多くの人命が失われ、補償や謝罪を求めている被害者及び犠牲者遺族の人命・人権にかかわる浮島丸の問題を、真相究明をすることなく放置していていいのでしょうか。
韓国最大の新聞社である中央日報は、先日、”浮島丸爆破沈没事件の真実究明映画『浮島丸』(キム・ジンホン監督)”が、9月19日に韓国で公開されることを伝えたといいます。そして、浮島丸事件について、下記のように書いているといいます。
”1945年8月22日に青森から朝鮮人を乗せて釜山(プサン)に向かった軍艦「浮島丸」。しかし8月24日、舞鶴港で爆発して沈没した。この事故で船に乗っていた朝鮮人帰郷者524人と日本の乗組員25人が死亡し、さらに多くの人々が行方不明となった。
当時、日本政府は米軍が設置した機雷のため沈没したと主張したが、日本が意図的に撃沈させたという疑惑も提起された。船体はダイナマイトで爆破され、遺体の収拾もまともに行われなかった。
映画『浮島丸』は当時の事件を目撃した生存者の証言が反映された。また、故郷に戻る夢を抱いて船に乗った多くの朝鮮人の写真を入れて当時の状況を生々しく描いた。
映画のナレーションに参加した俳優アン・ジェモは「浮島丸爆沈事件を知ってから、我々の民族の痛恨の歴史について共感するようになった」とし「犠牲者と生存者の方々が見えないところでこのように長い時間、つらい記憶を孤独に乗り越えてきたのかと感じた」と語った。”
浮島丸爆沈事件では、浮島丸の釜山行決定に関して、責任ある立場の人たちが、あり得ないことを語っています。それは、何か重要な事実を隠すためだったのではないかと思います。
大湊海軍警備府参謀長が、海軍の運輸本部に浮島丸の使用許可を求め、八月十九日に許可を得ていることが、”海軍省発信電綴”で確認されました(191117番電、運輸本部総務課長発、大湊警備府参謀長宛「貴機密電181439番電返、浮島丸使用差支ナシ」)。
したがって、大湊海軍警備府の清水参謀が、浮島丸の釜山行について、「船が航行禁止になる前に韓国人を帰してあげたい」という計画であったというのは、下記の、「連合国最高司令官要求事項」や「大海令第五十二号」との関係で、嘘であることが明らかだと思います。あり得ないことです。
なぜなら、「浮島丸釜山港に向かわず」の中に、下記のような記述があるからです。
”8月15日のポツダム宣言の条項受諾後、16日には米国政府が日本政府に対し、マニラに滞在中であった聯合国最高司令官ダグラス・マッカーサーと停戦命令及び連合軍占領要項の打ち合わせのため、日本政府使節団をマニラに送るよう要求。日本政府は要求とおり大本営参謀次長であった河辺虎四郎中将を代表にして、外務、陸軍、海軍省から随員を選び、代表団をマニラに派遣した。
このマニラ派遣代表団に対して、連合軍最高司令部は8月20日「連合国最高司令官要求事項」を手渡した。その「要求事項」は第一号から第四号まであるが、その第三号中に海軍の艦船航行に関する要求がある。
それは「連合国最高司令官及随行部隊進駐ニ関スル要求事項」である。
「要求事項第三号」は(イ)と(ロ)で海軍艦船に対して、次のような要求をしている。
要求事項第三号
第三号
連合国最高司令官及随行部隊進駐ニ関スル要求事項
一、日本帝国政府及大本営ハ千九百四十五年八月二十四日一八〇〇時ヲ期シ左ノ要求事項ヲ実施スベシ
(イ)日本国軍隊及民間航空当局ハ日本国内ニ在ル日本国陸軍、海軍、又ハ民間ノ一切ノ航空機ヲシテ追テ其ノ処分ニ関シ指示アル迄確実ニ之ヲ地上、水上、又ハ艦船上ニアラシムベシ
(ロ)日本国ニ属シ又ハ日本国ノ支配下ニアル一切ノ種類ノ陸海軍及民間ノ艦船ニシテ日本国領海内ニ在ルモノハ聯合国最高司令官ノ追テ命令スル迄之ヲ毀損スルコトナク保存スベク又現ニ進行中ノ航海以外ニ一切移動セザルモノトス航行中ノ船舶ハ直ニ一切ノ種類ノ爆発物ヲ無害ナラシメ之ヲ海中ニ投棄スベシ航行中ニ非ザル艦船ハ直ニ一切ノ種類ノ爆発物ヲ陸上ニ安全ニ格納スベシ
この要求書を携えた日本政府代表団は8月20日マニラを飛び立ち、その夜日本に到着した。
日本政府は直ちに連合軍要求事項の実施にとりかかった。海軍に対する要求は「大海令」として豊田副武軍令部総長より、天皇の命令として各司令部あてに無電で発令された。
それが、
”昭和二十年八月二十一日 奉勅 軍令部総長 豊田副武 大海令第五十二号”であり、その六に、”八月二十四日一八〇〇以後特ニ定ムルモノノ外航行中以外ノ艦船ノ航行ヲ禁止ス”とあるのです。
浮島丸の釜山行は、大海令第五十二号が発せられる前、それも、連合軍最高司令部が、マニラ派遣代表団に「連合国最高司令官要求事項」を手渡す前に、海軍運輸本部の許可を得て命令されているのです。だから、「船が航行禁止になる前に韓国人を帰してあげたい」という計画は、あり得ないわけです。
また、浮島丸に乗せて朝鮮人を帰還させる理由として、”連合軍の進駐を恐れた朝鮮人が故郷に帰りたいと訴えた事に応えたもの”と主張しているのですが、これもあり得ないことは、様々な証言で明らかだと思います。
原告最終準備書面には、下記のようにあります。
”日本の敗戦により、朝鮮人は日本の支配から解放された。朝鮮人は各地で「マンセー(万歳)」と喜び、これまで自分たちを押さえ付けていた日本人にその力がないことを実感した。炭鉱等で劣悪な条件下で労働を強いられていた朝鮮人の中には、これまでの恨みをはらそうとする者もいた。日本の支配から自分たちを解放したのは連合軍である。それなのに、なぜ朝鮮人が連合軍の進駐をおそれるのか、事実の歪曲もはなはだしい。…”
特高文書には戦時中から、朝鮮人が連合軍の勝利をひそかに喜んでいることへの警戒が発せられており、又、ソ連参戦時や日本の敗戦時には、朝鮮人の「不穏策動」に対する「特別取締」がたびたび通達されているといいます。
『引揚援護の記録』には、
「終戦による事情の急変と前途に対する不安は、解放された人々を喜びの絶頂に立たせると同時に、帰国を急がせたのも当然の成行であった。しかしながら、ただ単に帰国を急ぐにとどまらず、立場の変化から全国各地には、不穏な空気がみなぎり、特に北九州と北海道においては、暴動がおきるような状態であった」
とあり、大湊海軍警備府の参謀たちが 朝鮮人の暴動や報復に脅えて、朝鮮人を一日も早く帰国させようと、浮島丸の釜山行を決定した、としか考えられません。
また、浮島丸が最初から舞鶴港に向かったことも、多くの乗組員の証言から明らかだと思います。
報道等の取材に応じた乗組員のほとんどが、”釜山には行かないと了解していた”と述べており、NHKのドキュメンタリー『爆沈』では、朝鮮人を引率した日通の労務係・高橋嘉一郎が、”行く先は舞鶴と聞いていた”と、語っているのです。
浮島丸の乗組員が、皆、強硬に釜山行に抵抗していたのに出港することになったのは、釜山には行かないということが約束されたからだと思います。
でも、4000人近い朝鮮人を大湊から送り出し、大湊にかわって、釜山に帰るつもりの朝鮮人を受け入れるところがあるでしょうか。また、舞鶴で4000人近い朝鮮人を降ろし、いつ帰国できるかわからない状態に置けば、帰国するつもりで大湊を離れ乗船した朝鮮人は、だまっていないのではないでしょうか。
だから、その他の様々の状況証拠と合わせて考えれば、浮島丸の爆沈が意図的なものであることが疑われるのです。
でも、日本政府は、”触雷沈没”一点張りで、様々な矛盾を指摘されても真相究明の調査はしない、謝罪もしない、補償もしない、遺族の求める遺骨の返還にも応じないというのです。法的のみならず、道義的にも許されないのではないでしょうか。
下記は、「報告●浮島丸事件訴訟」(日本国に朝鮮と朝鮮人に対する公式謝罪と賠償を求める裁判をすすめる会編集)から抜粋しました。
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原告冒頭意見陳述書
一 原告 徐鳳求
私は、大韓民国忠清北道報恩郡の人間で、十八歳の時に強制徴用されました。
私が連れて行かれて働かされたのは、大湊の開発軍施設部ですが、当時を思い出すのも苦痛です。私は、侮辱と苦痛と飢えの中で、一年七ヶ月余り、飛行場、滑走路、格納庫、陣地構築等の労役に休む暇なく酷使されました。そして戦争が終り、故郷に帰る途中に、残酷きわまりない浮島丸事件に会いました。
この事件は私の人生を根こそぎ破壊しました。七千余名が乗った船は、当初釜山に向かうと言っていましたが、日本列島の沿岸に沿って航海し、舞鶴港に入ってボートを降ろしました。乗組員数名がこのボートで去った後、突然爆音がとどろきました。
私はこの爆音と同時に意識を失いました。気がついたとき、とても目を開けて見ることのできない残酷な光景が、目の前にありました。私の回りには死体が散らばり、海へ落ちた多くの人々が、先を争って船にはい上がろうとしていました。それはまさに修羅場でした。私は、他の人達がボートに殺到するのを見てそちらへ行こうとしましたが、途中でころび多くの人に踏みつけられました。そこで再び気を失い、気がついたときは海の中でした。
私が生き残ったのは。まさに天の助け、神の助けです。救助されて陸地に引き上げられたとき、私は満身創痍の情態でした。足首を痛め、腕は折れていました。右肩を脱臼し、肘は裂けていました。腰をひどく踏まれて、体を起こすこともできませんでした。
今思い返してみると、あのとき生き残ったほうがよかったのかどうか分かりません。その後今まで、私は肉体労働ができませんでした。故郷で結婚はしましたが、当時の事故の後遺症のせいか子供ができませんでした。
私の青春は、日本のために働き、その日本が私を死へ追いやり、やっとのことで生き残ったものの屈辱的な人生を送ることになりました。
誰が私の人生をつぐなうことができるでしょうか。
この裁判は、日本の良心を問うものであって、私に補償してくれというものではありません。私はもう六十八歳で、どんな補償でも、過ぎ去った私の人生を取り戻すことはできないからです。
日本国が国家的良心を取り戻さないならば、このような悲劇がくりかえされないという保証はありません。日本政府の公式な陳謝と真相究明を求めます。
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二 原告 金東天
四十八年前、日本政府は内鮮一体を唱えながら、私達を青森県三沢に強制連行し、二年半無報酬で暴力的にこき使いました。戦争に負けて、「故郷に送り帰してやるから船に乗れ」というので船に乗ったところ、船は故郷に向かわず別の港に入りました。初めはそこがどこだか分かりませんでしたが、後で聞いて知ったところによると、そこが舞鶴でした。
そのとき乗務員たちは、「秘密会議をするから、甲板のうえの韓国人たちはみな中に入れ。」と言いましたが、私は不審に思って船底には降りて行きませんでした。隠れて見ていると、乗務員たちはウィスキーを瓶ごとあおったのち、甲板のうえにあったボートを降ろしました。そのボートが水につくかつかぬうち、「ドカーン」という音がして爆発が起こりました。
一体どんな理由で、七千五百名もの人間を殺し、いままで真相を明らかにせずにきたのでしょうか。捕虜でも、戦争が終れば故国に帰れるのに、私達は何の罪があって、殺されなければならなかったのでしょうか。
浮島丸事件当時の事を思うだけで鳥肌が立ちます。日本の公式な陳謝を求めます。
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三 原告 金水坤
哀 悼 詩
浮島丸爆沈事件
一九九二年八月二十日 日本にて記す
歳月は流れて四十七年
昔、友と別れたことを思い、涙止どまらず
思い返せば、恨み悲しみは尽きない
去来する雲の下、昔を思う
遺族は声を上げて叫ぶ
若くして水葬されたものの霊を
天地も崩れよ
この声、天帝に届けよ
大湊 一本松、宇會利にて
四十七年振りに
一本松を訪れる
山は青く、流れる水も昔と同じ
村落は様を変えて、昔を思い出せない
宇會利川は昔のまま
谷の水は昔の事を思い出させる
共に宇會利に来た 同郷者
五十四名中、今は八人
一本松、宇會利は私が連行されたところです。共に連行された仲間は、その後さらに二人が亡くなり今日生きているのは六人になりました。
早急な真相究明と、日本の公式陳謝を求めます。
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四 金承烈
日帝治下の強制動員によって、一つの家庭と個人の人生がどんなに破壊されたか、この場をかりて告発します。
私は父の顔を知りません。私が三才の時、無慈悲な日本軍の浮島丸沈没のよって父は亡くなりました。年老いた祖母は、父の戦死の通知を受け取って、精神錯乱を起こしました。毎日父の名を呼びながら町をさまよい歩き、母は、その後を追いかけねばなりませんでした。私は父をなくしたために、学校にも通えず、カバンの代わりにもちの箱を背負い、時には靴みがきや新聞配達をして、祖母と母のめんどうをみなければなりませんでした。雨や雪の降る日は、他人の家の軒先で縮こまって、心の底から何度父の名を呼び、恨みの涙を流したか知れません。
祖母は、十年余りの歳月を、人に「気ちがい」とののしられながら、心安らぐこともなく、恨み多い人生を終えました。当時十五才だった私は、この手で祖母の目を閉じてやりながら、
「おばあちゃん、私がもう少し大きくなったら、日本の天皇を殺して、おばあちゃん、お父さん、家族全員の恨みを晴らします。どうか安らかに目を閉じて、せめてお父さんの霊魂に会ってください。」
と言って、母と抱き合って泣きました。今でも、天皇を殺す機会があったら、五十二年間の苦痛と試練の恨みを晴らすために、私の一身を捧げるでしょう。
戦争中、強制動員されて日本のために戦った人間を、犬や豚、獣ではない人間を、しかも何千人もの命を、戦時でもない終戦後に、あんなにも残酷に奪った殺人鬼。
日本の天皇の命令でなければ、誰が、数千人もの命を奪うことができるでしょうか。
私は補償を望むのではありません。いくらかのお金で、父が亡くなった霊魂を汚すことはできません。
日本政府は、歴史的事実を認め、浮島丸爆発で命を失った韓国人の名簿を偽ることなく明らかにし、慰霊碑をわが韓国の地に建立し、天皇は人間としての良心に立ち返って、ひざまづいて、千べんも万べんも謝罪せねばありません。そうせずにこれ以上隠蔽しようとするならば、日本国は、世界的に非人道的国家であるとの汚名を注ぐことはできないでしょうし、日本国民は、子々孫々にわたって罪の意識にさいなまれることでしょう。
言葉のない獣でも、子供を産めばえさをやり、ふところに抱いていつくしんで育てます。父は、祖母、母、三才の幼い私を残して、どれほど心残りだったことでしょう。
「アボジ!」
訳 岩橋 春美
一九九三年三月二日