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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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南京難民区 国際委員会の書簡文と日本の報道

2015年06月20日 | 国際・政治

 下記資料1と資料2は、いずれも「─実録・南京大虐殺─ 外国人の見た日本軍の暴行」ティンバーリイ原著 訳者不詳(評伝社)に、付録として入っているものである。したがって、著者のティンバーリイ自身が書いたものではない。ティンバーリイ(H.G.Tinperley)は英国の新聞「マンチェスター・ガーディアン」の中国特派員であったが、1938年3月、こうした資料や報告書その他、「確実なる証拠」を「蒐集」して「外国人の見た日本軍の暴行」という一文を書いたという。それを入手した国民政府が3ヶ月後に日本文に翻訳して出版したという。

 著者ティンバーリイはその「」に
”…本書の目標は日本軍はいかに中国の民衆を取り扱ったかという事実を全世界に知らしめ、務めて真相の把握に努力して偏見なしに読者をして戦争の悲惨なる現実を明白に認識せしめ、かつ戦争の虚偽の魔力を剥奪することにある。特に後者は勲功を喜ぶ軍閥の忘れ得ぬ魔力である。
と書いている。

 昭和19年秋、中国視察を命ぜられて南京大使館を訪れた満州国政府外交部の官吏、榛葉英治(シンバ、エイジ1912年10月21日─1999年2月20日)は、その時、この日本語訳の本を見せられ、南京の実情を知った、と本書の解説に書いている。戦後、彼はある雑誌社の求めに応じて、こうした資料やその後の取材を基に、南京の残虐をテーマにした「城壁」という小説を書いたが、その作品は旧軍人の団体から申し入れがあり、掲載が中止されたという。しかしながら、雑誌「文芸」に原稿を持ち込んだところ、単行本として出版されることになり、世に知られることになったのだと書いている。

 また、「教科書問題」等による日中の関係悪化を懸念していた榛葉英治は、秘蔵していたティンバーリイ原著の日本文訳「外国人の見た日本軍の暴行」を、評伝社から出版することに積極的に賛成したということも、本書の解説に書いている。

 下記の資料1で、南京難民区の国際委員会が、連日、日本大使館宛に日本兵の暴行に関して抗議や要請をしていたことをがわかる。にもかかわらず、日本にはその実情は全く知らされず、下記資料2のような、国際委員会の書簡文とはかけ離れた南京の様子が報道されていたのである。ティンバーリイいうところの「戦争の虚偽」という言葉とともに、記憶に残したいと思う。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                              国際委員会の書簡文             

第7号文書(1937年12月18日付国際委員会発日本大使館宛公信)

 拝啓 陳者貴国軍隊は難民区内にて引続き狼藉を働き全く安かならず20万難民は苦痛に呻吟致し居り候 当委員会は貴大使館を通じ貴国軍事当局に対し迅速且有効なる行動を採り不幸なる事態を阻止せられんことを御伝達相成様要請せざるを得ざる次第に候

 暴行の報告は紛々として到来し縷述する暇もなき次第に候 昨夜当委員会委員ペテス博士は金陵大学宿舎に夜を過ごし随時避難し来る婦女約一千名の保護を準備致し居り候処宿舎前及図書館新家屋前には何れも憲兵は駐屯し居らず8時頃フィシェ及スミスの両君がミルス牧師を送りて金陵女子文理学院にて夜を明かし婦女子約4千名を保護致し候 3名は捜索隊に逮捕せられ1時間抑留せられ候 軍官は同校を管理するベードリン女史、陳夫人及び女友人ドウイナン夫人を校内に駆り立て氷付かせ頑強に校内に中国兵あり入って捜索し銃殺すべしと称し最後に軍官は3名の帰還を許したるもミルスは校内に有泊するを許されずその後如何なりたるや知り得ざる次第に候

 16日貴国軍隊が司法部大楼より数百名を虜にし又警察官50名を虜と致し候 この程局勢を若し明澄にせざれば難民区内20万の市民の生命は絶対に保障無之候

 婦女は蹂躙に堪えず紛々として金陵大学所属機関内に入り来たりて保護を求め男子は日々隔離せられ居り候 小桃源語学校の如きは12月は5日迄のところ始め男女難民600名ありたるもその夜多数婦女が強姦され婦女子400名は16日朝金陵女史文理学院に走り男子200名残留致し居り候 この方面はもと難民3万6千名を収容する用意ありたるも現在婦人多数移住し既に5万人を超過致し居り候

 目下の状況より観るに住の問題は漸次重大となりつつあるのみならず食の問題及人夫募集の問題も困難を増し居り候 今朝貴方代表菊地君が当処を訪問し電灯廠工夫の募集方要求し来たれるも当処の職工すら外出し働きたがらざる次第に付御下命には応じ難き旨御伝申候 各収容所の米石炭の供給は何れも当処の西洋人委員及職員が積送の責を負い居り候 当処の食物管理委員会責任者は2日間住宅を一歩も離れ得ず 住宅設計委員会副主任は漢口路に23号の家にて日本兵が2名の婦女を強姦せるを目撃致し候 ソンナ君は米を送付する為南京神社学院中の難民2千5百名より離れざるを得ざりし処昨日白昼日本兵が同学院に闖入し前にて婦女多数を汚辱致し候 当地の外国居留民22名は20万難民を養い得ず又日夜彼等を保護し得ず右は日本当局の責任にて貴方が若し彼等を保護するに於ては当処は貴方と協力し彼等を養うべく候

 更に貴国軍官が記憶に止め置かれ度きことは難民区の捜索に候 彼等は難民区をすべて便衣隊と認め居るも一部の中国兵が武装を解除し13日午後難民区に保護を求め来たれる件に付ては当委員会が屢次貴方に通知せるとこに候 凡ゆる中国兵が既に貴軍捜索隊に粛清せられ且累を数多市民に及ぼしたることによりても目下区内に中国兵なきことを敢えて保証いたし候 当委員会は茲に左記具体的建議を再び提出致し

甲 士兵取締事項
 一、憲兵は日夜難民区を巡邏す。
 二、当委員は曩に各入口に兵を派し駐屯守備せしむる様要求せるが本件は未だ実行され居らず貴軍当局は士兵が難民区に闖入し(特に夜間)濫りに姦淫、慮掠、するを阻止する様可然御取計相成度し。
 三、当委員会所轄の割合大なる収容所(19号附表参照)に兵を派し駐屯守備し士兵が塀を乗り越え入ることを阻止せられたし。
 四、日本文の布告を発し各収容所の門前に貼付し収容所の性質を説明し内部に入りて狼藉するを禁止せられたし。

 捜索事項
 一、貴軍捜索隊は当委員会所轄の各収容所に対し誤解し居るものの如し、貴軍は高級長官を派し当処派遣員と18カ所の収容所に同道せられ真 相を視察せられ度し。
 二、難民区には既に武装を解除する中国兵なく従って便衣隊の襲撃事件も発生し居らざるにも鑑み各収容所私人住宅は既に幾回となく捜索せられ捜索はただ掠奪と姦淫の口実を与え居るを以て貴軍が若し常時憲兵を派し難民区を巡邏せしむれば中国兵はその身を容るる所なかるべし。
 三、2、3日さえ平穏無事なれば米石炭を積送し得べく店舗は開かれ職工は働き重要なる公共事業は活動すべく市民は正常なる生活を恢復すべ    し。

丙 警察事項
 司法部大楼内の警察官50名その他志願警察45名は前後して逮捕せられたる件に関しては昨日当委員会より既に貴方の注意を喚起せる所に候 又最高法院内の警察官40名逮捕せられたること判明致し候 貴国軍官に司法部にてはこの種警察官の唯一の罪状は彼等が同処にて捜索せる後中国兵を引き入れたるを以て銃殺すと称し居るも実は寄る辺なき若干の市民婦女子を同処に送致したるものにして本件は当委員会西洋人委員が完全に責任を負うべく候 昨日当委員会は難民区内の警察官450名を改組し貴方の直接指導を受くべき旨建議致し候 逮捕せられたる警察官90名は従来の地位に復帰するものと深く信じ居り候
 又逮捕せられたる志願警察官45名は貴方が当処乃至目下勤務し居る地点に送還するものと深く信じ居り候
 上述の各項を御承引相成度 尚収容所表一部及び備忘録及一部相添え此段供高覧候        敬具
                                                                       委員長 レーベ  (署名) 
 附属一(1937年12月17日難民区収容所表)・・・ 略 

 附属二(司法部収容所事件の備忘録)・・・略

ーーー
第8号文書(1937年12月19日付国際委員会発日本大使館宛公信)
 拝啓 陳者茲に「日本軍暴行報告」第16件より第70件迄同封御送付申上候 右は当処の知りたる一小部分に過ぎず、スパーリン、クロイゲル、ハズ及びリグスの4名は各々居所を追い出され貴国士兵に護送せられ家を出で一日多くの時間を消費致し候も彼等にはかかる事件を書き付くる暇無之候
 本日の状況は平常通り劣悪にして本日貴国軍官一名が難民区内寗海路附近にて幾多狼藉せる士兵を取り捕えたるも右は決して根本的に問題を解決し得ざるものに候

 レーベ君の家には避難せる婦女子300名あり一歩も離れ得ざるを以て御伺い出来ざる次第に候 貴方は直に18カ所の収容所及び鼓楼医院に兵を派し警備せられんことを希念致し候 かくて苦海中にも少なくともこの19カ所は比較的安全となり3分の1乃至4分の1の難民を庇護し得るものと存じ候

 屡々御心労を煩し候段御寛容の程希上候       敬具
                                                                          秘書 スミス(署名)          
ーーー
第9号文書(1937年12月20日付国際委員会発日本大使館宛公信)
 拝啓 陳御者茲に「日本軍暴行報告」第71件より第96件迄同封御送付申上候 26件の報告中14件は昨日午後夜及び今朝にかけて発生せるものにして状況は未だ改善せられ居らざるを知悉致し候
 昨夜貴国士兵は金陵女子文理学院に入り婦女を強姦せるも(貴領事館警察官一名同所に駐在せり)金陵大学総院にては幸い事故発生せず。
 当委員会は貴方に対し毎夜兵を収容所及び鼓楼医院に派し警備すると共に日中も金陵女子文理学院向い及び金陵大学運動場の粥厰に兵を派遣警備せらるる様茲に重ねて懇請致し候
 当委員会の意見にては貴方が峻厳なる方法を採られ士兵を取締まるものと存ぜられ候も目下の処憲兵
の数は余りに少きを以て局勢に対処するに殊の外難しかるべしと称し居り候     敬具
                                                                         委員長 レーベ(署名)
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー               

                                日本側の報道を見よ

 日本軍隊が南京を占領してから後の状況は日本紙にはほとんど登載されず、あるいは全然何も載せられなかったと言えるかも知れない。日本で出版された英字紙を見ても、日本軍の南京やその他都市におけるいろんな暴行は全然痕跡すら見出されない。日本紙は南京を、平和な静かな地方として粉飾しようと考えていたのである。1938年1月8日付上海新甲報(日本人が主宰する漢字紙)の左記報道を見られよ。


 『南京市の街は依然として静寂である。慈愛の陽光は西北角の難民区に照り輝いている。死から逃れた南京の難民は今では皇軍の慰撫を受けているのだ。彼らは路傍にひざまずき感激の涙を流している。皇軍入城前には、彼らは中国の反日的軍隊の圧迫を受け病気が出ても医薬上の助けはなかった。飢えた人は一粒の米も粟も得られなかったが、もう市民の苦痛はなくなった。

 幸い皇軍が現在入城して慈悲の手を伸ばし恩恵の露を散布している。日本大使館西方にいる難民数千名は以前の面白くもない反日態度を放棄し、生活が保障されたため群衆は楽しみ喜び合っている。男女老若は皇軍をひざまずいて迎え忠誠を現している。難民区では日本兵が難民にパン・ビスケット、煙草等を分け与え、難民は感激に溢れないものはない。日本兵は兵営付近で品物を贈っている。

 同時に衛生隊も医薬と救済工作を開始した。眼の失明しかけている人は天日を見ることが出来、咳のひどく出る子供や両足の腫れ上がった老婆はいずれも料金なしで治療を受けている。難民は皇軍の恩恵を受けてから満面に悦びを浮かべ日本兵を囲んで「万歳」を高唱している。憲兵は一老人が路上で店を開いているのを見て、微笑みをもってこれに報いた。鼓楼から眺めると日本大使館近くには米国国旗が、西北方には英国国旗が、北方にはフランス国旗が、東方には「ソ」連の赤旗が翻翻と掲げられ、後湖の碧水に映えて趣を添えている。この中央には高く日章旗がそびえている。運動場には日本兵が中国の児童と楽しく遊んでいる南京ではただ安らかな生活に愉快な仕事の空気を呼吸することができる。全世界の人々は今後南京の発展に注意すべきである。』

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南京大虐殺」への大疑問? NO4

2015年06月06日 | 国際・政治

 『「南京大虐殺」への大疑問』松村俊夫(展転社)には、第5部第5章の「南京事件の真相」の中にも、見逃せない文章がある。証拠や判断の根拠をきちんと示さないと、悪意に満ちた誹謗中傷と受けとめられても仕方がない文章だと思う。下記である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
”・・・
 一方、難民たちは、それまで思いもかけなかった裕福な人々の住宅が立ち並ぶ安全区に入り、しかも、そのまわりの家々はすべて無人だった。まるで、いくらでも持っていって下さいといわんばかりにあらゆるものが揃っていた。持主がそこにいなければ、何でもいただいてしまうのが当時の支那人の生活感覚だったのである。
 掠奪した後は、その跡を消すために放火が始まる。また、潜入した便衣隊はプロだから、外国人や日本軍につかまるようなヘマをすることもなく、撹乱のために放火して回った。さらに、乱暴にも、日本兵と見せかけて本当に難民を殺したり、女を追いかけ回して強姦に及ぶことも少なくなかった。女たちはそれを承知の上で、日本兵に暴行されたと報告した。単に噂だけを流したものもいた。
 彼らとっては有難いことに、外国人たちには、殺人、略奪、強姦、放火は、すべて日本軍がやったと訴えさえすれば、疑われることなく事実として認めてくれた。難民たちは、誰に負わされた怪我であっても、それらしい話さえ作れば、日本軍にやられたことになって無料で入院・治療ができた。1938年1月半ば以降の『南京安全区檔案』に見えている通牒者はほとんど支那人だったが、そのまま記録されている。
 キリスト教関係者にとっては、難民がはいることによって、荒れた建物や設備、施設などの修理費を本部からもらうためにも、すべては日本軍によって破壊されたとする必要があったし、それゆえに敢えて噂話に乗っていった。最初に表記した外国人のうち、日本軍の暴行を伝えていたのは、キリスト教徒のうちの一握りの人々であった。声の大きな数人の外国人グループがすべてを牛耳っていたのである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 指摘したいのは、次のようなことである。

 「持主がそこにいなければ、何でもいただいてしまうのが当時の支那人の生活感覚だったのである」の根拠は示されていない。「掠奪した後は、その跡を消すために放火が始まる」についても、何か資料があるのだろうか、と思う。
 著者が現地調査を繰り返した中国史専門の歴史学者であるならば、そうした表現も認められるかも知れないが、そうでなければ、きちんとそうした表現を裏付ける資料を示すべきだと思う。著者は、日本人を侮蔑することを許さないが、中国人は侮蔑してもよいと考えているかのようである。

 「日本兵と見せかけて本当に難民を殺したり、女を追いかけ回して強姦に及ぶことも少なくなかった」とは誰の、どのような調査結果に基づく結論であろうか。「少なくなかった」と断定するのであれば、具体的にその実態を示す資料を明らかにする必要があると思う。想像に基づいて断定してよい問題ではないと思うのである。

 「女たちはそれを承知の上で、日本兵に暴行されたと報告した」などというのは、日本軍兵士は強姦や略奪、虐殺などしないという前提で資料を見るため生まれる空想ではないかと思う。「暴行された」と主張する女性の証言やそれを聞いた人物の直接的な証言がない限り、こうしたことを断定することはできないのではないかと思う。そんな証言が存在するということは聞いたことがない。

 「キリスト教関係者にとっては、難民がはいることによって、荒れた建物や設備、施設などの修理費を本部からもらうためにも、すべては日本軍によって破壊されたとする必要があったし、それゆえに敢えて噂話に乗っていった」というキリスト教関係者を侮蔑するような記述も、その根拠は示されていない。関係する資料も提示されてはいない。当事者や関係者の証言がなければ、こうしたことを事実のように書くことはできないはずである。根拠なくこうした断定をすることは、関係国や国際社会の信頼を失うことにつながると思う。

 著者は、最後に

こう見てくると、日中友好にとっても米中友好にとっても、そして、日米友好にとっても、最も障害となるのは、声高に「南京大虐殺」を叫ぶ人々であることはもはや疑う余地がない。

と書いているが、あまりに手前勝手であり、事実は全く逆だと思う。先日、米国をはじめとする海外の歴史学者や日本研究者ら187名が、連名で「日本の歴史家を支持する声明」を発表した。日本の歴史修正主義の動きに政権が荷担していることを、国際社会も懸念しているのである。

 松村俊夫氏のような主張を続けるならば、日本はますます孤立していく。現にそうした歴史認識が、様々な外交関係の問題を生じさせている。国によっては、経済を優先させ、日本の「歴史」の「修正」に目を瞑ることはあるかもしれない。しかしながら、中国や韓国をはじめとする近隣諸国が、大変な被害をもたらした日本の侵略戦争を正当化する歴史修正主義を素直に受け入れ、日本に信頼を寄せることは決してないと思う。
 客観的事実を直視し、関係改善につなげるべきだと思うのである。

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南京事件 「山田日記」と「両角業作手記・日記」

2015年06月02日 | 国際・政治

 『南京大虐殺」への大疑問』(展転社)の著者・松村俊夫氏が指摘する「捕虜釈放」の内容を確かめるべく、著者の記述にあった「南京戦史資料集Ⅱ」の319ページを開いたが、版が違うのか、そにには著者の指摘した「鹿児島歩兵第四十五連隊第二大隊第十二中隊戦闘詳報」の「捕虜釈放」の記述はなく、そのページの前後は「山田栴二日記」であったことを、<457「南京大虐殺」への大疑問?NO3> で書いた。そして、「山田栴二日記」には捕虜に関して「釈放」ではなく、下記のような記述があることも書いた。
 
12月15日 晴
 捕虜ノ仕末其他ニテ本間騎兵少尉ヲ南京ニ派遣シ連絡ス
 皆殺セトノコトナリ
 各隊食糧ナク困却ス
 
 「山田栴二日記」には「捕虜釈放」の記述とは反対の、「皆殺セトノコトナリ」との命令を受けた記述があったのである。
 ところが、これまたおかしなことに、第13師団歩兵第百三旅団(山田栴二少将)の指揮下にあった歩兵第六十五連隊(会津若松)を率いた両角業作大佐が、下記のような捕虜釈放に関する手記を残しているという(『南京戦史資料集Ⅱ』(偕行社)。この手記は怪しげであると、いろんな論者が指摘しているが、この手記を取り上げている『南京戦史資料集Ⅱ』(偕行社)でさえも、

山田支隊の基幹であった会津若松歩兵第六十五聯隊の聯隊長『両角業作大佐の日記』は、メモと言った方がよいかも知れぬ簡単なもので、問題の幕府山で収容した捕虜の処置については、その全体像を明らかにすることができない。
 ただ、注目すべきは「Ⅰ(大隊)ハ俘虜ノ開放(ママ)準備、同夜開放」(12/17)「俘虜脱逸ノ現場視察」(12/18)の記述で「開放」を「解放」と解すれば、司令部?からの「殺セ}という指示に対して、山田支隊の指揮官たちは江岸で捕虜を解放する意図があったことになる。残念なことに『両角日記(メモ)』は、研究者・阿部輝郎氏が筆写した南京戦前後の部分しか現存せず、その原本との照合は不能の状況である。
 『手記』は明らかに戦後書かれたもので(原本は阿部氏所蔵)、幕府山事件を意識しており、他の一次資料に裏付けされないと、参考資料としての価値しかない。

と指摘しているものである。なぜ『両角日記(メモ)』は南京戦前後の部分しか存在しないのか、なぜ原本と照合できないのか、なぜ、原本の写真やコピーさえ示されないのか、ほんとうに怪しげである。こういう資料を平気で使って、南京事件を論じる論者がいるようであるが、いかがなものかと思う。資料1は、『南京戦史資料集Ⅱ』(偕行社)に収録されている「両角業作手記と日記」の全文であが、内容の面でもひっかかる。

 なぜなら、山田少将は、軍や師団に対する批判や不満があれば、それを日記に正直に書く人であったことが、資料2でわかる。その山田少将が、捕虜の件に関して、12月14日から19日にかけ、資料3のように書いている。「捕虜ノ仕末ニテ隊ハ精一杯ナリ」という文章が、当時、山田支隊の直面していた状況をよくあらわしていると思う。
 軍から「俘虜のものどもを”処置”するよう」頻繁に督促がきたが、「山田少将は頑としてハネつけた」と、「両角業作手記と日記」には書かれているが、そうした督促に関して「頑としてハネつけた」という山田少将自身は、日記に何も書いていない。督促に対する批判はもちろん、そうしたやり取りさえ、何も書いてはいないのである。
 
 また、「455南京事件 陣中日記 日本兵加害の記録 NO1」で取り上げたように、第十三師団歩兵第百三旅団(山田支隊)会津若松歩兵第六十五聯隊(両角業作大佐)の兵士の多くが、当時の南京の状況を陣中日記、戦闘日誌、陣中メモ、出征日誌などとして手帳等に書き留め、残している。そして、それぞれに捕虜「処分」(殺害)の記述がある。しかし「両角業作手記と日記」にあるような、「捕虜釈放」の記述は見られない。     
                                                                             
 したがって、私は下記の「両角業作手記と日記」は、原本を書き写したという阿部輝郎氏が、自らの願望を両角業作大佐の名を借りて書いた創作ではないか、と思う。


資料1「両角業作手記と日記」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                   南京大虐殺事件

 幕府山東側地区、及び幕府山付近に於いて得た捕虜の数は莫大なものであった。新聞は2万とか書いたが、実際は1万5千3百余りであった。しかし、この中には婦女子あり、老人あり、全くの非戦闘員(南京より落ちのびたる市民多数)がいたので、これをより分けて解放した。残りは8千人程度であったが、これを運よく幕府山南側にあった厩舎か鶏舎か、細長い野営場のバラック(思うに幕府山要塞の使用建物で、十数棟併列し、周囲に不完全ながら鉄線が2、3本張りめぐらされている)─とりあえず、この建物に収容し、食糧は要砦地下倉庫に格納してあったものを運び、彼ら自身の手で給養するよう指揮した。

 当時、我が聯隊将兵は進撃に次ぐ進撃で消耗も甚だしく、恐らく千数十人であったと思う。この兵力で、この多数の捕虜の処置をするのだから、とても行き届いた取扱いなどできたものではない。四周の隅に警戒として5、6人の兵を配置し、彼らを監視させた。

 炊事が始まった。某棟が火事になった。火はそれからそれへと延焼し、その混雑はひとかたならず、聯隊からも直ちに一中隊を派遣して沈静にあたらせたが、もとよりこの出火は彼らの計画的なもので、この混乱を利用してほとんど半数が逃亡した。我が方も射撃して極力逃亡を防いだが、暗に鉄砲、ちょっと火事場から離れると、もう見えぬので、少なくとも4千人ぐらいは逃げ去ったと思われる

 私は部隊の責任にもなるし、今後の給養その他を考えると、少なくなったことを却って幸いぐらいに思って上司に報告せず、なんでもなかったような顔をしていた。

 12月17日は松井大将、鳩彦王各将軍の南京城入城式である。万一の失態があってはいけないというわけで、軍からは「俘虜のものどもを”処置”するよう」……山田少将に頻繁に督促がくる。山田少将は頑としてハネつけ、軍に収容するよう逆襲していた。私もまた、丸腰のものを何もそれほどまでにしなくてもよいと、大いに山田少将を力づける。処置などまっぴらご免である。

 しかし、軍は強引にも命令をもって、その実施をせまったのである。ここに於いて山田少将、涙を飲んで私の部隊に因果を含めたのである。
 しかし私にはどうしてもできない。
 いろいろ考えたあげく「こんなことは実行部隊のやり方ひとつでいかようにもなることだ、ひとつに私の胸三寸で決まることだ。よしと期して」─田山大隊長を招き、ひそかに次の指示を与えた。
 「17日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ」
 もし、発砲事件の起こった際を考え、二個大隊の機関銃を配属する。

 12月17日、私は山田少将と共に軍旗を奉じ、南京の入城式に参加した。馬上ゆたかに松井司令官が見え、次を宮様、柳川司令官がこれに続いた。信長、秀吉の入城もかくやありなんと往昔を追憶し、この晴れの入城式に参加し得た幸運を胸にかみしめた。新たに設けられた式場に松井司令官を始め諸将が立ち並びて聖寿の万歳を唱し、次いで戦勝を祝する乾杯があった。この機会に南京城内の紫金山等を見学、夕刻、幕府山の露営地にもどった。

 もどったら、田山大隊長より「何らの混乱もなく予定の如く俘虜の集結を終わった」の報告を受けた。火事で半数以上が減っていたので大助かり。
 日は沈んで暗くなった。俘虜は今ごろ長江の北岸に送られ、解放の喜びにひたり得ているだろう、と宿舎の机に向かって考えておった。

 ところが、12時ごろになって、にわかに同方面に銃声が起こった。さては…と思った。銃声はなかなか鳴りやまない。
 そのいきさつは次の通りである。

 軽舟艇に2、3百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ、前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発砲したので、舟の舵を預かる支那の土民、キモをつぶして江上を右往左往、次第に押し流されるという状況。ところが、北岸に集結していた俘虜は、この銃声を、日本軍が自分たちを江上に引き出して銃殺する銃声であると即断し、静寂は破れて、たちまち混乱の巷となったのだ。2千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、我が銃火により倒れたる者は、翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた。すべて、これで終わりである。あっけないといえばあっけないが、これが真実である。表面に出たことは宣伝、誇張が多すぎる。処置後、ありのままを山田少将に報告したところ、少将もようやく安堵の胸をなでおろされ、さも「我が意を得たり」の顔をしていた。

 解放した兵は再び銃をとるかもしれない。しかし、昔の勇者には立ちかえることはできないであろう。
 自分の本心は、如何ようにあったにせよ、俘虜としてその人の自由を奪い、少数といえども射殺したことは<逃亡する者は射殺してもいいとは国際法で認めてあるが>…なんといっても後味の悪いことで、南京虐殺事件と聞くだけで身の毛もよだつ気がする。
 当時、亡くなった俘虜諸士の冥福を祈る。
 
日記
昭和12年12月
12日 午後5時半、蚕糸学校出発。午後9時、倉頭鎮着、同地宿営。
13日 午前8時半出発。午後6時、午村到着、同地宿。敗残兵多シ。
   南京ニ各師団入城。一大隊烏龍山砲台占領。
14日 午前1時、第五中隊及聯隊機関銃一小隊幕府山ニ先遣。
   本隊ハ午前5時、露営地出発。午前8時頃、第五中隊ハ幕府山占領。本隊ハ午前10時、上元門附近近ニ集結ヲ了ル。午前11時頃、幕府山上ニ万歳起ル。山下ヨリ本隊之ニ答ヘテ万歳ヲ送ル。

(以下原文は横書き)
15日 俘虜整理及附近掃蕩。
16日 同上。南京入城準備。
17日 南京入城参加。Ⅰハ俘虜ノ開放準備。
18日 俘虜脱逸ノ現場視察、竝ニ遺体埋葬。
19日 次期宿営地ヘノ出発準備。
20日 晴 9時半出発下関ヲ経テ浦口ニ渡河。
21日 晴 西葛鎮ニ宿営。
22日 晴 全椒ニ向ヒ入城。同地警備。(途中山田少将ハ?県ニ)
23日 警備方針決定。中隊長以上ニ必要ノ指示ヲ与フ。
24日 附近視察。
25日 慰霊祭ノ為?県ニ出発(軍旗ヲ奉ジ)、同夜同地着。
26日 師団慰霊祭。(老陸宅ノ要図ガ天覧ニ供セラレ、且ツ朝香宮軍司令官ノ室ヲ飾ルモノハ此要図一枚アルノミニテ他何物モナシ)
27日 全椒ニ帰還。
28日 慰霊祭場及陣地偵察。
29日 慰霊祭。(山田少将及師団代表トシテ吉原作戦主任参謀来着)
30日 師団会議事項下達。
31日 陣地視察。此夜杉山陸相、椙村中隊長ノ未亡人ノ手紙ヲ受ケル。

 [注]この記録は、第十三師団歩兵第六十五聯隊両角業作大佐が、終戦後しばらくしてまとめたものである。昭和37年1月中旬、求めに応じ阿部輝郎に貸し与えられたものを筆写し、

保存しておいた。原文はノートに書かれ、当時の日記をもとに書いたという。

資料2「山田栴二日記」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       
11月1日
 ・・・
《初メテ纏リタル手紙ヲ書ク》
 『多クノ犠牲ヲ払ヒシ割ニ戦果少カリシハ敵陣地ニ対スル誤算根本ナリト確信ス
軍モ師団モ如何ナル陣地ナルヤ更ニ知ル所ナク、示ス所ナク、従テ旅団以下亦唯突附イテ見ル式ニテ敵陣地ト攻撃法ト一致セズ
攻撃ハアクマデ野戦式ニテヤレヤレ式、何ヲグズグズシテ居ル式ナリキ
寧ロ之レダケノ日子要スルモノナラ、最初ヨリ落付キテヤラバ更ニ早イ更ニ良好ナル結末ヲ得タリシナラン、神ナラヌ身ノ詮ナキ事ナレド』

11月13日
 ・・・ 
 右追撃隊歩兵第六十五連帯ト終日連絡ヲ取ル能ハザリシガ、歩兵第104連帯ノ追撃ヲ督励シ時ニ第一線ヨリモ前方ニ出テ推進ヲ図リ、午後4・00歩兵第104連帯ノ第一線ヲ以テ陸渡橋ノ劉河ノ線ニ達ス、時恰モ65連帯ヲ掌握スルヲ得タリ、歩兵第六十五連帯ハ午後2・00劉河ノ線ニ達シアリタリ、例ニ依リ師団ヨリ矢ノ催促、第一線ノ苦労モ努力モ何ノソノ、唯アセリニアセリテ成功ヲノミ望ム
『百ヤ二百ノ決死隊ナキカ』ト、如何ニ決死隊トテ河ハ只デハ越サレマジ
《今日始メテ沿道ノ土民ヲ見ル、戦果ヲ避ケテ避難セルモノ帰来セシカ》
陸渡橋東南5百米オ姚宅ニ位置ス

資料3「山田栴二日記」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

12月14日 晴
 他師団ニ砲台ヲトラルルヲ恐レ午前4時半出発、幕府山砲台ニ向フ、明ケテ砲台ノ附近ニ到レバ投降兵莫大ニシテ仕末ニ困ル
 幕府山ハ先遣隊ニ依リ午前8時占領スルヲ得タリ、近郊ノ文化住宅、村落等皆敵ノ為ニ焼レタリ 
 捕虜ノ仕末ニ困リ、恰モ発見セシ上元門外ノ学校ニ収容セシ所、14777名ヲ得たタリ、斯ク多クテハ殺スモ生カスモ困ツタモノナリ、上元門外ノ3軒屋ニ泊ス

12月15日 晴
 捕虜ノ仕末其他ニテ本間騎兵少尉ヲ南京ニ派遣シ連絡ス
 皆殺セトノコトナリ
 各隊食糧ナク困却ス

12月16日 晴
 相田中佐ヲ軍ニ派遣シ、捕虜ノ仕末其他ニテ打合ハセヲナサシム、捕虜ノ監視、誠ニ田山大隊大役ナリ、砲台ノ兵器ハ別トシ小銃5千重機軽機其他多数ヲ得タリ

12月17日 

12月18日 晴
 捕虜ノ仕末ニテ隊ハ精一杯ナリ、江岸ニ之ヲ視察ス

12月19日 晴
 捕虜仕末ノ為出発延期、午前総出ニテ努力セシム
 軍、師団ヨリ補給ツキ日本米ヲ食ス

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