真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

HPは hide20.web.fc2.com
ツイッターは HAYASHISYUNREI

マニフェスト・デスティニーとドミノ理論とアメリカの戦争

2022年08月26日 | 国際・政治

 アメリカの対外政策や外交政策と関連する重要な言葉が二つあると思います。
 一つは、「マニフェスト・デスティニーManifest Destiny)」という言葉です。
 この言葉は、アメリカによるインディアン虐殺や西部侵略を正当化する標語だったということです。「明白なる使命」や「明白なる運命」などと訳されるようですが、今、ふり返ると、アメリカの帝国主義的領土拡大や、覇権主義を正当化するための言葉であったと思います。また、見逃せないのは、その考え方の背景に、アングロ・サクソン民族はもっとも優れた民族で、マニフェスト・デスティニー に基づく行動は当然であり、「天命」であるとする差別的な考え方があったと言われていることです。
 
 もう一つは、ベトナム戦争当時、よく使われた「ドミノ理論(Domino theory)」という言葉です。
 ベトナムが共産化すると、周辺の国がドミノ倒しのように次々と共産化していくという考え方を表す言葉です。
 「我々はなぜ戦争をしたのか 米国・ベトナム 敵との対話」東大作(岩波書店)に、ベトナム戦当時のアメリカ国防長官、ロバート・マクナマラの言葉が出ていました。ベトナムとの非公開討議「ハノイ対話」で語ったものです。
もしインドシナ半島が倒れれば、その他の東南アジア諸国もまるでドミノが倒れるように共産化するであろう。そしてその損失が自由主義社会に与えるダメージは、はかり知れないものになる
 それを理由に、アメリカは、秘密警察や軍特殊部隊を使って、南ベトナム民族解放戦線の人たちを虐殺するゴ・ジン・ジェム独裁政権を支援したのです。貧富格差や政権腐敗、仏教徒に対する弾圧などに対する不満から、ゴ・ディン・ジエム独裁政権打倒に立ち上がったベトナム人の思いなど問題ではなかったということです。人命や人権よりも、ドミノ理論が優先されたと言ってもいいと思います。

 また、アメリカが、スカルノから実権を奪って大統領となったスハルトを支援したのも、ドミノ理論に基づくものであったと思います。スハルトが共産主義者やその支援者の大虐殺を行っても、それを黙認し、スハルトを支援したは、ドミノ理論抜きには考えられないことだと思います。

 だから、アメリカは、民族解放戦線のように社会主義的な考え方をする組織や社会主義政権、共産主義政権などとは共存できないという方針を貫いてきたと言ってもいいのではないかと思います
 
 でも、 「マニフェスト・デスティニー」や「ドミノ理論」の考え方に、高尚な哲学的な裏づけや法学的な裏づけ、また、政治学的な裏づけがあるわけではなく、領土の拡張や資源獲得を正当化するために政治家が利用した言葉で、差別的で野蛮な考え方に基づいていると思います。だから、民主主義や自由主義とは相容れない言葉だと思います。

 問題は、アメリカの対外政策や外交政策が、今なおそうした考え方で進められていることだと思います。ウクライナのヤヌコビッチ政権転覆やロシアを敵とするウクライナ戦争も、そうした考え方と無縁ではないと思います。また、台湾を足場に、中国を追い詰めようとする姿勢も同様だと思います。

 先日の朝日新聞社説に、「侵略戦争半年 ロ軍撤退しか道はない」と題する文章が出ていました。驚くことに、ウクライナ戦争でロシアと対するウクライナやアメリカに関しては、何の分析も考察も書かれていませんでした。だから、遠藤誉・筑波大学名誉教授の、”…事実の半分の側面だけしか見ていない”という言葉を思い出しました。そして、完全にアメリカのプロパガンダに沿った内容だと思いました。 

戦争プロパガンダ10の法則」アンヌ・モレリ:永田千奈訳(草思社)の「また戦争プロパガンダが始まった──日本語版によせて」に、下記のようにありました。ウクライナ戦争にも完全に当てはまる指摘だと思います。まるでウクライナ戦争に関わって書かれたものであるかのように思われました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
              また戦争プロパガンダが始まった──日本語版によせて

 民主主義国家では、開戦にあたり国民の同意を得ることが必要不可欠である。昨年始まった戦争にもまた、世論を動かして参戦に同意を得るため、戦争プロパガンダの法則が巧妙に使われた。
 戦争プロパガンダには、「『敵』がまず先に攻撃を仕掛けてきたということになれば、国民に参戦の必要性を説得するのにそれほど時間はかからない」という法則がある。2001年9月11日、アメリカ大統領はこの法則を即座に利用した。
 ブッシュ大統領は、世界貿易センター・ビルへのテロ攻撃は宣戦布告と同じだと断じ、議会とメディアは第二の真珠湾攻撃だと位置づけた。
 かくして、一ヶ月も経たないうちに、アメリカはアフガニスタンを空爆。ただし、これは「攻撃」ではなく「報復」だという。言葉の問題は重要だ。
 この経緯を反アメリカ側から見れば状況は異なる。世界貿易センター・ビルへの攻撃こそが、アメリカがこれまでバグダット、スーダン、リビアでおこなった空爆への「報復」だというわけだ。
 
 さらに、真珠湾攻撃を引き合いに出すのも妙な話だ。たしかに、ハリウッド映画に影響を受けた人々にとって、真珠湾攻撃は日本の裏切り行為であり、1941年12月、太平洋戦争開戦の原因となった奇襲攻撃として忘れがたいものだろう。
 だが、アメリカ海軍上層部の証言によると、当時アメリカ情報部は、この「奇襲」をあらかじめ知っていたにもかかわらず、真珠湾の司令官にそれを知らせていなかったという説があり、この説を支持する歴史家も増えている。
 アメリカの最後通告に対する日本国の返答も伝えられていなかった。つまり、情報を握りつぶすことで、日本が先に攻撃してきたことにし、アメリカの領土を攻撃した日本に対して「報復」するという体裁を整えたのだ。

 続いての法則は、「敵側が一方的に戦争を望んだ」(第2章)というものだ。アフガン空爆から数日後、ル・ソワール紙は「タリバン、ビンラディン、アメリカに挑む」と書いた。「挑む」とは、「挑発する」「戦意を示す」ということだ。つまり、この見出しからは「10月7日にアフガニスタンが空爆されたのは自業自得だ」という認識が読みとれる。だが、ビンラディンの有罪を示す明白な根拠は何ら提出されておらず、アフガニスタン政府は、ビンラディンの有罪の証拠を示せば身柄引き渡しに応じる可能性もある、と言っていたのだ。

「敵のリーダーを悪魔扱いにする」という法則(第3章)も、そのまま、今回の報道にあてはまる。オサマ・ビンラディンは、いまや、第一次世界大戦中のドイツ皇帝、サダム・フセイン、ミロシェビッチと並ぶ存在となった。敵の指導者は常に、狂人であり、野蛮人であり、凶悪犯、殺人犯、怪物、人類の敵とみなされる。この悪党を捕らえ、降伏させれば、平和で文化的な生活が戻ると言わんばかりだ。まさに、現在のオサマ・ビンラディンを語る図式そのものである。
 だが、忘れてならないのは、こうした「悪党」たちも徹頭徹尾、悪党扱いされていたわけではないということである。対立関係になる以前は、十分尊敬を集める人物だったということも多々ある。また、戦争終結後、一転して歓迎を受ける人物もいる。
 コソボ空爆の3年前、パリでボスニアに関する条約が結ばれており、ミロシェビッチは、クリントンやシラクと乾杯の席に並んでいた。ネルソン・マンデラやヤセル・アラファトにしても、一時はやり玉にあげられながらも、その後ローマ法王やアメリカ大統領に歓待されるようになった人物である。
 そして、ビンラディンも、かつてはアメリカで好意的に受けとめられていた時期があった。アメリカは彼を支援し、彼の経済力と手を結ぼうとしていたのだ。

 他にも、「高尚な大義名分だけを語り、戦争の本当の目的は隠蔽される」という法則(第4章)がある。湾岸戦争のとき、西側諸国は、軍国主義への制裁、小国クウェートの救済、民主主義の確立をかかげてイラクを攻撃した。
 西側諸国は、クウェートという国が、民主主義国家にはほど遠く、コーランがすべてを決める国であるという事実に目をつぶり、石油の利権争いや勢力拡大といったことにも、表向きにはいっさい言及しなかった。
 今回のアフガニスタン空爆でも、実利的なことにはまったく触れられていない。アフガニスタンはロシアと中国の間に位置しており、石油パイプラインの通り道でもある。こうした政治的、経済的重要性について声高に語る者は少ない。
 世論は、ひたすら「近代的民主主義国家」と中世全体主義を引きずる人々との文明戦争だと信じている。
 その陰に潜む目的は隠蔽されてしまうのだ。

 「われわれも誤って犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為におよんでいる」という法則(第5章)も、もちろん踏襲されている。
 すべてのアフガニスタン人が、罪のない人々を殺害したテロ行為に責任があるわけではない。それなのにアメリカはアフガニスタン空爆に踏みきり、タリバンによる暴力行為が大々的に報道される一方、空爆はテロリストだけを狙ったピンポイント攻撃で一般市民を巻き込むことはない、とされた。自国の軍隊は「紳士的な」戦争をおこなっているのに、敵はルールを無視して戦いを挑んでくるという論法だ。
 
 聖戦という言葉には世論を動かす力がある。二つの宗教がぶつかりあう宗教戦争はもちろん、「祖国」「民主主義」「自由」といった旗印もまた、聖なるものとして考えられている。
 今回の紛争には二つの面がある。ブッシュ大統領は「十字軍」という言葉を口にした。彼はまた、演説の最後に「神よアメリカを護りたまえ」と口にするなど、タリバンに対抗するかのように宗教色を強めている。
 その一方で、また、この戦争は、非宗教的な民主主義国家という「神聖な価値観」を守るための戦いであり、善と悪との戦いであると位置づけられている。
 かつての戦争と同様、国の指導者は、やがて、感動を呼び起こし、戦争の必然性を示すために、知識人や芸術家に協力を求めるにちがいない(そう、これもプロパガンダの法則なのだ)

 もうひとつ「プロパガンダを支持しない者は、裏切り者または敵のスパイとみなされる」という法則(第10章)がある。
 この戦争に賛同しない者は、アメリカに賛同しない者だとブッシュがすでに言っているではないか。
 ただ一人、議会で大統領の武力行使容認決議案に賛成しなかった議員がいる。彼女の名はバーバラ・リー、民主党、カリフォルニア出身の黒人女性だ。そして、この日から、彼女は生命の危険に脅かされ、護衛なしに外出できない状態になった。
 戦争を支持しない者にとっては、考えさせられることだ。

 これらの法則はすでによく知られたことであり、戦争が終わるたびに、われわれは、自分が騙されたことに気づく。
 そして、次の戦争が始まるまでは「もう二度と騙されないぞ」と心に誓う。
 だが、再び戦争が始まると、われわれは性懲りもなく、また罠にはまってしまうのだ。
 あらたにもうひとつの法則を追加しよう。「たしかに一度は騙された。だが、今度こそ、心に誓って、本当に重要な大義があって、本当に悪魔のような敵が攻めてきて、われわれはまったくの潔白なのだし、相手が先に始めたことなのだ。今度こそ本当だ」
              
                 2001年2月1日                          
                             ブリュッセル自由大学歴史批評学教授  アンヌ・モレリ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キプロス紛争に対するアメリカの関与と国際法、国際条約 2

2022年08月24日 | 国際政治

 ウクライナ戦争の死者が毎日のように報道されています。また、悲惨なウクライナの人たちの様子も毎日のように報道されています。でも、停戦・和解の話し合いが進みません。さまざまな国際法や国際条約があり、国際組織があるのに、なぜ話し合いが進まないのか、と私は腹立たしく思います。

 日本では(西側諸国では)、ウクライナ戦争の死者は、すべてロシア侵略軍の犠牲者であり、ウクライナの悲劇は、独裁者プーチン大統領によってもたらされたというような一方的な報道になっているように思います。
 でも、アメリカのバイデン大統領は、ウクライナとロシアの国境付近で緊張が高かまっているときにも、それを止める努力をしたとは思えません。ロシアの侵攻を止めるための話し合いをしようとせず、もっぱら厳しい制裁措置や武器の供与に関する関係国との合意に力を入れていたと思います。そして、ロシアの体制転換を示唆するような発言までしていました。
 そこに、ヨーロッパ諸国に対するロシアの影響力拡大を阻止し、ロシアを弱体化させることによって、アメリカの利権と覇権を維持拡大しようとする本音がはっきりあらわれていた、と私は思います。

 また、ウクライナのゼレンスキー大統領も、国民へのビデオ演説で「16日が攻撃の日という話を聞いている。われわれはこの日を結束の日にする」と強調し、ロシアのウクライナ侵攻を止めてほしいとは言いませんでした。
 さらに言えば、アメリカでは、ロシアによる侵攻開始日を「16日」とする報道がくり返され、ブリンケン米国務長官が2月14日、ウクライナの首都キエフにある米国大使館を一時閉鎖すると発表しています。ロシアの侵攻を迎え撃つ体制を整えるためとしか思えません。

 そして、2月24日、ロシア軍がウクライナに入り、4月に「ブチャの虐殺」報道がなされて以降、猛烈なロシア批判が展開されました。4月5日には、ゼレンスキー大統領が、国際連合安全保障理事会での演説の中で、ブチャの件は「第二次世界大戦以降、最も恐ろしい戦争犯罪」であるとして、ロシアを痛烈に非難しました。
 また、バイデン米大統領も、戦争犯罪裁判の実施を呼び掛けるとともに、ロシアに対し追加制裁を科す意向を表明しています。そして、ロシアのプーチン大統領を「戦争犯罪人」と呼び、ブチャでの民間人殺害を「戦争犯罪」と非難したため、西側諸国のロシア非難の姿勢は決定的なものになったと思います。
 でも、「ブチャの虐殺」が報道された当時、第三者機関による検証はなされていませんでしたし、今は事件そのものに対する疑問の声が、あちこちで上がっています。だから、「ブチャの虐殺」に関する戦争犯罪裁判はなされないのではないかと私は思います。
 また、ウクライナ戦争が、アメリカによって用意されたシナリオ通りに進んだように思います。

 「ブチャの虐殺」が「第二次世界大戦以降、最も恐ろしい戦争犯罪」との断定も、いかがなものかと思います。
 歴史をふり返れば、アメリカが関わったアジアやラテンアメリカ、中東やアフリカ諸国における虐殺の数々は、「ブチャの虐殺」をはるかに超えています。

  私は、ベトナムやインドネシア、イラクや東チモール、チリやニカラグアなどにおける大虐殺を見逃してはならないと思います。ベトナムでは、共産主義の拡大を懸念するアメリカのバックアップを受けたゴ・ジン・ジェム独裁政権が秘密警察と軍特殊部隊をつかって、南ベトナムの反政府勢力の人たちを多数虐殺しました。貧富格差の問題や政権腐敗、仏教徒に対する弾圧などに対する不満がゴ・ディン・ジエム独裁政権に対する反発なったと言われていますが、アメリカは、ゴ・ディン・ジエム独裁政権を支援したばかりでなく、北ベトナムの関与を疑い、ドミノ理論に基づいて一方的に北爆(絨毯爆撃)をくり返し、数え切れない民間人を殺しました。300万人以上とも言われているのです。

 インドネシアでは、アメリカが支援したスハルト政権の下で、200万人ともいわれる人びとが「共産主義者」やその「支持者」として虐殺されたといいます。
 また、スハルト政権は、東ティモールの併合を意図し、フレテリン(東ティモール独立革命戦線)の抵抗に対して激しい弾圧を加えたため、インドネシア占領下で命を失った東ティモール人は20万人にのぼると言われているのです。
 アメリカのバイデン大統領は、ウクライナ戦争以降、「これは、民主主義と専制主義の戦いだ」などというような言葉をくり返していますが、歴史をふり返れば、アメリカの対外政策や外交政策は、一貫して民主主義や自由主義を否定するものであったいえるように思います。

 だから私は、まず、アメリカが原爆投下という戦争犯罪を謝罪し、力で他国を支配するような体制を転換して、国際社会の法治を実現するよう求めたいのです。 
 そして、古代ギリシャの哲学者・アナカルシスの言葉、”法はクモの巣のようなものだ。弱者を捕らえるが、強者は簡単に食い破る”を克服してほしいのです。

 今回抜萃したのは、前回の「アメリカの陰謀とキッシンジャー」クリストファー・ヒッチンス:井上泰浩訳(集英社)「第七章 キプロス」の続きです。キプロスに対するアメリカの関わりも、民主主義や自由主義を否定するものであったことがわかると思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                     第七章 キプロス

 ところで、1986年に出版された当時ギリシャ軍司令官だったグリゴリオス・ボナノス将軍の回顧録によると、ギリシャ軍事政権がキプロスに攻撃を仕掛けたことに対し、承認と支援のメッセージがある男によってギリシャ諜報機関に届けられた。その男とは、トーマス・A・パパスだ。ギリシャ軍事政権とニクソン・キッシンジャー政権の間を取り持った男だ。パパス氏については、第九章に再度登場していただく。

 その後、国連の壇上に立ったマカリオスは、クーデターは「侵略」だと発言している。しかし、ワシントンでは、キッシンジャーの報道官ロバート・アンダーソンがクーデターは他国による介入ではなかったと言い切った。介入ではないかという記者の質問に、違うと答えたアンダーソン報道官は、「われわれの見解では、外部からの介入はなかったと判断している」と、あまりに非現実的な応答をしている。
 キッシンジャーの取った行動も同じだ。クーデター後にキッシンジャーが駐米キプロス大使と面談した際、亡くなったと伝えられていたマカリオス大統領への哀悼の意さえ表さなかった。「元凶」とマカリオスのことを毛嫌いしていた理由が、ここに表れている。民主選挙で選ばれたマカリオス政権を合法的な政権として承認しないのかとの問いに、キッシンジャーはむっとした顔をして何も答えていない。米国政府はサンプソン政権を承認する方向に動いているのかとの問いには、キッシンジャーの報道官は否定しなかった。

 7月22日に、マカリオスがワシントンに乗り込んできたとき、マカリオスを一民間人、司祭、キプロス大統領のいずれの立場として迎えるかという問題を国務省は問われた。答えはこうだ。「彼(
キッシンジャー)はマカリオス司祭と月曜日に会談する」。崩壊が急速に進んでいた独裁国家ギリシャを除いた世界各国は、マカリオスがキプロス共和国の合法的な元首だと承認していた。キッシンジャーのマカリオスに対する独善的な姿勢は外交上前例のないもので、彼と同類のギリシャ軍部のゴロツキに味方をし結託していたことを物語っている。
 マカリオスをキプロスの合法的な大統領としてワシントンに招いたのは、上院外交委員会議長のJ・ウイリアム・フルブライト議員と下院外交委員会議長のトーマス・モーガン議員の両氏だ。マカリオスの招聘が実現したのは、クーデターの可能性に警鐘を鳴らし続け、フルブライトの友人である前出のエリアス・P・デマトラコポウロスの功績だ。ロンドンで英国外務大臣と会談していたマカリオスに、デマトラコポウロスは米国からの招聘を伝えた。このキッシンジャーに対する先制攻撃は、デマトラコポウロスのジャーナリストとしての一連の反軍事政権活動の最後をかざるものだ。以前から彼はキッシンジャーに逆恨みされており、マカリオスの米国訪問を実現させたことによって報復の標的になる(第九章を参照)。結局、キッシンジャーはマカリオスを司祭としてではなく、大統領として迎え入れることを発表せざるをえなくなった。

 ギリシャ軍事政権によるクーデターをつぶすため、トルコや英国が軍事力に訴えることにキッシンジャーは猛反対した。英国はキプロスとの条約の取り決めにより、英国軍を駐留させていた。しかし、ギリシャの軍事政権が崩壊したのちに取ったキッシンジャーの行動は一転する。トルコは二度の侵略攻撃を行ない、キプロスの四割を占有した。トルコの暴挙に対し米国議会は報復措置を取るように動いた。だが、キッシンジャーはかつて肩入れしてきたギリシャから今度はトルコを守るべく議会工作に奔走したのだ。キッシンジャーはギリシャの軍事政権など聞いたこともないかのようにトルコ擁護へ寝返った。結局、キプロスが分断されてさえいればよかったのだろう。

 ギリシャ軍事政権を支持し、マカリオスは大きらいだと公言していたからといって、キプロス分割政策の責任のすべてをキッシンジャーひとりにかぶせることはできない。しかし、裏ルートを使い、民主主義を無視する手段を使ったキッシンジャーは、マカリオス暗殺計画の共犯者だ。暗殺計画が頓挫すると、何千人もの市民が犠牲となり20万人の難民を出した紛争を引き起こした。その結果、キプロスを政情不安に陥れズタズタにしてしまい、四半世紀たった今も平和はおびやかされ続けている。それにしても、この件に関する記録を封印させてしまうキッシンジャーの努力は並々ならぬものだ。しかし、いつか文書が公開されたときには、延々と続く彼の起訴状の一部に使われることは確かだ。
 
 1976年7月10日、欧州委員会人権問題小委員会は、トルコによるキプロス侵略をまとめた報告書を採択した。J・E・S・フォーセット教授を議長とする18人の一流の法律家によって作成されたものだ。報告書によると、トルコ軍は民間人の虐殺をはじめからねらっており、処刑、拷問、強姦、略奪をくり返した。また、民間人を裁判なしで罰し投獄した。捕虜となった者や民間人の多くが姿を消してしまい、今もなお行方不明のままだ。行方不明者の中には、米国人もふくまれている。
 残虐行為やクーデターの責任を取りたくないキッシンジャーは、新しく朋友となった中国に大ぼらを吹く。1974年10月2日、キッシンジャーは、中国の喬冠華(キョウ・カンカ)・外務副大臣と高官協議をおこなった。
 鄧小平の訪問以来、実質的に初めて米中会談で、最初の議題はキプロス問題だった。「トップシークレット/国家機密/完全マル秘」と題された議事録によると、米国がマカリオス打倒工作を手助けしたのではないかという中国の質問に対し、キッシンジャーはきっぱり否定した。「われわれは何もしていない。われわれはマカリオスと敵対してはいない」(彼の回顧録では、これとまったく異なることを発言尉していたことになっている)。キッシンジャーは、「クーデターが起きたとき、私はモスクワにいた」といっているが、これもうそだ。さらに「わたしの部下は、(クーデターが差し迫っているという)情報を深刻に受けとめていなかった」と発言しているが、これもまったく逆だ。キッシンジャーは、こうもいっている。──マカリオスはギリシャの軍事政権がクーデターを企んでいるとマスコミを通じて非難しているが、クーデターが本当に実行されるとは思っていなかったとも。最後に、びっくりすることだが、「ソビエトがトルコに侵攻するよう勧めたことを、われわれはつかんでいる」とまでキッシンジャーは発言している。そうすると、トルコによるキプロス侵略は、米国の軍事援助を受けたNATO加盟国のトルコの軍隊が敵対するソビエトの煽動でおこなった史上初の侵略行為となる。
 大ぼら吹きもいいところだ。トルコの侵攻はソ連が煽動したという病的なうそは、当時の情勢、つまり、反ソビエト包囲網に中国を引き入れる必要があったことに起因するのかもしれない。しかし、それにしてもうその度がすぎているのは、ほかに何かうまいうそをつかなければならない理由があったのか、それとも妄想を抱いていたのだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キプロス紛争に対するアメリカの関与と国際法、国際条約

2022年08月21日 | 国際・政治

 8月17日付朝日新聞「核に脅かされる世界に 被爆国から2022」に「まず米国が謝らないと」と題する元広島市長の平岡敬氏の文章が掲載されていました。そのなかで、”冷戦が終わった時、これで核兵器の恐怖はなくなったと私たちは思いました。だけど米国は冷戦に「勝った」と考え、ロシアを弱体化させようとする基本政策をずっと続けてきました。”と書いていました。
 私も、核兵器を「非人道兵器」として、その使用、使用の威嚇、また、開発や保有も例外なく禁止する核兵器禁止条約を最も重要な国際条約として成立させるためには、まず、日本に2発の原爆を投下したアメリカが、その過ちを認め、謝罪することが必要だと思います。
 当時すでに、ハーグ条約ジュネーブ条約があり、民間人の殺害はもちろん、”無防備都市、集落、住宅、建物はいかなる手段をもってしても、これを攻撃、砲撃することを禁ず”などと定められていたのです。また、不特定多数を死に至らしめたり、重篤な後遺症をもたらしたり、人体に無用な苦痛与える毒ガスや生物兵器などの使用も禁止されていたのです。そうした国際条約を、日本も守りませんでしたが、その過ちをきちんと認め、謝罪し、アメリカにもその過ちを認め、謝罪を求めることが大事だと思います。

 でも、実際に2発の原爆投下を命じたアメリカのトルーマン大統領は、戦後、客観的な根拠なく「百万人のアメリカ兵の生命を救うために、原爆を投下したのだ」と語り、投下の命令を正当化しました。
 また、アメリカのキッシンジャー元国務長官は、田原総一朗氏のインタビューで、同じように「広島と長崎に原爆を落とさなければ日本は本土決戦をやるつもりだった。本土決戦で何百万人、あるいは一千万人以上の日本人が亡くなるはずだった。原爆を落とすことでその人数をかなり減らしたんだから、むしろ日本はアメリカに感謝すべきだ」などと答えたということです。この主張にも客観的な根拠はないと思います。
 そして、こうしたアメリカを代表する政治家の考え方は、国際法や国際条約を意味のないものにし、力の支配を正当化する野蛮な考え方だと思います。

 だから、被爆国日本が、原爆を投下したアメリカに、その過ちを認め、謝罪するよう求めることが核兵器禁止条約成立の出発点になると思います。でも、日本政府にその姿勢はありません。そしてそれが、アメリカの対日政策の結果によるものであることを、私は見逃すことができないのです。
 敗戦後、”再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し”、”日本国民は、国家の名誉にかけて、全力をあげて崇高な理想と目的を達成することを誓う”と日本国憲法で約束して出発した日本が、なぜ、アメリカに原爆投下の謝罪を求めることができないのか、なぜ、戦後77年を経てもなお日本に米軍基地があり、あたかもアメリカの属国であるかのような状態が続いているのかを考えるとき、私は、日本の政治とともに、アメリカという国の民主主義や自由主義の実態を問わざるを得ないのです。

 今回は、キプロス紛争に対するアメリカの関わりを「アメリカの陰謀とキッシンジャー」クリストファー・ヒッチンス:井上泰浩訳(集英社)から抜萃しました。アメリカのキプロスに対する対応は、アメリカの覇権と利権を国際法や国際条約に優先させる対応であり、戦後の、日本に対するGHQの「逆コース」といわれる方針転換後の政策も、同じように、国際法や国際条約を蔑ろにした対応であったと思います。

 当初、GHQはまじめに「日本の民主化・非軍事化」の政策を進めていたと思いますが、「逆コース」といわれる方針転換がなされて以後は、日本を民主国家ではなく、反共国家として、アメリカの影響下に置くための政策に変ってしまったと思います。そして、「公職追放令」を解除し、戦犯を政界・財界・学界などに復帰させたことが、日本の戦前回帰のはじまりになったと思います。
 「団体等規正令」や「占領目的阻害行為処罰令」なども、民主化運動や社会主義運動を取り締まるものに変わってしまったのだと思います。
 だから、GHQの方針転換以後の日本の政治は、戦争指導層の影響力が強まり、アメリカに隷属し、国際法や国際条約を蔑ろにする政治になっていったように思います。核兵器廃絶に対する日本政府の姿勢が、そのことを象徴していると思います。
 
 「アメリカの陰謀とキッシンジャー」(集英社)の著者、 クリストファー・ヒッチンスは、1970代後半、キプロスに外国特派員として赴任しており、最初の妻は、ギリシャ系キプロス人であるといいます。したがって、キプロス紛争の理解は正確であり、深いように思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                   第七章 キプロス

 キッシンジャーの三部作回顧録『激動の時代』の第二巻。1974年のキプロス紛争に触れることは都合が悪いとでも思ったのか、この問題については先延ばしにすると書いてある。

 キプロスのことについて話すのは、またの機会にする。なぜなら、キプロス問題はフォード大統領に関わることであり、今日もなお未解決であるからだ。

 ずいぶんいいわけがましいが、裏を返せばキプロス問題は彼自身の問題であるからだ。それに、ベトナム、カンボジア、中東、アンゴラ、チリ、中国、SALT(戦略兵器制限交渉)なども、当時は「未解決」であったはずだ。「フォード大統領に関わる」というが、国際外交問題で米国大統領に関わらないことなどあるのだろうか。
 キッシンジャーが自分のことを語るときは、自分は信念を持って国内外の重要政策を執りおこなってきたひとかどの人物である、という虚像を植えつけようとする。臆病者のそぶりを少しでも見せれば彼の自尊心が傷ついてしまうと思っているのだろう。しかし本当の姿は世間知らずでささいなことで動転してしまう臆病者だ。陰謀を知っていたことが記録文書によって明らかになったとき、犯罪の責任を問われそうになったり、共謀の罪を被りそうになったときは必ず、うろたえながらも虚勢を張るのがキッシンジャーだ。
 そのいい例が1974年のキプロス問題だ。回顧録の第二巻が出てからずいぶん遅れて刊行された『激動の時代』第三巻の中で、キッシンジャーは弁明している──ウォーターゲート事件によってニクソン政権が崩壊したため、ギリシャ、トルコ、キプロスの重大な三国軍事関係に適切に取り組むことができなかった。とんでもないいいわけだ。キプロスは「NATOの下脇腹」にたとえられることが地政学的に最重要であることを物語っているし、中東と隣接しているので米国の戦略上の重大拠点である。
 内政問題があったとはいえ、この地域にキッシンジャーが無関心でいられる理由はない。さらに、キッシンジャーがキプロス問題に取り組めなかった理由として挙げているニクソン政権の内部崩壊は、逆に強大な権力を彼に握らせる結果となった。1973年にキッシンジャーが国務長官に就任したとき、彼の前職、国家安全保障問題大統領特別補佐官の地位も継承した。こうして、キッシンジャーは秘密組織である四十委員会の議長を務める唯一の国務長官となった。CIAの秘密工作を練り、指揮してきたのが、この委員会だ。
 一方、国家安全保障会議議長としても、すべての重要諜報活動の許認可をキッシンジャーが握った。国家安全保障会議で彼の側近を務めていたロジャー・モリスによると、キッシンジャーはふたつの重要ポストを占め、加えてニクソンの地位は崩れ去っていただけに、誇張抜きに彼は「国家安全保問題の実質的な大統領」だった。
 キッシンジャーは重箱の隅をつつく管理者であったばかりか、何にでも干渉し威張りちらす人間であったことが、さまざまな資料からうかがえる。ニクソンの首席補佐官だったH・R・ハルデマンのホワイトハウス回顧録の中に、ある逸話が紹介してある。キューバを撮影した航空写真を見て興奮したキッシンジャーは、キュウバ危機の再来ではないかと大騒ぎしたという。写真は建設中のサッカー場だった。キューバ人は野球しかやらないと思っていたのだろう。キッシンジャーはサッカー場をソ連の新しい基地だと勘違いしたのだ。北朝鮮に米国機が撃墜されたときには、核兵器使用も視野に入れた北朝鮮爆撃を支持したという話もある。このように、ハルデマンの回顧録『権力の目的』を読むと、キッシンジャーの紛争を求める底知れね欲望の一端を垣間見ることができる。
 以上述べたことを踏まえた上で、キプロスの件は何も知らず、何もしておらず、つまり無関係だとキッシンジャーが主張していることを見直したい。まず、無関係であることを押し通すことは彼にとって重大事だった。なぜなら、関与していたとすると、外国元首の暗殺未遂、クーデター共謀、米国法の違反(外国援助法は、自国防衛以外の目的に使われる米国の軍事援助、武器供与を禁じている)、国際法違反の侵略行為、それに、何千人もの非戦闘民間人を殺害したことの共謀罪でキッシンジャーの有罪はまちがいないからだ。
 こういった結末を招かないようにするため、キッシンジャーは『激動の時代』と『再生の時代』でアリバイ作りをしている。『激動』の中では、「次にキプロスで紛争が起きれば、トルコの介入を招くことはまちがいないと前からずっと思っていた」と彼は断言している。キプロスのことを少しでも知っている人ならだれでもわかっていたことだが、NATO内のギリシャとトルコ間でキプロスをめぐり紛争が起きる危険があり、そうすればキプロスの分断につながる。さて、『再生』では、『激動』の中では知らん顔していた問題を取り上げ、キッシンジャーは「東地中海でNATO加盟二カ国間の紛争危機を」だれが望むだろうと、くり返し読者に問いかけている。
『再生』の199頁には別の発言がある。ここでは、キプロスのマカリオス大統領を「キプロス情勢を緊張させる元凶」だと述べている。マカリオスは民主選挙によって選ばれた共和国大統領だ。当時、キプロスは軍隊と呼ばれるものは持っておらず、欧州経済共同体(EEC)、国連の準加盟国で英連邦の国だった。マカリオス政権とキプロスの独立は、ギリシャ軍事独裁政権と軍事色の強いトルコの脅威にさらされていた。両国とも、キプロスの右翼系暴力団組織を援助し、この島の併合を虎視眈々とねらっていたのだ。
 このような情勢ではあったが、キプロス国内での「二国間」衝突は1970年代には緩和しつつあった。衝突が起きていたのはギリシャとトルコ国内のことで、民主主義・国際主義派と敵対関係にあった民族主義・独裁主義派との対立によるものだ。マカリオス大統領の暗殺計画もあったが、ギリシャ人とギリシャ系キプロス人の民族主義狂信派によって企てられたものだ。マカリオスを緊張の「元凶」呼ばわりすることは、情勢を理解していれば非常識もはなはだしいことだ。
 緊張の「元凶」というのは、キッシンジャーのことだ。もし、マカリオスが本当に情勢を緊張させる「元凶」であるならば、キプロスの人びとが彼の追放計画を立てるはずだ。ギリシャ正教会司祭で、民主選挙により選ばれたマカリオスは、キプロスに紛争をもたらす人ではなく、彼を追放する運動もキプロスにはなかった。キプロスと周辺地域におぞましい惨状をもたらすことになる紛争を選んだのは、キッシンジャーだ。
 ギリシャ軍事独裁政権によりマカリオス暗殺計画が練られていることをキッシンジャーが事前に知っていたことは、彼自身の記録や回顧録、政府の公式な調査記録をたどっていけば簡単に立証できる。ギリシャの独裁者で秘密警察を指揮していたディミトリオス・イオアニデスがキプロスでクーデターを起こし、ギリシャの支配下に置こうとしていたと、キッシンジャー自身も述べている。
 よく知られていたことだが、イオアニデス准将は米国の軍事支援と政治協力なくしては立ちゆかないなさけない政治基盤の上に成り立っていた。当時警察国家だったギリシャは、欧州会議から除名されEECに加盟することも拒否された。しかし、米国海軍第六艦隊の母港を提供し、米国空軍と諜報機関を受け入れた恩恵によって、彼は政権に居座ることができた。ウォーターゲート事件が発覚するまで、米国の対ギリシャ政策は甘すぎると議会で問題にされ、マスコミからもたたかれており、キッシンジャーはその渦中にあった。
 こういった状況の中で、ギリシャの独裁者イオアニデスはマカリオス政権打倒をねらっており、未遂に終わったものの暗殺計画を実行に移したと、一般的に理解されている。政権打倒をねらっていた者たちにとって、カリスマ的存在だったマカリオスを生かしておくことなど考えられず、マカリオス政権打倒とマカリオス暗殺は同じことだった。では、裏では何が起きていたのだろう。1974年5月、キプロスの首都ニコシアで起きたクーデターの2ヶ月前のことだ。キッシンジャーは国務省キプロス支局のトーマス・ボヤット支局長から報告を受け取った。ギリシャの軍事政権がキプロス、そしてマカリオス政権に対し攻撃を仕掛けることは間違いないとする状況証拠が報告されていた。米国政府がイオアニデスに対し思いとどまるよう警告しなければ、米国は黙認したものと理解されると、ボヤット支局長は伝えている。分かり切ったことではあるが、もし、クーデターが起きればトルコの介入を招くことは避けられないと、支局長は報告を結んでいる。
 キッシンジャーはシリアからイスラエル(いずれの国からもキプロスまで飛行機で30分の距離だ)に向う機中で、ボヤット支局長から届いたキプロス情報を読んでいる。このことは彼も認めている。しかし、ギリシャ軍事政権に彼から申し入れは送られなかった。
 国務省と国防省の高官や安全保障担当者に取って毎朝目を通すことが日課になっている『国家諜報日誌』の1974年6月7日付には、独裁者イオアニデスに対する見解を報告した6月3日付の米国政府現地報告が転載されている。

 ギリシャはマカリオスと政権内の支持者の打倒を、流血を招くことなく、また、EOKA(Ethniki Organosis Kypriakou Agonos)の支援を受けずに単独で24時間以内に遂行できると、イオアニデスは主張している。トルコは敵であるマカリオスの打倒を黙認するものと思われる……イオアニデスによると、もしマカリオスがギリシャに対して抵抗すれば、マカリオスを生かしたままギリシャ軍を引き揚げるか、それとも、マカリオスを葬り去りキプロスの将来についてはギリシャがトルコと直接取引するか、どちらを選択するか決めていないという。

 この報告内容が正しいことは、当時アテネで活動していたCIA職員が連邦会議で証言している。報告書からわかることは、イオアニデス准将は大風呂敷を広げ妄想癖のある人物だということ、それに、ギリシャによるキプロス侵略の危機が差し迫っていることだ( EOKAとはギリシャ系キプロス人のファシズム地下組織で、ギリシャ軍事政権から武器と資金援助を受けていた)。
 このころ、キッシンジャーは上院外交委員会のJ・ウイリアム・フルブライト委員長から電話を受けている。フルブライト議員は、ワシントン在住のギリシャ人ジャーナリスト、エリアス・P・デマトラコポウロスから、クーデターが差し迫っていることを聞いていた。フルブライト議員は、ギリシャが計画しているクーデターを阻止するための手段を講じるべきで、それには三つの理由があるとキッシンジャーに伝えた。
 第一に、ギリシャ軍事政権を米国政府が甘やかしてきたことに対する道義的な責任を取ることになる。第二に、地中海でのギリシャとトルコの紛争を阻止できる。第三に、キプロスで米国の名声を高めることになる、というものだ。キッシンジャーは、ギリシャの内政に介入できないという奇妙奇天烈な理由を挙げて、フルブライト議員の勧めを拒否した。キプロスに危機が迫っていたことの警告を受けていなかったと、キッシンジャーがいえるはずがない。
 外交儀礼というものは、ぶつぶつ独り言をいったり忍び歩きをするキッシンジャーの癖のように大変厄介なものであったりする。イオアニデスは建前上、秘密警察長にすぎないが、事実上のギリシャ軍事政権の司令官だった。ヘンリー・タスカ米国大使にとって、自分のことを「警官」だという男と外交的つき合いをすることは、随分居心地の悪いものだったろう。ここで思い出していただきたいのが、キッシンジャーもイオアニデスと似たようなものだった。公式にはキッシンジャーは外交担当者であったが、それに加え、四十委員会議長であり、秘密工作の指揮官だった。さらに、彼はCIAと長く関係を続けていたギリシャ軍事政権と個人的に取引までしていた。下院諜報委員会は1976年に、この問題について報告している。

 イオアニデスはCIAとしか取引を続けず国務省からの警告は無視するという情報を、タスカ大使はCIA支局長から受けていた。そのため、タスカはギリシャ指導者と直接連絡を取る必要はないと判断していた……キプロスでクーデターを実行することに対して米国大使館が深い懸念を抱いていたことは、イオアニデスに伝わっていなかったのは明らかだ。CIAだけがイオアニデスと連絡を取っていたことから、CIA支局へ送られた重要指令や、支局からの重要情報について、タスカ大使は把握していなかったものと思われる。イオアニデスは米国が黙認したと主張しているし、ワシントンはマカリオスに冷淡であったこともよく知られている。そのため、一触即発の状態が伝えられた報告を米国政府職員が無視していた、あるいは、紛争が起きることを容認していた、いずれかの疑いがかかっている。

 キプロス危機が迫っていたことを報告したトーマス・ボヤットの書簡は機密扱いとなっており、公開される見込みはたっていない。同じ下院諜報委員会で証言するよう求められた際、キッシンジャーはボヤットが議会に出るのを禁じることまでした。議会侮蔑罪に問われそうになったため、ボヤットは証言することになったのだが、職員、記者、傍聴者をすべて退席させた上で開かれた「秘密会議」で証言はおこなわれた。
 話は続く。1974年7月1日、キプロス問題で穏健派のギリシャ外務省の高官三人が辞職することをマスコミに発表した。7月3日、マカリオス大統領は、ギリシャ軍事政権に宛てた書館を公開した。書簡では、ギリシャ軍事政権の介入と転覆計画を痛烈に批判している。

 はっきりいわせてもらう。ギリシャ軍事政権の部隊が、EOKAテロリストを支援し秘密工作を企んでいる……アテネから見えない手が伸びてきて、わたしを消し去ろうとしていることを感じるし、その手に触りもした。

 また、この書館の中でマカリオスはギリシャ兵士らをキプロスから引き揚げるよう求めている。1974年7月15日、クーデターを予見できず、また阻止もできなかった失態を記者会見の席で追及されたキッシンジャーは、「情報が、街の中に転がっていたわけではない」と答えた。実際には、クーデターの情報は街に流れていた。それどころか、彼の持つ外交・諜報ルートから、クーデターの情報は刻々と入っていたはずだ。何もしていないというのは、事実上、なるようにさせたということだ。

 キッシンジャーがクーデターに驚いたというのはうそだ。知っておきながら何もしないのは、少なくとも黙認したのと同じではないか。キッシンジャーはクーデターを歓迎していたのではないかと疑うのも無理はないだろう。実際、そのとおりだった。
 クーデターにまつわる以下のふたつのことは疑いのないことだ。まず、ギリシャ正規軍がクーデターを遂行した。つまり、第三国による明らかな内政への直接介入だ。第二に、キプロスの主権を認めた諸条約に違反したことになる。露骨な違反行為だけではない。クーデター後、ギリシャ軍事政権は国粋主義者として悪名高い殺人者、ニコス・サンプソンをキプロスの傀儡「大統領」に選んだ。四十委員会の議長にとって、なじみの人物だ。彼は長期間にわたりCIAから資金援助を受けていた。そのルートは、アテネで軍事政権を支えていたCIAの覆面組織の新聞『自由世界』のサバース・コスタントポウロス編集長を経て、サンプソンがキプロスの首都で出していた狂信的な新聞『戦闘』に資金が流れていた。
 サンプソンは政権に就いて間もなく、民主主義者の殺傷を呼びかけるキャンペーンを始めたりしており、ヨーロッパ諸国はサンプソンを最低な人間としか見ていなかった。それにもかかわらず、キッシンジャーはキプロスの米外交使節に、サンプソン政権の外務大臣を外務大臣として受け入れるよう命令した。サンプソン政権を認めた最初で唯一の国家が米国だった。この時点では、マカリオス大統領の所在は不明だった。彼の官邸は銃砲火を受けており、暫定軍事政権のラジオは彼の死を報じた。実は、彼は間一髪で逃げ延びており、数日後に自分は生きていることをラジオで流すことができた。サンプソンらがどれだけ憤ったかおわかりだろう。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アメリカによるパナマの政治的・経済的・軍事的支配とウクライナ戦争

2022年08月17日 | 国際・政治

 朝日新聞、8月14日付のGLOBEに「The Road to War プーチン 戦争への道」と題し、「プーチンはもう別の世界に行ったのだ──。」の書き出しで始まる、喜田尚・前モスクワ支局長の長文が掲載されました。日本にいては知りえないような事実や、諸問題に対するプーチン大統領やロシアの過去の対応を交え、ウクライナ戦争を論じているのですが、私は、こうした捉え方は停戦・和解を遠ざけると思いました。なぜなら、ウクライナ戦争を主導するアメリカの意図や行動がまったく語られておらず、ウクライナ戦争の全体を見ていないと思ったからです。
 プーチン大統領は、2月24日の侵攻直前に、ロシア国民向けの演説をしました。その中で、アメリカを中心とする”西側諸国の根源的な脅威”について語っています。NATOの東方拡大や、その軍備がロシア国境へ接近していることについて語っているのです。そして、ベオグラード、イラク、リビア、シリアなどで、西側諸国が行った軍事活動を非難し、”NATOが軍備をさらに拡大し、ウクライナの領土を軍事的に開発し始めることは、私たちにとって受け入れがたいことだ。もちろん、問題はNATOの組織自体にあるのではない。それはアメリカの対外政策の道具にすぎない。問題なのは、私たちと隣接する土地に、言っておくが、それは私たちの歴史的領土だ、そこに、私たちに敵対的な「反ロシア」が作られようとしていることだ。それは、完全に外からのコントロール下に置かれ、NATO諸国の軍によって強化され、最新の武器が次々と供給されている”と、その脅威について語っているのです。かつてウクライナがソ連の一部であったから”それは私たちの歴史的領土だ”ということには問題があると思いますが、プーチンの支持率が高いのは、ロシア国民の多くがプーチン大統領のいう”脅威”に共感しているからではないかと思います。だから、そうした”脅威”の問題を議論の対象から外してしまえば、停戦・和解はむずかしいと思うのです。

 また、エネルギー問題にまったくふれないで、ウクライナ戦争を語っていることも、私には頷けません。2014年のロシアによるクリミア併合の際、すでに、当時のオバマ政権ロシアへの経済制裁を主導したようですが、ドイツをはじめとする欧州諸国は、エネルギー供給に影響することを恐れ、足並みがそろわなかったといわれています。そして、「ノルド・ストリーム2」の建設が進んだのです。でも、トランプ大統領は、「悲劇だ。ロシアからパイプラインを引くなど、とんでもない」と発言し、現実に、「ノルド・ストリーム2」の事業を対象にした制裁を次々に打ち出したといいます。
 さらに、バイデン大統領が、ロシアがウクライナに侵攻する前の声明で、”ロシアがウクライナに侵攻した場合、ノルドストリーム2を停止するよう緊密に調整してきた”と語ったことも報道されました。だから、アメリカは、ヨーロッパがロシアにエネルギーを依存することは、アメリカとヨーロッパの結束の弱体化につながると考えたことは否定できず、「ノルド・ストリーム2」の問題を抜きに、ウクライナ戦争を語ることはできないと思います。

 中国問題グローバル研究所所長の遠藤誉・筑波大学名誉教授は、スイスのガンザー博士が、ウクライナ戦争に関して、アメリカの国際法違反を証明していることを明らかにし、”日本はこれを完全に無視し、事実の半分の側面だけしか見ていない”と書いていました。
 私は、喜田尚・前モスクワ支局長が、遠藤誉教授が指摘したように、”事実の半分の側面だけしか見ていない”と思います。だから、ウクライナ戦争の捉え方が歪んでおり、停戦・和解を遠ざけるとらえ方をしていると思うのです。

 中国の急成長で、今まで並ぶ者がなかった超大国アメリカの行く末が危うくなり始めている現在、台湾有事も心配です。アメリカは、中国を弱体化させるため、台湾を第二のウクライナにするのではないかと心配なのです。

 戦争や紛争の歴史をふり返れば、アメリカの対外政策や外交政策の多くが、法や条約、道義・道徳に反するものであったことがわかります。 
 今回は、「パナマを知るための70章」国本伊代編著(明石書店)から、「Ⅴ 米国がつくったパナマ運河とパナマの運命」の29から37まである章の中の三章を抜萃しました。アメリカの暴力的とも言えるパナマ支配の一部がわかるのではないかと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
              Ⅴ 米国がつくったパナマ運河とパナマの運命

               29 アメリカ帝国主義──強まる運河支配

  19世紀末から、アメリカ合衆国はヨーロッパ列強のあとを追うようにして、本格的な帝国主義時代へと突入した。南北戦争後の飛躍的な経済的発展を背景に、アメリカは余剰生産物をさばくための新しい海外市場を求めていたのである。この海外への膨張の気運は、アングロサクソン民族優越主義とキリスト教的な使命感がむすびついた「マニフェスト・デスティニー」として社会的に正当化されていた。
 とりわけ、米西戦争(1898)の勝利によってカリブ海を制すると、勢いあまるアメリカは、ハイチ、ドミニカ共和国、バージン諸島、ホンジュラス、ニカラグアなど中米・カリブ諸国に対してつぎつぎと政治・軍事的介入を深めていった。これに伴ってアメリカはパナマ運河地帯に駐留するアメリカ軍を増強し、この地を中米・カリブ全域を統轄する軍事拠点へと変えていった。このアメリカの存在によって、国家としてのパナマは、長きにわたって地理的にも、心理的にも分裂することになる。
 イギリスは、1901年、ヘイ・ポンスフォート条約においてアメリカのパナマ地域におけるヘゲモニーを承認し、またフランスも、1903年、運河建設の権利をアメリカに売却したことにより、アメリカの中米支配の基礎はかたまった。こうして翌年から、アメリカは運河工事に取りかかる。このとき、パナマ軍部の反逆を恐れたアメリカは、パナマ国軍を解体して警察組織へと再編した。すなわち、パナマは自国軍を持つことを禁止されたのである。その一方で、T・ルーズベルト大統領は、いわゆる「棍棒政策」により、中米・カリブ海域へ積極的に進出し、敵対的な国家に対してはきびしく対応した。
 たとえば、当時のニカラグア大統領ホセサントス・セラヤは、高まる民族主義を背景にあからさまな反米主義を打ちだし、ニカラグア国内にパナマ運河に対抗する新運河を建設すると宣言した。これに対してアメリカは、反セラヤ勢力とむすんで、1909年、セラヤを失脚させている。ただし、パナマ国内では反米主義の高まりを恐れ、当時のアメリカはあからさまな武力介入をするよりも、むしろ選挙に介入することによって親米派の大統領を生みだそうと画策する傾向にあった。
 また、タフト大統領は、いわゆる「ドル外交」により、中米・カリブ地域に対する経済的な圧力を強めていった。1909年、イギリスのホンジュラスに対する債権が多額であることを憂慮したアメリカ国務省は、アメリカ銀行を通じてそれらの負債を肩代わりし、イギリスの影響力を排除した。1910年には、ハイチへのアメリカ資本の進出も国務省の指導のもとで大規模に行われている。
 1914年、運河完成の年に第一次世界大戦が勃発した。この戦争によるヨーロッパ諸国の疲弊により、イギリスやフランスなどはもは中米・カリブ諸国に介入する余力を残していなかった。こうした状況下で、アメリカはこの地域に独占的な権力を行使することになり、パナマ運河地帯はますますその戦略的重要性を増していった。第一次世界大戦前には役30億ドルの債務をかかえていたアメリカは、戦後には約160億ドルの債権を持つ強国となり、パナマ運河地帯はその要塞の1つとなったのである。世界最大の経済・軍事大国となったアメリカは、第一次世界大戦後の国際秩序づくりの核となるヴェルサイユ条約を批准せず、また国際連盟にも参加しないなど孤立主義的な帝国主義をとることになる。
 ちょうどその頃、アメリカのウィルソン大統領が提言した「14カ条」の影響により、世界各地に民族自決運動の波が押しよせ、ナショナリズム(民族主義)運動や反植民地運動が高まりを見せ始めた。それにもかかわらず、アメリカ自身はこれに逆行するようにパナマへの支配を強化していく。アメリカはヘイ・ビュノー=バリーヤ条約の第3項にのっとり、パナマにおいて文字通り「あたかも主権者のごとく」に振るまったのである。1918~19年、アメリカはパナマの国家警察を再編成し、これを自らの影響下に置くことによって反米運動に備えた。
 第一次世界大戦後、運河の経営もしだいに軌道に乗り始め、1918年にはパナマ運河を利用する船舶は年間2000隻以下であったのが、1925年には7000隻にも増えた。運河はもはやアメリカの重要な経済的源泉となっていた。さらに政治的な面でアメリカは、1920年代には共産主義、30年代にはファシズムという新たな敵と対峙しなければならない事情があった。こうした変化が、アメリカの帝国主義的な運河支配を強化させることになったのである。
 アメリカは、自国の産業を運河地帯に発展させ、労働条件においてもパナマ人労働者の地位と賃金をアメリカ人労働者よりも低く設定するなど、はっきりとした植民地主義者の顔を見せ始めた。これに対して、在ワシントン・パナマ大使であったリカアルド・アルファロは、1923年、こうした横柄な態度や人種・国籍による労働条件の不公平の是正をアメリカに求めたが、聞き入れられなかった。
 こうしてアメリカは、1930年まで、パナマ最高の権力者のごとく振るまった。合衆国の官僚は、運河における船舶の航行と地峡におけるアメリカの利害を守ろうとし、パナマ人もそれに協力するよう要請した。また、この時期のパナマの政治家たちも、あからさまな反米主義を表明することはなかった。彼らエリート層は、運河と運河地帯からさまざまなサービスや利益を獲得し、自国の生活水準を引き上げようと考えていたからである。
 しかし、アメリカの支配に関して世論が賛否両論に割れるなか、パナマの政治家はパナマ民族主義とアメリカ追随主義を同時に主張することは許されなくなり、パナマ側に立つかアメリカ側に立つかの二者択一をせまられた。この問題に関して「中道」を通すことはできない状況になっていたのである。その対立は、1930年に抜きさしならない状態に陥ることになる。  (小澤卓也)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                  36 トリホス将軍と1977年の新パナマ運河条約

 アルヌルフォ・アリアスが3度目の大統領の座から追われ、国家防衛隊の主導による臨時議会が成立した。ここでめきめきと政治的な頭角をあらわしてきたのが、オマール・トリホス中佐であった。彼は独裁的な軍事政権を確立し、反対派を徹底的な暴力によってねじ伏せていたにもかかわらず、そのわかりやすい発言と柔軟性に富んだ物腰から「軍人らしからぬ軍人」として多くの民衆から慕われた異色の軍人政治家であった。彼が行った68年の軍事クーデター以降、パナマでは20年間にわたって軍部による政治支配システムが続くことになる。
 エルサルバドルの軍人学校で職業軍人としての英才教育をうけたトリホスは、1952年に国家防衛隊に入隊するや、すぐに市民運動対策や暴動の親圧において特異な才能を発揮し、司令室でらつ腕を振うようになった。1968年、国家防衛隊の最高司令官にのぼりつめて全軍を掌握すると、強力な反米・反オルガリキーアの姿勢を打ちだし、パナマ人民族主義主義者に熱狂的に支持されるようになった。彼の筋金入りの反米主義は、母親が米兵にぞんざいに扱われるのを目撃した幼少期の記憶に端を発すると言われている。
 
 トリホス大統領は「アメトムチ」を巧みに使いわけて権力を掌握した。一方では、都市の労働者階級と連帯する姿勢を明確にし、労働法を整備するなどしてその取り込みをはかった。また、農村部においても、農業組合を支援し、学校、診療所、市場などを建設し、農村社会の安定をはかるとともに農村から都市への急激な人口移動を防ごうと努力した。これらの政策は「市民派」であり、「貧者の味方」であるというトリホスのイメージ戦略とあいまって、彼のカリスマ的人気を確かなものとしていた。
 しかし他方では、自由な政党活動を禁止し、学生の自治や反政府運動を弾圧するなど、パナマ市民の政治的自由をつぎつぎと奪っていった。トリホスは国家防衛隊をさらに強化して市民の自由主義運動を抑圧するとともに、腹心であったマヌエルアントニオ・ノリエガの指揮するG─2と称される諜報機関を通じて政敵を拉致・拷問・暗殺するという恐怖政治をしいた。この頃になると、国家防衛隊は行政・立法・司法の各府と並びたつか、あるいはそれらをしのぐ「第四の権力」と化していたのである。
 とりわけトリホスは、くすぶっていた人々の反米意識やナショナリズムをあおりつつ、運河地帯の奪回を最終目的とする主権回復運動の先頭に立つことによって、政権の安定をはかろうと躍起になった。その背景には、深刻化していた貧富の格差や治安の悪化などの社会・経済的不安から人びとの目をそらす意図もあったと考えられる。トリホスは、「第三世界」諸国との関係を緊密化しながら、ヴェトナムからの撤退以降、対外消極策に転じていたアメリカ政府にさらなる国際的圧力をかけた。そうしながらトリホスは、もし運河条約交渉が失敗に終わった場合、数年間にわたってゲリラを組織してアメリカの運河運営に混乱をもたらすと公言するなど、アメリカ側に早々の決断を迫ったのである。
 こうしたトリホスの強硬路線を前に、アメリカ政府は、たとえパナマ運河の経営権がパナマに移管されたとしても、運河の安全が確保され、船舶の航行が保障されるならば、アメリカの基本的な国益は確保できると考えるようになる。カーター政権は、この観点から運河の「永久中立化案」を練りあげ、「運河がパナマに返還されたあともアメリカの防衛権を存続させる」ことを条件とする新条約案を打診し、トリホスもこれを受け入れた。
 その結果として、1977年、トリホスとカーターとの間で運河に関する新条約(トリホス・カーター条約)が締結された。カーター大統領は、「1903年の条約は、ラテンアメリカとのよりよい関係にとって障害となっていた」と述べ、この新しい取り決めは「相互の尊敬と協力のシンボル」であると強調した。これに対してトリホスは、アメリカの決定を合衆国国民の自由主権のなせるわざと評価しながらも、新条約が正しく管理されなければ、「永続的干渉の道具になってしまう」と警告することを忘れなかった。この条約によってこれまでのパナマ運河と運河地帯に関する不平等条約はいちおう破棄され、アメリカ・パナマ両国の代表によって構成される運河委員会が運河の管理・運営を行うことや、1999年12月31日正午までに運河地帯におけるすべての財産(軍事基地やアメリカ人居住区を含む約15万ヘクタールの土地や河川など)がパナマに返還され、この地におけるパナマの主権が完全に回復されることなどが約束されたのである。
 これを受けてパナマ国内には賛否両論の反応があった。条約調印前には、アメリカの即時撤退を望む1万5000名にものぼる市民のデモが「汚い条約」、「米軍基地反対」などのプラカードを掲げて市内を行進して外務省に向ったが、国家防衛隊の役人により散会させられている。他方で大部分の市民は、条約調印の様子をテレビで見て、車のクラクションを鳴らしながら「とうとうやった」と叫びあったという。
 こうしたパナマ人の反応とはうって変って、運河地帯に居住するゾーニアンと呼ばれるアメリカ人たちの反応は暗かった。彼らは各自ろうそくを手にし、表面に「民主主義」と書いた棺をひきずって「葬送行進」を行い、運河を建設したジョージ・ゲーサルスの記念碑前まで行進したのである。
 この条約の直後、トリホスは国家の最高役職からは身を引いたが、新たに結成した民主革命党(PDR)を通じてその後も圧倒的な政治的影響力を維持し続けた。そして、1981年、暗殺説もささやかれる謎の飛行機事故で悲運の最期をとげたのである。現在、アマドール地区にあるトリホスの墓には、何よりもパナマ運河の奪還を優先した故人が生前に残した名言が刻まれている。
 「わたしは歴史書のなかに入りたいのでなく、運河地帯のなかに入りたい」    (小澤卓也)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                 37 ノリエガ将軍とアメリカの侵攻

 1979年、ニカラグアにおいて親米派のソモサ独裁政権がソ連・キューバとの親交の厚いサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)を中心とする民衆革命によって打倒された。さらにその近隣のエルサルバドルやグアテマラにおいても左派民衆運動が活発化してくると、社会・共産主義陣営との対決姿勢を明確にしていたアメリカのレーガン政権は、再び大規模な軍事基地・施設が置かれているパナマ運河地帯の保持に執着するようになる。レーガンは、パナマ側の運河管理・運営能力への疑問、運河の安全や中立に対する将来的不安、パナマ社会に見られる国家暴力などの「非民主主義」に対する危惧、共産主義陣営および麻薬組織に対抗する際の運河地帯における米軍基地の「世界的な重要性」などの議論を持ちだし、1977年のトリホス・カーター条約を再検討する必要性を国内外に呼びかけた。
 これに対して、トリホス以降いっそう民族主義政策に傾倒していたパナマ政府は、1983年1月、コロンビア、メキシコ、ベネズエラなどと、「コンタドーラア・グループ」を結成し、中米における紛争は東西問題としてではなく、社会・経済的な構造の問題としてとらえるべきであること、そしてラテンアメリカ地域で起こった問題はラテンアメリカ自身の手で解決すべきであることなどを主張し、アメリカと対峙しながら独自に中米諸国と地域安定のために外交努力を重ねていった。このことを通じてパナマ政府は、すでに決着したはずの運河地帯の返還問題を再検討しはじめたアメリカを牽制したのである。
 しかし、パナマを軍事・情報基地として保持し、キューバを監視するとともにラテンアメリカ地域における存在感を誇示しようとするアメリカの態度がすぐに変化することはなかった。1989年のパナマ侵攻はまさにそのことを物語っている。
 反米主義を掲げてアメリカを挑発し、マイアミの大陪審に国際的な麻薬取引への関与で起訴されていたパナマの軍事独裁者マヌエルアントニオ・ノリエガに対して、ブッシュ政権は「(パナマ国内の)アメリカ人の生命を救い、パナマの民主主義を守り、麻薬取引と戦い、パナマ運河条約を遵守するため」に軍事攻撃に踏み切った。アメリカ側が「大義名分」作戦と名づけたこの侵攻は、約3000人ものパナマ市民を戦闘に巻込んで死亡させ、1万人以上の住居を破壊している。米軍は高度に武装・訓練された常駐軍に増援部隊を加えて合計約22万4000人の兵力で、武器・戦略においてはるかに劣る約1万5000人からなるパナマ軍をほぼ一方的にひねりつぶしたのである。命からがら戦火を逃れ、一時バチカアン市国の大使館にかくまわれたノリエガも、やがて自らアメリカ側に投降した。
 ノリエガは、トリホスのもとで長い間治安・諜報部門の責任者を務めており、1983年からパナマの実権を握っていた。彼はアメリカの中央情報局(CIA)やイスラエルの諜報機関「モサド」から、それらに敵対するキューバのカストロ首相やリビアのカダフィ大佐、さらにはコロンビアの麻薬組織「メディジン・カルテル」にわたる幅広い交友関係を持っていた。そのためアメリカのレーガンとブッシュ両政権は、敵国に関する情報を得たり、さまざまな軍事的ノウハウや武器を供与してアメリカが敵対するニカラグア革命政権の転覆をはかるなど、ノリエガを最大限に利用していたのである。
 しかし、ノリエガがアメリカの警戒するキューバ人やリビア人に対して合衆国のビザやパスポートを不正に売買していたことが明らかとなり、アメリカ国内において麻薬撲滅の気運が高まってくると、その存在はレーガン、ブッシュ両政権にとって疎ましいものに変っていった。1986年にアメリカ合衆国議会がニカラグア・コントラ(反革命)への資金援助を承認したことによって、もうアメリカ政府は対ニカラグア政治のためにノリエガの「裏ルート」を利用する必要がなくなったこともその背景にあった。最終的にアメリカはパナマの大統領選挙において反ノリエガ派のギジェルモ・エンダラを支援し、その勝利に寄与したが、ノリエガがこの選挙結果を無効として、パナマ国内のアメリカ人に対する殺傷事件が起きると、これをきっかけにアメリカがパナマへ侵攻したのだった。

 この侵攻の直後にアメリカのCBSが行った調査結果は、全体の92%にものぼるパナマ人がアメリカの軍事侵攻を「解放」と見なしたと結論づけているが、これはむしろノリエガに対するパナマ人の不信感のあらわれだと考えるべきである。実際に、パナマ社会が平静を取り戻すとすぐに、多くの生命や財産が失われたことや、戦争被害に端を発する経済危機が全人口の30~40%にものぼる約15万人の失業者を現出したことに対して、パナマ国内のみならず、OSA加盟国からもアメリカに対する激しい非難の声があがっている。この機に、都市を中心とした愛国主権者は、新聞などのメディアを通じてアメリカの帝国主義を批判することに尽力し、多くのパナマ人は、アメリカがパナマ侵攻を通じてそれ以前に失ったラテンアメリカにおける政治的ヘゲモニーを復活させようと企んでいると考えるようになる。米軍の侵攻に関わるパナマ人の死亡者たちも、ナショナリストたちにとって「殉教者」とみなされるようになった。
 一方でノリエガは、91年から拘束されたアメリカにおいて裁判にかけられ、その翌年、マイアミの連邦地裁において8件の事件について有罪とされた。81年から86年にかけての、麻薬の製造や取引、それにからむマネー・ロンダリング(麻薬資金を浄化して他の資金へと転換すること)、「メディジン・カルテル」からの賄賂取得などが、その主な罪状であった。これに基づきノリエガは最終的に40年の実刑判決を受けたが、模範囚として早期釈放が決定された。しかし、麻薬洗浄の罪で10年の禁固刑が確定していたフランスの要求によってフランスに引き渡された。2012年にフランスからパナマに送還されたのち病状が悪化したノリエガは17年5月に83歳で死去している。                                   (小澤卓也)
 

 

 
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バングラデシュの集団虐殺とアメリカ政府の道義心

2022年08月14日 | 国際・政治

 ウクライナ戦争に関わる新聞の記事を読むたびに、私は苛立ちを感じる毎日を送っています。大変な犠牲者を出し、日本が滅亡しかねないという悲惨な状況で降伏した日本は、戦後、二度と戦争をしないと決意して出発したはずだと思います。日本国憲法の平和主義の精神は、ごく一部の軍人や戦争指導者を除いて、ほとんどの日本人の思いを体現するものであったと思います。でも、ウクライナ戦争が続く現在、アメリカやウクライナからもたらされるプロパガンダによって、日本人の、その平和主義の精神があっけなく、日々崩れ去っていくのを感じます。


 以前取り上げましたが、東京大学の和田春樹名誉教授は、ロシア史研究仲間とともにウクライナ戦争の「即時停戦を求める声明」を発表しました。でも、ツイッター上で目立ったのは、賛同の声ではなかったといいます。「停戦ではなくてロシアの全面撤退を求めろよ」とか「徹底抗戦しようとするウクライナ政府や国民の意思を無視している」というような声だったというのです。戦争体験者の多くが生きていた時代には、考えられない反応だと思います。
 現在日本の若者が、「ロシアがウクライナの日常を一方的に奪う理不尽さに、居てもたってもいられなくなった」とか、いままで、「侵略と自衛による戦いの違いもあいまいにしたまま”思考停止”していた」というような考え方をするのは、ウクライナ戦争の経緯や背景、ロシア側の主張などが正しく伝えられておらず、客観的事実認識に問題があるからだろうと思います。メディアの報道が公平であれば、”ロシアがウクライナの日常を一方的に奪う理不尽さ”とか、”侵略と自衛による戦いの違い”とかいうような捉え方が、多数を占めることはなかったと思います。大本営発表を信じた「過ち」のくり返しのように思います。
 
 人類は悲惨な戦争をくり返しながら、さまざまな法や国際条約を成立させ、組織をつくってきました。だから、そうした歴史の進歩に背を向けなければ、ウクライナ戦争は起きなかったし、ウクライナ戦争の停戦・和解も可能なのだと思います。でも、戦争が始まり、停戦・和解の見通しが立ちません。そしてそれは、主にアメリカの対外政策や外交方針に問題があるからだ、と私は思っています。
 それで、いろいろな紛争や戦争をふり返って、アメリカの対外政策や外交方針の問題を取り上げ、考え続けています。ウクライナ戦争にも共通であると思うからです。

 今回は、「アメリカの陰謀とヘンリー・キッシンジャー」クリストファー・ヒッチンス:訳・井上泰浩(集英社)から、見逃すことのできない、アメリカのバングラデシュにおける大虐殺黙認の抗議電文を取り上げることにしました。


 アメリカには、外国に派遣された領事館の職員が、自らの政府を、”もはやわれわれの政府に道義心など残っていないことは明らかだ”などと痛烈に批判することのできる自由があります。でも、その自由が、アメリカの国民に限られていることを見逃してはならないと思います。
 アメリカ政府の対外政策や外交は極めて差別的であり、権力主義的であり、武力主義的であって、決して民主的ではなく、自由主義的でもないのです。それが、”もはやわれわれの政府に道義心など残っていないことは明らかだ”という言葉にあらわれていると思います。

 パキスタンの軍事政権が、アメリカの軍事支援プログラムによって供給された機関銃などの兵器を利用し、バングラデシュで民族大虐殺をくり返しているのに、ニクソンやキッシンジャーは、虐殺の首謀者カーン将軍を諫めるどころか、「ある気配り」への謝意を伝える書簡を送っているというのです。
 アメリカは、自国の利益のためには、カーン将軍が歴史上最も非道な戦争犯罪をくり返していたときでさえ、そのカーン将軍に「ある気配り」への謝意を伝え、良好な関係を維持するのです。それが、アメリカの対外政策や外交方針の基本姿勢のように思います。
 大きな犠牲を払いながら、法や条約や組織を発展させてきた国際社会の歩みに逆行することは明らかです。
 だから、ウクライナの内政に対する干渉も、ウクライナ戦争に対する直接的な関わりやアメリカの意図も隠しながら、ウクライナ戦争を主導するアメリカに、国際社会の歩みに沿った行動をしつこく求めたいと思うのです。人命や人権を尊重する立場に立つのであれば、即時、停戦・和解が求められると思います。

 ウクライナ戦争の停戦・和解が進められないと、今度は、台湾が第二のウクライナになってしまうのではないかと心配しています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー7ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
              第四章 バングラデシュの集団虐殺、クーデター、暗殺

 米国外交の歴史をひもとくと、これからも語り継がれる多くの人道的な活躍が記されている。もちろん、非道な外交政策も数多くある。米国外交の金字塔のひとつに、1915年の駐オスマントルコ大使だったヘンリー・モーゲンソーの活躍が挙げられるだろう。秘密情報を手に入れたモーゲンソー大使は、アルメニア政府が行った少数民族の計画的集団大虐殺の全容を報告した。ニ十世紀に起きた初の民族大虐殺だ。民族大虐殺を意味するジェノサイド(Genocide)という言葉は当時なかった。モーゲンソー大使は、民族殺人(Race Murder)という言葉を使った。
 1971年には、ジェノサイドという言葉は一般にも使われるようになった。それは、当時東パキスタンと呼ばれた地域にあった米国領事館から送られた一通の抗議の電報から始まった。そこはパキスタンのベンガル人が支配する地域で、バングラデシュとも呼ばれた地域だ。この電報はバングラデシュの首都ダッカの米国領事館アーチャー・ブラッドを筆頭に、連名で1971年4月6日に書かれた。「血の(ブラッド)電報」と呼んでいいだろう。モーゲンソー大使の電文のように、この電報もワシントンに直接送られたが、内容はただのバングラデシュの状況報告ではなかった。要旨はこうだった。

”われわれ政府は民主主義に対する弾圧をみすごしている。われわれ政府は残虐行為に対し目をつむっている。国民を保護するための確固とした手段を取っておらず、政府を支配する西パキスタンの肩を持ち、彼らに向けられた国際社会の批判をかわそうとしている。もはやわれわれの政府に道義心など残っていないことは明らかだ。皮肉にも、ソビエト連邦はパキスタンのヤヒア・カーン大統領に民主主義を守るように求める書簡を送り、国民投票で選ばれた指導者ムジブ・ラーマンの逮捕を非難している。抑圧と流血をただちに中止するよう求めている。……しかし、われわれの政府は、アワミ紛争は独立国家の内政問題であるとして不介入を決めた。不幸にも、この紛争は民族集団大虐殺なのだ。米国の市民は、不快感を表している。われわれ政府職員は、現在の政策に対し異議を表明し、われわれにとっての本当の利益を再確認し、政策を転換されるよう強く求める。

 この電文はバングラデシュ駐在の米国外交官20人が署名した。国務省に届いたあとに、南アジア部局の7人の高等職員も書名に加わった。これほど強い批判を直接訴えた国務省職員による国務省への申し入れは、これまでに例がない。
 バングラデシュは、この抗議文が書かれるのも不思議ではない状況だった。1970年12月パキスタンの軍部上層部はここ10年来で初の公開選挙実施を認めた。総選挙ではベンガル人からなるアワミ連合の指導者シーク・ムジム・ラーマンが圧勝し、国会でも同連合が過半数を制した。東部だけでも、169席中167席をを同連合に所属する議員が占めた。選挙結果は、西パキスタン側にとって政治的・軍事的・経済的脅威となったわけだ。国会は1971年3月3日に初召集される予定だった。しかし、3月1日、政権から退くことになっていた軍事政権の最高司令官ヤヒア・カーン将軍は、国会召集の延期を決めた。そのため、バングラデシュのある東部各地で大規模な抗議行動がわき起こった。
 3月25日、パキスタン軍はダッカに侵攻した。ムジブ・ラーマンを拘束し西パキスタンに連行したあと、ラーマン支持者の暗殺を始めた。軍の侵攻前に、外国人ジャーナリストたちはダッカから退去処分を受けていた。しかし、そこで何が起こっていたのかは、米国領事館が運営するラジオ放送によって報告されていた。総領事のアーチャー・ブラッド自身も、パキスタン軍による虐殺事件の報告書を国務省とキッシンジャーが議長を務める国家安全保障会議に送っている。その事件というのは、パキスタンの正規軍がダッカ大学の女子寮に放火し、建物から逃げ出してきた女子学生を待ち受けていた兵士が機銃掃射したというものだ。この事件で使われた機関銃などの兵器は、米国の軍事支援プログラムによってパキスタンに供給されたものだ。
 現地に残って取材を続けたアンソニー・マスカーヒーナス記者によって、ほかにも多くの惨事が英国の有力紙『タイムズ』や『サンデー・タイムズ』に送られ、世界を震撼させた。パキスタン軍部はバングラデシュの人びとの抗議活動を抑圧するために、強姦、殺人、手足の切断、子供の殺害などをくり返しおこなった。この侵攻から3日間で、少なくとも1万人以上の市民が虐殺された。最終的な死亡者の数は、どんなに少なく見積もっても50万人はくだらず、300万人にものぼるといわれる。ほとんどのベンガル人たちがパキスタンの軍事政権による迫害の危機にあったため、数百万人、おそらく1000万人にのぼる難民がインド国境に向って避難し始めた。
 ここまでを要約すると、パキスタン軍部は民主選挙の結果を踏みにじり、バングラデシュで民族大虐殺を実行し、国際的な問題に発展したということだ。事件直後、ニュー・デリー駐在のケネス・キーティング米国大使はブラッド総領事らの集団抗議に加わった。ニューヨーク州選出の上院議員であったキーティングは、含蓄のある言葉をちりばめて1971年3月29日に政府に電報を打った。この残虐行為の実行者に対し毅然とした態度を取り、実効ある対応をすべきときである、とキーティングはワシントンに進言している。キーティングはさらに、「政府は速やかに、公然と、そして深くこのたびの暴挙を悔いるべきだ……身の毛もよだつ事実がこれから判明する。その前に、ただちに行動を取ることは危急の課題である」と警告した。
 ニクソンとキッシンジャーはただちに動いた。アーチャー・ブラッドは総領事を外され、キーティング大使については「インド人にやり込められたな」とニクソンが罵っている。1971年4月下旬、集団虐殺がピークを迎えていたそのとき、キッシンジャーは虐殺の首謀者カーン将軍に対し、「ある気配り」への謝意を伝える書簡を送っている。
 カーン将軍が歴史上最も非道な戦争犯罪をくり返していたとき、このように感謝された理由はなぜだろう。1971年4月、中国から米国に思いもよらない招待状が届いた。北京でおこなわれる試合へ米国の卓球チームが招かれたのだ。米国側は受諾した。この月の終わりには中国政府がニクソンに対し使節派遣を求める書簡を送っている。これらの仲介役を果たしたのが駐米パキスタン大使だった。こういった背景があったのだ。
 しかし、ワシントンと北京をつなぐ裏ルートはパキスタン・ルートのほかにもあった。ルーマニアのチャウシェスク・ルートだ。あまりいいルートとはいえないが、当時、チャウシェスクは世に知られた犯罪者ではなかった。中国首脳の周恩来との交渉で、「気配り」のあるヤヒア・カーンのような冷血暴君を仲介者として使う必要はなかったのだ。この時代を専門にする歴史学者の第一人者ローレンス・リフシュルツはこういう。

 国家安全保障会議でキッシンジャーの補佐を務めていたウインストン・ロードの証言によると、バングラデシュで起きた虐殺を政府上層部は理解しがたい理由で正当化していた。ロードは「わが国は信頼できるということを中国に示さなければならなかった。また、わが国はたがいの友を尊重しますよ、ということも中国に理解してもらう必要があった」と[カーネギー財団国際平和研究所の研究員に対して]話している。20年も中国と敵対しておいて、凄惨な内戦の起きたパキスタンに支持を表明することが、中国に対して「米国は信頼して交渉できる政府」の証しになるとでも思っていたのだろうか。米国内外からも、単なるこじつけとしか見られていない。パキスタン政府との関係をワシントンは変えるつもりがなかったので、放っておけばいいと判断したのだろう。

 こうしたパキスタンに対する米国政府の外交姿勢を読み取っていたため、カーン将軍の行動に歯止めが利かなくなってしまった。カーン将軍はG・W・チョウドリー諜報相ら軍政閣僚に対し、ワシントンと北京との裏取引を握っているから自分にはだれも手を出せない、と話している。チョウドリーは「もしニクソンとキッシンジャーが将軍を誤解させていなければ、彼はもう少し現実を直視していたはずだ」とのちに記している。中国との交渉で民族大虐殺の首謀者カーン将軍と結託していたということは、ニクソンとキッシンジャーも大虐殺に関わっていたということになる。ここまで読まれて、こんな疑問を持たれる読者もおられるだろう──なぜキッシンジャーは独裁・全体主義政権との裏ルートに頼って中国との外交を進めたのだろうか。オープンな外交はできなかったのか。答えは、ニクソンとキッシンジャーは秘密政治がお得意だったということだろう。
 キッシンジャーが進めた中国との裏交渉を守ることが、何十万、何百万ものベンガル人犠牲者に値するとは断じていえない。しかし、残念なことに、ベンガル人はキッシンジャーのメンツと手柄のために犠牲になったと疑わざるを得ない情報が次々と現れているのだ。つまり、インドに敵意を持つ自分のボス、ニクソンを喜ばせ、またバングラデシュが独立国家になることを阻止する目的で、キッシンジャーのバングラデシュ政策が立案されたのではないだろうか。
 よく使われる外交用語に、TILT(チルト)という言葉がある。ゆがんだ外交姿勢を指す言葉だ。この言葉の語源は、次の凄惨なエピソードに由来する。1971年3月6日、キッシンジャーは国家安全保障会議を召集した。東西パキスタンの対立から衝突は避けられない情勢になったころだ。この会議で、キッシンジャーはいかなる事前の策も取らないよう要請した。会議出席者からは、カーン将軍に対し、民主的におこなわれた選挙の結果を尊重するよう警告すべきだという意見が出た。しかし、キッシンジャーは断固反対した。このあとキッシンジャーが取った政策は、すでに述べたとおりだ。

 ・・・以下略

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インドネシア、スハルト政権の東チモール侵略とアメリカNO2

2022年08月11日 | 国際・政治

 私は、現在の人類が抱える諸問題は、アメリカが根本的に方針転換をして、常に法や国際条約、道義・道徳に基づく対外政策を進める国に変らなければ、解決しないように思います。
 ウクライナ戦争も、アメリカがゼレンスキー政権を背後から操っているように思います。なぜなら、他国の政権を背後から操り、社会主義政権や民族解放戦線などを潰しにかかったアメリカの対外政策の例は、あちこちにあり、東チモール問題もその一つだと思われるからです。
 前稿でふれましたが、インドネシアが東チモールに軍事介入し、ディリーを攻撃、全面侵攻した1975年12月7日の2日前、すなわち12月5日、アメリカのフォード大統領とキッシンジャー国務長官がインドネシアを公式訪問し、スハルト大統領に会っているのです。だから、フォード大統領がスハルト大統領に軍事援助を約束し、インドネシアの東チモール侵略にゴーサインを与えたといわれているのです。
 また、1975年12月12日には、国連安全保障理事会がインドネシアの即時撤退を求める決議を可決したにもかかわらず、インドネシアのスハルト政権は1976年年7月17日に、東チモールをインドネシアの27番目の州として併合宣言を行っています。アメリカの合意がなければできることではないと思います。そして、現実に欧米や日本などは、反共の立場をとるインドネシアのスハルト政権との関係を重視したのでしょう、併合を黙認しているのです。

 そうしたスハルト政権の姿勢は、ウクライナにおけるゼレンスキー政権の姿勢に通じるものがあると思います。ゼレンスキー大統領は、ロシア軍が侵攻を開始するや否や、ロシアに対し、撤退を呼びかけるのではなく、ウクライナの一般住民に武器を取って抵抗するように呼びかけました。ウクライナが単独でロシアと戦争できるわけはないのにおかしいと思います。
 だから、アメリカがヨーロッパに対するロシアの影響力拡大を阻止し、ロシアを弱体化させる目的で、ウクライナの親米派に働きかけ、ヤヌコビッチ社会主義政権を転覆させ、ロシアとの戦争に踏み切らせたのだろう、と私は思います。バイデン大統領が副大統領時代に、6回もウクライナを訪れていたということは、そうしたことを物語っているように思います。

 でも、現在の日本では、ロシアを「悪」とし、プーチン大統領を「悪魔」に仕立て上げるような論調が圧倒的だと思います。ウクライナ戦争を語るときには、いつも、”ロシアのウクライナ侵攻後…”とか、”ロシア軍のウクライナ侵攻によって…”という言葉からはじまるのも、ロシアを「悪」とする受け止め方のあらわれであるように思います。8月6日の朝日新聞「天声人語」に、”…77回目の原爆忌である。これまで核軍縮が何度叫ばれて、何度裏切られてきたことか。核不拡散条約の会議が始まったのを機に、ロシアのプーチン大統領が「核戦争に勝者はいない」との声明を出した。しかしあなたこそが、核の使用をちらつかせていたではないか…”とありました。私は、またか、と思いました。同意できるところを足がかりに、問題解決への道を歩もうとするのではなく、同意できない部分を強調し、相手を屈服させようとしているように思ったのです。

 原爆や核兵器の問題に関しても、私は今まで、何度か取り上げてきました。印象に残っているのは、アメリカが日本に原爆を投下する前、多くの学者や関係者が、様々な提言をして、投下に反対したという事実です。例えば、シカゴ大学の7名の科学者で構成された「社会的・政治的意義委員会」のメンバーであったシラードは、同僚69名の署名を添えて原爆使用反対の請願を提出しています。彼は、原子力政策について政府は科学者たちと討議する必要があるとも主張していたのです。でも、こうした科学者の懸命な努力は受け入れられませんでした。

 ふり返れば、ヤルタ会談で、8月8日ころのソ連の参戦が約束されていました。アメリカ軍の日本本土上陸作戦は11月1日の計画でした。また、アメリカは、日本の和平派の動きを察知し、日本の降伏が近いことも知っていたのです。したがって、日本の降伏のために、原爆投下をそんなに急ぐ必要はなかったのです。にもかかわらず、ソ連参戦前の8月6日に原爆を投下しました。だから、広島6日・長崎9日の原爆投下は、日本を降伏させるためというより、戦後をにらんだアメリカの戦略であったといわれています。ヤルタ会談でソ連に対日参戦を求めていたアメリカが、ニューメキシコ州アラモゴルドにおける原爆実験成功をきっかけに、その戦略を一変させ、ソ連参戦の前に日本を降伏させようと動いたということです。結果的に、それは多くの科学者の指摘した通り、ソ連には「脅し」となり、無原則な核軍拡競争の時代に入るのです。

 「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」鳥居民(草思社文庫)の記述は、私には、衝撃的でした。トルーマンンは、広島・長崎への原爆投下について、戦後、「百万人のアメリカ兵の生命を救うために、原爆を投下したのだ」と語りましたが、同書によると、当時のアメリカ軍の首脳は、誰も、百万人の犠牲者など考えていなかったし、そんな数字を挙げたこともなかったといいます。百万人の犠牲者という数字が登場したのは、戦後、原爆投下に対する批判や非難の声が高まってからの創作であり、原爆投下の前に、日本の降伏は確実な状況にあったのです。(スティムソン論文の百万人の数字が根拠のないものであったことは、この論文のゴーストライターを務めたマクジョージ・バンディに、NHK取材班が確認しています)。したがって、「百万人のアメリカ兵の生命を救うため…」という原爆投下の目的は虚偽説明であり、プロパガンダだったのです。

 また、原爆の使用決定の経緯に関する最も詳細な資料は、R・G・ヒューレットとO・E・アンダーソンの The New World Vol.1(1962年)であるとされています。この本は、アメリカ原子力委員会(AEC)が生まれるまでの前史(1939ー46年)を、AECの歴史諮問委員会の意を体して書いたものでその意味では官製の歴史であるが、トルーマン大統領をはじめ、原爆使用問題の最高意思決定に参加した人々の行動および意見がきわめて詳細に記録されているといいます。その中に、下記のようにあるのです。

 ”ソ連参戦に対するアメリカの考えは、次のような順序で変化していった。
(1) 本土上陸作戦の犠牲を減らすためにソ連参戦は絶対の要請である。ヤルタ協定は受け入れなければならない。
(2) ヨーロッパにおけるソ連の行動はヤルタ協定の価値に疑問を投げた。しかし、ソ連参戦は必要であるから忍耐すべきである。
(3) 原爆の完成によって、アメリカの立場は強化され、ソ連の参戦は不必要になった。
(4) ソ連を遠くまで進出させてはならない。できればソ連参戦の前に、戦争を終わらせるべきである。
(5) そのために、対日降伏勧告と原爆投下を急ぐべきである。前者にはソ連を参加させない。また後者はソ連に知らせない方がよい。 
(6) 早期降伏を確実にするため、原爆投下は一発より二発の方がよい。
 すべての外交的修辞を剥ぎ取れば、原爆使用に至るまでのアメリカ首脳部の本心は以上のようになる。それ以外にあり得ないというのが ”The New World ”の記録から引き出される結論である。

 だから私は、プーチン大統領を、”あなたこそが、核の使用をちらつかせていたではないか”と非難するだけでなく、現実に国際法に違反する原爆を投下し、今なお、その謝罪や補償をすることなく、「百万人のアメリカ兵の生命を救うために、原爆を投下したのだ」などと正当化し、あちこちに核兵器を配備しているアメリカに対して、方針転換を求めてほしいと思います。
 プーチン大統領の発言には問題があるとは思いますが、最大の問題は、現実に原爆を投下したアメリカが、その過ちを認め、謝罪や補償に向うことなく、今なおあちこちに核兵器を配備していることではないか、と私は思うのです。

 「悲劇の島・東チモール」(築地書館)の著者、島田昱郎教授の、”東チモールに自決権を!、東チモールに独立と平和を!”という訴えは、多くの人たちの努力によって、1999年8月30日に、国連主導の住民投票が実施され、2002年5月20日、実現されました。でも、東チモールに侵略したインドネシア、スハルト政権の犯罪行為やスハルト政権を支援したアメリカの対外政策の問題は、消えてなくなるわけではないと思います。だから私は、ウクライナ戦争が続く現在、停戦・和解のために、それを問いたいと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                        Ⅲ 悲劇の島

5 東チモール問題
 東チモール紛争については、紛争の起こった1975年8月から約1年間、スクラップにしておいた新聞記事の資料を参考にして、主に紛争の経過を客観的に述べておきました。
 インドネシアの強引な一方的な併合(76年7月)があってから、76年8月以降は約3年間余、東チモールに関する報道記事はなかった(注意してはいたが、私の目にとまらなかった)ように思います。
 3年ともなると、ますます忘れ去られていく島として、また、市販されている世界地図からチモール島の東半分に、(ポ)のマークが消えてしまい、いつのまに国連で承認されたのかと、不信と心痛の気持でした。
 そして、東チモールへ、インドネシアのジャカルタ経由とオーストラリアのダーウィン経由で、東チモールで知り合った方々に手紙を出してみましたが、返信は何もありませんでした。
 東チモールがインドネシアに併合されてから、3年後の79年(昭和54年)11月25日の新聞(朝日)に、”東チモール独立革命戦線の住民たち”の記事が掲載されていました。それには、──もう一つの難民、6万人が栄養失調、追い詰められる山岳生活──の見出しで、6万人余りが栄養失調に苦しみ、一部は飢餓の症状を示している。そして、”もう一つのカンボジア難民”という見方も出てきていると、悲惨な状況を報道していました。
 また、7日後の79年12月1日付朝日新聞「声」の欄に、前田透先生の「東チモールに救援を」の投降が掲載されていました。これは、ジャカルタ経由でチモールにから華僑とチモール人の二通の手紙が4年ぶりで届き、その手紙の内容を通して救援を訴えたものです。
 前田先生の「声」に掲載された投稿記事の一部を再録してみます。
「二人は太平洋戦争の時、子供で私になついていた。二人の手紙には、本紙記事『6万人が栄養失調』と、ほとんど同じ内容のことが書かれていた。”郷村の家は焼かれ、餓死体が山野に散乱、悪疫が流行し医療の方法がない。家族は四散し希望がない”と華僑は書き、”何でもいいから救援物資を司祭あてに送ってほしい”とチモール人は訴えている。戦争中は、3年以上も日本軍が占領していたのだ。日赤か政府機関で救援の窓口をつくってほしい。余剰米の緊急輸送など考えられないだろうか。カンボジアはここにもある」前田先生に届いたジャカルタ経由の手紙は、4年余りの歳月がかかっているようでした。そして、こういう手紙は出せなかったのであろうとも書いています。
 私の東チモールへの手紙が届いたか否かは、返信もないのでわかりません。東チモールに関する郵便物は、おそらくインドネシア軍の厳しい検閲があったのでしょう。まさに、これもインドネシア軍の人権侵害の一面でしょう。
 
 さらに、79年12月28日付新聞(朝日)に、──東チモールに笑顔なし、飢え、病む難民──の見出しで、敗れさった独立派ゲリラの難民たちを訪れた山口特派員(朝日)の記事が掲載されていました。
 ジャカルタでなく、ディリー(インドネシア)とありましたが、東チモールのディリー発信は、東チモール紛争後、初めてではなかったでしょうか。
 山口特派員は、東チモールの山岳地帯や海岸沿いの収容キャンプを回って、実態を見聞きした限りでは、死亡率といい、栄養失調状態といい、少なくとも救援が届くまでは、タイへ流出するカンボジア難民の状況に酷似していたと記しています。
 また、救援活動をしている国際赤十字の医者は、「東チモールの人に笑顔がみられない」という状態です。そして、インドネシア政府が背負いこんだ27番目の州(東チモール)の経済振興のくびきは、それだけに重かろう、と深刻に報道していました。
 難民の死亡率にもふれています。難民収容キャンプの死亡率は、1ヶ月平均1000人あたり28人の割合です。これは、タイのカンボジア難民キャンプ”サケオ”での収容当初の死亡率が、月平均1000人に25~30人だったから、カンボジア難民に匹敵する窮状であったことは明らかだ、と記されています。
 また、インドネシアの東チモール州政府の男子職員が難民の様相について、”その悲惨さに涙が止まらなかった。栄養失調でやせ細り、白眼を見せて死亡寸前の乳児を思わず母親から抱きとり、州都まで車で連れて帰った。ミルク不足のため、チョコレートを溶かして飲ませ一命をとりとめた”と山口特派員に語った記事も報道されていました。
 インドネシアが東チモールを併合して3年余り、山口特派員(朝日)の報道記事以外、私には、東チモールの情報は何一つ得られませんでした。おそらく、インドネシア軍とフレテリンの闘争は、くりかえし行われ、また、インドネシア軍のチモール住民に対する残虐行為はひどく、想像を絶するものであったことでしょう。
 その難民に対して、田中淳夫さんの著書のなかにも、”残ったのは何十万人もの飢餓に直面した難民だった。彼らは、その多くがインドネシアの作った収容所に入れられたが、なんら食料や医療の満足すべき配給はないままだった”と書かれています。
 チモール難民は、まさに”カンボジア難民”に匹敵するものでした。
 しばらく年月がたち1985年(昭和60年)の秋に、ポルトガル領東チモールへの渡航をともにした永田道紘さんから来便がありました。そのなかに、読売新聞(85年10月19日付)の東チモールの記事が入っていました。
 それは、──暗やみの東チモール、インドネシア併合から9年、情報途絶え現況はナゾ──の見出しで、鈴木雅明記者(読売)の報道記事です。
 ここで、”東チモール問題”の語句が登場してきました。
”東チモール問題”──と言っても、具体的に何を指すか知る人は日本では少ないだろう。インドネシアによって軍事的に併合されたこの島で、何が起きているのか。外部から閉ざされた東チモールに関する情報はあまりにも少なく、カンボジアやアフガニスタン問題の陰に隠れて、忘れ去られようとしている。との書きだしからはじまっていて、住民の大虐殺説も報道されていました。
 そして、鈴木記者はジャーナリストの訪問は厳しく制限されていて、東チモールに関する客観的情報は非常に乏しい。情報の信ぴょう性を立証する手段すら欠けている。もしかしたら、東チモールのなぞはこのまま葬り去られていくのかもしれない。と危機感を伝えていました。
 私は、75年東チモールでクーデターが起き、”東チモール紛争”から10年、インドネシア併合から9年、ここで、初めて、”東チモール問題”の語句が視覚を捉えたような気がします。”東チモール問題”とは、、おそらく、東チモール紛争から、国連の決議を無視して強引にすすめたインドネシア軍の東チモール侵攻、併合を、全部含めたものであろうと考えていました。
 鈴木記者は”東チモール問題”について、第一にインドネシア併合の合法性、第二に併合以来、インドネシア当局が行っているとされる住民への迫害があげられるとしています。
 そして、世界人権擁護組織”アムネスティ・インターナショナル”が、東チモールの人権侵害問題を重点課題にあげていることからも、いまでは、第二の面に関心があつまっている。と指摘していました。
 インドネシアの東チモール併合に、合法性があろうはずがありませんし、人権侵害の件とともに”東チモール問題”は、14年たった現在も問いかけられています。そして、これからも東チモール人に自決権、そして独立の日まで続けられていくことでしょう。
 東チモールがインドネシアに併合されてから、インドネシアの東チモールの住民に対する迫害の残酷さがひどいものであったことについては、これまで断片的ながら述べてきました。ここでは、数年間の新聞やその他の記事から、凝視・注目すべき事態を二、三とりあげ、熟考してみたいと思います。
 まず、1986年(昭和61年)9月11日付の新聞(読売)の──貧困脱しきれぬ東チモール、インドネシア併合満十年──の国際欄の記事です。
 これは、浜本良一特派員(読売)の西チモールからのルポです。インドネシア人でも東チモールに入るには軍の許可証が必要なのです。まして、日本人記者としては、とても東チモールに入れず、西チモールに行って東チモールの情報を集めてみたものです。
 このなかで、インドネシア政府の東チモールの開発費が途中で消えてしまう。つまり、役人の不正行為の件をあげています。これは、浜本特派員がカラスカラオ・東チモール州知事から聴取した、次のような東チモールの現状の問題点です。
① インドネシア政府の移住政策のまずさ。
② 中央政府から派遣されている役人の不正行為──開発予算の4割はディリーに届かないで役人の懐に消えてしまう。
③ すべてはインドネシア軍の主導で決定され、知事の権限はきわめて限られている。
 この三点を報道しています。
 私は、知事の不平でしょうが、インドネシア政府の移住政策を、気になる問題として受けとめています。
 インドネシアは、1億7000人余の人口をもち、とくにジャワ島に集中しています。それで、この集中人口を分散させるために、スマトラ、ボルネオのカリマンタン島のほかに東チモールに入植させているのです。
 また、この移住政策の問題に関連して、浜本特派員の次のような記事が目につきます。
”東チモールが過去四世紀以上、カトリック文化(人口の8割はキリスト教徒)だった事実を挙げ、併合前までイスラム教寺院などなかった。外部からのジャワ化と同時にイスラム化があらゆる面で微妙な影を投げかけている”の記事です。
 これは、明らかに移住政策に関連した宗教の変化とみることができるでしょう。また、私には、これは東チモールに強制的な信教の自由までおびやかし、ジャワ化をねらっている東チモール人へのインドネシア政府の意図の一面ともうかがえます。

 次に、田中淳夫さんの著書のⅣ章 ”知られざる虐殺の島”のなかに、人口問題について、注目すべき記事があります。それを再録してみます。
”人口に関して問題にすべき点に、インドネシア政府は東チモールにおいて産児制限を実施していることがある。これは世界銀行からの出資も受けている。だが、もともと東チモールは過疎地なのである。インドネシアは全土的に人口抑制策をとっているが、その一方で東チモールに移住者を増やしている。これは東チモールにおけるチモール人比率の減少を狙っているものと思われる。
 しかも、産児制限にはチモール人の意志を無視した避妊手術や避妊薬投与が行われている。特にデボ・プロベラという避妊注射のように、すでに海外では禁止されている有害な薬まで使われているのだ。その他、教育もインドネシア語が用いられ、チモール人のインドネシア化は急速に進められている”
 これも、明らかにインドネシア政府およびインドネシア軍の東チモール人への残虐的迫害でしょう。
 Ⅱ章の東チモールの言語のところでふれておきましたが、東チモール人は、ポルトガル植民地時代にポルトガル語の教育をうけましたが、あまりポルトガル語は話しません。土民語のテトウン語です。
 多種族、多宗教、多言語のインドネシアで、インドネシア語に統一するのは、まず無理でしょう。太平洋戦争中、侵略占領時の日本軍の強制的な日本語教育のやり方も、東チモール侵略のインドネシアに似ています。
 ”東チモール問題”の第二の人権侵害、迫害問題ですが、東チモール紛争以来、東チモール人60数万の人口のうち、未確認の情報ですが、すでに三分の一の20万人は犠牲になったといわれています。
 また、インドネシア政府の東チモール人への産児制限、ジャワ人の移住政策など、インドネシアの意図は何なのでしょうか。ひたすら東チモール人の減少を、テトウン語を話すチモール民族の減少を狙っている以外には、何もないのではないでしょうか。
 なお、インドネシアが、東チモールで産児制限に避妊薬を強制していることについて、古沢希代子さん(東京女子大講師)の寄稿が、89年7月21日の「朝日ジャーナル」に掲載されています。
 これは、インドネシア・スハルト大統領の強引な家族計画の一端なのですが、東チモールで集中的な産児制限政策を推し進められているとして、古沢さんはその概要と、人権無視の行為について紹介しています。
 家族計画に反対して、これは民族絶滅のための新たな手段だと声をあげた人たちが、逮捕されて拷問をうけたらしいことにもふれています。
 そして、なんと国連が、東チモール人の人権を無視しても、世界第五位の人口大国インドネシアが人口を減らすことの功績をたたえるということで、こともあろうにスハルト大統領に国連人口賞を贈ったのです。デクエヤル国連事務総長がスハルト大統領に、人口賞を授与している写真も、朝日ジャーナル誌に載っていました。
 世界の国連は、ここまで堕落してきたのでしょうか。私は権威を失った国連として、改めて一つの空しさを感じています。
 ”東チモール問題”。鈴木雅明記者(読売)の指摘した、第一にインドネシア併合の合法性、第二に併合以来、インドネシア当局が行った東チモール住民への迫害、人権の問題。
 私は、この二つの”東チモール問題”は、今後、国連で真剣に討議してもらいたいと思います。
”東チモールに自決権を”の闘争は今後も真剣に続けられていくことでしょう。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インドネシア、スハルト政権の東チモール侵略とアメリカ

2022年08月08日 | 国際・政治

 「悲劇の島・東チモール」(築地書館)の著者、島田昱郎教授は地質学者です。日本チモール協会の要請で訪れた東チモールで、その後クーデターが起き、インドネシアの軍事介入によって、悲劇の島となってしまったことに心を痛め、本書を執筆されたということに心を引かれました。地質学者が、”東チモールに自決権を!、東チモールに独立と平和を!”と、専門外の政治的訴えをされていることが、私には貴重に思えたのです。東チモールの理解に予断や偏見がないことは明らかであり、それは、東チモールに軍事介入したインドネシアやそのインドネシアのスハルト政権を支援したアメリカ、また、インドネシアを支持し、安保理の国連決議案に反対した日本が、国際法を尊重しない野蛮な国であることを示していると思います。
 インドネシア軍による東チモールの制圧は凄惨を極めたと言われていますが、そのインドネシア軍に多くの武器を供与したのはアメリカであり、インドネシアが東チモールに軍事介入し、ディリーを攻撃、全面侵攻した1975年12月7日が、アメリカのフォード大統領とキッシンジャー国務長官がインドネシアの公式訪問を終えた日であるというのも偶然とは思えません。また、キッシンジャーは、ジャカルタの記者に「米国は東チモールの独立革命戦線による独立は承認しないだろうし、この件ではインドネシアの立場を理解している」と答えたといいます(「アメリカの陰謀とヘンリー・キッシンジャー」集英社)。
 ここでもアメリカが、「世界一のならず者国家」であることがわかると想います。下記は、同書の「Ⅲ 悲劇の島」「2 東チモール紛争」全文です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       Ⅲ 悲劇の島
                     2 東チモール紛争
  ポルトガルの政変以前から、チモール人の独立への静かな闘争(独立への気概、願望を含めて)は続き、その準備が進められ高まっていました。というのは、私には渡航した頃、東チモールの政党のことはわかりませんでしたが、すでに三つの政党が発足していました。それは、チモール民主同盟(UTD)、東チモール独立革命戦線(FRETILIN)、チモール人民民主協会(APODETI)の三政党です。
 1974年に一緒に渡航した、当時日本チモール協会理事長の渋谷昇次さんと理事の和田敏明さんは、翌1975年11月発行の雑誌「講演」の”アジア最後の植民地──チモールをめぐって──”のなかで、三政党についてふれています。それを参考にしながら、三政党の内容と性格について要約しておきます。
チモール民主同盟(UTD)
 究極的には独立を望みますが、当初は自主能力がつくまで3年間ぐらいポルトガルとの関係を継続しつつ、漸進的独立を呼びかけた政党です。この党は、チモール人のなかでも富裕な農園主、高級官吏や、それに経済的にチモールを支配している中国系の華僑が多く、どちらかというと、保守的なもので構成されています。
東チモール独立革命戦線(フレテリン FRETILIN)
 ポルトガルの植民地主義を否定し、社会主義と民主主義による即時完全独立を主張する政党です。この党を構成しているのは、中流、下流階層の官吏や農民が主軸になっています。チモール人から広く支持を受けています。
チモール人民民主同盟( アポデティ APODETI)
 インドネシアとの併合を希望する党です。これは、インドネシアのスカルノ政権当時に左翼であった人たちが、チモール島に流されてきてチモール人と組んでインドネシアと合併しようとするものですが、きわめて少数派のグループです。

 1975年8月11日に、東チモールの首都ディリーでクーデターが起きました。クーデターを起こしたのはUTDなのです。どうして起こしたのでしょうか。
 1974年のポルトガル政変後、1975年になって当初UTDとフレテリンは非植民地化と独立問題について、一時連合を組んだといわれています。しかし、UTDはその後フレテリンとの連合を一方的に破棄してクーデターを起こしました。なぜでしょうか。寝返りしたその背後には、UTDが少数派のアポデティと、そしてインドネシアと組んだというのが、大方の分析です。
 その頃の新聞でも、”チモール独立の動き──インドネシア軍事介入説”の見出しで報道しています。8月11日のUTDのクーデターは、”チモールでクーデター。深刻な憂慮表明──ポルトガル大統領”の見出し(朝日新聞)で報道されました。
 私は、東チモールの紛争、内乱については、前年に平和なチモール、静かなチモールを訪れ、そして、わずかな期間でしたが地質調査で善良なチモールの人々と交流があっただけに、我が身のひきさかれるような想いで、身近な問題として新聞の記事をスクラップブックに整理し保存してあります。

 このスクラップした新聞記事を参考にして、私なりに綴ってみた東チモールの紛争の経過を、若干の私見を加えながら以下に記録することにします。
 まず三政党が十分な話し合い、独立への討議をしないまま、一方的にクーデターを起こしたのは、前にも記しましたがUTDです。しかも大きな裏切りです。この時点で、インドネシアの軍事介入があるのも確かでしょう。このクーデターが、東チモールの人々にとって、不幸な、そして新たな悲劇のはじまりになったわけです。
 UTDの過激派グループが、8月11日に警察署を襲撃して武器を奪取し、ディリーの中央警察署、通信センター、飛行場を占拠したことを、ポルトガル大統領補佐官が、チモールの政治抗争として確認しています。一方的にクーデターを起こしたUTDの過激派グループの鎮圧に、フレテリンが反撃しました。その頃の各新聞は、短い記事ですが、UTDとフレテリンの戦闘状況を日々報道しています。まさにチモール人同士の内乱です。
 当時、朝日新聞オーストラリア特派員の小林宏さんは「遠くて近い国オーストラリア」のなかで、東チモール紛争について、次のように記しています。
”75年8月10日夜に起きたクーデターから東チモールは間もなく内戦状態になった。紛争開始直後の8月13日に、東チモールへ行くべくダーウィン に飛んだ。同日夕、ダーウィン港に東チモールを脱出したポルトガル将兵の家族など272人を乗せた客船が着いた。事前の情報では3人の日本人が乗っているとのこと。確かに甲板上に3人のアジア人が私の方に手を振っている。しかし上陸してみると3人とも中国人。東チモールにいる華僑の子弟が集まる学校の教師だった。うち一人は台湾生まれで日本語がペラペラ。聞いてみると、内戦状態になっていてとても危ないという。
 
 紛争が起きる前、東チモールの首都ディリーはダーウィンに住むオーストラリア人のリゾートで、ダーウィンから週に三便もTAA機が飛んでいたが、紛争発生以後運航を停止。いずれも、そんな危ないところには飛べないと断られた。
 9月に入り即時独立派の革命戦線(フレテリン)が全土を掌握、インドネシア併合派をインドネシア領チモールに追い落とした。
 そこで10月1日再びダーウィンに飛んだ。一泊したあと、2日チャーヤー機で2時間ディリーへ行った。知り合いのフレテリン指導者が同行した。海岸に面して南欧風のホテルが並ぶ。市内の建物は白壁が多いが、いずれも弾のあとがあり、激しい内戦があったことを物語っていた。
 ポルトガル兵が皆逃げてしまったあとだったので、ワインがどっさり残っていて、5日間の滞在中ポルトガルワインをたっぷり味わうことができた。食事は肉がなく魚ばかり。内戦のためとインドネシア軍の海上封鎖で食糧危機が迫っていた”
 以上が小林さんの手記ですが、ダーウィンそして直接東チモールに渡航しての記録だけに、クーデター当初の様相の一端をうかがうことができると思います。
 
 東チモールの紛争は拡大し、略奪、死傷者が続出、戦闘は東チモール全土に及びました。この内乱はチモール人同士の争いだけに、非常に残念です。UTDとフレテリンの独立後の主導権争いともいえるでしょう。しかし、平和的に独立を進めていくことを願っていたフレテリンにとって、和解し統一する可能性をもぎとってしまったのは、インドネシア併合派と組んで、クーデターを起こしたUTDと決めつけざるを得ないでしょう。ともあれ、チモール人同士の主導権争い、チモール人の悲劇だけに悔やまれます。
 その後、8月末にはフレテリンが実質的に内戦を掌握しています。フレテリンはチモールのポルトガル当局とは交渉しないが、ポルトガル本国との間の交渉を通じて、独立を達成する方針を明らかにしたいと表明しています。この8月の内戦については、チモールから脱出した難民などによると、婦女子を含む2000人近くの住民が殺されたとの未確認情報もありますし、きわめて悲惨な内戦であったことを物語っています。
 フレテリンのホルタ書記長は、①チモールの将来について、ポルトガル本国政府との話し合いを強く希望する。②インドネシア政府をはじめ、交戦相手のUTDとチモールのインドネシア併合を望んでいるアポデティとも話し合いたい、との立場を明らかにしています。
 こうして東チモールの紛争は、ほぼ終了したかにみえましたが、隣国のインドネシアは微妙な動きをしていました。
 フレテリン、ホルタ書記長の主張、提案に対して、ポルトガル政府は、この提案に直接の言明は避けているようでした。また、インドネシア政府は反対し、チモール各政党間の話し合いもすすまないまま、再び武力紛争が再燃していったのです。インドネシア軍とフレテリンの争いも、国境近くで起こっています。インドネシア軍は海上封鎖し、ディリーに迫っていました。
 このような状況下で、フレテリンは内戦で混乱したチモール経済を立て直すため、10月初旬に臨時行政機関を設立しています。そして、フレテリンのゴンサルベス委員長は”現在東チモールにはポルトガルの行政機関は存在せず、しかも交渉が進行中なので、われわれは独立のための計画に着手しなければならない”と語っています。

 11月28日に、フレテリンはポルトガルからの一方的独立を宣言しました。ディリー市内の広場では、ポルトガル国旗が降ろされ、独立東チモールを象徴する新しい国旗が掲げられました。その新生チモールの国名は「東チモール民主共和国」です。
 ところが、29日に、UTDとアポデティは共同声明を発表し、チモールのインドネシア併合を宣言しました。
 これに対して、ポルトガル大統領は、フレテリンの独立宣言もUTD、アポデティのインドネシア併合宣言も認めないとの声明を発表しました。
 インドネシアのマリク外相は、12月1日に、東チモールのインドネシア併合を宣言したUTD、アポデティへの支援を公然と約束するとともに、”いまや紛争の決着は戦場でつける”と公言しました。これは、平和的話し合いにより解決を求めるとしていたポルトガル政府の建前に対抗して、名実ともに「力の対決」の姿勢を打ち出したわけです。
 とうとう12月7日のインドネシアの軍事介入、インドネシア軍のディリー攻撃、さらに全面侵攻に発展しました。これが東チモールの悲劇を、一層大きくしたのです。
 12月7日のインドネシアの陸、海、空からのディリーへの侵攻は残虐そのもので、手当たり次第に撃ち殺し、略奪、暴行、強姦、拷問は悲惨をきわめたといわれています。
 インドネシアは強硬姿勢で、東チモールの紛争決着は戦場でと、公然と力の対決を打ち出し、話し合いで平和的に独立を願っているフレテリンとの武力紛争はエスカレートし、泥沼化していきました。私は、その頃の戦闘の拡大、そしてチモール難民などに関する新聞の相次ぐ悲惨な記事、報道に憂慮の日々が続いたことを記憶しています。
 1975年11月11日に、NHKは「チモール内戦──独立への苦闘」と題する特別番組で、南太平洋の平和で、小さな島が悲惨な内戦にたたき込まれた状況を、19時30分から30分間報道しました。私は、紛争の前年に渡航し、生活した地だけに、この番組に注目し、変りはてたチモールの様相を心痛の想いで、画面を凝視していたことが想い出されます。インドネシア軍の全面侵攻の前でしたが、NHKはインドネシアはUTDの支持でチモールへの軍事介入は避けられないだろうと予測していました。
 インドネシア政府は、チモールへの軍事介入を”義勇軍”といっていますが、これは明白な侵攻、侵略です。インドネシアの卑劣な言い分です。
 オーストラリア、ポルトガル、中国、ソ連からのインドネシアの”武力侵略”に対する非難が相次いで論評されています。さらに、その頃の新聞には、チモールのフレテリンに対しては、背後にチモール住民の大きな支持があるだけに、”第二のベトナムか”の見出しがみられます。
 隣国の一つであるオーストラリアは、国連に対し、東チモール紛争の平和的解決と地元住民による自決の実現に対する努力と、また、東チモールに責任をもつポルトガルが国連現地調査団の派遣を求めるよう要請しました。
 このようなオーストラリアの出方に対して、前述した小林宏さんの「遠くて近い国オーストラリア」のなかで、次のような記事が注目されます。
”これに対するオーストラリアの出方は「二重外交」もいいところだった。国連で民族自決を唱えながら、内心では防備が手薄な北辺と海を挟んで赤い国ができるのは困る。東チモールの人口が60万人しかなく経済的自立が難しい。チモール問題でインドネシアを敵に回したくないことから、ひそかにインドネシアが併合することを願っていたようだ。
 オーストラリアがインドネシアに気を使うのは、インドネシアが1億4000万人とオーストラリアの十倍の人口をもち攻められたら困るととの潜在意識があるためである”
 これは主体性のないオーストラリア外交の一面を皮肉っているようにもみられます。
 ポルトガル政府は、海外植民地を独立させる政策の一環として、東チモールに、1978年をメドに独立を認める方向で進んでいたといわれています。ポルトガル政府は、インドネシアに対し、ポルトガル領チモールの軍事侵略を強く非難し、和平と独立問題の調停に努めましたが失敗に終わり、インドネシアとの外交関係を断絶しました。(12月8日)。
 これをうけて、インドネシア外務省のガンダムル欧州局長は、ギラン・ポルトガル代理大使に対し、ジャカルタのポルトガル大使館と領事部を即時閉鎖し、ポルトガル人職員は直ちに国外に退去するよう正式に通告しました。(12月9日)。
 また、ポルトガルは、国連に対し、インドネシアの軍事介入は、東チモールの平和と住民の自決権行使を侵す侵略行為であるとして、そして、現状(インドネシア軍とフレテリンの闘争中)では、ポルトガルにとって東チモールの平和回復と、交渉による植民地解放を保障する力はないと協議を求めていました。
 1975年12月に、国連はチモール問題について討議し、”インドネシアの軍事介入を深く遺憾とし、速やかな撤退を呼びかける”の議案が出されました。
 このとき、フレテリンのホルタ代表は、当事者として初めて登場し、インドネシアの”武力侵略”を激しく攻撃して注目を集めました。ホルタ代表は「東チモール民主共和国」外相兼情報相の肩書で発言し、安保理が、①インドネシアの武力侵略に対する強い非難、②東チモールからインドネシア軍の即時撤退要求、③国連事実調査団の現地派遣、などの措置をとらなければならない、と強い調子で要請しました。
 国連の議案は、圧倒的多数で採択されました。その表決結果は、賛成69、反対11、棄権38で、日本はインドネシア、フィリピン、マレーシアなどとともに反対の少数派に投票しています。この悲劇の問題に対して、日本のインドネシア支持の動きが目立ったといわれています。
 日本は、何故、反対の態度をとったのでしょうか。
 このときの国連安保理の決議案主文は次のようなものでした。
① すべての国が東チモールの領土保全、自決権を尊重する。
② インドネシアの軍隊は東チモールから速やかに撤退する。
③ 行政権を有するポルトガル政府は、東チモール住民の自決権行使を可能にするため、国連と協力する。
④ この決議を実施するため、国連事務総長がが特使を東チモールに派遣する。
 など、7項目の要請を行ったのです。なお、非同盟草案の主文第一、第二項に挙げられた、①ポルトガル政府の行政責任放棄、②インドネシア軍の介入に対する”遺憾の意思”表明などは、前文の末尾に回されたそうです。
 このため、インドネシアは東チモール撤退要求を避けることはできなかったものの、軍事介入に対する国際非難を、最小限に食い止めることに成功したわけです。このようなインドネシア有利の情勢をつくり出すため、最大の力となったのは、日本の強力な舞台裏工作だったといわれています。
 日本は国連安保理の決議案に対して、何故、反対の投票をしたのでしょうか。経済大国となった日本にとって、この汚点は優柔不断、驕れるものの不見識の態度として、歴史的に記録されていくことでしょう。
 1976年になり、インドネシア政府は、この国連安保理決議に対して、ポルトガルには東チモール非植民地化をすすめる資格はもはやないとして、インドネシア軍の東チモールからの即時撤退を拒否しました。
 そして、インドネシア政府はそればかりでなく、再びフレテリンに大規模な軍事攻勢をかけ、東チモール紛争の混乱をくりかえし続けました。東チモールの悲劇は続きます。
 インドネシアのマリク外相は、東チモール住民が全面的にインドネシア併合を望んでいると、勝手な見解をとばし、”国連が現地調査使節を派遣するとしても、これは、その結果、東チモール住民が国連の法的規制に従うことを意味しない”と述べ、事実上、国連の介入を全面的に否定しました。
 このような混乱が続くなかで、76年4月22日に、国連安保理は、現状掌握のため東チモールに派遣されていたウインスピア特使の報告を受けて開かれました。
 インドネシアの武力による東チモール併合の意図を激しく非難する「東チモール民主共和国」の支持派と、”進駐は東チモール人民の要請によるもの”と主張する併合賛成派のインドネシア政府の支持派とが対立しました。
 4月22日に、安保理で成立した東チモール決議の主文はつぎの通りです。
一、すべての国に東チモールの領土保全ならびに住民の不可分な自決権を尊重するよう呼びかける。
一、インドネシア政府に対し、これ以上遅れることなく、同地域からすべての兵力を撤退するよう呼びかける。
一、事務総長特使がその任務を継続、当事者との協議を続行するよう事務総長に対して要請する。
一、事務総長がこの決議案の履行を追求、できるだけ早く安保理に報告を提出するよう要請する。
一、すべての国および他の当事者に対し、平和的解決と非植民地化に向けて、全面的に協力するよう呼びかける。
一、引き続き状況に注目することを決定する。
 このような決議文のように、東チモール紛争問題でインドネシア軍の撤収案は採択されました。

 しかし、76年5月、インドネシア政府は、インドネシア軍の完全撤退後、国連の平和的解決努力のもとで、東チモール全政党、全住民による民族自決を主唱した国連決議を、完全に無視し、東チモール併合を強行しました。
 インドネシアのこの併合工作を、あわただしく強行する理由はなんであったのでしょうか。当時の消息筋によりますと、次のようなことがらが背景にあったものと報道されています。
① 国連の非力を見越しての既成事実優先策。
② 東チモールのフレテリン相手のゲリラ戦長期化による財政負担増。
③ 東チモール紛争で戦死したインドネシア”義勇兵”(侵略に動員された兵)の遺族やインドネシア軍内部の強硬派からの併合策の突き上げ
④ オーストラリアの労組などをはじめとする フレテリンへの支援ムードの高まり。など。
 さらに、インドネシア国会は、7月15日にポルトガル領東チモール併合に関する法案を可決しています。そして、東チモールはインドネシア共和国の27番目の州として、正式に併合を決めました。

 国連安保理は、75年12月にインドネシアが本格的に軍事介入して以来、二回にわたりインドネシア軍の撤兵、住民自決などを求める決議を採択しています。しかし、インドネシアは、これを事実上無視し、一方的な併合に踏みきったのです。
 その後、ポルトガル政府は、元植民地東チモールのインドネシア併合を正式に承認しています。
そして、東チモール紛争のさい、捕虜になったポルトガル兵と本国帰還を希望しているポルトガル人が、インドネシア赤十字を通じてポルトガル側に引き渡されています。また、原則的に同意したインドネシア併合の東チモールに、賠償金を支払うことにも同意しています。
 その当時の報道を整理してみて、私は、やむを得なかったかもしれませんが、ポルトガル政府のあまりの腰の弱さに、だらしなさを感じました。そして、今日までの東チモールの悲劇ついて改めて心の痛みを強く感じています。
 これまで東チモール紛争についての記録は、すでに書きとめておきましたように、クーデターの起ったとき(75年8月)から、約1年間(76年7月)、スクラップブックに整理していた紛争に関する新聞の記事と、それに、小林さんの著書「遠くて近い国オーストラリア」の記事の一部を再録しながら、多少の私見を加えて、紛争の経過を客観的に綴ってみたものです。
 いま、このように記述してみましたが、私は、ポルトガル、日本も腰があまりに弱く、インドネシアに無視された国連、権威を失った国連と、それに、事勿れ主義のように静観していた各国にも、一つの空しさを感じています。
 その後も(76年8月以降)、新聞の報道記事に注意して見ていましたが、約3年間ほど、東チモールに関する記事は目にとまらず、ほとんどなかったように思われます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アメリカCIAによるスカルノ政権転覆と大虐殺事件

2022年08月06日 | 国際・政治

 先日、米中央情報局(CIA)は、アフガニスタンで、アルカイダの指導者であるアイマン・ザワヒリ容疑者をドローンで攻撃し殺害したと発表しました。
 それに関して、アフガニスタンで政権を掌握したタリバン暫定政権のザビフラ・ムジャヒド報道官は、攻撃があったことを認め、「国際的な原則」に違反していると強く非難したといいます。ムジャヒド報道官の非難の詳細は知りませんが、私も、裁判なしに、それも他国の領土で、無人機を使い人を殺すことは、許されないことではないかと思います。
 アルカイダで思い出すのは、2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件です。アメリカは、それがアルカイダによるテロであるとして、対テロ戦争を宣言しました。そして、アフガニスタンからのアルカイダの追放と、指導者であるウサマ・ビン・ラディンの引き渡しに応じないとして、アメリカはアフガニスタンに軍を侵攻させ、タリバンを標的に爆撃をくり返しました。また、2011年5月、アルカイダの指導者であるウサマ・ビン・ラディンを、隣国パキスタンにおいて殺害しました。
 いずれも、きちんとした法的手続きに基づく国際的合意や裁判などはありませんでした。だから、事件の経緯や背景、アルカイダの主張や考え方は、まったくわからないままです。私は、何か口封じの人殺しのように思えました。国際社会はいまだ無法状態なのかと思ったのです。
 ウサマ・ビン・ラディンはサウジアラビア有数の富豪の一族に生まれ、大都市ジッタの一流大学で経済学や経営学を学んだと聞いています。中東では、ブッシュ大統領より、ウサマ・ビン・ラディンの方が人気があるという話も聞いたことがありました。だから、留学生を装った優秀な実行犯を、何人もアメリカの飛行訓練学校に送り出し、周到に準備を進めることができたのかも知れないと思いました。でも、大勢の人を巻き添えにする前代未聞の同時多発テロです。深い思いや緻密な計画がなければできることではないと思います。にもかかわらず、動機も、意図も、計画も、方法も、何も聞くことなく殺してしまいました。だから、後世に何の教訓も残すことができないと思います。第一、本当にウサマ・ビン・ラディンが命じたのかどうかさえもわかりません。だから私は、ウサマ・ビン・ラディンの殺害は、法を無視した野蛮な報復であると思いました。

 安倍晋三元首相が銃撃・殺害されて以降、山上容疑者の“宗教二世”としての過酷な生育環境が次第に明らかになり、世間では、彼に同情する声も多々聞かれるようになりました。そして、山上容疑者の減刑を求める署名運動もなされていると聞いています。無抵抗の人間を、背後から銃撃するなどということは、決して許されることではありませんが、詳しいことがわかると、いろいろ考えさせられる問題があるということだと思います。政治家と旧統一教会の関係が厳しく問われているのも、山上容疑者の“宗教二世”としての過酷な生育環境が次第に明らかになってきたからだと思います。

 だから、ウサマ・ビン・ラディン容疑者も、アイマン・ザワヒリ容疑者も、何も確かめないで殺してしまってはいけないと思います。何の教訓も引き出せず、憎しみだけが残って、負の連鎖が続くことになるからです。
 ウサマ・ビン・ラディン容疑者殺害の一報が伝えられた時、当時のオバマ大統領が、記者会見を開いて語ったのが、“Justice has been done(正義はなされた)”でした。驚きました。私には、受け入れ難い言葉でした。法に基づかない単なる報復が、どうして正義なのかと思ったのです。
 そういうアメリカには、チョムスキーの「アメリカは、世界一のならず者国家」という言葉があてはまると思います。

 そして、アメリカは、ドミノ理論に取りつかれて、インドネシアでも、国際法を無視した多くの過ちを犯しています。『CIA秘録』(上巻)によれば、CIAは、マシュミ党に選挙資金として、およそ百万ドルを注ぎ込んり、インドネシア全土の「反スカルノ軍司令官」に「武器およびその他の軍事援助」を提供したり、反乱軍将校の「決意と士気と団結を高める」取り組みを展開したり、ジャワ島の非共産主義ないし反共産主義分子を単独、あるいは、合同で行動を起こすよう刺激したりしたのです。
 それが、その後、以前に取り上げたインドネシア共産党やその支持者の大量虐殺事件につながっていくのです。インドネシア共産党書記長をはじめ、共産主義者やその支持者約50万が虐殺されたといいます。だから、「20世紀最大の虐殺の一つ」と言われるようですが、正確な数はわからず、なかには、300万人との説もあるようです。スカルノから政権を奪取したスハルトが関与した残虐な大虐殺は、1965年9月30日事件直後から1966年3月ごろまで、スマトラ、ジャワ、バリなどの各地で続いたということですが、インドネシア全土を巻き込んだ共産主義者一掃キャンペーンに、アメリカ政府と中央情報局(CIA)が関与し、当時の反共団体に活動資金を供与したり、CIAが作成した共産党幹部のリストをインドネシアの諜報機関に渡していたことを記録した公文書があるというのですから、大問題だと思います。

 下記は、「インドネシア9・30クーデターの謎を解く」千野境子(草思社)から、読み過ごすことのできない部分をいくつか抜粋したものです。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       第四章 アメリカの工作 

アイゼンハワーとダレスの時代
 ・・・
 アメリカは宗主国フランスのベトナムからの撤退(1954年7月)を受けて、ベトナムに介入した理由は、いわゆるドミノ理論に基づいていた。ドワイト・アイゼンハワー大統領はイギリスのサー・ウィンストン・チャーチル首相に宛てた1954年4月4日の書簡でこう述べている。
”もし彼ら(フランス)が最後まで面倒をみず、インドシナが共産主義者の手に渡れば、アジア太平洋における勢力分布はそれにつれて変動し、我々とあなたの世界戦略上の立場に与える究極の影響は恐るべきものになるでしょう。そして、それは、あなたにも私にも受け入れがたいことを承知しております。そうなればどうしたらタイ、フィリピン、ビルマ、インドネシアを共産主義者から守れるでしょうか。そういう事態にさせるわけにはいきません。(ヘンリー・キッシンジャー『外交』下巻)
 
 インドシナが共産化されれば、タイ、フィリピン、ビルマ、インドネシアと東南アジアがドミノ倒しのように、次々と共産化されてしまうと憂慮したのである。
 アイゼンハワー・チャーチル書簡は日本についても言及している。ドミノが東南アジア一帯に及べば、日本は非共産圏の市場や資源先を失い、いずれ共産主義を受け入れざるを得なくなるだろう。
 日本の共産化はアメリカにとって、東南アジアの共産化以上にあってはならないシナリオだった。朝鮮半島では38度線を境界線として南北朝鮮がにらみ合い、台湾海峡を挟んでも中国と台湾の緊張がつづいていた。冷戦の主舞台は、熱い戦争への危さという点ですでに欧州からアジアにに移っていた。
 ・・・

 バンドン会議への懸念
 やがてアメリカの眼は、インドシナ半島のラオスから南下して、東南アジア島嶼部のインドネシアにも光ってくる。
 それまでアメリカとインドネシアの関係は、とくに悪いものではなかった。インドネシアのオランダからの独立をめぐっても、アメリカはインドネシアを支持した。スカルノはこの頃はまで、後年のように反米主義を露わにはしていない。スカルノを貫いていたのは、インドネシアの独立であり民族主義だったといってよいだろう。
 もっともアイゼンハワー政権にとって、スカルノの闘争的で反植民地主義的言動は必ずしも好ましいものではなかった。そもそもアメリカはインドのネルー首相が強く主張する中立主義、ひいてはナショナリズムに反対だった。世界は東西対立、冷戦の時代だ。ネルー的な考え方がアジア諸国に伝染していくことは、結局は東側の共産主義を利することになると考えていたのである。
 だから1955年4月、インドネシアの高原の町バンドンで、独立間もない国々も含めて約30カ国の代表が集まり、アジア・アフリカ会議(AA会議、別名バンドン会議)が開かれることになると、アメリカは開催前から警戒心をつのらせた。
 最大の問題は、AA会議に社会主義・中国がアジアの一員として招かれたことだった。代表としてやってくる周恩来首相の外交的手腕はすでに鳴り響いていた。アメリカは会議が反植民地主義と反米主義の場と化してしまうことを恐れた。
 ・・・

 CIAの秘密工作
 しかしまさにその同じとき、アメリカは対スカルノ秘密工作に乗り出していた。インドネシアの左傾化を防ぐために、アイゼンハワー政権が「あらゆる実行可能な秘密手段」をCIAに許可したのは、AA会議開幕から19日後のことである。
 こちらはダレス弟の分担である。この秘密指令は2003年、秘密文章の解禁で明らかになった。(ティム・ワイナー『CIA秘録──その誕生から今日まで』上巻)。
 バンドン会議から5ヶ月後の1955年9月、インドネシアでは独立後初めての総選挙が行われた。国民の大多数はイスラム教徒であり、アメリカがスカルノの対抗軸になることを期待したイスラム改革派政党のマシュミ党は、第二章で書いたように、もう一つのイスラム政党ナフダトール・ウラマ(得票率18%)と票を分け合う形となり、国民党(同22%)に次ぐ第二党(同21%)に甘んじた。
 その一方、共産党(PKI)は予想以上の躍進を遂げ、第四党(同16%)となった。『CIA秘録』(上巻)によれば、CIAはこの選挙でマシュミ党に選挙資金として、およそ百万ドルを注ぎ込んだ。
 マシュミ党の不振とPKIの躍進に、西側世界とりわけアメリカが、このままではインドネシアの共産化は避けられないのではないかと不安の色を濃くしたことは想像に難くない。今や「あらゆる実行可能な秘密手段」の出番となったのだった。
 1956年から58年にかけてスマトラ島やスラウェシ(セレベス)島など外島(ジャワ島以外の総称)で起きた、地方管区の軍人たちによるスカルノ中央政府に対する相次ぐ反乱への支援がそれだる。
 アイゼンハワーがCIAに対して下したインドネシア政権転覆の命令には、三つの使命が書かれている。第一はインドネシア全土の「反スカルノ軍司令官」に「武器およびその他の軍事援助」を提供すること。第二にスマトラ島およびスラウェシ島にいる反乱軍将校の「決意と士気と団結を高める」こと。第三にジャワ島の政党「非共産主義ないし反共産主義分子を単独、あるいは、合同で行動を起こすよう刺激し」、支援することである『CIA秘録』(上巻)。
 これらのうち、1957年3月にスラウェシ島で東部インドネシア管轄の軍司令官フェンチェ・スムアル中佐が「プルメスタ(全面闘争)宣言」を発表、東部ジャワ地域を軍政下においた反乱は、一般にブルメスタと呼ばれる。その後、ブルメスタはインドネシア革命共和国政府に合流し、中央政府に抵抗を続けた。
 地方での反乱の背景には資源の偏在という問題が横たわっていた。インドネシアの天然資源はスマトラ島の石油をはじめ外島集中し、それを膨大な人口を抱えたジャワ島が消費するという構図だ。資源に恵まれながらジャワ島に収奪される形の外島は不満であり、今日でいう地方分離への要求が燻っていた。加えて外島ではマシュミ党が強かったから、ここにもスカルノとの対立の芽が潜んでいた。
 CIAはそこに手を伸ばしたのである。スマトラ島の反乱(1956年)に参加し、北スマトラでゲリラ戦を指揮したモールディン・シンボロン大佐に5万ドル相当のインドネシア通貨ルピアを与えたほか、各地で武器弾薬を供与した。支援の拠点には東南アジア最大の米軍基地があったフィリピンが使われた。
 東西ドイツ、南北朝鮮、南北ベトナムなどに見るように、米ソ冷戦体制は世界各地で分断国家を生んでいた。独立は支持したもののスカルノのその後の反米姿勢に手を焼いていたアメリカが、世界最大の島嶼国インドネシアにも分断方式を適用できないかと考えたとしても不思議ではない。おまけにスカルノのいない外島の方が資源の宝庫である。
 ・・・ブルメスタのほかに目立った反乱としては、1958年2月に西スマトラでアフマド・フセイン大佐ら軍人たちが、中央銀行総裁だったシャフルディン・ブラウィラネガラを首班とするインドネシア共和国革命政府(PRRI)の樹立を宣言している。これにはマシュミ党やインドネシア国民党の一部指導者も参加した。ダレス兄弟が歓迎したのはもちろんだった。
 ・・・
 しかし反乱支援の失敗を通して、インドネシア軍の実態をよりよく知ったことはアメリカにとってマイナスではなかった。この後、アメリカは自ら直接手を下すのではなく、インドネシア軍からのアメリカ留学や合同訓練の機会を増やし、親米・反共の軍人を養成することで軍を共産党の防波堤にする方針へと変更していったのである。これによって、軍人たちの親米・知米度もあがれば、アメリカとインドネシアの軍人同士の交流も深まる。
 1953年から65年までのあいだにアメリカで訓練を受けたインドネシア人将校は2800人にのぼる。陸軍将官では17~20パーセントがこの期間にアメリカで訓練を受けたとされ、またその多くは帰国すると、今度はインストラクターとして訓練する側に回ったのだった。
 また米国防総省によれば、1949年から61年までの13年間で2800万ドルだった軍事援助は、62年から65年までの4年間で約4000万ドルへと急増した。ジョンソン政権になって反スカルノの姿勢が強まり、経済援助が減額された後も軍事援助は変わらずつづいた。
 以上のような経緯を踏まえれば、9・30事件で問われている将軍評議会の存在というものは、一層現実味をおびてくるように思う。
 ・・・

 事件後の蛮行の黙認
 9・30事件で波に乗る事に成功したアメリカは、インドネシアを親中派スカルノ政権から親米派スハルト政権へと転換させることに成功した。
 しかし事件後にインドネシア各地で起きた悲惨な事態にアメリカは無力であった。もちろん、それはアメリカの責任というわけではない。とはいえ結果的に蛮行を黙認してしまったことは、アメリカの民主主義にとっても汚点となった言わざるを得ない。
 蛮行とは、CIA報告書『裏目に出たクーデター』が「1930年代のソ連の粛清、第二次世界大戦中のナチスの大量殺人、1950年代の毛沢東主義者の大量虐殺とともにニ十世紀に起きた最悪の大量殺人の一つ」と記した未曽有の混乱と悲劇が中部ジャワを中心として地方各地で起きたことである。
 ・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アメリカのプラット修正条項とキューバ革命、そしてウクライナ戦争

2022年08月02日 | 国際・政治

 日本で、ウクライナ戦争の停戦・和解の話がほとんど進んでいないことに、私は苛立ちを感じます。朝日新聞のオピニオン&フォーラムの声欄に、”「戦争反対」だけで本当にいいのか”と題する自営業の方(埼玉県67)の文章が出ていました。下記のような内容です。
「戦争反対」。この一般的な言葉がウクライナについても使われているが、違和感がある。「プーチン政権によるウクライナへの軍事侵攻反対」と明確に言うべきだ。「戦争反対」というだけなら、ウクライナが抵抗をやめれば戦争は終わり、プーチン政権の支配下に入る。それでもいいのか。識者や評論家の中にもそうした考えを述べる人がいるが、ウクライナはロシア国内へは攻撃していない。防戦だけである。それも「戦争」だからやめるべきなのだろうか。
 ロシアと隣接する日本は、防衛のあり方について再考を求められている。平和な生活を暴力で壊されないためにどうしたらよいのか。「外交努力」という人もいる。核を持ち武力で脅しをかける指導者がいる現実の中で、「外交努力」は可能なのだろうか。力自慢の強い人の隣で、ひ弱な私はその時点では対等に話ができない。人間の知恵ややさしい感情は、この不合理な現実とどのように対応したらよいのだろう。ただ「戦争反対」を唱えるだけでは、その議論を深められないのではないだろうか。
 その”思い”はとてもよくわかります。でも、私は、受け入れることができません。彼は、きっと朝日新聞の熱心な読者なのだろうと思います。だから、彼は毎日熱心に朝日新聞を読んで、このように考えるようになったのではないかと想像します。

 先日朝日新聞は、国際大学GLOCOM・山口真一准教授の文章を掲載しましたが、その中に、”…ロシアはマスメディアとSNSを駆使して、多言語でプロパガンダ発信を続けている。その結果、偽・誤情報が特に西側諸国以外のアジアやアフリカなどで急速に広まっていることが、英エコノミスト誌によって指摘されている。…”とありました。そうかも知れません。でも、ウクライナがロシアと戦争をしている現在、逆に、ゼレンスキー政権やゼレンスキー政権を支援している米英によって、プロパガンダが広められている可能性を考え、両者の言い分を確認しないようでは、真実は知り得ない、と私は思います。
 朝日新聞には、上記と似たような「声」が、以前にも投稿されていました。歌壇でも、ロシアを悪と決めつけた一方的な内容の歌をしばしば目にしています。
 私が問題だと思うのは、朝日新聞を含め、日本のメディアが、ロシア側の主張やロシア側の情報をきちんと取り上げ、西側諸国の主張や情報との乖離・溝を埋める努力をしていないと思われることです。また、ロシアがウクライナ侵攻に至る経緯や背景、そして、ウクライナ戦争を主導しているアメリカの問題を、ほとんど無視していることも、大きな問題だと思います。
 日々、ロシアを悪とし、プーチンを悪魔に仕立て上げるような、プロパガンダとしか思えないような報道がくり返されているので、上記のような「声」が、投降されることになったのだ、と私は思います。西側諸国で停戦・和解の話が進まないのは、そこに原因があると思います。
 でも現実は、決してそのような一方的なものではないと思います。どこにでもあり、過去にもくり返されてきたような対立だと思います。そして、その対立は、ロシアとウクライナの対立というよりは、ロシアとアメリカの対立だと思います。だから私は、逆に、ロシア側の情報を取り上げたり、過去のアメリカの戦争や対外政策の諸問題をふり返ったりしているのです。

 今回取り上げたのは、キューバ革命ですが、キューバでも、アメリカは見逃すことのできないことをやっています。
 下記の抜粋文にあるように、キューバ独立時、アメリカは「プラット修正」を一方的に決定し、キューバ国民の反対を押さえて、それをキューバ共和国憲法に組み入れさせ、強引に条約化したようです。
 「プラット修正条項」は、8条からなっているのですが、その中には、キューバ領土の第三国への割譲および財政能力を超える国家債務の禁止の条項があり、キューバの独立の保持および生命・財産および個人的自由を保護する能力のある政府を維持するため、アメリカの介入権を認める条項があり、海軍基地のアメリカへの売却ないし租借などを内容とする条項もあるのです。主権侵害は明らかです。
 だから、アメリカの戦争や対外政策の歴史は、民主主義や自由主義の否定であったと言えるように思います。そして、アメリカは、今なおそうした歴史を引き継いでいると思います。その一端は、2019年6月、トランプ前大統領が、「ノルドストリーム2」プロジェクトを阻止するため、制裁措置を持ち出し、ドイツに対しエネルギーでロシアに依存しないよう警告したことなどにもあらわれていると思います。
 アメリカの対外政策が、真に民主主義や自由主義に基づくものであれば、ウクライナ戦争はなかったと思います。また、停戦・和解がまったく進まないのも、アメリカの対外政策における民主主義が、機能していないからだ、と私は思います。

 下記は、「概説 ラテンアメリカ史」国本伊代(新評論)から「第八章 躍進と変革の時代」の「キューバ革命とカストロの選択」と「ゲリラ活動と左翼革命運動」を抜萃しました。アメリカという国の正体を、よりよく知るための手掛かりが得られるように思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                  第八章 躍進と変革の時代

 キューバ革命とカストロの選択
 キューバは1930年代の危機の時代に、ソルヘンシオ・バディスタ軍事独裁政権を誕生させていた。世界恐慌により砂糖モノカルチャー経済に大きな打撃を受けたキューバでは、1925年に選挙で選ばれたのち憲法を改正して独裁権力を握ったヘラルド・マチャド大統領に対する激しい反政府運動が展開され、労働者の大規模なストライキ攻勢によって1933年にマチャド政権が倒れ、バディスタ軍曹の率いる反乱軍と学生・知識人たちの支援によって民族主義を掲げたラモン・グラウ政権が誕生した。しかしグラウ政権は、「プラット修正条項」を含む1901年の憲法を廃止したため、アメリカのさまざまな圧力と干渉を受け、グラウ大統領を裏切りアメリカ側に寝返ったバディスタによって政権担当後わずか4ヶ月で倒された。
 1934年にF・D・ルーズベルト大統領がとった善隣外交政策の一環としてアメリカとキューバの間で結ばれた新条約により、1902年の独立以降アメリカの軍事介入権を認めてきた「プラット修正条項」が撤廃された。そしてアメリカの軍事介入に代わる秩序維持と政治の安定のために設置された国家警備隊を掌握したバディスタはキューバの実質的な支配者となり、1940年から1944年まで大統領の地位に就いた。さらに1952年の大統領選挙に立候補したが、敗北が予想された3月にバディスタはクーデターで政権を奪取し、やがて独裁権力を掌握した。バディスタによる政権掌握に反対したフィデル・カストロの率いる反乱勢力は1953年7月26日に東部オリエンテ州のモンカダ兵営を襲撃して失敗した。反乱勢力はカストロをはじめとして中間層の若者から成り、兵営を
占拠して武器を奪う計画であった。失敗した彼らは捕らえられたが、のちに脱獄してメキシコに渡り、ここで革命運動組織「7月26日運動」を結成した。そして1956年11月に武力蜂起を計画してキューバに向い、のちオリエンテ州の山岳地帯に潜入してゲリラ闘争を続けた。はじめ農村部の農民の支持を得たカストロらは、都市部における反政府勢力を結集していき、1959年1月1日にバディスタ政権打倒に成功した。
 この過程でみるキューバ革命は民族主義的社会改革を目指すものであった。しかし1959年5月に農地改革法が制定され、さまざまな改革が実施されはじめると、キューバに莫大な利権をもっていたアメリカはただちに反発した。そしてキューバの社会経済構造を根本的に変革する諸政策が明らかになるにつれて、キューバとアメリカの対立は急速に深刻化していった。キューバ砂糖の主要な輸入国であるアメリカが砂糖の輸入制限策をとると、1960年2月にキューバはソ連と貿易援助協定を結んでアメリカを牽制した。しかしその結果、キューバとアメリカの対立は決定的となり、またキューバ革命も社会主義路線へと決定的な方向転換をすることになった。アメリカはキューバ砂糖の輸入を停止し、キューバはそれに対してアメリカ企業の国有化を断行し、1961年1月に両国は外交関係を断絶した。同年4月、アメリカ政府の支援を受けた反革命軍がキューバに侵攻して失敗した。その直前にカストロはキューバが社会主義革命を目指すことを宣言し、やがてソ連をはじめとする社会主義国との関係を強めていった。1962年10月にソ連のミサイル基地建設をめぐる「ミサイル危機」が発生し、世界は核戦争の一歩手前まで追い詰められた。
 この後キューバ革命は、ソ連に大きく依存しながらも根本的な社会・経済改革を進め、革命の制度化と経済の再建を目指した。この間ソ連および東欧社会主義国との関係を深めたキューバは、南北アメリカ大陸では孤立したが、同時にラテンアメリカ諸国でゲリラによる武装蜂起を支援する政策をとった。1960年代から1970年代の軍事政権時代に各国の左翼勢力は厳しい弾圧を受け、指導者たちは国外へ亡命したが、彼らを受け入れたのもキューバであった。また各国で軍事政権に反対し社会革命を目指す左翼ゲリラ活動がこの時期には活発となったが、それを支援しようとしたのもキューバであった。このようなキューバの積極的な姿勢に対して、アメリカは経済・技術・軍事援助を強化してラテンアメリカ諸国政府に左翼ゲリラ活動のせん滅を支援し、社会経済開発を促進させた。ケネディ大統領時代に創設された「進歩のための同盟」は、ラテンアメリカ諸国の社会経済開発を促して第二のキューバの出現を防止するために策定された政策であり、農地改革、教育と医療・公衆衛生の普及、技術援助など多面的な指導・援助の政策が展開された。
 一方キューバ革命は、キューバ共産党の一党独裁政権の下で徹底した社会・経済改革を実施した。外国資本を接収し、土地所有者と資本家を追放し、人種・性別による社会的差別をなくし、社会保障政策を実現した。教育・医療などの基本的な社会サービスは無料となり、住宅・電気・水道・交通などの料金は低く設定され、基礎的生活物資については配給制度がとられ、国民は平等で公正な社会生活を保障された。しかし砂糖生産に依存するモノカルチャー経済を脱却できず、ソ連と東欧諸国の援助に大きく依存してきたキューバ経済は国民の生活を平等にしたが、豊かにすることはできなかった。しかもソ連と東欧で社会主義経済の破綻が明らかになった1980年代後半には、キューバ経済も困窮の度合を深めた。革命キューバはこれまでに国内の反革命分子を国外へ追放してきたが、革命後30年間に約100万のキューバ人が祖国をあとにしたと推定されている。

 ゲリラ活動と左翼革命運動
 1959年のキューバ革命の出現から1979年のニカラグア革命の成功までの20年間を、ラテンアメリカ現代史では「ゲリラ闘争の時代」と呼ぶことができる。キューバ革命の成功に刺激され、またのちにはカストロの革命戦略による支援を受けて、ラテンアメリカ諸国で社会主義革命を目指す左翼ゲリラ活動が1960年代から1970年代にかけて活発となったからである。ゲリラ運動家たちが主張したラテンアメリカ革命は必然であるとする展望は、支配層の腐敗、外国資本による支配、絶望的な度合にまで拡大した貧富の格差などが厳然と存在するラテンアメリカ諸国で社会正義と公平を求める人々に一つの希望を与えた。そしてカストロの率いるキューバ革命の成功は、何にもまして大陸規模での革命を目指す彼らにとっては大きな支えであった。さらに当時進展していたベトナム戦争は、ラテンアメリカにおいてもベトナム人民の反米闘争に呼応した革命蜂起を促した。これらの左翼革命勢力の最も大きな支えとなった革命キューバは、国内に「ラテンアメリカ連帯組織」を設置し、さまざまな国の革命勢力が一同に会する場を提供しるゲリラ勢力の盟主となった。またキューバは各国のゲリラ組織に武器弾薬を提供して、その活動を支援した。
 キューバが支援したゲリラ闘争は、はじめフランス人左翼作家レジス・ドブレの革命戦術である農村部に革命の拠点を作る戦法がとられた。1959年には早くも、パラグアイ、アルゼンチン、ドミニカ共和国の農村に革命拠点がつくられた。その後1960年代に入ると、ベネズエラ、コロンビア、グアテマラ、エクアドル、ペルー、ボリビア、ブラジルに同様の拠点がつくられ、ゲリラ活動が展開された。ゲリラ組織は学生と中間層出身の知識人らを数多く集め、優れたゲリラ組織の指導者たちを生んだ。ブラジルのゲリラ闘争理論家として名を知られたカルロス・マリゲーラやコロンビアのカストロ派民族解放軍のゲリラ組織に参加し農民問題にとり組んだカトリック教会司祭出身のカミロ・トーレスは、そのようなゲリラ活動の指導者であった。またキューバ革命の指導者の一人であったチェ・ゲバラはボリビアの山間部にゲリラ戦工作のために潜入して、1967年にボリビア軍のゲリラ闘争部隊との戦闘で戦死した。しかしこれらの農村革命拠点方式によるゲリラ闘争は失敗した。その重要な要因は、ゲリラ側の軍事力が不十分であったこと、国により多様な農村事情を無視したこと、そして各国の軍部が備えていた近代装備と技術およびアメリカ軍部仕込みの反ゲリラ闘争戦術が成功したことである。アメリカ軍はラテンアメリカ諸国の軍部に反ゲリラ戦術を教え込んだだけでなく、農村部の開発に軍部のもつ技術と人材を提供する新しい開発戦略を展開させ、それらの政策を進歩のための同盟や平和部隊などの援助政策と連携させて、ゲリラ活動と農民を分断し、農村を舞台にしたゲリラ活動を崩壊させた。
 はじめゲリラ闘争は主として農村部が舞台であったが、農村部で失敗したゲリラ組織はやがてブラジル、ウルグアイおよびアルゼンチンでは都市ゲリラとして活動しはじめた。都市部に組織の基盤をつくりあげたゲリラ勢力は、激しい破壊的なゲリラ活動を展開し、これら三国の都市生活に暗い閉鎖的な時代をもたらした。各国とも軍部が政治・司法・経済・教育・文化などあらゆる分野を統括し、弾圧した。ブラジルでは、数多くのゲリラ・グループが組織されたが、1969年9月に起こったアメリカ大使の誘拐事件が広く報道されたことによって、ゲリラ勢力の存在が国民に知られることなった。ウルグアイでは1968年から1972年にかけて、トゥパマロスと称した都市ゲリラ組織がテロ・誘拐・要人の暗殺を繰り広げ、これに対して軍部は国内宣戦布告を出し、2800人におよぶゲリラを逮捕し、指導者層を処刑して、ゲリラ活動を鎮圧した。アルゼンチンでは1969年から1976年にかけてモントネロスやトロツッキー人民革命軍という名のゲリラ・グループによるテロが横行し、多くの人的・物質的被害を出した。
 農村ゲリラも都市ゲリラも、その指導層は大学教育を受けた中間層出身の若者たちで、彼らは既存の支配体制をアメリカ帝国主義の手先であるとみなし、国境を越えた連帯意識を強く有していた。しかし彼らはほとんどの国で、農村でも都市においても、大衆蜂起を促すことはできなかった。むしろ危機感を強めた軍部による抑圧的な強権支配を促すことになった。1960年代から1970年代にかけてラテンアメリカ諸国に出現した軍部支配の政治は、一部ではこれら世界の冷戦構造と連帯した左翼ゲリラ革命軍運動に対する対応でもあった。それにもかかわらず多くの地域でゲリラ勢力は残存し、ゲリラ活動は続いた。その理由は、1960年代以降のラテンアメリカのゲリラ活動が米ソの冷戦構造の一部であったこと以上に、この地域の抱える問題から発生していたことにあった。とくに中央アメリカでは1961年に結成されたサンディニスタ民族解放戦線をはじめとして、エルサルバドルでも、グアテマラでも、ゲリラ組織が結成されたが、この地域ではコスタリカを除くと寡頭支配勢力が長期にわたって政治と経済を支配し続け、ゲリラ活動による権力への挑戦以外に社会改革の道はほとんどなかったのである。しかしのちにとりあげるように、ラテンアメリカのこれらの反体制ゲリラ活動が唯一成功したのは、1979年ニカラグア革命であった。ニカラグア革命が成功した背景には、ニカラグア独自の歴史的条件があった。1920年代に反米闘争を展開したサンディニッスタ運動の存在である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする