真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ペリー来航と幕府の対応 倒幕の目的

2018年05月29日 | 国際・政治

 江戸時代、オランダは長くヨーロッパ唯一の貿易国でしたが、幕府はオランダ船が入港するたびに様々な海外情報を得ていたといいます。それは、「オランダ風説書」や「別段風説書」として残されているようですが、「オランダ風説書と近世日本」松方冬子(東京大学出版会)によると、幕府は鎖国中にもかなり詳細な海外情報を得て、それなりの対応をしていたようです。例えば、1842(天保13)年、幕府が「異国船打払令」を撤回して「薪水給与令」を発令したのは、阿片戦争後イギリスが日本に艦隊を派遣して開港を迫る可能性が報告されたからであるといいます。

 また、オランダの国王ウィレム二世は、1844(天保15)年、日本に長文の親書を送り、薪水給与令では充分でないとして、開国を勧告したといいます。その親書で国王は、イギリスが産業革命後、自国工業生産品の販路拡大のため、他国との衝突も辞さない動きをしていることを伝え、
幸福な日本が戦争により荒廃せぬため、外国人に対する法律を緩和されよ。我々は(将軍に)この提案を純粋な目的で、政治的利己主義とは全く離れて行う。日本政府の賢明さが、友好関係によってのみ平和が守られ、これ(友好関係)は貿易によってのみ生まれることを洞察されることを希望する。

と述べ、
”将軍が日本にとって極めて重要な問題に関し、さらに良く知ることを要求するならば、われわれは(国王)陛下直筆の書簡にしたがい、ある人物を日本に派遣する準備がある。その人物は(中略)その詳細のすべてを将軍に明らかにできる。”
と提案したといいます。
 また、ペリー艦隊の来航も事前に予告されていたといいます。

 そうした情報をもとに、外国との新たな関係を模索し、条約締結の政策を進めていた幕府に対し、長州を中心とする勢力が、尊王攘夷を掲げて倒幕のために様々な手段を行使したため、多くの犠牲者を出しました。でも、幕府が攘夷の思想に凝り固まっていたので倒されたということであれば、理解はたやすいのですが、話は逆で、幕府は、尊皇攘夷をかかげた長州を中心とする勢力によって倒されたのです。にもかかわらず、倒幕後、長州を中心とする勢力によってつくられた明治新政府は、攘夷を貫くことなく開国に転じ、脱亜入欧と呼ばれるような政策を展開しました。だから、いわゆる「明治維新」と呼ばれるものが、いったい何であったのか、権力奪取が目的の倒幕ではなかったのか、と考えてしまうのです。そして、権力を奪取した討幕派が、昭和の敗戦に至る日本の骨格をつくったのではないか、と思うのです。

 日本の初代内閣総理大臣伊藤博文は、松下村塾に学んだ長州藩士だった人ですが、1871(明治4)年に、岩倉使節団の副使として渡米し、サンフランシスコで、「日の丸演説」といわれる演説をしています。その中で、
わが国の大名たちは自主的に版籍奉還を行い、その任意的行為は新政府に容れられるところとなり、数百年来強固に継続してきた封建制度は一個の弾丸を放たず、一滴の血を流さないで、一年以内に廃棄させられました。
 このような驚くべき結果は政府と国民との協調により成就させられましたが、今やそれぞれ一致して進歩に向った平和的道程を進みつつあります。中世において戦争を経ずして封建制度を打破しえた国がどこかにあったでしょうか。
というようなことを言ったといいます。
 でも、伊藤博文は、幕末に塙保己一の息子で国学者の塙忠宝(次郎)を暗殺し、御殿山で建設中の英国公使館を焼き討ちするなど徹底した倒幕・攘夷の活動を遂行した人物です。そうした自らの過去や、明治新政府樹立にいたるまでの尊王攘夷の運動による多くの犠牲についてはどのように考えていたのか、と疑問に思います。

 「ペリー提督日本遠征記」を読むと、幕府が開港に向けてかなり準備をしていただろうことが想像されます。そうでなければ、下記の文章に見られるような対応はできなかったのではないでしょうか。浦賀奉行所の与力・香山栄左衛門はペリー提督一行に高く評価されています。
 だから、「ペリー提督日本遠征記」を読んで、またしても幕末の倒幕運動はいったい何であったのかと思うと同時に、明治新政府が脱亜入欧を基本政策とし、大陸膨張政策をとったことが、後の日本を決定づけたのではないか、とあらためて思いました。

 なお、著者は「歴史家の仕事 まえがきに代えて」で、”米国の政治家や外交官は記録を残す際に、専門の歴史家・伝記作家を雇い、できるだけ詳しく、(一見する限り)正確を期した記述を展開させるようだ。”と書いていますが、確かに、同書の記述は一人の人間ではとても不可能と思われるくらい、詳細で多岐に渡る内容を含んでいます。
 下記は、 「ペリー提督日本遠征記」井口孝監修・三方洋子訳(NTT出版)から 「第十三章 浦賀の役人との交渉・大統領国書を呈上」の一部を抜粋しました。
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                   第十三章 浦賀の役人との交渉・大統領国書を呈上

 ・・・
 エドから正式な返書が届くという日(7月12日)、午前9時半にウラガから三隻の船がやってきて、サスケハナ号に横付けした。いつもの幕府の舟とは違い、ヨーロッパの船を模して造られた船のようだった。漕ぎ手はおっかなびっくりの様子であったが、いつもの和船のように脇に立ったりしゃがんだりしているのではなく、櫓の横にすわっている。船の造りは見た目にもしっかりしていて、型も美しかった。マスト、帆、索具は日本の伝統的なものだった。乗組員の数は多く、一番大きい船では三十人、ほかの二隻は十三人が乗っていた。彼らは日焼けした体に、いつも青に白い縞のゆっくりした服を着ていた。
 先頭の船は広い帆に、幕府の印である黒い横縞のほかに、高位の役人が乗っていることを示す黒と白の旗を掲げていた。船が近づくと、絹の衣をまとったカヤマ・ヤザエモン(香山 栄左衛門)が甲板に敷かれたマットにすわり、通訳や従者に取り囲まれているのが見えた。
 二隻は少し距離を置いたところに止まり、先頭の一隻だけがサスケハナ号に近づいてきた。主任通訳ホリ・タツノスケ(堀達之助)、副通訳ハツヒコ・トクシマを伴って、カヤマはすぐに乗艦を許され、形式通りブキャナン艦長とアダムス中佐のところに案内された。
 奉行の到着前に提督は、皇帝にあてて次のような手紙を書いていた。

 アメリカ蒸気艦サスケハナ号にて
 ウラガ 1853年7月12日
  条約を協議する全権を賦与された、この海域における米国海軍の提督である私は、皇帝の最高位 の家臣と協議することを望んでいる。それは、米国大統領から皇帝にあてた国書および信任状の原 本を奉呈するためである。
その会見のために、できるだけ早い日時が設定されることを望む。

 日本国皇帝殿

 奉行はまず、国書の原本を受け取る前に翻訳が渡されるということについて誤解があったと述べた。
提督はそんな行き違いがなかったことはよくわかっていたが、さんざん協議したあと、午後二回目の協議で、次のことに同意した。翻訳と原本および提督から皇帝への手紙を同時に渡すこと、それについては皇帝がそれを受け取るにふさわしい役人を任命することを条件とした。さらに提督は、最高位の役人にしか渡さないこと、繰り返し強調した。そこで奉行は、提督と従者のためにいま海岸に施設を建築中であり、皇帝に任命された高位の役人がそこで受け取ることになる、しかし返事はエド湾で渡せない、ナガサキでオランダ語か中国語の通訳を通じて渡されるどろう、と言った。提督は次のようなメモを書いてオランダ語の通訳に渡し、よく奉行に説明してやるように伝えた。
「提督はナガサキには行かないし、オランダ語や中国語の通訳から受け取ることもしない。提督は、米国大統領から日本の皇帝または外務大臣にあてた国書を携えており、それ以外の者には原本を渡すことはしない。この国書が受け取られなかったり、返書がなされなかった場合には、米国が侮蔑されたものと考え、以後の事態に責任を負わない。数日中に返書が得られることを期待するが、それはこの近海以外では受け取らない」
 奉行はこれが伝えられると、彼は上の人と協議すべくすぐに艦をおりた。ウラガには、この成りゆきに指示を下す、何人かの幕府の役人がいるはずである。会見は三時間以上続き、奉行が下艦したのは午後一時前だった。会見は、友好的な雰囲気と通常の礼儀が保たれ、穏やかに行われた。海岸も静かで、砦にもなんの動きもなかった。ただ沿岸にはたくさんの幕府の舟があったが。
 去り際の約束どおり、奉行は午後になると、いつものように通訳と従者を連れて戻ってきた。だが、舟は午前のようなヨーロッパ型のではなく日本独特の型のでやってきた。ブキャナン、アダムス両中佐が一行を迎え、同じ形式と作法に則って協議を再開した。提督は相変わらず自室にいて、ほかの者を通して日本人と接触していた。以下に、その会話の逐語記録を掲げる。
 出席者 ブキャナン艦長
     アダムス中佐
     副官コンテ大尉
     ウラガ奉行ヤザエモンおよび通訳
ヤザエモン まず国書の写しと信任状を、それから原本を渡されるというのでは、上に上げるのに大      変時間がかかるので、高位の役人が来たときには、両方を一緒にお渡しいただきたい。      奉行と役人は総力をあげて提督にふさわしいお迎えをします。 
ブキャナン 提督の目的はそんなことではない。書面の中に、提督自身から皇帝にあてた手紙もある      ので、それを写しと一緒にエドへ送ってほしいのです。大統領の国書への返事は、いま      は大した問題ではない。提督の手紙への返事がほしいのです。
ヤザエモン 国書の原本を渡してくれれば、できるだけ早く返事をしましょう。我々はいま、大統領      から皇帝への国書を受け取るために来ているのに、あなたがたは提督の手紙のことを問      題にしている。
 ・・・以下会話略

 協議は終わった。
 カヤマ・ヤザエモンとその一行はたいへん上機嫌で、サスケハナ号の士官たちの申し出たもてなしを喜んで受け、とても洗練されたマナーで振る舞った。もてなしの場で彼らはくつろぎ、ご馳走、なかでも特にウイスキーとブランデーが気に入ったようだった。さらに奉行はリキュール、それも砂糖のはいったものを好んで、最後の一滴まで飲み干した。通訳は宴会の陽気さを楽しみ、上役の酒癖をからかい、ヤザエモンが飲み過ぎるので「もう顔が真っ赤になっている」とも注意していた。
 日本の役人たちは、育ちのよさを示すかのように、紳士的冷静さと節度のあるマナーを終始崩すことはなかったが、とても社交的で、自由に陽気に会話を楽しんだ。彼らのもつ知識や情報も、洗練されたマナーや人なつこい気質に劣らなかった。育ちがいいばかりでなく、教育程度も高かった。オランダ語、中国語、そして日本語に長け、世界地理や科学の一般知識にも通じていた。地球儀が運ばれ
てくると、彼らは合衆国の位置に目をつけ、ワシントンとニューヨークを即座に指さした。まるで、一方が首都で一方が商業の中心であることを知っているかのようだった。同じ正確さで、彼らは英国、フランス、デンマークなどヨーロッパの国も指さした。合衆国についての質問からも、彼らがわが国の物質文明の進歩について無知ではないことがわかった。合衆国では道路が山を貫いて走っているのか、と彼らが聞いたのは、たぶんトンネルか鉄道のことをさして言ったのだろう。船のエンジンを見たときに通訳が、これはサイズは小さいけれど、アメリカの道を旅行するのに使われるのと同じ機械か、と質問してきたことから、この推測が正しいことがわかった。また地峡を横切る運河はもうできたのか、と聞いてきたのは、当時建設中だったパナマ運河のことだろう。二つの大洋をつなぐ仕事が行われている、ということを彼らは知って、それを実際に見たことのある運河という名前で表現したのだろう。キャビンで飲みながら会話をしたあと、ヤザエモンと通訳は艦内見学に招かれて、礼儀正しく応じた。彼らが甲板に上がると、そこには、ふだん日本人にはほとんど接することのない士官や乗組員が好奇心かを抑えきれずに密集していた。しかし彼らはちっともあわてず平静で、礼儀正しさを一瞬たりとも失わなかった。艦内のいろいろな設備に知的興味を示し、大砲を見ると「ペーザン型(「訳註 弾体が爆裂する榴弾を発射するカーン砲。当時の最新型であった)」とその名を正しく言い、完璧な蒸気船のすばらしい技術とメカニズムを初めて見た人なら示すであろう驚きはみせなかった。機関部はたしかに彼らの大いなる興味の対象だったが、通訳は、まったくその原理を知らないという様子ではなかった。こういった冷静でしかも注意深い態度は、念入りに計算されたものであったかもしれない。しかし、日本人は実用科学の面で遅れていたにしても、教育程度の高い者たちは、ほかの文明国の進歩についてきちんと情報を得ていることは疑いの余地がない。
 船室を出るとき、役人は刀を置いていった。刀は、日本である程度の位についている者がいつも身につけているものだ。そこで、主に好奇心からこれら権威の象徴を調べてみると、それは実用よりは見た目本位のものだということがわかった。刃は鋼も焼きもすばらしく、よく手入れされているが、刀身と柄の形から言うと、実用には不向きだった。外装は純金、さやは鮫皮で、凝った細工のものだった。
 奉行の訪問は夕方まで長引き、退艦は午後七時になった。奉行と通訳は去るにあたって、いつものとおり礼儀正しく、階段一段ごとにお辞儀を繰り返し、威厳は失わないまま、人なつこい微笑みをふりまいていった。我々のもてなしと、見学したものすべてに感銘を受けたに違いない。我々との協議の場で見せるあのものものしい礼儀正しさも、その場だけに演出されたものではないようだ。こうしてくだけた場でも、彼らは同じように礼儀正しいのだから。それは、ヤザエモンと通訳が幕府の舟に戻ってすぐに、まるで初対面の人同士のように、待っていた役人たちと挨拶をかわしたことからもわかるだろう。こういった場面が演じられている間にも、提督の命を受けたボートは一日中忙しく測量を続けていた。
 翌日は13日水曜日。約束どおりなら、朝早く奉行がやってくるはずだった。しかし午前中に奉行がやってくる気配はなく、なにもかも静かな期待のなかにあった。だが近くの陸地の様子から察すると、幕府のほうにはなにか動きがあったらしい。対岸から兵士を乗せたたくさんの船がウラガ湾を横切り、また幕府の旗と印をつけた大きなジャンクが港にはいっていった。ウラガ港の商売はいつもどおりの活況を呈し、大小さまざまな日本の舟が行ったり来たりしていた。湾を取り巻く村や町はここで生活物資を交換し、大都会エドの心臓の鼓動に合わせて余剰物資をエドに送り込んでいるのだ。数えただけで一日六十七隻のジャンクが湾を通っていった。
 気温は30度に達していたが、海風で暑さがだいぶやわらいでいた。日本の海岸部に特有といわれるもやで、ときどき景色はぼやけた。しかし艦隊の経験からいうと、ここまでのところ上天気といってよく、湾にやってきてから、この日が一番もやの出た日であった。偉大なランドマーク、フジも頂上しか見えなかった。フジはいつもなら昼間より夕方、特に日没には深紅の光を浴びて輝いて見える。
 午後4時ごろついに奉行がやってきた。カヤマ・ヤザエモンがいつものように、第一・第二通訳を連れてきて、エドから高位の役人がたったいま着いたところなので、もっと早く来られなかったと、何千回もお詫びを言った。そのお詫びがやっと終わると、奉行は、提督と会見すべく任命された役人に対しての皇帝の命令書を出した。皇帝の文書は短いもので、大きな花押で証明されていた。その文書はびろうどで包まれた百檀の箱に入れられ、奉行は大切に扱ってほかの者には手を触れさせなかった。オランダ語の写しとその文書の正当性を示す証書、それと押された花押の正当性を示す文書は、奉行カヤマ・ヤザエモンの署名付きで渡された。以下にその翻訳を示す。

 日本国皇帝より伊豆守トダに与えられた信任状の翻訳
合衆国大統領より余にあてた国書を受け取るために、ウラガに派遣する。その国書とは、近ごろ提督がウラガに携えてきたものであり、受け取りしだい、エドにもどって、余に届けるように。
(将軍印)
1853年第六月

 ウラガ奉行カヤマ・ヤザエモンが皇帝の文書と印の正当性を保証する文書の翻訳
日本国皇帝みずから任命した役人、またエドからウラガへ国書原本および翻訳を受け取るべくやってきた役人は、間違うことなくたいへん高位の者で、提督と同等の位であります。
私が保証します。
カヤマ・ヤザエモン

 協議の間奉行は、皇帝に任命された役人は国書を受け取って皇帝に届けるという権限を与えられた者であり、交渉にはいる権限はいっさいもっていないということを繰り返し、強調した。また国書受領の場所を変更することを申し出たが、すでに適当な建物が建設されており、変更は適当でないということになった、とも伝えた。提督はこの答えも予想していた。なんらかの悪だくみが計画されているのかもしれないが、できる限りそれに備えようと決めていた。そこで受領のための施設が建てられている岬に調査班を派遣してあった。この仕事を任命された士官はすばやく任務を果たし、そこを射程は範囲とするところまで艦を進めることは可能であること、また多くの人間がその建設や家具の運搬、準備のために働いていると報告した。
 奉行は会合の場所まで舟で同行しようと申し出たが、これは拒絶された。さらに、提督が長い距離を小さな舟で移動するのは権威にかかわるので不都合であること、そこで会合の予定地に近いところまで艦隊が移動することが、奉行に通告された。そして翌木曜日8時から9時の間に提督と一行は下艦することが決まった。日本側は、日中の暑さを避けるためにもっと早い時間を希望したが。
 ・・・以下略 

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「大東亜共栄圏」と「宇内混同秘策」 

2018年05月18日 | 国際・政治

 戦時中、佐藤信淵は、大東亜攻略を述べた人物として大いに称揚され、軍人を中心に多くの人が、その著書『宇内混同秘策』(うだいこんどうひさく)を読んだといいます。その内容は、昭和17年2月発行の「宇内混同秘策・劍懲 皇国精神講座第三輯」小林一郎講述(平凡社)で、詳細な解説を参考にしながら読むことができます。下記は、その「宇内混同秘策」全体の概論ともいえる「宇内混同大論」を抜粋したものです。 

 佐藤信淵は江戸時代後期の思想家で、儒学や国学、神道、本草学、蘭学などを、当時を代表する学者から学び、「宇内混同秘策」は1823年(文政6年)に著したといいます。封建制度を基盤とする幕藩体制のもとで、大政奉還の40年以上も前に、来たるべき統一国家としての日本の姿を想定し、日本の領土的拡張を志向する考え方をしていたことに驚きます。まさに、明治政府の政策を先取りしたような内容です。

 「宇内混同大論」の冒頭には、「皇大御国(スメラオオミクニ)は大地の最初に成(ナ)れる国にして世界万国の根本なり。故に能く根本を経緯するときは、則ち全世界悉く郡県と為すべく、万国の君長皆臣僕と為すべし」とありますが、復古神道(古道学)の大成者といわれる、平田篤胤の教えを受けた影響が窺われます。そして、それは明治政府の「皇国史観」と結びついた侵略主義的領土拡張政策へと発展し、第二次世界大戦の敗戦に至るまで、変わることがなかったのではないかと思います。
 佐藤信淵は江戸時代末期の学者ですが、昭和17年の「皇国精神講座」「宇内混同秘策」が取り上げられていることは、注目すべきことではないかと思います。

 司馬遼太郎が晩年に執筆した『この国のかたち』の中で、
昭和ヒトケタから同二十年の敗戦までの十数年は、ながい日本史のなかでもとくに非連続の時代だった
とか、
日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦に至る四十年間は、日本史の連続性から切断された「異胎」”の時代
とか、
明治の状況では、日露戦争は祖国防衛戦争だったといえるでしょう。
とか書いていますが、やはり違う、とあらためて思います。

宇内混同秘策」には
凡そ他邦を経略するの法は、弱くして取り易き處より始るを道とす。今に当て世界万国の中に於て、皇国よりして攻取り易き土地は、支那国の満州より取り易きはなし。
とあります。また、
支那既に版図に入るの上は、その他西域、暹羅(シャム)、印度亜(インデイア)の国、佚漓鴃舌(シュリゲキゼツ)、衣冠詭異(イカンキイ)の徒、漸々に徳を慕ひ威を畏れ、稽顙匍匐(ケイソウホフク)して臣僕に隷(レイ)せざることを得ん哉。故に皇国より世界万国を混同することは難事に非ざるなり。”
とか、
大泊府の兵は琉球よりして台湾を取り、直に浙江の地方に至り、台州(タイシュウ)寧波等の諸州を経略すべし。
という記述もあります。
 佐藤信淵の記述通り、明治政府は侵略主義的な領土拡張政策をとって日清戦争を戦い、”支那既に版図に入るの上は…”というような意図も持っていたがためにロシアとぶつかり、日露戦争に至ったということではないでしょうか。

 また、「宇内混同秘策・劍懲 皇国精神講座第三輯」の著者、小林一郎は、同書の中で、
佐藤信淵について、”佐藤信淵は徳川時代の末期に生まれた、最も勝れた学者の一人で「二宮尊徳と一対の人物」であると書いています。

そして

”但し、尊徳の方は主として各地方に於ける農業の振興を図るといふことがその一代の主張の大体でありまして、日本の国の力を外に伸ばすといふやうなことに就いては、餘り研究もして居らず、また特に説いて居る所もありませぬ。ところが佐藤信淵の方は二宮尊徳より餘ほど積極的でありまして、無論国力を盛んにしなければならぬのは言ふまでもないのであるけれども、日本が永く日本にのみ限られてはいない、日本は東洋地方の各国民を指導すべき天職を持って居るのだといふやうな確信を持って其の説を立てて居ります。それですから、此の二人の大家に就いて必ずしも優劣を論ずる必要はないのでありますが、各々其の特色があるといふことを認めなければならぬので、尊徳のやうに此の国の内容を充実せしめることに力を尽して行くに就ての意見も尊重すべきでありますが、また信淵のやうに外に全力を伸ばすといふ大理想を以て国内を整頓するといふ考へも、実に卓見と謂はなければならぬのでありまして、此の二人は徳川時代の末期に於ける学者の中に於て、最も大なる光輝を放つて居る人と申して差支へないと思はれます
と評価しています。皇国史観と一体となった領土拡張政策は、明治以来先の大戦における敗戦に至るまで一貫しているということではないでしょうか。
 だから私は、明治維新150年の記念事業に現を抜かし、「文化の日」を「明治の日」に変えようとすることには、とても問題があると思うのです。
 (旧字体や旧仮名遣いは一部はあらため、一部はそのままにしました。)
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                           宇内混同秘策

  宇内混同大論
 皇大御国(スメラオオミクニ)は大地の最初に成(ナ)れる国にして、世界万国の根本なり。故に能(ヨ)く其根本を経緯(ケイイ)するときは即全世界悉く郡県(グンケン)と為(ナ)すべく、万国の君長(クンチョウ)皆臣僕(シンボク)と為すべし。謹んで神代の古典を稽(カンガフ)るに、青海原潮之八百重(アオウナバラシオノヤホヘヲ)知所也(シラストコロナリ)とは、皇祖伊邪那岐大神(コウソイザナギノオオカミ)の速須佐之男命(ハヤスサノヲノミコト)に事依(コトヨサ)し賜(タマ)ふ所なり。然(シカ)れば、則(スナハ)ち産霊(ムスビ)の神教(シンケウ)を明(アキラカ)に靏して以て世界万国の蒼生(ソウセイ)を安(ヤスン)ずるは、最初より皇国に主たる者の要務たるを知る。曾(カツ)て予(ヨ)が著したる経済大典及び天刑要録等は悉く産霊(ムスビ)の神教(シンケウ)を講究(コウキュウ)したる書にして、即ち全世界を安集(アンジフ)するの法なり。蓋し世界万国の蒼生(ソウセイ)を済救(サイキュウ)するは極めて広大の事業なれば、先づ能く万国の地理形勢を明弁(メイベン)し、其の形勢に従て天意(テンイ)の自然に妙合(ミョウゴウ)するの処置なければ、産霊(ムスビ)の法教(ホウケウ)も得て施すべからざるなり。故に地理学も亦明にせずんばあるべからず。

今夫万国の地理を詳にして、我日本全国の形勢を察するに、赤道の北三十度より起て四十五度に至り、気候温和、土壌肥沃、万種の物産悉く満溢せざること無く、四辺皆大洋に臨み、海舶の運漕(ウンソウ)其便利なること万国無雙、地霊に人傑にして勇決他邦に殊絶し、宇内を鞭撻すべきの実徴(ジッチョウ)全備せり。其形勝の勢自ら八表に堂々として、此神州の雄威を以て蠢爾(シュンジ)たる蠻夷を征せば、世界を混同し万国を統一せんこと何の難きことあらん哉。嗟乎(アア)造物主の皇大御国を寵愛し給ふこと至れり尽せり。蓋し皇大御国も天孫の天降以後は、人君太古神世の法教に敬遵(ケイジュン)従事せずして、遊惰放埒に数多の年所を送り、美女を愛し烈婦を嫌て其天年を傷(ヤブ)り、経済の要務を蔑如(ベツジョ)して無益の経営に奢靡を逞うし、夫妻和せず家政齊(トトノ)はず、兄弟相争ひ親戚相殺して其国家を堕落し、遂に君不君臣不臣(キミキミタラズシンシンタラズ)の風俗と為れり。故に大名持少彦名(オオナモチスクナヒコナ)の規模頽敗して、国体の衰微せしこと既に久し。故に邪魔浮屠等(ジャマフトトウ)の説盛に行はれ、世に真教を知れる者の有ること無きに至れり。故に澆季(ゲウキ)の愚俗(グソク)は、支那、天竺等其国の広大なるを聞き、且皇国の土地小に気勢の弱きを見て、予が混同大論を聞くと雖、或は捧腹(ホウフク)して其の量を知らざる者とし、実に皇国に万国を使令すべき天理のあることを覚ること無し。即ち是下士は道を聞て大に笑ふの諺の如く、所謂笑はざれば道とするに足らざる者是なり。若夫れ斯の如くにして其儘に捨置ものならば、恐くは邪魔に溺るゝ者を永久に救ふべきの期なく、太古神聖の法教も或は世に断絶せんこと嘆ずべきの至りなり。勤めて古道を講明せずんばあるべかあらず。然り而して今の世に当て此道を講明せん者を求んに、予を措て誰ぞや。是経済大典、天刑要録及び此書の作の止むことを得ざる所以なり。然れども世挙て皆悪俗に沈みて予を知る者なし。苦思慷慨(クシコウガイ)すると雖、誰か能く信ずる者あらんや。必や明君出づること有て而して後に用ゐられん者なり。

 抑(ソモソモ)世界の地理を寧(ツマビラ)かにするに、万国は皇国を以て根本とし、皇国は信(マコト)に万国の根本なり。其子細を論ぜん。抑皇国より外国を征するには其勢ひ順にして易く、他国より皇国に寇(アダ)するにはその勢ひ逆にして難し。其皇国より易くして他国より難しと云ふ所以は、今世に当て万国の中に於て土地最も広大に物産最も豊穣、兵威最も強盛なる者を撰ぶときは、支那国に如くものあらんや。而して支那は皇国に隣接密邇(ミツジ)なりと雖、支那全国の力を尽して経略するとも皇国を害すべきの策あることなし。若し、暴戻の主ありて、強て大衆を出して寇を為すこと胡元の忽必烈(クビライ)が如く、盡国(ジンコク)の衆を起すと雖も、皇国に於ては少しも恐るゝに足らずして、彼国に於ては莫大の損失あり。故に一度は来ると雖も、再三すること能はざるは論を俟ざることなり。又皇国より支那を征伐するには、節制さへ宜きを得れば五七年に過ぎずして彼国必土崩瓦解(カノクニカナラズドホウガカイ)するに至る可し。何となれば皇国にては兵を出すの軍費甚少なしと雖も、彼国に於ては散財極て広大なるを以て此に堪(タフ)ること能はず。且其国人奔命(ソノクニニンボンメイ)に疲労するを奈(イカ)んともすること無し。故に皇国より他邦を開くには、必ず先づ支那国を呑併するより肇(ハジマ)る事なり。既に上に云へる如く、支那の強大を以て猶ほ皇国に敵すること能はず、況(イワン)や其他の夷狄(イテキ)をや。是れ皇国には天然に世界を混同すべき形勝あるが故なり。故に此書は先づ支那国を取るべきの方略を詳にす。支那既に版図に入るの上は、その他西域、暹羅(シャム)、印度亜(インデイア)の国、佚漓鴃舌(シュリゲキゼツ)、衣冠詭異(イカンキイ)の徒、漸々に徳を慕ひ威を畏れ、稽顙匍匐(ケイソウホフク)して臣僕に隷(レイ)せざることを得ん哉。故に皇国より世界万国を混同することは難事に非ざるなり。

 然れども将に疆外(キョウガイ)に事有んとするには、先づ能く内地を経綸すべし。其根底の堅固ならずして枝葉の繁衍(ハンエン)する者は、或は本傾くの患(ウレヒ)を発することあり。故に日本全国の地理を講明し、山海の形勢を弁論すべし。凡四海を治るには先づ王都を建てずんばある可らず。王都は天下の根本なるを以て、形勝第一の地を撰ぶべし。浪華は四海の枢軸にして万物輻輳の要津(ヨウシン)なり。然れども分内狭く人民極て多く、土地より生ずる所の米穀、或は居民を食(ヤシナ)ふに足らず。故に此地に大都を建てば、皇居は深く慮(オモンバカル)るべき所あり。然れば王都を建つべきの地は江戸に如くものあることなし。関東は土地広平にして沃野千里、且相模、武蔵、安房、上総、下総の五洲を以て内洋を包み、斗禰(トネ)及び秩父、鬼怒、多摩の四大河内洋に注ぐを以て、水路能く通流し百穀百果其他諸国の産物運送甚便なり。万貨豊穣、人民飢餓の患あること鮮(スクナ)く、殊に峩々たる崇山三方を圍繞(イジョウ)し、以て他鎮と境界を分ち、只東方一面大洋に濱(ヒン)し、進では以て他国を制すべく、退ては以て自ら守るに餘(アマリ)りあり。郊野曠廣にして馬強健、人民衆多(シウタ)にして勇壮、実に形勢天下に雄たり。凡そ重に居て軽を馭(ギョ)し、強を以て弱を征する永静の基礎を立るに宜し。故に王都を建の土地は江戸を以て第一とす。王都を此地に定て永く移動すること無るべし。浪華も亦天然の大都会なれば此を西京(セイキョウ)として別都と為すべし。其他駿河の府中、尾張の名護屋、近江の膳所、土佐の高知、大隅の大泊、肥後熊本、筑前博多、長門萩、出雲松江、加賀金澤、越後の沼垂、奥州の青森及び仙台、南部、以上十四所には省府を建て、節度大使を置き、以て各部内の政事を統理せしむべし。

 上に説たる如く東西両京並立て、且別に四海を分て十四の省を置き、仁義を篤行つて律令を厳密にするに非ざれば、日本全国を我手足の如く自由にすること能はず。若夫れ自国の運動猶癱瘓(タンタン)するが如きは、豈他邦を征するに遑あらん哉。東西両京既に立ち、十四省府も既に設け、経済大典の法教既に行はれ、総国の人民既に安く、物産盛に開け貨財多く貯へ、兵糧満溢れ武器鋭利に、船舶既に裕足し、軍卒既に精錬し、而して後に肇て海外に事あるべし。且又日本の土地の妙なることには、南方には敵国あること鮮(スクナ)し。故に意を専らにして北方を開くことを得べし。若し南海に寇(アダ)あるに及では防禦すること甚難く、動(ヤヤ)もすれば皇居も騒擾して忽ち困窮を受るに至る。故に海外に事ありと雖も、東西二京は勿論のこと、駿府名古屋のニ省も、亦大衆を動すこと勿れ。高知省と雖も妄に衆を動さずして、唯五六千人の軍卒と五六十の軍船を出して、南海中の無人島を開き、漸々其南に在る諸島を開発して皇国の郡県と為し、其地の産物を採り集て本邦に輸(イタ)し、以て国家の入用に供すべし。此南海の諸島を比利皮那(ヒリピナ)の諸島と名く。大小七八百ありて、東西千里、南北八百里許(バカリ)の海中に散在す。大抵無人島にして人の居住するは少なし。然れども此諸島は何れも気候炎熱に、土地肥沃なるを以て、丁字(チョウジ)、肉桂(ニクケイ)、サフラン、胡椒、甘松、木香、檳榔子(ビンラウジ)、大黄、縮沙(チシャ)、椰子、良姜(リヤウキヤウ)、黒檀、タガヤサン、及び鮫甲(サメノカフ)、真珠等、種々貴重なる薬品香料の産物出す。廃置(ステオク)べきに非るなり。是れ啻(タダ)に物産を開くのみならず、東京の為に海上を守るなり。国家を経営する者は、察せずんばあるべからざるなり。

 凡そ他邦を経略するの法は、弱くして取り易き處より始るを道とす。今に当て世界万国の中に於て、皇国よりして攻取り易き土地は、支那国の満州より取り易きはなし。何となれば満州の地、我日本の山陰及び北陸、奥羽、松前等の地と海水を隔て相対するもの凡そ八百餘里、其勢ひ固(モト)より擾(ミダ)し易きことを知るべし。事を擾(ミダ)し騒すにも亦当(マサ)に備(ソナヘ)なきの處を以て始めとし、西に備るときは東を乱妨し、東に備るときは西を騒擾せば、彼れ必ず奔走して之を救ふべし。彼が奔走するの間には、以て其虚実強弱を知るべし。而して後に実する處を避て虚なる處を侵し、強を避て弱を攻め、必ずしも大軍を用るにも及ばず、暫くの間は先づ軽兵を以て之を騒擾すべし。満州の人は躁急にして謀(ハカリゴト)に乏(トボシ)く、支那人は懦怯(ダケフ)にして懼(オソ)れ易し。少しく警(イマシ)めあるも必ず大衆を以て之を救はん。大衆度々(タビタビ)動くときは、人力疲弊して財用歇乏(ザイヨウケツバフ)すべきこと論ずるに及ばず。況や支那の王都北京より満州海岸に往復するには、沙漠遼遠にして山谷極て険難なるをや。然るに皇国より之を征するには、僅か百六七十里の海上なれば、順風に帆を挙るときは一日一夜に彼が南岸に至る。其西すべきも東すべきも舟行(シウカウ)甚だ自在なり。若又支那人大衆を以て防守せずして、何れの處も空虚ならば、我国の軍士以て虚に乗じて之を取るべし。此(カク)の如くなれば黒龍江の地方は、将に悉く我が有と為らんとす。既に黒龍江の諸地を得るときは、益産霊(マスマスムスビ)の法教をを行ひ、大(オホイ)に恩徳を北方の夷人に施して之を撫納帰化(ブナフキカ)せしめ、彼の夷狄(イテキ)を用ひて皇国の法を行ひ、能く撫御統轄(ブギョトウカツ)して漸々西に向はしめば、混同江の地方も亦取易きなり。既に吉林城を得るときは、即ち支那韃靼(ダッタン)の諸部必ず風を望(ノゾミ)て内附すべし。若其稽首(ケイシュ)して到らざる者は、兵を移して之を討んに此れも亦便宜に従ふべし。韃靼既に定らば則ち盛京(セイキャウ:今の瀋陽)も亦其勢ひ危く、支那全国まさに震動すべし。故に皇国より満州を征するには、之を得るの早晩は知るべからずと雖ども、終には皇国の有と為らんことは必定にして疑なき者なり。夫啻に満州を得るのみならず、支那全国の衰微も亦此れより始ることにして、既に韃靼を取得るの上は、朝鮮も支那も次で而て図るべきなり。

 茲に其子細を詳らかにするに、満州の極北境に黒龍江と名(ナヅク)る大河あり。此大河の海に注ぐ處は、我蝦夷の唐太島(カラフトトウ)と僅十餘里の海水を隔(ヘダツ)るのみ。此處(ココ)は支那の王都北京城より七百里程離れたる地にて、飛脚を走らしむるにも凡そ八九十日かゝらざれば達すること能はず。然れども要樞(ヨウスウ)の地なるを以て、斎々哈爾(シシカル=チチハル)と云處(イフトコロ)に城を構へ、支那の北京より一人将軍を遣(ツカハ)して軍卒を置て此地を鎮護せしむ。故に唐太島の北辺には、支那人居住する者恒(ツネ)に少なからず。総て此辺は北極出地五十五度の外に在るを以て、気候寒冷にして穀物を生ぜず、土人は魚類鳥獣草根木皮等を食物とし、我蝦夷人と異なること無し。又軍士の食糧は遥に支那の本国より輸送するを以て、常に五穀の乏きに困(クルシ)む。故に此地にて米穀を悦ぶこと金玉よりも甚し。然るに我奥羽及び古志等の諸州米穀を生ずること夥くして、恒に食餘の腐朽するを憂ふ。有餘を移して不膽(フゼン)を救ふは即ち産霊(ムスビ)の法教なり。今此北州の餘米(ヨマイ)を運送して蝦夷国の諸港に積蓄(ツミタクワ)へ、青森省と仙台省より軍船と人数を出し、蝦夷の諸島に於て水軍の戦法を操練し、且此人を以て漸々唐太島の北境を開き、此地に越年せしめて能く寒地の風土に馴習はし、別に清官及び怜悧なる商官等を遣はし、彼国の土人と交易を通ぜしめ、厚く酒食等を施して土地の夷狄を悦ばし、産霊(ムスビ)の法教を説示して益(マスマス)土人を教化帰服せしめ、次に黒龍江に近寄て大に恩徳を施し、利を与へ物を恵で多くの米穀を輸送し、交易と云ふと雖ども利分に拘はることなく、醇酒(ジュンシュ)と美食とを贈て彼土の居人撫すべし。凡そ血気ある者は恩を悦んで徳に帰せざること無し。況や人類に於てをや。彼等是まで草根木皮を食とせしを、之に代はるに皇国の糧米を以てし、馬湩(バトウ)を飲て宴楽せしを、之に代るに醇良の美酒を以てせば、誰か歓喜して信服せざる者あらんや。三年を過ぎずして四方風動せん。

 支那人、夷狄の皇国の法教に靡くを探り得ば、必ず痛く皇国の通津(ツウシン)を禁ずべし。夫れ経済の大典は、掛(カケ)まくも畏き産霊(ムスビ)の神教にして、世界万国の蒼生を救済すべきの法なり。然るに之を拒むに至ては即ち天地の罪人なり。惟(コレ)皇上帝降衷于下民(オホイナルジョウテイチュウヲカミンニクダス) 。若有恒性(ツネノセイアルニシタガヒ)。克綏厥猷惟后(ヨクソノイフヲヤスンゼシムルハコレキミナリ)とは、支那国にても皆人の知る所なり。満州の夷人古来食物に艱(ナヤ)む。懋(ツトメ)て有無を遷し之れに粒食せしむるは天道なり。然るに支那国王其猷(イウ)を綏(ヤスン)じて其民を贍救(センキュウ)し、之を救済して粒食(リュウショク)せしむること能はず、草根木皮を食料とし牛馬の湩(トウ)を飲料とす。夫れ食草ひハ馬湩(バトウ)飲むは 、此豈人恒生ならんや。人類は悉く天地の子也。人類にして粒食に艱(ナヤ)むを愍恤(ビンジュツ) せざるベけん乎。故に皇国の有餘を遷して彼土の不足を救ふ、固(モト)より天意を奉行するなり。然るに支那人之を拒む、何の暴虐か此より大なるもの有ん哉。惟天恵民(コレテンタミヲムグム)、惟辟奉天(コレキミテンヲホウズ)と。天意を奉りて万国の無道を正すは、草昧(ソウマイ)より皇国の専務たり。於是乎軍(ココニオイテカグン)を出し黒龍江を攻伐(コウバツ)して天罰を行ひ、以て蒼生の悪俗に沈むを救ふべし。

 而して其軍を出すの次第は、先づ第一に青森府、第二に仙台府、此二府の兵は以前より唐太島(カラフトトウ)を開発して彼地に越年し、寒地の風土に馴たる者共なれば先陣に進み、黒龍江より西南コメル河、センケレ河、エレ河、ヨセ河、ヤラン河等の地方に軍船を駕寄(ノリヨセ) て、或は上陸して土人に穀類、美酒等施して夷狄を撫納し、或は處々(ショショ)戍兵(ジュヘイ)あるの営塞等を焼払て敵の軍卒を打取り、或は防守の厳重なる場所は、上陸せずして船より大筒火箭等を打掛けて海岸を騒擾し、或は備なくんば次第に進み、駕込(ノリコ)んで
或は戦い、或は食物を施して夷人を撫すべし。第三に沼垂府、第四金澤府此二府の兵も軍船数十隻ばかりを一手として、朝鮮国の東なる満州の華林河、ヤラン河、クリエン河、ナルキン河等の辺りに至り、青森仙台の兵と同じく處々にて種々の計策をを行ひ、敵国を悩煩(トウハン)せしむるを主とし、右四府の兵七八千を以て満州八百里の海岸を周旋し、透間を伺ひ上陸し、各(オノオノ)思付たる働を為すべし。如斯(カクノゴトクすること四五年及ばゞ、支那人大に困窮して、終(ツイ)には満州を守ることを得ずして黒龍江の諸部は悉く我が有となるべし。其れより漸々混同江を征伐して吉林城を攻落し、夷狄を撫納駕御して盛京攻(セム)べし。、第五には松江府、第六に萩府、此二府は数多の軍船に火器車筒等を積載て朝鮮の東海に至り、咸鏡、江原、慶尚三道を経略すべし。

 第七には博多府の兵は数多の軍船を出して朝鮮国の南海に至り、忠淸道の諸州を襲ふべし。朝鮮既に我が松江と萩府の強兵に攻られ、東方一円に寇(アダ)に困(クルシ)むの上は、南方諸州は或は空虚なる處あるべし。直に進で之を攻め、大銃火箭(オオヅツカヤ)の妙法を尽さば、諸城皆風を望で奔潰(ホウカイ)すべし。乃(スナハ)ち其数城を取て皇国の郡県と為し、淸官(セイクワン)及び六府の官人を置き産霊(ムスビ)の法教を施し、厚く其民を撫育(ブイク)して教化に帰服せしめ、此處(ココ)より又軍船を出して時々兵を渤海辺に輝かし、登州萊州の(トウシュウライシュウ)の濱海諸邑(ヒンカイショイフ)を擾(ミダ)さしむべし。又青森仙台沼垂金澤四府の兵、各其本省より人数を増し加へ、大衆を以て盛京を攻べく、且韃靼(ダッタン)諸部の夷狄等も皇国の恩徳に心服せば、此も亦大衆を会して支那を攻むべければ、盛京も守ることを得べからず。況や我火述の妙を以て之を攻るに至ては、如何なる堅城も防禦することを得べからざること論ずるにも及ばず。盛京既に守らざるに至ては、北京も亦守ることを得べからずして、淸主必ず陝西(センセイ)に走るべし。或は走らずして北京を防守すと雖ども、皇国の雄兵既に満州を席巻して盛京(セイケイ)を攻落し、別師は朝鮮国を統平して鴨緑江を渡り、七府の大兵悉く遼陽に会し、連勝の利に乗じ進で山海関に到達せば、智者も守るべきの策なく、勇者も戦ふべきの勢ひなからん。

 第八には大泊府の兵は琉球よりして台湾を取り、直に浙江の地方に至り、台州(タイシュウ)
寧波等の諸州を経略すべし。支那人既に迫近(ハクキン)の強敵に困(クルシ)むに至ては、遠近の難を救ふことを得べからず。諸城皆争て欵を請ふにあらざれば必ず城を棄てて奔潰(ホウクァイ)すべし。況や我火攻法の防ぐべきの述なきをや。唯其人を殺すことを憐れむが為に、三銃の偉器(イキ)を用ひずして撫諭して降らしむるを要とすべし。故に何れの府よりも兵を出すの大将には、必ず教化台の小師か亜師を用るものは、壇殺(センサツ)の禁を厳にするが故なり。能々(ヨクヨク)土人を憐れみ愛して、篤く恩徳を施して之を撫諭すべし。然りと雖ども迷いを執て天朝に帰服せず、痛く天兵を拒みて防戦する者に至ては、悉く殺して許すこと勿れ(ナカ)れ天罰を行ふなり。是即ち天罰を行ふなり。

 第九には親征(シンセイ)なり。供奉(クブ)には必ず熊本府の兵を従ふ。親征するには先づ諸方の皇師(=皇軍)の形様を校(ウカガ)ひ、支那国王所謂淸主なる者の既に困苦するを探得て而して後に渡海すべし。先陣の兵は直に江南の地方を衝(ツ)き、早く南京應天府を取り、之を仮皇居と為すべし。乃ち支那人の文才ある者を登用して、淸主の邪魔左道を崇信して天地の神意を蔑如(ナイガシロ)にし、痛く皇国の法教を拒み、人類の難食憐まず、罪を皇天に得たるを以て、天罰を行て蒼生を救ふの趣の大誥を作らしめ、周(アマネ)く天下に檄し、新附の支那人を憐み、其材あるものは悉く之を選用して官にあらしめ、且又明室の子孫たる朱子を立て上公に封じ、其先祖の祭祀を祗祀(キシ)せしめ大に慈徳を施して篤く支那人を撫育すべし。信(マコト)に能く此策を用ひば、十数年の間に支那全国悉く平定すべし。既に韃靼と支那とを統一するの上は、益々産霊(ムスビ)の法教を明にし、万民の疾苦(シック)を除き、處々に神社を造営して皇祖の諸大神を祭り、学校を興立(コウリフ)し十科の人材を起し、日夜勉強して長く怠ることなく、子孫永久能く祖業を拡充し、天意を奉行して間断(カンダン)することなければ、全世界皆皇国の郡県と為り、万国の君長も亦悉く臣僕に隷せんこと論を俟たずして自ら明なり。

 然りと雖ども経済大典を憲章(ケンショウ)せざれば、自国も安集すること能はず。産霊(ムスビ)の法教を行ふと雖も、天刑要録の兵制なければ、勍敵(ケイテキ)をして奪魄(ダツハク) せしむること能はず。三台六府の政教も、三銃妙用の武備も共に完しと雖ども、世界万国の地理を講明して、其形勢の便宜に従て節度処置の妙を尽さゞれば、宇内混同の大業を成就すること能はず。混同の業に従事する者は、心を尽さゞる可けん乎。予深く上天喣育(ジョウテンクイク)の大恩に感じ、竊(ヒソカ)に六合を括囊(カツナフ)するの意あり。然れども奈(イカ)んせん家貧にして年の老いたることを。於是乎(ココニオイテカ)此書を筆記し、題して混同秘策(コンドウヒサク)と名け、聊か以て晩遠の鬱憤を写し固封して児孫に遺す。嗟乎(アア)後来の英主宇内を鞭撻するの志ある者は、先づ此編を熟読せば、思ひ半ばに過ぎん者なり。

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”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI


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「大東亜共栄圏」と「宇内混同秘策」 

2018年05月18日 | 国際・政治

 戦時中、佐藤信淵は、大東亜攻略を述べた人物として大いに称揚され、軍人を中心に多くの人が、その著書『宇内混同秘策』(うだいこんどうひさく)を読んだといいます。その内容は、昭和17年2月発行の「宇内混同秘策・劍懲 皇国精神講座第三輯」小林一郎講述(平凡社)で、詳細な解説を参考にしながら読むことができます。下記は、その「宇内混同秘策」全体の概論ともいえる「宇内混同大論」を抜粋したものです。 

 佐藤信淵は江戸時代後期の思想家で、儒学や国学、神道、本草学、蘭学などを、当時を代表する学者から学んでおり、「宇内混同秘策」は1823年(文政6年)に著したといいます。封建制度を基盤とする幕藩体制のもとで、大政奉還の40年以上も前に、来たるべき統一国家としての日本の姿を想定し、日本の領土的拡張を志向する考え方をしていたことに驚きます。まさに、明治政府の政策を先取りしたような内容です。

 「宇内混同大論」の冒頭には、「皇大御国(スメラオオミクニ)は大地の最初に成(ナ)れる国にして世界万国の根本なり。故に能く根本を経緯するときは、則ち全世界悉く郡県と為すべく、万国の君長皆臣僕と為すべし」とありますが、復古神道(古道学)の大成者といわれる、平田篤胤の教えを受けた影響が窺われます。そして、それは明治政府の「皇国史観」と結びついた侵略主義的領土拡張政策へと、第二次世界大戦の敗戦に至るまで、変わることがなかったのではないかと思います。
 佐藤信淵は江戸時代末期の学者ですが、昭和17年に「皇国精神講座第三輯」として1823年(文政6年)に著わされた佐藤信淵の「宇内混同秘策」が取り上げられていることは、注目すべきことではないかと思います。

 司馬遼太郎が晩年に執筆した『この国のかたち』の中で、
昭和ヒトケタから同二十年の敗戦までの十数年は、ながい日本史のなかでもとくに非連続の時代だった
とか、
日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦に至る四十年間は、日本史の連続性から切断された「異胎」”の時代
とか、
明治の状況では、日露戦争は祖国防衛戦争だったといえるでしょう。
とか書いていますが、やはり違う、とあらためて思います。

宇内混同秘策」には
凡そ他邦を経略するの法は、弱くして取り易き處より始るを道とす。今に当て世界万国の中に於て、皇国よりして攻取り易き土地は、支那国の満州より取り易きはなし。
とあります。また、
支那既に版図に入るの上は、その他西域、暹羅(シャム)、印度亜(インデイア)の国、佚漓鴃舌(シュリゲキゼツ)、衣冠詭異(イカンキイ)の徒、漸々に徳を慕ひ威を畏れ、稽顙匍匐(ケイソウホフク)して臣僕に隷(レイ)せざることを得ん哉。故に皇国より世界万国を混同することは難事に非ざるなり。”
とか、
大泊府の兵は琉球よりして台湾を取り、直に浙江の地方に至り、台州(タイシュウ)寧波等の諸州を経略すべし。
という記述もあります。
 佐藤信淵の記述通り、明治政府は侵略主義的な領土拡張政策をとって日清戦争を戦い、”支那既に版図に入るの上は…”というような意図も持っていたがためにロシアとぶつかり、日露戦争に至ったということではないでしょうか。

 また、「宇内混同秘策・劍懲 皇国精神講座第三輯」の著者、小林一郎は、同書の中で、
佐藤信淵について、
佐藤信淵は徳川時代の末期に生まれた、最も勝れた学者の一人」で「二宮尊徳と一対の人物」であると著者は書いています。但し、「尊徳の方は主として各地方に於ける農業の振興を図るといふことがその一代の主張の大体でありまして、日本の国の力を外に伸ばすといふやうなことに就いては、餘り研究もして居らず、また特に説いて居る所もありませぬ。ところが佐藤信淵の方は二宮尊徳より餘ほど積極的でありまして、無論国力を盛んにしなければならぬのは言ふまでもないのであるけれども、日本が永く日本にのみ限られてはいない、日本は東洋地方の各国民を指導すべき天職を持って居るのだといふやうな確信を持って其の説を立てて居ります。それですから、此の二人の大家に就いて必ずしも優劣を論ずる必要はないのでありますが、各々其の特色があるといふことを認めなければならぬので、尊徳のやうに此の国の内容を充実せしめることに力を尽して行くに就ての意見も尊重すべきでありますが、また信淵のやうに外に全力を伸ばすといふ大理想を以て国内を整頓するといふ考へも、実に卓見と謂はなければならぬのでありまして、此の二人は徳川時代の末期に於ける学者の中に於て、最も大なる光輝を放つて居る人と申して差支へないと思はれます
と評価しています。皇国史観と一体となった領土拡張政策は、明治以来一貫しているのではないでしょうか。
 だから私は、明治維新150年の記念事業に現を抜かし、「文化の日」を「明治の日」に変えようとすることが受け入れ難いのです。
 (旧字体や旧仮名遣いは一部はあらため、一部はそのままにしました。)
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                           宇内混同秘策

  宇内混同大論
 皇大御国(スメラオオミクニ)は大地の最初に成(ナ)れる国にして、世界万国の根本なり。故に能(ヨ)く其根本を経緯(ケイイ)するときは即全世界悉く郡県(グンケン)と為(ナ)すべく、万国の君長(クンチョウ)皆臣僕(シンボク)と為すべし。謹んで神代の古典を稽(カンガフ)るに、青海原潮之八百重(アオウナバラシオノヤホヘヲ)知所也(シラストコロナリ)とは、皇祖伊邪那岐大神(コウソイザナギノオオカミ)の速須佐之男命(ハヤスサノヲノミコト)に事依(コトヨサ)し賜(タマ)ふ所なり。然(シカ)れば、則(スナハ)ち産霊(ムスビ)の神教(シンケウ)を明(アキラカ)に靏して以て世界万国の蒼生(ソウセイ)を安(ヤスン)ずるは、最初より皇国に主たる者の要務たるを知る。曾(カツ)て予(ヨ)が著したる経済大典及び天刑要録等は悉く産霊(ムスビ)の神教(シンケウ)を講究(コウキュウ)したる書にして、即ち全世界を安集(アンジフ)するの法なり。蓋し世界万国の蒼生(ソウセイ)を済救(サイキュウ)するは極めて広大の事業なれば、先づ能く万国の地理形勢を明弁(メイベン)し、其の形勢に従て天意(テンイ)の自然に妙合(ミョウゴウ)するの処置なければ、産霊(ムスビ)の法教(ホウケウ)も得て施すべからざるなり。故に地理学も亦明にせずんばあるべからず。

今夫万国の地理を詳にして、我日本全国の形勢を察するに、赤道の北三十度より起て四十五度に至り、気候温和、土壌肥沃、万種の物産悉く満溢せざること無く、四辺皆大洋に臨み、海舶の運漕(ウンソウ)其便利なること万国無雙、地霊に人傑にして勇決他邦に殊絶し、宇内を鞭撻すべきの実徴(ジッチョウ)全備せり。其形勝の勢自ら八表に堂々として、此神州の雄威を以て蠢爾(シュンジ)たる蠻夷を征せば、世界を混同し万国を統一せんこと何の難きことあらん哉。嗟乎(アア)造物主の皇大御国を寵愛し給ふこと至れり尽せり。蓋し皇大御国も天孫の天降以後は、人君太古神世の法教に敬遵(ケイジュン)従事せずして、遊惰放埒に数多の年所を送り、美女を愛し烈婦を嫌て其天年を傷(ヤブ)り、経済の要務を蔑如(ベツジョ)して無益の経営に奢靡を逞うし、夫妻和せず家政齊(トトノ)はず、兄弟相争ひ親戚相殺して其国家を堕落し、遂に君不君臣不臣(キミキミタラズシンシンタラズ)の風俗と為れり。故に大名持少彦名(オオナモチスクナヒコナ)の規模頽敗して、国体の衰微せしこと既に久し。故に邪魔浮屠等(ジャマフトトウ)の説盛に行はれ、世に真教を知れる者の有ること無きに至れり。故に澆季(ゲウキ)の愚俗(グソク)は、支那、天竺等其国の広大なるを聞き、且皇国の土地小に気勢の弱きを見て、予が混同大論を聞くと雖、或は捧腹(ホウフク)して其の量を知らざる者とし、実に皇国に万国を使令すべき天理のあることを覚ること無し。即ち是下士は道を聞て大に笑ふの諺の如く、所謂笑はざれば道とするに足らざる者是なり。若夫れ斯の如くにして其儘に捨置ものならば、恐くは邪魔に溺るゝ者を永久に救ふべきの期なく、太古神聖の法教も或は世に断絶せんこと嘆ずべきの至りなり。勤めて古道を講明せずんばあるべかあらず。然り而して今の世に当て此道を講明せん者を求んに、予を措て誰ぞや。是経済大典、天刑要録及び此書の作の止むことを得ざる所以なり。然れども世挙て皆悪俗に沈みて予を知る者なし。苦思慷慨(クシコウガイ)すると雖、誰か能く信ずる者あらんや。必や明君出づること有て而して後に用ゐられん者なり。

 抑(ソモソモ)世界の地理を寧(ツマビラ)かにするに、万国は皇国を以て根本とし、皇国は信(マコト)に万国の根本なり。其子細を論ぜん。抑皇国より外国を征するには其勢ひ順にして易く、他国より皇国に寇(アダ)するにはその勢ひ逆にして難し。其皇国より易くして他国より難しと云ふ所以は、今世に当て万国の中に於て土地最も広大に物産最も豊穣、兵威最も強盛なる者を撰ぶときは、支那国に如くものあらんや。而して支那は皇国に隣接密邇(ミツジ)なりと雖、支那全国の力を尽して経略するとも皇国を害すべきの策あることなし。若し、暴戻の主ありて、強て大衆を出して寇を為すこと胡元の忽必烈(クビライ)が如く、盡国(ジンコク)の衆を起すと雖も、皇国に於ては少しも恐るゝに足らずして、彼国に於ては莫大の損失あり。故に一度は来ると雖も、再三すること能はざるは論を俟ざることなり。又皇国より支那を征伐するには、節制さへ宜きを得れば五七年に過ぎずして彼国必土崩瓦解(カノクニカナラズドホウガカイ)するに至る可し。何となれば皇国にては兵を出すの軍費甚少なしと雖も、彼国に於ては散財極て広大なるを以て此に堪(タフ)ること能はず。且其国人奔命(ソノクニニンボンメイ)に疲労するを奈(イカ)んともすること無し。故に皇国より他邦を開くには、必ず先づ支那国を呑併するより肇(ハジマ)る事なり。既に上に云へる如く、支那の強大を以て猶ほ皇国に敵すること能はず、況(イワン)や其他の夷狄(イテキ)をや。是れ皇国には天然に世界を混同すべき形勝あるが故なり。故に此書は先づ支那国を取るべきの方略を詳にす。支那既に版図に入るの上は、その他西域、暹羅(シャム)、印度亜(インデイア)の国、佚漓鴃舌(シュリゲキゼツ)、衣冠詭異(イカンキイ)の徒、漸々に徳を慕ひ威を畏れ、稽顙匍匐(ケイソウホフク)して臣僕に隷(レイ)せざることを得ん哉。故に皇国より世界万国を混同することは難事に非ざるなり。

 然れども将に疆外(キョウガイ)に事有んとするには、先づ能く内地を経綸すべし。其根底の堅固ならずして枝葉の繁衍(ハンエン)する者は、或は本傾くの患(ウレヒ)を発することあり。故に日本全国の地理を講明し、山海の形勢を弁論すべし。凡四海を治るには先づ王都を建てずんばある可らず。王都は天下の根本なるを以て、形勝第一の地を撰ぶべし。浪華は四海の枢軸にして万物輻輳の要津(ヨウシン)なり。然れども分内狭く人民極て多く、土地より生ずる所の米穀、或は居民を食(ヤシナ)ふに足らず。故に此地に大都を建てば、皇居は深く慮(オモンバカル)るべき所あり。然れば王都を建つべきの地は江戸に如くものあることなし。関東は土地広平にして沃野千里、且相模、武蔵、安房、上総、下総の五洲を以て内洋を包み、斗禰(トネ)及び秩父、鬼怒、多摩の四大河内洋に注ぐを以て、水路能く通流し百穀百果其他諸国の産物運送甚便なり。万貨豊穣、人民飢餓の患あること鮮(スクナ)く、殊に峩々たる崇山三方を圍繞(イジョウ)し、以て他鎮と境界を分ち、只東方一面大洋に濱(ヒン)し、進では以て他国を制すべく、退ては以て自ら守るに餘(アマリ)りあり。郊野曠廣にして馬強健、人民衆多(シウタ)にして勇壮、実に形勢天下に雄たり。凡そ重に居て軽を馭(ギョ)し、強を以て弱を征する永静の基礎を立るに宜し。故に王都を建の土地は江戸を以て第一とす。王都を此地に定て永く移動すること無るべし。浪華も亦天然の大都会なれば此を西京(セイキョウ)として別都と為すべし。其他駿河の府中、尾張の名護屋、近江の膳所、土佐の高知、大隅の大泊、肥後熊本、筑前博多、長門萩、出雲松江、加賀金澤、越後の沼垂、奥州の青森及び仙台、南部、以上十四所には省府を建て、節度大使を置き、以て各部内の政事を統理せしむべし。

 上に説たる如く東西両京並立て、且別に四海を分て十四の省を置き、仁義を篤行つて律令を厳密にするに非ざれば、日本全国を我手足の如く自由にすること能はず。若夫れ自国の運動猶癱瘓(タンタン)するが如きは、豈他邦を征するに遑あらん哉。東西両京既に立ち、十四省府も既に設け、経済大典の法教既に行はれ、総国の人民既に安く、物産盛に開け貨財多く貯へ、兵糧満溢れ武器鋭利に、船舶既に裕足し、軍卒既に精錬し、而して後に肇て海外に事あるべし。且又日本の土地の妙なることには、南方には敵国あること鮮(スクナ)し。故に意を専らにして北方を開くことを得べし。若し南海に寇(アダ)あるに及では防禦すること甚難く、動(ヤヤ)もすれば皇居も騒擾して忽ち困窮を受るに至る。故に海外に事ありと雖も、東西二京は勿論のこと、駿府名古屋のニ省も、亦大衆を動すこと勿れ。高知省と雖も妄に衆を動さずして、唯五六千人の軍卒と五六十の軍船を出して、南海中の無人島を開き、漸々其南に在る諸島を開発して皇国の郡県と為し、其地の産物を採り集て本邦に輸(イタ)し、以て国家の入用に供すべし。此南海の諸島を比利皮那(ヒリピナ)の諸島と名く。大小七八百ありて、東西千里、南北八百里許(バカリ)の海中に散在す。大抵無人島にして人の居住するは少なし。然れども此諸島は何れも気候炎熱に、土地肥沃なるを以て、丁字(チョウジ)、肉桂(ニクケイ)、サフラン、胡椒、甘松、木香、檳榔子(ビンラウジ)、大黄、縮沙(チシャ)、椰子、良姜(リヤウキヤウ)、黒檀、タガヤサン、及び鮫甲(サメノカフ)、真珠等、種々貴重なる薬品香料の産物出す。廃置(ステオク)べきに非るなり。是れ啻(タダ)に物産を開くのみならず、東京の為に海上を守るなり。国家を経営する者は、察せずんばあるべからざるなり。

 凡そ他邦を経略するの法は、弱くして取り易き處より始るを道とす。今に当て世界万国の中に於て、皇国よりして攻取り易き土地は、支那国の満州より取り易きはなし。何となれば満州の地、我日本の山陰及び北陸、奥羽、松前等の地と海水を隔て相対するもの凡そ八百餘里、其勢ひ固(モト)より擾(ミダ)し易きことを知るべし。事を擾(ミダ)し騒すにも亦当(マサ)に備(ソナヘ)なきの處を以て始めとし、西に備るときは東を乱妨し、東に備るときは西を騒擾せば、彼れ必ず奔走して之を救ふべし。彼が奔走するの間には、以て其虚実強弱を知るべし。而して後に実する處を避て虚なる處を侵し、強を避て弱を攻め、必ずしも大軍を用るにも及ばず、暫くの間は先づ軽兵を以て之を騒擾すべし。満州の人は躁急にして謀(ハカリゴト)に乏(トボシ)く、支那人は懦怯(ダケフ)にして懼(オソ)れ易し。少しく警(イマシ)めあるも必ず大衆を以て之を救はん。大衆度々(タビタビ)動くときは、人力疲弊して財用歇乏(ザイヨウケツバフ)すべきこと論ずるに及ばず。況や支那の王都北京より満州海岸に往復するには、沙漠遼遠にして山谷極て険難なるをや。然るに皇国より之を征するには、僅か百六七十里の海上なれば、順風に帆を挙るときは一日一夜に彼が南岸に至る。其西すべきも東すべきも舟行(シウカウ)甚だ自在なり。若又支那人大衆を以て防守せずして、何れの處も空虚ならば、我国の軍士以て虚に乗じて之を取るべし。此(カク)の如くなれば黒龍江の地方は、将に悉く我が有と為らんとす。既に黒龍江の諸地を得るときは、益産霊(マスマスムスビ)の法教をを行ひ、大(オホイ)に恩徳を北方の夷人に施して之を撫納帰化(ブナフキカ)せしめ、彼の夷狄(イテキ)を用ひて皇国の法を行ひ、能く撫御統轄(ブギョトウカツ)して漸々西に向はしめば、混同江の地方も亦取易きなり。既に吉林城を得るときは、即ち支那韃靼(ダッタン)の諸部必ず風を望(ノゾミ)て内附すべし。若其稽首(ケイシュ)して到らざる者は、兵を移して之を討んに此れも亦便宜に従ふべし。韃靼既に定らば則ち盛京(セイキャウ:今の瀋陽)も亦其勢ひ危く、支那全国まさに震動すべし。故に皇国より満州を征するには、之を得るの早晩は知るべからずと雖ども、終には皇国の有と為らんことは必定にして疑なき者なり。夫啻に満州を得るのみならず、支那全国の衰微も亦此れより始ることにして、既に韃靼を取得るの上は、朝鮮も支那も次で而て図るべきなり。

 茲に其子細を詳らかにするに、満州の極北境に黒龍江と名(ナヅク)る大河あり。此大河の海に注ぐ處は、我蝦夷の唐太島(カラフトトウ)と僅十餘里の海水を隔(ヘダツ)るのみ。此處(ココ)は支那の王都北京城より七百里程離れたる地にて、飛脚を走らしむるにも凡そ八九十日かゝらざれば達すること能はず。然れども要樞(ヨウスウ)の地なるを以て、斎々哈爾(シシカル=チチハル)と云處(イフトコロ)に城を構へ、支那の北京より一人将軍を遣(ツカハ)して軍卒を置て此地を鎮護せしむ。故に唐太島の北辺には、支那人居住する者恒(ツネ)に少なからず。総て此辺は北極出地五十五度の外に在るを以て、気候寒冷にして穀物を生ぜず、土人は魚類鳥獣草根木皮等を食物とし、我蝦夷人と異なること無し。又軍士の食糧は遥に支那の本国より輸送するを以て、常に五穀の乏きに困(クルシ)む。故に此地にて米穀を悦ぶこと金玉よりも甚し。然るに我奥羽及び古志等の諸州米穀を生ずること夥くして、恒に食餘の腐朽するを憂ふ。有餘を移して不膽(フゼン)を救ふは即ち産霊(ムスビ)の法教なり。今此北州の餘米(ヨマイ)を運送して蝦夷国の諸港に積蓄(ツミタクワ)へ、青森省と仙台省より軍船と人数を出し、蝦夷の諸島に於て水軍の戦法を操練し、且此人を以て漸々唐太島の北境を開き、此地に越年せしめて能く寒地の風土に馴習はし、別に清官及び怜悧なる商官等を遣はし、彼国の土人と交易を通ぜしめ、厚く酒食等を施して土地の夷狄を悦ばし、産霊(ムスビ)の法教を説示して益(マスマス)土人を教化帰服せしめ、次に黒龍江に近寄て大に恩徳を施し、利を与へ物を恵で多くの米穀を輸送し、交易と云ふと雖ども利分に拘はることなく、醇酒(ジュンシュ)と美食とを贈て彼土の居人撫すべし。凡そ血気ある者は恩を悦んで徳に帰せざること無し。況や人類に於てをや。彼等是まで草根木皮を食とせしを、之に代はるに皇国の糧米を以てし、馬湩(バトウ)を飲て宴楽せしを、之に代るに醇良の美酒を以てせば、誰か歓喜して信服せざる者あらんや。三年を過ぎずして四方風動せん。

 支那人、夷狄の皇国の法教に靡くを探り得ば、必ず痛く皇国の通津(ツウシン)を禁ずべし。夫れ経済の大典は、掛(カケ)まくも畏き産霊(ムスビ)の神教にして、世界万国の蒼生を救済すべきの法なり。然るに之を拒むに至ては即ち天地の罪人なり。惟(コレ)皇上帝降衷于下民(オホイナルジョウテイチュウヲカミンニクダス) 。若有恒性(ツネノセイアルニシタガヒ)。克綏厥猷惟后(ヨクソノイフヲヤスンゼシムルハコレキミナリ)とは、支那国にても皆人の知る所なり。満州の夷人古来食物に艱(ナヤ)む。懋(ツトメ)て有無を遷し之れに粒食せしむるは天道なり。然るに支那国王其猷(イウ)を綏(ヤスン)じて其民を贍救(センキュウ)し、之を救済して粒食(リュウショク)せしむること能はず、草根木皮を食料とし牛馬の湩(トウ)を飲料とす。夫れ食草ひハ馬湩(バトウ)飲むは 、此豈人恒生ならんや。人類は悉く天地の子也。人類にして粒食に艱(ナヤ)むを愍恤(ビンジュツ) せざるベけん乎。故に皇国の有餘を遷して彼土の不足を救ふ、固(モト)より天意を奉行するなり。然るに支那人之を拒む、何の暴虐か此より大なるもの有ん哉。惟天恵民(コレテンタミヲムグム)、惟辟奉天(コレキミテンヲホウズ)と。天意を奉りて万国の無道を正すは、草昧(ソウマイ)より皇国の専務たり。於是乎軍(ココニオイテカグン)を出し黒龍江を攻伐(コウバツ)して天罰を行ひ、以て蒼生の悪俗に沈むを救ふべし。

 而して其軍を出すの次第は、先づ第一に青森府、第二に仙台府、此二府の兵は以前より唐太島(カラフトトウ)を開発して彼地に越年し、寒地の風土に馴たる者共なれば先陣に進み、黒龍江より西南コメル河、センケレ河、エレ河、ヨセ河、ヤラン河等の地方に軍船を駕寄(ノリヨセ) て、或は上陸して土人に穀類、美酒等施して夷狄を撫納し、或は處々(ショショ)戍兵(ジュヘイ)あるの営塞等を焼払て敵の軍卒を打取り、或は防守の厳重なる場所は、上陸せずして船より大筒火箭等を打掛けて海岸を騒擾し、或は備なくんば次第に進み、駕込(ノリコ)んで
或は戦い、或は食物を施して夷人を撫すべし。第三に沼垂府、第四金澤府此二府の兵も軍船数十隻ばかりを一手として、朝鮮国の東なる満州の華林河、ヤラン河、クリエン河、ナルキン河等の辺りに至り、青森仙台の兵と同じく處々にて種々の計策をを行ひ、敵国を悩煩(トウハン)せしむるを主とし、右四府の兵七八千を以て満州八百里の海岸を周旋し、透間を伺ひ上陸し、各(オノオノ)思付たる働を為すべし。如斯(カクノゴトクすること四五年及ばゞ、支那人大に困窮して、終(ツイ)には満州を守ることを得ずして黒龍江の諸部は悉く我が有となるべし。其れより漸々混同江を征伐して吉林城を攻落し、夷狄を撫納駕御して盛京攻(セム)べし。、第五には松江府、第六に萩府、此二府は数多の軍船に火器車筒等を積載て朝鮮の東海に至り、咸鏡、江原、慶尚三道を経略すべし。

 第七には博多府の兵は数多の軍船を出して朝鮮国の南海に至り、忠淸道の諸州を襲ふべし。朝鮮既に我が松江と萩府の強兵に攻られ、東方一円に寇(アダ)に困(クルシ)むの上は、南方諸州は或は空虚なる處あるべし。直に進で之を攻め、大銃火箭(オオヅツカヤ)の妙法を尽さば、諸城皆風を望で奔潰(ホウカイ)すべし。乃(スナハ)ち其数城を取て皇国の郡県と為し、淸官(セイクワン)及び六府の官人を置き産霊(ムスビ)の法教を施し、厚く其民を撫育(ブイク)して教化に帰服せしめ、此處(ココ)より又軍船を出して時々兵を渤海辺に輝かし、登州萊州の(トウシュウライシュウ)の濱海諸邑(ヒンカイショイフ)を擾(ミダ)さしむべし。又青森仙台沼垂金澤四府の兵、各其本省より人数を増し加へ、大衆を以て盛京を攻べく、且韃靼(ダッタン)諸部の夷狄等も皇国の恩徳に心服せば、此も亦大衆を会して支那を攻むべければ、盛京も守ることを得べからず。況や我火述の妙を以て之を攻るに至ては、如何なる堅城も防禦することを得べからざること論ずるにも及ばず。盛京既に守らざるに至ては、北京も亦守ることを得べからずして、淸主必ず陝西(センセイ)に走るべし。或は走らずして北京を防守すと雖ども、皇国の雄兵既に満州を席巻して盛京(セイケイ)を攻落し、別師は朝鮮国を統平して鴨緑江を渡り、七府の大兵悉く遼陽に会し、連勝の利に乗じ進で山海関に到達せば、智者も守るべきの策なく、勇者も戦ふべきの勢ひなからん。

 第八には大泊府の兵は琉球よりして台湾を取り、直に浙江の地方に至り、台州(タイシュウ)
寧波等の諸州を経略すべし。支那人既に迫近(ハクキン)の強敵に困(クルシ)むに至ては、遠近の難を救ふことを得べからず。諸城皆争て欵を請ふにあらざれば必ず城を棄てて奔潰(ホウクァイ)すべし。況や我火攻法の防ぐべきの述なきをや。唯其人を殺すことを憐れむが為に、三銃の偉器(イキ)を用ひずして撫諭して降らしむるを要とすべし。故に何れの府よりも兵を出すの大将には、必ず教化台の小師か亜師を用るものは、壇殺(センサツ)の禁を厳にするが故なり。能々(ヨクヨク)土人を憐れみ愛して、篤く恩徳を施して之を撫諭すべし。然りと雖ども迷いを執て天朝に帰服せず、痛く天兵を拒みて防戦する者に至ては、悉く殺して許すこと勿れ(ナカ)れ天罰を行ふなり。是即ち天罰を行ふなり。

 第九には親征(シンセイ)なり。供奉(クブ)には必ず熊本府の兵を従ふ。親征するには先づ諸方の皇師(=皇軍)の形様を校(ウカガ)ひ、支那国王所謂淸主なる者の既に困苦するを探得て而して後に渡海すべし。先陣の兵は直に江南の地方を衝(ツ)き、早く南京應天府を取り、之を仮皇居と為すべし。乃ち支那人の文才ある者を登用して、淸主の邪魔左道を崇信して天地の神意を蔑如(ナイガシロ)にし、痛く皇国の法教を拒み、人類の難食憐まず、罪を皇天に得たるを以て、天罰を行て蒼生を救ふの趣の大誥を作らしめ、周(アマネ)く天下に檄し、新附の支那人を憐み、其材あるものは悉く之を選用して官にあらしめ、且又明室の子孫たる朱子を立て上公に封じ、其先祖の祭祀を祗祀(キシ)せしめ大に慈徳を施して篤く支那人を撫育すべし。信(マコト)に能く此策を用ひば、十数年の間に支那全国悉く平定すべし。既に韃靼と支那とを統一するの上は、益々産霊(ムスビ)の法教を明にし、万民の疾苦(シック)を除き、處々に神社を造営して皇祖の諸大神を祭り、学校を興立(コウリフ)し十科の人材を起し、日夜勉強して長く怠ることなく、子孫永久能く祖業を拡充し、天意を奉行して間断(カンダン)することなければ、全世界皆皇国の郡県と為り、万国の君長も亦悉く臣僕に隷せんこと論を俟たずして自ら明なり。

 然りと雖ども経済大典を憲章(ケンショウ)せざれば、自国も安集すること能はず。産霊(ムスビ)の法教を行ふと雖も、天刑要録の兵制なければ、勍敵(ケイテキ)をして奪魄(ダツハク) せしむること能はず。三台六府の政教も、三銃妙用の武備も共に完しと雖ども、世界万国の地理を講明して、其形勢の便宜に従て節度処置の妙を尽さゞれば、宇内混同の大業を成就すること能はず。混同の業に従事する者は、心を尽さゞる可けん乎。予深く上天喣育(ジョウテンクイク)の大恩に感じ、竊(ヒソカ)に六合を括囊(カツナフ)するの意あり。然れども奈(イカ)んせん家貧にして年の老いたることを。於是乎(ココニオイテカ)此書を筆記し、題して混同秘策(コンドウヒサク)と名け、聊か以て晩遠の鬱憤を写し固封して児孫に遺す。嗟乎(アア)後来の英主宇内を鞭撻するの志ある者は、先づ此編を熟読せば、思ひ半ばに過ぎん者なり。

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”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI


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福沢諭吉 日清戦争と時事新報

2018年05月04日 | 国際・政治

 福沢諭吉は、儒教を中心とする東洋の旧習に執着し、西洋文明を拒む者を批判し続けました。しかしながら、日本には西洋の文明をそのまま持ち込むことが難しい独自の文明があり、欧米とは異なる現実があるため、それらと折り合いをつけつつ、社会状況や政治状況にあわせて書いた福沢諭吉の文章が、時によって変化し、結果的に矛盾を孕む一貫性のないものになってしまったことは否定できないと思います。また、時の政権と距離をおいた時期があり、近い時期があったことも、いろいろな面で影響したのではないかと推察します。

 だから、福沢諭吉の思想の本質がいったいどこにあるのかをつかむことは、私にはできませんが、日清戦争当時の彼の言動が、現代に至る日本の歴史にとって、二つの点で極めて重要な意味をもつのではないかと思っています。

  一つは、自ら創刊した時事新報の社説に、”日清の戦争は文野の戦争なり”と掲載し、侵略戦争である日清戦争を煽るとともに、政府と対立する議会を批判し、戦費の募金運動を展開したり戦費募金組織「報国会」を結成したりして、日清戦争を支えた事実です。

 もう一つは、侵略戦争を煽ったのみならず、文明と野蛮の戦争だとして、くり返し中国や朝鮮を非難・酷評し、多くの日本人に”蔑視感情”を広げ、深めたという側面です。それは、日清戦争の勝利によって、日本人の当たり前の感情となり、その後の戦争にも影響して、現在に至っているのではないでしょうか。
 最近、いろいろな場面で、「嫌韓」や「嫌中」というような言葉を耳にし、また目にしますが、福沢諭吉の「脱亜論」にあるようなアジア認識と共通するものがあるように思います。 
 
 私は、福沢諭吉の様々な政治的主張が、欧米おけるような近代市民社会の確立のためではなく、明治政府よって進められた皇国史観に基づく専制主義的な政治を支えるためになされたことをきちんと見る必要があると思います。”我帝室の一系萬世にして、今日の人民が之に依て以て社會の安寧を維持する所以のものは、明に之を了解して疑はざるものなり”という文章などが、そのことを示しているのではないかと思います。したがって、福沢諭吉の一般的評価には、疑問を感じます。

 資料1は「福沢諭吉 思想と政治との関連」遠山茂樹(東京大学出版会)から抜粋したのですが、王政復古前後の福沢諭吉の言動として記憶しておきたいと思いました。
 資料2は、「文明論之概略」の一部で、西洋文明に関する考え方をよく示していると思います。
 資料3は、「福沢諭吉全集第五巻」(慶應義塾編纂・岩波書店刊行)から、「帝室論」と「時事小言」のごく一部を抜粋しました。「帝室論」では、”我帝室は日本人民の精神を収攬するの中心なり。其功徳至大なりと云ふ可し”と書いています。その意味するところはどうあれ、結果的に「天皇制絶対主義」ともいわれる明治の政権を支える内容だと思います。
 また、「時事小言」では、”我輩は権道に従ふ者なり”と、弱肉強食の世における生き方を書いています。”一旦事あるに臨みては財産も生命も又栄誉をも挙て之に奉ずるこそ真の日本人なれ”の記述は、教育勅語を思い起こさせます。
 第二編の「政権之事」では、明治政府を後押しするかのように、”第一政務の権力を強大にして護国の基礎を立ること、第二にこの大義を実際に施行するが為めに国庫を豊にすること、第三に全国資力の源を深くするが為に農工商を奨励保護して殖産の道を便ならしむること、以上三項は今日我輩の所見に於て至急の急とする所のものなり”と書いています。自由民権運動を抑え込むような考え方をしていたのだと思います。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                          Ⅱ 幕臣としての進退
1 藩・幕府との関係

 慶応二(1866)年の第二回長州征伐の際、福沢諭吉は、外国の兵を借りても、長州藩を征服せよという建白書を書いて幕府の要路に提出した。このことは、福沢の性格と思想とを知る者にとって、おどろくべき言動だといわなければならない。彼は、わが国の独立をはかるを終生の目的とし、外にたいし国権を張るためには、内の争いを停止せよと主張した。それが彼の思想の核心だと考えられているからである。
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 また同じ自伝で「私は幕府の用をして居るけれども、如何なこと幕府を佐けなければならぬと云ふような事を考えたことがない」といい、幕府の門閥・圧制・鎖国主義は嫌いでこれに力をつくす気はなく、さればとて勤王家は、幕府よりいっそうはなはだしい攘夷家で、こんな乱暴者を助ける気はもとよりなかったとのべた。戊辰戦争のときも、彼は「官軍」にも「賊軍」にも偏せず党せず、上野の戦争の最中にも慶應義塾での講義をやめず、「此塾のあらん限り大日本は世界の文明国である、世間に頓着するなと申して、大勢の少年を励げましたことがあります」と誇らしげに語っている。この「政治に関係しない顛末」の強調は、たびたびの勧誘をしりぞけ明治政府に仕えず、独立自尊をモットー
に、在野の立場に終始し、現実の政治的対立をこえた、より高所からの政治の批判者、明日の建設のための教育者という学者の任務を説いた福沢の言にふさわしいものとして受けとられている。
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資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                           文明論之概略 巻之六
第十章 自国の独立を論ず

 前の第八章第九章に於て、西洋諸国と日本との文明の由来を論じ、その全体の有様を察してこれを比較すれば、日本の文明は西洋の文明よりも後(オク)れたるものといわざるを得ず。文明に前後あれば、前なる者は後(アト)なる者を制し、後なる者は前なる者に制せらるるの理なり。昔、鎖国の時にありては、我人民は固(モト)より西洋諸国なるものを知らざりしことなれども、今に至(イタ)りては既にその国あるを知り、またその文明の有様を知り、その有様を我に比較して前後の別あるを知り、我文明の以て彼に及ばざるを知り、文明の後るる者は先だつ者に制せらるるの理をも知るとき、その人民の心に先ず感ずる所のものは、自国の独立如何(イカン)の一事にあらざるを得ず。

資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
帝室論
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 我輩は赤面ながら不学にして、神代の歴史を知らず又舊記に暗しと雖ども、我帝室の一系萬世にして、今日の人民が之に依て以て社會の安寧を維持する所以のものは、明に之を了解して疑はざるものなり。この一點は皇学者と同説なるを信ず。是即ち我輩が今日国会の将に開んとするに当て、特に帝室の独立を祈り、遥に政治の上に立て下界に降臨し、偏なく党なく、以て其尊厳神聖を無窮に傳へんことを願ふ由縁なり。
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 此人心を収攪するに、専制の政府に於ては君主の恩徳と武威とを以てして、恩に服せざるものは威を以て嚇し、恩威竝行はれて天下太平なりし事なれども、人智漸く開て政治の思想を催ふし、人民参政の権を欲して将さに国会を開んとする今日に至ては、復た専制政府の旧套を学ぶ可らず。如何となれば国会爰に開設するも、其国会なる者は民選議員の集る處にして、其議員が国民に対しては恩徳もなく又武威もなし。国法を議決して其白文を民間に頒布すればとて、国会議員の恩威竝行はる可きとも思はれず、又行はる可き事理に非ざればなり。国会は直に兵権を執るものに非ず、人民を威伏するに足らず。国会は唯国法を議定して之を国民に頒布するものなり。人民を心服するに足らず。殊に我日本国民の如きは、数百千年来君臣情宜の空気中に生々したる者なれば、精神道徳の部分は、唯この情宜の一点に依頼するに非ざれば、国の安寧を維持するの方略ある可らず。即ち帝室の大切にして至尊至重なる由縁なり。況や社会治乱の原因は常に形態に在らずして精神より生ずるもの多きに於てをや。我帝室は日本人民の精神を収攬するの中心なり。其功徳至大なりと云ふ可し。国会の政府は二様の政党相争ふて、火の如く水の如く、盛夏の如く厳冬の如くならんと雖も、帝室は独り万年の春にして、人民これを仰げば悠然として和気を催ふす可し。国会の政府より頒布する法令は、その冷なること水の如く、其情の薄きこと紙の如くなりと雖も、帝室の恩徳は其甘きこと飴の如くして、人民これを仰げば以て其慍(イカリ)を解く可し。何れも皆政治社外に在るに非ざれば行はる可らざる事なり。西洋の一学士、帝王の尊厳威力を論じて之を一国の緩和力と評したるものあり。意味深遠なるが如し。我国の皇学者流も又民権者流もよく此意味を解し得るや否や。我輩は此流の人が反復推究して、自から心に発明せんことを祈る者なり。
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時事小言
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 …余曾て伝へることあり。金と兵とは有る道理を保護するの物に非ずして、無き道理を造るの器械なりと。蓋し本文の意なり。危険も亦甚しからずや。彼の正論は坐して無戦の日を待つことならんと雖も、我輩の所見に於ては、西洋各国戦争の術は今日漸く卒業して今後益盛んなることとこそ思へ。近年各国にて次第に新奇の武器を工夫し、又常備の兵員を増すことも日一日より多し。誠に無益の事にして誠に愚なりと雖も、他人愚を働けば我も亦愚を以て之に応ぜざるを得ず。他人暴なれば我亦暴なり。他人権謀術数を用いれば我亦これを用ゆ。愚なり暴なり又権謀術数なり、力を尽くして之を行ひ、復た正論を顧るに遑あらず。蓋し編首に云へる人為の国権論は権道なりとは是の謂にして、我輩は権道に従ふ者なり。
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 西洋諸国に物産工業の盛なるは決して偶然に非ず。陰陽五行論の中に教育せられたる我東洋人の未だ及ぶ可らざるや明なり。其業盛なれば其製造は巧にして其価は必ず廉なり。又其物品の運転売買の法に於ても専ら学問上に基き、大体を論ずるには経済学あり、実際に於ては銀行の法あり、保険の法あり、会社の法、簿記の法、些細の事に至るまでも自ら一課学の体裁を成して之を教へ之を習ふて然る後に実地に施す其趣は、恰も師を出すに平生軍法を研究して進退自ら定則ある者に異ならず。之を彼の人々個々の手練を以て商業に従事する者に比すれば固より同日の論に非ず。今この諸国に敵対して工商鋒を競はんとするは実に容易ならざることと知る可し。加之(シカノミナラズ)各国交際の定法、又商売の性質に於て利を争はざる者なし。先方に如何なる不利あるも何等の不都合なるも誰か之を顧る者あらんや。利益を貪り尽して其極度に止まる可きのみ。而して其これを争ひ之を貪るの法一様ならず。或は学者の私論を以てすることあり。英国の如き人力の製造品多くして世界中に輸出を利とするものは、其国の学者大概皆自由貿易の説を主張し、亜米利加(アメリカ)合衆国の如き天然の産物に富て製造未だ盛なるの極に至らざる者は保護の主義を唱え、議論百出止むときなしと雖も、結局自国の利を謀るより外ならず。此れは是れ学者論客の事として、此外に又貿易商売を助ける一大器械あり。即ち軍艦大砲兵備是なり。各国の人民相互に貿易するには各貿易の条約ありて、其取扱に就ては双方派遣の公使・領事等に智愚もあらん。又其人民の商業に巧拙もあらんと雖ども、結局の底を叩て吐露すれば、貿易の損益も亦其国の兵力如何に在て存するものと云て可ならん。
方今合衆国にては諸外国より輸入の製造品に非常なる重税を課すれども、世界中の列国これに嘴(クチバシ)を容(イ)るゝ者あるを聞かず。又英人は阿片を名る毒薬を支那に輸入して、支那人は金を失ひ人命を害し、年々歳々国力の幾分を損すれども之を咎むる者なき其際に、支那の人民が亜米利加に行き節倹勉強して僅に資産を作る者あれば、亜米利加はこれに驚き我国財を失ふとて支那人を放逐せんとするの議あり。現に英領「オースタラリア」州にては、支那人の渡来して同州の金山に働かんとする者あれば、其人別に五「ポンド」の関税を課して恰も節倹勉強者の侵入を防ぐと云ふ。今試に東洋の一国をして亜米利加の例に效(ナラッ)て頓に非常の海関税を課することあらしめなば如何。支那人と英亜人と地位を易へて其事を行はしめなば如何。列国の政府も人民も異口同音、否と云はんのみ。其然る由縁は何ぞや。様々に口実を唱る者はある可しと雖も、我輩は其事の底を叩て、単に国の強弱に由るものなりと明言せざるを得ず。
 又貿易上に恐る可きものは、兵力の外に金力なるものあり。西洋諸国の人民は資産に富む者多くして、凡そ世界中富豪の大半は欧羅巴亜米利加に在りと云て可なり。
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 …外国の交際易からずと雖ども、苟も日本人の名ある者は、直接に間接に之を負担せざる可らず。無事の日に之を忘れざるは勿論、一旦事あるに臨みては財産も生命も又栄誉をも挙て之に奉ずるこそ真の日本人なれ。結局この擔任は日本人の名尽きて止むものと知る可し。
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 …外の艱難を知て内の安寧を維持し、内に安寧にして外に競争す。内安外競、我輩の主義、唯この四字に在るのみ。内既に安し、然ば則ち消極を去て積極に向ひ、外に競争する所以の用意なかる可らず。
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第二編 政権之事
 
 前編に内安ければ則ち外に競ふの用意なかる可らずと云へり。其目甚だ多しと雖ども先づ一、二を挙れば、第一政務の権力を強大にして護国の基礎を立ること、第二にこの大義を実際に施行するが為めに国庫を豊にすること、第三に全国資力の源を深くするが為に農工商を奨励保護して殖産の道を便ならしむること、以上三項は今日我輩の所見に於て至急の急とする所のものなり。譬へば国に政府あるは、猶家に主人あるが如く、会社に頭取支配人あるが如く、又邸地に居宅あるが如し。其家を見るに主人に権なく、其会社に於ては頭取支配人の差図に従ふ者なく、又某邸地を見るに地坪は幾万坪にして主人の居宅は則ち一小茅屋、以て此屋鋪は此家に属し此家を以て此屋鋪を支配すると云ふも、実際不釣合にして屋鋪中を支配することも難く、隣屋鋪と竝立して交際も叶はぬことならん。何れも皆事物の権衡を失ふものなり。左れば一国あれば其大小貧富に準じて一政府を立て、政府と国と至当の釣合あるものなるに、今我日本国と日本政府との大小は果して其釣合を得たるものと云ふ可らず。是れ我輩が前の三項を以て急とする由縁なれども、読者は果たして之に異議なき歟。我輩竊(ヒソカ)に思ふ。今の学者論客に於ては必ず少しく之に異議ある可しと。如何となれば、学者論客は近年に至て漸く民権なることを唱へ出し、今の政府の行政上に向て攻撃を試み、政府の一挙一動、これも非なり其れも不都合なりとて、演説に新聞に、其目的とする所は結局政務の権力を縮めて民人の権力を伸さんと欲する者なればなり。譬へば長さ一尺の権力を官民の間に争ひ、一寸にても政府の権を縮むれば、其縮まりたる長さは人民に帰するものと思ひ、只管(ヒタスラ)政府の退縮を熱望する者の如し。固より彼の少年血気の輩が巡査と大議論して曲直を争ふが如きは、深く咎るに足らずとして之を擱くも、或は天下の与論を写出すなどゝ自ら称して自得する学者論客に至るまでも、其実は熱心煩悶して方向を分たざる此時に当て、政務の権力を強大にする云々と説来たらば、未だ其説の半をも聞かずして先づ否と云ふことならん。我輩其情を知らざるに非ずと雖ども、試みに其人の為に惑を解かざるを得ず。蓋し世の学者論客は其思想に混雑する所のもの有て、明に躬から其企望を訴ること能はず。或は之を訴るも、其これを訴る所以の原由を明にするを得ず。之譬へば朴訥不文なる田舎漢(イナカモノ)が、病に罹り其医療を希ふて、躬から容体を訴ること能はず者の如し。我輩試に代て容体を述べん。若し其所述のもの果して患者に敵中しるあらば、同病相憐むの情を以て今後共に方向與にす可きなり。

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