かつて日本は、大本営発表に導かれて、悲惨な戦争を続けました。でも、その大本営発表は、戦後、「嘘の代名詞」と言われるような発表でした。例えば、「台湾沖航空戦」における戦果の発表があります。実際は、撃沈した敵艦は一隻もなく、空母二隻にかすり傷らしきものを与え、巡洋艦二隻を大破させたにすぎなかっただけなのに、”撃沈撃破したものは、航空母艦(空母)が十九隻、戦艦が四隻、その他が二十二隻、合計四十五隻”などと、アメリカ海軍の主力を全滅させたかのようなでたらめな大戦果が発表されたりしたのです。
現在私は、ウクライナ戦争に関する報道が、それに似た状況になっているように思います。大本営にあたるのが、アメリカのバイデン政権であり、ウクライナのゼレンスキー政権です。いつもは自民党政権に批判的な朝日新聞でさえも、アメリカやウクライナからもたらされる報道内容には、何の疑いも差し挟むことなく、そのまま、日本で報道し続けているように思います。大本営発表が真実に基づいていれば、日本の戦争はもっとずっと早く終わっていたのではないかと思います。だから、ウクライナ戦争についても、世界中で客観的事実がきちんと報道されれば、停戦・和解の話し合いが進むはずだと思います。でも現状は、ロシア側の情報はもちろん、ロシアのウクライナ侵攻の経緯や背景、また、その実態がほとんど報道されていないと思います。
例えば、ブチャの虐殺の報道にも、いくつかの疑問があります。
ウクライナはかつてソ連の一部です。独立したとはいえ、今なおロシアとの関係は深いと思います。ロシアを憎んでいる人たちばかりではないと思います。だから、平和に暮らしていたウクライナの人たちの多くは、ロシアとの戦争を望んではいなかったと思います。にもかかわらず、ゼレンスキー大統領は、ロシアのウクライナ侵攻直後、18歳から60歳の男性を出国禁止にし、民間人に武器を取って抵抗するよう指示しました。でも、軍事力や経済力でロシアに劣るウクライナの民間人が、ロシアを敵とし、武器を取って戦うことを決断することは、簡単にできることではないと思います。だから、ゼレンスキー大統領の方針に同意できない人たちや、断固反対する人たちは、少なくなかったはずだと思います。
でも、ロシアの反戦運動はくり返し報道されましたが、ウクライナの反戦の動きが報道されることは、ほとんどなかったように思います。
ブチャの虐殺の報道がくり返されているとき、私は、もしかしたら戦争に反対する親ロ派の人たちが、ウクライナ軍によって殺された可能性があるのではないかと疑いました。そして、いろいろな情報に当たっているなかで、”「ブチャの大虐殺」をめぐる矛盾 (https://www.kla.tv/22232)”があることを知りました。やっぱりそうだったか、と思いました。
戦争に虐殺はつきものですが、様々な虐殺事件をふり返れば、虐殺が起きるのは、戦友が殺されたリ、長く苦しい戦いが続いて、憎しみが深くなり、心が荒れ、冷静な行動が出来なくなった時であることが、ほとんどであったように思います。
だから、侵攻直後の虐殺や、自ら撤退したのに、虐殺が疑われる死体を、路上に放置して撤退したということが、私には謎でした。その謎が、スイスやドイツに本拠をおく独立系メディアKLA.TV(”「ブチャの大虐殺」をめぐる矛盾” https://www.kla.tv/22232)の報道で、解けたように思いました。でも、日本のメディアは、そうした報道には無関心のようです。
また、スコット・リッター元国連大量破壊兵器査察官が、ウクライナ危機に関するイベントに参加し、”ウクライナの首都キーウ(キエフ)近郊のブチャで起こった虐殺はウクライナ軍による犯行である”と発言したという情報もあります。
リッター氏によると、”ロシア軍がブチャに展開していたのは直近の数週間で、地元住民との関係は良好だったという。その証拠に、ウクライナ警察は4月1日にブチャへ向かう際、ロシア軍への協力者を摘発して殲滅すると警告していた。リッター氏はイベントの中で次のように発言した。
ウクライナ側はこのように発言していました。仮にロシア軍に協力すれば、待っているのは死だと。政府高官がこうした発言を行った映像は残っています。その高官はブチャの市民に対し、SNSで次のように呼びかけました。「自宅にいてください、国家警察が摘発を行います。パニックにならずに自宅にいてください」と。ウクライナの懲罰部隊は路上で市民に発砲し、ロシア軍に協力していた市民の自宅に押し入るなどしていたという。
我々のもとにはウクライナ警察が、具体的にはアゾフのグループが「サファリ」(狩猟)を始めると豪語している動画が残っています。ブチャに展開したウクライナ警察特殊部隊の名称がまさに「サファリ」でした。そして彼らはサファリを実行し、ロシア軍への協力者を摘発したのです。摘発とは殺害を意味します。拘束するのではなく殺害です。そして彼らはこれを実行しています。その後、彼らは市内を練り歩き、遺体の撮影を行い、ロシア人がやったのだと豪語してるのです。
またリッター氏は遺体に白い布が結われていることに着目した。これは市民がロシア軍に投降したことを示しているという。また、遺体近くには緑色の箱が映されているケースがあるが、これはロシア軍による食料供給の箱とされている。さらに、メキシコのジャーナリストが4月1日、現地に到着して撮影していたところ、まだ鮮血が流れていたと証言している。これは市民が撮影直前に殺害されたことを意味している。こうした状況を踏まえ、ブチャで起こった虐殺の真相はウクライナ国家警察による親露派住民の粛清だとリッター氏は結論付けている。”といいます。
また、”ケルソン地方で、「オデッサ旅団」が結成。兵士の大多数は解放された地域とまだウクライナ支配地域からのウクライナ人。西側メディアでは絶対に触れない不都合な事実。”の動画、「ここは我々の土地だ。ナチのクズどもを一掃する」(https://twitter.com/littlemayo/status/1551760824720433153)も、真実だろうと思います。
先日(4月17日)ゼレンスキー大統領は、ベネディクトワ検事総長と、情報機関・保安局(SBU)のバカノフ長官を更迭したとの報道がありました。”東部ハリコフ州や南部ヘルソン州のロシア軍に制圧された地域で検察とSBUの職員らが職務を続けていることを、ロシアへの協力とみなし、国家反逆罪としてトップに引責させた”ということです。ゼレンスキー政権内部にも、いろいろな問題があることがわかります。だから、そうした問題に目を向け、客観的な報道に努めれば、停戦・和解の道は開けるのではないかと思います。でも、そうした問題に立ち入ることなく、アメリカやウクライナからもたらされる情報を、そのまま流すメディアは、真実を国民に伝える責任を放棄し、停戦・和解のための努力をしていないように思えます。
そして何より、日本のメディアは、ウクライナ戦争を主導するアメリカの意図を、覆い隠すような報道を続けていると思います。
バイデン大統領は、事あるごとに「民主主義と専制主義の戦い」を強調し、ウクライナ戦争でも、その主張をくり返しました。だから、多くの人たちは、バイデン政権の対外政策の基調は、専制主義との戦いであると受けとめているのではないかと思います。
でも、アメリカの戦争や他国に対する武力行使の過去をふり返れば、アメリカの対外政策は、まさに民主主義を蹂躙するものであり、専制主義であったことがわかると思います。アメリカの民主主義は、アメリカ国内だけのものだと言えるのです。アメリカは自国の民主主義を、世界中の人々に見せ付けつつ、他国に対しては、非民主的で、専制主義的な政策を続けているのです。
下記は、「概説 ラテンアメリカ史」国本伊代(新評論)から一部抜萃したのですが、アメリカが非民主的で、専制的な対外政策を続けていることがわかります。
例えば、”米ソの冷戦関係が進展するにつれてアメリカの反共主義は強化の一途をたどり、戦時中に形成された米州の協調体制はアメリカの強力な反共政策による米州反共防衛体制の強化へと転じた”という記述があり、”グアテマラ革命では、共産主義革命であるとみなしたアメリカのCIA(中央情報局)の工作を通じてグアテマラ国内に反革命勢力を組織し、社会改革と取り組むアルペンス政権(1950~54)を転覆させて、社会革命を挫折させた。”とあります。すでに、いくつかの国の例を取りあげてきましたが、アメリカはこのような民主主義を蹂躙する政策をくり返してきたのです。
だから、米国務省のビクトリア・ヌーランド(オバマ大統領上級補佐官)が講演で、”我々は、ウクライナの繁栄、安全、民主主義を保障するため(現実は政権転覆)に50億ドル以上を投資してきた”と語った事実、また、その他のいくつかの情報を考え合わせると、2014年のウクライナのマイダン革命(ヤヌコービッチ政権転覆)が、アメリカのCIA(中央情報局)の工作によるものだったのではないかと思います。そしてそれは、ロシアを孤立化させ、弱体化させるためのウクライナ戦争の準備であったのではないかと思います。
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第八章 躍進と変革の時代
3 冷戦体制下の革命運動
冷戦とラテンアメリカ
第二次世界大戦の終結は、米ソ対立の冷戦期のはじまりとなった。アメリカの最大の関心はヨーロッパとアジアの復興へと転じ、ラテンアメリカ政策は二次的事項となった。とくに米ソの冷戦関係が進展するにつれてアメリカの反共主義は強化の一途をたどり、戦時中に形成された米州の協調体制はアメリカの強力な反共政策による米州反共防衛体制の強化へと転じた。この過程は、国連の指導下で地域機構として発足した米州機構を中心にして展開された。
米州機構は、米州諸国間の政治・経済・社会・文化における協力関係を緊密化する目的を掲げた米州機構憲章に基づいて設置されたアメリカ大陸の地域機構である。同憲章は1948年にボゴタで開催された第九回米州諸国会議で調印され、1951年に発効した。このボゴタ会議は、ラテンアメリカにとって対米関係の新たな転換点となった。集団安全保障と協調関係の要となる米州機構が設立されたというだけでなく、急速に進展した米ソの冷戦において米州機構がアメリカ大陸の反共体制の砦となったからである。同時に米州機構の出現は、ラテンアメリカ諸国の戦後政治の方向を決定したからでもあった。とくに1950年代から1960年代にかけてラテンアメリカ諸国に出現した革命運動と急進的な革新政権は、アメリカ合衆国主導による米州機構の決定を通じて孤立させられ、封じ込めらた。その典型的な例は、1950年代のグアテマラ革命の挫折であり、1959年に出現したフィデル・カストロの率いるキューバ革命がたどった道であり、1965年に挫折したドミニカ革命であった。
例えばグアテマラ革命では、共産主義革命であるとみなしたアメリカのCIA(中央情報局)の工作を通じてグアテマラ国内に反革命勢力を組織し、社会改革と取り組むアルペンス政権(1950~54)を転覆させて、社会革命を挫折させた。グアテマラは、20世紀初頭から中米にバナナ・プランテーション経営を目指して進出してきたアメリカ資本のユナイテッド・フルーツ社に大規模な土地所有を認めた国のひとつであった。1931年から政権を握ってきたウピコ大統領が1944年にゼネストを含む激しい反政府運動によって倒れ、翌1945年に改革派のファン・ホセ・アレバロが社会改革を公約し国民の圧倒的多数の支持を得て大統領に選出された。アレバロ政権はインディオの国民統合、教育改革、社会保障制度の整備など一連の社会改革と取り組んだ。アレバロ政権の改革の政治は、左翼勢力と軍部の支持を受けて1950年の大統領選挙で選出されたアルベンス政権に受け継がれた。アルベンス政権は1952年に農地改革法を制定して大土地所有制の解体と小規模自作農の創設を目指したが、可耕地の約半分を所有していた「バナナ帝国」とも呼ばれたユナイテッド・フルーツ社とまっ正面から対立することになった。アメリカはこのような農地改革を含む急進的な社会改革を目指したアルベンス政権に共産主義政権のレッテルを張り、CIAが組織し援助する反革命勢力を通じて1954年にアルペンス政権を倒した。
キューバ革命の展開過程は後で詳しくとりあげるが、グアテマラ革命と同様に農地改革法を制定して社会構造の根本的改革に着手したカストロ革命政権もまたアメリカ資本の利害とまっ正面から対立することになった。アメリカとの妥協を許さなかったカストロら革命指導者たちは、ソ連と貿易援助協定を結ぶことによってキューバ革命を社会主義革命へと転じさせる第一歩を選択した。やがてキューバは「アメリカ帝国主義」との闘争を呼びかけた「バナナ宣言」を出し、ラテンアメリカ諸国の急進的左翼勢力による革命運動を支援して、アメリカとの決定的な対立関係に入った。これに対してアメリカは1962年の第八回米州外相会議でキューバを米州機構から除名決議し、さらに1964年の第九回外相会議で対キューバ外交・貿易関係の断絶の決議を採択して、アメリカ大陸におけるキューバの孤立化に成功した。しかしキューバはソ連の援助と東ヨーロッパ社会主義諸国との関係強化によって、アメリカと対決し続けた。
ドミニカ共和国では、1930年から独裁政権を維持してきたトルヒーリョ大統領が1961年に暗殺された後、1962年に行われた30年振りの選挙でドミニカ革命党から立候補したファン・ボッシュが大統領に選出された。しかし左翼両派の激しい対立の中で退陣に追い込まれ、その後国内は民主主義を求める国民運動が展開され、1965年の大統領選挙に絡んだこの左右両派の対立は内戦へと発展した。アメリカは米州機構と国連を動かし、米州平和軍を派遣して内戦を鎮圧した。こうしてアメリカは、ドミニカ共和国の場合には内戦の段階で左翼勢力の排除に成功して、第二のキューバ化を防いだ。このドミニカ革命と同様に、アメリカの積極的な政策が根本的な社会変革を目指す急進的な革新政権を穏健な改革派に転じさせるのに成功したのが、1952年に革命政権が樹立されたボリビアであった。
ボリビア革命
1952年にボリビアでは、民族主義的革命運動党(MNR)が政権を武力で奪取した。MNRは、ボリビアがチャコ戦争(1932~35)でパラグァイに敗れた1930年代末に高まった民族主義運動を背景にして、近代化と変革を求めた若手革新勢力によって1941年に結成された政党である。MNRに結集した若手革新勢力は、その結成以前に、重要な輸出産品の一つであった錫の開発を独占してきた三大錫財閥およびそれと結託する外国資本に反対して民族主義的政策を追求したヘルマン・ブッシュ軍事政権(1937~39)に閣僚を送り込んだ経験を有しており、その民族主義的な政策立案に貢献していた。政党を結成したのちの1942年に多数の労働者が軍部に虐殺されたカタビ錫鉱山のストライキ事件を契機として、MNRは錫鉱山労働者の組織化を推進した。翌1943年に革新派青年将校団を率いて政権を奪取したピリャロエル政権(1943~46)に協力したMNRは、党の指導者層を閣僚に送り込んだ。しかし1946年のクーデターでピリャロエル政権が倒れると、6年間MNRの指導者層は亡命するか地下にもぐらねばならなかった。しかし1950年の大統領選挙では国外亡命中であったビクトル・パス・エステンソーロとエルナン・シーレス・スワソをそれぞれ大統領と副大統領候補に立ててMNRは、選挙で勝利を収めた。これに対して軍部はクーデターを決行して実権を掌握した。その結果1952年4月、MNR、鉱山労働者、一般市民、国家警察部隊の連合による武装蜂起が成功して、ここにMNR革命政権が成立したのである。
MNR政権は、パス・エステンソーロ(任期1952~56、1960~64)とシーレス・スワソ(任期1956~60)の二人の大統領の下で12年間にわたって社会改革の政治を遂行した。文盲を含めた男女に選挙権を与えた普通選挙法が制定され、伝統的な大土地所有制を解体して土地なき農民に土地を与えると同時に東部低地の広大な未開地への入植と農業開発を促す東部開発計画を含んだ農地改革法が制定され、三大錫財閥の解体と錫鉱山の国有化が実施された。またMNR政府は、義務教育と公用語としてのスペイン語の普及に力を注いで国民の統合を進めると同時に、アンデス高地と東部平原という地形的に分断されている国土の統合を図った。12年間におよんだMNR政権による改革の実績は「ボリビア革命」と呼ばれているが、独立以来長い間停滞してきたこの国の近代化を大きく推進した12年間となった。
この間ボリビア革命を支えたのがアメリカの援助であった。革命政権の樹立と急進的な革命政策によってボリビアが混乱状態に陥ると、アメリカはボリビア革命が共産主義化することを懸念して、経済・社会開発のための資金と技術の援助を拡大した。しかしアメリカの対ボリビア援助は突然この時期にはじまったわけではない。1940年代はじめの第二次世界大戦時に、アメリカは西半球の戦略構想の中でボリビアを重要な戦略物資の供給国とみなしていた。その結果、鉱物資源の開発と増産を含むボリビアの経済社会開発計画がアメリカの主導で作成され、それに基づく援助政策がただちに開始された。例えばボリビア近代化の要ともいうべきアンデス高地の中心部と石油資源を有する東部低地の中心部を結ぶ全天候道路(アスファルト道路)が、アメリカの援助資金で1943年に建設がはじめられ、1954年に完成していた。MNRの革命政権樹立後もアメリカは、開発のための資金と技術の援助政策を続けた。1952年から1964年のMNR革命政権時代にアメリカがボリビアに与えた援助額は約3億8000万ドルにのぼり、国民一人当たり援助額としてはラテンアメリカの中で最高の水準に達した。ボリビアの国家予算の歳入に占めたアメリカの援助資金の割合は1957年から1963年まで平均で25%にのぼったのである。
1964年6月の選挙でパス・エステンソーロ大統領は連続再選を果たして3期目の大統領職に就任したが、クーデターによって軍事政権にとって代わられた。しかしMNR政権が12年間に実施した改革のプログラムの多くは、軍事政権によって受け継がれ今日にいたっている。すでに述べたように教育改革の実績を含めて、MNR革命政権が実施した農地改革、東部低地開発、鉱山の国有化などは、ボリビア社会を大きく変化させた。