していたと、艦長・鳥海金吾元中佐も副長兼航海長・倭島定雄元大尉も断言する。
 その浮島丸がなぜ舞鶴港に入港したのか、NHK記者の質問に鳥海金吾元中佐は「二十四日四時以降の船舶の航行禁止の無電が入ったからである」と説明している。
 副長・倭島定雄元大尉にこの件を確かめてみた。
「どうして舞鶴港に入港なさったのですか」
「舞鶴に入るようになったのは『二十四日四時以降は100トン以上の船の航行を禁ず』という無電が入ってきたからなのだ」
「二十四日六時以降ですがね」
「いや四時以降だ」
「『大海令』では六時以降になっているんですよ」
「うーん、そうなのかな。我々が受け取った電報は四時以降となっていた」
 ・・・

 「大海令第五十二号」の教える不審
 ・・・
 連合国要求の第三で船舶についての命令は、
「日本国に属し又は日本国の支配下にある一切の種類の陸海軍及民間の船舶にして日本国領海にあるものは、聯合国最高司令官の追て命令する迄之を破損することなく保存すべく又は現に進行中の航海以外に一切移動せざるものとする」
 とある。そして、これを直接、命令として発信した「大海令第五十二号」では、
「(六)八月二十四日一八〇〇以後特ニ定ムルモノノ外航行中以外ノ艦船ノ航行ヲ禁止ス」
となっている。
 この「要求書第三号」と「大海令」の内容を検討すれば、浮島丸の大湊出港以後の運航との関連で、事前に連合軍の要求事項を知っていたと考えなければつじつまが合わない航海である。
 ・・・
 もし、浮島丸が釜山港への最短距離の航路をとって領海外を航行していたら、浮島丸は「日本海領海内にあるものは」という要求書第三号に該当しなくなり、したがって日本の港に寄港できなくなる。それ故、浮島丸は日本の領海内、日本海沿岸ぞいを航行したのではないか。
 さらに「大海令第五十二号」では「……特ニ定ムルモノノ外」と指示・命令しており、「要求書第三号」では「現に進行中の航海以外に」との条件が付けられている。
 浮島丸が釜山に向け朝鮮人労務者の輸送にあたっているという「特ニ定ムル」任務を帯びていれば、この点でもまた舞鶴に入港しなければならない理由はなくなったといえる。
 ・・・
 鳥海金吾中佐も倭島定雄元大尉も、日本海を航行中、無電による命令で舞鶴港に寄港するようになったと説明しているが、それを他の士官や下士官たちが知っていたという様子はない。
 ・・・
 だが、前述した防衛庁戦史資料室で見付け出した海軍省運輸本部の六通の発信電文の中にその証拠を発見した。
 それは8月22日午後7時に発信された電文である。
 電信の発信者は海軍省運輸本部石川中将。宛先は、浮島丸・長運丸艦長である。電文は
「八月二十四日一八〇〇以後、左ノ通り処理スベシ
一 現ニ航行中ノモノノ外船舶ノ航行禁止
ニ 各種爆発物ノ処置
(イ)航行中ノ場合ハ無害トナシタル上海上投棄
(ロ)航行中ニ非ザル場合ハ陸上ニ安全ニ格納
                    (終)」
 と打電し、その20分後に再び本部長名で浮島丸艦長に宛てて
「八月二十四日一八〇〇以降一〇〇総屯以上ノ船舶ハ航行ヲ禁止セラル。其ノ時刻迄ニ目的港ニ到着スル如ク努力セヨ。到着ノ見込ミ無キモノハ右日時迄ニ最寄軍港又ハ港湾ニ入港セヨ (終)」
 この時刻、浮島丸はまだ大湊を出港していない。
 この電文を発見した時、やはり艦長も副長も嘘をついていたのだなと納得したが、それではなぜ両人とも「知らなかった」と答えたのだろう。
 ・・・
 朝鮮人や水兵たちには、なぜ舞鶴に入港するのか、理由は説明されなかった。
 当然、どうして舞鶴に入港するのかと朝鮮人乗客は不信感を持ったが、艦長以下、浮島丸の幹部からは何の説明もなかった。
 ・・・
 浮島丸は舞鶴湾の入口にある舞鶴防備隊の信号所と、手旗で交信を交わした。信号所からは「水路、掃海ズミニテ安全ナリ」という返事が返ってきた。
 浮島丸の前方を、二隻の海防艦がゆっくりと入港していった。

 

  下記の、”日本兵は棒を持って殴りつけながら、我々朝鮮人を船内に追いたてていた。”という証言が、何を意味するのかは想像できます。また、爆発時”水柱も立たなかったですね。”という証言、さらに、”爆発音が二度した”という証言見逃すことが出来ません。触雷かどうかにかかわることだからです。

 

                    十一 爆沈=渦巻く船底地獄 

証言──その時、私は地獄をみた
 ・・・
 浮島丸爆沈現場が見渡せるところでサワラの養魚場を経営しており、爆沈を目撃している梅垣障氏は下記のように証言しているといいます。

「当時、浮島丸沈没の日まで毎日のように、浮島丸と同じ航路を通って船が入ってきていました。特に浮島丸が入港した日は多かったように思います。四隻が一組になって入って来る小型の軍艦が多かったですね」
 浮島丸入港の日は、マニラで日本政府に手渡された連合軍の要求書によって、大本営海軍軍令部が二十四日午後六時以降の100トン以上の大型船舶の航行禁止を命じたので、入港する船が多かったのであろう。
 ・・・
 当日、艦橋で入港の指揮をとっていた航海長・倭島忠雄元大尉は
「舞鶴入港時、”掃海ずみ”という信号を受けて入港を開始したのですが、私は舞鶴は初めての港だったから、前に入港していく二隻の海防艦の後を忠実に航行したんですよ。
 そしたら、突然、ドカン! でしょう。私は飛ばされて倒されましたが、すぐに起き上がって見ますと、艦はまだゆっくりと進んでいて、二つに折れるようにして沈没していきました。
 その時、火災もおきなかったし、水柱も立たなかったですね。
 船が沈むとすぐに、防備隊のカッターなどが救援に駆けつけて来て、それに救助されました。」
 ・・・

 絶叫──アイゴー!
 ・・・
 李英出さんは
「船が湾内を進んでいる時、日本兵が来て甲板に立っている我々に、皆、船の中に入れと命令してきた。日本兵は棒を持って殴りつけながら、我々朝鮮人を船内に追いたてていた。
 多くの人は追いたてられて船内に入ったが、私は船内に入らないで、そのまま甲板に残った。甲板には数十名の朝鮮人が残っていた 
 なぜ兵隊が朝鮮人を艦内に追い込んだのかはわからないが……」
 この入港直前の「朝鮮人船内追い込み作業」が朝鮮人側から、日本の水兵が朝鮮人を追い込んだのは計画的に朝鮮人を水死させる策謀であったという、という風説になってその後、人々の間に流れた。
 ・・・
 李英出さんはその瞬間を
「日本兵が朝鮮人を船内に入れてしばらくたってから、『ドカン!』という大きな爆発音が船の真ん中近くでして、その後、船の壊れるような爆発音が二度した。
 ・・・」
申美子さんは、船が舞鶴には入港するというので、子供心に入港の様子を見たいと思い、母親と一緒に甲板に出ていた。
 突然、ドカンともにすごい音と衝撃で突き飛ばされたようにして甲板にたたきつけられた。そのときの状況を
「爆発は二度ありました。一回目と二回目の間にはしばらく間があったと思います。二回とも同程度の爆発で、一回目のときと同じように二回目のときも突飛ばされる様な衝撃がありました」
と語っている。そして、どう行動したのか自分でもわからないうちに、母親と一緒に漁船に救助されていたという。この爆発音を二回、または三回聞いたという証言は、触雷か自爆かの爆沈原因究明にもきわめて重要な証言である。


                   十二 風説~=デマは乱れ飛んだ

 著者は、米軍の感応機雷の触雷の光景を記述したいくつかの文章から、浮島丸の沈没原因を突き止めるために、機雷による水柱に注目して証言を集めています。
 米軍機雷に触雷すると、艦橋よりもはるかに高く水柱が噴きあがり、その後、それが崩れて、滝のように艦橋や甲板に降り注ぐというのです。だから、浮島丸の船上にいた人々はずぶ濡れになるわけで、浮島丸の甲板にいた何人もの人が、水柱に気付かなかったということはあり得ないのではないかというわけです。白軍曹の下記の指摘は、自爆だということです。

 不安・恐怖・不信──自爆か触雷か
 ・・・
 しかし、白軍曹が金東経さんに指摘した点はきわめて重要な事柄である。
 浮島丸の沈没が機雷による爆沈ではない、という指摘である。それは当然の帰趨として”自爆”による爆沈ということになる。「機雷なら、水柱が数十メートルも上がるはずだ」と言った、というのである。 


                    十三 機雷=米軍機雷は感応したのか

 著者は、米軍が舞鶴湾に投下した機雷の機種や数、投下日時、地図などが詳細に記録された『日本に対する機雷戦』 という米軍資料を探し出し、また、それに『舞鶴防備隊戦闘詳報 第一号 若狭湾方面戦闘掃海』という書類綴りから掃海状況を調べ上げ、合わせて、当時舞鶴湾に入港したり、舞鶴湾から出港したりした船舶の数や航路を考慮して、下記のように結論しています。

 次第に消えていく触雷の可能性
 ・・・
 しかし、浮島丸の舞鶴湾入港時の状況と他の触雷沈没船の状況等を詳しく比較・検討してみれば、不可解な点が少なくない。それどころかむしろ、米軍の機雷投下日、機雷性能、日本海軍の掃海活動、日本敗戦後に舞鶴に入港してきた船舶数、そして浮島丸の航路等々からみて、浮島丸が機雷で沈没する確率はきわめて少ない。いや、ほとんど考えられない。

 こうした考え方を、旧海軍の掃海艇の将校であるA氏も認め
舞鶴湾の水路上で8月24日に触雷するというのはたしかにおかしい。普通はあり得ないことだが… もし、誰かが自爆させたとするならば、それは下士官クラスの者が謀ってしたことだと思う。
 敗戦の混乱の時、艦の実権はそのような下士官に握られていたし、実際は彼らが最もよく精通していたからね。…」
と語っているのです。


 誰が浮島丸を沈めたのか
 ・・・
 乗組員のほとんどが釜山への航海を嫌がっており、その航海に生命の危険、恐怖感を抱き、さらに水兵たちの集団リンチに対する下士官のおびえ、復員に対する強い期待は「ここでもし、また釜山に行けと命じられたら」というせっぱ詰まった気持ちと結びつき、浅井湾内で艦を自沈させれば釜山にいかなくてもすむという気持ちを兵、下士官たちに抱かせたとしても不思議ではないであろう。特に「大海令」の情報に接していなかった兵、下士官の中に、そのような考えをする者たちがいたとしてもおかしくない状況がある。
 ・・・ 

 また、浮島丸乗客が3735名という根拠が示されていませんし、死没者は、朝鮮人家族が身内であることを確認した人だけを記録しているようであり、また、遺骨の収集や取り扱いも含め問題だらけだと思います。

 素人判断だとはいえ、”船体の一部──船底に近い部分の鉄板に、外に向かって大きく破れている部分がある”という事実の発見は、浮島丸の意図的沈没が疑われる決定的な物証であると思います。

 このような数々の疑問に基づいた、浮島丸自爆説の結論を否定するような資料や考え方を何も示さず、”触雷沈没”をくり返すだけでは、あまりにも誠意がなく、悪質であるとさえ思います。 

                   十四 死没=犠牲者は何人であったのか

 初めからなかった乗客名簿
 浮島丸朝鮮人乗客は、日本政府の主張するように本当に3735名なのか。
 まず浮島丸朝鮮人乗客数から検討してみよう。それは浮島丸爆沈で何人の犠牲者が出たのかを確認する作業への第一歩である。
 しかし、残念ながら浮島丸乗客名簿は現存しない。日本政府も、浮島丸乗客の朝鮮人名簿を提出して、これこれであるから3735名は確認された乗客である、という「証拠」を一度も示したことはない。

 作為に満ちた『死没者名簿』
 大湊海軍施設部長命で出された「死亡認定書」では、「個海軍軍属 金海亮□外409名」が大湊海軍施設部関係朝鮮人労務者であり、その他に「施設部以外ノ分」として「114名」を「浮島丸死没者名簿」で明らかにしている。この名簿によれば、朝鮮人乗客の死亡者総数は534名になる。
 ・・・
 舞鶴湾内で収容された水死体などの数から、朝鮮人死没者が300人や500人程度ではないという噂が流れ、遭難した朝鮮人乗客らも、1000人単位の死没者を口にしていた。
 ・・・
 さらに『浮島丸死没者名簿』を点検していて、不審なことに気づいた。
 海軍施設部と日通大湊支店を除いて、他の土建会社の死亡者の名簿のほとんどが女・子供である点だ。
 例えば以下に列挙すると、菅原組10人中9名、東邦工業11名中10名、鉄道工業4人中4人、地崎組14名中13人、竹内組3人中3名、宇佐美組9名中9名、木田組3人中3名斎藤組4人中4名、佐々木組22名中21名、というようになっている。
 これは何を意味しているのだろうか。
 死亡した女性や子供の、夫や父親に当たる名がそこに記載されていないところをみると、父親や夫が自分の妻子の死亡を確認し、土建会社の引率者に知らせたものであろう。
 ということは、親や子、特に父親が必死に探し回って確認した死亡者だけが登録されたということになる。独身者で死亡した者、あるいは一家が全滅してしまった人たちの名は、記載されることもなかったのではないか。

                   十五 引き揚げ=放置される遺骨 

 1950年浮島丸引き揚げ
 舞鶴湾内に沈没していた浮島丸の引き揚げ、再生して使用したいという要望が、戦後の船舶不足、物資不足の中で旧所有者の大阪商船からなされたのは、1949年頃であった。
 ・・・
 引き揚げ開始のニュースが舞鶴の朝鮮人社会に伝わると、彼らの間から強い不満の声が噴き上った。
 沈没後、祖国に帰りたくても船に乗るのが恐くて、そのまま舞鶴にすみついてしまった元浮島丸乗船朝鮮人も多く、彼らから、引き揚げる前に沈没の原因と乗船者数、死没者数とを明らかにすべきだという気運が高くなり、朝鮮人の代表が舞鶴地方復員残務処理部並びに飯野サルベージに対して、申し入れを行う事態になった。
 この朝鮮人代表の申し入れに舞鶴地方復員残務処理部は、『触雷』による沈没であること、乗船者数は当時の「乗客名簿」から、3735名であるとの主張の主張をくり返すだけで、引揚船体の調査による沈没原因の究明申し入れにも、その意志がないことを明確にし、これを拒否した。

 疑惑──外に向かって破れた船体
 沈没船がドックに入れられた後、遺骨の収取作業をしながら朝鮮人たちは、少しでも浮島丸の沈没原因を知る手掛かりになるものがみつからないかと調査をしていたが、素人の集団である彼らには、浮島丸沈没原因と思われる事実を十分に究明することができなかった。
 しかし、船体のいたるところを各角度から撮影し、後日の証拠にしようとしていた。
 そんな時、何人かの朝鮮人が不思議な現象に気づいた。船体の一部──船底に近い部分の鉄板に、外に向かって大きく破れている部分があるということである。
 その時調査に参加した人々の意見は、「触雷で船が沈没したものであるなら、船体の底部であれ側体部であれ、鉄板が内側にめくれるようにならなければならないのに、なぜ外側に破れているのか──これはやはり内側から、何か爆薬を仕掛けて爆裂させたからではないのか」ということに結論が一致していったという。
 当時その現場に立ち会った田村敬男氏は、
浮島丸の船体をドックに入れた時、船体を朝鮮の人たちが点検していました。素人ですので沈没の原因を突きとめるまでに至らない。それで船体の破れているところや、爆発したと思われるところを何枚も写真に撮っておいたのです。

 その時、船体の一カ所が破裂し、破れている部分の鉄板が、内から外にめくれているのを、私も直接確かめました。

 私は足が不自由なものですから、その部分を何度も検証するというわけにはいきませんでしたが、朝鮮の人たちと一緒にその個所を確認しました。…」


 

 
 

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朝鮮人徴用工と浮島丸事件 NO3

2019年09月15日 | 国際・政治

 日韓関係の悪化を乗り越えるためには、やはり歴史の事実をしっかり踏まえることが欠かせないと思います。歴史認識の溝を埋める作業なしに関係改善を図ることは難しいと思います。

 したがって、浮島丸の沈没事件を闇に葬るような姿勢は、改める必要があるのではないかと思います。

 浮島丸の乗組員その他の関係者の証言や記録を読むと、様々な情況証拠によって、帰国を望む多数の朝鮮人徴用工や朝鮮人家族を乗せた浮島丸が、舞鶴港で意図的に沈められた可能性が大きいと考えざるを得ないのです。

 「浮島丸釜山港へ向かわず」(かもがわ出版)の著者・金賛汀氏は、いろいろな関係者の証言を取り上げているのですが、その一人、元海軍上等兵曹国藤八郎の下記の証言にも、見逃すことのできないことがあります。

 「私は舞鶴港で浮島丸が沈没した時、船体に体をたたきつけられ、そのまま海に落ちまして。漁船に助けられ海岸に上がった時は気絶したまま意識不明だったので、死体と一緒に並べられていたんです。気がついて声を出したのですぐ海軍病院に運び込まれたんですが、声を出していなかったら、あのまま御陀仏ではなかったですか。その時足をケガして、以来不自由になったんですよ。
 あの航海がなかったら、私も元気に五体満足な体で復員できたでしょうに、日本敗戦後の負傷ですから何か腹が立ってしかたがないんですたよ。
 七年ほど前、NHKが浮島丸の沈没を扱った『爆沈』というドキュメンタリーを作り放映しました。その時、NHKの人たちの取材にも応じたのですが、仲間たちは、あんまり何でもかんでも話していいことはないから適当にしとけよ、と忠告してくれたし、私も何もかも言う気持ちはないので、うんうんとその忠告を聞いていたんです。
 それが、『爆沈』を見てものすごく腹が立ったことがあるんですよ。それは大湊警備府司令部の首席参謀の言動です。
 我々に釜山まで朝鮮人の輸送を命令した当人の、首席参謀の永田茂元大佐が『俺は知らん。参謀なんて何の権限もない。責任もない』と言い張っている姿を見てものすごく腹が立った。何だ、お前らの命令で出航した俺は足を失ったのに、それが何の責任もないとは何だ。そう思ったとたん、海軍の名誉のために海軍を悪くいわれるようなことはできるだけ黙っていようという気持ちなんか、なくなってしまったんですよ。
 ……俺なんか、舞鶴で足に大ケガをして使えなくなったから、働くにしても人より苦労が多かったし、そんな苦労をしてもちょっとも生活が楽にならなかった。そんな気持ちはあったが、それを外に出して人に言ったりすることもあまりなかった。
 けど、『爆沈』の放映や、浮島丸沈没の原因にいろいろ不審な点があるという雑誌なんかの記事を読むと、そんな苦しい生活を強いた原因──浮島丸の沈没原因はきちんと知りたいと思うようになりましてねえ……」
 ・・・
「正直いって『爆沈』の取材・放映の時──1977年まで、浮島丸の沈没が乗組員による自爆なんてことは考えたこともありません。発表されたとおり、”触雷”沈没だと思っていました」
 ・・・
「さあ──。俺はずーっと触雷だと思っていたし、自爆なんてNHKの放映の時、そんな噂があると初めてしったぐらいだから……よくわからないな。おかしいことはいっぱいあったんだが……」


 国藤上等兵曹の仲間が、「あんまり何でもかんでも話していいことはないから適当にしとけよ」と忠告したのは、なぜなのか。浮島丸沈没について、いろいろな噂があることを考えれば、沈没原因をはっきりさせるために、知っていることは全て話した方がよいと、なぜ考えないのか。
 また、触雷沈没であれば、事実を語ったほうが、責任を免れるために有利なはずなのに、首席参謀はなぜ、『俺は知らん。参謀なんて何の権限もない。責任もない』と主張するのでしょうか。やはり何か、語りたくない、あるいは語れない事実があるのではないでしょうか。
 ・・・

 下記の証言にも、いくつか考えさせられることがあります。

 ”不沈特務艦”浮島丸
 ・・・
その「不沈特務艦」が敗戦の玉音放送を聞いたのは、津軽海峡を航行中のことである。
「戦争は終わったんだから、すぐ復員できる、故郷に帰れる、というのが全乗組員の気持ちだったと思うのです。浮島丸は一人も職業軍人が乗っていない艦なので、艦長以下全員が、母港に帰ったら復員だという気持ちになっていました。
 大湊に帰ってきたのはたしか18日です。
 乗組員たちは復員できると考えていたので自分の荷物を整理し、いつでも復員できるようにしていたのですが、次の日、召集解除という予想とは違って、朝鮮半島の釜山に向かって出航という命令が下っていたんですよ。
 そんな命令が下っているとは知りませんでしたが、どこからともなく噂になって浮島丸は釜山に行くんだという。真偽がはっきりしない。それで、艦長に聞こうということになったんだ。私は艦長と同じ千葉県の出身ということで親近感があったから聞きに行ったら、釜山行きの命令が出ているというんだ。
 そんな馬鹿な、と兵隊たちが騒ぎ出した。戦争が終わっているのに何で朝鮮まで行かなならんのか、ソ連が参戦していて朝鮮もソ連軍に占領されとるだろう、そんなところに行ったら俘虜になる、とかいろいろ言うんですよ。理屈はいろいろ言っていましたが、本当のところは戦争で沈められることもなく命びろいしたのに、何でまた出航しなならんのか、早く復員したいという気持ちですよ。
 その日から、兵隊は出航しないというんで各分隊ごとに会議を開いて皆、強固に反対したんです。敗戦の日から、乗組員を縛っていた強い軍隊秩序は少しずつ崩れてきていましたが、この時には絶対的な命令関係や秩序は半分くらい崩れとったんですわ。皆、これからどうなるかわからない状態ですし、軍の秩序で痛めつけられた兵隊たちの反軍機運がみなぎっていましたからね。
 分隊ごとの討議でも反対者が圧倒的でした。
 そんな時、憲兵が乗り込んできて、反乱だ、命令違反だとか脅かしながら、軍法会議に回すとか言って、発言を全部記録したりしているんですよ。
 大湊警備府は何としても命令を実行させようとする。乗組員は士官も含めて反対という状況で、艦内は騒然としていました。
 私は甲板班長でしたが、部下の若い者の中には、『班長! 私は脱走します。止めないでください』なんて宣言して、脱走していく者もいました。たしかそんな兵隊が三名いたと思います。戦争中だったら考えられないことです。
 え─私ですか。私も出港に反対でしたよ。復員するつもりでいましたから。ただ、私は艦長を信頼していましたので、艦長が行くと言えば行かないかんだろうとは考えていましたが。とにかく艦内は騒然としていました。
 乗組員は全員出港反対ですから、大湊警備府でも手を焼いていたんでしょう。たしか8月21日だったと思いますが、総員集合で集まれというので全員が参加した席上、大湊警備府の参謀が『出航は命令である。最後の御奉公だから朝鮮の釜山まで行け』ということを言っていました。たしか千島から転属してきたので兵隊から千島参謀と呼ばれている参謀でした。
 それでも皆が納得しないので、千島参謀が質問を許すと言ったんです。すると何人かが手を挙げて『終戦になったのに出航することはないのではないか』というようなことを言ったとたん、参謀が軍刀を抜いて『命令違反者は俺がたたき斬ってやる、前へ出ろ』とわめくので、皆黙ってしまって……。
 そんなことで、結局その次の夜10時頃、浮島丸は大湊港を出港しました。
 大湊港を出て沿岸ぞいに航海しましたが、敗戦で兵隊の気分が相当荒れていて、指揮・命令・秩序は崩れていました。特に下士官の中には戦時中、かなりひどく兵隊に”気合い”を入れていた下士官
もいたので、そんな下士官は恨みを買っていましたから、航海中に何人も兵隊から集団リンチを受けていました。
 ・・・
 帰国する朝鮮人は船底から甲板まで満載でした。彼らが暴動を起こして船を乗っ取るのではないかということも言われていましたので、その暴動に対する備えとして、武装した兵隊の見張りも出していましたが、そんな気配もなくおとなしくしていました。
 そのうち誰いうともなく、船は新潟に入港するのではないかという噂が流れました。が、新潟には入港することなく航行していました。その後、米軍から24日4時以降には航海をしてはいけないという命令が入ったというので、舞鶴港に入港することになったというわけです。
 舞鶴に入港したらそこで朝鮮人も降ろし、自分たちも復員するのだというので、艦内は下船支度で雑然としていました。
 入港する前に舞鶴港と連絡はとってあり、機雷は掃海ずみだから入港して良しという許可をもらっていたと聞いています。それに私たちの前を二隻の海防艦が入港して行きましたので、その後を従うように入港していったのです。
 私は入港したら舞鶴からすぐ千葉県の故郷に帰るつもりで、手荷物を全部持っていました。湾内に入ってしばらくしたら、突然ドカーンときて、私は船体のどこかに足を強打され、海になげだされていました。……」
 ・・・

 まず、浮島丸乗組員が、玉音放送を聞き日本の敗戦を知ったのが8月15日、そして大湊に戻ってきたのが8月18日、そして、復員を望み、声をあげる乗組員たちに、大湊警備府の参謀(千島参謀と呼ばれた人)が、軍刀を抜いて『命令違反者は俺がたたき斬ってやる、前へ出ろ』とわめき、浮島丸の釜山行を命じたのが8月19日です。でも、朝鮮人徴用工の徴用解除は8月21日です。だから、敗戦後に、それも朝鮮人徴用工の徴用解除前に、軍中央から釜山行の命令が下りてくることは考えにくいですし、もし、そうした命令があったのであれば、命令下達の経緯や内容を伝えれば、乗組員を脅す必要はないのだと思います。また、首席参謀は、”参謀なんて何の権限もない。責任もない”と主張するのであれば、浮島丸釜山行の命令の経緯や内容をを明らかにすべき責任があると思います。
 さらに、大湊海軍警備府司令長官・宇垣完爾中将及び、参謀長・鹿目善輔少将が東京の軍司令部に出頭していて、大湊を留守にしていたというのですから、その後のことについては、首席参謀永田茂元海軍大佐は責任を免れることができない立場であったと思います。
 やはり、浮島丸釜山行の意志決定は、首席参謀永田茂元海軍大佐を中心として、大湊海軍警備府参謀たちによってなされたと考えざるを得ないと思います。


 また、釜山行を命ぜられているにもかかわらず、釜山に向かう航路をとらず、なぜ、沿岸ぞいを航海したのかということも疑問です。さらに、乗組員が復員する準備を整えていたことや、船は新潟に入港するのではないかという噂が流れたということなどから、何か隠されている事実があるのではないかと考えざるを得ません。

 浮島丸機関長・野沢忠雄元少佐の証言も、航海のコースや沈没とのかかわりから見逃すことができません。
18日か19日か記憶にないが、大湊の警備府の参謀から釜山だか鎮海だが、朝鮮に朝鮮人労務者を運んで行け、と命令が出た時、戦争は終わったのに朝鮮なんかにいけるか、というのが正直な気持ちでしたよ。
 それは私だけなく、乗組員のほとんどがそう思っていたんじゃあないかな。
 戦争が終る前はおとなしかった兵隊が、酒を飲んで『朝鮮に行くもんか』とわめいていましたからね。
 戦争中の軍律だと考えられないことですが、艦内の軍律もだいぶ秩序を失っていたのと、それに今、朝鮮に行ったら帰ってこれないというせっぱ詰まった気持ちだったんじゃないかな
 ・・・
士官たちも朝鮮への航海は反対しておりましたからね。航海長(倭島定雄大尉)とは話し合って、エンジンや舵などの船の重要な部分を壊し、航海できない状態にしようと相談しました。
 ただ大湊入港中にエンジンなどを故障させても、警備府から修理に来て、すぐ故障個所はわかりますから。それに船が航海できないほどの故障ということになると、それを故意に壊したということが発見できないようにするにはそんなに簡単ではないですからね。いずれにしろ、出港してからというようなことを、航海長と話したことは記憶しているんですが…」

 鳥海艦長とともに、司令部に乗組員の一致した意見を伝えにいった木本与市上等兵曹や後藤兵曹長の話をまとめると下記のようになるという。

 警備府から出港命令を受けた鳥海艦長は、直ちに出航するという返事ではなく、帰艦して浮島丸が出航できる状況にあるかどうか調査をしてみるというような返事をして、浮島丸に帰ってきた。
 浮島丸では航海長、機関長らと協議したが、海図の不足、燃料の問題、特に機雷にひっかかり沈没する危険が強調され、艦長に出航は不可能であると進言、それらの士官の意見を持って鳥海艦長は再度司令部に出頭した。
 鳥海艦長に出航を命じた大湊海軍警備府の参謀は、清水善治機関参謀(海軍少佐)と大熊通信参謀であった。
 出航不可能を訴える艦長に、二人の参謀はさらに強く「天皇陛下の命令」と出航をせまる。艦長は兵隊たちの出航反対の気運をも説明するが、兵、下士官を説得せよ、と逆にその不服従を責められる羽目になる。
 司令部からの出航命令を再々度浮島丸に持ち帰った鳥海艦長は、機関長、航海長、古参の士官ニ、三名、そして兵の代表として古参の下士官ら三人を呼び、士官室で司令部の命令についての協議を行った。
 その協議の結果は、やはり「出航できず」である。

 日本海軍の敷設した機雷海域や米軍の投下した機雷情報を記入した機密海図は8月15にに焼却されており、また、燃料の重油も不足していて、大湊に残っていた重油をすべていれても片道分程度の燃料しかなく、釜山に行ったら、帰れなくなるという心配があって、乗組員が出航できないと言っているにもかかわらず、参謀たちは触雷の危険を承知で、『危険があるからといって陛下の命令を拒否するのか、軍法会議にかけるぞ』と脅した、といいます。そして、『自分たちも戦争が終った以上、早く残務を処置し、復員したい』というようなことを言ったといいます。戦争責任を問われる前に逃げ出したいという思いだったようです。

 神定雄元上等兵曹は、乗組員の思いを無視した参謀の姿勢を受けて、
津軽海峡で(出航後に)機械を壊してしまおうではないか──。船が動かなくなるんだから、これは士官にもわからないから……」と証言しているといいます。

 
 さらに、そうしたこととは別に、
特に下士官の中には戦時中、かなりひどく兵隊に”気合い”を入れていた下士官もいたので、そんな下士官は恨みを買っていましたから、航海中に何人も兵隊から集団リンチを受けていました。
というような軍隊内の問題も、浮島丸沈没の経緯に、何かしらの影響を与えていたのではないかと考えさせられます。

 また、船底から甲板まで満載だったという朝鮮人が
暴動を起こして船を乗っ取るのではないかということも言われていましたので、その暴動に対する備えとして、武装した兵隊の見張りも出していましたが…”
という証言は、浮島丸釜山行命令の真相を暗示するものではないかと思います。なぜなら、朝鮮人徴用工を奴隷労働といわれるような状態で酷使し、抑圧し、差別してきた日本の軍人や事業主に、報復を恐れる心理が働いても不思議ではないと思うからです。抜刀した参謀の強引な浮島丸釜山行の命令の背景に、そうした心理が働いていたのではないかと思うのです。
 内務省警保局の『特高月報』1945年6月『流言飛語取締状況』には、日本人の朝鮮人についての流言として、「朝鮮人は空襲時に敵機を誘導するため火を発しているというもの」「B29には朝鮮人が乗って敵機を誘導しているそうだというもの」「朝鮮人は米兵歓迎用としてモーニングや背広を買いあさっているというもの」などがあったことを記しているといいます。朝鮮人を酷使し、差別し、抑圧したものほど、朝鮮人の報復や暴動に脅える心理が強かったのではないでしょうか。

大湊寄港──復員への期待
  ・・・
 横浜市の新興住宅街、港南区に浮島丸の操舵長・斎藤恒次上等兵曹を訪れたのは、台風が房総沖を去った初秋の晴れた午前中だった。
 「敗戦の玉音放送は、青森港から函館港に乗客を乗せて運んでいる航海中に聞きました。
 青函連絡船が全部沈められたので、浮島丸がその代わりの運航を命ぜられていたのです。青函連絡船の代役ですよ。民間の人をギューギュー詰めに乗せましてね。一航海に4000人以上も船底に詰め込むんですよ。だから船内は大変な混乱で、盗難騒ぎは序の口で、ひどいのになると強姦事件まであるという混乱ぶりです。
 函館で客を降ろすのも、桟橋をやられていましたから、艀を艦に横づけして客を降ろすという状態でした。
 函館に三~四日停泊して、それから母港の大湊に帰ったのですが、その時は乗組員はもう復員だというので、その準備をしていました

 この証言では、復員に関する思いとともに、”船底に4000人以上を詰め込”んだという証言が重要だと思います。また、当時、大湊警備府は、本土決戦に備えて大湊軍港を中心にした”下北半島の軍事要塞化”のため、大規模な防空壕や、地下倉庫の建設を急いでいたので、数千名の朝鮮人労働者が朝鮮各地から強制連行され、大湊に連れて来られていたという事実も、沈没による死者数を考えるときに忘れてはならないことだと思います。

 無法・無秩序な大量連行
 ・・・
 横浜地方復員残務処理部が作成した『浮島丸死没者名簿』には、浮島丸に乗せられ死没した朝鮮人労務者の所属名が記されている。最も多いのは大湊海軍施設部の徴用工員であり、その他の民間の土建、運送会社名が萩原組、地崎組、東邦工業、菅原組、宇佐美組、佐々木組、木田組、斎藤組、竹内組、鉄道工業そして日通大湊支店、と記されている。
 ・・・
 上記の記述で、数千名の朝鮮人が働いていたということも納得できます。

             六 意図=何のための送還
 
 敗戦の衝撃による秩序の崩壊
 ・・・
 当時、大湊で小学校の教諭をしていた秋元良治氏は、
「海兵団にいた知人の中尉が日本の敗戦を知らせてくれた時、『自分たちは──少なくとも将校クラスは捕虜となって豪州あたりにやられるのは確実らしいですよ』と悲痛な顔をして話していたのが印象的ですね。若い将校クラスは皆、米軍捕虜となってひどい待遇を受けると考えていたようですよ」
 と語り、大湊航空隊勤務だった予備学生出身の中尉、大山順道氏が「士官以上は全員死刑となり、その家族も米軍に処刑されるという噂が広まったので、私は脇野沢村に一時家族を隠したことがある」と語っていたことも話してくれた。

 この証言は、前稿で触れた厚生省引揚援護局業務第二課長、中島親孝氏が発表した「浮島丸問題について」の中の
終戦直後、大湊附近にいた海軍施設局の朝鮮人工員多数は、連合軍の進駐を恐れたためか海路帰鮮の要望を訴えて、不穏の兆を示した。
 という部分が事実に反し、”連合軍の進駐を恐れた”のは、実は日本の軍人や事業主など、朝鮮人を使役した日本人であったことを物語っているのではないかと思います。
 
 また、日本の政府は敗戦後すぐに、終戦対策処理委員会を設置して、異境にある同胞をいかにして内地に帰還させるかの協議を重ね、8月30日「外地及び外国在留邦人引揚者応急措置要綱」を決定していますが、それとは逆に、祖国への帰還を求める多数の朝鮮人を放置できず、下記の「朝鮮人集団移入労務者等の緊急措置の件」を定め、 全国の地方長官に通知しました。それが、9月1日です。
 したがって、敗戦3日後の浮島丸釜山行の意思決定は、やはり現地、大湊警備府の参謀たちによってなされたと考えざる得ないと思います。大湊警備府の参謀が『俺は知らん。参謀なんて何の権限もない。責任もない』などということが、乗組員に受け入れられるとは思えず、国藤上等兵曹の怒りは当然だと思うのです。

 さらに、日本政府も、敗戦によって仕事がなくなった土建労務者の輸送を先にしたり、平穏に待機するよう指導することを指示しているのは、やはり朝鮮人徴用工の集団による報復や暴動を恐れていたことを物語っているのではないかと思います。
 下記の資料は、手書きの「朝鮮人集団移入労務者等ノ緊急措置ノ件」(国立公文書館アジア歴史資料センター NO2 レファレンスコードA06030086000)の旧字体の漢字を、新字体に直して打ったものです。
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警保局保発甲第三号
 昭和20年9月1日
                                           厚生省勤労局長
                                           厚生省健民局長
                                           内務省管理局長
                                           内務省警保局長
地方長官殿

             朝鮮人集団移入労務者等ノ緊急措置ノ件
 一 関釜連絡船ハ近ク運航ノ予定ニアル、朝鮮人集団移入労務者ハ次ノ如ク優先的ニ計画輸送ヲナス 尚石炭山等ニ於ケル熟練労務者ニシテ、在留希望者ハ在留ヲ許容スルコト。但シ、事業主ニ於テ強制的勧奨セザルコト
(1)輸送順位ハ概ネ、土建労務者ヲ先ニシ、石炭山労務者ヲ最後トシ、地域的順位ニ付テハ運輸省ニ於テ決定ノ上、関係府県、統制会、東亜交通公社ニ連絡ス
(2)所持品ハ携行シ得ル手荷物程度トシ、有家族者ノ家族モ同時ニ輸送ス
(3)内地輸送中ノ弁当ニ付テハ考究中ナルモ可及的多量ニ携行セシメルコト
(4)釜山迄ハ必ズ事業主側ヨリ引率者ヲ附シ、釜山ニ於テ引渡シノコト
(5)目下ノ處輸送能力僅少(一日平均千名以内)ナルヲ以テ輸送完了迄ニハ相当長期間ヲ要スル見込ニ付其ノ間動揺セシメザル様指導スルコト
(6)帰鮮者ノ世話ハ地方興生会ヲシテ極力之ニ当ラシムルト共ニ下関ノ宿泊施設ニハ中央興生会経営ノ移入労務者教養施設ヲ利用セシムル方針ナルコト

ニ 帰鮮セシムル迄ハ現在ノ事業主ヲシテ引続雇傭セシメ置キ給与ハ概ネ従来通ト為スベキモ8月15日以降差当リ左ノ如ク措置スルコト
(一) 従前通就業スル者ニ付テハ事業主ヲシテ
(1)賃金ニ付テハ賃金規則ニヨリ従前通給与シ得ル如ク計算ヲ行ハシメ置クコト
(2)賃金ノ支給ニ付テハ当座ノ小遣トシテ必要ナル程度ノ現金ヲ本人ニ手渡シ残額各人名義ノ貯金トナシ事業主ニ於テ保管シ置クコト
(3)右措置ハ鮮内トノ通信杜絶ニ依ル已ムヲ得ザルモノニシテ将来帰鮮ノ際貯金ハ必ズ本人ニ渡ス旨ノ周知徹底ヲ図ルコト
(ニ〉休廃止工場事業場及操業工場事業場ノ移入朝鮮人労務者ニシテ就業セザルニ至リタルモノニ対シテハ事業主ハ差当リ標準報酬日額ノ六割以上ノ休業手当ヲ支給シ宿舎食糧等ニ付従来通リ取扱ヲナスコト
(今後ノ状勢ニ依リ右休業手当ノ支給ニ要スル費用ニ就テハ国家補償ノ途ヲ構ズルコトアルベキコト
(三)家族送金(補給金ヲ含ム)ニ就テハ別途指示ス

三 集団移入労務者ニシテ遊休ノ儘事業主ニ雇傭セラレアル者ニ対シテハ地方庁ニ於テ適宜道路工事・焼跡清掃其ノ他臨時作業ニ集団労力トシテ稼働セシメ差支ナキコト但シ此ノ場合ハ従来ノ事業主ト労務者ノ関係ハ其儘トシ一括之ヲ使用シ稼働場所ハ概ネ同府県内ニ止メ之ガ掌握困難ニ至ルガ如キ方面ヘノ転用ハ差控ヘルコト
尚此ノ場合ニ於ケル給与ニ付テハ昭和二十年七月三十日附ケ勤発第八四八号・二十管局第一ニ九号厚生省勤労局長及軍需省管理局長通牒「勤労協力ヲ為ス者ノ給与」ニ依ラシムルコト

四 一般既住朝鮮人ノ帰鮮ニ就テハ帰鮮可能ノ時機ニ至ラバ詳細指示スルニ付ソレ迄現住地ニ於テ平静ニ其ノ業務ニ従ヒ待機スル様指導スルコト
尚集団一般朝鮮人労務者ニ対シテハ可及的従来ノ雇傭主ヲシテ引続キ雇傭セシメ食住等ハ従来通ノ取扱ヲナサシメ就労先ナキ場合ハ可及的一括(組又ハ飯場毎ニ)他ニ転換セシムル様指導スルコト
                                                 以上
       

 

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朝鮮人徴用工と浮島丸事件 NO2

2019年09月11日 | 国際・政治

 敗戦後、帰国を望む多数の朝鮮人徴用工や朝鮮人家族を乗せた浮島丸が、目的地の釜山に向かわず、なぜ舞鶴港で沈没したのかということについて、意図的に沈められた可能性が疑われる疑問の二つ目は、他の沈没事故のような、沈没の経緯を記した報告書が、なぜ存在しないのかということです。

 浮島丸の釜山行の命令や航行に関わった責任ある人たちが、沈没で亡くなったわけではないのに、なぜ、きちんとした報告書がないのでしょうか。浮島丸の沈没によって命を落とした徴用工の遺族や、九死に一生を得た朝鮮の人たちはもちろん、多くの日本人関係者にとっても、浮島丸沈没の経緯は、大問題であるはずなのに、なぜ、厚生省が「浮島丸関係の沈没報告書のような資料はありません」などと平気で言うのでしょうか。なぜ、重要なことが何も記されていない船舶会社による『浮島丸海務部代作報告書』しか保存されていないのでしょうか。

 『浮島丸海務部代作報告書』の事故の顛末が”不詳”と記されているのは、どうしてでしょうか。船舶会社が、何も説明を受けなかったからだとすれば、それはなぜでしょうか。きちんとした報告書を作成すると、何か不都合があるからではないのでしょうか。

 また、549名の死亡が日本政府によって確認されているのに、”戦死者無し”と記載されているのは、なぜでしょうか。確かに、亡くなった人たちは戦死者ではありませんが、戦死者無しと記すのなら、但し書きででも、死者549名と付記する必要があるのではないでしょうか。それとも、そんなことも知らされず、また、調べようともせず船舶会社が勝手に『浮島丸海務部代作報告書』を作成したということでしょうか。
 さらに、浮島丸沈没の事故の顛末が明確にされていないのに、日本側の主張が判で押したように”触雷沈没”で一貫しているのはなぜでしょうか。
 厚生省は「浮島丸関係の沈没報告書のような資料はありません」の一言で押し通しているとのことですが、ではなぜ資料がないのに、”触雷沈没”を断定できるのでしょうか。
 こうした疑問から、私は、きちんとした”沈没報告書”を作成することができない理由が、何かあるのではないかと考えざるを得ないのです。 

 関係者に送付された「死亡認定書」や「戸籍抹消通知書」には、朝鮮人徴用工が「軍属」と格上げされて表示されているようですが、亡くなった人たちは戦死ではありません。戦死ではないにもかかわらず、格上げされているのはなぜでしょうか。遺族の反発を恐れ、できるだけ穏やかに受け入れてもらおうとする意図が働いていたのではないでしょうか。

 厚生省引揚援護局業務第二課長であった中島親孝氏が、沈没後10年近く経った1954年12月号の雑誌『親和』(日韓親和会発行)に発表したという「浮島丸問題について」という文章にも、不可解なところがいくつかあります。特に見逃せないのは、

終戦直後、大湊附近にいた海軍施設局の朝鮮人工員多数は、連合軍の進駐を恐れたためか海路帰鮮の要望を訴えて、不穏の兆を示した

 というところです。私には、信じ難いのです。
 詳しいことが書かれていないので、よく分かりませんが、日本の敗戦を「マンセー、マンセー」と喜んだという朝鮮人が、敗戦直後に、連合軍の進駐を恐れる、どんな理由があるでしょうか。連合軍の進駐を恐れたのは、むしろ日本人、それも地位の高い軍人ではないでしょうか。

 ”不穏の兆”は、日本軍が敗戦によって武装解除されたため、酷使した朝鮮人の集団による報復を恐れたということではないのでしょうか。だから、身の安全のために、朝鮮人の帰鮮の要望を受け入れ、一刻も早く送り返したかったのではないでしょうか。
 中島氏の文章に、いくつかの基本的な事実誤認があることは、著者が指摘していますが、私は、ところどころに責任逃れの意図を感じます。また、10年近く経ってから、浮島丸の釜山行命令や浮島丸の航行に直接関係のない厚生省引揚援護局業務第二課長が、なぜこういう文章を書いたのでしょうか。広く存在する”浮島丸自爆説”が誤解であるのなら、浮島丸釜山行の命令や航行に直接関わった当事者が、誤解を解くために、触雷沈没”の詳細をきちんと語るべきではないでしょうか。

 下記は、「浮島丸釜山港へ向かわず」金賛汀(かもがわ出版)から抜粋しました。
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                       三 公報=沈没時の記録なく 
 「触雷」の立場貫く日本政府
 浮島丸が舞鶴港で自爆したのか触雷したのかについて、日本政府の立場は一貫して触雷説である。
 浮島丸が舞鶴湾で爆沈し、帰国途上の朝鮮人強制連行者が多数犠牲になったことと関連して、その後、別の便を利用して帰国した朝鮮人生存者が釜山で「浮島丸は日本海軍の手で自爆され、多くの朝鮮人が犠牲になった」と伝えたため、朝鮮国内に「舞鶴港で多数の朝鮮人虐殺」という風説が流れた。
 日本敗戦の騒乱の中で、通信・報道機関は混乱していた。加えて、36年間の植民地支配からようやく解放されたという興奮、新生朝鮮の独立という煮えたぎるような高揚した気運の中で、朝鮮人は浮島丸の沈没は虚実入り混じった噂となって朝鮮の地に飛び交った。
 朝鮮での風説が高まるにつれ、9月7日、朝鮮に上陸した朝鮮駐屯米軍司令部も事態を重視し、その報告を日本海軍連絡将校に求めた。
 この要求に対して、浮島丸強制連行朝鮮人引率者の責任者であったという佐々敬一氏が、日米海軍連絡将校であった菅井敏麿少将を通じて、朝鮮駐屯米軍司令官ハッチ中将に報告書を提出した。内容は前述の『京城日報』の記事のとおりである。
 それは完全に触雷説であった。それは鳥海元艦長の「触雷沈没」の報告に基づいた見解である。
 朝鮮駐屯軍司令部は10月4日、この報告書の内容を発表、事件が引き起こした混乱の収拾を図った。
 この「佐々報告書」がどこかに存在するはずであるが、残念ながら日本国内にはないようである。それ以外に浮島丸沈没に関する公式の報告書なり、文書は存在しないのであろうか。
 浮島丸の元乗組員、木本与市上等兵曹は、戦後、鳥海艦長にあった時、鳥海艦長から、
「第二復員局から沈没時のくわしい事情聴取を受け、報告書を作成した。その報告書が書きあがった時、それに署名捺印してもいいと復員局の係員に申し述べたが、それにはおよばないとその係員が言ったとおっしゃっていました」
 と語っている。日本政府は鳥海艦長から、くわしく事情聴取していたのである。それがいつの時点であるか日時は判明していない。情況から判断して、1945年10月に日本政府と朝連の交渉が開始された時か1954年、浮島丸の引き揚げをめぐって、朝鮮人団体と舞鶴地方復員残務処理部が激しく対立し、浮島丸の沈没原因の追及を受けた時に事情聴取したと考えられる。1954年、浮島丸の主計長中島栄之大尉も資料の提出を求められていた。
 その「報告書」が存在するはずであるが、厚生省は「浮島丸関係の沈没報告書のような資料はありません」の一言で押し通してきている。
 そしてその後、公式、非公式を問わず日本政府の浮島丸沈没原因に関する発表は、朝鮮駐屯米軍司令官ハッチ中将に提出された報告の主旨を一貫して崩していない。

 浮島丸沈没事件に関する資料及び文書は、第二復員局による鳥海金吾艦長からの「事情聴取書」以外にも、浮島丸爆沈後の事後処理と関連して公表された公的な報告書がいくつか現存している。
 ・・・
 「死亡認定書」「戸籍抹消通知書」は次のようなものである。


   「死亡認定書
                 故海軍軍属 金海亮□外四百九名
  右記ノ者当部所掌施設工事ニ従事シ昭和二十年八月二十二日ニニ〇〇頃大湊発帰鮮ノ目的ヲ以テ浮島丸ニ便乗航海中二十四一七ニ〇(注・二十四日十七時ニ十分)頃舞鶴港内ニ於テ触雷沈没シ同人ハ退去ノ遑ナク船ト共ニ運命ヲ共ニセルガ如ク爾後極力捜索スルモ発見ニ到ラズ死亡セルモノト認ム
  昭和二十年九月一日
      大湊海軍施設部長」

 ここではっきりと、”触雷沈没”と記されている。さらにこの「死亡認定書」に基づき、強制連行朝鮮人の出身地の郡守あてに戸籍抹消のための通知が、大湊海軍施設部長名で出されている。

  「昭和二十年十一月二十四日
         大湊海軍施設部長
   郡守殿
     軍属死亡ノ件通報
   貴管内出身者別紙ノ者施設工事ニ従事シ今次大東亜戦争終結と共ニ帰鮮ノ為浮島丸ニ便乗帰航中昭和二十年八月二十二十四日舞鶴港内ニ於テ触雷沈没シ別紙死亡認定書ノ通死亡致候条此段通知スルと共ニ遺族ニ対シ深甚ナル弔意ヲ表シ候、就而別紙死亡認定書ニ依り関係面長ヲ通ジ遺族ニ対シ伝達スルト共ニ戸籍抹消方可然御配慮相成度
 追而関係給与ハ財邦朝鮮人連盟宛一括送金該連盟ヨリ遺族ニ対シ交付スル様手配済に付御了承相成度
    別紙 死亡認定書
       死亡者名簿       添」

 ここでも”触雷”とはっきり記されている。
 この「通報」では死亡者を「軍属」としているが、大湊海軍基地の施設工事に連行された朝鮮人は他の場合と全く同様の条件で連行されているのであるから、一部の人々を除き朝鮮人労務者の身分は「徴用工」であったと思われる。それにもかかわらず、なぜ大湊海軍施設部は彼らをすべて「軍属」の身分に”引き上げ”たのであろうか?
 さらに、彼らの「給与」云々ということはどのようなことなのだろうか?
 これらの「死亡認定書」等いに記されているものを見るかぎり、”触雷”の主張は一貫している。
 しかし、朝鮮人の間にはその後も「自爆説」が根強く主張されている。その朝鮮人側の主張に対して、厚生省引揚援護局業務第二課長であった中島親孝氏が1954年12月号の雑誌『親和』(日韓親和会発行)で「浮島丸問題について」という文を発表している。非公式で私的な文章であるが、これがほぼ日本政府の見解と見ていいだろう。
 ・・・

 「終戦直後、帰国朝鮮人の輸送に当たっていた浮島丸が、舞鶴港で沈没した事件については、種々の誤解があり、中には浮島丸を日本海軍が故意に沈めたという流説を信ずるものさえある模様であるから、この間の実情を説明し御参考に供することと致したい。

一、浮島丸が舞鶴港で沈没するに至った経緯
終戦直後、大湊附近にいた海軍施設局の朝鮮人工員多数は、連合軍の進駐を恐れたためか海路帰鮮の要望を訴えて、不穏の兆を示した。当時、日本海軍としては、既に解雇手続を完了した元工員に対して、これを輸送せねばならないという義務はなかったけれども、事態の平穏な解決を欲したので、特設運送艦浮島丸(4730屯)に便乗せしめて朝鮮に輸送することとし、朝鮮人元工員2838名、同民間人897名を収容して、昭和二十年八月二十一日朝、大湊を出港した。 
 然るに、マニラにおいて日本代表に手交された連合軍要求書第三により、日本の全船舶は八月二十四日以後航行を禁止せられ、航行中の船舶は、最寄りの港に入泊すべき旨指令されたので、浮島丸は舞鶴港に入港した。
 突然の入港で、充分の連絡を取り得なかったため、連合軍の敷設した機雷に触れ、二十四日午後五時十五分頃、舞鶴湾内蛇島北方において沈没するに至った」

 中島氏の文章には簡単な事実誤認がいくつかある。「大湊附近にいた海軍施設局」とあるのは「局」ではなく「部」の誤りである。さらに浮島丸の出港を「昭和二十年八月二十一日朝、大湊を出港した」とあるのは、前述した「死亡認定書」でもわかるとおり「昭和二十年八月二十二日ニニ〇〇頃大湊発帰鮮」の間違いである。
 そのような簡単な事実関係の誤認はさておくとして、中島氏のこの主張は果たして、浮島丸の労務者送還の理由、さらに浮島丸舞鶴寄港理由、そして沈没の状況など、すべて正確に伝えられているものなのだろうか。真実、この文章の内容が正確であるのかどうか知りたいと思った。
 ・・・

 「事故の顛末──不詳」
 ・・・
 入手した「浮島丸海難報告書」は、他の多くの”触雷沈没”した船舶が海難報告書として、触雷当時の状況を克明に報告しているのと違い、詳細な報告もなく、簡単な一ページのものであった。
 そこには『浮島丸海務部代作報告書』とあり、当事者や関係者が作成した報告書ではなく、船舶会社の海務部で事務処理のために作成した、きわめて不完全な「報告書」であることを示していた。
 『浮島丸海務部代作報告書』は、次のようなものである。

 資料・船舶・事故報告
 戦争による遭難船舶
事故・海難報告書(一)  なし
                             大阪商船株式会社
   浮島丸海務部代作報告書
1 総噸数及機関     4730.45屯
2 事故の種別及程度   触雷沈没
3 航行区間       
4 発生年月日      昭和20年8月
5 位 置        舞鶴
6 航行区分(船団又は単独)
7 護衛の有無
8 当時の本船任務又は命令(積荷屯数 輸送員数)
  陸軍使用船
  海軍使用船      裸傭船
  運営使用船
  其の他 
9 搭載人馬物件損害有無  戦死者無し
10 報告書届出先
11 事故の顛末      不詳
   
 これには沈没月日も八月とあるだけで日付すら正確に記入されていない。
 8の「当時の本船任務又は命令」では、「海軍使用船 裸傭船」とある。”裸傭船”とはどういうことなのか、大湊──釜山間の朝鮮人労務者輸送船という任務は、なぜ記入されていないのだろうか?
 9「搭載人馬物件損害有無」も「戦死者無し」となっている。「549名死亡」という日本政府の発表の人員は当時も確認されていたはずであるのに、「戦死者無し」とはどういう意味なのか。
 そして、11で事故の顛末は「不詳」とあるように、浮島丸沈没に至る詳細は何も報告されていないのである。
 これでは何もわからない。
 ・・・

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朝鮮人徴用工と浮島丸事件 NO1

2019年09月09日 | 国際・政治

 戦時中に朝鮮人が徴用工として日本側に強制労働させられた問題に関して、韓国の最高裁(韓国大法院)が、新日鉄住金の上告を退けました。その判決を受けて河野外務大臣が、「常識で考えられない判決」と発言したことや、安倍首相が「今回の判決は国際法に照らしてありえない判断だ。日本政府としてき然と対応していく」と発言したことには、すでに触れました。その後、日韓関係が一気に悪化したのです。

 
 この問題に関する、安倍政権の、”1965年の日韓請求権協定で解決済み”という主張は、わかりやすく、日本では広く支持されているように思います。でも、問題はそれほど単純ではないと思います。

 韓国大法院の判決を「国際法に照らしてありえない判断」であると批判することはよいとしても、その不満を韓国の文政権にぶつけることは、三権分立下における司法の役割を否定することになり許されないことだと思います。韓国大法院の判決で、日本が韓国の文政権に政治的圧力や経済的圧力をかけたことは、文政権に韓国大法院の判決を覆せと言ったのと同じことであり、大きな間違いではないかと思います。韓国大法院の判決が、たとえ不当判決であるとしても、法治国家であれば従わざるを得ないのであり、国際法に反し受け入れられないというのであれば、どこまでも法的に争う方法を考えるべきで、それを不当判決だから覆せというような姿勢で、政治的争いにしてはならなかったと思います。ましてや充分な話し合いもなく、経済問題にまで広げてしまった責任は重いと思います。

 さらに言えば、元徴用工などの個人の損害賠償請求権を国家間の協定によって消滅させることができないことは、これまで日本政府や日本の最高裁判所も、認めてきたのであり、安倍政権が、それを何の説明もなく否定するのは、おかしいと思います。
 1991年8月、海部俊樹内閣時における参議院予算委員会において、外務省の柳井俊二条約局長は「いわゆる日韓請求権協定におきまして両国間の請求権の問題は最終かつ完全に解決したわけでございます。その意味するところでございますが(中略)日韓両国が国家として持っております外交保護権を相互に放棄したということでございます。したがいまして、いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではございません」と答弁したといいます。この答弁は、個人の損害賠償請求権は、国家間の協定によって消滅させられるものでないことを認めるものだったのではないでしょうか。したがって、外交保護権の放棄を個人の損害賠償請求権の放棄としてしまう安倍政権の国際法の解釈は、法的に間違っているのではないかと思います。韓国大法院の判決にたいして、きちんと法的な対応をせず、勝手に解釈を変えて、何もかも”1965年の日韓請求権協定で解決済み”とするような安倍政権主導の政治的な姿勢では、問題は解決しないと思います。法の問題を政治の問題や経済の問題に広げて、すべて政治家が決着をつけるというような安倍政権の政治は、法を軽視するものではないかと思います。

 前稿で、三菱重工業朝鮮人徴用工遺族会が三菱重工業に対する決議文を発表し訴えたのが、1974年4月22日であることには、すでに触れました。この訴えは、どう考えても”解決済み”で通る話ではないと思います。

 さらに、大勢の朝鮮人徴用工や朝鮮人家族を乗せた浮島丸沈没についての日韓の受け止め方の違いなども、徴用工問題を考えるときには忘れてはならないと思います。深刻化する日韓の対立を乗り越えるためには、過去の歴史を理解することが不可欠だと思うのです。

 断定はできませんが、多くの証言や状況証拠を考慮すると、浮島丸は日本側が発表した”触雷沈没”ではなく、意図的に沈められた可能性が大きいと思います。事故を伝えた『釜山日報』の記事には誇張や、捏造も含まれているように思いますが、だからこそ、誠意をもって事実を明らかにし、対応するべきだと思います。
 浮島丸が”触雷沈没”だという日本側の主張には、数々の疑問があるのですが、下記の文章からは、なぜ日本の全国紙や地元の地方紙が、この事実を全く報道しなかったのか、という疑問が確認できます。浮島丸沈没の時、549名が死亡し、舞鶴湾近隣の人たちが、多くの死体が海岸に打ち上げられたのを目撃しているのに報道がなかったのは、何故なのか、意図的に沈められた可能性につながる疑問の一つです。
下記は、「浮島丸釜山港へ向かわず」金賛汀(かもがわ出版)から抜粋しました。
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                       ニ 沈黙=新聞は報道せず

黙殺された”トップ記事”
 政府の公式記録でも乗員、乗客合わせて549名もの犠牲者を出したとされる浮島丸の沈没事件は、日本の敗戦の日から九日後に起きた事件である。
 とすれば、新聞社に対する軍や警察の干渉、報道制限処置も薄れていた時期である。新聞はこの沈没事件について何らかの報道をしていることであろうと朝日新聞、毎日新聞の東京、大阪両本社版の 
1945年8月25日付の記事を探したが、その記事は見当たらない。
 ニュースの伝達が遅れたのかと26日、27日、28日とページをめくり捜したが、該当する記事はなかった。敗戦直後のニュースとしては、浮島丸の沈没も数百名の死亡者もニュースとしての価値がないのかとも考えたが、他と記事と比較して調べてみるとそうでもないらしい。
 例えば朝日新聞(東京本社版)25日付報道には、「24日、八高線の衝突、180名死傷」の記事がある。180名死傷は十分にニュースに値しているのである。さらに26日付報道には「死の測候所から奇蹟の吉報」という見出しで、沖大東島に派遣されていた十数名の測候所員が無事に帰還したことを報じている。
 これらの記事に比して、「549名死亡」という記事が当時の状況下でもニュースとして決して小さいものでないことは 自明である。にもかかわらず、朝日新聞にも毎日新聞にも浮島丸の記事は一行もない。
 全国紙なので、舞鶴の事件まではフォローできなかったのかもと考え、地元紙京都新聞を調べてみた。25日以降、一ヶ月間の紙面を調べたが、浮島丸の記事は一行も掲載されていなかった。復員に関する記事や、米軍の上陸、占領に供え(備え?)ての心構えを説く記事は多く掲載されているが、浮島丸の事件はその後一行も書かれない。
 舞鶴では市民の噂になり、人々の口にのぼった浮島丸の爆沈が何故、日本では一行の記事にもならなかったのか。
 浮島丸沈没の時、多くの乗客、乗組員が死亡し、死体が数え切れないほど海岸に打ち上げられたにもかかわらず、日本の新聞に記事が書かれなかったのは、まだ軍の報道管制が強く、記事として掲載できなかったためだろうか。
 多くの朝鮮人が死亡したということを軍は隠したかったのではないか? そのため報道機関にこの沈没事件は伝わることがなかったのではなかろうか。
 ただ、報道機関に対して、軍による沈没事件の情報提供がなかったにしろ、舞鶴では噂になったこの事件を、現地の支局または通信員は、全然送稿しなかったのであろうか。
 日本の新聞には掲載されなかったが、ひょっとすれば当時の朝鮮の新聞に掲載されたかもしれないと考え、国会図書館と東大新聞研究所で朝鮮の新聞を探したが、1945年8月当時の新聞は保管されていない。
 朝鮮語が朝鮮総督府の命により学校教育で禁止された1938年以後、朝鮮の民族紙であった『朝鮮日報』と『東亜日報』に対する弾圧が強まり、両紙とも1940年に発刊禁止、強制廃刊となっている。全国紙としては日本語版の『京城日報』がその後も発刊されていたが、国会図書館にはそれも1944年以降は入っていない。
 新聞事情に詳しい友人に、戦後も『京城日報』などは発刊されていたのか聞くと、日本語新聞ではあるが戦後の一時期まで発刊されていたという。さらに戦後、早い時期に地方紙も発刊されたから、浮島丸事件なら中央紙より釜山で発行されている『釜山日報』などに当たった方がいいだろうということだった。
 ソウルまで出かけて行って調査をしたいと思ったが、幸い旧友のK氏が新聞社のソウル特派員として駐在していることもあり、K氏に依頼してみようと、長い手紙を書いて投函した。
 二週間後『京城日報』などの浮島丸関連記事が送られてきた。その掲載紙のコピーに目を通しながら予想が敵中したことを知った。やはり朝鮮では、あの日本敗戦の大混乱の時期でも、大事件として紙面のトップ記事になっていた。
 日本で発生した朝鮮人関係事件で、両国の報道姿勢がこれほど見事な対照をなす事例がかつてあっただろうかと考えてみた。
 そして、関東大震災の朝鮮人虐殺事件の折も同様の現象があったなあ──と、当時の新聞記事の記録の調査をした時のことを思い出した。しかし、この場合はその後、日本の新聞にも虐殺の事実が小さな記事ではあるが、少しずつ報道されており、すべて黙殺ということはなかった。
 これに比べ浮島丸事件は、事件発生当時には、ほとんど全く紙面に現れることはなかった。

 朝鮮の熱気を伝える『釜山日報』
 浮島丸事件を朝鮮で最初に報じたのは、釜山市にある『釜山日報』である。
『釜山日報』は9月18日付の紙面(タブロイド判一枚の新聞)の二面の約半分を使って浮島丸事件を報道していた。

 「陰謀か? 過失か?
 帰国同胞船爆発
 日本人は事前に下船上陸
 過去三十数年前、指導者という美名のもとに朝鮮人同胞の血と財産を搾取してきた日本人たちが歴史的運命の制裁をうけ、その仮面をはぎとられた今日、悪魔的な毒牙をむきだし朝鮮建国を妨害しようという謀略を朝鮮で、そして日本で密かに行っている今日、まさに悲惨にして非人間的な彼らの陰謀と思える事実を16日、九死に一生を得て釜山に上陸した一帰国同胞〔全南硯天邑(チョンナンソクチョンパ)出身張鐘植(チャンジョンシク)氏〕が涙と憤りで伝えてきた。
 張氏の言葉によれば、それは次のような内容である。
 日本の北海道と青森県方面に徴用され、強制的に就労させられていた朝鮮同胞たちとその家族約8000名は、民族解放祖国建設という喜びと歴史的な希望に満ち、感激に心はずませ、その地方で斡旋してくれた客船、浮島丸(7500トン)の乗客になり、考えもしなかった親切心に感謝し、すぐるニ三日大湊港を一路故郷に向け出帆した。その浮島丸は8000の同胞のほか、監督ないしは指導の名目で約250名の日本軍人も同乗していた。そして同胞たちは船底に詰め込まれ、デッキには上れなかった。
 航路は遠く、波は高かった。しかし同胞たちは祖国建設の夢を夢み、少々の虐待と疲労を抑え望郷の歌を歌っていた。ところが、釜山に、故郷に、一日も早く祖国の土を踏みしめたいと願う同胞たちの夢を満載した浮島丸は、どうしたことか、24日午後3時30分、舞鶴港に入港した。同胞たちは少し意外に思ったが、しかたがない事情でしばらく碇泊するのだろうと考えていた。
 しばらくして、同乗していた日本人は伝馬船で上陸を開始した。渇きと餓えでぐったりとなっていた同胞も食糧などの買い入れのため上陸を要請したが、拒絶された。
 日本軍人を乗せた伝馬船が母船を離れ、同胞たちのみが船底に残された時、ああ──何という悲惨で苛酷な事態であろうか……浮島丸は轟然とした大音響と共に機関室方面で爆発、同胞たちは阿鼻叫喚の惨状にたたき込まれた。そして、3200名の同胞は助けられたが、乗客の大部分である5000名の同胞が尊い生命を失った。
 これを不可抗力的な事故の結果とだけ見ていいのか? とするならば、浮島丸は何のために舞鶴港に入港したのか、なぜ朝鮮人の指導監督の名目で乗っていた日本人だけが全員、伝馬船で母船を離れたのか、なぜ離れた後母船が爆発したのか? 九死に一生を得た同胞たちが直感したのは陰謀である。これは陰謀であるのか、或いは過失なのか? 或いは浮遊機雷による事故なのか? 疑問は疑問を呼び、その原因を確言することはできない。
 現在、朝鮮人建国準備過程にある責任的組織としては、速やかにその原因を探し出し、善処することが急請される」(著者訳による)

 以上のように報道されている。これらの記事は朝鮮語で書かれており、日本の敗戦後、わずか一ヶ月で『釜山日報』は日本文から朝鮮文に活字を変えていることがわかる。その活字は朝鮮文が日本政府によって禁止された時、密かに隠されていたものが日の目を見たものであろう。
 新聞記事の文章から、当時の朝鮮の日本の植民地から解放された直後の興奮、建国と独立への熱気のようなものが窺われる。

 デマに片づけられた虐殺説
 朝鮮の地では、浮島丸沈没事件はまたたく間に人びとの間に噂となって流布された。それは単なる船の沈没事件として話されたのではなく、日本の舞鶴の地で、また朝鮮人が虐殺された、という風説となって朝鮮全土を走ったのである。
 この噂に帰国を待つ多くの在朝鮮日本人がおびえた。今度は激高した朝鮮人が、引き揚げを待っている在朝日本人に対して報復行動に走らないともかぎらないという懸念が、日本人の不安をかきたてていた。
 しかし、情報が入手できない状況のもとで、朝鮮に残っていた旧海軍残務処理担当者たちの焦燥感と不安感も強まっていた。
 そんな時、京城に帰ってきた浮島丸乗組員の日本人が「触雷説」を語った。その話に『京城日報』が飛びついた。戦時中、朝鮮総督府の広報紙的な役割を果たしてきた『京城日報』としては「触雷説」は、在朝鮮日本人の不安を抑える意味からも、そして朝鮮人の怒りを鎮める意味からも、大々的に報道する必要があったのだろう。
 『京城日報は』9月26日と10月5日の両日、事件を大きく報道しているが、9月26日は某氏の談話として、10月5日は米軍軍政当局の発表として伝えている。
「某氏の談話」より「米軍軍政当局の発表」の方が公的性格を持っているので、その記事に依拠して以下紹介したい。
 『京城日報』の1945年10月5日付報道は、二面のトップ記事でこれを扱っている。(注・当時の新聞は一面とニ面だけ)

 「犠牲者は260名
  救難に万全の策
  浮島丸事件 真相を発表

 浮島丸の沈没事件をめぐって、巷間種々の風説が流布されていたが、真相は既報の如く、同船の舞鶴入港途中に於ける触雷沈没であることを、4日軍政当局は次の如く発表射して事実を明らかにした。

 米軍司令部の得た情報によれば、浮島丸は去る9月24日、駆逐艦の先導により舞鶴に入港の途中、機雷に触れ260名の朝鮮人と共に沈没した。 
 この情報は当時、朝鮮人の引率者として現場を目撃した海軍施設協会長笹慶氏より日本軍連絡主任将校菅井敏麿少将に報告され、同少将は更にこれを巷間に流布されている一般の誤解を解くため朝鮮駐屯米軍司令官ハッチ中将の許へ伝達した。
 笹氏の報告によれば、同船は去る9月22日釜山港に向け出港したが、同23日に指令を受けるため、最寄りの港に向へとの信号を受け舞鶴に向った。陸地が望見される位置に達した頃、同船は機雷に触れ一大音響と共に沈没をし始めたが、幸いにも舞鶴要港部が間近にあったため、多数の救助艇が直ちに出動、遭難者を海兵団営舎に収容して食糧・寝具等を給与し、負傷者は海軍病院に運び治療を施したもので、笹氏の言によれば不幸なる犠牲者中には260名の朝鮮人労務者、25名の海軍軍属(海軍軍人であろう)、及若干名の労務者雇用主が含まれていた。
 司令官の命により遭難者は二日後、舞鶴地区に移され、保護を受けたのち、帰国証明書及び途中に要する旅費を支給され、負傷者、犠牲者には慰藉金が支払われ死没者に対しては慰霊祭が行われた。

 以上が浮島丸沈没事件の真相であるが、現在巷間に流布されている虚偽の風説とは甚だしく相違していると笹氏は断言した」

 この「米軍政当局」の発表以前に、前述したように『京城日報』も同趣旨の内容であるが、さらにいくつかの「事実」をもあわせ掲載している。海軍施設協の大湊支部長某氏の談話となっているが、この某氏とは佐々(笹)氏のことと思われる。
 9月26日付『京城日報』の記事は、「米軍政当局」に事故報告書として提出され新聞に発表されたものとは違う点も少ないない。しかし、不幸な触雷沈没であることを強調する点では変わらない。「少々違う」点は、軍政当局に提出、発表されたものは「自己弁護」と「行動・処置の正当化」が強められていることだ。
  9月26日付の記事は、
   「機雷に接触沈没
    浮島丸自爆はデマ」
 の見出しで書かれ、前記の記事と違っているのは、佐々氏が「自分は家族が京城にいるので全部の輸送指揮者を依頼され同船に乗込んだ」ということ。また「ここで一言つけ加えておかなければならないことは、浮島丸はもともと海軍輸送艦で、艦長以下乗組員のことごとく士官或は兵卒であったが、一日も早く労務者を故国に帰してやりたいという警備司令官の深い思いやりから前述の朝鮮人労務者を乗せて22日深夜抜錨して釜山へ向かったのだった」と、大湊警備司令官の深い思いやりを強調している点である。
 舞鶴に入った理由については米軍政当局に提出したものとは違って、「22日の夕刻になり、突然百トン以上の船舶は24日の18時までに最寄りの港に入って待機せよとの軍の命令を受け取り」となっており、「駆逐艦の先導を受けて入港」のくだりも「……折よく駆逐艦が通りあわせたので同艦の後に従って舞鶴港へ徐行」となっている。
 米軍政当局の発表として佐々氏の報告書が発表されたが、『京城日報』以外はその発表を全面的に信頼し掲載することはしなかったようである。


 

 

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三菱重工業朝鮮人徴用工遺族会決議文

2019年09月05日 | 国際・政治

 9月3日の朝日新聞朝刊は、再び国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」に関する河村名古屋市長の市幹部会議での発言を報じています。負担金不払いを示唆するものだといいます。また、同じ紙面で、韓国大使館に銃弾入り封書が届けられたことや、週刊ポストの嫌韓特集の記事に関する記事も出ていました。日本の表現の自由が、危機的状況に陥っているのを感じます。

 表現の自由に関して、マスメディアが毅然とした態度を示さず、日韓関係が悪化している流れを煽っているようにさえ感じます。
 また、韓国大統領の側近、チョ・グク氏のかかえる不正疑惑については、お昼のワイドショウーなどで、くり返し事細かに報道しているにもかかわらず、日本の厚生労働政務官上野宏史衆院議員の外国人在留資格を巡る口利き疑惑に関する問題や、政府が導入を決めた陸上配備型迎撃ミサイルシステムイージス・アショア配備計画の問題、辺野古埋め立てのその後の状況など、日本の重要問題に関する報道があまりないことも気になります。だから、日本のマスメディアは、日本人の目を外に向け、安倍政権と一体となって、韓国の政権交代を意図しているのではないか、とさえ思います。

 韓国を訪問していた日韓議連の河村幹事長が、韓国首相らと会談した際、GSOMIA(軍事情報包括保護協定)の破棄と日本側による輸出管理の優遇除外措置をセットで元に戻すことを提案されたことを明らかにしましたが、安倍首相は、報告を受けて「徴用工問題の解決が最優先だ」と指摘し、「(日韓請求権協定は)国と国との国際約束だからしっかり守ってもらいたい。その一言に尽きる」と述べたことが報道されました。私は、やはり報復だったのだな、と思いました。

 下記は、三菱重工業朝鮮人徴用工遺族会の、三菱重工業に対する決議文です。安倍首相が” 国と国との国際約束だからしっかり守ってもらいたい”というのは、日本国と大韓民国との間の日韓基本条約と同時に締結された付随協約のひとつである”日韓請求権並びに経済協力協定”ですが、日韓基本条約が締結されたのは、1965年です。
 でも、徴用解除になり、1945年9月15日に広島を出発したにもかかわらず、待てど暮らせど帰って来ない若者の家族が、船名不詳の小型木造船の沈没を知って遺族会を結成し、三菱重工業株式会社に対する決議文を発したのは1974年です。「海に消えた被爆徴用工 鎮魂の海峡」(明石書店)の著者深川宗俊氏によると、1945年9月15日広島を出発した徴用工の一団が、帰り着かないので調べてほしいという問い合わせに、三菱は家族への連絡をとらなかったといいます。あちこち旅をくり返し、なぜ帰り着かなかったのかをあれこれ調べあげて、小型木造船の沈没という結論にいたったのは、三菱を解雇された元徴用工の指導員、深川宗俊氏です。
 決議文を読むと、三菱重工業も日本政府も、韓国政府も、被爆徴用工に何も対応していないことがわかります。また、日韓基本条約締結時、徴用工が、すでに死没していたことは知られていなかったのです。また、三菱重工業株式会社が雇用した徴用工の問題を、国と国の約束で解決するというのも、少し変な話だと思います。だから、日韓請求権協定で解決済みというのは、あまりに強引で、無理があるのではないかと思います。

 下記は、三菱重工業株式会社広島造船所所長に対する決議文と、韓国の関係機関に対する呼訴文、および日本の内閣総理大臣に対する決議文で、ほぼ同じ内容です。
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                  決議文
 世界第二次大戦当時、貴社は私たちの父兄を強制徴用し就労酷使しているうち忘れることのできない1945年8月6日の原爆被爆を受け、同年8月15日祖国解放により帰国するものと指おりかぞえて待っていたものの、故盧聖玉氏外240名に貴社としては被爆の治療は勿論、安全に帰国させる責任があるにもかかわらず、船名不詳の小型木造船により出港させたばかりに風浪沈没死亡させた事実と、また貴社は、此事実を知りながら30年間遺骸の送還手続きはもとより、現在までそのまま放置した。天人共怒する罪状を糾弾するとともに、貴社が国際人道主義的な赤十字精神に立脚し、即刻左記事項を受諾し、ばらばらになっている孤魂の慰霊と遺族のいかりにみちた恨みの対策を講究せよ。本会は本目的の貫徹するまで寸歩ともゆずらないであろうし、世界舞台にま輿論を喚起、闘争することを決議する。
         記
一、遺骸をさがし故国に送還安置すること。
ニ、当時の未払労賃と補償金の請求。(含む国民貯金)
三、遺族の生計実態と援護対策。
   1974年4月22日
   ソウル特別市中区仁峴洞二街七三ー一
   韓国原爆被害者援護協会内
   日本広島三菱重工業韓国人被爆者沈没遺族会
三菱重工業株式会社広島造船所所長  貴下
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                   呼訴文
 祖国の近代化事業に総進軍している此の際、ここに哀切するアピールの一端を寛大に通察されることをのぞみます。
 就而(ツイテ)は本会は世界第二次大戦当時、私たちの父兄が日本国内に強制徴用された広島三菱重工業株式会社において就労酷使されているうち、1945年8月6日世界が驚嘆した原爆の被爆を受け、同年8月15日祖国の解放による帰国することばかり指おりかぞえて待っているうち、三菱重工業株式会社は、同年9月17日故盧聖玉氏の引率下に、240名を船名不詳の小型木造船で帰国させることにより風浪沈没させるにいたり、遺族は30年間そのまま放置させている非人間的処事を糾弾するとともに、本会は
一、遺骸をさがし故国に送還安置すること
ニ、当時滞払労賃と補償金の請求
三、遺族の生計実態と援護対策
上述した目的の貫徹の為に結成闘争するものであるから、ばらばらになった孤魂の慰霊と、遺族のかなしみと怒りにみちた恨みを日本国に対し、早急に解決できるように強力に要求してくれるよう呼訴するものであります。
   1974年4月22日
   ソウル特別市中区仁峴洞二街七三ー一
     日本広島三菱重工業韓国人被爆者沈没遺族会
保健社会部長官任  貴下
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                  決議文
 世界第二次大戦当時、貴国は私たちの父兄を強制徴用し広島三菱重工業株式会社において就労しているうち、忘れることのできない1945年8月6日の原爆被害を受け、同年8月15日祖国解放により帰国するものと指おりかぞえ待っていたものの、故盧聖玉氏外240名に貴国および広島三菱重工業株式会社で当然被爆者の応急治療は勿論のこと、安全に帰国帰郷させなければならない責任があるにもかかわらず、船名不詳の小型木造船で帰らしたばかりに風浪沈没死亡させたという事実と、広島三菱重工業株式会社が此事実を知りながら、30年間遺骸の送還手続きどころか現在まで放置させておることは、国際人道主義的な赤十字精神の違反であるばかりでなく、国際社会的な面からも天人共怒する罪状を糾弾するものである。貴国に於ては即刻左記事項を受諾され、はなればなれになっている孤魂の慰霊と遺族の怒りにみちた恨みを、日本政府、広島三菱重工業株式会社は特別緊急対策を講究せられるよう期待する。本会は目的の貫徹されるまで闘争することを決意する。
          記
一、遺骸をさがし故国に送還安置すること
ニ、当時滞払労賃と補償金の請求
三、遺族の生計実態と援護対策
      1974年4月22日
      ソウル特別市中区仁峴洞二街七三ー一
     日本広島三菱重工業韓国人被爆者
                             沈没遺族会
 日本内閣総理大臣  閣下

 

 

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朝鮮人徴用工 問題は解決済みか

2019年09月03日 | 国際・政治


 日韓関係悪化の発端は、2018年10月30日、戦時中に朝鮮人が徴用工として日本側に強制労働させられた問題について、韓国の最高裁(韓国大法院)が、新日鉄住金の上告を退け、訴えを起こしていた韓国人4人に対して、1人当たり1000万円、合計4千万円を支払う判決を下したことがきっかけだったように思います。

 この判決に対して、河野外務大臣は直後に「常識で考えられない判決」であるとして、「日韓関係に影響が生じる可能性」に言及しました。また、安倍総理は「今回の判決は国際法に照らしてありえない判断だ。日本政府としてき然と対応していく」と発言しています。こうした発言から、韓国が大打撃を受けると予想される日本の輸出規制が、判決に対する報復の意味を持つことは容易に察せられることだと思います。

 この徴用工問題も、いわゆる「従軍慰安婦問題」同様、日韓請求権協定に絡む問題です。日韓関係の悪化は、一般国民の望むことではないにもかかわらず、それぞれのメディアの政府寄り報道などに影響されて、しだいに両国一般国民に反韓や反日の感情が広がり深まっているのではないかと気がかりです。

 このような外国との対立で、いつも考えさせられるのは、やはり日本の歴史認識の問題です。日本では、かつて戦争を進めた政治家や官僚、軍人が、戦後政治にも大きな影響力を持ち続けました。それは、軍人恩給の復活や靖国神社の問題に象徴されると思います。軍人恩給については、GHQが「惨憺たる窮境をもたらした最大の責任者たる軍国主義者が…極めて特権的な取扱いを受けるが如き制度は廃止されなければならない」として、廃止させたものです。GHQの指摘は正しいと思います。その軍人恩給を、日本が主権を回復するとすぐに復活させたということは、戦後の日本の政治が、戦前・戦中の考え方を引き継いでいるあらわれだと思います。毎年多くの政治家がA級戦犯を祀った靖国神社に参拝するのも、戦前・戦中の考え方を引き継いでいるあらわれだと思います。
 A級戦犯は、東京裁判における連合国の判決によるものであり、戦争を進めた日本の政治家や官僚、軍人は、その判決の考え方を受け入れてはいなかったのだと思います。それは、戦後の外国との条約締結や戦後補償のあり方にもあらわれているのではないかと思います。
 
 日韓基本条約締結時、多くの戦争被害者に対する公式謝罪や国家補償の話はなかったのではないでしょうか。だから私は、経済協力を柱とする条約や日韓請求権協定で政治家同士が決着を図ったために、多くの問題が残されたままになったのではないかと思います。
 韓国の国民に対するきちんとした謝罪がなく、強制連行された徴用工や日本軍「慰安婦」などの被害者に対する配慮もなされなかったことが、今に続いているのではないかと思うのです。
 それは、当時の日本政府の責任や日本軍の責任を認めると、A級戦犯以外に、当時政府や軍の要職にあった人たち、さらには東京裁判で責任を問われることのなかった天皇にまで戦争責任が及ぶことから、公式謝罪や法的賠償を認めず、一貫して個人的謝罪や見舞金で解決しようという姿勢に徹してきた結果ではないかと思います。

 「海に消えた被爆徴用工 鎮魂の海峡」深川宗俊(明石書店)を読めば、朝鮮人徴用工の問題が、日韓請求権協定によって解決済みであると言えるような簡単な問題ではないことがよくわかります。戦時中、多くの朝鮮人徴用工が日本のあちこちにいたと思いますが、同書によると、三菱重工業広島機械製作所の朝鮮人徴用工は有無を言わせず日本に連行され、家族と引き裂かれ、過酷な労働を強いられ、差別され続けたうえに、被爆し、帰国する船の沈没によって、一人も故国の土を踏むことができなかったといいます。

 そうした過去を振り返ることなく、「常識で考えられない判決」であるとか「き然と対応していく」などと言っていては、関係の改善はのぞめないと思います。だから、「海に消えた被爆徴用工 鎮魂の海峡」深川宗俊(明石書店)から、いくつかの項目を抜粋しました。
 特に、日本の敗戦が伝えられると、日韓併合によって日本人であることを強制された朝鮮人である徴用工たちが、「マンセー、マンセー」と叫び、なかには「勝った勝った」と泣きじゃくるものもあったといいます。徴用工が味わった悔しさ、苦しさ、悲しさについて、いろいろ考えさせられます。
 著者の深川宗俊氏は、三菱重工業広島機械製作所で、朝鮮人徴用工の指導員として入社し、8月6日、徴用工ともに被爆しています。戦後は、徴用を解除され帰国したはずの、指導下にあった徴用工231人とその家族5人を含む246人が、帰り着かぬという問い合わせを受け、その足どりを追って、あちこち旅をくり返し、苦労されています。その著書から、特に徴用工の実態や思いにかかわる部分を抜粋しました。
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                    第一章 「原爆の日」からの旅立ち

                     2 「白紙」一枚の強制連行         

 戦時秘匿名「ヒロ八五〇一工場」
 1944年の五月から十月にわたって、当時開所まもない三菱重工業広島機械製作所(広島市観音新町)および広島造船所(江波町)に、約2800人の朝鮮人徴用工が送りこまれてきた。いずれも二十二歳の年齢徴用で、その出身地域は京畿道を中心に朝鮮南部全域にわたっていた。この年齢徴用は、二十二歳になると自動的に徴用が義務づけられたもので、徴兵と同じような強制力をもっおり、当時、召集令状「赤紙」にたいし、徴用令書は「白紙」と呼ばれ、恐れられていたものである。
 1942年6月、ミッドウェー沖海戦後、日本軍の敗色が濃くなっていく中で、軍部の武器、艦船等の生産督励がきびしくなっていったが、三菱重工新工場(広島機械・広島工業港第五区。広島造船所・同第四区)も、60万坪(198万平方メートル)にのぼる埋立地の完了が待てず、埋立作業と工場建設が並行して行わなければならなかった。44年3月15日、両工場は一部工場の操業開始によってやっと開所にこぎつけたが、広島機械は984名、広島造船は1100名という少ない従業員数だったので、これらの本工に加えて、徴用工、動員学徒、女子挺身隊、強制連行の朝鮮人徴用工の大量受受け入れが準備された。半年後の十月には両工場の従業員は合わせて、1万人を突破していたという記録は、その間の事情を物語る。
 45年4月1日、両工場にたいして、第二回目の行政査察の結果が示され、それまでの海軍艦船本部商船班所管の作業から特攻兵器と航空機の機械生産の作業へ転換せよ、という命令が下された。呉市広の第十一空廠から図面をもらい、ネ二十型ジェット戦闘機(小型肉弾用飛行機)エンジン、特殊潜航艇等の生産をせよという命令である。
 4月に入ってからは、機密保持のために全国の工場が「戦時秘匿名」を使用することになった。「ヒロ八五〇一工場・広島機械」「ヒロ八一〇一工場・広島造船」などがそれで、正門にあった社名表札などすべてが書きかえられた。徴用工等の郵便物も戦時秘匿名で届いていた。
 私が「ヒロ八五〇一工場」に入社したのは45年7月、「総務部訓育課半島応徴士指導員」として、朝鮮人徴用工の宿泊する三菱西寮に勤務した。

 強制連行された人びとの生活
 徴用令書による強制連行によって、1944年、広島機械は、第一次700人、(五月と推定)第二次700人(8月20日)を受け入れ、西寮に収容(一部東寮)。広島造船はほぼ同数を第一次7月、第二次10月、北寮に収容した。
 「不法建築でもなんでもかまわん、三年間もてばよい」(『広島造船二十年史』)というのが、工場建設を急いだ海軍の言い分であった。そのため、工場の西側、海際には埋立て中途で放棄したままの、サンド・パイプが大きな口をあけて横たわっているありさま。砂地に点在する掩蓋織式防空壕、トーチカ等、新工場というよりも、むしろ荒涼たる風景として目に映った。
 朝鮮から強制連行された青年たちは、中隊、小隊、班編成をとり、十畳12人の割りで木造簡易建築(兵舎型二階建)の寮に収容された。日課は、起床、点呼、一日の食券給付、朝食、小隊ごとの工場出勤である。
 寮から工場正門まで、南観音(広島機械の所在地)は10分、江波(広島造船の所在地)は30分かかった。一日の労働を終えて帰寮後は夕食、入浴、自由時間、消灯就寝といったものだが、二十二歳の若ものにとって、襲ってくる空腹感はおさえようがなかった。
 それに徴用工の半数近くが結婚しており、生後間もない子どもや妻や、母との間を引き裂かれて連行されたものも少なくなかった。なるほど部屋も畳もふとんも新品である。本国での生活とくらべれば、あるいは少しは良かったかも知れないが、そのことで彼らの心が、いささかでもいやされることはなかった。それぞれの胸にさまざまの思いを秘めながら、彼らは一年の契約期間の終了を念じつつ、もくもくともっこをかつぎ、材料を運搬した。

 徴用工の不満
 1945年7月下旬、私は赴任して間もないある日、受け持ちである第一中隊の各室班長を二階の一室に集めた。同世代同士で素直に話し合ってみたいと思ったからだ。量の部屋は一年ばかりですっかりあばらやにかわっていた。畳はすりきれたまま、ふとんは綿がごろごろしていてさんざんなありさま、向こうが透けて見えるドンゴロスの作業衣が釘に吊るされている。男くさいというより、汗と垢ですえた異臭であった。みんなパンツひとつといういでたち。私はステテコを股のつけねまでまくりあげてりんご箱に腰をかけた。目に見えて虱がとびまわる。とても一匹ずつとっておさまるという数ではないのだから、足にくいついたところでとりおさえるのだ。
 まず寮生活の身近のところから彼らの不満をたずねた。日本人とくらべて給料が安いこと、給食が少ないことはだれにも共通していた。休日、あるいは夜勤明けで町へ出ると、警官や憲兵につかまり、ふろ焚きや、廊下の拭き掃除などさんざんっぱら使われたあげく、日が暮れてやっと放免というケースも多くあった。
 給食といっても、どんぶり飯、そのうえ大豆等の雑穀がまざっている。米や麦のない日もあった。汁など、食堂におそく行くと、一片の具もなく、のぞきこむ人間の顔がそこに浮いている。これでは力を出せということ自体が無理な話で、ひもじくて眠れぬものは、夜更けてから残飯をあさった。
 広島機械、広島造船とも逃亡者が続出し、その穴うめのために、労務、訓育課等で、随時、人集めに朝鮮に出かけていた。私は西寮事務所で準世帯米穀通帳を預かり、物資の受・配給をしていた。広島機械の朝鮮人徴用工の通帳記載の数字は、当時1200人であったが、徴用工の実数は400人余に減少していた。一年たたぬ間に約三分の一以下になったわけである。


                      3 原爆が落とされた日
 1945年8月6日
 8月6日朝、前夜日曜当直をした私は、いつになく早く目をさました。午前六時の点呼をすませ、午前七時出勤の徴用工たちと食堂で朝食をすませた。食事といっても大豆が半分以上。腹の調子の悪いときは、どんぶり茶碗にお茶をかける。そうすると大豆が底に沈むので、上の方の米をすくってたべられるのだ。それにしても、きびしい生活の知恵であった。
 じりじりと灼けつくような真夏の日射しが、砂地の照りかえしにまぶしい。徴用工の一隊を工場に送り出したあとの、ひっそりとした寮内外を一巡した私は、事務所に入った。少しして、指導員の盧聖玉(ノソンオク)君(二十五歳・日本名=吉川秀雄)が出勤してきた。彼は広島現地の徴用で、日本語も良くできることから中隊長(指導員)に任命されており、福島町から通勤していた。当直日誌を書き終えた私は、ふたことみこと彼と話し、自室のドアをひいた。その瞬間、眼の前にまっ赤な火柱が立ったような光の交錯、つづいて背後から轟然と爆風が襲ってきた。私は無意識のうちにうつぶせになっていた。ガラスの破片、天井板、壁の荒土と土埃の中で、死ぬかも知れない、いや生きられる、という意識が錯綜した。盧聖玉が私の名を叫んだ。
 いずれも一瞬のできごとであった。とにかく外に出た私は盧聖玉を呼んだが、どこにいったのか答えがない。後頭部のガラス傷にマーキュロで手当をした私は、ゲートルをつけ、防災頭巾をかむった。至近弾だとばかり思っていたが、いままで晴れていた空も地上の視界も、夕暮れのように薄暗く、異様な静けさが不気味でもあった。そのうち市内のあちらこちらから火煙が立ちはじめた。爆弾投下は三菱だけではなかった、と思いながら、寮内外をみてまわった。
 中庭に出してあったふとんがくすぶっていたのを靴で踏み消して、表門に戻ってくると、小隊長の金君がまっさおな顔をしてふるえている。右手首の静脈をガラスで切ったらしく、血が噴いていた。一応止血をして、須山指導員に他の負傷者ニ、三人といっしょに三菱構内病院へ連れて行くようにたのんだ。海軍の下士官が何かわからぬことを大きな声で口ばしりながら走っていった。私に何か言ったようでもあった。
 機械工場の正門に行って、工場内の被害状況を聞いたがよくわからないという。そのうち訓育課庶務から人がきて、「いま、市役所と軍隊に連絡して、炊き出しと救援を頼んでいるから大丈夫だ」といってきた。広島全市が、一瞬のうちに潰滅したことを知るすべもなかったが、やがてときがたつにつれて、たれ下がった皮膚をばたつかせながら、都心から三菱方面へ逃げてくる半裸の人びとの群れがつづくに及んで、被害がただごとでないことが、私にもわかってきた。午前十時過ぎであったろうか、大粒の黒い雨が降り、私の白いシャツに斑点をつけて通りすぎた。
「油をまいたぞーッ」だれかが叫んだ。
 その日の夜から、徴用工たちの多くは寮に帰らなかった。広島の町から逃げたもののほかは、構内の防空壕で寝た。私たちと食堂の残留者は、裏の畑に杭を打って蚊帳を吊った。街を焼く火勢は夜になるといっそう激しくなっているように見えた。その夜、市役所に勤めている妹、旭兵器に学徒動員に出ていた妹など、肉親のことが気がかりでよく眠れなかった。ときおり人を焼く臭いが風にのってきた。

                      4 朝鮮解放と「別れ」
 日本の敗戦と朝鮮の解放
 8月15日、何やら重大な放送があるということであったが、あまり関心はなかった。時がたつにつれて天皇の敗戦宣言であることがわかった。ポツダム宣言の受諾による無条件降伏は、カイロ宣言にいう「朝鮮の人民の奴隷状態に留意し軈(ヤガ)て朝鮮を自由かつ独立のものたらしむる──」は、日本の朝鮮統治の終わりを告げ、朝鮮の解放と独立を意味した。
 いちばんよろこんだのは朝鮮人徴用工である。どこでどう聞いたのか、つぎつぎと寮に帰ってきた彼らは、寮の広場に円陣をつくり歌い踊った。数人の徴用工が寮の板塀をはぎとって火をつけた。血の気の多いS指導員が頭ごなしに注意したため、徴用工の一人が火のついた木ぎれでSをなぐった。怒ったS指導員は事務室にあった古い機銃を持ち出さそうとしたが、弾丸があろうはずがない。国際問題になるぞ…という徳光氏の注意でSも引きさがった。徴用工たちの「マンセー、マンセー」の喚声が、寮庭にこだました。夜になって広場の蜂火は、部屋にもちこまれた。空かんや茶碗をたたいていた。「勝った勝った」と泣きじゃくる孟鏞模(日本名=江原)の顔が、私の心をふかく刺した。
 祖国の解放と帰国のよろこびは堰を切って落としたようであった。徴用工の鬱積した感情が、一気にふきあげたのである。
 
 正午のポツダム宣言受諾の放送後開かれた広島県特高主任会議は、
「一、市民の動静につき署員一体となり協力すること。ニ、軍隊、在郷軍人、右翼、左翼、内鮮関係の動向を査察すること。三、朝鮮独立運動の警戒」など八項目の治安対策を決定するとともに、八月十六日の長官会議では、「極秘」として、「一、イ、軍需生産態勢ノ切替…民需、民生ノ安定、民心涵養、隠密裡切替/軍需ヲ民需ニ移ス…経路ヲ不明瞭ナラシメ置クコト」(『広島原爆戦災誌』・竹内喜三郎)などが話し合われた。この竹内メモは広島県の戦後処理、朝鮮人対策の一端を物語っている。
 三菱広島の両工場の学徒約3000人は、敗戦の日をもって学校復帰になった。両工場の朝鮮人徴用工約2800人は、逃亡などで当時約900人に減っていた。在籍数は八月二十五日をもって徴用解除となった後も日を追って減少していった。今後広島には75年間は住めない、という新聞報道は、彼らの離寮をいっそううながすことになった。
 三菱広島の両工場は徴用解除となった徴用工たちを本国に送り届ける責任を果たそうとはしなかった。あたかも自然にいなくなるのを期待しているかのようであった。九月はじめ、近く帰国のための人員輸送が開始されるという情報が入った。厚生省、内務省は広島県にたいして「釜山まではかならず事業主側から引率者がつきそってゆくべきこと」などを三菱に指示していた。

 出発の前夜
 広島の焦土に焼け跡のトタンや焼木を囲っては、バラックが建ち始はじめた。だが原爆症で死んでゆく人びとの絶えない日々、夜になると、陰火のような炎が二すじ、三すじと立ちのぼる。それはヒロシマの死者を焼く火なのだ。
 九月に入って、盧聖玉君の手で、やっと残留者の帰国のめどがついた。広島鉄道管理局から九月十五日広島駅乗車の指定がとれた徴用工たちは、朝鮮のふるさとへ向けて、九月二十日までには帰郷できると手紙にかいた。
 いよいよ広島を出発するという前日の夜、徴用工の幹部たちの別れの会が寮の一室でひらかれた。 日本人で招かれたのは私ひとりであった。南観音町の畑からもぎとってきたウリやナス、それに彼らがどこからか仕入れてきたドブロクのささやかな宴である。
  聞慶鳥峠の斧折れの木は
  せんたく棒で すっからかん
  使えるような男どもは
  徴用徴兵で
  すっからかん
 苦渋にみちた三十六年間の日韓「併合」の歴史。その中で朝鮮の若ものたちが背負わされた代価は、はかりしれないものがあった。どんぶり茶碗をたたきながら、朝鮮人小隊長のひとり金忠煥(日本名=金城)は、あふれてくる涙をじっとこらえているようであった。盧聖玉たちは、口ぐちにこんな日本にいてもだめだから朝鮮へくるようにと私にいってくれた。孟鏞模は「私のところはウナギがたくさんとれる。帰ったら手紙をするからぜひきてください」という。歌いながら、踊りながら、若ものの宴は夜ふけまでつづいた。
 
 朝鮮人徴用工との別れ
 あくる九月十五日の朝、はやばやと荷物をまとめた徴用工たちは寮の広場に集まってきた。荷物といっても身のまわりのものくらいである。いよいよ出発という時になって、本館訓育課の森本氏が南観音派出所の巡査を同行してきた。私物検査をするというのだ。私はこの焼け野原で持って帰ったところでたいした物はないし、せっかく持ちやすいように整理しているのだから、このまま出発させてやってほしいと頼んだが、森本氏らはそういうわけには行かぬという。五列横隊に並ばせて、上官の観閲さながらの検査がはじまった。これには徴用工、とくに小隊長グループが動揺した。このままではおさまらないと激しくつっかかっていった。そして私にも行動をうながすのだ。私は彼らの行動を止めることはしなかった。
 盧聖玉を引率責任者として、西寮からの最後の帰国グループ241人の徴用工の一団は、午前十時過ぎ廃墟の広島の街を徒歩で広島駅に向かった。広島駅で盧聖玉の家族五人が合流し、一行は246人になった。駅まで同行したのは三菱の下請けの仕事をしながら広島興生会(協和会)の幹部をしていた聖玉の実兄盧長寿(ノチャンス)(日本名=吉川武雄)と私だけであった。
 ・・・
 帰り着かぬという問い合わせ
 別れた日から二十日あまりたったころ、朝鮮の徴用工家族から、会社や寮にあてて九月十五日に広島を出発した一団が帰り着かないので、会社で調べてほしいという問い合わせが多く届くようになった。これにたいして三菱は、家族への連絡をとらなかった。
 ・・・

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