真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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GHQによるマインド・コントロールと「印象操作」

2021年08月31日 | 国際・政治

 安倍前首相がしばしば使用したので国会でも問題になった言葉を借りれば、『「反日」という病  GHQ・メディアによる日本人洗脳を解く』(幻冬舎)の著者・木佐芳男氏は、本質的な問題や大事なことを論じることなく、「印象操作」をくり返しているように思います。
 例をあげれば、「GHQと<反日日本人>では、”左翼文化活動に参加した者が多く所属”とか、”GHQが作成した憲法草案には、土地などを「国家に帰属する」とした共産主義的な考えの部分があった。”とか、”占領軍には左翼のルーツがはっきりとあったわけだ。”というのがそれです。私は、それがGHQによる日本の民主化にどのような影響をもたらしたのか、また、現実にどういう問題として戦後の日本にあらわれているのかという大事なことを論ずることなく、「左翼」とか「共産主義」という言葉を使って、GHQの取り組みを語っているので、印象操作だと思うのです。
 また、高橋史朗氏の文章を引いて、”これらの占領軍と癒着した<反日日本人>が戦後日本の言論界・学界・教育界などをリードしてきた事実を直視する必要がある”などと書いています。すでに、「天皇と神道」ウィリアム・P・ウッダート著:阿部美哉訳(サイマル出版会)から引いて取り上げたように、GHQは、一方的に命令を下さず、日本人の考えを聞きながら慎重に民主化を進めました。それを、”これらの占領軍と癒着した<反日日本人>が・・・”という人たちは、戦後の民主主義が受け入れられず、戦前の思想を継承しているから、そういう見方をするのだろう、と私は思います。
 また、”GHQ民間情報教育局(CIE)は、「マルクス主義の歴史学者だった羽仁五郎と密談を重ねて日本教職員組合の結成を擁護」”などとありますが、民主主義の国では、組合の結成は労働者の権利です。戦前の日本では、教職員が組合を結成して、教育の改革や待遇の改善を訴えることなど許されませんでした。だから、民主化の一環で、GHQが組合結成の後押ししたことに問題があるとは思えません。「密談」という言葉も気になります。組合の結成は、民主主義国家では当たり前のことなのに、あたかも、秘かに悪事を企んで、日本教職員組合を結成したかのような表現だと思います。
 ”羽仁五郎は・・・戦前に思想弾圧されたため戦後は脚光を浴びたが、じっさいにははなはだ問題のある人物だったとされる。”ともありますが、”はなはだ問題のある人物だった”という内容や根拠、また、誰の指摘かさえも示されておらず、とても問題のある「印象操作」だと思います。
GHQは、都合の悪い教員をつぎつぎとパージ(公職追放)しながら、”占領体制に従順”で”民主的”な教員を飼い慣らすことに成功した。」という表現もいかがなものかと思います。戦前は、軍国主義者や超国家主義者が、日本の戦争を指導し、世界を相手に、日本人だけで300万人(他国を含めると2000万人)を超えるといわれる犠牲者を出す戦争をしたのですから、その人たちを公職から追放しなければ、日本の民主化はできなかったと思います。もちろん、なかには不適切な公職追放もあっただろうと思いますが、日本の戦争を指導し、軍国主義を煽っていた人たちの追放を非難することはできないと思います。
 日本はポツダム宣言を受諾して降伏した国です。そのポツダム宣言には、下記のような一文があります。
六 吾等ハ無責任ナル軍國主義ガ世界ヨリ驅逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本國國民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ擧ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ” 1945年7月26日 ポツダム(potsdam,germany)で署名(外務省訳)”
 したがって、日本の戦争を指導し、煽った人たちは、日本が降伏した時点で、責任をとって、自ら身を引くべき人であったとも言えるように思います。それを、”GHQは、都合の悪い教員をつぎつぎとパージ(公職追放)しながら”などという木佐氏の受け止め方は、いかがなものかと思うのです。

 次に「誤解で消された教育勅語精神」に関してですが、木佐氏はここでも、大事なことを論ぜず、「印象操作」に注力しているように思います。”明星大学教授・高橋史朗は、ある重要な歴史秘話を明らかにする。”などと書いていますが、”教育基本法の日本側文案の前文には「伝統を尊重して」という言葉が入っていた”ということが、「重要な歴史秘話」などというようなものとは思えません。第一、”朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス”という神話的国体観に基づく「教育勅語」と、”すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない”という国際社会が到達した普遍的理念を背景とする「教育基本法」は、根本的に異なるものだと思います。”敎育ノ淵源”が全く異なるものを足して二で割るようなことはできないと思います。ほんとうに、GHQが「伝統を尊重して」という言葉を削るような命令を出したのかどうかは知りませんが、”・・・だが、通訳がきちんと訳していれば、いまも教育基本法の土台となる道徳として伝統は引き継がれていたことになる。”というようなことは、あり得ないということです。「教育勅語」と「教育基本法」の考え方は、次元が違うのです。

 次に「九分どおり公平だった韓国併合」に関してですが、自らに都合のよい著書だけに依拠して、数えきれない証言や数多くの歴史書、研究書の内容を否定してしまう姿勢が、日本の戦前の指導層と同じだと、私には思えます。 米NBCが放送した平昌冬季オリンピック開会式の解説者の発言が、”新しい歴史研究と合致するもので、謝罪する必要はまったくなかった。”と結論すれば、日韓関係に関するこれまでの歴史研究がすべて誤りであったということを論証する責任が、木佐氏にはあると思います。これまでの歴史研究が誤りで、新しい歴史研究が正しいという根拠を示す必要があると思うのです。


 次に「在日・強制連行の神話」に関してですが、「強制連行」についても数えきれない証言や数多くの歴史書、研究書があるにもかかわらず、『在日・強制連行の神話』(鄭大均著 文春新書) 一冊に基づいて完全否定するのはいかがなものかと思います。確かに、金を儲けるため、あるいは教育を受けるために、自らの意思で自発的に日本にやってきた朝鮮人も少なくないと思います。でも、それが韓国を併合した日本の政策と関わっていることを見逃してはならないと思います。また、朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』(未來社)によって作り出された「虚偽情報」という断定も大変な問題があると思います。朴慶植氏は、ありとあらゆるところから、様々な資料を集め、『朝に鮮人強制連行の記録』(未來社)にまとめたと聞いています。その資料は膨大な量であったといいます。それを「虚偽情報」というのであれば、当然その根拠を示す必要があると思います。さらに言えば、日本軍「慰安婦」同様、強制連行ではなかったから問題はないという考え方にも問題があると思います。日本の政策によって、朝鮮人の多くが土地を失い、生きていけなくなって国外に出たのです。だから、強制連行でなくても、問題はあるのです。そして、苛酷な労働を強制した事実と切り離して、「強制連行の神話」などと言うことは許されないと思います。日本の炭鉱を中心にして、いたるところで強制労働がありました。
 先だって、ユネスコ世界遺産委が、長崎県の端島(通称・軍艦島)炭鉱での朝鮮半島出身労働者に関する説明が不十分だとする決議を採択しました。日本が世界遺産登録決定後「意思に反して連れて来られ、厳しい環境で労働を強いられた」朝鮮半島出身者が多く存在したことへの理解を深めるための措置を講じる方針を表明していたにもかかわらず、それがなされていないということで決議されたものです。強制連行・強制労働は、国際社会も認めているのです。だから、”在日コリアンをめぐる神話は、この鄭大均の一書によって崩された。”というような簡単な話ではないといえます。


 強制連行・強制労働に関しては、いろいろの著書を思い出しますが、その一冊に「地図にないアリラン峠 強制連行の足跡をたどる旅」林えいだい(明石書店)があります。林氏は長く強制連行された朝鮮人の証言を取り続けて、様々な事実を明らかにされていますが、子どもの頃に自分自身が目撃した、下記のような朝鮮人坑夫に関する衝撃的な事実も明らかにしています。
「これから病院に連れて行ってもどうせ助かるまい、早うそこらに穴を掘って埋めておけ!」
義兄は持っているピッケルで坑口近くの辺りを指した。二人の朝鮮人坑夫は、まだ生きているのに病院で治療も受けさせず、坑口付近に掘られた穴に生き埋めされてしまった。
 こうしたことにあらわれているように、戦中の日本は、人命を軽視し、人権を無視して、強制連行や強制労働で、戦争を支えたのだと思います。だから、日本国内ばかりでなく、日本が軍政を敷いたアジアの国々にも少なからず強制連行や強制労働があったのです。そして、その一部は戦後補償裁判で取り上げられているのです。
 木佐氏には、片寄りなく、様々な情報を集め、客観的に判断して、日韓関係の改善に貢献してほしいと思います。下記は、『「反日」という病  GHQ・メディアによる日本人洗脳を解く』木佐芳男(幻冬舎)から「GHQと<反日日本人>」、「誤解で消された教育勅語精神」、「九分どおり公平だった韓国併合」、「在日・強制連行の神話」を抜粋しました。
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       第二章 GHQによるマインド・コントロール

10 マインド・コントロールa6 平和教育
 GHQと<反日日本人> 
 アメリカの戦時情報局(OWI)の任務は内外への広報・宣伝活動で、1930年代後半に「カルチュラル・フロント(文化戦線)」と呼ばれる左翼文化活動に参加した者が多く所属していたとされる。『菊と刀』のルース・ベネディクトが勤務していたあの機関だ。ここには、プロパガンダと世論操作の専門家であるバーネイズが、顧問として参加していた(『ダヴィストック洗脳研究所』)。
 GHQは、そのOWIが研究・分析していた対日心理作戦を継承した。GHQが作成した憲法草案には、土地などを「国家に帰属する」とした共産主義的な考えの部分があった。占領軍には左翼のルーツがはっきりとあったわけだ。
 高橋史朗は、さらに重要な現代史の暗部を発掘し、産経新聞2014年8月16日朝刊に書いている。
「在米占領文書によれば、米軍は日本の歴史、文化、伝統に否定的な『友好的日本人』のリストを作成し、占領政策の協力者として『日本人検閲官』(約5000人)など民政官を含む各分野の人材として高給を与え積極的に登用した。これらの占領軍と癒着した<反日日本人>が戦後日本の言論界・学界・教育界などをリードしてきた事実を直視する必要がある」さらに、”GHQ民間情報教育局(CIE)は、「マルクス主義の歴史学者だった羽仁五郎と密談を重ねて日本教職員組合の結成を擁護」”などというのも、印象操作の一つだと思います。


 占領政策の協力者となった約5000人の日本人検閲官とはだれか。彼らの名前や活動内容が、今後明らかになれば、相当な反響を呼ぶだろう。
 GHQ民間情報教育局(CIE)は、「マルクス主義の歴史学者だった羽仁五郎と密談を重ねて日本教職員組合の結成を擁護」した(『日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと』)。羽仁五郎は「左翼の大インテリ」と呼ばれたのちに参議院議員、日本学術会議議員となり、教育界にも大きな影響を与えた。戦前に思想弾圧されたため戦後は脚光を浴びたが、じっさいにははなはだ問題のある人物だったとされる。
 日教組の正史である『日教組十年史』は、「進駐軍、GHQの後押しがあってこそ我が組織は誕生した」と記述し、GHQが”誕生の立役者”であることを公然と認めている(山村明義『GHQの日本洗脳』)。
 GHQは、都合の悪い教員をつぎつぎとパージ(公職追放)しながら、”占領体制に従順”で”民主的”な教員を飼い慣らすことに成功した。「GHQが去った後も、日本の教育が自虐史観に支配されているのは、かつてGHQが日本の占領支配を完成させるために、日本に対して行った洗脳および教育システムが無秩序に改悪されて蔓延っている」ためとされる。(『日本洗脳計画 戦後70年 開封GHQ』)
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 誤解で消された教育勅語精神
 われわれは、戦後教育のなかで、戦前の教育勅語体制から教育基本法体制に180度転換したと教えられてきた。2017年2~4月ごろには、国会で森友学園騒ぎにからみ教育勅語が問題化した。
 だが、明星大学教授・高橋史朗は、ある重要な歴史秘話を明らかにする。高橋がずっと前、教育基本法を作ったときの日本側の生き証人に「なぜ教育勅語を廃止されましたか」と聞くと「私たちは教育勅語を否定していません。教育基本法の中に教育勅語の精神は引き継がれているのです」と語ったそうだ。教育基本法の日本側文案の前文には「伝統を尊重して」という言葉が入っていたという。それがあとで、GHQの圧力で削られることになった(『日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと』)
 高橋は、後年、アメリカ留学中に、GHQ民間情報教育局(CIE)の教育課長補佐だったJ・C・トレーナーという人物に会うためにわざわざ遠くまで出かけ、「伝統を尊重して」という言葉をなぜ削るよう命令を出したのかたずねた。それに対する答えにはあきれさせられる。「自分は日本語の意味がよくわからなかた。それで日系人の通訳にこれはどういう意味だと聞いた。すると通訳が”伝統を尊重するということは、封建的な世の中に逆戻りするという意味です”といった」(同書)
 今でも、教育勅語を評価するようなことを口にすると、右翼呼ばわりされかねない風潮がある。だが、通訳がきちんと訳していれば、いまも教育基本法の土台となる道徳として伝統は引き継がれていたことになる。
 1948年、衆参両議院で教育勅語の排除・失効の確認決議がおこなわれた。それはGHQによる間接統治下でのことだったということに留意する必要がある。教育勅語は天皇主権下のもので非民主的だ、と左派は主張する。
 だが、それなら左派は、なぜ「天皇主権下での改正手続きによって制定されたいまの憲法の制定過程は非民主的だ」として、「主権を得た日本国民による制憲議会をつくって自主憲法を制定すべきだ」と訴えてこなかったのだろうか。
 ここにも、マインド・コントロールの好例がみられる。
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             第Ⅶ章 変わる風向きと脱洗脳
              3 新しい歴史観
 九分どおり公平だった韓国併合
 韓国は、ことあるごとに日本の「植民地支配」を糾弾する。いわゆる「日帝36年」論だ。それに対して歴史学の新しい知見で反論する理論武装は絶対に必要だ。
 大韓民国は、1948(昭和23)年に「、日本の敗北による”漁夫の利”で誕生した際、「反日」を建国神話にすえた。戦後ずっとその国是は変わらず、2004年には、植民地時代に日本に協力した者を糾弾する「親日・反民族的行為真相究明特別法」が成立した。韓国は、「日本に侵略され、軍国主義によって人権を侵害され、誇りを奪われた」と声高に話す。
しかし、知日派のアメリカ人識者らさえ知らない人がいるそうだが、日本が、近現代に韓国と戦争したことはない。日本統治時代を知る韓国の人びとからは「いい時代で穏やかに暮らすことができた」という声さえ聞かれる。では、反日の韓国が言う「苛酷な植民地支配」は、実際にはどうだったのか。
 アメリカ人歴史家のジョージ・アキタとブランドン・パーマーは2013年、『「日本の朝鮮統治」を検証する 1910~1945』(草思社)を上梓した。アキタは1926年ハワイ生まれの日系二世で、ハワイ大学マノア校の名誉教授であり、長年にわたって日本や東アジアの歴史を研究してきた権威だ。パーマーは、米コースタル・カロライナ大学歴史学部準教授で朝鮮史を専門とする。
 この書の「15章 欧米と日本の植民地政策を比較する」では、「朝鮮人は史上もっとも残虐だったとして知られる日本の植民地支配の下で生きた」とする朝鮮系の人びとの主張を、欧米植民地との間で比較検証している。そして、最後の18章で日本の植民地支配は「九分どおり公平(almost fair)
だったと結論づけている。苛酷な欧米列強による植民地支配の場合で、こういう評価を下される例はない。
 聯合ニュースによると、2018年2月9日、米NBCが放送した平昌冬季オリンピック開会式の生中継で、解説者が「日本は1910年から1945年まで韓国を支配した国だが、全ての韓国人にとって発展過程で日本が文化や技術、経済的な重要なモデルになった」などと発言した。韓国組織委から抗議を受けたNBCは組織委に謝罪の書簡を送り、約7500万人が視聴する朝の番組でも謝罪した。
 だが、この発言は新しい歴史研究と合致するもので、謝罪する必要はまったくなかった。

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 在日・強制連行の神話
 韓国人の抱く歴史認識が、学術的に崩れつつあるなかで、もう一冊の決定的な著作がある。2004年に刊行された『在日・強制連行の神話』(鄭大均著 文春新書)だ。
 日本は、戦前、朝鮮半島に住む人びとを強制連行し労働にあたらせたのであり、いまの在日コリアン70万人はその被害者とその末裔だという説が根強くある。それは、1965年に刊行された朝鮮大学校講師・朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』(未來社)によって作り出された虚偽情報で、この本こそ、日本の過去を<推定有罪>とする最たるものだった。慰安婦問題で朝日が最大の根拠とした吉田清治の偽書『私の戦争犯罪──朝鮮人強制連行』(1983年)がまことしやかに広まったのも、それより18年前に刊行された朴慶植の本があったからとされる。
 だが、鄭大均は、多くの在日一世の証言などにもとづき、朝鮮人強制連行説は「神話」だとする。大多数は金を儲けるため、あるいは教育を受けるために、自らの意思で自発的に日本にやってきたという。
 日本外務省が1959年に発表した「在日朝鮮人の引揚に関するいきさつ」によると、戦時中に徴用労務者として日本に連れてこられたのは、245人だった。朝鮮人強制連行は、朝日新聞や岩波書店、進歩的文化人が「軍国日本の悪行」を糾弾するイデオロギーの立場から非難し、それに呼応する韓国からも同様の批判を浴びてきたものだ。しかし、在日コリアンをめぐる神話は、この鄭大均の一書によって崩された。
 
 

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GHQのマインドコントロ-ル?

2021年08月27日 | 国際・政治

『「反日」という病 GHQ・メディアによる日本人洗脳を解く』(幻冬舎)の著者、木佐芳男氏は、”先の大戦後、日本を占領したGHQはわれわれを計画的に洗脳(マインド・コントロー)し、その呪縛は現在もつづいている。”というのですが、読売新聞の海外特派員などとして、第一線で活躍してきたジャーナリストが、どうしてこういうことを言うのか、私は不思議です。


 私に言わせれば、日本人のマインド・コントロールとして問題すべきは、戦前の日本人指導層によるものです。国民を強固に団結させ、強い日本にするために、天皇を現津神(アキツミカミ)と信じ込ませ、”天皇の御陵威(ミイツ)にまつろはぬものを「ことむけやは」”し、”一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ”ということで、”皇国の威徳を四海に宣揚”する任務を与え、「海ゆかば」に歌われているように、命を投げ出し戦うことを美徳として教え込んだのです。だから、日本兵は降伏することなく、「万歳突撃」や「玉砕」戦を展開し、特攻攻撃にも従順に従ったのだと思います。それは、マインド・コントロールの結果だと、私は思います。

 日本人のマインドは、「教育勅語」、「軍人勅諭」、「国体の本義」、「臣民の道」、「戦陣訓」などの教義・教説ばかりではなく、御真影奉安殿拝礼神社参拝宮城遙拝祝祭日の行事など、日常生活のあらゆる側面でコントロールされたと思います。日々の報道や軍国美談なども、日本人のマインドを、コントロールするのに大きな影響があったと思います。そして、逆らう人間は非国民として差別されるばかりでなく、場合によっては、不敬罪治安維持法その他によって裁かれたのです。戦前の日本ほど、国民のマインドを徹底してコントロールした国は、他に例がないのではないかと思います。

 だから、「天皇と神道」ウィリアム・P・ウッダート著:阿部美哉訳(サイマル出版会)の文章を抜粋して確認したように、GHQは”国体のカルト解体”のために、「神道指令」を発したのです。言い換えれば、戦前の軍人や政治家による神話的国体観(皇国史観)に基づくマインド・コントロールから、日本人を解き放つために、GHQは「神道指令」を発したのだということです。

 したがって、木佐氏の”GHQのマインドコントロ-ル”の話は、全く逆だと思います。マインド・コントロールが問題になるのは、マインド・コントロールによって、ある国家や集団や組織が、他の国家や集団や組織と共存することが難しくなるような思想や信仰を、半ば強制的に注入するような場合だと思うのですが、GHQはそうした思想や信仰を日本人に注入したでしょうか。逆に、信教の自由をはじめとした様々な自由を法的に保障し、制度化して、日本人を天皇を現津神とする神話的国体観(皇国史観)から解放したのではないでしょうか。

 戦前の日本では、子どもたちに、”朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ”などというような教育勅語を暗唱させました。それが、”…教育というよりも、練成と言う名の暴力をともなうマインド・コントロールによる過激な天皇絶対の国体護持思想の注入であったと思う。”(「教育勅語が残してくれたもの」山中 恒氏「続・現代史資料月報」)と、暗唱させられた当事者がふり返っているのです。

 GHQがわれわれを計画的に洗脳(マインド・コントロー)し、その呪縛は現在もつづいているという木佐氏は、”罪悪感の刷り込みなどGHQの心理操作は、日本社会の深部に歪んだ形で作用し、さまざまな症状をもたらした。最悪の例が朝日新聞や進歩的文化人だった。”とも書いていますが、
 日本の戦争指導層の思想や思いを受け継いでいる安倍前首相同様、木佐氏も客観的に日本の戦争をふり返り、日本の過ちを素直に認めることができないのではないかと、私は思います。
 一例をあげれば、1933(昭和八)年二月二十四日、常任理事国であった日本は、国際連盟を脱退しました。きっかけは、「日本の満州における“特殊権益”は認めるが、満州事変は正当防衛には当たらず、満州を中華民国に返還した上で、日本を含めた外国人顧問の指導下で自治政府を樹立するようにされるべきである」というような内容の「リットン報告書」の国際連盟総会における審議が、賛成42、反対1(日本)、棄権1ということだったからです。日本を支持する国は一つもなかったので、国際連盟を脱退したのです。そして、強引な政策を続行し、諸外国との関係を悪化させて、悲惨な戦争をすることになったのだと思います。そうした様々な事実に基づく歴史認識を、GHQのマインド・コントロールの結果であるというような考え方は、日本は国際社会では受け入れられず、再び孤立することになるのではないかと思います。

 また、日本の戦争を「大東亜戦争」と呼び、欧米諸国からアジアの植民地を解放することにより、大東亜共栄圏を設立して、アジアの自立を目指す戦争であったという人たちと同じような考え方で、東京裁判は日本人に戦争の罪責感を植えつける重大な歴史的・政治的なイベントだったといわれますが、”アジアの自立を目指す戦争”というのは、軍部による表向きの話で、現実の日本の戦争が、そんなものではなかったことは、具体的な戦争内容やアジア諸国の状況を調べれば、分かることだと思います。
 先だって、「自由 自ら綴った祖国愛の記録」アウンサンスーチ、柳沢由実子訳(角川文庫)から、戦時中のアウンサン将軍に関する文章を抜萃しました。当初、イギリスの支配から逃れ、ビルマを独立させるために、日本と手を組んだアウンサン将軍は、最終的に、”立ち上がれ、そしてファシスト勢力を攻撃せよ”と言って、敵であったイギリスなどの連合軍と手を結び、日本軍に銃口を向けるに至っているのです。
 また、随分前に抜萃した文章を思い出します。マレーシアの中学生用教科書(1988年版)『歴史の中のマレーシア』の「日本人によるマラヤ占領」に”日本は、マレーの解放獲得への期待を裏切った。日本人はマラヤを、まるで自分たちの植民地であるかのように支配した。今度は彼らがイギリス人の座を奪ったのだ。日本の支配はイギリスよりずっとひどかった。”というような記述があったのです。さらに、”日本は、マラヤの国民を、日本軍自身の目的を達成するために利用した。例えば、彼らはタイとビルマの間に鉄道を建 設しようとした。この計画は多くの労働者を必要とし、マレー人の労働者がそのために使われた。多くの普通の国民がトラックで運ばれ、強制的に鉄道建設のために働かされた。そのうちの多数の人は帰国できなかった。およそ10万人が、その鉄道建設のために犠牲となった。この計画は、まさに「死の鉄路」と呼ぶにふさわしい。”というような記述もありました。

 インドネシアの中学校用『社会科学分野 歴史科 第五分冊』(1988年版)には、”日本は「大東亜の共栄」のために開発を実施する。その実態はどうであったか。日本時代にインドネシアの民衆は、肉体的にも精神的にも、並はずれた苦痛を体験した。日本は結局、独立を与えるどころか、インドネシア民衆を圧迫し、搾取したのだ。その行いは、強制栽培、強制労働時代のオランダの行為を超える、非人道的なものだった。資源とインドネシア民族の労働力は、日本の戦争のために搾り取られた。”などとありました。
 日本の戦争を「大東亜戦争」と称して、正当化したい気持ちはわからなくはありませんが、それが、”欧米諸国からアジアの植民地を解放する”ようなものでなかったことは明らかであり、国策の過ちは素直に認めるべきだと思います。

 また、同書「第一章 精神科医が診る朝日新聞」の”3 「現在進行中」の慰安婦虚報”に書かれら文章も問題があると思います。朝日新聞の日本軍「慰安婦」に関する報道を、報道経緯や根拠をきちんと示さず「虚報」としています。そして問題にしていることは、本質的な問題と関係のないようなことばかりで、歴史家や研究者が明らかにした日本軍「慰安婦」問題の事実そのものは不問に付されています。元「慰安婦」の証言はもちろん、業者や関係した人物の証言、当時、軍や政府を悩ませた日本兵による強姦事件や、それを防止するための対策などにも触れられていません。戦時中の実態を知ることが出来る、政府の「従軍慰安婦」関係の調査結果もまったく触れられていません。
 そして、安倍前首相を支える諸団体の人たちと同じように、吉田清治の朝鮮人慰安婦強制連行証言が事実に基づいていないことが、あたかも日本軍「慰安婦」問題不存在の証であるかのような主張をしています。
 でも、国連人権委員会より任命された女性に対する暴力に関する特別報告者であるクマラスワミは、報告書で取り上げた吉田清治は、様々な証言者の一人であり、吉田証言が偽証言であったとしても、報告書そのものに、根本的な修正は必要ないというようなことを言っています。また、クマラスワミ特別報告者を中心とする調査団は、事前に”豊富な情報と資料を受け取り、注意深く検討”した後、北朝鮮にまで行って、元「慰安婦」などの証言を得、「慰安婦」の”徴収方法や、各レベルで軍と政府が明白に関与していたことについての、東南アジアのきわめて多様な地域出身の女性たちの説明が一貫していることに争いの余地はない。あれほど多くの女性たちが、それぞれ自分自身の目的のために公的関与の範囲についてそのように似通った話を創作できるとは全く考えられない。”と結論しているのです。

きちんと受け止めるべきだと思います。

 また、日本軍「慰安婦」問題に関する、国連人権委員会二人目の日本政府に対する勧告者である、マクドゥーガルは、”第2次大戦中設置された「慰安所」に関する日本政府の法的責任の分析”で、”この付属文書は、第2次大戦中の強かん所の設置・監督・運営に対する日本軍当局の関与について、日本政府が行った調査で確定した事実のみに基づいている。日本政府が確認したこれらの事実に基づいて、この付属文書は、第2次大戦中に「慰安所」で行われた女性たちの奴隷化と強かんについて、日本政府が現在どのような法的責任を負っているか、を判定しようとするものである。責任を問う根拠はいろいろありうるが、この報告書は特に、奴隷制、人道に対する罪、戦争犯罪という最も重大な国際犯罪に対する責任に焦点をあてる。この付属文書はまた、国際刑法の法的枠組みを明らかにし、被害者がどのような賠償請求を提起できるか検証する。”と書いています。
 国際社会が問題としている日本軍「慰安婦」の問題は、吉田証言などに依拠しているわけではないのです。

 また、木佐氏は「10 慰安婦虚報にからんだ者たち」の「河野談話」で、”1993年八月四日、官房長官・河野洋平は談話を発表し、その後の記者会見で、強制連行があったことを事実上認めた。これによって、世界に誤った日本のイメージが広がった”というのですが、大事なことが置去りにされていると思います。
 宮沢内閣当時、元「慰安婦」による訴訟の提起があり、関係諸国などから強い関心が寄せられていた上に、国会でも、様々な論議があり、政府が調査を約束したのです。そして、1991年十二月より、翌年六月まで、いわゆる日本軍「慰安婦」問題に当時の軍や政府が関与していたかどうかを、警察庁、防衛庁、外務省、文部省、厚生省、労働省などに調査を依頼し、資料を集めたのです。その調査果がまとまったので、その公表に当たって発表されたのがいわゆる「河野談話」です。だから、大事なのは、「河野談話」よりもむしろ、『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成(財)女性のためのアジア平和国民基金編』にまとめられた内容だと思います。
 その政府の調査結果と河野談話を切り離し、河野談話が世界に誤った日本のイメージを広げたかのようにいうのは、おかしいと思います。河野談話が世界に誤った日本のイメージを広げたというのであれば、政府の調査結果からは、河野談話の内容が導き出せないことを論証する必要があると思うのです。


 前述のマクドゥーガルが、”第2次大戦中の強かん所の設置・監督・運営に対する日本軍当局の関与について、日本政府が行った調査で確定した事実のみに基づいている。”書いていることは、「河野談話」が政府の調査結果のまとめとして、決して間違ってはいないことを示しているのではないかと思います。また、私自身も随分前に、『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成(財)女性のためのアジア平和国民基金編』から、いくつかの資料を抜粋しアップしていますが、マクドゥーガルの指摘は間違っていないと思います。

 木佐氏には、日本の国策の過ちを素直に認め、大事なことに目をつぶることなく、客観的で公平な受け止め方をしてもらいたいと思います。
 下記は、『「反日」という病  GHQ・メディアによる日本人洗脳を解く』木佐芳男(幻冬舎)から抜粋しました。
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                はしがき──思考の自由
 先の大戦後、日本を占領したGHQはわれわれを計画的に洗脳(マインド・コントロー)し、その呪縛は現在もつづいている。一番の問題は、そうした事実が1980年代から一部で指摘されていながら、それを解く方法を日本人のだれも考えようとしなかったことだ。
 罪悪感の刷り込みなどGHQの心理操作は、日本社会の深部に歪んだ形で作用し、さまざまな症状をもたらした。最悪の例が朝日新聞や進歩的文化人だった。
 凄腕の精神科医と呼ばれた作家でもある春日武彦は、『天声人語』などを「グロテスクになった」 とし、捏造を含む虚報を重ねる朝日にはパーシナリティー障害と共通したものがあるのではないかとみる。「ある種の愉快犯的動機、あるいは自作自演で世界を煽り操る。コントロール願望による全能感の満足と自己肯定のためにやっているのでは」
 心理学者で精神分析の泰斗である岸田秀は、「朝日は(自らの)戦争責任というその観念を抑圧し無意識に追いやった。進歩的文化人もおなじだった。その責任を軍部に押しつけて自分たちは正義であると。戦前をすべて否認することによって現在の自分は清らかになる、と彼らは主観的には思うわけです。その結果、誤報や捏造、その擁護などさまざまな症状が出てくるのではないでしょうか」
 朝日には、政治家としての安倍晋三をフェアに評価する、まっとうな記者も一部にいる。だが、事実を伝えるべき報道機関としては、致命的な体質をもつ(未知の典型例として本書[第Ⅴ章 19条記事を組織的に捏造・隠蔽]を参照)
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           第一章 精神科医が診る朝日新聞

  3 「現在進行中」の慰安婦虚報
 日本政府は、2014年六月二十二日、いわゆる河野談話検証チームによる「慰安婦問題を巡る日韓のやりとりの経緯」という報告書を発表した。注目されるのが次のくだりだ。
「1992年一月七日には防衛研究所で軍の関与を示す文書が発見されたことが報告されている。その後、一月十一日にはこの文書について朝日新聞が報道したことを契機に、韓国国内における対日批判が過熱した」
 この公式の報告書で、朝日はメディアとして唯一名指しされ、その大虚報キャンペーンによって韓国世論に火を点けたことが指摘されたのだった。
 慰安婦制度非難の決議は、アメリカをはじめオランダ、カナダ、EUなどでもおこなわれた。日本非難の強風はつづいてきた。
 オーストラリアで中韓の団体が企画した慰安婦像設置計画を阻止した山岡鉄秀によると、日韓合意後、朝日新聞の一連の関連記事にある慰安婦について説明する文章のなかに、日本語版には一度も登場しないのに英語版には必ず同じような文章が挿入されている。山岡は10の例をあげており、たとえば、次のようなものだという。
<戦時中の日本兵にセックスの供与を強制された慰安婦> comfort women who were forced to provide sex to wartime Japanese soldiers
 山岡はこう指摘する。「これを読む英語話者は、間違いなく日本軍による強制的で組織的な蛮行の被害者という印象を持つだろう。そして、日本国民が気付かない間に、海外メディアを通して拡散されていく。これが現在進行中の朝日の戦略である」(正論2016年5月号)
 山岡によると、朝日はその後も英語版で、慰安婦が性行為を強制されたというイメージの表現を使い続けているという(Hanada 2018年5月号)
 ジュネーブで2016年二月に開かれた国連女子差別撤廃委員会で、日本外務省の杉山晋輔外務審議官は、慰安婦の強制連行説が世界規模で広まったのは、「慰安婦狩り」の捏造証言をした吉田清治の著作内容を朝日新聞が大きく報じたことが影響した、との主旨の説明をした(いわゆる吉田証言の件)
 朝日新聞は、外務省に対し、「朝日の報道が国際的に影響したか否かについては(朝日が設けた)第三者委員会でも見解が分かれた」などとし「根拠を示さない発言で遺憾」と文書で申し入れをした。この際、朝日は、紙面で杉山発言の内容を伝えず、申し入れをした事実だけを記事にした。
 これについて、朝日OBの永栄潔は、ある対談でこう強く批判している。
「国連での杉山発言のうち朝日の慰安婦報道に触れた部分を抜いて報じたというのは(福島第一原発命令違反の虚報だった)吉田調書報道以上に深刻です」「いわば編集局ぐるみでやってしまった秘匿報道だからです「戦後ジャーナリズムの最大汚点とされる伊藤律(当時、潜行中だった共産党幹部)架空会見などより、ある意味、もっと深刻で根の深い問題が思わぬ形で表われてしまった」(WiLL2016年5月)

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GHQによる天皇の格下げ、貨幣や切手の図案の規制、元号、不敬罪その他の対応

2021年08月23日 | 国際・政治

 「神道指令」や「人権指令」をはじめとするGHQの戦後日本の強制的改革は、人類史上例のないような幅広く、深いものであったと思います。根本的に日本を変えるものであったと思うのです。でも、日本人は、そうした改革を受け入れ、戦後、国際社会から「奇跡の復興」と呼ばれるような発展を遂げました。
 それは、GHQが、露骨な搾取を意図したり、不当な圧迫を加えたりせず、普遍的な原理原則に基づき、日本の改革を進めたからではないかと思います。本来敵国であったアメリカを中心とする連合国による占領や強制的な改革も、筋が通っていたから、日本人は受け入れられたのではないかと思います。
 そういう意味では、GHQの改革は、ポツダム宣言の”(6)日本の人民を欺きかつ誤らせ世界征服に赴かせた、 全ての時期における 影響勢力及び権威・権力は永久に排除されなければならない。従ってわれわれは、世界から無責任な軍国主義が駆逐されるまでは、平和、安全、正義の新秩序は実現不可能であると主張するものである。”や”(10)われわれは、日本を人種として奴隷化するつもりもなければ国民として絶滅させるつもりもない。…”という内容通りであり、日本人が納得できるものだったのだと思います。大きな混乱や強い抵抗がなかったことは、その証ではないかと思います。
 沖縄の元ひめゆり学徒隊の人たちの手記のいくつかに、間近で接した米兵が、皇民化教育で教え込まれた鬼畜というイメージとは違うものであったことが書かれていますが、それは占領軍関係者と接した人たちにも共通するのだったのではないかと思います。

 アメリカの学者187名が、2015年五月七日に、当時の安倍政権の「慰安婦」問題に対する姿勢を批判していた「日本の歴史家を支持する声明」を発表しました。その声明に名を連ねたジョン・W・ダワー・マサチューセッツ工科大学名誉教授は、「敗北を抱きしめて 第二次大戦後の日本人三浦陽一・高杉忠明訳(岩波書店)に、戦後の日本に関し、下記のように書いています。
アメリカ人の多くは、日本にやってきたとき、狂信的な天皇崇拝者たちとの不快なぶつかりあいを予期していた。ところが、完全武装した先遣部隊が日本の浜辺に上陸してみると、女たちは「こんにちは」と声をかけ、男たちはお辞儀をして、何がお望みでしょうかと勝者たちに聞いたのであった。アメリカ人たちは、素敵な贈り物や娯楽、そして日本人の丁重な物腰に(自分で気づいている以上に)魅了された。なにより、アメリカ人が見たのは、人々を破滅に追いやった軍国主義を憎み、戦争を嫌悪し、破壊された国土で現状の困難にただただ圧倒されている民衆の姿であった。ほかの何よりも敗者が望んでいたのは、過去を忘れ、過去を乗り越えることであった。
 また、下記のようにも書いています。
大多数の日本人は、十五年にわたってこれ以上ないほど強烈に教え込まれた軍国主義を、いとも簡単に投げ捨てることができた。これは人間の社会化にはどんな限界があるか、イデオロギーがどんなに危ういものであるかについて、教訓を与えてくれる。”

 にもかかわらず、新しい歴史教科書をつくる会の元会長・藤岡信勝教授は、「自虐史観の病理」(文春文庫)に、下記のように書いています。
自国民を人類史に例のない残虐非道な人間集団に仕立て上げ、自国史を悪魔の所業の連続のように描き出す。自国にムチ打ち、呪い、ののしり、糾弾する。こういう歴史の見方・精神的な態度が「自虐史観」と呼ぶことにする。宿痾である。増殖するガン細胞である。この病気を取り除かなければ、日本は健全な国家に生まれ変わることができない”
 戦後日本の歴史認識に対する憎しみが伝わってくるような気がします。仕立て上げ、とか、描き出し、とか、呪い、とか、ののしり、とか、糾弾する、とかいう言葉に、憎しみがにじみ出ているように思うのです。
 でも、戦後日本は、天皇を現津神とする神話的国体観(皇国史観)を脱し、人類普遍の原理に基づく日本国憲法のもと、国際社会に復帰して、まさに「奇跡の復興」を遂げ、健全な国家に生まれ変わりつつあるのであって、そうした事実を踏まえた戦後日本の歴史認識を、「自虐史観」として否定する認識こそ、天皇を現津神とする神話的国体観(皇国史観)の病気を引きずっているのだと、私は思います。日本人はすでに、戦前の神話的国体観(皇国史観)を乗り越え、世界に誇るべき日本国憲法をもって進んでいるのだと思います。
 だから、自民党政権と一体となって、日本の戦争を正当化し、戦前回帰を叫んでいるようでは、”日本は健全な国家に生まれ変わることができない” と思います。近隣諸国の信頼もえられないのです。
 ふり返れば、日本の民主化・非軍事化に取り組んでいたGHQが、アメリカの政策転換で「逆コース」といわれる方向に転じたたために、公職を追放された多くの戦争指導層が第一線に復帰することになりました。だから、GHQの日本の民主化・非軍事化は完結しなかったのです。藤岡教授の言葉を借りれば、戦前の”ガン細胞”が取り除かれることなく残ってしまったのです。そして、主権回復後に増殖をはじめることになったのだと言えます。私に言わせれば、藤岡教授のような主張こそ、まさに戦前の”ガン細胞”にほかならないのです。

 下記は、「天皇と神道」ウィリアム・P・ウッダート著:阿部美哉訳(サイマル出版会)から「明治天皇を記念する場所の格下げ」「ある種の図案を使用することの禁止」「元号廃止の提案と天皇の地位格下げ」「不敬罪とその他の諸問題」を抜粋しましたが、GHQの改革が、日本文化の隅々にまで至っていることが分かります。
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        5 超国家主義と軍主義の一掃 ── 国体のカルト解体への対策

              4 超国家主義の表象の除去

 明治天皇を記念する場所の格下げ
 天皇に対する過剰な尊敬に関係するものでまだ扱われていない要素の一つは、明治天皇が使用した場所や明治天皇ゆかりの特定の場所にたいして示される特別の敬意である。
 もちろん、明治天皇への敬意が自発的、偶発的に表わされることにたいしては、総司令部は異議を唱えなかったが、政府が三百七十九ほどの場所(そのいくつかは取るに足りない性質のものであるが)を、明治天皇への尊敬心を育成するために特別の場所として指定していることにたいしては、異議を唱えた。この点については、とくに問題は起こらなかった。これは単に、文部省にこれらの場所の指定を撤回させるという問題であった。そして、民間情報教育局は、反対意見を受けるどころか、多くの人びとから感謝を表明されたのである。
 たとえば、旅館主たちは、この処置の結果、すべての客間を使用できることになったので喜んだ。従来、彼らは、明治天皇が休憩した部屋または宿泊した部屋を、博物館に陳列するようなものとして保存することを義務づけられていたのである。この格下げの処置に反対し、またはこのために金銭的な損害を蒙った者もあったのでろうが、民間情報教育局にそうした苦情が持ち込まれた形跡はない。

 ある種の図案を使用することの禁止
 一定の図案を郵便切手および通貨に使用することを禁止する指令は、占領政策のなかには専門的な裏付けを欠いたままで決定されたこともあることを端的に示すものである。
 当初、総司令部は、そのような指令を発する意図はもっていなかった。指令が必要になったのは、1946年春、日本政府が「神道指令」が明らかに意味していたことを無視して、通常郵便に使用される切手として靖国神社の図柄のついたものを発行したためであった。それが意図的になされたことであったのか否かは定かでないが、これは事実上、日本の公共生活から超国家主義のシンボルを一掃しようという総司令部の方針にたいする挑戦として、無視しえないものであった。その切手の発行を禁止し、類似の図案すべてを禁止する以外に方法はなかった(明らかに、長い目でみれば、指令がより一般的な用語でいい表わされ、神道のみを特別に取り上げたのでなければ、いっそうよかったのであろう。しかし、当時の状況においては、そのような理想的な規定を設けることは困難であった)。
 軍国主義、超国家主義、神道、その他、通達されている占領軍の占領目的と相容れないものに関連する図案を郵便切手や通貨に使用することを禁止する指令において、過去および現在の軍事指導者および超国家主義の指導者の肖像、軍国主義と超国家主義のシンボル、神社やその他神道のシンボルを表わすもの、もはや日本の統治下にない領土の景色がとくに挙げられているのである。1945年十二月十五日以降に発行された郵便切手で、神社やその他の神道のシンボルをその図案のなかに含んでいるものはすべて即座に発売を停止し、廃棄するように命じられた。1945年十二月十五日以前に発売されたその他の郵便切手の在庫分の発売と使用は是認されたが、禁止の対象となっているものが図案のうちにふくまれている切手を継続して発行することは禁止され、印刷の図版は廃棄するものとされた。
 流通している貨幣を継続して発行し、使用することは当座の便宜のために是認されたが、以後発行される貨幣の図案は、前記の規定にしたがうものとされた。さらに、以後発行される郵便切手と通貨の図案は総司令部に提出され、その許可をうけるべきものとされたのである。

指令に従って逓信省によって差し止められた十八種の切手のリストをみれば、宗教課にとって、この指令がいかに必要であったかがわかるであろう。逓信省の挙げた順に列挙すると、乃木大将、楯と桜、富士山と天の瓊矛(ネホコ)、朝日と飛行機、朝鮮の金剛山、明治神宮、日光東照宮、地図とヤシの木、敵の降伏、飛行機と地図、奈良の春日大社、少年飛行士、靖国神社、厳島神社、春日大社の氏神である藤原鎌足が当時使用されていたが、禁止の対象になった図案であった。

 元号廃止の提案と天皇の地位格下げ
 日本では、新しく天皇が即位するごとにその統治期に縁起のよい名称が与えられ、その名称によって在位年数が数えられた。
 天皇が崩御すると、それ以後、彼と彼の存命期間はその名称で知られることになっている。それゆえ、例えば1964年という日本がオリンピック大会を主催した年は、日本では昭和三十九年と称される。つまり、この年は、歴史においては昭和天皇として知られることになるであろう現在の天皇の在位三十九年目であるということである。この制度は古来のものであるが、1868年九月八日に現在的な形態を与えられ、このときの勅令によって、これが「不変の原則」と定められたのである。
 バンスは、この制度は、「日本的宇宙をあまりに皇室を中心として築きすぎる」傾向があるとして、廃止させることを考えた。しかし、それが引き起こす問題はあまりに深刻で、また反対も多いと思われたため、この提案は放棄された。
 とはいえ、興味深いことに、多数とはいえないまでも国会内の相当数の者が、従来の制度を放棄してグレゴリウス暦を使用しようとする意見をもっていた。当時の首相吉田茂は、個人的には提唱されているような制度変更案に賛成であると伝えられた。しかし、公式に質問が発せられた場合、この点について彼の公的見解は、彼の党の態度に左右された。官僚や学者のあいだでは、一般に現行制度はわずらわしく、不合理で、高くつくものであると考えられていた。それにもかかわらず、保守的な意見がその存続を非常に強く訴えたために、この問題をあえて強力に推進する価値はないように思われたのである。
 超国家主義の除去は、天皇の地位の格下げの形をもとることになった。これは、バンスの意見がとくに求められたときにはじめて表面化したのである。たとえば、1946年二月の、皇族を祭主に任命する慣習にかんする伊勢皇大神宮からの書簡にたいして、民間情報教育局は、指名された皇族がその任期中、皇室とのいっさいの関係を放棄するならば異議は唱えないと返答した(のちに伊勢皇大神宮は内親王をこの地位に任命するという古来の慣習を復活させることに決定し、明治天皇の娘の北白川内親王が指名された)。
 天皇の重要性の格下げとみられるいま一つの事例が、神社本庁のなかで伊勢皇大神宮が占める位置にかんするインタビューのさいに持ち上がった。バンスは、質問にたいして、伊勢皇大神宮と皇室ばかりに神社神道の関心が集中することについて、「それが望ましいかどうかは疑わしい」と答えたのである。これはおそらく、宗教の内部事情への干渉であるとの解釈も成り立ったのであろうが、それよりむしろ宗教を政治的目的のために利用すること、つまりこの場合にかんしていえば、宗教を超国家主義的な目的のために利用することを阻止する例であると考えられたのである(皇室と密接な関係を持つ他のいくつかの神社にかんしても、類似の問題が持ち上がった)。

 不敬罪とその他の諸問題
 天皇を格下げする努力の一局面は刑法の不敬罪の廃止案にも表われたが、これは民間情報教育局によって却下された。宗教課で用意されたと思われる1946年六月二十七日付の草案の覚書きでは、国家がその最高責任者を特別な措置をもって無責任な批判から守るのは国家が遂行する通常の行為である、と論じられている。
 その説明によれば、市民的自由にかんする指令である「人権指令」は、不敬罪条項が天皇制論議を妨げるかぎりにおいて(そして妨げるならば)その施行停止を命じたのであるが、この問題にかんして自由に討議することは、天皇個人や皇族にたいする無責任な攻撃を許すということではなかった。そのため、皇室が「国家と国民全体の象徴」とみなされている日本においては、そうした攻撃は厳重に取り扱わなければならないと主張された。しかし「神社にたいして不敬行為を犯した者」の処罰を規定した現行法の改正は必要であると考えられていた。神社は、他の宗教機関にも与えられているのと同等の保護を受ける権利を与えられるべきだとされた。しかし、不敬罪を定めた法律はすべて廃止されたのである。
 超国家主義的・軍国主義的であると判定された書籍の検閲・発行禁止は、民間情報教育局の職務ではなく、また宗教課がとくに注意を払った問題でもなかった。このことがここで言及されているのは、時々、民間諜報局民間検閲課というこの領域を担当した課が、反対すべきものと指定された神道関係書の書名にかんして宗教課に協議をもちかけたためである。また、疑わしい新聞、雑誌、記事、パンフレットについても、おもに電話で相当の協議が行われた。
 この点にかんしてはとくに問題は起こらず、また民間検閲課の決定に異議が申し立てられたということも思い出されない。反対すべきものと判断された文献を発行し営利目的で配布することにたいしては、それに関連した総司令部の指令が適用された。しかし、個人の家庭や図書館にはその指令は適用されなかったのである。
 占領後期の数ヶ月間に検察庁によって行われた二、三のセクトの取締まりについては、邦人および外国人の評論家から信教の自由の剥奪であるという非難が起こった。しかし彼らがそれらの事例の真相を知ろうとしなかったのは明らかである。
 典型的な例として、合併して宗教法人化した超国家主義的な五団体にたいする1950年一月の強制的な解散措置がある。これらが小さな団体であったこと(これらの団体の成員は、総数でも二千人に満たないものであった)は重要ではない。問題は、この五団体が同一の主管者を指導者と仰いでいたこと、そして、その教えの一つが、「全世界は日本の天皇の支配下にはいるべきである」というものであったことである。
 この団体は小さいもので、深刻な問題を引き起こすほどの力をもたなかったので、おそらく抑圧しなかったほうがよかったのかもしれない。しかし、宗教課がその解散を阻止していたとしたら、軍国主義的・超国家主義的諸団体が宗教のかげに隠れることを阻止しようとする際にあれほどの協力を検察庁化から得ることは、ほとんど期待できなかったであろう(三つの超国家主義的な小団体の解散という、より初期の事例においても、宗教課は解散命令に反対することはしなかった。しかし、宗教課は、検察庁が、法人組織を真の宗教組織を疑似宗教組織<宗教的団体>から区別するための手段として利用することにたいしては、異議を唱えたのである。

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GHQと天皇と大日本帝国陸軍軍人の思想

2021年08月21日 | 国際・政治

 下記は、「天皇と神道」ウィリアム・P・ウッダート著:阿部美哉訳(サイマル出版会)「5 超国家主義と軍主義の一掃 ── 国体のカルト解体への対策」の「4 超国家主義の表象の除去」から、「天皇の御真影と奉安殿の撤去」と「皇居遙拝の停止」を抜粋したものですが、ここで私が注目したいのが、”宮内省の進歩的な姿勢と、その占領初期数ヶ月間の注意深さの効あって、この難問は比較的容易に処理された。事実、これらの御真影の処理にかんしては、何の問題も出てこなかったのである。”という文章です。当時、GHQと同じ進歩的な考え方をする人たちが、宮内省にいたことが分かります。

 そしてそれが宮内省のみならず、昭和天皇自身の考え方でもあったのだろうと、私は思うのです。
 その根拠の一つが、1933(昭和八)年の「あめつちの神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を」という昭和天皇いわゆる”御製”です。昭和天皇は、1931 (昭和六)年9月18日の満州事変以来、悪化の一途をたどる中国との和平を願い、歌にしているのです。それは、昭和天皇の感覚が、当時の軍人や政治家とは異なるものだったあらわれではないかと思います。

 また、1935年(昭和10年)、美濃部達吉の憲法学説である天皇機関説が政治問題化した天皇機関説事件について、昭和天皇は侍従武官長・本庄繁に”美濃部説の通りではないか。自分は天皇機関説でよい”と語ったいいます。こうした主張も、昭和天皇の考え方が、当時の日本を主導した軍人や政治家とは異なり、学者の側にあったことを示しているように思います。

 さらに、1936(昭和十一)年、二月二十六日に起きた陸軍皇道派青年将校らによる二・二六事件の際、侍従武官長・本庄繁に対し、昭和天皇は怒りをあらわに、”朕が股肱の老臣を殺りくす、此の如き兇暴の将校等の精神に於て何ら恕(ジョ)すべきものありや”と語り、また、”老臣を悉く倒すは、朕の首を真綿で締むるに等しき行為”と述べ、”朕自ら近衛師団を率ゐこれが鎮圧に当らん”と息巻いたことは、よく知られています。それは、軍人勅諭や教育勅語その他の神話的国体観の教えを忠実に守り、「尊王義軍」語って蹶起した陸軍皇道派青年将校たちを許さないという意志をあらわしたものだと思います。皮肉なことですが、皇室崇拝に徹し蹶起した青年将校を、天皇が許さないというのです。

 また、牧野伸顕内大臣は、たびたび陸軍皇道派青年将校に命をねらわれていますが、第二次世界大戦下でも天皇の信頼が衰えることはなかったと言われています。天皇の考え方が、陸軍軍人のようないわゆる神話的国体観(皇国史観)一本やりではなく、穏健な英米協調派で自由主義的傾向をもつ牧野伸顕に近いものであったことを示しているのではないかと思います。

 また、昭和天皇は、明仁親王の教育係に大日本帝国陸軍の軍人を就けることを拒否したと聞いています。
 こうした事実を踏まえると、1945(昭和二十)年八月九日の御前会議におけるいわゆる「聖断」の内容と、終戦の詔書の内容、そして1946(昭和二十一)年一月一日に発せられた詔書、いわゆる天皇の「人間宣言」の内容は、一貫しており、大きな矛盾はないと、私は思います。昭和天皇は、神話的国体観(皇国史観)に捉われてはいなかったのだろうと、私は思うのです(ただ、実際に現津神としての天皇の地位を利用しており、矛盾があるとは思いますが…)。
 したがって、前述の ”宮内省の進歩的な姿勢”というのは、天皇自身の姿勢であり、マッカーサーが、”天皇が日本国民の民主化に指導的役割を果たした”と高く評価したという話も頷けるのです。
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        5 超国家主義と軍主義の一掃 ── 国体のカルト解体への対策

              4 超国家主義の表象の除去

 天皇の御真影と奉安殿の撤去
 「教育勅語」の発布後まもなく、勅語で説かれている徳をいっそう効果的に育成するために、勅語とともに、これを尊い所に丁重に保管すべきことという訓戒をつけて天皇と皇后の御真影が配布された。しかし、これらのものを火事から救い出そうとして教師が命を落とすという悲劇が多発したため、耐火性の特別の収容施設(奉安殿)が校舎内または校庭に建造されたのである。それでもなお、それらのものは、昼夜、「儀仗兵」たる教職員によって守られていた。彼らは、御真影と「教育勅語」をいかなる被害からも命を賭して守るものとされていた。生徒たちは登下校時に、必ず奉安殿の方角に向いて拝礼させられた。
 両陛下の御真影は、当初は官立学校のみに配布された。しかし、1930年代に、御真影の拝受を願い出るようにという圧力が私立学校にたいしても強くかけられるようになった。拝受を願い出なければ、おそらくそうした機関にたいする公認は取り消され、ついには学校閉鎖を余儀なくされたかもしれない。
 御真影(男子学校では、天皇の御真影のみが展示された)は通常、学校の演壇の壁に吊るされ、拝礼するほんの限られた間だけ、思いベルベットの緞帳が儀式ばったしかたで上げられた。場合によっては、学校は御真影を展示するための特別の容器を作り、それは拝礼のときがくるまで重い緞帳で覆われ、式典のたびに講堂の演壇に置かれたのである。
宮内省の進歩的な姿勢と、その占領初期数ヶ月間の注意深さの効あって、この難問は比較的容易に処理された。事実、これらの御真影の処理にかんしては、何の問題も出てこなかったのである。 学校における天皇の御真影の処理は、民間情報教育局に深刻な問題をもたらしうるものであったが、
 宮内省が御真影について考えをまとめる数週間前に、バンスは「神道指令」のスタッフ・スタディにおいて、学校にある天皇の御真影は神道的要素にかかわりうる「きわめてデリケートな問題」を提起していると書いていた。
 彼は、「天皇の御真影の前での表敬の式典は廃止すべきであり」、御真影が安置されている特別の部屋または建物は「閉鎖するか他の用途に向けるべきである」と確信し、その理由として、ホルトム博士の所説を引用した。彼は、ホルトム博士が、御真影をたやすく近づくことのできるところに吊るし、通常の学校生活のなかで身近なものにすることによって、しだいにその神聖性を奪っていくという方法を考えていたことに注目していた。バンスはそのほかに、ルーマン・J・シェイファー博士の説を引用していたが、博士の考えでは、「学校長は御真影の拝受を拒む権利をもつべきであった」のである。
 バンスは、多くの校長たちは心のなかでは、御真影を奉持するという重大な責任から解放されることを望んでいるに違いないと考えていた。彼は、民主主義に共鳴し、拝礼にずっと慣れていなかった者にとっては、拝礼という制度全体が反感をもたらすと感じていた。しかし、この特殊な時期には、この問題にかんする指令は、それがどのようなものであっても天皇の地位にたいする攻撃とみなされかねなかったため、バンスは指令は出すべきではないと考えた。彼の意見では、これは神道と国家の分離にかんする問題というよりも、むしろ憲法と全政治体制の改定に密接にかかわる問題と考えられた。そのため彼は、どのような変革を行うにしても、「事態の推移にあわせて」熟慮するように勧告したのであった。
 この問題は、当時使用されていた御真影が除去されたのち、宮内省が学校にたいしして通達を出したときに解決されることとなった。この通達の一部分で、何人も天皇の写真に拝礼することを強要されるべきでないこと、学校または官庁所有の天皇の写真は従来のように奉安殿に保管されるべきではなく、希望に応じて他の写真に並べて体裁よく吊るされるべきであること、そして両陛下の写真はそれを使用する官庁、学校、組織、個人に無料で送付されること、が述べられていた(知られているかぎりでは、学習院の教授のR・H・ブライス博士が民間情報教育局を訪問したさいに、少なくとも一度は論議したとはいうものの、この件にかんしての公式な協議はなかったようである)。

 御真影の問題と密接に関連しているのが、それを収納しておく設備である奉安殿の処分問題であった。多くの奉安殿が、小さな神社の形に作られていた。それらのほとんどすべてに、通常神道に結びつけて考えられている何らかのシンボルが刻まれていた。そして、奉安殿がもつ超国家主義的な意味合いよりも、むしろこのことを大きな理由として、1945~1946年の冬に、奉安殿の処分問題が持ち上がったのである。
「神道指令」はすべての「国家神道の物理的シンボル」の除去を命じたので、1945年十二月二十二日の文部省通達で、神社に似せて作られた奉安殿のみの撤去が命令された。しかし、バンスがこの通達を初めて見たのは一ヶ月以上も経ったあとになってからであった。
 民間情報教育局にとっては、これは、奉安殿のもつより深い超国家主義的意味をごまかそうとする試み、法の精神ではなく字づらだけをみようとする試みのように思われたのであるが、事実はそうでもなかったようである。「神道指令」には奉安殿への言及はなく、また、文部省の官吏が学校において行われる天皇崇拝にまつわるどのような行事をも超国家主義を表現するするものとみなしていたとは考えにくい。むしろ逆に、彼らはそれらの行事を、忠誠心と愛国心を表わす正当な方法であると考えていたのである。彼らは、天皇崇拝の実践が、右翼過激派によって扇動され、いき過ぎていたことは認めながらも、崇拝行為そのもののなかに超国家主義的表現をみていたわけではなかったのである。
 しかし、民間情報教育局が問題を提起する前に、この点にかんして非常に熱心であるように思われた軍政班内の者たちによって、宗教課はこの問題への着手を余儀なくされた。たとえば宮崎県では、知事は1946年一月に、御真影の奉安殿はどのような形で作られたものであろうともすべて「神道指令」違反であり、撤去すべきであるという通告を受けた。山形県担当の軍政班は三月に、県内の普通校にたいして、たとえ神社の形に作られたものでなくても御真影の奉安殿を撤去することを命じた。
 いずれかの軍政班が、事前にこのことにかんしてバンスの注意を喚起したか否かは知られていない。しかし、1946年四月、文部省からの直接質問に答えてバンスは、宮内省が天皇の写真を特別の収納物に入れておくことは望ましくないと決定したので、文部省は奉安殿の除去、ないしそれが部屋である場合には進んで改装を決定するものと考えていたと述べた。彼は自分の立場を強調するために、文部省に、御真影の奉安殿が当初意図した用途に使えなくなるのならば、文部省はそれをどのように使うおうと考えるのか、また奉安殿を奉安殿として使用しないのならば、いったいなにゆえにそれを保持するのであるかという問いを投げ返した。
 そこで文部省は、宮内省と態度を同じくするものであることを表明し、六月十八日に宗教課は、文部省が公立学校から奉安殿を撤去することを正式に決定したことを知った。六月二十九日に通達が発令され、注目に値する例外はあったものの、応諾は一般に迅速かつ満足できるものであった。一つの例外として西宮の神戸大学の学長の場合があげられるが、彼は、マッカーサー将軍が第八軍司令官にしかるべき措置をとるように命じるまで、軍政班の指示を無視したのである。

 皇居遙拝の停止
 学校の主催で毎日、集団で皇居に向って遙拝するという行為は、戦争直前の数年間で非常に一般的なものになっていた。この慣習がようやく1937年になってから流行したということは、今日では理解しがたいことである。それ以前には、この慣習は特別の機会、とくに国の祝祭日のみにみられた。「神道指令」は公立学校における「神道にまつわる儀式、行事、式典」の挙行を禁止したが、遠方から皇居に向って拝礼することにかんしては何も述べていなかった。したがって1945年十二月末に文部省が「神道指令」を遵守するよう通達したときには、神道の神社にたいする遙拝の禁止が告げられたのに加えて、とくに理由もなかったのに、「遠方からの皇居への表敬は禁止されていない」と付記されたのである。
 これらは総司令部の方針に沿うものではなかったけれども、当時は、このような通達は民間情報教育局の検閲を受けることもなく、またバンスに知らされることもなく発令されたので、バンスは、それらについて何もしえなかったのである。1946年九月になってからでさえ、文部省は伊勢皇大神宮・明治神宮にたいする学校主催の遙拝が禁止されていることを地方官吏に再確認させながらも、皇居にたいする遙拝は禁止されていないと、あからさまに表明したのである。さらに、報告の示すところによれば、皇居にたいする遙拝の式典は広く学校で実施されていたため、どうしても何らかの措置をとることが必要となった。
 1947年春にこのことが問題になったとき、バンスは、日本においてはお辞儀は通常の挨拶のしかたであり、アメリカでもつような特別の意味をもっていないということを知った。にもかかわらずバンスは、教師の前で命令されて集団が一緒にお辞儀をするということの実践が明らかに「個性を押さえつけることを意図したもの」であるかぎり、その健全性が問われるべきであると考えたのである。
 このようなことの実践を教育課程の通常項目として採用することは、彼の見解によれば極端な国家主義の副産物であり、国家主義の強化を意図したものであった。バンスにとっては、「皇居にたいする遙拝は神道的な行為ではないと称することによって、その禁止を回避しようとした文部省の決定は、神社神道は宗教というよりむしろカルトであるという見解、および、それは信教の自由に抵触することなく政治体制を適切に補強するために用いることができるという見解を放棄することへの抵抗を示すもの」にほかならないと思われたのである。
 彼の見解では、文部省によって表明された通達は、天皇を中心に据えた旧来の国家体制を、可能なかぎり救いたいという意図を反映したものであった。バンスは、学校で行われる皇居にたいする遙拝には、政治的要素と宗教的要素がともに存在しているという見解をとった。もちろんその両要素の区別が困難であることも、また宗教(神道)的要素とはとらえどころのないものであることも認めている。しかし彼は、皇居の遙拝の式典が「宗教的儀礼による天皇と臣民との統一達成」を祈るものであるため、それはまぎれもなく、「国民を天皇に密接に結びつけ、天皇中心の国家を永続させること」を意図するものであると考えた。バンスがこの式典を宗教的であると理由づけるのは、それを表わす用語として遙拝という「遠方からの礼拝」を意味する神道用語が用いられていることを根拠としていた。
 皇居の遙拝の実行は、「 天皇制にかんするいかなる変更にも反対の方向に生徒の心を向ける」努力であるという理由で、政治的に望ましくないものと考えられた。それはまた、倫理その他の教科書への記載を禁止された行為が、継続されて行われていることを表わすものでもあった。ついにバンスは、皇居の遙拝を、日本の教育制度改革にかんする極東委員会の「天皇崇拝……を教えること」を禁止する1947年三月の指令に違背するものであり、また「神道にまつわる儀式、行事、式典」の挙行を禁止した「神道指令」にも違反するものであると考えるにいたった。そのため彼は、民間情報教育局長に、日本政府にたいして非公式に勧告するか指令を発令することによって、皇居の遙拝は「神道指令」違反であり、「占領軍の教育目標に沿うものではない」と通報すべきであると提言したのである。
 その結果、文部省は1947年六月三日に、「今後、学校によって主宰され、または指導された皇居の遙拝と『天皇陛下万歳』の歓呼は停止される。生徒の指導において、校長および教師は、天皇の神性にかんする信念をあからさまに表わして説き、強要し、また生徒を仕向けてそのように信じるように導いてはならない。いうまでもなく、これは生徒および学童の側から自発的になされる天皇への表敬を妨げるものではない」という趣旨の訓令を発表したのである。 

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GHQと教育勅語

2021年08月17日 | 国際・政治

 「天皇と神道」ウィリアム・P・ウッダート著:阿部美哉訳(サイマル出版会)は、GHQ民間情報教育局宗教課が、教育勅語についても、さまざまな調査をもとに思いを巡らし、慎重に対応したことを明かにしています。だから結果的に教育勅語は、衆議院における「教育勅語等排除に関する決議」(1948年6月19日)と、参議院における「教育勅語等の失効確認に関する決議」(1948年6月19日)というかたちで、日本人自らの手で葬り去られることになったのだと思います。

 にもかかわらず、いまだにその「教育勅語」を復活させようとする人たちが少なくありません。すでに、「今こそ日本人が見直すべき 教育勅語 戦後日本人はなぜ〝道義”を忘れたのか」濤川栄太(ごま書房)や「『教育勅語』のすすめ」清水馨八郎(日新報道)をとりあげましたが、そこには、”かつての教育には、今の教育にはない「教育勅語」というバックボーンがあった。それこそ、今の日本人に求められている「孝養」「忠義」「勤勉」などといった、精神文化の中心的存在だったのだ。”とか、”日本という国は、神代が歴史に繋がり、それがそのまま現在に繋がっている世界に比類のない聖なる国家なのである”とか、”私が常に感動するのは前文の僅か数行の中に日本国の成り立ちと精華が、つまり国体の本質が簡潔にまとめられていることである”などと書かれていていました。
 下記抜粋文に示されている「教育勅語」にたいするGHQ民間情報教育局宗教課の三点の異議は、完全に無視されているのです。

「教育勅語」が大きな力を持ったのは、天皇を中心とした家族国家観(神話的国体観)によって、儒教的道徳が、朕(現人神・天皇)と臣民(国民)の家族的関係の中で語られたこと、そして、天皇が個人的道徳と社会的道徳の究極的な源であるとされ、「教育勅語」のみならず「御真影」などとともに、神的なものとして「奉体」・「奉安」のシステムに組み込まれて、日々強い強制力を発揮したからなのだと思います。

 それは、すでに取り上げたように、子どもの時に教育勅語を暗記させられた児童文学作家でノンフィクション作家、山中 恒氏の「教育勅語が残してくれたもの」と題した下記の文章でも、確認できます。”・・・教育というよりも、練成と言う名の暴力をともなうマインド・コントロールによる過激な天皇絶対の国体護持思想の注入であったと思う。それが、どれほどものすごかったかは、あれから五十年を過ぎようとしているのに、私自身いまだに教育勅語の全文を暗記しているし、旧漢字歴史的仮名遣いでその全文を書くこともできるということでも証明できるような気がする。”「続・現代史資料月報」(1995.12

 見逃すことができないのは、現在日本の政権中枢が、そうした国体のカルトの源ともいえる「教育勅語」を復活させようとする人たちによって占められていることです。例えば、下村博文元文部科学相は、教育勅語が、”至極真っ当。今でも十分通用する”と述べ、稲田朋美元防衛相は、教育勅語における”道義国家をめざす精神は取り戻すべきだ”と発言しています。柴山昌彦・前文部科学相は、”教育勅語には、現代風にアレンジすれば道徳の授業などに使える分野が十分にある。”というようなことを語っています。
 さらに、萩生田光一文部科学大臣は記者会見で、記者から”議員会館の部屋にも3年くらい前にですね、掛け軸で教育勅語を掲げてらっしゃったのを目撃した方もいらっしゃったりしてですね、教育勅語というものについての現時点での文科大臣としてのお考えを。”と問われたのに対し、”教育勅語はもう既に日本国憲法及び基本法の制定をもってですね、法制上の効力は喪失をしている、その内容について政府としてコメントするのは差し控えたいなと思っています。私個人がどうかと言えば、今申し上げたように既に効力を失った文章であります。ただ、現代文に直したときに、例えば、親孝行だとか友達を大切にするとか、日々の暮らしの中で一つ参考になることもあるなと個人的には思います。”などと、苦しい擁護発言をしています。

 しかしながら、”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念天皇の「人間宣言」より)という天皇自身による言葉に示されているように、国体のカルトが”神道ノ教理並ニ信仰ヲ歪曲シテ日本国民ヲ欺キ侵略戦争ヘ誘導スル”ために利用されたというのは、GHQ関係者の指摘する通りだと思います。
 そして教育勅語や御真影に対する崇敬行為、神社参拝や宮城遙拝、また、祝祭日の行事などあらゆる機会と場所をとらえて、国体のカルトが強力なシステムとして日本の戦争を支えたことは否定できないと思います。だから、教育勅語の復活は、民主主義国家となった日本では、あってはならないことだと思います。
 現在も続く閣僚の教育勅語擁護の発言は、いまだに戦前の神話的国体観にとらわれているのか、或は、かつての戦争指導層や戦争指導層の思いを受け継ぐ人たちとの連帯の意思表示なのでしょうが、基本的人権や個人の尊厳を法の基本原理として進む国際社会に受け入れられるものではないと思います。

 下記は、「天皇と神道」ウィリアム・P・ウッダート著:阿部美哉訳(サイマル出版会)から、教育勅語に関わる部分を抜粋しました。
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        5 超国家主義と軍主義の一掃 ── 国体のカルト解体への対策

              4 超国家主義の表象の除去

 超国家主義は、天皇を人間以上のものとする主張、すなわち神性の主張にまつわる特異な問題を抱えていた。しかしこの問題は、1946年一月一日に宣布された天皇の「人間宣言」のために、占領軍にとっては容易に解決できるものとなった。この勅語によって、これに関連する諸問題は、勅語が宣布されなければ不可能であったような合理的な方法で処理されることになった。そして、少なくとも理論的には、この勅語によって天皇は、民間情報教育局が保守的な政府官僚・政府指導者の非妥協的な態度に直面した際には必ず占領軍の側につくことになったのでる。
 日本の軍隊の廃止によって、明治天皇の「軍人勅諭(1883年)を考慮する必要はなくなったのであるが、(愛国心を包含する概念である)天皇への絶対的忠誠と孝養を強調する「教育勅語」(1890年)は未解決の問題として残っていた。占領軍のスタッフや顧問のなかには「教育勅語」を許容しうるものとみなした者もあったが、学校での「教育勅語」の扱われかた、すなわちその由来も性質もともに神聖であるかのような扱われかたにたいしては、すべての者が異議を唱えたのである。
 「教育勅語」にたいする宗教課の異議は、三点にわたっていた。その第一は、勅語が基本的に儒教的な文書であり、そのために民主化という占領の目標に合致しないということであった。第二は、勅語が、天皇を個人的道徳と社会的道徳の究極的な源であり、基準であるとしていることであった。最期は、勅語と天皇がともに神聖であるということを生徒に信じ込ませるようなかたちで、勅語が学校において扱われているということであった。
 明治天皇の「教育勅語」は、1890年十月三十日に勅令第八号として宣布されたもので、当局が行き過ぎであると考えた国民の西洋への関心を抑制し、国民が日本の伝統文化を軽視する傾向に歯止めをかけることを目指すものであった。大日本帝国内の各校には勅語の写しが配布され(官立学校は御名御璽のついたものを配布された)、まもなく国内の少年少女はほとんど全文を暗記するにいたったのである。この勅語は、すべての日本国民に絶対的な道徳的基準を示すものと考えられ、国の諸教育機関にとっての基本的文書になった。すべての教育は勅語の訓戒にしたがうものでなければならなかったのである。
 定められた年中行事の折りには、各校の校長は決められた式典の一部として生徒、教職員の前で勅語を読む、というよりもむしろ詠唱することになっていた。文書を扱ううえでの手違いや朗読においての間違いは、いかに些細なものであろうとも恐るべき不敬であり、過ちを犯した当事者の辞任かおそらくは自害によってのみ償われるのであった。このことは、一つの単語の誤りにさえ適用された。
 バンスは、「教育勅語」は日本で発布れた文書のなかで最も影響力の大きかった文書の一つであったと述べている。彼は、「教育勅語」は天皇への絶対的忠誠と孝養を教えこむ単一の手段として、国で最も重要なものであったと考えていた。「教育勅語」は、学校で朗読されるときには、なみはずれた崇敬の念をもって扱われたのであるが、バンスによれば、それはほとんど神聖侵すべからざるものに接するかのようであった。このことが多感な若者におよぼした影響は甚大であった。「教育勅語」は、『国体の本義』などの解説書によって公的解釈がつけられ、他国にたいする日本の優越を主張し、日本国が神聖な使命を負っていることを説くものとして利用されたのである。

 「教育勅語」の検討とその廃止
 バンスは、「神道指令」にかんするスタッフ・スタディにおいて、「教育勅語」は「超国家主義的解釈をはっきりと拒絶する新しい詔勅に置き換えられるか、あるいは新しい解釈を施されるかすべきである。さもなくば、学校から排除されるべきである」と述べていた。バンスは勅語を廃止するのならば、その廃止にともなって可能なかぎりの広報活動を行って、神道の理論家と軍国主義者が「教育勅語」を超国家主義的なしかたで利用したために、勅語廃止の処置をとらざるをえなくなったのであるということを説明しなければならないと考えたのである。
 彼は、自分の見解を立証するために、数人の進歩的な日本人が、このことは一般国民に向って慎重に説明する必要があると語ったことに触れた。彼らは、「教育勅語」の廃止は日本国民全体に大きなショックを与えるであろうと考えた。日本国民の大部分は「教育勅語」が超国家主義的に運用されていたことに気づいていなかったので、勅語の廃止を天皇の地位にたいする直接的な攻撃とみなすであろうと主張したのである。
 そのためにバンスは、日本人が書いたもので、はっきりと超国家主義的な解釈を拒絶している権威ある文書をとりあげようというやりかたが最良の方策であるように思われたのである。またバンスは、教科書、教師用参考書、書物、論文、パンフレットへのこの勅語の超国家主義的な解釈の掲載にどのような形であれ責任を負った者は、公職から追放されるべきであると考えていた。
 十月二十日ころ執筆された「神道指令」の草案において、バンスは、「教育勅語」の使用の中止を勧告したが、第二稿以降、この問題はいっそうの調査を待つこととされた。そのため、1946年春に、アメリカの対日教育使節が「学校での教育勅語朗読の式典の挙行と天皇の御真影にたいする表敬」は望ましくないという結論に達したことが知られるようになってはじめて、公立学校で「教育勅語」の使用中止は確定的なものになったのである。そして十月八日に、学校における「教育勅語」の使用を撤廃する旨の通告が文部省から発令された。この通達の発令前とその後の数ヶ月間、教育課と軍政部では、「教育勅語」に代わる詔勅を発布することの是非にかんして相当の論議が展開された。少なくとも一人の人物は、大胆にも新しい勅語の草案を提出した。しかし、こうした努力からは何も生まれなかった。最終的には、1948年六月十九日に国会を通過した決議によって「教育勅語」は廃止されたのである。

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靖国神社とGHQの「神道指令」

2021年08月13日 | 国際・政治

 1945年十二月十五日、GHQがいわゆる「神道指令」(資料2)を発して以降、靖国神社や神社本庁を中心とする人たち、および文部省の役人などが、戦没者のための神社の生き残りをかけて、懸命に考え、行動していたことが、「天皇と神道」ウィリアム・P・ウッダート著:阿部美哉訳(サイマル出版会)の文章で分かります。
 戦没者をまつる神社の指導者たちが、GHQの処分を恐れ、生き残るために何が必要かを考えてGHQ宗教課に持ち込む相談や提案の内容は、GHQ宗教課関係者の関知しない問題を含んでいたようです。GHQ関係者の考えを忖度し、いわゆる「神道指令」に過剰反応したということだと思います。
 でも、連合国軍の日本占領の究極的な目標は、すでに取り上げたように、日本が再びアメリカに脅威を与え、世界平和と治安に危害を及ぼすことがないように、日本から超国家主義と軍国主義を一掃すること、また、国際連合憲章の理念と原則を遵守し、自由に表明された国民の意思に基づいて、平和を愛好し、責任を明らかにする新しい政府を樹立することにありました。
 したがって、GHQ宗教課は、あくまでも、信教の自由の確立と政教分離という原則を徹底させることに主眼を置いていました。そこで、GHQ宗教課関係者が問題にしたのは、神道そのものではなく、「神道指令」に示されているように、”神道ノ教理並ニ信仰ヲ歪曲シテ日本国民ヲ欺キ侵略戦争ヘ誘導”し、神道を”軍国主義的並ニ過激ナル国家主義的宣伝ニ利用”した政治的イデオロギー、すなわち国体のカルトだったのです。だから、日本から平和の脅威となる超国家主義的・軍国主義的な思想や運動を除去するために、国体のカルトを解体することが、GHQ宗教課の中心課題だったといえます。 

 GHQの「神道指令」は、関係者の慎重で丁寧な取り組みの結果、抵抗なく日本人に受け入れられたのではないかと思います。だから、靖国神社公式参拝や靖国神社法案などは、「神道指令」に反する面があると思います。また、「神道指令」を受け入れた日本人の思いにも反する面があるのではないかと思います。

 下記資料1は、「天皇と神道」ウィリアム・P・ウッダート著:阿部美哉訳(サイマル出版会)から「5 超国家主義と軍主義の一掃 ── 国体のカルト解体への対策」の「3 戦没者をまつる神社」の一部を抜粋しました。
 また、資料2は、いわゆる「神道指令」であり、文部科学省の「白書・統計・出版物」の「学制百年史 資料編」、「連合国軍最高司令部指令」より抜萃しました。
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        5 超国家主義と軍主義の一掃 ── 国体のカルト解体への対策

              3 戦没者をまつる神社

 神社界指導者たちの態度
 ・・・
 これらの神社の将来のありかたについて、最初の干渉がましい提案が、文部省から出されてきた。1946年十二月二日、(文部省の)宗務課長が来訪し、靖国神社は「軍国主義促進のための施設としてではなく、戦没者の霊を鎮め、慰めるための一つの神社として、その本来の姿に立ち返るべきである」との提案を持参した(宗教課<GHQの組織>も、靖国神社が軍国主義の象徴だと評価した点ではほぼ同意見であった)。
 神社界の指導者たちもまた、これらの神社の救済に向って蠢動(シュンドウ)した。彼らはキャンペーンを開始し、その結果これらの神社の存続を求める大量の請願が、主として遺族から寄せられた。このことが周知されてから一ヶ月も経たないころに神社本庁の三人の幹部がバンス(GHQ宗教課)を訪問して、戦没者のための神社が認可されるためには、これらの神社の性格をどのように改めればよいかについて話し合った。彼らの提案には、これらの神社を本来の招魂社の姿、すなわち公認の神社よりも若干格の低いものに戻すという考えかたがふくまれていた。しかし、諸提案のなかで宗教課の応対者を最も驚かせたのは、帝国軍人遺族会を解散するというものであった。
 三年後、神社本庁の長谷外余男(ハセトヨオ)専務理事が、これらの神社の改革のための大変興味深い提案をした。彼は、「軍国主義的・超国家主義的傾向」は、すでにこれらの神社から除去されており、これらの神社は、祀られている戦没者の霊を慰めることに専念していて、「軍功の礼賛」は行っていないという事実を述べたあとで、(1)神社の名称を、慰霊神社または招魂神社といったものに変えること、(2)死亡した公職者の霊を戦死者の霊と一緒に祀ること、(3)その目的は祀られた霊の平安のために祈ることに限り、「軍事的功績の賞揚」にわたらないこと、(4)有資格の神職をもってかつての陸海軍将校で現職の宮司の任にある者と交代させること、(5)これらの神社は寄付だけによって維持すること、および、(6)これらの神社は、宗教的目的に必要な最小限の境内地しか要求してはならないこと、を提案したのであった。
 神社本庁がこれらの神社に強制する権限をもっていないのに、これらの提案をどうやって実現するのかについては記述されていなかった。もっと基本的な問題は、これらの条件を承認することは宗教課を巻き込むことになり、宗教の事柄には介入しないというその根本政策を侵すことになるということであった。さらに、外部からいかなる仕掛けが与えられても、それは一時的な効力しか持たないことがわかていた。
 多くの神社本庁の職員が、頻繁に特別プロジェクト・オフィサーを訪れて提案を持ち込んできたが、彼らは、どうして宗教課が神社本庁内部で起こっていることについての情報を入手するのか、不思議に思っていたようである。一つの情報源は検閲であった。民間情報教育局はこの方法によって、神社本庁が戦没者のための神社へ書簡を送って、かつて陸海軍の将校であった宮司をすべて解職することや帝国軍人遺族会の廃止などを勧めていたことを知った。これらのことは神社存続のための「絶対的必要条件」だといわれていたが、宗教課はそのような判定基準について関知していなかったし、またそれが決定的条件だとは考えていなかった。
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    国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件
(昭和二十年十二月十五日連合国軍最高司令官総司令部参謀副官発第三号<民間情報教育部>終戦連絡中央事務局経由日本政府ニ対スル覚書)

一 国家指定ノ宗教乃至祭式ニ対スル信仰或ハ信仰告白ノ(直接的或ハ間接的)強制ヨリ日本国民ヲ解放スル為ニ戦争犯罪、敗北、苦悩、困窮及ビ現在ノ悲惨ナル状態ヲ招来セル「イデオロギー」ニ対スル強制的財政援助ヨリ生ズル日本国民ノ経済的負担ヲ取り除ク為ニ神道ノ教理並ニ信仰ヲ歪曲シテ日本国民ヲ欺キ侵略戦争ヘ誘導スルタメニ意図サレタ軍国主義的並ニ過激ナル国家主義的宣伝ニ利用スルガ如キコトノ再ビ起ルコトヲ妨止スル為ニ再教育ニ依ッテ国民生活ヲ更新シ永久ノ平和及民主主義ノ理想ニ基礎ヲ置ク新日本建設ヲ実現セシムル計画ニ対シテ日本国民ヲ援助スル為ニ茲ニ左ノ指令ヲ発ス
(イ)日本政府、都道府県庁、市町村或ハ官公吏、属官、雇員等ニシテ公的資格ニ於テ神道ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ヲナスコトヲ禁止スル而シテカカル行為ノ即刻ノ停止ヲ命ズル
(ロ)神道及神杜ニ対スル公ノ財源ヨリノアラユル財政的援助並ニアラユル公的要素ノ導入ハ之ヲ禁止スル而シテカカル行為ノ即刻ノ停止ヲ命ズル
(1)公地或ハ公園ニ設置セラレタル神社ニ対シテ公ノ財源ヨリノ如何ナル種類ノ財政的援助モ許サレズ但シコノ禁止命令ハカカル神社ノ設置セラレ居ル地域ニ対シテ日本政府、都道府県庁、市町村ガ援助ヲ継続スルコトヲ妨ゲルモノト解釈セラルベキデハナイ
(2)従来部分的ニ或ハ全面的ニ公ノ財源ニヨツテ維持セラレテヰタアラユル神道ノ神社ヲ個人トシテ財政的ニ援助スルコトハ許サレル但シカカル個人的援助ハ全ク自発的ナルコトヲ条件トシ絶対ニ強制的或ハ不本意ノ寄附ヨリナル援助デアツテハナラナイ
(ハ)神道ノ教義、慣例、祭式、儀式或ハ礼式ニ於テ軍国主義的乃至過激ナル国家主義的「イデオロギー」ノ如何ナル宣伝、弘布モ之ヲ禁止スル而シテカカル行為ノ即刻ノ停止ヲ命ズル神道ニ限ラズ他ノ如何ナル宗教、信仰、宗派、信条或ハ哲学ニ於テモ叙上ノ「イデオロギー」ノ宣伝、弘布ハ勿論之ヲ禁止シカカル行為ノ却刻ノ停止ヲ命ズル
(ニ)伊勢ノ大廟ニ関シテノ宗教的式典ノ指令並ニ官国幣社ソノ他ノ神社ニ関シテノ宗教的式典ノ指令ハ之ヲ撤廃スルコト
(ホ)内務省ノ神祇院ハ之ヲ廃止スルコト而シテ政府ノ他ノ如何ナル機関モ或ハ租税ニ依ツテ維持セラレル如何ナル機関モ神祇院ノ現在ノ機能、任務、行政的責務ヲ代行スルコトハ許サレナイ
(ヘ)アラユル公ノ教育機関ニシテソノ主要ナル機能ガ神道ノ調査研究及ビ弘布ニアルカ或ハ神官ノ養成ニアルモノハ之ヲ廃止シソノ物的所有物ハ他ニ転用スルコト而シテ政府ノ如何ナル機関モ或ハ租税ニ依ッテ維持セラルル如何ナル機関モカカル教育機関ノ現在ノ機能又ハ任務ノ行政的責務ヲ代行スルコトハ許サレナイ
(ト)神道ノ調査研究並ニ弘布ヲ目的トスル或ハ神官養成ヲ目的トスル私立ノ教育機関ハ之ヲ認メル但シ政府ト特殊ノ関係ナキ他ノ私立教育機関ト同様ナル監督制限ノモトニアル同様ナル特典ヲ与ヘラレテ経営セラルベキコト併シ如何ナル場合ト雖モ公ノ財源ヨリ支援ヲ受クベカラザルコト、マタ如何ナル場合ト雖モ軍国主義的乃至過激ナル国家主義的「イデオロギー」ヲ宣伝、弘布スベカラザルコト
(チ)全面的ニ或ハ部分的ニ公ノ財源ニ依テ維持セラレル如何ナル教育機関ニ於テモ神道ノ教義ノ弘布ハソノ方法様式ヲ問ハズ禁止セラルベキコト、而シテカカル行為ハ即刻停止セラルベキコト
(1)全面的ニ或ハ部分的ニ公ノ財源ニ依ツテ維持セラレ居ル凡テノ教育機関ニ於テ現ニ使用セラレ居ル凡テノ教師用参考書並ニ教科書ハ之ヲ検閲シソノ中ヨリ凡テノ神道教義ヲ削除スルコト
 今後カカル教育機関ニ於テ使用スル為ニ出版セラルベキ如何ナル教師用参考書、如何ナル教科書ニモ神道教義ヲ含マシメザルコト
(2)全面的ニ或ハ部分的ニ公ノ財源ニ依テ維持セラレル如何ナル教育機関モ神道神社参拝乃至神道ニ関連セル祭式、慣例或ハ儀式ヲ行ヒ或ハソノ後援ヲナサザルコト
(リ)「国体の本義」、「臣民の道」乃至同種類ノ官発行ノ書籍論評、評釈乃至神道ニ関スル訓令等ノ頒布ハ之ヲ禁止スル
(ヌ)公文書ニ於テ「大東亜戦争」、「八紘一宇」ナル用語乃至ソノ他ノ用語ニシテ日本語トシテソノ意味ノ連想ガ国家神道、軍国主義、過激ナル国家主義ト切り離シ得ザルモノハ之ヲ使用スルコトヲ禁止スル、而シテカカル用語ノ却刻停止ヲ命令スル
(ル)全面的乃至部分的ニ公ノ財源ニ依ツテ維持セラレル役所、学校、機関、協会乃至建造物中ニ神棚ソノ他国家神道ノ物的象徴トナル凡テノモノヲ設置スルコトヲ禁止スル、而シテ之等ノモノヲ直ニ除去スルコトヲ命令スル
(ヲ)官公吏、属官、雇員、学生、一般ノ国民乃至日本国在住者ガ国家神道ソノ他如何ナル宗教ヲ問ハズ之ヲ信仰セヌ故ニ或ハ之ガ信仰告白ヲナサヌガ故ニ或ハカカル特定ノ宗教ノ慣例、祭式、儀式、礼式ニ参列セヌガ故ニ彼等ヲ差別待遇セザルコト
(ワ)日本政府、都道府県庁、市町村ノ官公吏ハソノ公ノ資格ニ於テ新任ノ奉告ヲナス為ニ或ハ政治ノ現状ヲ奉告スル為ニ或ハ政府乃至役所ノ代表トシテ神道ノ如何ナル儀式或ハ礼式タルヲ問ハズ之ニ参列スル為ニ如何ナル神社ニモ参拝セザルコト

二(イ)本指令ノ目的ハ宗教ヲ国家ヨリ分離スルニアル、マタ宗教ヲ政治的目的ニ誤用スルコトヲ妨止シ、正確ニ同ジ機会ト保護ヲ与ヘラレル権利ヲ有スルアラユル宗教、信仰、信条ヲ正確ニ同ジ法的根拠ノ上ニ立タシメルニアル、本指令ハ啻ニ神道ニ対シテノミナラズアラユル宗教、信仰、宗派、信条乃至哲学ノ信奉者ニ対シテモ政府ト特殊ノ関係ヲ持ツコトヲ禁ジマタ軍国主義的乃至過激ナル国家主義的「イデオロギー」ノ宣伝、弘布ヲ禁ズルモノデアル
(ロ)本指令ノ各条項ハ同ジ効力ヲ以テ神道ニ関連スルアラユル祭式、慣例、儀式、礼式、信仰、教ヘ、神話、伝説、哲学、神社、物的象徴ニ適用サレルモノデアル
(ハ)本指令ノ中ニテ意味スル国家神道ナル用語ハ、日本政府ノ法令ニ依テ宗派神道或ハ教派神道ト区別セラレタル神道ノ一派即チ国家神道乃至神社神道トシテ一般ニ知ラレタル非宗教的ナル国家的祭祀トシテ類別セラレタル神道ノ一派(国家神道或ハ神社神道)ヲ指スモノデアル
(ニ)宗派神道或ハ教派神道ナル用語ハ一般民間ニ於テモ、法律上ノ解釈ニ依テモ又日本政府ノ法令ニ依テモ宗教トシテ認メラレテ来タ(十三ノ公認宗派ヨリ成ル)神道ノ一派ヲ指スモノデアル
(ホ)連合国軍最高司令官ニ依テ一九四五年十月四日ニ発セラレタル基本的指令即チ「政治的、社会的並ニ宗教的自由束縛ノ解放」ニ依テ日本国民ハ完全ナル宗教的自由ヲ保証セラレタノデアルガ、右指令第一条ノ条項ニ従テ
(1)宗派神道ハ他ノ宗教ト同様ナル保護ヲ享受スルモノデアル
(2)神社神道ハ国家カラ分離セラレ、ソノ軍国主義的乃至過激ナル国家主義的要素ヲ剥奪セラレタル後ハ若シソノ信奉者ガ望ム場合ニハ一宗教トシテ認メラレルデアラウ、而シテソレガ事実日本人個人ノ宗教ナリ或ハ哲学ナリデアル限りニ於テ他ノ宗教同様ノ保護ヲ許容セラレルデアラウ
(ヘ)本指令中ニ用ヒラレテヰル軍国主義的乃至過激ナル国家主義的「イデオロギー」ナル語ハ、日本ノ支配ヲ以下ニ掲グル理由ノモトニ他国民乃至他民族ニ及ボサントスル日本人ノ使命ヲ擁護シ或ハ正当化スル教ヘ、信仰、理論ヲ包含スルモノデアル
(1)日本ノ天皇ハソノ家系、血統或ハ特殊ナル起源ノ故ニ他国ノ元首ニ優ルトスル主義
(2)日本ノ国民ハソノ家系、血統或ハ特殊ナル起源ノ故ニ他国民ニ優ルトスル主義
(3)日本ノ諸島ハ神ニ起源ヲ発スルガ故ニ或ハ特殊ナル起源ヲ有スルガ故ニ他国ニ優ルトスル主義
(4)ソノ他日本国民ヲ欺キ侵略戦争ヘ駆リ出サシメ或ハ他国民ノ論争ノ解決ノ手段トシテ武力ノ行使ヲ謳歌セシメルニ至ラシメルガ如キ主義


三 日本帝国政府ハ一九四六年三月十五日迄ニ本司令部ニ対シテ本指令ノ各条項ニ従ッテ取ラレタル諸措置ヲ詳細ニ記述セル総括的報告ヲ提出スベキモノナルコト

四 日本ノ政府、県庁、市町村ノ凡テノ官公吏、属官、雇員並ニアラユル教師、教育関係職員、国民、日本国内在住者ハ本指令各条項ノ文言並ニソノ精神ヲ遵守スルコトニ対シテ夫々個人的責任ヲ負フベキコト
(文部科学省 白書・統計・出版物 > 白書 > 学制百年史 資料編 > 連合国軍最高司令部指令より)

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システムとしての国体のカルトと日本の戦争

2021年08月11日 | 国際・政治

 現在の日本には、いわゆる戦後の民主主義教育が、”日本の歴史の負の面ばかりを強調し、連合国側の立場に偏った歴史観を日本国民に植え付けた”というような主張をする人がたくさんいます。そうした主張をする人たちは、戦後の民主主義教育に基づく歴史認識を、自虐史観とか東京裁判史観とか、GHQ史観などという言葉で批判します。
 私は、そうした主張をする人たちが、戦前の日本の何がプラス面であり肯定され、何が負の面で否定されるのかをはっきり示していないと思います。自虐史観とか東京裁判史観とか、GHQ史観などという言葉を使う人たちの多くは、”日本の歴史の負の面ばかりを強調し、連合国側の立場に偏った歴史観”というようなあいまいな表現で、戦後民主教育による事実に基づく歴史認識を否定し、最終的には、日本の戦争を正当化する立場に立っているように思うのです。そして、日本の”過ち”に全く向き合うことなく、若者たちの反中、反韓の感情を煽っているように、私は思います。

 でも、力づくではありましたが、GHQは丁寧に日本の民主化を勧めたと思います。それは、下記の「神道指令」を中心とする宗教政策でも分かります。神道を全面否定するのではなく、信教の自由を保障するかたちで、神道を国家から分離するという難しい政策を進めたのです。そして、天皇が現津神(アキツミカミ)であり、天皇と日本の国土および国民は一つの神聖かつ不可分の存在であるという大日本帝国の優越思想を、民主的で平和的な思想に変えたのです。だから、GHQのそうした政策や考え方を東京裁判史観とか、GHQ史観とか自虐史観などと言って批判し否定することは、民主主義や平和主義を否定することだと、私は思います。

 私たち日本人は、日本軍が勝利か破滅かという二者択一ともいうべき異常な戦争をやったことを忘れてはならないと思います。日本はミッドウェー海戦で主力空母四隻と、その艦載機約二百九十機を喪失するとともに、育成に時間のかかる有能なパイロットの多く失い、敗北へ至る道を歩むことになったといいます。でも、皇軍は戦争をやめることはできませんでした。皇軍は戦争をやめるという選択肢を持たない特異な軍隊だったと思います。
 ミッドウェー海戦後、いたるところで、他国では例のない、いわゆる「玉砕戦」が続きます。それが、次第に日本本土に近づいてきても、情勢を客観的に分析し、戦争をやめることが検討されることはありませんでした。軍人勅諭や戦陣訓を読めば、その理由が察せられます。
 ”皇国の威徳を四海に宣揚せん”ことを期し、”忠節を盡すを本分とする”軍人は、”只々一途に己か本分の忠節を守り”かつ”義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕しと覺悟”し、”其操を破りて不覺を取り汚名を受くる”ことがあってはならないのであり、降伏することはもちろん、人命や人権を考慮して、戦争をやめるという選択をすることが許されなかったのだと思います。

 だから、いたるところで日本軍部隊が「玉砕」しても、東京大空襲で一般市民が甚大な被害を蒙っても、住民を巻き込んだ沖縄戦で、第32軍司令部が消滅しても、広島・長崎に原爆が投下されても、日本軍は自ら戦争をやめようとはしませんでした。
大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌 下」軍事史学会編(錦正社)には、”此ノ日、畑[俊六]元帥広島ヨリ到着、次官之ヲ迎ヘ、此ノ頃陸軍省ニ出頭セラル。白石[通教]参謀随行。原子爆弾ノ威力大シタコトニ非ラザル旨語ルヲ以テ、元帥会議ノ際、是非其ノ旨、上聞ニ達セラレ度頼ム。”などという文章も記録されています。原子爆弾の威力は大したことはないというのです。それが皇国日本の軍人の受け止め方であったのだと思います。

 だから、ポツダム宣言の受諾は、御前会議における、天皇のいわゆる「聖断」 によってのみ可能だったのだと思います。そういう意味では、昭和天皇をはじめ、東郷茂徳外相、米内光政海相、平沼騏一郎枢密院議長などが、戦時中も、神話的国体観(天皇の「人間宣言」にいうところの「架空なる観念」)に完全には捉われてはいなかったので、日本は破滅を免れたのだと言っても過言ではないと思います。
  

 でも、「聖断」が下されてもなお、”仮令聖断下ルモ、右態勢ヲ堅持シテ、謹ミテ、聖慮ノ変更ヲ待チ奉ル”とか、”例令戦争ニ敗ルトモ、最后迄戦フコトニ依リ、日本ノ道義ト正義ト勇気ハ永久ニ残ルベシ。之レ国家トシテ悠久ノ大義ニ生キルコトニシテ、精神ニ於テハ天壌無窮ト云ヒ得ベシ。”とか、”御聖断アルモ詔書ニ副書セザレバ、効力発生セズ”いうような考えで行動する将兵が少なくなかったことを見逃すことはできません。それが、皇国日本の教えに基づくものだったのだと思います。

 だから私は、日本軍が勝利か破滅かという、国際社会では考えられない二者択一の戦争を戦ったのだと思うのです。そして、「聖断」によるポツダム宣言受諾の結果、GHQの民主化政策が進められ、日本は軍国主義を脱し、民主主義国家として、国際社会に復帰することができたのだと思います。

 「大日本帝国憲法」の第一条に、”大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス”とあります。「国体の本義」には、”大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。”とあます。したがって、永遠に現津神である天皇が統治すると定められた軍国日本を、日本人自身が民主化することは不可能だったと思います。私はそうしたことを受け止めず、GHQを悪者にして、戦後日本の歴史認識を批判し、否定するのはいかがなものかと思います。もちろん連合国側にも、現在につながる様々な問題があったとは思います。でも、日本が破滅を免れて、民主主義国家として国際社会に復帰できた経緯を忘れてはならないと思います。

 また、人命や人権を尊重せず、破滅に向って突き進んだ日本の戦争を正当化することは、過ちをくり返すことだと思います。  

 下記は、「天皇と神道」ウィリアム・P・ウッダート著:阿部美哉訳(サイマル出版会)から、「日本占領と国家神道の解体 ── 序章」の一部を抜粋しましたが、著者ウッダートは、”「国体のカルト」は、神道の一形式ではなかった”と断じています。鋭い指摘だと思います。
 戦前の軍国日本は、軍人勅諭や教育勅語、国体の本義や戦陣訓その他の教説・教義で、神話的国体観を国民に根づかせたのみならず、軍歌や軍国美談を通し、またいろいろな行事の機会等をとらえて、その徹底を図りました。著者ウッダートは、そうした様々な事実をとらえ、「システムとしての国体のカルト」と題したのです。

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           日本占領と国家神道の解体 ── 序章

 1 占領と国体のカルト

 なぜ占領軍は日本の宗教に関与したか
 それでは、なぜ占領軍は日本の宗教に関与したのか。なぜ占領軍は自由の確立は日本国民が民主的に定めるべき国内問題であるとの決定をくださなかったのか。具体的にいうと、なぜ日本の伝統的な国家と宗教との関係が廃止されなければならなかったのか。また、なぜ神道の国家祭祀としての取扱いを取り消さなければならなかったのか。そして、総司令部に宗教課が設置されたのはなぜだったのか。
 占領軍が宗教課(のちに宗教文化資源課と改称)を設置した主な理由は、占領政策が日本の政府機構に対応する部局を設置する方針で日本政府の文部省に宗教課(のちに宗務課と改称)が存在していたからである。文部省との全体的な関係からして、宗教課は民間教育局に設置することが適当とされたのであり、その名称が妥当であったかどうかは別問題であった。
 総司令部の指令によって信教の自由が樹立された理由は、信教の自由が民主主義社会の同義語とみなされ、またその他の方法では信教の自由の保障が確保されなかったからである。
 神道を国家から分離した理由は、神道の教義が世界平和に敵意あるものであり、日本の超国家主義、軍国主義および侵略主義も国家神道のカルトに根づいており、それによって精神が汚染されるという連合国軍指導者たちの理解によるものであった。連合国軍の指導者たちは、右翼過激派が国民を洗脳し、天皇を制御する権力を獲得し、法律を支配し、教育を統制し、宗教を管理し、日本国を全面的崩壊の淵に追いやったのは、現津神(アキツカミ)たる天皇、神国、神の地などの概念を中心に作られた国家神道のカルトによったと考えたのである。
「神道指令」の 第一節において、宗教課長ウィリアム・K・バンス博士は、このカルトを「神道ノ教理並ニ信仰ヲ歪曲シテ日本国民ヲ欺キ侵略戦争へ誘導スルタメニ意図サレタ軍国主義的並ニ過激ナル国家主義的宣伝ニ利用」したものと呼んでいる。連合軍は、平和主義的で民主主義的な日本を作るためには、他の手段とあわせて神道を国家から分離することが必要だと考えていたのである。
 占領軍が信教の自由の原則の実現を日本側に任せなかった理由は、1945年の秋には、日本政府にそのような姿勢がまったくみられなかったからでる。
 信教の自由の確立は日本国民の民主的な決定に任せられるべきであったという意見があるが、その意見は二つの事実を見落としている。第一に、当時の日本人は、民主的な手続きによって問題を処理するという態度を欠いていた。もし日本の政府と国民が民主主義を理解し受容していたのなら、日本の民主化という命題そのものが成立しないことになる。第二に、信教の自由の原則にかんする日本人の理解が、民主主義の原理についての場合と同じように、すこぶる遅れていた。したがって、占領軍からみると、信教の自由の原則の確立は日本の民主化の重要な第一歩だったのである。

 ここでしばらく話題をかえて、本書で用いる用語の若干について、はっきりさせておきたい。
「神道」とは、人間のなかにも自然のなかにもどこにでも存在すると信じられている霊的な実体、力ないし資質をさす「神」にかんして、日本人が有する信仰と習慣の集積(クラスター)である。一般的には性もなく、人格に類する要素を持たない「神」が宇宙に満ちていて、敬神家の生活は神と和合し、神に感謝して行われる。神道の伝統的な用語法における神という語はdeity(ies)、spirit(s)、god(s) divineなどと翻訳してもよいが、けっしてGod と翻訳すべきではない。明確さを保つために、この語は英語に置き換えないほうがよい。
「神社神道」は神道信仰の一形態であって、神社の信仰が中心になっている。なお、神社は象徴的な神のやしろである。
「国家神道」(または国家的神道)は、以下の特色を除いては神社神道と重複する。すなわち、国家神道の下では神社と神職は国のものとされ、その儀礼および活動は法律によって規定され、政府諸官庁によって管理されていた。「近代的な意味における」国家神道は、明治維新の初期に、神社が国のものとされたときに出現し、1946年、政府による神社の管理が終焉したときに消滅した。
「国体神道」は、天皇が現津神であり、天皇と日本の国土および国民は一つの神聖かつ不可分の存在であると説く神道の神話にもとづく政治哲学的な信念の体系である。国体神道の基本的教義は「祭政一致」である。国体神道の信奉者は神社の崇敬者であり国体神道の支持者であるが、神社の崇敬者すべてが国体神道の信奉者ではない。 
「教派神道」は、創唱者の教えと、場合によっては、その人格が中心とされる神信仰の一形態であって、戦前の日本で公認されていた十三派の教派神道とは必ずしも一致するものではない。
「国体のカルト」は、日本の天皇と国家を中心とした超国家主義および軍国主義のカルトを指す私の造語である。

 システムとしての国体のカルト
 「大日本帝国は、万世一系の天皇、皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である」(『国体の本義』)
 National entity という言葉は、日本語の国体の英訳例の一つである。より一般的な英訳は、national
polity である。national structure とか the fundamental character of the nation という英訳もある。日本の政府の形態(権力構造)は、ときによって変化した。しかし「国体」は、けっして変化しなかったと主張されていた。日本人によって、伝統的に国体という言葉は日本の国を独特ならしめるもの、すなわち皇室と国民の統合を象徴するものであった。この国体という概念を欠いてしまうと、日本は、その自己識別(アイデンティティ)を喪失してしまうことになっていた。
 日本の政治学者や思想家は、日本の「国体」にさまざまな解釈を与えた。しかしわれわれの関心は、(1)1930年代および1940年代初期に極端な超国家主義と軍国主義が「国体」について行なった解釈、(2)警察国家の権力によって日本国民にカルトとして強制された「国体」の教義および実践活動、に限られる。
 学者や評論家は、しばしば「国体」概念の過激な解釈をなんらかの神道の形態と同一視し、神道が日本の軍国主義ないし超国家主義の本質的中核をなしていると説いた。民間情報教育局やその日本人助言者も、このような解釈をとったのであり、その結果、「国体のカルト」の廃絶を命じた指令が「神道指令」の名で知られるようになった。そのことが、一方では神道の性格について、他方では神道と日本の超国家主義および軍国主義との関係について、根本的な誤解を存続させることになった。
残念なことであったというべきだろう。
「国体のカルト」は、神道の一形式ではなかった。それははっきりと区分される独立の現象であった。それは、神道の神話と思想の諸要素をふくみ、神道の施設と行事を利用したが、そのことによって国体のカルトも神道の一種であったのだとはいえない。そうだったら、連合国最高司令官は、神道を全面的に廃絶しなければならなかったはずである。
 「国体のカルト」は、政府によって強制された教説(教義)、儀礼および行事のシステムであった。天皇と国家とは一つの不可分の有機的・形而上学的存在であり、天皇は伝統的な宗教的概念が過激派によって宗教的、政治的絶対君の地位に転用された、すこぶる特異な意味での「神聖な存在」であるという考えかたが、その中心思想になっていた。それは国民道徳と愛国主義のカルトであって、「民族的優越感を基盤として、新しく調合された民族主義の宗教」であった。国家が神国であっただけでなく、日本の国土が神に国だとみなされていた。
 国体のカルトを支えるもう一つの基本原則は、神道の儀礼と政治の執行の一体性であって、よく知られている「祭政一致」と呼ばれるものである。このカルトによると、天皇は、すなわち国家であった。政府の官吏によって、神社神道は宗教ではないというあいまいな説明が行われたことにより、いずれの宗教の信者であっても、国体のカルトの教条がおのおのの宗教に優先することを認めさえすれば、宗教活動はある程度までは干渉されることなく実施できるようになっていた。
 国体のカルトを構成した要素は、具体的にはいったい何だったのか。このカルトは、識別できる信仰と行事をもった団体として組織化されたことがないので、その要素を決定することはむずかしいけれども、日本が降伏した時点においては、それが以下の諸要素からなっており、それらはすべての日本人が信奉しなければならない建前になっていたといえよう。

(1)過激派の説く意味合いにおける、天皇が神聖かつ不可侵であるという信条の受容。天皇、御真影、皇居、および天皇に関連のある伊勢皇大神宮、明治神宮、靖国神社等若干の神社に対する敬虔な態度。
(2)皇室の祖先の霊および勅語、ことに(文民のための)「教育勅語」および(軍人のための)「軍人勅諭」、ならびに明治天皇の御製にたいする礼拝に近い尊崇。
(3)国史で教えられる神話、修身の教科書等によって示される臣民の行動基準、および『国体の本義』『臣民の道』などの若干の過激派による著作の教えや広宣的な含意を持つ、「国体」「祭政一致」「八紘一宇」など、公けに宣伝された概念の無条件の受容。
(4)(大半が皇室の栄誉を高める形で設定されていた)国の祝祭日および国民儀礼の正しい遵守、および「禊」と呼ばれる冷水による儀礼的な心身浄化行動適度の実践。
(5)神社や各家庭の神棚に鎮座する神々の礼拝。ことに第二次世界大戦中においては、各戸の神棚に伊勢皇大神宮の大麻を祭ること。
(6)隣組によって定期的に徴収される寄付(半官的的宗教税)による各地の神社および祭礼の支援。

 国体のカルトの行事のうち一部のものは、特定の個人および集団のみに関係した。例えば皇室とゆかりの深い若干の神社にたいしては、その大祭には、天皇の名代たる幣使が差しつかわされる習慣であった。また指定された神社にたいしては、国、県、または市町村等の相当の地位にある官吏が特別の機会ごとに政府の献上品を捧げるため参拝した。ある程度以上の宮中席次の官吏は、伊勢皇大神宮ないし適当な神社へ就任の報告の参拝を行うことになっていた。
 学校や官庁では御真影の前で表敬の儀式を執行し、皇居、伊勢皇大神宮その他の神社などにたいして遙拝を行わなければならなかった。また生徒に、天皇、皇祖、および天皇の名代として権威ある人びとなどにたいする正しい態度を身につけさせるために、学校の主催による神社への参拝が行われていた。

2 宗教改革を支える理念

 連合国軍の日本占領の究極的な目標は、二点に要約できる。第一は、「日本が再びアメリカに脅威を与え、あるいは世界平和と治安に危害をおよぼすことのないよう、日本から超国家主義と軍国主義を一掃すること」であった。第二は、「国際連合憲章の理念と原則を遵守し、自由に表明された国民の意思に基づいて、平和を愛好し、責任を明らかにする新しい政府を樹立するよう指導すること」であった。1945年九月二日から1952年四月二十八日までのあいだ、占領軍の施策は、すべてこれら二つの目標の達成を目指していた。
 宗教の分野においては、二つの重要な目標が設定された。それは、宗教界から超国家主義的・軍国主義的な思想や運動を除去すること、および信教の自由の原則を樹立することであった。これらの政策は、ワシントンの国務省に設置された「国務省、陸軍省、海軍省調整委員会」(SWNCC)によって、合衆国政府のために作成されたいくつかの公文書に明記されていた。そのなかでも最も重要なものは、「ポツダム宣言」および「合衆国の降伏後当初の対日政策」(United States Initial Post-Surrender Policy For Japan)  であった。
 前者は、信教の自由の樹立を要求していた。後者は、占領開始直後に信教の自由を宣言すること、超国家主義的・軍国主義的な団体および運動が宗教の外装に隠れて存続することを許さないこと、連合国軍最高司令官の目的および政策に抵触する法律や規則は必要に応じて廃止、取消し、もしくは改定すること、その所轄官庁についても廃止もしくは適当な軌道修正っを行うこと、日本国民をして信教の自由の希求を伸長せしめることなどを命じていた。
 信教の自由の原則には、これと相補関係にある政教分離の原則が内包されている。しかし政教分離の原則については、いずれの政策文書にも言及されていない。またこの原則は、1945年十二月五日に出された「神道指令」以前には、連合国最高司令官によっても指摘されたことはない。
 公けの政策として神道を国家から分離することが初めて明らかにされたのは、1945年十月六日であって、その日、国務省の極東局長ジョン・カーター・ビンセントがワシントンからラジオ放送で、「日本政府によって指導され、政府による上からの強制手段となっているかぎり、神道は廃止すべきである。日本の軍国主義は完全に抑圧すべきであって、日本国政府に神道への財政的その他の支援を取りやめるよう命令しなければならない。と述べたのであった。
 ついで1945年十一月三日付の統合参謀本部から連合国最高司令官にあてられた「降伏後の日本本土における軍事統治にかんする基本指令」において、この見解は正式な命令となり、日本国政府に、「国家神道にたいする財政的その他の支援を取りやめ」、また「国家神道の所有にかかる金、銀、通貨、その他すべての資産を凍結ないし封鎖する」ように指令したのである。
 軍国主義および侵略主義の精神を標榜するすべての団体の徹底的な鎮圧を要求した。「合衆国の降伏後当初の対日政策」に示された政策は、宗教的な意味というよりは、むしろ政治的な意図によるものであった。これが本研究に重要であるのは、戦前においては、過激な団体と若干の神社神道や強度に国家主義的な仏教団体とのあいだに緊密な関係があったからである。
 また別の指令では、軍政府の担当部隊に、軍国主義的および超国家主義的な宣伝は、いかなる形式によるものであっても完全に抑圧するように指示されていた。「超国家主義の教育、国家神道、天皇崇拝、国家を個人より高い位置に置くことおよび人種の優越性」などを教育制度のなかから一掃することを求めるステートメントも出されていた。
 そして、「ポツダム宣言」の第六節には、日本国民を扇動し世界征服に駆りたてた人びとの権威と影響力はこれを剥奪するべきであると記されていたのであって、これは、宗教界におけるパージを示唆したものとみなすことができるので重要である。
 国務省もまた占領当局にたいする文書を作り、天皇がその他の統治者と異なり、より優れているという理念、天皇が神の子であり神の力を持つという主張、天皇が神聖不可侵であるとかそうでなくてはならないという立場などを認めたり支持したりすることを避けるよう指示した。若干文脈は異なるが、やはり適切に「すべての宗教の人びとへの相互信頼にもとづく正義と公正、および他者、ことに少数者の権利を尊重すること」を強調するようにとの注意もしていた。
 要するに、占領当初における合衆国政府の宗教にかんする政策は、信教の自由を宣言すべきこと、宗教活動を制限するすべての法令を廃止すべきこと、国民に信教の自由を希求するよう勧奨すべきこと、宗教が超国家主義および軍国主義の隠れ家にならないようにすべきこと、重要な宗教的財宝を保護し保存するべきこと、連合軍をしてすべての宗教制度を尊重せしむべきことなどであった。
 占領開始の一ヶ月後には、神道を国家から分離すべきこと、また十二月にはキリスト教の宣教師による伝道活動の復活を奨励することが決定された。これについては連合国軍最高司令官からもアメリカ政府からも、何一つ公式の政策文書は発表されなかった。

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天皇が靖国神社に参拝しなくなった理由について

2021年08月03日 | 国際・政治

 天皇が靖国神社に参拝しなくなった理由について、「靖国 知られざる占領下の攻防」中村直文NHK取材班(NHK出版)は、三つの説をあげています。
 その一つは、横井権宮司が、”昭和天皇の参拝を中止したのはGHQである、と証言している”というものです。
 二つ目は、GHQの文書の中に、”靖国神社への天皇の参拝を禁じたのは、日本政府である”と記されいるものがあるというものです。
 三つ目は、GHQ民間教育局宗教課長ウィリアム・バンス氏が、”それは、昭和天皇がお決めになったことです。あれは陛下ご自身の判断でした”と答えたというものです。
 
 私は、この三つがどれも間違ってはいないような気がします。というのは、昭和天皇の参拝中止が、GHQ側からの一方的な命令ではなく、政府や天皇との間に、それぞれ何らかのかたちで合意があったのではないかということです。そして、天皇の靖国神社参拝中止に対する反発を和らげるために、あえて、その決定サイドをはっきりさせなかったのではないかということです。
 そんな気がしたのは、GHQの 「神道指令」立案に関わったウィリアム・P・ウッダードが、「天皇と神道」ウィリアム・P・ウッダート著:阿部美哉訳(サイマル出版会)のまえがきで、次のように書いているからです。
占領軍がその政策と施策を実施できたのは、有名無名を問わず、多数の日本の官僚や指導者が共感をもって理解し、責任をもって協力してくれたからであった。日本側の賢明な協力がなかったら、占領軍の使命達成ははるかに困難だったろうし、場合によっては不可能だったであろう。したがって、本書のはじめに、その努力によって占領軍の宗教政策の実現を可能にした文部省、とくに宗教課の担当官と都道府県庁の職員、そして宗教界の指導者たちに謝意を表わすことが適切だと考える
 これは、ウッダードの作り話ではなく、天皇も含め、多くの日本人が、あまり抵抗を感じることなく「神道指令」や「天皇の靖国参拝中止」受け入れることができた、ということではないかと思います。海軍兵学校出の米内海相でさえ、御前会議の席で、東郷外相のポツダム宣言受諾案に賛成したのですから、そういう雰囲気はあったのではないかと思うのです。

 また、「神道指令」立案の中心となったGHQ民間教育局宗教課長ウィリアム・バンスは、同書に「最適任者による貴重な記録」と題する文を寄せていますが、その中で
”「神道指令」の狙いは神社神道そのものにあったのではないし、多くの人々が考えたように、それを誹謗することにあったのでもない、その対象となったものは、政府によって支援された自国の政治組織を崇敬する宗教的なしくみ、ないし著者の好む用語を用いるならば「国体のカルト」であった。また、指令のもう一つの主要目的は、総ての宗教の平等の原則に立った信教の自由の確立と、宗教と国家との分離であったが、…”
 と書いていますが、「国体のカルト」を排除しようという考え方を歓迎する日本人も少なくなかったのではないかと、私は思います。

 天皇自身にも、陸軍を中心とする人たちの「国体のカルト」につながる「神話的国体観」一本やりの考え方に距離を置く考え方をしていたと思われる発言や記述があります。
 例えば、八月九の御前会議で、天皇は、ポツダム宣言受諾案に同意し、”彼我戦力ノ懸隔上、此ノ上戦争ヲ継続スルモ徒ラニ無辜ヲ苦シメ、文化ヲ破壊シ、国家ヲ滅亡ニ導クモノニシテ、特ニ原子爆弾ノ出現ハコレヲ甚シクス、依テ終戦トスル”というような発言をされたことが「機密戦争日誌」に記されていました。特に、”無辜ヲ苦シメ”というような言葉は見逃すことができません。
 さらに、「終戦の詔書」には、”…曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝國ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
 とあります。”他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス”というのは、「神話的国体観」からは出て来ない考え方ではないかと思います。無辜”や”陸海将兵”の人命を考慮し、文化・文明の破壊があまりに大きいことに思いを致すことも同様です。こうした考え方は、「新日本建設に関する詔書」いわゆる天皇の「人間宣言」にも貫かれていると思います。「人間宣言」には、”大小都市ノ蒙リタル戦禍、罹災者ノ艱苦、産業ノ停頓、食糧ノ不足、失業者増加ノ趨勢等ハ真ニ心ヲ痛マシムルモノアリ。然リト雖モ、我国民ガ現在ノ試煉ニ直面シ、且徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克ク其ノ結束ヲ全ウセバ、独リ我国ノミナラズ全人類ノ為ニ、輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。”などとあります。さらに、”朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ 非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス 爾臣民ノ衷情モ 朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ 時運ノ趨ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カント欲ス”というような、様々な人たちの苦難に思いを致す記述に、欧米の人命や人権尊重の考えかたがうかがえると思います。したがって、天皇が、自ら靖国神社参拝をやめたということも、十分考えられることだと、私は思います。

 前天皇(明仁上皇)は、過去の戦争にゆかりのある多くの地を訪問し、日本人だけでなく、米国人や韓国人の戦没者も慰霊して歩きましたが、それは、昭和天皇の思いを受け継いでいるからだろうと思います。
 それは、2009(平成21)年4月8日、「天皇皇后両陛下御結婚満50年」に際して行なわれた、「天皇皇后両陛下の記者会見」で、下記のような戦禍に苦しんだ様々な人たちに思いを致す内容でも察せられます。
”…結婚後に起こったことで、日本にとって極めて重要な出来事としては、昭和43年の小笠原村の復帰と昭和47年の沖縄県の復帰が挙げられます。両地域とも先の厳しい戦争で日米双方で多数の人々が亡くなり,特に沖縄県では多数の島民が戦争に巻き込まれて亡くなりました。返す返すも残念なことでした。一方,国外では平成になってからですが,ソビエト連邦が崩壊し,より透明な平和な世界ができるとの期待が持たれましたが,その後,紛争が世界の各地に起こり,現在もなお多くの犠牲者が生じています。

 だからといって、昭和天皇の戦争責任がなかったことにはならないと思いますが、軍人を中心とする人たちの「神話的国体観」一本やりの考え方に距離を置く昭和天皇の、いわゆる「御聖断」によって、日本が滅亡を免れたということも、われわれは忘れてはならないと思います。

 また、上記の会見で、時代にふさわしい新たな皇室のありようについて、前天皇(明仁上皇)は、”私は即位以来,昭和天皇を始め,過去の天皇の歩んできた道に度々に思いを致し,また,日本国憲法にある「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であるという規定に心を致しつつ,国民の期待にこたえられるよう願ってきました。象徴とはどうあるべきかということはいつも私の念頭を離れず,その望ましい在り方を求めて今日に至っています。なお大日本帝国憲法下の天皇の在り方と日本国憲法下の天皇の在り方を比べれば,日本国憲法下の天皇の在り方の方が天皇の長い歴史で見た場合,伝統的な天皇の在り方に沿うものと思います。”と語っています。だから、昭和天皇の意思を受け継ぐ天皇は、これからも日本国憲法に反する「神話的国体観」に基づく「靖国神社」には参拝しないだろうと、私は思います。

 そういう意味で、神道政治連盟や日本会議や創生「日本」などの組織の、戦前回帰の活動は、すでに、その思想的根拠がなくなっているはずだと、私は思います。また、多くの日本国民も、個人の尊厳を基本原理とする国際法と相容れないような考え方の戦前回帰は望んではいないと思います。戦前回帰の活動を続ける人たちの脱皮が望まれます。

 下記は、「靖国 知られざる占領下の攻防」中村直文NHK取材班(NHK出版)から「第七章 昭和天皇 参拝禁止の衝撃」の一部を抜粋しました。
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            第七章 昭和天皇 参拝禁止の衝撃 

 再開された合祀
 昭和二十一(1946)年は、靖国神社にとって苦い一年となった。
 神道指令によって、予想される最悪の事態、すなわち「閉鎖」という事態は免れた。靖国神社は宗教法人という新たな一歩を踏み出すはずだった。しかし、GHQの手は決して緩められてはいなかったのである。
 靖国神社にとっての急務は、臨時大招魂祭で「招魂」した二百万人の戦没者を、正式に「合祀」することであった。
 陸海軍省が、その廃止の直前・高級副官・美山要蔵大佐らの尽力で、200万人を超す戦没者の臨時大招魂祭を行ったことはすでに触れた。「招魂」された魂は、「招魂殿」に留め置かれ、正式な調査を経て合祀されるのを”待っている”状態だった。
 合祀のための調査については、すでに国が動き始めていた。
 大原康男氏の『神道指令の研究』によれば、神道指令の発令直前、陸軍省の業務を引き継いだ第一復員省が、「靖国神社合祀未済ノ者ニ関スル件(昭和二十年十二月十三日 一復第七十六号第一復員次官通牒)と題する通牒を発して、臨時大招魂祭で招魂された未合祀者の調査を開始していたが、神道指令によって靖国神社が国家管理を離れたため、合祀のための調査を国が継続すべきかその当否が検討された。
 その結果、「この調査は復員業務に関連して初めて調査が出来るので、今復員機関以外に於て実行することは到底不可能なばかりでなく、軍として戦争犠牲の最も大きな死者に対する道義上、復員業務中の重要業務として実施するを至当とする」(『靖国神社合祀者資格審査方針綴三、四』靖国神社蔵)という見解に立って、従来どおり調査を続けた。
 つまり、神道指令によって国家と切り離されたはずの靖国神社だが、合祀の調査については国の協力が継続されていたのである。

 昭和二十一(1946)年四月二十二日には、靖国神社宮司・筑波藤麿から宮内大臣・松平慶民あてに、調査が済んだ二万六九六九柱の合祀名簿が上奏された(前掲『靖国神社百年史 資料篇 上』)。四月三十日に予定された春季例大祭および合祀祭で、いよいよ正式な合祀が始まろうとしていた。ちなみに、宮内大臣・松平慶民とは、のちにA級戦犯合祀に踏み切り物議を醸すことになる、靖国神社宮司・松平永芳の父である。
 ところが、この後、わずか数日の間に、思いもかけない展開が待ち受けていた。四月三十日付の靖国神社の文書には、こうある。

 例祭並合祀祭
 四月三十日午前八時三十分 晴
 一 今回は当初、当時の例祭並合祀祭(陸軍省解体、社制改更以降初度)に勅使参向の上同日或は後日行幸の事仰出さる筈なりしも(神社側より兼日祭式及行幸の件伺出たり)、二十七日に至り諸種の事情の為御取止めとなり、例祭にも勅使参向無く当社限りにて祭典奉仕、別に幣饌料御奉納と云う異例となりたり。
                        (前掲 『靖国神社百年史 資料篇 上』)

 合祀祭には、昭和天皇の行幸、すなわち参拝も予定されていたが、直前になって「諸種の事情」で取りやめとなったと記されている。しかも、天皇の使いである勅使の参向も実現しなかった。「異例」と靖国神社側は無念をにじませている。
 陸軍省の管轄下にあった前年の臨時大招魂祭のときは、昭和天皇の参拝が実現している。なぜ、いまさら取りやめになったのか。

 

 昭和天皇参参拝禁止の謎
 横井権宮司は、昭和天皇の参拝を中止したのはGHQである、と証言している。
「春の例祭だね。結局陛下の行幸を中止した。もう要するに(靖国と)皇室とのつながりを遮断しようというわけなんだね。アメリカはいやにやかましいんですよ。これは問題だ、と。菊の御紋は取り除けとかね。エンペラーメッセンジャー(勅使)はいかんとか言って、皇室とのつながりを遮断しようというわけなんですよ」      (前掲、横井時常への照沼好文インタビュー、1996年)

 靖国神社に合祀された”神々”は、それまで天皇の裁可によって決定されてきた。新たな”神々”に天皇が参拝することで、合祀という一つの”輪”が完成されてきたのである。靖国神社にとって、天皇の参拝はなくてはならないものであった。
「天皇参拝中止」に関しては、今回の取材でGHQの文書も新たに見つかった。そこには、靖国神社への天皇の参拝を禁じたのは、日本政府であると記されていた。
 オレゴン大学ウッダード資料の中に残されていた1946(昭和二十一)年八月五日付の文書。宗教課のバンス課長から民間情報教育局(CIE)のダイク局長にあてた、「戦没者追悼式典」と題するこの文書には次のように記されている。

 戦没者追悼式典に関し、日本政府は以下を指示した。
a 戦没者追悼式典には、公的な財政援助および支援は禁止する
b 村落の戦没者追悼に関して、村長は国旗掲揚を命じてはならない
c 小学校の教師が児童を駅に連れて行って、戦闘の犠牲となった兵士の遺骨を出迎えることは禁止する
d 天皇は、「私人」としても(even in his private capacity)、靖国神社の式典に参加してはならない。
e 天皇は、靖国神社の式典に、奉納品や声明文を携えた勅使を送ってはならない。
f 式典以外の日であれば、天皇は私人として(as an individual)靖国神社を参拝することができる。

 特にd、e、f、が靖国神社に関係することであるが、例大祭(合祀祭)における天皇の靖国神社参拝と勅使の参向を、明確に禁じている。指示したのは日本政府であると記されているが、当時の意思決定のシステムを考えれば、GHQの何らかの指示を受けて日本政府が通達したと考えるのが適当である。実際、ウッダートは著書『天皇と神道』の中で、この件を決めたのは民間情報教育局(CIE)であると記している。
 では、なぜ、GHQは昭和天皇の参拝を禁止したのか──。
 メリーランド州の老人ホームで取材に応じてくれた、九十八歳のバンス氏にその質問をぶつけたところ、バンス氏からはまったく予想もしなかった答えが返ってきた。
──GHQは昭和二十年の臨時大招魂祭では昭和天皇の参拝を認めながら、その後、参拝は中止されました。なぜでしょうか?
「それは、昭和天皇がお決めになったことです。あれは陛下ご自身の判断でした」
──ご自身が参拝したくないとお考えになったのですか?
「昭和天皇は、物事を穏便に運びたいとお考えになったのだと思います。靖国神社を参拝しないというのは、ご自身の判断でした」
──では、あなた自身は天皇の参拝についてどう考えられたのですか。
「もちろん私なりの意見はありました。しかし、それは昭和天皇のご判断とは何の関係もありません。もし、昭和天皇が靖国神社に参拝なさりたければ、そのようにできるようにしておいたはずです」
 自ら靖国神社に参拝しないと決めたという昭和天皇。
 この件に関して、昭和天皇の意思を確認できる資料は残されていない。しかし、「物事を穏便に運びたかった」のではないか、とバンス氏が推測したように、当時の日本、そして昭和天皇を取り巻く状況は、決して安閑としていられるものではなかった。

 対日理事国の対立
 この時期、占領政策を巡って、連合国内でアメリカとアメリカに批判的な国々の間に不協和音が生じ始めていた。
 例えば、昭和二十(1945)年末に設置された対日理事会(Allied  Council Japan)などの場では、マッカーサーが主導する占領政策に対して、オーストラリア、ソ連、中国などの国々が、もっと日本に対して厳しく臨むべきだと主張していた。マッカーサーが連合国に介入されることを嫌がったことや、東西冷戦の開始に伴う米ソ間の対立で、その亀裂は修復し難いものになりつつあった。
 また、昭和天皇の戦争責任についても、アメリカと異なる意見が噴出していた。昭和天皇の参拝が取りやめとなった合祀祭の前日、四月二十九日には、極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯二十八人が起訴されたのだが、連合国の中には、昭和天皇も訴追すべし、と強く訴える国々もあった。アメリカ内部でさえ、その存廃をめぐって議論があった靖国神社に昭和天皇が参拝すれば、国際的な波紋が生じる可能性は決して少なくなかった。
 
 バンス氏は、連合国内の確執について、当時マッカーサーと次のようなやり取りをしたことを、鮮明に記憶していた。
 「確かに対日理事国では、『アメリカは日本に寛大すぎる』という声が多かったと思います。マッカーサー最高司令官はそのことを快く思っていませんでした。マッカーサーが私にこう尋ねたことがあります。『日本におけるアメリカの占領を、人々はどう思っているのか?』と。私はこう答えました。『オーストラリアや他のニ、三か国の代表は、あなたや私のやり方に批判的な見方をしています』と。するとマッカーサーは『やつらは共産主義者だからな』と言ったのです」
 バンス氏はそう言って、声を出して笑った。マッカーサーの共産主義者嫌いは有名だが、「共産主義者だからな」という言い方が、よほどおかしかったのだろう。
「天皇制を維持すべきか、廃止すべきかの選択について、多くのオーストラリア人やイギリス人から、天皇を戦犯として裁判にかけるべきだとの意見が出されました。しかしアメリカ政府はずっと前から、それが賢明な措置ではないと決めていたのです」
 結局、靖国神社への昭和天皇の参拝が「外交問題」となるのを避けるために、GHQは参拝の中止を日本政府と靖国神社に示唆した。
「天皇の宗教活動と宗教的関心は、連合国最高司令官によって占領にかかわりのない私的事項とみなされていた。(中略)
 ただ一つの例外は、一年に二度行われる靖国神社の例大祭に参拝できないことだった。占領中にただ一回だけ天皇が靖国神社の例大祭に参拝したことがあったが、それは1945年十一月十九日であった。それ以後は民間情報教育局の示唆により、例大祭への天皇の参拝の問題は、靖国神社からも政府からも、まったく提起されなかった。
 連合国最高司令官の政策にかんするかぎり、天皇が例大祭の際に参拝してもいっこうに構わなかったのだが、中国とソ連が反対を唱え、東京の連合国対日理事会やワシントンの極東委員会で国際問題化する可能性があるのに危険を冒すほどのことはないと考えられた。」
                  (前掲、ウィリアム・P・ウッダード『天皇と神道』) 
 占領が終わるまでの間、昭和天皇が靖国神社に参拝することはなかった。

 

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靖国神社とGHQの「神道指令」

2021年08月01日 | 国際・政治

 「靖国 知られざる占領下の攻防」中村直文NHK取材班(NHK出版)(下記資料1)、よれば、GHQが、日本における”「軍国主義・超国家主義の除去」を達成すると同時に、アメリカ政府の掲げる「信教の自由」を日本で確立するために、熱心に、そして慎重に取り組んだことがわかります。

 「神道指令」立案を中心になって進めたウィリアム・バンス(William Kenneth Bunce)は、戦前、島根県の松山高等学校に勤務したことがあるという日本を知る歴史学博士です。また、GHQの民間情報教育局で、「神道指令」における宗教法人法などの宗教政策に関する部分の提言をしたウィリアム・パーソンズ・ウッダード(William Parsons Woodard)も、戦前、宣教師として来日し活動したことのある歴史学者で、日本の宗教の研究者だといいます。そうした専門家の「神道指令」作成のための調査・研究の範囲は、神道だけでなく、天皇制や政治、軍事、そして教育にまで及んだということです。したがって、「神道指令」は、闇雲に指令されたのではなく、日本の実態を正確に把握して、「軍国主義・超国家主義の除去」と「信教の自由」の確立というジレンマに苦しみつつ、日本人の意見も聞いて、慎重にそのジレンマを乗り越えて出されたように思います。
 
 それに比して、日本側の受け止め方が、私は十分ではないと思います。ここでは、「靖国神社が消える日」宮澤佳廣・元靖国神社禰宜(小学館)から、その一部を抜粋しましたが(資料2)、あくまでも「神話的国体観」にこだわり、「神道指令」の内容に関してはもちろん、その背後にある欧米の考え方を踏まえて、靖国神社のあり方を考えるという姿勢がほとんど見られないことが分かると思うのです。

例えば、昭和天皇は、 昭和二十一年一月一日の詔書で、自らの「神聖」を否定し、
朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。
といういわゆる「人間宣言」を発しました。そして、「神道指令」も、国家や天皇と靖国神社の関係を切り離したのですから、もはや
天皇が祀るべき祭神を、宗教法人となった靖国神社の宮司の自由な判断で祀ることなど許されるはずもない。祭神に対してはもちろんのこと、それでは遺族にも相済まないとする心情は、祭神と遺族の中執持(ナカトリモ)ちとして日々、神前に奉仕する祭祀奉仕者のみが実感する苦痛にも似た感情だったはずです。”
などという主張は、心情的には理解できなくはありませんが、ほとんど意味がないのではないかと思います。
 「神道指令」をしっかり受け止め、その背後にある欧米の考え方も踏まえて、靖国神社のあり方を根本的に考え直すという姿勢がほとんど見られないのは、処刑されたA級戦犯を靖国神社に合祀した側の人たちにもいえることだと思います。
 神道指令によって、国家と切り離された神社は、すぐに神社本庁を組織し、後にその政治組織である神道政治連盟を結成して、「神道精神を国政の基礎に」というような活動を展開したようですが、私は、いかにして「神話的国体観」を乗り越えるのかを考えないと、日本は、再び国際社会で孤立したり、衝突する国になるような気がします。
 個人の尊厳あるいは個人の尊重は、国際社会では、最高の価値基準であり、そうした価値基準と相容れない「神国日本」の復活は、アメリカはもちろん、国際社会が受け入れないと思うのです。 

 下記資料1は、「靖国 知られざる占領下の攻防」中村直文NHK取材班(NHK出版)から「第六章 幻の”靖国廟宮”」を、資料2は、「靖国神社が消える日」宮澤佳廣・元靖国神社禰宜(小学館)から<第七章 「富田メモ」と[A級戦犯合祀」>の一部を抜粋しました。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
             第六章 幻の”靖国廟宮”

 GHQと靖国
 昭和二十(1945)年十一月二十六日。GHQと靖国神社の直接の交渉が初めて行われた。
 臨時大招魂祭が終わった直後、横井は初めてGHQ宗教課のバンス(William Kenneth Bunce、GHQ民間情報教育局宗教課課長、国家神道の解体を指示したGHQの神道指令策定に大きな役割を果たした人物)と面会し、近々に「直接会う」との約束を取り付けていたが、それが早くも実現した形となった。
 それまで靖国神社に関する交渉は、政府各省庁が行ってきたため、靖国側が直接GHQとやり取りすることは画期的なことであった。横井はこのときの交渉について、「向こうからの呼び出しに応じていくという形をとった。終戦連絡中央事務局をないがしろにして行ったのでは、いろんな点で差し障りがあった。だから、GHQ側に呼び出してもらった」(前同、横井時常への照沼好文インタビューより、1966年)と語っている。
 靖国神社のその日の社務日誌には、次のように記されている。
 月曜日 晴後曇
一、神社問題に関し横井権宮司 坂本主典随行 マッカーサー司令部を訪問 バーンズ大佐に面接せり 宮地博士並に岸本帝大助教授会同す
一、社務連絡の為、権宮司、池田、坂本、大場各主典 陸軍省官房へ出向す 
 ・・・

 GHQの真意
 GHQ宗教課は、当初から大きなジレンマを抱えていた。つまり、日本占領の究極の目標である「軍国主義・超国家主義の除去」を達成すると同時に、アメリカ政府の掲げる「信教の自由」を確立することがはたして可能なのか、ということである。
「靖国廟宮」案が浮上してきたころ、GHQ宗教課ではバンスを中心に、のちに「神道指令」として発令されることになる指令の作成が”突貫工事”で進められていた。「国家神道の廃止」という占領の大きな目標を実行する「神道指令」は、靖国神社を含む神社神道界にとって、その後の運命を決める重要な指令であった。
「神道指令の成立過程に関する一考察」(高橋四朗、「神道宗教」115号所収)によれば、「神道指令」は草案だけでも第六次のものまで存在するとされているが、この重要な指令作成のための調査・研究の範囲は、神道だけでなく、天皇制や政治、軍事、そして教育にまで及んだ。バンスはそうした調査・研究の結果を、指令案に添付するための「スタッフ・スタディ」としてまとめた。その結論部分から、当時のバンスの思惑が見える。

(前略)神道を宗教として廃止することはできない。その可能性は、信教の自由の原則ならびに宗教それ自体の本質によって排除される。実際、神道を宗教として廃止することや天皇から神道を分離することを企てたりする必要はない。それは実際に同じことである。国家神道の危険性は次の点にある。
(a)政府による出資、支援・普及
(b)政府や神道国家主義者による天皇・国民・国土を神聖視する神話の利用
(c)神道の儀式を遵守することや神道の前提を表向き事実と認めることを全日本国民が厳しく強制されたこと

 危険なのは天皇と神道の相互関係に存在するのではない。危険は名目的には文武の権力を祭祀王(priest-king)の手中に預けながらも、実際は国家の機構を支配している権力集団によって行使することが許されている政治制度の特殊な性質に存在する。(後略)

「スタッフ・スタディ」からは、バンスらが、「統帥権」という言葉に象徴される日本国家の特殊性を感じとっていたことが分かる。
 しかし、神道指令の中でより強く意識されたのは、国家との結びつきを断つということもさることながら、「信教の自由」を侵さない、という点であった。
 大量のGHQ宗教課関連の資料が見つかったオレゴン大学にも、この時期のバンスの覚書が残されている。「国家神道の政治的要素と宗教的要素の区別」と題する昭和二十(1945)年十二月十二日の文書である。神道指令の作成にあたって、バンスが国家神道における「政治的要素」と「宗教的要素」をえり分けることに腐心している様子が見てとれる。

一、国家神道は、主に政治的要素と宗教的要素から構成される。
 a 政治的要素
 この要素は、国家に対する絶対的忠誠心と服従を確保する目的で、政府が作り上げたカルトの中に具体化され、天皇家は太陽神──天照大神の神聖なる子孫であるという神話が中心になっている。その教えは、神道を中心に据えた教育、神社への強制参拝、その教義と神話の公言、信仰を強要する全日本人の義務などを通じて、日本人一人一人の心に植え付けられている。この国家的カルトとその神話を受け入れることは、善良な市民の試金石となってきた。政府がすべての神社の役人、神官を指名、管理し、統一儀式を指示するなどして、解釈は一つに絞られてきた。
 b 宗教的要素
 この要素は、地理的地域によって異なる。さまざまな土着の儀式、慣習、祭事などを反映している。人々の農耕的な暮らしに密接につながり、共同体の社会的、宗教的生活の重要な一部となっている。

二、指令は国家神道の政治的要素を標的にし、宗教的要素には干渉しない。国家が駆り立てたカルトは消滅する。しかし、庶民の聖域として神道は、国家からの分離によって影響を受けることはほとんどなく、さらに政府の限定的規制からは自由になるという付加価値を備えて、将来も今まで通り持続する。政治的要素の排除によって、宗教的要素が途絶えることはなく、今後神道は、「国家的」「愛国的」というより、「聖域としての」「民衆の」神道として持続する。

 バンスは、すべての宗教が平等に扱われるべきだ、という考えを強く持っていた。それは「国家神道」も例外ではなかった。アメリカが戦時中から「国家のカルト」と呼び危険視してきたとはいえ、「宗教的要素」持つ靖国神社については、早急な処分を下すことに慎重だった。
 歴史の興味深いところではあるが、日本政府は戦前、「神社は宗教ではない」という立場に立っていた。もしGHQが日本側の理屈をそのまま利用したならば、「信教の自由」に関係なく靖国神社の処分を決定できたであろう。しかしGHQは当初から、「神社は宗教である」という立場を崩さなかあった。そういう意味では、GHQは物事を厳密にとらえようとしていたといえる。
 しかしその結果として、GHQ宗教課は、占領期間中を通じ、「軍国主義」「超国家主義」の除去と、「信教の自由」の確立を両立させるというジレンマを抱え続けていくことになる。そのことについてのちに岸本は、「ある意味では、神道を宗教と考える建前のおかげで、それが救われることにもなった」(前掲 岸本英夫「嵐の中の神社神道」)と記している。

 国家神道の終焉
 昭和二十(1945)年十二月十五日正午、国家神道の廃止を宣言したGHQの覚書が、日本政府に手交された。「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並に弘布の廃止に関する件」、いわゆる「神道指令」である。
 神道指令は、国家と宗教を切り離し、「軍国主義ないし過激なる国家主義的イデオロギー」を広めることを一切禁止した。
「神道の理念や信仰を歪曲して、日本国民を欺き侵略戦争へ導いたように、軍国主義ないし過激なる国家主義の宣伝に利用させることのないよう、国民を再教育し民主主義の理念を基礎に置く新しい日本を実現する」ことが冒頭にうたわれた。
 具体的には、まず神道への公的財政援助を停止し、公務員が神道にかかわることを禁止した。そして神道やそれ以外の宗教において、「軍国主義ないし過激なる国家主義的イデオロギー」という言葉は、次のように定義された。すなわち、「日本の支配を次のような理由のもとに他国民や他民族に及ぼそうとする日本の使命を援護し正当化する教え、信仰、理論を包含する」次のような考え方である。
(1)日本の天皇はその家系、血統あるいは特殊なる起源の故に他国の元首に優るとする主義
(2)日本の国民はその家系、血統あるいは特殊なる起源の故に他国民に優るとする主義
(3)日本の諸島は神に起源を発するが故に、あるいは特殊なる起源を有するが故に他国に優るとする主義
(4)その他日本国民を欺き侵略戦争へ乗り出さしめ、あるいは他国民の論争の解放の手段として武力の行使を謳歌せしめるに至らしめるが如き主義

神道指令によって、神道に関する「十一の勅令と十一の省令」(前掲、ウィリアム・P・ウッダード『天皇と神道』)が廃止され、「二十一の法令の撤廃ないし修正」が命じられた。国家神道の象徴的組織であった神祇院は廃止され、学校の教科書から神道の教義に関連した記述が削除された。公的機関による神道の文書配布が禁止され、「大東亜戦争」「八紘一宇」など軍国主義を連想させる言葉は公文書から追放された。
「『神道指令』が果たしたことは『国体のカルト』を存在せしめ、かつ維持した国および公的機関によるその援助と強制の撤廃であり、これによって国体のカルトは解体した」(前掲、ウィリアム・P・ウッダード『天皇と神道』)とウッダードは記している。
 神道指令作成の中心的役割を担ったバンスは、神道指令についてこう語っている。
「ダイクは、のちに『占領下でわれわれがやったことの中では、これが最高の仕事だった』と言っていました。ですから、どちらかといえば神道指令を誇りに思っていたようです。(竹前栄治氏によるバンス氏へのインタビューより、1984)
 GHQでは指令を”爆弾”とも呼んでいたが、実際「神道指令」がどれほどの衝撃を与えるのか、未知数であった。なかには、日本人の反応を危惧する声もあったという。
「総司令部では、指令が出れば強い反発がおこるに違いないと予想されていた。その結果を心配する人も少なくなかった。ダイク代将や私は、指令の中を流れている政教の分離、信教の自由の精神を、日本人は正しく理解してもらいたいとねがっていたが、それが掴めずに強い反発があるのではないかと案じていた。しかし結果的には、何等の混乱もおこらなかった」
           (バンスへのインタビュー、前掲『戦後宗教回想録』新宗教新聞社)

 神道指令が、実際に日本の新聞紙上に発表されたのは、発令の二日後、十二月十七日のことであった。岸本英夫は日記にこう記している。

(前略)本朝の新聞に指令発表、その扱い方、概して見当を外れ、「現神」「天皇絶対権否認」等、センセーショナルなり。

 岸本が発表を受けて向かったのは、靖国神社だった。

 靖国神社に立寄り、その存続したるを告ぐ。

 「神道指令」によって、少なくともこの時点で靖国神社が廃止されることはまぬがれた。しかし、陸海軍省の廃止によってすでに軍の所管を離れていた靖国神社は、国家という最大の庇護者をも失うことになったのである。”自活”の道を探すことが靖国神社の急務となあった。
「神道指令」の二週間後、昭和二十一(1946)年の元日に、昭和天皇のいわゆる「人間宣言」が出された。天皇自らが神の子孫であることを否定、つまりその「神格性」を否定したのである。「神道指令」と「人間宣言」によって、現御神(アキツミカミ)としての天皇を頂点とする戦前の国家神道体制は完全に崩壊した。
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー         
         第七章 「富田メモ」と[A級戦犯合祀」

 東京裁判史観否定の構図
 そしてこの問題でもう一つ、私が気になっていたのは、「A級戦犯」合祀が歴史認識と絡めて論じられる傾向です。遊就館の歴史記述にも関連しますが、「A級戦犯」合祀が東京裁判史観の否定を意味し、その分祀が東京裁判史観の肯定を意味するといった二者択一的な硬直化した議論に象徴されているのです。
 それは「A級戦犯」と称される方々が政治指導者であったことにもよりますが、松平宮司の言説の影響が極めて大きいように思われます。そうした言説に引きずられて、この問題の核心がぼやかされてしまったような印象を私は抱いているのです。
 靖国の祭神合祀は、創建以来、「国事に殉じた公証(公認)」が前提とされてきました。戦後、一宗教法人となった靖国神社は、二百万を超える神霊を合祀してきましたが、その際の「国事に殉じた公証(公認)」は厚生省の「公務死裁定」であり、その合祀は送達された祭神名票に拠らなければなりませんでした。ですから私は、「祭神名票が送達されているのに靖国神社が合祀の手続きをいつまでも行わなければ、靖国神社が独断で祭神を選別していることになる。それは宗教法人の恣意独断的な行為と批判されうるものだから、あの時点で合祀することにしたのだ」と説明してきたのです。
 おそらく、松平宮司もそうした説明をしてきたのでしょうが、「私は就任前から、『すべて日本が悪い』という東京裁判史観を否定しないかぎり、日本の精神復興はできないと考えておりました。(それで就任早々)思い切って、十四柱をお入れしたわけです」(前掲の「誰が御霊を汚したのか 靖国奉仕十四年の無念」)といった言説だけが取り上げられるようになってしまいました。そこには、松平宮司が命名した「昭和殉難者」という呼称(政府は「法務関係死没者」と称するのに対し、靖国神社では「A級戦犯」として刑死された方々をこう呼称する)も影響しているのでしょう。
 この呼称は、創建以来の祭神の合祀基準(その基礎に据えられた慶応四年の「殉難者布告」と「戦死者布告」とは明らかに矛盾します。「所謂戦犯刑死者が戦没者と総て同等」として、合祀の根拠を「公務死裁定」に求めるなら、それは「戦死者布告」に言う戦死者であって、「殉難者布告」に言う殉難者には当たりません。ですから松平宮司が「殉難者」と呼称したことにも、「特別な思い入れや政治的な意図があったのではないか」といった疑念を生む要因があったとみるべきです。占領政策の置き土産と言っていい宗教法人法の手続きによって「A級戦犯」を合祀し、それをもって東京裁判史観を否定しようという構図は、どうみても論理の一貫性に欠けます。

 「富田メモ」が問いかけたもの
 私は「富田メモ」が問いかけたもの、ぼやかされてしまったこの問題の核心とは、「靖国の英霊祭祀の主宰者は誰なのか」という問いかけそのものにあったような気がしています。それは深層において「昭和天皇の不快感」にまでつながっているのだと思うのです。「其の合祀は戦役事変に際し国家の大事に斃れたる者に対する神聖無比の恩典」とは、昭和十五年八月十四日の陸軍次官通牒に見える表現ですが、靖国の祭神合祀を「神聖無比の恩典」たらしめるのは天皇の存在を措いてほかにないからです。
「私の靖国神社国家護持論は、確固たる神社の切望と同意とを前提とし、創建以来の祭儀の伝統を固守することを条件としたものであった。それは、靖国神社は『宗教法人として存在し進退することは忍びがたい』との神社の強い意思を前提にして、はじめて成立し得るロジックであった」と葦津氏は指摘しましたが、これは、神社創建以来の祭祀の伝統を護持(固守)することの意味合いを、形式的な側面からではなく、より本質的かつ精神的な側面から問い直すことの重要性を示唆したものであったと私は理解しています。
 国家護持に向けた靖国神社の強い意思が「忍びがたい」という言葉で表現されているのは、宗教法人に移行してもなお、国事殉難者の人霊を神霊(靖国の神)となし得るのは自分たちではないことを靖国の祭祀奉仕者たちが知悉していたことの証左なのでしょう。天皇が祀るべき祭神を、宗教法人となった靖国神社の宮司の自由な判断で祀ることなど許されるはずもない。祭神に対してはもちろんのこと、それでは遺族にも相済まないとする心情は、祭神と遺族の中執持(ナカトリモ)ちとして日々、神前に奉仕する祭祀奉仕者のみが実感する苦痛にも似た感情だったはずです。
 私が「忍びがたい」という言葉にこだわるのは、こうした理由からです。そして国家護持の仏妖精を主張する理由もここにあります。私は、現御神とされた天皇の神秘性によって神とされるというよりは、むしろ、国家と国民統合の象徴としての天皇、「common」の中心軸としての天皇の存在によって、国家と国民の守り神として公認されるといった平易な理解をしているのですが、筑波宮司から松平宮司への交替に際して、この「忍びがたい」という意識が継承されていたのかどうか、そこが問われているのだと思います。万が一にでも、その意識が欠落して、松平宮司自らが靖国の英霊祭祀の主宰者になったといった錯覚に陥っていたとしたら、宗教法人である靖国神社の宮司によって国事殉難者の御霊が神霊とされ、「靖国の神」に合祀されたことになります。宗教法人前の本態としての靖国神社の祭神とは本質的に異なる祭神ということになりはしないか。これは「信仰的確信」の領域での話です。
 宗教法人として存続することを余儀なくされた靖国神社にとって、この「忍びがたい」という意識は、靖国の将来と「靖国の公共性」の維持に重大な影響を及ぼすように私には思えるのです。そしてそれは、靖国神社の宮司という地位に就く人物によって決定的に左右されます。だからこそ靖国神社の宮司は、皇室の藩屏と称される人々の中から選ばれているといった理解が一般認識として存在するのでしょう。
 天皇(皇室)との法制度上における関係を切断された靖国神社にとって、創建以来の祭祀の伝統を継承するためには、天皇との精神的なつながりや信頼関係の深い、そうした関係者を宮司に招くのが得策という判断は妥当といえます。しかし、「富田メモ」が提起したこの疑念は、松平宮司に起因するものです。それは一見、皇室との近さからくる「何か」によってもたらされたと見えなくもありません。靖国の内部に意識変化があるように、そうした関係者にも同様の意識変化がありはしないでしょうか。

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