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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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平頂山事件

2009年09月20日 | 国際・政治
 最近、戦後の歴史教育を根本的に見直そうという動きが活発である。そして、それに合わせるように「自虐史観」という言葉をよく耳にし、目にするようになった。見直しの観点が「自虐史観」の克服なのだから当然といえる。先頃、軍命による沖縄集団自決の教科書からの削除問題や従軍慰安婦問題などがマスコミをにぎわしたが、「自虐史観」を克服しようとする人たちの活動のあらわれであろう。しかしながら、日本の侵略戦争の事実や人道に反する数々の行為を正しく認識し、その反省の上に新たな歴史教育が展開されるのでなければ、「誇りうる日本」はつくれないし、近隣諸国との関係も本質的には改善されないと思う。不都合な事実から目を背けたり、事実そのものをなかったことにしようとする姿勢では、信頼される日本はつくれないと思うのである。そういう視点で、戦争の真実を学び続けたいと思う。今回は、いわゆる「平頂山事件」について学んだ。

 「平頂山事件」という村民皆殺し事件が多くの日本人に知られるようになったのは『中国の旅』と題する本多勝一記者の現地取材記事が朝日新聞に連載されてからであるという。「本多勝一集14中国の旅」(朝日新聞社)を読むと、彼は撫順革命委員会外事組の関係者から撫順の歴史や現状を聞くとともに、平頂山事件の奇跡的な生存者(3人)や、その他中国側関係者から、直接事件の詳細な事実を聞き取り、図や写真を活用して事件をできるだけ正確に伝えようとしたことが分かる。

 一方「追跡 平頂山事件ー満州撫順虐殺事件」田辺敏雄(図書出版社)は、中国から事件の首謀者と断定された川上精一大尉(当時の撫順守備隊長)の親族が、その汚名を晴らすべく、あらゆる関係者の話を聞いてまわり、事件を丹念に調べ上げて、川上大尉には直接的な責任がなかったことを明らかにするとともに、冤罪で処刑された関係者があったことも明らかにした著作である(「中国の旅」にはK陸軍大尉とあるだけで、川上精一という実名は出てこない)。著者は、いくつかの点で本多勝一記者の取材内容の矛盾を指摘し、本多勝一記者の記者としての姿勢や裏付けのない記事をそのまま報道をした朝日新聞を批判しているが、その批判はさて置いて、下記のような村民皆殺し事件の事実そのものはあったのである。 著者が問題にしているは、その時村を離れていた村民が相当数あったのではないかということ、また、3千人という人数に誤りがあるのではないかということ、そして、その虐殺の責任の所在である。当時村にいた村民が皆殺しにされたという事実は否定しようがないのである。
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             平頂山事件──満州撫順虐殺事件
 
 昭和7年3月1日、日本軍部の主導により、清朝最後の皇帝溥儀をいただいて、現在の中国東北部に新国家が誕生した。満州国である。満州国の誕生は、かねてより日本の進出に反対する勢力を勢いづかせ、いわゆる反満抗日活動を活発化させた。各地で出没するこれら”匪賊”に日本軍は手を焼く。
 前年に起きた満州事変から1周年にあたる9月18日を前にして、満州全土で匪賊の一斉蜂起がつたえられ、その攻勢が頂点に達していた。
 石炭の露天掘で名高い撫順も例外ではなかった。厳戒のなか、撫順炭鉱を数百の匪賊が急襲した。昭和7年9月15日、深夜のことである。炭鉱は紅蓮の炎につつまれ、逃げまどう日本人で大混乱におちいった。
 一夜明けた翌日、炭鉱の守備に責任をおう撫順守備隊は、匪賊の急襲に手をかしたとして、近くの平頂山村の住人を1ヵ所に集め、機関銃で皆殺しにする。その数3千人という。
 南京虐殺事件とともに、日本軍が引きおこした残虐行為の一つとして、中国政府は現地撫順に殉難同胞遺骨館を建立し、今なお告発しつづけている。『平頂山大惨案始末』として、中国の記録にとどめられている。

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             第16章 証言による事件の再現

 一夜明けて

 一夜明けても興奮は収まらず、炭鉱員は皆いきり立っていた。三上安美氏は早朝、他の数人と近くの村に行き、腹いせに鶏めがけてピストルを撃ったという。途中不審な現地人を数人、殺害する炭鉱員を目撃している。この遺体は放置したままだったが、翌日(?)炭鉱の指示により埋めたという。


 ・・・

 井上中尉は隊員を前に、これから工人に行き、全員抹殺するとの明確な指示を与えたと藤野氏は証言する。中尉がこの指示を与える前に、憲兵隊長、警察署長、防備隊長、それに炭鉱次長などと協議したかどうかは定かでない。集まる時間の余裕があったかどうか、また電話が切断されたりして、連絡がつけられる状態かどうかも、今ひとつはっきりしない。おそらく、これは埋まることのない疑問だろう。事情を知り得る立場にいた人の生存は、まず期待できないからである。……(以下略)

 ・・・

 弾薬庫から銃弾をトラックに積んだ初年兵を主力とする40余名は重機1、軽機3を携行し、3台のトラックに分乗し、中尉の意図する殺害予定地へと向かった。そこは谷あいになっていて、以前採砂場だった所である。そこで重機を中心に、左右に間隔をおいて軽機を据えつけ、茶系統のカバーをかけ、隠しておく
 中尉はその場で民を連行するように命じ、兵士は中尉と少人数の隊員を残し、徒歩でに向かった。写真を撮るという理由をつけ、より外に追い出したと藤野氏は記憶している。
「たくさんいるなあ」と藤野氏は思った。民の後方に立ち、銃剣で追うように約5百~千メートル離れた現場に連れて行く。明るい太陽に照らされた人影が、くっきりと大地に映しだされていた。このとき、住民はすでに騒ぎはじめていた。だが、連行中、殺傷等の行為は一切なかった。連行せよとの命令を兵は忠実に守った。一ヵ所に集められた住民はそこに座らされる。そして、中尉の「撃て」のピストルの合図により、カバーをはずし重軽機の射撃になったという。


 この模様を野村弥助上等兵(仮名)はつぎのように書いている。
「翌日楊柏堡であろう場所に私は居ました。しかも6月1日付で上等兵になり、日浅いのに分隊長となり、兵7名を従へ現地に恐らく先頭に居た様です。守備隊の兵力は1ヵ少隊かそれ以下の様でした。何時住民が1ヵ所に集められたものやら、2百人位の住民がウツ伏せており前面は切り立ち、後は平地の様でした。昨夜、匪賊の襲撃を受けた折、その手引きをしたのでミナゴロシにするのだという。私は無抵抗の人間を殺すのかと思いながら、分隊長の責任において……」撃ての命令に従ったのだという。


 上官の命令は陛下の命で、それに従わざるを得なかったと書く。上官の命令は絶対であったと書いて寄こした隊員はほかにもある。

 ・・・(以下略)

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