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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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イラク戦争を検証するための20の論点によれば…

2023年03月10日 | 国際政治

 今回は、「イラク戦争を検証するための20の論点」イラク戦争の検証をもとめるネットワーク編(合同出版)から、「検証05 イラク戦争は国連憲章に違反しているか」を抜萃しました。
 2003~2011年のイラク戦争によって、イラクではおよそ50万人にのぼる人びとの命が奪われたといわれます。
 そして、その戦争について、当時のフィ・アナン国連事務総長は、BBCのインタビューに答えて、「イラク侵攻は、国連安全保障理事会によって承認されておらず、国連憲章にもしたがっていない」(04年9月16日)、と述べているのです。
 また、 9・11以後のアメリカの考え方であるという、「先制的自衛権」という言葉も見逃すことができません。現在問題になっている日本の「敵基地攻撃能力」も、その「先制的自衛権」の考え方からきているのだろうと思います。国連憲章に反する考え方であることを見逃してはならないと思います。
 また、アメリカが台湾に大量の武器を売却したり、アジア諸国に軍事同盟の強化を働きかけたりしていることも、対中戦争の準備であり、”すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない”という国連憲章に反することだと思います。 
 平和な世界は、法を蔑ろにしてはつくれないと思います。 

 プーチン大統領は、2023年2月21日年次教書演説で、下記のように語っています(Sputnik 日本)
”・・・、ウクライナの装甲車にはナチスドイツの時のドイツ国防軍の記章が描かれている。
ネオナチは、自分たちが誰の後継者であるかということを隠そうとしていない。驚いたことに、西側諸国の権力者は誰もこのことに気づかない。なぜか? それは、彼らにとってはどうでもいいからだ。我々との戦い、ロシアとの戦いにおいて誰に賭けるかはどうでもいい。主な目的は我々と戦わせること、我々の国と戦わせることだから、どんな人間を利用してもいい。事実そうであることを我々は見てきたではないか。テロリスト、ネオナチ、はげ頭の悪魔でさえ(神よ、許したまえ)、自分たちの言いなりになり、ロシアに対する武器になるのであれば、何でも利用することができる。
「反露」プロジェクトは、本質的に、わが国に対する復讐主義的政策の一環であり、わが国の国境のすぐ近くに不安定と紛争の温床を作り出そうとするものだ。1930年代の当時も今も、東方へ攻撃を仕掛け、欧州において戦争を煽り、他人の手で競争相手を排除しようという、その企みは変わらない。
我々はウクライナ国民と戦争しているわけではない。このことは今まで何度も言ってきた。ウクライナの国民は、キエフ政権とその西側の支配者らの人質となった。西側は事実上、この国を政治的、軍事的、経済的に占領し、数十年にわたってウクライナの産業を破壊し、その天然資源を略奪した。その論理的帰結が社会の退廃、貧困と不平等の爆発的な増加だ。そして、そのような状況では当然ながら、戦闘行為のための材料集めなど容易く(タヤスク)できる。人々のことなど誰も考えず、人間を破滅のために準備し、最後は消耗品にしてしまった。痛ましく、語るのも恐ろしいことだが、これは事実である。
 ウクライナ紛争を煽り、拡大させ、犠牲者を増やした責任は、すべて西側エリート、そしてもちろん、キエフの現政権にある。この政権にとってはウクライナ国民は本質的に他人だ。ウクライナの現政権は自国の国益のためではなく、第三国の利益のために奉仕している。
 西側諸国はウクライナをロシアを攻撃するための破城槌(ハジョウツイ)として、射撃場として利用している。私は今、戦況を変え、軍事供給を増やそうとする西側諸国の計画についてあれこれ言うつもりはない。だが、次の状況は万人に理解できるはずだ。西側の長距離戦闘システムがウクライナに供与されればされるほど、我々はその脅威をロシアの国境から遠ざけざるをえなくなる。それは当然だ。
 西側のエリートは自分たちの目標を隠そうともしていない。彼らははっきりと「ロシアに戦略的敗北」を与えるのが目標だと言っている。これはどういうことか。我々にとって、それは何を意味するのだろうか。これはつまり、我々とさっさと、永遠に決着をつけるということだ。つまり、彼らは局所的な紛争を世界的な対立の局面に転化させるつもりなのだ。我々はすべてをまさにこのように理解しており、相応の方法で対処していく。なぜならば、この場合、話はすでに我々の国の存続に関わるからだ。・・・”

 私は、このような年次教書演説におけるプーチン大統領の主張を、どのように受け止め、どのように対処すべきか、という専門家の話や解説を聞いたことがありません。それをすると、ロシアを悪とし、プーチン大統領を悪魔のような独裁者とする西側諸国のプロパガンダが、揺らぐことになるからではないか、と想像します。

 いわゆるマイダン革命で重要な役割を担ったといわれる、キーウ(キエフ)のクリチコ市長は、先日、”ロシアの若い兵士が次々と死んでいっているのは、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領の野望のために過ぎない”と、BBCに話したことが報道されました。
 彼は、元ボクシングWBC・WBO世界ヘビー級チャンピオンで、今も多くのファンをもっているそうですが、私は、ロシアをヨーロッパ諸国から切り離し、孤立させ、弱体化するために、アメリカによって、彼がうまく利用されているように思います。
 
 ウクライナ戦争が、”プーチンの野望”によるものだというクリチコ市長のような主張を無批判に受け入れ、ウクライナにおける戦争の経緯や背景を考えたり、また、アメリカを中心とする西側諸国の過去の戦争の事実をふり返ったりすることなく、ウクライナ戦争をとらえることは、平和を遠ざけることにつながると思います。
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            第1章 イラク戦争を検証するための20の論点

            検証05 イラク戦争は国連憲章に違反しているか

 フィ・アナン国連事務総長(当時)は、BBCのインタビューに答えて、「イラク侵攻は、国連安全保障理事会によって承認されておらず、国連憲章にもしたがっていない」と述べました(04年9月16日)。
 国連憲章第2条は、「すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない。武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立にたいするものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも謹まなければならない」として、武力行使を原則禁止しています。
 しかし、武力行使が認められる例外が2つだけあります。
① 武力攻撃が発生したばあいに安保理が必要な措置をとるまでのあいだ、国家にみとめられる個別的または集団的な自衛権の行使(国連憲章第51条)
② 平和に対する脅威、平和の破壊または侵略行為に対する集団的措置として安保理が決定する行動(国連憲章第42条)の2つです。
 9・11以後アメリカが主張したのは、先制的自衛権です。攻撃されてからではなく、やられる前にやってしまえ、という考え方ですが、国連憲章の51条の自衛権の行使にあたるのかといえば、イラクが大量破壊兵器をもたず、9・11のテロとも関係なかったわけですから、単なる先制攻撃というべきでしょう。
 すると国連憲章42条の、イラク攻撃が安保理で決議されたかがポイントになります。
 イラク攻撃に関する安保理の決議案には、678号、687号、1441号があります。以下に内容をまとめてみました。
 国連安保理決議678号:90年採択。クウェートを侵攻したイラクに対して、アメリカを中心とする多国籍軍に「あらゆる措置」をとる権限をあたえたもの。
 国連安保理決議687号:91年採択。イラクに対して、国際機関による監視のもと、大量破壊兵器や運搬用ミサイルなどの破壊あるいは撤去することを求めたもの。
 国連安保理決議1441号:02年11月採択。イラクは安保理決議687号に違反していると断定。イラク対して、大量破壊兵器や弾道ミサイルの検証可能な破壊あるいは撤去しないと「深刻な結果」をもたらすと通告。
 「深刻な結果」はかならずしも武力行使をさすわけではなく、新たな決議案を採択する必要がありましたが、イラクは全面的に1441号を受け入れ、02年11月末には国連による査察が再開されました。中国、ロシア、フランスの常任理事国3ヶ国が、アメリカがイラク攻撃容認の新たな決議案を出しても拒否権を発動することを明らかにしたために、ブッシュ大統領は、新たな決議案なしに、「678および687は、アメリカと同盟国が、イラクの大量破壊兵器を廃棄するために武力行使することを承認している」として、有志連合での攻撃を決めてしまいました。
 03年3月18日、開戦直前の演説で、ブッシュ大統領は、「安保理の常任理事国のいくつかは、イラクの武装解除を強制するいかなる決議案にも拒否権を発動する、と公式に表明してきた。それらの国々は、われわれと危機についての認識を共有してはいるが、それに対峙する決意を有していない。しかし、多くの国は平和に対する脅威に立ち向かう強い決意をもっている。国際社会の正当な要求を達成するための、広範な連合が形成されつつある。国連安保理はその責務を果たしていない。だからこそアメリカが立ち上がるのだ」と述べ、安保理を非難しました、 

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アメリカと中ロの対立は、民主主義と権威主義の対立?

2022年12月16日 | 国際政治

 下記の「日米安保条約関連米政府解禁秘密文書」は、「米政府安保外交秘密文書」新原昭治編訳(新日本出版)から抜粋したものですが、日本は、何とかしてアメリカの桎梏から逃れる方法を考えないと、再び「敗戦」に似たような酷い目にあうのではないかと心配です。

 今日も、NHKを中心とする主要メディアは、国民に反中や反露の感情を抱かせるような報道をしていましたが、その報道内容は、多分独自の取材に基づくものではなく、アメリカからもたらされたものであろうと思いました。報道機関には、最近相当強いプレッシャーがかかっているのではないかと想像しています。
 アメリカは、ロシアや中国にさまざまな制裁を課していますが、共存しようとする姿勢がほとんどないと思います。その中ロに対する制裁の強化や、周辺国に対するプレッシャーの強化は 、中ロの台頭によって、ヨーロッパやアジア地域におけるアメリカの覇権や利益が危うくなっていることを示しているのだろうと思います。
 したがって、制裁の強化やプレッシャーの強化のもっともらしい理由付けは、ほとんど根拠のないもので、本質的にはアメリカ・ファーストの利己的なものであることを見逃してはならないと思います。日本が、アメリカの軍事戦略に従って、「敵基地攻撃能力」などを保有すれば、アメリカがチャンスと判断したときに、先制攻撃をしかけることになる可能性が大きいと思います。

 中国は、アメリカの半導体輸出管理措置に関して米国をWTOに提訴しましたが、そうした対立関係は、アメリカと中ロの争いが、決して民主主義と権威主義の対立などでないことを示しているのであって、日本は何とかして、アメリカのプレッシャーを乗り越え、従属的立場から脱却することが大事だと思います。
 
 下記の抜粋文にあるのですが、かつてアメリカは、極秘に、”在日米軍人の刑事裁判権に関する条項は、最大の難所だったといえよう。結局、北大西洋条約の同種の条項が、NATOで米軍人に関し発効した時点でこれを日本に適用する、それまでの間、在日米軍は米軍人へのほとんど全面的な裁判権を保持するとの妥協が成立して、解決をみた。しかし、実際には秘密了解ができ、日本側は大筋として裁判権の放棄に同意しているのである。”などと、日本に対する不当な対応を前提にして、情報のやり取りをしていたのですから。 
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                 Ⅰ 日米安保条約関連米政府解禁秘密文書        
《1》 国務省情報報告書『日本側の日米安全保障取り決め改定の要望』(国務省極東調査部作成【1957年1月22日付 国務省情報調査局「情報報告」第7421号】

  ◇報告書はしがき◇略
 一 はじめに
 日米両国の軍事関係は、安全保障条約および同条約と一体の行政協定(後の地位協定)を基礎としてできている。この日米関係に、日本は不満を抱いている。それは、そういうことになった状況の結果としてであり、またその特徴が不平等なもので、日本を対米従属の地位においたとみなされているせいである。在日米軍の駐留、米国の目的といった問題については、大衆はちょっとのことで興奮しやすい。そこで、保守の指導者たちでさえ、「調整」や「改定」が必要だとのべる始末である。もっとも、そうはいっても、条約や協定のどういう修正が必要かという具体的提案をしているわけではない。今後、日本は日米安保条約、行政協定で取り決められた関係を大幅に変えようと、まちがいなく強く迫ってくるだろう。
 この関係で予想されることだが、日本政府は、このほど締結されたソ連軍駐留に関するソ連・ポーランド協定を、入念に読もうとするのではなかろうか。同協定は第二条で、ポーランドに駐留するソ連軍の兵力規模を両国合同で決定すること、基地区域外でソ連軍が行動するさいその都度ポーランド側の同意が必要なことを規定している。日米間の条約・協定には同種の規定がないので、日本側は将来、交渉の場で持ち出すかもしれない。
 日本政府スポークスマンが具体的な改定を提案していない段階で、現につづいている安保問題での日本の不満の背景を知るには、どんな状況下で日米安保条約と行政協定が締結されたかをふりかえるのがいい。
 安保条約の起草は、のちに1951年、対日平和条約の締結でおわりをつげた多国間交渉と、時間的に並行してすすめられた。安保条約の条文は、1951年9月8日のサンフランシスコでの調印までは、ごくわずかの日米両政府関係者以外、だれにも知らされていなかった。もちろん、一般の国民はその内容を知る由もなかった。吉田首相だけが日本代表として調印したのも、、残りの日本側全権大使は条約の内容を知っていなかったからだった。日本政府関係者も国民も、日米安保条約はある意味で、強制が生みだした産物だと考える傾向がある。そう考えるのは、日米安保条約交渉を特徴づけてきた秘密のせいであり、安保条約が占領時代に締結されたという事実のせいでもある。
 行政協定の締結交渉は、1952年2月、国務省のディーン・ラスクと陸軍省のアール・ジョンソンを責任者とする特別使節団が、東京でおこなった。米政府筋は非公式に、もし満足できる行政協定が仕上がらないなら、ワシントンとして平和条約と安保条約の発効を認めるわけにはいくまいと、報道機関に語ったこともあった。当然、日本側関係者は、時間の圧力を思い知らされ、明白な強制の低意を重ねて感じさせられたのだった。行政協定交渉は約四週間行われ、最後に一致点に達した。在日米軍人の刑事裁判権に関する条項は、最大の難所だったといえよう。結局、北大西洋条約の同種の条項が、NATOで米軍人に関し発効した時点でこれを日本に適用する、それまでの間、在日米軍は米軍人へのほとんど全面的な裁判権を保持するとの妥協が成立して、解決をみた。しかし、実際には秘密了解ができ、日本側は大筋として裁判権の放棄に同意しているのである。行政協定交渉では、有事のさいの手続きも、むずかしい論議になったが、リオ条約を参考にした。より一般的規定にすることで一致をみて終った。
 二 日本の不満
 今日、日本人が日米安保条約と行政協定の内容に対して抱いている不満のおもなものは、以下の通りである。
[A] 相互性の欠如
 日米安保条約第1条は、日本国内とその付近に米軍が駐留する権利を、日本が許し、米国が引き受けるむね規定しているが、これは韓国や中華民国〔台湾政権=訳者〕との条約と類似のものである。少なからぬ日本の政治家が、米国は日本を基地として使用する権利をもっているのに、日本にはなんらの見返りも与えられていない、といっている。ダレスは上院に日米安保条約承認を求めるにあたり、米国はこの条約で日本に何の約束もしていないと強調したが、それを問題にしているのだ。日本がもし攻撃を受けたら、米国が日本を守ることは現実問題として確かなことだと、何人もの米国の指導者がのべてきた。だが、日本側は、米国にもっときっちりとした約束をしてもらいたいと考えている。日本国憲法が軍事力保持を禁止しているので、米国としては相互主義にもとづく約束はできないし、この相互主義が認められない場合、議会での承認は絶対不可能というわけではないが、非常にむずかしい。そのことは、折にふれて、日本側に伝えてある。

 [B]存続期間
米国が締結している他の安全保障条約では、一方的通告の1年後に脱退することができる。これにたいし、日米安保条約では第四条で、日本区域における国際の平和と安全の維持が国際連合の措置もしくはこれに代わる安全保障措置によって満足できる程度に守られていることに、双方が同しない限り、条約の効力はつづくむね規定している。日米安保条約の存続期間が無限で、脱退の自由もなく、相互主義も保障されていないことにくわえて、極東での米国の目標にたいし無知であることも手伝って、日本の指導者は恐れを抱いている。いまはアメリカだけに不当に有利で、将来いっそう厄介なものになりそうなしがらみに、限りなく長期間まといつかれるのではないかという恐れである。

[C]核兵器ならびに、報復攻撃を招くことへの日本人の恐れ
 日米安保条約のもとで日本と協議しないで、核兵器を持ち込む権利を与えられていると、米側ははっきりのべてきた。これにたいし、日本の政府も報道機関も大衆も、幾度となく深い憂慮を表明してきた。日本側のもう一つの憂慮は、米国が協議抜きで在日基地から核兵器を使用できるという立場をとっているのではないか、という点にある。この問題で、安保条約の規定はあいまいである。米国は、日本側の恐れをできるだけ少なくするよう努めている。同時に、核兵器の導入(イントロダクション)や核兵器使用に先だって協議をおこなうという約束も、いっさいしないようにしている。この問題は、日本における米軍飛行場滑走路延長への反対行動の背景に横たわっている問題であり、極東で危機的状況が発生したら、まちがいなくきわめて深刻な問題に発展しよう。日本人がだれでも嫌い恐れているのは、国土がふたたび攻撃の目的にされることである。極東で敵対行為起きた場合、もし米軍が在日基地を利用したら、たとえ敵対行為の直接の当事者でないときでも日本には報復攻撃が加えられるのではないかと、日本人の多くが不安を感じている。

 [D]基地
 平和条約調印直後、日本国内では米軍があまりにも多く軍事基地を持ち過ぎているという厳しい憤りが、しばらくのあいだひろがった。米軍がが接収した土地面積は、日本の主な四つの島の中で最小の四国全体に匹敵すると非難され、そうひろく信じられた。やがて、この非難は大幅に鎮静化した。米軍がだんだん土地を手ばなし、大都市の高級不動産物件から出ていったためである。

 [E]行政協定
 行政協定は、合衆国軍隊の構成員、軍属、家族の出入国手続き、輸入、PX、税関、通貨の特権に関し、NATO地位協定や米国・フィリピン基地協定よりも大幅な免除措置を規定している。日本の政府当局者はこの問題に関心を払ってきたが、大衆的な反対運動を誘発しているようには思えない。とはいえ、普通の日本人が税負担や生活水準の格差に注意を向けている。米軍の特権が問題にされるとき、これが憤激をまきおこす種になっていることも時々ある。米軍人が以前、もうけのために米国製自動車を勝手に輸入し販売した事件が、敵意を含んだ多くの批評のネタにされたこともあった。
 行政協定第十二条の内容は、NTO地位協定の第九条と同種のものである。在日米軍に代わって日本政府が雇用している日本人の労働条件の細目は、「基地労務契約」によって律せられている。同契約は、1952年に失効したが、それ以降は新契約の交渉が行われている間、1ヶ月毎の単位で更新されている。契約案の内容は、在日米軍と全日本駐留軍労働組合との係争の争点になっている。

 《付表》
 略
 

 

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アメリカの対朝鮮政策とウクライナ戦争

2022年10月05日 | 国際政治

  私は、日々、ウクライナ戦争の死者の報道があるのに、停戦・和解の話がほとんどないことに苛立ちを感じています。なぜだろうと思います。
 また、ウクライナ戦争について報道される事実についても、双方の言い分を知りたいと思うのですが、ロシア側の情報はほとんどありません。だから、ツイッターやユーチューブ、english.pravdaなどから、ほんのわずかな情報を得ます。でも、その情報が真実であるかどうか、自ら確かめる手段がありません。
 そこで、わずかな情報と関係者の時々の発言、諸事件の前後関係、また、ウクライナ戦争を主導するアメリカの対外紛争に対する関わり方の歴史などをふり返ります。すると、プーチン大統領のいうアメリカの過ちや犯罪性が否定できないように思われるのです。

 今回は、前回に引き続き第二次世界大戦後の、朝鮮に対するアメリカの関わり方を取り上げます。
 第二次世界大戦後、日本の植民地であった朝鮮に関わる戦後処理も、アメリカによって、建国準備委員会の取り組みや朝鮮の人たちの思いを無視するかたちで進められました。
 アメリカ政府は、1945年8月8日、ソ連が対日宣戦を布告し、ソ連軍が急速に南下してきて、朝鮮全土を占領しつつあることに驚き、それを阻止するため、急遽、アメリカ政府内で38度線を設定し、ソ連に分割占領を提案、了承を得ました。それは、「一般命令第一号」としてアメリカ軍によって起草され、発令者は日本国大本営のスタイルをとったのですが、決して朝鮮の人たちのためではなかったと思います。
 
 1945年10月には、アメリカ政府の国務、陸軍、海軍三省調整委員会は、朝鮮に関する一般的政策を決定しましたが、信託統治制実施に関するジョン・カーター・ヴィンセント極東部長の見解の発表は、 朝鮮全土に大きな衝撃を与えたといいます。1945年8月15日、日本敗戦のその日に建国準備委員会を結成し、即時独立の準備を進めていた朝鮮の人たちは、その左右両派の立場にかかわらず、ヴィンセント極東部長の信託統治制に反対する声を一斉にあげたということです。韓国民主党、国民党、人民党、共産党、その他すべての政党が信託統治拒否のため結束し、朝鮮の各新聞も、信託統治反対の論調を継続的にとりあげたというところに、アメリカの方針に対する朝鮮の人たちの強い思いが現れていると思います。
 
 でも、朝鮮の人たちの取り組みや思いを無視するアメリカの戦略は、実に巧妙でした。
 ”ソウルのアメリカ軍政庁関係筋の思惑や、物情騒然たる朝鮮国内政情とはいっさい関わり無く、12月16日から6日間モスクワにおいて、戦後、連合国の間に起こった諸問題の処理のための国際会議である米英ソ三国外相会議(米バーンズ国務長官、英・ベヴィン外相、ソ連・モロトフ外相)が開催”され、「モスクワ三相会議決定」が発表されるのですが、その発表内容と、現実に朝鮮で展開されたアメリカ軍政庁の施策には、無視することのできない乖離があるのです。
 だから、私はアメリカが公言することと、実際にやっていること、また、表に出てくる事実と無視され、隠されてしまう事実などを見逃さないようにしなければならないと思うのです。

 ウクライナ戦争に関して言えば、先日、ノルドストリームにガス漏れが発生し、破壊工作の結果であるという疑いが発表されました。また、ロシアの関与が疑われるというようなことも報道されました。でも、ノルドストリームについてアメリカは、オバマ大統領のときから、懸念を表明しており、トランプ大統領やバイデン大統領は、攻撃的な発言をくり返してきたと思います。
 また、関連会社やその会社幹部に制裁を科したりした事実や、原発の停止と関連して、ロシアとノルドストリームの計画を進めていたドイツのメルケル首相の携帯電話が、アメリカの情報機関に盗聴されていたという事実は、この破壊工作がアメリカによるものである可能性が大きいことを物語っていると思います。アメリカにとっては、ノルドストリームの復活は好ましくないことだからです。
 逆にロシアは、ドイツを中心とするヨーロッパ諸国が、エネルギー問題で行き詰まり、NATO諸国のウクライナ支援国から外れて、ロシアの天然ガス輸入再開を決定するのを持ち望んでいると思います。だから、自らパイプラインを破壊することはないだろうと、私は思います。 

 下記は、「朝鮮戦争 三十八度線の誕生と冷戦」孫栄健(総和社)から、「第2章 信託統治案ショックと政治的騒擾」の一部を抜萃しました。
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              第2章 信託統治案ショックと政治的騒擾

               第一節 冷戦の開始と信託統治問題

 (五) 信託統治案ショックと政治的騒擾
 すでに第一章で述べたように、1943年3月以来、アメリカ政府内部において朝鮮半島戦後処理問題が構想されていた。この年のカイロ会談で適当な時期の朝鮮独立が国際公約として連合諸国間で諒解されていたが、これはルーズベルト構想による朝鮮への国際信託統治プランとして明確化されていた。だが、これは相互諒解のみの段階であって、共同宣言、あるいは条約公文などで細部確認されたものではなかった。これがはっきりした協定に達したのは、1945年5月になってからであった。それはルーズベルトの死後、スターリン首相と新しく就任したトルーマン大統領との間でのことでだった。  
 だが、それまでの、この朝鮮に対する国際信託統治構想は、単に連合諸国政策決定機関レベル間の内部においてのみで口頭で交渉協議されていた戦後処理計画であった。そのため、この朝鮮の国際信託統治計画については、文書による協定もなかったし、その具体的な実行計画も立案されていなかった。
 この朝鮮半島に関するルーズベルトの戦後処理構想が、やがて1945年12月にモスクワで開かれることになった米英ソ三国外相会談で具体的に討議され、それがモスクワの議定書として朝鮮に五年間の米英中ソの四大国による信託統治プランとして決定されることになる。

 だが、これは以後の朝鮮の命運を決する外国勢力による国際決議であった。これが一旦公表されて南北朝鮮に伝わると、外部からの一大政治的衝撃は、南北政情をおおきく揺るがすことになった。また、その結果、この国際信託統治構想を拒否し「反託」の立場に立つか、逆に、受け入れて「受託」の立場にたつかが、その選択がきわめて国家と民族の運命に重大な意味を持つだけに、以後の南北政情の進む方向を決定する分水嶺となった。また左右両派が、一方は「反託」にまわり、もう一方が「受託」にまわったことにより、以後、合作が不可能なほど分離することになる政治的踏み絵となった。さらには、米ソが朝鮮半島を舞台として 、直接激しく、しかも妥協の余地のない形で衝突し、そして「冷戦」の時代に突入していく、極東における発火点ともなった。

 まず、1945年10月20日、アメリカ政府の国務、陸軍、海軍三省調整委員会は、朝鮮に関する一般的政策を決定した。そこには「現在のアメリカ軍とソ連軍による朝鮮の地域別軍事占領は、できるだけ早い時期に朝鮮への信託統治という形に置き換えられるべきである」と述べられていた。そこで翌日、国務省のジョン・カーター・ヴィンセント極東部長は、長期間日本の統治下にあった朝鮮に対しては、その独立自治能力の養成準備のためにも、当分の間、国際信託統治制を実施したい意向を表明して、つぎのような発表をした。「現在の朝鮮は、長年日本に服従してきた後であるので、すぐに独立した政府を持つ用意ができていない。従って、われわれは朝鮮が独立国家としての行政を行う準備が整う間、信託統治の期間を設けることを主張する。どのくらいの時間がそのためにかかるのか、あなた方にも私にもいえない。しかしわれわれは、その期間が短ければ短いほど、好ましいという点に同意するだろう。」

 だが、これが朝鮮に伝えられると、朝鮮全土は大きな衝撃を受けた。従来から即時独立以外の過渡的政治形態をなんら予想していなかった朝鮮民衆は、その政見立場にかかわらず信託統治反対の声を一斉にあげた。韓国民主党、国民党、人民党、共産党、その他すべての政党が信託統治拒否のため結束した。また朝鮮の各新聞は、信託統治反対の論調を継続的にとりあげた。

 (六)反託運動と政治的騒擾
 しかし、国際信託統治構想は、本来はルーズベルトの戦後処理構想であり、基本的にはアメリカ政府が企画し推進したものである。だが、在南朝鮮米軍司令官であるホッジ中将は、アメリカ政府各省間の連絡の不備のためか、また別の理由からか、彼は常に接触する南朝鮮右派政客に対して、信託統治構想の性格と主旨を否定する態度をとりつづけた。そのようなアメリカ国務省の立場と食い違うソウルのアメリカ軍政庁の立場から、10月30日、アーノルド軍政長官の言葉として、信託統治に関する国務省極東部長の発言は、ヴィンセント部長の個人的な見解にすぎないとの旨が新聞報道された。

 だが実際は、翌11月10日、ワシントンにおいてトルーマン大統領、イギリスのアトリー首相およびカナダのマッケンジー首相が会談して戦後の諸問題を討議しているが、その際に極東情勢についても話し合われていた。その結果、朝鮮問題については、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の戦勝四大国による国際信託統治を行うために、アメリカが直ちに何らかの政策をとるという同意が成立していた。すなわち、南朝鮮占領の現地アメリカ軍の独断的な動きとは逆に、アメリカ政府部内においては、この信託統治構想が具体化していた。

 このような一連の外部からの大国の朝鮮干渉の動きがつたわると、朝鮮政情はさらに動揺した。38度線封鎖による経済の麻痺状態のため、深刻な市民生活の打撃をうけていた朝鮮大衆の世論に、一層の深刻な不安感を与えた。
 そのため、この信託統治問題に関する限り、当初は左右両派一致して反対したような民族的連帯が生じ、超党派的に朝鮮信託管理委任統治制反対委員会が結成された。また、国連および関係各国に朝鮮に対する信託統治案の撤回、自主独立国家早急樹立を要請する決議文を発送して、左右を超越した挙国的な反対機運が動いていた。11月2日、右派の独立促成中央協議会は李承晩自らが起草したという「四大連合国およびアメリカ民衆へ送る決議書」を可決したが、これにも共同信託制を拒否し、その他の如何なる種類を問わず完全独立以外のあらゆる政策に反対する旨の結論が述べられていた。
 しかし、その間共産党は、独立促成中央協議会の掲げた朝鮮問題解決の原則的条件に反発をしめした。12月5日には独自の信託統治反対のメッセージを関係諸国当局に発送したのち、12月24日、遂に協議会との正式絶縁を発表するに至る経緯となった。
 一方、この間の12月12日、アメリカ軍政庁は東京のマッカーサー司令部の許可のうえで、呂運亨指導下の人民共和国に対してさらに強硬な態度に出ることになった。すなわち、人民共和国を公然と非難し、その活動は「不法」であるとして、人民共和国の政府機能類似活動および、その傘下の大衆団体の活動を禁止、抑圧する方針を一層明確にした。
 また、それまで労働組合が自主管理していた旧日本系企業、工場の占領軍による接収作業を一層強硬にすすめた。これらの企業には、軍政庁から朝鮮人管理者が任命されたが、のちに李承晩政権が誕生してのちには、これらの任命管理者はその企業の公然たる所有者として、これらの企業を私物化することになる。

 (九)モスクワ三国外相会議、朝鮮問題議定
 こうして、ソウルのアメリカ軍政庁関係筋の思惑や、物情騒然たる朝鮮国内政情とはいっさい関わり無く、12月16日から6日間モスクワにおいて、戦後、連合国の間に起こった諸問題の処理のための国際会議である米英ソ三国外相会議(米バーンズ国務長官、英・ベヴィン外相、ソ連・モロトフ外相)が開催された。
 そこにおいて、かねて戦時中からの四大国間の懸案でもあった朝鮮に対する国際信託統治構想も、とくに南北を分割占領し、38度線を封鎖した米ソ両軍の調整問題とも関連して討議されることになった。これは朝鮮問題に関する限り、もっとも重要な国際会議であったが、やはり朝鮮市民の意志にかかわりのないところで開かれた戦勝連合国間の、戦後支配構想の角遂する政治的戦場でもあった。

 この1945年12月16日午5時、モロトフ・ソ連外相が議長をつとめる会議において、「独立した朝鮮政府を樹立するための前奏曲として、朝鮮に統一行政を設立すること」を議題とすることを提議し、同意された。つぎにバーンズ国務長官が、12月8日付けのハリマン大使よりモロトフ外相宛の、「朝鮮にいるソ連軍司令官がアメリカ軍司令官と通信・通商・通貨・貿易・交通・電力・分配・沿岸船その他一般的な問題に対する統一行政の整備について話し合う全権を与えられているか」を問う書簡を発表した。これに対しモロトフ外相は、「この書簡は、政府の行政とは異なった問題に関係しているから、現在議論している問題とは何の関係もない」として、議題を信託統治問題にのみ限定しようとした。
 翌日バーンズ国務長官は、アメリカの対朝鮮政策に関する声明を発表した。彼は「カイロ宣言」を強調し、その統一された独立国家朝鮮の成立の目的達成のため、米ソ両軍により二つに分割された状態を廃止し、統一政府を樹立することを主張した。そして朝鮮を国際連合下の信託統治に移行するための行動に、直ちに移ることを提案した。
 この際に、バーンズ国務長官は、それまで十年にわたる程度の信託統治期間がアメリカの構想であったのを変えて、ソ連の短期案に対抗するため5年に期間を短縮したものを発表した。また本来のアメリカ案が、四大国管理による最高統治機関として、一人の高等弁務官と各国代表よりなる執行委員会設置によって朝鮮の行政、立法、司法に対する信託統治実施をほどこすという、より直接統治的色彩がある内容であったのに対して、ソ連案は、信託統治は朝鮮人自身による臨時朝鮮政府を構成し、それを通して行うとの間接管理的(後見的)立場であった。バーンズ国務長官はアメリカ案を捨てて、ソ連案の原則を認めた。
 これを承けて、12月20日モロトフ外相は、経済的都合、臨時政府の樹立、四大国による5年間の信託統治の承認などの緊急問題について新しいソ連案を合同会議に提出。バーンズ国務長官は、そのソ連案の二つの点について細部の変更を求めたが、基本的にこれを受け入れた。イギリスの代表のベヴィン外相もこの協定内容に同意し、これによって、この案はモスクワ議定書に盛り込まれた。

 こうして、12月27日合意が成立した。以後、このモスクワにおける三国外相会議で採用された議定書が、以後の朝鮮処分に関する国際的決定の基礎となった。また、のちに中国(国民党政府)も参加することとなった。このモスクワ協定の朝鮮に関する箇所の全文は、翌日の12月28日にワシントン、モスクワ、ロンドンにおいてとして同時公表されたが、それはつぎのような内容のものであった。

第一 朝鮮を独立国家として再建し、民主主義的原則にもとづく国家として発展させる条件を造成すること、および長年におよぶ日本統治の悲惨な結果をできるだけ早く清算するために、民主的な朝鮮臨時政府を樹立すべきである。この臨時政府は、朝鮮の工業、交通、農業そして朝鮮人民の民族文化を発展させるために必要なあらゆる施策を行うべきである。
第二 朝鮮臨時政府の構成を助け、そのための適切な諸方策を予備的にとる目的のために、在南朝鮮米軍司令部と在北朝鮮ソ連軍司令部の代表からなる共同委員会を組織すべきである。この共同委員会はその提案を作成するにあたっては、必ず朝鮮の民主的諸政党および社会団体と協議すべきである。委員会によって審議され作成された諸建議案は、共同委員会に代表されている米ソ両国政府が最終的決定を行うが、その前に米、ソ、英、中の四か国政府の審議に付されなければならない。
第三 共同委員会は、朝鮮臨時民主政府と朝鮮の民主的諸団体の参加のもと、朝鮮人民の政治的、社会的進歩と民主的自治の発展および独立国家の樹立を援助協力する諸方策も作成する。共同委員会の諸提案は、朝鮮臨時政府と協議したのち、5年以内を期限とする四カ国信託統治に関する協定を作成するために、米、ソ、英、中の各政府の共同審議に付さなければならない。
第四 南北朝鮮に関連する緊急な諸問題を審議し、または在南朝鮮米軍司令部と在北朝鮮ソ連軍司令部との行政、経済諸問題に関する日常的調整を確立する諸方策を作成するため、二週間以内に朝鮮に駐屯する米ソ両軍司令部代表による会議が召集されなければならない。 
 
 朝鮮半島の第二次大戦後の国際的地位は、国連憲章第77条がその一のⅡにおいて「第二次世界戦争の結果として敵国より分離されることあるべき地域」と規定するのに該当しているとされていた。モスクワ協定はその規定の上に立って朝鮮に対する信託統治の手続き、期間に関し具体的に内容を示したものであった。

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キプロス紛争に対するアメリカの関与と国際法、国際条約 2

2022年08月24日 | 国際政治

 ウクライナ戦争の死者が毎日のように報道されています。また、悲惨なウクライナの人たちの様子も毎日のように報道されています。でも、停戦・和解の話し合いが進みません。さまざまな国際法や国際条約があり、国際組織があるのに、なぜ話し合いが進まないのか、と私は腹立たしく思います。

 日本では(西側諸国では)、ウクライナ戦争の死者は、すべてロシア侵略軍の犠牲者であり、ウクライナの悲劇は、独裁者プーチン大統領によってもたらされたというような一方的な報道になっているように思います。
 でも、アメリカのバイデン大統領は、ウクライナとロシアの国境付近で緊張が高かまっているときにも、それを止める努力をしたとは思えません。ロシアの侵攻を止めるための話し合いをしようとせず、もっぱら厳しい制裁措置や武器の供与に関する関係国との合意に力を入れていたと思います。そして、ロシアの体制転換を示唆するような発言までしていました。
 そこに、ヨーロッパ諸国に対するロシアの影響力拡大を阻止し、ロシアを弱体化させることによって、アメリカの利権と覇権を維持拡大しようとする本音がはっきりあらわれていた、と私は思います。

 また、ウクライナのゼレンスキー大統領も、国民へのビデオ演説で「16日が攻撃の日という話を聞いている。われわれはこの日を結束の日にする」と強調し、ロシアのウクライナ侵攻を止めてほしいとは言いませんでした。
 さらに言えば、アメリカでは、ロシアによる侵攻開始日を「16日」とする報道がくり返され、ブリンケン米国務長官が2月14日、ウクライナの首都キエフにある米国大使館を一時閉鎖すると発表しています。ロシアの侵攻を迎え撃つ体制を整えるためとしか思えません。

 そして、2月24日、ロシア軍がウクライナに入り、4月に「ブチャの虐殺」報道がなされて以降、猛烈なロシア批判が展開されました。4月5日には、ゼレンスキー大統領が、国際連合安全保障理事会での演説の中で、ブチャの件は「第二次世界大戦以降、最も恐ろしい戦争犯罪」であるとして、ロシアを痛烈に非難しました。
 また、バイデン米大統領も、戦争犯罪裁判の実施を呼び掛けるとともに、ロシアに対し追加制裁を科す意向を表明しています。そして、ロシアのプーチン大統領を「戦争犯罪人」と呼び、ブチャでの民間人殺害を「戦争犯罪」と非難したため、西側諸国のロシア非難の姿勢は決定的なものになったと思います。
 でも、「ブチャの虐殺」が報道された当時、第三者機関による検証はなされていませんでしたし、今は事件そのものに対する疑問の声が、あちこちで上がっています。だから、「ブチャの虐殺」に関する戦争犯罪裁判はなされないのではないかと私は思います。
 また、ウクライナ戦争が、アメリカによって用意されたシナリオ通りに進んだように思います。

 「ブチャの虐殺」が「第二次世界大戦以降、最も恐ろしい戦争犯罪」との断定も、いかがなものかと思います。
 歴史をふり返れば、アメリカが関わったアジアやラテンアメリカ、中東やアフリカ諸国における虐殺の数々は、「ブチャの虐殺」をはるかに超えています。

  私は、ベトナムやインドネシア、イラクや東チモール、チリやニカラグアなどにおける大虐殺を見逃してはならないと思います。ベトナムでは、共産主義の拡大を懸念するアメリカのバックアップを受けたゴ・ジン・ジェム独裁政権が秘密警察と軍特殊部隊をつかって、南ベトナムの反政府勢力の人たちを多数虐殺しました。貧富格差の問題や政権腐敗、仏教徒に対する弾圧などに対する不満がゴ・ディン・ジエム独裁政権に対する反発なったと言われていますが、アメリカは、ゴ・ディン・ジエム独裁政権を支援したばかりでなく、北ベトナムの関与を疑い、ドミノ理論に基づいて一方的に北爆(絨毯爆撃)をくり返し、数え切れない民間人を殺しました。300万人以上とも言われているのです。

 インドネシアでは、アメリカが支援したスハルト政権の下で、200万人ともいわれる人びとが「共産主義者」やその「支持者」として虐殺されたといいます。
 また、スハルト政権は、東ティモールの併合を意図し、フレテリン(東ティモール独立革命戦線)の抵抗に対して激しい弾圧を加えたため、インドネシア占領下で命を失った東ティモール人は20万人にのぼると言われているのです。
 アメリカのバイデン大統領は、ウクライナ戦争以降、「これは、民主主義と専制主義の戦いだ」などというような言葉をくり返していますが、歴史をふり返れば、アメリカの対外政策や外交政策は、一貫して民主主義や自由主義を否定するものであったいえるように思います。

 だから私は、まず、アメリカが原爆投下という戦争犯罪を謝罪し、力で他国を支配するような体制を転換して、国際社会の法治を実現するよう求めたいのです。 
 そして、古代ギリシャの哲学者・アナカルシスの言葉、”法はクモの巣のようなものだ。弱者を捕らえるが、強者は簡単に食い破る”を克服してほしいのです。

 今回抜萃したのは、前回の「アメリカの陰謀とキッシンジャー」クリストファー・ヒッチンス:井上泰浩訳(集英社)「第七章 キプロス」の続きです。キプロスに対するアメリカの関わりも、民主主義や自由主義を否定するものであったことがわかると思います。
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                     第七章 キプロス

 ところで、1986年に出版された当時ギリシャ軍司令官だったグリゴリオス・ボナノス将軍の回顧録によると、ギリシャ軍事政権がキプロスに攻撃を仕掛けたことに対し、承認と支援のメッセージがある男によってギリシャ諜報機関に届けられた。その男とは、トーマス・A・パパスだ。ギリシャ軍事政権とニクソン・キッシンジャー政権の間を取り持った男だ。パパス氏については、第九章に再度登場していただく。

 その後、国連の壇上に立ったマカリオスは、クーデターは「侵略」だと発言している。しかし、ワシントンでは、キッシンジャーの報道官ロバート・アンダーソンがクーデターは他国による介入ではなかったと言い切った。介入ではないかという記者の質問に、違うと答えたアンダーソン報道官は、「われわれの見解では、外部からの介入はなかったと判断している」と、あまりに非現実的な応答をしている。
 キッシンジャーの取った行動も同じだ。クーデター後にキッシンジャーが駐米キプロス大使と面談した際、亡くなったと伝えられていたマカリオス大統領への哀悼の意さえ表さなかった。「元凶」とマカリオスのことを毛嫌いしていた理由が、ここに表れている。民主選挙で選ばれたマカリオス政権を合法的な政権として承認しないのかとの問いに、キッシンジャーはむっとした顔をして何も答えていない。米国政府はサンプソン政権を承認する方向に動いているのかとの問いには、キッシンジャーの報道官は否定しなかった。

 7月22日に、マカリオスがワシントンに乗り込んできたとき、マカリオスを一民間人、司祭、キプロス大統領のいずれの立場として迎えるかという問題を国務省は問われた。答えはこうだ。「彼(
キッシンジャー)はマカリオス司祭と月曜日に会談する」。崩壊が急速に進んでいた独裁国家ギリシャを除いた世界各国は、マカリオスがキプロス共和国の合法的な元首だと承認していた。キッシンジャーのマカリオスに対する独善的な姿勢は外交上前例のないもので、彼と同類のギリシャ軍部のゴロツキに味方をし結託していたことを物語っている。
 マカリオスをキプロスの合法的な大統領としてワシントンに招いたのは、上院外交委員会議長のJ・ウイリアム・フルブライト議員と下院外交委員会議長のトーマス・モーガン議員の両氏だ。マカリオスの招聘が実現したのは、クーデターの可能性に警鐘を鳴らし続け、フルブライトの友人である前出のエリアス・P・デマトラコポウロスの功績だ。ロンドンで英国外務大臣と会談していたマカリオスに、デマトラコポウロスは米国からの招聘を伝えた。このキッシンジャーに対する先制攻撃は、デマトラコポウロスのジャーナリストとしての一連の反軍事政権活動の最後をかざるものだ。以前から彼はキッシンジャーに逆恨みされており、マカリオスの米国訪問を実現させたことによって報復の標的になる(第九章を参照)。結局、キッシンジャーはマカリオスを司祭としてではなく、大統領として迎え入れることを発表せざるをえなくなった。

 ギリシャ軍事政権によるクーデターをつぶすため、トルコや英国が軍事力に訴えることにキッシンジャーは猛反対した。英国はキプロスとの条約の取り決めにより、英国軍を駐留させていた。しかし、ギリシャの軍事政権が崩壊したのちに取ったキッシンジャーの行動は一転する。トルコは二度の侵略攻撃を行ない、キプロスの四割を占有した。トルコの暴挙に対し米国議会は報復措置を取るように動いた。だが、キッシンジャーはかつて肩入れしてきたギリシャから今度はトルコを守るべく議会工作に奔走したのだ。キッシンジャーはギリシャの軍事政権など聞いたこともないかのようにトルコ擁護へ寝返った。結局、キプロスが分断されてさえいればよかったのだろう。

 ギリシャ軍事政権を支持し、マカリオスは大きらいだと公言していたからといって、キプロス分割政策の責任のすべてをキッシンジャーひとりにかぶせることはできない。しかし、裏ルートを使い、民主主義を無視する手段を使ったキッシンジャーは、マカリオス暗殺計画の共犯者だ。暗殺計画が頓挫すると、何千人もの市民が犠牲となり20万人の難民を出した紛争を引き起こした。その結果、キプロスを政情不安に陥れズタズタにしてしまい、四半世紀たった今も平和はおびやかされ続けている。それにしても、この件に関する記録を封印させてしまうキッシンジャーの努力は並々ならぬものだ。しかし、いつか文書が公開されたときには、延々と続く彼の起訴状の一部に使われることは確かだ。
 
 1976年7月10日、欧州委員会人権問題小委員会は、トルコによるキプロス侵略をまとめた報告書を採択した。J・E・S・フォーセット教授を議長とする18人の一流の法律家によって作成されたものだ。報告書によると、トルコ軍は民間人の虐殺をはじめからねらっており、処刑、拷問、強姦、略奪をくり返した。また、民間人を裁判なしで罰し投獄した。捕虜となった者や民間人の多くが姿を消してしまい、今もなお行方不明のままだ。行方不明者の中には、米国人もふくまれている。
 残虐行為やクーデターの責任を取りたくないキッシンジャーは、新しく朋友となった中国に大ぼらを吹く。1974年10月2日、キッシンジャーは、中国の喬冠華(キョウ・カンカ)・外務副大臣と高官協議をおこなった。
 鄧小平の訪問以来、実質的に初めて米中会談で、最初の議題はキプロス問題だった。「トップシークレット/国家機密/完全マル秘」と題された議事録によると、米国がマカリオス打倒工作を手助けしたのではないかという中国の質問に対し、キッシンジャーはきっぱり否定した。「われわれは何もしていない。われわれはマカリオスと敵対してはいない」(彼の回顧録では、これとまったく異なることを発言尉していたことになっている)。キッシンジャーは、「クーデターが起きたとき、私はモスクワにいた」といっているが、これもうそだ。さらに「わたしの部下は、(クーデターが差し迫っているという)情報を深刻に受けとめていなかった」と発言しているが、これもまったく逆だ。キッシンジャーは、こうもいっている。──マカリオスはギリシャの軍事政権がクーデターを企んでいるとマスコミを通じて非難しているが、クーデターが本当に実行されるとは思っていなかったとも。最後に、びっくりすることだが、「ソビエトがトルコに侵攻するよう勧めたことを、われわれはつかんでいる」とまでキッシンジャーは発言している。そうすると、トルコによるキプロス侵略は、米国の軍事援助を受けたNATO加盟国のトルコの軍隊が敵対するソビエトの煽動でおこなった史上初の侵略行為となる。
 大ぼら吹きもいいところだ。トルコの侵攻はソ連が煽動したという病的なうそは、当時の情勢、つまり、反ソビエト包囲網に中国を引き入れる必要があったことに起因するのかもしれない。しかし、それにしてもうその度がすぎているのは、ほかに何かうまいうそをつかなければならない理由があったのか、それとも妄想を抱いていたのだろうか。

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「ならずもの国家」アメリカの戦争犯罪に目をつぶるのはなぜ?

2022年07月04日 | 国際政治

 この頃、朝日新聞の社説にとても抵抗を感じています。7月2日の社説には、「日韓首脳外交 打開探る実質対話こそ」と題して、”国と国との間で長引く懸案があるからこそ、指導者は時間をかけて対面すべきではないのか”とありました。その通りだと思います。
 では、なぜウクライナ戦争で、日々人が死んでいるというのに、また、世界中の人々が食糧問題やエネルギー問題で苦しんでいるというのに、停戦や和解のための対話を呼び掛けないのでしょうか。なぜ、ウクライナ戦争を主導するアメリカに、対話を求めないのでしょうか。

 ノルドストリームプロジェクトは、ヨーロッパに対するロシアの影響力を強め、アメリカの覇権の凋落を加速させることは、明らかだったと思います。
 でも、第二次世界大戦後、西側諸国の頂点に立ってきたアメリカは、国際社会の多極化や多中心化とよばれる状況を受け入れようとせず、あらためて、世界各国をアメリカ中心の経済秩序に組み込み、自らの覇権の危機を乗り越えようと、ロシア排除に動いた、そのことを抜きに、ウクライナ戦争を語ることはできないと思います。
 戦争で、日々死者が出ているにもかかわらず、また、世界中の人々が食糧問題やエネルギー問題に直面し、苦しんでいるにもかかわらず、今なお、アメリカが、ウクライナ戦争にかかわる対話を避け、NATOの拡大や強化、ウクライナに対する武器の供与を主導している事実を、なぜ黙認してしまうのか。停戦や和解のための対話を、なぜ、強く求めないのか、と苛立ちを感じます。

 アメリカは、第二次世界大戦後も、自国の利益を、世界平和や国際秩序に優先させ、あらゆる地域で、くりかえし武力を行使してきたと思います。国連憲章や国際条約を蔑ろにしてきたと思います。
 ロシアのウクライナ侵攻が、違法であるという側面は否定できないと思いますが、実は、アメリカがロシアを弱体化させるために、ウクライナに巨費を投じ、今回の戦争を準備してきたという側面も見逃してはならないと思います。
 米国務省のビクトリア・ヌーランド(オバマ大統領上級補佐官)が講演で、”我々は、ウクライナの繁栄、安全、民主主義を保障するため(現実は政権転覆)に50億ドル以上を投資してきた”と述べたことはすでに取り上げました。それは、オバマ元大統領も認めているといいます。バイデン大統領は、副大統領時代に6回もウクライナを訪れているといいますが、マイダン革命は、アメリカの関与がなければなかった可能性があるということだと思います。だから、ウクライナ戦争では、ロシア以上にアメリカが問題だと思います。

 アメリカ主導のNATOの拡大や強化、ロシアに対する徹底した経済制裁、あらゆる組織からのロシア人の排除、ウクライナに対する際限のない武器の供与は、民主主義や自由主義や平和主義を掲げる国のやることではないし、国連憲章や国際条約その他の法の精神に反すると思います。
 
 ”国と国との間で長引く懸案があるからこそ、指導者は時間をかけて対面すべき”なのであって、同盟国であるからといって、法の精神に反するようなことを黙認してはならないと思います。
 ウクライナを支援することと、ウクライナ軍を支援することは同じではないのです。「死の商人」を喜ばせるだけの戦争は、やめてほしいのです。

 だから、今回も「アメリカの戦争犯罪」ラムゼイ・クラーク(柏書房)から、「告発」の続きの一部を抜萃しました。告発は、下記と同じようなかたちで、19まで続くのです。
 イラク戦争は、ほんとうに酷い戦争であったことがわかります。
 たとえば、
ブッシュ大統領は、国連安全保障理事会に圧力をかけ、一連の先例のない決議を採択させ、最終的には、諸決議を実行するためにいかなる国も絶対的な裁量によってすべての必要な手段を行使することができる、という権限を確保した。票をかき集めるために、アメリカは何十億ドルもの贈賄を行い、地域紛争のための兵器を提供し、経済的報復をほのめかし、また報復を実行し、数十億ドルの貸付を免除し(エジプトに対する兵器購入のための70億ドルの貸付を含む)、人権侵害のいかんを問わず外交関係の開設をもちかけ、その他腐敗に満ちた方法を使って、アメリカの対イラク政策は普遍的といってよいほど国際的に承認されたものであるという外観をつくりだした。アメリカに反対する国は、イエメンのように、すでに約束されていた数百万ドルの援助を失うことになった。これは今まででもっとも高くついた投票である。
 とあります。こうしたことは、今回のウクライナ戦争に関しても、あるのではないでしょうか。
 また、
ブッシュ大統領は、サダム・フセインを悪魔に仕立てあげる巧妙な宣伝活動を行った。
 とあります。プーチン大統領を悪魔に仕立て上げる宣伝活動はなかったといえるでしょうか。
 下記の内容は、調査委員会の呼び掛けにより集められた、さまざまな関係者の証言、写真、ビデオテープ、公文書や記録その他に基づいているといいます。
 だから、私は、ウクライナ戦争を止めるために、「ならずもの国家」アメリカの戦争犯罪に目をつぶらないでほしいと思うのです。
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                 第一部 告発

告発
2 ブッシュ大統領は、1990年8月2日から、イラクを経済的かつ軍事的に破壊するみずからの計画に対するいっさいの干渉を妨げるよう意図し、かつ行動した。

 1990年8月第一週の間に、議会に諮ることも通知することもなく、ブッシュ大統領は、四万のアメリカ軍兵員に対し、サウジアラビアへの派遣命令を下した。ブッシュ大統領は、サウジアラビアからアメリカの軍事的支援の要請を取り付け、8月8日には全世界に対して自分の行動は「まったく防衛的なあもの」であると断言した。ブッシュ大統領は、1990年11月の中間選挙が終了するまで待って、すでに発していた20万以上の兵員の増派命令を公表した。これは明らかに攻撃部隊であり、しかも今度の議会に謀らなかった。
 1991年1月9日に至っても、ブッシュ大統領は、議会の承認なしにイラクを攻撃する憲法上の権限が大統領にはあると主張していた。
 ブッシュ大統領は、イラクを攻撃し破壊することを意図しながらこれを隠し、1990年8月から91年1月までひたすら、アメリカ軍の増強を続けた。大統領は、軍部に攻撃準備を急がせ、軍事上の観点からみて最適な状態になる前に攻撃を開始させた。9月16日に、ドゥーガン将軍は、イラクの民間経済を破壊する計画があることを報道関係者にもらしたところ、解任された。
 ブッシュ大統領は、国連安全保障理事会に圧力をかけ、一連の先例のない決議を採択させ、最終的には、諸決議を実行するためにいかなる国も絶対的な裁量によってすべての必要な手段を行使することができる、という権限を確保した。票をかき集めるために、アメリカは何十億ドルもの贈賄を行い、地域紛争のための兵器を提供し、経済的報復をほのめかし、また報復を実行し、数十億ドルの貸付を含む)、人権侵害のいかんを問わず外交関係の開設をもちかけ、その他腐敗に満ちた方法を使って、アメリカの対イラク政策は普遍的といってよいほど国際的に承認されたものであるという外観をつくりだした。アメリカに反対する国は、イエメンのように、すでに約束されていた数百万ドルの援助を失うことになった。これは今まででもっとも高くついた投票である。
 ブッシュ大統領は、8月11日のイラクの提案を大幅に無視したのを始めとして、ブッシュ大統領が「みじめなペテン」と呼んだ翌年2月半ばの最後の和平提案まで、平和的解決をめざして交渉しようとするイラクの努力を一貫してはねのけ、嘲弄した。ブッシュ大統領は、侵略に対しては交渉も妥協も面子も報酬もありえないことを一貫して主張した。同時に、ブッシュ大統領は、外交的解決を拒否したと言って、サダム・フセインを非難した。
 ブッシュ大統領は、サダム・フセインを悪魔に仕立てあげる巧妙な宣伝活動を行った。この工作は、フセインをヒトラーになぞらえたり、保育器に入った数百人の赤ん坊の殺害についての報告を繰り返し引用したり、アメリカの情報機関が虚偽だと確信していることを知りながら、イラクが自国民およびイラン国民に化学兵器を使用したと非難することによって行われた。
 和平のための努力をことごとくひっくり返した後で、ブッシュ大統領は、次のように自問自答し、イラクの破壊を開始した。「なぜ待たないのか? ……世界はもはや待つことができない」。
 この一連の行動は、平和に対する犯罪にたる。

3 ブッシュ大統領は、イラク全土にわたって、民間の生活や経済的生産にとって不可欠な施設を破壊することを命令した。

 イラクに対する空爆とミサイル攻撃は、アメリカ東部時間1991年1月16日午後6時30分〔バグダッド時間で午前2時30分〕に開始するように命令されたが、これは最終期限より18時間半後のことであった。この時間はテレビのプライムタイムで報道されることを意図して、ブッシュ大統領が主張したものだ。爆撃は42日間続いた。イラク側は、航空機や地上からの効果的な対航空機・対ミサイル砲火によって抵抗しなかった。イラクは無防備の状態だった。
 アメリカは、イラクに対して11万機を出撃させ、8万8000トンの爆弾を投下したが、これは広島を破壊した原子爆弾の7倍に匹敵する。爆弾の93%は自由落下爆弾であり、大部分は高度3万フィート(1万メートル)以上の上空から投下された。残りの7%の爆弾はレーザー誘導装置をつけた爆弾だが、その25%以上が目標をはずれ、ほぼその全部が、もともと識別可能な目標を超えて、被害をもたらした。目標の大部分は、民用施設であった。
 一般市民生活や民用施設にむけられた爆撃の意図と努力は、イラクの経済基盤を系統的に破壊して、工業化以前の状態に陥れることにある。イラクの市民生活は、工業力に依存している。戦争後初めてイラクに入国した国連の調査団が報告しているように、アメリカの攻撃によって、イラクは黙示録に示された状態に近い惨状におかれた。目標とされた施設は以下のものだ。

・発電、電力中継および送電
・浄水装置、揚水や配水システムおよび貯水池
・電話・ラジオの交換局、中継局、発信局および送信施設
・食品加工、貯蔵や配送施設および市場、乳児用ミルク調整工場と飲料品工場、動物免疫施設、灌漑施設
・鉄道輸送施設、バス車庫、橋、主要高架道路、幹線道路、道路補修基地、列車、バスその他公共輸送車両、商業用車両および私用車両
・油井および油井ポンプ、パイプライン、石油精製所、石油貯蔵タンク ガソリン給油所、燃料輸送タンクローリーとトラック、および灯油貯蔵タンク
・下水処理システム
・民用物資の生産に従事する工場、たとえば繊維工場、自動車工場

 このような破壊の直接的な結果として、数万の人が脱水症、赤痢や不衛生な水に起因する病気、医師の効果的な治療の欠如、飢餓とショックと寒さとストレスから生じた衰弱によって死亡した。飲用可能な水、衛生的な居住条件、十分な食糧配給その他、必要な手段が提供されるまでには、もっと多くの人々が死ぬであろう。食糧供給が十分行われ、基本的なサービスが回復しない限り、1991年夏にかけてコレラ、チフス、肝炎その他の病気が流行する危険が高く、また餓死や栄養不良が生じる危険も高い。
 イラクの破滅は、アメリカによってのみ可能だったのであり、また、アメリカがほとんど一国で行った。この行動は、国連憲章、ハーグ条約、ジュネーブ条約、ニュルンベルク憲章ならびに武力紛争に関する法律に違反する。

4 アメリカは、文民の生命、商業およびビジネス地区、学校、病院、モスク、教会、避難所、居住地区、史跡、民用車両ならびに政府文民機関を意図的に爆撃し破壊した。

 民用施設の破壊により、一般住民はすべて、暖房、調理用燃料、冷蔵設備、飲料水、電話、ラジオやテレビ受信用の電源、公共輸送手段、民用車両のための燃料がない状態におかれ、食糧供給は限られ、学校も閉鎖され、大量失業がつくりだされ、経済活動は厳しく制限され、医療施設も閉鎖された。さらに、あらゆる主要都市と大部分の町村の居住地区が目標にされ破壊された。ベドウィンのキャンプがアメリカ軍機によって攻撃された。死傷者に加え、空襲によって2万戸の家屋、アパートその他の住居が破壊された。商店、事務所、ホテル、食堂その他公共宿泊施設のある商業センターが目標にされ、数千が破壊された。多数の学校、病院、モスクおよび教会が損傷を受け、あるいは破壊された。幹線道路その他道路上の民用車両、野外駐車や車庫の中の民用車両が、何千も目標にされ破壊された。この中には、公共用バス、民間のバンやミニバス、トラック、牽引トレーラー、タンク・ローリー、タクシーおよび自家用車が含まれている。この爆撃の目的は、この国全体を震えあがらせ、人民を殺害し、財産を破壊し、移動を阻止し、人民の士気を阻喪させて、政府転覆を余儀なくさせることだった。
 一般市民生活にとって必要不可欠の施設、居住用建物その他一般の建物および地区が爆撃され、「すくなくとも2万5000人の男女・子どもが殺された。ヨルダン赤新月社(赤十字社にあたる)の推定では、戦争終結1週間前に、文民11万3000人が死亡し、そのうち60%が子どもだった。
 この行動は、国連憲章、ハーグ条約およびジュネーブ条約、ニュルンベルク憲章ならびに武力紛争に関する法に違反する。

5 アメリカは意図的に、イラク全土にわたって無差別爆撃をおこなった。

 都市、町、地方および幹線道路に対する空襲において、アメリカ軍機は、無差別に爆撃と機銃掃射を行った。どの都市でも町でも、爆弾は、民用施設、軍事設備、または軍事上の標的にかかわりなく、偶然にゆだねられて、予定の目標からはるかに離れた地点に落下した。地方では、無差別爆撃が旅行者や村民に対して行われ、ベドウィンも例外ではなかった。この攻撃の目的は、生命を奪い財産を破壊し、一般住民を震え上がらせることにあった。幹線道路では、公共用バス、タクシーおよび旅客用運送車両を含む民間の車両が無差別に爆撃され地上掃射されたため、一般住民は恐怖により逃げたり、食べ物・医薬を求めたり、近親者を探すなど、幹線道路の通常の使用ができなくなった。これは結果として、老若男女を問わず、大きな移民グループを含むあらゆる国籍の人(アメリカ人さえも含む)、多数のクルド人やアッシリア人を含むあらゆる人種グループ、イスラム教スンニー派、シーア派、カルデア人その他キリスト教徒およびユダヤ教徒を含むあらゆる宗教徒に対する無差別な略式処刑、身体刑であった。アメリカがイラクにおける文民および兵員の死傷者やその内訳に対して故意に無関心を通したことは、空爆および地上作戦から生じた死亡人員について記者の質問に答えたコリン・パウエル将軍の次のような発言が典型的に示している。「実際、数じゃないのだ。私が気にしているのは」
 この行動は、ジュネーブ諸条約に追加される1997年の第一議定書第五十一条第四項に違反する。

6 ・・・略

 

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”皇室ノ尊厳ヲ冒瀆スル”津田左右吉を”禁固参月ニ処ス”

2021年12月13日 | 国際政治

 下記は、「現代史資料 42 思想統制」(みすず書房)から、”津田左右吉外一名に対する出版法違反事件”の裁判の予審終結決定に関する部分の一部を抜萃したものです。
 予審終結決定理由を読めば、津田左右吉の著書から、津田左右吉のいろいろな記紀に関する考察部分を長々とそのまま引用し、その内容の正否については、全く論ぜず、”皇室ノ尊厳ヲ冒瀆スル”ものであるとの理由だけで、「出版法違反」としていることがわかります。古事記や日本書紀の解釈、また、神話に関する学術的な論述は全くないのです。

 津田の研究は、天照大神が、”皇孫を降臨せしめられ、神勅を下し給うて君臣の大義を定め、我が国の祭祀と政治と教育との根本を確立し給うた”という神代史を問題とし、”皇室の尊厳”ということ自体の根拠を問うものであるにもかかわらず、その内容に立ち入らず、”皇室ノ尊厳ヲ冒瀆スル”として、「出版法違反」で、”禁固参月ニ処ス”というのですから、当時の日本の指導層は、”お話しにならない”非論理的な考え方をする国であったことを示しているように思います。

 そういう意味で、滝川教授を休職処分にした行政、また、美濃部達吉の天皇機関説を、”神聖なる我が国体に悖(モト)り、その本義を愆(アヤマ)るの甚しきものにして厳に之を芟除(サンジョ)せざるべからず。”として、国体明徴声明を発表した政府、それを許した議会、さらに、津田左右吉に禁固刑を下した司法も、日本の戦争に加担したと言っても言い過ぎではないように思います。
 そんな非論理的な考え方では、ただ一途に、統帥権の独立を主張し、帷幄上奏によって、暴走する軍を止めることはできないと考えられるからです。

 溯れば、それは、史実ではなく神話に基づいて、”大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス”とか”天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス”などと定めた大日本国憲法の神話的国体観、さらに溯れば、幕末の藤田東湖や会沢正志斎、吉田松陰等の思想を受け継いだ薩長を中心とする尊王攘夷急進派の神国思想が、そうした非論理的な考え方を日本に定着させ、日本の歩みを決定づけたように思います。だから私は、明治維新が、日本の敗戦への歩みの始まりであったように思うのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
        四十 津田左右吉外一名に対する出版法違反被告事件予審終結決定(東京刑事地方裁判所1941.3)

昭和十五年予第48号被告人 津田左右吉殿
    予審終結決定
本籍地並住居 東京市麹町区麹町五丁目七番地二
                    無   職     
                    津 田 左右吉 69歳
本籍  同市神田区神保町二丁目三番地二
住居  同市小石川区小日向水道町九十二番地
                    出 版 業
                    岩 波 茂 雄 61歳
右両名ニ対スル出版法違反被告事件ニ付予審終結決定ヲ為スコト左ノ如シ
   主  文 
 本件ヲ東京刑事地方裁判所ノ公判ニ付ス
   理  由 
被告人津田左右吉ハ明治二十四年七月早稲田大学ノ前身ナル東京専門学校政治科ヲ卒業シタル後、文学博士白鳥庫吉ニ師事シテ史学ヲ専攻シ、前橋、千葉等ノ各地ニ於テ中等学校ノ教員ヲ為シ、明治四十一年頃南満州鉄道株式会社ガ満州及ビ朝鮮ノ地理歴史研究室ヲ設置スルヤ、同博士指導ノ下ニ之ガ研究員トナリ、大正二年頃同研究室ガ東京帝国大学ニ承継セラルルニ及ビ同大学文学部嘱託トシテ昭和十四年十二月ニ辞職スル迄引続キ其ノ研究ニ従事シタルガ、其ノ間大正六年頃早稲田大学文学部講師トナリ、次デ大正七年中同大学教授ニ任ゼラレテ専ラ其ノ職務ニ従ヒ、爾来久シキニ亘リ東洋史、国史、支那哲学等ノ講座ヲ担任シ、且昭和十四年十月下旬ヨリ同年十二月上旬迄東京帝国大学法学部講師ヲ兼ネ、尚大正十一年中文学博士ノ学位ヲ授与セラレテ今日ニ及ビタルモノ

被告人岩波茂雄ハ明治四十二年七月東京帝国大学文科大学哲学科選科ヲ卒業シ、一時中等学校ニ奉職シタル後大正二年頃書籍店ヲ開業シ、大正三、四年頃出版業ヲ開始シ東京神田区一ツ橋二丁目三番地ニ於テ岩波書店ナル商号ヲ以テ引続キ斯業ヲ営ミ来レルモノナルトコロ

第一、被告人津田左右吉ハ夙ニ明治維新史ノ研究ニ志シ、其ノ思想的意義ト思想的由来トヲ探求スル為国学者ノ著述等ニ親シミ、古事記及ビ日本書紀ニ関スル注釈書等ヲ渉猟シテ漸次我上代史ノ研鑽ニ努メ、次デ満州朝鮮ノ地理歴史研究ニ従事スルニ及ビ我上代史ハ朝鮮及ビ支那ノ史籍トノ関連ニ於テ研究セラレザルベカラザルモノト為シ上代史ニ於ケル最古ノ史料タル古事記及ビ日本書紀等ノ考究ヲ続ケタル結果、古事記及ビ之ニ相応スル部分ノ日本書紀ハ所謂帝紀(帝皇日継即チ皇室ノ御系譜)及ビ旧辞(若クハ本辞、即チ上代ノコトニ擬セラレタル種々ノ物語)ヲ専ラ其ノ資料トシテ編纂セラレ、此ノ帝紀旧辞ハ、モト朝廷ニ於テ編述セラレタルモノニシテ、其ノ最初ノ編述ハホボ、継体天皇乃至、欽明天皇ノ御宇頃、即チ六世紀ノコトナルガ、其ノ時帝紀ノ材料トシテハ、応神天皇以後ニ付テハホボ信用スベキ記録ヲ存シタルモ旧辞ニ於テハ確実ナル史料殆ド之無カリシヲ以テ編述当時ノ政治上社会上ノ状態、五世紀以後ニ起コリタル歴史的事件ノ朧気(オボロゲ)ナル言ヒ伝ヘ、又ハ民間説話等ヲ主ナル材料トシ、編者ノ構想ヲ以テ、之ヲ潤色、結合、按排シテ、古キ時代ノ事実ラシク叙述セルモノニシテ、旧辞ノ編者ノ意図ハ全体トシテハ皇室ノ起源ヲ説明シ、其ノ権威ガ漸次我民族ノ全部ニ及ビ、朝鮮半島ノ一部ニモ及ビタルコトヲ歴史的物語ノ形ヲ以テ示サントセルモノニシテ、又一々ノ物語トシテハ「ヤマト」ニ都ノアルコトヲ始トシ「クマソ」「エミシ」新羅等ニ関スル当時ノ政治上ノ状態ニ於テ重要ナル事柄ニ付、夫々其ノ由来ヲ説明セルモノナルガ、此ノ帝紀旧辞ハ最初ノ編述ノ後朝廷ニ於テモ幾度カ増補変改ヲ加ヘラレ、又私人ノ間ニ於テモサマザマナ時代ニサマザマノ人ニヨリテ局部的ノ添刪(テンザン)行ハレ、従テ七世紀ノ中頃ニハ此ノ帝紀旧辞ニ種々ノ異本存シ、所説区々タリシガ、斯ル数多ノ異本中ノ或帝紀ト旧辞トガ古事記ノ原本ト為リタルモノニシテ、又帝紀ト旧辞ノ種々ノ異本ガ書紀ノ上代ノ部分(古事記ニ物語ノアル時代)ノ重要ナル材料トナリ、書紀ニハ其ノ外、遙カ後世ニ至リテ作ラレタル話及ビ百済ノ史籍ヨリ写シ取ラレタル記事並編纂者ノ脳裡ニテ構造シタルコト等ヲ加ヘ之等ヲ年代記的ニ排列セラレタルモノナルガ故ニ、古事記及ビ日本書紀ノ上代ニ関スル記載ノ大半ハ其ノ記述ノ儘ガ歴史的事件ノ記録タルモノニ非ズトノ独自ノ見解ヲ樹テ大正二年頃以来其ノ著「神代史の新しい研究」等二依リ右ノ如キ見解ヲ表明シ来リタルガ、
 昭和十四年三月頃ヨリ同年十二月迄ノ間自ラ著作者トシテ被告人岩波茂雄ヲシテ「古事記及日本書紀の研究」ト題スル書籍四百五十部、「神代史の研究」ト題スル書籍約二百部、「日本上代史研究」ト題スル書籍約百五十部、「上代日本の社会及び思想」ト題スル書籍約二百部ヲ発行セシメ此等ノ著作物ニ依リ右見解ニ基ク講説を縷述(ルジュツ)シ居ルモノニシテ
一、「古事記及日本書紀ノ研究」ニ於テハ叙上ノ見解ヲ詳説シ、古事記及日本書紀ノ上代ノ部ニ於ケル主要記事ニ逐次批判検討ヲ加ヘタル上
(一)「古事記及日本書紀とに見える物語(神武天皇ノ御偉業)は、其のもとになったものから二つの方向に発展し若しくは二様に変改せられたものであると、いふことが推測せられる。しかし此の原の話に於ても、それが事実を語ってゐるものであるとは考へられぬ。第一大和川やクサカ江の水で大軍を進めることが出来たとも思はれぬ。またヤマトに攻め込むにクマヌを迂回するといふことも、甚だむづかしい話であって、そんな方面からの攻撃に対しては、ヤマトに根拠を有するものの防禦力は、西面に於けるよりも幾層か強大であるべき筈である。もっとも、これには神力の加護があったといふ話であるが、神の話は固より人間界のことでは無い。(中略)ヤマト征服がナガスネヒコの防禦で始まり、其の敗亡で終つてゐて、ヤマトの勢力は即ちナガスネヒコの勢力と見なすものであるにも拘わらず、所々のタケルや土蜘蛛は彼に服属してゐたものらしくは見えず、物語の上ではヤマトに何等の統一が無いやうになってゐるのは、不徹底の話であって、事実譚としては疑はしいことである。のみならず、此の物語は例の地名説話で充たされてゐる。(中略)ところが、かういふ神異の神や地名説話や歌物語やを取り去り、また人物を除けて見ると、此の物語は内容の少ない輪郭だけになる。さうして、其の輪郭の主要なる線を形づくるクマヌ迂回のことが、前に述べたやうな性質のものである、(中略)また書紀には、御即位の記事に、天皇を ハツクニシラス天皇ト称してあるが、崇神天皇をやはり ハツクニシラス天皇としてあるのも、注意を要する。既に、神武天皇がゐらせられる以上、崇神天皇を斯う称することには、説明が無くてはならぬ。或はここにも物語の発達の歴史があるかも知れぬ。(中略)それのみでない。此の物語の根本思想たる東征其のことの話にも、幾多の疑問がある。第一、天皇はムヒカから出発あらせられたといふのであるが、これは一体どういふことであらうか。(中略)単に皇室の発祥地がムヒカであるといふことに対しても、第二章に述べた如く後世までクマソとして知られ逆賊の占拠地として見られ、長い間国家組織には加はつてゐなかつた今日の日向、大隈、薩摩地方、またかういふ未開地、物質の供給も不十分で文化の発達もひどく遅れてゐる僻陬(ヘキスウ)の地、所謂ソシシの空国が、どうして、皇室の発祥地であり得たか、といふ疑問があるのである。(中略)其の上、ムヒカから一足飛びにヤマトの征討となつて、其の中間地方の経略が全然物語に現はれてゐないのは、どういふものであらうか。懸軍万里ともいふべき遠征が、如何にして行はれたであらうか。また、皇室の発祥地であつたムヒカがどうしてクマソの根拠地となつたであらうか。ここにもまた重大な疑問が無くてはならぬ。ムヒカに関する 神武天皇の巻の物語を歴史として見る時には、此等の困難なる問題に明解を与へねばなるまい。(中略)それから、総論の第二節に述べた如く、三世紀以前に於ては、ツクシ地方は幾多の小独立国に分れてゐて、今の中国以東との間に政治的関係の無かつたことが推測せられるが、記紀の東征物語が此の事実と適合するかどうかも重大な問題である。」(438頁乃至453頁)
「或は物語の上に現はれる 皇室の御祖先の御歴代に於て、神代と人代とをどこかで区劃しなければならぬヤマト奠都(テント)の物語は茲に於いてか生じたのである。即ち思想の上に於いて、ヤマトの朝廷によつて国家が統一せられてゐる現在の政治的状態の始まつた時を定めそれを人代の始と見なしたのである。さうして、それが思想上の話であるといふのは、もしヤマト奠都が歴史的事実であり、其の前に都のあつた何処かゝら遷されたことであるとするならば、それは後にヤマトからヤマシロに遷され、京都から東京に遷された場合と同様、其の前も後も連続した一つの歴史即ち人間界のことゝして人の記憶に遺り、人の思想に存在した筈であつて、従つて、それを神代と人代との境界とし、劃然たる区別を其の前後につけようといふ考が起るまい、といふことから明らかに推知せられよう。のみならず、かういふ一つのことによつて神代と人代とが明かなる限界線を劃せられてゐる点に、其の区劃が人為のものであり、頭の中で作られたものであること、従つて人代といふ観念もまた神代同様、思想の上で形づくられたものであることが、知られる。と同時に、又た此の物語そのものが、やはり何人かによって考察せられたものであることがわかるので、物語そのものからいふと、これは恰も、神功皇后の物語が韓地経略の由来を説いたものであるやうに、ヤマトの 朝廷の起源を述べた一つの説話なのである。歴史的事実としての記録とは考へ難い。」(466頁467頁)
「此の物語(景行天皇ノ筑紫御巡幸及ビ熊襲御親政)は、果たして事実として見るべきものであらうか。それについて第一に考ふべきことは、前に述べた如く地理上の錯誤の多いことである。此の物語が事実の記録として信じがたいことの一つである。(中略)第二に、此の物語を構成する種々の説話は、主として地名を説明する為に作られたものである。(中略)第三には、人名に地名をそのまゝ用ゐたもののあることである。(中略)なほ第四には、多くの兵を動かさば百姓の害であるといふので、鋒刃(ホウジン)の威を仮らずしてクマソを平らげようとせられたといふ話、クマソの酋長の二女を陽に龍し、姉の方のイチフカヤの計を用いて酋長を殺させて置きながら、其の女の不幸を悪んで之を誅せられたといふ話が、支那の思想であることを考へねばならぬ。また第五には、ヒムカでヤマトを憶うて詠ませられたといふ歌が、古事記ではヤマトタケルの命のイセでの詠として載せられ、而もそれが決して一首の歌として見るべきものでないことを、注意しなければならぬ。(中略)かう考へて来れば、此の物語を構成する種々の説話は、決して事実の記録で無いことが知られよう。」(256頁乃至262頁)
「さて此の物語(日本武尊ノ熊襲征討ニ関スル物語)の女装云々は固よりお噺である。ヤマトの朝廷から遠路わざわざ皇子を派遣せられるといふ物語の精神から見ても、クマソは大なる勢力を西方に有つてゐたものとして、物語の記者の頭にも映じたに違いない。さういふ大勢力が、こんな児戯に類することで打ち破られるものではあるまい。」(中略)「一体斯ういふ英雄の説話は、其の基礎にはよし多人数の力によつて行はれた大い歴史的事実があるにしても、其の事実を其のままに一人の行為として語つたものでは無く、事実に基づきながら、其れから離れた概念を一人の英雄の行動に託して作つたのが、普通である。だから、かういふ話が出来るのである。それから、クマソタケルがヤマトタケルの名を命に上つたといふのも、お噺であつて、ヤマトタケルといふ語はクマソタケル、また古事記の此の物語の直ぐ後に出てゐるイヅモタケルと、同様のいひ表はし方である。即ちクマソの勇者イヅモの勇者に対してヤマトの勇者といふ意味でありそれがヤマト朝廷の物語作者によつて案出せられたものであることはいふまでも無からう。(皇子の御本名はヲウスの命とある。)さうして此のクマソタケル、イヅモタケルは上に述べたやうな地名を其のまゝに人名とした一例であつて、実在の人物の名とは考へられない。実在の人物ならば、こんな名がある筈は無いから、これは物語を組立てる必要上、それぞれの土地の勢力を擬人し、或は土地から思ひついて人間を作つたのである。さうしてそれは、よし実際にそこに何かの勢力があつた場合にしても、時と処とを隔てゝ、即ち後世になつて、又たヤマトの朝廷に於て、物語を製作者の頭から生まれたこととしなければならぬ。だから此の物語もまた、決して其のままに歴史的事実として見ることは出来ないものである。」(220頁乃至222頁)「ヤマトタケルの命のクマソ征討も、物語に現はれてゐるところは事実では無いが、しかし朝廷に服従しなかったクマソといふ勢力があり、或時代に多少の兵力を以てそれを平定せられたことは事実らしい。ヤマトタケルの命の物語は、それを一英雄の行動として作った話であらう。」(224頁乃至225頁)
「此の物語(日本武尊ノ東国御経略)は歴史的事実かどうかといふに、其の内容はやはり事実として認め難いことが多い。地名説話はもとよりのこと、民間説話めいた白鳥の物語が、何れも事実らしくないことはいふまでも無からう。また特に注意すべきは種々の宗教的分子を含んだ説話であるが、これも歴史的事実とは認められない。(中略)だから此の物語は、例の東国経略といふ漠然たる概念を基礎にして、それから作つた話をヤマトタケルの命のに結びつけたのであつて、それは多分クマソ征討の物語と対立せしめるためであり、さうしてそれは東方、特にアヅマ方面が、クマソの汎称によつて代表せられてゐるツクシの南部とほゞ同じやうにヤマトの朝廷には視られてゐたからであらう。」(332頁乃至325頁)
「此の物語(神功皇后ノ新羅御親征)に於いていくらかは歴史的事実の面影が見られるとして、それは如何にして此の物語となつて現はれたのであらうかといふに、古事記の物語に事実と認むべきこと無くして、全体の調子が説話的であること、進軍路の記載が極めて空漠であること、新羅問題の根原ともいふべき加羅(任那)のことが全然物語に見えてゐないこと、事実としては最初の戦役の後絶えず交戦があつたらしいのに、それが応神朝以後の物語に全く現はれてゐないこと、などを考へると、これは事実の記録または伝説口碑から出たもので無く、よほど後になつて、恐らく新羅征討の真の事情が忘れられた頃に、物語として構想せられたものらしい。」(170頁)
「神武天皇から、仲哀天王までの物語を大観すると、国家経略の順序が甚だ整然としている。第一にヤマト奠都の話があり、次に崇神垂仁両朝の内地の綏撫があり、次に景行朝のクマソ及び東国に対する経略となり、それから成夢朝にかけて 皇族の地方分遣、国県の区劃制定とが行はれ、最後の仲哀朝に至つて外国征討が行はれる。近きより遠きに、内より外に及ぼされた径路が、一絲乱れずといふ状態である。これも事実の記録であるよりは、思想上の構成として見るにふさはしいことの一つである。(この点から見ても、書紀が垂仁朝に加羅の服属物語を結びつけたのは、後人の潤色であることが知られる。)此等の点を、上に詳説した一々の物語の批判に参照して見れば、記紀の仲哀天皇(及び 神功皇后)以前の部分に含まれてゐる種々の説話を歴史的事実の記録として認めることが今日の我々の知識と背反してゐるのは明かであらう。(中略)さうして国家の成立に関する、或は政治上の重大事件としての、記紀の物語が一として古くからのいひ伝へによつたものらしくないとすれば、それが幾らか原形とは変つてゐようとも、根本が後人の述作たることに疑は無からう。」(474頁、476頁)
「神武天皇から仲哀天皇までの物語に人間の行動と見なし難いことが多いのは、一つは之がためである。さうして、それがほゞ仲哀天皇までゞあるのは、帝紀旧辞の編述せられた時に、御系譜だけでもほゞ知り得られたのは、応神天皇より後のことであって、それより前については記録も無く、其の頃の歴史的事実が殆んど全く伝へられてゐなかつた」(468頁、469頁)
「なほ帝紀によって書かれたと見なすべき部分の記紀の記載から考えると、四世紀の後半より前のことについては、帝紀編纂の際に其の材料のあつたやうな形跡が少しも見えない。たゞ文字の学ばれるやうになつた事情と総論第五節に述べたやうな記載の内容とを互いに参照して見ると、応神天皇ごろから後の御歴代については、御系譜に関する記録もおひおひ作られるやうになつて来たらしく、よし精密には後に伝はらぬまでも、大体のことは帝紀編纂の時にも知られてゐたと推測せられる。」(482頁)
「帝紀に於ては、材料の有無の点から見ても、応神天皇以後と、仲哀天皇以前とではほゞ区劃がつけられるけれども、旧辞では、両方ともに作り物語であるから、此の点では、それ程に特色がはっきりしない。ただ総論第五節に述べたやうな物語の内容の上からの区別をすることができるのみである。記紀によって伝へられている帝紀旧辞の性質は、ほゞ斯ういふものであるから、それによつて、我々の民族全体を包括する国家が如何なる事情、如何なる径路によつて形成せられたか、といふことを明瞭に知ることは出来ない。ヤマト朝廷の勢力の発展の状態についても、歴史的事実がそれによつて知られるのでは無いのである。実をいふと帝紀旧辞の編纂の時に於いて既にそれがわからなくなつてゐたのである。それ故にこそその編者は、其の欠陥を補ひ其の空虚を充たすために、種々の人の名をつくり、又た上記の如き方法によつて種々の物語を作り、それを古い時代に当てはめたのである。ツクシ地方の経略は四世紀の前半でなくてはならぬから、比較的新しい事実であるに拘はらず、其の事蹟がまるで伝つてゐないのを見ても、上代に関する伝説の如何に乏しかつたかゞ推測せられる。」(492頁、493頁)
「要するに記紀を其の語るがまゝに解釈する以上、民族の起源とか由来とかいふやうなことに関する思想を、そこに発見することは出来ないのであるが、それは即ち、記紀の説き示さうとする我が皇室及び国家の起源が、我々の民族の由来とは全く別のことゝして、考へられてゐたことを示すものである。記紀の上代の部分の根拠となつてゐる最初の帝紀旧辞は、六世紀の中ごろの我が国の政治組織と社会状態とに基づき、当時の官府者の思想を以て、皇室の由来を説き、また四世紀の終ごろからそろそろ世に遺し始められた僅少の記録やいくらかの伝説やを材料として、皇室の御系譜や御事蹟としての物語を編述したものであつて、民族の歴史といふものでは無い。さうしてそれは、少なくとも一世紀以上の長い間に、幾様の考を以て幾度も潤色せられ或は変改せられて、記紀の記載となつたのである。だから、其の種々の物語なども歴史的事実の記録として認めることは出来ない。(中略)古事記及びそれに応ずる部分の書紀の記載は歴史ではなく無くして物語である。」(502頁乃至504頁)
等ト記述シ畏クモ 神武天皇ノ建国ノ御偉業ヲ初メ 景行天皇ノ筑紫御巡幸及ビ熊襲御親征、日本武尊ノ熊襲御討伐及ビ東国御経路並 神功皇后ノ新羅御征討等上代ニ於ケル 皇室ノ御事績ヲ以テ悉ク史実トシテハ認メ難キモノト為シ奉ルノミナラズ仲哀天皇以前ノ御歴代ノ 天皇ニ対シ奉リ其ノ御存在ヲモ否定シ奉ルモノト解スルノ外ナキ講説ヲ敢テシ奉リ
(二)
「天皇が神であらせられるといふ此の思想が上代において一般に存在したことは、天皇に『現人神』又は『現つ神』といふ呼称のあるのでも知られる。(中略)この思想は極めて古い時代からの因襲であったらしいので、それは君主の神とせられることが遠い過去に於いては世界の多くの民族の通例であつたことからも、類推せられる。君主の起源に関する種々の学説について今茲に論ずる遑(イトマ)は無いが、それが呪術若くは祭祀を行ふもの、又はそれから発達したものであることの認められる実例は甚だ多い。神とせられるのも、そこに由来がある。(中略)皇室の有せれらる宗教的地位の起源も亦たそこにあるとしなければならぬ。ところで、その神とせられるのが呪術や祭祀を行ふこと即ち巫祝(フシュク)の務めに由来があるとするならば、君主は一方に神でありながら、他方ではやはり巫祝でもあるのが当然である。
 天皇が大祓(オオハラエ)などの呪術を行はせられ 神功皇后や崇神天皇の物語に見えるやうなに、或は神人の媒介者たる、或は神を祭る地位に在らせられるのは、この故である。」(456頁乃至458頁)ト記述シテ、畏クモ現人神ニ在マス 天皇の御地位ヲ以テ巫祝ニ由来セルモノノ如キ講説ヲ敢テシ奉リ
(三)
「「神代」といふのは「上代」といふことゝは全然別箇の概念である(中略)民族の或は人類の連続せる歴史的発達の径路に於いて、何処に人の代ならぬ神の代を置くことができようぞ。歴史を遡つて上代にゆく時、いつまで行つても人の代は依然たる人の代であつて神の代にはならぬ。神代が観念上の存在であつて歴史上の存在で無いことは、これだけ考へても容易に了解せられよう。(中略)神代史が 皇室の御祖先としての日神を中心として語られ、日神及び其の御子孫が神代の統治者とせられ、神代にはたらいてゐるものはそれと其の従属者とに限られてゐることを思ふと、神代とは皇祖神の代といふ意義であることが知られよう。
何ゆえに皇祖が神であり、其の代が特に『神代』と称せられるかといふと、それは天皇が神であらせられるところから来てゐるので『現人神』にて坐す  天皇の『現人』たる要素を観念の上に於いて分離した純粋の『神』を、現実には見ることが出来ずして観念の上にのみ表象し得る遠い過去の 皇祖に於いて認め、それを神とし、その代を神代と称したのである。(中略)だから神代其のものには、例へば人間界を超越した神人間生活を支配する神の住む世といふやうな特殊の宗教的意義はなく、若し其処に何等かの宗教的意義があるとすれば、それは唯神としての 天皇の地位の反映のみである。皇祖神たる日神の宗教的意義も亦たたゞ現在の 天皇が有せられる神性の象徴たる点にのみ存するのである。さうして天皇の本質が政治的君主であらせられる点にあるとすれば、神代の中心観念がやはり政治的のものであることはいふまでも無い。」(462頁乃至465頁)
ト記述シ畏クモ 皇祖天照大神ハ神代史作者ノ観念上ニ作為シタル神ニ在マス旨ノ講説ヲ敢テシ奉リ

以テ孰レモ、皇室ノ尊厳ヲ冒瀆スル前掲四種ノ出版物ヲ各著作シ 
第二、被告人岩波茂雄ハ、皇室ノ尊厳ヲ冒瀆スル前記「古事記及日本書紀の研究」「神代史の研究」「日本上代史研究」及び「上代日本の社会及び思想」ノ各発行者トシテ前記期間内夫々数回ニ亘リ前記店舗ヨリ前記各部数ヲ発行シ
夫々之ガ出版ヲ為シタルモノナリ
 被告人両名ノ叙上ノ各所為ハ夫々出版法第二十六条ニ該当スル犯罪ニシテ之ヲ公判ニ付スルニ足ル嫌疑アルヲ以テ刑事訴訟法第三百十二条ニヨリ主文ノ如ク決定ス
     昭和十六年三月二十七日
      東京刑事地方裁判所
                       予 審 判 事    中 村 光 三

津田左右吉外一名に対する出版法違反被告事件第一審判決(東京刑事地方裁判所 1942・5)

 右両名ニ対スル出版法違反被告事件ニ付、当裁判所ハ検事神保泰一関与ノ上、審理ヲ遂ゲ、判決ヲ為スコト左ノ如シ。
     主  文
被告人津田左右吉ヲ禁固参月ニ処ス。
被告人岩波茂雄ヲ禁固弐月ニ処ス。
被告人両名ニ対シ本裁判確定ノ日ヨリ弐年間右刑ノ執行ヲ猶予ス。
 ・・・ 

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日本軍政下 ベトナム”200万人”餓死 6-1

2014年10月16日 | 国際政治

 先日、安倍自民党政権は臨時閣議を開き、従来の政府解釈を180度変えて、日本国憲法9条の下で集団的自衛権の行使を認 める決定した。また、2014年8 月1日の朝日新聞は、憲法改正の早期実現を求める意見書や請願が今年に入り19県議会で可決、採択されていたことを報じている。そうした動きの根底には、 安倍首相の「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国との関係でどちらから見るかで違う」というような考え方や、さらには、先の大戦おける日本の戦争責任を回避したり過小評価したりする考え方、また、日本の戦争犯罪をなかったことにしようとする考え方などがあるのだろうと思う。

 しかしながら、日本の侵略や戦争責任、戦争犯罪は、日本人がどのように考えるか、という「日本人」の考え方の問題ではない。「被害」と「加害」の問題も存在するのであり、歴史の事実は、世界で共有されなければならないものであろう。

 日本軍政下におけるベトナム200万人餓死の問題でも、日本軍の責任をしっかりと認識する必要があると思う。
  日中戦争の行き詰まりを打開するために、中国の海岸を封鎖し、南シナ海の東沙島や海南島を占領した日本は、「仏印」経由の「援蒋ルート」を遮断するため、 北部仏印に進駐した。この進駐は戦闘を伴うものではなく、フランスに圧力をかけて、強引に同意させたものであった。このとき、インドシナの住民や組織は交 渉相手ではなかった。そして、日本軍の進駐直後から、「反仏・反日帝国主義」をスローガンした武装蜂起の動きがあったことを忘れてはならないと思う。
 また、北部仏印進駐が、単に「援蒋ルート」の遮断にとどまらず、「南進」の拠点として、さらには広大な戦線を賄う補給基地として重視されていた事実も忘れてはならないと思う。

 日本軍政下におけるベトナム200万人餓死の問題では「当時ベトナムにいた1万人の日本兵が、200万人分の米を食べらるわけがない、ベトミンンの政治的な宣伝である」とか「…日本軍が配置したのは一個師団、約2万5千人です。2万5千人増加した為、200万人の人々が餓死するということはありません。200万人の餓死者は台風や洪水、米軍の交通手段の破壊によるものです」というような責任回避ともいえるような主張を 再三見聞きする。しかしながら、そうした主張は、5年間にわたる日本軍の駐留とその間の軍事政策、また「仏印処理」以降の日本の軍政をほとんど考慮していないと思われる。

  天候不順や南部からの米の移送遮断も、もちろん無視はできない。しかしながら、多数の餓死者を出したのは、日本軍の米、その他の物資調達、黄麻の強制栽培 (稲作面積などの減少)などに主な原因があったことは否定できないと思うのである。軍用米の調達も、仏印「駐留部隊用」だけではないのである。他の戦線へ の「補給用」、さらには決戦に備えての「備蓄用」、日本への輸出用などがあったというのである。

 下記は、「ベトナム”200万人”餓死の記録 1945年日本軍政下で」早乙女勝元(大月書店)の抜粋であるが、表4や表6、表7は、日本の北部仏印進駐のもう一つの理由(食糧確保)を示し、表5は、日本軍の動静を示すものといえるであろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                         第6章 誰に責任が?

飢餓四つの原因


 ・・・

  未曾有の飢餓に至った1944年~1945年の背景を大ざっぱに整理してみたが、理由④には、いうまでもなくそれまでの時間的な経過も含まれよう。(注  ④ 日本とフランスによるモミの強制買い付けが、最後に挙げられるが、これはどうか。)フランス軍がベトナム侵略をはじめたのは1858年までさかのぼる から、実に80年余にわたる長期の植民地支配と搾取とに、目を向けなければならない。これで、ベトナム人民の生活は逆さに振っても血も出ないほど極度に疲 弊しきっていた。ところが汗も血もみな吸いとっていった「太った鬼」のほかに、突然大東亜共栄圏のスローガンを掲げて「背丈の低い盗賊」(日本ファシスト の意=ベトミン紙による)が登場した。

 「1940年秋、日本ファシストが連合国攻撃のための基地を拡大しようとインドシナに侵略する と、フランス植民地主義者は膝を屈して降伏し、わが国の門戸を開いて日本を引き入れた。このときから、わが人民はフランスと日本の二重のくびきのもとに置 かれた。このときから、わが人民はますます苦しくなり、貧窮化した……。」

 ベトナム人民共和国独立宣言はその文章のあとに、問題の 「200万人以上の同胞が餓死した」とつづくのだが、インドシナを貧窮のドン底に追いやった日本が、それまでは一体どのような役割をはたしたのか。軍事管 理期間の5年間にどれだけの戦略資源を調達あるいは収奪して、日本国内へ運んでいたかを、次にみていくことにする。

 まず基本的な資料として、正木千冬氏訳の『日本戦争経済の崩壊──戦略爆撃の日本戦争経済に及ぼせる諸効果』を取り上げたい。これは、アメリカ戦略爆撃調査団報告書総合報告ともいえる部分の邦訳である。
  同書はトルーマン大統領の指示によって、戦後すぐに来日した850人のアメリカ軍人のもとに300人の日本人が動員され、戦略爆撃がもたらしたであろう被 害実態と、その爆撃効果を知るために作成された膨大量のレポートである。正木千冬氏訳の総合報告は全ページの半分近くを、日本側の統計で埋めつくしている ところに特徴がある。戦時下の日本経済の実態を、アメリカが入手した資料で確かめねばならないのは不本意だが、その統計は貴重な第一次資料とみることがで きる。以下の表4から7までは、同書から引用した。


 表4は、日本国内の食糧在庫量で、1931年からはじまって、45年までの農林省の統計である。
  問題のコメを見ていくと、39年度がそれまでの半分以下に落ちこんで、わずか67万6900トンになっている。これは朝鮮米、台湾米の凶作にもよるものだ が、翌40年も在庫はわずかに増えたくらいで、大きな変化はない。戦争指導者たちは、この数に頭を痛めかなりの危機感を覚えたであろう。ところが、41年 はにわかに100万トン台を確保した。日本軍の「仏印進駐」は40年9月のことだが、そのねらいが今にして手に取るようによくわかる。

  表4  食糧在庫調べ 1931~45年 (単位 トン) 注:コンマ略

  コメ その他の雑穀 缶詰 砂糖
1931 1523374 25612 177437
32 1484571 31236 299250
33 1501266 38224 180750
34 2738481 46955 49200
35 1656023 52033 73620
36 1344416 61155 57270
37 1251955 78953 69603
38 1451550 91147 63631
39 676900 102642 55381
40 726124 2642431 64721 66693
41 1178377 2264042 73721 89744
42 392000 1855614 47224 167159
43 435333 1543092 61014 105956
44 384167 50128 11273
45 133000   4583

(注)コメの在庫は毎年10月30日現在 その他の雑穀は大麦、小麦、裸麦の合計で6月30日現在、缶詰、砂糖は12月31日現在
(出所)農林省

表5は、日本軍用食糧の推移だが、先の表で39年度からコメの在庫が減る一方なのに対し、42年からの軍隊用食糧のうちとくにコメはうなぎ上りに増えて、4年間のあいだに3倍にも跳ね上がっている。
  これは、戦力が急速に増強されたからにほかならないが、かわりに農村は留守家族だけとなり、食糧生産が減少するのは避けようもない。表4の42年度からの コメの在庫分減少は、このこととも決して無関係ではなかったのだ。コメ絶対量の不足は、そのまま一般庶民にしわ寄せされていく。戦争で犠牲になるのはつね に一般庶民であり、わけても女性、子ども、年寄りたち弱いものである。日本は軍事面のみならず、食糧面からいっても、戦争をすれば自滅せざるをえなかった のだ。

         表5 軍隊用食糧  1942~45年 (単位 トン)

  1942 1943 1944 1945
コメ 230600 374300 502500 666600
大麦 41800 23000 25+900 63800
裸麦 139000 75100 90100 130200
小麦 3100 3700 6900 68100
小麦粉 不詳 不詳 100000 122900
味噌 28300 38750 67650 66370
醤油 23050 30750 56500 55650
465850 545600 849550 123020

(注)42年、43年の合計には小麦粉を含まない。
(出所)農林省

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日本人戦犯自筆供述書 元満州国総務庁次長 古海忠之

2014年08月27日 | 国際政治

 もうすでに、戦後69年が経過したのに、中国が日本人戦犯裁判における旧日本軍軍人や旧満州国官吏たちの供述書をネット上に公開した。(http://61.135.203.68/rbzf/index.htm)
  1950年代半ばに、中国戦犯管理所において、日本の軍人や官吏たちが自らの罪を認め記したものである。今頃その供述書を公開するのは、最近の日本の動きに対応するものであろうと思う。
      
  先ごろ日本は、領有権をめぐって議論のある尖閣諸島を、日中の「棚上げ合意」を無視するかたちで国有化した。
  また、近隣諸国が問題視し、国連事務総長さえ
「過去に関する緊張が、今も(北東アジアの)地域を苦悩させていることは非常に遺憾だ」との声明を発表しているにもかかわらず、A級戦犯が合祀された靖国神社に首相や閣僚、国会議員などが公然と参拝を繰り返している。
  さらに、日米同盟強化を掲げるのみならず、集団的自衛権行使容認の閣議決定をした。
  中国は、こうした日本の動きが受け入れ難いのであろうと思う。
  それにしても、供述書のネット上への公開は、考えさせられる。なぜなら、戦時中の数々の事実が、単なる過去の歴史としてではなく、恐怖や憎しみを伴った 体験として、追体験するかたちで、再び広く認識されることになれば、日中の溝はますます深まり、埋めることが一層難しくなると思うからである。また、ネッ ト上に公開されたことで、国際社会における日本の評価にも影響するのではないか思う。
      
  日本が近隣諸国はもちろん、国際社会に平和主義の国家として受け入れられるためには、戦時中の加害の事実を含めた正しい歴史認識が欠かせないと思う。過去との向き合い方では、ドイツを見習うべきであろう。
       
  日本が、秘かに国際法に違反する阿片政策を進めていたことは、すでに、
「日本の阿片戦略-隠された国家犯罪」倉橋正直(共栄書房)や「証言 日中アヘン戦争」江口圭一(編)及川勝三/丹羽郁也(岩波ブックレットNO.215)「続・現代史資料(12)阿片問題」(みすず書房)な どの文章の一部抜粋で紹介した(それらは、次のように題している。「戦争期の日本の国家犯罪”阿片政策”」「日本の麻薬取扱業者とモルヒネ蔓延の状況」 「朝鮮における巧妙な阿片・モルヒネ政策」「海南島でアヘン生産-日本の密かな国策」「「阿片王」里見甫(里見機関)と関東軍軍事機密費」「日本の阿片政 策と日本非難の国際世論」「日中戦争の秘密兵器=麻薬」「日中戦争の秘密兵器=麻薬 NO2」「田中隆吉尋問調書-阿片・麻薬売買と軍事機密費」「田中隆 吉尋問調書と阿片・麻薬問題 NO2」)。
      
 
「日本軍閥暗闘史」(中公文庫)では、関東軍参謀や陸軍省兵務課長・同局長など、長く軍の要職にあり、自身様々な謀略工作に直接関わった軍人「田中隆吉」が、自ら多額の機密費が阿片・麻薬売買から生み出されたことを指摘し、かつ「私はこの機密費の撒布が極めて大なる効果を挙げたことを拒み得ない。東条内閣に至っては半ば公然とこの機密費をバラ撒いた 。…」などと、軍の機密費が、「日本の針路を左右」するものであったと記していることも紹介した。
      
  そうしたことが単なる憶測ではないことは、下記の供述書の抜粋からも分かる。ここでは、
「侵略の証言 中国における日本人戦犯自筆供述書」新井利男・藤原彰編(岩波書店)から、今回供述書がネット上に公開された中のひとりである元満州国総務庁次長「古海忠之」の、満州国における「阿片政策」に関する文章の一部を抜粋した。出だしの文章が衝撃的であるが、様々な情報を総合的に考えると、否定し難い事実の証言であろう。
      
  なお、「阿片」が「亜片」という表記になっているが、そのまま「亜片」で通した。また、漢字のすぐ後にある( )内の片仮名は、同書でつけられている読み仮名である。
      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
            満州国亜片(阿片)政策に関する陳述
                                                  古海忠之
      
       阿片専売制の概要
      
  人類乃至(ナイシ)民族の身心弱廃より、延(ヒ)いてはその衰亡を齎(モタラ)す以外の何物にも非ざる亜片吸飲を許容、維持、又は助長するは、其の本質 に於て既に犯罪である。然れども、帝国主義的侵略に於ては、亜片政策の採用は最も必要なる常套手段にして、法律、制度などに依りて粉飾合理化せられ、被侵 略者の衰亡を培ひて自己の目的を確保すると共に、有力なる財政収入を挙ぐる副目的をさえ達し得るのである。
      
  満州国に於ては、1933年2月、関東軍が亜片産地たる熱河省を侵攻すると同時に、亜片政策は財政収入確保の緊急必要を理由として、早くも採用せられる ことになった。斯くて中国人民に対する犯罪が開始されることになったのである。小生も、満州国官吏として各職務に応じて之に関係し、一役を演ずる人物とな つたことは当然であつて、其の顛末の概要は次の如くである。
      
  1933年2月、関東軍が熱河に対し軍事行動を開始する以前に於て、既に関東軍に於て亜片政策に関する研究に着手し、関東軍主(首)脳者参謀長小磯国 昭、参謀副長岡村寧次、第3課長原田熊吉と総務長官代理阪谷希一、及び財務部総務司長星野直樹の間に於て、亜片政策に関する根本方針が確定され居たること は明瞭である。2月初旬、星野直樹は、主計処長松田令輔、特別会計科長毛利英菸兎(ヒデオト)、及一般会計科長たりし小生に対し「亜片専売を実施するの だが、専売の日系主(ママ)脳者としては誰が良からうか?」との相談を受けた事実がある。帝国主義的意識の持ち主であつた我々は、無論亜片専売に異議があ る筈もなく、結局現地には適任者見当たらず、難波経一(当時神戸税務署長)を招致することに決し、難波経一は2月下旬、新京に赴任し、亜片専売の疇備 (チュウビ:準備)に当たることになった。当時一番問題となったのは、専売の対照(ママ)たる亜片であった。熱河亜片は未だ入手の由なく、国内他地域参 品も唐突の際、入手極めて困難であって、結局厳密裡に難波経一を天津に派遣して北支方面の亜片を買集めしめ、一方外国亜片の輸入に依るの非道なる処置を取 つたのである。国外より亜片を輸入すれば、少なくとも其限度に於て亜片吸飲者を増加し、害毒を助長することは自明の理であるが、斯ることは固より意に介し なかった。

      
   
(此問題は、絶対厳秘に附せられてゐた。私は難波経一より亜片専売開設の苦心談として内証で聞 かされたものであり、其時期は当時私が錦州出張中(3月中旬──6月中旬迄)であつたのだから、3月末熱河民食問題で新京に帰った時か、6月中旬以降であ るか不明確である。難波は月余に亘り天津に在りて、約50万両の亜片を入手し、国内集荷の約20万両と合し、70万両の手持ちを以て亜片専売を開始した。 外国輸入亜片は「ペルシャ亜片であって、三井物産の手を経、約200万両(記憶明確ならず)であつて、其の価格は運賃込1両4元見当であつた。之等の事は 星野直樹、難波経一の責任に属する。外国亜片は爾後購入したことはなく、専ら熱河省を中心とする国内亜片に依つて専売は運営された)
      
  3月中旬、全満の亜片栽培を禁止し、亜片の栽培は熱河省に限定する方針を決定し、亜片栽培の許可制、販売許可制、国家の完全収買等を内容とする専売法が 実施せられた。亜片の栽培を熱河省に限定したのは、主として治安維持、及び取締上の関係であつたと言ふ。尚一方、熱河省に於ける亜片栽培助長の措置が講ぜ られた。此時以来、熱河省の亜片中心産業経済といふ其の畸形と罪悪性、従って思想的及肉体的堕落の維持乃至は助長が約束され、運命づけられる不幸に陥っ た。
      

   
(3月下旬、小生錦州在勤中、財政部税務司長源田松三が「全満他地域の亜片栽培を禁止し、熱河 省のみに之を許すことに政府で決定したから栽培に努めよ。但し亜片は全部政府に売渡し、之に違反するものは処罰さるべし」と言ふ趣旨の財政部名の伝単を提 へて錦州に来たり飛行機にて之を熱河省に撒布した事実あり)
      
  専売法に基き財政的処置が採られ、専売特別会計設置を見、専売特別会計予算(1933年4月──6月末迄)が成立し、専売所官制が発布になつたのは4月 と思惟す。機構は署長(満)副署長(難波経一)の下に総務科、収納科、販売科、製造科、緝私(チュウシ:取締)科を本署とし、地方に専売支所(奉天、吉 林、哈爾浜(ハルピン)、斉々哈爾(チチハル)、承徳)及び煙膏製造所(奉天)等が設置された。多数の緝私員(密売取締員)を置いたことは固よりであ る。

      
 
最初3ヶ月、予算は金額等全然承知しないが、1933年7月──1934年6月に到る専売特別会計予算は、大約700万円、専売益金の一般会計の繰入は370万円見当、其の当時の総予算の3分見当である。
   (この予算は、主計処長松田令輔、特別会計科長毛里英菸兎に依つて編成せられ、私も一般会計科長として相談に与り、署内会議には列席した)
      
  斯くして専売制度の下に満州国の亜片政策は推進された。専売当時は栽培許可制を採ってゐたとは言へ、それは単に取締上の事に過ぎず、作付け面積の指定の 如きは勿論なく、多多益々弁ずる状態であつた。専売署の収買量は逐年増加し、250万両程度から始まつて600万両を越すに到つた。それに比例して専売益 金は次第に増加し、300余万円が4千万円を越すに到つた。亜片の栽培面積が増加して、産量が上がつた事は言ふ迄もない。亜片に附物の密売買を含めば、莫 大な量に上つた。之に応じ、国民身心の弱廃虚脱を通じて反日本帝国主義的勢力の弱化を、財政収入の増加と言ふ商品附きで亜片専売は遺憾なくは収得していた のである。

      
 
此の制度には、尚見下し得ない他の一面を持つて居る。満州国専売署に於ては、亜片の収買に就 て官庁が直接収買に当たる制度を採らず、収買人制度を採用した。即ち地域を分かち、各地区毎に若干名の元受収買人を置き、其責任の下に多数の収買人を使用 して、直接農民から亜片を収買すると云ふ制度である。そして元受収買人は、一定資格を有する者から専売署が指定するのである。専売署は年毎に品質に基づく 等級別価格(上中下三階級と記憶す)を元受収買人に示して収買せしめ、主として承徳の専売支所に納入せしめる。この元受収買人は、一度専売本署から指定を 受けるや否や、特権者となり、農民に当たるわけであつて、茲に農民より搾取、又は欺瞞其他その種々の不正が叢生し、又は私腹を肥やして巨富を致す余地が多 分に存在する。官吏又は緝私員との間に発生した不正も相当件数に上ることは、難波副署長が「警察へ行くのも俺の仕事の一つだよ」と私に嘆じたことが、之を 証明してゐる。
      
   (亜片の収買価格は初期の頃は平均価格(予算に掲(ママ)上した)は1円50銭であり、中期には8円であり、売下価格は初期3円程度、中期には平均15円であった。後数次に亘り共に引き上げた記憶あり。特に売下価格に於いて其比率は多かつた。)

      
 
販売制度に就て之を見れば、全満を地区に分ち、各地区毎に元売捌人(モトウリサバキニン) が居り、此の元売捌人から区内の各零売所に売下げ小売するといふ制度で、元売捌人は、専売本署が一定条件具有者中から指定し、一定金額(取扱数量に応じ た)の担保を取つて営業せしめ、零売署は、専売支所が申請に基き許可する仕組である。之こそ一度指定又は許可を得れば、忽ち不労所得にありつく確実な特権 者たるを得るのであつて、此等収買及び販売組織を巡つて帝国主義者の手先どもが暗躍し、不浄の金で肥え太つたことは想像に難からずである。
      
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です
    

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北満進出のための軍の謀略 甘粕と和田

2011年09月04日 | 国際政治
 下記は、「満州裏史 甘粕正彦と岸信介が背負ったもの」太田尚樹(講談社)から、柳条湖事件直後の2つの謀略に関する部分を抜粋したものである。一つは、アナーキスト大杉栄を殺害したとして世に知られることになった元憲兵大尉甘粕正彦によるものであり、もう一つは奉天特務機関に出入りしていたという予備中尉和田勁のものである。まさに、目的のために手段を選ばない理不尽な所業であると思う。

 同書は、甘粕事件についても詳述しているが、大杉栄と当時の妻伊藤野枝、および、甥の橘宗一を殺害したのは、甘粕ではなかったということである。ロシア革命後の新興ソ連に脅威を感じていた軍は、関東大震災の混乱に乗じて社会主義者を虐殺したり検挙したりしていたが、大杉栄も、憲兵隊上層部か陸軍上層部のいずれかの命令によって、検挙・拘束・殺害されたものであり、大勢の憲兵から殴る蹴るの暴行を受けて殺されたというのである。一緒に殺されてしまった当時6歳の大杉の甥・橘宗一が米国籍を持っていたため、米国大使館の抗議を受けて、その罪を、大杉を連行した甘粕一人に引き受けさせたというのが真相のようである。甘粕も、天皇を頂点に戴く日本軍の汚名を代わって引き受け、真相は誰にも語ることがなかったのである。
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                14 満州事変勃発

 甘粕ハルピンに現わる

 ”討ち入り”に間に合うようにと、甘粕は大急ぎで東京からハルピンに舞い戻ってきた。奉天郊外の実行部隊の別働隊として、甘粕はこの地で待機することがあらかじめ決められていたからである。その甘粕が柳条湖事件勃発の知らせを受けたのは、9月18日深夜のことだった。「いよいよ始まったな」と思いながら時計を見ると、満鉄線が爆破されてから、1時間が経っていた。
 だがそれまでハルピン特務機関長を務めていた沢田茂に代わり、この年8月1日付で赴任してきた百武晴吉中佐は、沢田以上に慎重な男だった。
「まだ勝手な行動は許さんぞ。奉天からの指示を待つのだ。あちらの進展状況に目処さえつけば必ず君の活躍するときがくる」と言って、百武は甘粕をたしなめた。板垣、石原からゴー・サインが出れば、直ちに奉天特務機関長の土肥原から知らせがくる手はずになっていたのである。
 21日深夜、甘粕が動き出した。そのとき、ハルピン特務機関員宮崎繁三郎の妻は、「パン、パン、パーン」という発射音につづいて、窓ガラスの砕ける音を聞いた。驚いて宿舎の窓のカーテンの陰からそっと見下ろすと、2人の男がピストルを乱射している。1人は間違いなく甘粕だが、もう1人の方は甘粕に影のようについて回っている、人相の良くない例の男のはずだった。


 あらかじめ夫から甘粕の行動を聞かされていた宮崎の妻が「あんなやり方でいいのですか。捕まったら支那語が解るわけじゃなし、日本人だとすぐ分かっちゃいますね」と、心配そうに夫の顔を振り返った。だが、宮崎の方は落ち着いたものだった。
「そのときは自爆する覚悟さ。甘粕は命がけだからね。もっとも、ポケットには張学良の軍隊の密使であることをうかがわせるような、支那語で書かれた手紙でも入っているだろうよ」とは言ったものの、彼の心情を思うと、なんとも哀れであった。


 南満を抑えた勢いで、一気に北満に進出しようと関東軍が躍起になっていたハルピン出兵の口実作りは、このときからはじまっていた。夜な夜な、何者かが出没して在ハルピン日本領事館にピストルを乱射したり、爆弾を投げ込み、日本人商店に手榴弾が放り込まれる。あるときには、ナンバープレートのない車の窓から、歩いている日本人が狙撃を受けたこともあった。

 直ちに現地の日本字新聞は、「居留日本人4千人の命危うし」と書き立て、内地の新聞も大きな活字を紙面に躍らせた。朝日新聞も9月23日から連日のように、「ハルピンの在留民突如危機に陥る。各所に爆弾投下さる」「ハルピン急迫せば在留民は引き揚げ 閣議で方針決定」「ハルピン危機迫り 現地保護を請求」と、現地の切羽詰まった状況を伝えている。

 このときの甘粕は中国製の手投げ弾を使い、いつも身につけているピストルも、モーゼルである。服装も苦力や、ときには便衣隊に変装していたから、簡単には見破られないはずだった。


 ときを同じくして、ハルピン総領事館も動き出した。大橋忠一総領事は百武特務機関長と前後して、「日本人居留民の生命財産保護のため出兵求む」という文案を、東京の本省に打電する手はずになっている。計画はトントン拍子に進んでいるかのように見えた。
 ところが、宣伝に関しては、相手の方が一枚も二枚もうわ手だった。漢字新聞に「ハルピン領事館の爆破は、玄関先に小爆弾を破裂させただけのもので、被害は皆無。爆破された日本人家屋にいたっては、いずれも空屋ばかりで、人災は一切無し。これらはすべて日本軍による侵略のための見えすいた謀略で、ハルピンはきわめて平穏」とすっぱ抜かれてしまった。これで、甘粕の謀略は頓挫する。


 だが、近年で出てきた資料の中には、ハルピンだけでなく、事変勃発直前の吉林でも同じような騒動が起きていたが、明らかに甘粕の主導だったことを窺わせるものがいくつかある。吉林で起きた騒動に関東軍を出動させれば、奉天がガラ空きになることを口実に、林銑十郎率いる朝鮮軍を満州に入れる計画だったのである。

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危うく難を逃れた満鉄事務所

 一方そのころ、奉天の東拓ビルに置かれたばかりの軍司令部では、板垣と石原が、やきもきしながらハルピンの情勢を見守っていた。奉天占領に気をよくしたものの、ハルピンの危機を口実に、朝鮮軍や内地からの増援部隊を速やかに投入しないことには、いたずらに時間だけが過ぎてゆき、張作霖事件の二の舞になってしまうからである。

 ちょうどそのとき、奉天特務機関に出入りしている和田勁という予備中尉がやってきて、「甘粕ではダメですよ。私に任せてください」と、板垣の前で大見得を切った。土肥原賢二にいわれたのか、あるいは自ら買って出たのか分からないが、和田は「もっとでかい餌をまかないと、大魚はかかりませんよ」と、胸を張った。

 次の日の午後、この豪傑は一人の手下を連れてハルピンに乗り込んできた。早速、名古屋ホテルに甘粕を呼び出すと、和田は「奉天では急いでいるんだ。まあ、ここはオレに任せろ」と言って、小柄な甘粕を見下ろした。当然、甘粕の方は面白くない。あの土肥原機関長が和田を送り込んできたと思うと、よけいにムッとする。それでも「満州にはこの手の男が大勢いるとは聞いていたが、一体この男は何をしでかすのだろう」という、興味の方が優先した。


 それから直ぐに和田は表の通りに出て行ったが、後を追った日本人の手下が、大事そうに抱えた小型のトランクが、甘粕は妙に気になった。間もなく和田だけが戻って来ると、甘粕の手を引っ張るようにして、ホテルの三階に上がってきた。
「よく見ていろよ。満鉄事務所が吹っ飛ぶから」


 和田はこともなげにそう言ってから、窓の外に目をやって、悪戯っぽく笑った。
 驚いたのは甘粕である。あそこには、日頃世話になっている事務所長の宇佐見寛爾をはじめ、満鉄ハルピン支社に勤める数百人の社員がいる。事変直前に内地へ金策に行って失敗して帰ってきた甘粕を見ると、金の用途も尋ねずに、大連の本社に掛け合って、都合してくれたのも宇佐見だったし、昨夜も一緒に飲んだばかりだったのである。


 その宇佐見だけでも助けなければと焦った甘粕は、部屋に飛んで帰るなり、事務所長のデスクに電話を入れた。
「いま板垣参謀が、火急の用事で見えていますから、至急来てください。大至急です、大至急!」

 いつも沈着で、ときどきニヒルな笑いを浮かべるだけの甘粕のひどく慌てた様子に、宇佐見は取るものも取りあえず、小走りにやってきた。
 しかし、板垣大佐などどこにもいない。甘粕はバツが悪そうに頭を掻いているばかりだし、傍らにいる見慣れない和田というふてぶてしい男も、窓の外に目をやったまま動こうとしない。
「いったい、どうしたっていうんだね。君らの悪戯に付き合っているほど、ボクは暇人ではないんだ」

 
 いつも温和な宇佐見が、そう言っていらだちを見せた。
 そこへ、手下が駆け込んでくるなり、「大将、時限装置が故障でダメです」と言って、情けなそうな顔付きで和田を見つめた。さすがにすまなそうな顔付きをして、和田が事の顛末を話すと、宇佐見は青くなって怒りだした。
「バカッ……」
すんでのところで、あの世に送り込まれるところだったから、怒るのも無理はなかった。
 この事実はほとんどの満鉄社員の間に知れることになった。当然のことながら、彼は恐ろしさに震え上がり、それが収まると、こんどは怒りに震えたという。


 和田という男のように、中尉でお払い箱になって満州に流れてきたような男がやる謀略などは、こんな程度なのかもしれない。甘粕はそう突き放して考えてみるものの、自分が今やっていることも、決して褒められたものではない。
「それに、オレがハルピンでピストルを乱射したり、手投げ弾を放り込んだことも、相手側にすっぱ抜かれて失敗に終わってしまったではないか。あれはなまじ日本人に危害を加えることをためらったからだ。これからは和田のように、物事をもっと割り切って取り掛からなければならないのかもしれない」

 ・・・(以下略)


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続く旧日本軍毒ガス遺棄弾の被害

2011年04月10日 | 国際政治
 中国のみならず、日本でも旧日本軍の毒ガス遺棄弾による被害が出ていることを「化学兵器犯罪」常石敬一(講談社現代新書)は取り上げている。そして、遺棄弾の調査と処理を急ぐべきだという。まったくその通りだと思う。関係者は高齢化しているが、今ならまだ遺棄した場所や投棄した場所が分かるかも知れない。毒ガス兵器の廃棄や投棄、遺棄について文書を残したとは思えないだけに、急がないと分からなくなってしまう。これ以上被害者を出さないようにするために、また、戦後の日本が真に民主的な平和国家に生まれ変わったことを示し、信頼を取り戻すために、毒ガス遺棄弾の調査と処理を急いでもらいたいと思う。
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                第1章 化学兵器の今

1 旧日本軍の毒ガスの亡霊がが出てきた

 日本での井戸水汚染
 2003年に入って、旧日本軍の毒ガスによる人への被害がいくつか表面化した。ひとつは4月になって明らかとなった、茨城県神栖(カミス)町で起きた1歳7ヶ月の男児を含む数十人の井戸水のヒ素汚染による健康被害だ。被害者達が飲んでいた井戸水の汚染は環境基準の450倍だった。原因は、毒ガスであるくしゃみ剤が地中で分解して、その成分が地下水を汚染したものと考えられる。
 もうひとつは、 8月になって中国チチハルの工事現場で掘り出されたびらん剤による死傷者の発生だ。こちらは死者1人を含め40人ほどが被害を受けた。
 茨城県の被害について日本政府はその原因が旧軍の毒ガス、くしゃみ剤によるものであることをほぼ認め、被害者の救済に乗り出した。 くしゃみ剤による被害であることが確実であると認められた人には、国から医療補助をするため、「医療手帳」を交付している。同年9月初めの段階で61人が手帳の交付を受け、それ以外に150人程が被害を訴え、手帳の交付を求めている。
 被害が表面化した時に、脳性マヒを疑われた1歳7ヶ月のの男児は、歩けず言葉を発することがなかった。歩けないというのは、ヒ素中毒によって神経を圧迫され、関節に痛みやしびれを感じていたためではないか、と思われた。5月にその子の母親から直接うかがったところでは、転居2ヶ月頃から嘔吐し、また咳き込むようになった、ということだった。
 7月になり新聞に「男児が歩いた」という見出しが躍った。井戸水をやめ、水道水にしてから4ヶ月目のことだった。これは単にヒ素で汚染されていない水に切り替えただけではなく、体内のヒ素を体外に出す特別な治療法(キレート療法)の効果とあいまっての朗報だった。
 
 中国で死者が出る
 8月になって中国から、チチハルの工事現場からびらん剤が掘り出され、数十人が被害を受けている、というニュースが飛び込んできた。
 この事件について日本の外務省は8月12日に1回目の外務省報道官談話、「黒龍江省チチハル市における毒ガス事故について」を発表し、「8月4日に黒龍江省チチハル市において発生した毒ガス事故は、その後の調査の結果、旧日本軍の遺棄化学兵器によるものであることが判明した」としている。さらに中国政府からの通報として、「チチハル市の建築現場において掘り出されたドラム缶から漏れ出た液体により、建築作業員が頭痛・嘔吐等の症状をきたし、29人が入院し、そのうち3人が重体」という事実を明らかにした。

 
 さらに8月22日には新たな外務報道官談話が出され、「22日午前、中国外交部よりわが方在中国大使館に対し、今回の事故の被害者のうち1名が、21日午後8時55分に死亡した旨の通報があった」ことが明らかにされた。この時点までに被害者総数は、亡くなった人も含めて、43人になっていた。10月になって日本政府はこれら被害者に対して合計3億円程度を支出することを決定した。日中国交正常化時に、中国は賠償請求権を放棄しているため、3億円は見舞金として支払うようだが、それは日本政府の理屈であり、中国側がそうした理解をするかどうかはおぼつかない。その内訳は遺族や中毒患者への見舞金、患者の入院費、現地の医療チームに対する支援金などとなっている。なお今回発見されたびらん剤とそれが入っていたドラム缶の処理は今後日本政府がやることになり、3億円にはその無毒化処理費用は含まれていない。

 ・・・(以下略)

---------------------------------
               第5章 毒ガスの明日

 日本がなすべきこと

 ハルバレイの67万発の処理を早めることも重要だが、それ以上に早急に行うべきことがある。日本は第3章で見たように、戦争中東南アジアおよび太平洋戦線にあか弾を中心に文書上判明しているだけで27万発の毒ガス砲弾を配備していた。これまでのところ、被害の報告はない。しかし今後もないかどうかは分からない。被害が発生してからでは遅い。また中国でも今後チチハルのような事態を繰り返さないための方策を日本は取る必要がある。


 日本はこれらの地域について、敗戦時の毒ガス配備の状況を調査することが求められている。そして得られた情報をそれら各国に提供する必要がある。筆者が調べた限りでは、1944年以降の公文書が公開されていないのか、それとも廃棄されてしまったのか、閲覧できない。自国の戦争中の兵器の配備状況が、その国の公文書で確認できないなどということがありうるのだろうか。しかし日本とはそうした歴史に無頓着な国なのかもしれない。もしそうだとすれば国際的にはみっともないことだ。米国その他の公文書館を調べ、日本軍の敗戦時の状況を詳しく調査すべきだろう。

 配備状況をつかんだうえで次になすべきことは、敗戦時に、毒ガス使用は国際条約違反であることを認識して、毒ガス弾を埋めたり池や沼に投棄したりした人の証言を得ることだ。ここに遺棄したなどということは公文書には出てこない。証言を得るためには、お国の為に毒ガスを遺棄したという責任を感じている元兵士が証言しやすい環境を作る、すなわちもうしゃべっても良いのだと思ってもらうことだ。それには政府が毒ガス使用は秘密ではないことを示すことだ。それは日本が各種の毒ガスを使ったことを明確に認めることだ。政府には、戦前の日本が老いた元兵士たちにかけた「秘密保持」という呪縛を解く義務がある。呪縛からの解放だけは早期に実現してもらいたい。
 そうした調査および証言に基づいて、日本が毒ガスの所在調査を進めることは、アジア諸国の信頼をかちとる道となるだろう。またそれが悲劇を繰り返さないために必要なことだ


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「憲法改正の歌」、中曽根康弘と三島由紀夫

2009年04月13日 | 国際政治
 すでに「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」元自衛隊陸将補山本舜勝(講談社)より、三島由紀夫の「」および「武士道と軍国主義」の一部を、また、「自衛隊の歴史」前田哲男(ちくま学芸文庫)より三島の「決起呼びかけの演説」を抜粋したが、ここでは同じ「自衛隊の歴史」前田哲男(ちくま学芸文庫)から、憲法について、三島と同じような思いを表現している、中曽根康弘の「憲法改正の歌」を抜粋する。
 中曽根康弘は、三島事件当時、防衛庁長官という立場にあった。したがって、立場上、「直接行動は容認できない」と主張せざるを得なかったようであるが、「その思想の純粋性は理解できる」と自らの思いを告白している。三島も中曽根も、現在の日本国憲法を占領憲法として受け入れず、戦死したり、自決したり、また処刑されたりした「帝国軍人」(陛下の赤子)の意志を受け継ごうとしている点で共通であるように思われる。「憲法改正の歌」のような考え方が、現実の「憲法改正の動き」を陰で支える力だとすれば恐ろしいと思う。二度と戦争を繰り返してはならないと思うからである。
 下段2は、元第五区隊長 村内村雄大尉が、陸軍省陸運部長中村肇少将とともに阿南陸軍大臣自刃の連絡を受けて大臣官邸に駆けつけたときの様子を書いたものの一部抜粋である。阿南陸軍大臣の自刃を批判的に受け止めることができなければ、日本国憲法を受け入れることも難しいのではないかと思われる。
1---------------------------------
           Ⅱ 発展───1955~1974

12 中曽根防衛庁長官


 ・・・
 政治家・中曽根康弘が、保守政治家のなかでもひときわ調子の高い改憲論者として聞こえていた。吉田茂によって形成された親米「保守本流」との間に一線を画し、保守合同後もとくに防衛・安保政策に関して改進党時代以来の主張を改めようとはしなかった。1956年に「憲法改正の歌」を作詞し発表しているが、当時にあってもそれはかなり時代がかった印象を人々に与えた。占領期間中、「国家の死」に服喪する意味をこめて黒いネクタイを外したことがなかったという青年政治家・中曽根康弘の心情吐露ともいえる

 一、嗚呼戦いに打ち破れ
   敵の軍隊進駐す
   平和民主の名の下に
   占領憲法強制し
   祖国の解体計りたり
   時は終戦六ヶ月

 二、占領軍は命令す
   若しこの憲法用いずば
   天皇の地位請け合わず
   涙をのんで国民は
   国の前途を憂いつつ
   マック憲法迎えたり

 五、この憲法のある限り
   無条件降伏つづくなり
   マック憲法守れるは
   マ元帥の下僕なり
   祖国の運命拓く者
   興国の意気挙げなばや


 心中にこのような思いを抱く中曽根にとって、保守本流の安保政策や自衛隊の位置づけはいかにも微温的なものとうつったにちがいない。彼は一時、日本独自核武装論を展開し、日米安保体制に批判的な立場をとって安保条約採決の衆議院本会議にも欠席、棄権したほど、この分野における政治姿勢をきわだたせていた。のちに書いた「私の政治生活」と題する英文版の文書で、この時期の言動をつぎのように説明している。
「私は占領下でも、日本がみずから統治し防衛でき、他国の安全と福祉に何らかの形で貢献できるようになって初めて日本の独立が達成できると信じ、独立に伴って直ちに憲法を改正すること、文民統制にもとづく独自の防衛組織を作ることを要求していた。今でもこれらの主張が全く理にかなったことだと思っている。しかし、アメリカ人は私を過激な国家主義にかぶれた危険人物とみなした」


 このような再軍備積極論の持ち主を吉田茂の後継者たる佐藤栄作が防衛庁長官に登用したことじたい不可解に思えてくるが、佐藤にしてみれば、党人派閥・河野派を引き継ぎ非主流の立場を守る中曽根派を手元に引き寄せるには、中曽根の望む防衛庁長官の椅子を差し出すのが政権運営のうえから得策と計算したのであろう。それに、えてして人間得意の分野でつまづくものだ──「首相の度胸」をうんぬんする新長官就任の弁を聞いて、「人事の佐藤」は心中そうつぶやいていたのかもしれない。
・・・(以下略)

2-----------------------------
床の間には切腹のとき短刀をまいた和紙が置かれ、ベットリと血がにじんでいて、毛筆で、
「一死以て大罪を謝し奉る
       昭和二十年八月十四日夜
               陸軍大臣 阿南惟幾  花押」
と書かれていた。

もう一枚の和紙には
「大君の深き恵に浴し身は言ひ遺すべき片言もなし
       八月十四日夜陸軍大将 惟幾」
鮮烈な文字が読みとれた。


・・・

 私達が弔問したのは、大臣絶命後二時間位たってのことであったろうか。
 その日、この大臣の自決の報が伝わると、全陸軍の血が引いた。陛下のお言葉に従えよ、決して暴走してはならぬぞ、と。死はこの陸軍大臣一人でいいのだ、日本の国体の存続を歯をくいしばって守れよ、との大臣のご意志は陸軍軍人全員に直感的に理解された。そしてその為に大過なく終戦の幕は引かれた。尊く偉大なる大臣の自決だった。



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731部隊 ハバロフスク裁判公判書類 証言

2008年07月07日 | 国際政治
 下記は、「資料【細菌戦】」 日韓関係を記録する会編(晩聲社)に収録されている「細菌用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類」の一部抜粋である。
---------------------------------
       細菌用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ
       元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類

  緒言

 1949年12月25日より30に到る迄ハバロフスク市では、細菌兵器の準備及び使用の廉で起訴された元日本軍軍人12名の公判が行われた。
 裁判に付された者は、元日本関東軍司令官山田乙三大将、元同軍軍医部長梶塚隆二軍医中将、元同軍獣医部長高橋隆篤獣医中将、元第731細菌戦部隊部長川島清軍医少将、元第731部隊課長柄沢十三夫軍医少佐、元第731部隊部長西俊英軍医中佐、元第731部隊支部長尾上正男軍医少佐、元第五軍軍医部長佐藤俊二軍医少将、元第100細菌戦部隊研究員平桜全作中尉、元同部隊員三友一男軍曹、元第731部隊第643支部衛生兵・見習菊池則光上等兵及び元第731部隊第162支部衛生兵・実験手久留祐二、──以上の者であった。

(以下裁判長や判事、法務官、それぞれの被告の弁護士や細菌学及び医学上の諸問題に関し鑑定を下した鑑定委員会の成員の紹介が続くが省略)

 起訴状(略)

 細菌戦ノ準備及ビ実行行為ノ特殊部隊ノ編成(略)


 生キタ人間ヲ使用スル犯罪的実験

・・・
 元満州国軍憲兵団日本人顧問証人橘猛男ハ、次ノ如ク供述シタ──
 「……被訊問者ノ中ニハ、私ガ担任シテイタ憲兵隊本部特高課関係デ処置サレルベキ部類ノ者ガアッタ。此ノ部類ニ該当シタ者ハ、パルチザン、在満日本当局ニ対シ極度ニ反感ヲ有スル者等デアッタ。斯ル囚ニ対シテハ、私達ハ、コレヲ処置スベク
第731細菌戦部隊ニ送致シタ故、裁判手続ハ行ワナカッタ……
(第6冊95頁)

 他ノ証人、元哈爾濱憲兵隊長木村ハ、本人立会ノ下ニ、第731部隊長石井中将ガ哈爾濱憲兵隊長春日馨トノ談話ニ於テ、今後モ、従来通リノ方法デノ「実験」用ノ被検挙人ヲ受領シ得ルコトヲ確信スル旨言明シタコトヲ訊問ニ於テ確認シタ。
(第2冊194頁)

 ソビエト軍ガ押収シタ在満日本当局ノ諸記録ノ中ニアッタ日本憲兵隊本部ノ公式書類ハ、1939年及ビ夫レ以後ニ囚人ノ所謂「特移扱」ガ行ワレテイタコトヲ重ネテ確証シテイル。就中、1939年、囚人30名ヲ「特移扱」ニヨり、石井部隊ニ送致スル事ニ関スル関東軍憲兵隊司令官白倉少将ノ命令第224号ガ発見サレタ。
(第17冊─38頁)
 囚人ノ大量殺戮ハ、被告
川島清供述ニヨッテ立証サレテイル──
 「第731部隊ニハ、毎年、500─600名ノ囚人ガ送致サレタ。私ハ、同部隊第1部勤務員ガ憲兵隊ヨリ囚人ノ多人数ノ組ヲ受領シテイルノヲ見タ。」(第3冊59頁)
   「私ハ、部隊ニ於ケル 私ノ職務上承知スル資料ニ基キ
、第731部隊デハ、実験ノ結果、毎年少クトモ約600名ノ人間ガ死亡シタコトヲ言明シ得ル
(第3冊146頁)

   (以下略)

 同様ノ犯罪ガ、第100部隊ニ於テモ行ワレ、同部隊デハ、第2部第6課ガ、生キタ人間ヲ使用スル実験ヲ専門ニ担当シテイタ。
 第100部隊実験手証人
畑木章、同部隊ノ業務ヲ性格ズケテ、次ノ如ク述ベタ──
  「……関東軍第100部隊ハ、「軍馬防疫廠」ト称サレテイタガ、鼻疽菌、炭疽菌牛疫菌、即チ獣疫ノ病原体ヲ培養シ、繁殖シテイタカラ、実際ニハ細菌戦部隊デアッタ。第100部隊ニ於ケル細菌ノ効力試験ハ、家畜及ビ生キタ人間ヲ使用スル実験ニヨッテ行ワレタ是ガ為、同部隊ニハ、馬、牛及ビ其ノ他家畜ガ有リ、亦隔離所ニハ、人間ガ留置サレテイタ。私ハ、コレヲ直接見テ知ッテイル」
(第13冊111頁)

 第100部隊ニ獣医トシテ勤務シタ他ノ証人福住光由ハ、次ノ如ク供述シタ──
 「……第100部隊ハ、実験隊トシテ、細菌学者、化学者、獣医及ビ農業技師の如キ研究員ヲ擁シテイタ。該部隊ニ於ケル全業務ハ、ソビエト同盟ニ対スル謀略細菌戦ノ準備ヲ目的トシテイタ該部隊ノ勤務員及ビ其ノ各部員ハ、家畜及ビ人間ノ大量殺戮ノ為ノ細菌並ニ猛毒ノ大量用法ニ関スル研究ヲ行ッテイタ」。
 「……是等ノ毒薬ノ効力ヲ検定スル為家畜及ビ生キタ人間ニ対スル実験ヲ行ッテ来タ……」(第13冊48頁)
 (以下略)


 ソ同盟ニ対スル細菌戦準備ノ積極化

 1941年、ソ同盟ニ対スルヒトラー・ドイツノ背信的攻撃ノ後、日本ノ軍国主義者共ハ、対ソ戦参加ノ好機ヲ待チ、細菌戦遂行ノ為ニ編成シタ細菌戦部隊及ビ其ノ支部ノ展開ト整備ヲ満州デ積極的ニ促進シタ。 「関特演」(即チ、1941年夏ニ採用サレタ対ソ攻撃ノ為ノ日本関東軍ノ展開計画)ニ従イ、第731部隊及ビ第100部隊ハ、細菌兵器の用法ノ徹底及ビ其ノ使用ノ為、将校、下士官ノ特別教育ヲ組織シタ。
 元関東軍獣医部長
高橋隆篤中将ハ、次ノ如ク供述シタ──
 「……「関特演」ト称スル作戦計画書作後成得在満各軍司令部ニ「軍馬防疫」隊ヲ編成シ、第100部隊ヨリ派遣シタ獣医・細菌専門家ヲ各部隊ノ長トシタ……
 此等ノ部隊編成ハ、日本軍参謀本部第1作戦部ガ発案シタモノデアル……。

 「軍馬防疫」隊ノ任務ハ、ソビエト同盟ニ対スル細菌戦及ビ謀略ノ準備ト実行デアッタ……」(第11冊53─54頁)
 被告川島ハ、1941年ニ於ケル日本ノ細菌戦準備強化ニ関シ供述シタ際、次ノ如ク述ベタ──
 「……1941年夏、独ソ戦開戦後、私ガ、石井中将ヲ訪レタ際、石井中将ハ、村上中佐及ビ太田章大佐──各部長出席ノ下ニ、部隊ノ活動強化ノ必要ナルコトニ就キ述ベ、細菌戦用兵器トシテノ、ペスト菌ノ研究ヲ促進スベシトノ日本軍参謀総長ノ命令ヲ私達ニ読聞カセタ。同命令ニハ、ペスト病ノ媒介体タル蚤ノ大量飼育ノ必要ニ関シ特記サレテアッタ。」(第3冊28─29頁)
 元第731部隊教育部長
西ハ、ヒトラー・ドイツ対ソ攻撃当時ニ於ケル──日本ノ細菌戦待機態勢ニ就キ次ノ如ク供述シタ──
 「……1941年、ドイツ対ソ同盟攻撃及ビ満州ニ於ケル関東軍ノ満ソ国境集結時ニ於テ、第731部隊ニ於ケル効果的細菌攻撃用兵器ノ製造ニ関スル研究業務ハ大体ニ於テ完成サレ同部隊ノ爾後ノ業務ハ、細菌ノ大量生産過程及ビ細菌撒布方法ノ改良ニ関シテ実施サレタ。最モ有数ナ攻撃手段ハ、ペスト菌ナルコトガ判明シタ」(第7冊124頁)

・・・

 第731部隊及ビ第100部隊並ニ其ノ各支部ニ於ケル、ソヴィエト同盟ニ対スル細菌戦ノ準備活動ガ、特ニ積極的ニナッテ来タ第2期ハ1945年デアッタ。
 被告
西ハ、此ノ点ニ関シ、次ノ如ク供述シタ──
 「……1945年5月、私ガ直接、石井中将ニ報告シタ際、石井中将ハ私ニ対シ、細菌材料、就中ペストニ関スルモノノ製造強化ノ必要ヲ特ニ強調シタ。石井ノ言ニヨルト、是ハ、当時、情勢ノ発展ガ、何時敵ニ対スル細菌攻撃ノ必要ガ生ズルカモ知レナイ状態ニ有ッタ為デアル」(第7冊130頁)
 此ノ指令にヨリ第731部隊ノ各支部ハ、蚤の繁殖ニ必要ナル齧歯類(二十日鼠)鼠ノ大量捕捉、繁殖及ビ之ノペスト感染ニ関スル業務ヲ強化シ、ソノ為各支部及ビ一般部隊ニモ特別班ヲ組織シタ(第10冊30,176,193,第2冊168頁)。此ノ時期ニ、実験業務ガ強化サレ、生産応力ヲ増大シ、細菌戦材料ヲ貯蔵スル為、設備ガ更ニ更新サレタ。
 元日本関東軍司令官
山田大将ハ、彼ノ直轄部隊デアッタ細菌戦部隊ノ潜在生産応力ニ就キ訊問サレタ際、其レガ極メテ大ナルコトヲ確認シ「必要ノ場合ニハ、第731部隊ノミデモ、其ノ兵器デ、日本軍ノ細菌戦遂行ヲ確保シ得タ」ト述ベタ。
(第2冊6頁)


 ソヴィエト同盟及ビ其ノ軍事力ハ、帝国主義日本ノ支配閥ノ細菌戦開始ノ犯罪的企図ヲ挺折セシメタ。
 ソヴィエト軍ハ、満領ニ進出シ、敵ヲ痲痺サセル急速ナ打撃ヲ敵ニ与エ日本ノ主要ナ軍事力タル関東軍ヲ最短期間ニ撃破シ、帝国主義日本ヲ無条件降伏ノ余儀ナキニ至ラシメタ。
 被告
山田ハ、次ノ如ク供述シタ──
   「……ソヴィエト同盟ガ対日戦参加シ、
ソヴィエト軍ガ急速に満領内深ク進撃シ来ツタ為、吾々ハ、ソ同盟及ビ其ノ他ノ諸外国ニ対シテ細菌兵器ヲ使用スル機会ヲ奪ワレテ了ッタ……」(第18冊133頁)


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三光作戦・三光政策'(燼滅・掃蕩作戦)

2008年04月19日 | 国際政治
 「三光作戦」とは、日本軍が中国を侵略した際に行った軍事的・計画的残虐行為に対し中国人が命名したものであるという。中国では「光」という字には「すっかり無くす」とか「徹底して行う」という意味があり、殺光=殺しつくす、焼光=焼きつくす、搶光=奪いつくすの三つを合わせ「三光」として、日本軍の軍事的・計画的な残虐行為を非難する意味を込めて三光作戦・三光政策と呼んだというのである。

 華北一帯に抗日根拠地をもつ中国共産党八路軍のゲリラ活動に手を焼いた日本軍は、この広い地域を無人地帯(無住禁作地帯・無人区)にし、この地域の住民は「集家併村」と称して一定の場所(集団)に囲い込むか、燼滅・掃蕩し、地域住民と密着してゲリラ活動を展開する八路軍を地域住民から切り離すとともに、八路軍とその抗日根拠地の存続を不可能ならしめようと意図したのである。

 集家併村(集団の設置)は、万里の長城線以北の関東軍側が主として先行し実行したようであるが、中国の人々はその集団を家畜同様に扱うところという意味で「人圏」と呼んだとのことである。実際この集団で多くの人が餓死・凍死・病死したという。

 三光作戦は、1940年8月華北の八路軍が「百団大戦」と名づけた攻勢に出て、日本軍の小拠点を占領し、鉄道や炭鉱、通信線などに大きな被害を与えたため、北支那方面軍の第一軍参謀長田中隆吉少将が「敵根拠地ヲ燼滅掃蕩シ敵ヲシテ将来生存スル能ハザルニ至ラシム」と命じて反撃に出たのが端緒であると考えられている。「燼滅目標及方法」として
1.敵及土民ヲ仮装スル敵 2.適性アリト認ムル住民中16才以上60才迄ノ男子(殺戮)
3.敵ノ秘匿シアル武器弾薬器具爆弾等 4.敵ノ集積セリト認ムル糧秣 5.敵ノ使用セル文書(押収携行止ムヲ得ザル時ハ焼却)
6.適性(焼却)

と命令しているのである。

 したがって、岡村寧次大将が北支那方面軍総司令官に就いた、1941年7月には、すでに三光作戦は始まっていたといえるが、就任後ただちに「晋察冀辺区粛正作戦」を発動し、八路軍を危機的状況に追い込んだため、中国側は日本軍・北支那方面軍兵団長会議において、北支那方面軍総司令官岡村寧次が三光作戦を画策したものであるとして、最高責任者は岡村寧次大将としているとのことである。

 国際法で禁じられている毒ガスの使用ももちろん大問題であるが、いわゆる「三光作戦」の最大の問題は、むしろ地域住民に密着してゲリラ活動を展開する八路軍に手を焼いた日本軍が、地域住民(一般民衆)そのものを敵視し、燼滅・掃蕩・剔抉の対象にしたということであろう。

 その犠牲者について、姫田光義氏は「華北根拠地での被害を総計すると少なく見積もっても247万人以上という数字が出てくる。この中には強制連行された人びとのその後の運命はカウントされていない」という。(「三光作戦」とは何だったのかー中国人の見た日本の戦争ー姫田光義 岩波ブックレット

 下記は、元日本軍の小林実氏の証言を「中国侵略の空白ー三光作戦と細菌戦」アジアの声第12集(戦争犠牲者を心に刻む会編)より抜粋したものである。
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・・・
 私の部隊は長城線におりまして、中国共産党の八路軍を敵として徹底的に戦った部隊でございます。長城線は万里の長城にありました。長城線の両側に住民の家があったり人が住んでいると、抗日の民兵が「満州」から入ってきたり向こうに出たりして日本軍の作戦の邪魔になります。あるいは八路軍が入って来てそこに拠点を作る。それでは日本軍が統治するのに具合が悪いということで、無住地帯つまり「無人区」を日本軍が設けたのです。
 その地域にある中国人のは、15軒から20軒という小さなまでも全部焼き払っちまったんです。証言にもありましたように、全部家を焼いてしまった上で、日本軍の都合のよい所に、ある程度大きな集団を作りました。その無住地帯・無人区の状況から申し上げます。
 無住地帯は一つや二つ、三つじゃないんです。日本軍が無人区をつくるためにとった作戦は、徹底的にの人たちの家を焼いたり、あるいは壊したりすることです。ある地域のここからここまでと決めた区域は全部家を壊して焼いてしまうという作戦だったものですから、軍隊がみんな行ってただ家を壊すだけでなく、火をつけて焼いてしまいました。その結果住民たちが、自分の着物やら家財道具を持って別のところへ引っ越さざるを得ないんですが、日本軍は、そんなことにはお構いなく、無住地帯にするため人が住んではいけない、家があってはいけないということにして、全部火をつけて焼いちゃったんです。
 黙っていればみんな無住地帯にされ、殺されたりするといことを察知した農民たちは、家や家財道具をそのままにして、どんどんと余所へ逃げ出しました。
 それを知った日本軍は、統治できないところに逃げられては困るからと、軍隊を出して銃で農民たちを押さえ、全員を数珠つなぎに縛って部隊へ連れてきた。そして、その人たちをみんな殺したんです。そういう状況ですから、あちらでもこちらでも日本軍に抵抗した農民やご婦人がいましたが、捕まえてきて全員射殺しました。あるいは、中国には地下に掘った野菜貯蔵庫というのがあるんですが、その中へ捕らえて来た住民を全員手を縛って押し込めて、上から火を付けて、生きたまま焼き殺してしまったんです。
 それでもまだ農民たちは抵抗しました。そして抵抗しながら逃げまわるのを日本軍が捕まえてくると、穴を掘りまして、抵抗した若い農民をその前に座れせて、そして日本軍の初年兵に「人を突く練習だ」、あるいは「人を殺さなかったら戦争にならないんだ」と命令して銃剣で突かせ、その穴に農民を放り込んで、上から土をかけて埋めました。

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 さらに続けて、残虐この上ないことも証言している。
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 特に中国で犯した残虐行為として、中国の城壁がありますが、捕まえてきた中国の人たち、八路軍あるいは抵抗した農民の首を斬り落として、その生首を全部、城壁の上に20も30も並べておいたことがあります。
 その晒された首を見て、殺された人の両親や兄弟には、遠くからでも自分の息子や親戚の人たちの首がどれかわかるので、それを夜ひそかに取りに来るんです。そのことがわかっているから日本軍は銃を持って待ち伏せて、取り戻しに来た人達をみんなその場で射殺しました。
・・・

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一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。  

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満ソ国境紛争処理要綱とノモンハン事件

2008年03月21日 | 国際政治

 先ず、ノモンハン事件に関わる関東軍司令部下達の『満ソ国境紛争処理要綱』第三項と第四項を抜粋したい。こんな処理要綱』を作成する関東軍作戦課、また、それを下達する関東軍司令部、さらには、「大本営からは、関東軍にたいし国境を明示したことはない。関東軍にまかせていた」という参謀本部作戦課長稲田正純の無責任な言葉、驚くほかはない。これでは、戦争になって当然あると思われる。

第三項  -----------------------------
 「国境線の明瞭なる地点に於いては、我より進んで彼を侵さざる如く厳に自戒すると共に、彼の越境を認めたる時は、周到なる計画準備 の下に十分なる兵力を用い之を急襲殲滅す。
 右の目的を達成する為一時的に『ソ』領に侵入し又は『ソ』兵を満領内に誘致滞留せしむることを得」

第四項-------------------------------
 「国境線明確ならざる地域に於いては、防衛司令官に於いて自主的に国境線を認定して之を第一線部隊に明示し、無用の紛糾惹起を防止すると共に第一線の任務達成を容易ならしむ。
 而て右地域内に於いては必要以外の行動を為さざると共に苟くも行動の要ある場合に於いては、至厳なる警戒と周到なる部署を以てし、万一衝突せば兵力の多寡ならびに国境の如何に拘わらず必勝を期す」

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 次に「ノモンハンの夏」半藤一利(文春文庫)より、ノモンハンというところについて書かれた部分や事件のきっかけとなる部分を抜粋する。
●ノモンハン----------------------------
 ノモンハンとは小さな集落の名である。原義はラマ僧の役職名であるという。最高位の活きぼとけをフトフクといい、ノモンハンはそのつぎに位置した位である。その地に有名なラマ僧の貴人の墓があったことから、地名になったものとされている。
 そのむかしには、ノモンハンとは蒙古語で平和という意味であるとしきりにいわれていた。それはどうやら間違いであるようであるが、このへんをホロンバイルといい、広さはざっと九州ぐらいで一望千里、無人の、広漠とした砂丘と草原が海のように広がっている。ひざの高さに草が茂っているだけで、山もなく、一本の樹もなく、なだらかな起伏が大波のようにゆっくりとつづき、四方の稜線は地平線で雲と接している。羊の群れを追う蒙古人が牧草をもとめてそこを行き来する、牧歌的な、まことに平和そのものの草原地帯ということから、そういわれてきたらしい。
 とくに夏のノモンハン周辺は草の丈が高く、牧草としても上等で、放牧の蒙古人が落ちあう憩いの場所でもあった。そこの井戸の水は動物にも貴重この上ない真水である。
 実は、この水が問題なのである。ホロンバイルには、その名の起こりでもあるホロン湖とボイル(バイル)湖をはじめいくつかの湖沼あるが、そのほとんどが塩水。たいしてハルハ河と、その支流のホルステン河は透明な真水であり、馬や羊にのませるためにもその真水はありがたかった。
 ところが、満州国が成立していらい、ハルハ河が国境線とされ、ノモンハン付近は満州国領内に組み入れられた。ノモンハンの国境警察分駐所には、警士五名が配置され、満州国側がきびしく目を光らせた。そのことを認めない外蒙古側は「失地回復」の意味もあり、しばしば家畜をおって、ハルハ河を越えて進出した。このとき少数の外蒙古軍が護衛についてきた。満州国軍からみればこれは「越境」となる。

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 さらに、実際にノモンハンの地に行ってきたという西牟田靖氏の「僕の見た大日本帝国」(情報センター出版局)から抜粋する。
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 日本では「事件」と事の大きさを矮小化しているが、「飛行機や戦車が参加した世界で初めての大規模な立体戦争」と斎さんが語るとおり、中国では「ノモンハン戦争」モンゴルでは「ハルハ河戦争」と呼ばれていて、それは、日ソが蒙古と満州の国境線をめぐって戦火を交えたまぎれもない戦争だったことを示している。五月から九月という短い期間の「限定戦争」だったが、それは終戦時の日本の悲劇的な結末をすでに示唆したものだった。
 当時このあたりの国境ははっきりと定まっていなかったという。遊牧民の土地だから国境を定めてしまうこと自体に無理があると思うのだが、双方の国の主張が対立していた。満州国(日本)はノモンハンよりもモンゴルよ寄りのハルハ河を国境とし、モンゴルはハルハ河を越えたノモンハン付近までを領土とみなしていた。
 モンゴル軍がハルハ河を「越境」したのを満州国軍が攻撃したのが武力衝突のきっかけだった。


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軍の関与と命令-戦犯の供述-NO2

2008年03月15日 | 国際政治
 下記は、中国侵略の実像を関係者本人の認罪のかたちで明らかにしているもので、中国戦犯裁判の法廷に提出された供述書の文である(1998年『世界』誌上ではじめて公表された)。敗戦前後中国や朝鮮でソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留された後、1950年7月に中国に移監され、1950年代半ば中国戦犯管理所において書かれたものである。周恩来が直接指揮を執ったといわれる計画的な戦犯対策に基づいて、師団、部隊、憲兵、警察、司法などに所属した者がグループをつくり、いろいろな立場で当時を語り合い、事実を確認し合った上で書かれたこの自筆供述書は、中国人被害者や遺族の告訴状、目撃者の証言、現地調査等との整合性も確認されており、日本軍の戦争犯罪を明らかにする史料として、極めて重要なものであると思う。慰安所設置や経営に対する軍の関与、強制労働や住民虐殺に関わる証言など数多く含まれているが、そのごく一部を抜粋した。(「侵略の証言-中国における日本人戦犯自筆供述書」新井利男・藤原彰編(岩波書店)より)

 陸軍第五十九師団歩兵第五十四旅団長 陸軍少将 長島 勤-----  三、第二次中国侵略第五十九師団歩兵第五十四旅団長 
 3 蟠居地における状況
  (1)1942年7月私の指揮下にありて萊蕪県に蟠居中、110大隊長は萊蕪県九頂  山附近の討伐を行った時、八路軍を免したことを居民が八路軍に内通したこと  と推断し報復の目的を以て瓦斯弾(クシャミ性)3発を歩兵砲で発射し、平和人  民老幼15名を殺害しました。

  (2)其の他1942年4月より1945年7月の間に於て各大隊(45大隊は1942年4  月-1943年6月間師団直轄期間を除く)は私の指揮下にありて所謂警備の任  務を以て治安維持のため担任地域に蟠居中、抗日軍及び平和人民に相当大  なる損害を与へ、且二十余回の討伐にて合計1300余名の抗日軍人と600余  名の平和人民を殺害し、抗日軍人と平和人民1000余名を逮捕しました。又大  多数の人民を強制して長大なる遮断壕の構築、望楼の修建其他兵器、弾薬、  糧食等の軍需品を運搬せしめ3年来これ等の強制労役は五十万工日以上の   中国人民を奴役しました。


 陸軍第三十九師団 師団長 陸軍中将 佐々眞之助---------
 21・・・
   師団湖北省駐屯間当陽には、日本人経営の慰安所が従前より設けられ、日  本軍隊の慰安に供せられて居ました。師団は之が経営を支援しました。当慰安  所には中国婦人十数名が日本帝国主義の侵略戦争に依り生活苦に陥り、強   制的に収容せられ、賤業に服して居たのでありました。宣昌、荊門にも同様の  慰安所があったと思われます。之等は侵略日本軍隊が強制的に中国婦人を陵  辱した重大な罪悪であります。之等罪行は私の発した命令に基づくものにて私  の重大な責任であることを認罪します。
 
 22師団が湖北省駐屯間、当陽に春屋と称する日本人経営の料理屋がありまし  た。春屋は1942年頃、荊門にて料理屋を経営中に第三十九師団司令部が荊  門から当陽に移駐した時随行し、当陽に開店したものであります。師団の支援  の下に経営し日本将兵の慰安に供して居たものでありました。春屋の主人は   師団御用商人であったので、各部隊需要に応じ、野菜等を師団の威力を背景  に利用して、中国人民より安価に収買して各部隊に供給し、中国人民より利益  を搾取し、又阿片商人なりし由なるを以て入手した阿片を其吸飲者なる中国人  に其悪癖を利用して高価に密売して莫大な利益を奪取して居た悪徳商人であ  ったと思われるが、師団は此行為を黙認して居た訳であります。之等莫大な収  益の分前として、春屋は日本軍将兵の慰安費を低廉ならしめて居たと認めら   れます。即ち師団将兵は春屋を通じて中国人民より搾取した利益に依り慰安し  つつ中国侵略戦争を実行して居たのであろります。此等罪行は私が認可したこ  とであり私の責任であることを認罪します。 
 

 満州国憲兵訓練処処長 少将 齋藤美夫----------------
 抗日聯軍・朝鮮游撃隊への工作
 二、人民鎮圧に対する方針
 (一)略
 (二)1937年11月初旬、新京北・南憲兵分隊、及偽首都警察庁の「厳重
    処分」に附すべき中国人約30名を隊附き西田憲兵少佐に指揮せしめ、
    偽首都警察庁押送用バス2台に分乗せしめ、憲兵偽警察官40名を以て
    護衛し、偽新京東北方約20吉米の刑場にに押送途中、被護送游撃隊員
    一名が手錠を装したるまま警察官拳銃を奪い、警察官を即座に射撃し、
    其場に斃し離脱を計りました。西田少佐は後部車両にありましたが、急
    遽全車を停止せしめ、憲兵警察官を指揮し、又最寄より自衛団を集
    めて遂にこの勇敢なる游撃隊員其他全員約30名を射殺し、引揚の上其
    顛末を報告しました。私は西田少佐が臨機応変の処置を講じたことに対
    し賞詞を与えました。本件は被押送者が受刑の直前、必死の最後的反抗
    闘争を敢行し、成功すると否とに拘ず日帝に対する憎しみを以て死の直
    前迄完闘したその精神は、誠に尊きものでありました。而して指揮官西
    田少佐は反抗を鎮圧することを理由として、無武装の被押送者を全部射
    撃致しました。私は隊長として西田以下を指揮し、このを実行
    せしめたのであります。しかも当時西田に対して賞詞を与えております。
    私の罪行は最も厳重であります。茲に衷心認罪致します。


 [石井部隊・討伐検挙・「厳重処分」]
 (四)1938年1月26日、関憲警五八号をもって石井細菌化学部隊と関係
    のある憲兵隊司令部命令を受領しました。私は、石井部隊が憲兵隊より
    引渡す人員を其細菌化学試験に充当するものなるを察知しました。私は
    右命令に基づき処置を取りましたが、当時如何なる手続きを経て何名の
    人員を石井部隊に引渡したるや等、其具体的情況を記憶致しませんため、
    ここに其供述をなし得ませぬことは誠に申訳なき次第であります。細菌
    化学試験に充つる中国人を憲兵隊が石井部隊に引渡したことについては、
    1938年新京憲兵隊附として在職した憲兵少佐橘武夫が、1948年
    ハバロフスク国際裁判法廷に証人として証言したることにより、之れを
    確認する次第であります。細菌化学試験に関する前記命令に基づいて、
    私は新京憲兵隊長として之れに対する措置を実行したに相違なく、従っ
    て私は石井細菌化学部隊の試験工作に封幇助協力して国際法規に違反し
    非人道極まる罪行を犯したることにつき、茲に謹んで認罪する次第であ
    ります。

    
 三 人民鎮圧に関する具体的事項
(二)1939年初頭より海拉爾日本軍陣地構築に関し、労働作業、生活管理不良    の為、中国人労働者に多数の病死者を出しました。この陣地構築労働者は、   防諜の見致より現地住民を避け、遠く熱河省方面より募集しきたりしものであ   ります。地下構築作業が主であったため、温度湿度が身体に合はず、且つ給   与管理が不適当であった為、爆発的に呼吸器疾患、或いは伝染病が多発し   たのであります。海拉爾憲兵隊は防諜警備上現場に出動勤務し、労働者に    酷烈なる監視を加え、病者の外、健康者に対しては更に苛酷なる取扱を実施   しました。私は警務部長として現地憲兵の陣地構築警戒監視に関する命令    指示を致しました。其関係においてこの事件に重大なる責任を負う次第であり   ます。


 
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