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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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古文献における尖閣諸島と無主地先占の疑問その3

2012年09月26日 | 国際・政治
 <古賀辰四郎という人物が、沖縄近海の尖閣諸島(釣魚諸島)で海産物やアホウ鳥の羽毛の採取による事業をすすめるため、1885年に沖縄県に土地貸与を願い出たので、沖縄県が政府に日本領とするよう働きかけた。それを受けた政府が、現地調査の結果「無主地」と判断し、尖閣諸島(釣魚諸島)の領有が1895年に閣議決定された>という話は、下記の「沖縄県令西村捨三」の文書と「外務卿伯爵井上馨」の文書を読むと、とても真実とは思えない。
 沖縄県ではなくて内務省がこの島を領有しようとして、沖縄県に調査するよう「内命」を発しているのである。なぜ「内命」であったのかということが重要であるとともに、沖縄県令西村捨三も外務卿井上馨も尖閣諸島(釣魚諸島)が無主地でないことを意識して対応していたことが分かる。
 特に、直ちに領有を決定しようとする内務卿山県有朋に対する外務卿井上馨の返信には「近時、清国新聞紙等ニモ、我政府ニ於テ台湾近傍清国所属ノ島嶼ヲ占拠セシ等ノ風説ヲ掲載シ、我国ニ対シテ猜疑ヲ抱キ、シキリニ清政府ノ注意ヲ促ガシ」と書かれているのである。これを「無主地」として領有を閣議決定したのは、日清戦争の勝利が確定的となり、沖縄県令のいう「懸念」がなくなったからであり、また井上馨のいう「他日の機会」が到来したからであると考えざるを得ない。合法的・平和的に無主地先占されたとは考えられないのである。「尖閣列島-釣魚諸島の史的解明」井上清(第三書館)からの抜粋である。
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11 天皇政府は釣魚諸島略奪の好機を9年間うかがいつづけた

 ・・・
 琉球政府や日共は、85年に古賀の釣魚島開拓願いをうけた沖縄県庁が、政府に、この島を日本領とするよう上申したかのようにいうが、事実はそうではなく、内務省がこの島を領有しようとして、まず、沖縄県庁にこの島の調査を命令した。それに対して、沖縄県令は85年9月21日次のように上申ししている。

 「第315号

  久米赤島外二島取調ノ儀ニ付上申
 本県と清国福州間ニ散在セル無人島取調ノ儀ニ付、先般、
在京森本本県大書記官ヘ御内命相成候趣ニ依リ、取調ベ致シ候処、概略別紙(別紙見えず──井上)ノ通リコレ有リ候。抑モ久米赤島、久場島及ビ魚釣島ハ、古来本県ニ於テ称スル所ノ名ニシテ、シカモ本県所轄ノ久米、宮古、八重山等ノ群島ニ接近シタル無人ノ島嶼ニ付キ、沖縄県下ニ属セラルルモ、敢テ故障コレ有ル間敷ト存ゼラレ候ヘドモ、過日御届ケ及ビ候大東島(本県ト小笠原島ノ間ニアリ)トハ地勢相違シ、中山傳信録ニ記載セル釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼ト同一ナルモノニコレ無キヤノ疑ナキ能ハズ。
 果シテ同一ナルトキハ、既ニ清国モ旧中山王ヲ冊封スル使船ノ詳悉セルノミナラズ、ソレゾレ名称モ付シ、琉球航海ノ目標ト為セシコト明ラカナリ。依テ今回ノ大東島同様、
踏査直チニ国標取建テ候モ如何ト懸念仕リ候間、来ル10月中旬、両先島(宮古、八重山)ヘ向ケ出航ノ雇ヒ汽船出雲丸ノ帰便ヲ以テ、取リ敢ヘズ実地踏査、御届ケニ及ブベク候条、国標取建等ノ儀、ナホ御指導ヲ請ケタク、此段兼テ申上候也
  明治18年9月21日
                                     沖縄県令 西村捨三
  内務卿伯爵  山県有朋殿」


 ・・・
 沖縄県令の以上のようなしごく当然な上申書を受けたにもにもかかわらず、山県内務卿は、どうしてもここを日本領に取ろうとして、そのことを太政官の会議(後の閣議に相当する)に提案するため、まず10月9日、外務卿に協議した。その文は、たとえ「久米赤島」などが『中山傳信録』にある島々と同じであっても、その島はただ清国船が「針路ノ方向ヲ取リタルマデニテ、別ニ清国所属ノ証跡ハ少シモ相見ヘ申サズ」、また「名称ノ如キハ彼ト我ト各其ノ唱フル所ヲ異ニシ」ているだけであり、かつ「沖縄所轄ノ宮古、八重山等ニ接近シタル無人ノ島嶼ニコレ有リ候ヘバ」、実地踏査の上でただちに国標を建てたい、というのであった。この協議書は、釣魚諸島を日本領にする重要な論拠に、この島が沖縄所轄の宮古・八重山に近いことをあげているが、もしも80~82年の琉球分島・改約の方針が持続されていたら、こういう発想はできなかったであろう。
 これに対し外務卿井上馨は、次のように答えている。


  「10月21日発遣
  親展第38号
                                    外務卿伯爵  井上 馨
     内務卿伯爵  山県有朋殿
 沖縄県ト清国福州トノ間ニ散在セル無人島、久米赤島外二島、沖縄県ニ於テ実地踏査ノ上国標建設ノ儀、本月九日付甲第83号ヲ以テ御協議ノ趣、熟考致シ候処、右島嶼ノ儀ハ清国国境ニモ接近致候。サキニ踏査ヲ遂ゲ候大東島ニ比スレバ、周囲モ小サキ趣ニ相見ヘ、殊ニ清国ニハ其島名モ附シコレ有リ候ニ就テハ、近時、
清国新聞紙等ニモ、我政府ニ於テ台湾近傍清国所属ノ島嶼ヲ占拠セシ等ノ風説ヲ掲載シ、我国ニ対シテ猜疑ヲ抱キ、シキリニ清政府ノ注意ヲ促ガシ候モノコレ有ル際ニ付、此際ニワカニ公然国標ヲ建設スル等ノ処置コレ有リ候テハ清国ノ疑惑ヲ招キ候間、サシムキ実地ヲ踏査セシメ、港湾ノ形状并土地物産開拓見込ノ有無ヲ詳細報告セシムルノミニ止メ、国標ヲ建テ開拓等ニ着手スルハ、他日ノ機会ニ譲リ候方然ルベシト存ジ候
 
且ツサキニ踏査セシ大東島ノ事并ニ今回踏査ノ事トモ、官報并新聞紙ニ掲載相成ラザル方、然ルベシト存ジ候間、ソレゾレ御注意相成リ置キ候様致シタク候。

 右回答カタガタ拙官意見申進ゼ候也。」


 ・・・
 つまり、井上外務卿は、沖縄県の役人と同様に、釣魚諸島は清国領らしいということを重視し、ここを「このさい」「公然」と日本領とするなら、清国の厳重な抗議を受けるのを恐れたのである。それゆえ彼は、日本がこの島を踏査することさえ、新聞などにのらないよう、ひそかにやり、一般国民および外国とりわけ清国に知られないよう、とくに内務卿に要望した。しかし、この島を日本のものとする原則は、井上も山県と同じである。ただ、今すぐでなく、清国の抗議を心配しなくてもよいような「他日ノ機会」にここを取ろうというのである。山県も井上の意見を受けいれ、この問題は太政官会議にも出されなかった。
 ・・・(以下略) 


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外交政策と「駒形屋」「港崎遊郭」NO2

2012年09月25日 | 国際・政治
 先日(2012.9.23)NHKスペシャル「領土をめぐる対立の行方」という番組で、有名な女性ジャーナリストが「慰安婦」に強制連行の証拠はないと繰り返し主張していた。しかし、「従軍慰安婦」の問題は、連行方法だけの問題ではない。特に、植民地化された朝鮮から「慰安所」に送られた女性は、その証言から様々な形があったことが分かっている。そして、それらがいずれも欺瞞に満ちたものであったことを忘れてはならない。さらに、「慰安所」で自由を奪われ、性交渉を強要されたということで、「従軍慰安婦」は「性奴隷」という考え方が、国際的に認知されている事実も、知っておく必要がある。
 「開港慰安婦と被差別ー戦後RAAへの軌跡」川元祥一(三一書房)は、「従軍慰安婦」の問題を直接論じているわけではないが、国家による差別政策の歴史として、「従軍慰安婦」の問題に深く関わるものである。すなわち、幕府による「港崎遊廓」の建設と被差別から集められた「らしゃめん」は、戦時中の日本軍や政府によって設けられた「軍慰安所」と植民地下の「朝鮮」から集められた多くの慰安婦と同じ構図であり、さらには、戦後政府によるRAAの組織化や「占領軍慰安所」設置と「営業に必要なる婦女は芸妓、公私娼妓、女給、酌婦、常習密売淫犯者等を優先的に之を充足するものとす」との内務省警保局長通牒の指示よって集められたRAA慰安婦とも、同じ構図でなのである。したがって、「従軍慰安婦」の問題は、まさにそうした差別政策の歴史の一コマとして理解しなければならないということであり、有名女性ジャーナリストが主張するようなかたちで、言い逃れることの出来る問題ではないということであろう。下記は、幕府による「港崎遊廓」の建設と被差別から集められた「らしゃめん」に関する記述の一部を、同書から抜粋したものである。
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                 第2章 港崎遊郭

1 外交で造った遊郭

 これまでみてきたとおり港崎遊郭とその前身の駒形屋遊郭は日米修好通商条約締結のおり、ハリスと幕府側との文章にならない約束として建設が進められた。この約束の場面を、ハリスの下田アメリカ領事館の下番頭役(給仕役)をしており談判所にも出入りしていた先の下岡蓮杖が見ている。ハリスとお吉の関係についても彼の証言は、ハリスの日記や当時の記録に符合するものであるが、談判所でのハリスと幕府の約束の場の回想が先と同じ『横浜どんたく』(前掲書)に書かれている。


 遊女屋設置の希望 これはもとより条約文にはないことで、談判書にも載せていないことですが、横浜開港の談判をする間に、ハルリスの希望として、奉行に内輪談をしたのは、遊女屋建設の一条でした。日本政府も早速ハルリスの希望を容れて横浜が開港になると早々、いろいろな普請作事(ふしんさくじ)の忙(せわ)しい中に、お貸長屋というものを政府の入費で建築して、宿場女郎みたような遊女を公許しました。ハルリスも、なかなかこの道にかけては訳のわかつた人だというでしょうが、ハルリスがかかる希望を述べたのも、ただ、自然の人情を知つて、自国の水兵達に肉慾の満足を与えようとしたのみでなく、日本の政府取締り上にも面倒の起らぬようにと注意したのです。その希望の理由というのは、第一、船乗りというものは、2ヶ月も3ヶ月も船中にばかり生活していて、その間は女というものを見ることも出来ない。人間は賢愚貴賎の差別なく、性慾ばかりは防ぎ難いもので、これがためには往々生命を棄てるものさえある。それであるから横浜が開港になった暁、双方気心の知れぬ間はこれらの水兵などが上陸して、女欲しさに、あるいは人の妻にもかまわず手を出すことがないとも限らぬ。そんなことがあつては、日本のためにも外国のためにも面白くない。もし金銭で女を自由にすることが出来る途があれば、まつたくその思いを絶つことが出来て、双方のために好都合であろうというので、我政府も早速これを聴容れたのです。

 この約束が、文書にされていない以上、下岡の証言が信憑性のあるものといえる。そしてここで言われているとおり「政府の入費で」「お貸長屋」(遊郭)を建設したことは、これまで見てきたことで証明されていると思う。

 ・・・

 港崎遊郭の土地の設定が1859年(安政6)3月5日、建設開始が同年4月である。アメリカをはじめ、各国と修好通商条約を結んから約1年後である。横浜港の埋立工事そのものが遅れているために港崎遊郭の着工が遅れたのであるが、その代わりとして、仮設遊郭駒形屋を条約締結時の約束の実施として、1858年(安政5)6月10日開設したのである。
 幕府の外国人への配慮や用意周到さがここに見えるのであるが、これは本当のところは、諸外国の勢力、特にハリスに押しに押され、諸外国領事の政治的不満を女性を与えることでかわそうとする幕府の姑息な手段なのだ。また江戸に外国人を入れまいとする必死の防御でもあった。
 港崎遊郭の建設工事は、丸1年で終わる。翌年1860年(改元して万延元)4月だ。それから開業に向け再びさまざまな問題にぶつかるのであるが、まずはこの工事中1年の様子を見ておきたい。ここでも外国との条約の関係で幕府が強引に建設していることがわかる。1万5千坪の敷地はもともと海の浅瀬であって工事の途中さまざまな難工事がある。これらすべてをのりこえたのも、公権力であったがゆえである。


 『横浜市史稿・風俗編』(前掲書)では「らしゃめん」と「横浜遊郭」についてかなりのスペースをとっている。それは、幕末になって急拠、突貫埋立工事で造られた町であることと、他の港町、宿場町に較べて歴史性をもたない横浜が、今日のように大きく発展したのは「横浜遊郭」(港崎も含め、これは「らしゃめん」と一体不可分である)の存在と外国との貿易業務を行う交易場の開設、この2つに負うところが多いとする見解をもつからである。

 前掲書の第8章は、花街をあつかい「横浜遊郭」の変遷を詳しく書いている。この「横浜遊郭」とは、火災や都市の構成で遊郭が点々と移動し、そのたびに地名と共に遊郭の呼び名が変ってゆくのであるが、それらの総称である。その最初の本格的なものが港崎遊郭である。ちなみに「港崎(みよさき)」とは、船が出入りする土地、港のことである。


・・・
 
 外国人遊郭とそこで働く「らしゃめん」そのものが最初から政治的・外交的な意図をもってつくられているのだ。だから幕府はこれを政治的に大いに利用した。それはさまざまな局面にあらわれるのであるが、その一端がやはり『横浜市史稿』(前掲書)にある。外国人遊郭の開設後、そこでは、「チョンキナ踊というのがはやった。これは今でいう「野球ケン」と同じで、ジャンケンに負けると着衣を一枚ずつ脱いでゆき、しまいに素裸になる。これが外国人遊郭で大はやりだったという。そしてこの流行に目をつけた幕府高官が、外交や親善に利用した。つまり、外国人遊郭で政治・外交が行われていた。最近さかんに批判されている日本政府官僚、政治家、財界の料亭談合政治はここに源流があるのではないか。その文章は次のとおり。

 異人女郎屋に於けるチョンキナ踊りは、実に横浜遊里情趣を遺憾なく発揮し、当時異国人招致の一策として数えられて居たのである。如之、貿易商人の外国人との商談には、此踊りは唯一の馳走であつて、為めに取引談判も円滑に解決し、自他の利益に資する事は多大であつた。殊に幕府の顕官は岩亀五十鈴に、時の領事館員を招き、チョンキナ踊りを利用して、問題交渉の談義を進め、策謀よろしきを得る事が多く、且つ親善振りも濃厚を加えたと言はれ、時代の渦中に斯かる外交政策も存して居た事と想像するに難くない。実に対外政略策動の伴侶としてらしゃめん女郎の存在とちょんきんん踊りの価値は大きなものであった。

2 開設を急ぐ幕府

 港崎遊郭の建設について、その関係業者や設計内容、あるいは運用に関する事項が『横浜沿革誌』(1893年<明治26>太田久好 1970年 有隣堂復刻)に簡略なものがあるが、載っているので、これを見て手がかりにしたい。

 《1、開港場ヘ遊郭地ハ既ニ条約内ノ赴ヲ以テ、大田屋新田ノ内沼地、今ノ公園地ニ当ル処1万5千坪、旧江戸鳶頭取、浅草ナル新門辰五郎、遊郭地トシテ埋立テ願済ノ所、同人力ニ不及。依テ品川宿遊女屋佐藤佐七ナル者(岩亀楼ナリ)、及ビ神奈川宿石洲楼(現今ノ富士見楼ナリ)当時之戸主吉兵衛ハ其頃召仕ナリ。右両人ニテ、同所1万5千坪ノ内7千5百坪余埋立、巾3間許ノ道路ヲ吉原土手ト唱ヘ、目下界町南側角辺吉原□□デ大門ヲ建設ス。今ノ界町南側角辺ナリ》 
                       
 《1、御貸長屋ニハ外国人長ク住居セズ。此所旧駒形町ト唱ヘ、外国人一時退去ノ後ハ遊女屋ヲ置ク。右営業者ハ品川、川崎、神奈川、戸塚、藤沢五ヵ宿ヨリ一軒宛国用トシテ五軒出張ス。其後追々増加シ、後遊郭地埋立出来ニ付(今ノ公園ナリ)、同所ニ引移リ、港崎町ト称ス。名主ハ佐藤佐七ニシテ(岩亀楼ナリ)外国人妾(ラシャメント唱)ニ雇候時ハ、岩亀楼佐七ニ乞ヒ、抱遊女ノ名義ニテ鑑札ヲ請ケ、其他ヨリ妾トナルモ何レモ岩亀楼ノ遊女名義トシ、其余ハ密売トス》

 この記述でもやはり「条約」によって遊郭が建設されていることに注目したい。建設については最初引受けた浅草の新門辰五郎なる人物が力およばず中断している。その後中心になるのは品川宿の遊郭経営者佐藤佐七と神奈川宿の遊郭経営者吉兵衛の2人である。2人は江戸の吉原遊郭を模範とし、それに劣らぬものを造ろうとしている。
 その間に仮設遊郭としての駒形遊郭が出来る過程が書かれているが、それは本格的な遊郭としての港崎の建設が遅れているためである。この事情は先にみてきたのである。そして港崎遊郭完成後、駒形からそこへすべての機能が引越す。
 最後のところに大切なことが書かれている。完成した港崎遊郭の名主役に佐七が任命されていること。佐七は港崎で岩亀楼という娼楼を経営するのであるが、名実ともにこの佐七と岩亀楼が港崎の中心的存在になる。つまり外国人遊郭がこの岩亀楼を中心にして、その元締めのような形で運営されてゆく。また、外国人がそこで働く娼妓(遊女)を個人的に妾にしようとする時は岩亀楼の許可を取らなくてはならない。また、外国人遊郭が出来てからだんだんと横浜や東京(江戸)の一般女性のあいだに外国人の妾(自由恋愛ではなくて金銭での契約)になる者が多くなるのであるが、その場合でも、その女性は形の上で一度岩亀楼の娼妓になったことにし「遊女名義トシ」(源氏名をもって)てから外人のところへ行く。「其余ハ密売トス」は、岩亀楼の名義をもたない者は外人の妾になることを禁ずるという意味である。
 岩亀楼の佐七が絶大なる権利を把握していることがわかる。同時にそのことは、港崎遊郭(外国人遊郭として)~の性格はっきりと規定されたことを意味する。


 ・・・

 そしてここで重視すべきは、そこには確実に、幕府の政策・外交のために利用された女性がいることだ。それが港崎遊郭の外国人遊郭(港崎には日本人遊郭も併設されるが、建設の目的からすると、これは付属施設だ)で働く女性「らしゃめん」だ。この「らしゃめん」がどのように集められるかは次の章でみてゆく。一般的に外国人への親しみがなく、しかも攘夷論が根深い世相で、外国人遊郭へくる女性はほとんどいなかったのであるそれは外国人向けの仮設遊郭である駒形遊郭でもその片鱗をみた。しかもそこはまだ仮設だった。本格的な遊郭としての娼妓は、基本的に江戸の吉原、品川の遊郭から送るよていだった。ところがその娼妓が集まらなかった。
 
 ・・・

 …証言者は佐七の子孫である。
(1)港崎遊郭の建設  幕府は開港場の重要な構成部分として、港崎遊郭(今の横浜公園)の建設をすすめた。このときの事情は、品川宿の旅籠屋で後に港崎町名主、遊女屋岩亀楼の経営者となった佐七の子孫が言っているように「徳川氏ガ市街新計ノ好手段トシテ遊女屋建設ヲ極力勧遊シ、之ニ由テ土地埋立ヲ速成セシメントシテ、連日吏員ヲ派遣シテ工事ヲ督シ、或ハ罰シ、其成功ニ汲々」としていた。「其表コソ佐吉等ノ願ヒニ依テ免許ヲ受ケタル事業ノ如クナルモ、其裏面ヲ窺ヘバ、所謂御用事業ニシテ、勧誘、奨励、褒賞 ?責 強制等ノ種々手段ヲ尽シテ成功セシメタル事業」であった。この御用事業で「他ノ同志ガ遂ニ此強制ニ耐ヘズシテ、或ハ除名ヲ被ムリ然ラザルモ資金支出差控ヘ 漸ク其事業ヲ抛棄シ」たのに最後まで事業を継続し、完成させた佐吉が幕府からこの遊郭での特権的地位を与えられた。


3 娼妓と攘夷論 ── 略

4 らしゃめんへの偏見 

 さていよいよ港崎遊郭の開設当時の様子を見てみよう。建設工事完成は1860年4月だった。それから女性を集め、外国人、日本人両遊郭とも5月5日の開設を定め、準備をすすめた。ところが、5月5日になっても、日本人遊郭には女性がいるのに、外国人遊郭にはほとんど女性がいなかった。
 その原因を知るために喜遊をはじめ、社会的・政治的状況を見てきたのである。そのことからして攘夷論者の影響があったことは否定できない。こうした情況を見たうえで、港崎遊郭、ことに外国人遊郭をとりまく女性の動きを見ておこう。

 ・・・以下略

5 被差別から集めた

 開設日を延期して女性を集めようとするのだったが、特別良策はなかった。幕府としては条約との関係で各国と約束していることであり、焦りに焦って港崎の佐七へ矢の催促を行ったという。佐七たち港崎の関係業者も困りはて、各地の遊郭に使いを走らせ、金銭的な優遇をもちだして交渉するのだったが、各地でもやはり攘夷論的気風が強くて応じる者はほとんどいなかった。この時期の様子を『幕末開港綿洋娘情史』(前掲書)が非常にうまく表現していると思うので引用してみよう。

 内地人相手の遊郭は揃ふた、吉原や、品川から住み替へた娼妓もあつたが、素人娘の頗る美しいのが抱えられ、妖艶婀娜で本場の江戸吉原を圧せんばかりの勢ひであつた。これに引きかへ、異人相手の娼妓は前記の次第で、4月まで1人も得られなかつた。佐吉も久作も遊女でさへ斯くまで、攘夷の思想に滲透してゐるのをわれながら、びっくり胆をつぶしたのであつた。さればとて素人の婦女を色物しても駄目である。元来港崎吉原は異人を歓迎するのが主であつて、5月5日が開業の予定になつて居ても、異人客を迎ふる事が出来ぬ以上は、一時延期のほかない。そこで5日の開業式を延期したわけであるが、娼妓問題が前途暗澹の有様であるから、何時開業の運びとなるものか遊廓一同唯々当惑の雲に閉ざされてゐたのであつた。


 ・・・

 この文章で言う「内地人相手の遊女」とは、日本人遊廓の女性であるが、この中に、2ヶ月後自害した喜遊(説得されたが、外国人肌を許すのは最大の屈辱と考え自害した遊女)がいたのである。この日本人遊廓は江戸の吉原を圧倒せんばかりの賑わいであったという。反対に外国人遊廓の女性は1人もいないというから、その対比は目に見えるようだ。港崎遊廓は本来外国人相手にするのが主なる目的だったことも書いている。だから日本人遊廓だけを開設するわけにいかず、一緒に開設を延期したままいつ開設するかわからない状態なのだ。『横浜市史稿』(前掲書)は歴史書らしくもう少し細かいことを書いている。

 始めらしゃめん女郎抱え入れに際し、当時夷狄視した外国人に関係する事を前提としたらしゃめん女郎に、好んで我から身を投ずるやうな女子は無論皆無であつた。対外関係上、幕府の要求も頻りであり、且つ横浜へ遊廓設置の一つの条件としてのらしゃめん女郎でもあるので、廓としては此重責もありて、此抱え入れには少なからぬ努力を払つたものである。厚顔無恥の宿場女郎を稼ぐ少数の女達以外には、納得する女は無かつた。そこで各地の遊廓に人を派し、利を以て喰はすの手段を取つたりして、僅に要求に応じて居た。果ては遠く長崎地方に求めて、多少異国味に馴れた遊女や、其他の女達を抱へ入れんとしたとも云はれが、結果は良好ではなく、何れも要求数に満たぬ有様であつた。

 ・・・

 私が横浜の屠畜場史を調べた直後の1985年には『近世神奈川の被差別』(荒井貢次郎・藤野豊編・明石書店)が出ている。この中に、荒井・藤野・かわむら善次郎による座談会があり、そこで藤野が「らしゃめん」に触れている。それより少し前に原田伴彦も何かの本に「らしゃめん」が被差別から集められたことを書いていた。しかし、その記述は、史料などはあげてなくてごく簡単なものでだった。
 藤野が語っている部分もそう詳しくはないが。が、原史料が存在するかどうかわからないが、彼がよりどころとしたある程度史料的根拠が紹介されている。だからまず藤野が語っていることをここに紹介する。私はこれも手がかりにして、あらためて10年前に読んだ本を探すことになる。


 近世の身分制が、そのまま近代の身分制につながるかというと必ずしもそうではないんですね。特に神奈川の場合には、やっぱり横浜開港というのがたいへん大きな影響を与えているんじゃないかと考えるんですね。このことについては亡くなった斎藤保好さんが「横浜における『』の歴史」(神奈川県歴史教育者協議会編『神奈川の近現代史資料集』1973年)という短いものをお書きになってまして、その中で横浜開港との関係について論述されているんですが、その中で、開港によって遊廓が造られたこと、屠場が作られたこと、開港場の警備、つまり攘夷派の志士から外国人を警備することになったことというような3つの点をあげられてます。特に第3番目の開港場の警備のために横浜近郊の、当時の、を動員したということについては、これは小松修さんの論文や、この本に所収はしなかったんですけれども、横山伊徳さんの、「横浜十里四方遊歩問題と改革組合村」(『日本近世史論叢』下巻、1984年、吉川弘文館)という論文で論じられているわけです。
 それを参照して戴くといたしまして、それ以外の問題としましては、今言った遊廓の問題ですね。これは斎藤さんの論によれば、現在横浜スタジアムがあります、昔は港崎遊廓と言われていた遊廓だったわけですが、その港崎遊廓を幕府が幕末に建設すると、そのとき、出身の女性をですね、遊廓に集めてきたということが史料的にあるわけです。それから1865(慶応元)年には、居留地の外国人のための屠場を作るというので横浜の港のそばに屠場を作る。そのときやはりから屠場の労働者を集めていると言われているんです。


 ・・・

 ところで、本当にこの時、被差別の女性が集められたのだろうか。
 ・・・
 …『横浜市史稿』(前掲書)の「第7章 第2節らしゃめん」の項の中の「15 らしゃめんの変遷」にその関係が書かれている。…

 そこで各地の遊廓に人を派し、利を以て喰はすの手段を取つたりして、僅に要求に応じて居た。果ては遠く長崎地方に求めて、多少異国味に馴れた遊女や、其他の女達を抱へ入れんとしたとも云はれるが、結果は良好ではなく、何れも要求数に満たぬ有様であつたから、特種(ママ)出の遊女又は婦女に目を著け、其方面の応募者を相当多く拉し来つたやうである。而してらしゃめん女郎は次第に此種出のものに依つて形造られた型となつて来た。彼等は横浜と云ふ土地の状況に多少とも理解を有するものが多かつた関係から、横浜界隈若くは武・相2州の細民階級のものが多数を占めたと云ふ事である。


 ・・・以下略
 

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